04 背中合わせ
前編、後編を1本にまとめました。
後編から読みたい方は、目次から08に飛んでください。
お手数おかけいたします。
01
5月の第三月曜日。
「家入先輩!」
部活を終えたジンジは、グラウンドと校舎を結ぶ橋の途中まで来たところで声を掛けられた。
声は橋を渡ったすぐ先の、旧校舎と体育館の間にある中庭の方からだった。
その中庭の左側の体育館の近くに人が立っている。
ジンジは夕暮れの中の人影に近付きながら、首をひねる。
知った顔の後輩なのだが……と首を傾げるジンジに
「カコ先輩と同じ、バレー部の2年生です」と影は言った。
……それは分かっている。
カコからノートを写させてもらう代わりに、会ってあげてと言われた後輩だ。
体育館裏で会う約束をしていて、結局来なかった娘なんだけれど……その後ある日の部活の終わりに、あの娘だよ、と遠目にカコから教えられたので、顔だけは覚えている。
だが名前が思い出せないのだ。
言い淀むジンジを、彼女は上目遣いで見ている。
カコが、会うんだから名前だけは教えとくね、とあの時教えてくれたはずだったと、その場面を思い返しながら、ジンジは千数百億個の脳細胞をフル回転させた。
「ヒ・カ・リ…?」
すると、その娘の表情が一変した。
「覚えていてくれたんですね、ありがとうございます」
彼女は一気に駆け寄って来ると、勢いそのままに、ジンジに頭を下げた。
「それも、ヒカリ、って呼んでくださるなんて」
彼女の声はひっくり返っていた。
あの雨の日、体育館裏で会うからと、カコはその後輩の名前を教えてくれていたはずだったのだが、一度会うだけだから、とジンジは失礼にも、彼女の名前を上の空で聞いていたのだ。
あの時カコは……
「部員はみんな、ヒカリって呼んでるんだよ」
「ふーん、新幹線ひかり号のヒカリね」と自分が何気なく口にしたのを思い出したのである。
ヒカリはモジモジしながら、さらに一歩近付いて来た。
「そ、それじゃあ」と迫るヒカリに、ジンジはタジタジとなった。
ヒカリは、えいッ! っと言わんばかりに肩に力を込めていた。
「わたしのことをヒカリって呼んでくださったんだから……だったら、わたしも家入先輩のことをジンジ先輩って呼んでもいいでしょうか?」
そうヒカリは、一息で言い切っていた。
何を突然そんなことを、オレは君の名前を憶えていないんだ……と思いながらも、強い押しに圧倒されて
「か、構わないよ」と返してしまっていた。
するとヒカリは、薄暗がりの中でもはっきりと見えるくらいに嬉しそうな顔になっていた。
ジンジは焦った。
そのあまり……
「ぶ、部活は、も、もう終わったのか?」と分かりきった質問をしてしまったいた。
自分が終わったのだから、もう下校時間で、特別なことが無い限りは学校を出なければならないのである。
「ええ、今日はもう終わりです。サッカー部も終わりですよね?」
「ああ、オレらも終わり。そう言えばバレー部も、今日はグラウンドグで練習してたよな」
体育館は、バスケット部と交代で使うことになっており、今日はバレー部がグラウンドで練習する日だったのである。
バレー部もグラウンドで練習してたんだから、終わったのは分かるじゃないか、なに言ってんだおれは……
ジンジは所在なく辺りを見回した。
「そうだ、カコ先輩なら、用事があるからって先に帰りましたよ」
訊いてもいないのに、ヒカリは教えてくれた。
「用事がある?」
ジンジは首をかしげた。
「部活が終わったら、お先に、って先に帰ってしまいました」
「そうなのか」
「一緒に帰ろうと思ってたんですか?」とヒカリはジンジをのぞき見た。
慌ててジンジは、大袈裟に否定した。
「いいや、そうじゃ無い」
うわ~話が続かない、何か喋べらなきゃ、どうしよう……オレはクリームパンとメロンパンが好きだって言ってみるか、それで何秒保つ?
あれこれと頭の中で考えている間に、永遠と思われる沈黙の時間が流れていった。
*
「ヒカリ」
その時、彼女を呼ぶ男子の声があった。
二人が顔を向けると、声の主が橋を渡って来るところだった。
「岡戸くんじゃないの」とヒカリが言った。
「センカンじゃないか」とジンジ。
やって来たのは、サッカー部2年の岡戸ムサシだった。
「家入先輩じゃないスか――」
岡戸は、ジンジだったことに驚いたようだった。
そして、不思議そうにヒカリとジンジを交互に見やっていた。
「先輩とヒカリは知り合いだったんスか?」
「そうだよ」とヒカリは声を弾ませていた。
「バレー部の墨木先輩が家入先輩と同じクラスなの。それに同じ小学校出身だったから、だんだん一緒に帰るようになって……それでお知り合いになったんだよ」とわざわざ説明までしてくれていた。
そうだっけ? 一緒に帰ってたっけ? とジンジは心の中で首を傾げていた。
「そうだったんスか」
岡戸の声のトーンが、ほんの少し落ちていた。
二人は気付かない。
「ところで岡戸くん、そのセンカンって何、あだ名なの?」
「サッカー部の先輩からはそう呼ばれてるんだ。名前がムサシだから、戦艦武蔵でセンカンって――」
落ちたトーンは、もう何処にも無かった。
「へぇ~知らなかった。カッコいいじゃん」
「な、何ならヒカリも……オレのこと、セ、センカンって呼んでくれていいだぜ」
彼の狼狽(うろたえ)るさまが、ジンジにも伝わってきた。
今度はジンジが、ヒカリとセンカンを交互に見やった。
「そぉ~お、ならそう呼んじゃおっかなぁ~」
ヒカリは、甘えた声で言った。
「お、おう。いいぞ」
返すセンカンも、まんざらでも無いようだ。
「じゃあ、そうする。ね、センカン!」
いやぁ~、と照れまくるセンカンだった。
「ごちそうさまです」とジンジ。
するとヒカリが、即座に反応していた。
「そ、そんなんじゃありません」
焦ったヒカリは、ジンジの詰襟の腕に冗談っぽく手を伸ばした。
ジンジはさりげなく身体を横にして、ヒカリの手を流していた。
「でさ……もうそろそろ帰らないかい?」とジンジ。
「そ、そうですよネ! か、帰りましょう」
ヒカリはドギマギしていた。
今のは何なんだ? とセンカンは、訳が分からず二人を交互に見ている。
じゃあ、とジンジは、先輩の特権を利用して、半ば強引に歩きはじめていた。
「待ってくださいよう」とヒカリが慌てて動いた。
センカンは小走りでヒカリの横に並んだ。
ジンジの後ろを、ヒカリとセンカンが並んで歩いて付いて来た。
三人は旭東通りまで出た。
ヒカリとジンジは、右に折れた。
センカンは左だ。
ヒカリとジンジはグラウンドを右に見ながら一ツ葉の方へ歩いてゆく。
二人になっても、ヒカリはジンジの横には並ぼうとしなかった。
少し距離を置いて黙って後ろを付いて来るだけだった。
*
昭和町交差点を渡って二つ目の角を右に曲がる。
そして左に曲がる角まで来た。
そこでジンジが後方を振り返った。
旭東通りを最初に曲がった、その道の真ん中にヒカリが立っていた。
この前と同じ所に立っている。〈01 先輩 02章〉
立ったまま、ずっとジンジのことを見ていたようだ。
ジンジが、アディダスのバッグを頭の上まで持ち上げると、ヒカリは嬉しそうにペコリと頭を下げた。
02
翌日の火曜日、朝。
教室に入ると、ジンジは鞄を掛けたままの格好でカコの席まで行った。
「おはよう」
後ろから驚かせてやろうと思っていたのに、カコは振り返って笑った。
