比翼の朔夜

比翼の朔夜

EPISODE:1 月明かりの下で

ヘッドライトの向こうに蠢く影があった。
にじり寄る影に、スティードのアクセルを吹かして威嚇したが無意味だった。
(間違いない、妖魔ってヤツだ)
俺は数日前、朔夜(さくや)に聞いた名を思い出していた。
妙に冷静だった。

『いい?この護符に息を吹きかけたら、そのまま放って』
俺は制服の懐に手を忍ばせた。
指先に数枚の紙の感触があった。
朔夜に貰った護符だ。

『戦ってはダメ。護符に任せて逃げて』
2本の指に挟んで護符を引き抜いた。
息を吹いて放つと護符は人型に変わった。
人型は誘うように、デコイとなってゆらゆらと離れいく。
妖魔達が一斉に護符を追い、襲いかかった。

『護符の効果が発動すれば、私が必ず駆けつけるから』

俺はアクセルを全開にした。
スティードが咆哮を上げる。

目の前の妖魔を蹴散らす。
ゴツン、という鈍い衝撃。
妖魔の一体が横に吹き飛んだ。

ミラーを見る──追ってくる。
しかも速い。人間の全力疾走なんて比じゃない。

メーターの針が80km/hを超えた。
距離が縮まるのが、目で見ても分かる。

俺は前だけを見て、アクセルを握りしめた。

朔夜に教わった通りのことはした。
あと俺に出来ることは、信じるだけだ。

先の歩道橋、満月を背にした人影が見えた。
欄干の上、制服姿の女の子。
朔夜だ。
俺が歩道橋に迫ると、朔夜は大きく跳んで妖魔の群れに落ちて行った。

肉の断たれる音。
断末魔の悲鳴が重なる。
腐臭が風に乗って漂ってくる。

振り返ると──そこに朔夜が居た。

青白く光る刀を両手に、月明かりの下で舞っている。
一閃、また一閃。
刃が描く軌跡が、青白い光の帯となって夜を裂く。

妖魔が群がる。
朔夜は身を翻し、回転しながら三体を同時に斬り裂いた。
黒い体液が月光に照らされて宙を舞う。

制服のスカートが翻る。
黒い長い髪が宙を舞う。

朔夜は戦っているのではない──祈っている。
巫女が、神楽を舞うように。

その姿は、恐ろしいほどに美しかった。

朔夜の刃を逃れた一体が、俺に向かって駆けて来た。
距離はあるが疾い。
狂犬のように(よだれ)を撒き散らしながら、四足よつあしで地面を蹴り飛びかかって来た。
その大きな一つ目は俺だけを捉えていた。

「ひふみよいむなやここのたり布留部(ふるべ)由良由良(ゆらゆら)布留部(ふるべ)

澄んだ声が聞こえた。
それは耳に届くというより天から降るような声だった。
次の瞬間、妖魔は牙を向いたまま俺の眼前で首を落とした。
分かれた頭はそのままの勢いで俺の頬をかすめ、胴は足元に転げ落ちた。
それに遅れて、はらりと紙片が数枚舞い散った。

「間に合ったわね」
朔夜が乱れた髪をかき揚げながら歩いて来た。
「ギリじゃねぇかよ」
俺はそう言って笑った。
そして朔夜の方へメットを放った。
緩やかな放物線を描いて胸元に届いた刹那、1本の槍が虚空から現れ、朔夜とメットを貫いた。
槍はそのまま地面に刺さり、アスファルトを捲めくって止まった。

「夜刀様ノ命デ来テミレバ他愛ノ無イ」

低く、不快な声が響いた。
どこから聞こえるのか分からない。

夜の闇の奥。
いや、闇そのものが蠢いている。

亀裂が走った。
違う、あれは口だ。
闇が、笑っている。

ギチギチと骨が軋むような音を立てて、闇が形を成していく。
人の輪郭。
でも、違う。
人の姿を朧気な記憶から作りあげたような化け物。
人間を、どうとも思ってはいない者の造作だ。

「朔夜ハ死ンダ」
再び亀裂を走らせて嗤った。
おぞましい笑い声が夜にこだました。

月明かりの下、朔夜だった影がアスファルトに落ちた。

EPISODE:0 プロローグ

「朔夜、今日はこんなに魚が穫れたよ」
「まぁ、磯城(しき)様。病床のお義母さまの滋養にも良いでしょうね」
朔夜は磯城の腰にある魚篭を見て嬉しそうに言った。
大漁よりも、磯城が嬉しそうなのが朔夜は何よりも嬉しかった。

神代の昔、神と人はまだ遠くなかった。
神が人を娶り、神が人に嫁ぐことも珍しくはない時代。
朔夜と磯城も、そんな二人だった。

神々すら魅了した美貌の女神、朔夜。
八百万の神々がその手を求めて争う中、朔夜が心を寄せたのは、無力な人間であった。

その睦まじい姿に神々は和み、祝福を与えた。
ただひとりの神を除いては……

「朔夜様、これ磯城のおふくろさんに食わしてやってな」
村の猟師が(しし)の干し肉を差し出して言った。
「まぁ、エド様。ありがとうございます。でも私のことは朔夜で良いですわ」
「いやいや、とんでもねぇ!」
エドは顔の前で大きく手を振った。
「それは磯城の妻として、この村に馴染めてないようで寂しいですわ」
「そうかい?——朔夜……ちゃん、おふくろさんによろしくな」
そう言ったエドに朔夜は嬉しそうに笑って「はい」と言った。

「朔夜ねぇちゃんだ!!」
その声に次々と童が集まり付いて歩いた。
女衆が「ごめんね朔夜ちゃん。しつこかったら引っぱたいてやって」と笑ったり、採れた塩を差し入れたりした。

「今度、甘露煮をお持ちしますね」
朔夜は女衆にそう言って別れた。
元々はお義母さまの為の生命力を込めた甘露だった。
磯城の助言もあって配り始めると、評判の味となった。

干し肉と塩、拾い集めた木の実。
両腕に抱えて家に戻ると、床でお義母さまが身体を起こしていた。
「お義母さま、具合はよろしいのですか」
「今日は身体が軽い気がするよ」
少しだけ咳き込みながらそう言った。
「背中を拭きましょうね」
朔夜は陽の光で温めておいたぬるま湯を、外から運び入れた。
手ぬぐいを軽く搾ると、優しく背中に当てた。
「あぁ、気持ちいいね」
お義母さまの言葉に嬉しくなる。
「こんな貧しい家にこんなに素敵なお嫁さんが来てくれた。神様に感謝だね」
そう言ったあと「朔夜ちゃんも神様だったね」と言うものだから二人で笑ってしまった。

数多の神が朔夜の歓心を買おうと躍起になった。
美しくも愛らしい朔夜に、誰しもが魅了されていた。
きっと驕っていたのだと、過去を振り返ると朔夜自身が恥ずかしくなる。

そんな煩わしい日々に、朔夜は人里へ降りて水面を眺めていた。
凪の湖水は、朔夜の美しい顔を模して見詰め返していた。
不意に足元の石が崩れた。
波紋が水面の朔夜を醜く変えた。
瞼が下がり、鼻が崩れ輪郭が歪む。
思わず見入り、そして震えた。
そして気づいた。
容姿の美しさを誰よりも気にしていたのが、自分自身だったことを。
その時だった。
「どんな別嬪さんも、いつかはシワだらけだよ」
そう言って現れた男は隣に腰を下ろすと竿を出した。
「では醜くなれば見向きもされないのですか?」
「変わらないものもあると思うな」
男は竿を引くと、取られた餌を付け替えて再び振り入れた。
「それは何でしょうか?」
「魂の色は永久(とわ)の真珠です」
その言葉に朔夜は震えた。
見える世界が鮮やかに色を付けた。
「朔夜と申します。そのお言葉、私の魂の色に刻みましょう」
「磯城だ。柄にもなく気取ってしまったよ」
その照れた笑顔が朔夜の心にいつまでも焼き付いて離れなかった。

あの日、磯城様以外に娶られる未来は想像すら出来ないと思った。

美しい月が星々を従え、夜の玉座に登った。
銀色の光が、寄り添うふたつの影を作る。
「月が綺麗だよ、朔夜」
「そうですね、磯城様」
見上げていた朔夜の肩が僅かに震えた。
磯城は自分の上掛けを、朔夜の肩にそっと掛けた。
そして温もりを分け与えるように、後ろから優しく抱いた。
銀色の光が比翼の影を落とした。

EPISODE:2 葛城朔夜

不自然な時期の転校生だった。
期末テストが終わった翌朝。
教室に入ると、空気がざわついていた。
情報通の藤沢が「転校生が来る。しかも美人!」と吹聴していた。
男子だけでなく、女子も落ち着かない。
新しい誰かが来るだけで、序列の天秤はすぐに傾く。
みんな、自分の居場所が変わらないかを探り合っていた。

「あー、転校生を紹介する」
担任の山田が登壇するなりそう言った。
開け放したままの扉に、みんなの視線が集まる。
白い上履きがドアレールを跨いだ瞬間、彼女以外の時間(とき)が止まった。
瞬きも呼吸も、鼓動すら止めてしまったように音が消えた。
歩く度に揺れなびく黒く長い髪。
しなやかに伸びた白い手足。
担任の隣に立つと、その整った顔立ちをゆっくりと左右に振ってクラスを一瞥した。
そしておもむろに唇の形を変えると「葛城朔夜です」と涼やかな声を響かせた。
刹那、カーテンが揺れ風が舞い込んだ。
「可愛い」
「俺、鈴木康太!」
「キャー」
時間が動き出すと、収拾のつかない騒ぎに包まれた。

自信過剰だろうか?
彼女が教室の後ろの席を指示されて俺の横を過ぎる時、俺に微笑みかけたように思えた。
それはまるで懐かしいものを見た時の、安堵にも似た微笑みだった。

騒がしい1日だった。
男子も女子も葛城朔夜を取り囲んで、どうにか親しくなろうと必死だった。
そんな中、葛城朔夜の視線を何度か感じた気がした。
そんなことを誰かに言えば、自惚れ屋だの勘違い野郎だのを言われかねないので黙って過ごしたが、妙にソワソワしてしまった。

そんなラブコメ漫画の主人公にはなれなかった放課後、俺はひとり通学路を外れて歩いていた。
ひとりには理由がある。
ぼっちとかハブられとかではない。
先週、16歳の誕生日を迎えた俺はバイクの免許を取った。
もちろん学校には内緒だ。
そして更に秘密のガレージにバイクを隠してあった。
ここは昨年亡くなった祖父の家で、今は空き家になっていた。
月イチで清掃や草取りをする約束で、ガレージを借してもらっていた。
入居者募集中の家屋の周りは、特に念入りにと言われている。
俺は周囲を見回して誰も居ない事を確認すると、そっとシャッターを上げた。
勢いよく上げると音が響いてしまう。
細心の注意でゆっくりと静かに上げた。
そこにはスティード400が俺を待っていた。
生前の祖父の愛馬だ。
これは中学からのバイト代で相続した叔父から購入した。
その後の入学祝いで、払った金額と同じ額が入った封筒を叔父に渡された。
サムアップして帰る叔父の背中がカッコよく見えた。
不意に俺の影が伸びるガレージに、もうひとつ影が加わった。
驚いて振り向くと葛城朔夜が俺を睨みつけていた。
こちらに歩いてくる。
にじり寄るようにゆっくりと。
俺はなにかしたのだろうか?
心当たりを探ろうと思案した刹那だった。
手にしていた鞄をその場に落とした。
彼女は身を低くして猫のようにしなやかに、そして一瞬で距離を詰めた。
そして俺の肩を左手で乱暴に掴むとガレージの床に引き倒して、右の手のひらに息を吹きかけた。
彼女の手のひらから白い紙吹雪のようなものが宙を舞った。
そして鋭い刃に変わり音もなく、空気だけが裂けた。
「痛っ、何すん」
何すんだよと言う前に、ガレージの奥で獣の咆哮に似た断末魔が上がった。
そして何かが倒れる鈍い音。
光の届く境界に黒い影が見えた。
異形。
飛び出した幾つもの眼球。
ぬめりを帯びた爬虫類のような皮膚に血管が浮き出たような斑。
歪な腕とも脚ともつかない四肢。
見たこともない禍々しい形のものが赤黒い液体を垂れ流して横たわっていた。
「な、なんだこれ。葛城朔夜、お前と関係があるのか!?」
上擦った声で、情けないことに礼を言う前に彼女に詰問していた。
「私に?いいえ、私たちに……よ」
彼女は冷たい光を宿した瞳でそう言った。

