三色菫と男ぎらい
十七歳、ぼくは恋をしていた。
叶わぬ恋、けれども、こんなことは慣れっこのはずだった。
彼女はアイドル、つまるところぼくは、かのいたましいガチ恋勢というわけなのだった。
西洋の古い物語に出てくるような、貧しい花売り娘のようにひたむきな可憐さを、ぼくは水樹晶に投影していたのだった。男性ファンの心理というのはいつも愚かで、勝手きわまる都合のいい解釈、ちょっぴり愛らしいときもあるかもしれないけれど、しばしば傲慢、スキャンダルへの逆恨みなんて珍しくもない、ぼくには男性性というものが、ますます立場が強くなっていく女性を本当はこう思っていたいという深いエゴが、もっとも表出しやすいそれの一つであるように思える時がある。
アイドル、ぼくらの手の届かない、とおいとおい高嶺の花、けれども水樹晶、さながら可憐な小市民。どこにでも咲く、されどはっとするほどに綺麗な、いくぶん愁いの翳を帯びる、紫いろの三色菫にも似ているのである。
不器用で人間くさい、健気にがんばっている姿は時々泥くさくもある、劣等感を刺激しない程よいダメさ、どこかにいそう、そんなリアルなキャラクターをファンに投影された水樹晶は、業界の巨大な推し加減に釣りあわない実力の乏しさと、トップアイドルとしてはやや普通よりの容姿から、アンチだって結構多かった。ほんとうはいい子なのに(ぼくらの願望)、誤解されやすいキャラクターであるのもあるかもしれない。愁うような表情が最近おおいのは、その存在のせいだろうか。それはぼくたちの恋や応援の気持を、ばかばかしい同情の反逆心で、わっと燃えあがらせる役目を果たすのだった。
それにしても水樹晶、なんてとおく硬く、そして美しい名前なんだろう、これが本名だなんて、ぼくには信じられないくらいだ。結婚して苗字が変わるのだけはやめてほしい、彼女がお婿さんをもらうのだって、勿論イヤなのだけれど。
ぼくは月に焦がれるように彼女に恋し、きんと遥かな夢想にはねかえされ、届かない自分の憐れに悶えて、そんな自分をきちんと嘲笑し、けれども心のどこかでは、そういう思春期らしい自分を、深くふかく愛していたのだった。
水樹晶の素晴らしいところはまた年齢で、ぼくの、一つ上なのである。こんな先輩が学校にいたらな、そう妄想して、まあその妄想の内容は書けないのだけれども、いやすこしだけ書かせてもらうと、告白もアプローチも向こうからだ、しばしば顔をにやつかせる。ちょうど、年上に憧れやすい年齢でもあった。
学校では内気で友人もすくなく、その友人たちが用事でいなくなると、いまのように、休み時間ヘッドホンをつけ机につっぷすることを禁じえないぼくが、そんな理想的な学校生活の妄想に耽るのは、ごくごく見られやすいことなのかもしれなかった。
「ねえねえ秋津くん」
そんな孤独きわまる僕に話しかけてきたのはクラスメイトの女の子、原田唯で、九月にもなるのに、ぼくは彼女と一度も話したことがなかったから驚いて、つぎに放つぼくの言葉は、ほとんど挙動不審めいていたのだった。
「え、え、なに? 原田さん?」
急いでヘッドホンをとっていた、急ぐことで、ぼくに好感をもってくれると期待して。
レースカーテンを透かし、やわらかな白い陽が斜めから射しこんでいる。きらきらとセミロングの黒髪が揺れ、看護師の診察のような表情でぼくを覗きこむ、そのくろぐろと豊かな額縁に包まれたような少女の白い顔は、空に掛かるころもが陽を浴び、光りの海が流れながれるように、優しいほほ笑みの表情へとうつりかわった。
そう、女の子に微笑まれるなんて大事件なのである、ぼくはそのあまりの愛らしさに撃ちぬかれ、晶に一途でいたいのにもかかわらず、そんなちょろすぎる自分に落ち込んだ。
