不登校のFARCE

 ファルスとは、人間の全てを、全的に、一つ残さず肯定しやうとするものである。凡そ人間の現実に関する限りは、空想であれ、夢であれ、死であれ、怒りであれ、矛盾であれ、トンチンカンであれ、ムニャ/\であれ、何から何まで肯定しやうとするものである。ファルスとは、否定をも肯定し、肯定をも肯定し、さらに又肯定し、結局人間に関する限りの全てを永遠に永劫に永久に肯定肯定肯定して止むまいとするものである。諦めを肯定し、溜息を肯定し、何言つてやんでいを肯定し、と言つたやうなもんだよを肯定し――つまり全的に人間存在を肯定しやうとすることは、結局、途方もない混沌を、途方もない矛盾の玉を、グイとばかりに呑みほすことになるのだが、しかし決して矛盾を解決することにはならない、人間ありのままの混沌を、永遠に肯定しつづけて止まない所の根気の程を、呆れ果てたる根気の程を、白熱し、一人熱狂して持ちつづけるだけのことである。哀れ、その姿は、ラ・マンチャのドン・キホーテ先生の如く、頭から足の先まで Ridicule に終つてしまふとは言ふものの。それはファルスの罪ではなく人間様の罪であらう、と、ファルスは決して責任を持たない。
        ──坂口安吾『FARCEに就て』