EPISODE:3 永久の朝

「神が人に嫁ぐなど愚かな話じゃないか」
黒い霧が蛇のように鎌首をもたげ朔夜に言った。
夜刀(やと)様、恋とは愚かなことも是とするものなのかもしれませんわ」
朔夜はそうあしらうように言うと背を向けた。
「そう邪険にするな、朔夜」
夜刀の霧がするりと朔夜の身体を抜け、まとわりつくように引き止めた。
「これはどのようなおつもりでしょうか?」
朔夜の嫌悪と怒気を忍ばせた声に夜刀は「ククク」と喉を鳴らすように嗤った。
「なぁに、平たく言えば俺の女になれということだ」
「品の無い物言いをなさるのですね、神ともあろうものが」
朔夜の言葉に霧が身体をじわじわと締め付けた。
「あの、なんと言ったか……そうだ磯城だ」
夜刀の言葉に朔夜の髪が逆立った。
「何をするつもり」
朔夜の瞳に強い光が宿った。
明確な敵意だ。
「つもりも何も、もうコロシタ」
唐突な言葉に理解が一瞬遅れた。
「殺した」
脳の中枢に意味が染み渡ると、そのまま頭の後ろが痺れるような感覚に襲われた。
刹那——朔夜の身体から光が放たれ、黒い霧は文字通り霧散した。
身を翻し夜刀に向かって地面を蹴ろうとした時、夜刀は無造作に何かを放り投げた。
——磯城だった。
鼻と口から流れた血は乾き、開いた瞳孔に光は無かった。
触れた朔夜の指先に伝わる温もりは、既に失われていた。
「磯城様!磯城様!磯城、磯城!!」
抱きかかえ名を呼んだ。
それは絶叫だった。

息が詰まり、目が覚めた。
もう何回……いや何万回、永久(とわ)に見た夢。
あの日護れなかった磯城を護る。
その為に戦ってきた。
深くついたため息の向こう。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込む。
学校まで、あと三時間。
朔夜は静かに髪をまとめた。
もう一度、あの夢を、終わらせるために。
「死なせはしないわ」
誓うように呟いてベッドを出た。

EPISODE:4タンデム

令和の時代に見掛けないもののひとつはこれだと思う。
俺は愛馬に跨りながらチョークを引いた。
キーを捻るとエンジンが唸りを上げる。
祖父(じい)さんのメンテもそうだけどホンダのエンジンは凄いな。
右手をタンクに愛撫するように置いた。
そしてキャブレターのご機嫌を伺いながらゆっくりとチョークを戻していく。
インジェクションには無い味わいだ。
排気音とエンジンの振動が安定したら出発だ。
俺はアクセルを捻り爺さんの家のガレージに向かってスティードを走らせ……ようとした。
朔夜が立っていた。
スティードの行く先を塞ぐように。
何故かメットを持って。
「えっ!?えっ!?えっ!?」
昨日のことを鮮烈に思い出した。
そんな俺の戸惑いなどお構い無しに、朔夜はスティードの後ろに腰を下ろした。
「遅刻するわよ、出して」
メット越し、くぐもった声が聞こえた。
それでもまごまごしているとタンデムシートから背中を強く押された。
「痛い痛い!」
俺は背骨を押された痛みに耐えかねてスロットルを開いた。
小鳥が飛び立つ中切り裂いた風は、頬に心地よい冷たさだった。

マズいと思った時にはすでに赤色灯が回っていた。
制服姿でタンデムだ。
まあ、止められるよな。
バイクを路肩に停めた俺に朔夜が「どうしたの?」と聞いてきた。
「多分2ケツで切符を切られる」
多分、朔夜を責めるような口調だったと思う。
きっかけはどうあれ運転したのは俺なのに。
「だって免許持ってるんでしょ?」
「持ってるけど、バイクは1年目は二人乗り禁止なんだよ」
俺が力なく言うと「ごめんなさい、私のせい」と消え入るように言った。
そして「私に任せて」とヘルメットを脱いだ。
「おっ、おい」
朔夜はひらりとバイクから降りると、俺の静止も聞かずにパトカーへ歩いて行った。
再び昨日の光景が浮かんだ。
まさか警官に何かするんじゃ——
俺も慌てて後を追った。

運転席と助手席のドアが開いて制服姿の警官が降りてきた。
朔夜は運転席側の警官に近づくと、にこやかに言った。
「こんにちは。ううん……おはようございます、かしら?」
「キミは後で事情を聞くから、運転していた彼と話させてくれるかな?」
警官はそう言って俺に向かって歩いて——来なかった。
「お巡りさん、今日は帰りましょう」
朔夜が穏やかに微笑んでそう言うと、警官は踵を返して運転席に戻って行った。
もう一人の警官が呆気に取られていると、朔夜は再び口を開いた。
「あなたも帰りましょうか」
その声に、警官は無言で助手席へと乗り込んだ。

パトカーの赤色灯がゆっくりと遠ざかっていく。

「良かったわ。見逃してくれたのね」
朔夜は安堵したように微笑んだ。

ウソだ。
表情も、言葉も、みんなウソだ。

なんなんだ、この女は。
怖い。ヤバい。絶対にダメだ。

逃げなきゃ、と思うのに。
身体は錆びついた鉄のように動かない。首さえ回らなかった。

そんな俺の横で、朔夜が「さて、と」と小さく呟いた。
そして俺にメットを放ると「お爺様のガレージで」
そう言い残して走り出し、ガードレールを軽々と飛び越えて歩道に消えていった。

EPISODE:5 畢生の一幕

(くわ)の一撃が脳天を割った。
「キシャァァァァァーッ」と断末魔の咆哮と紫の体液を撒き散らして化け物が倒れた。
ピクピクと足元で痙攣するそれに、カイは一瞥もくれずに再び鍬を振り回した。

影が随分と長くなった。
気が付くと周囲はオレンジ色に染まり、1日が終わろうとしていた。
耕した土を握るとカイは満足そうに頷いて鍬を肩に担いだ。
天朝様からの発布で、耕した土地を百姓でも持てるようになった。
必死に開墾した土地。
ここで収穫した物は、もう誰にも奪われない。
見回すカイの胸には希望しか無かった。
……今、この瞬間までは。

何匹いるんだ?
1匹は運良く倒せた。
この見た事もない獣たち。
いや、どう見ても異形。
化け物たちだ。
幾つもの大きな(まなこ)がイボのように付いていた。
そのどれもが焦点が合っていないように不自然に蠢いている。
赤黒い皮膚に浮き上がって血管が脈打ち、何本もの細い腕が背中から突き出るようにあった。
そして異様に太い脚。
これが厄介だった。
強烈な蹴りと跳躍、そして人の脚では逃げられない脚力。
生き抜くためには戦うしかなかった。

「2匹目!」
払った鍬が化け物の頭部を()いだ。
刹那、鍬が柄から折れた。
万事休す。
それでも迫る1匹に折れた柄を投げつけ、目のひとつを貫いた。
だがそれでも化け物の突進は終わらなかった。
終わりを覚悟した次の瞬間——
カイは強く、しかし柔らかく突き飛ばされた。
「えっ!?」
転がりながら見た光景は、太刀の一閃に両断される化け物の群れ。
そしてその中心に立っていたのは少女だった。
白い巫女のような装束が太刀を振るう度に揺れる。
蒼白い炎を纏った刀身が揺らいだ。

カイは初めて化け物が下がる様子を見た。
断末魔を上げる様子にも怯まず襲いかかってきた化け物たちが、じりじりと下がって距離を取っていた。

「ひふみよ」
右手の太刀をだらりと下げ、左腕を真横に上げた少女が数を数える。
澄んだよく通る涼やかな声だ。
「いむなや」
天に向けた手のひらに焔火が見えた。
「ここのたり」
少女はすぅっと息を吸った。
布留部由良由良(ふるべゆらゆら)布留部(ふるべ)
焔火(ほむらび)が幾条もの火線となって化け物たちを襲い貫き、灰に変えた。
赤く照らされた少女の顔は美しく儚げに見えた。
どこか疲れたような、どこか寂しげな。

「怪我は?」
そう言って少女が差し出す手を、カイは掴んで立ち上がった。
瞬間、少女は何故か嬉しそうな顔を見せた。
「ありがとう、命の恩人だ」
カイはそう言って、でも自分と変わらないくらいの年齢の少女に守られたという気恥しい表情で頭をかいた。
「俺はカイだ。この林の向こうに住んでる百姓だ」
「朔夜よ。あなたを守れて良かった」
朔夜——
少女はそう名乗って夕闇に去って行った。

EPISODE:6 万劫の呪い

「磯城様、磯城様!」
命の温もりの失われた磯城の身体が朽ちるように溶け始めた。
泣すがる朔夜の腕の中、肉が溶け、臓物が朽ち、骨が粉のように崩れた。
呆然とする朔夜の頭上で夜刀の声が響いた。
「その男に輪廻の呪詛をかけた」
クククと喉を鳴らす音がした。
「怖い顔をするな。なぁに、ちょっとした余興だ」
夜刀は睨みつける朔夜に、悪びれる風もなく言った。
「俺の使い魔達からその男を護り切れば朔夜、オマエの勝ちだ」
「魂を、円環する魂で余興などと……」
怒りに震える朔夜の声などまるで無視するように夜刀は続けた。
「16の歳から寿命が尽きるまで護り通せ。それが出来れば、次の輪廻まで天上で睦めばいい。出来なければその魂は俺が食らう」
夜刀の纏う黒い霧が嬉しそうに揺れた。
万劫(ばんごう)の間だ。これを繰り返し護り通せば、オマエを諦めてやる。好きな場所で暮らすがいい」
霧の触手が朔夜の頬を撫で、腰に触れた。
肌が粟立つ不快。
「名乗るまでは許そう。ただしこの因縁を話せば、その時も魂を食らう。さあ行け、探せ。もう転生したぞ」
そう告げて夜刀は霧散した。
朔夜と悪意に満ちた笑い声だけをその場に残して。

黄金を敷き詰めたような稲穂が揺れる。
夕陽がそれを更に輝かせ、豊かな実りを祝福した。
集落では子供たちが走り回っていた
その身体に不釣り合いな大声で笑いながら。
棒切れを片手に持った童が尻餅をついた。
前を見ずに駆けて女性の脚にぶつかってしまった。
この辺りでは見ない身なりの女性だった。
痛みよりも驚きと戸惑いが大きくて、つい感情が込み上げてきた。
童が込み上げた感情を暴発させる寸前だった。
(見つけた)
女性は童を優しく抱き上げると「大丈夫?」とあやし始めた。
「ごめんなさい!」
母親らしい女が駆け寄って頭を下げると、童は一瞬名残惜しげに女性を見て「おかぁ」と女の方へ手を伸ばした。
母親に抱かれて遠ざかる童の姿を、しばらく見送り佇む女性の姿があった。
「磯城様……」
女性の呟きを聞く者はいなかった。

