05 想い人 ③
16章~21章
16
翌朝、水曜日、今日も雨。
傘立てに傘を入れ、上履きに履き替えようとしていたジンジは、声を掛けられた。
振り返ると、いつやって来たのだろうか、すぐ後ろに中山ナオミ(シジミ)が立っていた。
「おはよう」
その声が、いつもの彼女らしくなかった。
いつもなら
「おっはよ~」と背中をど突くくらいの勢いで元気な声を掛けてくるのだが――。
「お、おう」
ジンジも言葉を返そうとした。
しかし昨日のことが頭にあり、普段通りのおはよーが出て来なかった。
彼の目の前に立つシジミは、鞄を肩に掛けていなかった。
たまたま登校時間が一緒になり、声を掛けてきたわけでは無いようだ。
しばらくの沈黙があった。
やがて、ジンジの口から継いで出た言葉が……
「大丈夫だから」だった。
一瞬、けげんな顔をするシジミに
「大丈夫だから!」とまた言って、口を思いっきりUの字にして笑って見せた。
彼女は一瞬、戸惑った表情を見せたが、すぐに何かを察したのだろう……
「うん」と大きく頷いていた。
そしてもう一度、ジンジに頭を下げていた。
その後に見せてくれた表情は、いつもの明るいシジミの笑顔になっていた。
シジミはさらにもう一回頷いてから、ジンジに背を向けると、教室の前の扉から中へ入っていった。
教室に消えたシジミを見届けたジンジは、自分でも気付かぬまま、大きな息を漏らしていた。
そしてホっとしたのか、立ち竦(すく)んだまま下駄箱を眺めていた。
「靴下が汚れちゃうよ」と肩に手を置かれた。
声で分かった、カコだった。
いけね……と我に返ったジンジは、手に持っていたスニーカーを下駄箱に片付けて上履きに履き替えた。
カコは、登校して来たシジミが、いつになくソワソワしているのに気付いていた。
席に座っているのだが、どこかソワソワしており、腰を浮かせて廊下のようすを伺っているのだ。
そして時折、味田ヨウイチ(アジ)にも目線を送っている。
アジ本人も、いつもなら自習開始ギリギリに教室に駆け込んでくるのに、今日はもう席に座っている。
しかも静かに……。
カコは、二人がジンジのことを待っているんだと思った。
でも何故、昨日話をしなかったのだろう?……という疑問もあった。
話す時間なら、昼休みや、放課後とか、いくらでもあったはずである。
そしてそれは多分……
二人の間に、男子であるアジとしての、女子であるシジミとしての、お互いの気持ちがまだはっきりとしていなかったからなのだろう。
しかし今日は、登校して来たジンジに向かって、シジミが動いたことで理解していた。
シジミはアジに視線を送りながら、廊下に出て行ったのである。
やがて教室に戻って来たシジミは、直ぐさまアジの方を見ていた。
アジは最初からシジミを見ていた。
シジミが頷いた。
アジは、微かな笑みをシジミに見せていた。
17
自習時間が終わるやいなや、乙音はカコの席まで走って行った。
「カコさん、お願い、あります」と乙音は唐突に切り出していた。
「お願い、なに?」
「部活、やって、みたい……」
「部活、いいんじゃないの。それで、前の学校では何をやってたの?」
乙音は首を横に振った。
「じゃあ、やってみたい部活は、何かある?」
乙音は首を傾げた。
「じゃあ、文化部か運動部、どっちにする?」
またも首を横に振る。
「ほんとに何かやりたいの?」
今度はカコが首を傾げた。
乙音は腕を組んで唸ってしまった。
どうしようも無いなぁ~と思っていると
「ねぇ、どうしたの?」とナオがやって来ていた。
「おはよー」
「ナオさん、おはよー、ございます」
乙音は、カコの言い方を真似て挨拶した。
「乙音ちゃんがさ、部活をやりたいって言うんだけど、何にしたいか決まらないの……」
「ふ~ん」
「何かいい方法ないかなぁ?」
「ないか、なぁ~」
今度もカコの口調を真似ながら、乙音は首を傾けていた。
