*星空文庫

TOKYO EARLY 3 YEARS −1982年−

ALTVENRY 作

  1. アルトヴェンリ
  2. 眠らない街
  3. 素晴らしい日々

 東京といいながら住んだのは、川崎市麻生区だったりする。そういえばちょうど多摩区だったのが麻生区に分かれて面食らった記憶がある。麻生区の区役所がたしか新百合ケ丘にあって(今でもあるのかな?)、一駅なんだけど小田急にのっていった。新百合ケ丘、当時は駅しかなかったところだ。それが久しぶりに通りかかったことがあってびっくり。立派な町になっておられた。15年くらい経った頃かな?

アルトヴェンリ

 アキボーと同様に、僕を語るには欠かせない友人、通称カッペイのことにも触れておかねばなるまい。彼もまた僕らと同郷である。アキボーと同じ私立高校に通っていた彼は、僕らが大学にこだわり富山で一浪したのとは違い、高校を卒業してすぐに手に職を付けるべく東京に出てきていた。

 実はカッペイとの接点は高校以前にあって、アキボーを介してというわけではない。ここでは詳しくは触れないが、学校外での中学生の集会で僕とカッペイはお互いを知った。まさかアキボーとカッペイが同じ高校でなおかつ親友になるとは、本当に不思議な縁と呼ぶべきかも知れない。とにかくその3人が東京に集結したというわけだ。

 東京受験旅行で彼のところに泊めてもらっているのは前述した通りだ。正直言うと、彼との面識はあったがアキボーほど気心が知れているわけではなかった。むしろアキボーがいなければカッペイの所には来なかったとさえ言える。だけどその後の展開を思うとここで再会しておく必要があったとも思える。

 1年早く上京しているせいもあって、彼には慣れない東京をずいぶん案内してもらっている。後々に独立して会社をたち上げるだけのことはあって、面倒見がいいし、行動力もあって、どこに出向いても一目置かれる存在であるのは間違いがない。だからこそ、僕も彼には気を使うことしきりで、しばらくは打ち解ける感じではなかった。

 彼の方から見てもきっと僕に対してとっつきにくい印象があったのではないかと思う。そんな中アキボーが間にいることで随分助かったような気がする。思えばその頃の人間関係の窓口は、ほとんどアキボーだった。アキボーがいないと何を話していいのかわからないくらいだった。

 今だから言えるが高校に入ってすぐに対人恐怖とまでは行かないが、人前で自分をアピールすることが出来なくなっていた。理想の自分と現実の自分があまりにも違いすぎることに劣等感を持っていたような気がする。さすがに今考えるとナイーブだったなあと懐かしく思うが、その時は自分でどうしていいか分からないし、本当に苦しいくらいに悩んでいたことを思い出す。

 高校時代に出来た友人がほとんどいないのはそんな理由による。もちろん上辺だけのつき合いはあるが、気心の知れた親友という意味でだ。予備校に行ってもその傾向は続いた。だからこそアキボーとの図書館での再会は大きかったのだ。すでに中学時代に親交があったわけだし、音楽という共通の話題があった。ただ高校進学で道を違えてしまい、しだいに離れていった経緯があった。それは一つきっかけさえあれば取り戻せるものだった。そこにジョンレノンの死という二人にとっては共通の大事件が起こり、一瞬にしてその溝を埋めてくれたのだった。

 彼は僕に比べると社交的で友達も多かった。それは東京に来てからも思ったことだった。新宿のローリングストーンなんかで次々と人脈を広げていく彼の事を内心嫉妬の念を持って見ていた。そんな彼に紹介された友人とは一応挨拶をするが、何を話していいかわからないのでつい無口になる。何となく嫌われまいとして無理に口を開こうとするが、それは自分の言葉でないので言ったことに自信が持てない。そんな心の葛藤を見抜かれているような気がして、自己嫌悪を感じる。だから無口になる。そんな悪循環を繰り返すのだ。ちなみにこの自分の姿を投影したのが「孤独のヒーロー」という曲だった。「♪一人でいること生きること、虚しく思い始めたとき、仲間になりたいばかりに愚かな笑いを浮かべる♪」

