出来愛
一
古傷に沁み入るように切ない雨が車窓に当たりはじける夜に彼は、生きていた。隣の男性はスマートフォンに目を落とし、目の前の席に座る女性は、一日の疲れに浸っている。列車は次の駅へ雨夜を縫う。程なくして列車は駅に停まった。数人が席を立ち電車を降りていく。一方で一人、二人と電車に乗り込んでくるその中に僕は、小さな思い出を見つけた。
二
昨夜の雷雨を忘れたように晴れた朝に目覚まし時計が場違いなほど煩く鳴っている。閉じかけている目で目覚まし時計を探し、止めるついでにスマートフォンを手に取る。グループラインの会話やニュースが目を引かずとりあえず無視する。一人暮らしで何もない部屋はいつ見ても淋しくなる。浩人は壁に掛けてあるコートのポッケから安い煙草を取り出し、キッチンへ移動する。朝に換気扇の下で煙草を吸うのがいつからか日課になっている。煙草の煙が殺風景な部屋の淋しさを隠してくれそうだった。煙草を吸いながらSNSを覗くと、ふと、トレンドの「駆け込みカップル」という言葉が目に留まった。彼の脳裏に昨夜出会った女性の姿が映る。長く豊かな黒髪、切れ長な目には一日の疲れではなく、深い後悔を映しているようだった。芸能人のように完成された美しさではないし、一度であったことがあるわけでもなかった。だが、いまだに姿を思い出し、求めてしまっている。彼女の心の奥にあるものが彼を惹かれさせたのだろうと浩人は思った。ぼんやりとした思いに反して体は彼女を求め、動き始めていた。
三
浩人は地下鉄の車内で考えていた。なぜ、ここまで彼女を求め彷徨っているのか。偶然、電車内で見かけた女性は、ほかの女性と何が違うのか。そんなことは考えたところで明確な答えが出るわけでなく、電車の揺れによる眠気を増幅しただけだった。
四
「浩人君!」
浩人には過去に一人の恋人がいた。急に思い出したのではなく、忘れようと努めた過去の記憶であった。その記憶が今、彼女の声によって呼び起こされた。振り向くとにこにこと笑いながら立っている真奈がいた。
「どうしたの?何かあった?」と浩人は昔の癖で答えていた。すでに記憶の中に埋もれていた真奈との思い出は掘り起こすと宝石に変わりこの世のすべての目を奪うかのように輝いていた。
「こっちに来てよー」と真奈は叫んでいる。周りの人に注目されるくらい大きく手を振る真奈の姿に浩人は愛おしさを感じていた。もう二度と見ると思わなかった真奈の姿、笑顔と嬉しそうな声は見て見ぬふりをしていた心の傷口に容赦なく沁みてきた。痛みに顔を歪めることなく、真奈に近づこうとしたが、足が前に進まなかった。違う、浩人自身が進もうとしなかった。浩人は真奈と別れた理由を知らなかった。そのため、自分を納得させるための理由を作り、飲み込んだ。その理由はすでに消化され今の彼を形作っている。今更、真奈と話すこと彼自身は望んでいなかった。真奈との恋はもうエンディングを迎えたことを理解していた。どんな物語だとしても評判が良ければ続編が作られるがこの誰も喜ばない恋物語は続編がないとわかっている。そのため、浩人は、一歩を踏み出し新しいストーリーを始めることはできなかった。浩人は真奈と二人だけの舞台で佇んでいるだけだった。不意に、聞き覚えのある冷たい電子音声が舞台を引き裂き、彼の意識を連れ去る。そして夢から現実へとステージを変えていく。
五
駅を出ると見慣れた街並みの中に多少変化ができていた。しかし、足の向く方向は決まっていた。記憶の中では、人気の多かった道も今の時間帯は歩いている人は少ないようで閑散とした住宅街の表情をしていた。歩き続けると存在を誇るように母校の高校が建っていた。終業式の時期だからだろうか制服を着た生徒っちがぞろぞろと帰路についているグループで帰る男子もいれば、一人で帰る生徒も見える。
「二学期の成績やばすぎる!期末テストミスったからな~」
「お前、赤点とってなかったけ?」男子生徒の笑い声が聞こえた。目線をずらすとそこに数年前の自分と重なる姿が見えた。そこには、初々しい高校生カップルが見えた。初の恋人にどぎまぎしている様子が青春らしく見えた。一方で、影が自身の青春を覆ったように感じた。目の前のカップルの姿が学校の裏通りのほうへ消えていった。駅へ向かうのだろう。青春の影を見せようとする高校から逃げるように浩人は、足早に駅へ向かった。
六