「それじゃあ、今日の放課後に、いくつかの部活を見学してみればどうかな?」
「それ、いい」
乙音はパチパチと手を叩いた。
「え~と、え~と、そうだ、是非、でした、是非、見学させて、ください、……したいです」
乙音は、得意気に両腕を組んで胸をはった。
「じゃあ、まず見学するにしても、文化部にするか運動部にするか決めなきゃね」とカコが言った。
「今日は文化部、明日は運動部ってのはどう?」とナオが提案した。
「それ、いい、じゃあ、今日は、文化部、します、放課後、お願い、します……」
「ちょっと待って乙音ちゃん。わたしとナオは部活があるから、案内することが出来ないのよ」
「そうなん、ですか?」
「大会が近いから、休んでられないの、ごめんね」
カコは申し訳なさそうに、両手を胸の前で合わせた。
乙音の目線はナオに移った。
「わたしも駄目なの、カコと同じ部活だから……、ごめんね」
それでナオは、大会前の練習内容の相談で、カコの教室にやって来たのである。
「じゃあ、誰、案内して、くれる、ですか?」
乙音は肩を落としてションボリしている。
どうしよう?とカコは教室を見回した。
そして……何かを思い付いたようだ。
「そうだね、そうしようか?」とカコはナオに言った。
「そうだよね、それしか無いよね」
ナオも、カコの思い付きが分かったようだ。
「呼んでこようか?」とナオ。
「大丈夫。ジンジなら絶対こっちを向くから……」
見ると、ジンジは教室の角で、シゲボーやタニ、アジたちと、笑い声をあげながら立ち話をしていた。
特にアジの声がどこか吹っ切れたように大きい。
「家入くん、こっち、向く、ほんと、ですか?」
ジンジはこちらに背を向けて話しているのだ。
「それじゃあ、こっちを向くように念力を送るからね……」
「念力、なんですか、それ」
乙音は不思議そうだ。
「想いみたいなものかな、まあ見てれば分かるよ」とナオ。
するとカコは、右の手の平を身体の前にかざして身構えた。
そしてその言葉を、一語一語区切りながら発した。
「ね・ん・り・き~」
乙音は興味深そうに、そのさまに見入っている。
ナオは、ははん、と鼻を鳴らした。
ナオには、カコがやろうとしていることが分かったようだ。
やがて……ものの十秒もしないうちに、ジンジが三人の方に顔を向けたのである。
驚いた乙音は、カコとジンジを交互に見やった。
「家入くん、振り、返った」
ナオは可笑しくて肩を震わせながら、こっち来て、とジンジを手招きした。
ジンジは、シゲボーたちに二言三言言葉を掛けると、彼女たちの所までやって来た。
「ほんと、来た、どうして? カコさん、ほんと、念力、使った、ですか?」
「どうしたんンだよ、そんなに驚いた顔しちゃってさ」
目を丸くしている乙音に、ジンジは言った。
「家入くん、念力、感じた、ですか?」
「念力、何それ?」
ジンジは三人の顔を怪訝そうに見回した。
「家入くん、わたしたち、振り返った……」
「だってシゲボーが教えてくれたから」
「え? なに? シゲボーさん、教えて、くれた、ですか?」
「カコが呼んでるんじゃないのか……って教えてくれた」
「なんですか、それ?」とカコに向かって首を傾げていた。
「ごめんね、種明かしするね」とカコ。
「ジンジは背中を見せてたけど、シゲボーはこっちに顔を向けてたでしょう。それで彼の顔をジッと見詰めて、わたしのことを気付かせたの。それからわたしがジンジに目線を移したってわけ。それでシゲボーが察してくれて、ジンジに言ってくれたのよ……」
「な、なるほど、そうだった、ですね」
合点がいった乙音は、上半身を使って頷いていた。
「カコさん、たち、面白い、遊び、知ってる」
「遊びってわけでもないんだけどね……」
カコはとぼけて見せた。
「シゲボーが二人の仲を知ってるから出来る遊びでもあるけどね」
ナオはカコのお腹を突いた。
「二人の仲……」とジンジ。
「そう言う仲ってこと」
ナオは、ジンジに最後まで言わせなかった。