うわ言が呻くように老人の唇からこぼれた。
娘が口元に耳を近付けたが、聞き取ることは出来なかった。
老女が手を取り、祈るように頬に当てた。
温もりを失ってゆく指先に、瞳から熱い雫が伝ってゆく。
すすり泣くような嗚咽が病室に()みていった。

老人の身体から、いくつもの蒼白い光球が立ち上っていた。
誰の目にも触れることの無い光芒は、やがて若い男の姿となった。
男はベッドで眠る抜け殻を一瞥すると、老女と娘の肩を慈しむように抱いた。
そして、窓の外で待つ女に視線を向けた。
男は小さく頷くと、窓を抜けて女の差し出した手を取った。
「朔夜」
朔夜は男の言葉に微笑むと「おかえりなさい、磯城様」と言って、とめどなく溢れる涙を拭うこともしなかった。
磯城は朔夜の肩を強く抱くと、振り返ることなく天へ昇った。
それは朔夜への思い遣りだった。
此岸への想いは此岸に置いてきた。
磯城はいつものようにそうすると、寄り添う朔夜の手を繋いだ。

EPISODE:7 残滓

俺はガレージの前で思案していた。
また居たら……?
シャッターに手を掛けては離すを幾度か繰り返していると「何してるの?」と背中から声を掛けられて「ひっ」と声が漏れた。
もう声で分かる。
朔夜だ。
「いないわよ」
朔夜はそう言ってシャッターを一気にあげた。
ガラガラと、金属が巻き上がる大きな音が響いた。
俺はガレージの中よりも、近所が気になってキョロキョロと見回した。
「何?だからいないわよ」
「そうじゃなくて、ご近所迷惑!」
この時間は朝ドラを楽しみにしているお年寄りも多いのだ。
騒音が原因で学校に通報でもされたら、色々と終わってしまう。
「ああ」
涼やかな朔夜の目が大きく開かれた。
「ごめんなさい」
そう言って、朔夜はふっと笑った。

バイクをしまった俺はシャッターを、ゆっくりと下ろした。
『こうやるんだ』と言わんばかりに振り向くと「まだ時間があるから、今後について話しましょう」と全く無関心に言われた。
少しモヤっとしたが確かに昨日のアレは——
「おい、アレが今後もあるのか!?」
俺は思わず大声を出してしまった。
咲夜はワザとらしく周囲をキョロキョロして見せると、人差し指を立てて「シー」と唇に当てた……俺の。
朔夜の少し冷たくて柔らかい指が唇に触れた。
俺の唇よりも柔らかいんじゃないかと的外れな事を考えて、少しポーっとした。
「ねぇ、近所迷惑だから中に入って話しましょう」
朔夜はそう耳元で囁くと、玄関ドアに鍵を差し込んだ。
俺は昨日のアレくらい目の前の光景が理解出来なかった。
この家は亡くなった祖父の家だ。
今は空き家で、俺の叔父さんが管理してて、俺が草むしりしてて、だからええと……
「なんでお前が鍵を持ってるんだよ!」
結局また大きな声を出してしまった。

久しぶりに入る祖父の家は懐かしい匂いが……全くしなかった。
とても甘い香り。
ああ、女の子の部屋ってこんななんだな。
無意識に深く息を吸っていたことに気付いて、誤魔化すように辺りを見回した。
褪せていた壁紙も貼り替えられ、残っていたはずの家具も無くなっていた。
「朔夜、家族は?」
玄関には他に靴も無く、生活感も感じられない室内湧いた疑問だった。
リビングにはテレビすら無い。
「……居ないわ」
それ以上の追及を許さない口調だった。
俺は質問を変えた。
最初の質問だ。
「なんで鍵を持ってるんだ?」
「借りたの」
『当たり前でしょ』と言わんばかりの表情。
「駅前の不動産屋さんで紹介されたのよ」
そう言えば『貸家』の看板が数日前から消えていた気がする。
「そうか。そうだな」
俺は自分を納得させるように頷いた。
「そこ、座ってて。お茶を淹れるわ」
朔夜はそう言うと、唯一の家具のようなテーブルを示した。
(え、お茶?)
そう思いながら、敷かれた淡い水色のクッションに胡座をかいた。
(ここだけ女の子っぽい)
俺は何気なくポンポンとクッションを叩いていた。
湯呑みが置かれ、急須からお茶が注がれた。
湯気と共に緑茶の馥郁(ふくいく)たる香りが立ち上がり、鼻腔を満たした。
「俺、急須って初めて見たよ」
そう言う俺に「どうぞ」と朔夜は差し出した。

朔夜が俺の前に座った。
テーブル越しに見る朔夜の姿は美しく、美しく……
頭が痛い。
酷い頭痛に襲われた。
内から外に向けて何かが割ろうとするように。
まるでそう、羽化する雛が卵を割るような感覚だった。
うずくまる俺の意識の遠くで朔夜の声が聞こえた。
俺の名前を呼んでいる。
……俺の名だろうか。
絶叫するような声だ。
耳の奥に、いや——
記憶の残滓というのだろうか。

緑の香りを運ぶ風が髪をなびかせた。
川面に波が立つ。
(今日はもう十分か)
俺は竿を引き上げると、ずっしりと重たい魚篭の感触に頷いた。
(さぁ帰ろう。朔夜が待っている)
そう思い空を見上げると、陽は天頂から幾分傾いていた。
(母さんの昼飯には間に合わなかったな)
俺は頭を搔くと、それでも大漁の高揚感に大股で歩き出した。

集落の入口に朔夜を見つけた。
「朔夜、今日はこんなに魚が穫れたよ」
俺は手を振り、大きな声で朔夜を呼んだ。
「まぁ、磯城様。病床のお義母さまの滋養にも良いでしょうね」
駆け寄った朔夜は、腰の魚篭を見て嬉しそうに言った。
そんな朔夜は編み籠に沢山のきのこや木の実を入れて抱えていた。
「朔夜も随分頑張ったね」
俺がそう言うと「きのこは木の実と交換で頂いたんですよ」と笑った。
俺は朔夜の笑顔が大好きだった。
涼やかな声も美しい所作も全て愛していたが、この無防備な笑顔が何よりも愛おしかった。

「うぅぅ」
自分の呻き声に目が覚めたが、瞼が重たい。
頭の痛みはもう無かったが、少し気だるい。
そしてなにか夢を見た気がした。
懐かしくて優しい夢だった気がした。
このまま目を開けずにもう一度眠れば、続きが見られるのだろうか。
そなことを考えているうちに、身体が徐々に覚醒してきた。
ようやくぼんやりと視界が開けてきた。
そこには不安で泣き出しそうな顔をした朔夜が、俺の顔を覗きこんでいた。

EPISODE:8 デジャ・ヴュ

「本当に大丈夫?」
「ああ、どのくらい寝てたんだ」
「1時間くらいね」
完全に遅刻だった。
「学校には電話しておいたわよ」
「は?えっ?誰が」
「私に決まってるじゃない」
『当然でしょ』と、いや『そんなことも分からないの?』という表情をされた。
「まぁいいや」
俺はもう朔夜の斜め上の対応は、諦めることにした。
「それで朔夜、昨日のアレは何だったんだ」
ようやく聞けた。
あの気味の悪いバケモノ。
闇の中から湧き出て来たような異形。
あれが『俺たち』に関係があるだなんて、俺はまだ信じられなかった。
「ああ、妖魔ね」
『ああ、犬ね』の言い方だ。
「あのね、朔夜さん」
俺は丁寧にお話した。
「私の知る世界ではそんなにメジャーな生物じゃないのですよ、妖魔って」
「これからメジャーになるわよ」
俺の嫌味な物言いに眉ひとつ動かさずに、朔夜はそう答えた。
「妖魔は様々な姿で現れるわ。昨日のようなモノもあれば、更に醜悪なモノも……」
朔夜は更に続けた。
声が低くなる。
「でも闇から染み出た最も危険な奴は、最も無害な姿をしているわ」
そう言って朔夜はテーブルの上に白い紙束を置いた。
黒と朱の筆書きで紋様と読めない文字が書かれていた。
「梵字?」
俺がそう聞くと「神代文字。太古に失われた文字よ」と言った。
「え?」
見間違いかと思って目をこすった。
文字が光っている。
「言霊って聞いたことはある?」
「ああ、あるよ」
「言霊はこの神代文字——神々の文字にこそ宿るのよ」
そう言って一枚を俺に差し出した。
「護符よ。息を吹きかけて手から放ってみて。投げても、吹き飛ばしても良いわ」
言われるままに息を吹きかけて放ってみる。
俺の手から離れた護符は人の姿に変わった。
人と言っても人型の紙だ。
「上手よ」
朔夜は満足そうに頷いた。
「その時は決して焦らないで」
真剣な眼差しを俺にむけた。
「護符が発動すれば必ず見つける」
「だから——信じて」
「分かった」
気圧されるように俺は答えた。
「でも、朔夜。キミは何者なんだ」
俺の問いに瞳を伏せると、朔夜は悲しげに首を振った。
胸の奥がキュッと締まった気がした。
こんな表情(かお)をさせたいんじゃない。
何故だろう——
昨日会ったばかりの朔夜に、既視感のような感情の芽生えを感じた。

EPISODE:9 式神

朔夜が死んだ——
この事実に俺は身動きひとつ取れずにいた。
バイクに跨ったまま呆然と。
眼前には何かの芸術彫刻のような朔夜。

ああ、五月蝿い。
何かがゴチャゴチャ言っている。
朔夜、朔夜——
何だ、この引き裂かれた感覚は。
前は……俺……
頭が痛い。
割れそうだ。
もう喋るな。
ダ・マ・レ

耳をつんざく悲鳴と、頬を染めた生暖かく生臭い体液に我に返った。
目の前にはねじ切れた妖魔の残骸が転がっていた。

「朔夜!!」
バイクから飛び降りて駆け出した先には、槍に貫かれたメットと人型の紙切れがあった。
全身の力が抜けた。
膝から崩れ落ちた。

「朔夜ハ死ンダ……紙切れ1枚破って何を喜んでいたのかしらね」
振り向くとバイクを起こす朔夜が居た。
朔夜は妖魔の死体に侮蔑の視線を送ったあと、俺の方に顔を向けて「ねえ」と同意を促した。
俺は情けないくらいの笑顔で泣きながら「ああ」と言った。


意識の途切れた一瞬のうちに、朔夜が倒したのだろうか。
安堵した視線の先にあった妖魔は、筆舌に尽くし難い破滅的な損傷を受けていた。
表面を内側に捻りこみ、身体の内面を引き摺り出すように捻切られていた。

意識が途切れる前、何かの声を聞いた気がした。
あれは誰の声だったのだろう
いや、いいや。
今は朔夜の無事を喜ぼう。
……?
どうして俺はこんな感情を抱いているのだろう?
これは誰の気持ちだ?
胸がざわつく。

「痛っ」
朔夜が押すスティードのタイヤが肘に当たった。
「どうしたの?」
考え込んでいた俺に朔夜が声を掛けた。
「轢くなよ」そう言って少し笑ってから「行こうか、朔夜」と言った。
これは俺の気持ちで、俺の心だ。
朔夜の手を取って立ち上がると、俺はスティードのエンジンに火を入れた。
「ヘルメット、壊れちまったな」
「大丈夫。お巡りさんなら、またお願いするから」
「次はヘルメットの身代わりも飛ばしてくれ」
「手書きなのよ、護符って」
あからさまに嫌そうな顔を見せた。
「そこは面倒くさがる場面じゃないだろ」
振り向いて小突こうとした指先は虚空を突いた。
少しだけ気まずい空気が流れた。
打ち解けたと思ったのは、俺だけだったようだ。
肩を落として向き直った俺の腰に、朔夜の手が回された。
こういうので距離感がバグるんだよ......
俺はスタンドを蹴るとアクセルを開けた。
夜風はまだ少し肌寒かった。

