死を望む少女と、終わらせる少女
「貴方は今の世界に満足している?」
制服姿の少女——来夏は、目の前の少女に問う。
「よく分からない。世界って?」
問われた同じく制服姿の少女——澄花は問い返した。
それに来夏は優しく、微笑みながら答える。
「世界は世界だよ。貴方と、貴方を取り巻く全て。それを世界と言うの」
「それに私が、満足しているかどうかってこと?」
「そう」
澄花は口を閉ざし、しばらくの後、再び口を開いた。
「満足はしていない。と思う。けど良いこともあるから、私は好きだよ。今の世界」
澄花の答えに来夏の表情は、どこか寂しさがあった。
ただどこか、嬉しそうでもあった。
夕暮れ時の校舎の屋上は、そこだけ切り取られたか、あるいは置き去りにされたように美しさを保ち続けていた。
しかしそれはやはり幻想に過ぎず、時間は否応なく進み、いつかは終わる。
「そっか。貴方はそっち側か。でもよかった。ねぇ、お願いがあるんだけど聞いてくれる?」
「なに?」
「私、死のうと思っているの。でも自分だとできなかった。何回も試したけど、ダメだったの。『この体は死を拒み、生を強要』してくるの。知ってるよね? 今世界中で、そういう人が大勢いるのは」
「うん、知っているけど、まさか・・・・・・」
「そのまさか。だよ」
澄花は驚きと、突然の告白で言葉が続かなかった。その間も来夏は話を続ける。
「私はさ、知りたいんだ。死んだ後を。人は死んだ先で何を見るのか、何があるのか。それを確かめたいの。そして、それを可能にできるのは貴方、澄花しかいない。私の唯一の親友。そして、『私を終わらせることができる人』」
来夏は言い終えて、左手にずっと持っていたナイフを右手で鞘から抜き、ナイフを一度握った後、左手は刀身で、持ち手部分を澄花に向けた。
「受け取ってくれる?」
俯いていた澄花はそう言われ、顔を上げる。
その瞳が捉えたのは、鈍色のナイフ。
それが意味することは明白だった。
「ねぇ、冗談だよね?」
「本気だよ。表向きには報道されていないけど、この『呪い』を解く方法があるの。それはね、『呪われた人間が一番想う人、その人に殺される』こと。それで初めて死ねるの」
「それ以外は、何をやっても生き返るってこと?」
来夏は無言で頷いて、それを答えとした。
「貴方には——いいえ、誰にとっても酷なのは分かっている。これは究極の身勝手。でも貴方にしか頼めないの。私ね、貴方が好き。親友として、一人の人間として好き。だから、貴方になら殺されても構わない。むしろ、貴方以外に殺されたくない。そんなのは、死ぬことより嫌なの」
来夏の言い方には、確固たる意志があった。
澄花は彼女を見つめる。とてもこれから死のうとする人間には見えないほど、彼女は穏やかな表情をしていた。
「ずるいよ。そんな顔を向けられたら、断れないよ・・・・・・ねぇ、教えて? 来夏の中に、まだ生きたいと思う余地はある?」
「ないよ。だってそうでしょ? この先に希望があると思う? この先何十年と生きて、うぅん、今の私は永遠に近い時間を生きていく。そんな果てに何がある? 答えは無いの。何も無いの。『自分』を上塗りし続けて、重ね過ぎた『それ』は、もはや自分だったなにか。そんなのに成りたくない。澄花はなりたいの?」
「知らない、分からない。そうならない可能性だって、あるかもしれない。自分を、周りを否定して、諦めるフリをしているだけじゃないの? 生きるのって、そんなに辛いものなの?」
澄花の言葉に、来夏の表情から温度が消えていく。
「辛いよ、とても。少しずつ『私』が削がれていく感覚がいつもして、痛いの。そんな感覚のまま、『大人』なんて都合のいい傀儡に成り下がりたくないの」
陽が傾き、二人の影が伸びる。
生きていく者と、生き続けていかなければいけない者。
今や世界は、はっきりと二つになっていた。
人々は自分達の身に起こった不可解、不都合な現象に戸惑い、狂気、歓喜して、少しずつ混沌と終末に踏み出し始めていた。
原因が見つかり——見つかっても対処法があるのか、あって間に合うのか、誰も分からずにいる。
それが今の有様。そしてそれは、二人の少女も例外ではなかった。
「来夏?」
澄花は彼女に声を掛けた。
「・・・・・・平気、だよ」
来夏の言葉に、澄花は決めかねていた。何が平気で、何が平気じゃないのか。
ただ一つ明確なのは、目の前の少女は助けを求めていた。
だからなのか、澄花は来夏に自然と足が向いた。
そして抱きしめる。壊れないように、崩れないように優しく。
「来夏。さっきはごめん。私、分かろうとしなかった。でももしかしたら、来夏は怖かったのかもしれない。周りの大人がそんな人達ばかりで、いずれ自分もそうなってしまう。自分ひとりじゃどうしようもできない、大きな何かに飲まれる。そんな言いようのない恐怖の影がいつもいて、それから逃げたい。そんな感覚、私もあったから」
「・・・・・・貴方の妄想が正しいとして、それがどんなに私を苛めたか、貴方には分からない」
来夏は澄花に抱きしめられながら、硬い声音で言い返した。
「分からないよ、教えてくれないと。だから教えて?」
返ってきた言葉に来夏は驚いて、顔を上げる。