「もういいから、ほら早くしないと、1時限目の授業がはじまっちゃうよ……」
カコは時計を見上げ、ナオとジンジの会話を強引に終わらせた。
「そうだったね」とナオはまだ笑っている。
「で、オレを……」
「わたし、部活、やりたい、です」
今度は乙音が、ジンジに最後まで言わせなかった。
そしてナオが、説明を始めた。
「部活見学の案内をするってこと?」
ジンジは戸惑った。
三人は、同時に頷いた。
「知ってるよ。今日は、グラウンドを使用するクラブは中止なんでしょ」
ジンジは、ぐ……、と言葉を飲み込んだ。
「雨でみんなが体育館を使うと、もともとの体育館使用のクラブから、少々やりにくいって、文句が出てるのも……」
一日や二日ならともかく、こうも長期間に雨が続くと正規の体育館を使用するクラブに支障が出るのも致し方ない事である。
実際のところ、昨日のサッカー部は練習を早めに切り上げて、残りの時間は教室でフォーメーションの座学をやっていた。
「よくご存じで……」
「ご存じもなにも、昨日SMH(ショート・ホーム・ルーム)で先生が言ってたじゃない。グラウンド使用のクラブは一日置きに体育館を使用することになったって――」
「で、オレは今日は休みだから、乙音さんの部活見学を引率してくれってこと?」
「そういうこと」ナオが言う。
「音也、一緒、いい、ですか?」乙音が言った。
「音也くんも一緒にかい?」
「お願い、します」
乙音は、胸の前で手を合わせた。
さっきのカコの真似である。
「一人も二人も一緒でしょ」
カコがジンジに返す。
「それはそうなんだけど……」
「ユウコにも、付き合ってもらえるか訊いてみるから」
ナオが助け船を出してくれた。
「それは助かる。なんせ文化部なんて、オレほとんど知らねぇし……」
何処でやってるのかもチンプンカンプンなのである。
「じゃあ決まりね」ナオが言う。
「よろしく、お願い、します」乙音が頭を下げる。
話がまとまったところで、タイミングよく授業開始の予鈴が鳴った。
そしてナオは、次の授業は移動(教室)なんだ……と言って急ぎ足で自分のクラスへ戻って行った。
乙音はジンジと席に戻りながら、彼に深々と頭を下げる。
「家入くん、よろしく、お願い」
「そんなに、かしこまらなくても大丈夫だよ」
「適当に、案内しちゃ駄目だよ」と後ろからカコの声――。
二人は振り返る。
「ユウコに任せっきりじゃあ駄目だからね……」と指を差されてしまった。
「そ、そんなことないさ。ちゃんと案内するし……」
ジンジの慌てぶりに、乙音は笑った。
カコの真似をして笑った。
18
昼食の時間になった。
今日はシゲボーも一緒に食べることになった。
乙音が一緒に食べたいと言ってきたからである。
そこにタニも混ぜてくれと言うので、四人で食べることになった。
四つの机を合わせてテーブルを作る。
ジンジの右に乙音、前にシゲボー、乙音の前がタニだった。
乙音は、魚肉ソーセージを紙袋から取り出してジンジに渡した。
三日連続で、乙音の昼食はメロンパンと魚肉ソーセージである。
「はい、はい」と言いながらジンジは、魚肉ソーセージのビニールを噛み千切って乙音に返した。
シゲボーとタニは、それを唖然として眺めていた。
「どうした、ですか?」
不思議そうな顔で、乙音は二人に訊いた。
何でもない、と二人は慌てて手を振った。
「じゃあ、いただき、ます」
乙音の元気な声が教室に響く。
そこかしこから、笑いが起こる。
三人も、いただきます、をして自分の弁当に向かった。
さぁ食べよう……としたその時
「なに? ですか、それ」
乙音は、タニの弁当を手に持った魚肉ソーセージで突ついていた。
「なにって?」
タニは、箸を止めた。
まだ一口も食べてない。
「ご飯の上、かってる、薄い、茶色、いい、匂い……」
「これ? これはオカカだよ」
「オカカ?」
「鰹節だよ」
タニの代わりに、シゲボーが言った。