  1
 秋津秋江、その、一種格調高き亦一種乾いてチイプな響きを湛える名を所有させられたこの少年の決断を、果して、如何なる余人が批判することをできようか?
 と云うのも、この少年が登校拒否という云わば”行為しないという行為”をわが身へ決断させた心には、浮世から離れた華麗なる歌とうるわしき悲劇のロマンスこそあれ、良識という籠の裡に整然にして適切にならべられた言語による論理なるものの一切が欠けていたのである。したがって、抑々が秋津秋江という恰もやつれて蒼褪めた妖精的な人間──日常言語にきわめて疎く、亦かれ固有の詩的言語の冷然硬質な暗みにふかぶかと這入りこんだ種族──に語り掛ける言語を差しだす能力をもった人間というのは、すくなくとも学校と家庭には全く不在しており、如何なる弁論家を召喚させかれを説得させようとしても、かれ、翔べない翼を誇大妄想的にはためかせるような惨めったらしく微妙繊細なうごき、いわくきみょうにうでをふわふわと揺らせるそれをしながら、「ぼくは詩人へ失墜するんです、下へ下へと昇るうごきで歌うんです、されば二十歳で自然死するんです」と不可解な言語で不可解な願望を語るばかりなのだった。
 とまれ、秋江の決断は閉ざされて横暴であるに相違なく、周囲を、かれの未来への不安にわななかせたのだった。
 元来この少年には憂鬱な花に項垂れる妖精めいたところがあり、ひとびとから軽蔑の交じる愕きを綺麗に折りたたんだ「芸術家気質だね」というあかるい励ましを掛けられていたのだけれども、実際の意味においても自意識という観念的場面に比喩させた意味においても鏡ばかりを眺め、「なぜこんなにもぼくに好かれているぼくは、あらゆる意味でぼくの理想とちがい醜いのだろう」と訝るこんな少年は、わが貌に「芸術家気質」という概念そのものの存在すらなさそうな言葉の文字がみつからないことくらい知っていたから、「天然」と評されがちな社会的イメージを利用してその話題が逃げ出すために、幾分のあざとい印象効果を狙った作為によって、「ん?」と首をかるくかしげてはにかむのみなのだった。
 かれ、異様にして頓珍漢な熱狂による追究心は自意識の鏡の表面と遥か彼方の無き観念的世界のみ、その中間地点にある社会にまるで関心がなく、テレビはニュースすら見ず、自他の境界が引けていないから「バラエティは傷つくから嫌い」とのたまってその場にいるバラエティ番組をこのむ少年少女へ非情にもナイフを投げる。こんなことを平気で吐く人間は傷つけたことにすら気づかないという俗説があるけれども、かれにはふしぎにアトモスフィアの陰翳への感受性があるようで、雰囲気が悪くなったことにぞわぞわと寒気をもよおす。話した直後に経験と学習と自己否定によって獲得した「コミュニケーションのセオリー」を理論的に用い逆算して、先程のわが発言がこういう原因でよくなかったのだと帰結、わが身を助けようにもその頃には会話の内容はうつりかわっていて半ば腐臭に蝕まれた失言のタイミングにいつまでも佇み赤面するひとはわが身だけであるから、「失礼で変な奴だ」という評判は最早うけいれるほかはない。
 国語便覧に出る近代文学者であるならとりわけ愛読する作家でなくとも代表作と死因くらいは即暗唱できたけれども、現在の日本の総理大臣の名を述べることすらあやうい。そのくせ全体主義やら共産主義やらのイデオロギーの概念の知識だけはあり、まるで生きるための知識に無関心で死人としての知識への食欲だけが旺盛なようなのだから、どうもヒト科、否哺乳類にはあたらないようである。きょうの天気すら知らないので屡々土砂降りを被り、妖精なのにもかかわらず身体(フィジカル)を持って了い──嗚、なんて不幸なことだろう!──罪人の刑の如くずるずるとそれ引き摺るかれは人一倍脆弱体質にできているから、月に一度以上風邪を引く。資本主義を模すようなピラミッド構造をしている学校内での権力構造においてはみずからアウトサイダーを選び、”当人は暗鬱だと信ずるも輝かしい青春を謳歌している同級生たち”という不運にも秋江によって恣意的にみなされた、視えないだけで色々事情があるけれど学生としてそれなりにきちんと振舞えている花々を野良犬めいた卑屈な気持で眺め、はたから見れば「ウフフフ…」とでも聞えてきそうなくらいにうつしみを感じさせない淡い存在感ですり抜け、中原中也か萩原朔太郎かフリードリヒ・ハイネか仏蘭西象徴派詩人の詩集を手にもち、「みょうに女児的なうごきだ」と周囲からひそひそ噂される歩き方でふわふわ進みながら、ひとりごとを歌い歌い孤独の歩行をたのしむ。その歩き方は恰も足先が床に着く瞬間がないのではないかと訝られるほど、一歩ごとに跳躍してふわりと辷るような妖精風のそれであった。