なんだよ気付いてたのかよ、とジンジは頭を掻いた。
「どうしたの? 何かあった? 訊きたいことでもあるの? ノート?」
カコが矢継ぎ早に訊いてきた。
「ノートはまた今度……大事な時まで取っとく」とジンジは返していた。
カコはそれにも
「いつも大事なんじゃないの」と冗談っぽく返した。
ジンジは、その台詞を聞かなかったことにした。
「実は昨日、部活の帰りにヒカリに声を掛けられたんだ」
「ああ、ヒカリね、ジンジに憧れてるヒカリね」
それを言うなよ、とジンジは苦笑いした。
「実はさ、そのヒカリのほんとの名前が思い出せないんだよね」
「この前教えたじゃない」
カコは呆れて口を尖らせていた。
「島田彩子って言うんだよ。ちゃんと覚えといてあげなきゃ可哀想だよ。もう~」
「しまだ・あやこ?」
カコは指で、彩の字を机の上に書いた。
「彩子の彩は、ひかりって意味もあるの。だからヒカリ」
「そんな意味があるのか。誰がそんなややこしいあだ名を付けたんだ?」
「確か自分で言ってたと思うよ。バレー部に入部して、自己紹介の時にそう呼んでくださいって言ったんだと思う」
「そうなんだ」
「最初はオドオドしたりするところがあったんだけど、一度そうと決めたら、自分の思いや考えを、はっきり主張するところがあるんだよね。だからジンジと話をしてみたいって、わたしに頼んできたんだと思うよ。言い出すまでは結構悩んでたみたいだけど――」
なるほど、とジンジは、昨日帰り際に声を掛けてきたヒカリの行動を思い出していた。
そして、道の途中に立って、振り返ったジンジにペコリと頭を下げたことも……
「それで?」とカコが言った。
「で、って……?」とジンジは訊き返していた。
「訊きたかったのは、それだけ?」
「あ、いや、その島田さんが言ってたんだ……」
「ヒカリって呼んでやったら」とカコが割り込むと、ジンジは黙った。
「どうしたの?」
「やっぱり(島田に)しっかり許可取ってから、そう呼ぶことにする」
「そうなんだ」
でも多分、ジンジは彼女のことを、ヒカリとは呼ばないだろう。
何となく、そんな気がする。
「その島田さんが言ってたんだ。昨日は用事があってすぐに帰ったんだって?」
「う、うん。ちょっとした家事都合だよ」
ジンジを見上げながら、カコは右手で襟足を撫でていた。
その時、自習始まりの予鈴が鳴った。
「じゃあ席に戻るわ」
壁の時計を見上げながらジンジが言う。
カコはそのまま身体を戻して机に向かい、中から教科書とノートを取り出そうとしていた。
その横をジンジが通り過ぎる。
「似合ってる」
ジンジは独り言でも言うように、低い小さな声で呟いてた。
カコの家事都合は、髪をカットしに行くことだったのだ。
「ありがと」
しかしその声は、席に戻ってしまったジンジの耳には届かなかった。
03
朝礼台は、校舎を隔てる橋を渡ったグラウンドの入口の端に寄せてある。
そのグラウンドを一望出来る朝礼台を陣取り、シゲボーとジンジは弁当を広げていた。
そろそろ食べ終わろうとするころ、そこにセンカンがパンをかじりながらやって来た。
「なんか(用事でも)あンのか?」
シゲボーは、最後のおかずを口に放り込んでいた。
「用ってほどでは無いンすけど」
センカンは口に入れていたパンを、しっかりと飲み込んだ。
「これから(サッカー)やるんだから、あるなら早くしてくれよな」
ジンジは、空になった弁当箱を片付けていた。
「家入先輩に、ちょっと相談が――」
「えッ、オレに? シゲボーじゃねぇの?」
ジンジは、手を止めて顔を上げた。
「家入先輩に、です」
センカンは、はっきりと言った。
「(サッカーして遊びながら)走り込もうと思ってたのに」
「分かってます」
センカンは、頭を掻きながら謝った。
「じゃあ、部活が始まる前でどうだ?」
ジンジは即座に提案していた。
とにかく走りたくてウズウズしているのだ。
「それなら、それでいいです」
センカンは頷いた。
「じゃあ決まり……な!」
ジンジは朝礼台の上に立ち上がると、そのまま飛び降りてグラウンドに走った。
空の弁当箱は朝礼台の上に置きっぱなしだ。
シゲボーも、朝礼台から飛び降りた。
シゲボーは、走り出そうとした足を止めてセンカンに振り返った。
「お前もっと走れ!」
「はい?」
「もっと走って、脂肪を筋肉に変えろ! そうすれば今よりスピードが上がる。スピードが上がれば当たりも強くなるから」
センカンの背丈は、シゲボーやジンジと変わらないが、体重は3割増しでぽっちゃりしているのだ。
それだけ言うと、シゲボーはジンジの後を追った。
二人の背中を見ながら
「弁当食った後のこのパンがいけねぇンだな」
まだ残っていたパンを、センカンは一気に口の中に放り込んでいた。
04
放課後。
サッカー部の部室は、プール下の更衣室のひとつが割り当てられている。
練習着に着替えて部屋を出たところに、センカンが走ってきた。
「(練習)始まんかンな」
「すぐ行きます」
センカンはジンジと入れ替わりに部室へ飛び込んだ。
ジンジはプール脇の監視塔まで行って、ストレッチをしながらグラウンドを眺めていた。
バレー部は、今日もグラウンドに出ていた。
本来ならば、バスケットボール部が外で練習する予定のはずだったが、土曜日に他校との練習試合が控えているので、今週はずっと体育館を使用したいとの要望があり、バレー部がグラウンドで練習することになっている。
先週、部活が終わってみんなで一緒に帰る道すがら
「その代わり、来週はずっとバレー部が体育館を独占することになってるんだよ」とカコは嬉しそうに話していた。
グラウンドでは、既に1年生と2年生がネット張りの作業を始めていた。
働いているのは、入部したばかりの1年生で、2年生は張り方を細かく指示しながら見ている。
時々、2年生から1年生に声が飛んでいるさまを、眺めるともなくジンジは見ていた。
「すいません。遅くなりました」
そこへセンカンが走って来た。
部室から監視塔までの、たったこれだけの距離で、もう息が上がりかけている。
「で、話ってのは?」早く練習をしたいから、ジンジは直ぐに訊いた。
「実は……」
センカンは、昼休みと同じように頭を掻いていた。
「部活のことか?」
「違います。オレ、サッカー凄ェ好きですから。部活のことじゃ無いです」
勢いよく頭を横に振った。
部活のことならジンジじゃ無くて、主将のヤッチンか副将のシゲボーに相談するはずである。
「じゃあ何だよ?」
ジンジは、足首を回しながら次の言葉を待った。
「は、い……」
言い淀みながら、センカンはジンジの左横に立ち、屈伸を始めた。
「あそこ……」
センカンはある方向を見ていた。
ジンジは、あそこって? とバレー部の一番左のネットの方に目を向けた。
そこにヒカリを見付けた。
彼女はこっちを見ていた。
ヒカリは、ジンジが気付くよりも前からこっちの存在を知っていたようだ。
「ヒカリがこっちを見てるでしょう?」
二人の他に周りは誰もいないのに、センカンは小声になっていた。
誰が? とジンジはとぼけた。
「ヒカリですよ」
「ああ、島田ね」
ジンジは彼女に、軽く挨拶を送った。
ヒカリは大きく手を振って返してきた。
センカンは軽く右手を上げた。
挨拶を返したかどうかも分からない動きだった。
そしてセンカンは、バレー部に……と言うよりヒカリから背を向けていた。