EPISODE:10 月詠

こうして天上の暮らしを迎えるのは何度目か。
私は何度も、何度も、何千年も朔夜に護られ生きてきた。
ここでの暮らしも次の転生まで。
再び全てを忘れて生きるのか……
朔夜だけを世界に残して。

「糸が鳴っておりますぞ」
不意に言われて我に返った。
竿を立てると水面の魚を糸越しに感じた。
水中で縦横無尽に暴れる魚をいなして、その体力を奪う。
やがて竿を引く力が弱ると、岸に寄せて魚篭に入れた。
「ふふ、見事なものですね」
「考えごとしていて、教えて頂かなければ逃すところでした」
拍手をして賞賛をくれた方に私は「ありがとうございます」と頭を下げた。
「大漁ですわね。朔夜殿も喜ばれるでしょう」
礼を述べて頭を上げた私は、慌てて額を地面に擦り付けるように平伏した。
月詠様だった。
世界の半分、夜を支配する月詠様に無礼はなかっただろうか?
「畏れ多くもかしこみかしこみ申し上げます」
「良い良い、磯城よ。其方(そなた)に会いに来たのだ」
私はその言葉に驚いてつい顔を上げてしまった。

月詠様は顔を上げた私の顎に手を添えた。
そして目の奥を覗き込むと「これは、幾重にも重ねられた呪詛よ」と言った。
「其方は夜刀の言葉の通り、幾星霜の魂の旅を繰り返すこととなるだろう」
私はその事実に改めて落胆した。
「なに、案ずるな。其方は月詠と会ったのだ」
私が月詠様の御言葉の意味が分からずに戸惑っていると「(くさび)は打った。あとは其方の気概次第」と耳元で囁いた。
そして月詠様は、美しさの奥に微かな愉悦を滲ませて笑んだ。
そして「刻の満ち欠けは我が意のまま」と謎掛けのような御信託を残して去って行った。

EPISODE:11 友人

「おや、あなた......ううん、ごめんなさい。私の勘違いね」
朔夜に声を掛けた老婦人は(かぶり)を振ると、そう謝罪し去っていった。
「どうしたんだ?」
怪訝そうに尋ねる夫に「女学生の頃の友人に似ていたの」と答え「もうとっくに私と同じおばあさんよね」と笑った。

「ルリ子さん......」
幾星霜の戦いの中、初めて出来た友人の名。
朔夜の呟きは雑踏の中に紛れていった。



「朔夜さん、今月の少女の友は読みましたか?」
ルリ子が興奮気味に声を掛けてきた。
「ルリ子さん、ごきげんよう」
朔夜の挨拶にルリ子も慌てて「ごきげんよう」と返した。
そうしてまた「読みましたか?」と尋ねた。
「いえ、私は......」
興味無いと続けるはずの機先を制すしたルリ子が、鞄から雑誌を取り出した。
「昨晩全て読みましたから、朔夜さんどうぞ」
ルリ子はそう言って、朔夜に押し付けるように渡した。
『少女の友 新連載 嵐の小夜曲(セレナーデ)
雑誌の表紙には大きくそう書かれていた。
「横山先生、尊いですわ」
ルリ子は著者の名を口にすると、うっとりと遠い目をした。
きっと昨晩読んだ内容を反芻しているのだろう。
「牛になるわよ」
朔夜の言葉に「モー、ひどいわ」と、冗談とも抗議ともつかない返事をした。

大正から昭和に移り四年が過ぎた。
大正浪漫の香りを未だ残したまま、人々は昭和という活気に満ちた時代を迎えていた。

「と・こ・ろ・で」
ルリ子は朔夜の前に回り込むと、後ろ歩きでニヤニヤと笑った。
「あの殿方に想いを掛けていらっしゃるの?」
思いもよらなかった言葉に朔夜の瞳孔が開いた。
「瞳の色が変わりましたわ」
ルリ子はからかうように言うと「朔夜さんならどんな殿方でも思いのままでしょう」と続けた。
(人と関わり過ぎたのかしら?)
(それともこの娘の勘が......瞳の色?)
そこで朔夜はルリ子の観察眼鋭さに気付いた。
「Curiosity killed the catですわ」
鋭い視線でルリ子を見た。
「好奇心が、は、猫を殺した?」
驚いた顔で朔夜を見た。
「but satisfaction brought him back」
「でも......うーん、わかんないですわ。でもbutから始まってるからきっと悪い意味ではないわね」
(この娘はやはり鋭いな)
朔夜は頬を緩ませて口の端を上げた。

EPISODE:12 好奇心と猫と

ある日の夕暮れ。
浅草の下宿を出た青年の後を追う。
白いシャツに袴姿。
カンカン帽が似合っていた。
下駄のカランコロンという音が耳に心地いい。
少し歩いて神谷バーの前で足を止めた。
所在無さげにしばらく立っていると、息を切らせた女性が駆け寄ってきた。

またある日の昼下がり、万世橋駅を降りて人混みに紛れてしまう。
それでもこの程度の位置であれば、朔夜には彼の場所は分かった。
改札を出て銅像を横目に路面電車のレールを横断する。
朔夜は距離をとって気取られないように歩いた。
(人混みで襲う事はもう無いと思うけど......)
万が一の時には届く間合いを保つ。
(人間の文明がここまで進めばさすがに)
「私を苦しめたいだけだ」
朔夜の独り言は、人の群れに沈んでいった。

生ぬるい風が吹いていた。
瓦斯灯(ガスとう)に明かりが灯った。
上野の恩賜公園を、少しだけご機嫌に歩く青年。
ほろ酔いのようだ。
もうすぐ終わるだろう桜の下、朔夜はその様子を見詰めていた。
「もう告白しなさいよ」
突然声を掛けられた。
驚いて振り向くとルリ子が居た。
悪意に対しては結界も式神も巡らせていた。
想定外だ。
無邪気な彼女は索敵の対象に無かった。
「ルリ子さん、どうして?」
「今日はお花見で来ていたの。帰り支度をしていたら朔夜さんの健気な背中が見えたのよ」
「好奇心は猫を殺すって忠告したじゃない」
声を潜めた朔夜が叱るように言った。
「でも満足が蘇らせた——でしょ」
ルリ子は過日の朔夜の言葉を、得意気に翻訳して言ってみせた。
そして次の瞬間には、予想もしない行動に出た。
「ほら」
朔夜の背中を押した。
不意をつかれた朔夜がよろけて二、三歩。
青年の前に出てしまった。
「おや、どうしましたか?」
青年が驚きつつも心配気に声をかけた。
「あ、いえ......」
ルリ子の方に視線を向けると、桜の木の下で『頑張れ!』と言わんかのように拳を握っていた。
(どうしようか......)
数千年の妖魔との戦いで、こんな間の抜けた事は初めてだった。
思案する朔夜の頬を撫でる風が、湿度を帯びてきた。
——雨?
違う、湿度では無い。
これは粘膜のぬめりだ
「ごめんなさい」
そう言うが早いか、身をかがめた朔夜の肩が青年の腹部に入った。
そのまま身体を起こして担ぎ上げると、そのままルリ子の方へ走った。
間一髪。
さっきまで青年の居た場所には、複数の槍が突き刺さっていた。
「ルリ子さん、その人と一緒に逃げて!」
「走って!!」
戸惑うルリ子に朔夜が叫んだ。
その声に青年の手を引いてルリ子が走り出した。
「二人を護って」
朔夜は(たもと)から護符を三枚取り出すと息を吹きかけた。
護符は人型に姿を変えて二人を追った。
さらにその後ろを蛇のような触手が四本。
這うように猛追した。
「お前たちの相手は私よ」
朔夜はそう言うと右手を胸元に掲げた。
「ひふみよいむなやここのたり布留部由良由良(ふるべゆらゆら)布留部(ふるべ)
手のひらに点のような光球が現れて、祝詞と共に肥大してゆく。
朔夜は触手に向かって右手を払った。
光球は幾筋もの光にかわり、ことごとく全てを貫いた 。
絶叫が背中に聞こえた。
「本体のお出ましね」
振り向いた朔夜の眼前には、粘液に艷めく巨大で(いびつ)な球体があった。
無数の目が疱瘡のように覆っている醜悪な球体。
それらが一斉に朔夜に向いた。
朔夜の両手に太刀が顕現する。
それぞれの刀身に蒼白い焔が揺らいだ。
左腕を前に、右腕を斜め上段に構えた。
短い睨み合い。
最初に動いたのは——
「朔夜さぁーん!!」
ルリ子だった。
「嘘でしょ」
朔夜の口から短くこぼれた。
二本の触手が襲いかかった。
地面から跳ね上がった触手が、その鋭い先端をルリ子に突き立てる。
全く気づく様子もなく、ルリ子は球体に何かを投げた。
さらに別の触手がそれを弾いた。
弾かれたそれは破裂し何かを噴霧した。
苦悶するように球体が波打ち目が閉じられた。
朔夜の足が地面をするように動いた。
一瞬で間合いが縮んだ。
左腕の太刀を突き立て、その柄を右足で蹴り飛び上がった、
両手で太刀を持つと振りかぶり両断した。
球体は悪臭を放つ液体を撒き散らしながら、水袋が破裂するように絶命した。
その間際——触手が朔夜を襲ったが、返す刀で弾かれて崩れた。
(触手は生きてる!)
振り返りルリ子を見ると、二体の式神がルリ子を覆い触手の攻撃を弾くところだった。
弾かれた触手の一本が再度跳ねた。
「ひふみよいむなやここのたり布留部由良由良(ふるべゆらゆら)布留部(ふるべ)
朔夜の祝詞より一瞬早く、触手が式神の防壁をかい潜った。
「ルリ子さん!!」
右手から放たれた幾つもの光の刃と朔夜の叫びが、春の夜を裂いた。
全てが触手を貫いたが、触手も既に突き刺さっていた。
「ルリ子さん!」
再び叫んで駆け寄ると、撒き散らされた汚水に足を取られて転んだルリ子が尻もちをついていた。
触手はその投げ出された両足の間に突き立てられ、更に汚水となってルリ子に降り掛かって消えた。
「くっさーい!!!!」
ルリ子の悲鳴と朔夜の笑い声が夜風に流れていった。

——翌朝、学校に朔夜の姿は無かった。
学友も教師も誰ひとり、朔夜の事を覚えている者もなかった。


「朔夜さーん!!」
突然大声で叫ぶ老婆の姿に、周囲が驚き振り返った。
「猫は二匹、元気ですよ」
ルリ子はあの夜から人生を共にした伴侶の隣で、そう呼び掛けた。

雑踏の中、二人の上を回る一体の式神。
ルリ子の声にそれを眺めて朔夜は笑った。
「Curiosity killed the cat. But satisfaction brought him back.」
小さくそう呟いて......

