[管理人の私的日誌]
学生時代に書いた中編です。
つまり、大昔…フロッピーとかの時代…
ワンドライブに置いておくとその内開けなくなりそうな気がするので、ここに避難。
せっかくなので公開。
Ⅰ、拾った手記
先日、203号室の住人がこのアパルトマンを出て行った。涙マルハナ蜂の幼態を連れていた。大抵のひとはうんざりした様子でここを離れて行くのに、彼はすっきりとした表情をしていたのが印象的だった。彼が立ち去ったあとに、裏の焼却炉に短い手記を見つけた。くすぶった灰の上に、多分に焼くつもりで投げたのだろう。しかも、きっと本当に、それがどうなろうとかまわなかったのではないかと思う。それが焼けるのも確認せずに立ち去った。それだから、彼は手記を私が拾ったと云うことを知っても、いっこうに気にしないだろう。もしかしたら私に読んで欲しかったのかもしれない、私に、何か苦言を申し立てるつもりか何かで。
私はこのアパルトマンの管理人をしている。広い敷地の公園に隣接した、だいぶ老朽化の進んだ、しかし素敵な建物だ。しかし、私は管理人とはいっても、実質的に管理人らしい仕事は余りしない。そう云うことは全て業者に手配してあるから、私はその中継ぎ程度。古い建物だから、なんにせよ、大抵のひとは不便を承知している。だから、大抵の住人は私が管理人だと云うことを忘れている。出て行く段になって、私から受け取った鍵をかえしに来て、やっと思いだすのだ。そうして、まるで裏切りのユダにでも対するような一捌を投げて出て行く。私はこのアパルトマンの管理人だ。そして主たる仕事はこの、涙ツリガネ草という、感傷的な名のついた花の管理なのだから、彼らにとっては当局の連中となんら変わりはないだろう。とはいえ、実際のところは当局の連中の守っている秘密に通じているわけでもなく、住民たちのように花の不快を経験しているでもなく、もしかしたら、この花については、私がいちばん無知なのではないかとも思われる。なんにせよ、私は住民たちの不快を黙認する不誠実さとおなじ程度の不誠実さをもって、住民の手記を当局には提出しないことに決めた。
そうして、管理日誌とは別に、私的な日誌のようなものを書き始めることにした。すなわち今タイプしている、これのことであるけれど。
それにしたって、私だってはじめから管理人、つまり当局の共犯者であったわけではない。それに、管理人業が専門というわけでもない。はじめはただの一住民だった。勿論、このアパルトマンのだ。しかし、たいがいの住人が短期間の内に、例の花に辟易して出てゆくところを、私はいつまでも出て行かなかった。私は体質か、性格か、涙ツリガネ草の影響を受けない。当局の連中には云ってはいないけれど、昔好きだった女性の吸っていた煙草に、あの花がブレンドしてあった。その所為で抗体でもできたのかもしれない。ここには幾人かはそういう、影響を受けないひともいる。その中でも私がいちばん扱いやすそうだとみてとったのか、私に管理人の仕事が回ってきた。一階の管理人室は広くて、住み心地は良い。
ところで今、好きだった、とは云ったけれど、私はその女性が今だって大好きで、私が勉学を終えたら、結婚する約束になっている。私達は違う国にいるけれど、数年逢わなくても少しもかまわない。それを奇妙だ、本当に愛しているのかと云うひともいるが、私には愛とはそう云うものだと思われる。それでも、時折はひどく逢いたいけれど。
Ⅱ、昔の友人
それは蛇足であったけれども、実は私が最近気になっていることと関係がないわけではない。最近、私の大学時代の友人がこのアパルトマンに引っ越してきた。彼もまた、婚約していた。多くの、既に大抵はとうに青年期を終えてしまった私達の仲間は、その誉れのようにそれぞれ家庭をつくる。それだから、大抵の連中なら私も首を傾げない。ただ、彼は、結婚すべきひとだったろうか。それとも、彼もまた、大人になって何かが変わったのだろうか。
何も私は、彼の人間性の欠陥をあげつらっているのではない。むしろ、記憶を辿る限りでは、彼はまれに見る立派な人物だったと思う。まず俳優のような美男子だったし、人柄もよく、付き合う女性にはいつも紳士的で誠実だった。頭も悪くなかったと思う、外国語が得意だった。ようするに、非の打ち所がない人物だった。それでも、いつも立ち去るのは女性の方だった。私にははじめ、その理由がわからなかったから、本当はひどい女たらしであるのかと思っていた。
しかし、あるとき、私の婚約者の友人だった女性が語っているのを聞いたことで、その実際の事情を知ることができた。その女性はこう云っていた、彼は誠実で優しかったけれど、自分に恋をしてはくれなかった、と。そうして、彼には、本当は別の好きな人が居るのよ、誰だかはしらないけれど、そういう話をしたことがあったの、と、暗い声で云った。
「だから好きになったの、ひとりを慕い続けるなんて、素敵なひとだと思ったから。でも、私は素敵じゃないのを忘れていたわ。きっと、ほんとうに素敵なひとだったのね、彼が好きだったのは。私ではないわ。」
そうして、彼女は私たちに説明してくれた。彼と居てもけっして自分自身で居ることができない、彼は自分を理想化しすぎている、そして、彼が愛するのはその理想であって自分ではない、と。だから、自分の居場所が彼の中にはなかったのだ、と。
「私って、そんなにつまらない人間かしら、会うたびに幻滅されるような?でも、私は、彼よりもこのままの自分が優先なの。ううん、彼は優しかったわ、しかられたわけではないのよ、ただ、これ以上、絶望されつづけるのはごめんなの。私はね、教授の髪型を笑ったり、自販機を蹴ったりもするのよ。そしてそういう馬鹿なことが一緒にできるひとがいいの、溜め息をついて許してくれるひとではなくてね。」
そう云ってその女性は、泣くのをこらえて少し強い酒をすすった。私の恋人が、哀れみをこめて、慰めの言葉をつむいでいた。私はと云えばその頃から既に、美しい恋人のおかげで恋の悩みを理解できない幸せ者であったから、相槌を打っただけでやり過ごした。しかし、妙に印象には残っている。親友と呼ぶほどには親しくなかったけれど、私は彼がなんとなく好きだった。それからしばらくして彼に会ったとき、私に試験の前年度の答案をくれながら、
「また、ふられてしまったよ。」
と、寂しそうに笑っていたのをおぼえている。そもそもたいした期待はされていないようで、私に対して彼が幻滅したような顔をしたことはなかった。彼はその答案を快くくれたし、問題の答え方のこつを教えてくれた。そうして、彼女を元気付けてやってくれないか、と私に頼んだ。
そういうわけで、私は少し、心配している。彼の結婚のことではない。この、アパルトマンと、例の、あの花のことだ。ここは、実は秘密ではあるのだけれど、政府の簡単な人体実験場にあたるものだ。とはいえ、あまりひどいものでもないのだけれど。ここでは涙ツリガネ草の人間精神に与える影響を調べている。私には詳しいことはわからないけれど、この花は何か、人の心理的な傾向を拡大する作用があるそうだ。科学的な分析では、まだその作用がどういう構造で引き起こされるのかわからないらしい。これは非常に奇妙なことで、普通はすぐにわかるんだが、と当局の職員が私に漏らしていた。仕方がないから、こうして調べているらしい。そうは云っても、要は、このアパルトマンの住民に花と生活を共にしてもらうだけの話で、あまり大仰なことはしていない。こっそりささやかにやるのが当局の旨らしい。
どうせ無害だ、と、当局の職員は云っていた。しかし、そのわりに、住人は不愉快な様子だ。今朝、手記を捨てて行った彼などは、以前、家賃を安くしろ、と云ってきた。しかし、本当は話し相手が欲しかっただけのようで、少し哀しい話をして、帰って行った。どうせ、ここの家賃は安い。
Ⅲ、心配ごと
それで、私の友人、私は密かにギャツビーと呼んでいるのだけれど、彼についても少し、心配であるのだ。私は好きな本に因んで、昔の恋人を慕い続ける男の名で彼を呼んでいる。もしも彼がいまだにこのあだ名に相応しいとするならば、この忌まわしい花にひどく影響されてはしまわないだろうか。しかし、それは杞憂というものだろう、彼ももう大人だし、何と云っても、結婚するのだ。それに仕事も相当に順調らしく、かなり良い服を着ていた。彼は外国に住むことになるから、祖国にはだから安い部屋をひとつ置くだけでいいから、と、ここを借りた。そうして、独身の最後に、ひとつ、やりたかった仕事を済ませるのだと、楽しそうに笑いながら部屋を美しく飾ってから、沢山の本を抱えて、落ち着いた。そして、私は友人を裏切るような、嫌な気持ちで、例の花を一鉢、差し入れた。
管理人の仕事のひとつに、そういった何気ない差し入れが含まれている。全ての部屋に花があふれていることが決まりだ。彼の部屋は最上階にあり、風通しが良くて日当たりも良いから、涙ツリガネ草は自生しない。真っ白い、洗練された屋根裏のシック、と彼が説明した様式の部屋には、あの毒々しい紫の花は似合わないし、例の蜂まで出入りして、机にむかう彼を邪魔してはかわいそうだ、そう思って、また違った亜種を差し入れた。ほとんど真っ白な、花の根元だけが紫の、小振りな、可憐な、しかし強く甘い匂いのする花だ。花の中では、いちばん可愛らしいのを選んだつもりだ。当局の連中は住人の部屋に紫の、毒々しい色の花を蒔いては育てているのだけれど、私のところにも、差し入れ用に、他の沢山の亜種を持ってくる。だから、私の部屋はさながら花屋のようだ。私はそれを、管理人として、それを花が自生しない部屋へ差し入れる。それが管理人の仕事だから。
私がこんな汚い仕事をしていることに、軽蔑の念をおぼえるひともいるだろうとは思うが、しかし、私だって金が要るのだ。大学で怠けたあとには、誰もその先の学校へ進む金も、自分を養う金もくれない。それでも私は勉強がしたかった。私にはこの立場も否とは云えない魅力に充ちていた。しかし、さすがに、ギャツビーがあの明るい、自信に満ちて光る瞳で、思いがけない再会を心底喜んで握手を求めた、あの折りには、私は自分をやはり恥ずかしく思わざるをえなかった。そして哀しいとも思った。彼の力強い握手に、私は喜びを噛み締めながらも、目を伏せた。彼の瞳はちょうど、その再会の場面の頭上に広がっていた、初夏の晴れ渡った空のようだった。
しかし、いずれにせよ、彼に対する花の影響はあまり考えなくともよいだろう、そして、私の本当の仕事も、知られることはないだろう。彼はいつも、午後の一時間を私の部屋で過ごす。珈琲の香りには良い時間帯だ。私は部屋で勉強をしていることが多いから、そして彼もまた、部屋に篭もる仕事をしているから、お互いに良い息抜きだ。彼はある女優の伝記を書いている、と云っていた。貴重な資料が見つかってね、と。私は彼が古い映画が好きだったことを思いだして、さては趣味の仕事か、と推測している。彼の本業は翻訳だった。しかし、映画が必ずしもさかんだった国の言葉ではないのではなかったろうか。私の知識ではよくわからない。なんにせよ、とても古い映画には、音などついていないのだと聞いているし、あまり考えても仕方がないのかもしれない。私が知っている古い映画と云えば、脚線美の美人が砂漠を裸足で歩いて行く、そんな風な終わり方をする映画くらいだ。彼はその映画の題名をすぐに云い当ててから、そんなに有名なひとじゃないよ、それにもう少し前だ、と云った。
しかし、なんにせよ、彼は健康そうだった、肌つやは年齢のわりには良くて、非常に若く見えたし、楽しそうに婚約者や、彼が留学したまま居ついた国のことを語った。食事も慣れれば悪くないというような話から、近年発展のめざましい都市の話、そして、出会った人々の話。義理の父親になるひとは、やはり古い映画が好きで、実は彼の勧めで婚約者には出会ったのだ、と。彼は新しい家族になる人々を、非常に愛している様子で、婚約者の口振りまで真似てみせた、あなたは私よりもお父様と仲良しなのね、と。
「全く、気の強い女性でね、たまに困るんだが、やはり素敵だよ。」
彼は自分の恋人を評してそう云った。そしてまた、昔の学友の奇妙な癖を、お互い思いだしたように語っては笑った。私は彼がここに来たのを、嬉しく思っていることを認めざるをえない。そんなわけだから、今日はなかなか彼が部屋にやってこないのが寂しい。
Ⅳ、白い部屋
彼は話し上手で、かといって聞くことも心得ていないわけではなく、私はいつの間にやら、彼の午後の訪問を心待ちにするようになっていた。私はもういちど、時計を眺めた。そうして、いつか自分の部屋にも来てくれ、と彼が云っていたのを思いだした。それで、ためらいながらも、彼の部屋番号を調べると、私は階段をのぼることにした。それは案外に疲れる道程だった、体格のよい彼だからこそ、この昇降機の無いアパルトマンの最上階に住もうと云う気も起こるのだろう。私はすっかりあがった息を押さえながら、開け放たれた扉の中を覗いた。
白い、物の少ない部屋で、薄い布のカーテンと、やはり白い、天蓋からさがったカーテンと揃いの布が揺れていた。強く爽やかな初夏の風が吹き込んでいた。この風が扉を押し開けたからだろう。少し、少女趣味とも云える部屋に、私の置いて行った花が咲いていた。それは風に軽く揺られて、私の居る戸口まで、甘い香りを漂わせた。それは不快な蒸すような香りではなく、子供の頃盗んだ砂糖菓子を思いださせる。しかし、それにしては強い香りだ。
留守だろうか、不用心な。私は、静かな部屋の、流れる空気を感じながら考え、天蓋のなかを窺った、そして、しまった、と顔を赤らめた。大きな目をした、美しい少女が、眠っている様子のギャッツの傍らに座って、じっとこちらを覗っていた。さては、逢瀬の邪魔をしたか。私はそのまま、少し扉の方にあとずさった、そして陳謝すべきかどうかを一瞬の間、考えていた。彼女はきっと、話に聞いた婚約者なのだ。
しかし、そのとき、いっそう強い風が吹いた。扉が軋って私の背後で大きく開け放たれ、天蓋の薄布がそれに応じるように大きく舞いあがった。その中には、眠る男がただひとり、居るだけだった。ゆっくりと風が退き、薄い布が元の位置に戻り、またゆるい風に弄ばれて揺れ始めても、彼女はもう、居なかった。私は目を疑った、そうして、ためらいながら寝台に歩み寄って、そろそろと、布を引いた。
やはり、そこには、眠る男が独り、居るぎりだった。ギャッツは、やわらかい風に前髪を揺らされながら、血色の良い平穏な顔で眠っていた。何か良い夢でも見ているのだろうか、少し微笑んでいるようだった。枕もとに、何か大きくて古そうな本があった。風にゆるやかに繰られる頁から、それは古いスクラップ・ノートだとわかった。きっと仕事に疲れて、少しうとうとしたまま眠ってしまったのだろう。いかにもありそうなことだ。私は少し笑って、そのまま立ち去ろうと考えた。そして、何のはずみにか、枕元の本に目をやった、おそらくはあとで、彼の仕事を労らってやろうとでも考えていたのだ。そして通り過ぎた視線を、私はそこに引き戻さねばならなかった。それは美しい女性の写真だった、ひどく古い新聞の、社交欄のようだった。私がそれに目を留めたのは、彼女こそ、先刻、白い服でそこに座っていた少女ではないかと思ったからだ。眠る男を横目で見やると、私は他の頁を繰って確かめようと試みた。しかし、薄い布ごしに見た幻影と、たしかに確認することはできなかった。
私は、少しひとりで考えなくてはならない、と眉をひそめて、部屋をあとにした。管理人としての経験が、あれは花の所為ではないかと考えさせた。
Ⅴ、珈琲
ゆっくりと階段をくだって自分の部屋に戻ると、私は久しぶりに珈琲にブランデーをたらした。どうやら、今日の珈琲は独りで飲まねばならないようだ。私の婚約者ならば、こう云う時には長い指に煙草をもって、いらいらと火を点けるのだろうが、生憎と私は煙草はやらない。珈琲は今日もいい香りだ。私は考えた。私にはよくわからない。管理人の仕事を半ば強制されるようにして始めてからずっと、わからないことが多すぎて、それでも私には関係の無いこととして、そのままにしてきた。それだから、私には具体的な知識は少ない。しかし、ギャッツは友人だ。これまでのような姿勢でこれに臨むことはしてはなるまい。
