ぶり返し

ぶり返し

 まさか来るとは思わなかった。
 慌てて布団から這い出る。熱が8度近くあるので、頭がぐらっと来て足元も
おぼつかない。ショートパンツの上に、脱ぎ捨てててあったスウェットパンツ
を穿きながら、鍵とチェーンを外しドアを開ける。
「随分用心深いじゃない?」
「だって、最近変なのが来るから…」
「ところで、どう?熱は」
 澄香の右手がすっと伸びて、私の額に触れる。あぁマズイ…
「まだだいぶありそうだね」
 余計に熱が上がりそう…
「上がっていいのかな?」
「えっ、あ、うん、散らかってるけど」
「それは知ってるよ、昔から」
 澄香は、不自然なほど自然に、部屋に溶け込む。
「ちゃ~んと材料買って来たからね」
「ん?」
「味噌煮込みうどん作ってあげるから、寝てなさい」
「うん…起きてても大丈夫だよ」
「何?これ」
「ん?ああ、それ、コルクがね、どうしても開かなくて」
 私が全部言い終える前に、ポンッと軽い音がした。
「錆びちゃってるよ…これ…何て言うの?コルク抜くやつ。長い間差し込んだ
儘だったんだ…あ、ワインも酸化しちゃってるよ、捨てちゃおうね」
 そうだった。いつも澄香は私が戸惑っているうちに、パッパッと物事を済ま
せてしまい、そんなところに私はコンプレックスを感じ、だから澄香に憧れて
いた。
 やっぱり料理の手際もいいなあ等と、ぼわっとした頭で考えながら澄香の後
ろ姿を見ていると、あの頃へタイムスリップしそうになる。
 もう、10年も前―互いのアパートを行ったり来たりして朝まで語り合い、
次の日、学校やアルバイトに遅刻した事もあった。少ない材料を使って作る名
もない料理を心底おいしいと感じた。
 楽しかったなあ…知りたいこと、したいことがたくさん有って…
「出来たよーここでいいかな」
 小さな木のテーブルに、どんぶりが運ばれてくる。
 風邪で嗅覚は鈍っているけれど、微かに感じるその匂いに、思わず唾を飲み
込む。
「おいしそう」
「おいしいよ~最作った中じゃ一番の出来栄え!早く食べて!」
 ………おいしい。
 湯気で顔がじわ~っと水分を帯びてくる。
「ちゃんと家事やってるんだね」
 声のトーンが落ちぬように気をつける。
「そりゃそうよ、主婦だもん」
「亜香里ちゃんは元気?あ、今日は大丈夫なの?」
「うん、今日はね、館山に行ってるの」
「館山…旦那さんの…」
「そう、実家。連休だから、連れて行ってるんだ」
「一緒に行かなくて良かったの?」
「…留守番電話」
「えっ」
「留守番電話に入ってた声、酷かったよ~。強がりの糸文があんな声であ
んな弱気なこと言うんだもん…夫子供を捨てて、来ちゃったわよ~」
 あの時は、かなり熱が高かった。私からは絶対に電話を掛けないと心に決
めていたのに、熱がプライドを溶かしてしまったのだ。
「どう?お味の方は」
「ものすご~くおいしい」
「お世辞?」
「あ、わかったあ、私って、嘘が下手だからなあ」
「あーもう作ってやんな~い」
 また作ってくれるの?と訊きたかったけれど、答えが怖くて口に出せない。
「本当においしいよ~こういう時は心にしみるね~」
「心じゃなくて、胃にしみるんでしょ」
「ハハ、ほーんと、このところロクなもの食べてなかったから」
 あっ、と思わず声が出そうになった。輪切りの山芋…憶えていたんだ…私が
好きなこと…すっかり気持ちがふにゃ~っとなって、涙ぐんでしまう。
「佳之がね」
「えっ」
「ウチの旦那がね」
「ああ」
 甘い感動に浸っていたのも束の間、厳しい現実に戻される。
「バンドを始めたの」
「バンド?」
「AUGUSTを再結成したの」
「ほんと?メンバーは?」
「3人は同じ。ドラムの河野くんだけが仕事で神戸に行っちゃったるからダ
メだったの。代わりを探してるんだけど…ドラムはなかなかいなくてね~リ
ズムボックスで代用してるんだ」
「澄香は?」
「ん?」
「ボーカルやるの?」
「…やらないつもり」
「どうして?バンド名だって、澄香の誕生月から付けたのに」
「うーん、でもね、結婚した時点でやめたのよ…今は、私が加入する前にや
ってたインストものを演ってるの」
 澄香は、私がキーボードを担当していたバンドのボーカルだった。
 AUGUSTの前身バンドのメンバーは、一人を除いて皆、澄香のファン
