本の虫と青空の懸想
赤紫色の空に鱗雲が広がり、雲たちが一点を目指すように流れている。今年の夏も殊更暑かった。毎年「例年にない暑さ」を更新している。
蒼澄は汗をかいて生きている体を実感できる夏は嫌いではないが、今年の夏はさすがにこたえた。
蒼澄は近頃、彼女とお別れした。円満な別れだったと思っている。別れなければよかったという相手はいない。
別れてもすぐ次の恋人ができ、その人と結婚したとしても、すでに妊娠していたとしても、よかったね、と思うだけだ。たとえその時、自分がひとりだったとしても。
夏の終わりに訪れた恋、今までと違うのは、誰かと付き合っている間は、他の人を心に映さないことを信条としていた蒼澄の心が他の女性を追いかけだしたことだった。同時進行、いわゆる二股などは絶対にしない。恋愛経験は多い方だが、実は、同時に複数の女性に心を砕けるほど器用ではない。
それを知らないまわりからは「彼女が途切れたことがない」「女の子を独り占めしている」と言われる。
確かに途切れたことはない。蒼澄が前の彼女と別れたと聞くと名乗りを上げる女性が必ずいる。
そして、蒼澄もよほど問題の多い相手でなければそれに乗ってしまう。蒼澄は、女性の外見にこれという好みがなく、どんな女性でもレディとして接する。
今までの彼女たち、どの人も好きだった。長所も短所もあったが、短所さえも愛おしい。
君しか見えないというまなざしが素敵だったというのが、これまでの彼女たちの共通した蒼澄との思い出だった。
では、なぜ恋が終わってしまうのか。それは、蒼澄にも分からない。別れようと言われれば素直に応じた。
女性は別れる時の涙が一番美しい。もめごとは嫌なので、自分から別れを告げることは稀だが、のらりくらりと逃げて相手が去ってくれるのを待つ。自分でもずるいと思っている。
ランドセルを背負った小学5年生の頃、初めて「彼女」なる存在ができてから、これまで最長で2年、最短で3か月に終わった人、友達以上恋人未満の人も含めるとかなりの女性とかかわってきた。
そう考えると、自分はひょっとしてもてているわけではないのではないかと思う。それだけの女性とかかわっても、別れて後悔するような人がいなかったからだ。続かないのも自分に原因があるとしか思えない。
自分はもしかしたらその人にとって、次の真実の恋への練習台か遊び相手かもしれない。ある日、蒼澄はそう考えるに至る。孤独は嫌い、だから誰かといたい。将来一人はさびしい。
だから、将来を真剣に考えられる相手がいい。恋をしているときの気持ちが好きだ。自分はきっと恋愛に依存している。
気に入った人がいればさりげない流し目からじっと見つめるまなざしまでが一連の流れ、優しさとそっけなさ、様々使い分け、相手の心をとらえた。当然失敗に終わることも、まったくタイプでないと言われることもある。浮気な男は嫌いな女性もいるので、蒼澄の手練手管は無条件には成功しない。
民間企業で2年間だけ営業職についたのち、社会人採用で市役所に入り、さすがに派手なふるまいはやめた。次に出会う人が最愛で最後の人となればいいと思っている。そして、ある女性を見初めた。
金曜日の夜、居酒屋はにぎわっている。蒼澄は友人たちを誘った。友人と飲むのは久しぶりだ。伊藤路仁、高城真冬、園田詠夏が誘いに応じてくれた。今日はにぎやかで遊び慣れた男友達より、彼らの方がいい。
万事において、辛口の詠夏は、蒼澄にことのほか手厳しい。全然怖くなくてむしろ可愛い。
詠夏は、友人の伊藤路仁の後輩だが、彼氏が相当な男前だからか、蒼澄をみても眉ひとつ動かさない。
「あおとさんの似顔絵を描きました」
良い具合に顔が赤くなった詠夏は、突然1枚の紙を突きつけた。線だけで書いた人らしき絵だった。確かに蒼澄は一重で鼻筋もまっすぐ、唇もどちらかというと薄く、背が高く手足が長い。全体的にシュッと細長い印象だ。
「あおとさんなんか線だけで描けます。しかも鉛筆の濃さで十分です。消しゴムで消しちゃいます。」
白い紙に線だけで描かれた人らしき絵は吹けば飛ぶように、軽く薄っぺらい奴だという詠夏の蒼澄への印象だろう。詠夏が紙をふーっと拭いて見せる。つんととがった朱色の唇に挑むような上目遣い、これは今の彼氏でなくてもほとんどの男に効果絶大だ。しかし、その口から出る言葉は切れ味鋭い。安易に手を出せば必ず火傷する。
「あおとさんは残念なセンイケメンです」
謎の造語を作って、なぜか詠夏は怒っている。親の仇ならぬ友人の仇だろうか。別れた彼女のいずれかまたは告白を断った女性の誰かが、彼女の知り合いだったとし考えられない。
路仁が「ごめん」と言いながら倒れ伏し笑いながら悶えている。特徴をとらえた絵なのだろうが、そんな残念といわれるほど自分はひどい男なのかと思う。
怒りながらもかわいい詠夏、倒れたまま起き上がらない路仁、まじめな顔で成り行きを見守る真冬、ずっと前から友人だったような彼らになら線人間と言われてもいいから友人であり続けたい。
真冬と詠夏は蒼澄を友人以上には見ない。今の恋人に満たされているからだ。路仁は蒼澄を利用したりしない。自分をよく見せる必要がないので居心地がいい。
「ろじん、笑い死んだか?」
そういって覗き込むと酔いつぶれて寝ている。
「請求書、額にはりつけておいて帰りましょう!」
詠夏が恐ろしい仕打ちをしようとしている。目が据わっていて顔が真っ赤だ。真冬があわてて、自分の分のお金を財布から出そうとしている。
「えいかちゃん、小悪魔を超えて悪魔の所業だよ」
「じゃあ、あおとさん残ってあげてください。真冬さん、こんな好き者の出歯亀軟派男はほっておいてお茶いきましょう!」
好き者、出歯亀・・詠夏の悪口はいちいち古典的だ。でも古典的な方が意味が分からない分、傷つかないかもしれないが、詠夏の真っ赤な顔を見ているとじゅうぶんひどいことを言われている気がする。
路仁を気にしている真冬を詠夏が、ひっぱって帰ってしまい、15分くらいして、路仁がむくりと起き上がる。覚醒するのにさらに5分、路仁はきょろきょろして、真冬が帰ったことへの落胆を隠せない。
「ろじん、出歯亀ってなに?」
「でばがめ?」
「えいかちゃんが俺に言った」
「えいさんらしいけど・・。ちょっと意味が違うし、あおととは似ても似つかないから。知らなくていいよ。検索もしなくていい」
「優しいろじん君よ、もう少し付き合ってくれ。話を聞いてほしい。少し寝て頭はっきりしただろう。次いくぞ」
今日は遅くなりそうだ。路仁はまだふらふらする体を起こして蒼澄につきあうことにした。こっそりと真冬にメッセージを送る。
「あおと、教えてくれて光栄だけど、その相談、僕にするのは間違っている」
もう飲めないと言うので、二人は深夜まで営業しているカフェでコーヒーを飲んでいる。
確かに相談相手には物足りない。路仁は、これまでの恋愛遍歴も性格も正反対だ。