しかし、私の幻を、どれくらい本気にとればいいのか。私自身、彼が現れたことで心境が変化し、花の影響を受けていると考えられぬこともない。長い間花と過ごせば、抗体だって効かなくなるのかもしれない。しかし、一方で、総合的に判断して、あのスクラップ・ノートの古い新聞に載っていた女優が、実は彼の秘密の恋人であって、大学時代に他の沢山の女性を去らしめたものかもしれないと考えることもできる。だが、それも短絡的だ、たかが映画女優がそこまで彼の生活に関係するとも思えない。その秘密の恋人が誰であったにしろ過ぎたことで、あの白い服の少女は、彼の現在の婚約者の幻影だったのかもしれないではないか。そしてそれは、私達がおなじように、外国に居る恋人を慕っているからこそ起こった同調による幻想だったと考えることもできる。しかし、いずれにせよ、彼の部屋でその幻影を見たというのが気にくわない、それが花の影響を示すというのであれば、それが無害なものであったとしても、いずれは良くない影響を与えることになるだろう。そのことは他の住民の様子や、あの拾った手記から考えるに、十分にありうることだ。彼は早くあの国に帰った方が良いのではないか。しかしあるいは、もしかすると、実際に彼の婚約者がそこに居て、見知らぬ私にびっくりして逃げだしただけなのかもしれない。だが彼女は気が強いと云っていたではないか、私を見たくらいで逃げだしたりするだろうか。それに、あの部屋のどこに、そんな隠れ場所があると云うのだ。しかし、なにを考えたところで推測に過ぎないのだし、あの少女の幻影は私のいちどきりの目の迷いでしかないのかもしれない。小さな花を差し入れただけであるのだし、ギャッツがいまのところ、他の住人と違って溌剌としているあたり、私もまだそんなに深刻に考える必要はないのかもしれない。
私は混乱しているようだ。もしかしたら、あの拾った住民の手記を提出しなかったり、それを勝手に読んだりしたことで、なにかしら私も神経過敏になっているのかもしれない。あの手記の内容も、どうも何か異様な感じがして、それがこの管理人室の居心地を悪いものにしているのではないだろうか。仕方なく、窓の外を眺めることにした。いい天気だ。夏が近い、なんて明るいのだろう。日差しに照らされて、裏の小さな庭は緑に輝いている。古い金属製の焼却炉のあたりには、今日は誰も居ない。珈琲を飲み終えるころには、私はすっかり落ち着いてしまった。私は部屋の窓を開けると、ギャッツの部屋に流れていた爽やかな風をこの部屋にも取り込んだ。管理人の部屋には常時控えてある、数種類の涙ツリガネ草のうちの紫の株に、何匹か毛足の長い蜂がむらがっている。その羽音が単調に、気持ちの良い午後の時間を刻んでいる。私は眠気を催した。きっと彼が眠っていたのも、陽気の所為だ。この花が何らかの心理を拡大するにしろ、彼の見ていた夢に反応しただけのことだったかもしれない。私もまた、天蓋はないにせよ、寝台に寝ころぶと、夏のはじめの風に揺られながら、眠りについた。寝入る前に、もういちど、あの少女めいた幻影を思いおこそうと努力したが、それはすぐに私の婚約者の顔に変わって、微笑みかけると消えた。目が覚めたのは日が落ちてからだったが、どうも、見た夢を思いだせずなかったので、すっきりしなかった。私はそれで、今朝拾った短い手記を、もういちど、読み返した。私はこの手記の書き手と、もういちど話してみたくなった。それはつまり、私も花に惑わされるようになったということだろうか。だがそれも、間接的にだ。
Ⅵ、翌日
翌日、ギャッツは笑いながら私の部屋の扉を叩いた。昨日はつい眠ってしまって、気が付いたら真夜中だったから、時計が狂ったのかと思ったよ、と。彼の専門の国の言語では、時計がおかしいと、月の時間を示している、という云い回しをするらしい。浪漫じゃないか、とギャッツは楽しそうに云ったが、私は彼の方が浪漫主義な男だと思う。あんな白い部屋に住んでいればなおさらだ。私は昨日の、天蓋の中の少女のことで、彼の秘密の恋人が誰であるのかを探りださねばならぬ、と感じていた。もしもあの古い新聞記事の女優であったなら、しばらく様子を見るにしろ、早くここを追い出した方が良いだろう。しかし、それは今はあまり考えたくはない。
彼はまた、他愛もない話をしている。しかし、時折、目が夢でも見ているかのように窓へ泳ぐのが気になる。それは時折、彼を上の空にして言葉を途切れさせ、理由もなくひとり笑いさせる。私は訝しげにそれを見ている、そしてその視線を追ってみる。窓際の白い小さな花は、ギャツビーの部屋に差し入れたものとおなじ亜種であった。その砂糖菓子のような香りが気に入って、私自身の部屋でも、日当たりの良い窓際の位置を与えている。ギャツビーの視線はそれを経由して空と雲にむかい、また花の上に戻り、床に落ち、やがて私の元に戻る。私は、さてはこの可憐な花について、この男、何か引っかかっているな、とかまえた。しかし、それにしては、彼は私を問い詰める風でもなく、目が合ったきり、何を話していたのか思い出そうと努めているような顔している。それで私は、それとなく、あの花がそんなに気になるのかい、と聞いてみた。苦情がでれば即刻、それを引き取るつもりだった。実際、私は何か文句を云われるのではないかと居心地が悪かった。彼の部屋に花がないとしても、どうせきっとここに居るのは短期間なのだから、当局にはうまくごまかせば済むだろう。
ところが、ギャツビーは照れたように笑った、随分と気に入ったから、もう一株わけてくれはしないかと。少女趣味だと笑うかもしれないが、飾りたかった白い薔薇が手に入らないものだから、と。
私は、しばし言葉をなくした。薔薇の話は本当だった、以前に園芸が趣味なのかと勘違いしたギャッツが、白い薔薇が欲しいんだがこのあたりに花屋はないか、と、私に尋ねたことがある。生憎、私の知る限り、近所には花屋らしきものはなかったから、否と答えたが、街に出るたびに、ギャツビーはそれをひと束抱えて帰ってくる。だから私は、この花はかまわないけれど、薔薇を配達してもらえば云いじゃないかと答えた。友人を相手に花をしぶるのもなんだが、しかし、危険であると判断した私は渡したくはない。渡したくはなかったが、私はいいわけの方法を知らなかった。私はそれで、少し話をずらしてみようと試みた。君みたいな男盛りが、何故、少女みたいに花に拘るのか、それともあちらの国の上の方の階級では、それが当り前のことなのか、と。
「云いや、違うさ、そんなことはないよ。」
彼は笑って答えた。少女趣味と揶揄されても気にする様子もなかった。
「ただ、気に入ってるんだ。うん、そうだな、思い出すんだ、あるひとをね。」
ギャッツは明らかに言葉を慎重に選んで語り、私の机の上の、私の愛する女性の写真を視線で示した。私の婚約者は、ただの写真でも、女神の肖像のように美しい。そう感じながらも、私は考える。この、ギャツビーが私の写真立てに視線を送ったやり方は、半ばは、巧妙な嘘なのではないか。しかし私は、自分のそういう疑いを無視して、彼のことを信じる。彼が云っているのは、いつも話題にのぼる、外国の婚約者のことだろう。詰まるところ、わざとだまされたと云おうか。私は安心するための口実が欲しかった。そうでなければ、私はこの管理人業を続けて行くこと自体に疑問をもたねばならないからだ。友人を幻想のとりこにしてはならない。それでもまだ視線を落として疑いを拭いきれない私に、ギャツビーは、今日は疲れて見えるね、と話しかけた。私は研究が行き詰まってね、と返した。
「そう云えば君の仕事は順調なのかい。ええと、昔の女優さんだったよね。」
「うん、そうだね、まあ、はじめたばかりだから、順調かな。いい資料があるしね。誰か、おなじ時代のひとが、新聞の社交欄から批評記事までスクラップしていたんだ。すごいことだよ、はじめに見たときは信じられなかった。でも、時々国外の記事が混じっているんだ。」
「ふうん、旅行に行ったのかな。」
「まあ、そのあたりをちゃんと調べなくちゃあ、伝記だしね、書いても信憑性に欠けるんだけど。まだ、それが誰が集めたものかもわからないんだ、彼女が調べてくれているんで、多分すぐにわかる。そもそも、仕事ついでに見つけてくれたのが彼女でね。」
ギャツビーの婚約者は希少本関係の仕事をしていると聞いていた。古い、大きな屋敷にはよくある、図書室の本を鑑定していて見つけたそうだ。私は、あの、ギャッツの枕もとにあったスクラップ・ノートのことだな、と考えながらも、それを見つけたのが彼の婚約者であるということに関心を引かれた。では、その女優というのは彼の秘密の恋人ではあるまい。私は、きっと随分な心酔者だったんだろうね、と云いながら席を立つと、珈琲のお代わりを取りに行く。そして思考を巡らせる。女性というものは、自分以外の人間に対する憧憬をよしとは、けしてしない。少なくとも、私の婚約者はそうだ。それを存在の不安に似たものだからと語っていた。哀しい目をしていた。台所では、いちどにまとめて淹れてあった珈琲が、冷めていた。かまわずにそれごと、テーブルへ持って戻る。
「じゃあ、資料が見つかったからここに書きにきたのかい。君は古い映画が好きだったようだしね、白黒の。」
私は彼の珈琲茶碗に継ぎ足しながら尋ねた。そのときにはもう、ギャツビーの瞳は窓際へ泳ぎもしなかったし、いつものように自信にあふれたように輝いていた。
「そうだね、そんなところだ。ちょっと仕事を済ませておきたかったし、少しばかりひとりにもなりたかったし。でもね、前から興味があったんだ。時代柄、なかなか面白い人生を送ったひとでね。けっこう若くして亡くなっているから、戦後には忘れられているんだ。陰謀とも事故とも云われているけれど、そこまでは僕もわからないな。亡命しようとして、海に沈んだと云われているよ。」
最後の言葉にかすかな苦みを感じた。しかし彼は、すぐに、魅力的な笑顔で云う。
「いつも思うんだが、君のところの珈琲は旨いね、何か秘訣でもあるのかい。」
「まあ、これは冷めているけど。ちょっとは珈琲屋でも働いていたことがあるからね。」
私はその頃から勤労学生めいた生活をはじめたのかもしれない。その頃、私は好きだった地下の喫茶店で仕事を貰っていた。それはそれで非常に楽しかったけれど、私はギャッツをその頃から多少羨ましく感じていた。彼は控え目ながら良い服を着ていた。夢を追うことが金にならんと云うひとがあるけれど、むしろ金がかかることもある。珈琲の香りが、記憶を繋ぐのを辿ると、私は思いだすことがあるのに気が付いた。
「なんといったかな、あの映画館。幻灯館なんて洒落た名前がついてて、おじいさんがやっていて。」
それは私が愛してやまなかった小さな地下の骨董街の隅にあり、私の働いていた店もまた、その地下街にあった。私は仕事の合間や、理由なくそこらをうろついていた折などに、よくギャッツがそこへ入って行くのを目にしていた。だが、私はそのときにはまだ、彼とは知り合い以上ではなかったような気がする。
「ああ、あれね」
彼は何かしら感慨にふけるように云った。普段の快活な彼にしてはおとなしい反応だな、と思ったが、それは私とおなじような感傷の所為かもしれない。
「意外だったね、君がさ、じいさん連中に混じって、黴の生えたようなフィルム眺めに通うなんて。いや、失敬。」
「云ったな。僕も君が真面目に働けるなんて意外だったよ、仲間内でいちばんの怠け者だと自任していたくせにさ、ちゃんとカップまで選んでくれてさ。せっかく夢見心地で喫茶店に入ったら、君がいらっしゃいませ、なんて、笑っちゃって気分は台無しだよ。」
私達はそれでにやりと笑ったが、私はそのときのことを思いだせなかった。
「それが君の骨董映画趣味の始まりかい。」
「そうだね、でもそもそもは子供の頃に好きだったのがあって。それは有名な喜劇王の映画なんで、今僕がやっているのとは国も雰囲気も少し違うんだけど、もとを辿ればそれがはじめだね。」
「へえ、地味な趣味の子供だね。」
「そうだね、でも、それは祖母に見せてもらったんだよ。美談だからためになると思ったんじゃないかな、目の見えない少女のために手術代を稼ぐ話でね、その少女が可愛かったということの方が印象が深いんだけど。誰も声を発さないのが不思議で好きだったんだ。それで、君に会うよりもうちょっと前、偶然、その映画が幻灯館でかかってるのを見つけてね、ふらっと入って、それが運の尽きさ。一緒にやっていた、別の映画を見てね、そっちの方にすっかり夢中になってしまって、現在に至るよ。」
彼は大げさに肩をすくめて、溜め息をついた。私はそれを多少恨みがましく見やった、それが運の付き始めだろうに、と、心のどこかで云わないわけには行かなかった。お気に入りの映画の為に、その国の言葉を学び、職を手にいれ、憧れの国に飛んで、気のいい貴族の末裔と意気投合、美しい娘と婚約。まるで古い出世物語だ。しかし、私はそれに費やした彼の情熱と努力を認め、また、それがゆえに尊敬していた。だが、私もまた、努力をしてこなかっただろうか。何故、そこで彼と私の差が生じるのだろう。しかし、ちょうどそのときに、私は、自分自身の婚約者を思いだした。優しい香りの様にその気持ちが私を充たした。あんなに素敵な女性が私を愛しているではないか。私は幸福だった。自分を戒めると、席を立った男の、少し寂しそうな微笑に気が付いた。
「ごちそうさま、君の珈琲は冷めていても、まあまあ旨いよ。」
そうして、彼は窓際の花の鉢に手を伸ばした。
「花を貰って行くよ、いいだろう。本当に、可愛らしい花だなあ。」
私はそれをなんとはなしに止めたかった。しかし、いつの間にやら、自分がそう思う根拠を見失っていた。ギャツビーはそれを手に、窓の外を眺めている。私自身にだって、寂しい時間はある。自分の夢を追うときに、ひとは愛情を身近に置けないこともある。彼がそれを慕うとき、どうしてそれを止めることができようか。私は花があまり彼を毒さないように願いつつ、扉で振り返って微笑む男に、「また明日。」と、手を振った。何か別の考えが頭の隅にわだかまっていたが、思いだすことができなかった。
Ⅶ、扉の外
私はそれで、仕方なく机にむかった。しかし、勉強に関しては気乗りしなかったので、久しぶりに私の美しい婚約者に手紙を書くことにした。私達は電信でよくやりとりしたが、先日、それとは別に絵葉書が届いていたので。それに、以前に貰った、手紙に封をする道具も使わなくてはならない。暫く手紙をさぼっていたら、着払いで届けられた抗議の品だ。私は是非それを使おう、と絵葉書を眺めながら考えた。その絵葉書の方は、おそらく古物市で買ったもので、からかい気味に、あなたに似た子が居たので、と、きれいな字で書かれていた。なるほど、無理にすまして写真にうつっている子供は、彼女からはつねづね童顔と揶揄されている私に似ていた。無理に大人の服を着せられて憮然としているあたりが彼女のお気に召した様だ。私はあの美しいひとにとっては、いつまでも幼い。私はそれを喜んでいる。
愛とは不思議なものだ。私は彼女が、私自身が知る私を知らなくても、いっこうにかまわないと考える。私は自分自身の思索の中では、彼女の前にあるように可愛らしくはない。もう少し、真面目くさっていて後ろむきであるし、実際、このような年で可愛らしい筈もなく、しかし、彼女にとっての私もまた、嘘だとは思えない。おなじ魂の違う側面が発露するのかもしれない、そして私にはそれもまた好ましい。私は、彼女をからかいかえすにうってつけの品物が見あたらなかったから、何かないかと思案した。
しかし、机に頬杖をついた途端、来客があった。私は、幸福な思案を、また住民の何かしらの苦情によって阻まれたであろうことで、小さな溜め息をつくと、仕方なく席を立つと、扉にむかった。
「管理人さんの部屋って、ここですか。」
私は驚いて目を見張った。戸口に立っていたのは、笑いをこらえるので必死な、私の婚約者だったから。彼女はすぐに笑い出すと、私に飛びついて腕を首にまわした。
「会いに来てくれたの?」
「違うわよ、仕事が入ったのよ。」
そう云ったが、彼女は上機嫌で私の頬にキスをくれると、もう部屋に入り込んで、大きな鞄を床に放り出した。
「この珈琲を飲んだのは男ね、口紅がついてないもの。砂糖も使ってないし。」
彼女はテーブルの上の二つのカップを、探偵のように検分しながら云う。奇遇なことに、私の婚約者も古い本に関連した仕事をしている。だが、ギャッツの婚約者とはちがい、古い本なんかを模して本の装丁をするので、正確には古い本と云うよりは、新しい本なのかもしれないが、なんにしろ見本などに使うので、どこかで会っているかもしれない。学生時代にはじめた趣味程度の見習いが、いつしか彼女の本職になっていた。これぞ本職、などと救いようのない駄洒落を云うのも、私の婚約者なら素敵に見える。