鰹節を知らないのか?と三人は訝(いぶか)しんだ。
「カツオブシ、蒸した、カツオ肉、燻(いぶ)して、乾燥、その後、かび付け、して、あるです」
逆に乙音の方から説明があった。
でも首を捻っている。
「そんなの、何で知ってンの?」
ジンジが感心していると
「書いて、あった」と乙音。
昨日今日と、乙音は自習時間に家庭科の教科書を開いていた。
「でも、カツオブシ、そんな、薄くない」
「その鰹節を薄く削ったのが、オカカさ――」
タニが教えてくれた。
「なるほど、ですね……」
言いながら乙音は、タニのお弁当を覗き込んでいる。
「た、食べるか?」
タニが戸惑いがちに声を掛けると
「いいの?」
乙音は明るく笑った。
「いいさ、ほら」
笑顔に気を良くしたタニは、弁当箱を乙音の方に押し出した。
「じゃあ、遠慮なく、です」
すると乙音は、ジンジの箸を奪い取っていた。
「え、あ、オレの箸……」
驚いているジンジを尻目に、乙音は奪った箸を使って嬉しそうに……。
驚いたのは三人だった。
乙音は、箸を二本まとめてグー握りをしていたのである。
小指の側から箸の食い先を出し、それをそのままオカカをまぶしてあるご飯の上に突き刺していた。
そんな握り方では、ご飯が上手に掬(すく)えるわけがない。
まるで、箸の使い方を知らない……教えてもらっていない幼児のようだ。
乙音が悪戦苦闘すればするほど、タニのオカカご飯はグチャグチャになっていった。
それでも何とか、一口目を口に入れた乙音だった。
「おいひい~」
また教室中に聞こえるほどの声をあげていた。
あまりの喜びように
「そ、そうか、良かったな」と苦笑いするタニ。
すると
「はい、これ、あげます」
乙音はタニに、自分のメロンパンと魚肉ソーセージを渡していた。
「これ、を……?」
「かわり、わたしの、あげます」
タニの弁当を貰った?のだから、代わりに自分のお弁当をあげるのは当然……という顔をする乙音に、三人はあっけに取られてしまった。
タニ自身も、弁当をまるごとあげるつもりなど無かったはずである。
ただ一口だけ、と思って差し出したはずなのに――。
シゲボーは、乙音の予測不能な行動に肩を震わせている。
ジンジは、自分の弁当と乙音が握っている箸を交互に眺めている。
しかし乙音は、ジンジの困り事に気付くようすもなく箸を動かしながら、交換した弁当を夢中で食べている。
「しょうがねぇか……」とジンジは席を立った。
そして教室の後ろの棚に行き、自分の鞄の中からある物を持って戻って来た。
ジンジが手にしていたのは、割り箸だった。
おっちょこちょいの母親が(多分それが、ジンジに遺伝しているのだろう)、たまに入れ忘れる事があるので、予備としていくつか鞄に入れてあるのである。
以前、箸を忘れて困っているところに、カコがスプーンを貸してくれたことがあった。
そのスプーンも、カコが予備として持っていた物だったのだ。
それ以来、ジンジも割り箸を鞄の中に入れておくようにしたのである。
そしてジンジも、ようやく弁当に有り付くことが出来た。
「これだけじゃあ、足んないかも……」と言いながらも、弁当を無理矢理?交換させられた嬉しさで、タニの顔はニヤけている。
「これも、おいしい、です」
乙音は、ぎこちない箸使いで、ようやっと持ち上げたおかずを見せた。
「それは、ベーコンと人参と……野菜の炒め物だな」
タニが説明した。
「この、緑色、葉っぱ、みたいな、野菜、ちょっと、辛い、でも、おいしい、なんて、野菜?」
「なにかの芽みたいだな」
細かく刻んで炒めてある野菜を見て言ったのは、シゲボーだった。
「分かんねぇ~」とタニ。
ジンジも分からないようだ。
「分からない、でも、おいしい」
乙音は口一杯にそのおかずを頬ばった。
「シゲボーだけ、被害が無かったじゃんかよ」
不公平だ、とジンジが言うと
「まぁな……」
シゲボーはまた笑いを堪えていた。
19