恋愛経験はそれほど多くないと思われる。なぜ彼に聞いてほしいのか。不思議と馬が合う。一緒にいて楽なのだ。どんな相手でもあわせられる蒼澄なので、友人知人は多い。世の中をうまくわたっていくために味方は多い方がいい。自分の行く手を邪魔されたくない。それが心の内を明かせる友達ならいいが、そういう相手なのかどうか、相手をアクセサリーかトロフィーのように扱う相手はすぐわかる。路仁はたぶん違う。アクセサリーにもトロフィーにも興味がない。本が一番の友達だったというような男だ。好きな女性が他の男と目の前で話すだけで自信を失ったような顔になる小者が、と侮っていた。
路仁を見直したのは、弱腰に見える彼が、思い人のために行動を起こしたことだ。みんなに助けられたと言うが、傷ついたその人を癒したのは間違いなく路仁だ。本のことにしか興味がないようで、相手のために自分のできることをする。
そして、そんな時は驚くほど行動的にもなる博識で純粋な本の虫。見た目はぱっとしないが、清潔感があり、思慮深い目に見据えられると心地よい緊張感に包まれる。
恋の進め方は人それぞれ、同じやりかたがいつも通用するとは限らない。それが恋の難しさであり醍醐味である。そして蒼澄は今、それに行き詰っている。
「確かに相手を間違っている。だけど答えがほしいわけじゃないから聞いてもらうだけでいい」
「聞くだけなら何でも聞くよ。あおとの誘いにのらないなんてよほど意志の強い人だね」
「今までの彼女たちが軽いようじゃないか。俺だって吟味して苦労して付き合いにこぎつけてきたんだ」
「そういう意味じゃない。あおとはいつも余裕があるように見えるから。あおとをこんな初心にさせるなんて、どんなに素敵な人かなと気になるよ」
友はよく見ている。彼女の前では、今までの経験は役に立たない。とんでもなく野暮な男になってしまっている。
「参考にはならないけど、僕も最近ずいぶんよくばりになったと思う。あこがれが現実になると欲が出てくる。もっと相手を知りたい。自分しか知らない部分を見たいって。でも自分はかっこつけなくちゃ、いいところばかり見てほしいって思ってしまう。あおとにとってその人はどういう人なの?」
「お前はもっと欲張っていい。謙虚さは時として恋の障害になる。俺は彼女にとって景色の一部にすぎない。多分すごく難しい人だ。形容しがたい人だ。自分の関心のない相手をいくら思っても虚しいだけなのに、くやしいが彼女を想わずにはいられない。今何しているのかとか」
「あおとがこれほどまでに惹かれるなんてどんな人だろうね。」
「すごくきれいな人だ。」
「他には?」
蒼澄は何も言えなくなる。彼女のことを何も知らない。見た目だけに魅かれていると言われているようで、心外だと自分自身にも路仁にも少し憤る。
彼女をもっと知りたい。そのはかなく可憐な容姿の中にどんな思いをもって、どんな生き方をしてきたのか。どうしたら笑ってくれるのか。本当に人を好きになるときは、すべてが愛おしい。長所はもちろん欠点も過去もまるごと愛したい。
「まだこれからだ。彼女の好きなところをいくらでも言えるようになる。そしたらまた聞いてくれるか?」
「もちろん。楽しみにしている。好きなところを探すって素敵だね。」
路仁はすっかり酔いが覚めていた。友だちの恋がどうか実ってほしい。頭の中で恋しい人の顔と仕草と声を反芻する。君が恋しい。今すぐ君に会いたい。
広い世界がある。限られた人生の中でさまざまな出会いがある。しかしそれから一度も再会しない人が大半だ。中学校の同級生なんて卒業したら、二度と会うこともない人もいる。
蒼澄がその同級生の一人に再会したのは奇跡と思っている。川に落としたきれいな石を探し当てたようだ。中学二年生の時から学校に来なくなったクラスメイト。名前は花の名前、確か、りんどう、といった。同じ名前の人に会ったことはない。
その特徴的なくせ毛が、少年の頃の思い出を呼び起こした。縮毛で容量が多く、結ぶと厚みのある毛束になった。伸ばしていないと手入れが大変なのか髪の長さは腰あたりまであった。それをいつもきつく結んでいた。あのころより少し大人になり、彼女は光を放つように美しかった。
町内外でも評判の美貌で奔放な姉がいて、その姉に比べると影の薄い少女だったが、顔の造作、肌の色つやは姉よりも恵まれているようにも見えた。今も同じ毛量の多い髪を同じように結んでいる。
別の日にはかんざしでまとめ、整った中高な小さな顔、物憂げな眼、ほころぶことのないような固く結ばれた蕾のような唇、普段、化粧はほぼしていないが時々思い出したように瞼と唇に色味を足すと色白の肌にいっそう映えた。服装はいつ見ても白い長そでのシャツに、色は日によって違うが幅の広いパンツが定番だった。体の線が分からないようにしているが、細い首が華奢な骨格を連想させる。
小さな洋食店、その前で花に水やりをしていた。蒼澄がそこを通ったのはまったくの気まぐれだった。気の多い恋の妖精が蒼澄を試そうと、悪戯を仕向ける。
「同じ中学にいなかった?」と声をかけた蒼澄にとりつくしまもなく「いいえ」とだけ答える彼女に鼻白んだが、その無関心な態度がかえって気になった。彼女にとって中学校は決して楽しいものではなかったことも思い出した。
何もしなかった自分たち。彼女は中学最後の一年間、一度も学校にこなかった。姉の関係でトラブルに巻き込まれひどく傷ついた彼女は、もともと孤立していた学校にも来なくなったそうだ。
担任に言われて、家に様子を見に行った女子たちが暗い顔をして帰ってきた。
「家に言ったら出てきたんだけど、坊主頭になっていて・・表情もないしすごく怖くてプリントだけ渡して帰ってきちゃった」
あの長い髪を・・何か液体を頭からかけられてそれが落ちずにやむなく髪を剃り落としたと聞いた。中学生の少女にそれだけのことができる人たちが怖かった。彼女は、クラスでもひとりぼっちだった。誰も話しかけない。それをいじめと言われればそうなるが、彼女もとっつきにくく、無口で、笑ったところをみたことがない。蒼澄も一度も話したことないが、町の中で母親と一緒のところにあったことがある。
少しだけ表情が柔らかく、こんなにきれいな子だったのか、と立ちつくしていると、母親が「クラスの人?」と聞く。あわててこんにちはというと母親はこんにちは、とにこりとした。母親もとてもきれいな人だ。彼女の方は軽く会釈をしただけたった。その目は知らない人を見るようではなかったと自分の方では思っている。
自分を認識してくれている。それだけでその短い時間が特別な思い出になった。彼女が自分の美しさを自覚し、整えれば指折りの美少女になるはずだが、彼女はそういうものは一切拒否して重苦しい雰囲気を作り上げていた。自分を守るかのように生来の良さを消し去るほどに強固なものだった。
そうして彼女はある日を境に、学校へ来なくなった。卒業式も卒業アルバムもないまま、一度も学校へ来なかった。学校においてあった彼女の教科書などはいつの間にか持って帰られていた。
蒼澄は、一度民間企業に就職し、その後社会人枠で採用試験を受け、生まれ育った町の隣の大きな市で公務員となった。27才になった彼女、りんどうは、ずっとあの小さな町に住んでいるかと勝手に思い込んでいた。
ここで再会するなんて、なんという偶然だろう、蒼澄はりんどうの美しさとその邂逅に感動した。