センカンとジンジは、互いに肩を並べて、正反対の方を向く恰好となってしまった。
バレー部の誰かが、多分2年生だろう、ヒカリに話しかけているが、それはセンカンが背中を向けた後だった。
「先輩とヒカリって、知り合いだったンですね」
センカンは昨日と同じことを訊いた。
「うん、まぁ」
知り合いになったきっかけがどうも……なのでジンジは曖昧に答えていた。
「きのう、先輩とヒカリって結構親しそうに話してたじゃないですか」
「島田は墨木の後輩で、たまたま帰りが一緒になって顔見知りになっただけだぞ」
鈍感なのか? 多分そうなのだろう……
ジンジにはヒカリと一緒に帰っていた覚えが無いのだ。
「墨木さんと島田がよく話しをしているのを見掛けます。それとあと三人の先輩たちと五人で話しているところも見掛けます」
「菅野(ナオコ)と江本(ユウコ)と武藤(タカコ)だ」
良く見てやがンなぁ、とジンジは三人の部活まで教えてやった。
「ヒカリも先輩たちと同じ小学校だから、帰る方向が一緒なんですよね」
センカンは自分を納得させるように頷いていた。
「それで家入先輩も、自然にヒカリと顔見知りになったって訳ですよね」
ひとつひとつを確認するように、センカンは話を続けた。
「先輩が島田のことを知っているから……だから先輩にお願いしようと思ったンです」
急に〝ヒカリ〟が〝島田〟になっていた。
サッカー部の1年生たちが、練習用ボールを抱えてグラウンドに運び入れ始めた。
「お願い?」
唐突に
「実はオレ、島田のことが好きなンすよ」
監視塔の壁を見上げながら、センカンは切り出していた。
「好き……」
ジンジは思わずセンカンを見ていた。
はい、とセンカンは頷いていた。
昨日の、センカンのぎこちない態度を、ジンジは思い出していた。
「告白しようと思ってます、いやします!」
真剣な顔で、そう言った。
その後に照れ笑いが続いた。
「それを何故、オレに言うンだ?」
「だから、先輩と島田が知り合いだからですよ」
「答えになって無いぞ」
ジンジには、チンプンカンプンである。
「三人とも同じ小学校の出身だから、帰る時も……えっと墨木先輩でしたっけ?」
ジンジは頷いた。
「その先輩たちと一緒のことが多いんですよね。それで先輩も、自然に島田と顔見知りになったって訳ですね」
同じことを何度も言われているのだが、ジンジは黙って聞いていた。
「だから先輩に頼むンです。オレが話したがっている……って島田に伝えて欲しいンです」
「会ってやってくれって、オレが彼女に頼むのか?」
「はい」
ジンジは天を仰いだ。
「お前ねぇ、自分で言えよ」
「駄目なんスか?」
センカンは驚いていた。
快く引き受けてくれると思っていたからだ。
「何故オレなんだよ? オレに頼む理由が分かンねぇよ」
「先輩なら絶対引き受けてくれると思ってました」
センカンは言葉に詰まった。
しかも今のも答えになっていない。
「話がしたい。……って自分で伝えればいいだけじゃないかよ」
「2年になってクラスが別れてしまって、それ以来話をする機会がまったく無いんです。二人っきりになる時間なんて一瞬も無んです」
センカンは言葉を切った。
「昨日オレは……」と、また言葉を切った。
「オレは島田があそこにいるのを知ってたんですよ。だからチャンスだと思って行ってみたんです。そしたら、先輩と話してるじゃないですか」
センカンはプールの監視塔を見上げながら睨んでいる。
睨む相手はジンジだ。
「先輩がいなかったら話せたかも知れないのに……」
「オレがそのチャンスを潰したってのか?」
「そうは言ってません。でも先輩が、先輩が島田と知り合いだってことを昨日まで知らなかったから……」
センカンは沈黙した。
どう話を続ければいいか迷っているのだ。
「あそこで島田を見付けた時は、バレー部の誰かといると思ったんです。それなら直ぐ別れちゃうだろうし。それから何とかすれば話をするチャンスがあるかな?と思ったんですが……でも行ってみたら先輩じゃないスか。先輩と島田の関係って何だ?と思ったら舞い上がっちゃって――」
センカンはぶちまけるように喋った。
「さっきも言ったじゃないか。島田は墨木の後輩で同じ小学校の出身だからって、だたその理由だけの知り合いだぞ」
「ほんとにそれだけなンすか?」
センカンは反論した。
「疑ってンのか?」
ほんの少しだが、ジンジにも後ろめたい気持ちが無くはなかった。
「疑っているわけじゃ無いンです」
センカンは首を横に振りながら、ため息をついた。
そして次の瞬間には、人なつっこい笑みに変わっていた。
「それなら、なおのこと引き受けてくれますよね。先輩にお願いしたいです。かわいい後輩だと思って――」
「オレじゃなくて他の奴に頼めば? 例えばクラスの……」
センカンは駄目です、と手を振った。
「クラスの奴に頼んじゃったら、すぐ広がっちゃいますよ! そうなったら島田に悪いし」
「誰にも言うなって頼めよ」
「そんな友達いないっス」
ほんとかよ? とジンジの顔はそう言っている。
「じゃあ手紙を書けよ。何日の何時に何処どこで会ってくれないかって下駄箱にでも机の中にでも入れろよ」
「オレ、字が下手くそだから」
「なに変な理由をくっ付けてんだよ」
「文章を考えるのも苦手なんです」と無茶苦茶なわがままが返ってきた。
気持ちが伝わればいいじゃんかよ、とジンジは言いたかった。
すると、センカンはいきなり向き直り、両手を合わせた。
「だからとにかくお願いしますよ。オレにチャンスをくださいよ」
お願いします、と今度は頭を下げた。
次は土下座しそうな勢いである。
「部活が終わったら、島田はたいがい先輩たちと一緒に帰ってるじゃないスか。そん時そ~と横に並んで、チョコチョコって話してくださいよ」
「お前も一緒に帰れば」
「一緒に帰るったって大通り(旭東通り)までじゃないスか。そこまで30メートルもありませんよ。そんな短い距離じゃあ、絶対無理っス」
参ったなぁ~、とジンジはバレー部の方へ目を向けた。
そこへ、バレー部の3年生がグラウンドに現れた。
ナオもいるし、カコも姿を見せた。
センカンは、困ったような、そして泣きそうな顔で、監視塔に頭を垂れた。
何度頭を下げれば気が済むのだろう。
ジンジが引き受けてくれるまでは下げ続けるのであろう。
「分かった。分かったからもう頭を上げろ」
ジンジは、センカンの背を撫でるように叩いていた。
「言ってみるだけだぞ」
センカンは頭を上げた。
「本当っスか?」
その顔は、安堵で一杯になっていた。
「ありがとうございます」
また頭を下げた。
「頭を下げるのは、止めろって言ったろ!」
ジンジは強い口調になっていた。
半分は呆れていたし、次第に面倒臭くなってきていた。
「はい、わかりました」
「練習やるぞ」
ジンジはセンカンに背を向けて、ゴール前に集合している仲間のもとへ走った。
ジンジの横を、センカンがダッシュで追い抜いていった。
「げんきんな奴……」
そう言った同じ口からは、ため息しか出なかった。
05
翌日の朝、水曜日。
ジンジは普段より少し早く登校した。
休み時間は慌ただしいし、昼休みはグラウンドに出て走り回るし、放課後になれば二人とも直ぐに部活に行ってしまうし、帰りは仲間たちと一緒でゆっくりと話をしている余裕なんて無いし――。
結局ジンジは、朝一番に相談するのがベストだと考えたのである。