私の部屋に、花に囲まれて座る彼女は美しかった。長い髪をだらしなく結わえて、きちんとひいた口紅が品格を保つ。私は黄昏の光の中の彼女をまぶしく見ながら答えた。
「電信で云った彼だよ、憶えてるかな?」
「私は先に卒業しちゃったもの、憶えてないわ。ねえ、それより、あっちでお友達になった、とても素敵な女性がいるの。」
彼女はそうして、随分と軽くなった煙草に火をつけた。長い爪はつややかな、明るい赤に塗ってある。その隙に、私は、貴女より素敵な女性がいるもんか、と笑う。彼女は煙を吐き出しながらも、私の大好きな笑い方をした。
「ありがとう、確かにそうね。でもね、本当に素敵なひとよ。それでね、そのひとの婚約者がここ住んでるの、もしかして、お友達って、そのひとのことじゃないかしら?」
私はそれまでものほしげに彼女のきれいな爪を眺めていたが、それでギャツビーを思いだした。
「私が紹介したのよ、ここを。あなたがいるから。だって、たかだか伝記の装丁に象牙を使うなんて、おかしいでしょう?」
私はそれでようやく、私の美しいひとが、私に軽いキスをひとつくれただけで話をはじめてしまった理由を悟った。彼女は、面白そうに、黒い目を輝かせて私を見ている。だが、その底に、友人を心配する陰が身を潜めている。彼女は自分で考えている以上に、この問題に頭を悩ましているようだ。しかし彼女は、照れ隠しをする時によくやる、あのわざとらしく艶麗な笑いをして、付け足した。
「それに、そうしたら、打ち合わせの名目であなたに会えるわ。アポは明日なの。だから勿論、今夜は夕食に付き合ってくれるでしょう?」
それでその夜は、情けない話ではあるが、私のちいさな頭蓋骨から私の旧友とその謎は、完全に閉め出しをくらうこととなった。
Ⅷ、寝坊の男
その次の朝、私はビャツビーの部屋の扉の下に、打ち合わせの場所が私の部屋に変更になった旨を伝えたメモをすべりこませた。しかし、約束の時間、つまりいつも彼が私の部屋で珈琲豆を浪費するためにおりてくる時間になっても、彼はやってこなかった。
「メモを読まなかったのかしら。もしかしたら、お店に行っちゃったのかしら。」
私の婚約者は今日も美しい。平たい額に、綺麗な皺を刻んで心配そうに腕時計を眺める。いい時計だ。今日は黒のシフォンのブラウスを着ている。袖の無いやつで、下に着た、揃いの黒の服が透けて見えている。
「なんにもない部屋だよ、メモに気付かない事はないと思うけど。きっとまだ寝てるんじゃないかな。」
彼女は、まさかあなたじゃあるまいし、と笑った。
ギャッツが私の友人であって、彼女も何度か会った事があるのは、昨夜、夕食を食べながら話題にちらとのぼった。昨夜は、彼女は赤地に白の花模様を着てた。裏の方にある、少し洒落たレストランで、と、云うのは、彼女も私も、料理は不得手だったからが、そのとき彼女は、確かに憶えてはいる、だからここによこしたのだ、と云っていた。そう云ったとき、彼女は何か白身の魚を、器用に小さく切って口に運んでいた。彼女が一口分に切る魚が、あんまりに小さくて私は笑った。彼女は、私の勝手でしょう、と云いながら話を戻した。彼女の新しい友人が持っていた写真で、それがギャッツであることに気付き、ちょうど探していたアパルトマンを紹介したそうだ。彼女はここの花がどう云うものか知っている。けれど、私の立場を案じてか、その時にはそれには触れなかった。私は少し暗いレストランでも、どれだけ彼女が美しかったかを、ウェイターに、私の頼んだ冷やしスープが、ぬるいと文句をつける彼女を思いだしながら考えた。それでも、あのウェイターは彼女が美しいので、嫌な顔ひとつしなかった。
「ちょっと部屋を見てきてあげる。あの階段はきついから、ここで待っていていいよ。」
彼女は微笑んでうなづくと、ありがとう、と云う。私はそれで幸福な気持ちに充たされて部屋を出た。
しかし、長い階段を息を切らしながらのぼって行く中で、次第に私の気持ちには暗いものが兆し始めた。それは最上階に居る筈の友人のためのものか、薄暗い階段と、たちこめる憂欝の所為か。このアパルトマンで現在、いちばん幸せであるのは、確かに私で間違いあるまい。
途中、私を住民と勘違いした若者に、すれ違う際に呼び留められる。
「こんにちは。あの、ずっとここに住んでます?」
私は、管理人だと知れるとまた嫌なことを云われかねないと思い、あいまいに、まあそうだと答えた。彼はそれで、まず昇降機がないことに難をとなえてから、奇妙なことを聞いた。
「ここには、幽霊が出るんですか。」
「さあ、どうでしょう。いかにも出そうな建物ではありますけど。そんな話は聞いたことないですね。」
「そうですよね。じゃあ、やっぱり気のせいだ。」
それじゃあ、頑張ってのぼってくださいと笑うと、ひとの良さそうな青年は、暗い階段をくだって行った。私はなんとなく沈んだ様子の彼を見て、このアパルトマンをこんな風に使う当局と、法外な給金を受け取って口を閉ざしている自分に対して、はげしい憤りと、やりきれなさを感じた。そうして、階下の管理人室で待っている美しい婚約者に対して、自分を恥ずかしく感じた。ギャッツの部屋の前に立つと、それらの階段からの混乱した感情をおさめるために、そして切れた息を元に戻すために、私はそのまましばらく、そこにたたずんでいた。
その場で、確認のために目を走らせると、やはり、今朝、扉の下に押し込んだメモがそのままになっていた。しかし、それを引っぱり出そうと、歩み寄って屈むと、扉に近づいた耳に、ゆっくりと、床を軋らせて歩く足音が届いた。それで私は、メモを手に取りながら、気が付かなかったんだろうな、と考えた。
「おはよう、随分寝坊じゃないか。君の本の装丁屋さんが困ってるぞ。」
私は、軽く指の背で扉を叩きながら、少し大きな声で云った。私は、この上なく素敵な階下の婚約者を、彼に自慢してやろうと、愉快な気持ちになってきた。しかし、床が軋る音が消えた他は、何の変化もなかった。私は寝ぼけているのかと、扉を強く叩いてみた。先日とおなじように、それはあっけなく開いた。鍵が壊れているのかもしれない。私は管理人の頭で、こりゃあ対策をとらねばと、考えた。
部屋の中は時間を止めたように、何もかもが変わらず、静かで、甘い香りに充たされていた。そうして、そこいら中、本と紙の山だった。私はギャツビーが見あたらないのを不審に思ったが、開いた扉へと吹き込む風が、ゆらゆらと天蓋の白い布を揺らすので、そこに眠る男を見つけてほっとした。いや、むしろ、彼の他には誰も見かけなかった事の方に、私は安堵したのだろう。そのような自己認識が忍び込ませた、妙に不安な気持ちを振り払うように、私は彼を起こしにかかった。
「起きてくれよ。君の本の装丁屋が来てるぞ。」
私は白い布を引いて少し呆れた。ギャツビーは着替えもせず、上等のシャツを皺だらけにして、無精髭のままで寝ていた。 私はもういちど、声をかけた、起きろ、仕事だぞ、と。しかし、それでも彼は微かに口を開けたまま、眠り続けた。私はなんだか哀れになって、彼が起き出してくるのを待とうかとも考えた。それに、いかに何もない、鍵さえしていない部屋だとは云え、やはり、勝手に部屋にあがりこんでいることで気がひけた。それで私は、それでも起きないのなら放っておこうと、最後にひとつ、彼の肩をゆすってみる。それから、自分の部屋に茶菓子を用意してあることを思いだした。昨夜レストランで見つけた、シフォンケーキだった。だから今朝は彼女はシフォンのブラウスなのだろか。それとも私に駄洒落がうつったのだろうか。下らない考えに気をとられながら、私は肩をゆすられて驚いた様子のギャツビーに、「ケーキを食いにこいよ。」と笑った。
ギャツビーは寝ぼけ眼で奇妙な顔をした。そして、今は何時だ、と聞いた。私はやはり、勝手にあがりこんだことに当惑している自分を認識し、時間は適当に答えて、それよりもいい訳を探した。慣れないことはしないことだ、と、私は頭の隅で考える。
「僕の婚約者が来てるんだ。いや、君の本の装丁に来ていて、一応仕事だろ。時間があわないとまずいかと思って。それに打ち合わせ用に茶菓子を買ったんだ、早く来ないと彼女が君の分も始末するんじゃないかな。」
そうして私は付け加えた。
「勝手にあがりこんでごめんよ。」
私の頭にあったものは、いつかの幻影だった。だが、ギャツビーは特に気を悪くした様子でもない。それよりはむしろ眠そうだ。ギャツビーは一度は私に笑いを返したものの、起き上がって座ったまま、目を半ば閉じて今にもまた寝てしまいそうにみえた。私は時間をずらそうか、と聞いてみた。
「時間?何の時間だ?」
彼は顔を大きな手でもってこすりながら行った。
「君の本の装丁のアポだよ。場所が変わって、僕の部屋になったんだ。」
彼はひどく寝ぐせのついた髪をかきまわして欠伸をひとつした。眠くてたまらない人間がよくやるように、いいかげんに、半ば眠りながら適当な事を、自分は眠っていないと証明するかのようにまくしたてる。
「本の?そんな話は聞いてないよ。出版社のかい?そんなところまで話は進んでなかった筈だけど。だいいち、まだ原稿も書けてないってのに、そんな気の早いところじゃなかったと思ったけど。何かの間違いだろう。」
そうして、彼は伸びをひとつすると、
「なんていい陽気だ。」
と、ひとりごとのように云い、それから、また、大きな枕を引き寄せて、満足そうな笑みを浮かべて倒れこんでしまった。私は彼を放っておいて、自室にとってかえしたくなった。眠ければ、寝かせてやればいいのだ。きっと遅くまで本を読んでいたのか何かしたのだろう、疲れているのだ。私が立ち入って面倒を見るようなことでもあるまい。しかし、一応は仕事の予定であったろうに。私は少し、彼に幻滅を感じ、また、自分の婚約者が、相手の来ない喫茶店で待ちぼうけを食らうのを想像して、ほんの少し、腹を立てた。もしも彼女が私を訪ねていなかったら、それは現実のことになったろう。
「いや、私家版の方の装丁だよ、奇遇にも君が装丁を依頼した先が、僕の婚約者だったんだ。だから彼女は今、下の管理人室で待っているんだけど、本来は喫茶店かどこかで会う筈だったんだろう、その場所の変更を伝えに来たんだ。」
ギャツビーは枕から少し顔を起こして、まぶしそうにしながら私の話を聞いている。その努力に、私は彼を許してやることにして、もう少し優しい口調で云った。こんなに天気が良いのを忘れていたのを恥じながら。
「時間も変更した方が良いみたいだね。いいよ、時間はあるみたいだから、君はもう少し寝てたらいい。そうしたら僕も、彼女ともう少し二人きりで居られることだしね。起きたらおりてくればいいよ、場所を間違えてないか来てみただけなんだ。」
そうして私はとってかえして階下に戻ろうと考えたわけだが、彼は枕から顔をあげると、私の服の裾をつかんで引き止めた。
「いや、ちょっと待ってくれ。」
眠そうな目をしていたが、困惑した表情は頭が冴えてきたことを示していた。ギャツビーは改めて座りなおすと、相変わらずゆらゆら揺れる、真っ白い布をうっちゃって、ギャツビーは手で机の椅子を示して、私に座るように云った。これもまた白い禿げたような塗装で、下の木材の色が窺える、淡い紅色の布ばりだった。彼の部屋には椅子は、それともうひとつ、窓辺に服を投げかけてあるままになっている小さなものがあるぎりだった。その窓には、あの花の鉢植えがあった。優しい色の空を背景に、不思議にそれは、普段の毒々しく濃厚な印象ではなく、優しく可憐で、少しばかり甘すぎる砂糖菓子を思わせた。砂糖菓子のような匂いもあるが、色合いもそんな感じだ。私はこの部屋を清浄なものと感じた。そして、しばらく、何か根本的な問題について思いをめぐらせたのだが、すぐに私は用事を思い出して椅子に座った。ギャッツは幸せそうに微笑んでいた。その目は私を見てはいなかったが。 無論、私を見ていてはそんな笑顔はなかなか出るまいが。
「起きる気になったかね。」
ギャッツは、な欠伸をしながらうなずいて、もういちど大きな手で顔をこすってから、膝に頬づえをついて云う。
「ちょっと待って、もういちど説明してくれないか。なんのことやらさっぱりわからない。僕は私家版なんて頼んだこともないし、君の婚約者なんて知らないぞ。何か手違いじゃないのかい。」
眠そうな目は、それでも今度は、ちゃんと私を見ている。私はもう一度頭を整理して仕事をはじめた。
「でも、彼女は君の本の装丁を頼まれたって云っていたよ。」
「でも、僕は頼んでないよ、まだ何も書いてないんだから。」
「君が知らないなら、君の婚約者がプレゼントに頼んだんじゃないかな、二人は友達同士だそうだから。連絡は受けてないのかい?」
「いや、このところ調べてないから連絡があったかどうか。でも、依頼を受けたのは確かなんだね?」
そうして、彼は私を眺めた。私がもっと多くの情報を提供してくれるものと思ってのことだろうが、生憎たいしたことは知らなかった。
「でなかったら彼女は来ないよ、あれでもけっこう、忙しいんだから。そうだな、君の恋人が依頼して、わざと連絡をしなかったのかも。ほら、女のひとはプレゼントでびっくりさせるのが好じゃないか。」
「そうかな。」
ギャツビーは疑わしげに眉をひそめると、無精髭の伸びた顎を手で触りながら、まだ少しはれぼったい目で考えるように空中を眺めた。そして、私はふと机の上を見た。タイプされた文字を滑って本の山の隅に、伏せて置かれた写真立てを見つけた。それは黄味がかった白いもので出来ていて、私は象牙かしらんと見当をつけた。珍しい、と手を伸ばしかけて、ためらわれてその手前の、高級品のペンを手に取る。いい重みだ。ギャツビーは相変わらず髭の伸びた顎に手をやって、眉をひそめていた。
「どうしたんだい。」
「いや、彼女がそんなことを頼むなんて、ちょっとね。」
私は彼が苦渋といった風な表情を浮かべているのに困惑した。私は彼の笑顔しか見たことがなかったのだ。そして私は、自分がどんなにか当惑しやすい人間になったかを、今更のように感じて、それでもそれを諦めの笑いに隠してギャツビーにむけた。
「顔を洗ってこいよ、君にはキャフェインが要る。それから、下に行って事情を聞き出そう、きっとすぐにわかるよ。」
彼はそれであいまいに返事をすると、反動をつけて立ち上がり、緩慢な動作で、作り付けの小さなバスにむかった。
私はその隙に、象牙の写真立てを覗いた。そこには、夢見る様な瞳の少女の、白黒が褪せた写真があった。私はだから、すぐにそれを伏せた。それでも私には事情ははっきりしなかったが、しかし、なんとなく、予感があった。私はバスから聞こえる水音を聞きながら考える。私はこれを、いつもの優しく諦めた笑いで見過ごすのか、それとも、何か成すべきなのか。しかし、それは判断を下すにはあまりに情報が少ない事柄であったし、私は既に、人生の諸事にあらがえない人間になっていた。しかし、この古びた写真は、私に何かしらの選択を迫っていた。私は溜め息をひとつついて、少し待ってくれよ、と、伏せた写真立てに語りかけた。そして、花にも関連して考えながら、妙なことはするなよ、と。だが、ここは彼の聖域だ。私が立入りかきまわす権利はない。私は見守る権利しかない。
風が吹いて、甘い香りがした。私は窓際に目をやった。そこに何かの気配を感じたのだ。金の巻き毛が、白い服に椅子を透かして座っていた。彼女は夢見る様に青い大きな瞳で、微笑して、私を見つめた。私は、バスの水音が止まっているのに気が付いた。席を立つと、ギャツビーの名を呼んでバスへむかった。何かしら彼の身に悪いことが起こったのではないかと心配であったのだ。
だが、彼は床に壁にもたれて座っていて、私の声を聞くと、驚いた様子で顔をあげた。髭をきれいに剃りおえて、タオルに顔を埋めていたと見える。私は安堵した。
「済まない、眠くて。」
彼は座ったままでもういちど、欠伸をした。私の方は、口を半ば開けた、馬鹿げた表情のまま、しばらくその小さなバスの入り口に突っ立っていた。ギャツビーは怪訝な顔をした。私が苛立っていると思い違いをしたのかもしれない。私はそれに気が付くと、まず笑顔をつくって、頭を整理するより先に、云う。
「遅いから卒倒したかなと思ってさ。さあ、行こう。」