見上げてくる来夏の顔が、さっきまでの自分と同じ表情だったので、澄花は思わず、くすっと笑った。
「来夏は周りに振り回されても、抗おうとする強い意志がいつもあった。私だったらとっくに諦めていることでもそう。そんな来夏が無理なら、私じゃお手上げだよ。だから教えて? 来夏の全部を。痛み、苦しみ、辛いこと、嬉しいこと、悲しいこと。私も来夏に、私の全部を教えるから。そうすれば無理なことでも、二人ならどうにかできそうでしょ?」
そして。と澄花は言葉を続ける。
「来夏の願い事、私でいいなら聞かせて。叶えられるか自信はないけど、可能な限りは応えるから」
来夏から体を離し、彼女がずっと左手に掴んでいたナイフの持ち手部分を、右手で握り、受け取った。
見た目から想像する以上の重さが、両手から伝わる。
そして冷淡に輝く刀身は、澄花に告げる。
『これからお前がやろうとすることに、覚悟はできているのか』
澄花は全身から血の気が引いていくのを感じた。
はたして、これが最善の選択なのか。
これで、目の前の大事な友達を苦痛から解放できるのか。
何が正しくて、何が間違いなのか。今の世界はそれすら曖昧になりつつある。
そんな惨状で信じられるのは一つ。それは「自分」だけだった。
だから澄花は自分に問い、答えを出す。
(何も違わない。これでいいんだ)
そんな葛藤をしていた澄花を見て、来夏は感謝と謝罪を述べた。
「ありがとう。そしてごめんなさい。澄花」
「謝らない。さっきも言ったけど、来夏の願い事は可能な限り応えるって決めた。でもごめん。まだ来夏を・・・・・・するのは無理。だから一旦最初の願い事以外なら、叶えるのはどうかな? 今すぐじゃないとだめ?」
そんな澄花の言葉に来夏は笑い、目尻に涙を浮かべる。
「ふふっ、やっぱり澄花らしいね。いいよ、最後でも。でもそうなるとなぁ・・・・・・あ、じゃあ一回下りて、下駄箱近くの自販機で飲み物を買ってから、少し歩きたいかな」
「分かった。その前に、ナイフをしまう物をくれる? さすがに抜き身は怖いんだけど」
「あるよ、はい」
来夏は腰に差していた革製の鞘を澄花に手渡した。それを澄花は受け取る。
「ありがと。それにしてもこのナイフ。結構本気? の物だよね。どうやって手に入れたの?」
澄花はナイフを鞘に収め、腰に差しながら聞く。
「秘密」
しかし来夏は唇に人差し指を当てながら、いたずらっぽくはぐらかした。
一階の下駄箱まで下りてきた二人は、自販機の前にいた。
世界がしっちゃかめっちゃかになっているとはいえ、今日明日終わるではなくて、細々と人々の生活は続いていた。
であれば、電気もまだ辛うじて通っているので、自販機もこうして動いていた。
「何飲む?」
来夏が澄花にそう聞く。
「自分で買うからいいよ」
「一回くらいはおごらせて。これもお願い」
来夏がそう懇願してきたので、澄花は応えることにした。
「じゃあ、コーヒー。微糖のやつ」
「私もそれにしよう」
来夏は420円を自販機の硬貨投入口に入れた。
ガコン、と人気のない校舎に缶が落ちる音が響いた。
「はい、どうぞ」
「ありがと。それにしても高くなったね。自販機のコーヒー」
「数年前から中南米辺りは、食料と真水問題で内紛が絶えなくて、国内に入ってくる原料の豆が少なくなっているの。そのおかげで元々嗜好品のコーヒーは、もっと貴重品になっているんだって。だからこうして自販機で買って飲めるのは、本当にありがたいことなんだよ。もちろんコーヒー以外も少しずつ不足し始めているところに、この騒ぎでしょ? だからこの一本が、最後の一本だと思って飲まないとね」
来夏はプルタブを引き開け、口を付けた。
「来夏は物知りだね。私は知らないことだらけなのに」
「武器は多いに越したことはないでしょ? それと一緒。生きていくための武器。私にとって知識がそれ」
「そういうものなの?」
「そういうものなの。それに、自分より他人の方が、自分を知っていたりするの。澄花は意外に頑固とか」
「え? そう見えているの?」
澄花は意外そうな口ぶりで、来夏の言葉を聞いた。
「ほら、知らなかったでしょ? 貴方は『こうだ』と決めたら、中々譲らない。さっきだって私の願い事を叶えるって決めたら、頑として譲らなかったでしょ?」
「た、確かに」
「でしょ?」
来夏のもっともな言葉に、澄花はどうにか反論しようとあれこれ思い出して、言い返す。
「えと、えと、じゃあ、来夏は、あ! 強引だ! 結構強引! あと、人の話を聞かないことがある!」
「そう?」
「そう! いつも一方的に話して、それで満足してこっちの話を聞かない! しかも小難しい言葉まで使うから、余計に置いてけぼりにされる!」
「それは澄花が勉強不足なだけじゃないの?」
「それから、今みたいに小馬鹿にするところ!」
「ふふっ、私のこと、よく見ているね。澄花は。だから好き」
来夏の不意打ちの言葉に顔を真っ赤にする澄花。
「なっ!? ら、来夏のバカァァァ!」
静寂に響く二人の会話は、闇夜を照らすランプに似ていた。
そうしてあてもなく住宅街を歩いていたら、気付けば無言になっていた二人。
住宅街は空き家が目立ち、明かりが灯っている家は少なかった。