EPISODE:13 風を感じて

金曜の夕暮れ、ガレージからスティードを出した。
朔夜にバレないよう、エンジンは掛けていない。
細心の注意を払ってシャッターの開け閉めをした。
——ここまで押せばいいか。
100mは押したと思う。
スティードに跨るとチョークを引き、キーを回した。
キュルキュルと勢いよくセルが回り、エンジンに火が灯った。
まだ回転数が落ち着くまで時間がある。
俺はバラつく振動を腰に感じながら、なんとなくバイクにまつわる怪談なんて思い出したりしていた。


……あれはねぇ……
夏の終わり頃だったそうですよ。
昼間は蒸し暑かったんだけど、夜になると風がスーッと冷たくてね、
バイクで走ると、腕の産毛が逆立つような……そんな夜だったらしいんです。

その夜、肝試しにライダーがふたり、あの交差点へ行ったんですよ。

街灯がね……
オレンジ色に滲んでて、風に吹かれてカサカサ……電線が揺れるんです。
その風がねぇ、妙に冷たい。
まるで“何か”の指先で撫でられてるみたいで……ゾッとするんですよ。

でね、この交差点には噂があって、赤信号で空ぶかしなんかすると、後ろに“女”が乗ってくる……って。

ふたりは「そんな馬鹿な話あるかよ!」って、ヘラヘラしてるんですよ。
でもね、奥底では風の冷たさが気になっていた……そんな感じがしたらしいんです。

それで信号が赤になった。
「よし、行くぞ!」って、ふたりでアクセルを……ブンッ! と――
いや、本当は“両方”するはずだったんですよ。

でもねぇ……片方の彼だけ、夜風がスーッと首筋を撫でた瞬間に、
ゾワァッと背中に冷たいものを感じて……手が止まっちゃったんですって。
怖いなぁ、怖いなぁ……って、ふかせなかった。

照れくさくてね、「俺ビビってないよ」なんて顔しながら、
隣を見ると……
友だちは勢いよくふかしてるんだけど、その背中にね……
長い髪が夜風になびいてるんですよ……。

あれ? って思ってよく見るとね、
それ、友だちの髪じゃないんです。
背中に――
血の気のない白い手でしがみついてる、女の腕。
髪が風にスーッ、スーッと揺れて……顔が覗いたんですよ。

赤黒い顔でね、
ニタァァァ……って。

風に揺れながら、笑ってるんです。

青に変わった瞬間、友だちは気づかないまま走り出す。
風を切ってビューン! とね。
でも後ろの女も……
同じ風を受けて、ひらぁ……っと髪を揺らしながら、離れない。

そのまま……走り去ってしまったんですよ。

……いやぁ……ねぇ……
風ってのはねぇ……ときどき、“人じゃないもの”の匂いを運んでくるんですよ……。


そんなベタな怪談を思い出しているうちにアイドリングが落ち着いてきた。
ゆっくりとチョークを戻してメットを被った瞬間——
シートが沈んで、手が腰に回された。
俺は女のニタァという笑顔を思い浮かべて「ぎゃぁぁ」と叫んでスティードから飛び降りてしまった。
地面にへたり込んで見上げると、タンデムシートから朔夜が呆れた顔で見下ろしていた。

「どうしたの?」
「いや、別に」
「出掛けるんでしょ」
「うん、まぁ」
俺の歯切れの悪い返事にも、朔夜は全く降りる気配が無い。
「行くわよ」
「ソロキャンのつもりなんですけど」
「ギアは?見あたらないけど」
(うわぁ、ギアって言うタイプの人だ)
「キャンプグッズって言った方が良かった?」
「心まで読めるの!?」
俺は思わず両手で胸を押さえた。
「押さえるなら顔の方がいいわよ。表情に出てるから」
「朔夜さん、俺のライフはもうゼロです」
「そう。降参したなら行きましょうか」
朔夜はそう言ってスティードのシートをポンポンと叩いた。
「シーズンじゃないから民宿くらい取れるでしょ」
「!?」
「部屋はふたつよ」
俺は顔を押さえたが、その時ようやくメットを被っていることに気が付いた。
(やっぱり心、読めるんだろ)
「読めないわよ」
驚いて振り向いた俺に「年頃の男子の考えくらいわかるわよ」としれっと言った。
分かっているならヤメてくれと心底思った瞬間だった。

今から二時間後くらいの場所を目安に、民宿を予約した。
夕食は用意が間に合わないと言うので朝食だけお願いした。
「晩飯は現地で美味いものでも食べようか」
「それは楽しみね」
予定は変わったが俺の初ツーリングのスタートだった。
それにしても何かを忘れている気がしたが......
まあ良いかとスティードを走らせた。
夕陽を追い駆けてのツーリングは不思議な気分だった。
沈んだはずの夕陽が山を越える度に姿を現す。
やがて俺たちは夕陽を水平線まで追い詰めると、真っ赤に染まる世界を駆けた。
潮風が運ぶ波の音が、エンジン音の向こうに聴こえた。
そこで不意に、何の脈絡も無いが思い出した。
『俺はまた二人乗りをしている』と。
「大丈夫。上手くやるから」
インカムから声が聞こえた。
朔夜は絶対に心が読める。
俺はそう確信した。

EPISODE:14 キラーパスと決定力

「あらぁ、えらい別嬪(べっぴん)さんだねぇ」
民宿のお婆さんが朔夜を見て褒めちぎっていた。
「最近の若い子はアレだって言うのに、お客さんは指先の所作まで.......」
アレが何だかよく分からないが、俺はとにかく部屋の鍵が欲しかった。
朔夜は俺の隣で上品に微笑んでいた。
お婆さんはひとしきり褒めて満足すると、ようやく鍵をふたつ渡してくれた。
「襖を開けちゃえばひとつの部屋だから」
お婆様は俺の耳元でそう囁いて、カウンターの奥へ消えた。
最後にサムアップをして。

「やっぱり魚かなぁ」
本当はソロキャンで肉を焼こうと思っていた。
それが今は朔夜とふたりで海辺の街を歩いている。
すれ違う人のほとんどが振り返った。
何だかよく分からない自信が湧いてきた。
(俺がリードしなくちゃ)
「朔夜は苦手はあるかい?」
「そうね。倒した後に汚水を撒き散らす妖魔がキライね」
「きっと言うと思ったよ」
「なんかムカつく」
俺たちはそんな風に話して笑って、美味しそうなお店を探して歩いた。

「美味しい!!」
朔夜が頬を押さえた。
どのお刺身を取ったのだろう?
俺は思い切って舟盛りを頼んだ。
括弧書きで十種盛りとあったので思いきってみた。
蕩けそうな朔夜の表情に、俺の財布の全渋沢がガッツポーズを取った。

俺も近かったイカをつまんだ。
ワサビを溶いた醤油に端の方を付けた。
透明な身が紫に染まる。
このワサビも溶いた瞬間に醤油の香りを孕み、鮮烈な刺激と爽やかさを鼻腔に運んだ。
滴る醤油を一旦白米で受け、イカを口に運ぶ。
イカの甘みと醤油の複雑な塩味、そしてワサビの辛味が鼻から抜けた。
「美味い」
思わず声が出てしまった。
ねっとりしながらもプツンと切れる歯触り......

「ねぇ」
「——ねぇ」
「——ねぇ、ちょっと」
朔夜の少し大きな声にビクッとなった。
「何?」
「何じゃなくて『思わず声が出てしまった』じゃないわよ。ぜ・ん・ぶ、声に出てるわよ」
「え、嘘」
顔が熱くなった。
「テレビの見すぎよ、恥ずかしい」
朔夜の呆れ果てた表情に俺は肩をすくませて(うつむ)いた。

食事と散策を終えて民宿に戻った。
フロントのお婆さんから再び鍵を受け取った。
お婆さんは鍵と共に、口の端を上げてアイコンタクトをくれた。
その意味は部屋に戻ってすぐに分かった。
襖は開かれて、布団がピッタリと並べられて敷かれていた。
「いやぁ、まいったねぇ」
ほぼ棒読みで朔夜を見た時には、既に布団は隣の部屋に運ばれていた。
勢いよく閉まる襖の音と俺だけが、部屋に取り残された。
「うん、知ってた」
俺は力なく独りごちた。

EPISODE:15 亡き悪童の為のパヴァーヌ

「そこを左に入って」
国道をそれて川を渡り——
朔夜のナビでたどり着いた場所は......
「何処?」
俺は民家が数軒あるだけの森に戸惑っていた。
朔夜は辺りをゆっくり見回すと懐かしそうな表情をした。
それは俺と初めて会った時のような。
バイクを降りた朔夜は、そんな民家の間を抜けて更に森の奥へと歩いて行った。
木漏れ日すらない小径。
真昼だというのに薄暗く、空気がひんやりしていた。
森特有の薫りが心地よかった。
やがて小さな石塚が見えた。
苔むした石塚がふたつ、佇むようにあった。
朔夜はふたつの石塚を慈しむように......いや、まるで旧友との再会に想い出を語るように撫でていた。
「足利...茶々丸?」
義満とか尊氏とかなら知ってるけど誰だろう。
「ねぇ、さ」
言いかけて言葉を飲み込んだ。
風の温度が変わった。
まるでこの森が追想するように。
大地が回想するように——


「茶々丸様」
「朔夜か、まだ居たのか」
「ここは一旦退いて逃げ延びるのです」
朔夜は茶々丸の前に立ち、そう言った。
「殿の御前で無礼だぞ、女」
吉信(よしのぶ)、良い。朔夜は良いのだ」
刀の柄に手をかけた関戸吉信は、その言葉に膝を突き頭を垂れた。
「それよりも、朔夜。尋ね人には会えたのか」
「いいえ、茶々丸様」
「そうか。余も会いたかったのだが......残念だ」
茶々丸は本当に残念そうに言うと「朔夜、頼まれてはくれぬか?」と思い付いたように言葉を続けた。


さほど大きいとは言えない深根城は、その容量に見合わない程の人員を中に抱えていた。
加えて過日の大地震で損壊した箇所の普請もままならぬ状況。
そこに老若男女、千とも言える程の人間が士気も旺盛に「宗瑞(そうずい)許すまじ」と詰めていた。
茶々丸はこれを逃がせと頼んだ。
「余が命惜しさに肉の壁を使ったなど......茶々丸は簒奪者(さんだつしゃ)の汚名は甘んじても臆病者の(そし)りは受けぬ」
茶々丸は笑っていたが、その眼の奥には、『この城ではもう誰も救えない』という諦念があった。
同時に『誰も死なせたくない』という少年のような青い祈りが揺れていた。

(分からない)
正直に朔夜はそう思っていた。
数十年しか生きることの無い人間が、何故にどうして死に急ぐのか。
城門がゆっくりと開く。
群衆と言ってもいい一団の先頭に朔夜が居た。
朔夜は足利氏の旗印『二つ引両』を掲げて、馬上で(とき)の声をあげた。
唸るような叫び声が空気を、大地を揺らした。

「宗瑞の手勢の篝火(かがりび)か」
遠く海岸線を、鬼火のように揺らぐ炎がまばらに見えた。
「出ますか、茶々丸殿」
関戸の言葉に茶々丸は首を振った。
「籠城で時間を稼ぐ。その間に朔夜が遠くまで連れて行くだろう」
「いやぁ天下の悪童、最後の大芝居ですな」
関戸はこれは愉快と大笑いをした。
「吉信、貴様には貧乏くじを引かせたな」
「何を言いますか。このような余興を良い席で見せて貰う対価、この命の他には無いでしょう」
関戸はそう言って、今度は笑わなかった。
ただ静かに筆を取った。

千の手勢を謀り率いる朔夜は、馬上で茶々丸との出会いを回想していた。
そうだ、こんな新月の夜だった......