駅前はやはり賑わっている雰囲気がした。浩人は息を切らしつつ駅に着いた。近道なルートを選んで通ったため、先ほどのカップルの行方は分からなかった。息を整え顔を上げると、彼らの行方なんてどうでもいいと思わせる光景が広がっていた。駅前の広場にはクリスマスツリー、飲食店のポスターには雪とサンタクロース。クリスマスムード一色といった感じを醸し出していた。数年前から店舗の配列や種類は変わっているが、クリスマスツリーの大きさは変わっていないように見えた。
「この景色を真奈と一緒に見たかった……」と不意に思った。「真奈」という名前が痛みのように鈍く身体中に響いた。こんなこと真奈と別れてから初めて思ったと気づくのに少し時間を要した。
「なんで、別れないといけなかったんだろう……」消化されたはずの謎が再び胸に落ちてきた。考えをまとめる前に、足は向かうべき場所へ動いていた。
いつもなら小川のせせらぎが聞こえる公園も今の時期には、水を流さず眠ったように静かだった。生物は何処かへ去り、あの時から時が止まったままのように感じた。過去に二人で歩いた公園へ浩人は来ていた。駅前の喧騒から離れ、自然の中で当時の思い出を掘り起こそうと考えた。真奈とのデートに緊張しきっていた彼は、今ではどんなことを話したか覚えてはいなかった。けれども、とても楽しいひと時だったことを強く覚えていた。数年前のことなのに今でもある程度思い出せてしまう自分に嫌悪感を抱きたくなる。けれども、もう一度彼女に会わなくてはいけないと感じていた。だらだらと痛みを伴うこの恋にけりをつけようと浩人は決めた。
「普通の恋人って何?」真奈は、ただ疑問に思ったことを聞いているのに浩人には皮肉に聞こえていた。
「普通……」浩人はたじろいでしまった。真奈は不思議そうに首をかしげている。この状況を楽しんでいるようだ。
「手をつないだり、ハグをしたりするのが普通の恋人だと……思う」浩人は渋々答えた。
「ハグは私からしたけど、手はまだつないでないよね?はいっ」真奈は手を差し伸べる。とても綺麗な手だった。細くしなやかな指に丁寧に刻み込まれたしわ。爪は短く切り揃えられ、手の甲にはしみや傷は一つもない。薄く赤みがかった手のひらが美しさを際立たせている。そんな手を握ってしまったら、何かが壊れてしまうと思うと容易く握れなくなってしまった。
「浩人くんが手をつなぎたがらないじゃん。私は、手つなぎたいのに……」その一言は浩人を嬉しくそして、悲しくさせた。「俺は……」と言いかけたところで真奈に「意気地なし。普通に固執してないで現実の私を見てよ」きっとこれ以上何か言っても彼女の機嫌を損ねることを言うだけだと感じ、「ごめん」としか言えなかった。その言葉は、彼女が待っているものではなかったらしく、ふんっと言って立ち去ってしまった。彼女の背中が小さく震えていることに気づいたころには彼女の姿は見えなくなっていた。自分の不甲斐なさに涙が出ていた。そんな過去を思い出す今の彼の目には涙を浮かべてはいなかった。
夕暮れの駅前は、昼間よりも行き交う人が多く哀愁漂う雰囲気をしていた。浩人は真奈の付き合っていた頃の最寄り駅へ行けば彼女と会える気がしていた。電車に乗り、揺られながら見た景色は見慣れたものなのに違和感があった。目的の駅に着き、改札を出て辺りを見渡してみた。そんなことをしても会えるはずはなかった。
「いい年をして俺は何をしているんだろう。今の彼女はもう、あの頃のままでいるはずがない。逢えたとして話せるわけがない」広い構内で自分の存在が希釈されていくような感覚になった。惨め、憐れ、傲慢、頭に浮かぶネガティブな言葉はすべて自分のために用意されたオーダーメイドの言葉のように思えた。浩人は仕組まれた運命のストーリーに酔っていたと自覚した。
もう帰ろう……こんな、くだらないストーリーは忘れてしまうべきだ。偶然電車内で見かけた人に元カノの姿を重ね、彷徨い、挙句の果て元カノのことを探しているなんて自分はどうかしている。いつまでも真美に縋りつくさまはどれほど無様なのだろうか。忘れてしまえばまた、今まで通りの日々を過ごせる。過去の傷に涙を流さなくて済む。思い出はまた、だれかで埋め合わせればいい。うれしかったこと、悔しかったこと、悩まされていたこと、喧嘩したこと、二人で行った場所も真菜の好きなものもあの明るい笑顔もかわいい声も綺麗な手も真奈のハグのぬくもりも真奈という名前さえもすべて、何もかも忘却(わす)れてしまおう。二度と思い出すことがないように。浩人は再び改札を通り帰路に就いた。
