『満足せる愚か者』からの手紙

『満足せる愚か者』からの手紙

『嘆く独身者倶楽部』の20年後くらいの、別の語り手で書いた続編というか、スピンオフというか。ちょっと暗いかもですが、語り手を変えたので勘弁してやってください。CATのテンションはないので、疲れそうだなと思ったらオススメしません。後に内容を手直しや足し引きするかも。逆にこちらがお好きな方は、CATはカオスなので疲れるかも、です。

001. 『満足せる愚か者』からの手紙

​ ハムレッティ、君が「嘆く独身者倶楽部」を卒業してから何年経ったことだろう。君の幸せそうな笑顔は、なんだろうね、時間など経たなかったかのようによく覚えている。あれから、世の中では大きな戦争があったり、あってはいけない大きな出来事が続き、我々は個人に過ぎず、無力であること、そして、知ったことを取り消せないこと、知ったそのことだけでも永遠に世界が汚されるいくつかの「あったこと」を経験したように思う。きっと君は、僕がそう言うと「そうだね」と悲しげに微笑んでくれるだろう。
 だが、これ以上、世の中の話はやめておこう。色々あった。それで忙しかった。その間、僕は長らく倶楽部のことを思い出さなかったし、君を見習って「地上の愛」を選んだつもりで結婚もしたが。そうだな、それはきっと、やはり、君が選んだものとは似て非なるものだったのだろうね。うまくいかなかった。
 うまくいかないことを認める、それは大抵の人間には屈辱だ。だが、屈辱が屈辱でなく諦念に変わり、抵抗が生存本能にすり替わるころ、何か、また違った希望が生じるものだ。うまく言えないんだが――それは、ただ、そこにあるだけの願いのような――いや、僕は何を書いている。ハムレッティ、君には、そういうことを伝えたいのではないんだ。
 僕はこういうことが苦手だ。つまるところ、僕は倶楽部に出戻った。倶楽部は、まあ、君がいた頃からそうだが、嘆いているうちにいつの間にか皆、卒業してしまう。それで一時期は会員がひどく減ってね。今や長老格となった黒騎士が倶楽部を取りまとめているんだが、門戸を広げ、会員と恋愛対象を人間と霊的存在に限る、と規約を改編した。元倶楽部員も出入り自由だ、ただし、元会員はおのおのの日常に差し支えぬように、とね。彼は目元のシワと法令線が濃くなったが、相変わらず恐るべきハンサムだ。ただ、少し痩せたがね。
 それで、ああ、つまり、何が言いたいかと言うとね。たまには、遊びに来ないか。僕は寂しいんだ。あの頃の騒々しい、幸福な馬鹿騒ぎの毎日が懐かしくないと言えば嘘になるが、僕は、ただ、久しぶりに君に会いたいだけなんだ。
 そうだ、ここのところ、僕が倶楽部で聞いた「嘆き」を教えるよ。君が少しでも、僕らを思い出してくれるように。いや、でも、僕が書き送れるのは、「独身者の嘆き」というよりは、もう少し、なんというかな、少し表現は難しいんだが。「満足せる愚か者」の呟きとか呻きとか、そういった類いのものかもしれないが。そう、僕は、倶楽部内で、そういった名前の会に属しているんだ。本当に満足しているかわからないけれど――そういう風に、信じようとしている。
 まあ、そんなこんなさ。また、面白い「嘆き」を見かけたら君に教えるよ。

​――君の愚かなる友人『 空欄 』より

002. ヨハン・ザ・ケーニヒ

 君は、妙齢の女性と聞いておばあさんを思い浮かべるほど、語の「新しい使い方」に安々と甘んじるタイプではないだろう。そうだ、あれは、若い女性を指す言葉だ。だが、つい、「新しい」使い方をしたくなるほど、若々しくて美しい女性実業家がいると考えてみたまえ。君も知っているかもしれない。ミネルヴァ・クライザーと聞いて、君は彼女の顔を思い浮かべることができるだろうか。きっと知っているね。彼女は新聞のあらゆる面に出てくる。社交欄、経済欄、少し前には、事件を扱う下世話な欄でも――ハンカチに顔を埋めて泣く彼女の写真が載ったことがある。そう、彼女は有名な実業家であり篤志家であり運動家でもある。そして、同時に、故ヴィクター・クライザーの妻でもある。
 ミネルヴァはなにも、我が「嘆く独身者倶楽部」で最初の女性会員であるというわけではないし、最初に動物を同伴する会員になったわけでもない。彼女自身も「嘆く」ほうではない。ただ、彼女は、ここに、いつも同じ疑いを投げかけに来て、その疑問は解決のしようがないこと、そして解決しなくても現状、満足であることを確認して帰っていく。
 美しきミネルヴァ・クライザーはいつも、倶楽部には1匹の大きな美しい雄猫を伴ってやってくる。大きな、深い灰色の縞の毛の長い猫で、落ち着いた紳士な猫だ。誰かが不用意に頭など撫でようものなら、静かに立ち上がって、ゆったり、ただし断固として、床に降り立ち、別室へ消えてしまう。それに、この猫は美しいばかりではなく、実に耳に優しい声で鳴く。この猫の名はヨハン、あまりに様子が立派だから、我々はヨハン・ザ・ケーニヒと呼んでいるよ。だが、ミネルヴァは別の名前で呼ぶんだ。つまり、彼女の夫の名前、ヴィクターと、ミネルヴァはこの猫を呼ぶんだ。
「ここで私が話すことは、決して口外しないで。私の正気が担保されることはとても重要で、これが失われてしまったら職を失う人も援助を止められてしまう人もいるの。沢山の人のその日々の暮らしがかかっている――ええ。大丈夫よ、私も隠退の準備をしているわ、引退したら、後は何と言われても構わない。だから、今だけ――今だけは、黙っておいてね。」
 彼女は最近まではこう言って我々にこの猫のことを話すことを禁じていた。ところが、最近はそれを全く言わない。つまり、いくつかの事業からは手を引き、後任に任せたとは聞いている。だから、彼女の話を、もののわかった相手になら話していいのかもしれない。僕もこうして君に書き送ってみよう。
 君は数年前、まだ戦争中で空爆が続いた日々を覚えているかね。青暗い夜空を背景に瓦礫と化した建物の屋根が赤々と照らし出される、そんな夜が続いた。ヴィクター・クライザーは、その夜は演奏会の予定だった。復活祭を祝う春先の少しまだ肌寒い夜、人々はまさかこんな夜には敵方も何も仕掛けては来まいと、めかし込んで演奏会に出かけた。そして、大勢がひしめいていた劇場に警報が鳴り響き、控室で精神統一をはかっていたヴィクター・クライザーは、その控室ごと爆撃を受けた。瓦礫の下に三日三晩、しかし、ようやく控室が掘り出された時、ヴィクター・クライザーは、見つからなかった。身体の一部も、髪の一房も、何も、だ。ただ、奇跡的に折り重なった柱の下に、彼の魂とも言える楽器が、ケースのまま、鎮座していた。黒い革の、丈夫なケースではあるけれども、かなり歪んでいた。奇跡的に中身は護られたものの、ケース自体はもう、ケースとしての役割は果たせない。もしもほんの少し柱の重なりにズレがあったら確実に潰されていただろう。ところで、この名器、ストラディバリウス・ラニマ(Stradivarius 'L'Anima' 、1712)というらしいんだが、クライザーは生前これをラニマ・ミネルヴァという名前で呼び習わしていたらしい。そして、潰れた控室は、防音のために半地下になった空間にあった。劇場が崩れ落ちた時、このラニマ・ミネルヴァは、たしかにそこにあった。しかし、クライザーは、影も形もなかった。この最愛のラニマを置いて、どこへいってしまったのだろう、あるいは、亡くなっていたとしたら、その遺体はどこへ行ったのだろう?
 爆撃から後の三日間、人々は必死に瓦礫の間を歩き回って親しい者でも見知らぬ者でも、助け出せる者は誰も助けた。痛ましいことになった身体も、可能な限りその場から、しかるべき場所へ移し、そして名前も、控えるように最大限の努力はした。だが、かの有名なヴィクター・クライザーの姿はみられていなかったし、それ以降も故人として扱われている。
「…あの時、本当にラニマ以外の場所はことごとく潰されていて…奇跡的に、ラニマの挟まれた隙間だけ、まるで教会の壁龕のように護られていて…黒いケースが少しひしゃげて、ただ、割れ目から完全なラニマが見えたの。それでも、もう、楽器としては駄目かもしれない…そう思った時に、聞こえたの。悲痛な叫びと、豊かな反響が…いいえ、ピィとかミィとか、甲高い、ちょっと耳障りな――ああ、ごめんなさいねヴィクター、でも、貴方は本当に小さい仔猫だったから。目も開かない――どこから、来たのかしら。」
それは、ラニマのケースのネックを支える部分の、僅かな隙間から響いていた。僅かな隙間に、灰色の塊が蠢いているのを見た時のことを、ミネルヴァはこんな風に話してくれたよ。
「ねずみだ!楽器は齧られて、もう終わりだ!ヴィクターが見つかったら、どんなに深い絶望と悲しみに襲われるだろう。見つかったら――無事だったら。怪我をしている可能性だってある、あるいは、もう楽器を弾けない体になっているかもしれない。ラニマが傷付いていたら、もう二度と、それを弾くための情熱は目覚めないだろう、どうか、どうか――私は半ば憎しみに駆られて、猛然とケースを壁龕から引き摺り出し、ケースの鍵を開け、ラニマを取り出したの。瓦礫の只中で、膝を付いて、ラニマを抱き抱えて――その途端、緊張が最高潮に達したのかしら、あるいは、見たところ楽器に傷がなさそうだったからかしら、泣き出してしまったわ。少しして、一緒に来ていた秘書が、気まずかったのでしょうね、仕事はできるけれど感情表現は苦手な人だから。それが、ケースの生き物に近づいて。『おやおやおや!どこから入ったんでしょうね!』と言うの。それから、何かをつまみ上げて、とはいえ、慎重によ。そして、真っ白いハンカチにそれを乗せて。優しく語りかけて、ええ、赤ちゃん言葉よ。
『かわいいにゃんでちゅねぇ、ママしゃんはどこでちょうねぇ?』
瓦礫、割れた楽器ケース、行方不明の夫。そこへたどり着くまでに、何人もの犠牲者や、泣き崩れる人たちをみてきたの。今、この眼鏡の秘書は、瓦礫の中で赤ちゃん言葉で何かに話しかけている――私は、呆気にとられ、その様子がいつもとあまりに違うのもあって――笑い出してしまったの。ああ、いっちゃダメよ、あの人、お堅いのが売りなんだから。言いふらしてはいけないわ。」
おや、僕はここは書くべきではなかったかもしれない。だが、ミネルヴァの秘書は異例の経歴の持ち主でね、獣医を目指して勉強し、国家資格にも合格したらしいんだが、患畜が救えなかった時に号泣する学生として名を馳せ、結局その道には進まなかった。しかし、何らかの保護活動を通じてミネルヴァに出会い、すぐに秘書になったそうだ。だが、話が逸れてしまったね。
 ミネルヴァは、実は、この猫ヨハンを育ててはいないんだ。ほら、一時期、新聞では彼女のことを悲劇の妻といったような扱いをしながら、追加でちらりと夫はあるいは若い秘密の恋人と逃亡したのではないかとか、底意地の悪いことも書いていただろう?ちょうどその時分だった。
 猫は発見されてからしばらくの間、秘書、名前は何だったかな、フランシスだった気がする、この秘書が、忙しい仕事の傍ら、ずっと面倒を見ていた。近所の猫おばさんの力も借りてね。(世の中にはいつも、猫は人類よりも崇高な存在であると信じている方がいらっしゃるからね。)とにかく、それで、ヨハン・ザ・ケーニヒは大事に幼猫期を昼間は大勢の先輩猫と、夕刻はきちんと片付いた家で独り身の秘書と夕食を摂り、夜は彼用に用意されたクッションで眠る、そんな規則正しい生活を送っていたそうだ。猫がそんな大人の人間のような生活を送れるだろうか。人間の子供にだって、時おり難しそうに思えるのに。
 とにかく、半年やそこいらは、ミネルヴァ・クライザーは仕事に没頭することでつらい現実から少しでも気持ちを引き剥がし、生きることに集中した。ミネルヴァはしかし、どこかで――どこかで、夫は死んでいないと信じていたようだ。
「…夫が、意地悪な新聞が根拠もなく書き立てたような事情で、つまり、若くても若くなくてもいいけれど、愛人と逃げたというなら、それはそれでいいの。生きているのだし――でも、愛人は、無理なのよ、強いて言うならラニマが彼の愛人だったわ。私はそれが好きだった。それで、ある時、どうしても彼の声が聞きたくなって。声か、演奏か、その息遣いか――それで、レコードで、バッハの無伴奏をかけたの。そうしたら、フランシスが、立ち止まって。奇妙な顔をするの。どうしたのって、私が聞いたら――『今の、ああ、ほらまた…タータタタータータータタータター、ここ!』と、フランシスが言うの。これは無伴奏チェロ組曲の6番なのだけど。ふだん、音楽はあまり聴かないというフランシスが正確にその音を繰り返すので、私は沈鬱な気持ちが吹き飛んで、なんだか嬉しくなってしまって、こう言ったの。 
『夫の演奏を好きでいてくれてうれしいわ。』
でも、フランシスは、奇妙な顔をして言うの。
『ああ、いえ、残念ながらわたくしの家にはレコードすら置いていないのです。猫や梟やハリネズミと住んでおりますので。それで、今のは、わたくしがお預かりしているあなたの猫、ヨハンですが、時々こうやって歌うのです。このフレーズはお気に入りのようでして、朝、窓から小鳥を眺めながら歌っています。もしかしたら、昼間に預けている猫おばさ…いえ、猫飼い夫人の家でも、ヴィクターさんのレコードをかけているのかもしれませんね。』
『猫は歌うものなの?』
『そうですね…歌う猫は何匹かは知り合いにいますが、普通、歌うように聞こえるのが1小節2小節くらいです。だから、彼は天才だと思いますよ。私にこのフレーズを知らぬ間に覚えさせてしまいました。正確に、ただし何気なく、鼻歌のように歌うんです。ヨハンは天才猫です。』
フランシスは、嬉しそうに自分が『預かっている』猫の話をしたわ。奇妙ね。そして、もっと奇妙なことに、私は、久しぶりに、ずっと感じていなかった感覚、安らぎを、何故かこの猫の話をしている時に感じたの。それに、僅かな、なんというのかしらね、この感覚――嬉しいような不安なような少し胸が疼くような。きっと、ときめきね。それを感じたの。それで、私はこう言った。
『フランシス、私、ヨハンに会わなくてはならないわ。』
翌日には、ヨハンを連れてきてもらった。それ以来、仕事以外はずっと一緒よ。フランシスは少しさみしそうだけど、他の動物が彼にはいる。私にはこの、ヨハン・クライザーしかいないの。」
そう言ってミネルヴァは、傍らに優雅に身を伸ばしたヨハンの頭を撫でた。彼は満足そうに喉を鳴らした。
 と、ここまでが、少し前にミネルヴァ・クライザーに会ったときに聞いた話だよ。彼女は、その時点では、こう信じていた。この猫は、夫ヴィクター・クライザーである。だが、同時に考えていた。そんなわけはない、と。ただ、雰囲気が夫に似た猫がいれば、少し、安らぐだけだろう。ヴィクター氏も、ヨハンのように少し癖のある、豊かな頭髪を――彼の年齢じゃ珍しい――ああいう風に左右になびかせていたのは、君も新聞で知っているだろう。
 それで、どこまで書いたかな、ああ、昨日、いや、一昨日だ。大した変わりはないが、一昨日に再び、ミネルヴァ・クライザーに倶楽部で会ったんだ。いつもの通り彼女は美しく活動的で、ただ、少し、疲れていた。いや、焦燥していたと言ってもいいかもしれない。一方のヨハン・ザ・ケーニヒは相変わらず堂に入った優雅な振る舞いで、倶楽部の長椅子に身を伸ばし、その傍らにミネルヴァがいる感じだった。そして、その隣には、見慣れない、ミネルヴァと同じくらいの年齢の男性がいた。男性は、倶楽部の雰囲気に少し落ち着かなそうな様子だったが、それでもミネルヴァを慰めるように語っていた。
「大丈夫です、魂柱もずれていないし、ニスにも傷ひとつ付いていない。音は完璧です。」
「でも、倒れたのよ…あれだけ繊細な楽器が…」
「しかし、倒れても気づかなかったと言うことは、音もしなかったのでしょう?猫用クッションが立派だったおかげですな。大丈夫、弦が切れたのも、きっと…」
ここで、ミネルヴァはずっと撫でていたヨハンの頭の、耳の上で手を止めて、耳を倒す。そして、小声で言う。
「A弦は、やはりヨハンが齧ったのかしら?」
彼女が素早くそれだけ言ってしまうかしまわないうちに、ヨハンは頭を振って、耳を塞ぐ手から逃れる。そして、くるりと身を返して、軽く両の掌でミネルヴァの手を捕まえ、ペロペロと何度か舐め、少し齧るような、それでいてかじらない動きをする。
「もう、ヴィ…ヨハン、駄目よ。」
それで、ヨハンはにゃあ、と応じるように言って身を起こす。それはとても耳に心地良い声で――僕にはまったく楽器のことは分からないのだが――たぶん、何かの弦楽器みたいな声なんだ。そんな声の猫にミネルヴァが語りかけると、時々、何といったか、誰かのエレジーとかなんとかいう曲の中の掛け合いのようなんだ。それで、ますますミネルヴァはヨハンがヴィクターであると思い込んでしまうのだろう。いや、話がずれたかな、とにかく、どうやら楽器の調整師らしい男性は、ミネルヴァの視線が彼に戻るのをじっくり待ってから、先程の質問に答える。
「弦ですからね…楽器に傷もないし、恐らく猫の歯で切れるものではないとは思います。切れた理由としては、おそらくは、古かったのだと思いますよ。私が張り替えたのも少し前のことでしたし、A弦は細いですから。」
「そう…ヴィクターなら…そろそろ張り替えをお願いした時期かもしれないわね…きっと…沢山弾いて、弦も傷んできていたでしょうし…」
ミネルヴァはそれで、ヴィクター氏がチェロを演奏しなかった期間に、彼が不在であった時間の経過を重ねたのだろう。暫く悲しそうな瞳を中空に泳がせ、そして、緩んだ涙腺を抑えるように口許へ手をやり、目を閉じ、息を吸いこむ。それから、ちらとヨハンに視線をやり、微笑み、手を伸ばして抱き上げる。ヨハンは大きな猫なので、ミネルヴァは少し苦労する。すると、ヨハンが立ち上がって、その膝へ自ら移る。
「本当に、立派な猫だ…それに賢い。」
調整師氏が言うと、ヨハンは彼をまっすぐ見上げて穏やかににゃあ、と言う。そして、そのまま数秒、彼の目を真っ直ぐ見上げる。その時には、調整師氏は軽く息を飲んだように見えたよ。
「もしかしたら…彼が、ラニマが転がらないように、クッションに転がしてあげたのかも知れないですね。」
調整師氏はそう言って、それから、我に返ったように言葉を止め、小さく頭を振り、居心地悪そうに座り直したよ。彼が、自分で口にした言葉を自分で否定するその素振りをしたのを、ミネルヴァは見ていなかったけれどね。
 だが、それにしたって、猫がいる部屋で、猫のクッションの傍らにストラディバリウス・ラニマを置くなんて、僕なら到底できない。だって、どんなに行儀が良くて優雅でも、猫は猫なんだ。いや、あるいは、できる、かも知れない――僕なら、きっと、もしも猫がいなくなった天才チェリストだと思ったら、疑念なく置くんだろうな。だが、彼女は――疑念の塊なんだ。それを、ヨハンに悟られたくないんだ。だから、耳を覆って聞こえないようにしてから、ヨハンを猫として見ていることを認めるようなことを言ったと、僕は思うんだ。君が倶楽部にいたら何と言ったかな。
 ともかく、しばらくしてから、調整師氏はこう申し出たよ。
「ミネルヴァ、これは失礼を承知で言うのですが――しばらく、楽器を私が、お預かりいたしましょうか。弦もですが、全体に、しっかりと、調整し直して。待ちましょう。」
調整師氏が何を『待つ』つもりだったのかは分からないけれど、彼は――さりげなく、ミネルヴァの右手、つまり彼の側の手すりに置かれた手に、彼の手を重ねた。ミネルヴァの、ヨハンの頭に置かれた左手が、ひくりと僅かに動き、彼女の目は動揺で中空をさまよった。調整師氏の顔を驚いたような、しかし笑顔で、まじまじと見つめた。
「…ええ…そうね…」
ミネルヴァは、そして、静かにこう言った。
「待つ…お願いするわ。」
それから、さりげなく調整師氏の手の下から自分の手を引き抜いて、膝の上のヨハンを抱き上げて、頬ずりして、小さい声でこう囁いた。
「あなたも、弾けない楽器を毎日見ているのはつらいでしょうから…」
それでヨハンは、にゃー、とも、むー、ともつかない声で答え、額をミネルヴァの首に擦り付けた。ミネルヴァの目は最後まで、これが1匹の立派な猫なのか、それとも行方不明の夫なのか、迷っていた。迷いながらも、言葉は、これは夫であると宣言していた。調整師氏にその言葉が聞こえたのかどうかはわからない。けれども、僕は「満足せる愚か者」だからね。どちらでもいいのなら、ありえない方を選んでおくよ。ハムレッティ、君はこのヨハン・ザ・ケーニヒは、どちらだと思うかい?それから、僕はこの調整師氏を倶楽部員に加えたいんだが、どう誘えばいいと思うかい?
 返事は紙で送らないで、こっちに来ておしえてくれてもいいんだよ。まあ、また、何か書き送るよ。

