比翼の朔夜
EPISODE:1 月明かりの下で
ヘッドライトの向こうに蠢く影があった。
にじり寄る影に、スティードのアクセルを吹かして威嚇したが無意味だった。
(間違いない、妖魔ってヤツだ)
俺は数日前、朔夜に聞いた名を思い出していた。
妙に冷静だった。
『いい?この護符に息を吹きかけたら、そのまま放って』
俺は制服の懐に手を忍ばせた。
指先に数枚の紙の感触があった。
朔夜に貰った護符だ。
『戦ってはダメ。護符に任せて逃げて』
2本の指に挟んで護符を引き抜いた。
息を吹いて放つと護符は人型に変わった。
人型は誘うように、デコイとなってゆらゆらと離れいく。
妖魔達が一斉に護符を追い、襲いかかった。
『護符の効果が発動すれば、私が必ず駆けつけるから』
俺はアクセルを全開にした。
スティードが咆哮を上げる。
目の前の妖魔を蹴散らす。
ゴツン、という鈍い衝撃。
妖魔の一体が横に吹き飛んだ。
ミラーを見る──追ってくる。
しかも速い。人間の全力疾走なんて比じゃない。
メーターの針が80km/hを超えた。
距離が縮まるのが、目で見ても分かる。
俺は前だけを見て、アクセルを握りしめた。
朔夜に教わった通りのことはした。
あと俺に出来ることは、信じるだけだ。
先の歩道橋、満月を背にした人影が見えた。
欄干の上、制服姿の女の子。
朔夜だ。
俺が歩道橋に迫ると、朔夜は大きく跳んで妖魔の群れに落ちて行った。
肉の断たれる音。
断末魔の悲鳴が重なる。
腐臭が風に乗って漂ってくる。
振り返ると──そこに朔夜が居た。
青白く光る刀を両手に、月明かりの下で舞っている。
一閃、また一閃。
刃が描く軌跡が、青白い光の帯となって夜を裂く。
妖魔が群がる。
朔夜は身を翻し、回転しながら三体を同時に斬り裂いた。
黒い体液が月光に照らされて宙を舞う。
制服のスカートが翻る。
黒い長い髪が宙を舞う。
朔夜は戦っているのではない──祈っている。
巫女が、神楽を舞うように。
その姿は、恐ろしいほどに美しかった。
朔夜の刃を逃れた一体が、俺に向かって駆けて来た。
距離はあるが疾い。
狂犬のように涎を撒き散らしながら、四足よつあしで地面を蹴り飛びかかって来た。
その大きな一つ目は俺だけを捉えていた。
「ひふみよいむなやここのたり布留部由良由良と布留部」
澄んだ声が聞こえた。
それは耳に届くというより天から降るような声だった。
次の瞬間、妖魔は牙を向いたまま俺の眼前で首を落とした。
分かれた頭はそのままの勢いで俺の頬をかすめ、胴は足元に転げ落ちた。
それに遅れて、はらりと紙片が数枚舞い散った。
「間に合ったわね」
朔夜が乱れた髪をかき揚げながら歩いて来た。
「ギリじゃねぇかよ」
俺はそう言って笑った。
そして朔夜の方へメットを放った。
緩やかな放物線を描いて胸元に届いた刹那、1本の槍が虚空から現れ、朔夜とメットを貫いた。
槍はそのまま地面に刺さり、アスファルトを捲めくって止まった。
「夜刀様ノ命デ来テミレバ他愛ノ無イ」
低く、不快な声が響いた。
どこから聞こえるのか分からない。
夜の闇の奥。
いや、闇そのものが蠢いている。
亀裂が走った。
違う、あれは口だ。
闇が、笑っている。
ギチギチと骨が軋むような音を立てて、闇が形を成していく。
人の輪郭。
でも、違う。
人の姿を朧気な記憶から作りあげたような化け物。
人間を、どうとも思ってはいない者の造作だ。