放課後。
「家入くん、来たよ」
壁の時計に目をやり、もうそろそろだなと思っていたところに、乙音が声を掛けてきた。
廊下へ顔を向けると、ユウコと音也が教室の外で待っていた。
相変わらず、少し離れた場所から数名の女子が音也の動向を注視している。
じゃあ、とジンジが立ち上がるのに合わせて、乙音も立ち上がった。
さぁ行こうとした時、乙音が突然バランスを崩していた。
ストン、と席に腰を落とす。
「どうした?」
乙音は何でもないと言って机に両手をつき、身体を持ち上げるようにして立ち上がった。
「大丈夫か?」と乙音を覗き込む。
「ちょっと顔が紅いみたいだけど」
「平気、つまづいた、だけ」
それだけ言うと、さっさと席を離れ、乙音は廊下に向かった。
「どこから案内しょうか?」とユウコ。
「何処からにしょうかな~」
ジンジは腕を組んで首を傾げた。
「今日は文化部を案内しようと思ってるんだけど――」とユウコ。
「オレもそう考えてたンだ」と首を縦に振った。
しかも大きく。
ユウコは肩をすくめた。
もともと今日は、文化部の案内をする予定になっていたはずである。
「じゃあ一番近いところからにする? それとも遠いところから?」
ユウコがジンジにどっちにする?と訊いているところに後ろから
「すいません」の声。
ユウコが振り返った。
音也だった。
「どうした?」
ジンジも振り返る。
「乙音の具合が、良くないんです」と音也。
見ると乙音は、音也に寄り掛かるように抱き付いていた。
二人は兄妹の側に寄っていった。
乙音の頬が紅くなっている。
でも、苦しそうには見えなかった。
逆にほわんとした表情で、夢見心地のように思える。
「だ、大丈夫、です、は、早く、行き、ましょう」
それでも、開かれた瞳は、どこか遠くを見ているように霞が掛かっていた。
「大丈夫なわけないよ。身体にぜんぜん力が入ってないじゃないか」
音也が叱ると
「だ、だ、だ、大丈夫」と言って音也を突き放して一人で立とうとする乙音だった。
しかし直ぐさま、膝を折ってしゃがみ込みそうになる。
慌てて、音也が抱き抱えた。
「ほらみろ、大丈夫じゃないじゃないか……」
今度は乙音も反論出来なかった。
さっきと同じように、音也の肩に頭を乗せると、そのまま目を閉じてしまった。
「江本さん、家入くん。申し訳ないですけど、部活見学は日を改めてと言うことで――」
「かまわないわよ。それより保健室にいきましょう」
ユウコがジンジに目配せした。
ジンジは、音也が乙音を背負うのを手伝った。
遠巻きからは、羨望の溜め息が聞こえてきた。
兄妹だよ!とユウコは取り巻きに怖い目線を送った。
そしてユウコは、音也の背に頬を乗せている乙音の顔を心配そうに覗き込んだ。
……?
目を閉じている乙音は、楽しい夢でも見ているのではないかと思える表情をしている。
「オレ先に行って先生に説明しておくから」
「お願い」
ジンジは、小走りで保健室へ向かった。
「ありがと、ございます」
乙音がうっすらと目を開けた。
ユウコは、心配しないでいいから、と首を振った。
「こっちよ」
ユウコは音也の横に並び、乙音に大丈夫?と声を掛けながら、保健室へ向かった。
20
「ぼくだけ先に帰って、母に車で迎えに来てもらうように伝えます」
保険室のベッドに乙音を寝かしつけた後に音也が言った。
「家、近いの?」
ジンジが訊いた。
「ええ、歩いて10分と掛かりません」
音也が家の場所を説明すると……
「そうか、川沿いに建った新しい家だね。白と黒の仔猫がいる……」
「そう、そこです」音也が頷く。
「分かった。乙音さんは、迎えが来るまでオレと江本で見ておくから――」
ユウコは今も、乙音が寝ているベッドの横でようすを看ている。
「じゃあ、なるべく早く母を迎えに来させます」
音也は深々と頭を下げると、保健室の先生にも礼を言って部屋を後にした。
音也はいつも深々と頭を下げる。
