否定と陶酔

 自己否定を前提とした自己陶酔。それがなければ何も書けないことはわかっている。自己否定が根幹にあるのだけれど、自分で自己否定に見せかけておいて、本当は強い肯定感にあふれているところがある。自己肯定なのに自己否定に見せかけるための努力を惜しまない。肯定に満ちた感情を、否定だと言って自分に対して言い聞かせている。偽の自己否定を肯定だと認めてしまうと何も書けなくなるから。初めから完全に自己を否定しきる勇気はない。文章を書くエネルギーを噴出するための、欺瞞に満ちた自己否定であり、これがそれなりに心地よい陶酔感をもたらす。冷めてしまえばもはや何も書けない。言語的思考を促す力は萎んでいき、静かな停滞の状態に落ち着く。それが怖いから、陶酔を促すために自分で自分を仕組もうとする。そういう思考から抜け出して、自分を素直に認めたところから文章を書いてみたい。確かに、なかなか自分から抜け出すことができずに苦労してきたところはあった。書いている間に次第に湧き上がってくる高揚を糧にして文章を作り上げているところがあった。知らない間に文章ができあがるときが楽しいというのはある。高揚が勝手に言語的思考を促し、その高揚につられるままに書くのは楽しいのだが、いい加減そこから脱却したいと思っているところもある。それで何も書けなくなるのなら、それもいい。読んで書くという営みからそろそろ卒業してもいいころだ。しかし、そう言いながらまだ未練があるのではないか。どうして、こんなことになったのだろう。どうして、人よりも読書に時間を割いてしまったのだろう。読めば読むほどに主流から外れていった。生きづらさを克服して、緊張から解放されるために、本に手を出したはずなのに、生きづらさも緊張もよけいに増していったようであった。言葉は混沌を解きほぐすが、またその上に新たな混沌を生み出す。言葉の螺旋はいつまでも続いて終わりがない。

 ナルシズムは肯定より否定と相性がいい。だから自己に浸るために、自虐や自罰をくり返すのだが、結局はナルシズムに帰着するので、どこかに自己肯定を残したものにしかなりえない。しかし、ナルシズムから脱却して何か書けるだろうかと不安に思っている。そうしてナルシズムにすがりつく様がすけて見える痛ましくて嫌らしい文章しか書けなくなっていく。やめてしまえばいいのだが、これまでの蓄積を無駄にしたくないという、極めて打算的な感情が働く。どこにも真理などない。ただ言葉と戯れていたいだけ。ナルシズムも打算に満ちているのだとしたら、結局は数字の計算こそが真理でしかないということなのだろうか。

 気分の悪いことを考えるのはやめよう。落ち着こう。達也は自転車でいつもの通勤路を走り抜ける。寒気が眠気を消し去ってくれる。朝起きたときは、一日の間で最も憂鬱な気分に陥る。昼夜の自分とは何か質的に異なるような気がする。朝に襲ってくる思想と世界観を、まだ言語化できていない。冬は周囲の自然の風景も閑散としているので、あまり目を引くものがないので、自分の内面の方に籠るようになっていく。冬場は内省した状態に陥りやすい。いつもの電車に間に合うように、達也は自転車の速度を上げた。

否定と陶酔

否定と陶酔

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-12-09

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