「朔夜ハ死ンダ」
再び亀裂を走らせて嗤った。
おぞましい笑い声が夜にこだました。
月明かりの下、朔夜だった影がアスファルトに落ちた。
EPISODE:0 プロローグ
「朔夜、今日はこんなに魚が穫れたよ」
「まぁ、磯城様。病床のお義母さまの滋養にも良いでしょうね」
朔夜は磯城の腰にある魚篭を見て嬉しそうに言った。
大漁よりも、磯城が嬉しそうなのが朔夜は何よりも嬉しかった。
神代の昔、神と人はまだ遠くなかった。
神が人を娶り、神が人に嫁ぐことも珍しくはない時代。
朔夜と磯城も、そんな二人だった。
神々すら魅了した美貌の女神、朔夜。
八百万の神々がその手を求めて争う中、朔夜が心を寄せたのは、無力な人間であった。
その睦まじい姿に神々は和み、祝福を与えた。
ただひとりの神を除いては……
「朔夜様、これ磯城のおふくろさんに食わしてやってな」
村の猟師が猪の干し肉を差し出して言った。
「まぁ、エド様。ありがとうございます。でも私のことは朔夜で良いですわ」
「いやいや、とんでもねぇ!」
エドは顔の前で大きく手を振った。
「それは磯城の妻として、この村に馴染めてないようで寂しいですわ」
「そうかい?——朔夜……ちゃん、おふくろさんによろしくな」
そう言ったエドに朔夜は嬉しそうに笑って「はい」と言った。
「朔夜ねぇちゃんだ!!」
その声に次々と童が集まり付いて歩いた。
女衆が「ごめんね朔夜ちゃん。しつこかったら引っぱたいてやって」と笑ったり、採れた塩を差し入れたりした。
「今度、甘露煮をお持ちしますね」
朔夜は女衆にそう言って別れた。
元々はお義母さまの為の生命力を込めた甘露だった。
磯城の助言もあって配り始めると、評判の味となった。
干し肉と塩、拾い集めた木の実。
両腕に抱えて家に戻ると、床でお義母さまが身体を起こしていた。
「お義母さま、具合はよろしいのですか」
「今日は身体が軽い気がするよ」
少しだけ咳き込みながらそう言った。
「背中を拭きましょうね」
朔夜は陽の光で温めておいたぬるま湯を、外から運び入れた。
手ぬぐいを軽く搾ると、優しく背中に当てた。
「あぁ、気持ちいいね」
お義母さまの言葉に嬉しくなる。
「こんな貧しい家にこんなに素敵なお嫁さんが来てくれた。神様に感謝だね」
そう言ったあと「朔夜ちゃんも神様だったね」と言うものだから二人で笑ってしまった。
数多の神が朔夜の歓心を買おうと躍起になった。
美しくも愛らしい朔夜に、誰しもが魅了されていた。
きっと驕っていたのだと、過去を振り返ると朔夜自身が恥ずかしくなる。
そんな煩わしい日々に、朔夜は人里へ降りて水面を眺めていた。
凪の湖水は、朔夜の美しい顔を模して見詰め返していた。
不意に足元の石が崩れた。
波紋が水面の朔夜を醜く変えた。
瞼が下がり、鼻が崩れ輪郭が歪む。
思わず見入り、そして震えた。
そして気づいた。
容姿の美しさを誰よりも気にしていたのが、自分自身だったことを。
その時だった。
「どんな別嬪さんも、いつかはシワだらけだよ」
そう言って現れた男は隣に腰を下ろすと竿を出した。
「では醜くなれば見向きもされないのですか?」
「変わらないものもあると思うな」
男は竿を引くと、取られた餌を付け替えて再び振り入れた。
「それは何でしょうか?」
「魂の色は永久の真珠です」
その言葉に朔夜は震えた。
見える世界が鮮やかに色を付けた。
「朔夜と申します。そのお言葉、私の魂の色に刻みましょう」
