フィロソフィア

皺ひとつない背広をハンガーで吊るして、その人の孤独を思う。



陰湿ないじめに遭い易い人だった。変わった暮らしぶりをしている以外、普通の人だったその人をいじめる理由なんて暮らしぶりが変わっているから以外にないだろう。例えばその人はすれ違った誰かに必ず咳き込まれた。異物を体外に排除するという行為の特徴を強調し、「死ねよクソが」といった罵詈雑言に代替させる意図があるのだとその人から聞いた。辛くないの?と思わず尋ねたら、「いや凄く便利なんだよ」と不思議な返事をするその人はぼくの背丈に合わせてしゃがみ込み、こう耳打ちしてくれた。


「だって、特に会話しなくてもそいつらの腐った人間性を把握できるんだよ?なんの躊躇いも覚えずに見下せるしね。」


そう言って立ち上がり、本当に楽しそうな笑顔を浮かべてスーパーの中に入るその人は孤独な状態を磨きに磨いて、その表面に写るもの全てを検分してはぼくに語った。そこに写る自分を知ろうとするのも恐れず、世界を縁取る個人的な倫理の在り方を突き止めようとしていた。頭を抱えて悩んだり、難しそうな本を読んでは悩んだりする姿を見て、辛くない?とぼくは再び尋ねたけど、その人はぼくの隣に座って、はっきりとこう言った。


「きみぐらいの歳は世界からの影響を思いっ切り受けていい。でも、そのままっていうのは駄目だ。世界は決して綺麗じゃないからね。どこかで自分を整理整頓して、目の前の世界を心から否定するのも大事なんだ。」


そう言って黙り込み、ぼくの存在も忘れて思索に耽るその人のシャツにもたれかかるぼくは、窓から見える景色を眺める。すっかり葉を落とした保存樹の、スッと真っ直ぐに伸びた姿には歴史があると言ってくれたいつかの冬にぼくのお母さんは亡くなって、わんわん泣いた。普通の亡くなり方じゃなかったから、刺々しい噂話がぼくの肌を傷付けて、痛かった。そんなぼくをギュッと抱き締めて、その人は確かに言ってくれたんだ。


「きみの生き方にお母さんの人生も刻まれている。いいお母さんだったんだろう?だったらその教え通り、胸を張って生きなさい。」


そのうち、窓の外であいつらが騒ぎ出す。思索に夢中なこの人を精神的に追いつめて、自殺に追い込んでやろうと躍起になっているのだろう。ああ、世界は本当に綺麗じゃない。身を守る何かが必要なんだ。この人にとってそれはいまここで流れる沈黙の時間。じゃあ、ぼくにとってそれは何になるんだろう。


その人から離れ、身を起こして、背の高い椅子にぶらぶらさせるぼくの足は床に積まれた本の山にも触れられないし、窓の外に巣食うあいつらの顔も蹴ったりできない。何もできないというぼくの現状を「すくすく育つ」と言うものまた、この人だった。そんな人にぼくはまた出会えるのだろうか。あんなものにならずに生きていけるのだろうか。ずっとそう思っていた、ぼくは。


「社会なんて、ここにはないからね」


その真意を教えれくれないまま、その人が遺した言葉を噛み締めて、生きている。

フィロソフィア

フィロソフィア

  • 自由詩
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-12-16

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