*
カコは教室に入るなり、鞄を肩に掛けたまま、窓際のジンジの席に寄ってきた。
「おはよう、早いね」とカコ。
「おはよー」
「ちょっと待ってて」
「オレがそっち行くよ」
カコは、立ち上がろうとしたジンジの肩に手を置いた。
「いいよ、話を聞く、なら窓際の(ジンジの)席の方が気持ちいいから」
開かれた窓からは、5月の風が吹き込み、教室の中を揺れ動き、廊下へと流れ出ている。
何も言ってないのに……とジンジはカコの姿を追っていた。
席に鞄を置いて戻ってきたカコは、ジンジの前の椅子に横座りして窓の方を向いた。
前の席のクラスメイトは、いつも時間ギリギリに教室に飛び込んでくる男子だ。
「準備OKだよ。昨日、部活前にグランドで話してた後輩とのことでしょう?」
どうして? とジンジは目を丸くした。
「昨日、みんなと一緒に帰っている時に、何か考え事してたみたいだったし――」
「そうか」
「でも部活に行く前まではそんなようすは無かったし、だから」
そこまで分かってくれているのならばと、ジンジはさっそく昨日のセンカンとの会話を切り出していた。
*
「どうしよう?」
ジンジはうなだれていた。
「どうもこうも無いでしょう。頼んでやるって、言っちゃったんでしょう?」
「はい、そのとおりです」
「困ったね――」
カコはジンジの机に左肘を置いて、窓の外の景色に目をやっている。
朝の陽差しが、彼女を照らしている。
吹き込む風は、頬と唇、そしてカットしたばかりの髪を包み込んで遊んでいた。
ジンジは、背筋を伸ばして距離を取った。
動きに反応したカコが、左のジンジに顔を向けた。
「何、見てるの?」
「カコ見てた」とあっさり。
言葉にこだわりは無かった。
そして……この空気感だった。
ドキドキするけど、落ち着くような、そいでもって安心していられるような感じ――
ジンジは意識しないままに唇を緩めていた。
直後に慌てて口を押さえていた。
瞳は、キョトキョトとあらぬ方向をさまよった。
「それで、どうするの?」と訊かれ、ジンジは意識をそちらに向けた。
「だから早く来たんでしょう?」
そうだった、とジンジは尻を動かして、座り心地を確認していた。
「でも二人のことだから、オレたち外野があれこれ言ってもなぁ~」
「ジンジはもう内野手になってると思うけど」
「上手い表現だな」とジンジ。
カコが睨んできた。
「真面目に考えなきゃ」
「そうだね、真剣にネ~」
カコもしっかりと椅子に座り直していた。
06
「お二人さんはとお~っても仲がいいのね……」
声に顔を上げると、ナオがそこに立っていた。
「おはよーどうしたの?」
「どうしたの? じゃないでしょ! 何か忘れてない?」
ナオは両手を腰に当てて、カコの前に進み出た。
するとカコは、弾かれたように立ち上がり、両手で口を覆った。
「ごめん、すっかり忘れてた……」と手を合わせた。
「再来週の土曜日のバレー部の練習試合のことで、打ち合わせするはずだったの――」
カコは、ジンジにも謝った。
「大丈夫だよ。練習試合の打ち合わせはお弁当のときでいいよ」
気にしないで、とナオ。
「ごめん」
カコはまた手を合わせた。
「と言うことでね……わたしもお二人の話に混ぜてもらってもいいかしら?」と提案し、早々に空いている椅子を持ってきた。
参加する気まんまんである。
「そうだな、菅野の意見も訊いてみたい気もするな」とジンジ。
「いいの?」とカコ。
「構わないさ」とジンジはナオの参加を歓迎した。
「ジンジがいいって言うならいいけど……」と何か引っかかる言い方だ。
「三人寄れば、何となんとやら……だから」
「文殊の知恵、でしょ」
それじゃあ、とナオは椅子に腰掛けた。
分かった……とカコもやっと腰を下ろし、それからゆっくりと、話を始めた。
「実は、サッカー部にヒカリのことが好きな後輩がいて、二人で会う機会を作ってくれないかってジンジが頼まれちゃったの」
「ヒカリのことが好きな男子がサッカー部にいるんだ」とナオ。
カコの話は続いた。
*
「なるほど……つまりそのサッカー部の後輩は、ジンジに月下氷人(げっかひょうじん)の役をやってくれないかってことね」
「月下氷人、ずいぶん古風な言い方をするのね」
「うん、月下氷人ね。悪ィけど翻訳してくんないか?」
ジンジはニガ笑いと一緒に頭を掻いた。
「月下老と氷上人は、どちらも昔の中国の占い師で縁結びの神様でもあるの、それを組み合わせた造語ってことだよ」とカコが説明する。
「つまりジンジは、その後輩に縁結びの神様の役をやってくれって頼まれたってことでしょう」とナオが補足する。
「ジンジはヒカリのことは知ってるよね。たまにわたしたちと一緒に帰ってるから、顔くらい分かるわよね?」
ジンジは言葉を飲み込んだ。
そしてあやふやな頷き方をしていた。
カコがナオに、話をしてもいいの? と確認したのはこのことだったのだ。
「じゃあ簡単じゃない。まずはカコがジンジをきちんとヒカリに紹介して、それからジンジがさり気なくヒカリに言えばいいわけでしょ! それくらい出来るよね、カコそうだよね――」
ジンジは沈黙した。
カコも困った顔でナオを見ている。
そしてジンジは力無く首を横に振った。
「どうしたの? 何か問題でもあるの?」
「それがね……」とカコはジンジに目線を移した。
ジンジは、いいよ、と椅子の背に身体を預け、頭の後ろで指を組んだ。
カコは、ヒカリとジンジが一度だけ体育館裏で会っていたことも含めて、これまでのいきさつを説明していた。
*
話を聞き終わった後の、ナオの最初の行動は、頭で組んでいたジンジの肘を小突くことだった。
「そうだったんだ、知らなかった。ふ~ん、ジンジもやるじゃない」
「向こうが勝手に……」
ジンジは組んでいた手をほどき、今度は胸の前で組み直していた。
「勝手にじゃないと思うよ。ジンジの何かがヒカリの何かに触れたんだネきっと――」
ナオはジンジにではなく、カコに向かって話をしている。
「何かって、なんだよ」
ジンジの問いかけにナオは笑った。
「わたしはそんなこと知らないわよ。ボクのどこが気に入ったんですか?って、直接ヒカリに訊いてみればいいじゃない」と笑った。
「でもそうなってくると、話は変わってくるよね。憧れてるジンジから、別の人に会ってくれないか……て言われるのは、ヒカリにとって相当なショックだよね」
そしてナオは、真面目な顔でジンジに向き直った。
「やっぱりジンジ、月下氷人なんか止めるべきだと思うよ」
カコも同時に、首を縦に振っていた。
「勇気を出して一人で何とかしなさい!……って、後輩に言うべきだよ」
「でも、引き受けちゃたし……」
「そんなのいいの! 自分で言わせるようにするの!」
ナオの口調には勢いがあった。
「どうしてそんなに、自分で言うことにこだわンだよ?」
ナオの押しの強い意見に躊躇いながらも、訳を訊かずにはいられなかった。
渋々引き受けたにしても、引き受けたからには何とかしてやらなければ……とジンジにも意地があった。
「あのねジンジ、女の子はね……」
ナオは椅子から身を乗りだし、優しく語った。
「本人に直接言ってもらうのが一番嬉しいんだから」
「センカンは直接言うと思うけど?」
「最初っから自分で何とかするって意味よ。誰かに手伝ってもらって会う機会を作ってもらうなんて、もっての他よ!」
男と女は違うのものなのか?
