05 想い人
01 二匹の仔猫
5月の第2月曜日。
昨日から梅雨入りしたと天気予報が言っていた。
そして今も雨が降っている。
ジンジは、校舎南側の後田川沿いの道を使って家に向かっていた。
普段は北側の旭東通りを使って登下校しているのだが、今日はなんとなく、こっちの道を使って帰ろう、と思ってしまったのだ。
傘を左手で差して一人トボトボと、最近はあんまりこの道使ってなかったよなぁ~、と代わり映えしない景色を改めて確認しながら歩いていた。
するとそこに
これまで空き地だったはずの所に、新しい家が建っているのを発見したのである。
いつの間に? と横目で見ながら家の前を通り過ぎようとしていると、その家の門の角に、見慣れた淡いブルーの傘を開いてしゃがみ込んでいるセーラー服を発見したのである。
ジンジはその淡いブルーの傘に、ゆっくりと足音を立てないように近付いていった。
そしてその左横に、しゃがみ込んだ。
セーラー服の彼女の足元では、二匹の仔猫が遊んでいた。
一匹は白く、もう一匹は限りなく黒に近い鼠色の仔猫たちであった。
彼女の白い指が撫でる度に、仔猫たちは甘えた声をあげていた。
「捨て猫?」
ジンジは、淡いブルーの傘の持ち主であるカコに訊いていた。
「この家の猫ちゃんたちだと思うよ」
カコは、仔猫の喉を優しく撫でてやりながら、首に巻かれている紐を見せてくれた。
その首輪は、細い糸を幾重にも編み込んで作られたものだった。
白い猫がピンクで、鼠色の猫が黒を巻いてる。
「手編みの首輪なんだ。すごく綺麗だ」
ジンジは感心しながら、首輪に目を凝らした。
「とっても大切な猫たちなんだよ、きっと……」
カコは、飽きることなく仔猫たちの身体を撫で続けている。
仔猫たちは喉を鳴らしながら、カコの手に身体を押しつけ合っている。
すると
「そうだ、こいつらお腹空いてないかな?」とあることを思い出していた。
ジンジは、ちょっと待ってろ、と鞄の中に手を入れると、ごそごそとかき回し始めた。
「これ、食べるかな……」
そして取り出したのは、一本の魚肉ソーセージだった。
「何でそんなの持ってるの?」
ジンジは、歯を使ってビニールの包装を噛み切ってから
「そりゃあ、食べるために決まってんだろ」と言った。
「それは、そうなんだけど……」
カコは、どうして鞄の中に魚肉ソーセージが入っているか、を訊きたかったのだ。
「たまたま家にあったのを持って来たんだ」
ジンジはソーセージを小さく千切って、カコの手の上に乗せてやった。
「中学生の男子は、いつも腹を空かしているもんなんだよ。オレなんて家に帰ったら、まずは晩ご飯前にメロンパン食ってるし」
「これ食べながら帰って、家でもメロンパンを食べるつもりだったの?」
「そうだよ。育ち盛りだし」
ジンジは、あたりまえじゃん、という顔をしている。
「猫ちゃんたちにあげてもいいのね?」とカコは笑った。
「いいよ。実は鞄に入れてたの、忘れてたんだ」
しょうがない、というようにジンジは肩をすくめた。
カコが手の平に乗せた魚肉ソーセージを、仔猫たちの前に差し出すと、二匹はフンフンと鼻を鳴らした。
これは何だ? と探りを入れているようだ。
カコが、おいしいよ、と優しく声をかける。
すると二匹は、我先にと食べ始めていた。
「慌てないでいいよ、まだあるからね」と仔猫たちを嬉しそうに眺めている。
ジンジは千切った魚肉ソーセージを、カコの手の上に次々と乗せてやった。
やがて……
魚肉ソーセージは、仔猫たちのお腹にすべて納まってしまった。
仔猫たちは、まだ食べたいと、カコの手の平を甘噛みしながら舐めている。
「ごめんね、もう無いの」
謝りながら、仔猫たちの頭を撫でてやっているとそこに……
「あらあら、ごめんなさい」と二人の後ろから声がした。
驚いて振り返ると、ちょっと小太りで品の良い女性――おばさんが、右手に傘、左の肘に買い物かごを下げて立っていた。
二人は慌てて立ち上がった。
「こ、こんにちは」
二人同時に声が出ていた。
おばさんは
「声が揃うなんて、とっても仲がいいのね……」と笑った。
おばさんに気付いた仔猫たちは、すぐにその足元に駆け寄った。
「まあ、まあ、この子たちったら、何処から出ちゃったのかしら?」
おばさんは玄関ドアの方に顔を向けた。
カコは二匹を眺めながら
「やっぱりこのお家(うち)の猫ちゃんたちなんですね」とばさんに言った。
もしそうで無かったらどうしよう……と思っていたのだ。
おばさんは、頷き
「白いのがムーン、鼠色のがユベールっていうのよ」
素敵な名前……とカコは、ムーンとユベールに、はじめまして、と笑顔の挨拶を送った。
おばさんを見上げていた二匹は、カコの言葉を理解したのか? ミャウと鳴いた。
「でもほんとに、何処から外に出たのかしら? 鍵はちゃんと掛けて出掛けたつもりだったんだけど……」
おばさんは首を傾げながら、二匹が傘の下から出ないように、ゆっくりと玄関まで歩いた。
それでも仔猫たちは、濡れまいと走って付いてゆく。
「濡れるから……ってもう濡れちゃってるけど、とりあえずこの子たちをお家に入れないとね」と独り言を言いながら、買い物かごから鍵を取り出した。
玄関扉が開かれるやいなや、二匹はその隙間から家の中に飛び込んでしまった。
「あんた達、身体が濡れてるんだから、走り回ったりして部屋を汚さないのよ」
それはまるで、母親が小さな子供に注意するような言い方だった。
しかし中では、二匹が走り回るパタパタとした音は止まらない。
「聞こえたの?」
おばさんは、少し強めに言い放った。
すると一瞬で音が止み……ミャウという返事?が、カコとジンジにも聞こえた。
二人はどちらとも無く、顔を見合わせて笑ってしまった。
いい子にしてるのよ、とおばさんは玄関扉をゆっくりと閉めて、二人に振り返ると
「うちの子たちを見ててくれて、どうもありがとう」と改めて礼を言った。
かしこまってしまった二人は、慌ててお辞儀を返していた。
「あらあら、お辞儀まで揃ってるのね」
おばさんはコロコロと笑った。
「そうそう、ところであなた達は、そこの宮崎中学校の生徒さんたちよね?」
「はい、2年生です」とカコがすぐに返した。
「二人とも同じクラス?」
二人同時に頷いていた。
おばさんは、また揃った、と今度もコロコロと笑った。
*
それからはしばらくの間、学校についての立ち話が続いた。
そしていつしか、雨が三つの傘を強く打つようになっていた。
「あらあら、雨が激しくなってきちゃったわね」
おばさんは空を見上げた。
「そうだわ、お家に入らない? 雨が弱くなるまでお茶をしながら、お二人の話をもっと聞かせてくれないかしら……」
突然の以外なお願いに、二人は顔を見合わせた。
するとカコが申し訳なさそうに
「お誘いはありがたいのですが、すぐに暗くなってしまうので……」と深くお辞儀をすると
「ほんとに申し訳ないです」
ジンジがペコリと頭を下げた。
「そう、そうよね、暗くなっちゃうわよね」
おばさんは残念そうに、また空を見上げた。
雨雲が空を覆い、どんよりとしている。
「こんな天気なんですもの、やっぱり早く帰った方がいいわね……」
「すみません」とカコ。
「いいのよ」
おばさんは笑顔だった。
「じゃあ今度は、天気のいい日にいらっしゃい。お庭でうちの子たちと遊んで欲しいわ……」
「え? いいんですか?」
「ええもちろん」
「是非そうさせてください」
カコはとても嬉しそうだ。
「じゃあ、今度また必ず来てちょうだいね」
おばさんは、二人に丁寧なお辞儀をした。
「はい、お邪魔しました」と二人……
「ほら、また揃った」
おばさんは、今度はクスクスと笑った。
*
「不思議な人だったね」
二人で傘を並べて歩きながら、ジンジが言った。
「ほんと、何かとっても不思議なおばさんだった」
「そうだね……」
「ところで」
「なに?」
「どうして今日はいつもの道じゃないの?」
「たまたまだよ、たまにはこっちの道から帰ってみようと思っただけさ。そう言うそっちだってそうじゃないかよ」
「わたしもたまたまなの! 今日は何となくこっちの道で帰ってみようかなって……」
カコは笑っていた。
そのお陰で、仔猫たちと会えたのがよっぽど嬉しかったのだろう。
カコは自分で何度も何度も頷いていた。
「あの仔(猫)たちね、最初は玄関下でじゃれ合ってたんだよね。それでカワイイなぁ~て見てたら目が合っちゃって、そしたらわたしのところに駆け寄って来ちゃったの……」
「オレさぁ、あの猫たち……何か不思議な感じがしたんだけど」
「そう、わたしもそうなの」
カコは心持ち傘を持ち上げ、どんよりとした雨降る空を見上げた。
あの時のおばさんと同じような仕草だ。
「まるで人の言葉が分かってるみたいだったよね……」
「オレもそう思った」
カコが立ち止まり、ジンジも立ち止まった。
「そう思ったの?」とカコ。
「思った!」
「ふ~ん」
二人は立ち止まったまま、考え込んでしまった。
雨はさっきより、少し小降りになっていた。
02 転校生
二人が二匹の仔猫に出会って、三週間が過ぎた6月の月曜日。
あれからずっと、ほとんど……と言っていいほど、雨が降り続いている。
この三週間、晴れた日は皆無で、生徒たち……特に男子の憂鬱を溜め込む〝気分の器〟にも限界が近付いてきており、今にも溢れ出しそうになっていた。
クラス中の男子が、何か「うわ~↑↑→!」としたことが無ければどうしようも無い、と独特の雰囲気を発散していた。
とうのジンジも……
身体を動かしたい! どうしようもなく動かしたい、今朝も鼻血出た、三日連続だ、このままじゃあ明日も鼻血が出る、絶対出る! まるで狼男の気分だぜ。
椅子の背でもカジってやろうか……と悶々としていると、8時からの自習が始まってしまった。
なんでこんな気分なのに、自習なんかしなければならないんだ……とトンチンカンなことを考えながら、ジンジは机の中から教科書を取り出した。
取り出したのは、苦手な社会の教科書だった。
表紙を見ただけで、気分がヘタりそうになった。
ジンジは、半泣きしながら教科書を捲った。
*
だが今日は、ものの5分もしないうちに教室の扉が開かれ、担任の満川先生が現れたのである。
何だどうした? と207(2年7組)のみんなが先生に注目する。
先生は、生徒たちの注目など気にもせずに、ツカツカと歩いてきて教壇の前に立った。
「自習の時間だが、みんなに話がある」
先生は、かしこまったように、咳払いをひとつした。
「今日からこのクラスに、新しい友だちを迎えることになった」
……の一言で、教室中がざわついた。
え? 男子? 女子? どっち?
全員が、扉の向こうに意識を向けた。
クラスの男女、それぞれの期待が、扉の向こうに注がれた。
「さあ、みんな。心の準備はよろしいか?」と先生。
そんなことを言うなんて、とクラスに笑いが起こった。
それにそこまで言うのなら、とみんなの期待が膨らんでいったのも事実だ。
そして一時(いっとき)の間を置いて、先生が廊下に立つ転校生に声を掛けた。
「入って来なさい」
すると扉の向こうから、新しいクラスメイトが姿を表した。
その瞬間、大きなどよめきが教室を包んでいた。
後ろの席の生徒たちは、新しいクラスメイトの顔をもっと良く見ようと、無意識に立ち上がっていた。
本山タイジや灰賀トシヒコは、椅子から転げ落ちそうになるほどだった。
「きれい」
「かわいい」
「信じられない」
そこかしこで女子の声があがる。
「おお~」
「凄ェ~」
「何なんだよ~」
「テレビに出てんじゃねぇの――」
「わが207にようこそ――」
興奮の入り混じった男子の声。
そしてその転校生は、教壇までやって来て、先生の横に並んだ。
肩まで伸びる少し癖のある漆黒の髪、柳の葉のように細く整った眉、その下にくっきりとした二重の瞳、通った鼻筋、そしてぷっくらとした少し厚めの唇。
それらが、色白でやや細く微妙にふっくらした顔に、絶妙なバランスで配置されていた。
「凄ぇ女子が転校してきたな」
ジンジの前の席の谷花アキヒロ(タニ)が、椅子の前足を浮かせて仰け反りながら、同意を求めてきた。
するとジンジは
「え? 何が?」と返していた。
「何がじゃねぇだろ。あんなにかわいい女子がオレたちのクラスにやって来たんだぞ!」
一緒に興奮しようと思っていたタニは、完全に拍子抜けしていた。
「タニさぁ、お前ちょっと大袈裟過ぎんじゃねぇの?」
ジンジには、回りが騒ぐほど、その転校生が特別とは思えなかった。
もしその娘と友だちで無かったならば、仮にどこかですれ違ったとしても分からない、意識に残らない、ごく普通の女子にしか見えなかったのである。
「マジでそんなこと言う? 頭おかしいのはお前の方だよ。なぁ~」
タニは今度は、彼の右隣の友長ケイコに意見を求めた。
「わたしも、あの娘って凄く綺麗でかわいいと思う。妬みじゃなくて本当の気持ち。羨ましいくらい」
そう言った彼女の頬は、少し紅くなっている。
「ほら見ろ、友長さんだってそう言ってるじゃないかよ」
ジンジは反論した。
「いやいや、おかしいのはそっち方だってば、言っちゃ悪いけどみんなが騒ぐほどオレにはそんなに凄い娘には見えねぇんだけど……」
「お前の目は節穴か?」
「節穴で悪かったな」
ジンジはむくれた。
「チェッ、つまんねぇ奴。話になんねぇよ」
タニは、椅子を戻して前に向き直った。
そして友長も、不思議そうな顔をしてジンジを見て首を捻り、それから前を向いてしまった。
*
「みんな静かに」
先生が、出席簿で教壇を叩くと、ざわついていた教室が、一瞬で静まり返った。
「紹介する。入間乙音(いるまおとね)くんだ。親御さんの仕事の都合で、福岡から引っ越してきた。みんな仲良くしてあげるように」
彼女は自分で、黒板に入間乙音と書いた。
「入間、乙音、よろしく、お願い、します」
乙音がお辞儀をする。
お辞儀をすると髪が揺れる。
その仕草だけで、教室の男子からため息が漏れていた。
「声までかわいいなぁ~」
タニは完全に舞い上がっていた。
それだけでは無い、クラスメイトのほとんどが大なり小なりそんな反応を示していた。
なんでみんな、そんなに……と不思議に思いながら、ジンジは教室中を見回していた。
03 乙音の席
「それじゃあ入間の席は、家入、お前の隣な」
「え?オレの隣……すか?」
唐突に名前を呼ばれたもんだから、ジンジは慌てて、そのまま立ちすくしてしまった。
え~、嘘~、マジ? 男子たちの目が、家入に集中した。
「何をそんなに驚くことがある。空いている席はそこしか無いだろ」と満川先生。
確かに、家入の右隣は空席となっている。
「家入、聞こえてるのか?」
先生の声が飛んできた。
反射的に、ジンジは手を挙げた。
「はい、聞こえてます」
「教科書は、前の学校で使っていた物を持ってきているそうだが、違っている教科の物があったら見せてやれ」
そこでまた、教室がざわついた。
「ちゃんと、机を付けて見せてやるんだぞ。分かったな!」
おいおい、くっ付けて見せてやれって……先生がわざわざそんなこと言わないっしょ、とざわつきに、追い打ちまで掛けられてしまった。
「他にも色々教えてやるように。頼んだからな!」と反論する暇も与えてくれずに、一方的に決定されてしまった。
別に反論するつもりは無かったので、ジンジは、分かりましたよ~と頷いていた。
「じゃあ入間、席に着きなさい」
はい、と返事をした乙音は、教壇を下りて家入の右隣の空いた席までやって来た。
「家入くん、よろしく」
入間乙音は、ジンジにしっかりとお辞儀をした。
「分からない、こと、たくさん、ある、思う、教えて」
そう言うと乙音は、自分から机を動かして、家入の机に横付けしてしまった。
そして飛び上がるようにして、椅子にふわりと着席していた。
*
間もなく、朝自習終了のチャイムが鳴った。
満川先生はそのまま教室に残って、ショートホームルームを始めた。
出席を取った後は、これと言った連絡事項もなく……(そりゃあ今、転校生を紹介したばっかりだから)先生はそそくさと教室を後にしていた。
先生が消えるや否や、今度は女子も含めたクラスメイトの視線が、乙音に集中していた。
タニなんかは、完全に後ろ向きになって彼女を凝視している。
そんなクラスメイトの強烈な視線を、意識していないのか? あるいはわざと無視しているのか? それとも無頓着なのか?
乙音は、まったく静かにして席に座っている。
……かと思っていたら、急に身体をモゾモゾと動かし始め、突然ジンジに声を掛けていた。
「家入くん、1時限、何時、から?」
ジンジは、教室正面の黒板の上に掛けてある時計で時間を確認した。
「(8時)45分から」
授業開始まであと10分あった。
すると乙音が、唐突に立ち上がった。
「お願い、ある、です……」
「お願い、 何?」
早々のお願い事に、ジンジはたじろいてしまった。
そして、気持ちを身構える暇も無くお願いされたのは
「おトイレ、行きたい、連れ、てって……」だった。
ジンジは椅子から転げ落ちそうになった。
二人の会話に耳をすましていたタニは、完全に転げ落ちていた。
「え、え……それってオレにお願いすることなの?」
慌てて、タニの右隣の友長に助けを求めようとしたが、彼女の席は空だった。
どこかで友だちと話でもしているのであろう。
それなら、誰か近くの女子にでも頼もうと見回すが誰も……
どうしよう、と焦りまくるジンジに、横から声が掛かった。
「大丈夫?」
カコだった。
タニの転げ落ちを見て、何事か?と来てくれたのだ。
「い、入間さんが、トイレ行きたいって言ってる」
ドギマギしながら、カコを見上げる。
「トイレ? じゃあわたしが案内してあげるよ」
あっけらかんと、カコは快く引き受けてくれた。
「カコ頼む……」と手を合わせ、助かったぁ、と心の中で胸を撫で下ろすジンジだった。
「ありがと、う、ござい、ます」
乙音はカコに向き直って立ち、しっかりと頭を下げた。
「墨木です。よろしくネ。仲良くしょうネ」
「墨木、カコさん、ですか、入間、乙音、です、よろしく、お願い」
乙音は自分からカコの手を取り、両手で包み込んだ。
「そ、そう。墨木カコ」とカコは、苦笑いしていた。
「じゃあ、家入くん、一緒に」と乙音。
「え? オレも一緒に……」
ジンジは目を丸くした。
「いいじゃない。行こうよ」
カコは笑っている。
タニは口をあんぐりと開けたまま、三人を交互に見やっていた。
*
三人が教室を出ると、数人のクラスメイトが後を追ってきた。
「何なんだよ、あいつら……」
「気にしちゃ駄目だよ」
カコはジンジの肘をつついた。
「どうして? あの人たち、ついて、くる」
振り返った乙音に、後方の男子たちはビビったように立ち止まって後ずさった。
「あの人、たちも、トイレ、行きたい、ですか?」
「そだね」とカコが答える。
ジンジは肩を震わせていた。
04 音也
202(2年2組)にも転校生があった。
乙音の双子の兄である音也だった。
音也も、乙音と同じく容姿端麗?で、すでに202のアイドルとなっていた。
しかも、音也の方が乙音より社交性が備わっているようだ。
「こっち向いて」と言われれば、声のした方を向いてくれるし
「笑って」とリクエストされれば、それこそ笑って応えてくれるし、挙句の果てには快く握手にも応じる……出来過ぎたアイドルであった。
1時限目が終わって休み時間になると、202と207の前の廊下は大騒ぎになっていた。
202は女子で埋め尽くされ、207は男子で埋め尽くされることとなったのである。
*
2時限目の終わりの休み時間に、208のナオとユウコがカコの所にやって来た。
「202に転校生が来たの知ってる?」
ユウコがはしゃいだ声で言った。
「うちのクラスに来た乙音ちゃんのお兄さんでしょ。もう有名だよ」
「お兄さんなの?」
「乙音ちゃんに教えてもらった」
「彼女のこと乙音ちゃんって言ってるの?」
「入間さん入間くんって呼ぶと区別しにくいから、わたしのことは乙音って呼んで欲しいってお願いされたの」
「もうそんなに仲良しになっちゃったんだ」
「とっても面白い子だよ。まだちょっと分かんないとこがあるけどね。で、なに?」
お昼でもないのにどうして来たの? とカコは二人に訊ねた。
すると今度は、ナオが口を開いていた。
「一緒にお兄さんを見に行かない?」
カコを誘いに来たのだ。
「見に行くの? お兄さんを?」と返すカコに、二人はアイドル音也へ会える期待?で、すでにそわそわしている。
207に来る前から、していたのかも知れない。
はなっから、行く気満々なのである。
「あんまり気乗りしないんだけど……」とカコが生返事をすると
「凄くカッコいいらしいからさ、ね、一緒に見に行こうよ」
そして二人は、カコの腕を取って、無理矢理に立ち上がらせてしまった。
「ねえ、行こうよ、行こ、行こう」
あまりの強引さにカコは
「じゃあ、行くだけだよ」と応じるしかなかった。
*
3時限目の授業が終わると、ユウコ一人が、またカコの席までやって来た。
「普通だったね」
ユウコの最初の台詞がそれだった。
カコは乙音の席の方に首を回した。
乙音は、数人の男子が取り囲まれていた。
乙音は男子の質問に、恥ずかしそうな素振りを見せながら、それでいて笑顔で答えている。
そのようすを、廊下で群れている他クラスの男子たちが覗いている。
「ナオも言ってたよ。何でそんなにみんなが騒いでいるのかって」
「そうなんだよね。騒がれる二人が何だか可哀想に思えちゃった」とカコも、ナオとユウコの意見……と言うか、その気持ちに納得するものがあった。
すると、ユウコはカコに顔を近付け
「ここだけの話。わたしから見れば、ぜんぜん普通の人のように見えるんだけど……」と耳打ちしていた。
「ジンジもそう言ってた」
「ナオも同じようなこと言ってたんだよ、何であんなに騒がなきゃならないのかなぁ~って」
「そうなんだね」
「ほんとにそう」
二人は乙音にたむろする男子たちを、不思議そうに眺めながら、首を捻るばかりであった。
05 お弁当の時間
お昼は、仲の良い者同士が、それぞれ好き勝手に机を寄せ合ってグループとなり、持参したお弁当や、売店で買ったパンを楽しく食べるのがお決まりとなっていた。
カコもナオとユウコと一緒にお昼をするのだが、二人は隣の208なので、日替わりでそれぞれの教室を行き来している。
今日はカコが208に出張する日だった。
ジンジはというと、いつもならグラウンドの朝礼台の上でシゲボーと一緒に弁当を食べるのだが、梅雨の長雨でここのところずっと教室のシゲボーの席で食べていた。
*
弁当を教室の後ろに置いてある鞄から出し、シゲボーと合流しようとしていたジンジは、乙音が一人で席に座っているのに気付いた。
どうやら彼女に、一緒に食べようと声を掛ける女子がいなかったようだ。
しかも、乙音の机の上には、配られた牛乳があるだけだった。
ジンジは席に引き返し、乙音に声を掛けた。
「お昼は?」
「無いです」
返事はあっけらかんとしたものだった。
「無いの?」
「うん」と元気に頷く。
「パンは買ってないのか?」
「ない!」
「教えてもらって無かったのか?」
「教えて、もらった、けど、あれ、あれです、思い出した、お金、そう、お金、無い」
「兄ちゃんも持ってないのか?」
「お兄ちゃん、関係、ない、それに、音也(お金)も、持って、ない、思う」
「先生に言えば、貸してくれたのに」
「先生、言う、忘れた」
まるで他人事のようだ。
「前の学校では、(お昼は)どうしてたんだよ?」
「前の、学校? 前の、学校……あれ、何て、言う? う~ん、ほら、学校、用意、くれてる」
「学校が用意してくれてる? ああ給食のことか」
「そう、それ、給食……て言う」
「そうか給食か」とジンジ。
「あしたからは弁当を持って来るかパンを買うかだけど、今日はどうするんだよ?」
「大丈夫、食べない、平気、これ、だけ、大丈夫」
乙音は、学校から配られている牛乳を手に取った。
「牛乳だけで平気なのか?」
「平気、飲み、ながら、家入くん、食べる、見てる」
どこか話が噛み合っていなかった。
お昼を食べなくて、午後も授業があるのに大丈夫なのか? 気持ち悪くならないのか? とジンジは訊きたかったのだ。
「う~ん、ただオレが食べるのを見てるだけってのも困るンだよなぁ。どうしようかなぁ~」
「家入くん、困る、無い、わたし、見てる、だけ」
両肘を机の上に乗せ、頬杖をついて、乙音はジンジを見上げていた。
「見てたいだけって……」
乙音はニコニコしている。
困ったなぁ、とあれこれ考えを巡らせていると、思いがけなくジンジはあることを思い出していた。
「ちょっと待ってろ」と言うと、まずシゲボーの所に行って二言三言言葉を交わした。
それから教室の後ろまで行き、棚に置いてあるアディダスバッグの中から紙袋を取り出して戻って来た。
「これ食うか?」とジンジは、乙音に紙袋を渡した。
「なに、ですか?」
言いながら紙袋の中を覗き込むや、乙音は嬉しそうな声をあげていた。
「いいの、これ、食べる、いいの?」
「いいよ。オレは弁当があるから。それ育ち盛り用の非常食だし」と笑った。
「ほんとに、食べる、いい、ですか?」
「学校帰りに食べようと思って持ってきたやつだから……大丈夫さ」
「嬉しい、ありがとう、え、え~と、そうだ、遠慮、だった、遠慮なく、食べる、じゃなくて、いただく」
乙音は、紙袋からメロンパンと魚肉ソーセージを取り出していた。
「いただき、ま~す」
乙音はまずメロンパンにかぶりつき、牛乳を喉に流し込んだ。
悲鳴か?と思われるような声が、乙音の口から上がった。
「美味、ひ~い、凄く、美味ひィ」
クラスメイトは、何事か?と乙音に注目した。
慌てたジンジが「みんなが見てるから、あんまり大きな声をだすなよ……」と窘(たしな)める。
「ごめん、なさい」と言いながら、乙音はまたメロンパンにかぶり付いていた。
そこでようやく、ジンジは自分の席に座った。
シゲボーと一緒のお昼をキャンセルして、乙音の隣で食べることにしたのだ。
そしてやっと、弁当を広げることが出来た。
やっとこさ、さぁ食べるぞとすると、今度は横から魚肉ソーセージが差し出されていた。
「剥ヒて、くれない?」
乙音はモグモグやっている。
「お、オレ……が?」
「だって、わたし、出来ない、これ、食べてる」
牛乳を飲む。
「歯で、ガジって、ビニール、破って……」
乙音は、魚肉ソーセージをジンジに持たせた。
しょうが無ねぇなぁ~、とジンジは、魚肉ソーセージの頭の針金部分を右の犬歯で噛み、グイっと一気に引き千切っていた。
そのまま半分ほどビニールを剥き「ほい」と乙音に返す。
「ありがと」
乙音は頭を小さく振りながら、魚肉ソーセージを頬張った。
そしてしばらくの間、今朝初めて会ったばっかりの、乙音とジンジの、傍目(はため)から見れば奇妙な、無言の食事会が進んだ。
その奇妙な食事会が終わるころ、乙音がまた口を開いた。
「お昼、休み、学校、案内、お願い」と言い出していた。
「学校の中? そんなに案内する所なんかないと思うけど」
「お願い、音也、一緒」
「分かったよ」
こうなったら、何でも引き受けちゃいますよ、とジンジは牛乳を飲み干していた。
06 学校案内
乙音は兄の音也を207の教室まで連れてきた。
瞬時に、教室中がざわついた。
そこかしこで、女子の無言の悲鳴が渦を巻いている。
そんなの全く気にする素振りを見せずに
「音也、こっち、家入くん」と乙音が、兄の音也をジンジに紹介した。
しかしさすがにジンジは、わけも無くかしこまってしまった。
「妹の乙音が世話になったようですね、どうもありがとうございます」
音也はジンジに深々と頭を下げ
「お昼までご馳走になったと聞いてます」とまた頭を下げた。
ジンジは気を落ち着け、非常食をあげただけだから、と返し、逆に音也にお昼のことを訊ねていた。
「お昼、です、か……」
音弥は、照れて言葉を濁してしまった。
「音也、クラス、女子、パン、貰った、みんな、あげよう、するから、困った、ジャンケン、勝った、人から、貰った」
言い淀む兄に代わって、乙音が代弁した。
「凄ぇな」
「音也、凄い」と言いながら、乙音は鼻を手でこすっている。
その鼻をこするようすを、見るとはなしに見ていたジンジは?と思うことがあった。
乙音にパンを分けてあげよう……て男子や女子がいなかったことに気付いたのだ。
どうしてなんだ?と頭を捻っていると、行こうよ、と乙音が、ジンジの肘を掴んで揺らした。
考えを打ち切られたジンジは
「そうだな、行こう」と返事をした。
もともとが兄妹の学校案内だから、今の疑問は後回し、と頭を切り替えた。
するとその瞬間……
唐突に、背中に風を感じた。
不思議に思って、周を見回していた。
それは風ではなく、〝風のようなもの〟だった。
しかし、今のは何だ?と思う余裕も与えられずに、乙音に背中を押され、半分無理矢理に教室を出されてしまったのである。
*
廊下に出ると、さっきの風は嘘のように感じなくなっていた。
変だなぁとは思いながらも、やっぱり気のせいだったンだな……とジンジは気を取り直すことにした。
それじゃあ何処から案内しょうか?と二人に振り返ろうとしていたところに
「まずは無難な所で、体育館じゃない?」と唐突に声が掛けらていた。
振り返るとカコだった。
「手伝うよ」
ナオとユウコ、202のタカコもいた。
「おお、サンキュー」
ジンジは喜んだ。
救世主の女神様たち、と四人を、手を合わせて拝(おが)んでいた。
実際ジンジは、どうやって案内するか何も考えていなかったのだ。
タカコが寄って来て
「もてもてだね」とジンジを肘で押す仕草を見せた。
女神たちのおかげで、案内に悩むことの無くなったジンジは、完全に解放された気分だった。
「いやぁ~、それほどで(も)……」と頭を掻こうとし、その動作と台詞が終わらないうちに、脇腹を小突かれていた。
えへへ、とジンジは、脇を手でさすりながら、カコに苦笑いした。
カコは苦笑いを無視し
「ほら、急がないと昼休み終わっちゃうよ。乙音ちゃん、先ずは体育館から案内するね」と二人に声を掛けていた。
「カコさん、ありがとう」と乙音。
音也も「カズコさん よろしくお願いします」と小さく頷いていた。
すると乙音が不思議そうな顔をした。
兄の音也に向かって、何かゴソゴソと耳打ちしている。
乙音は音也の返事を聞いて、目を丸くした。
「家入くん、墨木さん、のこと、カコ、呼んでる、だから、カコさん、だと、思ってた、ごめんなさい、カズコさん、だった……」と恐縮し俯いてしまった。
カコは笑った。
「大丈夫だよ。カコ(さん)でいいよ。親しい仲間はみんなそう呼んでくれてるんだから」
「親しい、仲間……?」顔を上げる乙音。
「そうだよ。親しい仲間!」
カコは優しく言った。
乙音はすぐに、カコの横に並んで腕を取って
「カコさん、体育館、どっち、ですか?」と廊下を前に進み始めてしまった。
その後ろに音也とジンジ、すぐ後ろにタカコ、その後ろにナオとユウコが続いた。
やがて……最初はその6人だけだったのが、いつの間にか徒党を組んだ男女が少しだけ距離を置いて追ってくるようになっていた。
さながら大名行列のようであった。
07 言わなくても分かる
放課後。
カコは、学校の南側の正面玄関広場に立っていた。
今日も一日中雨だった。
止まない雨はないって言うけど、ほんとに止むのかしら?と思いながら空を見上げていると
「お待たせー」とナオが来た。
「ユウコもすぐ来るから……」と言っている間にユウコも現れた。
それじゃあ帰ろう、と三本の傘が開いたところに、後ろから声が掛かった。
「江本、これから帰るの?」
ユウコはそれこそ、反射的に振り返っていた。
声の主が誰なのか、瞬時に分かったのだ。
206のシンコだった。
「う、うん、こ、これから帰るところ」
一瞬の後(のち)、ユウコの頬は紅に染まっていた。
*
「二人とも、ぜんぜん喋らないね」
ナオが、横のカコに囁いた。
「学校出てからずっとだよ」
さらに小さい声で、カコが返していた。
……とそんな風な会話をしながら、二人はユウコとシンコの後ろを歩いていたのである。
うふっ、とナオが急に口を押さえた。
「どうしたの?」とカコ。
「でも、凄く楽しそうに見えるんだもの――」と前の二人の後ろ姿を、楽しそうに見ている。
「そうなんだよね、何も言わなくても分ってるって感じが伝わって来るんだよね」とカコ。
うんうん、と頷きながら、二人は少しずつ、前の二人から距離を取っていた。
*
「ジンジはどうしたの?」
突然思い出したかのように、ナオが訊いた。
「今日は、身体を虐めたいんだって。だから居残り練習してるんだと思う」
居残りと言ってもこの雨だ。
渡り廊下や体育館2階の回廊を走り回るだけしか出来ないのだが……
「いじめたい?」
「虐めないと鼻血が出ちゃうかも知れないからだって――」
「鼻血? 病気なの?」
「そうじゃなくて、この雨続きで身体が鈍(なま)ってるからだと思うよ」カコはクスクスと笑った。
「なんか分んないけど、ジンジ(男子)ってそうなんだ」
「そう、分んないけど男子(ジンジ)ってそうなの」と肩で笑った。
雨は止むこと無く、いつまでも降り続いている。
08 傘が無い
虐めが終わって、普段より何倍も重くなった身体に鞭打って、ジンジはやっと学校の正面玄関まで辿り着くことが出来た。
そこに、乙音と音也の兄妹が空を見上げて立っていた。
「どうした?」のジンジの声に、振り返ったのは乙音だった。
「傘が無いんです」
遅れて音也も振り返った。
「持ってないの?」
朝から雨だったのに?