「秋津くんって、水樹晶が好きなの?」
びく、と内心警戒する。
「…んー」
ぼくは迷うふりをし、つぎにどんな言葉を返すかの逡巡の時間を構築した。
第一候補。
え、すごく好き。ファンなんだ。
ダメだ、アイドルオタクだとおもわれて引かれたくない。折角の仲良くなれるチャンスなのだ、けれども、わざわざこんな話題を振ってくるということは、彼女も水樹晶が好きなのでは? いや、教室の隅から盗み見るなんとなくの印象ではいい子そうな原田さんも、腹の底ではなにをかんがえているか解らない。
第二候補。
誰から聞いたの? 全然好きじゃないよ。
まるっと嘘じゃないか、態度も悪い。そもそもなんて邪推をぼくはしているんだ、そんな子だと疑ってはならない、素直に答えればいいじゃないか。十七歳、ひそかにロックを愛好、ほんとは誰かに言いたいけれど、そんなぼくは、生活のなかでできるだけ嘘をつきたくない。でもな、あんまりキモいとおもわれたくないな。どう答えようかな。うーん。
「ファンまでいかないけど、まあ、好きは好きかな。たまたまテレビに映ってたら、見ちゃうくらいには」
彼女と結ばれないことを想い、涙する夜さえあった。
CDはすべて揃え、彼女のパートはいつでも声や歌い方まんまが脳裏で再生し得る、押入には、お小遣で購った大量のグッズが、段ボールにうつくしく整理整頓されていた。ライブにはまだ未参戦、けれども夏休みにこっそりやったアルバイトで得た数万円で、つぎこそ参戦してやると決意していた。
言った後にかんがえると、クールぶった(既に痛い)言い方の背後に透けて見える、赤面必死の自意識を感じるこんな返答こそ、もっともキモいのではないだろうか。のちに大ファンであることがバレた場合、取り返しのつかないくらい引かれるのではないか。
この省察は、毎度神経をきりきり痛める、恒例の会話後反省会でじっくり行おう。
「あー、そういう感じなんだね。ちょっと残念」
「え?」
「私、」
と原田さんは淋しそうに言った。
「水樹晶ちゃんが、大好きなんだ。秋津くんのレベルじゃなくて、ファンクラブも入ってて、ブログも毎日チェックしてて、ライブにも一度行ったくらい。ほら、晶ちゃんって一般層には反感持たれがちだから、秋津君がファンって聞いて、嬉しくて話しかけたんだけど、そっか、そっか」
「…ファンです」
「え?」
ごちょごにょと口内でひしめき、結局彼女の元へ翔びたてなかった苦肉の告白、しかし、どうしてもこれだけはいわなければいけない、ぼくはない勇気をふりしぼって、自分のなんらかのダサいものに抵抗し、究極にみっともない前言撤回、それを再びおこなった。
「…ファンです。部屋にポスター貼ってて、CDは全部そろえてて、写真集は三冊買うくらいにはガチ勢です…」
「わあ!」
と原田さんは瞳を輝かせた。
恰好つけて嘘をついたぼくを責めもしない、なんていい子なんだろう。
「ねえ、秋津くんはXXXXって雑誌に表紙になってるの知ってる?」
「知ってる! 勿論買ったよ、あのなかのインタビューも読んだ! あのなかの、『私はちやほやされたくてアイドルになるひとを否定はしない、けれど私のモチベーションはそこじゃない』って言葉が印象に残ってて」
「解る! 晶ちゃんらしいよね。晶ちゃんって意外と我が強いけど、そんなところも好きなんだあ。こういう発言が一般層への誤解を生むんだと思うけど、自分に正直なところが愛しくて愛しくてー…! もうほんとかわいい、大好き!」
…幸福だった。