足利家の長男として生まれた茶々丸は、早々に廃嫡され長い幽閉にあった。
家督は異母兄弟のものとなっていた。

新月のか細い光が、格子の隙間から地下牢を照らす。
(何故ここへ辿り着いた?)
朔夜が周囲を見回すと鋭い声が飛んだ。
継母上(ははうえ)の手の者か?」
少年は刀の柄に手をやるとそう言った。
「何故そう思うのですか?」
朔夜が静かにそう尋ねた。
「継母上は人ではない。其方も人外であろう」
少年は腰を落として一閃の隙をうかがっていた。
(ほう。疑心暗鬼からとはいえ鋭い)
「継母を人外と知って、何故囚われている?私のことは斬ろうというのに」
朔夜は冷笑を湛えた瞳で少年を見た。
少年は顔を赤くして朔夜を見返した。
羞恥ではない、その目には怒りがあった
そして刀を抜いて朔夜の足元に投げて見せた。
それは月明かりを映すことのない竹光だった。
朔夜はそれを拾い上げると「其方も奪われた者か」と呟いた。
「私は朔夜」
朔夜はそう言って竹光の柄刀身を両手で持つと、少年に渡した。
「俺の名は茶々丸。足利政知が長男、足利茶々丸だ」
「茶々丸、いつか奪われた誇りを取り戻す日が来ることを」
朔夜はそう言って地下牢を後にした。

EPISODE:16 亡き悪童の為のパヴァーヌⅡ

「また来たのか、朔夜」
言葉とは違って何処か嬉しそうに茶々丸は言った。
「今日が元服と聞いて祝詞をと思いました」
格子から差し込む満月がふたりを照らしていた。
「元服はしたが余には名乗る名が無い。茶々丸のままだ」
茶々丸はかび臭い地下牢の土間に胡座をかいた。
「では今日より朔夜は、茶々丸様と呼びましょう」
朔夜は恭しく頭を下げ改めて「茶々丸様」と言った。
「ふははははは!そう言えば呼び捨てだったなぁ」
茶々丸は大きな声で笑った。
「はい。男子(おのこ)が元服すれば、それは立派な殿方。呼び捨てとはいきませぬ」
「ならば幼名のまま元服して、余は天下の悪童となろうぞ」
「では茶々丸様。悪童の手始めは、いかがなさいますか?」
「決まっておろう」
茶々丸は格子から見える月に手を伸ばした。
そして握りつぶすように拳を作った。

「朔夜は人殺しは致しませぬよ」
「ああ、人外の継母と魂を喰われた弟を......いや、弟は俺が」
「では」
そう言うと朔夜は内側から(かんぬき)を外した。
「その妖術は陰陽道なのか」
「茶々丸様が知るべきものではありませんわ」
「分かった。詮索はやめよう」
「ただひとつ——」
茶々丸は朔夜に向けて指をひとつ立てた。
「尋ね人には会えたか?」
朔夜は静かに首を振った。
その表情は月明かりの向こうにあった。
その悲哀の深さを読み取ることは出来なかった。
扉の軋む音が、地下の暗闇に染み渡るように消えていく。
「まずは武器の調達だ」
声を潜める茶々丸に、朔夜は小さく頷いた。

暗闇の廊下の先が仄明るく見えてきた。
この先には番兵が立っているはずだ。
「さて......」
思案に足を止めた茶々丸の横を朔夜が過ぎていく。
「待て、ここは慎重に」
慌てる茶々丸の声が朔夜に届いた時には、既に全てが遅かった。

「ご苦労さま。武器をくださる?」
朔夜が誰かと話をしている。
「何を馬鹿な」
聞こえる声に茶々丸は動揺を隠せなかった。
明かりの元に飛び出し、番兵に素手で襲いかかろうとした。
そこで見たものは、朔夜が槍と刀を受け取るところだった。
「ありがとう。では貴方は一番鶏一番鶏が鳴くまでそこでお休みなさい」
番兵は糸が切れた操り人形のように、その場に崩れ寝息を立て始めた。
「敵には回したくないものだな、朔夜」
あまりの光景に茶々丸は心からそう言った。
茶々丸は受け取った槍を頭上でくるくると回した。そこから連続の突きから薙ぎ払いと、短い演武を見せた。
「見事ですわ、茶々丸様」
そう言われ満更でもない表情で茶々丸は「行くぞ」と、十数年ぶりに月明かりの下に立った。
「頭上に仰ぎ見たのはいつ以来か......蒼月よ、貴様も息災だったか」と茶々丸は笑った。

「さて、朔夜よ。本丸へと向かうか」
茶々丸は槍の柄を地面に突き立てると、蒼月が照らす御所を睨みつけた。

堀越御所——
ここはかつて父が城館として建てたものだった。
今は奪われたものの象徴。
異変に気付いた兵達が、その城館から蜂の群れのように躍り出て来た。

「うははは、一気に囲まれたぞ」
窮地にもかかわらず茶々丸は楽しげだった。
朔夜と背中合わせで包囲の中心に居た。
「茶々丸様。皆、正気を失ってございます。継母上様(ははうえさま)の傀儡かと」
「それは『殺すな』という意味か」
茶々丸は眉をひそめた。
「悪童と悪鬼は異なるものですわ」
そう言って笑う朔夜に「天下の悪童の名、ここに広めようぞ」とニヤリと返して槍の(しのぎ)を引き抜き、捨てた。
——ドスっ。
その音を合図に茶々丸は駆けた。
館に、入口に向かっての最短。
刀身の無い槍先での連撃は、立ちはだかる兵の人中を確実に捉え数人を昏倒させた。
だがそれで十分。
兵達が次々と昏倒した兵につまづき将棋倒しを起こした。
そこを越えてなお襲いかかる傀儡に強烈な薙ぎが払われた。
「ふふ、悪童でも悪鬼でもない。鬼神ですわ」
朔夜は茶々丸の獅子奮迅の戦いぶりに笑みを浮かべた。
そして自らも刀を顕現させ、蒼白い炎を纏った刃を振るった。
刃が触れた兵たちは次々と崩れ昏倒していった。
兵の繰り出す槍の鎬を薄布一枚の見切りで(かわ)した。
袈裟斬りにしようと振り下ろされた刀の峰に右足を乗せるとそのまま駆け上がり——跳んだ。
蒼月を背に背面での宙返り。
翻筋斗(ほんきんとん)とは!」
茶々丸の口から感嘆が上がった。
「まるで女神じゃ」
月の後光を背負って降臨する姿に、茶々丸は朔夜の(まこと)を見たような気がした。
「ひふみよいむなやここのたり布留部由良由良(ふるべゆらやら)布留部(ふるべ)
涼やかに澄んだ声が夜に沁みた。
次の瞬間、宙を舞う朔夜が両腕を広げた。
流星のような光が(つぶて)となって四方へ注いだ。
射抜かれた兵たちの崩れ倒れる音が幾重にも重なり、空気を震わす轟音となった。
「茶々丸様!」
降り立った朔夜の声に、一瞬見惚れていた茶々丸が我に返った。
そうして頷くと城館へと駆けて行った。

EPISODE:17 亡き悪童の為のパヴァーヌⅢ

城館の中は不気味な程に静まり返っていた。
自らの心臓の音すら響くような静寂。
茶々丸は槍を捨て脇差しを抜いた。
目指すは継母 円満院(えんまんいん)と弟 潤童子(じゅんどうじ)の居室。
長い廊下を草鞋(わらじ)のまま駆けた。
不意に障子を破り槍が突かれた。
気配は無かった。
穂先が左の脇腹を貫く寸前、茶々丸は左手で刀を引いた。
刀身が露わになり金属音が響く。
穂先をいなした刀身は、(しのぎ)を削り火花を散らした。
重心を崩された茶々丸は、攻撃を防いだものの大きく飛ばされ転がった。
素早く立て直したところに槍の連撃が繰り出された。
疾い。
そして確実に急所のみを狙ってきた。
強烈な突きが心臓目掛けて放たれた。
茶々丸は半歩だけ(たい)を躱すと、槍を脇の下に挟み込んだ。
そのままの勢いで捻りこむと一気に叩き伏せた。
「腕を上げたな潤童子。だが殺気が強すぎた」
「一生地下牢に居れば良かったものを」
潤童子は顔を歪ませて唸るように言った。
「良かったな、貴様は"一生この城館だ"」
茶々丸の右手の脇差が、潤童子の脇腹から心臓を捉えた。
潤童子は大きく目を見開き、すぐにその瞳から光が消えていった。
最期——何かを言おうと口を開いたが、喉の奥からゴボゴボと血が溢れるだけだった。
茶々丸は潤童子の瞼をそっと閉じると、汚れた口許を自らの袂で拭った。
「何かが違えば......いや、詮無きことか」
茶々丸はそう独りごちると立ち上がった。
そして囲まれたことを悟った。
「人外か」
脇差しを構えた。
じりじりと迫る気配だけは感じる。
そしてその囲みは確実に狭まっていた。


「どこから湧いてくるのかしら」
次から次へと現れる(むくろ)の群れに、朔夜の呟きが漏れた。
茶々丸を追おうとしたところを完全に分断されてしまった。
朔夜を拒むと言うよりは、茶々丸だけを城館が招いているようだった。
数は膨大だったが個々は脆く、式神達の攻撃だけで大体が崩れていった。
屋敷の方から獣の咆哮が聞こえた。
「......犬神人(いぬじにん)
朔夜は顎に手を当てそう独りごちた。


獣の(にお)い。
微かな風に乗り上手(かみて)から漂って来た。
——天啓。
上手は囮だ。
茶々丸は下手(しもて)に向かって脇差しを水平に薙いだ。
ギャンという短い悲鳴と血しぶき、そして落下音。
床に血溜まりが生まれ、その中心に(けだもの)が徐々に姿を表した。
「ヤマイヌか」
周囲に無数の小さな光の点が姿を見せた。
それは爛々とした目の輝き。
茶々丸が床を蹴った。
そのまま一気に間合いを詰めると数匹を斬り伏せた。

「キリが無い」
脇差しを持つ腕が重たい。
肩で息をしているのが自分でも分かった。
獲物が弱る気配を敏感に察したヤマイヌ達の唸りが次第に大きくなった。
茶々丸は脇差しを上段に構えた。
少しでも大きく見せようと思った。
ヤマイヌ達の動きが鈍くなった。
——仕掛けるか。
茶々丸の膝が沈んだ瞬間だった。
ヤマイヌの群れがざわめき、潮が引くように下がった。
澱んだ空気が更に澱みを増した。
「おやおや、騒がしいと思えば」
よく通る、だが冷やmた。
十二単(じゅうにひとえ)を纏った女が、その奥からゆっくりと姿を現した。
(めかけ)五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)か」
(わらわ)は元来公家の出。おかしなことなどなかろう」
茶々丸の挑発に動じる様子もなく、冷徹な視線を向けた。
「潤童子は死んだぞ」
茶々丸は円満院に向けて、一気に間合いを詰めた。
渾身の一撃を叩き込む。
円満院は怯む様子も狼狽する様子も無く、冷笑を湛えたまま避ける素振りも無かった。
「あの世で潤童子に詫びろ!」
振り抜いたはずの脇差しが、激しい衝撃とともに弾き飛ばされた。
茶々丸もそのまま床に転げた。
「潤童子や。其方、死んだらしいぞえ」
円満院は喉を鳴らして笑った。
「母上様、お戯れを」
そこには確かに死んだはずの潤童子が、槍を手に茶々丸を見下ろしていた。

EPISODE18 亡き悪童の為のパヴァーヌⅣ

「これは朔夜姫。随分久しゅうございます」
「不義理をしています。櫛名田比売(くしなだひめ)
朔夜は恭しく礼をした。
素戔嗚尊(すさのお)は今居ないの。......だから、堅苦しいのは無しよ」
櫛名田比売はそう言うと柔らかく微笑んだ。
彼女は神に娶られた人間だった。
生贄として魔物に差し出された彼女を素戔嗚尊が助け、娶った。
「磯城様は見つけられた?」
だからこそのこの問いだった。
朔夜は首を振り「まだ」と少し不安気な表情を見せた。
「そう。それは心配でしょう」
櫛名田比売は朔夜を慮るように、憂いを帯びた声と表情で慰めた。
「でも貴女のことですから、今日はそのようなお話でみえた訳では無いのですよね」