「磯城だ。柄にもなく気取ってしまったよ」
その照れた笑顔が朔夜の心にいつまでも焼き付いて離れなかった。
あの日、磯城様以外に娶られる未来は想像すら出来ないと思った。
美しい月が星々を従え、夜の玉座に登った。
銀色の光が、寄り添うふたつの影を作る。
「月が綺麗だよ、朔夜」
「そうですね、磯城様」
見上げていた朔夜の肩が僅かに震えた。
磯城は自分の上掛けを、朔夜の肩にそっと掛けた。
そして温もりを分け与えるように、後ろから優しく抱いた。
銀色の光が比翼の影を落とした。
EPISODE:2 葛城朔夜
不自然な時期の転校生だった。
期末テストが終わった翌朝。
教室に入ると、空気がざわついていた。
情報通の藤沢が「転校生が来る。しかも美人!」と吹聴していた。
男子だけでなく、女子も落ち着かない。
新しい誰かが来るだけで、序列の天秤はすぐに傾く。
みんな、自分の居場所が変わらないかを探り合っていた。
「あー、転校生を紹介する」
担任の山田が登壇するなりそう言った。
開け放したままの扉に、みんなの視線が集まる。
白い上履きがドアレールを跨いだ瞬間、彼女以外の時間が止まった。
瞬きも呼吸も、鼓動すら止めてしまったように音が消えた。
歩く度に揺れなびく黒く長い髪。
しなやかに伸びた白い手足。
担任の隣に立つと、その整った顔立ちをゆっくりと左右に振ってクラスを一瞥した。
そしておもむろに唇の形を変えると「葛城朔夜です」と涼やかな声を響かせた。
刹那、カーテンが揺れ風が舞い込んだ。
「可愛い」
「俺、鈴木康太!」
「キャー」
時間が動き出すと、収拾のつかない騒ぎに包まれた。
自信過剰だろうか?
彼女が教室の後ろの席を指示されて俺の横を過ぎる時、俺に微笑みかけたように思えた。
それはまるで懐かしいものを見た時の、安堵にも似た微笑みだった。
騒がしい1日だった。
男子も女子も葛城朔夜を取り囲んで、どうにか親しくなろうと必死だった。
そんな中、葛城朔夜の視線を何度か感じた気がした。
そんなことを誰かに言えば、自惚れ屋だの勘違い野郎だのを言われかねないので黙って過ごしたが、妙にソワソワしてしまった。
そんなラブコメ漫画の主人公にはなれなかった放課後、俺はひとり通学路を外れて歩いていた。
ひとりには理由がある。
ぼっちとかハブられとかではない。
先週、16歳の誕生日を迎えた俺はバイクの免許を取った。
もちろん学校には内緒だ。
そして更に秘密のガレージにバイクを隠してあった。
ここは昨年亡くなった祖父の家で、今は空き家になっていた。
月イチで清掃や草取りをする約束で、ガレージを借してもらっていた。
入居者募集中の家屋の周りは、特に念入りにと言われている。
俺は周囲を見回して誰も居ない事を確認すると、そっとシャッターを上げた。
勢いよく上げると音が響いてしまう。
細心の注意でゆっくりと静かに上げた。
そこにはスティード400が俺を待っていた。
生前の祖父の愛馬だ。
これは中学からのバイト代で相続した叔父から購入した。
その後の入学祝いで、払った金額と同じ額が入った封筒を叔父に渡された。
サムアップして帰る叔父の背中がカッコよく見えた。
不意に俺の影が伸びるガレージに、もうひとつ影が加わった。
驚いて振り向くと葛城朔夜が俺を睨みつけていた。
こちらに歩いてくる。
にじり寄るようにゆっくりと。
俺はなにかしたのだろうか?
