『戦場に架けた橋の幽霊』-日本兵の幽霊と煙草-
太平洋戦争中、日本軍が建設した「泰緬鉄道」の跡地――タイ西部カンチャナブリにある「桑井川神社」。鉄道建設に従事し命を落とした日本兵たちを祀るこの神社で、筆者は友人に誘われ慰霊祭に参加することとなる。夕刻、境内には遺族や関係者が集まり、前夜祭のような食事会が始まる。タイ料理と酒が並び、和やかな空気が漂う中、筆者は煙草を吸うため神社脇のクワイ川のほとりへと降りる。
月が川面を照らす静かな夜。筆者が煙草をふかしていると、背後から草を踏む音がし、シャツを二度引っ張られる。振り返るが、そこには誰もいない。気味悪さを覚えつつ仲間に戻って尋ねると、社主が静かに語る。「それは英霊だよ。煙草が欲しかったんだ」と。
筆者は再び川辺へ戻り、煙草を三本火を点けて供える。すると、煙はまるで誰かが吸っているかのように赤く燃え、川面を滑るように流れていく。やがて、兵士たちの幻影が現れる。痩せこけた若い兵士、裸足の少年兵、包帯を巻いた者――彼らは列をなし、煙草の火に引き寄せられるように川辺に立ち尽くす。
「帰りたい」「煙草をくれ」――風に混じって聞こえる声。筆者は恐怖と哀しみの中で、彼らの無念に触れる。宴の賑わいの裏で、英霊たちは静かに現れ、煙とともに夜空へと消えていく。
最後に耳元で囁かれる「ありがとう」の声。筆者は涙をこらえきれず、川面に向かって深く頭を下げる。祖国のために命を懸けた兵士たちへの敬意と鎮魂の祈りが、静かな夜に染み渡っていく――。
月夜の川辺に現れる兵士の影――煙草が導く鎮魂の悲話
八十年ほど前――。 大日本帝国は太平洋戦争へ突入し、南方アジアへ侵攻した。
「微笑みの国」と呼ばれる常夏の国、タイの地にも軍靴の響きが届き、戦史上、悪名高き「泰緬鉄道」が建設された。
劣悪な環境の中で倒れた兵士、捕虜、そしてその無数の命の影は、今も川辺に沈黙している。
泰緬鉄道は、タイとビルマ(現ミャンマー)を結び、さらにインドへと進軍するための戦略的路線であった。
だがその建設は、熱帯の密林と灼熱の太陽の下、伝染病と飢えに苛まれながら進められた。
日本兵も捕虜も、鉄槌を振るうたびに命を削られ、やがて多くが土に還った。
川辺には彼らの呻き声が染みつき、夜風に混じって今も漂っているかのようだ。
八十年の時は流れ、アジアに平和が訪れ、タイと日本の友好も結ばれて久しい。
私はこの「微笑みの国」で暮らし、ある日、友人に誘われて、泰緬鉄道に関わり、命を落とした日本兵たちの慰霊祭へ赴くことになった。
自分にとっては、週末の観光旅行程度にしか考えていなかったが…
―場所はタイ西部のカンチャナブリ県。
バンコクから車で約三時間、現在のミャンマー国境に接する自然豊かな土地である。
観光地として賑わう市街地の外れの川沿いに、ひっそりと「桑井川神社」が佇んでいた。
そこは、かつての鉄道建設で、命を落とした日本兵の魂を祀る日本の社である。
夕刻に到着した私たちは、散歩がてらに夕暮れの境内を歩いた。
薄暗い木々に囲まれた境内にある、大小の石碑に刻まれた祈りの言葉が胸を締めつける。
どの碑にも「平和」「慰霊」の文字が刻まれ、戦争の残酷さを静かに訴えていた。
やがて夜の帳が降りて、遺族や関係者と共に前夜祭のような食事会が始まった。
タイ料理と酒が並び、笑い声が境内に響く。
だがその賑わいの空気の中に、目に見えぬ冷たい気配が潜んでいるように感じられた。
私は煙草を吸うため席を離れ、神社の横を流れるクワイ川のほとりへ降りた。
三日月が川面を淡く照らし、静寂が広がる。
仲間の談笑が土手の上から微かに聞こえるだけ。
私は川岸の大きな岩の上に腰を下ろし、煙を吐きながら、月明かりに照らされた黒緑色の川の流れをぼんやりと見ていた。
――英霊たちも、この水面を眺めながら祖国や家族、愛する者たちを想ったのだろうか。
そのとき、背後から草を踏む音。
誰かが降りてきた気配。
煙草仲間が降りて来たのだろう…
次の瞬間、シャツを二度、強く引かれた。
いきなりシャツを引っ張るなんて、先に声を掛けてくれてもいいだろう…
私は、そんな無礼な輩が誰だろう、と振り返った。
――そこには誰もいない。
暗く静止した空間だけがそこにある。
私は急に寒気を感じ、気のせいだろうと思い、煙草を消して仲間のテーブルへと戻った。
席に戻ると、社主の年配の男性が通りかかった。
私は、霊感もないし、幽霊もみたことがない。
しかし、さっきの川べりでの出来事は、どうにも納得がいかないほど奇怪な出来事だった。
私は少し恥ずかしい想いで、初老の社主へ訊いた。
「あのぉ、先ほどこの土手の下で煙草を吸っていたのですが、誰かにシャツを引っ張られたのですが…これって…?」