​――君の愚かなる友人、『 空欄 』より

​追伸
やあ、また僕だ!これを、一度は封を閉じた封筒を開いて追加するよ。先程、ミネルヴァと、黒騎士に倶楽部で出会ってね。ミネルヴァは迷いのない目をして、ヨハン・ザ・ケーニヒの呼び名を全面禁止にしたよ。ケーニヒ・ヴィクター・ヨハン、あるいはヴィクター・ヨハンと呼ぶように、だそうだ。そして、僕は黒騎士に叱られてしまったよ。
「馬鹿者。同じ名前の者が魚になろうが猫になろうが、同じだろうが。彼は魂より妻との時間を選んだ、それを妻に疑わせてどうする。」
ヨハン?はて。僕はそれなりに間抜けな顔をしていたんだろうな。黒騎士の呆れた顔ったら。とにかく、そうだよ、ヨハンと言えばヨハネ、別の読み方で行けばジョンじゃないか。トライトンに変身して人魚と結ばれた、『金魚とりのジョン』、我が倶楽部が誇る詩人と同じ名前じゃないか。何故思いつかなかったのだろう。君があの場に居てくれたら、こっそり教えてくれたに違いないんだが。

003. エコー女史

 やあ、ハムレッティ、素敵な提案をありがとう。君の屋敷へ遊びに行くというのは、とても心惹かれるね。しかし、僕は今は少し、出歩けなくてね。そうだな、君と倶楽部の連中以外には会えないんだ。そちらへ行けば、君のご家族がいるから――なに、ちょっと今は、誤解を与えずに交流できない気がするんだ。だから、そうだね、もう少し、待ってくれたら嬉しい。僕には、僕の課題があってね。もう、以前の渾名すら名乗れない。だが、なんとかするさ、いずれは、いずれはご挨拶に伺うよ。
 ところで、ヨハンは我々の間ではすっかりヴィクターで通るようになっているのだが、ミネルヴァは相変わらず、それを信じる、信じない間で行ったり来たり、まるで振り子のようだ。そう、あの振り子、以前、皆で博物館で見たろう、地球の自転の証明とかなんとか、説明書きがあった。君はあの時、この振り子は我々だと言った。どう地球が回ろうとも、結局、振り子は重力に惹かれている、ただじっとできないのだとかなんとか。愛情に満ちた様子で立派な猫を撫でながら、きっとそんなふうにミネルヴァは揺れ動いている。揺れていても、地球には引っ張られている。自転の中心に惹かれている――僕は、何を書いているんだろうね。まあ、いずれにせよ、僕もまた、似たようなものなんだ。だが、この話はいずれ君にあった時にしよう。
 そうそう、ミネルヴァと言えば、彼女の秘書、フランシスについてだが。フランシスは、僕の書き方が悪かったね、彼は男性だよ。すこし痩せ型の、眼鏡で真面目な印象の男性だ。獣医になろうと勉強して資格まで取ったのに、今はミネルヴァの秘書をしている。そして変わった小さめの生き物をたくさん飼っている。いずれも彼自身が集めたものではなく、運命的に押し付けられた面々だ。トカゲが数種類、非常に小型なネズミ、ハリネズミ、毛の生えた蜘蛛、猫みたいなキツネ、仲の悪い2羽のインコ、ナマケモノ。
 最後の生き物はナマケモノと言っても、我々のような有閑階級の紳士ではなくて、南米の、樹上性の生き物だ。こいつは日に数時間しか起きていなくて、体に苔が生えている。嘘じゃない、僕は彼の家で見たんだ。彼の家は簡単なフラットで単身者向きなんだが、そこに大きな鉢植えが数本運び込まれていて、そこをこのナマケモノという生き物は恐ろしげな鉤爪を使って、天井すれすれを移動して暮らしている。恐ろしげな鉤爪と書いたが、実際のところは恐ろしいのは鉤爪の見た目だけで、至って大人しい。鉤爪はハンガーに似ているし毛並は荒くて、寝ている時にはハンガーに吊るされたズタ袋のように見える。そして、ずっと寝ている。温和そうな生き物だ。他に印象深いのは、常に罵りあっている2羽のインコ、これは青いのと、白っぽくてトサカのような羽があるものだ。実際に仲が悪いのかは分からない、だが、実に様々な言語で悪態を付き合うので、聞いていて飽きない。君もぜひ聞くべきだと思うよ、ハムレッティ。
 では、このフランシスは我らが『満足せる愚か者の会』の会員なのかと言えば、答えはノーだ。彼は仕事にもこの奇妙な家庭にも満足している。彼のように若い男が動物だらけの部屋と秘書という慎ましい仕事に満足しているのも、野心家がもてはやされる昨今の風潮からしたら愚かなのかもしれないが、やはり、まったく満足している。そして、こういった全き満足は、満足せる愚か者には縁のないものなので、彼は会員にはなれないし、なろうとも思わないだろう。フランシスは賢明だ。彼には「ちいさい友人たち」がいれば十分で、いつかたまたま運よく同じ傾向の、同じように変わった人物に巡り合えば、特に疑問もなくくっついて今までと似た、ただお互いに気にかけるべき生き物が増えただけの生活を始めるのではないかと思う。それはきっと、とても、幸福な在り方である筈だ。
 では、何故僕がこのフランシスについて長々と書いているかだ。羨ましいというのもあるんだが、そればかりが理由ではない。この全き満足の中にいるフランシスに対して、全く満足していない人物がひとりいる。ナマケモノ、この珍しい生き物を彼に贈った人物だ。彼女を、仮に、エコー女史としておこうか。全き満足のなかにいて彼女を必要としない男を慕っているからね。
 エコー女史は大学の教授だ。上品に結った髪は半分グレーで、痩せた笑顔の横顔には、頬と目元に智慧と年齢が刻まれている。エコー女史は、かつてさる経済学の有名な教授の取り巻きの一人だった。それが、教授は引退し、取り巻きの数人は戦死したので、今では一番優秀だった彼女が教授になっている。フランシスとはミネルヴァを通じて出会ったそうで、エコー女史はフランシスよりはミネルヴァの年齢に近い。まあ、これ以上書いてはあれこれと不都合だからやめておくが、フランシスとは釣り合いが取れない。エコー女史の年齢がというよりは、エコー女史の住んでいる世界の方が、ずっと華やかだからだ。
 実を言えば、僕はこのエコー女史のことがあまり好きではない。どこか底知れないんだ、とはいえ、神秘的な意味でではない。もっと、こう、政治や権力の臭いがする、そういう底のしれなさがある。それはおそらくは実際、彼女が権力や資本といったものと強く結びついているからで、政府の明らかにしていない、けれど極めて実際的な組織――スパイとか、そういった類の組織と関係があるとも聞く。言うまでもないことだが、植民地というものが消えた今でも、他国内政に干渉しうる方法を政府は探している。そして、「経済」はその手段になりうるらしい。確かに、金の動く仕組みは、ロマンチックさを徹底排除した、現代の魔術のようだからね。言外に、『強欲は美徳』とする仕組みがある世界に僕らは生きている。そして、それを否定してしまえば、僕も君も明日食うものにも困るんだが。あまり気持ちのよい話じゃないね。
 いずれにせよ、エコー女史自身は、美しくて知的な女性だ。時々、ミネルヴァと共に「嘆く独身者倶楽部」にやってきては、日差しのよく入る温室で優雅なお茶会をしている。お茶会とはいえ、話題はもっぱら、政治や文化のことだ。彼女自身が学者なので、それは当然と言えば当然かもしれない。フランシスはこの「お茶会」へはめったに顔を出さないし、時おり所用で訪れても、自分が「引き取った」ナマケモノの近況、つまり、元気ですよ、の一言くらいしか報告することはない。エコー女史は、ナマケモノについてそれ以上の質問を思いつけないで、フランシスの若干驚いた顔を笑顔で見つけて、小さく、そう、とか、それはいいわね、とか言いながらフランシスの次の言葉を待つ。だが、フランシスは、相手がナマケモノの息災を知って満足した判断する。起きている時間帯、便をしに地上に降りるタイミング、食事内容などは、きっと彼女が欲しい情報ではない。微笑んで小さく会釈をし、ミネルヴァに用件を話し始める。エコー女史は、それで、数秒彼の横顔を見続けてから、溜息をついて視線を離し、ヴィクターを撫でようとして、すり抜けられる。
 エコー教授はフランシスにナマケモノを贈りはしたが、ナマケモノをはじめとして、動物一般に興味がない。だから、フランシスに対してナマケモノについて話したくても、ナマケモノの知識がないので、フランシスが説明してくれるのを待つしかない。彼女は、よくこの手を使う。相手に説明させるのだ。にっこり微笑んで無知なふりをしていれば、たいていの男は、どういうわけか、「無知な」女性に教えたがる。とはいえ、大抵の場合、エコー女史がやってきたことは、この「教える」を利用して、相手の知識量を測り、さらに自分の専門外だった細かい情報を収集することらしいのだが。彼女自身はそして、自分で学んだ事よりも相手から得られそうな情報が多いか少ないかを測り、有利な方を選ぶ。そういった意味では、エコー女史は、過小評価されがちな女性という立場を上手く利用できた数少ない女性の一人なのだろう。
 ところが、フランシスにはエコー女史の知っているこの習性がない。フランシスは、エコー女史がナマケモノの生態には興味がないことを把握している。もしも彼女がナマケモノについて興味があるのであれば、ナマケモノを彼に贈らないで、自ら飼ったはずだ。あるいは、動物園に飼ってもらって時々訪ねることもできる。それなのに、家に訪ねていくことも難しい個人に贈った。それで、フランシスはエコー女史とナマケモノの関係を極めて薄いものと判断し、興味のない相手に長々とナマケモノについて語らない。それは迷惑になるからだ。
 ところで、そもそも、エコー女史が何故ナマケモノという珍しい生き物と関わり合いになったかというところなのだが。簡単な話で、エコー女史がナマケモノの住む土地を、地政経済学的な意図を持って研究しているからだ。フランシスに贈ったナマケモノも、さる土地の力ある公人からの贈り物だったそうだ。だが、エコー女史にはナマケモノをはじめとする種々の珍獣に対する興味はない。動物園に寄贈してもよかったが、彼女は以前から好意をよせていたフランシスに、ミネルヴァ経由で贈った。
 フランシスは優秀だし真面目だが、動物好きな人間以外には面白みのない男だ。数カ国語を操り異国の経済やその利用可能性を冷徹に分析するエコー女史が、彼に何を見いだしているのか、僕にはさっぱり分からない。フランシスは愚鈍ではないが知的に派手で華やかというわけではないし、ましてや利用可能性なんてない。不可思議だよ。彼女はいつも、ミネルヴァが彼を呼ぶ必要があるように何かしら新しい申し出をしたり、さりげなく様子を聞いたりと、涙ぐましい。最近聞いたことには――彼女自身が、今まで興味を持ったことのなかった、コウモリを飼い始めたということだ。
 これは、彼女の知り合いの研究対象であるところの人々が、食用に獲ったものだということだ。その不思議な生き物をフランシスに贈らずに、自ら飼育する――とはいえ、ほとんどの世話はメイドがしているそうだが――それにしても、飼うこと自体が驚きだ。メイドへの追加の手当てから、生態観察に使う時間まで、相当な負担であるはずだ。だが、彼女は、それを気に入っているらしい。
 ハムレッティ、君はどう思うだろうか。あるいは、こう考えるだろうか、このコウモリ――実は、温室に連れてきたものを見せてもらったんだが、とても可愛らしい。可愛いからいいではないかと。そうなんだ、可愛いんだ。コウモリと言えば黒いものだと思うだろう?ところが、意外なことに、この小さなコウモリは全身が白と黄色で、小さくて、すこし心細そうに震えている。震えていることのほかは、そうだな、小さなバナナのようだ。ところが、餌はバナナでないらしい!このコウモリの主食は、同じ熱帯雨林になる、特別なイチジクだけらしいんだ。コウモリがイチジクしか食べないなんて、実に奇妙だが。それで、なんとエコー女史は、派遣先からこのイチジクも大量に箱に詰めて持ち帰った。そして――盗み聞きをしたわけではないが、たまたま温室で耳にしたんだが、このイチジクの木を、丸ごと輸入する手配をしたそうだ。王立庭園に大きな熱帯植物温室があるだろう、あそこに、くだんの国からの「友好の贈り物」として、何本か「寄贈」させるんだそうだ。1匹のコウモリへの深い愛情が二国間の結び付きを強固にしたわけだが――コウモリを森へ還しはしないのだね。まあ、可愛らしい生き物ではあるからな。これに魅せられることで、彼女も自らの中のフランシス性を高めて、フランシスを手に入れる代わりに彼の目を通して世界を観ようとしているのかもしれない。それは純粋なるフランシス性ではないかもしれないが。
 まあ、ああいった偏愛も多少は必要だろうね、彼女の立場では――彼女が提言すれば、こんなコウモリの住む熱帯雨林も、切り開かれてなくなりかねない。しかし、フランシス性とはね。我ながら奇妙な発想だが、小さな生き物をこよなく愛し、寄り添い、それ以上の要求を世界に対してしないこと、そんな、彼女が属する世界の掟とは真逆なあり方だ。それを、彼女は小さな寄る辺ないコウモリを通して、手に入れようとしているのかもしれない。何か別の偏愛が発生している気がしないでもないが。温室のイチジクは、1匹の小さなコウモリ生存以上のものだ。いやーーそこにいるべき虫やアレコレがないと、必要以下にならないか?僕は少し、あの白い生き物が心配になってきた。
 世界に満足する、満ち足りる。彼女は、自分はそんな人物ではないことは知っているだろう、だが、フランシスがそういう人物であることも知っている。そして、願わくば、フランシス性は世界平和にとってはこの上なく重要なのだから、どうか彼女がその充足した世界を知ることができますように。
 人は、手に入らない存在を諦められないとき、様々な奇妙な事をするね。僕は、彼女のやり方は奇妙ではあるが、今のところ、穏当で知的な範囲に収まっていると思う。それに、実は冒険的でもある。彼女が属する世界は貪欲な理が支配している。だから、彼女はコウモリを還さず、イチジクの樹を獲得し、コウモリを可愛がる。これは、彼女からすれば、フランシス性を体験する思考実験なのだ。いや、しかし、これもまた新たな「獲得」なのかな。いずれにせよ、危険ではある。
 君はどう思うかな。なんにせよ、あのコウモリはかわいいが、元はやはりバナナのように束になってぶら下がっているべきらしいんだ。震えているのは、さみしいからかもしれない。だからといって、仲間を「獲得」してやることいいのか、どうなのか。まあ、でも、それは僕の考えるべきことではないかもしれないね。また書くよ。