 カッペイに対しても最初はそんな感じで打ち解けられなかった。気を使う余り話を振ることが出来ず無口でいるのだが、あまり喋らないのも礼を欠くと思う。だから無理して社交辞令的な話を切り出すのだが、そんな自分に嫌悪感を催す。それは、その話題の選択や自分自身の切り出し方に対してである。さすがに今現在そんな感覚はなくなってしまい、親父化する一方であるが、初対面の人に人見知りをするあたりは、まだ多少その片鱗が残っているのだと思う。

 さて、1年遅れて僕らが出てきたことは、カッペイの生活を一変させたに違いない。僕がのうのうと県立高校に通っている間に、僕の中学時代の知人二人は同じ私立高校で出会って意気投合するのである。僕とアキボーも男女なら恋人同士と(変な関係はない)思われるくらい親密だと思うが、アキボーとカッペイもローリング・ストーンズ・フリークという点も含めて、僕が入り込めないくらいに親密なような気がする。以上の状況からして、やはりアキボーが中心となって物事は進行していくのである。

 カッペイという呼び名は、アキボーと同様で、ローリングストーンで名乗るときのために自分で決めたものだ。確かその頃のお気に入り漫画の「ダッシュ勝平」からとったと記憶する。ちなみにアキボーの由来はわからない。あれだけ一緒にいたのに、僕の知らない所でいつのまにかアキボーと呼ばれていた。僕はずっと彼らの本名で呼んでいたが、いつのまにか愛称での呼び方に慣れていった。

 カッペイの仕事は、ガラスの自動ドア等の作成、取り付けで、自分では「ガラス屋」と呼んでいた。まあ職人といえば職人で、作業着を着て作業道具を詰め込んだ小型トラックを運転して現場に向かうという生活だった。仕事が彼をそうさせたのか、そもそも職人気質だったのかは分からないが、短気で喧嘩っぱやい。良く言えば行動力がある。それにいざとなると口も悪い。良く言えば弁が立つということで、先にも書いたが会社を興して社長になる素質が十分あったと思う。

 そんな彼も、そして僕らもまだ若かったといえば言い訳がましい話ではあるが……。当時カッペイは猫のマークの運送業者をもの凄く嫌っていた。どうも運転中に不道徳な仕打ちを受けたのが理由だったか、例えば首都高なんかで割り込みされたりしたんだと思うが……。僕の住む夢幻荘に向かう途中、そのあたりで唯一の雑貨屋がその猫のマークの立て看板を出していた。僕ら3人が夜道を歩いているとき、その看板を目にしたカッペイは即座に跳び蹴りをした。大きな音がして、僕らは速攻でその場を離れた。店主の叫ぶ声が聞こえたような気がした。その雑貨屋はその後も何食わぬ顔で利用させてもらっていた。当時はコンビニがまだ普及してないので、貴重な店だった。心の中でゴメンとつぶやきながらパンやインスタントラーメンを購入していたと思う。

 さて、僕はと言うと、昨年秋に仕事を辞めて、年が明けてなお何もせずに暮らしていた。怠惰な日々を過ごしつつ、ギターを弾いたり、歌詞を書いたり、小説を読んだりしていた。貯金が底をついてきたせいもあったが、ローリングストーンに足を運ぶのを止めた。ローリングストーンにどっぷり浸かっていくアキボーとカッペイについていけないと思ったからだ。「孤独のヒーロー」で説明したごとく、一人でいいやと割り切ったのだった。

 一人の気ままな生活も結構楽しいものだ。好きな時に眠り、好きな時に起きる。起きたらボーッとテレビを見ている。だいたい眠るのは明け方で起きるのは夕日が沈む頃というのがこの時のパターンであった。夕方のテレビ番組は昔のアニメやドラマをやっていて、それを懐かしく思いながら、新しい仕事を見つけなければとアルバイト情報にも目を通していた。

 そんなある日、アキボーとカッペイが夢幻荘にいる僕の元へやってきた。なんとバンドを結成するので、参加してくれと言うのだ。僕だって、曲を書いても発表する場がなかったので、取りあえず即答、参加の意を表明した。バンドには後二名ローリングストーンで意気投合した輩が参加するという話だった。