「今朝は、母の車で来たんです」と音也が教えてくれた。
「そうか、車か。で、帰りも迎えに来てくれるんだろう?それで待ってたんだろ?」に二人は、急に押し黙ってしまった。
「家に電話すれば?」とジンジ。
「引っ越して来たばっかりで、新しい電話番号を覚えてないんです」と音也。
「だから、連絡する、にも、しようが、なくて……」
乙音はしょんぼりしている。
するとジンジは、速攻で言った。
「じゃあ、オレの傘貸してやるから、二人で使いなよ」
ジンジは、手にしていた傘を持ち上げて見せた。
その提案に、兄妹は顔を見合わせた。
そして二人が、でも……と言い出すよりも前に
「教室に戻れば置き傘があるから」とジンジは、傘を乙音に差し出した。
今度もまた、でも……戸惑う乙音よりも前に、いいから、と握らせた。
「ありがとう、借りる、こと、するね」
そう言って乙音は、傘を胸に抱いた。
渡したは渡したが、使い古したボロ傘だから、胸に抱くこともないのに、と思いながら
「じ、じゃあ、オレ、教室に置いてある傘を取りに戻るから」と自分でも少し恥ずかしくなってしまった。
そしてジンジは片手を上げて、二人から背を向けた。
何故かドギマギしてしまった。
「ありがとう、ほんと、ありがとう」
ジンジは二人の礼を背中で聞きながら校舎に戻り、教室へ向かう階段を上った。
あの二人との会話は、どうも調子が狂ってしまう。
会ったのは今日が初めてで、二人のことをよく知らないからなのだろう。
多分そうなのだろう……と考えていると、ふと思い立った。
そうか、職員室で訊けば電話番号も分かるじゃないかよ、と足が止まった。
でも、ま、いいか。
傘貸したし……いいよな、と一人で笑って、ジンジは再び、教室への階段を上り始めていた。
09 教室の二人
ジンジは、教室の前の廊下に設置してある傘立てから、自分の置き傘を抜き取った。
そして、じゃあ帰ろうと踵を返したとき、みんなはもうとっくに帰っているだろう、と思っていた教室の中に、影を発見していた。
あれ?と目を凝らすと、電気の消された薄暗い中に、まだ人がいるではないか。
誰なんだよ、とジンジは教室の扉を開けた。
ふたつの影が、雨の降る窓の外を眺めていた。
扉の開く音に、二人が振り返った。
ジンジは
「あ、悪りぃ」とただそれだけ言った。
教室にいたのは、味田ヨウイチ(アジ)と中山ナオミ(シジミ)だった。
肩が触れるほど近かった二人は、慌てて距離を取っていた。
その瞬間、三人の間に気まずい空気が流れていた。
ジンジは、遠慮無しに教室の扉を開けてしまった自分の無頓着ぶりが、恥ずかしくなってしまった。
「ジンジじゃないか……」
言葉が見付からず、アジは照れ臭そうだ。
「忘れ物を取りに来たんだ」とジンジは、自分の席に早足で移動した。
そして、わざと大袈裟な動きをしながら、机の中に手を入れた。
そして
「あった、あった」と声をあげ、何も持ってないカラ手を、二人に見えないようにポケットに入れた。
それからすぐに
「じゃあ、帰るわ」と反対の手で、二人に挨拶を送った。
「あ、ああ」
アジが応える。
ジンジは、せわしなく教室を後にしていた。
10 靴下は嫌い
翌朝、火曜日、今日も雨。
ジンジが、窓際の自分の席まで来ると、気付いた乙音は立ち上がって、一番に挨拶してきた。
「おはよう、ござい、ます」
ジンジも、おはよー、と返すと乙音は、手の甲で頬と鼻を撫でて笑った。
「傘、ありがとう」
乙音は、昨日借りた傘を、両方でしっかりと持って、ジンジに差し出した。
傘はきちんと畳まれていた。
しかも貸した時よりも、きれいになっている。
ジンジは
「濡れなかったか?」と訊いた。
乙音は、大丈夫だった、と大きく頷いた。
「よかったな」と返し
「ちょっと、なおしてくる」と傘を受け取った。
その言葉に乙音が反応した。
「直す?、ごめんなさい、傘、どこか、壊れて……」
どうして壊れてしまったのかが分らず、乙音はオロオロするばかりだった。
ジンジは慌てて謝った。
「あ、いや、ごめん、壊れてない。傘を片付けてくるだけだから……」
乙音はキョトンとなった。
「壊れてない、ですか?」
「壊れてないよ、なおすってのは宮崎弁で片付けるって意味だから――」
「片付ける? ほんとに?」と戸惑った目でジンジを見ている。
「ほんとだから、安心して」
ジンジは笑って返した。
嘘じゃないことを、笑って伝えることしか出来なかった。
それで乙音も、ようやく納得がいったようだ。
「分り、ました、じゃあ、傘、なおして」と笑い返してくれた。
よかった…とジンジは、肩から外した鞄を机の上に置き、傘だけ持って廊下に出ていった。
*
教室に戻ると、乙音は窓際のジンジ席の方を向いて、椅子に横座りしていた。
乙音の背中が見える。
何か、ごそごそとやっているようだ。
ジンジは、ただの興味本位で
「何やってんの?」と後ろから乙音の背に声を掛けた。
乙音は、座ったまま上体を反らせて、ジンジを仰ぎ見た。
「ちょっと、です……」
そう言うと、また向き直って背を丸めた。
ジンジは自分の席に回り込んで、何をやっているのかと覗いてみた。
乙音は椅子の上に足を乗せて、靴下を脱ごうとしていた。
……!
身体と言葉が固まってしまった。
椅子の上に片方の足だけを乗せているせいで、スカートが太股の半分くらいまで捲れ上がっていたのである。
丸くなったジンジの目は、乙音の太股に接着剤のようにくっ付いてしまった。
その時、強い声がジンジの耳朶(じだ)を打った。
「ジンジ!」
その一言のお陰で、瞬間的に呪縛から解放されたジンジは、声に顔を上げることが出来た。
鞄を肩に掛けたままのカコが、そこまでやって来ている。
怖い顔をしている。
声に反応して、乙音も身体を捻る。
さらに足が開いた。
「ジンジ、わたしを見て! わたしから目を離さないで!」
カコは急いでやって来ると、二人の間に割って入り、乙音の足を椅子の上から強引に引き下ろしていた。
「何してるの?」とカコは、怒ったような口調で乙音に言った。
「靴下、脱いでた」
何が悪いのか意味も分からず、乙音はカコを見上げた。
右足の指の先には、靴下がまだ引っ掛かっていた。
「靴下?」とカコ。
「靴下、苦手、嫌い、脱ぐ」
「脱いでた?」とジンジ。
ジンジの頭の中は、まだ混乱中で、それだけ言うのがやっとだった。
「とにかく、椅子の上に足を乗せるなんて、そんなことしちゃ駄目だよ。女の子なんだから……」
この娘はどんな子なの? 前の学校ではどんなだったの?
「それに転校してきたばっかりで、みんなから注目もされてるんだからね」
「わたし、注目、ですか?」
自覚が無いみたいだ。
注目されてるってなにも……注目され過ぎだよ、とカコは困ってしまった。
「とにかく駄目、約束して、お願い」
乙音はキョトンとしている。
何故、この靴下を脱ぐだけの行為が駄目だったのかが分かっていない。
カコは言葉に窮してしまった。
それでもなんとなく、いけない行為だったという、その雰囲気を感じ取った乙音は
「わかった、気をつける」と残念そうに返事をしていた。
「約束だよ」
それでも……
ほんとに大丈夫なのかな? と首を傾げるカコだった。
11 自習時間
自習時間になった。
ジンジは気持ちを落ち着けようと、社会の次に苦手な、漢字の書き取りをすることにした。
国語の教科書を開いて、手当たり次第に目に付いた漢字をノートに書き写す作業に没頭しようとした。
でもどうしても、さっきの光景が目の前にチラ付いてしまう。
どうしょうも無く、そして気になって仕方なく、隣に目をやると、乙音は家庭科の教科書を開いていた。
調理のページだった。
「美味しそう、食べたい」
辺りに聞こえるほどの独り言?を言いながらページを捲っている。
ジンジは、いかんいかん、と頭を強く振った。
気持ちを切り替えようと、教科書を睨みつけるように顔を近付け、両手で頭を抱え込むようにした。
それがいけなかったのか
「どうした、ですか?」と声を掛けられてしまった。
乙音が覗き込んでいる。
「何でもない、何でもない」
ジンジは頭をシャンと上げ、頬を引き攣らせながら手を振った。
「頭、抱えてた、痛い、ですか?」
乙音は、ジンジのイガグリ頭に手を伸ばしてきた。
ジンジは慌てて身体を反らし、手が触れる寸前に逃げていた。
「何でもないから」
「そう、ですか……」
乙音は、宙に浮いた手を引っ込めて、また教科書に目を落とした。
そして直ぐに「おいしそう」と教科書に語りかけ始めた。
君はどういう娘なんだ?と思いながら、ジンジは背筋を伸ばしたままの格好で、何気ないふうを装いながら教室を見回した。
すると、思いがけなく誰かの視線を感じた。
今の乙音とジンジのやり取りを、見ていたクラスメイトがいたのだろうか?と考えながら、意識を向けたそよ先にいたのは……
山中だった。
その瞬間、山中は目線を逸らして俯いていた。
ジンジは、ふたつの影が窓の外を見ていた昨日の放課後のことを思い出していた。
12 昼食
昼食の時間になった。
授業が終わり、先生が教室を出るのとほとんど同時に、ジンジも教室を出てトイレで用を済ませ、席に戻ってから教科書とノートを片付けた。
そして後ろの棚に置いてあった鞄から弁当箱を持って来て、机の上に広げた。
弁当は、ご飯用とおかず用に分かれている。
今日はお弁当を持ってきてるだろう……と見ると、乙音が身体を揺らしている。
「おべんと、おべんと、嬉しい、な」
乙音は鼻歌を唄いながら、机の上に置いた紙袋を覗いている。
そして取り出した中身は、メロンパンと魚肉ソーセージだった。
「それなの?」と思わず訊ねていた。
「ママ、頼んだ、これにした」
乙音は嬉しそうに、メロンパンのビニールを破った。
「いただきます」
メロンパンにかぶりつき、続けて牛乳を飲む。
まぁそれで良いなら、それで……とジンジも弁当を食べ始めた。
すると目の前に、魚肉ソーセージが差し出された。
「くれンの?」とジンジ。
乙音は、とんでもない、と首を振る。
「ちがう、むひて……」メロンパンのふたくち目を頬張りながら乙音が言う。
「剥くの? また?」
「うん、わらひ、これ、食へてる、だから……」
メロンパンで頬がいっぱいに膨らんでいる。
ジンジは苦笑いしながら、昨日と同じように魚肉ソーセージの金具部分を犬歯で噛み千切り、半分だけビニールを剥いて乙音に返した。
「ありがと」
乙音は、頬を膨らませた状態のまま、魚肉ソーセージを口に入れていた。
13 写真
昼休み。
雨でグラウンドに出れないジンジは、昼寝を決め込む事にした。
乙音は、数人の男子に誘われ、教室の隅で談笑している。
隣で話をされたのなら騒がしいだろうが、これなら大丈夫だ。
ジンジは右手で頬杖を突き、左手は肘を畳んで机の上に投げ出した。
さぁ、と目をつむる、……でも眠れなかった。
当たり前である。
梅雨に入ってずっと降り続いている雨のせいで、昼休みは外に出れないし、部活も体育館で筋トレばかりの日々で、体力があり余っているのである。
散歩しよ、体育館にでも行ってくるか――。
ジンジは寝るのを諦めて立ち上がり、後方扉へ歩いた。
教室を出ようとしたら、逆に廊下の方から扉が開かれた。
カコ、ナオ、ユウコの三人が立っていた。
「何処行くの?」
カコは殻のお弁当箱を持っていた。
隣の208の教室でお昼をした後だった。
「散歩、体育館」
「暇なの?」
上目遣いでジンジを見る。
カコがジンジを見るときの癖だ。
「うん」
「後で……」
「後でいいの?」
「いいよ」
「10分」
ジンジは三人と別れて、体育館へ向かった。
「短か!」「ほんと!」ナオとユウコだった。
「通じてるんだからいいんじゃない」とカコ。
「それもそうだね」「だね……」
二人は顔を見合わせていた。
*
教室に戻ると、ジンジの席にカコが座っていた。
「ただいまー」
ジンジは、ひとつ前の空いているタニの席に横座りした。
「用があるんだろう?」
「うん」とカコ。
ジンジは、分かった始めて……と肩をすくめた。
「それじゃあ本題に入ります」
するとカコは、手に持っていたある物をジンジに渡した。
「今朝、写真部がくれたの」
それは、数枚の写真だった。
ジンジは、その写真を一枚一枚ゆっくりと捲った。
写真には、カコ、ナオ、ユウコ、タカコ、それに自分たちが写っていた。
……?
一度写真から目を離してカコを見る。
そしてまたすぐに、写真に目を落とした。
「分かった?」
「これって、入間兄妹を隠し撮りしたやつ?」
「そう」
ジンジは首を捻った。
どこかおかしい。
「二人の顔が写ってないでしょ」
「確かに写ってない。でも……、オレたちが写ってるからくれたんじゃないの?」
写真から顔を上げる。
「わたしもそうかな?……てお礼を言ったんだけど、そうじゃ無くて、他のも全部そんな感じで、二人の顔がはっきり写ってないんだって」
そしてジンジは三度、写真を確認した。
確かに二人の顔がはっきりと写っていない。
シャッターを押す瞬間、被写体が突然動いたようにブレていたり、顔の前に誰かの手が入って邪魔をしていたり、他の者の顔が被っていたり……。
特に理解出来なかったのは、ボールが顔の前に写り込んでいる一枚まであったのである。
「何だこれ?」
ボールは何処から飛んで来たのだろうか?
