暁に咲く薔薇 1話
契約の花嫁
ヴァレフォール領の領主であり元王宮騎士団長のラザロと、ルミエール領領主令嬢のエリーゼの結婚式が行われたのは、春の花が咲き始める頃のことである。
花婿のラザロは四十歳、花嫁のエリーゼは七歳。
ラザロはエリーゼの父親よりも年上であった。
ラザロ・ロゼ・ヴァレフォール。国王に忠誠を誓い、多くの戦功を立てた男。だが貴族社会では『成り上がり』と囁かれる男。彼の国王より賜った地位と財産を狙い利用しようと目論む者は少なくはなく、エリーゼの両親もその一部だった。この結婚は、ラザロよりも地位の高いルミエール家が取り付けた、『二つの家の仲を深める』ための政略結婚である。
エリーゼ・オルレア・ルミエール。幼い彼女はそのことを知らない。
「エリーゼは私たちの宝物です。ラザロ卿、どうか私たちの娘をよろしくお願いいたします」
エリーゼの両親は、笑顔で彼にそう言ったことがある。その口は三日月のような形にくにゃりと歪み、細められた目はギラギラと輝いていた。
(何が宝物だ。本当に大切な娘なら、もっとふさわしい年齢の婚約相手を探すべきだろうに)
自分が妻として迎える少女の年齢を慮り、ラザロはその時既に強引に決められてしまった家同士の契約、貴族という立場の因習に心底軽蔑したのであった。だが、国王は形がどうであれ、ラザロが『戦い以外の生活』を送ることを望んでいた。ラザロは、尊敬する国王の想いを察してこの縁談を受け入れたのである。
「旦那様。そろそろお時間です」
そして、今日は二人の婚礼の日。早朝、準備された軽い朝食を取り、正装に着替え髪を蝋で丁寧に整え終えたラザロに、執事が声をかけた。生まれつきの貴族ではない彼は、朝の身支度も使用人に任せず自分一人ですることに慣れていた。それは、たとえ今日この日でも同じであり、執事含めヴァレフォール邸の使用人は彼の在り方をよくわかっていた。
「ああ、今行く」
ラザロはふぁさりと上着を羽織り、屋敷の扉を開く。花冷えに凍える静謐な朝の空気を胸に吸い込みながら、騎士時代により根付いた癖である堂々とした足取りで馬車に乗り込んだ。
「エリーゼ。何度も言うようだけれど、あなたはこの母と父の想いと、ルミエール家を背負って、あのお方に嫁ぐのですからね」
「はい! お母さま、わたし、ちゃんとわかっています」
元気に返事をしたエリーゼに、彼女の母は微笑んだ。にっこりとした母の、目だけが笑っていなかったことに、エリーゼは気づかなかった。
「エリーゼ。教えた通り、月に一回必ず手紙を送るのだよ。自分のことだけではなく、あのお方のこともしっかり書くんだ。それが、妻の勤めだからね」
「はい! お父さま。わたし、妻になります」
「そうだ。私たちのために、あのお方の妻になりなさい」
「はいっ」
エリーゼは大好きな両親に見せるように婚礼衣装のドレス姿でくるりと回ってみせたが、二人はこそこそと何かを囁きあっており、エリーゼのことなど既に見ていなかった。さすがにそのことには気づいたエリーゼは、あら……と小さな声を上げ、首を傾げた。
エリーゼの生まれたルミエール家は、一言で言えば『贅沢』を何よりも好む者たちであった。食事から衣類、金銀宝石、果ては賭博まで。使用人たちには横柄に接し、高い地位にあぐらをかき、際限なく求める。そんな貴族がルミエール家だ。ラザロのことも『成り上がり』と見下してはいるが、彼の持つものを彼らは欲しいと思ったのだ。国王陛下との強い繋がりも、領地も、民も財産も。
エリーゼもエリーゼで、美味しい食べ物と可愛らしい服が好きな少女に育ったが、彼女が美しいと思うものは高名な画家に描かせた豪奢な服を着た自分たちの絵ではなく、庭に咲く季節の花と、週に一度の祈りの日に訪れる国教の教会に差し込むやわらかな真昼の光であった。
彼女は小さく俯き、ドレスをその小さな両手できゅっと握る。それはほんの少しの未来への不安と、たくさんの期待から自然と起こした動きだ。今よりもっと幼い頃、両親から一度だけ紹介されて顔を見ただけの年上の結婚相手。自分の夫となる人。その目の色を、エリーゼは覚えていた。