 というわけで、一度見切りを付けたはずのローリングストーンにまた足を運ぶことになった。メンバーに挨拶するためだった。僕とアキボーとカッペイがちょうど二十歳だったが、彼らはまだ十代、下手をすれば高校生かなと思われた。一人がマサキ、もう一人がユキヒロといった。アキボーとカッペイが目を付けただけ合って、性格も素直で快活な奴らだった。

 世代が少し若いだけで、聞いている音楽も少し違うようだった。僕らの方がただ古きを求めていただけで、本来なら僕らだって、パンクロックのど真ん中にはいたのだ。そう70年代後半に起こったパンクムーブメントが、ニューウェーブと名前は変わっても、まだその時代を牽引していたように思う。

 パンクはニューヨークで発生し、ロンドンで成長したのだ。その頃登場した若手のロックバンドをすべてパンクとして、一緒くたにしていたが、厳密に言えば少しずつ違っている。マサキやユキヒロが敬愛していたザ・ジャムというバンドも性格にはネオモッズという位置づけになるらしい。

ザ・ジャムはポール・ウェラーを中心にしたトリオ編成のバンドで、力強さと躍動感を売りにしていた。彼らは明らかにローリング・ストーンズやザ・フーの影響を受けていたし、それを公言していた。だからマサキやユキヒロとは音楽性が一致したのだ。マサキもユキヒロもストーンズやフーに関心を示し聞いていた。

 さて、バンドの編成だが、ヴォーカルがアキボー、ドラムがカッペイ、ユキヒロがベースで、僕とマサキがギターというものであった。ただし5人揃って練習したことなど一度もなかったし、実演する機会もなかったのだ。4人または3人で練習は何度かした。課題曲はもちろんローリングストーンズだ。そのうち僕のオリジナルもやる予定ではいた。

 今更ローリングストーンズを説明するまでもないが、ボーカルのミック・ジャガーとギターのキース・リチャードを中心とした5人編成のバンドだ。その頃のアキボーは誰が見てもミック・ジャガーそのもので、必然的にボーカルに納まったのだ。また楽器の出来ないカッペイが「これから頑張る」という意気込みでドラマーになった。初日ではハイハットとスネアを叩くのみでバスドラの音はなかった。

 誰が命名したのかは忘れたが(マサキかユキヒロ?)、R&Bと書いて『アルトヴェンリ』はどうかとなり、全員一致でこのバンドネームに決定した。ご存じの通りR&Bは通常リズム&ブルースのことであり、ロックンロールの源であり、ストーンズやフーのブリティッシュビートの魂の故郷だった。「R&」はアールトでいいが、「B」は「Benri」とか「B(enri)」とかにするとかしないとか言いながら、結局それ以前の段階で崩壊したのが現実だった。

 僕とアキボーは近所に住んでいたので、とにかく夢を語り合っていた。夢幻荘で、アキボーの部屋で、はたまたそばにあったファミリーレストランで……、お代わり無料コーヒーを飲みながら、ステージに立ったことさえないのに、方向性だの、演奏曲目だの、果ては人気が出たらどうするとか、ツアーの場所とか……。

 年度替わりの手前だったが、この頃すでに学校には見切りをつけていた。そう、本当にやりたいことは裏方じゃないんだと……。後から考えれば、このとき退学せず続けていれば、今とは違う人生があったのかもしれないとは思う。でもそうせざるを得なかった。人生は常に選択の連続でその分岐点、分岐点で無数の未来が生まれていく。しかし選択できるのは、一つなのである。

 その選択をする少し前からさすがに仕事を始めていた。それは夕方四時から深夜の零時までというもので、とても学校になどいけるわけがなかった。学校を辞めるつもりでこの仕事を選んだのか、この仕事にしたために辞めざるを得なくなったのかは、本当のところ定かではないが、前述のごとくもう頭の中にはバンドのことしかなかったのではないかと思う。