 話しかけることを躊躇わせる雰囲気はたしかにかれにあり、暗みの降り立った暗澹たる眼差し、されど亦それも仕様がない、何故ってかれという妖精には、わが故郷が書物のなかにしか発見されなかったのだから。憂鬱の翳は表情どころか手先迄染みていて、体育の時間に整列された生徒の中でよろりとうでを挙げ点呼をとられるさまはけだし幽霊がそうしたかのようなやつれと暗みがみられたから、秋江、妖精ではなくて幽霊なのかもしれない。しかるに話しかけられると相手が誰であっても兎が跳ぶような勢いで情緒が昇って、普段の暗い顔付しか知らないひとには驚くほどプリミティブな印象でにこにこしはじめて、浮世ばなれしたふしぎな言語でお話をたのしむのだから、ひとりをこのむ病的に内気で変な奴にはちがいないが、どうも根は人懐っこく淋しがりやな、たとえるならばこぎつねのような気質を所有しているという評判もあり、全員から避けられているわけではなかったようである。
 そのような、渋々、そして恐るおそるの言葉えらびをして端的に申し上げれば、「社会と相性が悪い少年」がついに登校を拒否したのだから、教師は「このままではろくでもない無職に仕上がるにちがいない」と誠実な労働精神を発揮、良心的で根気強い支援をしてくれたけれども、「ぼくは詩人へ失墜するんです、さすれば二十歳で自然死するんです」と霞のように柔らかく淡く、物質的なものをぜったいにうごかしえない無性的な細い声でくりかえすばかり、嗚、おなじ日本語であっても双方の言語感覚が異なりすぎているという状況は、如何に煩わしいことであろうか!
 不登校という立場になって両親からの非難は幼少期よりさらにエスカレートしたけれども、かれの決意は強固そのものであるようで、打たれながらも戦士のように父をきっと睨みつける。「日本書紀と古事記にも記述されてあるなんとかというなんたら」という不毛な注釈をつけながら不毛にも武家を誇り、ヤクザ映画に涙する父は「自殺しろ、腹を切れ」と鬼の形相で要求したけれども、「ぼくは二十歳で自然死するから自殺できません、それに、まだ詩を書けないんです」とうずくまりながら──スパルタ民族として生れたアルクマンという古代希臘抒情詩人、きっとかれとおなじ気持をもっていただろう──息絶え絶えに云う。「詩を書けない詩人がいるわけないだろう。せめて賞をとって出版社から出版し、印税をもらってから偉そうなことを云え!」と怒鳴り散らされれば「煩い!ぼくはエミリ・ディキンソンのように死後に大詩人になるんだ! 詩人が報われてなんかなるもんか!」というヒロイックで自己憐憫あふれる自虐的誇大妄想癖を露呈、母を尻目に暴行はつよまるばかりであったが、かれとっくの昔に外界と自己を切りはなす習慣がついていたから、いたみを神経だけが感覚するような肉体状況の裡で、「腹を切れ」という言説に吹きだしそうになるくらい他人行儀な気持であった。
 そのような時、かれはのちに”フェティシズムという伸ばすべき罪の花”として執着し幾度もいくどもかれの詩や散文に登場することになる、”理不尽な状況に暴力されながらも魂の貞節だけは守り抜く高貴な姫君の美”のように自己を想っていたのだけれども、かれ、物心ついた頃からなぜか新約聖書を愛読・誤読、そしてヒロイックな戦いを強制されるヘラクレスやヤマトタケルノミコトさながらの魔法少女ものアニメを愛好しており、幼少期より、理不尽に打たれるということは可憐な美へわが身を剥くのだという、絵画的で観念的な病気に苛まれていたのである。
 が、これは単なる生き抜くためのコジツケ的適合にすぎなかったのかもしれぬ。然り。
 嗚。人性の孕む、俗悪の美よ。”死ぬるにあたいする真実”よりも、”生きるにあたいする虚偽”を抱くことをたとい選びとっても、余りのあまりのいたみに精神をおかしくさせてでも生き抜こうとする、人間の、嗚人間というものの淋しきフィジカルの一領域よ。おお、それは花。それは、唯の花。悪に染まっても、地獄に在っても自己本位に咲き誇りかねぬ、「俺は生きるにあたいする、俺は生きたいから生きてやる」と已むにやまれぬうごきで自己へかんがえさせる、無尽蔵の自尊心。その俗悪な自尊心は、kitschと云う或る一つの美のほかに、如何なる価値もみとめられえない、唯、自他へコケトリーとして前のめりに示される時に有意を発揮する、恰も美しい花のそれだ。