好きなものがかぶっているひととそれについて話すというのは、なんて心躍る時間を与えてくれるんだろう。しかも相手は、ぼくなんかとは話してくれないだろうと卑屈にも決めつけていた、いわゆる、かわいい女の子なのだ。水樹晶に片想いしているというのに、一途でもなんでもない男だな、しかも、いまの嬉しさを与える要素のひとつが、相手の容姿だなんて。ああ他人行儀な自己嫌悪。しかし、今の時間がとても楽しい。
昼休みを終えるチャイムが鳴った、ぼくにはそれが、めいっぱいにひろがる夢の花畑を忽然と閉ざした、黒々としたシャットダウンのようにおもえた。ああ。
「あ、終わりか」
と原田さんは言う。その後にっこりと笑って、こう言ってくれた。
「また話そうね!」
それから、たびたびぼくらは話すようになった。
ぼくが晶にガチ恋していることも、原田さんに伝えた。それくらいに、彼女を信頼しきっていた。
「え、そうなの?」
彼女は眼をまるくする、勢いのまま言った後で後悔、さっと血の気が引く、けれども原田さんは、
「うん、いいと思う。結ばれることはないだろうけど、誰が誰を好きになるなんて自由だよ!」
ほんとうにいい子だと思った。たまに、いい子すぎて怖くなるくらいに。
想えば、原田さんは教室でも極端ないい子でいて、課題を忘れて叱られているところなんて見たこともないし、いつもにこにこしている、誰かとの対立なんて無縁のようにおもえ、ぼくの言葉を否定したことも一度だってなかったし、ほんとうのあたたかい心をもった、優しくリベラルな女の子、おなじように優しく素敵なご両親に、いっぱいの愛情をうけて育ってきたんだろうな、そうかんがえていたのだった。
「この前さ、」
とぼくは切りだす。
「ネットの掲示板を見てみたんだけど、晶ちゃん、やっぱりアンチがおおくて、読むの苦しくてすぐ閉じちゃった。なんであんなに酷いことをいうんだろう」
原田さんといると、ぼくだっていいひとを演じ、仮面を被って彼女の美しさに近づこうとする。
「うん、ネットの掲示板なんて、見ちゃダメだよ。こっちが傷つくよ」
「そうだよね」
原田さんのように、ひとの気持を想像するタイプは、より傷つくのだろうとおもった。
「そういえばさ、」
と彼女も切りだす。
「なに?」
すこし考え込む顔をする。知性の象徴、梟をおもわせるような思慮深い表情、まるで瞑想さながら、彼女は、よくこんな顔をする。
が、それにくわえ、現在のその瞳に帯びる鋭い光りには、じつは肉食である梟のぞっと野蛮な眼光とも重なるほどに冷たいものが、這い寄るように帯びてきていたのだった。
いま、彼女はなにをかんがえているのだろう、おそろしさに、ぼくは身構えた。
「初めて話した時、」
視線は自分の膝に落とされ、しかし、不穏な空気が辺りに漂っているのは、それでも解った。
「どうして、晶ちゃんの大ファンじゃないって、嘘ついたの?」
冷たい沈黙が、さっと周囲に張りつめた。ぼくはいまにも逃げだしたかった。
「…えっと、」
「うん」
「あー…」
「…」
「ほら、引かれたく、なくて」
眼から光りが抜け落ちていた、がらんどうの瞳、まるで、冷たい砂漠のよう。
不意にふだんの柔らかい表情に戻る、そして、にっこりと愛らしく微笑した。
「そっか。男の子だもんね。ううん、いまの気にしないで」
都心に期間限定の、プラトニック・スキャンダルの公式ショップができた。
ぼくは原田さんに、一緒に行こうと誘われた。ぼくがどう答えたかは、いわずもがなである。
「お金ある?」
と訊かれたので、
「実は夏休みに、ライブに行くためにアルバイトしたんだ! それに行くとしても、一万くらいは余裕あるよ」
「えー、いいなあ。頑張ったんだね。私はお小遣いの残りしかないんだよね。少し親に余分にもらえないかなあ。前借でもいいから」
「お父さんに頼んでみたら?」
「私、お父さんいない」
不意に、静かな口調になる。
「そっか、でもマックとかなら奢れるよ!」