眠らない街

 新しく始めた仕事は、歌舞伎町の同伴喫茶だった。当時はレンタルルームとも言い、恋人達の隠れ家的な感じで、ラブホテルよりは安価で気軽なサービススペースだった。アルバイト雑誌もかなり見て、いろんな所に面接にもいったがなかなか決まらず、どうせ新宿を拠点とするなら足で探そうと新宿中をくまなく歩いて見つけたものだった。考えてみるとずいぶん無謀なことをしたと思う。結果として良心的な経営者であって良かったが、暴力団関係者だってこのへんは多いはずなのだ。

 東京で初めての喫茶店でのアルバイトは、カウンター内業務だったし、マクドナルドは深夜の清掃とどちらも人を相手としない裏方であったが、今回こそは接客業務となる。それも受付、案内、オーダー、精算という流れをすべて一人でこなさなくてはならないのだ。高校卒業前後に母親の紹介で富山の喫茶店でウェイターをしたことがあったが、ほんの2週間の小遣い稼ぎだった。

 オーダーを受けて準備するのも自分だ。ここは前々アルバイトが役に立った。コーヒーやアイスコーヒーは、出来てるのを沸かしたり、氷を入れたりして出すだけだし、ビールは小瓶で栓を抜き、コップを一緒に持っていくだけだったから良いとしよう。レモンスカッシュはレモン果汁、ガムシロップを炭酸で割るとか、ジンフィズ等は、リキュールを炭酸で割ったりするとか、予備知識があったので、特に教わらずとも出来た。

 僕に出来ないのは、食事関係だった。ピラフやスパゲッティー……出来ないことはないだろうが一応「マネージャー」と呼ぶ雇われ店長にお願いすることにしていた。マネージャーは、その頃30代だったのだろうか。ずいぶんと大人の印象だった。彼は101号室(401だったろうか?)にいて、私が食事のオーダーをお願いする以外は、ただボーッとしているように思われた。

 その店は、靖国通りからコマ劇場に向かう通りにあって、1階にパチスロがあるビルの4階と5階を使っていた。お店の受付である4階の入り口の内側に待機して、エレベーターで上がってきたカップルを4階ないし5階の空いている部屋に案内するのだ。「レンタルルーム」と呼ぶように二人だけの個室になっているわけである。

 個室の広さはせいぜい7?8坪、3畳?4畳半程度で、ソファーとテーブルとテレビがワンセットになっている。個室とはいえ、高さ2メートルくらいの間仕切りで、ワンフロアをいくつかのスペースに区切っているだけである。天井から30センチくらいは開いているのだが、これは消防法で定められているらしい。

 普段は5階は開けず、4階だけで十分対応できる。来店したカップルを開いている部屋に誘導し、「少々お待ち下さい」と言い、いったん受付奥のカウンターに戻り、お冷やとメニューを持ってオーダーを取りに行く。そしてカウンターに戻り、コーヒーを沸かしたりビールの栓を抜いたりしてオーダーを用意して持ってゆく。後はどうぞ御自由にとなる。

 男女カップルの利用とあって客数は多くなく、いたって隙である。満室になることもなく、土日以外は時間制限もなかった。確かコーヒー一杯が1300円という部屋代込みの料金設定で、二人で2600円でいくらでもいることが出来た。今のようにワンセグもないので、ナイター中継を見たり、ザ・ベストテンやタケチャンマンを見るために利用するカップルもいた。渋く談話だけして帰って行く熟年ワケありカップルもいたし、間違いなく事に及んでアダルトビデオ顔負けの喘ぎ声を上げるカップルもいた。女性は二人は良しとしたが、男性二人は断った。

 とにかく普段は、ほとんど店員一人でまかなえた。前に書いたように時折食事メニューの注文があった時、マネージャーを呼んだ。滅多にないが、4階が満室になったときマネージャーに相談し、5階を開けて5階の番をお願いしたような気がする。そういえば、物凄く忙しい日があった。次から次に入店があり、4階も5階も満室となった。平日は時間制限を設けないはずだったが、この日だけは延長料金を取ることにした。それが二月十四日、バレンタインデイであった。