電力供給がされているとはいえ、不安定になりつつあるので、夜間は公共施設を除き電力供給が止まる。なので、各家庭ごとで自家発電設備を持ち、それで夜間の電気を賄っていた。
一方で、そんな状態になったからこそ見える景色もある。
快晴の夜、夜空一面に宝石が散らばっているのを見ることができる。
そして今まさに、二人の頭上にはそんな景色が広がっていた。
「綺麗・・・・・・」
「すごいなぁ」
来夏と澄花は、見上げた光景に圧倒されていた。
「でも少し、怖くも感じるかな」
「怖い?」
澄花の左横、来夏を見る。
彼女は変わらず夜空を見上げているが、その表情は寂しげで、憂いを帯びていた。
「うん、怖い。だってこんなに無数の星が、この宇宙全てではないんだよ。今夜空に見えているのは、天の川銀河の星々の更に一部。実際は途方もない数がまだ存在するの。それを改めて知らされたと思うと、怖い」
来夏の表情は更に険しくなる。
「そうか、怖いか・・・・・・ねぇ、来夏。私は逆で、嬉しい。この世界が、この街が正常だったら、こんな景色をこんな場所で見られなかった。いつもの無機質な夜が、いつもと変わらずにあるだけ。でも実際はそんなことはなくて、神様かは知らないけど、終わりゆく私達にせめて『目で見える物は全てではなくて、見えない物も確かにあるんだよ』って教えるために見せてくれたのかなと、私はこれを見て思った」
澄花は頭上の星空を射抜くよう、真っ直ぐ見つめながら、語った。
それに何か思うところがあったのか、来夏の表情は明るさを取り戻し、優しく微笑む。
「そっか、そっか、やっぱり澄花だね」
「ん? なにか言った?」
「別に。それより澄花。追加のお願い、してもいい?」
「うん。いいよ。なに?」
「手、つないでくれる・・・・・・?」
「え、え?」
頬を淡い朱色に染めながら、澄花に向き合う来夏。
それに対し、困惑の灰色を浮かべる澄花。
「だめ・・・・・・かな? それとも同性だから、嫌?」
「あぁ、えと、いいよ? はい、どうぞ」
澄花から来夏に手を差し伸べ、来夏はそれを握った。
彼女の細くて温かな手を、澄花は握り返した。
「澄花の手、あったかい。それにしっかりしているね」
「私は、来夏みたいな女の子らしい手が好き、かな」
澄花は照れながら言う。
来夏はそんな澄花を見て、「ふっ」と笑みを溢した。
「それと、行きたい場所があるんだけど、行ってもいい?」
「どこ?」
「糸枡山の展望台。最後だから、この街全部を貴方と見てみたい」
「糸枡山かぁ。ちょっと遠いけど、いっか。うん。行こうか。それより足、大丈夫? 疲れてない?」
澄花の心配に来夏は笑顔で答える。
「大丈夫。トレッキングブーツを履いてきているから」
澄花は来夏の足下を見る。
確かにがっしりとしていて、無骨なブーツを履いていた。
華奢な来夏の足に似合わないそのブーツを見た澄花は、心配が更に募った。
「なんか重そうだけど、本当に大丈夫?」
「見た目は重そうだけど、履けば意外と軽いの。それに、ある程度重くないと足下がふらついて、逆に疲れるの。だから心配しなくても平気。それより澄花こそ問題ないの? スニーカーで」
「モーマンタイ。と言いたいけど、山に登るのは想定外だったから厳しいかも。でも何とかなるよ」
「もーまんたい? どういう意味? それ」
へ? と来夏の顔を直視して、驚いたままの表情で澄花はフリーズした。
来夏は同年代の中でも、ずっと多くのことを知っていて、知らないことのが少ないと澄花は思っていたが、来夏が知らなくて、自分が知っていることもあるのだと、澄花はこの時知った。
同時に「モーマンタイ」は、もはや大昔の言葉で、知っているのは学者か、古いサブカルオタクのみにしか通じない言葉になってしまったのかと、澄花は少し落胆した。
ちなみに彼女が知っていたのは、彼女の母親がしょっちゅう言っていたからである。
「『問題ないよ』って言い方を一世代前の人達は、そう言っていた。いつ言い始めたのかは知らないけど。ちなみにカタカナで『モーマンタイ』。語源はどっかの国の言葉だった気がする」
「『モーマンタイ』か。覚えておくよ」
「使い時はほぼないけどね。さ、行こう」
澄花が手を引いて先に歩み出す。
それに遅れる形で、来夏が進んだ。
糸枡山の登山口はいくつか存在するが、まず「糸枡神社」と呼ばれる神社に向かう。
山の中腹辺りにある境内へ向かう参道には3つ鳥居があり、参道中間あたりにある2つ目の鳥居から登れるルートが「神社ルート」と呼ばれる、そこそこ本格的な登山道のコース。
糸枡山自体は標高800メートルちょっとの山で、登山道は整備されているため登りやすい山だが、所々歩きにくい箇所もある。
しかしルートによっては、頂上まで車で行けたりもする。なので地元の人々はそこを使い、夜景や日の出を見に行っていた。
「糸枡神社から登るのか。あの道、結構きつくなかったっけ?」
「私、神社から登るの初めてで、きついとかよく分からないの。ごめんね」
「あぁ、気にしないで。小さい頃、神社から両親と登った時に、あまりにもきつくて泣いた記憶があるから、それ以来避けていた。それぐらいきつい登山道なんだよ、神社ルートは」
「そうなんだ。でも今登ったら、その時とは違うかもしれないよ?」
「多分。いや、きっと違うだろうね。なにせ、心強い味方が今はいるからね」
「違う?」と言いながら、来夏の顔を澄花は下から見上げた。
来夏は恥ずかしいのか、嬉しいのか、視線から逃げるように顔を背ける。
だが、耳まで赤くなっていたのは隠せなかった。
「耳、赤いよ?」
澄花は心配そうに尋ねる。
「・・・・・・不意打ちはずるいよ」
なんだ、そんなことか。
澄花は要らぬ心配と同時に「いつもの仕返し」と言い、してやったりの顔を浮かべた。
「仕返しって言うなら、こうするよ」
言うが早いか。澄花の右腕にまとわりつくように、来夏はしがみついた。
「なっ、何やっているの!? 来夏!」
「抱きついているの。見れば分かるでしょ?」
澄花にぴったりと来夏が抱きついているので、澄花は自分の熱か、彼女の熱か曖昧になっていた。
「暑い! 離れろ!」
「やだ」
「子供か!」
「私は子供だよ。澄花は違うの?」
悪気のない物言いと、透明な黒の双眸で見上げてくる来夏に、振り回されっぱなしの澄花は大きいため息をつき、頭を掻いた。
「子供だよ。来夏と同じで何もできない、何も知らない。泣いて、怒って、笑って、そして理不尽な現実に弄ばれる、無力な存在。でも同時になんでもできる。何者にもなれる可能性の塊。来夏がいつか言ってくれた『今の私達は無色透明なんだよ』ってのが、今の私。ならさ、今のまま大きくなってやろうじゃないの」
来夏の問いに答える澄花。
だが来夏は、急に真面目になった彼女に驚き、猫のように目を見開いた。
「・・・・・・びっくりした。急に澄花が真面目になった」
「あれ? そういうつもりだと思ったけど、違うの?」
「まぁ、違わないけど。ま、いっか」
一人納得した来夏は、更に澄花にしがみつく。
「だぁ! 離れんか! この妖怪め!」
澄花はただ抗議の声を上げるだけで精一杯だった。
そんな道中を経て、糸枡山の麓に着いた。
二人の目の前には、赤い大鳥居がそびえ立っていた。
そこが「糸枡神社」の入り口。そこから坂道が続き、境内へと至る。
「神社までは緩いけど距離があるから、ゆっくり行こうか」
「うん」
二人は大鳥居を潜り、参道を歩き始めた。
大鳥居から30分かけて、境内前の階段に辿り着き、それを登りきった先の拝殿の前で、二人は参拝をした。
「来夏は何をお願いしたの?」
「内緒。大したことじゃないから。それと、願い事は言うと叶わないらしいよ」
「そうなの? じゃあ、私も秘密にしておこうかな」
「ふふっ、叶うといいね」
「だね。さて、登りますか」
境内を後にして、元来た道を2つ目の鳥居まで下る。
そこから左側に登山道が続いていた。
道は細く、足場は整備されているとはいえ、舗装まではされていない。なので所々歩きづらかった。
そんな道を、澄花を先頭に進む。
「暗いなぁ。ペンライトでも持ってくればよかった。来夏、大丈夫?」
後ろを振り返り、彼女の様子を確認する。
右手に持っているスマホのライトを照らしながら、来夏は歩いていた。
「私は平気。スマホの明かりがあるから。澄花こそ平気? 何も点けていないように見えるけど」
「私は『Retina』を着けていて、それで明度補強しているから平気」
「使っているんだ、それ。私は嫌いだけど」
「まぁ、視力が悪いに加え、若干色盲もあるからこれを使わざるを得ないんだけどね。おかげで助かってはいるけど」
「Retina」。
視覚、視力補助および補強の医療器具。
これには眼鏡型とコンタクトレンズ型があり、使用率は眼鏡型が多い。
理由は色々だが、一番は「機械なんかを眼球に入れたくない」が多数を占めていて、2052年になってもまだ人は機械を体に入れることに、抵抗を覚えていた。
しかし、昨今の終末騒動で製造メーカーは数を減らし、使用者も少なくなりつつある。
澄花が使っているのは、一般的な眼鏡型ではなく、コンタクトレンズ型だった。
ちなみにコンタクトレンズ型はソフトレンズで、使い捨てである。
「ただ困ったことに、これを作っているメーカーが生産を止めたから、後はストック分しかないんだ。まぁ、なくなってもなんとかなるかな」
「それを着けて見える世界は、澄花にはどう見えているの?」
道が少し広がり、来夏は澄花の左横に並ぶ。
来夏は少し夜闇に慣れた目で澄花を見る。
「綺麗、だよ。私が見ていた物の色が本当は違ったり、ぼやけて曖昧な世界を鮮明に見せてくれて、『あぁ、世界はこんなに色鮮やかだったのか』を教えてくれたから、これを作ってくれた人達には、ありがとうと言いたい」
「私は? 『Retina」を通して見える私は、どう見えているの?」
そう問われ、澄花はしばらく考える。
そして、あることを思い出した。
「初めて『Retina』を着けた日だった。放課後、来夏と図書室にいた時に、来夏は窓際の椅子に座りながら外を眺めていた。その時たまたま逆光になって、透き通る空の青さが、凄く綺麗に輝いていた。それを背景にした来夏との組み合わせは、絵画から飛び出したみたいで、生まれて初めての衝撃だった」
澄花は一度言葉を切り、来夏を見つめる。
「その瞬間、私は来夏に惹かれた。『この人をもっと見たい。特別な一瞬も、普通の一瞬も見たい。知りたい』そう思えるきっかけだった。つまり私から見た来夏は、普通で特別な人」
「特別・・・・・・」
その言葉を何度も言われてきた。
だが言葉は発した者次第で、意味が紙同然の薄さにもなる。
意味を伴わない言葉は、ただ素通りをするだけ。
来夏は今まで人を懐疑的に見てきた。
だから澄花がその言葉を使った真意を探った。
そして、得た答えは——
「澄花は隠し事が下手だったね。そういえば」
「? なにが?」
「別に」
慣れない登山、不安定な足場、暗さ。それらが二人を阻み、頂上に着いた頃にはすっかり汗だくになっていた。
「いやぁ、なんとか着いた。途中でケガでもしたらどうしようかと思ったけど」
「私がケガをする分には問題ないよ」
「いやいや、ダメだよ。他の人がケガをしているのを見たら、私まで痛くなるから。五体満足が一番だよ」
「そうだね。ごめん」
「いいよ。それより展望台、行こ」
「うん」
「糸枡山 山頂 847メートル」と書かれている立て札から、少し奥まった場所に展望台はあった。
足場は木製でそれを囲むように、アーチ状で金属製の手すりが備わっていた。中央には木製のベンチもあった。
「どう?」
澄花は来夏に感想を求めた。
「変わらないね。やっぱり」
来夏はそう答えた。
「まぁ、街中歩いていて思ってたけど、こう見渡すと暗いなぁ」
二人の眼下には、ぽつり、ぽつりとしか人口の明かりはなかった。
「それでもまだ、灯は消えていない。それは人々が生きている証左。でもこの先の世界がどう歩むのか、誰にも分からない。このまま終わるのか、何か回避できる方法が見つかるのか。『私達』は答えをまだ持ち合わせていない。だから私が、それを最初に示す。私自身を賭して、この世界に」
遠くを見据える来夏。その双眸には、真冬の冷気に負けない「熱」が確かにあった。
澄花も来夏と同じ方向を見やるが、そこには街並みしか見えなかった。
それよりも澄花は、来夏のさっきの言葉が引っかかっていた。
「示す? どういうこと?」
「澄花にナイフを手渡した時に、こう言ったよね?『一番想っている人に殺されること』って。あれはね、確立された方法じゃないの。あくまでも、『呪い』に対するカウンターになる可能性の話。そもそもこの「呪い」は、自ら死ぬ意志に作用して、外部からの意志には作用しないの。でも条件があって、『呪われた対象が「この人になら、殺されても構わない」と思う人に殺される時のみ作用しない』。つまり、それ以外の人が殺そうとした場合も『呪い』は作用する。ここまでは理解できた?」
「なんとなく?」
澄花はぎこちなく答える。
来夏はそれで良いと思い、話を続ける。
「ただこれは、どこかの研究機関や国が発表した結果ではなくて、とある研究者個人の研究結果で、まだ再現実験すら至っていないの。成功例もその研究者が行った一例のみ。全人類にそれが当てはまるかは分からないの。だからごめんなさい。もし失敗したら・・・・・・」
「来夏。私はとっくに決めたよ。それが最善で、今最も正解に近い答えだって。覚悟はまだ定まっていないけど、逃げずに来夏の側にいるよ。最期まで」
彼女の真っ直ぐな言葉とまなざしは、来夏が経験したことのないものだった。
(どうして。どうしてこの人は、そこまで愚直に真っ直ぐなのだろう。どうしたら、その強さを得られるのだろう。どうしたら、そこまで自分を保てるのだろう。あぁ。でもその優しさに、その強さに、その真っ直ぐに私を見てくる瞳に、私は惚れたんだ)
来夏は静かに頬を濡らした。それを夜風は優しく払った。
「ありがとう、本当にありがとう。澄花」
来夏は静かに泣き続ける。それを澄花は優しく両腕で包み込んだ。
これまでと、これから感じるはずの悲しみをこの場で出し尽くす。愛する人と、笑って死別するために。
それから、数分後。
「泣き止んだ?」
「おかげさまで。一生分泣いたよ」
「そっか、そっか。ところでさ、もう一つ聞きたいことがあるんだけど」
「? なに?」
「私のこと、その、す、好きなの?」
「は?」
「いや。『は?』じゃなくて、どうなの?」
「・・・・・・秘密」
「はぐらかすな。正直に吐け」
来夏の両頬を勢いよく引っ張る。来夏の頬はよく伸びた。
「いひゃい! いひゃいよ! ふみふぁ!」
来夏の頬から澄花は手を離す。しかし今度は両肩に手を置き、問い詰めた。
「じゃあ、教えろ! 大体、怪しいと思ったんだよ! 急に手を繋ぎたいとか! 腕に抱きついてくるとか! そもそも私に殺されたいとか、何それ!? そんなのを『友人』に頼むか? 普通!?」
「それも言ったでしょ! 『人として、好きです」って!」
「それは尊敬って意味でしょ!? 違うの!?」
「違う、全然違うよ。だから改めて言うから、離して」
来夏は鋭い、決意を込めた言い方をする。それに気圧される形で、澄花は離れた。
来夏は深呼吸をした。そして告げる。
「澄花。私は貴方のことが好きです。一人の人間として、好きです」
頬を朱色に染めながら、来夏は告げた。
対する澄花は、頭を抱えたり、うなり声を上げながら右往左往していたが、やがて来夏に向き合った。
「来夏。私はあなたの笑顔に弱い。あなたの『ごめんなさい』って言う時の仕草と表情に弱い。あなたがどこか遠くを見ている時の表情を見ると、心臓の辺りが痛く感じる。今日の放課後の屋上で、あなたを抱きしめた時、理由の分からない気持ちを感じていた。でもこれら全部の正体に心当たりはあった。でもそうじゃないんだって思い込み続けて、否定してきた。だって私の勘違いかもしれないから、怖くて言えなかった。来夏に嫌われるのが怖かった。でも今なら私も言える。これが私の答え」
来夏との距離を縮める澄花。それは近くなり、やがて重なる。
「来夏。好きだよ」
澄花は来夏から離れる。
「・・・・・・ずるいよ。それは」
された事に来夏は驚き、更に頬を朱色に染める。
「散々やられてきたから、ささやかなお返し」
「じゃあ、もう1回、お願いしてもいい?」
「欲張りさん」
「そういうわけじゃ、ないけど。さっきのは不意打ちというか・・・・・・」
「冗談。いいよ、何回でも」
「ん。じゃあ・・・・・・」
夜は冷たさを増し、風も山の上では一層冷えた。
その中でも、二人の熱は熱さを保ち続けていた。
それからしばらくは、お互い身を寄せ合い、夜景を眺めていた。
学校で買ったコーヒーはとっくに冷めていたが、山頂で飲むコーヒーは美味しいというやつで、冷めても美味しかった。
「甘いね」
「確かに。甘くておいしい」
「ねぇ、澄花。人は死んだら、何も感じなくなると思う?」
澄花の左肩に頭を乗せて、来夏が聞いてきた。顔にかかる来夏の髪を澄花は、くすぐったく感じた。
「急だね。でも、どうだろう。あ、そういえば。前に来夏、なんかの研究資料? を見せてくれたよね?」
「『高次元存在の証明と霊魂の関係性について』でしょ。まさか、あれを真に受けているの? 澄花は?」
「真に受けているっていうか、何が書いてるのかさっぱりだったけど、そういう『目に見えない何かになる』のなら、感じなくなるんじゃないかなぁ」
なるほどね。と来夏はうなずく。
「所詮、この体はただの器。大事なのはそれに収まる『魂』。もしそれが、高次元の何かでできているとしたら、元の場所に還るのは必然。でもそうじゃないとしたら、私達はどこに行くと思う?」
来夏は再度問う。
「古今東西。様々な学問、宗教でそれに関する考えは見られる。でもそれらは結局、生きている人間の想像の範囲で考えられる限界。当たり前だけど、正解に辿り着けても、それを伝えられない。ならば、亡くなった人に聞けば手っ取り早いけど、それは不可能。だって生から死、死から生は不可逆だから。私達は向かう先を知っていても、向かった先を知らない。ならどうすれば知れるの?」
来夏の畳みかける難解な話に、普段の澄花なら頭痛を覚えていた。でも今は頭がクリアで、話がすんなりと入ってきた。
「・・・・・・あの世なんて、最初から無いんじゃないかな。だけどそれじゃあ希望も、すがる物もないから寂しいし、いざ死ぬって時に覚悟もできないから、せめてこれから行く場所がどんな所か、知りたかったのかもしれない。そうすれば少しは安心できるんじゃない? 」
「あの世なんて無い。ただの真っ暗闇ってこと?」
「なんとも答えにくいけど、私はそう思っている」
澄花の答えに判然としない表情を浮かべる来夏。
そしてぽつり、と静かに言葉を紡ぐ。
「私、今になって怖くなったの。貴方を置いて逝くこと、このコーヒーの味を二度と感じられなくなるのが、怖くてたまらないの。知らずに死にたかった。貴方なんかに合わなければよかった。貴方に恋なんてしなければよかった。貴方が生きる意味を、生きる希望なんか見せるから、私は死ねなくなった。貴方から離れるのが怖い。貴方の温もりを忘れるのが怖い。ねぇ、どうすればいいの?」
澄花は無言で来夏の両手を強く握った。
「来夏。この理不尽で不平等で良いことなんて無い、最低な世界は好き?」
「・・・・・・少しだけ、好きになれた」
来夏は小さく呟き、うなずく。
「そっか。良かった。ならさ、その感覚は誰もが抱くものなんだよ。私もそう。人は得た物全てを手放すのも、失うのも恐怖と感じる。だけど死に行くってのは、それらをこの世に置いていくことなんだって。昔、おばあちゃんが『残した人、残した想い、残した感情、そうして感じた全部をこの世に置いて、まっさらになった状態が『仏さま』なんだよ』って子供相手の私に言ってたの。その時は何言っているのか分からなかったけどね」
澄花は苦笑した。
「だから、来夏が今まで知ったこと、新しく知ったこと、感じた全部を私に預けてくれないかな? 大切に、いつまでも持っているから。そうすればいつか、来夏とまた会えた時に渡せるからさ。それにもしかしたらあの世は、綺麗な場所かもしれないよ?」
ね? と優しく来夏に問う。
来夏は「うん。分かった」と答えた。
そんなできもしない空約束なことは、来夏は理解していた。
だが同時に、今の来夏は「それこそが、世界を形作ってきた」のかもしれないと、思えるようになっていた。
「それにしても、澄花って意外と物知りだね。いつもと立場が逆になって、驚いた」