「えー、いいよ。そういうの苦手。奢るのは彼女とかにして」
「一生できないよ」
ふふ、と原田さんは笑った。
「秋津くんなら、いつかできるよ。でもその前に、晶ちゃんへのガチ恋を終わらせなきゃね。アイドルに恋してるのに彼女いるとか、そういうのは最低です」
ここ最近、軽口も叩いてくれるようになり、ぼくをやや突き放すような言い方もふえてきた。
ぼくはそっちのほうが気楽だった、悲しいことに、あまりひとから尊重されない人生、せいぜいがいじられキャラ、そういう扱いのほうが、十七年の生活ではるかにおおかったので、軽口にどう返せば良いのか、それだけは知っているのである。なにより、彼女とごくふつうの友人っぽくなれたこと、それがぼくには嬉しかったのだった。
そうであるのに、彼女のスカートから伸びる白い脚に惹かれる自分がいかにも不快で、嫌悪して、その態度に安堵して、しかしそれに安堵するのはずるい、そう責めたてて、いちいちその一連を自責し、独り悶えていたのだった。
「じゃあ、二十七日の十一時に、XX駅で待ち合わせね」
「お待たせ」
ぼくは二十分前にまちあわせに辿り着いたのだけれど、原田さんは、もうすでにそこで待機していた。
「早いね。いつ来たの?」
「さっきだよ、大丈夫」
古典的なカップルの会話のよう。晶、ごめん。今、ぼくはときめきました。
ぼくらは電車に乗った。都心に行くなんて、久しぶりだった。
「いつぶり? XX市に行くの」
「えー、三か月くらい行ってない!」
「うち、課題多いもんね。遊べないよね」
とぼくが愚痴を洩らすと、
「けっこう、写すひとおおいよね」
また、冷たい顔をしていた。
「いるいる」
「平気でそんなことできるひと、信じられない」
いまの原田さん、それはそれで素敵だとおもった。貴女の冷酷な道徳性は、拒絶の水晶さながらに美しい。
電車を降りて、十分歩くと、駅前のビルにたどり着く。このなかに、期間限定の公式ショップがある。
「ドキドキしてきた」
「分かる」
ショップでは大はしゃぎした。こんなに楽しいのは、人生で初めてかもしれない、そうまで思った。晶ちゃんがいっぱいいる! しかし、原田さんの顔ばかり見ていたような気もする。一人じゃ、ここまではしゃげなかっただろう。もう、原田さんのことすこしは好きなのかな。けれども晶ちゃんのこともまだ好きだ、また、恒例の自己嫌悪。
十二時半くらいに、ファミレスに入った。話はショップのこと、購入した商品のことでもちきりだった。見せ合ったりもした。
不意に沈黙になる。すでに沈黙が、気まずくなかった。
「…あのね、」
原田さんは小声でつぶやいた。
「聴いてほしいことがあるんだけど」
「なに?」
とぼくは返した。
神妙な雰囲気。また悪意を曝け出してくれるのかな、と期待していた。
しかし、つぎの言葉は夢にもおもわなかった、いや正直にいえば妄想はしたことある、そんな、非現実的きわまるそれなのであった。
「私、秋津くんのこと、好き」
「え…」
表情がこおりついた。こんな漫画のような筋書が、現実にあるだなんて。
まだ、全然信じられなかった、ぼくは、とりあえず訊いてみた。
「えと、どこが好きなの? ぼく、女の子に好かれる要素ないとおもうんだけど…」
「秋津くんの、男性であることへの罪悪感が好き。かわいい」
「え?」
恐ろしいことを言われたような気がした。
「私ね、男のひと嫌いなの。みんな性欲の奴隷だとおもってる。なんで制服を着てる私にナンパするわけ? 「ジェイケー」ってなに、私たちは商品の記号ですか? たいていの男は自分のことしかかんがえていないし、他者にこうむらせる迷惑への配慮が足りない。路上喫煙するひとって、ほとんど男性じゃない?