ーー君の愚かなる友人、『 空欄 』より

追伸
温室で大きな猫と、白いコウモリの入った鳥籠を並べたレディ達を見るとーー我々はやはり、『満足せる愚か者』だとつくづく思うね。そう、満足しようと必死な、愚か者なんだ。そして、愚か者であるという事はよく分かっている。その自覚ののち、我々は痛みや諦念と共に微笑むのだと思う。いやーーその痛みこそ、もっとも愛おしいものであるかもしれないが。

004. 給仕 アルマン・カサネル

 やあ、ハムレッティ。ご心配をありがとう、大げさに書いてしまったね、大丈夫、僕は至って健康だ。ただ、すこし、何と言うかな、不具合が残っていてね。大丈夫、そこも何とかしている最中だ。心配には及ばない。ただ、なんというか、少し時間をくれないか。君に不具合は見せたくない。そんな、倶楽部の目的から逸れた「嘆き」なんて君も聞きたくないだろう。ところで――先日、なんというか、僕にとっては強烈な「嘆き」を聞いたんだ。本当に、なんというか、僕は――この程度の不調子を嘆いてはいけない。それはこんな馬鹿げたやり取り切っ掛けに始まったんだ。
「お前な、いくら飲み過ぎたと言っても俺の隠し部屋では寝るな。」
 僕に苦笑しながら語りかけたのは『黒騎士』だ。
「いや、あなたの部屋なんて知りませんでしたよ。探し物をしていて、あちこちいじっていたら、隠し扉があったんで、つい。ずるいですよ、あなたにだけ自分専用の部屋があるなんて。」
 そう、僕は『黒騎士』の隠し部屋を発見したんだ。飲み過ぎて記憶が曖昧だが、古今東西の珍品が壁中に飾ってあった。金色の虎の香炉や、伝説の一角獣の角らしきものなんかだ。どういうわけか、翌日はその部屋の床で目が覚めた。黒騎士が驚き呆れながら、僕の頬を何か――鞣した蛙の革のようなもので叩いて起こしたんだ。あれはなんだったんだろう、今思い出した。後で聞いておくよ。とにかく、黒騎士は、こう言った。
「主宰権限だ。だいたい、何を探してたんだ。」
「ハムレッティのお父さんが隠したという帽子です。」
「あれは俺のところにはない。二度と入るなよ、そして、場所の事も他言無用だ。誰かに言ったら、俺の恋人を差し向けるからな。」
『黒騎士』の恋人は死神だから、僕は二度と立ち入らない、と宣誓した。そして、その宣誓はソファから立ち上がってしたもので、通りすがりの給仕に、たまたま運悪く、僕が勢いよく振り上げた手が当たった。凄まじい音を立てて、彼が持っていた銀の盆が宙を舞い、食器が飛び散った。給仕は、流麗な外国語で悪態をついた。それで僕は、咄嗟に謝ったんだ。
「すまない、見えなかったんだ。」
「ふざけんな、お前らはいつも見てない。なんにも、なにみてないじゃないか。ええクソ、どうせ今日が最後だ。もううんざりだ。俺はあんたらの『嘆き』をここ5年ほど聞いてきただけの給仕だ。今日で辞める。あいつが――そうだ、俺より若いアイツが逃げたもんでな。そう、俺のせいだーいや、俺のせいじゃない。くそ、そうだ、どうせあんた達は俺達のことなんかなんにも見ちゃいない。」
彼がそう言う間中、僕らは驚いて彼を見上げていた。見上げて、というのは、僕は振り上げてぶつけた手のやり場に困ってその場に立ち尽くしていたんだが――他に、『お人好しのロバート』と『三度目のレノア』がいたからで、それに、通りがかりに僕に苦言を呈していたところの『黒騎士』も興味を惹かれたらしく、空いていたソファに黙って腰をおろした。
「見ちゃいないって言われても――だって…」
僕は給仕の告発に何か不穏なものを感じたので、つい反論する。ついで、幽霊の『三度目のレノア』が、かそけき声で告げる。
(わらわは見ておったぞ、美しき不具の給仕よ――そなたは見目よいでのう――)
それを聞いたのか聞いていないのか、給仕は僕と半透明のレノアを睨みつけて、溜息をつき、銀の盆を拾い、ついで、砕けた皿の欠片を拾い始める。そして、呟くようにいう。
「ああ、見てないならそれでもいい――見られないのも俺達のプライドのうちだ。だが、見ておくべき給仕がいたんだ。ずっと、俺よりもずっと、一見に値する給仕がいた。真面目で、仕事がよくできて、俺はそいつが好きだった。」
苦々しいような、吐き出すような彼の呟きを、レノアが嬉しそうに言葉尻を捉えて言った。
(ほう、好き、とな――)
僕は、少しぎょっとした。この半透明の物憂げな女性は、どこか嬉しそうだった。ほとんど透けた頬が心持ち持ち上がっている。
 僕は特段、彼女と仲がいいわけじゃないんだ。この時はたまたま、共通の知り合い、『お人好しのロバート』と彼女がいたからそこにいただけで、僕は、彼女のこの、楽しんでいるような調子が好きにはなれなかった。いや、どうだろう、僕自身ももしかしたら、少しだけ、楽しんでいたのかもしれないが――それは、正しいことじゃないように思う。とにかく、その時は、あまりの申し訳なさから、一緒に皿の欠片や潰れた食べ残しのケーキを拾い始めた。そしてやっと、彼の横顔をみた。撫でつけた黒い髪、秀でた眉と鼻の線、頬と唇を隔てるほうれい線。そして、時々、何か、指先で空をつかむ。そして、少し手前から、もう一度指先で何度か床をたたきながら進め、皿にたどり着き、つかむ。その様子を奇妙に思った僕が彼を見つめていると、気付いた彼は不愉快そうに手を振って僕を追い払った。僕は、立ち上がってもソファへ戻ることもできずに、居心地悪く立ち尽くして、手近なポットの蓋を拾った。
「すみません、あちこち飛ばしてしまって。」
給仕は皿の欠片を手に立ち上がると、僕のほうを無表情にちらりと見る。そして、半歩足を進めて僕が差し出した蓋を受け取り、また足を戻していう。
「片目が、見えないんだ。戦前は俺は玉突き師だった。腕はよくて、国じゃちょっとした――いや。戦争で左の視力を失ってな。片目じゃ、距離が測れない。ずっとビリヤード台で生きてきた、他にはなんにもない――だが、姿勢は良いし、計算高いからな。ここに世話になっている間は、これでも真面目に働いたんだ。
 そんな時、可愛らしい若いのがいた。よくいる真面目なタイプで――そのくせ、どこにもいない、すこし変わった、賢い奴だった。かつての俺のように、社会という無慈悲な独裁者に対して誠実にあろうとし、変わり者とされてもあまり気にしてなかった――少なくとも、そんなように見えた。誰にも見られない、目立たない事が美徳の仕事だ。俺とは違う国から来た奴だった。寂しかったのかもしれない。だから、俺に構ったのかもしれない。
 別に彼を壊すつもりはなかったんだが、結果的に俺は壊した――とはいえ、関係を、だ。手を伸ばしてはいけなかった。もう少し、丈夫だと思ったんだ。本当は分かってる、カマトトぶってるだけだと思ったんだ。だが、そうじゃなかったのか、あるいは、ただ、うんざりしたんだろう。そうだな、うんざりしたんだ。そして、うんざりしても、それが許される時代だ。まあ、読みが外れただけだ。お互い幻滅で、だが、残念ながら損なわれるのは、こちらの世界ではない。こちらは、とうに、壊れた世界にいるのだから。それで、あちら側の世界が、壊れるか壊れないか、その直前までは見ていた。ああ、崩れるかもな――そう思ったら、もう崩れていた。だが、俺のせいじゃない。俺はそんなに重要じゃなかった筈だ。彼にとっちゃ、俺なんて、取るに足らなかった筈だ。俺は責任を引き受けられない、そこまで傲慢じゃない。最後に1グラム足しただけだ。塔が崩れる、いいじゃないか。あいつはずっと崩したかったんだ、それは恋愛じゃなかったかもしれない、真っ当な仕事の概念だったかもしれない。どっちでもいいんだ、結局、退屈からの解放を願ってたんだろうな。何か崩したくなきゃ、俺のとこになんか寄ってきやしなかった。俺を言い訳にするならそれもいいだろう、だけど、逃げたら欲しかったものは手に入らないんだ――ずっと。俺がやらかしたのは――距離感を見誤っただけだ。」
給仕氏は、はじめは皮肉な調子で、後には何かに弁解するように、語った。僕らは、誰もそれを止めなかった。むしろ、うっすらと罪悪感を感じながら、息を止めて聞き入った。それは、まるで犯罪を仄めかす自白のようでもあり、とはいえ、具体的な内容は何一つない。給仕氏は語り終えた時、『黒騎士』がゆっくりと尋ねた。
「――それは、君がビリヤードを教えていたあの若者か。」
「ほう、よくお気づきで――誰もいない、閉館時でのことだったのに。」
「俺はときどき、ここに泊まるんでね。君の盆をはね飛ばしたそこの間抜け君以外は、誰も知らない秘密の部屋がある。」
「へえ――秘密の部屋ね。そうか、知らなくて良かったよ。俺がやらかした夜――やらかせなくなっていたかもしれないし、もっとひどくやらかしていたかもしれない。まあ、いいさ。そうだ、俺はあんた達のためのプール台を使って、給仕の俺が、もう一人の給仕に、キューの持ち方、狙いの定めかた、足の位置まで教えた。ああ、手取り足取り、だ。彼の体に、その過程で触ったが――そういう触り方じゃなかった。だが、教えた。あちらはあちらで、ピアノの弾き方を教えてくれた。並んで座って――初歩から――いや、初歩で終わったが。俺は、見える片目で、ちらとその若々しい横顔を見るのが好きだった。下らない流行歌にいちいちコメントを挟む彼が好きだった。誤って鍵盤の上で手が触れた時、俺は聞いた――俺と関わるのは、面倒じゃないか、迷惑じゃないか。でも、彼は笑ってこう答えた。『何を言ってるんですか、お互いに得意な事を教えてる、楽しいじゃないですか。なんで迷惑になるんです。』違う、そうじゃない、俺はピアノなんてどうでもいいんだ。でも言えなかった。俺もあちらも、多分、異性の方が都合はいいんだ。どちらでもいいのは、俺だけだったのかもしれない。そして、彼じゃなくてもよかったのかもしれない。」
その時、あちらから若い給仕が、箒と塵取り持ってきた。片目の給仕、アルマン――後に調べた名前はアルマン・カサネル、亡命者だった――はそれを受け取りながら何か呟き、笑顔を交わし、箒を持ってきた若い給仕は、僕たちが彼に注目するので、少し奇妙な顔でアルマンに目で尋ねる。アルマンはこう言う。
「ああ、いいんだ。大丈夫だよ。盆を持っていってくれるかい、ありがとう。」
それで、若い給仕は一礼して、優雅に皿の残骸の乗った盆を持ち、姿勢よくあちらへ下がっていく。僕達はその背中を見送る。
「違う。彼じゃない。」
アルマンは、低い声でいう。
「今のは、関係ない新人だ。俺が話した彼は、1年くらい前に辞めた。今はどこで何をしているのか、しらん。」
それで、給仕のアルマン氏は、美しい姿勢を崩さずに箒と塵取りで撒き散らされた食べかすを、無言で集め始めた。僕は言葉を失ったままその姿勢と棒状の道具を扱う様子にかつての彼の姿が想像されるのに任せ、ロバートもレノアも黙り込んだままだった。とはいえ、ロバートは同情に満ちた目で彼を見つめており、レノアは何故か若干笑顔のようだったが、何も言わなかった。『黒騎士』も首を傾けて給仕を眺めるばかりだったので、僕がついに何か言おうとして――レノアに遮られる。
(では――お主を苦しめる相手はもうここにはおらぬ。それだのに、何故にここの給仕を辞すのだ?)
そのかそけき問いかけに、アルマン氏は顔を上げずに鼻で笑って答える。
「…へえ…なぜ関心が?」
(わらわは――その情念と苦悶に、わらわが生きなかった地平を見出したいのじゃ――)
「…どうだろうな、あんただって、大したことないと思ってた傷で長年悩んだといってたろう。似たようなもんさ。痛いんだ。」
(さよう、わらわは右脚の傷には長く――)
だが、レノアが語りだそうとするのを、片目の給仕はぴしゃりと止める。
「まあ、やっぱり、違うかもな。あんたの体の傷と俺の下らん失恋じゃ、質が違う。あんたは完全なる被害者だ。その傷は結局、階段を踏み外させ、死につながったんだろう。深刻だ。俺のは、深刻じゃない。ただ、かつては言葉をかわした、その同じ空間にいるとつらい、そんなおセンチな理由だ。わずかな期間に染み付いた思い出が、消えない。この箒だって、新人じゃなくて彼が持ってきたのだったらどんなによかったろうと思う。ピアノやビリヤード台の隣を通ると、彼の姿を思い出して、そこに重ねてしまう。この先ずっと、面影と筋違いな期待の気配がそこにわだかまる。そして、やはり、いつか俺は同じ馬鹿な言葉をかけて壊したんだろうと思う。何を考えてたんだ?気持ちが悪くないわけがないだろう、故郷から遠く離れた土地で、親子程も年齢の違う男に言い寄られたら。友人からおぞましい化け物への転身だ。俺が馬鹿だったんだ。」
そして、アルマンは、溜息をついて塵取りの中身を片方に寄せ、「話は終わりだ。雑巾を持ってくる。」と言って、あちらへ行ってしまった。
 暫くして、透明なレノアが品良く色気のある声で言う。
(――のう、黒騎士どの、彼は、残せないかのう――?)
「無理ですな、彼は嘆くよりは忘れたいといったご様子だ。それに、貴女の語りの楽しみ方は、少し――楽しみすぎではないかい?」
(――どうかのう――)
そんなやり取りを聞きながら、僕は、どういうわけだか足元に大きな穴があいたような気がして、どうにも立っていられなくなった。僕には理由がわからないよ。ハムレッティ、僕は、彼が今まで見知った仲でいちばん、真実に「嘆く」者だと思う。そして、僕は、例えば、アルマンという給仕のように、見方を変えれば、化け物であったりするんだろうか。とはいえ、君は――まあ、君は、今までどおり僕として見てくれるだろう。僕は、あのアルマンが哀れだと思う。だが、若い給仕も哀れだと思うし、アルマンがしたことは裏切りだと思う。そして――レノアが言った言葉が妙に引っかかっている。
(――その若い給仕とやらも、いずれ片目の給仕と同じ年齢になる。その時、どう感じるかじゃの――)
レノアは、やはり、楽しんでいた。幽霊になると、ああいう風に生者の煩悶も娯楽に見えるのだろうか?だが、君のお母さんだって幽霊だ。レノアのようでは、決してなかったと思うんだが。
いずれにせよ、僕は「三度目のレノア」とは距離を置くよ。

――君の愚かなる友人『 空欄 』より

追伸
僕はレノアについて、誤解していたようだ。彼女は不幸な女性で、2度、夫に先立たれ、3度目の夫は彼女の不貞を疑って心中を試みた。その時撃たれた傷で、彼女は長く足が悪かった。そして、階段で違う男に抱きつかれて転び、亡くなった。3度目の男だけ死ななかったので、「三度目のレノア」なのだそうだ。今では半透明になってしまい、その花の顔もはっきりとは見えないが、相当な美女であったらしい。そしてそれが呪いでもあった。ロバートから聞いたところでは、彼女は一度、こう言った事があるらしい。幽霊になってよかった、もう誰も、自分に欲望の眼差しを向けない、と。彼女は、ただ、自分が向けられていた種の眼差しでアルマンをみていただけなのかもしれない。アルマン・カサネルの行方は、もうわからない。僕は彼に聞いてみたいことがあったんだが。とはいえ、何をどうと言うと、うまく言えないんだが。アルマンは、僕らが彼らを見ていない、と言った。でも、アルマンも、僕をちゃんと見ていたか、疑問なんだ。彼にそれを求めるのも酷かもしれないんだが――彼が僕をもう少しよく見ていれば、彼は、僕にもう少し話をしてくれたかもしれないと思うんだ。