そして、すぐに彼を立ち上がらせると、一刻も早くと戸口へむかった。幽霊をみたなんて、彼には云えない。私は扉から部屋を出てそこで彼をじりじりと待つ。やわらかい風は、相変わらず窓の薄布を弄び、日差しは何者かの気配を感じさせた。ギャッツは立ち止まって、何か忘れたものでもあるかのように視線を泳がせていたが、やがて、既に扉の外にたっている私に、
「本当にカフェインが要るよ。」
と大きな欠伸を差しはさみながら云った。そうして、彼は鍵を掛けようともせずに、扉を閉めるのも私にまかせて、暗い階段へむかった。そして早速、伸びをもうひとつしながら、それをくだり始める。
「君、鍵はかけないの。」
私は管理人の頭に戻りながら聞いた。
「うん。僕以外の誰も欲しがらないものしかないからね。」
私はのんびりと伸びをする背中にむかって苦笑して、その理由とは関連なく、同意を示した。階段は、暗くて湿った空気に満たされて、たった今あとにした部屋をいかにも美しく印象づけた。
「なんにせよ、扉がゆるくなってるからそのうち直してあげるよ。一応管理人だしね。」
実際のところは、それくらいの修理でも普段は外からひとを呼んでいるのだが、そのことは彼には云わないことにした。
Ⅸ、打ち合わせ
「こんにちは。花柳カヤと申します、お噂は伺っておりますわ。」
彼女が仕事に際して身に着ける、ドレッシィな衣装と、口紅の笑顔にギャツビーは少し、鼻白んだ様子だった。私ははなやかな笑顔がギャッツにむけられることを少し面白くなく感じ、ギャッツはだらしない姿のままでおりてきたことを少し後悔している。私は自分の婚約者が、いかにも仕事に対してとるべき態度で彼に接するのに驚いた。まず、ひととおりの挨拶をして、それから依頼の礼を云う。学生時代に数度顔をあわせた、という事実は、完全に黙殺するつもりでいるらしい。だが、ギャツビーがそれに気付かないのであれば、これも礼儀に叶ったことの運びかもしれない。私の私室で私の友人に会うにしろ、確かにギャツビーは彼女のクライアントであった。私は彼女に感心もしたが、一方でギャツビーの事情がありそうな様子を考慮して、もっと打ち解けた空気をつくろうと考えた。それには、仕事に関しては部外者の私が居るだけで良い。
「ねえ、彼は依頼について知らないみたいだよ。」
ギャツビーはそれだけで云いだし易くなったのだろう、シャツのボタンをしっかり留めなおすと、自分が髭を剃ったことを確認するように口元に手をあてる。
「情けない話なんですが、最近、だらしなさに負けて電信も何も見ていないですよ。」
そして苦笑しながらも、手櫛で髪をなでつけたのもあって、いつもの快活で頼もしい空気を取り戻しはじめていた。私はそれで、珈琲とケーキを取りに、隣の台所へ行った。私の目の前に居たのは、仕事の話をする二人の大人だったから、私はなんとなく、居辛さを感じた。
珈琲を落とす間に、あちらの会話に耳をすます。依頼は、やはりギャツビーの婚約者が勝手に決めたことであったらしく、代金も彼女が負担するようだ。連絡の有無はギャツビーが電信を開いていないためにわからない。ギャツビーは代金の負担に関しては異議があるようだったが、装丁自体については乗り気な様子だった。私はシフォンケーキを皿に取り分けると、手についたクリームを舐めてから、盆がないのに小さく悪態をついて、部屋へと何度か往復した。
「君の恋人はすごいなあ、おどろいたよ。表紙から紙質から古臭さまで、まるで芸術だ。」
私が彼の前にケーキを置いた時には、彼の頬は紅潮して、いかにも嬉しそうだった。どうやら、見本を幾つか見ていたようだ。幾つかの違った装丁の本や、見本帳がテーブルに見える。
「ああ、彼女はひとの文章をダシに作品をつくってるんだ。」
私は憎まれ口をたたいてみたが、内心は誇らしい。私の恋人は、美しく有能で、しかも芸術家だった。私は彼女に視線を向ける。長く黒い髪が、つややかに輝いている。
「それじゃあ、私の作品に相応しいものを書いていただかないと。」
彼女は一度私に優しい目を向けてから、はなやか笑顔を浮かべる。私は、はじめの笑顔に満足して、あとまわしになっていた自分の珈琲を取りに行く。部屋からは、ギャツビーが、実はまだほとんど何も書いてはいないが、是非とも現段階でできるところまで、と、嬉しそうに話しているのが聞こえる。
ふと目をうつした窓硝子の向こうに、私は人影を認めた。私はそれが、先日出て行った住民であることに気が付いた。
Ⅹ、奇妙な青年
捨てた手記でも探しているのか、と、私は珈琲をすすりながら様子を見ていた。彼は焼却炉の中を覗いてみたり、なにやら上を見上げたり、どうも不審な様子だ。だが、それを実につまらなそうな顔をしてやるものだから、見ていると可愛い感じがしないでもない。私よりはかなり若い子だ。髪の色が変わっている。
彼は私にすぐに気が付いた。手招きをする。私はそれに呼ばれたのがなんとも意外ではあったのだけれど、かといって、彼がこのアパルトマンで知っているのは多分、管理人の私だけであろうし、話したいことでもあるのかもしれない。何だろうかと好奇心につられて出てゆくことにした。私はそれで、少しばかり、仕事の話をしている二人を伺ってから、少し待てと手で合図をし、彼の分の珈琲をつくる。それを空いていた小さなカップに注ぐと、片手に持ち、もう片方の手では自分の飲みの残しを持って勝手口から外に出た。彼は髪の色を変えて、短く切っていた。変わった色だが、似合っていた。短くしたせいか、顔立ちがすっきりとして見える。連れていた蜂は見あたらない。
「お久しぶりです。」
彼は、にこやかに云った。しかし、その目には挑戦的なところが無いわけではない。
「久しぶり。どうぞ、これ。今、ちょうど珈琲淹れてたんですよ。」
「ああ、どうもありがとうございます。」
私が差し出したカップを、彼は少し作り笑いめいた綺麗な笑顔で手に取った。そして、小さなカップの、ほとんど半分を一口で飲んでしまってから、
「うん、美味しいですね」
と云った。そして、私が少し味わえば良いのに、と頭の隅で思いながらも、手記のことを云いだそうとして云いだせずにいる間に、彼は私がそれを読んだか聞いた。私はためらいながらも是認した。
「ああ、あれですか。ええ、読みましたよ。勝手に読んで、失礼かなとは思ったんですが。」
しかし、彼はそんなことは全く気に留めていないようだった。
「で、当局に提出したんですか。」
それは、どちらの答えを期待しているのかよくわからない、鋭い口調だった。彼の楚々とした顔立ちには表情はないが、冷たい目をしていた。それで私も、硬い事務的な調子をとらざるをえなくなった。
「いや、私的なものだと判断したので、提出はしていませんよ。記録はあちらが適宜しているんでしょうし、そういうことは僕の仕事じゃない。だいいち、提出したところでフィクションかもしれない。」
私はそんな風に、どちらかというと、むしろ保身のためにいい訳をしたのだが、それで相手の表情は一気に緩んだ。それで、歯を見せずに、唇を横に引いてにやりと笑う。
「そうですか。よかった。」
そうして、悪びれた様子もなく、淹れたての珈琲をもう一口で飲み干すと、私に礼を云いながらカップを返してよこした。彼はどうも、猫舌ではないようだ。
「良かった。それを確かめて帰りたかったんです。今、ちょっと忙しいんです。貴方も来客中らしいですね。また来ますから。珈琲、ごちそうさまです。」
彼は一方的にそれだけ云うと、何か激しい印象を残したままに立ち去った。その髪の色のせいだったかも知れない。私は呼び止める間もなく立ち去られて、溜め息をついて勝手口の石段に腰を下ろした。青年が返してよこしたカップを石段に置くと、私はそのまましばらくじっとしていた。来客のために、部屋から外に出された沢山の涙ツリガネ草の花の鉢が、私に隣には並んでいて、毛足の長い蜂たちの羽音がのんびりと単調に聞こえる。
ⅩⅠ、散歩
このアパルトマンは郊外にあり、公園に隣接していたから、私は暑さを感じるほどの陽気に、揺れる緑の枝葉を見ていた。鳥の音と、木漏れ日は、私が暫く忘れていた類のものだった。広大な敷地の公園は、いまや緑が炎のように燃え始める季節を迎え、そこに宿る情熱は木々の若い葉々だけではなく、私の目の前で、ちいさな頼りない枝を、それでも力強く張る下生えの草の、明るいくやわらかい色彩にも感じられる。ギャツビーの部屋の白い窓から見えたのは、木立の下の半ば荒々しい自然ではなくて、眼下の梢の海だった。それに、私の部屋の鉢植えも、所詮、何かしら保護を加えられた、季節を愛さない鉢植えだ。私は、その花にむらがる毛足の長い蜂の、単調な羽音を聞き、彼らはこんなに長い毛をしていて、暑くないのだろうかと考える。そしてその奇妙な蜂達の間をかいくぐって飛びよってくる、ちいさな羽虫達を手で払うと、この蜂を以前は連れていた青年が、いったい私に何を求めて来たのかを考えた。彼が以前連れて出て行った、蜂は、これらより少し、色が派手だった気がする。
あの青年は、私に、彼の手記を読んだかを聞いた。つまりそれは、私に何かしらの反応を期待しているということだろうが、いったいどんな反応を、となるとよくわからない。私はいくら払っても変わらず私の顔めがけて飛んでくる、ちいさな羽虫たちに辟易して立ち上がると、少しばかり木立の影を踏んで歩きたくて、少し建物を離れた。幾年かの昔、私はこの公園の木々に惹かれてここに居ついたというのに。通り過ぎる折に目に入る、錆びきった償却炉に捨てられた、枯れた例の花を見るにつけ、危機感もなくこれでよいのかと感じる。青年の出現は、管理人をやっていれば一度はありそうなことだった。驚くにはあたらないが、それよりも問題は、ギャツビーのことだ。
晴れた空を仰ぐと、まぶしくて雲も、その空の青も直視できない。古びたアパルトマンに向き直ると、苔むして、かつてはモダンだった姿に歳月を加えて、古い記憶のように哀しく美しい。私は全く、このアパルトマンが好きだった。何故、あのような詰まらない実験に使われるのか。確かに、いくつもある湿った床の部屋には、蒔けば花は自生するし、ここに住む人々は、ある意味では被験者にはむいているのだろうが。私は沢山の窓の中の陰欝を思った。ギャツビーの窓を探した。開け放った窓の中に、白い影が揺れている。私は、そのカーテンと思しき影の翻った向こうに人影を認めた気がしたが、遠すぎてわからない。
階段で言葉を交わした、あのひとの良さそうな青年が云っていた幽霊とは、もしかしたら、あのギャツビーの部屋で私が見た少女のことかもしれない。だとしたらそれは、私以外の人間にも見えるということだ。では、ギャツビーはそれを見ているのか。まさか、なにやら交霊術にでも手を染めているわけではあるまいが。彼はなんというか、そういう、必死に見えることは余りしたがらないほうだったと思う。大学時代も、試験の朝でも良く寝たあとのような顔をしていた。そう云えば、機嫌の悪そうな顔を見たのも、今日がはじめてだった。彼は醜態をさらすのが嫌いなほうなのかもしれない。私はそうでもない。私は少し歩くと行きあたる、公園の東屋に寝ころんでみた。風に騒ぐ木々と、木漏れ日の心地好さ。私は眠気に誘われたが、それでも考えていた。
あの少女が女優なのだ。彼は秘密の恋人の幽霊に取りつかれているのだ。では、それは花の所為ではないのか、本を書き終えればそれは浄化されるのか。私はそれにどう関わればいいのだろうか。それに、関わる権利があるのだろうか。幽霊が、私以外の住民にも知られているとするならば、答えは否だ。私だけに見えるのなら、何かを私に求めているのかもしれないが、他の人間にも見えるというのなら、それは実際にそういう現象が起こっているということではないか。あれは本物の幽霊だろうか。それなら、花の所為でないというのなら、私には責任はなく、ギャツビーが解決するのを待てばいい。私は管理人という、まずい立場にいることは忘れることにして、彼に口出しはすまいと考えた。管理人としては、そこいらに幽霊がうろついているという事態を放置するのもまずい。だが、どうせいつだって奇妙なことは起こっているではないか、苦情が出るまでは放っていてもいいだろう。では、それがやはり、花の所為だとしたら、どうだろう。しかし、なんにせよ、誰かが助けるべき時には、私が階下に住んでいるのだから、彼は呼んでくれるだろう。
緑はまぶしく輝き、私には名前の判らない小鳥がさかんに鳴き交わしている。もうすぐ夏が来る。美しい季節だ、だが、今の季節はまだ陽光は眠りを誘う。私は東屋で横になったまま、目を閉じると、ほんの少し、うとうとしだした。
ⅩⅡ、白い薔薇
日暮れまで寝過ごして、すっかり身体を冷やして自室に戻ると、二人は打ち合わせを終わらせて談笑していた。部屋の明かりが、この季節でも夕刻にはまだ、懐かしいぬくもりを放っている。話題は私らしく、学生時代に遡っている。いつも学期のはじめと終わりにはやたらに熱心に勉強するとかしないとか。テーブルの上には口紅の残った煙草の吸いさしや、空のカッブ、それに見本帳や資料がのっている。私が青い顔でただいまを云うと、二人は驚いて、どこに居たのかと問いかけた。
「散歩に出たらそこの東屋で寝ちゃって。ああ、寒い。」
二人とも、それに笑いはしたが、優しかった。そして、私はその世話焼きに、少しばかり驚いた。毛布を取ってきたり、ミルクを暖めたりしてくれたのだ。私の婚約者は幾つか年上なだけあり、そのような傾向があるのは認めるが、要は、自然に何かしてやろうという優しさだ。私は甘やかされるのを喜びながら、美しいひとがミルクを暖める間に、ギャッツが彼女の指図通りに隣の部屋から毛布を引っぱってくるのを見て、他の人間にこのような心配りをする余裕があるなら、この男は放っておいても大丈夫だろうと考えた。机の上に、例の象牙の古びた写真立てがあって、その中で見たことのない女性が微笑んでいたとしても。それは、おなじような古い感じの白黒の写真であったけれども、私が彼の部屋で見たものとは違う女性がうつっている。おおかた、これが彼の本当の婚約者なのであろう。いや、これもまた、彼の心配りなのだ。彼は助けを求めてはいない。
私は机の上のメモや、私の婚約者の手による簡単な図などを見ていた。ギャッツはつつましく微笑んでいた。私家版は、ただ一部、古い聖典のように浮き彫り彫刻の施された外装に、中身は活版印刷の体裁で。メモには写本風、と書かれた上に線が引っぱってあって、却下になったようだと推測させる。中身はまだイメージが定まらないようで、見本帳の番号を控えたメモがある。また、肖像を銅版画で一枚、とも走り書きがある。私は、銅板なら印刷本の方が良いんではないか、と当事者のように考えてみる。
「とても素敵だよ。でも、中身を決めかねていてね。何も書いていないから仕方ないけど、僕には本とか美術の知識もないし。どうだろう、何かいい案はないかい、君、美術なら詳しいんじゃないのかい。」
私は言葉を返しかねた。しばし口ごもってから、楽しそうだね、とあたり障りのないことを云う。
「僕が口を出しても混乱するだけだよ、きっと。しかし、伝記なんて大変だね。」
彼はひとを寄せつけない、自己完結した葛藤を微笑みで包むと、
「大変だよ、資料を読むだけで一苦労だ。ひとひとりの人生だから、読むのは楽しいんだが、ほら、やっぱり同時代の資料ともなるとなんだかな、現実感があるというか。色々と考えちゃってね。」
と溜め息の様に語った。
「思い入れちゃうのに、客観的に書かなきゃならんってことかい?どんなひとなんだい?」
その瞬間、私は自分の言葉を後悔した。ギャッツの目から、微笑みが消えて、疑いと他のあらゆる感情の色を混ぜ合わせた葛藤のさなかから、立ち入るなと云う冷たい視線が私に放たれた。彼は口を開いた。私が何を知っているのかを疑っていた。私は馬鹿げて無邪気な表情をした。彼の疑いは、それでまた、自分ひとりの夢に満たされた穏やかで、哀しげな笑みにかわった。
「どんなひと、かな。少女の様に可憐で、でも、けして弱いわけではなく。僕にもつかみかねるよ、実際。」
私は小さく、ふうんとうなづいた。それは、ただの女優に対する言葉ではなく、人格としての女性を表す言葉だった。私は心の中で、彼女は既に死んでいるのだよ、とつぶやいた。
「戦争で船が沈んだんだろ?若くして亡くなったのかな、美人は生かしておいて損ないのに。」
彼は困ったような、奇妙な笑い方をした。
「そうだね。事故だということだが、どうも疑わしい。彼女は体制に反対していてね。抵抗運動の学生をこっそり援助したり、プロパガンダ映画に出るのを拒否したりしてね。」