浩人は暗くなった外の景色を眺めていた。その景色は、見苦しい自分とは違って美しく見えた。列車はじわじわと最寄り駅へ近づいていた。ふと、電光掲示板を見ると次の駅は昨夜、浩人が惹かれた女性と出逢った駅だった。浩人は期待している自分を押し殺し、その駅を通過するのを待った。電車が駅に停まった。幸か不幸か、浩人の乗る電車に昨夜の女性が乗り込んでくる姿が目に映った。浩人の期待が息を吹き返した。女性は浩人を一瞥し、ただ眉を動かしただけだった。そして、彼女は浩人の右正面に座ってスマホを触り始めた。彼女の一挙手一投足に集中し一喜一憂する自分がいることに気づいた。再度、自分の期待する気持ちを抑えつけた。すると、浩人の手元のスマホが震えた。誰かから着信があったようだ。着信主の名前は“真奈”となっていた。急なメッセージに声が漏れようになった。恐る恐る内容を確認してみると
「いきなり、連絡してごめん真奈だけど、もし今電車に乗ってたら次の駅で降りてほしいな」
メッセージの指示の通り、浩人は次の駅で降りた。隣のドアから昨夜の女性が降りてこちらに近づいてきた。身体中が固くなった。
「浩人くん?」聞き慣れた優しい声が浩人の心を揺さぶった。
「私のこと覚えてる?」嫌でも忘れられないよと言いたかったが「覚えてる」とだけ返した。真奈はスーツ姿に昔よりも伸ばした黒髪、メイクをしているからかあの頃とは少し大人びた雰囲気だった。ここで話すのはあれだから、どこか違う場所で話さない?と真奈が言ったため、駅前のカフェまで移動した。浩人の前を歩く彼女の後ろ姿に懐かしい気持ちになった。
数年振りに真奈と向き合って座ると恥ずかしい気持ちと気まずい雰囲気に押し潰されそうになる。カフェの店員が注文に来たため、俺はコーヒーを彼女はオレンジジュースを頼んだ。その後、永遠に感じるほど長い数分が静かに過ぎ去った。沈黙を最初に破ったのは真奈の方だった。
「毎年、冬になると浩人くんを思い出しちゃうんだよね。街中のカップルを見かけると私にも素敵な恋人がいたなって、思い出に浸って悲しくなるんだよね。なんで、あの時別れを切り出しちゃったんだろう……」ちょうど話が切れたタイミングに店員がコーヒーとオレンジジュ―スを持ってきた。「ごゆっくりどうぞ」とにこやかに店員は去っていった。俺は、コーヒーを1口飲んだ。冷えた身体にコーヒーが苦味と共に温かさを連れてきた。真奈の方はオレンジジュースをストローで飲み、おいしいと呟いた。そして、話を続けた。
「きっと、あの時別れなければ今の後悔も無くあの頃のまま二人で過ごせたのかなって思うの。でも、もう一度あの頃をやり直したいって思ってもやり直せないし、少しでも浩人くんに会いたいと思っても会えない。話したくても、LINEはブロックされてると思うとどうにもできなくなっちゃう……」俺と同じように彼女も悩んでいたとはじめて気づいた。真奈はオレンジジュースで喉を潤し引き続き話し続けた。「でもね、昨日の夜に浩人くんに会えた。浩人くんは付き合ってた頃よりかっこよくなっててびっくりしたけど、すぐに浩人くんだと気付けたよ。だけど、声をかけられなかった」浩人は昨夜のことを思い出しつつ聞いていた。「話したいことはいっぱいあったのに、浩人くんを振ったのに気安く話しかけるのは傲慢かなって思うと声を掛ける勇気が何処かへ消えちゃったの……」確かに、元恋人に話しかける場面を想像するとそれなりの勇気では話しかけられないと容易く思えた。「でもね、今日は違ったの。今日のチャンスを逃しちゃうともう二度と会えない、話せないって予感がして……だけど、似た人だったら迷惑になっちゃうからさっきみたいにLINEを使ったの」かなりお粗末な計画だと思ったがそれでも、こうやって目的の人物を呼び出せているから結果としては成功なのだろう。真奈は一通り話し終わった雰囲気を出してオレンジジュースを飲んでいた。「俺は前から真奈に聞きたかったことがある」我ながら単刀直入に聞きすぎたと言ってから気づいた。言葉を選んでいる余裕が俺になかった。「今さら聞いても意味が無いと思うんだけど、数年前付き合ってたとき、どうして俺と別れたの?」問い詰めるような言い方だった。手のひらには、じっとりと汗をかいていた。真奈は静かに息を吸ってから答えた。「別れた理由か……」その間がとても長く感じた。また、俺には計り知れない意味が含まれている間に思えた。「浩人くんは何も悪くないの。私が、バカみたいに考えすぎて自爆しただけ」予想外の返答に理解に少し手間取った。