005. 雑誌スタンド店主ニコラスの話

 やあ、ハムレッティ。君が『三度目のレノア』とお知り合いだったとは驚きだよ。まさか、お母様の主宰していた『死せる貴婦人の読書会』のメンバーだとはね。どんな本を読むのだろう。
 そうそう、黒騎士の『秘密の部屋』に入った理由なんだが、君の父上が隠したという伝説の帽子を探していたんだ。それに、お馴染みだったワニの剥製もいつの間にか見当たらなくなっている。君は最後にどこで見たか、覚えていないかい?僕はそれがアリゲーターだったのかクロコダイルだったのかすらわからない。
 ところで、先日、黒騎士に叱られたと書いたろう。僕はしょっちゅう彼には小言を言われているよ。どうやら、ついに彼がこの倶楽部に入った年齢を超えたらしい。なのに、いつまで子供のままのつもりなんだ、と。まあ、そうだね、でも、僕は子供じゃない事も分かっているよ。あの頃の黒騎士が一等格好良くて、僕はどこかで、いまだにそれに憧れた子供のままだ。でも、そうじゃない部分だってあるさ。そう、僕だって「仕事」もしているんだ。格好良くはないけどね。
 黒騎士は最近では、時おりスパイ仲間も倶楽部に招待しては、面白い「嘆き」はないか探している。先日は、ニューススタンドの店主を演じながらスパイの伝達係をしている方が来たよ。その時、ちょうど僕は黒騎士とワニの剥製の行方について話していたんだ。
「俺は知らんぞ。ロメオが会長をやった時代があったろう、あの頃にどこかへ売り払ったんじゃないか。」
「ワニか、あれはそのうち取引禁止なるかもしれん。名目上、植民地時代が終わったからな。」
そう言っていたのは、黒騎士の元スパイ仲間で、ルイス氏と言う人物だ。彼は幸せな結婚をしているけれど、創作のために倶楽部員の「嘆き」を聞きに来ている。彼はSF作家だそうだ。
「どう関係するんですか。」
「お前、湖水地方のウサギを狩って持っていく奴らがいたらどう思う。」
「…我々も狩りならやったことはありませんか。」
「あれとは違う。」
ルイス氏はそれがどう違うのかを詳しくは解説してくれなかった。と、いうのも、そこにちょうど、『ルイスにひらめきの欠片を恵む会』という名の倶楽部内での分派のお客様が登場したからだ。
「ウサギ狩りは、私は可哀想だと思います。」
灰色の髭を短くそろえ、瞳はきらきらとした、簡素ななりの男性が立っていた。
「おお、ニコラスじゃないか。いつもの『作り話』をお聞かせ願えるかい」
「そうですなぁ、信じるか信じないかは、あなた次第――というのでしたら。最近、お友達が教えてくれた話をしましょうか。」
「どんな友達なんだ。」
「なに、時々、音楽の雑誌を買っていくお客さんです。最近有名な女性の歌い手さん、しりませんか。時々、ラジオでも歌うそうですね。私のスタンドは、聖堂と大学街の間の駅の前にあるんですが、あの界隈にお住まいのようです。
 それでね、彼女は屋根裏に一つ、大きな衣装箱を持っているそうなんです。そこには美しい女の幽霊が憑いている。彼女の幽霊は、そうですな、色ははっきりしないものの流れる巻き毛に細面の、若い色の白い女性、という事にしておきましょうか。そして、この幽霊には記憶がない。何故、この箱に憑いているのかも、自分がどこの誰であるのかもわからない。だからなのか、まあ、可哀想なことに、この幽霊は日々さめざめと泣いている。
『そんなに泣かないで。さあ、こちらへいらして。あなたの好きな詩集を読みましょうね。』
こんな感じで、彼女は語りかけるそうです。
 彼女は、この美しい女の幽霊をこの上ないほどに愛しているようでしてね。そりゃあもう、嬉しそうに話す。彼女が幽霊の箱を手に入れたとき、その箱は空だったが、今は山程の装飾品が詰め込まれている。最新流行のドレスや高価な首飾りや、レースの手袋や繊細な刺繍の肩掛け、それに有名画家の描いた静物画。彼女がそんな高価なものを次々に幽霊に贈れるのは、彼女の自身がそれを贈られる立場の人物だからでしょうねえ。
 ああ、推測はいけない、ファンの多い歌い手さんなんて、きっとホールごとにいますでしょう。特定は、できない。
 でもまあ、彼女は最初からそんな風ではなかった。焼け崩れた街で、焼け崩れた建物から、かつての誰かの持ち物だったものを盗んで生きていたそうです。それが…まあ、そうですな、様々な縁があって、有名になり、お金持ちになった…とでも言えばいいですかね。だけど、今でも、演じている気がする、恋の歌を歌っているのは女優で、自分は舞台の上でも劇場の外でも晩餐会でも――役を演じているに過ぎない。そう、彼女は言います。そして、何故、私にそれを話してくれるんですか、と、私は聞きました。彼女は、『あなたも演じているからよ。私は雑誌を買うだけのお客、あなたはその雑誌を売るだけの人。これは台詞――だけど、お互いに礼節と善意を持っているのだけは事実なの。それに、下心ない、ちょっぴりの、あからさまでない好奇心。人間って、本来は、そうあるべきだわ。』
 それで、私たちに挨拶はこうなんです。『こんにちは、いいお天気ですね。幽霊のお加減はいかがですか。』『まだ泣き虫なの、だけど、泣いている顔まで美しいのーー今日もお祈りを捧げてあげないとね。』それで、彼女は行きには雑誌を、帰りには花を買っていきます。だけどーー彼女は、その幽霊に恋しているんでしょうか、あるいは、亡くなったご身内の方なのでしょうか。そこまでは、はなしてくれませんねえ。」
 私は、彼が灰色のひげ面の上の目をくるくるとさせて記憶をたどるのを観察し、白の混ざる髪や穏やかな瞳が、誰かーー子供の頃のことを思い出させる大切な誰かに似ている、と考える。それで、そちらが気になって、彼の幽霊の話はいまいち頭に入って来なかった。だが、ルイス氏は興味を惹かれたらしい。眼鏡を額に乗せ、胸ポケットから引き出したメモ帳に万年筆で何か書き付けている。
「演じる女と演じない幽霊ーー身に着けられない贈り物、と。いつかどこかでは使えそうだ、ありがとう。ああーーええ、で、その歌手はなんだね、『嘆く独身者倶楽部』に相応しいと人物だと思うかね?」
黒騎士が口を開くより早くルイス氏が問いかけると、店主氏は優しく微笑む。
「いいえ。彼女は『嘆』いてはいない、満足しているように見えますからな。ところでーーこれは、別のお客さんの話なのですがーー」
スタンド店主氏は、そこで一度言葉を切る。そして、黒騎士、ルイス氏、そして、僕に、ゆっくりとひとりひとり、視線を送る。
「どんなお客だろうか?」
黒騎士が落ち着いた声で促す。
「いつも、目深に帽子をかぶっていらっしゃるんで、顔はわからないんですがーーいつも、新聞を買うお客さんです。
 私がスタンドを構えるQuadvalleysの駅の出入り口辺りに、背格好が似た方が、お二人、いらっしゃる。一人はたまに駅から上がってきて私のところで新聞を買い、聖堂の方へ渡っていく。気のいい方です、顔は見せないが声は明るい。聖堂の向こうには、オフィスビルもありますからな、どこへ向かうかはわからない。
 もう一人は反対側から、私の方へ渡ってくる。そして、階段を降るのか、そのまま鉄道の線路を見ながら渡れる鉄橋へ行くのか分かりません、そこの分かれ目は死角なのでーーそれにしても、私も、はじめは同じ人物かと思っていました。とはいえ、渡ってくる人物は、いつも素通りするだけですから、大抵見かけるのは横顔か後ろ姿だ。だから、気にもかけていませんでしたが。ええ、たくさんの方が通り過ぎますからね。」
「ふむ、Quadvalleysの駅か。」
「だから、彼はそこの人だと言ったろう」
「お前さんの情報はいつも本当とは限らんだろう」
「まあ、そうだな。」
見れば、ルイス氏と黒騎士は、目の前の卓のうえに煙草入れやライター並べて位置関係を整理している。ニコラス氏は、ルイス氏黒騎士の会話が落ち着くまで、2人を笑顔で見守っている。2人の会話が、今回は黒騎士の情報が本当だったという結論に落ち着くと、ニコラス氏は話を続ける。
「それで、ある時、その方が、聞くんです。先日、こういう人をみなかったか、本当に、そういう人がいたか、と。」
「ほう、どちらが聞くんだい。」
「駅から来て新聞を買う方です、こう、地下鉄から上がってきて、少し引き返して立ち止まり、物陰で小銭を引っ張り出してーー新聞を買っていく。帽子をちょっと上げて、こう、手で帽子にやった手で顔を半分隠して、微笑んでーーその人が何度か、そういう妙な事を聞くので、私は記録をつけ始めたんですよ。そうしたら、そうですね、しばらくはそういう人はいました。見かけるたびに髪型や帽子が違う、いつも横顔か後ろ姿しか見えませんでしたが、美しい若い人で、いい服を着ていました。一方で、訊ねる方は、そうですなーー少し、古そうな素材を着ている。勿論、品は良いんですが。」
そう言って店主は、僕の方をちらりと見て、優しく微笑んだ。少し焼けた頬に健康的なしわが刻まれる。だが、僕は、実はじっとりと汗をかいていた。
「ふーむ、彼が若い方とすれ違うのが階段だったら、『そこにいない男と出会った』って詩を思い出すな。」
ルイス氏が知的で皮肉ないつもの調子で言うので、僕は喜んでそれにとびつく。
「なんですか、それは?」
「なんだ、知らんのか。Antigonishという詩だ。

昨夜、階段でそこにいない男に出会った、
彼は今日もいなかった。
彼がどこか行ってくれるいいんだが。

Yesterday, upon the stair,
I met a man who wasn't there
He wasn't there again today
I wish, I wish he'd go away

もっと長かったんだが、全部は覚えてないな。だが、面白そうだ。これをもとに、もう少し壮大なテーマで書けそうだ。そうだな、何かの王族のような――ふむ、ファラオでどうだ。」
若干満足そうなルイス氏に、黒騎士が笑いながら言う。
「君はSF作家だろう」
ルイス氏は楽しそうに返し、冗談めかしていう。
「では、宇宙から来たファラオだな。世界を黄金で買い取る。」
「誰から」
「そうだな…では、宇宙から来たスフィンクスでどうだ。」
そこからは、ルイス氏の創作と黒騎士の考古学関係の冒険の話になるんだが。
 ハムレッティ、僕は、どうだろう。どう書けばいいのか分からないから、簡単に書こう。僕は、その、駅から上がってくる方の奴なんだ。あまり同情などしないでほしいのだが。僕は、そうだな、顔を半分ほど、駄目にしてね。とはいえ、アルマン・カサネルのように戦争で傷を負ったと言うわけじゃない、いや、間接的にはそうだがーー僕のは、ただの病気だ。大丈夫だ、ちゃんと手術を受けている、失地回復運動中だ。だから、心配はしないでくれ。済まない、面白い話を書きたかったんだが。だけど、ルイス氏がこの話を書いたら――世界をスフィンクスに売ったファラオが本にならなかったとしても――もし、スタンド店主が僕に送った視線で、彼や黒騎士が僕の話だと気付いて、気遣いから君に伝えてしまったらと思うとね。それは嫌だったんだ。また、このことについてはおいおい書くよ。

――君の愚かなる友人『 空欄 』より

追伸
君は疑問に思うかもしれない、雑誌スタンドの店主ニコラスは、なぜ、僕を目の前にいるのに、まるで他人の事のように僕の事を話したんだろう、そして、僕だけが知っていた話を黒騎士やルイス氏にしたのだろう、と。それは意地悪やたかりの予兆ではないんだ。彼はきちんとした、優しい人だ。僕が彼のスタンドの前に立つ時、いつも僕が買う新聞を一部引き出しておいてくれる。帽子の下を無理に覗き込まないし、たまに渡してくれる釣り札いつも綺麗に角まで伸びている。彼はそういう、気配りの人だ。だから、僕が思うに、彼は、きっかけくれたんだと思う。これは、きっと、ひとりで抱えていてはいけないんだろう。でも、僕は、ひとりで抱えていたい気もするんだが。まだ、大丈夫なんだ、楽しんでいるんだ。妙な事を言うね。おいおい書くよ。また、書くよ。

006. キャビネットの悪魔

​ やあ、ハムレッティ。しばらく経ってしまったね。済まない。いや、僕の話を長々と書いて君を退屈させるのも嫌で、かと言って書かないわけにもいかない。
 簡単な話で、僕は心労で病気をした。戦争や相続で家の財政が傾いてね。住み慣れた屋敷を離れて一人で金策に駆け回った。あまりうまくは行かなかった、思いつく限りのつてを辿って、時には意に沿わぬ仕事もした。それでも、あまりうまくはいかなくて、屋敷に戻った。それからしばらくして、僕は顔を失った。
 ある朝、起きた時に、目が乾いて痛かった。驚いてまばたきをした。まばたきは、できなかった。手で押さえて、右の瞼を閉じた。数日前から続いていた喉の痛みが、耳に移っていた。耳の奥に激痛と熱があり、そこから顔の神経に、菌が入ったようだ。その朝から、この顔は半分動かなくなり、神経は死滅した。筋肉が退化し、別人になった。必死に笑ったら、要らぬ方向へ神経が延び、笑顔も化け物のようになった。 
 実は、その少し前、思わぬ幸運で、僕の家は持ち直した。屋根裏で見付けた、先々代のコレクションしていた古い本に、とんでもない値段がついてね。だが、それと引き換えに、僕は何かを売り飛ばしてしまったんだ。顔だ。面子や体面じゃない、そんなものはとうになかったからね。現実的な、実際の、顔だ。
 僕が見付けた、数冊の恐ろしく値が張る本は、魔術とか、そういった類の本でね。鏡がついたキャビネットに入っていた。赤っぽい艷やかな仕上げのキャビネットで、前面に錆びた大きな鏡がある。そのキャビネットは鍵がけられるものではあった。だが、それは挿しっぱなしで、引き抜いてみると、鍵には、こう書いてあった。
『名乗れ、さすれば我来たらん』
僕は少し冗談めかして、古い渾名を名乗った。すると、鏡の中の僕がにやりと笑った。それは、自分で言うのも妙だが、見たこともないほど、美しい笑みだった。その笑みは、まるで他人のようで――艶笑とでもいうような、謎めいた、誘うような――ダ・ヴィンチの描いた、洗礼者ヨハネの笑みだ。僕はあんな顔はしていなかった。過去に一度だって、あんな美しくはなかった。そして、それは喋った。こんな感じだ。

​『呼んだね。』
「呼んでない。」
『では、帰ろう。』
「待て、金がいるんだ。」
『では、お前の魂と引き換えだ。』
「魂は高いよ。違うものにしてくれ。」
『では、寿命の半分。』
「それも高いよ。」
『では、お前の子供の幸福。』
「よせやい、その為の金だぞ。」
『では、お前の顔。』
「仕方ないな、でも半分だ。」
『いくらなんでも、値切り過ぎじゃないか。』
「嫌なら別を当たりなよ。」
『吝嗇な人間もいたものだ。』
「冗談じゃないよ、この顔だって使い道はあんだから。」