男って知らないのかな、私たちの躰を眺めまわす、あの舐めるような独特の視線、品定め、価値の見極め、女子は、みんなこれに気づいてるんだよ」
「…あの、」
「なに?」
彼女の言いたいことは、解る気がした。
だって、なによりぼくがそうだ、そういう自分を、ぼくは大キライで、しかしきらえる自分は、自己を肯定しているひとよりも道徳的に優位に立っているとおもっていて、自己肯定なんてしたくない、ずっと罪の意識にくるしんでいたい、そっちのほうがナルシストでエゴイストなのは解っているけれども、むしろひとに迷惑をかけがちだとおもうけれど、しかしずっとそう生きていようと決意していて、そんな自分の優越感、汚さ、醜さだって、いやでいやでしょうがない。
「ぼくも、原田さんの脚見てたとおもうんだけど」
「うん、勿論気づいてる」
突き放すような口調、けれども彼女の表情は、いつもどおりの優しいそれに近かった。
「でもね、秋津くんは、一瞬だけつい見ちゃって、さっと顔を離して、眼だけじゃなくてあからさまに首ごとうごかすからより解りやすいんだけど、そのあと、泣きそうに顔をくしゃってさせて、自己嫌悪するでしょ。そういうのはかわいいし、まだ、誠実なほうだとおもう」
「え、そうなのかな」
ちょっと自尊心あがった、その後、いそいで彼女の言葉の批判点を探した、あ、もしかしてこういうところなのか。
「でも、ぼくにだって性欲あるし、原田さんがキライな男性とまったく同じで…」
「秋津くんは自覚してるでしょ。批判してるでしょ。自分の汚さと、醜さを。それならいいの。自覚して抵抗してたら、赦されると私はおもってる。世の中の人間、まあ、いわゆる大衆? 多数派の価値観に埋没し、それを、疑いもしないひとたち。それから、眼を背けてばっかり。都合の悪いニュースは見ようともしない、自分の悪と対峙しようとしない。自覚してほしい、自分のけがらわしさを。自己欺瞞。だいきらい。私はきちんと私が大嫌い。学校の自分のキャラがキライでキライでしょうがない。たぶん、秋津くんと私、似てるよ。そっくりだと思う。それが嬉しいと思ってる。
私モテるよ、でもね、私のことを好きな男は、みんな私の役が好きなの。優等生。優しい。黒髪ロングで色白。スカート丈は長め。けれどもそれは演技です、残念でした、役はあくまで役であって、そこに私はいないんです。そして付き合うと、最初は誠実そうにふるまってたくせに、必ず、ああいうことしたがる。それがしたくて付き合うなら初めに言えよっておもう。みんな「ねえ、処女?」って訊くし。この顔で処女なわけねえだろ糞野郎」
ゆるされはしないとおもう。しかし、それを言えなかった。
彼女はこういう考え方を含めて、ぼくに好きになってほしいから、いまこうやって憎悪を曝け出しているのかなと推測した。ぼくに都合のいい解釈だけれど。
はげしい口調で毒づきつづける目の前の女の子は、いったい誰だろうと疑った。これだけが本質なのかも解らなかった。人間の本質なんて、実はたくさんあるのかもしれない。けれども、なんだかこの冷たさ、残酷さが輝かしかった。
そして、いま彼女の言った考え方はやっぱりぼくのそれと似てはいて、なぜお互い、自分に正直で傷つきやすそうな泥くさい水樹晶が好きで、晶ちゃんを認めない世の中への、冷笑をオブラートでつつみ隠したような批判の会話で共感し合えて、一緒に出掛けられるくらいに仲良くなれたのか、いま、解った気がした。
「あの、さ」
「ん? なに?」
愛らしい笑みを浮かべている。教室の天使のような顔とも違う、こんな顔初めて見た、とても、かわいかった。
「えっと、付き、合う…でいいの?」
「は?」
ぞっと不穏な暗闇が張りつめた、闇にほうっと浮ぶ氷の滝、それが、神経の隅々にまでどっと流れ込んできた。キリキリと痛む。凄い勢いで空気を変える女の子だ。
「なに言ってるの? 秋津くんは晶ちゃんが好きなんでしょ? え、いまの信じられない。やっぱり、他の男と同じじゃん。そんなひとだと思わなかった」
バン、と机をたたく。怖い。ふるえるぼくを置いて、彼女がバッグを取り、さっと立ちあがった。
「さよなら。もう話しかけてこないで」
次の日の朝、原田さんからラインが来た。
「昨日はごめんなさい。どうかしてました。これからも友達でいたいです。もう許してくれないかもしれないけれど、これからも、秋津くんと晶ちゃんの話がしたいです。ごめんなさい、また話してくれますか」