私は彼の目をじっと見た。私はその話に興味があった。彼の関心とはまた別の興味が。
「プロパガンダかい?映画か。」
「先端技術だからね。しかも彼女は金髪で青い瞳だろう。無論、その頃は色なんてついてないけれど、純血なのは皆知っていたからね、ヒロインには理想的だったんだよ。彼女は出身の身分はそこまで高いわけではなかったんだがね、それもむしろ良かった、国の恋人にはもってこいだろう。」
「うん、まあ、守る実感が湧きやすいかもね。」
「戦争の影が近かったし、芸術活動としては共鳴しても良さそうな方向でもあったらしいんだ。時勢に迎合しなかったのは偉いんではないかな、それが理由で孤立してゆくんだから。一見、可憐な感じなんだけれどね。当時の映画界もそれなりに汚かったけど、どこでそんな強さを身につけたのやら。」
彼は熱心に語っていたが、暖めたミルクが白い美しい手によって運ばれてくるのを見ると、口をつぐんだ。
「ごめんなさいね、あなたヴァニラ入りが好きなの思い出して捜したんだけど、見あたらないの。素敵な女優さんね、私好きになっちゃった。まだ名前を聞いてないわね、なんておっしゃるの?」
ギャッツは驚いたような顔をすると、ためらうように私をちらりと見てから目を伏せて云った。
「ロージィです。ロージィ・ワイスと云うんです。可愛らしいでしょう。何故こうも忘れ去られてしまったのか、僕にはよくわからないな。」
彼はそれから少し落ち着かなくなり、座りなおして殆どの空のカップから冷め切った残りの珈琲を飲んだ。これ以上は話したくはない様子だった。私は彼が、本当は名前を口に出したくなかったのだとふんだ。ロージィと云う名が薔薇を連想させ、彼の周りにあふれているモチーフであったことに私は気が付かないふりをした。しかしそれは無駄だった。
「あら、だから表紙の浮き彫りも薔薇なのね、可愛らしいわ。」
私の婚約者は、謎めいて艶麗に微笑んでいる。私は彼女が、ギャツビーではなく、彼女の友人の、正式な婚約者である女性の味方であることを悟った。彼女はひどく傷つけることはしないだろう。それでも、さりげない指摘が彼には手痛い打撃になるだろう。彼は誰にも立ち入られたくはないのだ、伝記作家としての立場以上の場所には。私は彼を弁護したかった。それで私は、話題を変えようと試みた。
「カヤさん、ヴァニラは上の小さい戸棚にあるんだ。僕、お砂糖もほしいな。」
私はことさらに優しい笑顔で、無邪気なふりをした。これは実に効果的な手段で、私の幼児的な振舞が目的を隠し、なおかつその与える嫌な心象により、関心まで振り替える。
「ま、甘えん坊さんだこと。」
彼女は使い走りをさせられて多少嫌な気持ちになるだろう。
ギャッツは私を奇妙な顔で見た。私は、彼をこれ以上傷つけるつもりはないことを明らかにするため、何故ヴァニラ入りミルクが好きなのかを喜々として語る。
「猫に教わったんだ、ミルクはね、ヴァニラがいいんだ。思いきり甘くして飲むと旨いよ。本当は生クリームも入れたいんだけど、生憎買ってないからなあ。」
ギャツビーは怪訝な顔で猫?と聞きかえした。
「そう、猫。」
私はそうして、にんまり笑った。ひとつくらい、私にだって彼に謎掛けをする権利はあるだろう。それは私の、昔に入り浸っていた地下街の思い出だった。私はそうして急に、それら全てが恋しくなった。
「あの地下街に居た猫だよ。知らないかい?」
ギャッツは瞳を巡らせて考え、いやあ、わからないなあと答えた。
「僕はあんまり、映画館の他は行かなかったんだ。奇妙な所だったよね、古物市みたいなところなのに、案外、若い人が沢山居てさ。」
私はヴァニラと砂糖が到着したのに小さく礼を云いながら、彼があの、不思議なおもちゃ箱のような地下街の店々に目もくれず、ただ幻灯館に通う有り様を想像して、少し微笑んだ。その想像の姿には痛々しさはなかった。私の隣で、私の婚約者が何か云いたげ顔をしていたので、私はそれよりも先に云う。
「カヤさん、明日はそこへ行くんだったよね、材料調達に?」
彼女は少し驚いた顔をした。
「ええ、今時、象牙はああ云うところじゃないと手に入らないから。」
ギャッツは少し、怪訝そうな顔をしている。
「あの、失礼だったら済みません、しかし、ちょっと気になっていたんですが、象牙は今は違法ではないんですか。」
彼女はしかし、少し意外そうに答える。
「さあ、あの場所はそう云う事はあまり、そうね、関係ない訳ではないんでしょうけど。随分古いものばかり扱いますし。」
彼女はギャツビーが、その地下街の特性を知らないことに驚いていた。忘れ去られたもの、現実からは遠い場所のものを扱うのがその地下街だった。象牙も、その女優が出ていた映画というのも、そういった特性があるからこそそこにあるのだ。
「ああ、骨董品の範疇、みたいなものですか。僕はこれも合法か知らないんだけど。」
彼は、私が見かけたのとは違う女性の写真を収めた、象牙と思しき写真立てを示して云った。
「でも、このままのものを僕も買ったわけだし。じゃあ、お願いしますよ。」
そうして、それからは私がヴァニラ入りミルクを飲み終えるまで、関係の無い歓談が続いた。最終的にギャツビーが席を立って、戸口でさよならを云うまで、私達はその女優の話を一切しなかった。
ⅩⅢ、小旅行
彼が扉を閉めてからしばらくして、私はちらかったテーブルの上を片付ける、手早くも優雅な動きを見ながら、私の婚約者に云った。
「ねえ、僕も明日、ついて行っていいかな。久しぶりに黒猫のおばさんに会いたくなっちゃった。」
私はしばらくギャツビーを放っておいてやりたかったし、一度幻灯館に行って、おじいさんにも話を聞いてみたかった。私の恋人は、少し笑って云った。
「正直に私と居たいと云えば良いのに。」
そして、それは一面では真実だった。
美しい私の恋人との、小さな列車での旅は快適だった。初夏のあざやかな風景に私の心は久しく忘れていた、くもりのない愉快さと季節への憧憬を送りこみ、都会の駅に降り立つ頃には、私はギャッツのことをすっかり忘れた。新しい服装をまとった若者たちが笑いさんざめきながら街にあふれていた。私は既に年をとりすぎたような気がして、それらを眺めても、若い頃の焦りもなく、ただ遠い物事に対する静かな微笑を浮かべていられる。それでも、新しい服くらいは買ってもいいような気がした。とはいえ、もう、若者向けの洋服屋に行くのも気が引ける。
そのくせ懐かしい地下町に立ち入ると、私はすっかり若返り、はしゃいで昔馴染みの不思議な人々と沢山のお喋りをした。薄暗いのを電灯の明かりで黄色く照らした地下町の、不思議な店のつらなる中を知った顔を捜して歩き、少しほこりぽい空気を吸い込みながら、美しい人を装丁屋の店先へ送ってから、馴染みの珈琲店へ。私はすっかりギャツビーのことも、幻灯館のことも忘れて、ちっとも老けない珈琲店のマスタアと、黒猫のマダムとのお喋りに夢中になっていた。私には話すことも聞くことも沢山あった。私の小さな研究のこと、店々の見習い人仲間のその後の消息、珈琲店に最近来た変わったお客。数時間が滑り落ちるように過ぎて、暇を持て余した沢山の店の主人達が入れ替わりたちかわり、私達のお喋りに参加しては店へ帰って行った。私はあの小さなアパルトマンの小部屋に確かに、満足はしていた筈なのだ。だが、人恋しさというものは、自覚症状のないままに溜め込むとあとに際限がないらしい。私はくる日もくる日もその場所へ通い、挙句、昔のように店番を引き受けるなどしては、ふとギャツビーのことを思い出した。しかし、幻灯館のお爺さんには会えずじまいであった。この地下商店街ではよくあることだが、休業してどこぞに旅行しているという話であった。だから、ギャツビーのことを知ろうにも、手がかりが無かったのだ。ただ、電信が帰ってこないことが少し、心配だった。
数日のつもりだった小旅行がかなり延び、私がアパルトマンの管理人室に戻ると、私の机の上に書き置きが残っていた。それは私のタイプを使って書かれた物で、はじめは、机の上にあっても全く気がつかなかった。それは、次のようなものだった。
ⅩⅣ、書き置き
扉の張り紙で御旅行中と知りました。しかしながら、僕には悪意は無いさる目的が有りまして、勝手ながら上がり込み暫く過ごさせて戴きました。貴方は特には気になさらないでしょう、穏やかな方とお見受けしました。それに貴方の代わりに、きちんと管理人の仕事を代行しておいた事で少しは埋め合わせたつもりです。要するに、鉢植えの管理、苦情の処理、業者との連絡と当局とのやり取り等の仕事です。
何故か花は僕に対する効力を失っている。
僕の手記をお読みになったそうですが、あの体験から抗体でも出来たのでしょうか、貴方の部屋の鉢植えにも何の影響もされない。当局の連中はここの所よくやって来る、しかし僕を見ても貴方と区別が附かないようだ。いい加減なものだと思いませんか。それとも全くその辺りには興味が無いのか。
僕はこの実験施設に対する怒りを、多少の肯定的な見方に変えてここへやって来たのです。しかし、僕は今、それに対してまた大いなる疑念を感じている。そしてそれは貴方の大切な御友人に関する事柄から生じているのです。それを始めから語る事にしましょう。僕は手記を書いた折りよりは沈んでおりませんから、きっともっと饒舌に語れるはずだ。
僕が貴方の部屋に忍び込んだのは、貴方が御旅行に出かけてから直ぐの昼頃でした。貴方はすっかりお忘れのご様子でしたが、僕は予告通り貴方を尋ねたわけです。とは云え、そのことで貴方を責めるつもりではない事をここに記して置きましょう、僕が本当に来るかどうか、貴方に判断できる筈も無い。とにかく、僕が手土産を持ってその扉の前に立った時、そこには誰も居なくて、代わりに目の高さに張り紙が在ったと云う訳です。
そこで僕は好機だと判断して、張り紙を剥がすと、僅かに開いていた窓からなんとか貴方の部屋に忍び込んだのです。きっと、蜂が出入り出来るように開けてあったんでしょう、鉢を幾つか脇に除けて入らなければならなかったから。
何故僕がここまで、この施設に拘るか判りますか。それは勝手な人体実験に対する怒りではない。ただ、僕は僕に何が起こったのかを知りたくなった。手記を棄ててしまった事は悔やんではいなかったのです、それは僕の頭の中にまだ残っているから。そうではなくて、もっと多くの事が知りたかった、何故僕の心の在り様と、花や蜂が同調したのか、若しくはその心理は花により引き起こされたのか。
涙ツリガネ草は、大抵は人気の無い山野で自生するものであることはご存知でしょう、あるは御存知無いかもしれないが。その山野での生態は人間とは無関係に見える。僕が実際、その群生地へ出かけた事は、手記に有りますから御存知でしょう。では、ここにある花は何なのか。あちらこちらで、勝手に自生しては当局に保護番号を振られる、あれは何なのでしょうか。貴方はそれについて何か知っていらっしゃるだろうか。
僕にはそうは思えない。貴方の机の上には人文系統の本しかない。僕は正直、驚いた。この施設の管理人ともあろう人が、花についての資料を一つも持っていない。僕には見慣れない美術関連の本が殆どだし、管理人らしい持ち物と云えば修理業者の名簿だけだ。管理人日誌には人の出入りや苦情や修理関係の記録しかない。花の差し入れや管理記録はあるが、その機能についての記述は全く無い。時折書き込まれた個人的な意見は全て、貴方の人の良さと、花に関する知識の欠如を暴露している。貴方はきっと、貴方がご友人に差し入れた花についても、全く何も御存知ない。それは僕にもよくは判らない。ただ、なんとなくは見当は附く。
僕は貴方が居ない間に、少し彼と知り合う事が出来ました。彼は今は、ひどく痛ましい事になっている。僕はそれを残して立ち去る事に少なからず心苦しさを感ずるが、これは僕の立ち入れない問題だ。貴方でさえ難しいかもしれない。だが僕は経験上、これは彼が独りで解決すべき問題だと確信しています。だが、それは貴方が彼の傍に居るか居ないかと云う問題とは別だ。私は貴方が彼を残して何処ぞへ出かけたことには少しばかり憤りを感じる。しかし、貴方はこの問題に関しては何も知らないのであろう。だから僕は貴方が留守の間のことも少し書いて置きましょう。貴方は彼にとっては現実に繋がる存在だから、是非、傍に居てやって欲しいのです。
彼は、貴方が出かけた日の昼を少し回った時間にこの部屋に来ました。正確な時間は忘れてしまったが、僕が貴方の部屋の物色をし終えて、何の手掛かりも見つからずに呆れ返って椅子にへたり込んだ辺りですから、昼をだいぶ過ぎた頃でしょう。誰かが扉を叩いて貴方の名前を親しげに呼ぶものだから、僕は居留守は通じまいと扉を開けたのです。返答が無くても勝手に入ってくるだろうと踏んだものだから。しかし、彼はそう云う人物ではないようだ。僕がここに居る間、勝手に扉を開けた事は一度もない。紳士的な人物の典型と云った感がありますね、彼は。
僕が扉を開けると、往年の映画俳優のような、ハンサムな容姿の男性が、喫驚した表情で立っていた。彼は貴方が旅行に発ったのを知らなかったらしい。僕は彼については何も知らなかったから、何か御用かと聞いてみた。彼は友人を尋ねてきたが、部屋を間違えたようだと云った。そこで僕は小さな作り話をでっちあげた訳です。僕はこのアパルトマンの住人でこの近くの部屋に住んでいるから、管理人が旅行する折りなどには代理を頼まれてここに住むのだと。彼は幸い、他の住民と同様にその辺りの事情には疎いようで、納得して立ち去ろうとした。僕は引き止めて中へ入るように勧めました。と云うのは、この人物から何か新しい情報を引き出せはしないかと云う考えがあったからです。貴方と親しい人物の方が、話を聞き出すには都合が良いだろうと云う訳です。僕は手土産の茶菓子と、物色中に見つけた珈琲で、彼をある程度長い時間引き止めておけるだろうと考えました。そしてある程度親しくなれば彼はまたやって来るかもしれない。それで僕は彼を促して中へ入れました、さも使い慣れた風を装って四苦八苦して珈琲を淹れれ、できる限り愛想の良さを装った。退屈で仕方ないからという顔をして、当惑した彼にあれこれと質問を浴びせ掛けました。自分は事情を知らないから、何時から何の為にここにいるのか、貴方とはどのような関係であるのか、ここの暮らしはどうだろうかなど。それで大体の所は知りました。
僕はその間に彼の様子を観察していた、にこやかで、愛想の良いこの男性は、僕に対しても興味がありますよといった風な笑顔で型通りながら質問をする。僕はこの、珍しく人好きのする男性に何か奇妙な、ほんの僅かな異常さを感じました。観察してその理由が判った、それは奇妙な不整合だ。下品にならない程度に流行りを取り込んで、さっぱりと仕立てた髪型は切ってから幾日も経たないだろう。しかし、その髪を切った日からずっと剃っていないかのように、無精髭は伸びっぱなしだ。穏やかな笑顔に曇りはないが、随分と肌艶は悪いし、目の下など黒ずんで小さな皴が目立つ。羽織っているカーディガンは僕でさえ知っている高級紳士服の老舗の物であるのに、中に着たシャツはそのまま寝たかのような具合で襟回りが黒ずんでいる。だが、僕はそれでも、休暇中の大人なんてそんなものだと思う事も出来たでしょう。顔色の悪さやらだらしの無い服装なら貴方にも僕にも共通する。だが僕は何かおかしいと思った。それは彼の態度や目の輝きであったかもしれません。しかし僕は彼自身は大変気に入った。
貴方は意外に思うかもしれないが、僕は大抵の人間には好意的なのです。貴方の人間的弱さばかり噛み締めて生きているような姿勢も、悪くないと思っている。しかし、僕が彼を高く評価するのに貴方は不公平だとは思わないでしょう、彼は天性の人好きのする人間のように見受けられる。僕は直ぐに彼が好きになったし、それ故にまた、彼もまた悩まされているであろうこの人体実験を遺憾に思った訳です。そして興味が湧いた。
彼がまた来る事を云い残して立ち去ったあと、暫くして、また別の来客がありました。御人よしの好青年といった風情の若者です。彼は僕を管理人とすっかり勘違いしていた。貴方とは面識が無いと見える。僕は彼の思い込みは放って置きました。申し訳無さそうに、自分は幾人かの住民の代表を頼まれまして、と彼は困ったような笑顔で云いました。馬鹿げた事なのだが、最上階に幽霊が出るとの専らの噂だと。青年はそんなことは信じていなくて、どこかの別の住民ではないかと考えている様子でしたが。