 東京に出てきて一年が経った。バンド活動はほとんどミーティング重視の傾向がみられ、時々スタジオを借りてメンバーで盛り上がるものの将来的なことは何一つ決まらず、ただただ時を浪費しているだけだった。それを一番気にしていたのは若いマサキとユキヒロだったのだろう。僕がもっとリーダーシップを取れればよかったとは思うがノノ力不足だった。アキボーやカッペイにしても僕と同じだった。ただ単に先のことばかり夢見て、音楽そのものをないがしろにしていた。

 前述のごとく、もっとも気心が知れていたアキボーが、ストーンの仲間達に影響されてか、何を考えているのか分からなくなり、少しずつ距離を置くようになった。アキボーはどちらかというとかなり夢見がちな青年で、現実よりも夢の中で暮らしているようなところがあった。もちろん僕にもその傾向はあり、そのへんが気のあうところであったと思う。しかし僕の方は、どこかで醒めているところもあり、マサキやユキヒロの気持ちも理解しつつ、アキボーの足りない現実的な部分をカッペイに求めていたのかもしれない。この頃、上記の理由もあってカッペイと会う機会が多くなる。リーダーシップをとれるのは、彼をおいて他にはいなかった。

 仕事の方は順調であったが、時々交替の人がこないので、そのまま朝まで働くということが何度かあった。朝8時から夕方4時までのA君(ほぼ同い年)から、4時の時点での入室状況を引き継ぐ。同様の事を深夜の12時にBさん(年上)に引き継ぐ。マネージャーは9時か10時にレジを締めて、その日の売り上げを回収し、そのまま中野の自宅まで帰って行く。マネージャーが帰るとBさんが来るまで僕が一人になるわけだが、そのBさんが来ないと帰るに帰れないわけである。

 最初はとにかくビビった。まさか交替が来ないなんて……。そのころ新宿駅の最終が0時20分だったと思うが、走って10分、いつもなら11時50分くらいには来るのに0時を過ぎてもBさんは現れない。焦りつつマネージャーに電話をする。
「今お客はいるのか?」
「2組入ってます」
「悪いけど、朝までやってくれないかなあ」
まあ人が良い私は快く引き受けるのだ。時間帯としては危険な臭いがプンプンしていたが、それが好奇心を呼び起こした。歌舞伎町という場所柄、実際おかしな客もけっこうきた。

 その頃のおかまは誰が見ても分かったものだが、暗いうえにアルコールが入っていたりすると見抜けなくなる人が結構いるのだ。そのおかまは、その通りに立っていて通りすがりのサラリーマンを騙してこの店に連れてくる。また来たか、と僕は思う。とにかく案内をする。お冷やを持っていってオーダーを取るまでは事は起きない。オーダーのドリンクを持っていってもまだ大丈夫だったりする。ただしその前後にバタンと力任せにドアが開けられ、騙されたサラリーマンが怒りを露わにして店を出て行く。精算は必ずそのおかまがきっちり払ってゆく。それだけは何となくたいしたものだと思った。時々十六時間働きながら、そんな出来事を少なからず楽しんでいた。

 五月のある日の事、例によって交代がこないので、「又朝までだ。」と覚悟をきめて数時間たった頃、エレベーターから人相の悪そうな二人組の男がへらへらしながら現れた。遠慮無しに自動ドアを明け中に入り込む。
「ちょっと覗かせてもらうよ。」
彼らは笑ってそう言いながらつかつかと歩き回る。
「困ります」
最初は丁寧に応対したものの、普通ではないことに気がつきはじめ、僕は声を荒げた。
「警察を呼びますよ!」
相手はなおもへらへら笑いながら言う。
「へへえ、見ててやるから警察に電話してみろよ」
僕の中で何かが吹っ飛んだ。
「出てけよ!」
僕は精一杯の声で言った。中学、高校時代喧嘩一つせずに暮らしてきた僕にとって革命的な叫びだった。相手の顔から笑みは消え、僕に罵声を浴びせる。
「おやあ、この野郎急に態度を変えやがってよ。表に出ろ」
僕はもう熱くなってしまっていた。つい相手の誘いに乗って先にドアの外に出た。

 振り向こうとした瞬間、卑怯にも僕の後頭部に相手のパンチが炸裂、うずくまったところを二人でけりの連続、最初のパンチで頭が朦朧としていて僕は反撃する事が出来ない。完全にノックダウンだ。
「カッコ付けるんじゃねえよ」
意識が虚ろの中、捨て台詞を吐きながらそいつらは去った。