どうかしてました、この言い方、卑劣だとおもった。
ぼくはその時返信しなかった。自分のなかに、冷たく撥ねかえすような残酷な心のうごきを感じた、やはり、ぼくらは似ているのかもしれなかった。
教室に這入ると、原田さんが駆け寄ってきて、しばらくなにもいわず、不意にじわと涙目になり、「ごめんなさい」、そう呟いて、ぱっと廊下に走り去る。もうすぐ朝礼、真面目な学生をやりたいのなら、すぐに戻ってこなきゃいけないのに。なにやってるんだろう。
しかし原田さんは、そのまま教室に帰ってこなかった。
一週間が経った、彼女はずっと登校していなかった。話したこともないクラスメイトたちが、悪趣味な興味でぼくに成行きを訊いてきたけれど、ぼくはそれを無視しつづけた。
彼女の家の前にいた、インターフォンを押す。
母親らしき女性が出た。上品な服を着ている。
「唯の友達?」
「はい」
「あら、」
と柔らかく微笑む。
「入って。唯も喜ぶわ」
優美なひとだと思った、原田さんに、どこか似ている。
原田さんの部屋に入った。彼女は部屋の隅でうずくまり、なにか本を読んでいた。ぼくへちらと視線を投げる。
「何読んでるの?」
ぼくが訊くと、
「何でもいいでしょ」
と、初めて聞く、こもったような、低く冷たい声で突き放した。ちょっといいと思った。みょうに色っぽい。ぼくは、低い声の女性が好きだ。
「太宰の『駆け込み訴え』、」
呻くように彼女は言った。
「憧れ。キリストが好き、愛されたい、かれみたいになりたい、かれのように生きてみたい。けれども自分はキリストみたいになれなくて、キリストは自分を愛してくれなくて、憧れに届かなくて、だから裏切り、破壊する。解っちゃうな。どこまでも解っちゃう」
「ぼくも好きだ、太宰の小説で、一番好きだ」
「ねえ、太宰って、無償の愛に憧れてたのかなあ? だから自分のあざとさや、エゴが憎くて、そればっかり責め立てて、気づいたら人間普遍の弱さやエゴを明るめちゃってて、そうなんじゃないかな。ユダはキリストを殺した、いや、他人の手によって殺させた。けれど太宰は、結局無償の愛への憧れを殺せなかったんじゃないかな。悲しいよね、悲しいよね」
そして顔を蔽い、おいおいと涙を流し始めた。
「生きるのがくるしい、ただ在るだけで、なにかが、神経か何かが、痛くて、痛くてたまらない。生きるって痛い。大衆なんて言葉を使って、自分の弱さに選民意識もって、逆恨みして、そんな自分が嫌で嫌でしょうがない、後ろめたい、壊したい、自分を壊してやりたい、人形になりたい、痛みさえも拒絶する、完全な美しさをもった冷たく硬いものになりたい、それか魂だけのキレイな存在になりたい、せめて死にたい、セックスなんてしなきゃよかった、処女のまま死にたかった、ああ、ああ…」
「うん、そっか、そっか」
弱いひとというのは、とぼくはおもう。
ぼく含めて、みんな、似ている。弱さほど無個性なものなんて、実は、ないんじゃないか。
「秋津くんは優しいね、」
と彼女は言った。
ぼくはこの言葉に、いつも傷つく。自分の優しさもどきの根底にある臆病さ、無精さ、損得勘定、あるいは尊大さ、それが、大キライなのだ。優しいとおもわせる態度が、憎たらしいのだ。
「優しくないよ、」
とだけ言っておいた。
「ねえ、秋津くん」
と訊かれた。
「なに?」
また神妙な雰囲気だった。
「私のこと、愛してる?」
じっと、ぼくの眼を見ていた。
「愛してないよ」
とぼくは言った。好きではあった、しかしぼくには、いやぼくらには、愛の言葉の意味は重かった。
「それなら、」
少女は力なく呟いた、砂が崩れおちるような、そんな、まっしろな声だった。
「もう、関わらないで」
晶ちゃんが脱退した。卒業ではない、脱退だ、そう本人が強調していた。晶ちゃんらしい自意識だと思った。こんなところが好きだった。これからは、女優として活動していくらしい。そうか、とだけぼくはおもった。彼女が、彼女の生きたいように生きていくならば、それをぼくが、どうこう言う筋合はないのだ。ぼくはしかし、なんだかアイドルではない水樹晶に興味が持てなくなり、恋愛感情はいつ霧消していたのだろう、CDやグッズを売って、売れなかった分は棄てた。
原田さんはまだ学校に来ない。彼女とショップで買った分は棄てるか迷ったけれど、自分の未練がましい性格を知っているから、敢えて、ゴミ袋に放り込んだ。
三色菫と男ぎらい