面影を残しながらさらに美しくなったかつての同級生。つやめいていてそれでいて可憐さもある。
自分さえあの時に感じた気持ちを忘れていた。しかし無意識でも心の中ではずっと気にしていたのか、可愛くて明るい同級生の女子たちは忘れてしまった子もいるが、りんどうのことは一瞬で思い出した。
しかし、そう感動しているのは蒼澄の方だけで、りんどうは新手の勧誘かナンパだと思っているのが明らかだ。柳眉をひそめ、花を見ていた柔らかい表情が一変している。
短い期間だけ同じクラスだったと大人の男から話しかけられても恐れしか感じないのも当然かもしれない。
普段の蒼澄もこんな無粋な声のかけ方はしない。何かがそうさせたとしか説明できない。彼女は、確実に自分を恐れ警戒している。
いたたまれない。この気まずさが永遠に続きそうだ。このまま立ち去れば怪しい者に話しかけられた印象しか残らないが、さりとて会話の糸口さえない。
どうしよう。まずいことをしたかも。すると、ドアが開き、店主らしい男性が出てきた。
「お客様?もう入れますよ、どうぞ、りんちゃん、支度して」
人好きのする笑顔の店主が招き入れてくれる。いらっしゃいませとその妻らしい夫人も中から声をかける。
「あの子がうちの調理担当です。孫です」
店内には、まだお客様がいない。
「私、たぶん中学の同級生と思って、ここで会えるなんて、と急に話しかけてしまいました。驚かれたようで失礼しました。」
「はあ、中学の・・」
店主の声と顔に影が差す。中学の時のことを知っていて責められるかと思ったが、店主はすぐに笑顔に戻り、ささ、どうぞと席をすすめてくれた。
食事をするつもりではなかったが、おすすめランチはとてもおいしかった。厨房で人が動く気配がしていたが、それきりりんどうの姿をみることはなかった。
会計をすませて、外へ出るとさきほどりんどうが水をやっていた花がゆれていた。花びらが多い華やかな花。その花しか植えていないようだ。
「ダリアです。あの子が最初から育てました。」
店主が見送りに出てきた。店主がわざわざ見送りにくるということは先ほどの話の続きをしたいのだろう。
「失礼を承知でお聞きします。本当に中学の同級生ですか?」
よく同じような調子で声をかけられるのだろう。あれだけ美しいのだから。
「本当です。証明するものはありませんが。偶然過ぎて驚いています。私の地元は隣の町でそこのひとつしかない中学校で一年間だけ同じクラスでした。それだけで声をかけられるなんて不審がられてもしかたないですよね。謝っておいてください。料理はとてもおいしかったことも」
店主は丁寧にお辞儀した。かなり年上の男性にそんなことされて面食らう。
「お許しください。あの子に声をかける人たちの中には“どこかで会った?”と言ってくる方がいて・・そしてそんな人ほど、最後には“お高くとまりやがって”とか言われいわゆる逆切れをされて、何度か嫌な思いをしています。ほんとうに同級生なら何かとご存知と思いますので、どうかご理解下さい。時々過去に苛まれながら、いまもなお自分を取り戻そうとしている途中なんです。」
店主の口調には、蒼澄が怒ってもう二度と来店しなくても構わない、孫を守るためなら、という断固とした思いも感じられる。何かあって学校にこなくなったころくらいしか彼女のことは詳しくは知らない。だが彼女の居場所は学校になかったことは分かる。
りんどうにとってはわずらわしい相手でしかない。同級生と言うだけで何の進展もなさそうだ。
あのときの感動とほのかな思いは気の迷いだ。しかし、翌日になっても、花を慈しむ横顔が頭から離れない。すぐに気持ちを切り替えられるのが得意なはずなのに、りんどうのことが気になって仕方がない。もっと声を聞いてみたい。可能なら笑った顔も見たい。
蒼澄が次にりんどうと会ったのは、市をあげての清掃作業の朝だった。市庁舎に面した大通りで行われるお祭りの前に行われる恒例行事だ。事業所や各地区から、ボランティアとして何人か出てもらう。
りんどうはその中の一人で、弟らしき少年と参加していた。今日は黒い長そでTシャツに裾を絞った形のベージュのパンツ、首にタオル、少年とおそろいの黒いキャップをかぶっている。
少年は小学校高学年か中学生くらい。眠そうにあくびをして、りんどうの背中に頭を軽く打ちつけている。
りんどうより少し背が高いのに甘えている様子が子どもらしい。蒼澄が最大限に目を開いたよりも大きな目をしている。くりくりと大きいだけでなく鋭さもあり愛らしさとは少し違うとても印象に残る力強い目だ。
いくつかのグループに分かれ、市役所の職員がそれぞれのグループに担当者としてつく。
またもや偶然にりんどうたちと同じグループに割り当てられ、蒼澄は、気まずさから他の職員と変わってもらおうとしているうちに出発時間になってしまった。
一緒に歩かなければいい、そう思いながら参加者にまぎれてごみを拾っていると、りんどうと一緒に来ていた少年が話しかけてきた。樹凪(いつな)という名前の少年は、りんどうよりは人懐こいのか物怖じする様子はない。
「うちのお店に来ていた人だよね?」
背は高いが、声変わり前の少年特有の涼やかな声。
「君はあの店の・・?」
「ひいおじいちゃんのお店」
こんな大きなひ孫がいるとは、あの店主はいくつなのか。
「何回か来たよね?いつもりんちゃんの花壇をみていた。最近来ないね。何かあった?」
心配そうではなくただどうして?と率直に聞いてくる。あの花壇に関心を持っていることを見ていたということは、りんどうに関することかと考えてさぐってもいるようだ。何とも一言では答えられない。
「忙しくて。また機会があったら行くよ」
「別に・・。来ても来なくもどっちでもいいよ。待ってないから」
木で鼻をくくった言い方とはまさにこの口調だ。ぐさりと刺さる。じゃあ聞くなよと大人げない言葉が喉元まで出かかる。
「いつな、そんな言い方しないの」
りんどうがたしなめるように言う。キャップの陰から見える目は、この前より少しだけやわらかい。
樹凪は興味を失ったように、生返事をして蒼澄を追い越していった。
「失礼なことを言ってすみません。難しい年頃で」
りんどうが隣にきて頭を下げた。りんどうのことが分からなくなる。ほとんど話さず警戒心を隠さない冷たい彼女、子どもをたしなめきちんと自分から謝罪をする彼女。
「いえ。気にしていません。私も子どもの頃はあんな感じでした。お店の料理とても好きなので、こんど、また行きます。友人も行ってみたいって言っていましたから。」
「ありがとうございます。お待ちしています」
ちゃんと笑えるのか。たとえ営業用だったとしても、その笑顔に目がくらむ。
大人になり、自由を手に入れあの小さな町を離れた。それから笑顔を手に入れたのだろう。
短い会話の中でこれだけの特別感を覚えるなら、向き合ってもっと話せるようになったらどれだけドキドキするか想像がつかない。止まっていた思いがまだ動き出した。