ジンジは、カコの橋渡しでヒカリと会ったことを思い出していた。
「最初に第三者に言われたら、その誰かが〈まず〉二人のことを知ることになっちゃうでしょう」
「(もう知っちゃってるけど)まあ、そうだな……」
「いずれみんなが知ることになるかも知れないけど、女の子はそれまでは誰にも知られたくないって思うものなのよ――」
「そんなもんなのか?」
「そうよ、絶対そうなの! 他の誰かに会う都合を付けてもらったりするよりは、直接本人から〈いついつ会ってください〉って言ってもらってそれから〈好きです〉〈付き合ってください〉〈憧れています〉〈お友達になってください〉はたまた〈その髪型〝凄く〟似合ってます〉って言われるのが一番なの!」
「凄く……って言うのを忘れた」
「何それ?」
「何でもない、独り言……」
一瞬、ジンジの目線はカコに流れた。
「とにかく、最初っから最後まで、本人の口から言って欲しいものなの! 女の子はみんなそうよ」
ナオはカコに振り向き、微笑んだ。
「とにかく、直接言うべし!」
ナオは机を叩きそうなほどの勢いで、ジンジに断言していた。
07
放課後。
部活も終わり、カコとジンジは仲間たちと体育館の脇に集まっていた。
イケピンもいた、ナオもいた、ユウコもいた、シンコもいた、そしてポンタとタカコもいた。
他、数人の後輩の中にヒカリもいるし、センカンもいた。
今日はいやに大所帯じゃねぇかよ、とジンジは辺りを見回した。
ヒカリは、ナオとカコの三人でかたまっていた。
センカンは、後輩の男子たちと一緒だ。
そして、その一団は、数十メートルの距離を歩いてバス通りに出ると互いに挨拶を交わし、北と南に別れた。
ジンジは南グループ、一ツ葉方面の最後尾を一人で歩いていた。
未だにどうすればいいのか分からないのである。
肩を落とし、薄暗くなった地面を眺めながら歩いていると、気付かぬうちにカコが横に来ていた。
「言ったの?」
「まだ……」
「そう……」
そのまま二人は、黙って仲間たちの後を付いてゆく。
顔を上げると、ナオがユウコとタカコにヒカリを紹介していた。
いつもの顔見知りだから、すぐに打ち解けてコロコロと笑う仲になっていた。
ことが終わるまで、ナオはジンジにヒカリをなるべく近付けないようにしてくれているのだ、とカコは思った。
でもわたし達と別れてしまえば、短い距離だがヒカリとジンジは二人っきりになってしまう。
その時ジンジはどうするの? と思いを巡らせていると……ジンジが足を止めていた。
「どうしたの?」と訊いて、待った。
やがてジンジが口を開いた。
「これからセンカンを追い掛けて行って、自分で何とかするように話してみるよ」
言うとジンジは、左肩から掛けた鞄を右手に抱え、アディダスのバッグは左腕で抱えた。
「いってらっしゃい」の言葉に
ジンジは踵を返すと走って行ってしまった。
「どうしたの?」
ユウコが振り返っていた。
ヒカリとナオとタカコも歩みを止めていた。
「ううん、何でもないよ」カコは四人に歩み寄った。
「走って行っちゃったじゃない」とナオ。
「忘れ物をしたんだって」のカコの言葉に、ナオが微笑んだ。
「凄く慌ててたみたいですけど……」とヒカリ。
ヒカリはあれこれと訊きたそうだ。
「とっても〝大切なもの〟を忘れたんだって……」とカコ。
「慌てて取りに戻らなければならないほど、大事なものって何なのかしら?」とユウコ。
カコは、走っているジンジの姿を想像した。
「ナオの説教が効いたのかも」
「説教……ですか? ナオ先輩が家入先輩を怒ったんですか」
ヒカリが声をあげる。
「そうだよ。ジンジは鈍(にぶ)チンだから、こと男子と女子に関しては幼稚園児並の思考しか持ってないんだよ……」
言い終わらぬうちに、ナオはカコの鞄を叩いていた。
ポン、と小気味よい音が響いた。
「どうしたんですか?」とヒカリ。
「ううん、何でもないよ」
ナオは笑いながら、カコを睨んでいる。
ユウコとタカコが笑っていた。
つられてヒカリも笑っている。
「ほんとに先輩たちは、仲が良くて羨ましいです」
……と急に、ヒカリは笑いながらお腹を押さえていた。
「どうしたの?」とタカコが寄って来た。
ヒカリは下腹に手を置いたまま身体を折った。
慌てたみんなが、集まって来た。
「今朝からちょっとお腹の調子が悪くて……でも大丈夫です。もう痛くありません」
ヒカリはようようと身体を起こした。
「ほんとに?」
「無理しないでね」
ナオに言われてヒカリが頷く。
「ほんとだよ。調子が悪かったら、明日の部活は見学でもいいからね。大事を取って休んでも構わないからね」
「ありがとうございます」
「ほんとに無理しちゃ駄目だよ」とカコ。
「大丈夫です。無理はしません」
ヒカリは笑って応えていた。
「じゃあ、ゆっくり帰ろうか」とユウコ。
「そうね、家入くん……うんにゃ、ジンジを待っててもしょうがないから、ほら、帰ろ帰ろ」とタカコ。
ヒカリは、ジンジが走って行った学校の方を振り返った。
身体を戻すと、みんなが待っていてくれた。
やがてヒカリは、先で待つ四人をゆっくりとした足取りで追い掛けていた。
08
水曜日、朝。
ジンジが教室に入るなり、カコが駆け寄って来た。
「ヒカリが入院しちゃった」
「入院?」
「急性盲腸炎なんだって、昨日の夜、救急車で運ばれたらしいの」
今朝早く電話が鳴り、カコの母親が出た。
相手は島田の母だった。
昨日、ヒカリは帰宅するなり腹痛を訴え、救急車で県立病院まで運ばれたとのことだ。
夜のうちに手術は終わり、その後ヒカリがカコへ連絡を入れて欲しいと頼んだのだそうだ。
連絡を受けたカコは、電話でナオにも伝えた。
「ジンジが岡戸くんを追い掛けて行ったあとに、お腹が痛いって言ってたんだ――」
「手術は成功したんだろ?」
カコは頷いた。
「だったら一週間くらいで退院出来るンじゃないのか?」
「だと思う」
「なら、そんなに心配するこも無いと思うけどな」
「そうだよね」また頷く。
「そうだ」とジンジは、教室の壁の時計を見上げた。
自習開始には、まだ少し時間があった。
「センカンに伝えてくるわ」
「そうだね、そうしてあげて。多分知らないと思うから……それはそうと」
「渋ってたけど納得してくれた」
「よかったね」
「じゃあ、行ってくる」と言ったジンジを、カコが慌てて呼び止めた。
「鞄、カバン」
鞄を肩から掛けたままだったのだ。
いけね、と鞄を外して机に放り投げると、ジンジは教室を飛び出していた。
09
放課後。
部活の帰り。
「センカン、部活休んだ」
ジンジは、まるで独り言のように呟いていた。
カコは横を歩きながら、その独り言を聞いている。
「昼休みにヤッチン(サッカー部主将)の教室まで来て、今週一杯休ませてくれって申し出たらしい」
そうなんだ、とカコの短い相づち。
「センカンと同じクラスの後輩が部活のとき教えてくれたんだけどさ、あいつさ授業が終わったら、すっ飛んで帰ったらしい」
「きっとお見舞いに行ったんだよ」
うん、とジンジ。
「そうだ、岡戸くんが納得してくれたってこと、ナオにも言っといたよ」