で、私達のバンドから澄香を引き抜き、演奏のジャンルもバンド名も変えた
のだ。
 数年後、唯一澄香のファンではなかったベースの佳之と澄香は結婚した。
「私、AUGUSTは絶対プロになると思ってた」
「私達もね、そのつもりだったよ。大学4年の時にはレコード会社も決まり
かけていたんだけど…あの年頃って、夢と現実がうまくかみ合わないことが
あるでしょ。熱くなったかと思うと妙に冷めちゃったり…今考えると本当に
若かったなあって思うけど…今度は単なる趣味でやるだけだから。みんな少
しは大人になっているだろうし」
 私はラジオのスイッチをONにした。蘇ってくる悔しさを少しでも軽くす
る為だ。
「FEN…」
「うん。最近また聴いてるんだ」
「あの頃、よく聴いてたよね」
「生意気盛りだった」
「あ、この曲!懐かしい~」
「『COOL NIGHT』!好きだったなあ~聴いたままの目茶苦茶な英
語で唄ったっけ」
「レコード・コピーもしたよね。澄香はなんでも唄いこなせたもんね」
「…今頃褒めてくれるの?もっと早く言って欲しかったわ」
「…あの時ね、澄香があっちのバンドに移るって聞かされた時、私、たまら
ない気分だった。澄香に対する嫉妬もあったけど、私ね、澄香とはずっと一
緒に音楽をやっていきたいと思ってたから」
 今更こんなこと言うつもりはなかった。言い出したら止まらなくなりそう
で…
「だって、糸文にやる気がなかったから、バンドがウヤムヤ状態になったん
じゃない!あのバンドがもっとちゃんとしてたら、私、あっちに移らなかっ
た」
「ほんとに?あれだけ熱心に口説かれたら誰だって心が動くんじゃない?そ
れに…好きだったんでしょ。ギターの知成くんのこと」
…こんな沈黙、久し振りだ。
 頭がくら~っとしてきて、自分と澄香を中心として、ぐるんぐるんと部屋
が回っている気がした。
 偶然なのか。FENからあの頃―澄香と私が一番近くにいた頃―流行って
いた曲が続けて流れる。
「灰皿ある?」
 バッグから煙草を取り出しながら、澄香が私を見る。ちょっとキツイ、私
が大好きだったまなざし…。
 何年も前、形が気に入って買った灰皿を探す。そう言えば、一度澄香が「
糸文がやめろって言ったら、煙草やめるよ」と言ったことがあったっけ。私
は「煙草をやめなさい」と命令口調で言い、澄香は「はい、やめます」と頭
を下げ、火を点けたばかりの煙草を灰皿に押し付けた。あの時は嬉しかった
なあ、自分の存在が大きく思えて。
「なかったら何でもいいよ。糸文、煙草吸わないもんね」
「うん、あ、あった、どうぞ」
「あら、可愛いじゃない。なんで灰皿があるの?オ・ト・コ?」
「…まあね」
「いるんでしょう。いないわけないもんね」
 いるわけないでしょう。でも、悔しいから、勿体ぶっちゃう。
 …新しい人に出逢う度、知らないうちに澄香と比べていた。何年経っても
消えない、憎しみと愛しさの混じった想い…澄香だけなんだから…こんな想
いにさせるのは…
「ごちそうさま、おいしかったぁ、これで当分栄養とらなくていいや」
「早く寝た方がいいよ。私、そろそろ帰るから」
 遂に訪れた。別れの時。
「うん。ありがとう。楽しかった」
「私に会えたのが嬉しくて、熱が上がるかもね」
 ローファーを履く澄香を見ていたら、目の奥から胸にかけて、キュ~ッと
絞られる感じがしてきた。
「澄香」
 あっ、いけない、何か言ってしまいそうだ。
「ん?」
「…ぁ、うん、あの、ね……」
「ね」
「…なに?」
「知ってる?風邪って、他人(ヒト)に移すと早く治るんだよ」
 答える間もなく、私の唇に澄香の唇が重なった。
 …数秒。
「じゃあ、またね」
 私に考える余裕を与えず、澄香は出て行った。
 私は、何かを一所懸命考えているような、全く何も考えられないような、
妙な心理状態で布団に潜り込みながら、澄香狡いよと、つぶやいていた。

ぶり返し

ぶり返し

澄香が来た。糸文の想いは揺れ動く・・・。 90年代半ばに書いた♀♥♀ショートストーリー。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-02-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted