休日だというのに特に予定もない。Tは公園のベンチに腰掛けて気怠さをもてあましていた。雲も少なく気温もちょうどいい感じで、外に出たくなるような日和だというのに、伽藍としている。子供の騒ぎ声はそれほど好きではないが、ここまで殺伐としていると、甲高い声の一つくらい聞きたくもなる。休日の公園なのだから、親子連れの一組か二組くらいいてもよさそうなのに。最近耳鳴りの強度が増してきている気がする。季節の変わり目で慢性的な症状が悪化することはよくあるので、気にしないでおこうと思っているが、不安ではある。疾患というものはある日突然襲ってきて、心身に粘り付いて、取れなくなる。固着状態を保持したまま残り続ける。肉体の特定部位の存在が、過剰に意識されてしまい、健康だったころの心理状態が思い出せなくなっていく。少しずつ、できたことができなくなっていく。無理をして能動的にふるまっていた時代を懐かしく回想する。受動性から能動性へと移行し、また受動性へと還っていく。それが人間の一生なのだろう。しかし、前期の受動性はいつから始まったのか当人の理解の埒外にあるにも関わらず、後期の受動性の方は最後くらいまで意識がはっきりとしていることもわりとあるらしく、いやになる。徐々に能動性が弱まり、完全な受動的存在となったときに、終わりを迎える。一人の人間が外部への抵抗という儚いあがきをやめて、また循環に飲み込まれてしまう。

 なんとかして能動性を維持しようとするのが動物の意志なのだろうか。脊髄からはじまり脳を発達させた生命体は、外的世界を様々な感覚器によって把握する。人間にいたっては、認識や言語というよけいなものを授かってしまい、あまりにもややこしくなってしまい、常に人間は混雑している。動物は神経系を持ってしまったが、植物にはない。しかし、あいつらも俺たちと同じように生命を持っているらしい。

 Tは視線を下に落とすと蟻の行列が目に入った。子供たちが黒き隊列に見入ってしまい、過ぎる時間も忘れてしまうのはなぜなのだろう。草木があふれる牧歌的な自然の世界に突如人間社会に親和的なものを見出したことの驚き。自然界にいきなり人間的なものがふいに現れたことに対する感嘆。思えば人間は蟻に近づいているのかもしれない。一糸乱れぬ隊列が醸し出す怪しい魅力がある。群集心理から抜け出すことは難しい。序列の中に飲み込まれることに安堵感を持つのは愚かだということになっているが、それで話がすむのなら戦争など当になくなっているのではないか。

 自分の死を恐れる感情と、他人の評価を恐れる感情があり、どちらの方がより根源的で動物的であるか。Tはなんとなく考えていた。おそらく後者の方だろう。個体発生、系統発生の双方において後者の方が早期に生まれてくるものだと思われる。自分の死よりも、他人の評価の方を恐れるから、戦争は終わらないのだろうか。日本語を母語として身に着けた俺が、印欧語を母語として身に着けた西欧人と同じように、自分の死を恐れることができるだろうか。一人称と二人称を細かく使い分ける人間が、荒廃した理性的境地に達することができるのだろうか。自分の死への恐怖の方が、理性を強く働かせる必要がある。戦争が人間社会から取り払われた社会というものは、各人が他人の評価よりも自分の死を恐れるほどの賢明さを備えた喜ばしき時代の到来ということで済ませても良いということになるのか。しかし、この仮説には何かが抜けている気がする。思えば、歴史が進むごとに人間は孤独を満喫する贅沢さを手に入れたのであり、その流れに伴い死への怖れも増していった。共同体の解体と、死への恐怖の増大は、比例関係にあり、一方で他人からの評価を心配する感情は減衰していっているのかもしれない。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-12-19

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