「サンキュ」
どういたしまして、と言うカコの声は優しく響いた。
「それはそうと、ユウコやタカコも知ってんだろ?」とジンジはカコに首を向けた。
カコはジンジの視線を受けた。
「今朝あれだけバタバタしてたから、ユウコが何かあったのか? って訊いてきて、お弁当食べながら話したよ。大丈夫だった?」
「ぜんぜん大丈夫さ」
二人の前を、ナオとユウコ、タカコ、イケピンとシンコ、ポンタが歩いている。
みんなの背中を眺めながら、ジンジはカコと一緒に歩いている。
六人はそれぞれの仲間たちと、それぞれに好きな距離を取って歩いている。
そしてジンジは、黙りこくってしまった。
すると……
「どうしたの?」とカコが口を開いていた。
沈黙が嫌だったわけでは無い。
ジンジがまた何かを考えているようだったので、その何かを知りたいと思ったのだ。
「考えてた」
「何を?」
ジンジは少しだけ間を置いた。
「もしカコが、島田みたいに入院でもしたらオレはどうするかなって考えてた」
「どうするの?」
……
カコは待った。
「逢いにゆくと思う」
「逢いにきてくれるのは嬉しいけど、ベッドに横になってるんだよ。それに眠ってたら話も出来ないかも知れないよ」
「それでもいいさ」
「いいの?」
「いいさ」
「退屈しない?」
「しない」
「そう」
「ずっといる!」
そうしっかりと聞こえた。
10
土曜日の放課後。
「あした、県立病院へヒカリのお見舞いに行ってくる」
カコがそう言ったのは、部活の後にみんなと一緒に帰っている時だった。
宮崎県立宮崎病院は、宮崎市北高松町にある宮崎市最大の病院である。
橘通り四丁目交差点の角にある橘百貨店の横を東西に走っている国道10号線を西に向かって、約600メートルほど行った場所に建っている。
逆に行った東の方には宮崎駅がある。
宮崎駅から病院までは、徒歩で15分の距離だ。
「部活の休憩時間に話し合って、そういうことになったの」
「誰と行くの?」
「わたしとナオ、他に後輩が二人。あんまりたくさんで行くと迷惑かと思って――」
「まさか、自転車で行くわけじゃ無いよな?」
宮中からは、行こうと思えば自転車でも行けるからだ。
「バスにする。ナオと一緒にバスで行って、病院のロビーで後輩と待ち合わせするつもり」
「ここからだと、平和台ゆきのバスに乗ればいいんだよな」
昭和町バス停から平和台行きに乗り、県立病院前で降りればいいのである。
そう、とカコ。
「月曜日にようすを聴くかせてくれよ」
カコは、うん、と返事をした。
11
月曜日、朝。
カコはジンジの席に座っていた。
教室に入るなり、ジンジが焦ってやって来るさまを眺めながら、おはよーと笑った。
「早く話をしてあげたくて……」
浮き浮きとしたようすが見て取れる。
「今日の笑顔は三割増しだな」
わかる? とカコは両手を頬にあてた。
わかるよ、とジンジもつられて笑った。
「お見舞いに行って、何かいいことでもあったのか?」
「早く鞄置いてきなよ」
カコはジンジの席を立ち、まだ空いている向かいの椅子に移った。
ジンジは急いで鞄の中身を机の中に押し込み、教室の後ろの棚に鞄を置いて戻って来た。
ジンジが席に着くなり、カコは切り出していた。
「岡戸くんを見たの」
「え? 昨日は日曜日……だよな」
ジンジは目を丸くした。
「わたし達と一緒に見舞いに行った後輩が彼を見付けたの……」
「センカン、何か言ってたか?」
ううん、とカコは首を振った。
「後輩たちは、慌ててトイレに飛び込む彼を見ただけだから――岡戸くんは、わたし達に見付かる前に上手く隠れられたと思ったみたいだよ」と笑いがこぼれていた。
ジンジは、センカンの慌てぶりが目に浮かんだ。
「だからわたし達も、彼に気付かなかったふりをしてヒカリの病室へ向かったわけ」
ジンジは身を乗り出し、右手で机の上に頬杖を付いた。
「でね……病室へ入るなり、後輩たちがヒカリを質問攻めにしたんだから。彼と何を話してたの? って訊いたら、岡戸くんは学校での出来事を〝一人で勝手に喋った〟だけで帰ったって言うんだよ。それも、ほんの5分くらいで……」
「想像できるよ」
「後輩たちがあまりにもキャーキャー騒ぐもんだから、看護婦(看護師)さんに、静かにしなさい!……って注意されたんだから」
「よっぽど五月蠅かったんだ」
「それにね、岡戸くんは毎日来てたみたいなの」
そうなのか……とジンジは、驚きと感心がごっちゃになってしまった。
しかし、センカンのその行為に、納得している自分がいるのも分かっていた。
「岡戸くんはね、先週の土曜まで、その日の授業のノートを毎日ヒカリに渡すだけで、あとは何か話をするわけでも無く帰ってたんだって」
「ノート? センカンは島田とはクラスが違うはずだけど……」ジンジは首を捻った。
放課後になって直ぐに見舞いに行ってるのなら、ヒカリと同じクラスの誰かからノートを借りて写す時間は無いはずだ。
しかもそんなことをしていたら、回りに勘ぐられるに決まっている。
「それがね、クラスが違っても教わることは同じだからって……初めてお見舞いに来てノートを手渡すときに言ってたらしいよ。それとネ、分からないところがあったら退院してからクラスの誰かに訊いてくれって」
あいつらしいな、とジンジは苦笑いした。
「岡戸くんって言うより、男の子だからだと思う。好きな女の子のために何かしてあげたいって思ってるんだけど、ちょっとだけズレてるって言うか……」
カコは肩をすくめた。
「そのようすをネ、ヒカリははにかみながら話をするの。聞いてるわたし達も恥ずかしいやら、くすぐったいやらでネ」
カコは夢中で話を続けた。
「それでね、後輩がそのノート見せてって言ったら、嫌だって言うんだよ。だたその日の授業の内容が書いてあるだけなんだけどネ」
でも分かるんだ……とカコは自分のことのように嬉しそうだ。
「結局ね。後輩がね、休んでた分のノートを渡そうと準備してたけど、渡さずに帰ってきたったんだよ。可笑しいでしょう」
身振り手振りを交えて楽しそうに話をするカコだった。
*
ヒカリは月曜日に退院し、水曜日に登校してきた。
部活へは顔を出したが、当分の間は見学させるつもりだとカコは言っていた。
12
木曜日の放課後。
体育館脇にみんなで集まっていると、そこにシゲボーが、部室から橋を渡ってやってきた。
「ジンジは?」とカコが訊いた。
シゲボーは首を横に振って
「帰宅時間ギリギリまで、一人で居残り練習するってさ」と教えてくれた。
「最近、ゴール前にボールを上げるタイミングが納得出来ないんだってさ。今日もだいぶトンチンカンはことやってた――」
そうなんだ、とカコはグラウンドへ目を向けた。
それから直ぐに、何処を見るともなく視線を戻していた。
「帰ろうよう」
ナオがカコの肘をつついた。
ユウコもいる。
池ピン、シンコ、ポンタ、タカコもいる。
そだね、と返事をするカコの笑みは、いつものに戻っていた。
13
今日もヘトヘトだ。
一人練習を終えたジンジは、そのまま帰るのも億劫だからと、少し休んでから帰ることにした。
