若気の思い上がり
今日も飲み会か。めんどくさいし、家で映画でも見ようかなと隆介は思ったりしていた。とはいえ、この前買った新着の服があったのでそれを着て少し街に出てみたいという心理もある。隆介はこちらの世界に足を踏み入れてから服装に気を遣うようになった。十代の思春期の頃は特に見た目に気を使わない質であり、服に気を使う人間などけっという感じがするくらいの少年だったのに。それが、この世界に来てからは洒落ることに関する興味も人並みに持つようになり、今ではそれなりに服にも金をかける人間になってしまっている。この服でいってやったら、それなりに好評だし、視線も俺に注がれるだろうというあざとい考えが脳裏にちらついたりした。やはり見られることの優越感というものは何物にも耐えがたい。社会的評価を得るより、性的評価を得る方が、何倍も心地いい。そんな自惚れたことを隆介は少し思ったが、根っからの小心者だったので、傲慢な考えはすぐに抑圧してしまった。
世間は見られることの苦しさには無頓着であった。視線を浴びず、無視されて相手にされず、社会から忘れ去られた人々の嗚咽と絶叫と悟りはネット上で鳴り響いていたが、注目を浴びる人間の密かな苦しさと虚しさを世の中は知ろうとしない。流行りの言葉を使うと俺もマイノリティになるのだろうか。性的な眼差しを受けることで、何か削り取られていくようなものがあると隆介は感じていた。顔立ちの整った芸能人が自殺するニュースをときおり目にするが、見られることの痛みというものがあるのではないかと、隆介は思うことがある。顔を遠慮なく見られるときの、優越感と疎外感と痛み。このあたりのことは隆介もまだしっかりと言語化できていない。他人の顔を直視するときの、人間が放つ獣性。しょせん人間は性的であり、何か繕っていても、お前の目は正直じゃないか。隆介は、勝ち誇ってそう言ってやりたいときもあった。顔が良くてそれほど得をしたこともない。結局人が幸福になるには内面の問題が重要なのだという、ありきたりの論説を最近は信じ始めている自分がいた。
顔という問題。人間は顔を巡って妬み合い、僻みあい、恨み合ったりする。顔というものは非常に重要であり、顔なしで人生を、性を、社会を、人間を、経済を、政治を、宗教を、芸術を語ったところで虚ろで中身の抜けた論説しか出来上がらないように思うが、世間の会話でも学問の世界でも、顔というものは抜け落ちていた。顔なしで議論はどんどん進んでいくが、根底では顔が話の流れを決めているはずであった。見られることで削り取られていくものがあるのだが、それが何なのか隆介にはわからない。精神のなんらかの栄養分が削がれていき、いまではげっそりとしている。節操なく、品もなく、瞬時に見られる時。見る側もほぼ無意識であり、そのときに人間は動物にすぎないとお互いに理解する。俺は商品なのか。俺の痛みは商品と化した人間の痛みだ。それはSNSで騒いでいる奴らにはわからないだろう。あいつらは自分が幸福だということを知らないだろう。
隆介は新着の服を羽織った。鏡で確認すると悪くないと思った。新宿に行くまでにまだ時間があるので、北千住で読書でもしようか、それとも上野公園でぶらつこうか、少し迷った。まあ、家を出てから考えようと隆介は思った。
若気の思い上がり