  *

 とまれ登校を拒否すれば校内暴力からは解放されるので、つまるところ家にいさえしなければ、自由自在に詩人として在れるのである。かれは殆どなかったけれども躰がうごくときだけ散歩をし、朝陽の美しさに「ふぁああ」という感動のうめきを洩らした。かれいわく、言語から言語性を奪い去って毀し再構築し、この「ふぁああ」にもっとも近い毀れた言語を言語の箱に入れ歌い、それが他者のふかみで共振しえれば、それも詩的言語による表現の結果であるとかんがえていた。そのためには、ランボオの歌った「言葉なんぞは吹き翔んぢまえ!」的に既存の言語を打ち砕かねばならず、抑々が日常言語、換言すれば地上の言語がかれには違和感と苦痛を与えるばかりであったので、かれはこの悪玉のたくさん詰まった頭を振って叩けば透明になるかしらと屡々壁へ頭を振り下ろし楽器ごっこにいそしんでいたら、憂鬱と死にたい気持の日々にみょうな頭痛がくわわった。
 昔の友人を懐かしむ。高校一年生の頃の、同級生。
 さながらに手という獲得の器官を抛棄するようなうごきで、手首に”自死予定破棄”にも似た線を引きに引きに引きまくり、生傷だらけにしてでも生き抜こうとしていた弓という同級生の友人、彼女だけがやや理解者と云えたために弓に会いたかったのだけれども、彼女はすでに高校から幻の葉群へゴシックロリヰタに少女武装装飾して遥か下方へと昇り去っている。
 かれはゆらゆら吊りさがるジェラール・ネルヴァルの頭に落した貴族帽を乗せなおしたきがるな施しによって伝説をつくることを手助けし、仏蘭西文壇を混乱・錯綜させたかの傍迷惑者の血を引いていたから、弓というヒロインをうごかす小説を哭き笑いという不合理的音楽に叫喚しながら書いて抽斗にしまっていた。然り。これはつまり菫の花を盗むという芸術家の仕事であり(後述)、もしやかれほんとうに芸術家気質であったのか?──否。そんな言語はない。
 抑々が芸術家という言葉にも秋江は失語症になるし、芸術とはなんぞやと問われれば数時間は考え込んでしまう。芸術。盗まれた菫の花。その直感だけはあったのだけれども、かれの愛読していた太宰治に影響を受けているだけであることは明らか、それに「青の理念と真紅の情念が綾織っていて、一滴の紫が紙片へ身投し、amethystの燦りとして固着するのだ」なぞと理屈をつけるのは観念的論理家らしい悪癖であり、芸術家らしいそれではなさそうである。
 芸術家。
 ぼくは、それではない。芸術家とは、主義者面した人間の押しつける、記号めいた匂いがする。
 詩人。
 まちがいなく、ぼくはそれである。それは、花と肌の掠れた罪の薫しかしない。
 何故そう云い切れるといい、かれは古代希臘の野原を彷徨うやつれた夢想家よろしく、色素の薄くふわふわの柔かい巻毛だったからである。嗚、アルクマン、かれはきっと巻毛のふわふわミディアムロングであった筈だ! 髪というものは、けだし詩人の言葉であった。かれはわが髪質が大好きで大好きでしようがなかったため、わが文章も愛さねばいけないと義務を強いた。
 かれには悩みがなかった。唯一つ、否二つを除いて。
 詩が書けず、亦自分がうまいこと二十歳で自然死できるかの確信がないことであった。これだけをかれは懊悩し、死に物狂いで苦しみ抜きながら自然死する方法をかんがえ、詩が書けないということは、自分はもしや詩人ではないのではないかという悩みで恰も「ぼくは人間に失格しているのではないか」という悲痛きわまる普段の自己否定と同等迄自己へ暴力し、「人間でもなく、詩人でもないぼくは存在してはいけない」という意味も甲斐もなく事情だけはありそうな奇怪な考え迄飛躍し、うんうん唸りながら死にたい衝動を耐え、これ以降は残りの三つめ以降の悩みになるのだが、だんだん文章が読めなくなってくることに絶望して「ぼくは文学愛好家とすら絶縁されかけている」と泣き喚き、鏡をみればごつごつと男性的になっていく肉体に爪を立てる程の嫌悪、性の感じられなかった声は気付けば狩りと雄叫びが似つかわしい男の声へと変貌しており、少年期の愛への美しい夢とみずからの弓への性的な欲求の乖離は甚だしく、なにかみずからの貞節や倫理とは別個としてつぎからつぎへ湧く性的欲求というしろものの存在や性質、それの引き起こしかねない暴力の可能性にズタズタに自傷するほどの嫌悪(妖精の羽に花冠を引っさげよう! あなたにも贈呈しよう、アネモネとかたばみ、どちらがお好み?)、こんなにも自分のことばかり凝視している人間は”ぼくの理想の優しさ”と真逆だと漸く気づき自己嫌悪に嘔吐(よく自分の欠点に気がついた! その暗い眼差に投影として、群青の夜空を投げこもう! いたみに磨かれたあなたの淋しさも素敵だ、けっして他者から裁かれてはいけない光がある)、父親から受けた武士道教育の残り滓、くわえて自己憐憫を否定する文学ばかり読み耽っていた影響でわが身が憐れで涙が出そうになると気付けばわが身を上からみつめる爬虫類の眸がげらげらと嗤うから、泣きながら笑いがとまらない日々、唯世界に在るだけで神経が絶叫するように痛いのは物心ついてから不断であって、ぼくは出来損ないだ、ぼくは生れてはならなかった出来損ないだという観念はかれの神経をつねづね絞めつけて(これは詩的論理として誤りである。詩的に理論する場合、存在はあらゆる知性に先立つ。だから、あなたも既に存在してしまっているあなたの存在条件を考えなくてもいいし、他者にそれをする権利はない)、気づくと一年近くが経って、漸く精神病院に連れていかれて「重症です。入院させてください」と医師に判断されて、故郷のないエルフたちの住むうすら寒い白塗りの森に収容された。秋江も亦妖精の一種であったから、この場所ほどに居心地のよい場所はなかったのだった。ここでは退院後の二度めのデート直後に別れたものの初めての恋人もできたし、素直な気持で素直に言葉を発しても仲間外れにされなかったし、だれからも意地悪をされなかった。かれはいつもふわふわにこにこしていた。
 したがって、かれはこの場所をボオドレール的に「この世界の外」と想って、逆説的に外の世界で生きる意欲が湧いたのだった。苦痛は、孤独は、詩人がわざわざ現実を住所に選んで生きる意味でしかないのだから。

  *

 救いがないという宿命は、きっと救いにもなりえる。

不登校のFARCE

不登校を肯定していいかはわかりません。しかし、ぼくは、不登校のあなたの痛み・さみしさの存在を肯定します。存在してもいい。あなたもまた、存在してもいい。
(だから──あなたの淋しさは、裁かれてはいけない)

不登校のFARCE

ファルス的自伝

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-12-26

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