朔夜は今、堀越御所で起きていることについて話をした。
「......犬神人(いぬじにん)
全てを聞いた櫛名田比売は、失望にも似たため息混じりにその言葉を口にした。
「ええ、私も犬神人が関わっている。または黒幕だと思っています」
朔夜の言葉に櫛名田比売が反応した。
「黒幕だなんて......」
その先、声をひそめたのは肯定からだろう。
「貴女、本気で言ってるの?」

櫛名田比売は一旦席を外し、袱紗(ふくさ)を手に戻った。
「犬神人の不始末は素戔嗚尊と私の不徳。貴女にそれを願うのは虫のいい話でしょうが——」
櫛名田比売は袱紗を開いて見せた。
そこには青く澄んだ石が幾つかあった。
「これは、青龍石」
朔夜が驚いて櫛名田比売を見ると、彼女は力強く頷いた。
青龍石は彼らの(やしろ)でしか採れない破魔の石だった。
「犬神人は不浄を集め清めるのが責務の神官。それが不浄を使ってこのような所業を......」
櫛名田比売はやはり落胆の様子を隠せなかった。
「私に任せてください。全てを救うことは叶わないと思いますが、収めて参ります」
朔夜はそう言って青龍石を受け取った。
両手のひらの上で青く輝く半透明の石に、朔夜は命の波動のような響きを感じた。
一礼して背を向けた朔夜を櫛名田比売が呼び止めた。
「朔夜姫。茶々丸に執着しているようですが、磯城様と関係があるのですか?」
その問い掛けに朔夜は首を振った。
「磯城様の気配も魂の色も見えません。ただ——國々を巡ると、何故か幾度も()の地へ導かれるのです」
「そうでしたか。神も人も、()われた縄のように運命の螺旋にあるのかもしれませんね」
そう言うと、今度は櫛名田比売が深々と一礼をして朔夜を見送った。


数を頼りに襲いかかる亡者達の群れに、式神達も疲弊していた。
亡者達の群れは朽ちかけた身体をぎこちなく動かして迫ってくる。
骨だけの者、まだ皮膚や頭皮が残っている者、腐りかけた肉が汁を垂らしながらぶら下がっている者......

「犬神人はここに地獄を作るつもりか」
包囲の中心に現れた朔夜はそう吐き捨てるように言うと、青龍石のひとつを天に投げた。
石はそのまま自ら天に昇るように空高く上がると、次第に輝きが青白く棚引いた。
棚引く輝きは龍に姿を変え、夜空にその威容を見せた。
「まさに青龍の顕現ね」
真下で朔夜が眩しそうに見上げた。
青龍が咆哮を轟かすと、その音の衝撃で亡者達の多くが崩れ土に消えていった。
残った者も青龍から放たれた光が流星の様に降り注ぐと、浄化されるように光の中に溶けていった。
「ああ、憐れな魂が彷徨うことなく天に帰れますよう」
全ては犬神人が元凶。
亡者に罪は無かった。
「亡者とは命を失くした者ではない。魂を売り渡した者のことだ」
朔夜の呟きは怒気を孕んでいた。

EPISODE:19 亡き悪童の為のパヴァーヌⅤ

「いかがしましたか——兄上」
潤童子の槍の穂先がゆっくりと肩に差し込まれていく。
痛みに悶絶するどころか喉すらも自由にならず、声もあげられなかった。
その様子を楽しむように「流石は兄上。悲鳴すら上げぬとは豪気ですな」と潤童子は笑った。
「茶々丸は弟君の良い手本ですね。兄弟が睦まじいのは母としても喜ばしいですわ」
円満院の笑みは、まるで傷口に指を這わせるかのようにゆっくりと深まった。
——槍は鎬まで肉の中に埋まっていった。

声すら上げることの出来ない地獄。
叫ぶことが出来たなら幾分かの痛みは散らせただろうか。
死んだはずの潤童子の目を見てから、茶々丸は動けなくなっていた。
ブチブチと筋肉がゆっくりと裂かれている音と感覚、そして激痛。
やがて穂先が骨を砕いた。
ゴキンという音を、自分の身体から初めて聞いた。
叫んでも叫んでも声が出なかった。
脂汗なのか冷や汗なのか、分からない汗が滲み流れる。
肩は熱く痛むが、それ以外の場所は熱を失ったように寒く凍えそうだった。
それを見て円満院は、嘲笑とも思える笑みを浮かべて佇んでいた。

このまま潰えるか——。
茶々丸の中でそんな心が芽生え始めた刹那だった。
ギャンというヤマイヌの悲鳴を聞いた。
一匹、二匹......いや、悲鳴は連鎖し無数のうねりとなった 。
円満院の後ろ、ヤマイヌ達のいる辺が青く輝いていた。
この禍々しい空間の城内だったが、その場だけ清浄さを感じた 。
そして円満院が異変に気付き振り返った瞬間だった。
波動のような衝撃に、潤童子諸共激しく吹き飛ばされた。

「少し遅れましたか」
朔夜の声は、空間に一筋の水音を落としたように澄んでいた。
「これを見て少しと言うなら、少し遅れたな」
茶々丸はいつものように涼やかに現れた朔夜に、最大限の喜びを込めた皮肉を言った。
朔夜は茶々丸の肩を貫く槍を見詰めると「危ないところでしたわ、茶々丸様」と言い直した。
「そうだな、死んでいないから平気だ」
そう言うと茶々丸は、槍の柄を出来るだけ短く切り落とした。
そして何度か大きく呼吸をして整えると、一気に引き抜いた。
襟口を力の限り噛み締めたが、それでも苦悶の呻きは上がってしまった。
朔夜が茶々丸の肩に青龍石をかざし祈ると、石は暖かく輝き痛みを取り去った。
傷口や折れた骨まではそのままだったので、動かす度にそれは激痛となった。

「さて、茶々丸様。そのままご安静に」
朔夜はそう言うと茶々丸の一歩前に出た。
じっと夜の闇の向こうを見詰める。
ヒュン。
無数の風切りの音が一斉に鳴った。
赤黒い(あやかし)の矢が朔夜に襲いかかった。
朔夜は微動だに——眉のひとつも動かさずに居た。
矢は、朔夜の肌に触れる寸前で、まるで存在を否定されたかのように形を失った。
「ほう、犬神人の矢が当たらぬか」
十二単を纏った女——円満院だった。
「そう、やはり犬神人だったのね」
朔夜はそう言うと「違って欲しかったわ」と小さく呟いた。
「潤童子、参れ」
円満院の言葉と同時だった。
強烈な槍の一突きに加えて、潤童子の後ろ回し蹴りが放たれた。
どこから現れたのかすらも分からない連撃だった。
朔夜は初手の槍を左手の甲で外にいなすと、二撃目の蹴りは顕現させた太刀で切り落とした。
膝から下が転がり、膝から上は激しく血飛沫(ちしぶき)を撒き散らした。
膝下を失った潤童子はそのまま回転し、背中から床に落ちた。
「人の血は赤だと言うけれど——」
朔夜は頬に飛んだ血飛沫を右手拭うと一瞥した。
紫。
黒く沈着した紫だった。
「貴女の血もこんな色?」
朔夜は両の手に太刀を顕現させて円満院ににじり寄った。
刀身の炎が蒼く揺らめいた。
円満院の顔から初めて笑みが消えた。
「い、犬神人どもよ!(わらわ)を守れ」
後ずさりながら叫ぶが、何も誰も現れなかった。
「下級神官の捨て駒だなんて、憐れね」
朔夜の言葉に逆上した円満院が襲いかかった。
だがそれは、なんの鍛錬も積んでいない動き。
微塵の躊躇もなく朔夜の太刀がひとすじ、蒼い光を引いた。
次の瞬間、円満院の身体がようやくそれを理解したかのように崩れた。
理解できない状況に驚愕したような表情のまま、沈むように落ちた。
朔夜は最後の青龍石を放った。
部屋の天井付近から清浄な青い光が注いだ。
周囲が浄化されていくのが分かった。
円満院の身体が光に溶けていった。
「継母でも、母でさえあれば付け入られることも無かっただろうに.......」
朔夜はそんな手向けにもならない事を呟いた。
その時、朔夜の背後から影が落ちた。
振り向くと、刀を杖に立ち上がった潤童子が襲いかかる瞬間だった。
だがその最期の襲撃は届くことなく終わった。
「最後まで気を抜くんじゃねえ」
茶々丸の突きが潤童子の腹を貫いていた。
「あら、平気よ」
倒れた潤童子の胸に、朔夜の小太刀が深々と刺さっていた。
「おいおい、見せ場のひとつくらい寄越せよ」
茶々丸はそう言って笑うと、堀越公方の家督相続を宣言した。


「さぁ、貴方の見せ場よ。茶々丸」
朔夜は馬上から深根城を振り返って見た。
白煙をたなびかせ霞む深根城が遠くにあった。

EPISODE:20 亡き悪童の為のパヴァーヌⅥ

「朔夜様」
朔夜が率いた民草の中からひとり。
女が近づいてきた。
松明(たいまつ)の炎に顔の陰影が揺れた。
知った顔だった。
茶々丸の妻、若菜だ。
若菜は思慮深い女性で、茶々丸と朔夜の芝居にも気付いているのだろうと朔夜は思った。
「彼らをどうまとめましょうか」
ああ、やはり分かっている。
もう自分たちがあの城に、城下に戻れない事を。
そしてこれは迎撃ではなく逃亡だということも。
朔夜は馬を降りると若菜の前に立った。
「まず、全員の髪を集めなさい。そしてそれを私に......」
言いかけて朔夜は大きく目を見開いた。
ダメだ、今泣いてはダメだ。
そうか、だから私は何度もここへ戻ってきたのか。
全てを——運命(さだめ)を理解した瞬間だった。
朔夜の様子を不安気に見る若菜の耳元に、朔夜は顔を寄せた。
「吾子?」
そう言って若菜の腹部にそっと手を置いた。
「はい」
小さく頷いた若菜を、朔夜は思わず抱きしめていた。
——磯城様、ようやくお会い出来ました。
心の中、魂が触れるようにそう呟いた。

半刻ほどして全員の髪が朔夜の元に集められた。
朔夜は馬上から、未だ士気旺盛な群衆に語りかけた。
「茶々丸様からの軍令を伝える。深根城から遠く離れ、そこで再起をはかる為の集落を作れ。老いた者は知恵を、若き者は力を、子供たちは笑顔を持ち寄り未来永劫、彼の地に栄よ」
意味を悟り泣き崩れる者。
理解出来ずに呆然とする者。
それぞれがそれぞれの受け止め方だったが、もう茶々丸は還らないことだけは皆が悟った。
「ここからは若菜が率いる。皆で羽を並べ励め!」
朔夜はそう言って若菜を馬上に引き上げた。
朔夜は馬を降り若菜を見上げた。
お互いが暫し見詰め合うと、若菜は覚悟を決めたように頷いた。
「私に続けー!」
若菜の号令に群衆の呼応が地鳴りのように響き、鳥たちが夜空に一斉に飛び立った。
それを合図に朔夜も深根城へと飛んだ。