 なんとか起き上がることができたので、朝まで仕事を続けた。幸いそれ以降朝までの来店客はなく、殴られて醜くなった顔を見せつけることはなかった。本人でさえ、顔が腫れていることに気がついたのは、朝になってマネージャーに指摘されて鏡を見てからで、痛みは多少感じていたが、動き回るくらいは平気だった。

 朝出てきたマネージャーが僕の顔を見るなり、びっくりしていった。
「どうしたんだ」
一通り状況を説明し終えると、今度は警察に行ってこいと言う。とにかく被害を受けたのだから、我慢せずに主張してこいという意味のことを確かアドバイスしてくれたような……。また医者にも行って、店から出金するので、領収書をもらってくるようにと言われた。僕はそこで初めて鏡を見て片側がかなり膨らんでいるのを確認した

 新宿警察署は駅西口側、青梅街道の脇を入った所にあった。取調室というところに初めて入ったが、テレビで見た通りの感じだった。被害者でありながら、何となく落ち着かない気分で聞かれた通りのことを話した。相手の人相や着ていた服などはなかなか思い出せずにいたが、適当に答えた。

 その後小田急線にのって帰る途中、何気なく経堂という駅で途中下車した。なぜここで降りたのか、忘れてしまったが、そこで外科クリニックを探して、治療を受けた。記憶が薄れてどんな治療を受けたか思い出せないが、僕の心に刻まれたこの時の痛みは、いまでも大きな傷として残っている。

 その事件があってから、どうもマネージャーの信頼を厚くしたらしく、何かと目をかけてくれるようになった。又例によって交代があらわれず、何度目かの十六時間労働を覚悟していた日の事、帰ったはずのマネージャーが戻ってきて聞いた。
「客は入ってるか。」
賑わっているかの意味と解釈したが、正直に答えた
「残念ながら誰もいません」
マネージャーは特に残念そうな顔もせず、意外な展開になった。朝まで閉店にして飲みに行こうというのだ。

 言われたとおり、片づけをしてシャッターを降ろす。急にウキウキしてマネージャーについて歌舞伎町の中枢へと入ってゆく。たどり着いたのは結構高そうな高級クラブだった。まあ高級かどうかさえ分からなかったが、女性がつくような場所は初めてだったのだ。カラオケで「そして神戸」を歌ったのを覚えている。水割りをしこたま飲んだ。ちなみにこの時がカラオケ初体験と思われるが、当時はカラオケボックスなどない時代だ。レーザーディスクでもなかったから、音だけ鳴って、歌詞カードを見ながら歌ったのかもしれない。

 当時のカラオケは歌謡曲が大半だ。それも演歌の占める割合がやたらと多い。その中での苦渋の選択ではあるが、クールファイブの曲はそんなに嫌いではない。ポップス系では沢田研二くらいしかなかったと記憶する。

素晴らしい日々

 先にも書いたが、バンド活動の方は、時々スタジオに入る程度だった。練習そのものよりもメンバーと行動を共にすること自体が楽しく、この頃はローリングストーンにも居場所を見いだして、自分なりに楽しめてきていた。ジンライム1杯で朝まで踊り狂っていると、閉店を告げるロッド・スチュアートの「セイリング」が流れてくる。収入が安定してきたことにより僕もまたこの店に通うようになってきていたのだ。

 ローリングストーンは新宿御苑の近くにあって、まだ暗い朝を靖国通りを越えて歌舞伎町方面に出る。24時間営業の深夜喫茶で始発を待つというのがお決まりのパターンだが、時にはメンバープラスアルファで僕の住む夢幻荘に行くこともあった。アキボーにカッペイ、マサキにユキヒロ、時々マコも仲間に加わっていた。マコは我がバンドのファン1号だったかもしれない。

 この頃アキボーは、やはりローリングストーンの常連であるアッポンやローリングストーンでディスクジョッキーをしているシンの影響を受けていて、いよいよ持って独自路線を追求していた。