写真の背景を見た限りでは、教室の中で撮られた一枚だ。
昨日、今日と、教室でボール遊びなんかしてる奴はいなかった筈である。
「朝、直ぐに見せようと思ったんだけど、あんな事があったから……」とカコ。
乙音が靴下を脱ごうとしていたのを言っているのだ。
カコは今朝、廊下で写真部に呼び止められ、その写真を渡されて話をしていたのだそうだ。
それでいつもより遅れて教室に入ると、乙音が靴下を脱ごうとしていたのを目にしたというわけだ。
「ごめん」
謝ることないよ……とカコは笑顔だ。
ジンジは照れ笑いを隠すように、また写真に目を落とした。
するとカコが、覗き込むように顔を近付けてきた。
「不思議でしょう?」
前髪がジンジの前で揺れる。
ほのかに、いい香りがした。
ジンジは、何かの花の香りなんだろうと想像した。
「ど、ど、ど、どうして?」
「何、突然詰まってんの?」
「あ、ああ、不思議だ……」
ジンジは取り繕うように、写真をカコに突き出した。
「ジンジが持っててよ!」
カコはジンジの手を両手で押し戻した。
「カコが貰ったんだろ」
「でも……何だかちょっと」
困った顔をしていた。
「じゃあ貰っとく」カコが写ってるし……
「何か言った?」
「何でも無い」
ジンジは、写真の束を詰襟のポケットに大事に仕舞い込んだ。
*
昼休みが終わるころ、乙音が戻ってきた。
「なに、してる、ですか?」
男子たちとの雑談がよっぽど楽しかったのであろう。
乙音の声はウキウキとして跳ねるようだった。
「話をしてただけだよ」
「ふ~ん」
乙音は、何か言いたそうにしている。
「どうかしたの?」カコが訊く。
乙音は、少しだけ考えあぐね……
「カコさん、家入くん、仲いい、なぜ?」
言われた二人は、どちらともなく顔を見合わせしまった。
「そうかなぁ~。こんな男女って何処にでもいると思し、普通だと思うけど」とジンジは言った。
「それ、違う、わたし、二人、見てる、分かる」
「いやいや、今時の中学生の男女って、こんなもんだよ」
調子に乗ってジンジが言う。
するとカコが、あっ、と教室の後方扉へ顔を向けた。
乙音とジンジも釣られていた。
机が小さく揺れた。
それに乙音が反応していた。
「どうかした、ですか?」
「タニが帰って来た。それじゃあ席に戻るからね」とカコ。
谷花がこちらにやって来るところだった。
「ジンジの席温めておいたから」
カコがジンジの席を立つ。
立ちながら、カコはジンジの左手の甲に、さり気なく手を置いた。
「オレがタニの席を暖めておいたから」
ジンジはタニの席から腰を上げた。
「おお、サンキュ。でもどうせなら墨木に暖めておいて欲しかったんだけどな」
タニは直立不動の体制で、冗談っぽく敬礼した。
「男で悪かったね」
ジンジが口を尖らせる。
「オレって、女子に一度もそんな事して貰ったこと無いぞ」
今度はタニが口を尖らせた。
「今度、わたし、暖める」
乙音が笑った。
いやぁ~ありがとう、とタニはニヤけた。
「じゃあ行くね」とカコ。
カコの背中を追いながら、ジンジは左手の甲に自分の右手を重ねていた。
乙音とジンジが教室の後方扉に気を取られた時、カコに左手の甲を思いっきり抓(つね)られていたのだった。
14 帰り道
放課後。
雨でグラウンドが使えないサッカー部は、体育館や校舎の渡り廊下を使ってランニングと筋トレをしただけで、今日は少し早めの解散となってしまった。
そのため、いつも一緒に帰る仲間たちはまだ部活のまっ最中だ。
こんな日もあるよな、とジンジは、仕方なく一人で帰ることにして学校を出た。
目の前に落ちる雨粒が道に跳ねる様を、ただぼんやりと眺めながら、ジンジは
一人ゆっくりと歩いた。
歩きながら何か考え事をしているのだろうか、時々、首を傾げる仕草を見せている。
そしてまた、雨粒を眺める、を何度となく繰り返していると、二組の女子の脚が彼の視界の隅に入ってきた。
女子は、ジンジを抜き去ったかと思うと、そのまま前に滑り込んできた。
ジンジには、追い越した二人が誰なのかに興味は無かった。
それに、二人とジンジの間が、邪魔になる距離でもなかったので、気にすることなく、今後は雨粒でなく、二人の靴をぼんやりと眺めることにした。
すると……
右側を歩く脚がくるりと反転し、そのまま後ろ向きに歩き始めていた。
流石にこれは変だ、ということに気付き、ジンジは傘を持ち上げた。
「何、浮かない顔してるの?」
カコだった。
そして反転して、ジンジの右に並んだ。
驚いたジンジは「お、おう」という曖昧な返事しか出来なかった。
「後ろから何度も声を掛けたんだよ」
もう一人はユウコで、カコの右側に並んだ。
「聞こえなかったんだ……考え事をしてたから」と妙に歯切の悪い返事をしてしまった。
するとカコが
「そおぉ~?ほんとにそぉ?」とジンジに詰め寄った。
「ああ」
ジンジの返事は煮え切らなかった。
その姿は、何かすごく迷ってるみたい、と二人には映った。
そして今後はユウコが
「話してみれば、言っちゃえばすっきりするかもよ」と誘うように切り出していた。
半分は興味本意で、残りの半分は、そんな悩んだような沈んだ顔はジンジらしく無いと言っているのだ。
「そうだよ」とカコもそう思っている。
「考え事をしていただけだから……」
それはさっきも自分で言っていたことなのだが、ジンジ自身は言ったということをすっかり忘れてしまっている。
考えていることに、頭がいっぱいなのだ。
二人も、そのことをからかったりしなかった。
「じゃあ何を考えてたの?」
「言ってみなよ」
ジンジは、どうしようか?と迷った。
すると突然
「へぇ~、そうなんだ」とユウコが、傘を持った左手の拳を、右の手の平で叩いていた。
「まだ何(なん)にも言ってねぇし」とジンジは苦笑いした。
「話す気になったんじゃない?」とユウコはカコ越しに、ジンジを覗き込んだ。
それはユウコなりの?決断のさせ方だったようだ。
やっぱ適わねぇわ、とジンジは意を決し
「誰にも言うなよ」と二人に念を押した。
「昨日さぁ~」
話が始まろうとするや否や、なになに、と二人は身体を寄せてきた。
ジンジは慌てて反り返った。
昼休みのときと同じだった。
ジンジは気持ちを落ち着かせ、昨日の放課後に、教室で見かけた二人のことの話を始めた。
*
「知らなかったの?」
ユウコが目を丸くした。
「鈍い!ジンジ、鈍すぎるよ」
はぁ~あ、とカコは溜め息をついていた。
二人の反応に
「知ってんの?」とジンジは、あっけに取られてしまった。
「ほんとに知らなかったんだね」とユウコ。
「全然、知らなかった」と口をあんぐりと開けるジンジ。
「なにそれ……」とカコ。
「そんなのみんな知ってるよ! 公然の秘密だよ」
「そ、そうなのか?」
「そうだよ~」
カコはジンジの肩を、バン、バン、と二度も叩いた。
「そうかぁ~」
そうだったのか、と空を眺め、肩を落とした。
「知らなかったのはオレだけなのか……」
「ジンジは、周りに無頓着なとこ(ろ)があるからね」とユウコ。
でもユウコが顔を向けているのはカコの方だった。
「そうだよなぁ、もうちっと周りを良く見るのも大切だよぁ」
そううなだれるジンジに
「でも、まだ続きがあるんだよね」とユウコ。
ジンジは頭を起こした。
それもまたどうして分かった? と驚くジンジに、カコは
「なんとなく」と返していた。
そう言われてまた、なんとなくでも凄すぎる、とうなだれてしまった。
本当に頭を抱えて、地べたに座り込みたい気分だった。
「話しなよ。誰かに話すことで、解決のヒントが見付かるかもしれないよ……」とユウコ。
「それで以外と、アドバイスが出来るかもだよ」とカコ。
ジンジはしばらくの間考えあぐね、やがて気を取り直し、そうだよなぁ~と顔を上げた。
ジンジは二人を交互に見やり
「考えていたのは、昨日のことじゃ無いんだ」と語り始めた。
同時に二人が身体を寄せてくる。
歩きにくいなぁ、と睨むと、二人は、ごめん、と距離を取った。
「笑わずに、ちゃんと聞いてくれよな」
二人は、うんうんと頷いた。
そしてジンジは、今朝の自習時間に、中山が自分のことを見ていたことを話したのである。
15 思いあたる心配
「なんか凄く困った顔をしてオレを見てたんだ」
「そうなんだ」と今度のユウコは、しごく真面目な顔で考え込んでいる。
「中山の困った顔は何を意味しているのかなぁ……て考えちゃってさ」と言ったジンジの言葉は、半分は独り言だった。
するとカコが、ジンジにでは無く、ユウコの方を向いて口を開いていた。
「そうか、きっとそう言うことなんだよ」
カコには、山中の気持ちに思い当たるところがあったようだ。
同時にユウコも、山中が何故ジンジを困った顔で見ていたのか?を理解していた。
「そう言うことなんだよね、きっとそうだよ」と二人だけで納得してしまった。
「そう言うことって何だよ」
蚊帳の外のジンジは、二人に少しつっけんどんな訊き方をした。
ユウコが謝りながら、それはね、と続けた。
「シジミとアジの仲を、ジンジが周りに言い触らしちゃうんじゃないか……って心配してるんだと思うよ」
カコも頷いている。
「そんな単純なこと?」
ジンジには、以外だったようだ。
「単純じゃないよ」とユウコ。
「アジのことは、わたしたちには分からないところがあるけど……シジミ自身は、今はそっとしておいて欲しいって思ってるんじゃないのかな」
「だって公然の秘密なんじゃないのかよ」
ジンジが言い返す。
「でもジンジは、二人の仲を誰かに言うつもりは無いでしょう?」
「そりゃそうさ」
ジンジは強く断言した。
「言いふらすつもりなんか、ぜんぜん無いさ。それでもそこが分からないんだ。両思いなのに、良かったね、素敵だね、羨ましいなぁ~ってみんなに思われる方がいいんじゃねぇの?」
ジンジの言葉に、二人は首を横に振った。
「ジンジは、もっと女の子の気持ちを勉強したほうがいいんじゃない?」
ユウコは傘の骨で、カコの傘を上から突ついた。
「なんでだよ?」
ジンジはまた、頭を抱えてうずくまりたい気分になっていた。
「二人はこれから先どうしたらいいのか、まだ分らないんだと思うよ」とユウコ。
「これから先?分からない?」
頭を捻りながら、ジンジはユウコの言葉に耳を傾けた。
「二人はお互いに惹かれ合っているのは確かなんだけど、これから先どうするか迷っているところだと思うの。今は大切で微妙なところだからそっとしておいて欲しい。……というのが、シジミの気持ちなんじゃないのかな?」
「好き同士なんだったら、付き合っちゃえばいいのに……」
「あのねジンジ」カコは優しくユウコからの言葉を引き継いだ。
「付き合うってことは、とても勇気がいることなんだよ」
「どうして?」
「男子と女子の気持ちの違いもあると思うけど……二人で一緒にいる時間が長くなればなるほど、お互いの嫌なところも少しずつ見えてくるし、分かってくるでしょ」
「まぁ、それはそうだと思うけど……」
「惹かれ合う気持ちが強ければ、相手の嫌だなって思う部分も受け入れることが出来ると思うけど、それがひとつじゃなく幾つも重なってしまうと、だんだんと気持ちが離れてしまうことだってあるの。分かる?」
ジンジは、何となく、と頷いた。
「そんな気持ちになってもまだ、付き合い続けたとしたら……たとえ相手が自分のことを好きでいてくれたとしても、付き合っているという行為自体が、自分に嘘をついてしまうことになるでしょう。それで最後に、お互いが傷付いて哀しい別れ方をするくらいなら、今のこの状態がずっと続いた方がいいって思ってるんだと思うよ」
「そう言う付き合い方もあるってこと?」
ジンジには理解しがたいようだ。
「そしてシジミは、それを今一番悩んでいるんだと思うの……」ユウコだった。
「だから回りから冷やかされて、乗せられて、でも自分の気持ちがはっきりとしないまま、いつの間にか付き合うようになってしまった。……そんな付き合い方はしたく無い、と思ってるんじゃないのかな」
「気持ちがはっきりとするまで待ってくれ。それまでは〝公然の秘密〟でもそっとしておいて欲しいってことか?」
「ちょっとニュアンスが違うんだけど、それに近いのかもね」
「シジミ自身が、恋に臆病なのかも……」
ユウコの言葉にカコが振り返る。
「それとも少しづつ、ほんとに少しづつお互いを認め合いたいってことなのかも」
ユウコは、二人に語り掛けていた。
ユウコの目には、カコがはにかんでいるように映っていた。
「今は、そっとしておいて欲しい。騒がないで欲しいってことだ」
「シジミは、それが言いたかったんじゃないかな」
そんな複雑な恋はオレには……
ジンジは、何も言えなくなってしまった。
16 大丈夫だから
翌朝、水曜日、今日も雨。
傘立てに傘を入れ、上履きに履き替えようとしていたジンジは、声を掛けられた。
振り返ると、いつやって来たのだろうか、すぐ後ろに中山ナオミ(シジミ)が立っていた。
「おはよう」
その声が、いつもの彼女らしくなかった。
いつもなら
「おっはよ~」と背中をど突くくらいの勢いで元気な声を掛けてくるのだが――。
「お、おう」
ジンジも言葉を返そうとした。
しかし昨日のことが頭にあり、普段通りのおはよーが出て来なかった。
しかも、ジンジの目の前に立つシジミは、鞄を肩に掛けていなかった。
たまたま登校時間が一緒になり、声を掛けてきたわけでは無いようだ。
わざわざオレのこと待ってて、声を掛けてきたんだ……
しばらくの沈黙があった。
やがて、ジンジの口から継いで出た言葉が……
「大丈夫だから」だった。
一瞬、けげんな顔をするシジミに
「大丈夫だから!」とまた言って、口を思いっきりUの字にして笑って見せた。
シジミは一瞬、戸惑った表情を見せたが、すぐに何かを察したのだろう……
「うん」と大きく頷いていた。
そしてもう一度、ジンジに、背中をどつくくらいの、おはよう~、を言って頭を下げた。
その後に見せてくれた表情は、いつもの明るいシジミの笑顔になっていた。
シジミはさらにもう一回頷いてから、ジンジに背を向けると、教室の前の扉から中へ入っていった。
教室に消えたシジミを見届けたジンジは、自分でも気付かぬまま、大きな息を漏らしていた。
そしてホっとしたのか、立ち竦(すく)んだまま下駄箱を眺めていた。
「靴下が汚れちゃうよ」と肩に手を置かれた。
声で分かった、カコだった。
いけね……と我に返ったジンジは、手に持っていたスニーカーを下駄箱に片付けて上履きに履き替えた。
*
カコは、登校して来たシジミが、いつになくソワソワしているのに気付いていた。
席に座っているのだが、どこかソワソワしており、腰を浮かせて廊下のようすを伺っているのだ。
そして時折、味田ヨウイチ(アジ)にも目線を送っている。
アジ本人も、いつもなら自習開始ギリギリに教室に駆け込んでくるのに、今日はもう席に座っている。
しかも静かに……
カコは、二人がジンジのことを待っているんだと思った。
でも何故、昨日話をしなかったのだろう?……という疑問もあった。
話す時間なら、昼休みや、放課後とか、いくらでもあったはずである。
そしてそれは多分……
二人の間に、男子であるアジとしての、女子であるシジミとしての、お互いの気持ちがまだはっきりとしていなかったからなのだろう。
しかし今日は、登校して来たジンジに向かって、シジミが動いたことで理解していた。
シジミはアジに視線を送りながら、廊下に出て行ったのである。
やがて教室に戻って来たシジミは、直ぐさまアジの方を見ていた。
アジは最初からシジミを見ていた。
シジミが頷いた。
アジは、微かな笑みをシジミに見せていた。
17 部活見学
自習時間が終わるやいなや、乙音はカコの席まで走って行った。
「カコさん、お願い、あります」と乙音は唐突に切り出していた。
「お願い、なに?」
「部活、やって、みたい……」
「部活、いいんじゃないの。それで、前の学校では何をやってたの?」
乙音は首を横に振った。
「じゃあ、やってみたい部活は、何かある?」
乙音は首を傾げた。
「じゃあ、文化部か運動部、どっちにする?」
またも首を横に振る。
「ほんとに何かやりたいの?」
今度はカコが首を傾げた。
乙音は腕を組んで唸ってしまった。
どうしようも無いなぁ~と思っていると
「ねぇ、どうしたの?」とナオがやって来ていた。
「おはよー」
「ナオさん、おはよー、ございます」
乙音は、カコの言い方を真似て挨拶した。
「乙音ちゃんがさ、部活をやりたいって言うんだけど、何にしたいか決まらないの……」
「ふ~ん」
「何かいい方法ないかなぁ?」
「ないか、なぁ~」
今度もカコの口調を真似ながら、乙音は首を傾けていた。
「それじゃあ、今日の放課後に、いくつかの部活を見学してみればどうかな?」
「それ、いい」
乙音はパチパチと手を叩いた。
「え~と、え~と、そうだ、是非、でした、是非、見学させて、ください、……したいです」
乙音は、得意気に両腕を組んで胸をはった。
「じゃあ、まず見学するにしても、文化部にするか運動部にするか決めなきゃね」とカコが言った。
「今日は文化部、明日は運動部ってのはどう?」とナオが提案した。
「それ、いい、じゃあ、今日は、文化部、します、放課後、お願い、します……」
「ちょっと待って乙音ちゃん。わたしとナオは部活があるから、案内することが出来ないのよ」
「そうなん、ですか?」
「大会が近いから、休んでられないの、ごめんね」
カコは申し訳なさそうに、両手を胸の前で合わせた。
乙音の目線はナオに移った。
「わたしも駄目なの、カコと同じ部活だから……ごめんね」
それでナオは、大会前の練習内容の相談で、カコの教室にやって来たのである。
「じゃあ、誰、案内して、くれる、ですか?」
乙音は肩を落としてションボリしている。
どうしよう?とカコは教室を見回した。
そして……何かを思い付いたようだ。
「そうだね、そうしようか?」とカコはナオに言った。
「そうだよね、それしか無いよね」
ナオも、カコの思い付きが分かったようだ。
「呼んでこようか?」とナオ。
「大丈夫。ジンジなら絶対こっちを向くから……」
見ると、ジンジは教室の角で、シゲボーやタニ、アジたちと、笑い声をあげながら立ち話をしていた。
特にアジの声が、どこか吹っ切れたように大きい。
「家入くん、こっち、向く、ほんと、ですか?」
ジンジはこちらに背を向けて話をしているのだ。
「それじゃあ、こっちを向くように念力を送るからね……」
「念力、なんですか、それ」
乙音は不思議そうだ。
「想いみたいなものかな、まあ見てれば分かるよ」とナオ。
するとカコは、右の手の平を身体の前にかざして身構えた。
そしてその言葉を、一語一語区切りながら発した。
「ね・ん・り・き~」
乙音は興味深そうに、そのさまに見入っている。
ナオは、ははん、と鼻を鳴らした。
ナオには、カコがやろうとしていることが分かったようだ。
やがて……ものの十秒もしないうちに、ジンジが三人の方に顔を向けたのである。
驚いた乙音は、カコとジンジを交互に見やった。
「家入くん、振り、返った」
ナオは可笑しくて肩を震わせながら、こっち来て、とジンジを手招きした。
ジンジは、シゲボーたちに二言三言言葉を掛けると、彼女たちの所までやって来た。
「ほんと、来た、どうして? カコさん、ほんと、念力、使った、ですか?」
「どうしたんだよ、そんなに驚いた顔しちゃってさ」
目を丸くしている乙音に、ジンジは言った。
「家入くん、念力、感じた、ですか?」
「念力、何それ?」
ジンジは三人の顔を怪訝そうに見回した。
「家入くん、わたしたち、振り返った……」
「だってシゲボーが教えてくれたから」
「え? なに? シゲボーさん、教えて、くれた、ですか?」
「カコが呼んでるんじゃないのか……って教えてくれた」
「なんですか、それ?」とカコに向かって首を傾げていた。
「ごめんね、種明かしするね」とカコ。
「ジンジは背中を見せてたけど、シゲボーはこっちに顔を向けてたでしょう。それで彼の顔をジッと見詰めて、わたしのことを気付かせたの。それからわたしがジンジに目線を移したってわけ。それでシゲボーが察してくれて、ジンジに言ってくれたのよ……」
「な、なるほど、そうだった、ですね」
合点がいった乙音は、上半身を使って頷いた。
「カコさん、たち、面白い、遊び、知ってる」
「遊びってわけでもないんだけどね……」
カコはとぼけて見せた。
「シゲボーが二人の仲を知ってるから出来る遊びでもあるけどね」
ナオはカコのお腹を突いた。
「二人の仲……」とジンジ。
「そう言う仲ってこと」
ナオは、ジンジに最後まで言わせなかった。
「もういいから、ほら早くしないと、1時限目の授業がはじまっちゃうよ……」
カコは時計を見上げ、ナオとジンジの会話を強引に終わらせた。
「そうだったね」とナオはまだ笑っている。
「で、オレを……」
「わたし、部活、やりたい、です」
今度は乙音が、ジンジに最後まで言わせなかった。
そしてナオが、説明を始めた。
*
「部活見学の案内をするってこと?」
ジンジは戸惑った。
三人は、同時に頷いた。
「知ってるよ。今日は、グラウンドを使用するクラブは中止なんでしょ」
ジンジは、ぐっ……と言葉を飲み込んだ。
「雨でみんなが体育館を使うと、もともとの体育館使用のクラブから、少々やりにくいって、文句が出てるのも……」
一日や二日ならともかく、こうも長期間に雨が続くと、正規の体育館を使用するクラブに支障が出るのも致し方ない事である。
実際のところ、昨日のサッカー部は練習を早めに切り上げて、残りの時間は教室でフォーメーションの座学をやっていた。
「よくご存じで……」
「ご存じもなにも、昨日SMH(ショート・ホーム・ルーム)で先生が言ってたじゃない。グラウンド使用のクラブは一日置きに体育館を使用することになったって――」
「で、オレは今日は休みだから、乙音さんの部活見学を引率してくれってこと?」
「そういうこと」ナオが言う。
「音也、一緒、いい、ですか?」乙音が言った。
「音也くんも一緒にかい?」
「お願い、します」
乙音は、胸の前で手を合わせた。
さっきのカコの真似である。
「一人も二人も一緒でしょ」
カコがジンジに返す。
「それはそうなんだけど……」
「ユウコにも、付き合ってもらえるか訊いてみるから」
ナオが助け船を出してくれた。
「それは助かる。なんせ文化部なんて、オレほとんど知らねぇし……」
何処でやってるのかもチンプンカンプンなのである。
「じゃあ決まりね」ナオが言う。
「よろしく、お願い、します」乙音が頭を下げる。
話がまとまったところで、タイミングよく授業開始の予鈴が鳴った。
そしてナオは、次の授業は移動(教室)なんだ……と言って急ぎ足で自分のクラスへ戻って行った。
乙音はジンジと席に戻りながら、彼に深々と頭を下げる。
「家入くん、よろしく、お願い」
「そんなに、かしこまらなくても大丈夫だよ」
「適当に、案内しちゃ駄目だよ」と後ろからカコの声――。
二人は振り返る。
「ユウコに任せっきりじゃあ駄目だからね……」と指を差されてしまった。
「そ、そんなことないさ。ちゃんと案内するし……」
ジンジの慌てぶりに、乙音は笑った。
カコの真似をして笑った。
18 オカカ弁当
昼食の時間になった。
今日はシゲボーも一緒に食べることになった。
乙音が一緒に食べたいと言ってきたからである。
そこにタニも混ぜてくれと言うので、四人で食べることになった。
四つの机を合わせてテーブルを作る。
ジンジの右に乙音、前にシゲボー、乙音の前がタニだった。
乙音は、魚肉ソーセージを紙袋から取り出してジンジに渡した。
三日連続で、乙音の昼食はメロンパンと魚肉ソーセージである。
「はい、はい」と言いながらジンジは、魚肉ソーセージのビニールを噛み千切って乙音に返した。
シゲボーとタニは、それを唖然として眺めていた。
「どうした、ですか?」
不思議そうな顔で、乙音は二人に訊いた。
何でもない、と二人は慌てて手を振って誤魔化した。
「じゃあ、いただき、ます」
乙音の元気な声が教室に響く。
そこかしこから、笑いが起こる。
三人も、いただきます、をして自分の弁当に向かった。
さぁ食べよう……としたその時
「なに?ですか、それ」
乙音は、タニの弁当を手に持った魚肉ソーセージで突ついていた。
「なにって?」
タニは、箸を止めた。
まだ一口も食べてない。
「ご飯の上、かってる、薄い、茶色、いい匂い……」
「これ? これはオカカだよ」
「オカカ?」
「鰹節だよ」
タニの代わりに、シゲボーが言った。
鰹節を知らないのか?と三人は訝(いぶか)しんだ。
「カツオブシ、蒸した、カツオ肉、燻(いぶ)して、乾燥、その後、かび付け、して、あるです」
逆に乙音の方から説明があった。
でも首を捻っている。
「そんなの、何で知ってんの?」とジンジが感心していると
「書いて、あった」と乙音。
昨日今日と、乙音は自習時間に家庭科の教科書を開いていた。
「でも、カツオブシ、そんな、薄くない」
「その鰹節を薄く削ったのが、オカカさ――」
タニが教えてくれた。
「なるほど、ですね……」
言いながら乙音は、タニのお弁当を覗き込んでいる。
「た、食べるか?」とタニが戸惑いがちに声を掛けると
「いいの?」と乙音は明るく笑った。
「いいさ、ほら」
笑顔に気を良くしたタニは、弁当箱を乙音の方に押し出した。
「じゃあ、遠慮なく、です」
すると乙音は、ジンジの箸を奪い取っていた。
「え、あ、オレの箸……」
驚いているジンジを尻目に、乙音は奪った箸を使って嬉しそうに……
驚いたのは三人だった。
乙音は、箸を二本まとめてグー握りをしていたのである。
小指の側から箸の食い先を出し、それをそのままオカカをまぶしてあるご飯の上に突き刺していた。
そんな握り方では、ご飯が上手に掬(すく)えるわけがない。
まるで、箸の使い方を知らない……教えてもらっていない幼児のようだ。
乙音が悪戦苦闘すればするほど、タニのオカカご飯はグチャグチャになっていった。
それでも何とか、一口目を口に入れた乙音だった。
「おいひい~」
また教室中に聞こえるほどの声をあげていた。
あまりの喜びように
「そ、そうか、良かったな」と苦笑いするタニだった。
すると
「はい、これ、あげます」
乙音はタニに、自分のメロンパンと魚肉ソーセージを渡していた。
「これ、を……?」
「かわり、わたしの、あげます」
タニの弁当を貰った?のだから、代わりに自分のお弁当をあげるのは当然……という顔をする乙音に、三人はあっけに取られてしまった。
タニ自身も、弁当をまるごとあげるつもりなど無かったはずである。
ただ一口だけ、と思って差し出したはずなのに……
シゲボーは、乙音の予測不能な行動に肩を震わせている。
ジンジは、自分の弁当と乙音が握っている箸を交互に眺めている。
しかし乙音は、ジンジの困り事に気付くようすもなく箸を動かしながら、交換した弁当を夢中で食べている。
「しょうがねぇか……」とジンジは席を立った。
そして教室の後ろの棚に行き、自分の鞄の中からある物を持って戻って来た。
ジンジが手にしていたのは、割り箸だった。
おっちょこちょいの母親が(多分それが、ジンジに遺伝しているのだろう)、たまに入れ忘れる事があるので、予備としていくつか鞄に入れてあるのである。
以前、箸を忘れて困っているところに、カコがスプーンを貸してくれたことがあった。
そのスプーンも、カコが予備として持っていた物だったのだ。
それ以来、ジンジも割り箸を鞄の中に入れておくようにしたのである。
そしてジンジも、ようやく弁当に有り付くことが出来た。
「これだけじゃあ、足んないかも……」と言いながらも、弁当を無理矢理?交換させられた嬉しさで、タニの顔はニヤけている。
「これも、おいしい、です」
乙音は、ぎこちない箸使いで、ようやっと持ち上げたおかずを見せた。
「それは、ベーコンと人参と……野菜の炒め物だな」
タニが説明した。
「この、緑色、葉っぱ、みたいな、野菜、ちょっと、辛い、でも、おいしい、なんて、野菜?」
「なにかの芽みたいだな」
細かく刻んで炒めてある野菜を見て言ったのは、シゲボーだった。
「分かんねぇ~」とタニ。
ジンジも分からないようだ。
「分からない、でも、おいしい」
乙音は口一杯にそのおかずを頬ばった。
「シゲボーだけ、被害が無かったじゃんかよ」
不公平だ、とジンジが言うと
「まぁな……」
シゲボーはまた笑いを堪えていた。
19 乙音の具合
放課後。
「家入くん、来たよ」
壁の時計に目をやり、もうそろそろだなと思っていたところに、乙音が声を掛けてきた。
廊下へ顔を向けると、ユウコと音也が教室の外で待っていた。
相変わらず、少し離れた場所から数名の女子が音也の動向を注視している。
じゃあ、とジンジが立ち上がるのに合わせて、乙音も立ち上がった。
さぁ行こうとした時、乙音が突然バランスを崩していた。
ストン、と席に腰を落とす。
「どうした?」
乙音は、何でもない、と言って机に両手をつき、身体を持ち上げるようにして立ち上がった。
「大丈夫か?」と乙音を覗き込む。
「ちょっと顔が紅いみたいだけど」
「平気、つまづいた、だけ」
それだけ言うと、さっさと席を離れ、乙音は廊下に向かった。
*
「どこから案内しょうか?」とユウコ。
「何処からにしょうかな~」
ジンジは腕を組んで首を傾げた。
「今日は文化部を案内しようと思ってるんだけど――」とユウコ。
「オレもそう考えてたんだ」と首を縦に振った。
しかも大きく。
ユウコは肩をすくめた。
もともと今日は、文化部の案内をする予定になっていたはずである。
「じゃあ一番近いところからにする? それとも遠いところから?」
ユウコがジンジに、どっちにする?と訊いているところに後ろから
「すいません」の声。
ユウコが振り返った。
音也だった。
「どうした?」
ジンジも振り返る。
「乙音の具合が、良くないんです」と音也。
見ると乙音は、音也に寄り掛かるように抱き付いていた。
二人は兄妹の側に寄っていった。
乙音の頬が紅くなっている。
でも、苦しそうには見えなかった。
逆にほわんとした表情で、夢見心地のように思える。
「だ、大丈夫、です、は、早く、行き、ましょう」
それでも、開かれた瞳は、どこか遠くを見ているように霞が掛かっていた。
「大丈夫なわけないよ。身体にぜんぜん力が入ってないじゃないか」
音也が叱ると
「だ、だ、だ、大丈夫」と言って音也を突き放して一人で立とうとする乙音だった。
しかし直ぐさま、膝を折ってしゃがみ込みそうになる。
慌てて、音也が抱き抱えた。
「ほらみろ、大丈夫じゃないじゃないか……」
今度は乙音も反論出来なかった。
さっきと同じように、音也の肩に頭を乗せると、そのまま目を閉じてしまった。
「江本さん、家入くん。申し訳ないですけど、部活見学は日を改めてと言うことで――」
「かまわないわよ。それより保健室にいきましょう」
ユウコがジンジに目配せした。
ジンジは、音也が乙音を背負うのを手伝った。
遠巻きからは、羨望の溜め息が聞こえてきた。
兄妹だよ!とユウコは取り巻きに怖い目線を送った。
そしてユウコは、音也の背に頬を乗せている乙音の顔を心配そうに覗き込んだ。
……?