社主は少し微笑んで言った。
「それは英霊さんだよ。君の煙草が欲しくて『俺にも一本くれ』とシャツを引っ張ったのさ」
私は恐怖よりも先に、何故だか急に申し訳ない気持ちになり、
「そうでしたか、煙草を欲しがられていたのですね。気づきませんでした、すみません!」
心からそう思った。
私は川辺に戻り、さっきまで座っていた岩の上に、火を点けた煙草を三本置いた。
煙はまるで、人が吸っているように赤く燃え、紫煙が川面へ向かい、滑るように流れていく。
私は手を合わせ、祈りを捧げた。
「さっきはすみませんでした、さぁ、煙草をどうぞ…」
煙草の煙が目に染みたのか、私の眼には涙が溢れていた。
こんな南の国の果てのジャングルで屍となり、祖国の地を生きて踏むことのなかった先人たちの心中を思うと、胸の奥がじんと熱くなった。
――だがその胸の高まりは、次の瞬間、ひやりとした冷気に変わった。
背後で、また草が擦れる音がした。
今度は一人ではない。
二人、三人……いや、もっとだ。 複数の足音が、湿った土を踏みしめながらこちらへ近づいてくる。
私は振り返る勇気が出ず、ただ川面を見つめた。
三日月の光が揺れ、黒い水面に細い道を描いている。
薄暗い土手のその道の向こうから、かすかな声が聞こえた。
「……日本へ帰りたいのだが……」 「……ここは何処なんだ……」
それは風の音に紛れ、川の流れに溶け、しかし確かに人の声だった。
幾つもの声が重なり、まるで遠い昔の営みが蘇ったかのように、川辺に満ちていく。
私は震える手で煙草をもう一本取り出し、火を点けた。
その火が、ふっと揺れた。 まるで誰かが息を吹きかけたように。
「……俺にも一本……くれ……」
耳元で囁かれたその声は、先ほどよりもはっきりしていた。
私は思わず振り返った。
そこには、影があった。 月明かりに照らされ、ぼんやりと浮かび上がる一人の兵士の姿。
軍帽をかぶり、腕には赤十字の腕章…衛生兵なのか。
彼の身体は、風に揺れる木の葉のように透けていた。
彼は私の手元の煙草をじっと見つめていた。
痩せこけた頬、乾いた唇。
私は震える声で言った。
「……どうぞ。ゆっくり、吸ってください」
するとその兵士は、かすかに微笑んだように見えた。
その瞬間、私の足元に置いた煙草の火が、ひとりでに赤く燃え上がった。
まるで誰かが深く吸い込んだかのように。
紫煙がふわりと立ち上り、川面へ流れていく。 その煙の中に、彼の姿が溶けていった。
青白く光る川面を見つめる私の耳元でひとつだけ、はっきりとした声を聞いた。
「……ありがとう……」
私はその場に膝をつき、深く頭を垂れた。
涙が止まらなかった。
恐怖ではない、哀しみでもない。
ただ、彼らの無念と、静かな感謝が胸に響いたのだ。
川面を渡る風が、そっと私の頬を撫でた。
それはまるで、彼らが最後に触れていった手のように、優しかった。
テーブルに再び戻った私は、もうその出来事については胸の奥に閉まっておいた。
社主の眼だけが私に微笑んでいた。
やがて他の人々も酒や煙草を供え始めた。
既に土手の下の川岸は小さな宴会場と化してしまった。
「どうか皆さんで楽しく飲んでくださーい」
「大役、ご苦労様でしたぁ!」
ほろ酔いの仲間たちの声が響き、軍歌を歌う年配の者。
私は一人、テーブルに残った冷めたビールを一気に飲み干した。
ふと見上げると、大木の幹に別の若い兵士の姿があった。
薄汚れた軍服に軍帽、草履を履き、宴を見守るように手を翳している。
その足元には年少の兵士が「俺にも見せてください」と言わんばかりに、若い兵士の足首を掴んでいた。
薄い白黒のフィルムを被せたようなその姿は次第に鮮明になった。
二人の兵士の瞳には、宴を羨むような、懐かしむような温かさが宿っていた。
耳を澄ますと、低い声が風に混じって聞こえた。
「宴会、楽しそうだなぁ…」
日本から来ていた、遺族の一人が静かに語った。
「ここに眠る英霊たちは、祖国を思いながら散っていった。だが彼らは決して孤独ではない。こうして私たちが祈りを捧げる限り、彼らは生き続ける。」
その言葉に胸が熱くなった。
私の前に、怪異のように現れた兵士の姿も、煙草を欲した声も、すべては鎮魂の願いに応えるためだったのかもしれない。
翌朝、神社での慰霊祭が始まった。
式典に先駆けて、参列者全員で日本国歌の斉唱が始まった。
境内にはおよそ百五十名ほどの人がいたが、私は最後列で起立し背筋を伸ばし、国歌「君が代」を歌い始めた。
耳を澄ませば、私の後ろの林の中からも、合唱する声が木霊していた…
祖国のために命を懸けた英霊たちに――敬礼!
(完)
『戦場に架けた橋の幽霊』-日本兵の幽霊と煙草-