「特になにか困った事があるわけではないみたいです。ただ、理由なくうろつくと不審者とまちがわれかねないし。きれいな人らしいんですが、神経質な人にはそのへんが幽霊じみてみえるんでしょうね。」
彼は大体、そんなような事を云いました。苦情を云うにしてはあまりに馬鹿馬鹿しい内容でしたから、それで彼も困っていたのでしょう。そんな役目を引き受ける彼も哀れだが、僕は彼もまた、最上階の住民であると云う事にも興味を引かれました。先程の貴方の御友人はそのことについて一言も触れなかった。最上階に済んでいて、女優の伝記を書いているといっていました。僕はその幽霊とやらの姿を聞き出しました。金の巻き毛、透けるような美少女。
「じっさい、透けていたんですか。」
「さあ、なんとも。現実感のない雰囲気なんです。あの、部屋がわかったらおしえてくだされば、僕からかどのたたないように云いますが。」
そんな遣り取りをしました。
僕は彼がその美少女をいたく気に入っている事に気付きました、それで苦情の名目で御近附きになりたいんでしょう。僕はいつも思うのだが、ここの住民はいつも少し間抜けで人が良い。貴方が管理人と云う嫌な仕事を引き受けるのも、こういった間抜けさからか、こういう連中に惹かれるからかのどちらかなのでしょうね。
しかし僕は少し些末な事に立ち入り過ぎた様だ。もっと手短にその後のことは話した方が良いでしょう。貴方の御友人は毎日僕を訪ねて来た。彼の顔色は日毎悪くなり、次第にやつれて行くようでした。ひきかえ、人好しの青年は数日置き毎に、どうしようもないコメントを携えて僕に会いに来ました、この二人の姿は非常に対照的だ。幽霊はよく出るらしく、彼は今やそれが住民だと確信して、淡い恋心を抱いている様でした。
「あかりとりからさしこむ光の中に、真っ白い服でたたずんでいたんです。僕が声をかけようとちかづくと、かどを曲がってしまいました。おいかけて恐がられても困りますしね。」
そんな下らない事をわざわざ報告しに来るので、僕もほとほと辟易しました。それで僕もちと調べてみた。無論そんな住民はいやしません。この青年の妄想かとも思ったが、どうもそれにしては、他の住民から聞いた話が見合いすぎる。
「あの、ちょっとかわいいけど頭はよわそうな子ね。」
と、不機嫌に答える女性など。しかし、調べ回ってみた所で、とうとう僕はそれにはお目にかかれなかった。裸足の小さな足跡を、隅の埃に見附けただけです。廊下の隅の、暗がりの中にそれはありました。
そうこうして、僕がすっかりだらけてしまい、何もしない日が幾日か続いて、僕は貴方の御友人が訪ねて来なくなった事が気に掛る様になりました。別に気が合わないならそれも当然でしょうが、特にそう云う訳でもない。だが、僕は特に理由は無いだろうと考え、放って置いたのです。
ある昼下がり、当局の奴等が来て、僕は彼が来られなかった理由を知りました。連中はいつ見ても気味が悪い。二、三人連れのことが多いが、互いに仲が良い様にも見えないし、いつもそれぞれが己の頭回り一周程度の世界に没頭している風がある。まあ、僕にもあまり見分けが附かないほどに似た雰囲気だから、お互い相手にしても似過ぎていて新鮮味に欠けるんでしょう。僕だって連中と個人的にお知り合いになんかなりたくない。僕が静かなノックに扉を開けると、連中の中の、少し太った男がファイルから顔を上げて、ああ、と横柄に云いました。
「管理人さん。ええと、君、なんだっけ、名前。」
「甘木です。甘木セイジ。」
僕は貴方の名前を答える。部屋に届く郵便物から、読み方まで正確に把握していました。
「ああ、そうだったね。すまんね、名前を覚えるのはどうも苦手で。」
彼は僕の顔を殆ど見ることも無く云いました。事務的なのだが、ソフトな感じが人の警戒心を解く様な話し方だ。白衣も手伝い、この感じは大病院に風邪の診察に行くと居る医者を思い出させる、だが、我々はその様な忙しい大病院に居る訳でもなく、やっつけ仕事の対象でも無いのだという事は忘れるべきでは無いでしょう。彼の銀縁眼鏡は油染み一つないから、何も知らなければちょっとした尊敬の念を抱くかもしれない。
彼は何か待つように少し黙ったが、それから、
「入ってもかまわないかね。」
と、当然の如くに云う。いつも管理人室で打ち合わせか何かしていたのでしょうか。僕は白衣の、有難くない天使のような歩き方の連中を招き入れて、席を勧めたが、座るのは話していた男だけだ。勿論茶などは出してやりません。
「花はたりているようだね。それで、先にちょっと、ざっと中を回ってみたのだがね。」
彼はファイルを繰りながら多少嬉しそうな声で、
「あの、最上階の人ね、めずらしい症例を示してるんだよね。君、世話と記録たのむね、たまに彼にも来てもらうから、協力してやってね。」
と云って、後ろに控えて立っている、比較的若い、痩せた白衣を示しました。そいつは、どうも、と半ば表情を欠いた まま、挨拶するので、こちらも「はあ、どうも」とだけ答えました。
「どうも寝たきりだから、君、栄養点滴たのむね。後で彼がやりかたみせるから。まあ、しばらくはほっといても大丈夫だから心配しなくていいよ。専門的な事は彼にまかせておけばいいし。」
僕にはあまり事情はのみ込めなかった。とはいえ、貴方がいつもどの程度のことまで把握しているかよく判らない。僕はそれで、適当に様子を伺いながら黙っていました。連中は珈琲の一杯も出そうにないと知ると、とたんに帰る気になったらしい。外から大きな箱を一つ、管理人室に運び込むと、先ほど紹介された奴を残して、他の部屋を回りに行ってしまった。下見の後に、「専門的な事」をしに行ったのでしょう、僕が昔、住んでいた部屋で見たように、湿度やらを計ったり、住民の健康状態を診たりと云った風な。僕は白衣に附いて階段を登る。奴は僕に荷物を持たせ、僕の機嫌をひどく損ねたのですが、それにすら気附けない様子でした。
その日は丁度、どんよりと曇った湿っぽい日で、階段や廊下はやたらに暗かったと記憶します。貴方の友人の部屋に着いた時、ひどく甘い香りが耐え難いほどに空気を重くしていました。中に立ち入ると、白で統一された室内に、何か不気味な印象を受ける。扉を開ける前に聞こえた、軽く走る様な音の持ち主が見当たらなかったのです。窓から、灰色の背景の中に変に明るい緑が見えていました。そして机と、その窓の縁に、僕の嫌いな花があった。僕は窓に近附いて、わざと気付かないふりをしてそれを落としてやりました。あーあ、困るよ君、と僕を連れてきた奴は云いました。誤魔化しに、下手な愛想笑いして振り返ると、奴はベッドの際で男の腕をとっていました。手早く点滴を繋いで、僕が彼のやつれた顔を無言で眺めているのにはかまわずに、です。僕はその様子が耐え難いものと感じました。御友人は少し痩せて、眠り続けたままで、幸せそうに微笑んでいた。僕は怒りで喉が詰まったが、情けない事に、なす術を知らなかったのです。それでまた遣る瀬なかった。手際よく作業を済ませて、僕に色々な説明をする、そいつの人間性を疑いました。そいつはカメラを一台置いて行きました、何か思考内容が実体化しているようだから、見掛けたら記録するように、と。僕は奴が出て行っても、掃除を名目に一人残りました。腹が立つのでカメラは頂戴する事にしました。だから、この書置きを貴方が読んだとしたら、ついでに無くした云い訳も考えておく事をお勧めします。少し話が逸れたようだ。とにかく、僕は掃除をすると云って、一人で部屋に残ったのです。
とはいえ、掃除をするにせよ、いくつかシャツを洗濯に回す程度のことしかなかったのですが。部屋には物があまり無かったから。僕は白い机の椅子に座って、何やら暗い思いに耽っていました。僕はひどく腹を立てていたし、僕だって気に入ったこの人の良い男性が、こんな風であるのがひどく辛かった。この人体実験はひどく野蛮だし、このまま放置すれば僕もまた、加担した事になる。しかし、僕は僕自身の不愉快な体験が、その後の僕を考える時に何かしら良いものをもたらした気がして、その点ではこの厭わしさにも目を瞑るべきではないかとも考えていたのです。僕が憎んだのは体験ではなく、その体験を強制された事実なのだ。結果は僕に財産を残したが、その結果は意図されたものではないのです。僕が考えていたのは、そう行った事でした。いますぐ彼を叩き起こそうかという衝動に生じた迷いです。
僕が目をあげると、噂の幽霊が立っていました。随分人間らしく見えました。金髪の巻き毛で、確かに小柄な印象はありますが、少女というよりは、幼さを残した女性です。首を少し傾げて、困った様に僕を見ているので、僕は正直、面喰いました。人間でも幽霊でも、そこに人が居たという事実にです。
「ああ、お邪魔しています。」
僕は咄嗟に挨拶をして席を立ちましたが、言葉が通じない様で、彼女は何かを呟く様に口を動かすだけです。他の幾つかの言語で、なんとか知っている限りの挨拶を試したが、はっきりした反応はない。彼女は何か話す様に無声のままに唇を動かしているが、僕には何も聞こえない。彼女は僕の目を見据え、また何か云いました。印象的な、青い瞳です。それは底の方がくすんでいて、それが彼女を馬鹿に見せないような、何らかの効果を持っていたのではないかと思います。限りなく年をとった爺さんか何かのような、そんな奇妙な印象を受け、違和感を覚えました。僕はようやく、彼女には声が無い事に気が附きました。生憎、読唇術は心得ないから、それで仕方なく御辞儀をすると、彼女は微笑んで、非常に品のある仕草で、子供のように小さな手を述べる。随分旧式だが、そこにキスをする礼儀なんでしょう。しかし、驚いた事に、その小さな指が僕の手に触れたとたんに、ふいと描き消えてしまったのです。
僕はあの時、本当に驚いて、ベッドのふちに腰掛けて、床に落としたカメラを拾うのも忘れていました。それは運良く壊れなかったけれど。僕は、彼女が消えた事に驚いたのです。僕は、彼女をやはり、人間だと認識していたのではないかと思います。その指はたしかにひんやりしていたて、感覚が僕の指に残っていました。確かに、僕はそれを人間だと思っていたのです、というのは、実体と呼べるような何かが、確かにそこに在ったからです。僕は、どうにか落ち着くと、部屋の写真を一枚撮って、階段を降りました。それは僕自身にとっては気に掛かる事だが、結局、僕はその状況に対して何の手出しもできないのですから、云っても仕方の無い事なのです。
そして、僕は彼の様子を見に、幾度か最上階の部屋を訪れました。あれ以来、僕は彼女を見てはいません。貴方の御友人は痛ましい事になってはいますが、ただ眠っているだけなので、目覚めれば快復はするでしょう。しかし、僕はもう行かねばなりません。他の用事があるのです。貴方がご友人宛に打った電信は、僕が一応目を通しているので、もうそろそろ貴方が帰ってくるという事も判っています。他に報告すべき、さしたる事項もありません、水漏れを業者に頼んで直させる中継ぎをしたくらいです。僕の責任は此処までだ。
ⅩⅤ、白衣
私が新しいシャツを着て旅行から戻った時、机の上に見つけた書き置きはこのようなものだった。私はしばらくはそれに気付かず、妙に部屋が片づいていることに違和感をおぼえながら、習慣どおり珈琲を淹れて飲んでいた。鞄には溜った洗濯物と、買ってきた本が数冊入っていた。独りで帰ってきた部屋は、午後の少し傾いた日のなかでは、ひどくさみしいものに見えた。空腹にブラックの珈琲を注いだら、なんだか手足に落ち着かない感覚、わずかに震えに似たものがきて、私は恨めしくまだ明るい窓の外を見、そして部屋の鉢植えが一掃されていることに気付いた。どうせ枯れてしまっても良い、こんなアパルトマンくらい追い出されてもかまやしないと、旅行中は無責任に考えてはいたが、やはり帰ってくると、途方にくれたような気分になる。まだ私が書き置きを見つける前に、扉にノックの音がして、私は恐れながら扉を開けた。当局員がそこには居て、私の頭は白くなって、いいわけを必死に捜していた。
しかし、彼は少し何かを考える様に私を見ていたが、云った言葉は次の通りであった。
「ああ、髪型をかえましたか。昨日ね、いらっしゃいませんでしたからね。前のよりも落ち着いた感じでよろしい。しかしね、床屋もいいが、困りますよ、約束した日にいないと。」
私はしどろもどろに、少し緊急の用事があって留守にしていた、その間に花が枯れてしまったようだが、と繋いだ。
「二日で枯れたんですか。別に連絡すればすぐ届きますがね。困るなあ、最上階の人の花も枯らしたんですか。鉢が無かったけど。」
私はあいまいに、エエ、ハイ、済みません、とだけ返した。二日とはどう云う事だろう。
「甘木さんね、僕はその管轄じゃないけど、花を枯らしてしまうのは職務怠慢ではないですか。二日と云えども留守にするなら連絡を入れて、そうしたら誰かよこす事も出来るんだから。いいですか、きちんと管理してくださいよ。貴重な症例が進行中なのは貴方も知っているでしょう。」
私には訳がわからなかったが、彼が何か誤解している以上、私はそれにあわせて平身低頭して謝るしかなかった。彼はそれに気を良くした様だ。白衣に挿したペンを取り出して、手元のファイルに何かを書き込みながらも、少し早口になって云う。
「髪を切って心まで入れ替えたんですか、急に素直になりましたね。貴方のいちばんの問題点はそこですよ、態度です。まあ、改善が見られるようですからね、まあ、悪くは報告しませんよ。被研者の世話なんかはかいがいしくやってましたね、我々も洗髪なんかはしたくないから。花は予備があったから足しときましたから。じゃあ僕はこれで。」
当局員にしては饒舌な彼は、そう云うと満足げな笑みをもらして立ち去った。あの笑い方は権威主義的で好きにはなれない。それにしても、彼はいったい何の話をしていたのだろう。もしかしたら、彼自身、何かあの、奇妙な花にあてられているのだろうか、だから饒舌だったのだろうか。私は混乱しながら背中を見送り、それから扉を閉める。
ⅩⅥ、幽霊
私はそれで混乱しながら、机の方にむかってみたのだが、はたして、そこに全ての事情を説明する書き置きがあったわけだ。その書き置きに目を通したときの、私の心情はとうてい説明のしようがない。はじめは、不吉な予感であって、それとともに、先刻の白衣の当局員との会話への説明がなされていた。私は読み進んで行くうちに、どういうわけか、やはり、と云う嫌な感想を持ちはじめた。この部屋を長く離れることに対する漠然とした不安は、住居や手当のような私にとって実際的な事柄ではなくて、多分、こちらに起因していたのだ。彼をひとりで放っておくべきではなかったのだ。
私は一気にそれを読み終えると、すぐ席を立った。しかし、何か身体が激しく震えるような感覚のせいで、階段を駆け上がることができなくて、貧血でも起こしたかのようにふらふらと、一段、一段踏み締めて登るほかなかった。暗い階段はいつものように湿った空気が流れていて、私はこのアパルトマンで展開されている何かの状況の、自分もまた端的に当事者であったことに今更ながら気が付いたのだった。私はそれをできるだけ早くのぼりきると、はやる気持ちにもかかわらず扉の前に立ちすくんで、暫く中に入ることも、そして息を吸うこともできずにいた。
扉の中はしんとして、物音ひとつ聞こえない様だった。私はそのまま立っていた。私がこのことに対して主体的に関わる方法はひとつしか考えつくことができなかった。部屋に飛び込んで花を捨て去り、窓を開いて空気を入れ替え、ギャッツの頬を叩いてこんな馬鹿げた茶番を終わらせることだった。しかし、それを彼は望んでいるのだろうか、いや、彼は私の侵入をあくまでも拒否し続けていたではないか。それに、花は、局員が云っていたように、もう無いのではなかったか。だとすれば彼は快復するのを自ら拒んでいるのではないか。私はなおも迷っていた。いったい、正しいことはなんであろうか、ただの友人には何か特別の資格が与えられるものではないだろうに、私がこれ以上傍観することもやはり許されはしないだろう。その侵入の決断を私は下さねばならなかった、だが、私にはその勇気がない。いや、勇気なら在ったかもしれない、だが、それが正しいことだとは、この期に及んでも、まだ信じることができない。いったい、自己の領域の尊厳を主張する人間に対して、侵入を許される人間がいるだろうか。その神殿の中で起こる幸も不幸も、全て責任は彼にある。だが、友人をこれ以上放置することは、私自身の倫理的な問題にもなる。