孤立した変わり者の美少女。蒼澄は当時から女子の人気者で告白されたり自分からもしてみたり常に彼女がいたが、本当は彼女が最も気になっていた。他の子とは全く違う。不思議なものみたさの好奇心というとりんどうは怒るかもしれない。
宇野りんどう、野山にひっそり咲く紫色や白の花の名前。
驚くべきことにりんどうはそれからしばらく蒼澄と足並みをそろえて一緒にゴミ拾いをしてくれた。
母親はまだ地元にいて樹凪のために仕送りをしてくれること、定時制高校に行きなおしたこと、料理が好きで、調理師免許をとったこと、給食センターや飲食店で働いてみたが、結局祖父母の経営する洋食店に行きついたこと、これまでのことを話してくれた。
話を続けようとずっと何かの話題をさがしていたので、頭の中が疲れてしまった。やはりりんどうは蒼澄を覚えていなかった。あらためて名乗ると、ほそかわあおとくん、とフルネームで復唱するのが可愛かった。
中学のころを思い出すような話は避けたつもりだったが、りんどうの方からそのことに触れてきた。
「樹凪は、大人には手厳しいけど、同級生には優しくて、友達も多い。そんなふうになってくれてうれしい。あの子を見ていると、私も本当は友達ほしかったんだなあ、勉強も部活もしたかったって。そんなのいらないって思っていたはずなのに」
自分たちが全面的に悪かったとは思っていない。きっとみんなそこまでりんどうが思い詰めていたなど想像もできなかった。自分達だって毎日精一杯だった。個性的な同級生への接し方まで気が回らない。そうしているうちにりんどうは別のところで悪意の洗礼を受け、坊主頭になり、家にひきこもってしまった。ここは、何もできなくてごめんねというところなのだろうが、それが彼女の望むことなのか。蒼澄はうなずくことしかできない。
物憂げな眼をしたその名の通りひっそりと咲く花のような女性に惹かれていく。
樹凪は、弟ではなく姉の忘れ形見であり、ここに来るまで母親とともに育ててきた。
3才の頃、姉のいない家で邪魔者にされていた樹凪を引き取ったという。母の養子と言う形で実質弟という関係だが、17歳の時に一人の幼子の保護者となることを決意した。
「どうして、俺にそんな話をしてくれるの?」
「どうしてかな。地元に帰ればいろんな噂が入ってくると思う。細川君は噂に左右されない人じゃないかなと思った。おじいちゃんと話しているのを見てまったくの勘だけどそう思った。私、急に話しかけられてびっくりして、あんな冷たい態度をとったのにね。17才で3才の子どもを育てるなんて・・珍しいかもしれないけど、全くあり得ないことではないのに、あの町では誰も信じてくれない。児童相談所に通報されたこともある。私が父親の分からない子を産んだと思われている。でももうそれでもいいと思っている。樹凪が可愛い気持ちは変わらない。」
複雑な喜び、知りたかったけど知らないままでいたかった。未婚で、しかもおそらく誰かと付き合ったこともないまま一人の子どもの親代わりとなったりんどうの決意になまなかな感想など言えない。彼女は、知らないうちに同年代の子たちとは違う道を自ら選んでいた。
最初は友達でいいから、中学生の時をやり直せたらと思う。蒼澄は、もしも中学生の頃、彼女をもっと知っていたら、すぐに好きになっていた。
フォークダンスの相手のようにくるくるかわる他の少女たちを束にしてもりんどうにはかなわない。
ひどい男だと言われるだろうが、りんどうのまわりの同級生たちは一瞬で背景になってしまう。背景になる人たちにも心や個々の人生があるが、恋に落ちるとき人はとても身勝手になる。背景は背景でしかないと思うくらいに。
清掃作業が終わり、集合場所でごみを回収し、参加者に飲み物を配りながら蒼澄は、りんどうをさがす。
このまま解散したら、これ以上偶然に会うことは難しいと思わず声をかけた。同級生のよしみで連絡先を聞き出せるかもしれない。
「お疲れ様でした。今日は参加ありがとう」
2人は同時にふりむいて、ぺこりと頭を下げる。樹凪が近づいてくる。
「今日は意外と楽しかった。ゴミってみえないところにたくさんあるんだね。町中ゴミ箱と思っている人たちが多いのにびっくりした」
「そうだね。でもおかげできれいになったよ」
樹凪の顔はまだ幼いが、表情は大人びている。成長すればさぞや美形になるだろう。
「またお店にきてね。お兄さん、少しならりんちゃんと話してもいいよ」
「はあ?」
「たいていの大人はまず俺に話しかけるんだ。俺を取り込んでからりんちゃんに近づこうとする。お兄さん、俺がいなくてもりんちゃんとがんばって話していたからさ。少しくらいは許してやるよ。俺の見ているところならね」
ずいぶん失礼な子だ。大人を軽蔑しきっている。信じてもいない。りんどうに近づく大人たちをたくさん見ている。彼にとっては自分もそんな大人と同じだ。それを見透かされている。頭にくるがまた何も言い返せない。大人の沽券にかかわる。図星だといわれるのが目に見えている。樹凪は我が意を得たりとばかり唇の端だけで笑う。
「大人の男ってみんな同じだな。自分は違うって思ってるところがさ。俺はそんな大人になりたくない。りんちゃんはお兄さんなんか絶対に好きにならないよ。りんちゃんは俺がいやだって言えばやめてくれる。俺、お兄さんみたいな大人は嫌いだ」
敵意を隠さない牽制にぞくりとする。樹凪に比べたら詠夏など可愛いものだ。こんな幼い少年が・・幼いからこそ残酷になれるのかもしれない。
「いつな、また何か言っているの?」
りんどうが声をかける。二人の話は聞こえていないようだが、蒼澄の固い表情で何かを感じ取るのか、物憂げな目がさらに憂いをおびる。
「別に、なんでも。ふつうのはなし」
樹凪が答える。告げ口できるものならしてみろと挑発的な目をしている。
「ふつうのはなしって?」
りんどうが食い下がるが樹凪はすましている。
「りんちゃん、帰ろうよ、おなかすいた」
甘えるようにりんどうの背中を押して歩き出しながら、急にお行儀のよい挨拶をする。
「お兄さん、さようなら」
「ごめんなさい。今日はお疲れ様でした」
りんどうと樹凪を何も言えずに見送る。この状況で、これ以上何を話せるというのか。連絡先などもってのほかだ。
人に拒絶されることは初めてではないが、あんな少年に明らかな拒絶をされるとは思っていなかった。話していいよというが絶対本気ではない。
恋はどれだけ努力し、誠意を尽くしても徒労に終わることがある。相手の気持ちと自分の思いが釣り合わないことほどむなしいことはない。
蒼澄もこれは見込みがないなと相手の反応でもう察することができる。それだけ分かっていて、なおも彼女のことを考え続けてしまう。このどうにもならない気持ちをどうしたらよいだろう。少年の純粋な敵意に動揺してしまうようでは、まったく見込みがない。
神秘的に美しく咲く孤高の花を手折って、飾りたい。身勝手な征服欲を恋心だと勘違いしている一方的な思いの押しつけに、りんどうはきっとうんざりしている。
自分は中学生の思い出を美化しているだけだ。今、独り身でさびしいだけだ。きっと少ししたら、あの時、自分はちょっとおかしかったのだ、と振り返ることができる。今なら。蒼澄は心の中にいる自分を無理に抑え込もうとした。