 アキボーが影響を受けたホロスコープは、いわゆる占星術であるが、生まれた日の星の配置でその人物の風貌、性格、恋愛感覚、好奇心の度合いといったものから人生、未来を予測するというもので、それまで気にかけていた星占いを凌駕し、この僕までもがかなりはまっていくことになる。

 アキボーが最初に持ってきた本は、ルル・ラブアという方が書いたもので、作者の写真は何時の時代撮影したものかわからないが、結構きれいな女性とお見受けした。まあそれは良いとして、僕の場合双子座であることは当に知っていたが、それは僕が生まれたとき、太陽が双子座の位置にあったということだ。ホロスコープでは生まれた時間までも調べるが、時間データでもっとも配置の違う天体は、月であると思う。月はその人の風貌だか、第1印象だとかと思ったが、自信がなくなってきたので、この辺で止めておこう。

 このホロスコープで見ても、僕とアキボーの相性は非常に良かった。それゆえに彼が友達の輪を広げていくことにある腫寂しさを覚えた。彼がローリングストーンで知り合った人たちの中の数人が、僕はどうも苦手で、特にシンという奴に関してはどこかとっつきにくい印象を受けた。

 世の学校が夏休みに入り、高三の妹が遊びに出てきた。去年も来ていたが、去年はあまり楽しませてあげることが出来なかったように思う。大体夢幻荘にはバスルームがない。銭湯に行くわけだが、意外と遠いし帰りは上り坂だし街灯は少ないし人通りもない。危険なこときわまりない。

 去年は銭湯の帰りがけに、深さ1メートルくらいの用水路に彼女が落ちてしまい、怪我は少し擦りむいたくらいだったかも知れない。大事には至らなかったが、服も汚れて、銭湯には戻りづらかったので、夢幻荘の麓にあるアキボーのアパートの簡易浴室をお借りして、汚れを洗い落とした。僕が気をつけていれば防げたことだけに悔しい思いをした。

 二回目の上京はそんなことがないように気をつけようと思った。今回はローリングストーンにも連れていった。確かメンバーたちと夜中にドライブにいった記憶があるが詳しくは思い出せない。車を持っているとすればカッペイに違いないが、どんな車だったか、ほとんど覚えていない。また僕が仕事にいかねばならない日曜日に、彼等に妹を任せ東京案内をしてもらった。後楽園などで時間をつぶしたようだ。同性のマコがいてくれたので兄としては安心して任せることができた。仕事が安定していたせいか、経済的に少し余裕もあり、アキボーのテレビを借りなくてすむように四月頃テレビを買っておいた。妹が夢幻荘に一人でいてもそれを見ることができた。

 秋になって僕はふと仕事を辞めてしまった。まさに昨年マクドナルドを辞めたのと同じように突然だった。今思い出そうとしてもその理由は分からないのだが、きっと自分なりに変化を求めたに違いない。幼稚だったと今でこそ思うが、回りを変えることが自分を変える近道だと思ったのではないだろうか。なかなか進まないバンド活動に業を煮やしていたに違いない。

 マネージャーにはたいへん善くしてもらったがもっと自分を見つめなおしてみたかったのだろう。その同伴喫茶は、「リーベ」という店だったが、今はもうない。僕が辞めてしばらくしてのぞき部屋系の風俗の店にかわってしまった。その辺りが歌舞伎町らしい。経営者は違う人のようだった。忌わしき事件はあったが、夜も眠らない町でのひとときはやはり刺激があって楽しかった。

 秋の風が吹き始めて、また数カ月ぶりに無職の気ままさを味わっていた。この頃の僕はARBの影響をかなり受けていた。金がないせいもあったが、この年二つの大学の学園祭に出かけた。どちらもARBを目当てに出かけたのだが、他の参加バンドも目を見張るものがあった。早稲田大学にはARBの他、ガールズロックの走りであるゼルダ、爆風スランプの前身である爆風銃(バップガン)、また東京水産大学には、のちに大ブレイクするボーイが前座をつとめていた。

