風が吹くと飼い猫が儲かる
「ふぎゃああっ!」
柔らかな日差しがリビングに差し込む休日の午後、秋の風がぶわりと、窓に寄り添っていたカーテンを膨らませた。いい風だ、と思ったのも束の間に、突如、響き渡ったのは机の下で寝ていた飼い猫の鳴き声だった。左足にぬいぐるみで殴られたような衝撃を感じて俺がひるんでいる間に、ふぎゃぎゃ、ふぎゃ、という情けないダミ声と共にフローリングを爪でチャチャチャと引っかき、暴れ狂って飛び跳ねながらそいつは部屋から転がり出て行った。そしてその数秒後、玄関の方で何かにボンッとぶつかる音が微かに聞こえた。
俺はその慌てた毛糸玉に声をかけるタイミングを逃してしばし呆然とした後、今日は珍しくこの部屋の扉を開けっぱなしにしていたことに気づいた。そして家の中を秋の乾いた風で換気するために、先程、玄関の扉を十数センチメートルだけ開けていたということも。
「おはぎ、おはぎ!」
飼い猫の名を呼びながら急いで玄関に向かうと、その小さい脱走者によってわずかに蹴散らされたサンダルと、自由に風を出入りさせている扉の隙間が目に入った。
これはまずい、と自分の勘が大きな声で警告してくる。草臥れたサンダルをつっかけ、部屋着の真っ黒なスウェット姿のままマンションの廊下に飛び出して、左右を素早く確認したが見当たらない。わずかに脳に残っていた冷静さをかき集めながら、震える指で冷えた玄関の扉に鍵をかけた。
おはぎ、おはぎ、と何度も呼びかけながら廊下の端から端まで走った。そしてエレベーターの前にもいないことを確認した途端、すっと顔から血の気が引くのを感じた。
階段だ。おはぎはここを降りて行ったのかもしれない。しかもすぐ下は一階だから、運が悪ければマンションの外に逃げてしまう可能性もある。万が一、近くの車道にでも飛び出してしまったら、と考えて階段を駆け降りようとした時だった。
「あの、どうしたんですか。さっきからずっと“おはぎ”って……。もしかして猫ちゃんが逃げたんですか?」
遠慮がちな声に振り返ると、すぐ後ろの部屋から隣人の女性が、チェーンをかけたままの扉をわずかに開けてこちらを見ていた。
「そうなんです!お騒がせしてすみません。うちの家猫が脱走してしまったみたいなんです。ああ、そうだ、猫を見ていませんか? 黒い毛に少し白い毛が混じった、ごましお模様の猫なのですが。」
俺が焦って早口になりながら尋ねると、
「いえ、私も貴方がおはぎちゃんを探す声に気づいてから出てきたので、全然……」
と、女性が申し訳なさそうに答えた。
「あいつはずっと室内飼いだったので外の世界に慣れていないんです!もしマンションから出て車に轢かれでもしたら……!」
焦って今にも階段を転がり降りそうな俺に、女性は冷静に声を掛けた。
「大丈夫です、落ち着いてください。とりあえず、貴方は、おはぎちゃんの好きなおやつや、音の出る玩具を持って来てください。私が先に下に降りて、近くにいないか確認しておきます。」
「わ、分かりました。」
そう俺が答えるや否や、女性は飾り気の無いグレーのワンピースを翻して階下に消えていった。
俺も急がなくては、と早鐘を打つ心臓を落ち着かせながら、がちゃりと玄関扉を開け、キッチンへ向かった。
「もしあいつが居なくなったらもうこのおやつは用無しなんだから!一番値段の高いものを……」
猫用の食べ物でいっぱいになったプラスチックのカゴをひっくり返す勢いで、あいつの好きなおやつを搔き集めた。
「おはぎは、これが好きだった。あと、これもこれも……。」
もういっそ全部持って行ってしまおうか、と追い詰められて捨て鉢になり始めた時だった。
俺の足首に、もすっ、と何かがぶつかった。
「なあおい、今、忙しいんだ。足元に寄って来るなっていつも……は?」
「みゃん」
状況が飲み込めないまま、おはぎを見下ろして固まる俺と、食べ物をもらえるのかと期待の眼差しでこちらを見上げる渦中の猫。
「お前……もしかして、外に出ていなかったのか?」
