ゆーえんみー 1話前編
君と出会った日 前編
遠い遠い、夢を見ている。
もう何回も同じ夢を見ている気がする。上も下も、右も左も、前も後ろも無い、真っ暗などこかの中で、ひとり泣いている子がいる。
その子の泣き顔も涙も見たくないから、せめて声をかけようと手を伸ばす。一歩進もうとする。
その頬に伝う涙を拭ってあげたくて、もう泣かなくていいのだと、ぎゅっと抱きしめたくて。けれどこの手は、ふっと虚空しか掴めないのだ。
───あの子は、いったい誰なのだろう。
「澪音〜?」
「澪音ってば!」
やかましい友人たちの声で目が覚めた。どうやらあたしはホームルーム中、学校にいるとは思えないほど深く眠っていたらしい。
「あふ……おはよーございます」
「おはよーじゃないよ、もー。寝不足? もうホームルーム終わり。夏休み始まっちゃったよ」
「え。あそっか」
「澪音、いびきかいてたよ」
「は!? ちょっと、起こしてよ! はっず……」
「何度もつついたし。ねえ?」
「ねー。もう大爆睡って感じ」
「はあ……」
再びあたしの喉から小さなあくびがもれる。たった今から夏休みが始まったというのに、あたしの心は特にこの夏への期待も関心も無かった。そういったわくわくは、小学校卒業と同時に卒業してしまった、気がする。
あたし、君嶋澪音。中学二年生。絶賛中二病。去年も今年も、授業中にテロリストは現れなかったし、あたしは戦わなかった。こうして自分を俯瞰してふっとため息をつくのも、なんだか痛々しくて悲しくなる。ああはやく大人になりたい。……そんなことを思っていても、子どもの特権である何にも縛られない夏休みは来るのだ。
「澪音、アイス食べて帰らない?」
「ん、あー……ごめん。図書室行かないと」
「待つよ?」
「んーん、ありがとう。でも先帰ってて」
「わかった。じゃあね」
やかましく優しい友人たちを見送り、カバンを持つ。図書室には、本当は用はない。だから、これはあたしがみんなと帰りたくないだけの嘘。ひとりで帰りたいのだ。ひとりで考えたいことがある。……多分、この先ずっと、あたしはひとりだろう。だって───
「……今日は、何も起こらないと良いけど」
そう、最近のあたしには何かが起きている。もうずっと、起き続けている。
たたた、と小走りで廊下を駆ける。二年生の教室は二階にある。一年生は三階、三年生は一階。年寄りに優しい仕様となっているのだ。
階段を降りる。踊り場の窓からふと外を見る。すると、ああ、起きていた。
空が、ぴしりとひび割れている。
部活動は今日は休み。ほんの少し夕暮れ色が混ざった夏の青に、走る亀裂。最近よく見えるのだ。これが。すぐ消えてしまうけれど、確かに見える、空の傷。
あたし以外誰も気づいていない、みんな当たり前のように帰路についている。まるであたしが見ている世界はドーム型の何かのようで、外から何か───ああまた何かと言ってしまった。よくわからないものが見ているような。そんな恐ろしさがあたしの頭にも胸にも込み上げる、吐きそうだ。
ここから逃げ出したい。この小さな町の外に出たら、何か変わるだろうか。あたしは、こんなおかしなことが起こるこの久遠町から出られたら、全てがなんとかなる気がした。世界はきっと、もっとちゃんとしていて、あたしも、もっとちゃんと笑えるって。
「……っあ……」
何かが起きているのに夏休みは来るということが、それが恐ろしい。
あたしは急いで階段に一歩踏み出す。
もしも、家に帰って、お父さんとお母さんも仕事から帰ってきて、でもその顔がこの空のようにひび割れていたら? おかしなことが、もっともっと身近に迫ってきていたら? ……吐きそう。
ふらりと足がもつれた。あ、まずい。これは、非常にまずい。
あたしは階段からずるっと足を踏み外す。と認識したのが遅れたのは、窓の外の空の亀裂がまた進んだことに気を取られていたからだ。
「やっ……」
やっば。
……自分の危険にもそんなことしか言えないのか。穏やかじゃない浮遊感に強制的に身を委ねさせられる。
でも、あたしは階段から転がり落ちなかった。あたしの手を、掴んでくれる、妙に冷えた手があったから。
「だいじょうぶ?」
「……え……」
慌てて体勢を立て直して振り向く。その人───その男の子は、あたしの手を離さないまま、あたしの目を見つめていた。ええと……誰、だっけ。階段から来たってことは二年生? 一年生だったら知らないけれど、二年生の顔くらいは覚えていてほしいものだ。
その癖っ毛の髪は淡い銀色をしていて、瞳は鏡のようだった。透明、って言葉が似合う。綺麗な男の子だと、思った。
「あ、えっと……大丈夫! ありがとう」
「うん、大丈夫ならよかった」
静かな甘く掠れたアルトの声で彼は言う。その間も、私の目から目を離そうとしない。そう、鏡のようにどこか見透かされているようで、あたしは慌てて窓の外を見た。空は、やっぱりひびが走っている。男の子はあたしの目線を追うように外を見る。そして、あたしの手をきゅっと握りしめて、こんなことを言うのだ。
「空、割れてるね」
「は……?」
なんで? なんで? なんで?