ダリアの花が窓際の花瓶に活けられている。結局、思いを抑え込むことができず蒼澄はあれからもりんどうが働く洋食店に時々通っていた。頻繁と思われない程度を心がけている。
彼女への思いが過去への憧憬か、征服欲か、寂しさか、心の整理をつけようと思った。どんなに美しくても飽きてくる。恋と思ったものは冷めてくる。自分はそうやっていくつもの恋愛をしてきた。一人にこれほど心が乱されるとは思いたくない。いつだって自分が主導する側でいたい。それなのに。
「きれいに咲いたね」
「最初はうまく咲かせられなくて」
りんどうは植物を育てる難しさを語るくらいには、打ち解けてきた。店主夫婦が忙しそうな時には、自ら料理を運んできてくれることもある。
路仁は、目の前の友が、こんなにぎこちないのを初めて見た。友達になって、それほど時間はたっていないが、彼は恋愛においてはおそらく無双だと思う。言い方はよくないが慣れていて手が早い方だ。
それなのにここで会話をする以上のことはできていないらしい。自分はこの友になにかできるだろうか。
路仁は蒼澄に誘われて休日のランチをいただいている。一人では間が持たなくなったという。
それにしてもここの料理はおいしい。デザートのプリンを食べながら、路仁は決心を固めていた。ランチタイムも終盤でお客様もそう多くない。話すなら今だ。意を決してりんどうに話しかける。
「お話し中失礼します。僕は市の図書館に勤める伊藤といいます。今度、図書館と隣接した公民館合同でイベントをします。よかったら出店しませんか?これ僕の名刺と昨年のチラシなんですけど」
昨年のチラシを差し出す。突飛な行動にその場にいた全員の時が止まる。
「今日はほんとに偶然にたまたまで、ランチにきましたがおいしさに感動しました。普段はこんなお願いの仕方しないのですけど・・イベントでは飲食コーナーを設けて、天気が良ければ外でも食べられるように準備します。こんなおいしいプリン初めて食べました。もしよければ、何かお菓子を作って販売してもらえませんか。出店料はいりませんし売り上げはすべてとってもらっていいです。申し訳ありませんが、あまり高い値段設定はしないでください。郷土料理などごはん系は決まっているんですが、デザート系がまだ見つからなくて。調理室も確保しています。どうでしょう。お店のこともあると思いますから返事は急ぎません。考えてみてくれませんか」
蒼澄は、何も言えず路仁とりんどうを交互に見ている。実は路仁は、りんどうに見覚えがあった。
雑誌コーナーで園芸専門雑誌と料理雑誌を読んでいる女性だ。今日は髪をまとめて頭に巻いたバンダナにすべて押し込んでいるが、図書館では豊かな髪を背中にたらし、熱心に読んでいる。バックナンバーは貸出できると伝えると、他の本も含めて貸出数いっぱい借りて行った。
個人情報なのでそのことは言わないが、その怜悧な横顔と勤勉な姿を覚えていた。りんどうの方も路仁をあの時の職員だと覚えていたのか、ようやく反応する。
「ええと、あまりに急なお申し出で。ちょっとすぐには・・」
「そうだぞ、お前どうした?」
蒼澄もやっとパクパクしていた口に空気を取り込んでチラシを取り上げる。しかし、路仁は販売が時間的に無理なら子ども向け料理教室は?とどんどん話をすすめようとする。
「あおと、たった今君を実行委員にスカウトする。今後の交渉、調整連絡は一任する」
こいつはこんな酔狂な人間だったか?蒼澄は友が別人に見えた。交渉を一任すると言いながら、目をキラキラさせてりんどうに話しかけている。
あのくらいの情熱があれば、もっともてているはずだと場違いなことを考える。路仁は、なおも料理のおいしさ、花壇の美しさ、お店の内装のセンスの良さなどをほめちぎっている。
「あまり利益は期待できませんし、派手な宣伝にもなりません。でもこのおいしさをみなさんに少しでも知ってもらいたいしイベントの集客にも協力してほしいのです」
りんどうはチラシを握りしめて、助けを求めるように店主夫妻を振り返っている。
そのイベントは図書館と隣接する公民館に集う市民たちの文化祭のようなものである。日々取り組む生涯学習の集大成、趣味や学習の成果を展示や披露する場で、利益が目的ではない。
しかも、開催は日曜日で、週末こそかきいれどきの飲食店にそんなお願いをするなんて非常識にもほどがある。いつの間にか、樹凪も後ろからチラシを覗き込んでいる。
「君も来てくれる?子どもの実行委員も募集している。学校に募集をかけたけど知らないかな?」
いきなり話しかけられて樹凪は、ぶっきらぼうに何か言って、そそくさと離れていった。
「楽しそうね。やってみたら」
店主夫人が、固まった空気を混ぜ返すように口を開いた。
「一日くらいだいじょうぶよ。図書館や公民館にはお世話になっているし、たまには地域のこともしなくてはね。」
「おばあちゃん、そんな簡単に一日くらい大丈夫って・・」
蒼澄は目の前ですすんでいくことについていけず文字通り頭を抱えた。
路仁はすっかり店主夫妻とも話し込んでいる。社交的な店主夫人と路仁は顔見知りのようだ。店主もあいづちをうちながら会話に参加している。おそるおそるりんどうに目を向ける。
「何だか話が進んでいるみたいだけど、OKってことでいいのかな」
「そうみたいね。店主のおじいちゃんが許可してくれたら、私はいいかなって思っている。これからの連絡は細川君からになるの?」
「そうだね・・。お店の方でいい?」
個人の連絡先を教えてもらえると期待したが、りんどうは「お店の方へ」とはっきりと答えた。落胆はしたが、それからりんどうとの会話の回数や量は飛躍的に伸びることになる。
帰り道、スキップして鼻歌でも歌いそうな路仁を、蒼澄は実は友の姿をした異星人なのではないかという思いで見つめる。
「言ってみるもんだね。頑固そうだからだめかなって思ったよ」
「頑固?誰が?」
「りんどうさん?あのたおやかさ、触れなば落ちんって感じだけどすごく頑固そうだ。職人気質を感じたよ。君の気持が分かるよ」
「驚きすぎて言葉もない。ろじんは意外と強引だな。」
「何かしないといけないって思ったからさ。友達のために。役に立つかどうか分からないけど。それにあのおいしさをみんなに知ってもらいたい。イベントのためっていうのもあったけど、あおとの顔が・・」
「俺の顔?」
「恋する少年の顔をしていたから。僕が言うのもおかしいけど、まずは信頼してもらうことからかもしれない。がんばれよ、あおと。やれることをやろうよ。気持ちをはっきりさせないと気持ち悪いだろう。ついでにイベントもよろしく」
確かにおせっかいだとか俺までちゃっかり実行委員に巻き込むなとかいろいろ言いたいことはあるが、路仁の妙に充実感のある笑顔に、言いたい気持ちが陽気の中に溶けていった。
イベントまでの間、何度やり取りしたか分からないがいつも緊張しながら電話をする。携帯電話しか持たない世帯がふえたとはいえ、固定電話にかけるのは仕事上慣れている。
しかし必要以上のことしか話せないこの状況はもどかしい。まわりに誰がいるか分からないのもある。
時々聞こえる息継ぎ、言いよどむ声に姿がみえないだけに心がざわめき、電話を終えると脱力した。
声が聞きたい。だけど声を聞いたら姿も見たくなる。どんな顔をして話しているのだろうか、と。
そして、そのきれいな三日月形の眉を指でなぞってみたい。こんな気持ちを伝えたら、その三日月は夜半の雲の合間に隠れてしまうだろうか。
月1回の実行委員会の会合には出席したが、路仁はりんどうとの連絡調整以外は特段他の役割を申し付けなかった。普段の生活に支障がないように配慮してくれている。
路仁自身は、通常の業務に加え、実行委員会の事務局、消防署や保健所とのやり取り、公民館との打ち合わせ、ステージイベントの音響の立会いなどとても忙しそうにしている。
事業系や教育関係の部署に言ったことはないがイベントを一つ成功させるためには、何か月も前からの準備や打ち合わせ、人手がいることを知った。
何度かやり取りをするうちに、りんどうの方から電話がかかることもあった。蒼澄が冗談を言うと、電話口から笑い声がもれてくるようになった。不在で固定電話がとれないときのため、あっさりと携帯電話の番号も教えてくれた。樹凪もあれから路仁に口説き落されて友達を引き連れて、公民館に通っているようだった。
そうして迎えたイベントの日、蒼澄はいつもより早く目が覚めてしまった。
午前7時過ぎに会場へ行くと、路仁はもう出勤していた。もしかしたら昨日ここに泊まったのかもしれない。いつにも増してぼさぼさ頭だ。
「おはよう。8時集合なのに早いな。そんな早く来なくていいのに。今日まで本当にありがとう。始まってしまえばあとはここに集うみんながすすめてくれるから。僕たちはみなさんがやりやすいように、そしてけが人がないように動くだけ。りんどうさんのところも人がたくさん来るといいね。僕はあまり一か所にいられないから気をつけてあげてほしい」
早朝は、肌寒いのにTシャツ一枚で最後の会場チェックに余念がない。
図書館や公民館に集う市民が、一年間の学習や趣味の成果を発表する。ステージ発表ではダンスやカラオケ、合唱に演劇、バンドの演奏などが行われ、各階では書道や絵画、写真、俳句、短歌などの作品展示がある。
他には健康についての講演会、無料の健康相談、血圧測定など、教育・福祉関係部署が総出で行うイベントである。市長も開会のあいさつに来ることになっている。
ただの発表会では、来場客も限られるので、家で収穫した野菜販売、おいしいものコーナーでさらに人を呼び込もうとしている。蒼澄の部署ではまったくかかわりのないイベントなのでこれまで参加したことがなかった。
まったく場違いのところへほうりこまれて居心地が悪い。だが、そこにいる誰もがゆとりがあり楽しそうだ。
そう思っていると、詠夏や全然知らない老若男女に荷物運びやお弁当の受け取りなどでこき使われる。
路仁はどこにいるのか分からないが、りんどうの出店も順調なので安堵する。
デザート系といっていたが、サンドイッチとスープまで用意してきた。デザートはクッキーとマカロン。祖父とともに荷物を運びこんできて、調理室で最後の準備を蒼澄は手伝った。あとで樹凪と合流するらしい。
マカロンとクッキーを包装しながら、りんどうが蒼澄に味見を、といってスープを差し出した。ミネストローネとかぼちゃのスープは、あたたかく朝のからっぽな胃にしみる。
「おいしい。これはみんな喜ぶよ」
りんどうは固く結んだ口元をほころばせた。このはにかんだ笑顔を毎回見られるようになっただけでも大した進展だと思う。
「細川君、今までありがとう。いろいろ相談にのってくれて」
「まだ早いよ。お祭りは今からだよ」
「お祭りって、始まるまでがいちばん楽しいね。あの伊藤さん、変な人につかまってしまったって思ったけど、すごくいい人だった。なんていうかやるべきことには一直線で。樹凪もふてくされながらも図書館や公民館に通って、今日を楽しみにしていた。あの人たちうちにはもう来ないの?ってこっそり聞いてくるの。内緒ね」
樹凪のとがった目つきを思い出す。電話をするたびに樹凪が出なければいいなと思っていた。
「いつなくんがそんなことを?」
「いつなが失礼なことをいったみたいね。どうか許して。気を悪くさせたと思うけどあの子なりに私を守ろうとしている。強がっているけど、小さなころは本当に壊れそうなくらい弱々しかった。私も母もとても不安だった。神様があんまりかわいいからと連れて行ってしまいそうで。欲しいものはいつでもなんでも買ってはやれないし、我慢もさせてきた。本当にこれでよかったのかって母と何度も話し合った。でも絶対に離れたくなかった。さびしい思いはもうさせない。愛されて大きくなってほしい。そう思ってきたけど、やはり周りの目に耐えられなくて私の都合で父方の祖父がいるここにきた。それがよかったのかどうか分からないけど、細川君と友達になれたのは、ここにきて、ひとつよかったこと。私、最初すごくいやな態度だったよね。あのころを知っている人が怖かった。でも細川君は何を聞いても、変わらずいつも親切で。あの町にも信じられた人がいたのかもしれない。私が目を背けていただけで」
友達か・・。きっとこの女性とは永久に友達どまりだ。無理にわがものにしようとしても幸せになれない。
蒼澄は理由もなく確信する。信頼して、心を開いてくれただけで十分だ。今までの恋人たちとは誰とも違う。
確かに中学生の頃ほのかな恋心はあったが、きっと今の思いは失った日々への憧憬の念だ。
それだけではない。彼女の抱えているもの、彼女の選んだ人生を丸ごと引き受けるだけの覚悟がない。
ただ、この美しく神秘的な花を自分のものにしたいだけでは彼女を愛し続ける資格はない。なんと自分勝手でずるい弱い人間であることか。俺は今一番滑稽で無様な色男崩れの道化だ。
最初から見込みがなかったのに、彼女の美しさに見惚れて勘が鈍ったようだ。最初から一度も咲かず実らない少年時代の恋心の残骸だった。
守りたい、助けてあげたい、力になりたい。それは変わらないがそれは友達としてすればいい。りんどうは今、ただ一人、幼い命のためだけに生きていると言い切った。自分はそれを尊重したい。たとえこれから別の人を愛したとしても彼女はこれからも自分にとって忘れられない特別な人になる。
「俺の方こそありがとう。中学の時は何もできなくてごめん。でもずっと気にしていた。君を手伝うことができてうれしい。こうやって話せてすごく幸せだ」
毅然と一心に咲く花が揺れるようにりんどうが白い歯を見せて微笑んだ。
イベントはお天気も良くて盛況だ。路仁たちの毎日の準備と努力が実ったようで蒼澄も誇らしかった。りんどうの出店も順調なようで売り切れの商品もあるようだ。
「あおとさん、お疲れ様です。朝早くからすみません」
事務室で休憩していると、詠夏が、冷たいお茶を出してくれる。
「こきつかわれてましたねー」
「えいかちゃんからもね。でもぼーっとしているよりいいよ。時間が早く経つ」
「みなさんの作品、一緒にみてまわりませんか?」