下校時間はとうに過ぎていたが、暗くなるまでには、まだ少し時間がある。
ジンジは朝礼台に登った。
誰もいないグラウンド。
制服が汚れるのも構わず、ジンジは両手を頭の後ろで組んで寝っ転がった。
空を見上げる。
5月の空には、さまざまな形の雲が浮かんでいた。
あれは何て言う雲なんだ? ……流れる雲を眺めながら、その名前を考えた。
うろこ雲だろ? ひつじ雲だろ? 名前だけは浮かんでくるのだが――
どの雲がそれなのかが分からない。
ジンジの中で、名前と形が合致するのは入道雲だけだった。
しかし、入道雲は夏であり、この季節に浮かんでるわけがなかった。
「それにしてもいい天気だ。こんな天気のことを五月晴れって言うんだな」
つい考えていたことが言葉となってこぼれ出ていた。
すると……
えへん、と咳払いが聞こえた。
反射的に身体を起こして振り返った。
「違うよ。五月晴れはね、梅雨の季節の晴れ間のことを言うんだよ」
カコだった。
笑っている。
「さつき……って呼びかたは、旧暦の五月の呼び方なの。だからほんとは六月になるんだよ」
「なるほどそっか! 六月ならもう梅雨に入ってるな」
「梅雨の合間のスッキリ晴れた時のことを五月晴れっていうんだって――」
ふ~ん、とジンジは顎を反らせた。
「納得いったの?」
するとジンジは、首を横に振った。
そう、とカコ。
納得いかなかったのは、五月晴れのことでは無い。
カコは居残り練習の成果を訊いていたのだ。
「すぐ出来るようになるもんでもないからな」
あっけらかんとした返事が返ってきた。
「何事も繰り返しが大事だもんね」
「ああ」
ジンジは自分を納得させるように頷いていた。
「ところでさ……」
「なに?」
「先にみんなと帰ったんじゃないのか?」
「一緒に帰ってたんだけど、忘れてたことを思い出したって言って戻ってきちゃった」
カコは舌を出して肩をすくめた。
「忘れモノ?」
「ううん。〝忘れてた〟こと――」
するとカコは、鞄を開けて淡い水色の封筒を取り出していた。
「これを読もうと思って――」
ジンジに見えるようにかざした。
「手紙?」
「うん」
カコは朝礼台の階段に足を掛けた。
「あっちを向いてくれる」
手紙を持った手でグラウンドの方を差す。
ジンジは、言われるままに向きを変えた。
カコに背を向けるかたちとなる。
「これでいいのか?」
「うん」
朝礼台の上に立つ気配があった。
カコはジンジの背中の埃を、手紙とは反対の手でゆっくりと払った。
「サンキュ」
「どういたしまして」
そしてカコは、ジンジの背に寄り掛かって座った。
背中合わせ……
「そのままでいてネ」
頷く気配がカコの背に伝わった。
封を開ける音が耳に届いた。
「誰から?」
カコの背中を感じながら、ジンジが訊いた。
「ヒカリから。昼休みに突然やって来て、読んでくださいって渡されたの」
便箋を取り出す紙擦れの音。
「ジンジのそばで読みたかったんだ……」とそこまで言って首を横に降った。
「ううん、そばで読まなきゃいけないって思ったの……」
カコの温もりが、ジンジの背中にゆっくりと広がった。
14
カコ先輩へ……
ごめんなさい。
突然、こんな手紙を渡されて戸惑っていると思います。
でも、今の私の気持ちをどうしても誰かに伝えたくて
そして誰に伝えるのが一番良いのか
いいえ、今の私の気持ちを誰に知ってもらいたいのかを考えあぐねて……
カコ先輩なら一番分わかってもらえると思って、書いています。
あれは今年の二月の出来事でした。
お昼休みのことです。
私は仲の良いクラスメイトと三人で、日向ぼっこがてらにグラウンドに出ていました。
私たちは、グラウンドの右奥にあるバックネット横の鉄棒の近くで話をしていました。
話の中身は、男子のことでした。
一人は、クラスメイトの中に気になる男子がいるみたいで、その男子が誰なのか?を当てっこしながらからかい合っていました。
もう一人は、別のクラスに気になる男子がいるみたいでした。
でも私には……
私にはクラスメイトの中にも、同じ2年生の中にも気になる男子なんていませんでした。
同い年の男子の話し方や行動が、私の目にはどうしても幼く写ってしまうからです。
私には年の離れた二人の兄がいて、いつもその兄たちと一緒なので、そのせいかもしれません。
そんな他愛のない話をしていたとき、私の背中に触れるものがありました。
それは「危ない。……ごめん」と言いながら、私の背中を押してくるのです。
びっくりした私は、身をすくめて丸くなりながら振り返りました。
そこに背中がありました。
背中は、両手を後ろに回して、私の身体を包み込むようにしていました。
背中の人は、空を見上げていました。
私も見上げると、サッカーボールが弧を描いて飛んできていました。
そこからさらに押され、私は倒れそうになりました。
でも……後ろに回された手が、私の身体を強くつかんで転ばないように支えてくれていました。
私も、倒れちゃいけない、と強く踏ん張りました。
その拍子に、私のオデコが背中の人の肩にぶつかったのです。
ゴツンと大きな音がするほど強く当たりました。
そしてドスンという音が、その人の背中から伝わってきたのです。
後で二人に教えもらったのですが、ボールが背中の人の胸に当たった音だったらしいのです。
そして背中の人は、足下に落ちたボールを、グラウンドの中央に大きく蹴り出したのだそうです。
背中の人が振り返りました。
3年生だとすぐに分かりましたが、まったく知らない人でした。
先輩は「ケガしなかったか? 大丈夫か?」と心配そうに声をかけてくれました。
私が、大丈夫です、と返事をすると「ごめんな」と謝って走って行ってしまいました。
その後クラスメイトが駆け寄ってきて、心配そうに私に声をかけてきました。
オデコに手を当てながら、私は大丈夫だと答えていました。
「凄い音がしたよ」と一人が言うと、もう一人も頷いていました。
私は石頭です。
しかもオデコだったので全然痛いとは思いませんでした。
反対にその先輩は、私の石頭のせいで相当痛かったんじゃないかと心配になってしまったほどです。
でも、あのとき振り返った先輩の顔は、痛そうな素振りは見せずに、私のことだけを心配してくれているようにしか見えませんでした。
「あの人は誰?」
走って行った先輩を目で追いながら聞いたのですが、二人にも分かりませんでした。
でもたぶん、あれだけボールの扱いが上手な人なら、きっとサッカー部の先輩だと思ったのです。
その日の部活は体育館だったので、私は翌日のグラウンドでその人を探してみることにしました。
そして、背中の人は、やっぱりサッカー部の先輩だったのです。
練習を見ていて分かりました。
高く飛んでくるボールを、先輩は胸で上手に勢いを止めているのです。
どんなに強いボールでも、簡単にトラップしています。
あのときも、胸でボールを受け止めたときの音が先輩の背中から響いてきたんだと思いました。
ボールから、私を守ってくれたのだと思ったのです。
そんなある日、私は偶然にも、先輩と会う機会を得たのです。