​こんな話は、僕が病でうなされた挙句に捏造した記憶かもしれない。だが、幸い、魂は売らずに済んだ。とはいえ、魂は、あるのかないのかは分からないし、あると信じたとしても、まだ見える範疇にはない。
 そして、僕は、実は今は、キャビネットの悪魔に売り渡した顔を切り刻んでいる。と、書くと物騒だね、いや、奪取された跡地を再開発している。麻酔下で、優秀で職務に誠実な医師の手で、正常に少しでも近付けようと画策している。これは、契約違反にあたるのかな。どうだろうね。だが、僕にとっては、失地回復運動みたいなものなんだ。あの悪魔め、僕が吝嗇なものか、はした金で人の顔を買えると思ったら大間違いだ。それで、僕は、「『わたし』と『あなた』」の間の地、他者と相まみえるための土地を、取り戻そうとしている。もう、愛想笑いや思わずこぼれた微笑みで、相手の顔が凍りつくのは嫌なんだ。赤子の愛らしさに微笑んだ数秒後に、青ざめた母親が我が子を抱き寄せるのをもう、見たくはない。その母親の気持ちがおおいに分かるからこそ、やはり、少し悲しくなる。
 ニコラス氏は、僕が最初の手術を受けてから、初めてまともに会話をした他人だ。他の人は大抵、目を逸らして、礼儀正しく、しかしなるべく早く会話を切り上げようとする。それは、仕方がない事なんだ。僕の唇は半分動かないので、話すと奇妙な動きをするし、笑うと、その頃はまだ神経を切っていなかったから、最初は見るに堪えないように歪んでいた。ニコラス氏は、僕の歪んだ笑顔にも顔色一つ変えなかった。もしかしたら、あそこは人が沢山通るから、戦争で僕よりも酷い目にあった人を沢山見てきたのかもしれないね。だけど、だからといって、僕が僕に同情してはいけない理由はない。僕は僕自身にだけ同情を求めるよ、だけど、ハムレッティ、君は同情しないでくれ。君らしく、大したことではないようにしてくれると、それが僕を傷付けないんだ。
 僕は、今までに三度、手術を受けた。視界を狭めるほどに下がった眉と瞼を上げ、笑うと奇妙な方向へ唇を引っ張る神経を切った。顔の半分の皮を剥がして、変な方向へ伸びてしまった神経を切るんだ。そう言うと、恐ろしく感じるだろうけど、実際のところ、僕の負担は少ない。大変なのは技術と集中力を惜しみなく注ぎ込んでくれた優秀な医療従事者の方々で、僕は寝ていただけだからね。楽なもんだ。そうするとね、僕は今度は、恥ずかしくてたまらなくなることもあるんだ。彼らは、戦場では戦争で傷ついた人々を救っていた。僕は、なにしろ、寝ていて顔を失ったのだ。
 それで――同情するなと言いながら長々と書いてしまったが――本題を避けようとして、無意識に同じような事を繰り返し書いてしまったかな。僕は、これもまた恥ずかしいんだ。覚えているかな、先日書き送った、『Antigonish』の話――実際は階段じゃないんだが――そこにいない人物に出会うんだ。
 唐突に、本当に唐突にその人は、僕の通勤経路を歩いてきて、すれ違ったのだ。はじめは、それが、キャビネットの悪魔かなと思った。あいつ、人間の顔なんて、いったい何に使うつもりだろうと思っていたからね。――あいつは、それを僕の予想外の使い方をした。人間に移した、のだと思う。あるいは、存在しない人間を造ったんだろう。
 僕が最初に目を留めた時、その人は、まるでうんざりした時のように、いや、敬虔な少女が助けを求めるように――目で天を仰ぐような表情をした。僕は、それが、なんとも言えず可愛らしいと思った。帽子を被らない明るい金の髪に薄い青緑の襟巻きという、その辺りではなかなか見かけない格好をしていた。それは、最後にキャビネットで見た僕に似ていた。ただし、全く似ていなかった。その人物はかつて僕がそうあったなど微塵もないほど美しく、性別すら判然としなかった。だけど、きっと、女性だったのだろう。
 ハムレッティ、君がかつて僕をそう呼んだように、僕はいつまでも本来女性が演じる男児役の名前で呼ばれ続けただけあって――格好いい大人の男、映画スターのような、黒騎士のような男ではないが、いい年齢になるまでずっと、可愛らしかったとは思う。しかし、あんな風ではなかった。一度も、あんなに美しくも可愛らしくも妖艶でもなかった――すれ違う人すべてが振り返らない事が不思議なくらいに、魅力的な姿ではなかった。もしもダンテがヴェアトリーチェとすれ違っても、おそらく振り返る事しかできなかったろう。僕もそうだった。僕は、悪魔にからかわれたのだと思った。顔を半分しか寄越さない吝嗇な人間に、奴が残り半分を加えて美しくしたのだ、と。
 しばらく、その人を繰り返し見たんだ。でも、見かけるたびに少しずつ印象が変わる。髪の色や、体格、服装。そして、最近は見ない。僕は、その人を嫌悪すべきだったのだと思う。だが、愚かなことに、おそらくは、恋をしていた。そのくらい、眩惑され、すれ違い、黙殺され、死にたくなる、その数秒を愛していた。
 僕には、その人がキャビネットの悪魔だったのか、悪魔が作った幻影か、ただの通行人だったのか、妄想だったのかすら――ニコラス氏も見ているのなら、そうではなかったのかもしれないが――わからない。ただ、あの頃、なんというか、僕は、まるで――その人物の、戯画になったような気がしていたんだ。それで、このままではいたくない、そう思った。それで、例の、顔を半分剥がす手術を受けたのだけど――あの人は、もう見ない。まだ、耳の手前の皮膚の感覚は鈍いし、相変わらず、頬は一部しか上がらない。笑えば片目が閉じる。何より、老けた――相変わらず、時々、僕は自分を戯画のように感じもするが――僕は、あの人物に感謝している。わずかながら、神経は正常に働くようになり、土地を取り戻せた――それは、資産ではないが、人間性には重要な土地だ。あと少し、少しだけ、自分が納得いく程度にまで回復したら。一度、顎周りの神経を切るなり、鈍らせるなりしたら、君のところにお邪魔できるかもしれない。しかし、僕には新しい名前がいるね。もうチェルビーノとは名乗れない。どうしたものかな。

​――君の愚かなる友人 『 空欄 』より

​追伸
僕がニコラス氏にその人物を見たか聞くようになったのは、自分の正気を疑ったからなんだ。本当にそんな人物がいたのか、あるいは、たまたま、似た体格の人がいたのか、まったくの妄想か。でも、カイロスは過ぎ去り、僕は――少し違う人間になったのだと思う。だけど、僕は愚かだ。あの数秒が、たまらなく恋しいんだ。

007. オーウェンとカワセミ

 やあ、ハムレッティ。前の手紙は、僕の話を長々とすまない。君のところにまだ暖炉があるのなら――あの古くて格調高い屋敷ならまだあるかな、あるいは、君らしく時代に合わせて、それを飾り以上のものには使わないようにと助言する誰かの忠告に従って、違った暖房法を導入しているんだろうか。どちらにせよ、焼き捨ててくれるとうれしい。そうだな、アルマンの話も一緒にね。僕は、彼が気の毒なんだ。それに、辞めてしまったという「彼」も。人間なんて都会にいれば一粒の砂で、すぐに他人に混じって消えてしまう。僕は人付き合いがうまくない、すぐにその煌めく一粒をなくしてしまう。
 それで、僕は、また、馬鹿げた事をしている。黒騎士に頼んで、アルマンの行方を探してもらっているんだ。僕は、「存在しない人」を忘れたつもりで、なぜだか、いつも思い出してしまう。アルマンは、辞めてしまった若い給仕を、思い出したくないのに思い出すと言っていた。これは肉体的な傷じゃない、深刻じゃない、と。しかし、彼には、深刻だったのではないかな。だから、彼はここを去ってしまった。僕の方は、ああ、この大通りの向こうにいたのを見たな、とか、あの時せめて微笑みかけておけばよかったろうか、とか考えるんだが。そういえば、あの時は笑うわけにはいかなかったな、手術前だ、と思い至るんだ。あのキャビネットの奴は本当に悪魔だったろうか。僕は、なんだろうな、あいつが用意した痛みの隅々まで、鮮烈な一瞬が思い出に変わって薄れるまで、楽しんでいる。アルマンには被害者がいて、僕の場合には被害者はいない――のか、あるいは被害者は僕なのか、だが、そんな感じもしないものだから。僕は痛みの不在という痛みすら、楽しんでいる。まさに満足せる愚か者、テーブルの下で振ってくるパン屑を期待する愚かな土鳩だ。
 とはいえ、テーブルの下の愚かな土鳩って役回りをずっとしていると、退屈はするんだ。それで、なんとなく、とはいえ緊張しながら、いつもとは違う服を着て、雇い人達の間で評判がいいと聞いた飲み屋へ行ってみたんだ。大丈夫だ、そういう時は飲み過ぎないから。それで、その時は箒を持ってきた若い給仕​――彼はオーウェンと言うんだが、オーウェンに見つかって、迷惑そうに隅に連れて行かれた。
「どうなすったんですか、こんなところに来ちゃいけない。」
「君ね、僕だって戦中は、大陸で君たちに混ざって働いた事もあるんだぜ。」
「知りませんよ、こんなところに来られちゃ我々が疲れます。大陸ってなんです。」
「タイプライターの修理をしていた。」
「なんですそれは」
それは、まあ、僕の毎度、本気にしてもらえない恋愛遍歴と関係があるんだが、タイプを教える約束をして、オーウェンとは仲良くなった。オーウェンが言うには、もうアルマンはここには来ない。ただ、時々来る知人が知っているかも知れない。それで、その人に紹介してもらう約束を取り付けて、少しオーウェン話して、その日は帰った。その時の会話がおもしろかったから、書いておくよ。
 オーウェンは現実的な若者で、我々の事を「数百年前の運がよかった祖先のお陰で生きながらえている、黴の生えた知識に耽溺する不幸な人々」と考えている様子だよ。だから、僕がタイプライターがある程度できて、修理もできると知って驚いていた。ラテン語や詩は彼にとっては無駄の極致だそうだけどね。それで、では、君にとって大切なものはなんだろうかと尋ねると、両親と妹の名前が出る。彼はちゃんと若い。それで僕は、君にとって至上のものとは何かを聞く。彼はこう言ったよ。
「…チェルビーノさん​――あ、やっぱりもう無理があるのはわかってるんだ。じゃあ、なんとおよびすれば?そうだな、サー・タイプライター?」
オーウェンは僕がチェルビーノと呼ばれるのを嫌がるのをすぐに察して冗談めかした。気が利く青年だ。
「タイポでいいよ。」
「では、サー・タイポ、僕にとって最上のもの?あなたは、あなたの倶楽部員と僕が違うってことをお忘れみたいですね。僕らは昼間は手を動かし、夜は一息入れたら学んで、寝るんです。最上のものは、睡眠と朝食と、散歩、このくらいですよ。そのうち、幼なじみか、妹が紹介してくれた女性と結婚し、ささやかな家庭を築く。そういうもんです。それがいいんです。」
そう言ってオーウェンはぐいとパイントを飲み干した。次を調達しようかと迷っている様子だったので、ちょうど空いていたカウンターへ僕が行って二つ買ってきた。その間、パブの店主だかバーマンは僕のほうを見ないようにしていたが、それは僕が大陸にいた時に買った古着の上着のせいだったかもしれない。型と色が少し、古いからね。とにかく、僕はエールが注がれる間に色々と倶楽部の事を回想していた。そうして、ジョッキを二つ持って、紙巻き煙草を吸いながら落ち着かなさそうに僕の帰りを待っていたオーウェン君の元に戻る。僕は、相変わらず気まずそうな様子のオーウェンに言う。
「そうかあ…では、君たちから見たら、僕らは随分とくだらない生き方をしているんだろうなぁ。僕も時々そう思うから、君がそう思っても共感できる。」
そう言って僕はジョッキを両方、オーウェンの方へ差し出す。僕はリミット超えると止まらなくなるのを思い出してそうしたのだが、オーウェンは少し鼻白んだ様子でそれを一つは押し返し、一つは手に取りながら言う。
「まあ…あなたがたは、暇なんでしょうね。でも、少し、うらやましいですよ。僕だってあなた達の気持ちが分からない瞬間がないということもないし。」
「へえ、そりゃあうれしいな。」
「でも、あなたたちは強欲だから​――放っときゃいいものを手に入れようとするんです。手にはいらないから嘆いている。ないならないで、あるもので満足すればいいのに。結局、手にはいるのは自分が身につけた​――まあ、でも、あなたはタイプができるんですものね。」
「まさか、できるようになるとは思わなかったけどね。」
「なんですか、それ」
その少しはにかんだような笑いは、ジョッキからあちら側の女性へ飛び​――綺麗な女の子で、あまり場所慣れしていない様子で、父親らしき男性のところへ行って何か告げ、驚いた様子の父親と嬉しそうに抱き合っている​――それから、またジョッキに目を落として、最後に僕に目を落とす。近くで見ると、彼は意外と大きい。手も大きい。タイプは女性向きの仕事だが、彼が覚えれば妹さんにも教えられるだろう。
「でも、彼女に声をかけないと手にはいらないよ。」
「ひゃあ、何を言ってるんですか。彼女は今日初めて見ましたよ、ここには似合わない​――ああ、帰っていく。」
「また来るかな。」
「来ないでしょうね。」
「いいのかい?追いかけなくて」
それで、彼は僕のほうへ向き直って、まじまじと僕を見つめた。その目は丸く開いていて、本当に、驚き呆れていた。その肩幅はまだ狭く、髭は薄かった。
「何を言ってるんです。警察を呼ばれてしまいますよ。あなたたちはそんな風なんですか、もっと​――」
「あ、いや​――ごめん。では、明日の夜にでもタイプを教えるよ。倶楽部にちょうどあるから​――」
「朝がいい。土曜日の朝。僕も鍵を開けられる。」
「朝…」
僕は朝は苦手だったけれど、夜は​――アルマンの件もあるし、妙な勘ぐりを受けるのが嫌だったんだろう。それで、僕も承知した。彼は僕よりも大きかったから、僕が彼を襲うなんて事は無理なので、そんな心配も要らない筈なんだけどね。とにかく、それで、土曜日は明後日なのだけど、僕は若者にタイプライターを教えることになった。朝、起きられるかな。アルマンの情報を知っていそうな人物は、オーウェンがバーマンに伝言を頼んでくれたよ。また、首尾をかくよ。

​――君の愚かなる友人 『 空欄 』より

追伸
やあ、まだこの手紙に封をしていなくてよかった。僕は珍しく早起きをしたんだ。しかも、散歩をさせられた!それが、素晴らしくよかったんだ。自分でも信じられないよ。
 昨日、オーウェンが、銀の盆に手紙を載せて来たんだ。宛名はMr.タイポとあったので、驚いて開封したよ。そこにはこうあった。
「明日の朝、ボーンベイルパークで会いましょう。6時に、ボーンベイル・チャペルの鉄門の前で。僕の家はそこからしばらく歩いた所です。妹も一緒にレッスンを受けたいと言っています。」
それで、僕はオーウェン君を捕まえてそれは大変だと言おうとしたんだが​――彼は「はて、何のお話でしょう?」とシラを切る。それで、朝の6時の車を出してもらって、ボーンベイルパークまで行ったんだ。なんと、ケースに入ったタイプライターを持ってね。ちゃんと予備のリボンもカバンに入っていた。戦時中に持ち歩いたやつよりは随分と軽いんだけど、やはり重い。それを、公園でどうしようと言うんだ。何を考えているんだろう、と思いながら向かうと、そこには、出勤するつもりがあるようには見えない様子の寝癖もそのままのオーウェンがたたずんでいた。そこから、半時は歩いたかな​――彼は慣れた様子でどんどん歩く。朝の森は本当に美しい、小鳥は頭上の梢で鳴きかわし、木々の葉は陽光に透けて​――タイプライターは馬鹿みたいに重かったが。ここは、ボーンベイルって名前に反して、暗渠が一部地上に出て池に注ぐんだが、そこでちょうど​――何か、青いものがきらりと見えたんだ。
「あ!」
「し、待って、黙って」
オーウェンはうるさそうに僕を押し留めて、それが流れた方へ足を速める。流れ星みたいなんだ、ほんとにきれいな青い光で​――それ僕らは追って数十メートルを歩いて、そして、オーウェンは立ち止まる。彼はまったく、僕が邪魔そうな様子で、でも、開いた手をゆっくりと僕の前に差し出し​――まるで僕の方を見ちゃいない。それを、つまり彼の開いた手をゆっくりと人差し指にして、ある岩の上を示す。そこに、それはいた​――カワセミだ。あんなに美しい生き物が、ここにいるとは!真っ青な背中、鮮やかな銅色の胸、尖ったくちばし、それも、すごく小さい!僕は、カワセミを何かの本の挿絵で見て知ってはいたが、これは全然違うものだ。生きた宝石だ。それは、そして、その気高い美しさに不似合いな、きゅうと肩をすぼめるような可愛らしい動きをし​――僕らに気付いて、また、さぁっと飛んでいってしまった。
「ああ…今日はこれだけだな。」
オーウェンは呟くようにいうと、僕を振り返って、はにかんだよう笑って、それからまた、早足で歩き出した。それから、また、急に立ち止まって、小川にかかった小さな橋を指差した。
「あの欄干ね。僕が、そこにもたれて川面を見てた時に​――欄干にですよ、真隣に、あの子が止まったんです。僕は動けなかった。ただ、ちょっと顔を向けて、何か確認して、止まった。カワセミは、小魚を欄干に叩きつけて、こう、ばしっばしっとね。何度も​――やわらかくして食べやすくして​――ぱくりと持ち替えて、飲み込む。ずっとみてた。僕が生き物だと気付かれた瞬間、飛んでいった。」
オーウェンは、嬉しそうに、手首を振ってその様子を真似してみせる。僕は、カワセミのそんな生態なんて知らなかった。あんな美しい生き物がいるなんて知らなかった。
「すごいね​――君は、すごい友人をお持ちだ!」
僕は感極ってそんな間抜けな事を言った気がする。それで、オーウェンは微笑んだ。大人に褒められた少年のような笑いだ。
「友人か!そうかもね。僕は、あなたがたの『嘆き』はわからない。けど、あの子は、僕が知っている最上のもののひとつだ。手に入れようとは思わないけど​――たまに会えたらうれしい。会えなくて当然。しばらく会えないと、死んでしまったかと不安になる。だけどどうしようもない。だから、まさか、すぐ隣で食事をしてくれるなんて思わなかった。それは永遠に僕の、素敵な思い出だ。でも、そういうのはいくつもある、みんなそうだ。信じられない幸運や、きれいなものや、感動。それは消えていく。それでいいんだ。また、同じようにいいことが、いつか巡ってくる。思いがけない時に。さあ、行きましょうか。」
そう言って、彼は、また歩を進めた。僕は、この若い青年の達観にすっかりおどろいてしまって、その間中黙っていた。でも、僕は​――タイプライターが重い以外は、ずっと、どういうわけか、満ち足りた気分だった。
 そこから先は、彼の可愛らしい妹さんに奇妙な目で見られながら自己紹介をし、彼の家の半地下の彼の部屋にタイプライターを置いてきたこと以外は、あまり書くこともない。僕は、ずっと、オーウェンの言葉を考えている。彼は正しい。信じられない幸運は、通り過ぎ、消えていく。それでいい。また、違うものが来る。来るだろうか。彼は若い。僕も​――まあ、まだ、若いね。そうだ、若い。だが、僕は彼よりも欲深いような気がするよ。長い追伸だね、また書くよ。