 ARBは、昨年初めて目にして以来ずっと気になっていたバンドだった。ボーカルの石橋稜とドラムのキースがずっと不動のメンバーで、この時はギターが田中一郎、ベースがサンジと最も好きな時期だった。この年「W」というアルバムを引っ提げてツアーを敢行、学園祭もその流れに沿っていた。この「W」は、WAR、WORK、WOMANの頭文字「W」をタイトルにしたものという。

 確かに初期より戦争の恐怖を歌詞に取り入れ、反戦意識を明確にしていたし、労働者のささやかな幸せをピッゥアップしたり、女性に対する尊敬を歌い上げたりしてきた。それの集大成という意味もあったかも知れない。石橋稜の描く歌詞世界は、どことなく古き良き洋画を連想させる要素がある。石橋が兄貴として尊敬した故松田優作が、石橋は役者になるべきだとアドバイスしたこともあり、今はスクリーンの中で見かけることが多くなってきている。

 ローリングストーンには定期的に通っていた。いつのまにかアキボーやその友達のシンが中心となって「ストーンズで狂おう会」なるものを作っていた。その第一回目のパーティーを中野駅前の青春時代というパブで行うことになった。もちろん参加した。が、僕にとってはストーンズで狂うことなどできなかった。僕にとってはあまり意味のない集まりであったかもしれない。僕はなんとしてもバンドをどうにかしたかったが、依然としてアキボーもカッペイも集まって騒ぐことのほうに力を注いでいるように見えた。

 かといって僕自身何も方法を見出せずひたすら曲づくりに専念していたが、今思い起こせばそれでも楽しかった。リーベで働いた貯えがかなりあったせいと、普段の切り詰めた生活によって、この時記録を更新し四ヶ月間の無職生活を謳歌することになる。

 その無職時代、町田に引っ越しをしたアキボーと二人、レンタカーを借りてドライブに繰り出した。考えてみれば気ままなものだ。新しく体験する事をなるべく受け入れようという気風もあった。あるいは仕事で生かすため運転技術の確認をしようと思ったのかもしれない。   町田を出発して国道一六号から一号に入り、箱根を超え、沼津に入って南下。伊豆半島を一周する計画をたてる。夜の10時を越えたあたりで、一周するには時間的に無理であると判断し、途中左折して半島を横断、修善寺を抜け熱海に入る。熱海についた頃は、深夜二時頃であった。ミスタードーナッツで一息入れて帰り道を急ぐ。交代で運転していたが、最後の方はほとんどアキボーが運転していたようだ。

 このドライブに先駆けて、僕は眼鏡を購入している。新宿西口のパリミキで買った。なるべく安いものをと言ったので、いわれるままにセルロイドのボストンタイプにした。見かけは気にしなかった。

 夢幻荘でクリスマスケーキを食べたのはこの年であったろうか。昨年は十二月に入って早々帰省している。この時の記憶をもとに「イブの夜」という曲を書いた。この年は、他にも数曲書いたが、まだバンドで演奏されるには到らなかった。昨年と同様、まだ都会の華やかさに翻弄され、現実のきびしさにも圧倒され、本当にやりたいことが宙に浮いたような状況であった。

『TOKYO EARLY 3 YEARS −1982年−』

 結構危険な匂いのするところに顔を出していながら、本人はいたって純朴だったりするのが笑える。懐かしいけどコミカルだなあと思う。友人として登場するアキボーやカッペイに辛辣な事も書いてしまったが、もし目を通したら、笑って許してやって欲しいと思う。なかなかあう機会も減ってしまったが、彼らこそ本当に親友だといえる存在かもしれない。

『TOKYO EARLY 3 YEARS −1982年−』 ALTVENRY 作

 ALTVENRYの由来ともなっているバンド「R&B」と書いてアルトヴェンリというアマチュアバンドが登場します。残念ながら音源は全く残っていません。私の手元にオリジナルデモ作品が残っているだけで、バンドとして残っているものはありません。もし仮に残っていても、とても聞かせられる代物ではないであろう。当人たちが懐かしくは思うけれど……。アキボー、カッペイ、ジュンのキャラクターを使ったフィクションがあってもいいですね。  歌舞伎町で働いたりしてますが、地味に健康的な店もあったりするんですね。要は経営者の問題でしょうかねえ。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 冒険
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2011-05-24
Copyrighted

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