目を閉じている乙音は、楽しい夢でも見ているのではないか、と思える表情をしている。
「オレ先に行って先生に説明しておくから」
「お願い」
ジンジは、小走りで保健室へ向かった。
「ありがと、ございます」
乙音がうっすらと目を開けた。
ユウコは、心配しないでいいから、と首を振った。
「こっちよ」
ユウコは音也の横に並び、乙音に大丈夫?と声を掛けながら、保健室へ向かった。
20 保健室
「ぼくだけ先に帰って、母に車で迎えに来てもらうように伝えます」
保険室のベッドに、乙音を寝かしつけた音也が言った。
「家、近いの?」
ジンジが訊いた。
「ええ、歩いて10分と掛かりません」
音也が家の場所を説明すると……
「そうか、川沿いに建った新しい家だね。白と鼠色の仔猫がいる……」
「そう、そこです」音也が頷く。
「分かった。乙音さんは、お母さんの迎えが来るまでオレと江本で見ておくから――」
ユウコは今も、乙音が寝ているベッドの横でようすを看ている。
「じゃあ、なるべく早く母を迎えに来させます」
音也は深々と頭を下げると、保健室の先生にも礼を言って部屋を後にした。
音也はいつも深々と頭を下げる。
ジンジは音也が出て行ったのを見届けた後に、出来るだけ静かにベッドに近付き「どう?」と小さく声を掛けた。
するとユウコが、仕切られたカーテンを開けて出てきた。
「寝てる。身体を小さく丸めて、まるで動物の赤ちゃんみたい」
「具合は?」
「大丈夫そうだよ。顔がちょっと紅いだけで、苦しそうにしてないもの」
「安心していいよな?」
「いいと思う」
「それでさ、音也くんはさ……」説明しようとするジンジに
「聞こえた。お母さんを呼びに帰ったんでしょ」
「早ければ15分か20分くらいで、迎えに来てくれると思う」
「じゃあ、わたしはそれまで乙音ちゃんのようすを看てればいいね」
「悪ぃ、お願いする。オレは、正門の前で車が来るのを待ってるから」
「そうして。こっちは任せて……」
「頼む」とジンジは保健室を出て正門に向かった。
21 どうしよう
ジンジは教室に戻り、乙音の机の前にポツンと立っていた。
乙音を迎えに来た車を、ユウコと二人で見送った後、自分も帰ろうと教室に鞄を取りに来たのである。
教室にはジンジ一人だった。
クラスメイトは、部活に行ったり、そのまま帰ってしまったりで、教室には誰も残っていなかった。
そこで、どうしたもんかなぁ~、とジンジは悩んでいたのである。
乙音が、鞄を持たずに帰ってしまったからだ。
自分も帰ろうと思って教室に戻ったときに、乙音が鞄を置いたままであるのに気付いたのだ。
どうせ帰り道の途中だからと、忘れた鞄を届けてやりたいのだが、机の中の教科書やノート、私物を取り出して鞄に詰めて良いものかどうかを悩んでいるのだ。
ユウコも教室に戻っているはずだと思い、慌てて隣の208を覗いたが、彼女の姿はもう無かったのである。
以前、カコが捻挫して、登下校に鞄を持ってやったときに、女子の鞄は勉強道具の他に別の必要な物が入っていることを教えてもらったことがある。
だからジンジは、乙音の鞄を開けるのを躊躇っているのだ。
「はぁ~あ」
どうすればいいのか?と悩んでいたら、自分でも意識せずに大きなため息が漏れてしまっていた。
仕方ない、このまま鞄だけ届けようと思っていたとき、教室の扉が開かれた。
「どうして?」
ジンジは驚いた顔でカコを見た。
「いた、いた。もしかしたら……と思って寄ってみたら、ほんとにいた」とカコが笑っている。
カコは制服に着替え、鞄を肩に掛けていた。
「ユウコが教えてくれたの。乙音ちゃんの具合が悪くなっちゃったんだって?」
「お母さんに車で迎えに来てもらって、それに乗って帰った」
「ほんとに大丈夫だったの? ユウコが知らせてくれたけど、わたしも部活中だったからあまり詳しい話は聞けなかったんだ」
ジンジは、事の成り行きを最初から説明した。
そして兄妹の家が、あのおばさんの家であることも……
カコは
「そうだったんだね」と言い、ずっと自分を見ているジンジに、なに?と訊いていた。
「で、カコは何で此処にいるんだ? もう帰ったと思ってた」
「傘を取りに来たの。部室には置く場所無いから、雨の日はいつも教室まで取りに来なくちゃいけないの」
そうだったんだと頷いてからジンジは「菅野は?」と訊いた。
「ナオは別の用事があるから、先に帰った」
「別の用事?」
首を傾げるジンジに
「察してあげなよ」とカコが笑う。
しばらく考えたが、鈍チンのジンジには結局分からなかった。
「で、どうしたの?」とカコ。
実は……
自分も帰ろうと教室に鞄を取りに戻って、乙音の鞄が置きっ放しになっていることに気付いた、と説明した。
「女の子の鞄だから……江本に頼もうとしたら、もう帰った後だったんだ」
なるほどね、とカコは頷き
「じゃあわたしがやったげるよ」と言ってくれた。
「そうしてもらえると助かる」
「うん」
さっそくカコは、ジンジが教室の後ろの棚から持ってきて、乙音の机の上に置いたままになっていた鞄に、手を乗せた。
そして、鞄を開けようとした手を止めて顔を上げた。
見られたことにジンジは、不思議な顔で ? と返した。
「あっち向いててくれる?」
「あ、悪ぃ」
ジンジは慌てて、乙音の机から背を向けた。
22 下校、そして乙音の家
ジンジは、乙音の鞄を右肩から掛けている。
左肩からは自分の鞄だ。
アディダスのバッグは、部活が中止になったので教室に置きっ放しにした。
カコと二人で、傘を指して歩いていた。
止みそうもない雨が降り続いている。
静かに降っている。
「いつまで降るのかなぁ」とジンジは、歩みを止めずに空を見上げた。
どんよりとした雲が空を覆っていた。
「ここまで降り続くと異常だね」とカコ。
「早く(梅雨が)明けてくんねぇかなぁ。思いっきりグラウンドでサッカーしてぇ~」
「鼻血ださないでね」
カコが冗談っぽく言うと
「今朝出たから、今日はもう大丈夫だけど、明日は分かんねぇ……」
ジンジの返しは本気だった。
「毎日大変だね」
「慣れてる」とまた空を見上げた。
そんなこんなの他愛の無い話をしながら、二人は入間おばさんの家へ向かったのである。
*
玄関の前に立ち、カコが呼び鈴を押した。
ドアの向こう側から、は~い、と女性の声が聞こえ、しばらくして鍵の外れる音がした。
ドアが外側に開く寸前に、カコはジンジの肘を掴み、ぶつからないように引き戻していた。
開かれたドアの向こうには、音也が立っていた。
音也は両腕に、白い仔猫を抱いていた。
ムーンである。
「どうもいらっしゃい」
音也は、二人を中に招き入れた。
「乙音ちゃんの鞄を届けに来たんです」
カコがここに来た用件を伝えた。
そしてジンジは、乙音の鞄を肩から外した。
「わざわざありがとう」
音也は礼を言うと、抱いててくれる? とムーンをカコに差し出した。
いいの?とカコは嬉しそうに、ムーンを両腕で抱きあげた。
音也がムーンの頭を優しく撫でた。
するとムーンは薄目を開けて、カコを見上げた。
そして、何かに安心したように目を閉じて丸くなってしまった。
暖かな日差しの中で、お昼寝をしてるような表情だった。
「気持ち良さそうだね」
「ご飯を食べたばかりなんだ。ムーンは、お腹が一杯になるといつもそうやって寝ちゃうんだ。ちょっとそのまま抱いててくれるかな」
もちろん、とカコは嬉しそうだ。
音也は、それじゃあ、とジンジに向き直り、乙音の鞄を受け取った。
「乙音さん、大丈夫?」
「今、二階の部屋でユベールと一緒に寝てる。大丈夫だと思うよ」
そこに
「ねぇ音也」と声が掛かり、小太りのおばさんが玄関に現れた。
二人は、こんにちは、と挨拶した。
「そんな所で立ち話なんかしてないで、上がってもらいなさい」
慌てた音也は
「そうか、そうだよ。さぁ二人とも上がってよ」と来客用スリッパを二人の前に並べた。
「あ、でも鞄を届けに寄っただけだから……」
ジンジは困ったなぁと、いがぐり頭を掻いた。
「そうなんです。本当にそれだけなんです」とカコ。
「でも、せっかく来てくれたんだから、ちょっとだけでも上がってらっしゃい」とおばさんが薦める。
「そうだよ、雨も強くなってるじゃないか、だからここで雨宿りするつもりで上がっていってくれよ」
音也に言われ、そうなの? と二人が玄関のドアから外を見ると、さっきとは打って変わってバケツをひっくり返したような大雨になっていた。
げっ……とジンジは仰け反った。
「ほんとだ」
カコも、雨の激しさに驚いている。
「だから小降りになるまでの間だから、とにかく上がってよ」と音也。
「そうよ、そうしてくださいな」とおばさん。
二人は顔を見合わせ、そこまで言うのなら……
「それじゃあ、少しの間だけ」とカコ。
ジンジはおばさんと音也に頭を下げ、自分の鞄を肩から外した。
ここに置いていいよ、と音也に言われて、玄関の横に置いた。
それから、カコの鞄のベルトを、抱いているムーンに触れないように、注意して肩から外してやった。
そして自分の鞄の横に並べて置いた。
「さあ、上がって上がって」
おばさんは満面の笑みで二人を招き入れた。
「お邪魔します」
二人は、おばさんと音也に案内されてリビングに通されたのだった。
23 入間家のリビング
二人は目を見張った。
そこはまるで、映画でしか観たことのない、外国の家の中のような眺めだったからである。
15畳ほどのリビングの中央には、木の素材を生かした一枚物の低いテーブルと、それに併せた二人掛けの椅子があり、その反対に一人用の椅子が二脚置いてあった。
壁は無地の白一色となっており、外国の風景を切り取ったモノクロの写真が、大小さまざまな大きさの額縁に納められて飾られている。
その壁側には、これも木の素材を生かした腰くらいの高さの飾り棚(サイドボード)が設置されていた。
ボードの上には、植物の鉢が所々にあり、その間にディスプレイとしての食器や人形などの小物が置いてあった。
庭に面する大きな窓には、アースカラーをベースとした綿のベージュのカーテンが窓の左右にきちんをまとめられている。
部屋全体にぬくもりと居心地の良さがあり、そこで過ごす時間が楽しくてしょうがない、と思える空間となっていた。
「家ん中にこんなのが置いてある」
ジンジは、棚の上の植木鉢に近寄った。
「観葉植物って言ってね、室内装飾のひとつで、葉の形や色などを楽しむために置いてあるの」とカコが教えてくれた。
その鉢のひとつに、ジンジは興味を惹かれた。
それは、葉、茎全体が細かな毛で覆われていて、小さな花が穂のようにまとまっていた。
その花の上にウサギの耳のような小さな葉がついている。
色は青紫色で、それが独特の甘い香りを放っていた。
「ラベンダーだよ」
花を覗き込んでいたジンジの耳元で、カコが小さな声で言った。
腕に抱いているムーンを驚かせたくないからだ……
「これがラベンダー、初めて見た。あのテレビでやってたタイムトラベラーの……」
ジンジも小声になっていた。
「そうだよ。初夏から夏にかけて青紫色の花を咲かせるんだけど、育てるのは大変なんだって」
「匂いを嗅いでたら、時間旅行が出来るかな?」
首を向けると、思ったよりも近い場所にカコがいた。
そういえば「時をかける少女」の主人公の名前が芳山和子で、カコと同じ名前だったんだ……と今更ながらに気付いたジンジだった。
「もしかしたら、出来るかも……」
カコはクスっと笑った。
*
「さあ、もうすぐ飲み物の用意が出来るから、こちらに座ってちょうだい」
振り返ると、おばさんがテーブルの横に立っていた。
すみません、と二人は、慌ててテーブルまで戻った。
ふは、二人掛け用の椅子の方を勧められた。
「おじゃまします」
「しつれいします」
ジンジは、カコを先に座らせた。
カコは、眠っているムーンを起こさないように注意しながらゆっくりと腰掛けると、膝の上に乗せた。
少しだけ身じろぎしたムーンだったが、納まりがつくと、またすぐに丸くなった。
「あなたの膝の上がよっぽど気持ちいいのね」
ムーンを覗き込みながら、おばさんはカコの正面の椅子に腰を下ろした。
「重くないかしら?」
「いいえぜんぜん、大丈夫です」
カコは笑って首を横に振った。
「じゃあ、もうしばらくの間、膝の上を貸してあげてね……」
もちろんです、とカコは嬉しそうだ。
ジンジは横から、眠っているムーンを眺めている。
そこへ音也が、キッチンからトレイを手にしてやって来た。
「お待たせしました」
トレイには、三客のティーセットが乗せられていた。
音也はそのふたつをカコとジンジに、残りをおばさんの前に置いた。
そして一度キッチンに戻ったが、今度は手ぶらでおばさんの横に立った。
「音也くんは……」
座ろうとしない音也を、不思議に思ったカコが声を掛けていた。
「ボクは乙音のようすが気になるので、このまま二階に上がります」
「そうね、そうしてくれる……」
おばさんも、音也に席を勧めることはしなかった。
「乙音さんの具合、あんまり良くないんですか?」とジンジが訊ねると
おばさんは、横に手を振りながら
「ぜんぜん大丈夫よ。それに今は多分……とっても寝心地がいいベッドの上で眠っているはずだから」と笑った。
二人は、妙な言い方だなぁ、とは思いながらも、それ以上のことは訊かなかった。
「ほんとにそうですから、安心してください」と音也にも言われ
「それじゃあ、ごゆっくり」という言葉を残して、音也は部屋を後にしてしまった。
音也が出て行ったドアを眺めていると
「さあ、召し上がって――」
おばさんの声が、二人の意識をテーブルに置かれたカップに戻させていた。
カコはムーンに注意しながら、ソーサーごと手に取った。
「素敵なティーセットですね」
カップもソーサーも、装飾の一切無い真っ白な陶磁器であった。
「素敵な香り……」
手を添えて、反対の手でカップを持ち、カコは顔の前まで持ち上げて、まずは香りを楽しんだ。
それからゆっくりと一口……
そして、カップを覗き込んだ。
紅茶を透かして、野苺をあしらった絵がカップの底に描かれているのが見えた。
ジンジは無頓着に、カップだけを手に取って、すぐに一口飲んでいた。
するとすぐに、蜂蜜入ってるよ、とカコに身体を傾けていた。
ジンジは、図書館でカコが持参してくれた紅茶の味を思い出していた。
「紅茶と蜂蜜がとても良く合いますね」
カコはおばさんに、一口目の感想を述べた。
「それに素敵なティーセット」
ソーサーごと持ち上げたティーセットを眺めているカコに……
「バックスタンプ見てみて」とおばさんが言った。
「バックスタンプ、なにそれ?」
ジンジはカコに囁いた。
「そのソーサー取ってみて」とカコが言った。
「ソーサーぁ?なにそれ」
「お皿のことよ」と笑う。
「ソーサーって言うのか、ディッシュじゃねぇのか……」と言われるままに、ジンジはソーサーを手に取った。
おばさんは、ニコニコしながら、二人を見ている。
そんな二人のやり取りを楽しんでいるみたいだ。
「裏を見てみて、WEDGWOOD って書いてない?」
ジンジはソーサーの裏を覗き込んだ。
「英語でウエッジウッドって書いてある」
「あらあら、どうしてそこまで分かったのかしら?」
おばさんは、少々驚いたようだ。
するとカコが、遠慮がちに
「カップの底に描いてある絵が、野苺の柄だったんで、そうじゃないのかなぁ~と思ったんです」と言うと
「それでも凄いわよ。ワイルドストロベリーは、WEDGWOOD を代表するデザインですものね……」と褒めた。
「な、な、な、なんで知ってんだよ」
カコは「なに言葉に詰まってんのよ」と笑いながら
「図書館で読んだ本に書いてあったのを思い出したんです。それで当てずっぽうで言ってみたのがたまたま……」
「で、ウエッジウッドって?」
「イギリスの陶磁器メーカーの名前だよ」
「ほんとうに良く知っているのね」
おばさんは、感心しきりであった。
ジンジはそんなカコを、二口目の紅茶を口にしながら見ていた。
「ところで、乙音は学校ではどう? みんなと仲良くやっていけてるのかしら?」
「ええ、乙音ちゃんはもう、クラス中の人気者になってますよ」
うんうん、と相づちを打ちながら、ジンジは三口目を口に運んでいた。
「休み時間とか、みんなに囲まれてますから、特に男子に……」
「そうなのね、特に男子になのね……」
おばさんは、何かを訊ねるかのような表情でジンジを見ている。
ジンジは三口目の後は、カップの底の絵柄を興味深そうに覗き込んでいるので、その視線に気付いていなかった。
「夕ご飯のとき、乙音がよくクラスの話をしてくれるのよ。そうだったのね、みんなと仲良くしてくれているのね、安心したわ」
ええ、とカコは返し、紅茶を口に運んだ。
「でも、乙音はちょっと変なところがあるでしょう?」
「変なところ……ですか?」
ジンジは、飲み終わった紅茶をソーサーに戻した。
「例えばね、靴下を穿きたがらないとか、お弁当は毎日同じものとか」とおばさんは、意味深な言葉を投げてきた。
「メロンパンと魚肉ソーセージが好きみたいですね」
靴下のことに触れてもらいたくなかったので、ジンジは弁当の事だけ言って、横目でカコを伺った。
「そう、そうなのよ」
おばさんは手招きするような身振りで、手を上下に振った。
「家入くんから貰ったメロンパンと魚肉ソーセージがえらく気に入ったみたいでね。帰ってくるなり、お弁当はずっとそれでいいって言い出しちゃったの」
「そうだったんですね」とジンジ。
「前の学校では給食だったものだから、わたしもお昼のことは頭に無かったの。作ろうか?と言ったんだけど、乙音がそれでいいの一点張りでね、逆に音也は購買でパンを買うって言い出すし……」
「転校初日の音也くんは、クラスの女子に分けて貰ったって言ってましたけど」
「え、そうなの? 音也はそんなこと何も言ってなかったわ。お昼はどうしたの?って訊いたら、何とかした、としか言わなかったものだから。そうなのね、じゃあちゃんとみんなにお礼を言ったのかしら……」
「彼はしっかりしてますよ。だから、お礼もちゃんと言っていると思います」とジンジ。
「それなら良いんだけど……後で訊いておくわね。教えてくれてありがとうね」
いいえとんでもないです、とジンジは恐縮した。
「で音也は、クラスではどうなのかしら?」
「音也くんと同じクラスの友だちの話だと、すっかり打ち解けているみたいですよ」とカコ。
「人気者です。特に女子に……」
ジンジは苦笑いしながら付け加えた。
「音也は少し杓子定規なところがあるから、そこが心配だったの。打ち解けてくれているのなら安心だわ。良かった」
おばさんは長い息を吐いた。
「大丈夫だと思います……」とそこまで言って、カコは膝の上に目を落としていた。
ムーンがカコを見上げていた。
目が合うと、ミァと鳴いた。
「あらあら、ようやくお目覚めのようね」
おばさんは、椅子から腰を上げてムーンを覗き込んだ。
ムーンは膝の上で伸びをすると、またカコを見上げた。
カコはムーンを抱き上げた。
ムーンは、カコの腕の中で気持ちよさそうに身体をすり寄せた。
「余程あなたのことが、好きみたいね」
するとムーンは、ミャミャと二度も鳴いた。
そこへ、リビングのドアが開いて音也が現れた。
「乙音、起きたよ」
「あら、そうなの」とおばさん。
「もう、すっかり元気だよ」
音也は、おばさんの座っている椅子の横に立った。
「じゃあ、もう安心ね」
おばさんは音也を見上げた。
「よかったですね」とカコ。
ジンジもよかったと頷いた。
それから窓の外に目をやり
「じゃあ、ボクらはそろそろ……」と立ち上がる動きを見せた。
いつの間にか、雨は小雨に変わっていた。
いつ小雨に?と不思議に思いながら、カコはムーンを抱いたまま立ち上がった。
ムーンを音也に返そうとすると
「そのまま床に下ろしてやってください」と音也は言った。
「じゃあ、さよならだね」
カコは床の上に、ムーンをそっと下ろした。
すると、まだ抱いていて欲しかったのか、ムーンはカコの足に前足を乗せて身体をすり寄せてきた。
「また今度ね……」
カコは屈んで、ムーンの背中を撫でてやった。
「それじゃあ、おじゃましました」
ジンジはおばさんと音也とムーンに言った。
カコも、おじゃました、と頭を下げた。
*
音也が玄関まで見送ってくれた。
ジンジは、先に自分の鞄を肩に掛けると、カコの鞄を彼女に渡した。
カコは鞄を受け取り肩に掛けた。
二人が靴を履いている間に、音也が玄関のドアを開けてくれた。
帰り支度が整ったところで
「おじゃましました」
大きな声でジンジが言うと、リビングの方から「は~い」とおばさんからの返事があった。
「それじゃあ……」
カコは音也にお辞儀をした。
ジンジが先に玄関を出て、まずはカコの傘を広げた。
カコは傘を受け取ると、身体を寄せてジンジを中に入れた。
ジンジは素早く自分の傘を開いた。
そして二人は音也に向きなおり、最後にもう一度だけ挨拶をして帰路についた。
*
おばさんはリビングの窓から、二人が傘を差して、並んで家の前の道を歩いて帰ってゆくのを眺めていた。
おばさんの足下では、白いムーンと限りなく鼠色に近いユベールがじゃれあっていた。
24 カコと乙音と音也
木曜日、朝、小雨。
カコは教室に入ってすぐに、乙音の席を数人の女子が取り巻いているのに気付いた。
その女子の中には、別のクラスの子も混じっている。
そして、乙音の横には音也の姿があった。
なるほど、女子たちのお目当ては音也だったのだ。
それにしても異様な光景だった。
どうしてそんなに、みんなが音也に惹かれるのかが、カコには分からなかった。
カコにとって音也は、お友だちの中の一人で、乙音ちゃんのお兄さんとしての位置づけなのである。
蓼(たで)食う虫も好き好き、なのなぁ~とそんなことを考えながら、カコは席に移動して鞄を机の上に置いた。
すると乙音がカコに気付いて立ち上がり、女子たちをかき分けて駆け寄って来た。
「カコさん、おはよう、ございます」
カコも、鞄の中身を机の中に移す手を止めて顔をあげた。
「おはよう。もう、大丈夫みたいだね」
「大丈夫、です、昨日、鞄、届けて、くれて、ありがと」
乙音は背筋を伸ばして真面目な顔になり、それから改めてお辞儀をした。
カコは笑った。
「そんなに、しゃちほこばらなくてもいいのに」
すると乙音が首を傾げた。
「しゃち、ほこ、ばる?」
「緊張して身体を強ばらせるって意味だよ。堅くならなくてもいいってこと。返ってこっちが恐縮しちゃうじゃない」とまた笑った。
「しゃち、ほこ、ばる、ですね、また、新しい言葉、覚えました、えへへ…」
乙音は手を頭の上に乗せ、舌を出しておどけた。
「ほんとに元気そうだね……よかった」
「うん、とっても、元気、です」と言い、ニコニコ顔で話を続けた。
「お母さん、朝一番、きちんと、お礼、言いなさい、言われた」
「それならユウコに言った方がいいんじゃない? わたしとジンジは鞄を届けただけで、ユウコは保健室でずっと乙音ちゃんの事を看ていてくれてたんだから――」
なるほど、と乙音。
「そうか、そうですね、そうですよ! ユウコさん、お礼、ゆく」
乙音は自分の席に振り返った。
音也は今も、女子たちに囲まれていた。
「お兄ちゃん、こっち、来て」
顔を上げた音也は、乙音に手をあげた。
「いまいく」と返事をして、取り巻きの女子たちに言葉を掛けたあとに、ゆっくりとやって来た。
音也に取り残された女子たちは、何も言わずにこちらを見ている。
「おはようございます」
音也がカコに挨拶すると、カコも同時に、おはよう、と返していた。
「ユウコさん、お礼、行く、今すぐ」
乙音は音也に言った。
すると音也は乙音を制し、カコの正面に立った。
え? あ、はい? なに?