毒舌小悪魔な詠夏も今日は優しい。週末はいつもデートばかりしていると思っている蒼澄が休日返上で手伝ってくれるので若干見直したらしい。
「いいよ。いっしょにいこうか」
「ろじん先生が連れて来てくれたあのサンドイッチのお店、おいしかったですよ。大正解ですね。それにあの人!宇野さん!すごくきれいですよね。アンニュイな美人で。あの人が作ったっていうだけでおいしさ十倍です。いっしょに来ている弟さん?もかわいくてー」
詠夏はよいと思ったものは手放しでほめる素直さがある。詠夏のおしゃべりに付き合いながら二人で作品をみてまわる。玄人はだしの作品もあり、見ごたえがある。
「あ、みつねさん、こんにちは。」
向かいから、青年がやってくる。詠夏の知り合いのようだ。
「来てくれてありがとうございます。まさか来てくれてるなんて」
「詠夏ちゃんか?久しぶりだな。知り合いが作品を出しているから来てみた。にぎわっているね」
「おかげさまで。もう帰りますか?おいしいものコーナーのサンドイッチ食べてみてください。すっごーくおいしいですよ」
詠夏は「すっごーく」とおいしさを強調している。充音(みつね)はそれと分からないくらいかすかに笑みを浮かべる。充音の口調は穏やかだが、眉目に険があり、決して話しかけやすい雰囲気ではない。詠夏の人懐こさのなせることだろう。しかし充音が見えなくなると、詠夏はほっと息をはく。実は彼と話すときはいつも緊張すると言う。
「小学校の時は登校班も一緒でした。私たちには頼りになる上級生でした。」
親の話では、複雑な家庭だそうで、子どもの頃から荒れていたそうである。
「大人のいうことを全く聞かないし、町内会で設置した看板を蹴って壊したり、吠えかかってきた犬の口にげんこつを押し込んで追い払ったりしたそうです。でもそれは下級生を守るためだったって他の子たちから聞きました。私もそんな怖い人とは思えませんでした。だって、そういうことしているとき、ぜんぜん楽しそうじゃなかった。中学からもずっと悪ぶっていて、犯罪に近いこともしていたみたいで、高校も中退してしまいました。家は裕福だったけど、家庭内でも荒れていたそうです。今はお母さんと二人ぐらしだって親から聞きました。」
孤独な少年の姿が浮かぶ。あの険のある目つきは、子どもの頃にはすでに身につき、大人になり今は落ち着いているが、それは消えないほどに刻まれ、いつ暴発するかわからない。そんな危うさを秘めているように見えた。
みつね、だからきつね、という渾名があったそうだ。黄金の毛並みに琥珀色の目、童話などではなぜかずるがしこい敵役の生き物に描かれることが多いが、彼は誇り高いしなやかな一匹狼ならぬ一匹狐だ。
中庭を見下ろすと、ちょうどりんどうの店のテントの前に、充音がいた。すっごーくおいしいサンドイッチやお菓子を食べればあのにこりともしない彼もきっと笑顔になるはずだ。
イベントは大盛況の内に、無事に終わり、蒼澄はりんどうが片づけをしているところを手伝う。樹凪も手際よく動き回っている。この間のとげとげした感じがなくなっている。
「お兄さん、この間はごめんなさい。また、りんちゃんを狙う嫌な奴かと思っちゃった。俺がお兄さんの悪口を言うと、りんちゃんが悲しそうな顔をするんだ。お兄さんがりんちゃんの同級生で、一番優しかった友達だよって教えてくれた。」
それは違う。一度も話したことがなかった。しかし、りんどうは蒼澄のために、思いやりのある嘘をついてくれた。
「あのへんなお兄さんもさ、何かっていうとあおとが、って言うんだ。俺が宿題教えてよって言ったらあおとのほうが頭がいいから、あおとに教えてもらってって言って教えてくれない。ろじん先生なんて言われてるくせに。俺、お兄さんのこと誤解してた。」
「誤解がとけてよかった。」
「俺ももっと大人にならなきゃね」
こましゃくれた言い方に苦笑いする。しかし、同時に可愛くてたまらない。こんな風に反発と甘えを交互に繰り返してみんな大人になってくのだろう。
そんな風にほんの少し成長した樹凪がいなくなった。
りんどうからの着信に心躍らせたが、彼女らしくないせっぱつまった風な声にただならぬことが起こったと感じ取る。
「いつなを知らない?どこにもいないの」
「いや、知らないけど、どうしたの?」
「そうだよね、ごめんなさい。ちょっと焦っていたので・・誰彼かまわず・・」
「落ちついて。今から行くから」
蒼澄は、家を飛び出した。こんな時彼なら必ず来てくれる。路仁に連絡すると思った通りすぐに駆けつけてくれた。
りんどうは真っ青になっている。かみしめすぎて唇が白くなってさえ見える。目が赤く、涙で今にも溶けてしまいそうだ。口元をおさえて小刻みに震えている。蒼澄は、その姿が痛々しくて愛おしくて、抱きしめてだいじょうぶだと励ましたくなるのを自制する。
いなくなった原因は二つ考えられる。もう二度と連絡をしないと約束したはずの実の父親が急に連絡をとってきたことと中学生であることを隠してアルバイトをしようとしていたことをりんどうにとがめられたことへの反発だという。
りんどうが話していたのが、顔も覚えていない実の父親だということを知り、自分を父親の元へ返そうとしていると誤解した。りんどうは樹凪のために自分のことにはほとんどお金を使わずにいることを知っていた。少しでも手助けになればとこっそりはじめかけたアルバイトを反対され、不満と不安が爆発した。
「俺が邪魔になったのならそう言えよ。」
そう言ったままいなくなり、心当たりを探しても見つからないという。
「あんなに思い込みが激しいなんて思わなくて。樹凪のことはなんでも知っているつもりだったのに・・。」
りんどうは、祖母の手をふりきってまた外へ出て行った。
「警察に連絡した方がいいかな?」
「もう少し僕たちだけで探してみよう。」
そうはいっても、二人は樹凪のことをあまり知らない。行きそうな場所を想像だけでただ駆けずり回った。結局大人3人、疲れ果てて途方にくれる。
りんどうが自分の細い体を抱きしめてかすれた声を絞り出した。
「いつな・・どこ?いつなに何かあったらどうしたらいいの・・」
いよいよこれは警察に捜索願を出すべきかと相談していると、若い男に連れられて樹凪が帰ってきた。イベントに来ていた充音という青年だった。りんどうと充音は知り合いだったのか。確かに知り合いがいるから来たと言っていた。蒼澄は走り回った疲れでぼんやりと思い返していた。樹凪は、邪険にその手を振り払いながらも、充音にがっしりと肩を抱かれて引きずられるようにこちらに歩いてくる。
「駅にいた。見つけたら逃げ回って・・・遅くなった」
充音がぶっきらぼうに説明した。樹凪は自分よりはるかに背が高い充音の手を思いきり払いのけた。
「逃げないからいいかげん離せ。おまえなんか、りんちゃんにいいとこ見せたいだけだろ。俺なんかほっとけよ。邪魔するな」
「いつな、そんな言い方やめて」
「うるさい。りんちゃんなんか大嫌いだ。このうそつき女。俺を引き取ったこと後悔しているんだろう。俺は返品可能なモノだとでも思っている。今でもあいつと連絡取って俺を捨てる話をしてるの知ってるんだからな。あいつに何をもらったんだ?俺の方が先にりんちゃんを捨ててやる」
