詩終 序文


 私は、高校を卒業して会社員として働きはじめてから、詩に出会いました。とある喫茶店で人と話した際に、小さな詩の冊子を手渡され、読んでみてはと勧められました。パッと適当に開いて詩を読んでみたその時に「ここには誰もが持っている言葉にならない感覚がある。そしてそれはとても大事なことを含んでいる」とわかりました。
 当時は、「何者かになりたい」といった漠然とした憧れをもっていました。そんな時、このようにしてたまたま詩に出会って感銘を受けましたが、なぜそこからさらに自分自身で詩を書こうと思ったかというと、詩を書く人になることが、何者かになるひとつの手段に思えたからでした。それは浅はかな始まり方だったように思います。もちろんそれだけが理由ではなく、この詩によって受けた体験は見過ごせないものでした。
 それから、私は時おり詩を書くようになり、自分を自分たらしめる何かにどんどん目を向けるようになってからというもの、「憧れ」や「何者か」といった、外側のものに対する執着はどんどん落ちていきました。

 人は、生まれると否応なしに社会の中に投げ込まれ、はじめからあった、自分を自分たらしめる何かを失いつつ生きてゆくのだと思います。生きてゆくために必要な社会性、思考が次第に自分の心を、自分を自分たらしめる何かを置き去りにして大きくなってゆく…。そしていつしか自分を忘れて、自分らしきもののように見えるマインドを自分と思い込んで社会の中で奮闘するのだと思います。そして誰もが、様々な形で何者かになってゆくのでしょう。
 本来、人はみんな何者でもありません。誰であっても。

 詩は「事実」ではありません。詩は、言葉を用いて言葉ではないことを指し示すものと私は考えます。詩はまるごと比喩です。詩を、書かれた言葉の通り「事実」として捉えてしまうと、間違いが起こります。詩を「解釈」してしまうと間違いが起こります。比喩は比喩によってそれ自体ではないものを指し示します。それは言葉や意味ではありません。私にとって、詩(まるごと比喩)が指し示すものは「わたし」「あなた」です。心です。人それぞれの、自分を自分たらしめる何かです。
 自分を自分たらしめる何か、それはいつも頭(思考)の中にではなく、心の方に近いところにあるものと思います。思考は時間を要するものだと思いますが、心はほとんど即時のもののように感じます。心はより「今」に近いところにあると感じます。
 「今」存在するものから離れてしまうと、人は不安になったり、不満になったり、例えばたった今、風や太陽の光が快かったとしても、そういったものを取り逃してしまうのではないかと思います。過去への執着、未来への望みは今をかすめます。
 「今」というのは、海を進む一点の舟のようだと思い、詩として書いたことがあります。
目の前に広がる景色は未来のように見える。後ろに流れてゆく景色は過去のように見える。真横の景色は現在のように見える。ですが、現在というのはまさにいまこの海を進んでいる舟(今)なのだと。

 存在するものの中で、わたしは生きます。未来も過去も存在しません。今だけが存在しています。存在するもの、今に目を向ければ、未来への欲望、野望も落ちてゆきます。過去への執着もなくなってゆきます。名前も肩書きもなくなってゆきます。誰がどこを見つめていようとも、誰もがこの舟に乗って、今を生きているだけでした。
「永遠の今」の上で。

詩終 序文

詩終 序文

  • 自由詩
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-12-18

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