そして音也は、いきなり頭を下げていた。
「昨日は本当にありがとうございました」とお礼の言葉を口にしていた。
慌てたカコも、ギクシャクしながら頭を下げていた。
カコは、音也は杓子定規なところがあるから、と言っていたおばさんの言葉を思い出していた。
「なに、あれ」
たむろする女子たちの間から声があがった。
同時に、ため息にも似た吐息も聞こえてきた。
それが音也には聞こえているのかいないのか……
頭を上げた音也は、乙音に向き直っていた。
「じゃあ、江本さんにもお礼を言いにいこうか……」
それからまたカコに向き直り
「ユウコさんは学校に来てますか?」と訊ねた。
「一緒に来たから、208に居るよ」と慌てて答えていた。
「ありがとう」と言ったのは乙音で
「それじゃあ、すぐ、お兄ちゃん、いこう」と音也を急かしだした。
カコを見たり、自分(音也)に振り返ったり、と目まぐるしい乙音に苦笑しながら音也は頷いた。
「……っと、その、前に」とまた乙音はカコに向き直り
「今日こそ、部活、見学、よろしく、お願い、します」と笑った。
「ジンジに言っとく……」
音也と同じように、カコも苦笑していた。
そして、カコが応えてくれたのを確認し終えると、乙音はもう後方の扉に向かって行動を起こしていた。
あれだけ元気なら、ほんとに大丈夫だね、と乙音の姿を追っていると
「お兄ちゃん! 早く」
乙音の声が教室に響いた。
扉の前で足踏みしながら、音也を手招きしている。
音也は
「ああ、分かった。いくよ」と返事をするとカコに目線を戻し
「それじゃあ」と言って乙音を追って教室を後にしていた。
25 棘とシジミ
教室の後ろの棚に鞄を置こうとしていると、数人の女子が近付いて来た。
さっきまで、乙音の席の周りにいた女子たちである。
カコは女子たちに囲まれた。
「なに、なに、いつの間に入間くんとそんなに仲良くなっちゃったの」
「二人が転校して来たのって、月曜日だったよね」
「今日は木曜日だよ。まだ四日しかたってないのに……」
「実質は三日だよね」
「そう三日、たった三日」
「なんで、なんで?」
「なんで、そんなに親しく話ができるの?」
カコは、女子たちから、矢継ぎ早に質問を浴びせ掛けられた。
しかもその言葉尻には、棘(とげ)を感じた。
「わたしは、彼女と話をしてたんだよ」とカコ。
「そのあと入間くんとも親しく話をしてたじゃない!」
親しく? どこが? ただ挨拶しただけだよ、と言いたかった。
「それは昨日、彼女が忘れて帰った鞄を、家入くんと一緒に届けたから……」
「鞄を届けたから……だから何?」
一人が、ズイっと前に出た。
「その時のお礼を……」
カコは慎重に言葉を選んだ。
「そのときのお礼を、二人が言いにきただけだよ」
すると……
「なんで墨木さんが鞄を届けるのよ。隣の席の家入くんが一人で届ければよかったんじゃないの」と別の声。
「それは……」
カコは言葉に詰まった。
「そうよ! 家入くんだけが行けばよかったのよ」
そうだそうだ、と周りの女子たちから賛同の声があがった。
「乙音ちゃんの家が、たまたま家入くんとわたしが帰る方向にあったから……」
「ちょっと待って」
「(乙音)ちゃん……てそれ何? もうちゃん付けで呼んでるの?」
「早すぎない」
「取り入ってんじゃないの?」
「妹をちゃん付けで呼んで仲良くなって、それからお兄さんに取り入ろうとしてるのよ」
一同の目線がカコに注がれている。
「そんな……」
カコは言葉に窮した。
「ならなんで入間さんとか入間くん……て呼ばないのよ?」
別の一人がさらに詰め寄って来た。
手を伸ばせば届きそうな距離だ。
「何か言いなさいよ……」
カコは圧に押されて、思わず下がりそうになった。
その時である……
*
「ねェ、あんたたち!」
語気の強い声が辺りに響いた。
その場の全員が、声の方を見た。
そこにはシジミが居た。
彼女は鞄を肩に掛けたまま、腰に手を当てて立っていた。
登校して来たばかりのようだ。
「カコが嘘を言うわけ無いじゃないよ。家入くんと一緒に鞄を届けただけだって言ってるでしょ! あんた達どうして信じてやれなないのよ?」
シジミは周りの女子たちを、強く睨み付けていた。
その勢いに、女子たちはたじろいだ。
カコもあっけに取られいる。
すると突然……
パンパン、とシジミが手を叩いた。
「ほら、自習が始まるよ!」
反射的に、みんなの目が黒板の上の時計に向いていた。
もうすぐ予鈴が鳴る時間だった。
女子たちの高飛車な態度は、いつの間にか陰を潜め、毒気を抜かれたように大人しくなっていた。
そして互いに、何かを納得したように頷き合い、無言のまま散らばっていった。
最後は、カコとシジミだけになっていた。
26 伝わった気持ちと画鋲
「大丈夫だった?」
シジミがカコに声を掛けた。
「う、うん。大丈夫」
カコは笑顔を作っているが、それはどことなく哀しそうに見えた。
「ありがと……」
「ううん、どういたしまして。逆にわたしの方こそ、カコにありがとうって言いたいくらいなんだから」
カコを元気付けようと、シジミは大きな笑顔を作っていた。
するとカコは、理由が分からないよ、どうもこと? とシジミに怪訝な顔を見せていた。
シジミは、今度は屈託の無い笑いを見せていた。
「だって、カコとユウコのお陰で悩みが無くなったんだもん」
「わたしとユウコの?」
「そう、二人のお陰だよ」
シジミは一度大きく息を吸うと、昨日の朝の下駄箱での出来事の話を始めた。
*
「それで休み時間に、もう一度確かめてみたの。家入くんがわたしに〝大丈夫だから〟って言ってくれたその意味を……」
そしてシジミは言葉を切り
「昨日の朝の大丈夫は、わたし達が思ってたのと同じだったってことが分かったの。でもなかなかね……」
「なかなか……て?」
「家入くんが言った大丈夫は、誰かにアドバイスして貰ったんじゃないのかなぁ?って思ったの」
シジミは肩をすくめた。
「だっておかしいよね。家入くんが大丈夫って言ってくれるほど、わたしとアジのことを前々から知ってた訳じゃ無いもの……多分家入くんが知ったのは、月曜日のことだよ」と言うシジミは、ちょっと照れくさそうだ。
放課後に二人で教室に居たことを、ジンジに偶然見られたことを言っているのだ。
「わたしたちの仲を、クラスの中では、たぶん家入くんが一番最後に知ったわけじゃない?」
「うん、まぁ、そうだよね」
言われてみればそうだ。
今更ながらにカコは、ジンジの鈍感さに呆れた。
「それで、問い詰めてみたってわけね――」とカコ。
「なかなか喋ってくれなかったんだよ。でも結局最後はカコとユウコに色々教わったって、白状してくれたんだけどね」
シジミは、あははっと大きな口を開けて笑った。
「あいつはほんとに言葉足らずだからね、ごめんね」とカコは、ただただ苦笑するしかなかった。
「でも、家入くんの……ジンジの気持ちは、わたし達にちゃんと伝わったよ」
そう言われてカコは、自分のことのように嬉しかった。
「カコとユウコの二人が、わたし達の気持ちをちゃんと分かってくれた上で、それを家入くんに伝えてくれたんだって思った。ほんとにありがとう……ってしか言いようがないよ」
「ううん、とんでもない」
カコは首を振った。
「わたしとユウコは、(シジミとアジを見てて)そうだろうなぁ~って思って感じたことを伝えただけだよ」
カコは遠慮がちにそう言った。
「でもそうしてくれて、ほんとに良かったんだよ。家入くんってば、その道に関しては鈍感そうだから……あ、ごめんね」
シジミは慌てて胸の前で手を合わせた。
「ううん、いいだよ」
カコは笑った。
そしてシジミも笑った。
いつもこうやってニコニコ笑って、冗談ばかり言っているシジミが、わたしのことを信じてくれて、みんなにしっかりと、そうじゃ無い、言ってくれるなんて……
シジミって強いんだなぁ~と、カコは思わずにはいられなかった。
「わたしこそありがと……」
「ううん、わたしこそ……」
お互いが交わすその笑みは、同じ気持ちの笑みだった。
*
それからシジミは、うん、と元気に言って席に戻った。
彼女の後ろ姿を見ながら、誰にも譲れない思いが彼女を強くしたのかも知れない……とカコは思った。
カコが席に戻ると、そこへジンジが教室に走って入ってきた。
同時に、自習開始の予鈴が鳴った。
「みなさん、おはようございます」
教室のみんなに聞こえるように、ジンジが大きな声で挨拶する。
「セーフですよね」とまた大声で言う。
「ぎりぎりセーフ」とクラスメイトの誰かの声がする。
ジンジは今日も元気だね……
カコに、いつもの笑顔が戻っていた。
*
ジンジは、急いで鞄を後ろの棚にしまうと、戻って来てそのまま勢いよく席に着地した。
……とジンジは、顔を歪めて跳ね上がるように立ち上がり、反射的に手で尻を払っていた。
床の上に、小さな音を立てて、何かが落ちた。
突然立ち上がったもんだから、その動きは、教室中が知るところとなった。
するとジンジは
「お騒がせいたしました。何でもありません」と照れ笑いをしながらみんなに謝り、ゆっくりと椅子に座った。
テ~、何だよう……と床に落ちた物を拾い上げてみると、それは画鋲だった。
何でこんな物(もん)が椅子の上に?と訝(いぶか)しみながらも、ジンジは、何食わぬ顔で近くの壁に、その画鋲を刺した。
そこへ、ユウコにお礼の挨拶をし、ついでに雑談を終わらせた乙音が戻ってきた。
「おはよう、ございます」
ニコニコと笑っている。
ジンジは乙音の顔色を伺った。
「おはよう。もう、大丈夫そうだね」
「大丈夫、です、昨日、ありがとう、ございます」
そう言って乙音は席に着いた。
自習が始まった。
乙音が開いているのは、相変わらず家庭科の教科書だ。
ジンジも席に着いて、苦手な社会の教科書を開いた。
27 何処に居るの?
ナオとユウコと三人で一緒に、208でお弁当を済ませて、カコは教室に戻ってきた。
食べながら、昨日出来なかった入間兄妹の部活案内をどうしようか?の話をした。
その後は、取り留めのない話で盛り上がりながら食事を終え、教室へ戻ってきたのである。
そしてカコは、ただ何となく、ジンジの机に目を向けた。
ジンジは席に居なかった。
またブラブラと学校の中をほっつき歩いているのかな……とも思ったが、今朝の妙な動きも気になっていたし、どうにも気持ちに引っ掛かるものがあって、乙音に訊いてみることにした。
乙音は自分の席で、数人の男子に囲まれて話をしている。
「乙音ちゃん、ジンジ見なかった?」
「見てない、です」
そう言うとまた、男子たちとの話の輪に入っていった。
「ジンジ知らない?」
すると今度は、男子たちがカコに顔を向けた。
仲の良いクラスメイトたち……
でも今、カコは誰かに、指先で背骨をなぞられたような感覚を覚えた。
「知らない……」
その中の一人が言うと、みんなが一同に首を横に振った。
「そう、ありがと……」
カコは諦めて席に戻った。
教室中を見回す。
そう言えば、シゲボーとタニの姿も見えない。
言い得ぬ不安がこみ上げてきて、カコは教室の後ろの鞄棚に行った。
ジンジごめん……悪いとは思いながらジンジの鞄を開けてみた。
中には弁当だけが入っていた。
手に取ってみると、重い。
食べてないじゃない。
カコは再び乙音の所まで行って、雑談の中に無理矢理割って入った。
「乙音ちゃん、今日は誰と一緒にお昼をしたの?」
「お弁当、ですか?」と首を傾げて考える。
「タニやシゲボーたちと一緒に食べたんじゃないの?」
「今日、一人、食べた」
「一人?」
「だって、三人、居なかった」
乙音はそれだけ言って、また雑談に戻っていた。
不安が募る。
もう一度、教室の中を見回す。
シジミがこっちを見て立ち上がった。
その顔は、何か言いたそうにしている。
そしてアジの席に目を向ける。
アジの姿も無かった。
みんなはどこに……?
カコが、シジミの席まで行こうとしたとき、シゲボー、タニ、アジの三人が教室に帰って来た。
彼らはまだ体操服を着たままだった。
カコとシジミは、三人に足早に近付いていった。
五人は、教室の後ろに集まっていた。
カコが、ジンジは?と訊こうとする前に
「ジンジが怪我をした」とシゲボーの第一声。
「ケガ?」
力が抜ける感覚があった。
「4時限目の体育の授業で……」とタニ。
「どうして?」
「バスケットの試合中に相手とぶつかって壁に跳ね飛ばされた……だと思う」とアジ。
「だと思うって……何なのよ?」
シジミがアジに詰め寄った。
「誰もその場面を見ていないんだ」
シゲボーが言う。
「大きな音がして、気付いたらジンジが床に倒れてた」とタニ。
「今何処に?」
「保健室で横になってる」とシゲボー。
今日の4時限目は、男子は体育館で体育。
本当なら女子も一緒に、体育館で授業を受けるはずだったのだが、女子担任の先生が急用で不在となり、急遽教室で保健体育の自習に変更になっていたのだ。
カコは、教室を飛び出していた。
廊下を急ぎながらカコは思った。
乙音と雑談していた男子たちが、誰も何も教えてくれなかったのは何故(どうして)なの?
28 眠りの保健室
保健室に駆け込むと、保健医の先生と二人の女子生徒がテーブルを囲んでお茶を飲んでいた。
「先生、ジンジは?」と言ってしまった後に、カコは慌てて言い直した。
「ごめんなさい。家入くんは?」
「ああ、彼ならベッドで横になってるわよ」
先生は、窓際のベッドだと教えてくれた。
「頭を打ったみたいだから、寝かせてあるけど、わたしの見立てでは、大丈夫だと思うよ。彼は相当な石頭みたいね」
カコは先生に頭を下げるとベッドに移動し、カーテンを割って、顔だけで中を覗き込んだ。
ジンジは額にタオルを乗せ、仰向けになって眠っていた。
顔色は?……悪くないようだ。
カコは胸を撫で下ろした。
そしてそのまま、身体を横にして中に滑り込んだ。
カーテンを引いたら、レールを滑る音で気が付いてしまうかも知れない、と思ったからだ。
音を立てないように、ゆっくりと椅子を引き寄せ、ジンジの枕元に腰掛けた。
額の上に乗せられたタオルに、手を触れてみた。
冷たかった。
そお~と捲ってみると、額の右上にタンコブがあった。
うわっ、痛そう……カコは静かにタオルを戻した。
それから改めて、ジンジの顔を覗き込んだ。
ジンジは、薄く口を開いて寝息を立てている。
カコがこうやって、マジマジとジンジの寝顔を見るのは、ジンジを家入くんと呼んでいたころ、あの図書館で蜂蜜入り紅茶を二人で飲んだとき以来だった。
そのときジンジは、閲覧室の椅子に座ってうつむき加減で居眠りしていたので、こうやってまっすぐに寝顔を見るのは、初めてだ――
何て表現すればいいのだろう。
小学校5年生の時から同じクラスで、ほとんど毎日、ずっと顔を付き合わせているのに、こうやって改めて見てみると、そのころから何かが変わっているような気がするのだ。
ジンジはジンジなのだけれど、昔とはどことなく違っているように見えるし、そう思う。
でも……色白で頬や鼻の周りにそばかすがあるのは相変わらずだ。
あッ、喉仏だ。
胸の上下に併せて、喉仏が緩く動いている。
カコは去年、変声期に差し掛かったジンジを「高い声を出してみて」とか「ドレミファって唄ってみてよ」とからかったことを思い出していた。
その喉の動きを観察しながら、黙ってその寝顔を見ていると、昼休み終了前のチャイムが鳴った。
音に反応して、ジンジが身じろぎをした。
カコは、慌てて身体を起こした。
ジンジが、薄く目を開けた。
まだ、目の焦点が定まっていない。
ぼんやりと天井を見ている。
そしてまた目を閉じ、また開いた。
ジンジは横の影に気付き、ゆっくりと顔を動かした。
カコが顔を近付けてきた。
「気が付いた?」
ジンジは曖昧に頷き、カコの顔に焦点を合わせる。
段々と意識がはっきりしてくるようすが、カコにも分かった。
「大丈夫?」
「うん」
「何があったの?」
ジンジはカコの瞳を見詰めたまま、一言一言ゆっくりと喋った。
「……?バスケットの試合をやってて、パスをもらってドリブルしながら走ってて、何人かに囲まれて、え~と」
「それから?」
「それから、う~んと」
天井を見上げた。
思い出そうとしているのだ。
「気が付いたらカコがそこに居た」
ジンジは、まだカコの瞳を覗き込んでいる。
「シゲボーとタニと、アジが三人で運んでくれたみたいだよ」
その視線に対して、カコは二度三度と、瞬きで返していた。
「全然覚えてない……」
「三人もそうだけど、ジンジに何が起こったか?って、誰も見てなかったんだって」
「そっか」
ジンジは、額の上に乗せられた濡れタオルに手を伸ばした。
「いいの?」
「起きる。もう要らない」
そう言って、タオルをカコに渡した。
ジンジは、ベッドの上に上半身を起こそうとする。
カコは、ジンジの背に手を添えてやった。
それから、額のタンコブを触ろうとするジンジを……
「駄目だよ、触らないほうがいいよ」と手を握って押し留めた。
「どうなってる?」
「タンコブになってるだけ。先生も大丈夫だって言ってた」
「そっか……」と言いながら、今度はお腹を擦っていた。
「どうしたの?」と訊くカコに「お腹が空いた」と一言。
一瞬にして、カコの心配顔が笑顔に変わった。
「はい、はい、分かってるよ」
カコは立ち上がり、カーテンを開いて外に出て、すぐに戻って来た。
カコの手の上には、ジンジのお弁当が乗っていた。
「はい、どうぞ」とジンジに渡す。
「え、あ、あ、ありがとう」
ジンジはドギマギしながら弁当箱を受け取った。
カコの気の使い方には、いつもながら驚かせられる。
カコは教室を飛び出した後、いったん直ぐに教室に戻り、ジンジの鞄から弁当を取り出して再び駆け出して行ったのだった。
ジンジのことだから、気が付いたら絶対お腹が空いたって言うに決まってると、確信していたのである。
その驚いた顔を見て、カコもしてやったりと……それが何故か嬉しかった。
*
「コンコン」「もしもし」「おじゃまかなァ~」と突然、カーテンの向こうから三つの違った声がした。
カコがカーテンを開けるとそこに、シゲボー、アジ、タニの三人が立っていた。
「お、おう」と三人に向かってジンジが言うと「元気そうじゃねェか」とタニ。
他の二人も笑っていた。
「二人とも、大丈夫そうだな」とシゲボー。
「二人……」「とも…?」とタニとアジ。
「オレ、何か変なこと言ったか?」
シゲボーは、二人に顔を向けた。
「うんにゃ、全然」
アジは胸を張って、大きく首を横に振った。
カコは三人に対し、笑顔で応戦した。
「いつからそこにいたんだよ」
ジンジは照れ臭さを誤魔化すように、わざと突っけんどんな言い方をした。
「お前の弁当を持ってこの中に入る墨木をちょうど見掛けた」
見ると三人は体操服から制服に着替えていた。
ジンジはカコに任せておけば大丈夫だろう……と考えて、三人は着替えてから保健室に戻ったのだ。
アジがそう言ったとき、昼休み終了のチャイムが聞こえてきた。
これから20分間は掃除の時間である。
「じゃあ、俺たち帰るわ」とシゲボー。
カコも立ち上がった。
「保険の先生には言っとくからね」
「ああ、ありがとう。弁当食ってから教室に戻るよ」
ジンジは毛布を捲ってベッドから降りた。
彼はまだ体操着のままだ。
床に立ったジンジの太股を見て、カコはその太さに、少し驚いていた……
29 午後の教室
掃除が終わるころ、ジンジがやっと教室に戻って来た。
詰め襟にきっちりと着替えていて、左腕の脇には弁当箱を抱えていた。
ジンジはそのまま、カコの席までやって来ると、声も掛けずにただ横を通り過ぎた。
カコも何も言わずに、ただジンジを見上げるだけだった。
額は少しだけ赤くなっているだけで、すっかり大丈夫そうである。
ジンジもカコに、大丈夫だと見せたかったのだ。
ジンジは、そこからグルっと回って教室の後ろまで行き、空になった弁当箱を鞄に入れ、それでやっと席に戻った。
座る前に、椅子の座面を一度だけ手で払った。
すると
「家入くん、今まで、どこ行った、ですか?」と乙音が訊ねてきた。
ジンジは「先生から頼まれ事されててさ、それを片付けてたんだ」と答えていた。
そこに、二人の会話を背中で聞いていたタニが振り返った。
「タニさん、なんですか?」と乙音。
するとタニは
「いや、何でもない」と笑って乙音の質問を受け流した。
タニも、ジンジの状態を知りたかっただけなのだ。
ジンジは、そのタニの背中に軽く手を置いた。
タニはそのまま前を向いた。
ジンジは乙音に振り返り
「ところで、次の授業は何だっけ?」と訊ねていた。
え~と、ですね、と乙音は机のを覗き込んで手を入れ、ごそごそとかき回した後に、一枚の紙切れを取り出していた。
その紙には、一週間の時間割が書いてあった。
それを指でなぞりながら乙音は「理科、です」と教えてくれて「その次、数学、わたし、両方、苦手」とジンジを見上げた。
「数学は得意だから、教えてあげるよ」
「じゃあ、分からない、とこ、あったら」
「お安い御用さ」
「御用? なんですか? わたし、今、用事ない……」
ジンジは苦笑しながら
「気軽に何でも訊いてくれていいってことさ」と言った。
「そうですか、絶対、ですよ」
「ああ、絶対さ」
すると乙音は嬉しそうな顔で
「早く、6時限目、ならない、かな……」と独り言を言いながら、5時限目の理科の教科書を取り出していた。
30 あやしい雲行き
5時限目の理科の授業が終わり、6時限目の途中から、空のようすが怪しくなってきた。
今日も相変わらず、雨は朝から静かに降ってはいるが、その雨足が次第に強くなってきているのだ。
208の担任で、数学を教えている西先生も、授業中何度も、外のようすを気にしていた。
そして授業が終わりに近付いたころ、校内放送で先生たちは至急職員室へ戻るように、とアナウンスが流れた。
先生が姿を消すやいなや、教室中がざわついた。
そこかしこで話が始まる。
この雨で、後田川が氾濫するのは時間の問題だと――
「すぐ帰れってことかな」
身体を乗り出しながら、タニが振り返った。
「だな、多分」とジンジ。
「帰れ、どういう、こと、ですか?」
乙音にはまったく訳が分かっていない。
「雨でそこの川が氾濫するから、その前に家へ帰れってことさ」とタニが答えていた。
「グラウンド、校舎、間、流れてる、川?」
「後田川って言うんだけどな。あれが氾濫すると、校舎の方に水が押し寄せてくるんだ」
「校舎の方がグラウンドより低い場所にあるんだよ」とジンジ。
「水、来る、どうなる、ですか?」
「どうなるも何も、中庭とか渡り廊下とかが水に浸かってしまうんだ。そうなったら、その水の中を歩いて学校から出なきゃならないのさ」とジンジが教えてくれた。
「しかも裸足で……」とタニ。
「裸足、ですか?」
「そう裸足、靴を濡らしたくないだろ。この激しい雨の中、鞄持って靴持って、傘差して帰るの出来るか?」
タニの声は、妙に弾んでいた。
すると乙音は、いきなり立ち上がって首を大きく振った。
「じゃあ、すぐ、帰る、です」
「おいおい、まだ大丈夫だから」
タニは笑いながら、落ち着け、と乙音に声を掛けた。
「ほんと、ですか?」と乙音は、疑わしそうにタニを見下ろしている。
そのタニと乙音の会話を聞きながら、ジンジは、あれ? と首を傾げていた。
タニは昨日まで乙音にぞっこんだったはずで、軽く言葉を交わすにも詰まりながらだったのに……
それが今は、友だちとして普通に、女子と話をしているような調子なのである。
「でも、帰る準備だけはしといた方がいいかもな」
教室を見回しながら、今度はタニが腰を上げた。
「そうだな」
考えるのを止め、ジンジも立ち上がった。
他のクラスメイトたちもそれぞれに、教室の後ろに置いてある自分の鞄を取りに立ち上がっていた。
年に何度かの行事で、みんなは手慣れたものである。
そこへ担任の満川先生が現れた。
先生は入って来るなり
「立ち上がっている者もそのまま聴きなさい――」と教室中に通る声で言った。
そして教壇まで来て話を始めた。
「もう分かっていると思うが」と先生は生徒たちを見回した。
このまますぐに家に帰ること。
帰る方向が同じ者同士、出来るだけ二人以上のグループになって帰ること。
もちろん部活は全て中止。
どんな事情があっても学校に残ることは許されない。
と、それだけ伝えると、先生はまた急ぎ足で職員室へ戻っていった。
「……と言うことで、帰るとするか」
立ち上がったまま話を聴いていたタニは鞄を取りに動いた。
「わたし、も」と乙音も動いた。
じゃあ、とジンジも鞄を取りにゆく。
……と傍らにカコがやって来た。
「一緒に帰ろう」
ジンジは身体ごとカコに向き直り
「あたりまえじゃん」といつものさりげない口調で答えていた。
31 帰宅する13人
学校の南側に位置する校門の玄関前に、みんなが集まっていた。
ナオとイケピン、ユウコとシンコ、シジミとアジ、タニとポンタ、タカコに、乙音と音也の入間兄妹、それにカコとジンジだ。
誰かが、一緒に帰ろう、と声を掛け合ったわけでもなく、自然と集まった13人だった。
するとタニが、集まったみんなを見回しながら、なんだよう、と愚痴をこぼしながら「オレだけ、ポンタとかよ」とうなだれた。
するとタカコが、二人の間に割って入って来た。
「わたしは一人なんだけど……」と両手で二人の背中を勢いよく叩いたかと思うと
あ……ごめん、ごめん、とその直後に優しく撫でていたわっていた。
シジミが
「あんた達三人って、とってもお似合いだと思うんだけどなぁ~」と茶化す。
「冗談にもなってねぇよ」とポンタ。
「そうだよ」とタニ。
するとタカコは、二人を自慢げに見上げながら
「そおぉお~? でもわたしはこういう関係が好きなんだけどなぁ」と言うと
そう、そのどっちを選んだら良いのか悩む贅沢な関係……とみんなは声をあげて笑った。
そんな他愛のない冗談の掛け合いが、しばらくの間続いた。
やがて、シンコが笑いをこらえながら
「そろそろ行こうぜ、グズグズしてっと先生やってくるからな」と声を上げると
「暗くなる前に帰らなきゃな」
「水が押し寄せてくる前に帰ろうぜ」
続くタニとポンタの掛け声で、13本の傘の華が開いた。
やがて傘は、正門から東へ、潮見小学校の方に向かって動き出していた。
*
それぞれの二人が固まって二列となり帰路に就いている。
先頭にナオとイケピン、次にユウコとシンコ、三番目がシジミとアジ、四番目に入間兄姉、五番目にカコとジンジ、しんがりはタカコとポンタとタニだ。
先頭のナオとイケピンが、水溜まりやぬかるみを避けながらゆっくりと歩いてゆく。
それをなぞりながら、後方組が離れず付いてゆく。
それでも、大粒の雨が地面に溜まった水を弾き、女子たちのソックスや男子のズボンに茶色い泥の面積を広げてゆく。
「ズボンを捲っときゃあよかったよ」
三組目を歩くアジが、傘を打つ雨音に負けないように声を出す。
「明日穿いていくズボンがねぇよ」
先頭のイケピンも大声だ。
「オレ、靴の中までグジョグジョ!」
シンコも返す。
「わたしもー」と最後尾のタカコが声を張り上げるとすぐさま
「ドンマイ」とタニ。
そうドンマイ、でも何がドンマイなの? と誰と誰かの声が重なり、みんなの笑い声がまた響いた。
32 水の壁
突然、先頭を歩いていたナオとイケピンが足を止めた。
二人は立ちすくむように前を見詰めている。
すぐ後ろの、ユウコとシンコが二人の傍らまでやって来て、同じように足を止めた。
いや……止まってしまったのである。
後方のみんなも、やって来るやいなや目の前の光景に目を奪われた。
何故なら、13人のほんの数メートル先では、本当の意味で、雨が水の壁を作っていたのである。
*
梅雨の長雨が続くなか、みんなは不思議に思っていた。
学校のグラウンドを越えてすぐ……そこのある場所だけ、雨の降り方が異なっていたのである。
降り方が強いのだ。
潮見小出身以外のクラスメイトに話を訊いてみても、学校の行き帰りの道で、ある場所だけ雨が強く降っている所があると言っていた。
まるでその雨が、学校を取り囲んでいるようだと……
そして今は、それが更に強い雨となり、13人はその雨の壁の前で佇んでいる状態なのだ。
イケピンが、みんなを振り返った。
「いつまで眺めていてもしょうがない。行こうぜ」
すると最後尾の三人のポンタが
「そうだよ、帰ろうよ」と声をあげた。
「んじゃあ、行くぞ!」とイケピンが応じて、また声を上げた。
次々に
おお~!とか、はいよ~!と男子たちから声が上がった。
「間隔を開けるなよ!」と横のナオをいったん認め、イケピンは雨の壁に向かって歩を進めた。
そして、二人は消えた。
続いてユウコとシンコ、シジミとアジが中に入っていった。
アジは入る寸前に、シジミに何か話し掛けていた。
シジミの、分かってる、と言う声が聞こえた。
きっとアジは、オレから絶対離れるなよ、と言うようなことを言ったに違いない。
次に、乙音と音也が消えた。
そしてカコとジンジの番になった。
「いくよ。両手で傘をしっかり持ってんだぞ」
左に並ぶカコに声を掛け、左手で握っていた傘を右手に持ち直した。
これで左手が自由になった。
ジンジが一歩を踏み出すと、カコが続いた。
激しい雨のせいで、すぐ先も見えない。
バリバリ……と大粒の雨が二人の傘を打っている。
衝撃で、傘はブルブルと悲鳴をあげた。
カコは傘を離すまい、落とすまい、と手に力を入れた。
そして何度も右に顔を向けて、ジンジの存在を確かめた。
ジンジもそうしていた。
当然、お互いの目が合うことになる。
二人は一歩一歩、歩調を合わせてゆっくりと前に進んだ。
*
どれくらい歩いたのだろうか?
突然……両手で支えていた傘の衝撃が消えていた。
「おい?」
慌てたジンジの声がする。
そしてジンジの左手がカコに触れた。
カコは手首を掴まれていた。
「大丈夫だよ」
カコはジンジに顔を向ける。
手首を掴まれているほど近いのに、カコにはジンジの姿がはっきりと見えなかった。
ジンジにも、カコがよく見えなかった。
「霧が出てる……」
カコは傘を、ジンジとは逆の方向に倒した。
「降ってない……」とジンジは傘を下ろした。
雨は降っていない。
突然に止んでしまったのか?
そんなはずは無い……と振り返ると、数メートル後方では激しい雨の音がしている。
「ここ、何処なの?」とカコ。
そこは、いつもの通学路であることは間違いないのだろうが、霧のために今の自分たちの場所が分からない。
そこに
「カコなの?」と前方からユウコの声がした。
二人が目を凝らすと、人の形をした六つの影が、ぼんやりとだが確認出来た。
「ユウコね。今そっちに行くから」
二人は急ぎ足で、声がする方に向かった。
そこで待っていたのは、ナオとイケピン、ユウコとシンコ、シジミとアジの6人だった。
それはお互いの声と、ぼんやりとした影の体格で確認することが出来た。
「乙音ちゃんたちは?」
不思議に思った、カコが訊いた。
「わたしとシンコが雨から抜けて、次に来るのが乙音ちゃん達だと思ってたら……」
ユウコは言葉を濁した。
「いつまで待っても来ないんだ」とアジ。
「そしたら……二人(カコとジンジ)の声がしたから」とユウコ。
「乙音ちゃんたちに会ってないよね?」と訊いているのはナオの声だ。
二人は首を横に振りながら、見てない、と声を出して答えていた。
「どうしちゃったんだろう」とカコ。
「戻ってみようか?」とジンジが提案していた。
「戻るって?」
「雨の手前のところまで戻ってみよう」
「戻るなら、みんなで戻った方がいいと思う」とイケピンが言った。
「そうだな、バラバラになるよりその方がいいかもな……」とシンコも言った。
全員が同意した。
「じゃあ、みんなで戻ってみよう。誰かが来てるかも知れないし……」
アジの言葉に、何かの不安に駆られた8人全員が、ほんの数メートルのところにある雨の壁に向かって戻っていた。
33 ナオとイケピン
「誰も居ないぞ……」
そう言ってジンジは、目を凝らしながら注意深く辺りを見回してみた。
しかし霧のせいで、何も分からなかった。
見えないのと同じだった。
見えないが、それでも、今居る以外の人の気配を知ることはなかった。
「三人(タカコ、タニ、ポンタ)は? 乙音ちゃんたちは?」
直ぐ後ろでユウコの声がする。
ジンジは、ユウコの声がする方に向かって振り返る。
姿が見えたわけではなかった。
声とシルエットで、ユウコだと知るだけだった。
そこに
「どこ行っちゃたんだろう」とみんなの気持ちを代弁するような、シジミの力の無い声が響いた。
その響きが、みんなの心配と困惑を、染みのように広がった。
ジンジは慌てて、その広がりを打ち消すように
「オレがみんなの名前を呼ぶから、その後みんなは黙って耳をすましてくれ。もしかしたら何処かから、返事があるかもしれない」となかば強引に提案していた。
すると……
そうだ、それ良いかも、分かったやってみよう、の声と一緒に、みんなが少しだけ安心したような感じを、お互いに送り合う気配があった。
ジンジはすぐ実行に移すべく、よし、と思いっきり息を吸い込み
「おお~い、タニぃ、ポンタぁ、武藤さぁ~ん、入間さぁ~ん」と部活で出す自慢の大声でみんなを呼んでいた。
直後に、全員が耳を澄ます。
しかし残念ながら、いくら待ってみても、聞こえてくるのは雨音だけで、他の音は何も返って来なかった。
「おお~い」
「誰か居ないのかぁー」
アジとシンコが、堪らず声を上げていた。
それでも、何も返って来ない。
「ほんとにどうしちゃったんだろう?」とユウコは、ナオとイケピンに意見を訊いてみよう、と二人に振り返った。
? ? ? ! ! ! …………
直接にユウコは言葉を飲み込み、傍らのシンコにしがみ付いていた。
カコとシジミが、ユウコのただならぬ気配を感じ、その方に振り返っていた。
「嘘!」とシジミは傘を取り落として、両手で口を押さえた。
シジミの声と、傘が落ちる音で、ユウコからやっと声が出た。
悲鳴に近い声だった。
「ナオとイケピンが居ないよ!? 居なくなっちゃった……」
すぐ後ろに居るとばっかり思っていたナオとイケピンの影が……姿が消えてしまっていたのである。
シンコは、しがみ付かれたままのユウコの手の上に自分の手を重ねて、強く握り返していた。
「う、嘘だろ……」
アジも呆然としている。
「イケピーン!」
ジンジが声を張りあげた。
「ナオぉお~、冗談止めてよ」
カコの声は、怯えていた。
「どうなっちまったんだよ」
シンコの声は、震えていた。
どうしよう? どうする? とみんなの動揺が、今度こそ染みのように広がった。
それでも、その広がりを振り払うように、ジンジが思い立ったように声を上げた。
「学校に戻って先生に知らせよう」
すぐさまユウコが返した。
「そうか、先生からナオたちに電話してもらうことも出来るよね」
「そうだな、その方がいい、そうしよう」とシンコも同意した。
「それにもしかしたら、みんなはまだあの向こうに居るのかもしれない」
ジンジが雨の壁を指差す。
言ってはみたが、それはジンジにも自信が無かった。
一度こっちに来たナオとイケピンが、また壁の向こうに戻ったというのか?
そんなのおかしい、とみんなも思っているはずだ。
それでも確率はゼロじゃ無い。
二人の悪戯だった、という期待もある。
それにタカコ達も……
「でも、誰がゆくの?」
口を開いたのはカコだった。
ジンジはカコを見た。
「言い出しっぺはオレだから、オレがゆくよ」とカコに向かって言った。
「じゃあ……」
「一人でゆく! みんなはここで待っててくれ! すぐ戻るから」と宣言していた。
ジンジはカコに、わたしも一緒に……と言うであろう次の言葉を言わせなかった。
でも……と躊躇っているカコに
「走ってゆく。一人の方が早い!」
絶対オレが行く、とジンジは鞄を肩から外した。
仕方なくカコは、ジンジの手から、鞄を抱き取った。
「行ってくる。すぐ戻るから」
言うなり、開いた傘を両手に持って前屈みになると、ジンジは雨の中に消えた。
「大丈夫……だよね?」
「大丈夫だよ!」
ユウコはカコを力付けようと、彼女の背中に手を置いた。
その手の平から、ユウコの震えが、カコに伝わってきた。
その震えと一緒に、カコはジンジの鞄を強く抱いた。
34 とにかく帰ろう
5人は、雨と霧のギリギリの境目でジンジを待った。
そこだと雨にも降られないし、霧もそんなに濃くないことに、カコが気付いたからだ。
そこに集まっていれば、みんなの表情がかろうじて分かる。
お互いの顔が見えるだけで、ホッとした気持ちになれた。
*
ジンジは思っていたよりも早く戻ってきた。
消えてから5分も経っていなかった。
「早かったじゃねぇか」とアジ。
「行くには行ったんだけど……」
ジンジは浮かない顔をみんなに向けた。
「門が閉まってて、中に入れなかった。学校にはもう誰も居ないと思う」
雨の壁の凄さを物語るように、ジンジの傘の骨が三本、奇妙な形に曲がっていた。
ズボンの膝から下は、ホースで水を掛けたようにずぶ濡れだ。
「(門が閉まってたの?)まだこんな時間なのに?」
アジにくっ付いていたシジミが訊いた。
「学校出たの、確か4時前だったよね。まだ30分も経ってないよ……」
カコは抱いていた鞄をジンジに返した。
「分からない。とにかく門には鍵が掛かってて中に入れなかった。先生たちも、もう帰ったんだと思う」
「タカコ達は?」
ユウコが訊いた。
するとジンジは、力なく首を横に振った。
「タカコ達も、菅野たちも見なかった」
沈黙が流れた。
やがて……
「どうする?」とシンコが呟いた。
ここに立っていても、もうどうしようも無いのだ。
「とにかく帰るしかねぇな」とアジ。
「そうだよね、こうなったら1分でも早く家に帰ってみんなに電話した方がいいよ」
シジミがアジの腕に手を回した。
「その方がいいと思う」とジンジ。
「タカコ達もそうだし、みんなこの霧のせいではぐれたんだよきっと……」
「そうよ、きっと先に帰ってるよ! ナオだって霧の中でわたし達とはぐれちゃって、しょうがなく二人で先に帰ったに違いないよ」とユウコは言うが、今のこの状況では説得力に乏しい。
やがてカコが……
「帰ろう」と言った。
「帰ってみんなに電話しょう」とシジミ。
「とにかく帰ろう」ユウコが言った。
6人全員が頷いていた。
「固まってゆくぞ」
アジが先頭を歩いた。
その横にシジミが、絶対に離れないと彼の腕に手を回している。
そしてユウコとシンコ、最後はカコとジンジが続いた。
35 霧の向こう
濃い霧がまとわり付くように、カコの身体を包み込んでいる。
そのため、ほんの数歩先を歩いているはずのユウコとシンコの姿さえも見えない。
「そこにいるよね」
カコはユウコに何度も声を掛けた。
「大丈夫だよ」とその都度、ユウコは返事をくれた。
その先のシジミとアジからも、いるよ、と声がある。
そんなお互いを確認するやり取りを何度も続けながら、6人は前へ進んで行った。
*
距離感がまったく摑めないまま、どれほど歩いたのだろう……
突然、先頭のアジが声を上げていた。
「おい見ろよ、道の先が明るくなってる?!」
「ほんとだ、きっとあそこが霧の出口なんだよ」とシジミの声もする。
返すように「急ごう」とアジ。
そしてすぐに、二人が走り出す足音がした。
「ちょっと待てよ」
「危ないから離れちゃダメだよ!」
シンコとユウコが二人に叫んでいた。
それでも、足音は遠ざかってゆく。
「一緒に行動しないと……」
シンコが大声を出す。
「行っちゃうよ」とユウコは、慌てた声を出す。
シンコはカコとジンジに、ボクらも急ごう、と声を掛ける。
次には、ユウコとシンコが動き出す気配が、カコとジンジに伝わってきた。
「行こう」
ジンジがカコに言う。
カコの影が、そこにあった。
四人は急ぎ足で、シジミとアジの後を追っていた。
すると……
アジが言っていたように、道の先が明るくなっているのが分かった。
「きっと出口だよ」とユウコの声がする。
四人は更に足を早めた。
そしてついに、四人は霧の中から抜け出すことに成功した。
36 消えた二人
霧の先は、また土砂降りの雨だった。
四人は慌てて傘を開いた。
ジンジの骨が曲がった傘も、どうにか何開くことが出来た。
みんなは安堵した。
相手の顔が見れるということは、何事にも代え難いものがあった。
落ち着いたところで辺りを見回すと、そこはいつもの通学路で、グラウンドを過ぎた場所だということが分かった。
しかし、その安堵つかの間のものだった。
突然
「居ない」とカコが口を開いていた。
ジンジにも、その言葉の意味が分かっていた。
ユウコは、半べそをかいていた。
「どうしてなの? シジミとアジが居ないよ。何故待っててくれないの?」
「江本、落ち着けよ」
シンコの声は、掠れて上ずっていた。
「どうやって落ち着けって言うのよ。さっきまで一緒だった二人が居なくなってるんだよ」
ユウコはシンコに突っ掛かった。
「何故みんな居なくなっちゃうの?」
カコも混乱している。
ジンジは何も言えなかった。
「どうしよう」と言ったユウコ本人も一緒に、四人は「分からない」と首を振っていた。
答えなど出るわけが無い。
四人は為す術なく、立ち竦んでいた。
これからどうすれば良いのかも分からないのである。
37 ユウコとシンコ
最初に空を見上げたのは、カコだった。
間を置かずして三人も、そのことに気付いていた。
傘を打つ雨の衝撃が弱くなっていたのである。
どうしたんだ? とジンジが背後を振り返った。
シンコが声をあげていた。
「霧が、霧が来る」
霧と雨の境界線が、四人に向かって迫って来ていた。
その影響で、今の場所の雨が弱くなっているのだ。
「とにかく、行こう。逃げよう」
シンコはユウコの手を握って、走っていた。
ジンジもとっさに、カコの手首を掴んで走り出していた。
一旦は離れられた、と思ったのもつかの間、押し寄せる霧は風のように早く、まるで意志があるかのように、カコとジンジを包み、ユウコとシンコを捕まえていた。
このまま霧に取り込まれれば、またすぐ視界が効かなくなる……
そして誰も見えなくなる。
今の状況で、これほど不安をあおるものは無かった。
ジンジは、カコの手の存在を感じながら、歯を食いしばった。
「手を離すなよ」
それだけ言うのがやっとだった。
ジンジは心の中で、叫び声をあげていた。
摑んだ手首の存在がなければ、一人だけで逃げだしていたかもしれなかった。
*
突然、前を走るユウコとシンコが立ち止まった。
ぶつかりそうになり、二人は寸前で足を止めた。
「どうしたんだよ。走らなきゃ――」
ジンジのいらついた声が、周りに響いた。
ユウコとシンコが振り返った。
二人は何も言わずに、自分の手の平を見詰めている。
そして顔を上げた。
カコには、ユウコの泣きそうな顔が、ぼんやりと見えた。
ジンジには、シンコの驚いている顔が、ぼんやりと見えた。
ユウコがカコに手を伸ばす。
二人は言葉を飲み込んだ。
ユウコの伸ばした手の平から、彼女の顔が透けて見えていた……
「ユウコ」
絞り出したカコの声は、掠れていてた。
ユウコとシンコは口を開き、大声で何かを叫んでいる。
だが、聞こえない。
「駄目、駄目、ユウコ。いっちゃ嫌だ。消えちゃやだ」
ユウコに近付こうとするカコを、ジンジは後ろから抱き留めた。
絶対に放すもんか、と思った。
そうしなければ……
腕を振りほどこうと、カコは暴れた。
ジンジは力を緩めない。
一瞬でも力を抜いてしまったら、それで終わってしまう、と思い、怖かったからだ。
「駄目、ユウコ駄目」
目の前のユウコの輪郭が、次第に曖昧になってゆく。
水で絵の具を薄めてゆくように、周りに溶け込んでゆく。
*
やがて二人は、居なくなってしまった。
霧の中に消えた。
*
カコは暴れるのを止めた。
それでも、ジンジは力を緩めなかった。
「痛い……」
カコが呟いた。
「ご、ごめん」
慌てて腕を離した。
カコは向き直って、ジンジを見上げた。
やがて……
カコの顔がみる見るうちにくしゃくしゃとなり、大粒の涙が溢れて頬を伝った。
そしていきなり、ジンジに殴り掛かっていた。
「ばか、ばか、ばかジンジ。ジンジのばか。ユウコが居なくなっちゃったじゃない」
無茶苦茶に拳を振り上げ、ところ構わずジンジを殴った。
何度も何度もジンジを殴った。
ジンジは殴られるまま動かなかった。
黙ってジッと立っている。
やがて……
殴り疲れたカコが手を止めた。
肩で息をしている。
「気が済んだか……」
カコは何も言わずに、またジンジを見上げた。
額に目が止まった。
体育のときのタンコブが、赤く腫れ上がっていた。
驚いたカコは手を伸ばし、途中で躊躇い、それから優しく、額に触れた。
「これくらい大丈夫さ」
ジンジは笑った。
「ごめん。痛かった、よね……」
痩せ我慢しながら笑うジンジを見ているうちに、カコにも笑みが浮かんできた。
カコは
「ありがと……」と呟いた。
「帰ろう」とジンジが言った。
「うん」
「とにかく家の方へ向かって歩こう」
「それしかない、よね……」
ジンジは、左手をカコの前に出した。
「はい……」
カコはそのジンジの左手に右手を乗せた。
カコの手は震えていた。
その震えを止めてあげるよう……
ジンジはカコの手をしっかりと握った。
38 霧の中の二人
霧深い通学路?を、二人は手を握り合って無言で歩いた。
カコは、消えてしまったみんなのことを考えていた。
きっと、みんなは先に帰っちゃったに違いないよ。
そうに決まってる。
タニとポンタにタカコ、乙音ちゃんたち、ナオとイケピン、シジミとアジ、ユウコとシンコ、次々と居なくなってしまったけど、きっと雨や霧の中で離ればなれになってしまったに違いない。
そうだよ……二人での話に夢中になっているうちに、はぐれてしまったに違いない。
はぐれてしまったことに気付いたあっちも、慌ててわたし達を探してくれてたに違いない。
でも結局見付からなかったから「しょうが無い」って先に帰ったんだよきっと……
みんなもう、お家に帰っちゃてるよ。
ユウコとシンコが目の前で消えてしまったのも、あれもみんなが次々に居なくなったもんだから頭が混乱して、狼狽(うろた)えてちゃって、自分で勝手に消えちゃったって思い違いしたに違いないんだ。
霧の中で透明になってゆく二人を……勝手に勘違いしたに違いないんだ。
きっと遠ざかって行っちゃったんだよ。
人が目の前で消えてしまうなんて、そんなこと絶対にあるはずないもの。
カコはジンジの手の存在だけを感じながら、あれこれと考えを巡らせていた。
すると……
「なぁ」とジンジがカコを呼んだ。
「ん? 何?」とカコは問い返した。
「何考えてんの?」とジンジ。
「別に、何も考えてなかったよ」
カコは、曖昧な返事をした。
「ジンジこそ黙ってたじゃない。そっちこそ何か考え事してたんじゃないの?」
逆に返されされるとは思ってもいなかったジンジは「え、あ、いやオレも何も考えてなかったよ……」とイガグリ頭を手の平でガジガジっとなぞって誤魔化してた。
「嘘ばっかり、ジンジはほんとに嘘が下手だよね」とカコは、握っていた手に力を込めた。
「さっきまで唇からムニュムニュって漏れてたよ。それって何か考えている時の癖だよね。分かってるんだから」
「そんなこと無いさ」
「ほらまたそんなこと無いって言った。それも口癖だよ。そんなこと無いわけ無いよ。きっとみんなのことを考えてたんでしょう?」
握られていたカコの手に、微かな動きが伝わった。
「そうなんだ。みんなが居なくなっちゃたのは何でだろうって考えてたんだ」
その通りでした、よくご存じで……とジンジは降参した。
「それでみんなはもう、とっくに家に帰ってると思うんだけど……」
「わたしも、そう思いたい」
カコはジンジの目を見ているつもりで話している。
「そうに決まってるさ」
返すジンジの言葉には、根拠も何もないのだが、それでも、絶対だよ、とした口調がうかがえた。
「帰ったら直ぐに、ナオやユウコやタカコに電話してみる」
「オレも、イケピンやらシンコやらタニやらポンタやら、片っ端から架けてみるよ」
「きっと電話の先から元気な声が返ってくるよね……」
「そうに決まってるさ」とジンジ。
「うん」
カコは精一杯の笑みをジンジに返していた。
しかしそれも、ジンジにははっきりと見えていなかった。
39 入間家の前
その異変に、先に気付いたのはジンジだった。
「ほらあそこ……」とジンジは、カコを握っている手で前を指した。
「明るくなってる」とカコ。
目を凝らすと、少し先の景色が、ほんの微かだが見えるようになっていた。
はっきりとはしないが、道のようなものが見える。
「霧が晴れてきたのかな?」
行ってみよう、とジンジはカコの手を引っ張って前へ進んだ。
明るくなっている方向に向かって、二人は自然と足早になっていた。
そして突然に……何の予兆もなく、霧が晴れていた。
雨も降っていない。
「ここは?」と二人は辺りを見回した。
あれ、とカコが指差す先は……
「乙音ちゃんの家だよ」
二人は、おばさんの家の前の道に出たのであった。
「どうして?」とカコは不思議そうな顔をして、辺りを巡らした。
おそる恐る、背後の霧にも振り返った。
霧は迫ってこようとはせず、動かずにその場所に、たゆとうていた。
ジンジも、何故なんだ、と首を傾げていたところに、カコから手を強く握り返されていた。
なに? どうした? とジンジは慌てて身構えていた。
「ムーンとユベールだわ」
ほんとか?と見ると、おばさんの家の玄関ドアの前で、ムーンとユベールの二匹が仲良くじゃれ合っているではないか。
カコの声に気付いた二匹は、ミャ~、と緩く啼いて、我先にと駆け寄って来た。
カコは、ムーンとユベールを出迎えようと、膝を屈めた。
ジンジは慌てて、そしてようやく、カコの手を離していた。
二匹はカコを独占しようと、身体をぶつけ合ったり、押し合ったりしながら手の平に顔をこすり付けている。
カコが二匹に微笑む声?が、ジンジには聞こえた気がした。
一瞬だけ、カコはジンジを見上げて笑った。
40 現れたおばさん
カチャリと音がして、玄関のドアが開いた。
二人は、ムーンとユベールから顔を上げた。
ドアの隙間から、おばさんが顔を出していた。
「あらあらカコさんとジンジくん。二人とも来てたのね」
おばさんは笑って、さり気なく空を見上げた。
二人も釣られて、空を見上げた。
いつの間にか、雲の切れ間から、陽の光が差し込んでいた。
それが眩しくて、二人は目を細めた。
そこに
「以外と早かったわね」とおばさんが言った。
早かった……の言葉に疑問を持ちながら、ジンジは「こんちは」と頭を下げた。
カコは、ムーンとユベールを両手に抱き抱えて立ち上がり
「おじゃましてます」と頭を下げた。
どういたしまして、とおばさん。
そしておばさんは……
「さぁ、上がって頂戴」とドアを大きく開いて、二人を招き入れようと声を掛けていた。
カコは慌てて
「でも、わたし達、すぐに帰らなければならないので……」と断りを入れると
「そおぉ~、ちょっとだけでもいいから上がっていけないの?」と残念そうだ。
でも、おばさんの口元は何故か笑っているように見えた。
「急ぎの用があるんです」とジンジが頭を下げる。
それでもおばさんは、意味ありげに二人を見ながら言った。
「急ぎの用って、ナオさんやユウコさん達のことなんじゃないの?」
「…………」
二人は言葉に詰まり、思わず顔を見合わせていた。
「そのことで話があるのよ。だから上がってちょうだい」
おばさんが手招きすると、ムーンとユベールはカコの腕から飛び出していた。
二匹は二人をジっと見上げ、それから踵を返すと、家の中に駆け込んでしまった。
まるで二匹は、二人を家の中に誘っているかようだった。
「ほらほら入って、乙音と音也も待ってるから」
「え? 乙音ちゃんたちは、もう……」
二人は目を丸くした。
「ええ、とっくに」
おばさんは、口元を手で隠しながら、クスクスと笑った。
二人は訳が分からず、立ちすくんでしまった。
「ささ、入って。全部話してあげるから……」
「ぜ、全部?」
二人は首を傾げる。
「そう、全部よ……」
二人は顔を見合わせ、頷き合い、全部という言葉に惹かれて、おばさんの家にお邪魔することに決めた。
「リビングで待ってますからね」
そう言って、おばさんは家の中に消えた。
41 電話
「ささ、座ってちょうだい」
二人がリビングに入ると、おばさんは紅茶を乗せたトレイを持って、テーブルの前に立っていた。
促された二人は、昨日と同じ椅子に腰を下ろした。
テーブルに向かって右がカコで、左がジンジだ。
カコが腰掛けると、すぐさまムーンが膝の上に飛び上がってきた。
そして、膝と膝の間に、身体の納まりがいい体制を作っていた。
背中を撫でてやると、ムーンは喉をゴロゴロと鳴らしながら、一度だけカコを見上げ、それから顔を伏せて丸くなった。
「ムーンはよっぽど、カコさんが気に入ったみたいね」
おばさんは、ティーセットを二人の前に並べた。
茶器は、昨日と同じ WEDGEWOOD だったが、柄が違っていた。
おばさんは、二人の正面の席に着くと、ユベールを膝の上に抱き上げた。
「さぁ、召しあがれ」
二人は言われるまま、紅茶を口にした。
蜂蜜入りの紅茶が、二人の身体を、芯から暖めた。
口の中に広がる茶葉の香りを楽しみながら、カコは思った。
招かれてリビングに上がったときには、もうわたし達の紅茶が出来上がっていたのは、どう言うことなの?
それは、わたし達が来るのが分かってたってことだよね……と自分自身に確認するように質問していた。
それにさっきおばさんは、玄関先で〝以外と早かったわね〟と言っていたし……
それに昨日は、わたしのことを墨木さんと呼んでいたのに、今日はカコさんになってる。
*
しばらくして、おばさんが口を開いた。
「落ち着いたかしら?」
二人は「はい」としっかり返事が出来るほど、落ち着きを取り戻していた。
そしてようやく、口元に笑みを作れるようにもなった。
返事を聞いて初めて、おばさんも紅茶を一口飲んだ。
それから話を切り出していた。
「まずはナオさんとイケピンくん、ユウコさんとシンコくん、シジミさんとアジくん、あと、えっとそうだ、タカコさんとポンタくん、それとタニくんね。みんな全員無事だから、これはおばさんが保証します!」とはっきりと……言った。
「それをこれから、きちんと説明してあげようと思って、上がってもらったのよ」
二人には訳が分からなかった。
「……でもカコさん、その前にうちの電話を使ってナオさんやユウコさんに電話をするといいわ。きっともうお家に帰っているはずだから」
カコは驚きながら小首をかしげ
「いいんですか?」と返事をしていた。
「どうぞ、どうぞ、先に確認した方が、おばさんの話を聞きやすいでしょう」
「そうさせて貰えよ。みんなの無事さえ分かれば、オレもその方が安心するしさ……」
ジンジもそう言いながら、頭を捻っていた。
おばさんが、何故そんなことを言うのか、そして言えるのか、二人とも、分からないことだらけだった。
でも、自分の分からないことよりもまず、とカコは、そうするね、とジンジに頷いた。
そしてカコは、膝の上のムーンを、ごめんね、と椅子の上に置いて立ち上がった。
ムーンは不満そうにカコを見上げていた。
「電話は玄関の横にあるから……」
「下駄箱の上ですよね」
お借りします、とおばさんに頭を下げた。
ジンジも一緒に頭を下げていた。
カコはジンジの肩に、一度手を置き、それから玄関に向かった。
*
数分後、カコが戻ってきた。
その顔を見たジンジは、おばさんが言っていた通り、みんなはもう家に帰っているんだ、と分かった。
「安心した?」とおばさん。
「ええ、ありがとうございました」
カコの声音からも、ホッとしたことが分かる。
良かったわね、とおばさんは笑いながら
「ささ、座ってちょうだい。話をはじめますよ」とカコを促した。
今日二度目の、ささ、だった。
カコは席に座り、ムーンをまた膝の上に乗せた。
「それじゃあ何から話をしましょうかね……」
おばさんは、膝の上のユベールに問いかけていた。
するとユベールが顔を上げた。
何かを言いたそうな顔をしている。
「じゃあ、まずおばさんの職業から話をするとしようかな――」
ユベールがミャオと短く鳴いた。
それからでいいよ、と言っているのだろうか?
「おばさんの職業?」
カコは軽く身を乗り出し、ユベールとおばさんを不思議そうに眺めた。
「そう、おばさんのお仕事」
そう言うおばさんの顔は、いたずら好きでお茶目な女の子のようだった。
42 お仕事
「おばさんのお仕事は、陰陽師なの」
「陰陽師?」
聞いたことはある言葉だが、そんな職業の人が本当に居るの? とカコは首を捻った。
「今風に言えば、占い師ってことかな。厳密に言えばまったく違うんだけれど、そんな感じで考えてもらえば分かり易いかもね」
陰陽師、占い師、カコはそのふたつの言葉を、頭の中で交互に繰り返した。
「普段は、人の未来や恋愛とか、人の将来を占うことをやったり、土地や家の間取りなどの吉凶を診ることもするのよ。でもたまに、特別な依頼が来ることもあるの……」
「特別な依頼?」
「そうなの、悪いモノに取り憑かれたからお払いしてください……ていうような依頼よ」
「取り憑かれる?」
カコは、今まで手にしていたティーカップを、もう片方の手に持っていたトレイに戻し、テーブルの上に置いた。
「取り憑くって言うのは、簡単に言えば、霊や物の怪などが、人に乗り移るってことよ」
ジンジはティーカップを、テーブルに置いたままのトレイに戻した。
「人に取り憑いている霊魂……つまり悪い〝気〟ってことね。それを人から追い出すのが(おばさんの)本当の仕事なのよ」
逆におばさんは、ティーカップを手に取って口に運んだ。
「取り憑かれた人って、ほんとに居るんですか?」
カコの質問に、おばさんは頷いた。
「(取り憑かれたと思っている)そのほとんどの人たちは、いわゆる気持ちの不具合で、変な行動を起こしているんだけれど……でもまれに、本当に悪い気に取り憑かれている人がいるのよ」
ジンジは黙ったまま、おばさんの話に聞き入っていた。
「そんな人たちを治療できる専門家って、そんなに多くないの。だからこれでも結構忙しいのよ。でもね……」
おばさんは言葉を切った。
「でも……?」
「そんな仕事ばっかりやってると、退屈して飽きてきちゃって……あら、こんなこと言ったら患者さんに悪いわね。これは内緒ね」
おばさんは、人差し指を縦にして唇にあてて、目尻だけで微笑んだ。
「でも、この仕事を20年以上やってるんだもの、さすがにねぇ~」
おばさんは肩をすくめ、また紅茶を口にした。
「それで何か新しいことを……と思って心機一転、ここに引っ越して来たの。そうしたら偶然あなた達に会ったじゃない」
「わたしが、ムーンとユベールに(ジンジの非常食の)魚肉ソーセージをあげた日ですよね」
カコは膝の上のムーンに目を落とした。
ムーンは気持ち良さそうに眠っている。
「あなたち二人が、あまりに仲が良さそうだったから、つい悪戯してみたくなっちゃってね。ちょっとからかってみようかなと思っちゃったの」
ごめんなさいね、とおばさんはコロコロと笑った。
「いたずら……ですか?」
「ええ、悪戯」とおばさんは二人に、はっきりとそう言っていた。
そう断言されるように言われても、二人には何のことだかさっぱり分からなかった。
おばさんは続けた。
「それでも、準備に三週間も掛かっちゃたんだけどね」
「悪戯の準備に三週間」
カコはジンジを見て、それからまたおばさんに顔を向けた。
「その準備っていうのは、何をしたんですか?」
今度はジンジが質問をしていた。
するとおばさんは、少しだけ得意げに
「まずは学校の周りに〝結界〟を張ったのよ」と言った。
「結界?」とカコ。
すると、ジンジがおばさんの代わりに答えていた。
「ある特定の領域を外敵から守る目的で、何らかの手段や道具を使って〝空間〟を作ることだよ。例えば神社や寺院のしめ縄とか玄関の塩とか……」
「良く知ってるじゃないの」
おばさんは、目を丸くした。
少し驚いたようだった。
「そう言うジャンルの本を読むのが好きなんです」
ジンジは照れながら、手を頭に乗せた。
「趣味が偏ってるんじゃないの」とカコ。
「ちゃんと文学作品も読んでるさ」とジンジが慌てて返す。
「ほんとに?」
「ほんとさ!」と何度かのやり取りがあった。
あ……と言葉が止まった。
咄嗟に
やっちゃったと二人。
「ご、ごめんなさい。話の腰を折ってしまって」
カコが謝るのと同時に、ジンジも頭を下げていた。
「ほんとうにあなた達は不思議ね。何でも揃っちゃうんだものね」
謝らないでいいのよ……とおばさん。
「でもね、今回の結界は、外から中を守るんじゃなくて、おばさん自身の領域を作ったのよ。どこからも邪魔が入らないようにね」
なるほど、とジンジは身を乗り出した。
「それって学校ですよね」
おばさんはニコニコしている。
「学校全体をですか?」とカコ。
「そうよ、凄いでしょう」
おばさんは笑い「それでね……」とジンジに問いかけていた。
「結界の材料は雨。雨が結界の壁の役目をしているのよ、分かるかしら?」
フムフムとジンジ。
「雨が結界の役目? 雨は水ですよね」
そうよ、とおばさんは、期待の目をジンジに注いだ。
ジンジは頷いた。
「それは……木(もく)・火(か)・土(ど)・金(ごん)・水(すい)の五種類の元素からなる五行ですね」
「何それ、分かんないけど」とカコは、ジンジを肘で突ついていた。
「オレも本を読んだだけで詳しくは知らないんだ。でも要するに、五行は古代の中国で生まれた思想で、その五つが互いに影響しあいながら、天地……う~んと、つまり世界! 宇宙って言えばいいのかなぁ。その全てが変化しながら生まれたり、滅んだり、勢いが盛んになったり、衰退したりしながら循環するっていう考え方なんだ」
……とカコに説明し終え、どうでしょうか?とおばさんに目を向けた。
「まあ、大体良しとしましょう」
おばさんは親指と人差し指を使って、パチパチパチと拍手をする仕草をした。
「で、おばさんの得意とするものが、水」
「水……そうか、そうなんですね」
カコは、分かった、と顔をほころばせた。
「はい、カコさん言ってみて」とおばさん。
「それで学校の近くになると、いつも雨が強くなるんだ。毎日不思議だなぁ~って思ってたんです。その雨で結界を……つまりおばさんは雨を使って、自分の陣地を作りあげた、ってことですね」
「はい良くできました」とおばさん。
「この梅雨の時期にしか出来ない悪戯ね。今年は長梅雨になりそうだって、予報でも言ってたでしょう」とまた、コロコロと笑った。
43 ふつうの中学生
それからおばさんは、ポケットから一枚の紙を取り出して、カコに渡した。
ジンジが身体を起こすと、カコはそれが見やすいように、ジンジに身体を寄せた。
それは和紙で出来ており、大きさが5cmくらいで、しかも人の形に切り抜かれていた。
そしてそれには、墨で、音也と書かれていた。
「結界が完成した後は、学校に忍び込んで、男の子の机には乙音、女の子の机には音也、と書いた人形(ひとがた)を貼ったの。そのひとつひとうに〝思念〟を送り込みながらね……」
「これを……ですか?」
おびさんが手を伸ばして、指で人形を撫でると、人形は、まるで意思があるかのように、フワリと浮き上がった。
驚いた二人は、ビクっと震え、瞬間的に固まっていた。
「そう、そのひとつひとつに〝思念〟を送り込みながら、机の裏に貼ったのよ」
今も、おばさんが、その思念で人形を動かしたのだ。
「よく言われる〝気〟とは違うものなんですか?」
カコは、動かなくなった人形から顔を上げた。
「簡単に言えば〝気〟は、生きてゆくための万物に宿る生命エネルギーそのもので、なんにでもあるの。そして思念はその〝気〟が意思を帯びたものなの。その人の心の動きが気を動かすのよ……」
おばさんは理解出来てる?……と二人をそれぞれに見やった。
二人の顔は、しっかり分かってます、と言っていた。
おばさんは続けた。
「その机の所有者が、男の子ならば〝乙音〟が自分の理想とする女の子に、女の子ならば〝音也〟が理想とする男の子に見えてしまうように〝思念〟をその人形に込めたの。ほんとうは椅子のほうが良かったんだけどね」
「なぜ机に?」とジンジ。
「椅子はお尻と直接触れているから、思念が身体の中に浸透しやすいんだけど……でも椅子は掃除の時にひっくり返して机の上に乗せるじゃない。それだとすぐ見付かっちゃうから」
なるほど、とジンジはお尻をモゾモゾと動かしていた。
「学校の机を全部やったんですか?」
今度はカコが訊いていた。
「ええ、毎夜学校に忍び込んで、ひとつひとつ全部やったわよ。先生の机もそうよ。だから三週間も掛かったんだけどね」
「先生の机まで……」
「もちろん。でも楽しかったわよ。準備をし終わったあとのことを考えると、ワクワクしちゃって……」
その場面を思い出して想像しているおばさんの顔は、まるで少女のようだった。
「2年生を念入りにやったの。1年生と3年生は、二人が転校して来たってことを認識させる程度だったから」
「先生たちのも、ですよね」
「先生たちは、あなたたちより大人だから、色々な経験を積んでいるじゃない。変な雑念みたいなものを持ってるの……だから返って操り易いのよ」
おばさんは言葉を切った。
「そうねぇ、汚(けが)れって言えば分かり易いかしら……あなた達は汚れが少なく純粋な部分が多いから、かえって操るのが難しいの。思念が入り込む余地が無いのね」
おばさんは紅茶を手に取って、喉を潤した。
「思念を送り込むと言うのは、人を騙(だま)すことにも使えるのよ。たとえば、あなたの病気はもう直っていますよ……と本人を操るってこと。言い方は悪いかもしれないけど、騙すことが出来れば、ほんとうに直ってしまうってこともあるのよね。病は気からって言うでしょう? そうやっておばさんの込めた思念がその人の心に〝きっかけ〟を作るのよ」
「きっかけ……なんですね」とカコ。
「そうきっかけ。それさえあれば、例えばジンジくんの隣の席は空いている! とみんなを思い込ませるのは造作も無いことなのよ」
「オレの席の隣って、もともと空席じゃ無かったんですか?」
「クラスのみんなに、ジンジくんの席の横は空いているって思い込ませただけよ」
「そう言えばそうよね、ジンジの隣がポツンと空いているなんて変だもの」とカコ。
なるほど……とジンジ。
「じゃあ、乙音ちゃんがわざわざわたし達のクラスに転校して来たのも……」
「そう言うこと。先生にそうさせたの」とおばさんはあっさりと答えていた。
「そんなもの……なんですね」とカコ。
ジンジは感心しきりだ。
「そんなものなのよ」と言いながら、おばさんはカコから目を離さない。
まだあるんでしょ?とカコを見ているのだ。
「でも、わたしには……」
「でも、何かしら?」
期待するような目で、おばさんは次の言葉を待った。
「申し訳ないですけど、わたしには音也くんが理想の男の子には見えませんでした」
カコは、ごめんなさい、と頭を下げた。
「オレもそう! 乙音さんが、いえごめんなさい。決して乙音さんがかわいく無いと言う訳ではないんですけど……」
ジンジは笑いながら頭を掻いた。
いいのよ、とおばさん。
「それはね、おばさんの込めた思念がたったひとつの想いだけだったからなのよ」
「たったひとつの想い?」とジンジ。
「それって、それぞれが想っている異性ってことですか?」とカコ。
「そう、それぞれの人の心に想う人がいれば、おばさんがどんなに強い思念を送ったとしても効かないの……だからその人たちには、乙音と音也はだたの普通の中学生にしか見えないの。騙せないのよ」
二人の目を交互に見ながら、おばさんは喋っていた。
「そうか、だからか」
ジンジは膝を打った。
「乙音さんが始めて207に現れたときに教室中がざわついたけど、オレは、何故そんなに大騒ぎしなけりゃならないんだって、思ったんだ」
「わたしも……」の言葉に、ジンジは椅子の背に身体を預け、横目でカコを見た。
そこには、カコの横顔があった。
カコは、まっすぐにおばさんを見て言った。
「ユウコに誘われて音也さんを見に行ったけど、そんなに……」
おばさんは微笑んだ。
「それはね、そこにはおばさんの思念が入り込む余地のない〝想い人〟の存在があったからなのよ」
「想い人?」
カコは、膝の上のムーンを撫でるふりをして、自分の手を見ていた。
あの霧の中で、最後まて離さずに握ってくれていたジンジの手の感覚が、不意に甦ってきていたからだ。
「でもジンジくんは、ちょっとだけ乙音に気持ちが傾いたときがあったわよね――」
顔を上げたカコは、おばさんがジンジに茶目っ気たっぷりのウインクを送ったのに気付いた。
「え、え、?」
ジンジの頭の中は?マークでいっぱいになっていた。
「そうか、あのときだわ……」
カコには思い当たる節があったようだ。
しかしジンジは、分かんねぇ~、と呻(うめ)いていた。
もう~、とカコは口は尖らせた。
「そんなことは無かったと思うんだけどなぁ」とジンジは、顔を上げて腕を組んでいた。
「乙音ちゃんが靴下を脱いでたときだよ」とカコは、ジンジの腕を指で押した。
「靴下ぁ?……あっ、あのときか」
ジンジもやっと、点がいったようだ。
「思い出したでしょう?」
「ああ、思い出した!」
「あの一瞬に、ジンジは乙音ちゃんに心を奪われて、そのちょっとした心の隙に、おばさんの思念が入り込んだんだよ。そしてその後のジンジは、乙音ちゃんを事ある毎にチラ見してたんだよ。分かってるの?」
「ご、ごめん。あの靴下事件の後、乙音さんのことが気になってしまったことは本当だよ。そしたら乙音さんがちょっとだけ可愛く見えたんだ。そんときは自分でもおかしいなぁ~って感じてたんだけど……」
ジンジは頬を紅くしていた。
「もう、エッチなんだからぁ」
「でも、ほんのちょっとの間だけだから、だってほんとうの……」とそこまで言ってジンジの口は、やばっ、と開きっ放しになってしまった。
「ほんとうの?」
今度は耳まで紅くなっていた。
「じゃあ、その人それぞれの心の中に〝想い人〟がいると、乙音ちゃんと音也くんはまったく普通の人に見えているってことですね」
カコは、どこか嬉しそうだ。
「そう言うことね」
「じゃあ何故?……」
カコが次の質問をしようとするのを、おばさんは手で遮っていた。
「ちょっとその前に、乙音と音也の秘密をお話しさせてちょうだい」
「秘密? 二人にも秘密があるんですか?」
「ええ、もちろん」と言いながら、おばさんは椅子から身を乗り出していた。
「実を言うとね……」
釣られて二人も、身を乗り出してしまった。
44 ムーンとユベール
「ちょっとその前に、紅茶のお代わりはいかがかしら?」とおばさんは、二人の聞く体制のタイミングを完全に外していた。
二人は頭の中で、ズルっと滑り、お願いします、と頭を下げるしかなかった。
するとおばさんは「じゃあ、お願いね」と膝の上のユベールに声を掛けていた。
ユベールは、おばさんの膝から飛び降りると、リビングから一目散に出て行ってしまった。
それから、階段を二階に駆け上がってゆく音が聞こえた。
「ちょっと待っててね」
おばさんの言い方は、どこか思わせぶりだった。
それでも、1分も待つ必要が無かった。
「ねぇ音也、紅茶のお代わりを持ってきてくれない」とおばさんはユベールの出て行ったドアに向かって、意味ありげな台詞を吐いていた。
やがて、階段を降りる足音とともに、リビングに姿を現したのは音也であった。
おばさんが言っていた通り、乙音ちゃんと音也くんは、どうやら家に帰っているらしい。
でも、どうして最初からリビングに顔を出してくれていないのか? と改めて疑問が沸いてくる。
音也は二人に、こんにちわ、と挨拶すると、そのままキッチンに入り、しばらくして紅茶のポットを持って戻って来た。
「どうですか」
音也はカコにポットを差し出した。
「え、ええ、いただきます」
カコはドギマギしながら、ソーサーごとカップを差し出していた。
続いてジンジ。
ジンジも、何故今現れたんだよ?という顔で、音也を見上げている。
音也は最後に、おばさんのティーカップにも紅茶を注いだ。
「もういいわよ、ありがとう」とおばさんに言われ、音也は空になったポットを持ってキッチンへと消えた。
すると今度は、キッチンから姿を現したのはユベールだった。
ユベールはおばさんの膝の上は戻らずに、そのまま窓まで行ってうずくまり、丸くなった。
「音也くんは?」
カコは、キッチンの方から目を離さずに訊いた。
「ジンジくん、ちょっとキッチンに行ってみてくれる?」
何故?と思いながら、おばさんのお願いにジンジは立ち上がり、言われるままキッチンに行った。
おばさんは、半身だけキッチンに向かって振り返り、訊ねた。
「そこに音也は居るかしら?」
ジンジはすぐに返事をした。
「誰も居ません」
戻って来たジンジの手に握られていたのは、さっきまで音也が身に付けていた上下の服だった。
床に落ちていました……しかもまだ暖かいです、とジンジは言った。
おばさんは音也の服を受け取って畳みながら、あまりにも淡々と……
「実を言うとね、乙音と音也はここにいるムーンとユベールなのよ」と言った。
二人はその言葉を、頭の中で整理出来なかった。
おばさんは、二人が理解できるまで、ジっと待った。
やがて
ほんとうに?と二人。
ほんとうに!とおばさん。
ジンジが目を丸くして椅子から立ち上がりそうになるのを、カコが彼の肩に手を置いた。
肩を押さえながら、カコは膝の上で丸くなっているムーンに目を落としていた。
ムーンは頭を起こしてカコを見上げ、ミャウと鳴いた。
「乙音よ」とおばさん。
「乙音ちゃん、なの?」
「こ、こ、こ、このムーンが……」
ムーンは、ジンジにも鳴いた。
「そしてこっちが音也」
おばさんは、窓際で丸くなっているユベールを指差した。
するとユベールが顔を上げ、喉を鳴らした。
ムーンを見、ユベールを見、おばさんを見、信じられない……と二人の顔は訴えていた。
45 猫又
おばさんは続けた。
「それでね、この子たちは、猫は猫でも普通の猫じゃないのよ」
「普通の猫じゃない……て、どういうことですか?」と訊いたのは、カコだった。
「ムーンとユベールは猫又なの」
おばさんは、あっけらかんと答えていた。
「猫又?」
ジンジの声は、完全にひっくり返っていた。
「声が大きいよ」とたしなめるカコに、いいのよ、と笑いながら、おばさんはさらに続けた。
「簡単に言えば猫の妖怪」
猫又には、長生きして年老いた飼い猫が不思議な力を持つようになって化けた説と、山に棲む獣が猫又になった、というふたつの説がある。
「話をすると長くなるけど、わたしが若いころに山で修行していたときに、この二匹を拾ったの」
「拾った……んですか?」へぇ~とジンジ。
「そう、かれこれ三十年くらい前になるかしら」
ち、ちょっと待ってください、とジンジは、両方の手の平を前に広げて、おばさんの話を止めた。
「さ、三十年。じゃあこの二人……いや違う、えーと二匹の歳は幾つなんですか?」
ジンジは、ムーンとユベールを交互に見やった。
しかし、訊かれたおばさんも、首を捻っていた。
「わたしが二匹を拾ったときから、そう……捕まえたときからずっとこの姿のままだからよく分からないけど、たぶんおばさんの倍は生きているんじゃないから」
「ば、倍……ですか」
「見た目はこんなに小さくて可愛いけど、これでもれっきとした生獣なのよ」
ジンジが椅子から転げ落ちそうになるのを、大丈夫?……とカコはジンジの腕を掴んで支えた。
「おばさんが若いころ、山陰の山の中で修行をしていたときに、〝物の怪〟が町に下りてきて人に悪さをするから、どうにかして欲しい……て依頼があって、そのときに捕まえたのよ。おばさんも〝猫又〟を見たのが初めてだったものだから、生態を観察してみようと思って、しばらく飼うことにしたのよ」
カコの膝の上のユベールが、もぞもぞと動いた。
「でね、この子たち以外と可愛いじゃない。頭もいいし、悪さしちゃだめヨ、って良お~く言い聞かせてるうちに情が移っちゃって……それ依頼一緒に暮らしているの」
おばさんは、窓の下で眠る?ユベールに目をやった。
「だからね、分かるでしょ、猫が人の姿になっちゃうと裸だから……」
そうか、と二人。
「それで先に二階に行って音也になって、服を着てからリビングに下り来たのよ」
それからお茶を出し、キッチンに隠れてから猫の姿に戻ったと言うわけである。
だから、服はその場に脱ぎ捨てたままだったのだ。
理屈は通っている。
「でもこれって、ムーンとユベールにとっては結構疲れる作業なのよね」
「疲れる?」
ジンジは興味丸出しであった。
「だってこの子たちはあなた達に、本当ではない姿を見せているのよ。人の身体を維持するために使う〝妖力〟は大変なものなの……」
「なるほどね~」と言いながら、首を捻るジンジだった。
半分は分かっていて、半分は分かっていないのである。
「ましてや今、おばさんの領域は学校にあるから」
それを聞いてやっと
「そうか、おばさんの今の場所は、この家じゃなくて、学校なんだ」
納得がいった、とジンジだった。
「その通りなの。今の学校は、おばさんの身体の一部と同じようなものだからどうとでもなるのよ」
「妖力をあまり使わなくても、人の身体を維持出来るってことですか?」と言ったのはカコだった。
「だからユベールが、今のこの家で音也くんになるのは、領域の外だから大変な妖力が必要になるってことですね」
カコは、窓際で丸くなっているユベールに目を向けた。
「正解!」
おばさんは人差し指を立てて見せると、カコに微笑んでいた。
「だから昨日も、音也くんは、寝ている乙音ちゃんのようすを見に行くと言って二階に上がったんですね。わたし達に、人としての姿を長い間見せ続けるのが大変だから」
「そう言うことね。昨日は二人して二階で猫の姿で身体を休めていたのよ。カコさん理解が早いわよ。わたしの弟子になる気はない?」
「で、弟子にですか!?」
言葉に詰まるカコに、冗談よ、と言いながらおばさんは笑った。
「ちょ、ちょっと、別の質問していいですか?」
調子に乗ったジンジが、元気よく手を上げた。
「はい、ジンジくんどうぞ」
おばさんも、ジンジの調子に合わせて指名してくれた。
「変な質問しないでね」とカコ。
「しないよ」とジンジ。
「では……」とジンジは居住まいを正した。
「ムーンとユベール……て名前はどうやって付けたんですか?」
「そう、それ、わたしも疑問に思っていたけど、何となく分かっちゃった」
「え、分かっのかよ」
「ほんとうに?」とおばさんは、流石に驚いていた。
カコは、えへんと胸を張った。
「ねぇジンジ」とカコ。
「一ヶ月ほど前だけど『ティファニーで朝食を(1961年作品)』をテレビでやってたよね、観た?」
「ああ観たよ、オレ、オードリー・ヘプバーンのファンだもの……あッそうか! おばさんもあの映画観たんですね」
「は~い、しっかり観ました。二匹の仔猫ちゃんたちを膝の上に乗せてね。その時ここに引っ越して来たばっかりだったから、世間様向けにこの猫たちの名前を何にしようかなって考えてたのよ」
「それで主題歌のムーン・リバーのムーンって名前を付けたんだ」
ジンジの答えに、カコがうんと頷いた。
「でも音也くんのユベールは? あの映画にそんな名前の人は出てなかったと思ったけど……」
「ジンジは、あの映画の冒頭に出てきたヘプバーンが着ていたドレスを覚えてる?」
「ああ、覚えてるよ。ニューヨークのティファニー宝飾店の前でパンを食べている時に着ていたドレスだろ」
「あの黒いドレスをデザインしたのが、ジバンシィて言うフランスのデザイナーなの。ちなみに食べていたパンはクロワッサンよ」
「デザイナーもパンも、名前だけは聴いたことがある」
「カコさん凄いわ、そこまで分かってたなんて」
おばさんは驚嘆の声をあげて、今度は音を立てて拍手した。
「カコさぁ、ジバンシィだけじゃ分かんないよ」
ジンジは膨れっ面をしながら、カコに抗議した。
カコは笑いながら答えていた。
「ジバンシィのフルネームは、ユベール・ド・ジバンシィなのよ」
「またまた大正解。ほんとにあなた、わたしの弟子にならない」
おばさんは嬉しくてしようがなかった。
46 どうしてふつうなの?