あるいは、私が傍観することをしなかったこと、ただそれだけにこの状況が起因したのではないか。私がすべきことは、この友人の観察者であることだったのではないか。私を現実につながるもの、と。書き置きを書いた青年が抗議したのは、その点であったのだ、そうだ、私がそれを放棄したからこそ現在の状態があるのだ。私は花を放り出して窓を開けたら、ただ彼が目覚めるのを待とう。
私はその様なけっして積極的ではない決心をして、扉に手を伸ばそうと考えたが、その前に振り返ることをした。廊下は薄暗かったが、最上階の換気の良さゆえに空気は乾いていた。実はその少し前に、誰かの気配を感じた気がしたが、私はかまいかけずに立っていたのだった。そして、私は左の手頚に冷たさ、ひやりとした空気を感じて、あまり注意を払わずに振り返ったのだ。そして、それが空気よりももっとしっかりとした触感に変わり、私はやはりその少女の小さな指先を感じていたことを知った。
あの青年の書き置きには大人、とあったが、彼女はやはり私には、子供に近い少女にしか見えなかった。背は低く、全体のつくりはひどく華奢で、私の肩よりも下に、聖画の天使の様に薔薇色の頬をした笑顔があった。それが私の手をとって、微笑みながら私を見上げていた。その指先は冷たかった。私は息をのんでそれを見つめた。それは本当に、無垢な子供の様に可愛らしかった。私の印象はそして、すぐに変わった。彼女は大きな瞳の底に、何かしらの静謐な崇高さを保持していた。それは私に、彼女が子供でも、人でさえない、何か非常に年を取ったものであるかの様な印象を残した。いい表しにくいことだが、しっかりと私の手を取っている、このひんやりとした指先は、また薄明かりにきらきらと光る巻き毛のその柔らかそうな一筋一筋は、また陶器の白さに赤みが差した頬は、確かにあまりにありありと実在している感覚が強かったにもかかわらず、むしろその存在している感覚の強さにより、全く少女らしくなく、人間的ですらなかったのだ。
だがその印象は一瞬であって、またすぐに、彼女は色彩を失って、ただの少女に戻り、声の無い唇で、何か話すと私を扉の方へ引っ張った。そして、私が扉に手をかけると同時に、優しく、何かを許可するように笑って、扉自体の中にすっと入り込んで消えた。私は扉をとおり抜けた彼女を見つけるつもりで扉を引いて、中に入った。
ⅩⅦ、聖域
私が扉を開けた時には、確かにそこには、見慣れた床板が並んでいたと思うのだ。私は疑問を持たずに少し振り返って扉を締めた。だが、その時、私の瞳は視力を失ったかの様に闇に閉ざされた。突然に世界から音が消え、周囲は光を失い、暗闇は冷たい空気が支配していた。私は驚いて振り返った。振り返ってもどちらをむいても、あたりは真っ暗で、それはありえないことだった。私の足の方、つま先も見えない闇の中には当然何も見あたらなくて、私は漆黒の闇の中に立ち尽くしているのを知った。無論慌てて、たった今締めたばかりの扉を、必死に手で探した。だが、いくら手を述べてもそこには何も無い様子で、私の両手は、空しく中空を掻くばかりだった。私はそれで、しゃがみこんでしまった。床板の痛んだ手触りを確かめようとかがみこんで、それが何か、磨き上げた冷たい石のような感触、つるつるとしてひんやりとしているのを確かめ、自分の衣服が擦れあう音や息遣いの他に何も聞こえないことを認識し、要は、パニックに陥ったのだ。
だが、そのまま黙って座り込んでいると、やがて目が少しずつ慣れ、自分が全くの暗闇に居るのではないことに気がついた。かすかに、床をなぞる自分の指先の形がわかった。それは少しずつはっきりして、やがて光源が近づくか何かしたのか、私ははっきりと光を目に感じて、そちらに顔を向けた。すぐ近くに、白い大理石でつくったような台があり、光は、その上に浮かぶ小さなものから出ていた。私は立ち上がってそれに近づく前に、それがいったい何であるのかの見当がついていた。いったい他に何があるだろう、私は幾分ほっとしながら、いや、もしかしたらうんざりといったほうがよいのかもしれないが、少しばかり緊張を緩めて、不思議な思いでそれに近づいた。
やはりそれは、白い、小さな薔薇だった。
私がそのすぐ脇に立ったとき、周囲の床に何か、光源の光をまぶしく反射する白で、模様が現れた。私はそれが暫く、何であるかわからなかった。それはきらきらとした白い砂で、うねりながら幾重にも、幾重にもこの台座を取り囲む帯になっていた。やがて、その形状から、古い教会の床にあるものとおなじ、一種の迷路ではないかと推測することができた。それは宗教的瞑想に使われるものだ。迷路と云うのは正確ではない。この迷路は入り組んでいるが、枝分かれはしない。だから、道をたどればいずれ中心にたどり着くことになる。だが、それにしても、これは広く大きい。光源が達さない遠くまで、遥かに及んでいる。だが、中心にあるものがただの花であるとは。私はそこに少女がいないことを不思議に思った。
聞き慣れた声が、響くでもなく、しみ入る様に、闇に歌を歌っていた、小さな、呟くような。わらべは見たり、野中の薔薇。それが途中から、彼の専門の言語に変わる。
ギャツビーが、遠くから私に、
「やあ」
と、微笑みながら声をかけた。彼は悠然と、ポケットに手を突っ込んだまま白い道を歩いていた。彼は少し遠くにいるが、歩きながらも、私に笑った視線を注いで話しかける。
「済まないね、なんだか巻き込んでしまった様だ。」
私はその、何のてらいも無い様子に、どういうわけか腹を立てた。
「巻き込んだって、なんだいこれは。愛の祭壇か、ばかばかしい。いい加減にしろ。君は結婚するんだろう、こんな馬鹿げた真似はやめろ。」
私は半ば怒鳴り声に近いものをあげていた。つまり、はじめて、彼に対して本音をぶちまけたのだ。しかし、彼はポケットから手を出すでもなく、歩くのをやめるでもなく、ただ、ひょいと肩をすくめて、云っただけだった。
「いいや、違うさ。」
そして、彼は相変わらず悠々と、白い道筋に足跡を残しながら歩いた。彼がその道筋を歩く音だけがしていた。
「いいや、違うさ、そんなことはないよ。僕が愛するのはただひとり、生きていて、僕の手を取り、僕に微笑むことができる女性だけさ。彼女だけが僕のずっと探していた愛だ。」
ギャツビーは機嫌のいい声をしている。白い砂は、彼の皮の靴の下で、音を立てながら足跡を刻む。ギャツビーの笑いは消えてはおらず、私の怒りもまた消えてはいなかった。だが、私はそれでも、彼の話を聞く気でいた。ギャツビーは、そんな私の押さえつけた沈黙の上に言葉を並べる。
「その薔薇の花は何だね?いいや、違うさ、それは女性ではない。かつて生きた女優なんかではないのさ。彼女はその薔薇の一つの述語でしかない。薔薇のほうが主語なんだ。」
彼は右に左に、次第に遠くから私に近くなる道筋を辿りながら、もう私には視線をむけなかった。彼は足元に白い足跡を刻みながら、ずっと、それを見ていた。それは背景の漆黒の闇の中で、ただひとつの明るい星のように輝いている。彼はそれを眺めながら云う。
「ただ、今は役に立つ。僕が僕自身に何を望むのか、他にどうしたらわかるね?かつて生き、海に沈んだ女性が僕に教えてくれることを、他の何が教えられる?だがそれもひとつの、僕自身から出た暗号なのだ。」
彼はやがて道を辿るうち、私に非常に近くなった。私は彼に聞かせるにはもう必要の無い大声で云う。
「だったら何でこんなことをするんだ?君は独り部屋に閉じこもって薔薇に毒されている。」
彼は白い砂の道の、私の真正面にあたる場所に立ち止まった。そして、真剣な眼差しと優しい微笑みで私に問いかけた。
「君はなんだって、いい年をして机にかじり付いている?」
私は答えに窮した。それが私のしなければならないことだから。だが、それは誰に課された義務でもない。ただ、そうしなければならないと私が知っているから。それだけの理由。それしか道がないから、それだけの理由。ギャツビーは、中心に近くなった白い砂を踏みながら、私の方を見ている。いや、きっと、私ではなく、私の先にある、この光る白い薔薇だ。彼は諭すように優しく云う。
「君の恋人の評判は良い、僕はよく噂を聞くよ、彼女は君ひとりくらい養える。だが、君は彼女と離れて暮らしてもしなくてはならないことがある。そしてそれは他人から見れば、非常に馬鹿げた、取るに足らないようなことで拘泥しているということなのだ。そうだろう?」
私には、彼の云いたいことがなんとなくわかった。だが、納得はしなかった。私は彼が、もう、すぐ傍らに来ているのを見ながら、その白い砂を踏む音を聞きながら、反論しようとする。
「だが、君はあの少女を愛している。海の底から幽霊を呼び出したのを僕は知っている。」
彼は微笑んだ。彼は、もう、僕の目の前に来ていた。彼は私の手に方を置くと、何のつもりか、励ますように叩いた、その目は若く、大胆で、笑っている。
「君はあれが本物の彼女ではないことを知っている。」
彼は私を通り過ぎ、台座のすぐ傍まで来た。白い薔薇を見上げると、それに顔が照らされて眩しそうだ。彼は台座にのぼり、それを凝視している。まるで、それがいかにも驚くべきものだと云わんばかりに。私は注意を引こうと、相変わらずの大声だ。
「じゃあ、いったい何だって云うんだ?」
彼はその薔薇に手を伸ばしている。だが、私の問いかけには、顔をあげてこともなげに答える。
「わからないのかい、あれは僕だ。」
そうして、彼はそれを手にとって、その香りを嗅ぐように顔の前に持ってゆく。淡い光に照らし出された彼の表情は確信と平安に満ちているが、私は驚き呆れている。そうして、私はその音に気が付いた。何かが流れるような音が、遠くから次第に近くなり、私は振り返る。白い道が、まるで支えを無くしたかのように、何も無い足の下の闇にむかって落ちてゆく、その流れる音だ。小さな滝は、迫ってくるように、白い砂の道を手繰り寄せ、中心に近づく。
「道が消える。」
私は台座に足をかけて微笑んでいる友人に云うが、彼は、白い花を持ったまま微笑む。
「君が立ち会えるのは此処までなんだ。」
そして、私は足をすくわれる。白い小さな滝が私の足元に到達したのだ。
ⅩⅧ、平手
次の暫時、私は全く自分の、何らかの段階がわからなくて非常に混乱した。夢と覚醒の段階、心理と身体の区別の混乱だ。はじめ私は、滝に足元をすくわれたことか、それとも何かしらギャッツの云ったことが私の心にひどい動揺を与えたものと思っていたようなのだが、夢が終わり、目が醒めるその推移に似た中で、多分そんなことを考えたのだろう。ついで側頭部と、頬に痛みを感じていたことに気付き、それから苦痛が身体的なものであったことに気付き、それから目を開けると、誰かに平手を食わされていることに気付いて、慌ててそれを振り払ったのだった。
「何をするんだ。」
私を叩いて起こそうとしていた人物は、拍子抜けしたように、
「あ、よかった。」
と、漠と沢山の微細な感情をたたえた、しかし例の無表情で云った。私が振り払ったのは、例の書き置きの青年だった。彼はそれから、私の気分を聞くでもなく云った。
「あなたまであんな状態になるとこちらも困るんで。あまりびっくりさせないでください。」
私は彼に腹を立てないでもなかったが、それより身を起こしながら肩と側頭部の痛みに気を取られていた。辺りを見回してみると、どうも私はギャッツの部屋に入ったすぐのところに倒れていたようだ。肩や側頭部の痛みからすると、卒倒したらしく、開いたままの扉が私の足の方にあった。青年が膝を抱えてしゃがみこんだまま私を観察している。そして彼は、少し振り返って寝台のほうに声をかけた。
「佐備さん起きたよ。」
「あらそう。」
私は、ギャツビーの寝ている筈の天蓋の中から、低音の女性の声を聞きつけて、誰、とばかりに青年の顔を見やったが、彼は意に解さなかったようだ。見ると、長い脚線美の脛が見えている。黒のハイヒールだ。だが、青年はそれを説明してくれる気は無いようで、また違ったことから解説をはじめてくれる。
「あの連中、僕が捨てた分の数倍この部屋に花を飾りつけやがったんですよ。窓も閉め切りで。扉を開けたとたんにあてられたんですね、お陰で空気は入れ替わったけど。瘤ぐらいは出来たかもしれないですね。」
「いや、僕はこの花には」
私は云いかけて止めた。その花には影響されないと思っていたが、それは経験的に知っているだけで、体質が変わったのかもしれない。しかし、私は青年が私をうっちゃって立ち上がるのを見ながら、夢だか記憶だかをきちんと辿り直した。あれは花により強化されたギャッツの領域であったと思うのではあるが。
その時、この白い部屋にいつも吹いている爽やかな風がまた、通り抜け、窓辺の薄い布から寝台の天外を抜け、それを翻した。黒いハイヒールから、流線型の脛、それから、そこに座った女性の、きれいな項から横顔までがその布の向こうに見えた。黒い服の、暗色の髪の、背の高い女性だ。彼女がこちらを向くと、強い線の眉の下の、濃い緑の瞳が微笑んだ。彼女は立ち上がると、高い踵が床を叩く音を響かせて私に歩み寄った。比較的細身ではあったが肩幅が広く、それに女性的な体付きをしている。砂時計型の胴体の下に、長い脛に続く足が伸びていた。私は慌てて立ち上がった。彼女は私や青年よりも少し背が高かった。
「こんにちは。」
彼女の挨拶は、外国訛りの、低音だった。私が差し出された手に握手で答えると、青年がすましたままで云う。
「僕の叔母です。で、眠り男の婚約者。」
「佐備です、初めまして。」
「ゾネです、宜しく。」
彼女は声と目を効果的に使って笑う。云われてみれば、目元が青年に似ている気がしないでもないが、私にはその繋がりが混乱している。そして、彼女の強い視線に負けて視線を落としかけて、しかしやはり豊かな胸元を避けて視線を微笑んだ顔の口元まで引き戻す。彼女の着ている服の襟ぐりが少し低すぎる、と困惑する。
「叔母さんって、随分若いし、何故、だって、君はここに住んでいたじゃないか。」
だが、背の高い女性は少し微笑んだだけで、青年はそれをちらと眺める。
「僕の母とは父が違うんです。お祖母様が早くに亡くなったらしいもので。」
青年はなにかしらを省略して、叔母が若くて美しい理由だけを説明した。部屋にはゆるい爽やかな風が流れていたが、私は頭が重かった。驚きがほんの少し収まると、どうも夢の残り香が頭をにまたたちこめはじめる。肩や側頭部がまだ多少痛んだが、私はそれよりも寝台の友人が気にかかりはじめた。
「彼の様子は。」
「ちょっとばかり弱っていますが、大丈夫だと思いますよ。」
私は青年の言葉だけでは満足できず、黒い服の美人に会釈で失礼して、ギャツビーの寝ている方にむかった。
白い布を持ち上げると、少しやつれた無精髭が見えた。彼は少し首を傾げたようにして横たわり、その唇は少し開いたまま、微笑んでいた。顔色は悪く、シャツは当然皺だらけだったが、不潔な様子ではなかった。青年か、この女性が世話をしたものと見える。私はだが、部屋の隅に女性のものと思しき旅行鞄を見つけ、彼女は着いたばかりなのではないかと考えた。私はまたギャツビーに視線を戻すと、そのかすかな微笑を湛えた寝顔を眺めながら、夢の中で彼が云ったことを思い出した。あの少女が彼自身であると。それはどう云うことだろう。明るい色のしっかりした眉や、無精髭にはその面影は無い。だが、その繊細な微笑みには何かおなじものがあるかもしれない。背後に高い靴の踵が床を叩く音がして、青年の叔母が私の隣に立った。
「彼はもう少しであのひととおなじ年齢になるのよ。」
彼女は外国の訛りで声に魅力を加えて心地よい低音で云う。
「私の祖母も彼女が大好きだったの。全ての新聞記事を切り抜くくらいに。」
私は彼女を振り返った。彼女は艶麗に微笑んでいる。顎を少し前に出し、殆ど目許と息でする笑いだ。自嘲と哀れみに似た笑い方。私は客観的に、魅力的な女性だと判断を下すと、ギャツビーにまた視線を落とした。
「かわいそうに。出かけなければ良かった。」
だが、僕の呟きは誰にも報われなかった。少しの時間と風が流れた。そして、また静かな低音が心地よく響いた。
「私が彼にあげた資料は祖母のものよ。」
「じゃあ、知っていて彼をこうしたんですか。このアパルトマンのことも。」
私の語調は責めるようだったかもしれない。だが、彼女は軽く笑った。それは少し、ギャツビーの笑い方に似ていた。受容と、拒否と、意思の混じった、少し疲れた男のような笑い方。そうして、外国語で、何かしら呟いた。それは訳すと、多分、次のような意味になる。