ばちん!と大きな音がした。りんどうが手をうちあわせた音だった。
樹凪はその音の大きさに驚いて黙ってしまった。りんどうが両手で樹凪の頬をはさんでいる。そのまま顔を引き寄せて額をすり合わせる。幼いころからそうやって駄々をこねる樹凪をなだめてきたのだろう。
「いつな、ここにいるみんなで心配していたんだよ。一生懸命探してくれたの。本当は分かっているでしょう。知っているよ。いつなは賢くて優しい子だって。でもね、悪い子だってかまわない。どんないつなも大好き」
りんどうは樹凪を抱きしめた。いっちゃん、と何度も繰り返し何度も抱きしめなおす。
「いっちゃん、無事で良かった。どこにも行かないで。りんちゃんもどこにも行かないよ。ずっとそばにいるって、約束したの、覚えているでしょう?」
樹凪がわっと泣き出した。小さな男の子が泣くように、りんどうにしがみついている。
「ほんとうはこわかったよう、一人で不安だったよ。駅にいると変な大人が声をかけて来るんだ。お金をやるから一緒に行こうって。この人が追い払ってくれた。りんちゃん、ごめんなさい」
「怖かったね。不安だったね。私こそごめんね。」
この人と指された充音が不快そうに眉をひそめた。蒼澄と路仁もよからぬ気持ちを隠して優しい顔をした大人が少年にお金を渡して対価を要求しているその光景を想像してぞっとする。
充音が気づかなかったら樹凪に消えない傷をつけられていたかもしれない。二人の泣き声だけがその場を満たしていた。
ぜひ、夕食を、と店主夫妻に引き留められ、男3人でテーブルを囲んでいる。りんどうは樹凪の世話のために、2階へあがってしまい、そこにはいない。何度も何度も蒼澄達に頭を下げて、今は樹凪のそばにいてやりたいとその場を辞去した。
店主夫人が作ってくれたピラフとスープを、会話もなく黙々と食べる。充音が気にしている様子なので、自分はりんどうの中学の同級生であり、路仁は友人だと自己紹介する。充音も名乗った。りんどうとは高校が一緒だっという。それでまた会話が途切れてしまうと、今度は路仁が話し出す。
「僕たち、ここの常連なんです。ここの料理はどれもおいしいです。それでこの前、イベントにも協力してもらいました。」
蒼澄は疲れ切っていた。路仁は、体力が有り余っているのが意外で癪に触る。そして休日を返上して駆けつけてくれたというのに、と自分の狭量さに嫌気がさす。
「イベントには行きました。楽しそうでよかったです。俺なんかにはああいうほのぼのした場所は似合わないって思ったけど、ぜひ来てと言われので。久しぶりにあそこに行きました」
「来てくれてありがとうございます。図書館や公民館はみなさんの場所です。休憩でもいいからこれからも来てください。好きなものや新しい発見があるかもしれませんよ」
充音は、またあの時のようにそれとわからないくらい小さく笑った。
「はい。昔、同じことを言ってくれた人がいました。」
ああ、この青年は、ちょっと前の俺と同じだ。いや、俺以上におそらくずっと長いこと彼女に対して真剣だ。 路仁の話にあいづちをうちながらもずっと2階を気にしている。そして、樹凪をりんどうに引き渡すとき、「いつなのことも自分のことも責めるな。もうだいじょうぶだ」とりんどうにささやいているのを聞いてしまった。蒼澄は、その時、充音の思いに気づいていた。
りんどうも自分に連絡する前に、彼に先に助けを求めていた。彼は自分達よりも長く、遠くまで走り樹凪をさがしてまわっていた。どんなに抵抗されても、樹凪を離さず連れ帰ってきた。
ここまで連れて帰るのにどれだけ罵倒され抵抗されただろう。伸びきったTシャツの首回りと乱れた髪が物語っていた。体のどこかには痣もできているかもしれない。人目もあったはずだ。
それでも樹凪の体には傷一つつけずに連れて帰ってきた。どれだけりんどうが樹凪を大切に思っているかよく知っているからに他ならない。
最初から蒼澄の入る隙なんてなかった。蒼澄はよく寝た後、目が覚めたように清々しかった。忘れていたけど、きっと君が俺の初恋だった。正確に言えば、初恋にしたかった。
この不器用な狐くんの思いが伝わりますように、自分は傷つきながらもこの上なく大事に幼い命への愛情を注ぐ君、樹凪のことでいっぱいの君の心の中に狐くんの居場所もできますように。
樹凪は無事に高校を卒業した。進学先も決まった。りんどうは30才を少し過ぎていた。ある気持ちよく晴れた日に、充音と婚姻届を出しに市役所に来た。充音はそれからもずっとりんどうを思い、待ち続けた。
眉目にあった険は薄くなり、今は穏やかな目をしている。
蒼澄は、友人として婚姻届の証人を引きうけ、彼らの結婚を心から祝福した。
路仁は、ある日、閉架書庫を整理していて、一冊の絵本を見つけた。表紙も裏表紙もとれており、作者もいつの発行かもわからないひどい有様だった。忘れられたような絵本、だけどずっと廃棄にならずにそこにある絵本だった。まるで蒼澄たちのために書かれたようなお話だと、丁寧に修繕しながら、友の切ない気持ちに思いをはせた。
『昔々、狐がいました。とてもいたずら好きな狐でみんなから嫌われていました。
母さん狐が亡くなってからひとりぼっちになってから、さらに悪さはひどくなりました。
狐はある日花をみつけました。ひっそりと咲いていました。まるで美しい乙女の立ち姿のような花です。
母さん狐から教わっていました。この花は薬になる、美しくてもとても苦いからね、と。短い命の物言わぬ花に、心を奪われてしまいました。まるで恋におちたかのような気持ちです。
いたずらにも興味がわかなくなり、狐はどうにかこの気持ちを伝えようと花のまわりをぐるぐる回ります。
お椀のような葉っぱにお水をくんで、かけてみたりしました。花がさやさやと揺れて答えます。あと100年待ってくれたら私はあなたと同じ姿になるでしょう。
命を全うしながら、死んでは生まれ、100年たつと狐は人間に生まれ変わりました。
花は約束通り狐に生まれ変わりました。追うものと追われるものでした。
そしてまた100年、とうとうどちらも人間の姿になりました。恋人になるのに200年かかりました。
そんな花に青く澄んだ空も恋をしていました。多くの人が青空をみて幸せな気持ちになるように小さくても一心に咲く花をみて青空は幸せな気持ちになりました。
青空はこの世界を包んでいるので、花の近くにいくことはできません。青空には青空の役割がありました。
狐が花のまわりをぴょんぴょん躍って思いを伝え、待ち続けるのを、花もまた青空が送るそよ風に揺られてその思いに応えるのを、見つめていました。
青空はそれで十分に幸福でした。人間の姿になった狐と花が手をつないで、二人で仲良く自分を見上げているのを見て幸福なはずなのに少しだけ泣きました。涙は雨となって二人の上に、大地の上に降り注ぎました。
この人間の恋人たちがいくつまで生きるかはわかりません。しかし、青空はこの世界がある限りそこにあり続けます。そして、また何かに、誰かに恋をするのです。』
本の虫と青空の懸想