昼休みの保健室でのことでした。
私はクラスの保健委員で、廊下で転んで膝をケガした友だちに薬を塗ってやっているところでした。
すると突然、先輩が保健室に飛び込んできたのです。
先輩は、少し痛そうな顔をして、左肘を前に出して右手で支えています。
見ると、その左腕の肘と手首の間から血が流れていました。
先輩は自分から
「ボールに足が乗っちゃって、ひっくり返った」と言っていました。
そのときに、肘と手首の間を、地面で思いっきり擦ってしまったと言うのです。
保険室の先生の指示に従って、先輩は肘の泥を水道で洗い流し、それから私が薬を塗ってあげることになりました。
先輩は肘を曲げて、私にキズを差し出しました。
それを見て私は
(これ、絶対痛い、薬塗ったら浸みる)と思いました。
そんな私の、ちょっと戸惑ったようなようすと感じたのか……
先輩は「大丈夫さ」と強がりながら、
「ゆっくりじゃなくて、ササっと塗ってくれな」と苦笑いをしていました。
それがとっても可笑しくって……
先輩を意識するようになったのは、それからです。
しかもその先輩がカコ先輩と話をしているではないですか……
そして、その人が家入先輩であるということも分かり、しかも同じ小学校の出身だということも知ったのです。
それ以来、私は家入先輩のことが少しでも知りたくて、出来るだけ先輩たちと一緒に帰るようにしたのです。
一番後ろを、背中を追いかけながら、カコ先輩と家入先輩が話をしているのを見ていたのです。
「どうしたの? いつものヒカリらしくないね?」
ある日の下校のときでした。
先輩たちの後ろを歩いていた私に、カコ先輩が声をかけてくれました。
その頃の私の頭の中では、家入先輩の存在がどんどん膨らんでいて、どうしようも無い状態でした。
私は思い切って、家入先輩に対する〝憧れ〟という気持ちを打ち明けました。
そしてカコ先輩のお陰で、家入先輩と体育館の裏で話をすることが出来たのです。
あのときは、部活で疲れて眠っている先輩に、一方的に喋っただけですけど……
でも私は、それで充分でした。
膝を抱えて眠っている先輩に話しかけているとき……あのときはとても幸せな気持ちだったのです。
でもしばらくすると、
これまでは憧れだったジンジ先輩のことが、別の意味で、気になってしょうが無くなってしまった自分がいることに気付きました。
ジンジ先輩の心の中には、想っている人がいることは分かっています。
遠く離れたところからジンジ先輩を見ているから分かるのです。
でも……分かっていても、どうしようも無いことがあります。
別の自分に気付いてしまって以来、他のことが考えられないくらいジンジ先輩のことで頭がいっぱいになってしまったのです。
カコ先輩も好きです。
でもジンジ先輩も好き。
どうすればいいの?
どうして?
何故好きになっちゃったの?
思い悩む日々が続きました。
そして先週の月曜日のことです。
カコ先輩が家の都合で、部活が終わってすぐに帰ってしまったときのことです。
私はジンジ先輩を待ちました。
どうしても話がしたくて、二人でもう一度話がしたくて待っていたのです。
何を話すか? そして何をどうするか? というわけではありませんでした。
会って二人で、ジンジ先輩と、ただもう一度だけ話がしたかったのです。
思いが通じたのかも知れません。
会いたい、会えるかなと思っていた先輩がそこに現れたのですから……
私は勇気を振り絞って、声をかけました。
そして先輩は私のことをヒカリと呼んでくれたのです。
先輩に会えた嬉しさと、ヒカリと呼んでくれた嬉しさで、私は舞い上がってしまいました。
私は甘えるような気持ちで、先輩に近付いていきました。
このまま一緒に帰れれば、いろんな話が出来るのではないかと……期待で胸がふくらんでいました。
そこへ、岡戸くんが現れたのです。
岡戸くんが現れたときは、私はなんてついてないんだろうと思いました。
岡戸くんは関係無いでしょ! 邪魔しないで……と思ったほどです。
しかも、岡戸くんが現れてからの先輩は、とても居心地が悪そうでした。
突然現れて、先輩と私のことを勘ぐる岡戸くんに戸惑ったようです。
学校を出て、岡戸くんとはすぐに別れたのですが、私は先輩の横に並ぶことが出来ませんでした。
あのとき強引に「帰るぞ」って言っていた先輩の短い言葉の中にはどんな意味があったのでしょう?
きっと、岡戸くんと私の関係を計りかねていたのだと思います。
「そうじゃありません。岡戸くんと私はそんな仲じゃありません」と二人になったら言おうと何度思ったことか……
私はただ、先輩と二人で話をしたかっただけなんです。
でも、結局今度も……先輩のそばに近付くことが出来なかったのです。
その翌日の夜、私は盲腸で入院してしまいました。
そして手術をした翌日の水曜日のことです。
岡戸くんが、突然病室に現れたのです。
面会時間が終わるギリギリの時間でした。
一番最初にお見舞いに来てくれるのは誰かなぁ? きっと親友の二人だと勝手に思っていたのですが、来てくれたのが岡戸くんだったのに、私はびっくりしてしまいました。
彼は学生服のままで、肩から鞄を掛けていました。
やってきてくれた時間から考えても、岡戸くんは授業が終わるとすぐに来てくれたんだと思います。
今も……
とまどいながら病室のドアの横に立っている岡戸くんを思い出すことが出来ます。
岡戸くんは恥ずかしそうに近付いてくると、鞄から一冊のノートを取り出しました。
ノートを開き、その間に挟んであった4枚の紙を何も言わずに差し出したのです。
それはノートを切り取ったものでした。
とても丁寧に切り取られていました。
それには、その日の授業の内容が書かれていました。
それから毎日です。
彼は、その日の授業内容を書いて切り取ったノートを持ってきては、黙って帰っていったのです。
岡戸くんが帰った後、何度も何度も、繰り返してノートを手にしている私がいました。
授業の内容以外、何も書かれていないノートでしたが、枚数が増えるごとに、私をことをこんなにも思ってくれている切り取られたノートだと思うようになったのです。
岡戸くんは男子の中で、ほんの少しだけ仲が良い程度の……ただの人でした。
でも今は、この手紙を書きながら……それとは違う、別の気持ちを持っている私がいます。
登校してすぐに、私は岡戸くんの教室へゆき、
岡戸くん……いいえ、センカンと映画にゆく約束をしました。
私から行こうと誘ったのです。
そのときのびっくりした彼の顔がとても可笑しくて……そしてその後センカンの笑顔が私を温かくしてくれていました。
15
カコの身じろぎが、ジンジの背に伝わってきた。
「帰ろう」とカコが呟いた。
ジンジは立ち上がり、朝礼台から飛び降りた。
カコが、水色の封筒を鞄の中に大事そうに仕舞うのを黙って見ていた。
何も訊こうとは思わなかった。
ただ黙って、朝礼台から降りてくるカコを待っていた。
おしまい
04 背中合わせ
ご意見、ご感想、お待ちしています。
質問も、歓迎いたします。
syamon_jinji@proton.me