​――君の愚かなる友人 『タイポ』より

008. ナザール・ボンジュウ

 やあ、ハムレッティ。結局、オーウェン君の知人は結局、空振りだったよ。どうも、その人も最近はパブに来ていないらしい。でも、黒騎士の方のネットワークがすごくてね、アルマンを見つけてくれた。その知らせは、オーウェン君が銀の盆に載せた手紙で、黒騎士の元に届いた。僕はオーウェン君に小さく手を振って完全に黙殺され、なんら後ろめたい事もないのに、秘密にされるもなんだか居心地の悪いもんだ、と思った。でも、まあ、そういうのが世の中の仕組みなんだろう。黒騎士は、僕が黙殺されるのを黙殺して言う。
「チェルビーノ、君が探していたアルマンが見つかったぞ。返さなきゃいけないと言っていたものは、見つかったのか。」
本当は、返すものなんてないんだ。だけど、まあ、彼を探してもらうのに言い訳が要ったので、咄嗟に彼が何か落とした、と言っておいたので、黒騎士は「そんな下らんことで」と言いながらもアルマン探しを引き受けてくれた。そして、どうやらこいつ、実は何も拾っていないなと気取ったのかな、ナザール・ボンジュウの話をしてくれた。
「お前さんはこの前、俺の隠し部屋に入ったな。あそこで、青いガラスのネックレスを見なかったか。目玉みたいなやつだ。あれは、ナザール・ボンジュウといってな。魔除けだ。俺が若い頃、さる貴人の墓に何人かで閉じ込められたんだが、そこで救った爺さんがくれたものだ。効き目があるかは知らんが、邪な視線から逃れる効果があるそうだ。だが俺は、死神を除けられちゃたまらないから、身には着けない。ずっと壁から下がっているだけだ。だが、お前さんやアルマンには、要りそうだな。持っていくか。」
僕は、それを若干奇妙な心持ちで聞いていた。それというのも、その前日、僕は久しぶりに田舎の屋敷に戻って、キャビネットの中から、その、目玉みたい飾りのついた青いガラスを見つけていたからだ。黒騎士の隠し部屋のものよりは随分と小さかったが。サファイアのように深い青、その中に白と、水色と、黒い丸。キャビネットの下壇の引き出しに、他の数点の小物とともに入っていた。だから、その話が出た時には驚いた。黒騎士に、誰か――恋人の死神か誰かが、告げたのだろうか。あるいは、僕がたまたま黒騎士の部屋で見たことを覚えている品を見つけて、彼に見せようと持ってきていた、黒騎士はよく目立つそれを処分しようかと思っていた、それだけのことなのかもしれないけれど。黒騎士は僕がその話題を出す前に、ナザール・ボンジュウの話題を出した。
 それで、僕は土曜日の午後に、つまり、もしもアルマンが勤めていれば休みかと思う時間に、彼が住んでいると聞いた住所を訪ねた。時間を考えると、仕事上がりに仲間と酒でも飲んでいるかとも思ったんだが、彼は部屋にいた。それはフラットというにはあまりに古くて狭い、空襲しようという連中も歯牙にかけなかった地区の半地下の部屋だ。僕がドアをノックすると、「帰れ」と言うくぐもった彼の声が簡素なドアの向こうから聞こえ、さらに叩くと「いい加減にしろ、この−−」と勢いよくドアが開いた。それから、彼は拍子抜けした様子で僕を見つめ、前髪をかき上げ、再び「帰ってくれ」疲れたように言って、扉を閉めようとした。僕は、「待ってくれ、アルマン!」と声をかけ、彼が閉じかけたドアを止め、「…何の用ですか、サー?」と呆れたように言った。彼の前髪は再び額に垂れかかり、無精ひげ伸び、目の下には隈がある。そんな彼が、僕を上から下まで見回して、何事かを低く呟き、一歩引いて、僕を中に通してくれた。
「ありがとう、なんて言ったんだい?」
「ひどい上着だ、と。」
「そりゃ、どうも。」
そう言って僕は、通された薄暗い部屋を見回した。簡素なテーブル、不釣り合いに大きなソファ、片付いた調理台、流し、そして、奥に寝台。寝台には、誰か寝ている。そして、彼は問われもしないのに言う。
「違う、あれはただの友人だ。」
「違う?」
「――彼は昨夜、殴られてな――具合が悪い。俺じゃどうしようもない。で、何の用だ。あんたみたいなのが来る場所じゃない。なんだ、何が言いたい。」
その声は低くて、疲れていた。部屋は暗く煤けていて、テーブルの上には紙巻き煙草が消された灰皿に、まだ白い――スフマートのように軽微で不確かな靄が残っていた。灰皿の横には、何冊かの外国語の薄い本と手紙が、角をそろえて平積みされていた。彼がそういう人間なのだろう、きちんした部屋だ。
「何の用だ。」
「すまない、知らなかったんだ、君のご友人が――具合が悪いことを。何かできることはないかな。」
「外国人嫌いでなくて口の堅い医者がいれば、そいつを。だが、俺が払える範囲で。」
「そんなのは――僕が。」
実際のところ、僕自身、そんなに金があるわけではない。君もご存じの通り、僕も、まあ少しは働いている。働かざるを得ないからだ。とはいえ、表の通りで遊んでいる子供に駄賃をやって、近くの電話がある店まで案内させることができないほど余裕がないわけではない。そうやって、先代からのお情けで、僕のかかりつけ医に来てもらった。
 医者が来ると、寝ていて人物は目を開けて起き出そうとした。それを止められて、すまないね、と言うと、たっぷりとした頬の痣が痛む様子で大人しく横になる。このアルマンのご友人はジョルジュ、あるいはジョージと呼ばれる気のいい男性で、外国訛りもなく、「いろんな方面」に顔の利く人物だった。ただ、いろんな方面、が時に不名誉になることもあり、それに襲われた場所が近かった事もあって、頼ったのはアルマンだったそうだ。僕は「いろんな方面」や彼が怪我をした理由には立ち入らない事にした。医者の診察中、アルマンはテーブルの隣に所在なさげに腕を組んでたたずんでいた。
「大丈夫です、脳震盪だ。肋骨も折れていない。顔や腹の痣は派手ですが、脂肪が内臓を守ったようです。なに、しばらく安静にしていれば、次第によくなるでしょう。大丈夫、お父さんはすぐ元気になりますよ。」
医者はそう言って、私には挨拶をし、外で待たせていた車で帰って行った。
「お父さんか。」
「まあ、そういう事にしておきましょう。」
そう僕らが言葉を交わすと、ジョルジュさんはため息をつく。
「せめて兄さんと言ってほしかったな。」
そう言って、ジョルジュさんは笑う。白髪交じりの髭がくしゃくしゃと、寝癖で奇妙な方向を向いている。加齢で垂れた上に、片方が緑がかった内出血の瞼の下で、退色したまだ瞳はきらきらとしている。
「さて、あなたはどこのどなたか――すまないね、坊や、ありがとう。俺が元気になったら、きっと可愛い子ちゃんを紹介するから。いいお嫁さんになる――」
それで僕が笑い、アルマンが彼の目はまだかすんでいるといい、ジョルジュはメガネを所望する。だが、それはない――彼の頬から取り出されたガラス片以外は。僕は、このジョルジュ、ジョージという人が何故こんな目に遭わされたのか、全く合点がいかなかった。ジョルジュさんが薬を飲んで再び眠りにつくと、僕は彼を起こさないようになるべく小声で、アルマンに声をかける。
「そういえば、ジョルジュさんがそこで寝ていると、あなたの寝る場所はないんじゃないか?」
「俺はそのソファだ。いいんだ、慣れてる。」
そのソファ、には、医者が帰ってからはずっと、僕が腰かけていた。当然のように。アルマンは、ずっと、テーブルの隣の質素なスツールの側で立っていた。僕が立ち上がろうとするのを手で留めて、彼は言う。
「いいんだ、立っている方が性に合う。あんたが帰れば俺がそこに座る。
 ああ、ジョルジュか。ジョルジュ、ジョージは、俺がこちらにきてからの最初の友人だ。俺は――あんたもご存じなように、ピンクの星が怖かった。ジョルジュは、ユダヤ系だ。彼も死にたくなかった。同じ理由で、だが全く違う理由で、俺たちは国を出た。俺は、彼にも忌み嫌われる筈だったが、彼は気にしなかった。彼は朗らかで、誰にでも好かれ、俺には何度か仕事を仲介してくれた。恩は返さないといけない。だからーーあの彼にも、俺は、そういう存在になりたかったんだが――どこで間違えたかな。ああ、くそ。思い出さないようにしていたのに。」
言葉は尻すぼみになり、ため息に変わった。僕は数秒後に「すまない。」とだけ継ぐ。僕は、具体的にアルマンが何をしたのかは知らない。だが、『彼』と恩は最初は、何かしら関係してたのだろう。しばらく、僕を見ていないアルマンと、彼の見ているものが見えない僕は、それぞれに言葉もなく過ごす。ジョルジュの寝息と、遠くの路上で言葉を交わす子供の声だけが聞こえた。
 やがてアルマンは、ようやくにスツールに腰を下ろす。膝に腕を付き、僕のほうは見なかった。
「俺が思い出すと、きっと彼はそのたび怖気をふるうだろう。俺の考えている事なんて、伝わるわけがないのにな。俺は迷信深くはない、だが、そういう気がする。だから、思い出さない。俺はあんたらの倶楽部にはいなかった。どうせ誰も見ていない、だから全てはなかった。
 何が恩を返す、だ――あんな事をして。」
そう言うと、また、沈黙に耐えかねて彼は再び背を伸ばし、そして、テーブルの上に医者が散らかしていった襤褸布やガーゼや薬を、大きく繊細な手で集める。その動きは、必要以上に大きいときがある。位置関係を大きめに測っているのだろう。その動きに伴奏でも乗せるつもりで、僕は呟く。
「まあ――空気中に、何か伝える成分がある、ような気がする時はある。」
なんとなく共感を示したつもりであったが、アルマンは再度、奇妙なものを見る顔付きで僕を見る。彼はちょうど、ゴミを捨てようと立ち上がったところだった。彼は、テーブルの隣に立って、一纏めのごみを手に、僕を見下ろし――それから、身をかがめて近い位置からゴミをゴミ箱に落とし、それから親指でこめかみを押さえ、何事か呟く。しばらくすると、彼は、不本意そうに付け加えた。
「俺は恩を返せない。ジョルジュにも、あんたにも。」
僕は、その言葉に、どちらかと言うと、恐れをなした。彼の背負っているものは大きすぎる。僕が恩を売っていいものではない。それで、僕は、そんな事は気にしないでほしい、と言った。アルマンは、では、と言った。彼はどこか、距離を取るように笑った。それから、再びスツールに腰を下ろし、こう言った。
「どうせ俺の立場で返せる恩なんてない。だから、ひとつ忠告すると――その上着は焼き捨てたほうがいい。どこで手に入れたのか知らんが――
俺の亡くなった祖母の上着みたいだ。派手すぎるし、退色している。」
「そんなにひどいかな。戦時中に変装に使ってたんだが。」
「よく撃たれなかったな。」
「敵には会わなかったからね。」
「味方に、だ。今どき、そんなのを着ていたら、この辺の連中は警戒する。婆さんの上着を着た中年なんて。ああ、あんたの顔は大丈夫だ、そういうのは見慣れてる。いや――色が白すぎるな。金持ちだと見抜かれるかもしれない。そうすると、下手をすれば、ジョルジュみたいな目に遭う。目立たないことだ。その上着は、やめるんだ。」
彼は始めは僕を突き放したかった様子だったが、途中から、常識を子供に諭すように、辛抱強く語った。僕がその言葉に、彼はおそらくは良い教育係だったろう、と考える間、アルマンは僕の反応を見ている。僕も危険は嫌だった。それに、ジョルジュのように恰幅もよくない。アルマンは、僕が上着を放棄する事と、早々に退出することを期待していた。それで、僕は、立ち上がって上着を脱ぐ。脱ぎながら、そういえば、と、上着のポケットさぐる。そして、渡そうと持ってきたナザール・ボンジュウを取り出した。
 ロイヤルブルーのサファイアのような青いガラスに、水色と白の目玉模様。質素で灰色で、少しだけ煙った片付いた部屋に、豪華なソファや僕と同じくらい、不釣り合いな色彩だ。
「魔除けなんだ。できれば、君にと思ったんだけど――なんだか、こうして見ると、ちょっと、非現実的かな。」
アルマンは、それと、僕を見比べて、反応に困ったように立っていた。それで、僕は、非現実的な現象もやはり現実的でありうるといった事を、キャビネットの悪魔についての話と共にした。僕は少しの間立って主張し、彼はスツールに腰掛けてそれを聞いた。そして、言った。
「チェルビーノさん――ああ、じゃあ、その名は嫌か、では、なんと――まあいい。わかった、あんたが見当外れな善意と友情で来てくれたことは。そうだな、すまない、その顔も――上着並みとはいかないまでも、まあ、ひどい。かつてのあだ名からすると、相当に――くらっているんだろうな。だが、問題ない、戦争があったんだ、そんな顔の奴は珍しくない。
 俺の人生には、あんたらの夢物語は起きない。でも、あんたらには起きるかもしれない。だが、そうすると、これが必要なのは、俺よりも、あんたじゃないか?」
「――そうかもしれない。だけど、あいにく、僕からは、僕の顔は見えない。だから、いいんだ。」
「見えない、ね。あんたはいつも見ているさ。だが、俺の所に来ても、良くはならないぜ。俺が言えるのは、普段は着ない上着は着ないでおけって事だけだ。」
「ええとーー上着を替えれば、何とかなるだろうか?」
「さあ。」
「困ったな。新しい上着を、月曜日に一緒に選んでくれないか」
「無理だ。仕事がある。それに、ここにはもう来ないでくれ。」
「そうもいかない。」
「なんでだ?あんたは、俺をなんだと思ってるんだ、俺はお前の答えはもっていない。上着はその、悪魔がいるとかいうキャビネットに掛けておくといい、そいつがいるとすればーー間抜けな上着でも着せてやれよ。」
「はは、そう、かもね。」
だが、僕は、おそらくは二度と現れない『すれ違う悪魔』の何をも損ないたくはなかったし、どうせ、僕がその上着をそこに掛けたとしてもーーせいぜい、生贄の古くなってしまった皮を掛けた程度のグロテスクさが生るだけのような気がした。それで、僕は、たぶん悪魔は消えてしまった、といった。
「そうか。まあーーわかったよ。この目は、預かっておく。ジョルジュも俺も、本当は、こういうーー人間じゃないものにすがれるもんなら、すがりたいんだ。人間じゃないほうがいい。」
なるほどと思ったよ。
 僕が上着を持って帰るために、彼はそれを手早く紙に包んでくれた。
「ありがとう。」
「あんた、俺の名前を調べて来たのか。」
「調べなきゃ、探せないもの。」
「わざわざ来てもらって、上着を剥いで返すのもなんだがーー」
「まあ、ジョルジュさんを放ってもおけないだろ。」
 それで、僕は、上着を着ないで帰った。日が落ちて、寒くはなってきていたので、足早に大通りに出て、タクシー・ランクを探した。しばらく歩くと、身体が暖まっては来たが、少し薄暗くなってきていて、石畳からは冷気が染み出しているように思えたし、僕のシャツは白すぎた。やはりブラックキャブに乗り込むとほっとしたよ。運転手の方は、僕の格好にぎょっとしてはいたが。
 僕はなぜ、アルマンに会いたかったのだろう。彼は答えを持っていないと言った。僕は、それを期待していたんだろう。だが、その答えーーないと言われた答え、それを求める問いも、僕はまだ見つけ出せていない。ナザール・ボンジュウは邪悪な視線をはねのけるという。僕は、でも、その前に、視線の先に求めるものを、見出さないといけない気がする。さて、僕はアルマンにはタイポとは名乗れなかった。新しい名前は、オールマイティではないね。でも、僕はやはり気に入っている。また、何かもう少し楽しい話題を探して書くよ。