「夢はね、ちゃんと追いかけないとその正体がわからないものなのよ。」
そうして、その目は、諦めたような表情とは裏腹に、大胆な確信にきらきらと輝いていた。だが、彼女がその瞳をギャツビーに向けた時、その光はそのままに諦めは消えうせ、代わりに深い愛情が現れた。私達はそれから、しばらくの間、黙ってギャツビーの寝顔を見つめていた。そして、やがて、ギャツビーの瞼が小さく動き、それから、彼の大きな手が、まぶしそうに目を覆った。私は彼の名を呼ぼうとしたが、先に、かすれた小さな声でギャツビーが云った。
「ゾネかい?」
彼は覆った手のひらの下で目をしばたかせ、ついでその手で目をこすりながらまた云った。
「ゾネだろう、声でわかるよ。まぶしいな、きっと夜明けなんだね。」
そうして、薄く開いた目で笑いながら、伸びをすると、そのまま、見えない中で何かを探すように腕を伸ばした。彼はまぶしくてそうするのであって、彼女は彼のすぐ傍らに腰掛けると、その手を静かにとった。
「ゾネ。嬉しいな。来てくれたんだね。」
私は何か云おうと口を開きかけたが、何も云えずに黙っていた。ギャツビーの大きな手が彼女の頬に触れようと、ゆっくりと伸ばされた時に、私の腕を青年が引っ張ったので、私はそこから身を引いた。
「ぼくらは邪魔ですよ、さあ、下に行って珈琲でも飲みましょう。」
私はもういちど、寝台を振り返り、ギャツビーの長い腕と、女性の、黒い砂時計型の背中を眺めてから、部屋を出た。それは白い部屋とあふれた光の中で静かな陰影をつくっていた。私の知識の中にある程度の古さの、昔の映画のように、美しく詩的な光景だった。
ⅩⅨ、謎解き
「随分きれいな叔母さんだね。それにしたってなんで彼女がここに居るんだい。」
私は暗い階段をくだりながら、まだ先ほどの光景に心を奪われたまま云う。階段の空気は暗くひんやりとしており、私は目が慣れるまでの間しばらく、陽光あふれる最上階の部屋のことを考えている。
「僕が呼んだんですよ。」
彼は少し後ろを降りる私を振り返らずに云う。
「僕もはじめは彼が叔母の恋人とは知らなかったんです。管理人室でたまに話をするでしょう、そのうちに偶然の一致が多すぎると思って。国籍、名前、仕事なんかですね、いろいろ聞き出してみたら驚いたことに叔母の婚約者ですよ。で、どう云うことかと連絡してみたら、そうなのよ、彼どんな様子かしら、と聞きかえすときた。呆れますよ。」
彼は少し振り返って云うと、溜め息をついて肩をすくめた。
「書置きにはそんなこと書いてなかったけれど。」
「あれを書いた時点では確信が無かったから。」
そうして、私たちは階段をくだり終わった。
「もう僕を部屋に入れたくないならおとなしく帰りますよ。」
彼は、きっと勝手にながらく部屋を使用していたことを茶化しているのだろう。私はいまさらながら、私と彼の見分けすらつけていなかった当局の職員に呆れた。私たちは背格好の他には殆ど似たところが無いというのに。私は改めて彼の奇妙な髪の色に目をやってから、仕方なく自室に青年を通し、珈琲を淹れた。台所から戻ると、彼は私がいつも使っている椅子に寛いでいた。彼は淹れたての、今度は大きなカップの珈琲を、また半分飲み下すと云った。
「叔母は元々ここのことは知っていたんです。僕も手紙に書いたし、貴方の恋人にも聞いたみたいですね。空港からの道で責め立てたら白状しましたよ、大体のことは計画していたみたいです。」
「知っててここに送るなんて、女の人は恐いなあ。でも、彼女なりに考えがあったみたいだね。」
青年はにやりと笑ったが、また珈琲を飲む。そうして、手を伸ばして、私の買ったおぼえのない菓子を引出しから引っ張り出す。恐らく留守中に買ったのだろう。
「まだ食べられるでしょう。貴方の恋人に会って、二人で画策したらしいですよ。」
「なんで彼女が。」
「さあ、どうせ叔母が主催でしょうけど。貴方は花にはちょっとやそっとじゃ影響されないから、なかなか問題が解決されないじゃないですか。二人まとめて、と考えたんじゃあないですか。」
青年は菓子の封を破り、自分のカップの受け皿に並べる。私は菓子に手を伸ばしながら云う。
「そんな事云っても、僕は勉強がしたいだけだもの。」
「だから貴方の少女は机なんですよ。」
青年の方は菓子に手をつけない。しかし、特に妙な味はしない。
「と、云うよりひとりで噛り付いてる自分かもしれないね。」
私は少し考えてから、溜め息混じりに云うと、窓の外を見た。この天気は夢を追うには明るすぎる。恋人と散歩するのにこそ相応しい。何故、全て自分でなんとかしようと思っていたのだろう。青年は黙ったまま珈琲を飲んでいる。ようやく一息に飲んでしまうのは詰まらないと気がついたのだろうか、少しずつ飲んでいる。私はようやくギャツビーの聖域のことを思い返し、理解しようと努めることをはじめることができた。白い薔薇を中心に、暗い中の白い小道が続く、あの空間。この青年は子供っぽくも見えるが、話してみる価値はあるかもしれない。私は、それで、ギャツビーが私について云ったことを省いて、私の見た夢についてその様子を彼に語った。青年は膝に肘をついてその手で顎を支え、取り澄ましたままで聞いていた。私はそうして、最後にこう続けた。
「だから、君が僕を見つけた時、多分僕は彼の夢の中に居たんじゃないかと思うんだ。」
青年は私が話す間中は私の顔を見ていたが、少し皿の上の菓子あたりに視線を落とし、
「まあ、その可能性は高いですね。」
と、特に関心もないように云った。だが、それは何か別の、関連したことを考えているのだろうとして、私は気を悪くしないことにした。
「で、君は彼の問題は解決されたのだと思うの?あのちびさんはもう卒業できたと?」
彼はカップの上から目をあげて私を眺める。それから、カップをさげて、膝の上にそれを持つ。
「さあ、僕にわかるもんですか。」
彼はそんなことを云いながらも、心持ち楽しそうに見える。わかるもんですか、とは、つまり聞き出せということか。
「でも、君だって花と暮らしたんだし、何かわかるんじゃないの。」
「さあ。僕の課題は消えませんでしたよ、ただ理解が深まっただけ。僕が連れていた蜂を見ましたか?あれも少女の幽霊とおなじです、仲良くなったら消えちまいました。素材は僕自身だったんです。」
「彼はあの女優を彼自身だといっていたよ。」
「まあ、当たっているんじゃないですか。あちら側に居る人間とはいかなる関係も持ち得ないんですから。現実に触れるのでなければ、知識に夢とおなじ素材で肉付けするしかないでしょう。そして実体化には僕の前例がある。」
やはり彼は興味があるようで、やはり、なんとなく楽しそうだ。私は彼のすました感じの話し方が好きになってきた。だが、唇を横に引いて笑う彼の笑顔に、私は突然、私自身の問題のはしくれを見つけた。あちら側に追いやられているのは、あの少女ばかりではないのではないだろうか。私の恋人、彼女はいつからただの女神に格下げされていたのだろう。いつから彼女は私に愚痴を云わなくなり、喫茶店のウェイターの悪口やお決まりのわがままを云う機会を無くしたのだろう。私は何故、手紙をあまり書かず、彼女を訪ねもしなかったのだろう。私とギャッツの問題は全く逆だった。自分の問題に没頭するあまり、彼女を現実から追い出してしまった。ギャツビーが現実に呼び込んでしまったのとは反対に。だが、そうだろうか。少女と机、おなじものだとギャツビーは云った。
「つまり、あの女優は彼の創作だって云うのかい。でも、実在はしたんだよ。」
「しかし、元から親和性が無ければそこまで惹かれませんからね。関係が存在しない以上、自己ですね。」
それから、彼は私を少し眺めたあと、云った。
「でも、別に外国に恋人が居るのは仕方ないんじゃないですか。自分が意地を張りすぎていると思うのでなければ。」
「なんで君が僕の事情まで知っているんだ。」
「日誌を置いて行ったでしょう。」
彼はすまして答えると、残りの珈琲を平らげた。私は呆れたが、そのとき、電話が鳴ったので、仕方なく応対に出かけた。
ⅩⅩ、タイプ
「ああ、どうしたの、ああ、うん、来たよ。今、上で彼に会ってるよ。」
貴方はどうやら恋人からの電話に出た様だ。これはきっと長くなるだろうから、その間に僕はまたタイプを借りることとしましょう。
「まったくひどいなあ、僕まで騙すことないのに。」
そんなやり取りを盗み聞きされるよりは幾分かましでしょう、僕も聞いていたくはありません。
僕の彼の幽霊に関する意見はこうだ。まず、貴方の見たという迷路や白い薔薇から考えなくてはならない。それは主語である、と。謎掛けのような言葉だが、よくある話です。彼にとってそれはある種の神聖な美徳の象徴であって、少女はその具体的な一例に過ぎない。彼にとってそれは現実の人間ではないのですから、そのような意味であり、彼自身が少女であることを確認したら、それは後は彼を助ける方向に働くでしょう。だがそれは消化や解決ではなく関係の変化ではないかと僕は考えます。全く、人間とは奇妙なものです。僕が考えるに、貴方の云っていた白い薔薇でさえ、本当の主語ではない。ただの例えだ。われわれ人間は全ての述語を集めて文章になおすまで、決してその主語を知らないのです。貴方のお友達は、また新しく述語を得た。それだけの話でしょう。
「うん、そうなんだ。だからさ、夏は一緒に過ごそうよ。そうか、じゃあ仕事も暫く無いんだね。いや、そうだけど、でも、もしかしたら書き上げるかもしれないじゃないか。そうしたらきっと、装丁させてもらえるよ。うん、辞めるよ、そうだな、どうしよう。考えないとね。」
貴方は電話で今、管理人を辞めることを伝えている。夏期休暇を電話の相手と過ごすことを伝える。貴方はきっと、そのまま彼女と長い時間を過ごすことになるでしょう。奇妙な事は、自覚しようとすまいと、貴方もお友達も、結局同じ道を歩み、同じ事をしていると云う事です。涙ツリガネ草を必要とするのは、僕のように全てを自覚的に行わないと気が済まない人間でしょう。貴方が彼に何が起きたかを考える必要はない。大切な事は、何故それが起こったかではなく、何が残ったかでしょう。貴方は管理人を辞める、それだけがこの場合は大切なのであり、何故辞めるかを考え過ぎる必要は無い。生涯を共有する相手が居ると云う事は良いことだ。お幸せに、僕は今はまた、立ち去る事にしましょう。僕が住んでいた部屋の鍵を借りて行きます、だからまたすぐにお目にかかる事になるでしょう。
ⅩⅩⅠ、ささやかな大団円
私が電話を終えてテーブルに戻ると、青年の姿は既になく、タイプした紙が飲み終った珈琲のカップの横に、菓子を載せた受け皿で押さえておいてあった。私は繰り返しそれをよんだ。このアパルトマンで何が起こったかを考える必要はない、と。確かに、私にはこの青年の短い手紙が半分は理解できない。ギャツビーに起こったことに関してはそれでも考えることができるが、私に起こったこととは?だが、私がそのことを考えるのを止めるように、扉を叩く音がした。私はただ、座ったまま、
「どうぞ。」
と声をかけた。
ギャツビーとゾネだった。二人の顔は誇らしげに輝いていた。私にはその理由はわからなかったが、まるで、二人で何かしらの、難しい課題をやり遂げたとでも云わんばかりに。まるで、私は考えた。まるで、王と女王のようではないか。私は子供っぽい例えだな、と、自分で嫌になったが、少しやつれたギャツビーはそれでもしっかり自分の足で立っており、髭をきれいに剃っていて、少し痩せたとは云え、痛ましい感じは既にしなかった。その隣の恋人は高い踵のおかげでちょうど彼とおなじだけの背丈をしており、二人とも理想的な男女の体格をしていたので、何かそのあたりが私に訴えかけたのかもしれない。二人は扉を開けて中にはいると、つないでいた手を離した。ギャツビーが私に笑いかける。
「おいおい、なんて顔をしているんだ。僕は死んでいたわけじゃないぞ。座ってもいいかね。」
確かに私は、彼らを口を開けて見ていたので、我に帰ると慌てて机の椅子に移動し、二人にテーブルの椅子を勧めた。彼は恋人のために椅子を引き、それから自分の椅子に腰掛けた。そうして、二人で顔を見合わせて笑うと、また手をテーブルの上で取り合いながら、私に視線をうつした。
「予定を変えて、先に結婚式をあげることにしたよ。出席してくれるかね?」
彼はにこやかに行った。その目は、はじめに私に握手を求めたときのように、ためらいもなく輝いていた。恋人はそれを慈しみではなく、彼自身とおなじ強い輝きをもった笑顔で見つめている。そうして、今度はその彼女が口を開いた。
「私の屋敷に空いている客室があります。そちらにしばらくいらしてください。」
私はそれで、渡航費用のあてなど全くなかったが、勿論、と答えた。ギャツビーは嬉しそうに笑い、夏中いて欲しい、といった。私はそれで、にやりと、あの奇妙な青年風な、唇を横に引く笑いかたをした。
「ただし、条件をつけるよ。僕が研究を続けるのにうってつけの大学を夏の内に探してくれること。それから、君達ほど盛大でない結婚式をあげる教会と、つつましい生活に相応しいアパルトマンを探してくれよ。」
彼は、しばらく驚いたような顔をしていた、つまり、突然で私の云っていることの意味がわからなかったのだろう。だが、隣の恋人は承知したと云わんばかりに、嬉しそうに笑った。その間にやっと事情を把握したらしく、今度は彼が、にやりと笑ったあとに、勿論、と云った。そしてそのあとに、恋人が含み笑いをしながら云った。
「彼女がもう大学は見つけてくれたわ。私たちの仕事がひとつ減ったわね。」
それで、私たちは少し笑ったあと、私が珈琲を淹れ、少しありきたりなお喋りをした。
ⅩⅩⅡ、旅立ち
窓の外が暗くなる頃、ギャツビーは身支度と、身の回りの品を集めに、最後に階段をのぼって行った。そして、私は外国の美人と二人で管理人室に残された。私が珈琲のお代わりをつくって戻ってくると、彼女は外国語でありがとうを云ったあと、私が席につくのを待って行った。
「あの部屋はしばらくあのままにしておいていただけますか。家賃は払いますわ。」
「いいんですか、誰もいないのに。」
「誰だって、ひとりで帰ってくる場所が必要でしょう。それに、私も気に行ってますの。」
彼女は曇りなく微笑んだ。だから、私はそれに応えた。
「わかりました、次の管理人さんにたのみましょう。」
そうして、私たちは少し、私自身の恋人の話をして、ギャツビーを待った。だが、それもほんのわずかな間だった、と、云うのは、彼の荷物は身の回りに最低限、必要な着替えやこまごました品ばかりであったし、もともと、たいした荷物など持ち込んではいなかったからだ。私は、頭の隅で、あのスクラップ・ノートや象牙の写真立ては持ってゆくのだろうか、と考えた。いや、きっと置いてゆくだろう、だからこそ、部屋はそのままに、彼の帰りを待つことができるのだ。何かに疲れて、立ち戻りたいときのために。彼が戻ってくる頃、呼んであった車がちょうど到着した。彼は、小さな荷物を手に、
「ちょうどいい時間に来たな。」
と云うと、上等の腕時計を見た。外は月の無い暗い夜だったが、アパルトマンの窓からあふれる明かりで暗くはなかった。風が心地よく、普段よりもいちだん暗い周囲の木立は、ゆったりと手を振るように揺れていた。そうして、明かりの漏れる沢山の窓の間を這う蔦も。彼はそれを名残惜し気に見上げていたが、やがてトランクを車に放り込み、私に握手を求めた。私は周囲が暗かったせいか、今度は目を伏せずにいた。
「じゃあ、待っているからね。」
「空港に迎えに来いよ。」
「それは僕の仕事じゃない。」
彼はからかうように笑うと、車に乗り込んで扉を閉めた。その音は大きく響いた気がした。彼は窓から顔を覗かせて手を振った。車が走りだし、闇に紛れて見えなくなるまで、私はそれに手を振った。
そうして、私は最後に、ギャツビーの住んでいた部屋の窓を見上げた。それはただの感慨でそうしたのだが、そこに白い影が、まだ、ちいさな手を振っていた。私は驚いてそれを見上げたが、それは、やがて、薄くなり、消えてしまった。そうして、私は、確かに、その声を聞いた気がした。
「さようなら」
それは彼女の国の言葉で、おそらくギャツビーは聞いたことがない、ちいさな、可愛らしい声だった。そしてそれは優しく、祝福に満ちた声だった。だから、私は心乱されることなく、まだ明かりがあかるい、自分の住む管理人室にとってかえした。
[管理人の私的日誌]