「茶々丸様」
朔夜の姿に城詰めの者達が驚きの声をあげた。
「無事に逃げ(おお)せたか」
茶々丸は嬉しそうに朔夜を見た。
「はい。それとひとつ」
朔夜はあえてこう続けた。
「茶々丸様は"父上様"になられましたわ」
目を丸くした茶々丸が朔夜の着物の両袖を、縋るように掴んで「(まこと)か!!」と叫んだ。
それを見た関戸が慌てて「めでたい話ですが、ご世継ぎの件が敵に漏れるといけません」と声を潜めて忠告した。
「諌言耳に痛いな」
茶々丸はそう言うと関戸に「最後まで気苦労をかけたな」と労った。
「さて。朔夜殿が戻られたとはいえ、百人力という話では無いのですな」
関戸はそう言うと朔夜に向き直って尋ねた。
「朔夜は人は斬らんからな」
茶々丸が横からそう言うと「はい」と朔夜が頷いた。
そうして懐から集めた髪を取り出すと、本丸の窓へと歩いた。
そこで両手のひらに乗せ、息を吹きかけ飛ばした。それらは伸び、膨らみながら次々と城下の人々に姿を変えていった。
「なんとこれは」
関戸が信じられない物と者を交互に見た。
そんな関戸に「大芝居には小道具が必要でしょ」と朔夜は笑いかけた。


宗瑞の攻勢は苛烈を極めた。
夜陰に乗じて寡兵で城を攻めた。
城の外の要所には包囲の部隊と遊撃隊。
「やはり戦上手」
関戸は「敵ながら」と舌を巻いた。
そして攻城前から周囲を煙で燻され、森への退路を絶たれていた事を知った。
「天晴、宗瑞だな」
茶々丸の言葉に「ですが殿も先手をを打たれてる」と関戸が楽しげに言った。
もう森も街道も使う者は居ない。
そこに兵を割くかぎりは搦手(からめて)の力も強くはない。
『時間を稼ぐ』
これが茶々丸達の目的である以上、作戦上は勝利だった。
搦手の第一波、第二波を各個に退けた。
茶々丸の軍勢も僅か三百ながら巧妙に戦っていた。
明け方までに宗瑞の手勢は五百は失っていた。
それでも一ノ門すら破れていないことに宗瑞は業を煮やした。
何度目かの伝令の報告に宗瑞は、全軍の突撃を命じた。
本陣以外の全軍三千が、地鳴りを起こして突撃する。
それは近頃群発していた地震を想起させるものだった。
その地震で損傷していた壁の数ヶ所はこの地鳴りで崩れることとなった。
「戦上手は撤回だな。美しくない」
関戸は大軍に潰される自軍の兵の姿を見てそう言った。
「是非も無し」
茶々丸のその言葉は、戦いの終わりを告げるものだった。


茶々丸の自刃に降伏した軍勢は捕らえられ、全員が首をはねられた。
のみならず場内にいた民草の赤ん坊から老人、男女の別なく宗瑞は首をはねた。


処刑には数日を要した。
朔夜が作った髪の民草も役目を果たして、この戦は終わりを迎えた。

「茶々丸様、この大芝居は貴方の勝ちね」
誰が聞くともない朔夜の呟きに夏草がそっと揺れていた。



大きくざわめいた木々の揺れが静まった。
森は再び沈黙し、墓標を撫でるその指が別れを告げるように離れた。

「朔夜、そいつ継母と弟を殺して城主になった悪党ってネットに出てるね」
俺はスマホを片手に軽く言った。
「その後、北条早雲に......うわ、さっきの城跡ってヤバくない?千人の首が晒されたって」
想像して身震いする俺に「歴史なんてね、伝える人間次第でどうとでも解釈されるのよ」と朔夜が言った。
その表情はとても悲しげに見えた。
「でもね、宗瑞がそう思い込むことに意義があったのよ」
朔夜はそう言うと元来た道を駆けて行った。
後を追おうとした俺の視界の端に映った墓標。
そこに屈託の無い笑顔で、朔夜を見送る男の姿を見た気がした。

EPISODE:21 意識

城址跡から戻った朔夜は無口だった。
だけど機嫌は良さそうに見えた。
海辺のレストランでパエリアを食べた時も、グラスの中に夕陽が沈むの見た時も——
朔夜が急に大人になったように感じた。
元々大人びてはいたけれど、妙な破天荒さが消えた様な雰囲気だった。
そして時々俺を見る目。
朔夜は俺に誰かを重ねる......
いや、違う。
それは俺の中に誰かを見るような視線だった。

俺も自身に変化が起きている気がしていた。
初めて意識を失った日、誰かの記憶を見た様な感覚があった。
そして朔夜が死んだと思った日、誰かの意識を感じた。
朔夜は誰を見ているのだろう。
それが俺の傍に居る理由なのだろうか。
聞けば終わる気がして口には出せない。
朔夜に惹かれる気持ちは誰のものだろう。
これは俺の、俺だけのものと信じたい。

顔を上げた一瞬、目が合った。
朔夜の瞳の奥で、何かが揺らいだように見えた。


「次も護れるといいな、朔夜」
その言葉に振り向いた朔夜の顔には、明らかな敵意と憎悪があった。
夜刀はそんな激しい感情を一笑に付した。
「なぁ、もう十分ではないか?お前が何度護ろうと救おうとも、此岸の磯城はお前のことなど分かりはしない」
「構わないわ」
「お前以外の女を愛し......転生する度にどれだけ抱いたのだろうな」
下卑た笑いが響いた。
「この下衆が」
「なぁに。お前の為に言っているのだよ、朔夜」
夜刀の黒い霧が、這うようにまとわりついた。
生ぬるく不快な霧。
「鳥には鳥の、魚には魚の生きる場所があるだろう。神と人なら尚更だ」
「ならば......」
朔夜の声が冷気を帯びた。
蛇蝎磨羯(だかつまかつ)の類が(わらわ)に口をきくことも触れることも(わきま)えよ!」
朔夜の射るような視線に夜刀は牙を剥いた。
裂けたように上下の顎を開く。
鋭い牙からは、ぬらぬらと雫が垂れ落ちていた。
夜刀は蛇の本能そのままに醜く威嚇すると、闇に溶けるように消えた。
「貴方が誰を愛し添い遂げようとも、幾星霜の輪廻を繰り返そうとも......魂の色は永遠(とわ)の真珠」
朔夜は胸に手を当てそう呟くと「磯城様」と呼び掛けた。
誰に届くでもないその声は、とても柔らかで暖かだった。


「何、人の顔をじっと見て」
我に返ったように朔夜が言った。
「あ、いや......」
俺は少し深く息を吸った。
「俺はそう、朔夜を見てる。朔夜はいったい誰を見てるんだ?」
朔夜は少し驚いた顔で、そして俺から目を逸らした。
そして逸らした方向に指を差した。
振り向くと星が海に降りて来たような、無数の漁火が灯っていた。

EPISODE:22 隠れ里

背中に朔夜の体温を感じながらがら走る帰り道。
インカム越しに、朔夜が茶々丸の後日談を話し始めた。
「後日談も何も、領民と一緒に死んだんだろ」
俺がそう言うと、脇腹に拳がじんわりめり込んで来た。
「あ、なんかすっごく興味出てきたなぁ。聞きたいなぁ」

朔夜から聞いた話だ。

宗瑞の手を逃れた領民達は森の中に集落を築いた。
領民達は、集落の中で新たに役割を担い暮らした。
そんな中、若菜が産んだ茶々丸の御落胤(ごらくいん)梵丸(そよぎまる)だった。
若菜は正室だったが、茶々丸の血筋を名乗れないことから御落胤と呼ばれる事がよくあった。
もっともそれは茶々丸を偲んでのことだった。
若菜と乳母は梵丸を平民として育てたかったが、領民は強く反対した。
領民は若菜と梵丸を心の拠り所にすべく、特別な存在としていた。
物心がつく頃には木刀を与えられた。
剣術の指南を受け、見られるくらいには振れるようになった。
元服して尊義(たかよし)を名乗る頃には、髷を結っていないこと以外は立派な武士だった。

深根城落城以来16年余——
人目を避けた隠れ里だったこの集落が、遂に見つかる日が来た。
応仁の乱から始まった長い戦乱の世。
国土の大半が戦場となり、逃げのびた三人の落ち武者が集落を襲った。
戦える者など居ない集落で、尊義が剣を手にした。
剣とは言ってもそれは木刀だった。
落ち武者のひとりが刀を振り下ろした。
尊義の木刀がそれを正面から受けた。
刃が木刀に食い込み止まった。
刃こぼれをしていた上に、数人を斬ったあとだったのだろう。
尊義は意図せず領民に救われていた。
尊義はそのまま木刀を引き寄せ、落ち武者のみぞおちに前蹴りを入れた。
苦しさに前屈みになった所で脇差を奪い抜き、首筋に刃を滑らせた。
血飛沫が心臓の動きに合わせて飛び散った。
落ち武者が首筋を押さえたのは本能だったのだろう。
だがそれは無駄なことだった。
そのまま数歩歩くと、どうと倒れて土埃が上がった。
集落の中心で叫び声や悲鳴が上がった。
他の落ち武者を探していた尊義は、声の方へと駆けた。
中心地では若菜が刀を突きつけられていた。
女たちはその様子に悲鳴をあげ、男たちは落ち武者に罵声を浴びせた。
そんな中、若菜だけは毅然としていた。
「皆の者、落ち着きなさい」
若菜の通る声が響いた。
「あなた、私を殺せば村人全員から嬲り殺されるわよ」
若菜がそう落ち武者を諭すと「どうせ俺は死ぬ!殺される!ならその前に酒とメシと女を持ってこい」と半ば支離滅裂に叫んだ。
逆にそれゆえに危険だと、村人達が自主的に酒と食べ物を持ち寄って来た。
そして女——
尊義の乳母が落ち武者の元へ向かった。
乳母の見た目は尊義が物心ついた頃から変わらず、落ち武者も若い娘が来たと気を緩ませた。
そして刃を若菜の首筋に当てたまま、左手で盃を出して酌を促した。
ガシャリ。
重たい金属音が響いた。
刀が転がっていた。
柄をしっかり握った右手がついたまま。
落ち武者の悲鳴と鮮血を背に乳母がそこを離れると、村人が一斉に襲いかかった。

「師匠!」
尊義は乳母の元に駆け寄った。
「疾すぎて手元が見えません」
「いいから若菜様の所へ行きなさい」
尊義は叱られて渋々走って行った。

その後、落ち武者狩りの功績で尊義は取り立てられて武家の養子となった。


「じゃぁ茶々丸の足利の姓は絶えたけど、血筋は残ったってこと?」
「まぁね。でも、諸説ありってやつね」
「ふーん。でもさなんかその乳母って朔夜っぽくね?」
そう言った瞬間、脇腹に拳が一気にねじ込まれた。

比翼の朔夜

比翼の朔夜

これは永遠の愛の物語......

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更新日
登録日
2025-11-13

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  1. EPISODE:1 月明かりの下で
  2. EPISODE:0 プロローグ
  3. EPISODE:2 葛城朔夜
  4. EPISODE:3 永久の朝
  5. EPISODE:4タンデム
  6. EPISODE:5 畢生の一幕
  7. EPISODE:6 万劫の呪い
  8. EPISODE:7 残滓
  9. EPISODE:8 デジャ・ヴュ
  10. EPISODE:9 式神
  11. EPISODE:10 月詠
  12. EPISODE:11 友人
  13. EPISODE:12 好奇心と猫と
  14. EPISODE:13 風を感じて
  15. EPISODE:14 キラーパスと決定力
  16. EPISODE:15 亡き悪童の為のパヴァーヌ
  17. EPISODE:16 亡き悪童の為のパヴァーヌⅡ
  18. EPISODE:17 亡き悪童の為のパヴァーヌⅢ
  19. EPISODE18 亡き悪童の為のパヴァーヌⅣ
  20. EPISODE:19 亡き悪童の為のパヴァーヌⅤ
  21. EPISODE:20 亡き悪童の為のパヴァーヌⅥ
  22. EPISODE:21 意識
  23. EPISODE:22 隠れ里