「私のは受け売りばっかりだよ。自分から何かを知ろうと思ったことは少ないよ。だってそのうち知ることになるかもしれないし、生きていく中で必要な知識はそんなに必要ないと思っているから。確かに来夏は『知識は多ければ多いほどいい』とも言っていたけど、私はそれが人を脆くするのでは? と疑っている。曖昧だけど、『知識に喰われる』って言うのかな? そんな感じがする」
缶コーヒーを煽りながら、澄花は空を見上げる。そこにはまだ、星が浮かんでいた。
「脆さ、か。うん。やっぱり澄花だね」
「なにそれ」
「自分より、その他大勢の人達を心配するところが」
澄花から離れて立ち上がり、展望台の手すりに手をかける。
そこから眼下に広がる闇を、来夏は静かに見た。
そして澄花に振り向く。
「そんな澄花に一つ、アドバイス。人はね、知らないことを知った時、自分が見たことのない世界を初めて見た時、最初に思うのは、驚きと喜びって言われているの。澄花も、初めて見た世界の色鮮やかさにびっくりして、感動したでしょ? 確かに知り過ぎは身を滅ぼす。でも人は長い時間をかけて『知識』を上手く扱える術を身につけたの」
来夏は手すりから手すりをくるりと回って、踊っていた。
その度になびく漆黒の髪が美しく、澄花に映った。
「だから澄花が言う『脆さ』は『強さ』になったの。人は脆いからこそ、強かになった。まぁ悪く言うなら、ずる賢くなったとも言えるけどね。だから澄花。知ることを怖がらなくても平気だよ。人はみんな、知ることができる力を持っているから」
さっきまでの気弱な彼女とは思えないほど、今は朗らかとしていた。
その切り替えの早さに澄花はため息をついたが、それも来夏らしいと思った。
「ま、来夏がそう言うのなら、もう少し勉強を頑張ってみますか」
「でも程々にね。何事も加減は大切だから」
「はいはい。当人が言うと、説得力が違いますね」
「む、なにそれ」
「なに、その顔」
「うるさい」
頬を赤らめながら不機嫌になりそっぽを向く彼女に、澄花は「ごめん、ごめん」と謝った。
「さてと戻りますか。学校に。ずいぶん長居したから、いい加減寒くて、凍死しそう」
「さすがに厚着しても、夜中の山頂は厳しいね」
「そうだね。ところで、今何時?」
来夏は聞かれ、コートの左ポケットからスマホを取り出して、時間を確認する。
「夜中の1時半になるところ。ずいぶんいたんだね」
「学校には、3時半頃には着くかな」
「そうだね」
そうして二人は下山を始めた。
だが学校に戻ることは、終わりが迫っていると同義だった。
「一応聞くけど、もうない? お願い事」
「無い」
「でも、声が・・・・・・」
「寒さからだよ。本当に大丈夫」
彼女がそう言うならと、澄花は信じることにした。
「足下、暗いから気を付けて。手、握る?」
「うん。ありがと」
来夏は差し出された手を握った。
「真っ暗だね」
来夏がぽつり、と呟く。
「怖い?」
澄花は尋ねる。
「ううん。少しも怖くないよ」
「そう」
二人はゆっくりと、山道を下る。
二人以外が発する音は無く、世界が死んだようだった。
澄花は来夏の歩調に合わせ、先を進む。
「ねぇ、来夏」
「なに?」
「・・・・・・やっぱりなんでもない。呼んでみただけ」
(分かりやすいね、澄花は)
来夏はすぐにそう理解できた。何かある時は、そうして自分を呼んでいたから。
「何か、聞きたいことでもあるんでしょ?」
「お見通しか」
澄花は苦笑する。そして問うた。
「貴方は幸せでしたか。今まで生きてきて」
来夏はしばらく考え、答えを口にする。
「幸せだと、感じた時もある。そうじゃなかった時もある。だからどっちつかず。強いて言うなら、不幸せだった。でも澄花、貴方に出会えたことは、一番の幸せだった。これは嘘偽りなく言える」
澄花の手を握る力を、来夏は少し強めた。
「じゃあ昔はどうあれ、今は幸せ?」
「そういうことになるかな」
「そっか、良かった」
澄花は来夏の手を握り返す。
「澄花はどうなの?」
来夏は聞き返す。澄花は頭上を見上げながら考え、答える。
「私は幸せなことが当たり前すぎて、気付けなかった。こうなるまで。だから今も幸せだと思っているよ」
「今も?」
「そう。だって来夏が側にいるから」
「そう・・・・・・嬉しいな」
互い、握る手を離れないようにしっかりと握る。
山道は終盤に差し掛かり、道のりがなだらかになりつつあった。
「下りはやっぱり早いな。その分気を付けないと」
「澄花。今日の世界はどうなるかな?」
「・・・・・・今日? 」
突然の言葉に、澄花は言葉を詰まらせた。
脚も一瞬、歩みを止めた。しかしすぐに歩を進めさせる。
世界が終末なんかに向かっていなければ、何気ない日常の会話。のはずだが、今は澄花に重くのしかかる。
どんな言葉を投げ掛けたところで、その場しのぎにしか聞こえない。
『結局お前はその程度なのだ。覚悟も持たず、要らぬ希望を与えた。お前は何も叶えられない。お前も結局は、自分の手を汚したくない人間なのだ』
視界の左端に映った、腰に差したナイフがそう責め立ててくる。
(確かにこれから私達がやろうとすることは、正しいとは言えない。でも私は決めた。決めたじゃないか! もう迷わないと。ならばそれが覚悟だ!)