ーー君の愚かな友人、『 タイポ 』より

009. 月曜日の子供

 やあ、ハムレッティ。そうなんだ、ジョルジュ氏は、オーウェン君が言っていた「アルマンの行き先を知ってるかもしれない人物」だったみたいだ。上着は、新しいものをオーウェン君がくれたよ。彼が10代の終わり頃に着ていたやつだそうだ。悲しいかな、少し大きい。まあ、オーウェン君は大きいから。僕がなぜ、階級の違う人々の上着を着て時折彼らのパブへ行くかというと、だって、僕はもう、君たちほどの余裕はないし――越境はいつだって、楽しいものだから。
 僕は、さる大きな会社で、その商品を美しく褒めそやす文章を書く仕事をしているよ。あいにく、僕は詩人ではない。詩人ではないから、詩人が書いたものに似たものを適当に加工して、詩的な絵とともに知的な、あるいは実際的な雑誌の隅に、そっと購買欲を掻き立てる芳香をねじ込むんだ。かわいいだろう、罪のない仕事だ。それで、作ったものを渡しに、Quadvalleysの駅に週1回か、多くて2回、通っているんだ。その時は、ニコラス氏が古くて品は良いといった、あの上着だ。それを着て、ニコラス氏に挨拶する。例の人はもう現れない、いつの間にか、聞くことも忘れて、ニコラス氏が元気かのほうが気になるようになってきた。そして、土曜日は、オーウェン君に貰った上着を着て、オーウェン君と妹さんのところへ通うんだ。僕の子供はまだ小さいけれど、ああいう素敵な若者になってほしいと願うよ。違う時代の2人だ、僕を哀れまず、素直に利用して、感謝してくれる。仕事をしているのに、彼らにとっては僕はまだ、特権階級の無邪気な愚人だ。いずれは消え去る人々の内の一人と見られているので、彼等は優しい。たまに、シーラカンスかドードーになった気はする。シーラカンスは、オーウェンにはなんだそれといった顔をされたよ。
 倶楽部の方は、僕は、最近、『若づくりのドリアン』と時々話すようになったよ。実は、僕は彼がずっと苦手だったんだ。じっとこちらを見る、舐めるような視線、それに、どこか甘い、うっとりするような香り。僕は彼を、噂に聞く吸血鬼や妖鬼の類いかと思ってきたんだ。彼はあだ名に反して年を取らないし、取れないし、割と不幸な、実際のところ、老人なんだ。新陳代謝がどうこうで、老化できない体質だそうだよ。科学的なことは僕にはわからない。もう300年は生きているとか、いないとか――正確なところは当人に聞いてみないとわからないが、あまり立ち入った事を聞くのも失礼だろう。戦時中はほとんど姿を見なかった、おそらく、『金魚とりのジョン』の骨と一緒にどこかに隠されていたんだろう。最近も時々、暫く姿を見ない期間があって、それからひどく疲れた様子の期間があって、それから、また、あの傍若無人な笑顔と遠慮のない視線に戻る。
 僕が苦手だったあの視線は、過ぎていく時間を記憶に押し留めようとする努力なのかもしれないと、最近思うようになったんだ。僕だって、我が子の寝顔や、オーウェン兄妹の楽しげな小競り合いを、じっと見てしまう事がある。過去と現在を見比べ、現在を焼き付け、また次の現在と比較する。いや、これは――僕が自分の子供に対してそうしているだけなのだが。きっと、ドリアンもそうなんだろう。だから、あんな風に、相手を見るんだ。彼は、永遠の若者にして老人だ。とはいえ、もっと老成してくれと思うこともある。長々と前置きをすまない、要は、先週月曜日のことだ。
「ドリアン!ドリアンはどこだ、彼を殺して俺も死ぬ!」と短刀を手に怒鳴り込んできた屈強な軍人風の男を、執事――先任者ほど伝統的でないタイプ――が宥めて、ここにはいませんが手紙を書くならバーをお貸ししますと言ったのが、午前10時頃かな。バーではコーヒーを飲むミネルヴァの隣で猫のヨハンが座ってバッハを口ずさんでいた。男性は短刀をカウンターに突き立て、ため息をつく。ミネルヴァがヨハンを抱き寄せる。男は、執事命ぜられて給仕が持ってきた便箋にむかう。ところが、アレルギーなのだろう、盛大にくしゃみを始める。そこに、好奇心で若干体の透け具合が緩和されたレノアが声をかけ、男性は悪態をつきながら退出し、バーはご存じの通り喫茶室の奥にあるから――男性がそこを通り抜けて出ていくと、ドリアンが笑いながら喫茶室のソファの陰から姿を現す。久しぶりに、「嘆く独身者倶楽部」的な楽しい騒動だったよ。けれど、刃傷沙汰はいけない。
「いったい何の騒ぎだ?」
「やあ、黒騎士くん。君が初めてここに来た時みたいだったろう?絨毯は、無事だけど。」
「いい時代だったな。」
黒騎士はにやりと笑うと、それでも、やんわりとドリアンを諭した。
「年を取れないからって、殺されないでくれ。」
「わざとじゃないんだ、今回は…」
「彼と彼の奥さんと、両方を寝取っておいてよくいうな」
「でも、奥さんが言い出したんだ――」
黄金の髪、花弁の唇、ギリシア彫刻の如くに完璧な体格。日常的に目にしていると忘れがちだが、ドリアンは、いわゆる美丈夫の見本のような容姿の人だ。大袈裟で愛嬌たっぷりの表情でお手上げのポーズを取り、ソファに身を投げる。年をとらないから、勢いのあるその動作も、身体に沿ったスーツのパンツまでが彼の身体を引き立てて、舞踏的で美しい、と、僕が仕事で書きそうな調子で描写しても問題ないくらいだ。そんなドリアンを、ドリアンよりもずっと若い黒騎士が、最近また深くなった笑い皺を刻んで苦笑する。ドリアンの年齢を知らぬ者が見れば、黒騎士はドリアンの口うるさい父親のようだ。黒騎士が、父親のようだとはね、そんな事を書く日が来ようとは。だが、彼は最近は、皆をよくみているよ。
 黒騎士がドリアンに何かしら深刻そうに警告し、ドリアンがそれを朗らかに聞き流す間に、沈鬱な幽霊のレノアがその傍らに姿を現す。――話が逸れるんだが、レノアは時々、黒騎士の後ろの誰かに向かって、黒騎士よりも先に挨拶する。きっと、死神だとおもうんだが、レノアはそれと、少し楽しそうに会話をしているときもある。でも、レノアは、そんな時どんな人物が見えているのかは教えてくれない。
 黒騎士の方はレノアが苦手と見えて、ドリアンに身持ちを良くするように注意すると、図書室の方へ消えて行った。
 一方レノアの方は、給仕が指示されるわけでもなく差し出した、ドリアン好みのチョコラテをドリアンが受け取る間に、彼の隣のソファに落ち着く。
(――罪作りな美貌じゃのう――)
「ふふ、何をおっしゃるやら、そなたの美しさには到底及ばぬじゃろうて」
(――よすのじゃ――わらわは男にはうんざりじゃ――)
「おや、汝、我もまた男子たるを忘れんか?」
(――ほほ、ああ、そうであった、可笑しいの――して、かの男とは如何にして――?)
「あの男は我が被験時の監視人よ。最近担当が変わっての。ちと要求が過ぎるので、違う要求を呼び覚ましてやったわ。とはいえ、やり過ぎた。」
そう言ってドリアンはにっこりと笑い、レノアが少女のように高い声で笑う。
――して、どのようにやり過ぎたのじゃ――?
レノアがドリアンに詳細を尋ねる間に、少し青ざめたミネルヴァが大きなヨハンを抱いて喫茶室に戻って来た。
「ドリアンさん、暴漢は呼ばないでちょうだい。」
「ああ、すまない――でも、ヨハンが彼を追い払ってくれたんだろう?ありがとう、ヨハン。ねえ、ミネルヴァ、お掛け。チェルビーノも。」
そう言って、ドリアンはミネルヴァと僕も彼の周囲に集める。ミネルヴァはヨハンの耳を指で押さえて伏せさせながら聞く。
「また男を騙したの?」
「騙しただなんて大仰な――まあ、そうといえばそうだけど。だって、彼、まだ前回の採血から2ヶ月も経っていないのに、またわたしの血を600mlよこせって言うんだよ。それに、また体力テストと負荷試験だ、国家の暴虐だよ――それで、可哀想に思ってくれた彼の奥さんにこう、ちょっと――助けを求めてね。ほら、ああいう強権的な男は最初は素敵に見えるらしいけど、奥さんはもう飽きていたから。ちょっと、楽しませてあげたんだ。そして、このままでは実験の末に衰弱死しそうだって、洩らしてみたんだ。素敵に割り切った人でね、色々と、どうすれば彼のポイントを押さえられるかを教えてくれたんだ。まあ、私の方で少々、応用を利かせて――だが、少し、やりすぎた――」
(――身を守るためじゃからのう――)
「刺されちゃ意味がないじゃない。困ったら黒騎士にいうの、まだ影響力はあるんだから。だめよ、自分を大事しなきゃ。」
ミネルヴァも放蕩の過ぎる息子を叱るように言う。ドリアンはそれを優しく見つめ、曖昧に笑う。そして、彼は視線を外してチョコラテを一口飲み、ペロリと赤い舌で唇を舐める。それは無意識のようでいて、その艶めかしさを分かっているようで、分かっていて、誰も拾わないことも分かっていて投げ出している色気にも見える。あるいは、日々、どこででもそうしているのだろうか。また、彼特有の甘い香りが空間に忍び込む。これは、チョコラテだろうか、彼の香水だろうか、体臭だろうか。この香りの中で目を向けられると、以前にはどうにも居心地が悪くて逃げ出したものだ。今は、どういうわけか、お腹が減ったような気になる。そして、僕は、彼の張りのいい頬に感心しながら、彼特有のじっと見つめる視線を受け止める。なるほど、僕が彼を観察したように、彼も僕を観察し、評価しているのだろう。僕が視線で答えると、彼はにっこりと応じた。
「そういえばチェルビーノ、給仕アルマンがいなくなったのは君のせいなのだろうか?」
「いや、僕が彼を怒らせたのは最後の日だったので――僕のせいじゃないですよ。」
「そうなんだ。彼はずっと時々、顔色が悪かったものね、病気かい?亅
「さあ――違うと思います。」
僕は、ドリアンがどういう関心からアルマンを見ていたのかはわからない。けれど、自分たちを誰も見ていない、と言ったアルマンを、ドリアンは見ていた。アルマンの方はどうだったのだろう、ドリアンのように美しい青年――その実は100歳は下らない老人――に、惹かれたりはしなかったのだろうか。僕が、アルマンが去った理由を語らなかったのが不満だったのか、レノアが沈黙を奪って埋める。
(――あの給仕は傷心で去ったのじゃ――そなたが癒してやればよかったのにのう――)
レノアが不謹慎な、とはいえ僕もどこかでは考えていた事を口にし、ドリアンがおかしそうに笑う。ミネルヴァは何の話かにおおよその見当がついたらしく、まあ、と小さく呟いて、ヨハンをだき寄せてその頭にキスする。
「傷心に傷心を重ねさせるわけにもいかぬゆえ――ねえ、ミネルヴァ、笑っているね。御婦人はなんでわたしらのこういう話が好きなんだい?」
(――なぜかのう――)
「女の子が泣く話じゃなければ、女性は傷付いた男性を見るのは好きなのよ。」
「やれやれ、僕は国家の囚われ者、そして御婦人方の慰み者――哀れだねえ。だけど、わたしだって可憐な少女に心を焦がしたりしないわけではないのだよ。」
「おやまあ、にわかには信じがたいわね。」
(――さよう、そなたが一騒動起こす相手はいつも男――)
「そは乙女の身の寄る辺なきがゆえ――我に捨てられし後の危うさよ。女の子は立場がよわいからね――ああ、ミネルヴァ、あなたはちがうけれど。」
 僕は、ドリアンの口調がレノアの時代から、おそらくはミネルヴァが無意識に期待する青年のような現代的口調までの間を揺れるのを、奇妙な感覚で聞く。しかも、一貫して、無責任な、それでいて上機嫌のような雰囲気を保って。それが、レノアを楽しませ、ミネルヴァに心配させ、僕には――演劇を見ている気分にさせる。だが、何か引っかかる。まあ、僕も、あの大きな怒った男におびえはしたものの、その一幕を、やはり楽しんだのだ。と、言うことは、僕もまた彼を楽しんでいるんだろうか。劇的な出来事を引き起こしてくれる、魔術師のように。それが彼の退屈しのぎなのかもしれない。君はどう考えるだろう。また書くよ。

――君の愚かな友人『タイポ』より

追伸
珍しく、ドリアンが怒っているのをみたよ。僕は、少しショックだった。ドリアンが怒るのも納得で――僕は、衝撃をまだ実感を持って受けめられてはいない。
 月曜日に男性が倶楽部に怒鳴り込んで、次の月曜日には怒鳴り込んだ男性が離職し、その次の曜日には奥さんが、何故か礼を言いに倶楽部に来た。夫婦仲がかえってよくなったとかなんとか。レノアが残念がり、ドリアンは笑う、分かっていたよ、と。
 その週の月曜日に、夫の方が男性がやってきた。硬質な頬をこわばらせて、礼儀正しく前回の非礼を詫びて、だが、手には何かくしゃくしゃの紙を持っていた。そして、これを指示したのは俺じゃない、だが止められなかった、信じてくれ、と。恥ずかしげもなく涙を流して、ドリアンの膝に縋り付いた。ドリアンは青褪めて震えていた。そして、わかったよ、と言って膝をついた男性に口付けし、それから、帰ってくれ、と言った。ドリアンは、男性が立ち去ると、内ポケットから拳銃を取り出して、暫く弄っていた。黒騎士が、ぼんやりそれを弄るドリアンから取り上げて、彼を促して何処かへ連れて行った。美術館か劇場だろう。僕は、男性が膝をついていた辺りに落ちていた紙を拾った。乱暴に破り取られた新聞記事だった。市内の孤児院にて集団感染、複数児童が死亡。それがどうして、ドリアンを怒らせたのだろう。点と点を繋ぎたくはない、記事はそれだけで十分な悲劇だ。ドリアンの立場は、僕が考えていたほど、気楽ではない様子だ。だが、国家とは、などと考えていると、日常に物欲を忍び込ませる仕事なんてできなくなってしまう。だから、そういう事を考える事は君に押し付けて、今日は筆を置くよ。ちょっと下世話なスキャンダルを伝えようかという気であったのに、不快な気分にさせてしまってすまない。また今度は、もう少し楽しい話を書くよ。

010. 調律師トマス・フレッチャー

 やあ、ハムレッティ。さて、以前に、調律師の男性を倶楽部に誘ってみようかと書いたのだけれど、覚えているだろうか。彼の名はトマス・フレッチャーと言うんだ。僕は最近、壁からみつけた古い弦楽器の始末に困っていたので、ミネルヴァに頼んで彼を呼んで来てもらった。そうなんだ、その楽器は、壁から出てきた。最近、街の家に電話を引こうとマントルピースの上の壁を外したら、そこにあったんだ。そして、なんというか、とても――懐かしい香りがする。暖炉の火を入れるたびにいい匂いがしたのはこのためだったみたいだ。
 家主は知らないと言うし、僕がそこに落ち着く前には入れ替わりが激しかったらしくて、前の住人はわからない。そもそも壁の中に楽器なんて、盗品か接収を免れようと隠したか――少し怪しい。大きな赤っぽい羅紗の布に包まれて、まるで大事な赤ん坊のようにして置いてあった。だから、みつけた時はどきりとしたよ。でも、おいしそうな香りなものだから、うん、きっと綿菓子(Candy Floss)の香りだ、だから僕は怖いことを考えずにそれを取り出せた。
 楽器は太ったギターに似ていて、イチジクか洋ナシの形をしている。楽器の周囲には、驚くべき繊細さで寄木の飾りがあり、弦の下の丸い所にも似た模様が彫ってある。おそらく、ルネサンスあたりにあったような寄木細工で、真ん中に百合か水仙のような形がみえる。弦は、僕には楽器のことは全く分からないけれど、白っぽくしなしなしていたから、傷んでいたのかもしれない。
「――これを、壁で?」
関心があるのかないのか、調律師トマスは僕や楽器ではなく、遠くに座ったミネルヴァが笑顔で振った手に微笑みながら手で挨拶する。彼は白髪とも金髪ともの見分けが付かない髪を短く揃えた、すっきりした体格の人でね。腰を捻り肩を半分反らせて手を振るのに、年齢なりの緩慢さがない。僕はどういうわけか、先日のドリアンを思い出したよ。つまり、動きが速いんだろうね。
「盗品かもしれないとも思ったんですが、どうにも。どうですかね、盗んで隠すほどの価値があるものでしょうか。」
僕が汚れを落とした葡萄色の包み――見つけた羅紗布を洗って貰ったんだ、深くて綺麗な葡萄色に百合の柄、どこかしら官能的だ――を開いて初めて、彼はこちらへ向き直った。人の虹彩は年齢を重ねると退色するもののようだが、彼の、色彩が抑えられた瞳はなお鋭くて、印象的だ。その灰色がかった瞳は、包みが解かれて楽器を前にすると、普段の穏やかさが消えて、獲物と距離を測る鷲のようになった。深い赤みがかった包みの中で、弦は数本、切れてしまっていた。調律師トマスはその弦をそっと指でなぞって、そこから透かし彫りのある丸へ、傷口を確認する外科医のように慎重に指を滑らせ、それからそっと弦が切れたのを持ち上げて楽器の首のような部分を見ている。
「経年劣化で脆くなったのを、布の上から押さえたので切れたのでしょう。幸い、薔薇窓に傷はない。」
それで、調律師は慎重に楽器を包みから持ち上げ、眠った赤ん坊のようにしっかりと支え、それから自分の顔のほうを動かして検分する。僕は、なんとなく赤児を取り合う母親たちに裁定を下したソロモン王――だったか、別の王だったか、とにかく古代の賢い王を連想したよ。
「…変わった香りですよね。」
「ええ…暖炉の上の壁のなか?板は――歪みはない――信じられない――」
持ち上げて板を見て、それから周囲に施された寄木の細工を撫で、香りを嗅ぐ。
「何の楽器か、わかりますか。」
「リュートですよ。どれ。」
彼は、今度はリュートを抱くと板をあちこち優しく指で叩き、次いで弦の残ったものを少し弾き調整し、やがて柔らかく卓上の布の上に戻す。
「弦を張り替えて弾いてみないことにはわかりませんが――あまり傷みはない。特に、薔薇窓に損傷がないのは奇跡です。布と、置かれた場所がよかったのかな。しかし、これは、音だけを追求したものではないですね。古そうだし、これはもう、演奏するというよりは、飾るものでしょうね。寄木細工は見事です――が、音を損ねる。本当なら膠が傷んで離れそうですが、これは大丈夫なようだ。そしてこの香り――ニスに何か、香料が溶かし込んであるようですね。これが木を守ったのかもしれませんが――聞いたことがない。このぐるりと施された寄せ木も――香りはここからも来ている。」
そこで初めてトマスは楽器から目をあげ、僕を見る。それで、残念そうな顔に気が付いたのか、軽く笑う。
「なに、がっかりすることはありません。細工自体は素晴らしい。それにこの手の楽器はストラディバリウスとは違って、劇的な音で幻想を描き出すものではないんです――しかし、親密な空間には似合う。どれ、しばらくお預かりして、弦を張り替えましょう。おや、どうしました?」
それで、僕は、結局この壁から取り出され楽器の価値がわからなくなってしまう。弦をプロに張り替えて貰う価値があるのかすらもわからない。
「ええと――おいくらかかりますか。」
僕が言うと、トマスは、また楽器を取り上げ、今度は膝の上に乗せ、弦や、あの、ぐいっと折れ曲がったところ――ペグボックスというらしいのだが、その辺りをひとしきり触れてから言った。
「そちらはご心配なく――しかし、甘い香りだ。」
「つい食べたくなりますよね。」
「――硬いですよ?」
それで、その時はその後、あまり関係ない話をしてしばらく過ごしたよ。なんと、彼はユニコーンの尾でできたヴァイオリンの弓見たことがあるそうだよ!陽光の下では淡く紫から紅色に光り、張り替える必要がないそうだ。とはいえ、僕は、ヴァイオリンの弓がどのくらいの頻度で張り替えないといけないのかも知らなかったのだけれど。半年に一度くらいで、下手な人がひくと、それも痕跡でわかるそうだよ。なんとまあ、奥が深い世界だ。そんな話をしている間、楽器はずっと彼が抱いていた。僕は、猫みたいだなと思ったよ。どうだい、今回は、哀しくない話だろう?また書くよ。