「それじゃあ、カコさんがさっき質問しょうとしていたことに戻りましょうか――」
お願いします、と膝の上のムーンを揺らさないように、今度はカコが居住まいを正した。
「その人それぞれの心の中に〝想い人〟が居れば、乙音ちゃんと音也くんはまったく普通の人に見えてしまう……てことでしたよね」
そうね、とおばさん。
カコは一度ジンジを見て、それからまたおばさんに向き直った。
「でもタニはどうなんでしょう?」
「そうかタニだ」
ジンジは、左の手の平を右の拳で叩いた。
「乙音さんが転校して来た朝は、タニは椅子から転げ落ちそうになるほど舞い上がってたと思うんです」
そうだそうだ、とジンジ。
「でもいつの間にか、乙音ちゃんに普通に接っするようになったんです……」
「じゃあタニは、気持ちを寄せる人が途中から出来たってことか?」
彼女が出来たようは様子は、全く伺えなかったような気がする。
ジンジは腕を組んで、左側に首を捻った。
……待てよ、気が付かなかったオレが鈍感なのか? と捻った首のままカコに目を移した。
カコは、そんなこと無かったよ、と首を横に振っている。
「じゃあ、おばさんからヒント。昨日、乙音が気分を悪くしたでしょう。あれはいつだったかしら?」
カコが、答えた。
「お昼を食べた後だと思います。昼休みの後の掃除の時にはもう変だったから――」
「気づいてたのか?」とジンジ。
「一緒に家庭科室の掃除をやったから。その時から、どうもようすが変だなぁと思ってたの。でも気のせいかなって……」
「お昼に悪いものでも食ったのか? 食中りか?」
「ジンジは食べ物のことばっかりだね」とカコ。
するとおばさんが
「ジンジくん、正解じゃ無いけど近いわよ」と言った。
「食中り……が近い? 乙音さんはタニの弁当を、美味しい美味しいって、食べてたんだよなぁ~」と思い出していた。
「そのお弁当が問題だったのよ。タニくんのお弁当のおかずで、キノコと野菜の炒め物があったのを覚えてる?」
「覚えてます。それが一番美味しいって言ってました」
「その炒め物で使われていた野菜が、マタタビだったのよ」
「マタタビ?……ですか」とジンジ。
「マタタビって言うのは、猫をお酒に酔わせたような状態にする効果があるの。麻薬みたいなものかな……人には効かないんだけどね」とカコが教えてくれた。
「そういえばタニん家(ち)って、猫飼ってるって言ってた」
「マタタビは猫を躾るときにも使うのよ。それでもあまり厳しくすると、人と同じで猫にもストレスが溜まるの。そのストレスを解消させるために使う時があるのよ」とカコ。
「ストレス解消……親父が毎日晩酌するようなもんか?」
「そうよ、その通り」
おばさんは思わず笑い出していた。
「最初はお弁当のオカカに惹かれたんだけど、マタタビの臭いも無意識に嗅ぎ取っていたのかも。それで、その臭いに誘われてタニさんのお弁当を奪っちゃったのかも知れないわね」
おばさんは、あれはどうしようも無かった、と肩をすくめた。
「あのときは気分が悪かったんじゃなくて、酔っぱらってたんだ」
ジンジは、そうかなるほど、と腕を組んで顎を引いた。
「それと、タニが乙音ちゃんに興味を失ったのと、どう関係があるんですか?」とカコ。
「タニさんと乙音は、転校初日は人形の効果で繋がりがあったのだけれど、マタタビのお弁当を食べて酔っぱらってしまって繋がりが切れてしまったの。切ってしまったのは乙音の方からだけどね」
「タニの弁当だったから、タニとだけ繋がりが切れてしまった、と言うことなんだ――」とジンジ。
「そういうことね」
「じゃあシゲボーは? 昨日はシゲボーも一緒だったけど、乙音さんに興味があるようなようすは無かったし、シゲボーに彼女はいないはずなんだけど……」
「わたし分かっちゃった」
カコが声をあげた。
「また分かっちゃったのかよ。オレって鈍感過ぎんのか、さっぱり分からん」
カコはクスっと笑い、反対にジンジは頭を抱えた。
「降参だ。教えてくれよ」
ジンジは脱力して、椅子の背に身体を預けた。
「シゲボーはね、後輩から告白されていたの。それでちょっと舞い上がってて、気持ちがそっちに向いてたんだと思う」
「告白された? いつ?」
ジンジは身体を起こして、カコに詰め寄った。
「先週の土曜日だよ。シゲボーは放課後、その後輩に呼び出されたんだよ」
「何で知ってんだよ」
「告白したの、バレー部の後輩だから」
「カコのか?」
カコは、うん、と返事をしながら、おばさんにどうですか?と伺いを立てた。
おばさんは、正解です、と頷いていた。
47 消えたのは何故?
次の質問は? にカコが声をあげた。
「何故ユウコはわたしたちが見ている前で消えちゃったんですか?」
「やっぱりそれが一番知りたいところよね」
ジンジも興味津々である。
「簡単に言うとね、ユウコさんとシンコさんは、最初から学校の正門には来ていなかったのよ」とおばさんはあっさり……
「最初から来てなかった?」
ジンジは手の指を頭の後ろで組んで、眉間に皺を寄せた。
カコは信じられない、と首を横に振っている。
「でも、確かに来てましたよ。ちゃんと話もしたし……」
「あれは、おばさんがあなた達に見せていた偽物で、二人には先に帰ってもらってたの」
「偽物?」
「先に帰ってもらっていた?」
そう言われても、二人にはチンプンカンプンだった。
「最初から説明するわね」
おばさんは音也が注いでくれた紅茶をゆっくりと飲み干し、二匹を交互に見た。
ユベールは窓際で眠っている。
ムーンはカコの膝の上で丸くなっていて、まったく動くようすを見せなかった。
カコはムーンの眠りを邪魔しないように、ティーカップを慎重に口に運んだ。
釣られてジンジも、紅茶を飲んだ。
「まず、ユウコさんとシンコくんには、さっさと帰ってもらいました。先に二人で仲良く帰りなさいって思い込ませるのは簡単――」
おばさんは言って、ジンジを見た。
「学校はおばさんの結界(領域)の中だからですよね」
そうよ、とおばさんは首を縦に振った。
「その時の乙音と音也のようすはどうだったか分かる?」
ジンジは鼻の頭を指でコリコリと掻きながら……
「乙音さんに限って言えば、担任の満川先生が、帰宅するようにと連絡しに来た時は凄くはしゃいでたけど、いざ正門の玄関に集まってみると、静かで何も喋らなかったような……」
ジンジは、そうだったよな? とカコに伺いをたてた。
「そう言えば二人とも一言も喋ってなかったと思います」とカコ。
「そのときの乙音たちはね、おばさんがあなたたちに〈ここに居るよ〉って思わせていただけの〈絵〉だったの」
「絵、ですか?」
「そうよ、絵は何も喋らないでしょう」
「おばさんに観せられていた幻の映像……それが〈絵〉ってことなんですね」とカコ。
「そう、その代わりに、乙音と音也にはユウコさんとシンコさんの役を演じてもらってたのよ」
え?! とジンジは驚きを隠せなかった。
「あの二人は、乙音さんと音也くんだったんですか?」
思わず声が大きくなっていた。
「だんだん分かってきました」と言うカコ。
カコは続けた。
「あのとき学校を出た順番は……ナオとイケピン、ユウコとシンコ、シジミとアジ、乙音ちゃん達、そしてわたし達……」
二人は顔を見合わせた。
「最後にタニとポンタとユウコが学校を出て、全員が雨の壁にぶつかる」とジンジ。
「でも、最後の三人は、初めからあの雨の壁に入らなかったんですね?」とカコ。
おばさんは頷いた。
「あなた達二人が壁の中に消えたあとに、三人には別の道を通って帰りなさいって、おばさんが思念で操ったの」
「そうだったんだ」
「で、わたし達の前に雨の壁の中に入った〈絵〉の乙音さんたちは、その後ほんとうに消えてしまったってことですね」とカコ。
「そういうこと。それで幻の二人のお仕事は終了したわけ」
「ん~んと」とジンジは指を折りながら
「それで雨の壁から霧の中に出たときには、タニとポンタと武藤さんと乙音さんたちの五人が居なくなってたってわけだ」
「指を折って数えなくても分かるでしょう」
「これがオレの計算方法なの」
ジンジは、指折りをわざとカコに見せながら抗議した。
「次がナオとイケピン、その次がシジミとアジ。あの霧の中で、頃合いを見計らって、おばさんが帰るように思念を送ったってことですね」
カコは自分を納得させながら喋っていた。
「そして最後がユウコさんとシンコさん。ムーンとユベールの演技も、なかなかのものだったでしょう?」
おばさんは得意気に、鼻をピクピクと動かしている。
それはまるで、奥様は魔女のサマンサみたいだった。
「消えたように見えたのは、あの二人が猫又である本来の姿に戻ったからなの。あのとき、あなたたちの足下にはムーンとユベールが居たのよ」
気が付くと、ムーンがカコを見上げていた。
カコは膝の上のムーンを見下ろした。
カコはムーンを抱き上げ、頬ずりした。
「オレも……」とジンジが独り言のように呟く。
カコはジンジを睨む。
今度ね……
カコは悪戯っぽい顔に変わっていた。
48 教育
「ムーンとユベールが庭であなた達に会って、二人が転校してくる間に三週間あったでしょう」
「その間に、おばさんは学校の周りに結果を張ったり、机の裏に人形を貼ったりしてたんですよね」とジンジ。
「その他に、この二匹の教育もしてたのよ」
「教育……ですか?」
「人間のことを色々と教えたつもりだったけど、三週間じゃやっぱり時間が足りなかったみたいね。でももっと教育してたら梅雨が終わっちゃうから」
「そっか、普通女子は男子にトイレに一緒に行こうって言わないものなぁ」
ジンジは、転校初日のことを思い出していた。
「脚を広げて靴下を脱ぐのもそうよ。犬と違って猫は身体に物をまとうのを極端に嫌う動物だから。ほんとにあれは偶然だったんだけどね。でもあれはおばさんにとってはチャンスだったわ。ジンジくんの意識が乙音に傾いたんだもの……」
「そのとき、おばさんの思念がジンジに入り込んだんですね」とカコ。
「乙音に惚れろ!って、かなり強い思念のつもりだったんだけど……効果があったのはほんの数時間だったわね」
おばさんは、カコに片目を瞑って見せた。
ジンジは、まったく気付かなかった。
カコは少し俯き、唇で笑みを返していた。
それもジンジは気付かなかった。
「でも人の想いって、別の意味でも凄いと思ったわ」
「別の意味?」
「嫉妬ね」
「嫉妬……ですか?」
「今朝のカコさんのことよ。おばさんはカコさんを、ちょっとだけ困らせてあげようと考えていただけなんだけど、あんなことになってしまって、ごめんなさい」
おばさんは頭を下げていた。
「いえ、いいんです。大丈夫です」とカコ。
「シジミさんが助けに来たのは想定外だったわ。あれも彼女がカコさんを〈想う〉気持ちのひとつだったのね」
「なにがあったんだよ?」
「あとで話してあげるから」とカコ。
「それとジンジくん。痛い思いをさせてごめんなさいね」
今度はジンジに謝っていた。
「いやぁ、オレ石頭だから。ぜんぜん大丈夫ですよ」
ジンジは額に手を置いた。
タンコブはほとんど目立たなくなっていた。
*
気が付くと、窓際で寝ていたユベールが、いつの間にかおばさんの所までやって来ていた。
「どうしたの?」
ユベールは壁の時計に向かって、一声鳴いた。
「あらあら、もうこんな時間になっちゃたのね、ご飯の時間ね。もうちょっと待っててね」
「ほんとだ、いつの間にか6時回ってる」
ジンジは立ち上がった。
「わたし達、そろそろ失礼します」
カコはムーンを優しく撫でて起こし、足下の床に置いてから立ち上がった。
そして二人は
「色々とありがとうございました」とおばさんに頭を下げていた。
「いいえェ、わたしもあなた達のお陰で、とっても楽しかったわ」
おばさんも立ち上がり、二人を玄関まで見送った。
玄関で靴を履いて振り返ると、おばさんの足下にムーンとユベールが並んで二人を見上げていた。
カコは思いっきりの笑顔を二匹に送った。
ジンジは、その笑顔をずっと見ていたいと思った。
*
おばさんと二匹に別れを告げ、二人は見慣れた道をゆっくりと歩いて帰った。
そして二人が、いつも分かれる道の角に差し掛かると、カコが歩みを止めた。
「どうした?」と訊いたが、カコは黙っている。
ジンジは、カコが何かを言い出すまで待つことにした。
するとカコが、辺りをキョロキョロと見回し始めた。
ジンジも釣られて辺りを見回すが、人っ子ひとり居ない。
もう一度、どうした?と訊こうとする前に突然、カコはジンジの首に腕を回していた。
そして耳元で……
「ありがとう」と囁いていた。
49 朝
翌日、金曜日、朝。
ジンジは10分ほど早く家を出た。
そして、昭和町バス通りの交差点を渡った所で、前を行くカコとユウコを見付けた。
追い付いて横に並び「おはよ!」と声を掛ける。
「今日は早いんだね」
ユウコが、並んでいたカコの横から顔を出した。
ジンジはユウコの、普段と変わらない笑顔を見て、分かっていたつもりだったけれども、何故がホッとした。
「おはよう」とカコ。
ジンジが、何故今日は早いのかの理由が、カコには分かっている。
みんなの顔を、一刻でも早く見たいからだ。
「朝起きたら雨が降ってないから、嬉しくなっちゃってさ」とジンジは笑った。
「ほんとだよね、何日ぶりぐらいかなぁ~、こうやって傘を差さないで学校に行けるの」とユウコも笑っている。
傘……?
カコの足が止まりかけた。
「どうしたの?」とユウコ。
「なんでもない」とカコは返した。
それから三人は、朝の普通の、とりとめの無い話をしながら学校へ向かった。
*
下駄箱で上履きに履き替えようとしていると、おはよーと声を掛けられた。
タカコがちょうど登校してきたところだった。
タカコもいつもの笑顔である。
タカコはカコのところまでやって来ると
「昨日は、わざわざ電話してくれてありがとう」と礼を言って、ペコっと頭を下げた。
「そんなに何度もいいよもう、昨日も電話の向こうで、ありがとう……て言ってたじゃない」
あのときカコは、おばさんの家から
「大雨だったから心配になって、無事に家に帰り着いたのかな?」……という理由を付けて、ナオ、ユウコ、タカコに電話を架けていたのだ。
「そうだよね、途中で別れちゃったんだもんね」
タカコとポンタとタニは、おばさんの思念に操られて、雨の壁に入っていない。
タカコは、あの時一緒に帰っていたみんなに、雨の壁の前で「じゃあねー」と声を掛けて別れたと思っているのだ。
「でもタニとポンタと一緒だったから、全然大丈夫だったよ」と楽しそうに言いながら、タカコは上履きに履き替えていた。
*
まずジンジは、207の前の廊下から教室の中を覗いた。
「シジミだ、アジも居る」
すると、遅れて来たカコがジンジの横で嬉しそうに声を上げた。
「ほんとだ。タニとポンタも居る」
カコはまず、ナオのクラスまで行って来たのだった。
カコのその声で、イケピンも大丈夫だったことが分かる。
*
教室に入り、ジンジは自分の机に鞄を置いた。
教科書を中に移している途中に、ふと思い立ってしゃがみ込み、机の下を覗き込んだ。
そこには何も無かった。
「なにしてんだよう」
変なことやってんなぁ~、とタニが声を掛けてきた。
「いや、何でもない」
ジンジは曖昧に答えた。
タニの席はジンジの隣だった。
そこに、乙音の席は存在していなかった。
「何か面白れーことねぇかなぁ~」
タニは誰に言うことなく呟いていた。
「面白いことだって?」
鞄を教室の後ろの棚に置いて、戻ってきたジンジが訊いた。
「だってよう。何にも変わったことが無いじゃんかよう。なんかこう……」
タニは、どこか遠くを見るような目つきになっていた。
「なんかこう、って?」
「かわいい転校生でも来てくれたなら、これからの中学校生活がバラ色になるのにな」
「なるほど、そっかー、かわいい転校生か……」とジンジ。
「まぁ、そんなことあるわけねェか!」
タニは立ち上がると、トイレと言って教室を出ていった。
ジンジは苦笑いしながら、タニの背中から顔を戻した。
それから何気なく横の壁に目を移した。
と……そこに、一個の画鋲が刺さっているのを見付けた。
ジンジは手を伸ばして画鋲を抜いた。
それから教室の後ろの掲示板まで行って、その角に刺していた。
自分の尻を拳で叩きながら、壁に刺さった画鋲を眺めた。
席に戻ろうと身体を回すと、カコとシジミの談笑に目が止まった。
何か面白い楽しい話でもしているんだろうな、と二人を見ていたら、カコがジンジに気付いた。
カコは笑い、軽く手を上げた。
50 壊れた傘
午後から雲行きが怪しくなり、6時限目の授業が終わるころには、今にも降りだしそうな空模様になっていた。
それでも、かろうじて雨になることは無く、久しぶりにグラウンドで部活をやったジンジは、取りあえず持ってた方がいいかな、と置き傘を取りに教室まで戻っていた。
また誰か居るのではないか?とこっそり教室を覗いてみたが、人の姿は無かった。
そりゃそうだ、と傘立ての中から自分の傘を抜いたところに
「いたいた、こんな所に居た」と声を掛けられていた。
カコだった。
「探してたんだから」
「何、どうした? これから行くところだったのに」
行くと言うのは、みんなと一緒に帰る、いつもの集合場所のことだ。
「今日は一緒に帰れない、てみんなに言っといたよ」
「どうして?」
「用事があるから」
「なんの?」
あきれた、とカコは両手を腰に当てて
「まだ気付かないのジンジ、その手に持ってるのは何?」と訊いた。
「持ってる? 傘だけど……」とジンジはそこまで言って
「あちゃ~、失敗した」と漏らしていた。
「分かった?」
うん、とジンジ。
「壊れた傘、おばさん家に忘れてきた」
「わたしも〝今朝〟までジンジが傘を持ってないことに気付かなかったんだけどね……」
おばさんの家を出たときには、雨はもう降っていなかった。
しかもあんな話を聞いた後だったので、カコもジンジが傘を持っていないことに気付かなかったのだ。
「だから、これから行ってみる?」とカコが言う。
ジンジも合点がいった。
だからカコは、はなから行くつもりで、今日は一緒に帰れない、とみんなに言ってきたのだ。
「行けるかな?」とジンジは廊下の窓から空を見上げた。
いつ降り出してもおかしくない空模様だ。
帰り道だし、ちょっと寄るくらいなら、そんなに時間は掛からないだろう。
「ちょっと急ぐか……」
「うん」
二人は正門を出て、入間おばさんの家へ向かった。
*
おばさんの家の前で、二人は呆然と立ち竦んでしまった。
「どういうこと?」
カコが呟く。
そこには 〈新築! 入居者募集〉 の看板が立っていたのだ。
「分かんねぇ……」とジンジ。
「昨日のことは、ほんとのことだよね」
不安そうなカコの声。
「ああ、本当にあったことだよ」
カコはジンジの腕を掴んで、何度も揺すった。
「ちゃんと覚えてるよね?」
「覚えてるさ!」
ジンジは、自分自身を納得させるかのように、何度も頷いていた。
「とにかく入ってみよう」
二人は、おばさんとムーンとユベールの痕跡が、どこかに残っているのではないか、と思ったのだ。
看板の横を通って、敷地の中へ入る。
カコは、ジンジの腕を離さずに付いてきた。
「あッ、あれ!」
それに先に気付いたのはカコだった。
「あれ、ジンジの傘だよね」
指差す玄関のドアノブに、1本の傘が掛けられている。
「そうだ、あれオレんだ」
ジンジは駆け寄って、手に取った。
傘はきちんと乾かされ、綺麗に畳まれていた。
「確かにオレんだ。昨日この家に忘れてった傘だ!」
「やっぱり、昨日のことは本当にあったことなんだよ」
カコは確信し、そして嬉しかった。
するとジンジが「そうだ、思い出した」と大声をだしていた。
ジンジは、持っていた傘をカコに預け、詰襟のポケットを探り始めた。
「何してんの?」
「写真だよ。カコがくれたあの二人の、顔が写ってない写真。あった……」
ジンジは左のポケットから写真の束を取り出した。
二人で並んで写真を覗き込む。
ジンジは一枚一枚ゆっくりと捲った。
しかし……
「写ってない。何も写ってない! どうして?」
カコが声をあげた。
写真の中に乙音と音也の姿は無かった。
顔は隠れてみえてないが、姿だけはかろうじて写っていた二人だったはずなのに……
今は、二人が存在していたそこだけが、ぽっかりと切り取られたように後ろの風景が写っている。
「何で写ってないんだよ」
ジンジは写真を繰り返し捲ったが、どれを見ても同じだった。
やがてがっくりと肩を落とし、諦めて写真をポケットに仕舞おうとしたとき……
「ちょっと待って」
カコがジンジの手から写真を奪い取っていた。
今度はカコが写真を捲り始めた。
カコの表情が段々と、驚きと笑顔に変わってゆく――。
「ほら見て!」
カコがより一層、ジンジに顔を近付けた。
二人の頬はくっ付きそうになるほど近くなっていた。
「あッ」
ジンジも声をあげていた。
「これも、これも、みんな写ってる!」
頬が触れそうになるのも構わず、カコははしゃいだ。
写真には、乙音と音也が確かに写っていたのである。
どれにも、写真のフレームの端に……
地面の上や廊下の床からカメラのレンズを見詰める二匹の猫、ムーンとユベールの姿があった。
「やっぱり昨日のことは現実(ほんと)だったんだ」
ジンジは小躍りしそうになった。
「そうだよ、ほんとのことだったんだよ!」
カコは写真を胸に抱いて空を仰いだ。
*
と……その頬にポツリと一粒の雨が当たった。
「雨だ。雨が降ってきた」
二人は慌てて玄関の軒下に避難した。
軒下で、カコはまだ写真を眺めている。
ジンジは空に顔を向けて、雨のようすを見ている。
そのジンジにカコは
「これ、貰っていい」と声を掛けた。
ジンジは雨から顔を戻し
「いいさ、もともとカコが写真部から貰った物だから」と笑った。
「ありがと。じゃあ、ジンジが一枚も持ってないのも可哀想だから、これだけあげる」
カコは写真の束から一枚だけ抜いてジンジに渡した。
そこに笑顔のカコが居た。
ジンジはジッと写真を見詰め、それから大事そうに詰襟の左内ポケットに仕舞い込んだ。
*
雨は段々と強くなって、軒下にも打ち込んでくるようになった。
ジンジは傘を開いた。
「あれ……?」
傘の内側の骨に、何かが結び付けてあるのを見付けた。
カコが手を伸ばしてそれを取った。
それは、細い糸を幾重にも編み込んで作られた、ムーンとユベールの首輪だった。
白のムーンがピンクで、限りなく黒に近い鼠色のユベールが巻いていたのが黒だ。
「こっち持ってて」とカコは黒い方の首輪をジンジに渡した。
「お守りにするよ。猫又が首に巻いていたものだから、きっと御利益ある」
ジンジは左手首にその首輪を通した。
「わたしも……」
カコはムーンのピンクを、ジンジと同じように左手首に通した。
カコには、ムーンの鳴き声が聞こえたような気がした。
「帰ろうか」とジンジ。
「うん」とカコ。
二人は、おばさんの家だった場所から歩き出た。
「そう言えばジンジの傘って、骨が曲がってしまったんじゃなかったっけ?」
カコはジンジの傘の内側を覗き込みながら、不思議そうな顔で問い掛けてきた。
ジンジは左手に持っている、学校から持ってきた置き傘を眺めた。
そして今差している傘を見る。
今使っている傘は、おばさん家のドアノブに掛けてあったやつだった。
「直ってる」
傘を回しながら、骨の部分をひとつひとつ確かめた。
「ぜんぜんこわれた形跡が無いよ。新品みたいだ」
「昨日、あれだけのことがあったんだもの、こんなの全然不思議じゃないよね」とカコが言うと
「そうだよな」とジンジ。
「ねぇジンジ」
「ん?」
ジンジは傘を眺めている。
「その、不思議な傘に入れてくれない」
カコはもう、自分の傘を畳んでいた。
そして身を寄せ、ジンジの傘の中に入った。
梅雨が明けるのは、まだもう少し先のことである……
51 ?
あと一週間で、7月となる月曜日。
梅雨も後半戦となり、太陽が次第に雨雲を押しのけようとしている。
そんな朝の、自習時間が始まろうとしていた。
*
今日は、大丈夫だよな。
雨、降らないよな。
昼の休み時間も、部活のときも、外でサッカー出来るよな。
……とジンジは心配そうに、教室の窓からどんよりとした空を眺めていた。
そして
なんでこんな気分なのに、自習なんかしなければならないんだ……とトンチンカンなことを考えながら、机の中から教科書を取り出していた。
取り出したのは、当然のことながら、社会の教科書だった。
表紙を見ただけで、気分がヘタりそうになった。
ジンジは、空よ頼むよ、と半泣きしながら教科書を捲った。
*
だが今日は、ものの5分もしないうちに教室の扉が開かれ、担任の満川先生が現れたのである。
何だどうした? と207のみんなが先生に注目する。
先生は、生徒たちの注目など気にも掛けずに、ヅガヅカと歩いてきて教壇の前に立った。
「自習の時間だが、みんなに話がある」
先生は、かしこまったように、咳払いをひとつした。
「今日からこのクラスに、新しい友だちを迎えることになった」
……の一言で、教室中がざわついた。
え? 男子? 女子? どっち?
全員が、扉の向こうに意識を向けた。
クラスの男女、それぞれの期待が、扉の向こうに注がれた。
ジンジは思わず、カコに顔を向けていた。
同時にカコも、あるものを感じ取って、ジンジを見ていた。
「さあ、みんな。心の準備はよろしいか?」と先生。
そんなことを言うなんて、とクラスに笑いが起こった。
それにそこまで言うのなら、とみんなの期待が膨らんでいったのも事実だ。
そして一時の間を置いて、先生が廊下に立つ転校生に声を掛けていた。
「入って来なさい」
すると、扉の向こうから、新しいクラスメイトが姿を表した。
後ろの席の生徒たちは、新しいクラスメイトの顔をしっかりと見ようと、無意識に立ち上がっていた。
転校生は、女子だった。
そしてその転校生は、教壇までやって来て、先生の横に並んだ。
肩まで伸びる少し癖のある漆黒の髪、柳の葉のように細く整った眉、その下にくっきりとした二重の瞳、通った鼻筋、そしてぷっくらとした少し厚めの唇。
それらが、色白でやや細く微妙にふっくらした顔に、絶妙なバランスで配置されていた。
*
「みんな静かに」
先生が、出席簿で教壇を叩くと、ざわついていた教室が、一瞬で静まり返った。
「紹介する。入間乙音くんだ。親御さんの仕事の都合で、福岡から引っ越してきた。みんな仲良くしてあげるように」
彼女は自分で、黒板に入間乙音と書いた。
「入間、乙音、よろしく、お願い、します」
乙音がお辞儀をする。
「それじゃあ入間の席は……と」
ジンジは思わず、右隣の席に顔を向けていた。
そこは、タニの席だった。
タニは、その転校生に、少しだけ舞い上がっていた。
先生が続けた。
「入間の席は……墨木、お前の隣の、空いている席な」
はい、分かりました、と墨木カズコは、元気よく返していた。
先生にうながされ、入間はカコの隣にやって来た。
よろしくね、乙音ちゃん。
はい、カコさん。
二人は、回りには聞こえない小さな声で、挨拶を交わしていた。
ジンジは、今度こそ、椅子から転げ落ちていた。
おしまい
05 想い人
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