澄花はそう覚悟し、決断した。
「澄花?」
無言になった澄花を来夏は心配そうに尋ねた。
「ん? あ、ごめん。ちょっと疲れただけ。それとさ来夏。今日も晴れて良い天気になって、変わらない一日が始まる。それだけだよ」
澄花は素っ気なく言った。
それからしばらくは無言で歩いていた。
澄花は体力が限界なのか、来夏に引っ張られながら歩いていた。
そしてやっと山道を抜けて、参道に戻ってきた。
「やっと下りた・・・・・・どうしよう。境内まで登って、そこで少し休みたいな。来夏、それでいい?」
「私は構わないよ」
「よし。じゃあ、もう少し頑張るか」
そうして再び歩く。
澄花の体力と脚はとっくに限界だったが、学校まで戻ることを考えると、まだ境内に向かうのが近かった。
そうして境内まで来夏に連れられ、どうにか境内前の階段も登りきった。
澄花は、ばち当たりかもしれないと思いつつ、拝殿の階段に腰を下ろした。
階段の手すり側、澄花の左横に来夏も座った。
澄花は大きいあくびをして、目に涙を浮かべた。
それに対し、来夏はあまり疲れていなようで、夜空を見上げていたが、澄花に声を掛けた。
「ここまで本当にお疲れ様」
「ん・・・・・・どういたしまして」
小休止のつもりだったが、澄花はこのまま眠ってしまいそうだった。
「ふふっ。眠ってもいいよ、澄花」
「大丈夫だか・・・・・・ら・・・・・・」
澄花はそのまま、静かに寝息を立て始めた。
来夏は階段の手すりに身を預けて、澄花をコートの中に抱き寄せた。
「少しだけ、今だけは、貴方を独り占めしたい。だからお休み、澄花」
澄花の体温、さらりと流れる髪、細く、でもしっかりしている手のひら。澄花の全てを、来夏は余すことなく記憶する。
せめてそれだけは持って逝こうと決めていた。
そうすれば離れていても、寂しくならず、怖くもないから。
来夏は澄花が目を覚ますまで、抱きしめていた。
それから5時間も澄花は眠っていた。
仮眠にしては、少し長い。
空はすっかり朝の色が混ざり始め、夜が終わろうとしていた。
「ん・・・・・・なんか、あたたかい?」
澄花がわずかに顔を動かすと、すぐ上に来夏の寝顔があった。彼女もあの後、寝落ちしたようだった。
「うん・・・・・・あ、おはよう。澄花」
「おはよう。ごめんね、今離れるから」
「うん・・・・・・」
まだ寝ぼけている来夏から離れる。
「ずっと抱えていてくれたの?」
「うん。澄花の寝顔、可愛かったよ」
「・・・・・・そりゃ、どうも」
(やっちゃったー)
顔が熱くなるのを感じながら、立ち上がる。
背伸びをすると、体中から快音が響いた。
「よし。行こうか」
「ねぇ、澄花」
「ん?」
左隣りから来夏の声がした。その声はすでに目覚めていて、はっきりとしていた。
「最期で最初のお願い、聞いてくれる?」
「・・・・・・いいよ」
来夏が次に何を言うのか、澄花にはすでに分かっていた。
「ここで『終わらせて』」
「・・・・・・分かった」
澄花は薄々感じていた。来夏が展望台に行きたいと言って、そこに至るルートに「糸枡神社」を選んだ理由を。
来夏はここを、神様がいるこの場所を終点に考えていた。
そして来夏は神様に問うのだろう。「神様、これで正しいですか?」と。
否、来夏はそんな不確定で不定形な存在を否定するだろう。
しかし来夏はこうも言った。「この身を賭して、世界に示す」と。
ならば来夏にとっての神様は「この世界」そのものなのだろう。
ゆえに「ここで終わらせて」と澄花に願ったのだろう。
来夏は拝殿を離れ、鳥居の前まで歩いた。そして鳥居を背に、澄花に振り向く。
澄花は拝殿を背に、来夏と向き合う。
そして腰に差したナイフを鞘から引き抜いた。
鈍色の刀身は、ちょうど昇り始めた陽を受け、燃え盛るような橙色に輝いた。
澄花は深く息を吸い、吐く。
「さよなら。は言わないよ」
「行ってきます。も言わないよ」
「これで成功したら、『世界』に教えてあげればいいんでしょ?」
「うん。お願い」
「分かった。じゃあ、待ってて。そのうち、そっちに行くから」
「うん。待っているね」
朝陽に照らされている来夏は、穏やかに笑っていた。
それは、いつかの放課後のように、美しかった。
死を望む少女と、終わらせる少女