――君の、楽器の値段に過剰に期待した愚かな友人「タイポ」より

追伸
今日の午後、美術館へ行ってきたんだ。娘を連れてね――そうしたら、奇妙だね、特に天気が悪いわけでもないのに、二組も知り合いに会ってね。始めは、ホルバインの『大使』の前で――オーウェン兄妹だ。オーウェンは、僕が娘を連れているのに驚いていたよ。可愛い、妖精のようだと褒めそやしてくれて、幼い娘はすっかり照れてしまったよ。ホルバインも大使の絵は、君が教えてくれた通り、不気味だね。僕は、そのなかにあったリュートの切れた弦を見て、なんとも言えない気持ちになったよ。そういえば、調律師トマス氏が切れた白い弦を見ている時、僕は――外科医を連想してしまってね。僕の頬の弦も張り替えられないもんかなと思うんだが、まあ、無理を承知で動かしてみるよ。変な位置へも繋がれるなら、元の位置へも繋がれそうなものじゃないか?フルーツがいいと聞いてね、食べ過ぎて少し太った。
 それから、これもリュートの絵…僕らは、今回はリュートの絵巡りをしていたから――テル・ボルフの絵で、『2人の男性にリュートを奏でる女性』というやつなんだが――その前で、トマス氏を見つけたよ。彼は、僕からするとあまり惹かれるところのないその絵の前で腕を組んで、いつまでもそれを見つめていたよ。
「やあ、トマスさん。」
「ああ、ごきげんよう。おや、ごきげんよう、お姫様。」
トマス氏は私へ挨拶もそこそこに、私が抱いた娘に挨拶し、それから、絵に向き直る。画題は、2人の男性とリュートを弾く女性――だが、その時代にはどうだったのかは知らないが、女性はあまり美しくは僕にはうつらないので、これはあまり――ミネルヴァを巡るトマスとヨハン駆け引きには読めない。
「やはり――ここにも寄木の飾りはありませんね。」
「ええ――そうですね。薔薇窓の透かしは、あまり珍しくないのですが――ないと困るものなので。しかし、あの香り――。」
「ニスと寄木の。」
「そうです。寄せ木とニスに、別の香料が使ってある。その2種が合わさって、あの、甘いような香ばしいような、まるで――ああ、また、香るようだ――すみません、どうも、夢中になってしまって。あの楽器のことばかり考えてしまうんですよ、きっとあの香りのせいだと思いますが――あれは、まるで――」
「綿菓子みたいな?」
「ええ、でも、どうして――ああ」
それで、調律師トマス氏は笑って、繊細かつ力づよい指で額を擦った。彼が灰色がかった目を輝かせて見る娘の襟と髪に、ここに入る直前に急いで食べてしまった綿菓子が、ベッタリとついていた。周囲に拭き取るものがなかったので、今さら慌てるよりは、と、そのままにしていたのだ。
「ああ、なんと――可愛らしい。しかし、あの楽器、あなた、要りますか――?あれは、親密な人々が親密な空間で、大人同士の愛をささやくため楽器です。できれば、譲って頂けませんか?」
「そりゃあ、もちろん――」
「では――こちらで――」
そう言って、彼は僕が娘を抱いたまま、上着のポケットに小切手を滑り込ませた。
 僕は、その時は、まあ、たまたま見つけた楽器だし、と思った。後に確認したら、小切手の金額は、僕が独力では到底手に入れられない額だったよ。娘の綿菓子が効いたのかな。また書くよ。

011. 老騎士と扉

やあ、ハムレッティ。実はね、例のキャビネットなんだが――ひとりで嘆いているよりは、いっそ公開してやろうと思ってね。倶楽部に置いてきた。そうしたら、誰かが行方不明だったあのワニの剥製を中に置いて行ったよ。どこにいたんだろうね。悪魔の作った僕の「そこにいない男」だか女だか、僕の世界を買った怪人物は、もうずっと現れない。雑誌スタンドのニコラス氏は相変わらず誠実で、僕は僕で、ちゃんと時々、仕事をしている。
 僕は、キャビネット中で見付けた本を全て売ってしまったと言ったろう。だが――どうも、一冊だけ、なにしろ小さいノートだったものだから、見落としていたようだ。その中には、怪しげな呪文や絵がたくさんあって、恐らくは誰かの魔術レシピ集だったんだろうが――もう二十世紀も半ばだからね。オカルト関係のものを集めていた独裁者ももういないから、そういう空気を醸成する機運もない。魔法は、もう、きっと効果は薄い。とはいえ、僕も君も、少し、共感できそうな短い物語を見つけたんで、書き写しておくよ。

​『去りしもの、いまだ来たらぬもの

老騎士は悩んでいた。
時々、奇妙に飛ぶ心音と、思いがけず開く記憶の扉に。

「どうした。」

老騎士に任された若い王子は、かつての王国の栄光を知らない。
地の果てまでも馬を駆ったかつての王も知らない。
それは王子の血縁ではない。

王子は、やがて受けとる筈の王国が、かつては風と木漏れ日と境界の気配に満たされていたことを知らない。
それを統治していた王を殺したのが彼であると、知らない。
老騎士が自分の手にかけた王と共に去った世界を、知らない。
その世界を、王子に渡したいと望んでいることを知らない。
​世界がまだ若く、豊かであった頃。
自分が封じた世界を、取り戻す力が彼にはないことを老騎士は知っている。

「どうした。」
「よきことの呪いに悩まされております。」
「よきことは呪いではないし、呪いはよきことではない。」
「よいことが、まさによいことであるがゆえに呪いに変わることがあるのです。」
「そうか。」
王子には関心がない。
「王子は、戸棚に最上級のワインがあるのに、鍵がないが故に客人に古いパンしか出せない主人の気持ちがわかりますか。」
「まあ、客にもよるが。」
「生涯待ち続けていた客なら。」
「扉を破ればいい。」
「そうですな。」

しかし、扉は時間であり、過ぎ去ったものは決して開けはしない。

​年若い王子は老いた騎士をなじる。
「お前の考えは古い。常に過去を向いている。」
「かつてあったよきものを、いくばくかでもお分けしたいだけなのです。」
「かつて、など要らぬ。過去が開かないのであれば、未来を開けばいい。未来にだって最上のものはある。」
「しかし、私は老いていて、かつてのようには動けないのです。」
「誰がお前に動けと言った。動き方を教えるのだ。私が動くのだ。いいや、お前にできたことを私にできないとは言うな。」
王子がそう言うので、老騎士は仕方がなく同意する。
「承知いたしました。」
しかし、不安は絶えない。

かつて歩んだ過ちを、此度はいかでか避けん――
「恐れるな、わたしを疑うな。この不信心ものめ。」
王子は笑う。老騎士は、不安と信仰を共に連れて歩む。』

​ 僕は、どうかな、ちょっとこの物語は前向きすぎて、不穏だと思うんだ。だから、騎士は老騎士ではなく中年騎士で、王子はもう少し小さくて、魔法使いでもあるってことにしておきたい。

​――君の愚かなる友人 『タイポ』より

追伸
そうだね、そろそろ、君の屋敷を訪ねるとしよう。本当は、そのつもりで書き始めたのに、どうもいつもの癖でね。その奇妙なノートは持っていくよ。

012.『世界と引き替えるにふさわしい猫』

 やあ、ハムレッティ。先日はありがとう、素晴らしい休暇を過ごせたよ。ご家族にもよろしくお伝えしておくれ。
 今日はたまたまなのだが、ルイス氏の新作のお披露目というか、少しだけ内容を聞かせて質疑応答という時間に遭遇できたよ。新作は、『世界と引き替えるにふさわしい猫』というSFで、なんというかーー皮肉が効きすぎていて、僕には難しくもあったけど。
『宇宙人は存外、無遠慮だった。スフィンクスの姿で一通りの挨拶を済ませると、巨大な縦の瞳孔で大統領をチラと見て、こんな汚い偽毛玉ではなく、お前らの巫女を出せと言った。それで、大統領は、女が欲しいのだろうと、妻にして元ハリウッド女優、マリアンを小突き出した。だが、巨大な猫科宇宙人は納得しなかった。偉大な者たちはどこにいる。お前らのニュースに出ていた猿神の巫女がいるだろう、慈猿はすべて善い、という名前だ。しらぬのか。あきれたな。裸猿はこの程度だから宇宙に自分たちの未熟な文明の全てを垂れ流してしまうのだろう。不用心極まりない。お前達にはもう選択肢は2つしかない。ガス・ジャイアント衛星からのシェイプシフターの奴隷になるか、我々か。我々はお前たちを保護してやろう。代わりに全ての同胞を返してもらう。どうだ。』
「同胞ってなんだね」
黒騎士が薄笑いを浮かべて質問し、ルイス氏は続きを読み進める。
『同胞とは誰? 自分の媚態はスフィンクス型宇宙人には意味を成さないと悟ったマリアンは、巨大な前脚に駆け寄って叫ぶ。先ほど、30歳年上の夫が猫パンチで跳ね除けられたにも関わらず。巨大なスフィンクスはすまして言う。決まっているではないか。猫と呼ばれる者たちだ。』
そこで黒騎士が笑い出し、そこに集まっていたロバート氏やニコラス氏も笑うので、ルイス氏は嬉しそうににやにやと笑って原稿がタイプされた紙を置く。
「気に入っていただけて何よりだ。だが、これはただの導入部だからなーーおい、そこの給仕、こっそり笑うなら出てきてそこに座っておくれ。俺の作品は若者が支持者なんだ。よし、反応は上々だな?」
オーウェン君は、物陰から驚いた様子で出てくるので、僕は自分が座っていたソファを開けて彼を座らせてやる。
「ここからどうなると思う?」
「ええと、猫を返してしまうんですか?」
オーウェン君が物怖じせずに聞くので、ルイス氏は嬉しそうに返す。
「返す。そうするとどうなる?」
「キッチンにネズミが増える?」
それでルイス氏は笑顔で頷き、黒騎士はあちらで手を挙げて言う。
「質問があるーーライオンやヒョウはどうなる?返すのか?」
「猫科全部だ」
「おや、それは、誰が回収するんです?」
ロバート氏が心配そうに言う。
「ノアの方舟方式で、あっちから来てもらうんじゃ駄目ですかね。」
「そこなんだが、このスフィンクス型宇宙人は民主的でなーー猫投票させる。地球にいたいか、いたくないか、いたくないとすれば迎えに来てほしいか、自分からくるのか。」
「投票率が悪そうだがーー」
「そうだ。猫は面倒なことは嫌いだから投票しないし、人間は猫を手放したくから投票を妨害する。それで、宇宙人は全猫回収の方針を決める。だが、地球に迫る危機もある。それで、宇宙スフィンクスは猫を守るべくシェイプシフターと戦いに行ってくれるので、その間に人間にーーメインで、アメリカの猫回収省に、責任を押し付ける。ただし、スフィンクスが猫を回収に来るのは200年後だ。だが、人間が200年後の心配なんかすると思うか?」
「しないな。」
「しないですかねえ」
「ーー耳に痛いわねーー」
いつの間にかやってきたエコー女史が腕を組んで、少し向こうのソファの背に腰掛ける。
「今日はコウモリは?」
「いるわよ、秘書が見てる。あのソファにいる若い子、給仕?」
「ええ。オーウェン君です。」
「かわいい。うちの秘書、独身よ。」
「はあ」
そんなやり取りをこっそり続ける間も、質疑応答が続いて、なかなかルイス氏は続きを読ませてもらえない。
「おい、ちょっと続きを聞いてくれ。でないと、書いたものも書いてないものも忘れてしまう。」
「書いていないもの?」
「脳内にはあるんだがーーあれだ、レクイエムを書き留めきれなかったモーツアルトと一緒でな、身体がついていかないーー」
「ルイス、素直に肩が痛いと言いなさい。」
黒騎士がまたおかしそうに笑って言う。それでルイス氏もにやりと笑う。
「ああ、すまない。本当は、この導入部から、アメリカ猫回収省の若き回収官と、無猫地区を調査する女性研究者のロマンスを絡めた宝探しとタイムリミットサスペンスが始まるんだがーー文字にするのが大変でね。俺の手書きメモは誰も読めないし、かといってタイプは、この年齢になると指も肩も持たんのだ。」
「無猫地域!なんと哀しい響きだ。代わりに打ってくれる人間はいないのか?」
「うむ。エコー女史、君の秘書はどうだ。」
「無理ですね。彼女は議事録の作成で忙しいので。」
その会話の間中、僕は、オーウェン君の様子を見ていた。明るい茶色の髪、広い肩幅、普段は決して座ることのない一人掛けのソファに背筋を伸ばして座っている。突然、呼び止められ、意見を聞かれ、物怖じする様子もなく、けして目を伏せない。最近はタイプも随分上達したし、元々スペルをあまり間違える方でもない。それで、僕が推薦しようを手を挙げる。しかし、それと同時に、オーウェン君の方は立ち上がっていた。
「こちらの担当時間が終わった後なら、お手伝いできるかと存じますが。」
「ほうーー?」
ルイス氏は、眼鏡を直して、オーウェン君をまじまじと見つめる。作品を受け止めるだけの存在から、作品を届ける側に移る事に、オーウェン君は微塵も躊躇いを見せなかった。物陰で笑っていた時に、呼び出されても悪びれなかったときと同じだ。
「君は、タイプが打てるように見えんが。」
「打てますよ。」
「そうか。では、君も腕を痛めない程度には、書き取って貰おうか。」
「ああ、でも、そんな早くは打てません。同じ事を何度も聞きます。」
「うむ。いないよりマシかな…」
「まあ、やってみせましょうか。」
それで、ルイス氏は、別室にあるタイプライターで腕前を証明すると言うオーウェン君につれられて、その場を後にしてしまった。僕らは、しばし、呆気に取られる。それから、「とんだ伏兵がいたもんだ!」と黒騎士がいうと、我々はどういうわけかほっとしーーテーブルのうえに置かれた、途中までしか書かれていない原稿を代わるがわるに朗読した。若き猫回収官の活躍には血湧き肉躍るものがあったーーそして、どういうわけか、この猫回収官は、少なくとも僕の想像の中では、オーウェン君の顔をしていた。それで、第一章のとてもいいところで話が途切れるとーーエコー女史がこう言った。
「もう、オーウェン君はどうなっちゃうの?」
それから、言い直す。
「オーウェン君に早く書き留めてもらわないとね。ルイス氏を急かさなきゃ。一体どうなるのかしらーー」
そういって、エコー女史は「読めない」と言われていたメモの束を解読しようと手に取る。そこへ、秘書の女性が迎えに来る。会議と晩餐会の打ち合わせだ。秘書が本題にはいる前に、エコー女史は、彼女の愛称を聞く。秘書の女性は怪訝そうにミリーですと答える。エコー女史は立ち去り際に、僕にこう言う。
「チェルビーノ君、ルイス氏は女性研究者が登場すると言ったわね。メモに、ミリーって、書きたしておいて。いい、ミリーよ。」
そう言って念押しをするエコー女史は、以前の印象とは何かが違った気がする。コウモリの効果だろうか。しかし、要求は通している。それで、僕はメモの束から女性研究者の名前を見つけて、ミリー書き足す。ミリーは砂漠で巨大な化け物を爆破する設定になっている。大変そうだ。それから、星マーク付いた重要な宇宙人の横には、こっそりと娘の名前を書き足したよ。気付かれたら叱られるかな。オーウェン君がルイス氏の文章を聞き取ってタイプする時には、ぜひ、このメモを使ってくれる事を願うよ。

ーー君の愚かなる友人「タイポ」より

追伸
エコー女史が僕に情報を書き足しさせた章をオーウェンがタイプして、読んでくれたよ。ミリーという名前はレノアに、僕の娘の名前はーールイス氏の娘の名前に入れ替えられていた。たけど、ミリーにも娘にも、それぞれに粋な地球人の役を振られていたよ。それに、名前を後々、登場人物の名前を考えるのが面倒になったのかな、端々にちょこちょこと、僕らの名前も使ってあった。なんと、君の名前も。出版が楽しみだよ、きっと最高にナンセンスで面白い小説になる。ところで、久しぶり倶楽部に来る言っていたね。楽しみだよ。

『満足せる愚か者』からの手紙

調律師が某英国人歌手で、ミネルヴァはその妻がイメージです。大抵そうですが、有名人以外のモデルはいません。ルイスは中年以降のルー・リード、ドリアンはルーカス・ティル、ニコラスはサンタです。レノアは…ポーの『大鴉』から名前だけ取っていますが、設定は『ノトラント』から来てます。語り手は、ダーク・ジェントリーのイライジャ・ウッドの雰囲気かなと思ってたけど、マイケル・J・フォックスでもいいかな。

『満足せる愚か者』からの手紙

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-12-01

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 001. 『満足せる愚か者』からの手紙
  2. 002. ヨハン・ザ・ケーニヒ
  3. 003. エコー女史
  4. 004. 給仕 アルマン・カサネル
  5. 005. 雑誌スタンド店主ニコラスの話
  6. 006. キャビネットの悪魔
  7. 007. オーウェンとカワセミ
  8. 008. ナザール・ボンジュウ
  9. 009. 月曜日の子供
  10. 010. 調律師トマス・フレッチャー
  11. 011. 老騎士と扉
  12. 012.『世界と引き替えるにふさわしい猫』