あたしにしか見えていないと思っていたものが、彼には見えている? なんで? どうして? そう思っていると、ふわりと、視界が暗くなる。
「え、何!? 何……!?」
冷えたそれが、あたしの目蓋に当てられる。あたし、今彼の空いている片手で目隠しされている? 意味がわからなくて、初対面の男の子にこんなことをされたのは初めてで、本当に、意味がわからない。けれど……あたしの顔の熱が移らない冷えたままの手は優しくて、この恐ろしい世界から切り取られたような感覚がした。
「怖くない、怖くない」
「だ、誰よあんた。なんで、あれが見えてるの」
「僕? 僕は……そうだな、ユウって呼んで。怖いよね。でも怖かったら、見ないのも手だよ」
「……」
そうだ、確かに。一旦目を離すのも良い。むしろそうした方が良い。気づけば荒くなっていた息が徐々に落ち着いてくる。そっと彼……ユウくん? の手が離された時にはすっかり気持ちは落ち着いていた。もう一度外を見ると、空のひびは消えていた。おさまったらしい。でも、やっぱり全然わからない。そもそも誰よあなた。でも……彼の銀色の髪は、星の色みたい。やっぱり美人だ。
「……ありがとう。もう大丈夫。ユウくん? だっけ」
「ユウが良い」
「えっ」
「ユウ」
「……ユウ」
「うん」
ユウくん改めユウは満足げに微笑んだ。
「ユウ。ごめん、あたしあなたのこと知らないかも。二年? どこのクラスの人?」
「二年一組。君嶋澪音さん」
「うそ! 同じクラス!?」
同じクラスの、こんなに目立つ見た目の子を覚えてないなんてある? しかもあたしの名前知ってるし!
「ごめん、本当に失礼だった」
「いいよ。クラス替えあったし」
「でももう夏だよ? クラスメイトくらい覚えておかないと」
「気にしないで」
ああ、もうわけがわからない。空じゃなくて頭が割れそうだ。
どうしてユウを同じ教室の中で認識していなかったのか、どうしてユウはあたしと同じものが見えているのか。聞きたいことはたくさんある。ユウはずっと、あたしが考えている間もあたしの手を握っていた。
「あの、そろそろ手……」
「嫌?」
「嫌、じゃないけど。もう転ばないし」
「嫌じゃないなら、繋がせて」
「へ、変なやつ……ねえ、どうして空が変って気づいてたの? いつから? あなた何者?」
「うーん」
「うーんじゃなくて!」
その時、早く帰りなさいとチャイムが鳴った。青い空にかかった夕暮れ色は、ほんの少し色を濃くしていた。ユウはあたしの手を握ったまま、歩き出す。星色の髪が日光に染まってきらきらときらめいた。
「帰ろう。ミー」
「……えっ!? ええっ!? ちょっとそれ、あたしの黒歴史!」
ミー。あたしの一年生時代に卒業した一人称。あたしはユウに引っ張られて、玄関口まで向かった。……でもなんだか、ユウにミーと呼ばれるのは悪くない。顔が良いから? あたしってこんなに面食いだったっけ。そんな余計なことがふわりふわりと脳内に浮かびながら、あたしは靴を履き替えた。履き替えた後も、ユウはあたしの手を改めて握ってきた。
この日、あたしは初めて男の子と手を繋いで家に帰った。
ゆーえんみー 1話前編