(あの色を、これからまいにち見られるのね)
ふふっと笑みがこぼれる。彼女は、この結婚の持つ意味を知らない。これから夫となる者のことも、何も、知らない。
しばらく話していた両親は、エリーゼの名前を呼ぶ。そして彼らと共に部屋を出たエリーゼは、弾む幼い足取りで馬車に乗り込んだ。
太陽が真上に昇る頃、両家の領地の境付近にある教会で、ラザロとエリーゼの結婚式が始まった。
数時間馬車に揺られ痺れた足を引きずりながら、エリーゼは父に手を繋がれ教会の扉の前へ辿り着く。屋敷を出る前のはしゃぐ気持ちは、両親が馬車の中で出していたどこか剣呑な空気が出すじっとしていなければならない空気のせいで、すっかりしぼんでしまった。
しゅんと沈んだエリーゼは、父に「前を向きなさい」とたしなめられ、渋々前を向く。幼い彼女は、既にこんなのもういやだと思い始めていた。そんな彼女の気持ちを置き去りにするように母はエリーゼの頭のヴェールを下ろし───扉が、開いた。
教会の中には両家が呼んだ親類と友人たちが席に行儀よく座り花嫁を待っていた。国教のシンボルをオブジェのそばに、式を取り仕切る司祭と、花婿であるラザロが佇んでいる。
ラザロはその目をゆるく閉じていた。神に祈りを捧げていたのである。今日自分の妻となる、一度しか顔を見たことのない少女に、せめて幸福を感じる日々を送ってほしい、と。そんな彼を現実に引き戻すかのように扉がゆっくりと開く音がする。───目を、開けた。
父親と手を繋ぎ歩く花嫁の白地のドレスとヴェールは、窓からさす春の陽光に照らされてその繊細なレースと花模様の刺繍をさまざまな色に煌めかせていた。蛋白石のようであった。一言で白と表すには惜しいほど、たくさんの『白色』が使われている。薄いレースのヴェールに隠れて、彼女の表情は見えない。だが一歩進む度にちらりと見える蜂蜜色の髪がふわりふわりと揺れる。「小さくて可愛らしいこと」「お人形さんみたい」と大人たちが囁き合った。
花嫁は花婿の元へ辿り着く。父親が彼女の手を離し、二人は向き合う。花嫁は、花婿の腰ほどの背丈しかなかった。
司祭が口を開く。契約の問いかけの言葉だ。
「花婿ラザロ、汝はその魂を花嫁を守る剣とすることを誓いますか」
花婿───ラザロは、低い声で答える。
「……誓います」
(おなかの奥に響く。けれどやさしい声……)
花嫁がヴェール越しにラザロを見ながらそう思っていると、司祭は今度は花嫁に問う。
「花嫁エリーゼ、汝はその魂を花婿を助く鞘とすることを誓いますか」
花嫁───エリーゼは、緊張した震え声で答える。
「ち、かいます」
エリーゼの答えを聞き、一瞬の静寂の後、司祭は運命の言葉を口にする。
「契約の口付けを」
ラザロが一歩進み、その白髪が少し混じった癖毛の黒髪を一瞬だけ揺らし、エリーゼの前に跪く。彼の白い手袋に包まれた大きな手が、エリーゼのヴェールをそっと上げた。
ようやく、二人の視線が交わる。エリーゼの長いまつ毛に縁取られた薄紫色の大きな瞳が、ラザロの灰色がかった青色の切れ長の瞳をじっと見つめていた。───この色だ。とエリーゼは思う。わたしは、この色が好きなのだと。
両親から何度も教えられた段取り通りに、エリーゼが左手を差し出す。
ラザロはその小さな手を両の手で包み、ゆっくりと薬指の付け根に口付けを落とした。かあっとエリーゼの頬が熱くなる。彼女はラザロから目が離せなかった。ラザロが顔を上げる。その目は、どこか翳って見えた。その理由はエリーゼにはわからなかった。頬を薔薇色に染めるエリーゼを見たラザロの心によぎった哀れみの情を、彼女が察することはなかった。
「契約はここに。汝らはこれより一振りのつるぎとなりました」
死が二人を別つまで、汝らの旅路に白き光があらんことを。司祭はそう言い、言葉を締める。
この陰謀渦巻く結婚式に、割れんばかりの拍手が起こった。その音を、エリーゼは夜中の雷みたいだと思い、ラザロは土砂崩れのような音だと、思った。
たった今生まれた一組の夫婦は、拍手が鳴り止むまで、ずっと互いを見つめ合っていた。
暁に咲く薔薇 1話