「浩人くんは果てしなく大きな愛で私を包んでくれたよね。私ね、本当に嬉しかったんだ。親以外にこんなに愛されたことが生まれて初めてだったからさ。二人で歩いた小川のある公園や二人で話ながら歩いた帰り道、浩人くんにハグして知った浩人くんの温かさ、二人で過ごした時とか全部が楽しくて私にとってはかけがえのない思い出で宝物だった。でもこんなにも大きな愛を受けているのに何も私は浩人くんに返せていないなと思っちゃって。いつか、こんなにも多くの愛を失ったらどうしようって考えると悲しみが心を蝕んできていつもの私じゃなくなってくるの。ふと、私は心の底から浩人くんを愛せていないって思うときもあって、私の中途半端な恋心でこんなにもいい人を縛りつけてしまうのは苦しいと思って、別れることを決めたの」俺の予想よりも遥かに優しく切ない理由に都合のいい理由付けをして、納得していた過去の自分が恥ずかしく思えた。
「わがままな理由で浩人くんを振って、傷つけてごめんなさい」
真奈は頭を下げた。彼女の肩は小さく震えていた。浅く呼吸する音が聞こえてきた。「愛おしい」こんな時に思うべき感情ではないとわかっていても思ってしまった。彼女と別れてからずっと今日まで見てみぬふりをしてきた思いが目の前に横たわっていた。
「ずっと真奈のことが好きだった」思いがけず飛び出した言葉は彼女にはっきり言えなかったものだった。彼女の目には光るものが浮かんでいた。
「真奈と別れた日から今日までずっと真奈が好きだった。ずっと愛していたんだ。今日も二人の思い出を辿っていたよ。俺は、自分自身が傷つきたくなくて二人の思い出もきみの存在すらも二度と思い出さないように生きてきたつもりなのに……」
真奈は赤い目を大きく開けた。赤く紅潮した頬には涙が流れた跡がきらきらと光っていた。机の上に重ねて置いた真奈の手はあの頃と変わらず綺麗だった。
「二人で過ごした時は不意に笑顔を見せてきて俺を苦しませてくれた。きっと俺は後悔していたんだ、真奈と別れたくないのにみすぼらしくきみの前で泣きたくないからって、かっこつけて。別れてからもきみとの思い出に縋りついて俺ってダサいよな」この時、俺はどんなに足掻いても舞台の上から降りることはできないとわかった。真奈が二人で降りるきっかけをくれたのに、それを振り払い舞台に居座り続けた。当時の俺には真奈が俺のもとに戻ってくると思っていたんだろう。それは読みが甘く苦しいだけだった。彼女は涙を拭いていた。「やっと、浩人くんの本音が聞けた。やっぱり、私は浩人くんと付き合えてよかった。幸せだったよ」その顔には笑みが溢れていた。俺はこのストーリーはもう終わりだと思った。「私は今でも浩人くんのことが大好き」そんなことを言うな、そんな言葉は俺をの希望にならない。俺を期待させないでくれ、俺が惨めになる。
「だから、もう一度付き合い直そうなんて、言うのは違うよね……きっと」
「え……」浩人は思わず呟いた。真奈はふふっと微笑んだ。
「お互いに愛し合ってるから付き合うっていうのはよくあるストーリーだけど、お互いに愛し合っていても付き合えないストーリーだって有ると思うの」彼女らしい言い分だと思った。
「高校の時は普通ってわかんなかったけど、就職して社会に出ると”普通”っていう不確定なものや”当たり前”が蔓延しているんだってわかったの。けど、個人の恋愛とか価値観については普通にしなくていいって思えた。だから、私は普通じゃないストーリーを選びたいと思うの。どうかな……」俺はふぅーと息を吐き、それがいいと答えた。注文していたコーヒーはもう冷めていた。時計の針は22時を指していた。俺は冷めたコーヒーを一息に飲み込んだ。冷えて苦味が増していたけど久々に心地よく感じられた。真奈もオレンジジュースを飲みきったようでストローがずずずと音を鳴らしていた。それから会計を済ませ店を出たら、外は雨が降っていた。真奈はバッグから折り畳み傘を取り出した。傘を差し出しながら
「駅まで一緒に帰る?」と聞いてきた。
数年振りの二人での帰宅を誘われたが俺は、首を横に振った。一緒に帰ると未練が残りそうな予感がした。心の中にはまだ、彼女を憎む自分がいる気がした。続編が無いとわかっている物語なら初めから物語大切に思う存分、楽しめたのだろう。真奈を先に帰らせ、一人でどうやって帰ろうか悩んだ。寒くて、ポケットに手を入れたらタバコが入っていた。吸って帰ろうかと思ったがライターがなかった。役立たずのタバコを近くのゴミ箱に投げ捨て、雨の中を走った。彼女が去った方とは逆の方へ。雨に打たれ指先が悴みそうになったが、身体はまだ温もりを持っていた。今日の雨は傷口に沁みなかった。
出来愛