ジンジは音也が出て行ったのを見届けた後に、出来るだけ静かにベッドに近付き「どう?」と小さく声を掛けた。
するとユウコが、仕切られたカーテンを開けて出てきた。
「寝てる。身体を小さく丸めて、まるで動物の赤ちゃんみたい」
「具合は?」
「大丈夫そうだよ。顔がちょっと紅いだけで、苦しそうにしてないもの」
「安心していいよな?」
「いいと思う」
「それでさ、音也くんはさ……」説明しようとするジンジに
「聴こえた。お母さんを呼びに帰ったんでしょ」
「早ければ15分か20分くらいで、迎えに来てくれると思う」
「じゃあ、わたしはそれまで乙音ちゃんのようすを看てればいいね」
「悪ぃ、お願いする。オレは、正門の前で車が来るのを待ってるから」
「そうして。こっちは任せて……」
「頼む」とジンジは保健室を出て正門に向かった。
21
ジンジは教室に戻り、乙音の机の前にポツンと立っていた。
乙音を迎えに来た車を、ユウコと二人で見送った後、自分も帰ろうと教室に鞄を取りに来たのである。
教室には彼一人だった。
クラスメイトは、部活に行ったり、そのまま帰ってしまったりと、教室には誰も残っていなかった。
どうしたもんかなぁ~、とジンジは悩んでいた。
乙音は鞄を持たずに帰ってしまったのである。
自分も帰ろうと思って教室に戻ったときに、乙音が鞄を置いたままであるのに気付いたのだ。
どうせ帰り道の途中だからと、忘れた鞄を届けてやりたいのだが、机の中の教科書やノート、私物を取り出して鞄に詰めて良いものかどうかを悩んでいるのだ。
ユウコも教室に戻っているはずだと思い、慌てて隣の208を覗いたが、彼女の姿はもう無かったのである。
以前、カコが捻挫して、登下校に鞄を持ってやったときに、女子の鞄は勉強道具の他に別の必要な物が入っていることを教えてもらったのである。
だからジンジは、乙音の鞄を開けるのを躊躇っているのだ。
「はぁ~あ」
どうすればいいのか?と悩んでいると、自分でも意識せずに大きなため息が漏れていた。
仕方ない、このまま鞄だけ届けようと思っていたとき、教室の扉が開かれた。
「どうして……?」
ジンジは驚いた顔でカコを見た。
「いた、いた。もしかしたら……、と寄ってみたら、ほんとに居た」とカコが笑っている。
カコは制服に着替え、鞄を肩に掛けていた。
「ユウコが教えてくれたの。(乙音ちゃんは)具合が悪くなって帰っちゃたんだって?」
「お母さんに車で迎えに来てもらって、それに乗って帰った」
「ほんとに大丈夫だったの? ユウコが知らせてくれたけど、わたしも部活中だったからあまり詳しい話は聞けなかったんだ」
ジンジは、事の成り行きを最初から説明した。
そして兄妹の家が、あのおばさんの家であることも……。
「そうだったんだね」と言い、自分を見ているジンジに、なに?と訊いていた。
「で、カコは何で此処にいるんだ? もう帰ったと思ってた」
「傘を取りに来たの。部室には置く場所無いから、雨の日はいつも教室まで取りに来なくちゃいけないの」
そうだったんだと頷いてからジンジは「菅野は?」と訊いた。
「ナオは別の用事があるから、先に帰った」
「別の用事?」
首を傾げるジンジに
「察してあげなよ」とカコが笑う。
しばらく考えたが、鈍チンのジンジには結局分からなかった。
「で、どうしたの?」とカコ。
実は……
自分も帰ろうと教室に鞄を取りに戻って、乙音の鞄が置きっ放しになっている事に気付いた、と説明した。
「女の子の鞄だから……江本に頼もうとしたら、もう帰った後だったんだ」
「そうなんだ。分かった。じゃあわたしがやったげるよ」
「そうしてもらえると助かる」
カコは乙音の鞄を机の上に乗せた。
そして鞄を開けようとした手を止めて顔を上げた。
「あっち向いててくれる」
「あ、悪ィ」
ジンジは慌てて乙音の机から背を向けた。
④へ続く……
05 想い人 ③
④のアップは
2026年1月9日 金曜日の予定です!