目の前の猫を見つめながら、必死にこれまでの情報を頭の中で反芻する。
そうだ、こいつが部屋から転がり出て行った時、玄関の方で何かにぶつかる音がしたが、玄関扉にぶつかって室内に引き返しただけだったとしたら。そしてその後もキッチンで怯えて大人しくしていただけだったとしたら。全部、俺の早とちりだったとしたら……。
信じられない思いで足元の猫の頭を撫でていると、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。
急いで扉を開けると、隣の女性が息を切らしながら帰って来たところだった。
「お隣さん!すみません、おはぎちゃんを全然見つけられなくて……!どうしよう、遠くに行っちゃったのかも!」
泣きそうな声で切羽詰まっている様子に、俺は大きな花瓶を十個も抱えているような罪悪感に襲われた。
「あのう、本当に申し訳無いのですが……家にいました、おはぎが。」
そう切り出すと、ごましお模様の犯人が後ろから出てきてとことこと彼女に近づき、朗らかに一声、鳴いた。
「大変ありがとうございました。俺の早とちりで無関係の貴方まで心配させてしまって、申し訳ないです。」
そう言って頭を下げる俺に、彼女は優しく声をかけた。
「いいえ、おはぎちゃんが無事で本当に良かったです。こうして可愛い姿をきちんと見ることも叶いましたから。」
彼女は先程から、俺の膝の上でくつろぐ猫をずっと凝視している。
「もし宜しければ、抱っこしてみますか? おはぎのこと。」
余りにもじっと見つめてくるので、そう声を掛けておはぎを差し出すと、彼女は途端に、ぱっと表情を綻ばせた。
「本当ですか、ありがとうございます!……うわあ、柔らかい。それに温かくてふわふわです。」
彼女がおはぎに夢中になっている間にお茶を淹れ、邪魔をしないようにそっと近くに置いた。
「そういえば、どうして俺が猫を飼っていることをご存じだったのですか?誰にも言っていないはずなのに。」
先程から薄っすらと気になっていたことを尋ねると、彼女はハッとした後、少しばつが悪そうにしながら答えた。
「あの、いつもこちらのお部屋の前を通って廊下の奥の共同ごみ捨て場に行くのですが、おはぎちゃん、よくキッチンの窓際にいますよね? 通りがかる度に、摺りガラス越しの猫ちゃんが見えて……。私、それが見られた日はすごく嬉しくて……。」
もごもごと言い訳めいたことを話す彼女の手は、おはぎの尻尾をひたすらに撫でている。
「ああ、そうでしたか。そういう時は、今度からチャイムを鳴らしてくれたら玄関を開けますよ。貴方が会いに来てくださると、おはぎも喜ぶと思います。」
「そんな、良いんですか。嬉しいです!」
そして彼女は、ずうっと優しくおはぎを撫でて、嬉しそうに冷めたお茶を飲んだ後、隣の部屋に名残惜し気に帰って行った。
「さて、そういえばリビングの片付けが未だだったな。」
家の中の扉という扉が閉まっていることを確認しながら、俺は事件の発端となったリビングに戻った。
日も傾き、既に気温の下がり始めた室内を見回す。そうだ、あの時、たっぷりの風が窓から吹き込んできて……と考え事をしながらテーブルに近づくと、右足の親指に何かが当たった。
「なんだ? ……ボールペン?」
思いついたことを書き留める時のためにテーブルの上に置いていたボールペンが、何故か、床に転がっていた。
「まさか、おはぎは、突風でテーブルから落ちたこのボールペンに驚いてあんなことに?」
可能性としては十分に考えられる。俺は、固く沈黙する真犯人をゆっくりと拾い上げ、ペン立てにそっと戻した。もうこんな事件は懲り懲りだ。
後日、お隣さんが一生懸命に選んだと思われる猫のおやつが、「おはぎちゃんへ」という宛名と彼女の名前が控えめに書かれた手紙と一緒に、玄関の取っ手に掛けられていた。
果たして今回、一番に得をしたのは誰だったのか。柔らかでささやかな謎と、涼やかな秋は深まるばかりである。
風が吹くと飼い猫が儲かる