心当たりを探ろうと思案した刹那だった。
手にしていた鞄をその場に落とした。
彼女は身を低くして猫のようにしなやかに、そして一瞬で距離を詰めた。
そして俺の肩を左手で乱暴に掴むとガレージの床に引き倒して、右の手のひらに息を吹きかけた。
彼女の手のひらから白い紙吹雪のようなものが宙を舞った。
そして鋭い刃に変わり音もなく、空気だけが裂けた。
「痛っ、何すん」
何すんだよと言う前に、ガレージの奥で獣の咆哮に似た断末魔が上がった。
そして何かが倒れる鈍い音。
光の届く境界に黒い影が見えた。
異形。
飛び出した幾つもの眼球。
ぬめりを帯びた爬虫類のような皮膚に血管が浮き出たような斑。
歪な腕とも脚ともつかない四肢。
見たこともない禍々しい形のものが赤黒い液体を垂れ流して横たわっていた。
「な、なんだこれ。葛城朔夜、お前と関係があるのか!?」
上擦った声で、情けないことに礼を言う前に彼女に詰問していた。
「私に?いいえ、私たちに……よ」
彼女は冷たい光を宿した瞳でそう言った。
EPISODE:3 永久の朝
「神が人に嫁ぐなど愚かな話じゃないか」
黒い霧が蛇のように鎌首をもたげ朔夜に言った。
「夜刀様、恋とは愚かなことも是とするものなのかもしれませんわ」
朔夜はそうあしらうように言うと背を向けた。
「そう邪険にするな、朔夜」
夜刀の霧がするりと朔夜の身体を抜け、まとわりつくように引き止めた。
「これはどのようなおつもりでしょうか?」
朔夜の嫌悪と怒気を忍ばせた声に夜刀は「ククク」と喉を鳴らすように嗤った。
「なぁに、平たく言えば俺の女になれということだ」
「品の無い物言いをなさるのですね、神ともあろうものが」
朔夜の言葉に霧が身体をじわじわと締め付けた。
「あの、なんと言ったか……そうだ磯城だ」
夜刀の言葉に朔夜の髪が逆立った。
「何をするつもり」
朔夜の瞳に強い光が宿った。
明確な敵意だ。
「つもりも何も、もうコロシタ」
唐突な言葉に理解が一瞬遅れた。
「殺した」
脳の中枢に意味が染み渡ると、そのまま頭の後ろが痺れるような感覚に襲われた。
刹那——朔夜の身体から光が放たれ、黒い霧は文字通り霧散した。
身を翻し夜刀に向かって地面を蹴ろうとした時、夜刀は無造作に何かを放り投げた。
——磯城だった。
鼻と口から流れた血は乾き、開いた瞳孔に光は無かった。
触れた朔夜の指先に伝わる温もりは、既に失われていた。
「磯城様!磯城様!磯城、磯城!!」
抱きかかえ名を呼んだ。
それは絶叫だった。
息が詰まり、目が覚めた。
もう何回……いや何万回、永久に見た夢。
あの日護れなかった磯城を護る。
その為に戦ってきた。
深くついたため息の向こう。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込む。
学校まで、あと三時間。
朔夜は静かに髪をまとめた。
もう一度、あの夢を、終わらせるために。
「死なせはしないわ」
誓うように呟いてベッドを出た。
EPISODE:4タンデム
令和の時代に見掛けないもののひとつはこれだと思う。
俺は愛馬に跨りながらチョークを引いた。
キーを捻るとエンジンが唸りを上げる。
祖父さんのメンテもそうだけどホンダのエンジンは凄いな。
右手をタンクに愛撫するように置いた。
そしてキャブレターのご機嫌を伺いながらゆっくりとチョークを戻していく。
インジェクションには無い味わいだ。
排気音とエンジンの振動が安定したら出発だ。
俺はアクセルを捻り爺さんの家のガレージに向かってスティードを走らせ……ようとした。
朔夜が立っていた。
スティードの行く先を塞ぐように。
何故かメットを持って。
「えっ!?えっ!?えっ!?」
昨日のことを鮮烈に思い出した。
そんな俺の戸惑いなどお構い無しに、朔夜はスティードの後ろに腰を下ろした。
「遅刻するわよ、出して」
メット越し、くぐもった声が聞こえた。
それでもまごまごしているとタンデムシートから背中を強く押された。
「痛い痛い!」
俺は背骨を押された痛みに耐えかねてスロットルを開いた。
小鳥が飛び立つ中切り裂いた風は、頬に心地よい冷たさだった。
マズいと思った時にはすでに赤色灯が回っていた。
制服姿でタンデムだ。
まあ、止められるよな。
バイクを路肩に停めた俺に朔夜が「どうしたの?」と聞いてきた。
「多分2ケツで切符を切られる」
多分、朔夜を責めるような口調だったと思う。
きっかけはどうあれ運転したのは俺なのに。
「だって免許持ってるんでしょ?」
「持ってるけど、バイクは1年目は二人乗り禁止なんだよ」
俺が力なく言うと「ごめんなさい、私のせい」と消え入るように言った。
そして「私に任せて」とヘルメットを脱いだ。
「おっ、おい」
朔夜はひらりとバイクから降りると、俺の静止も聞かずにパトカーへ歩いて行った。
再び昨日の光景が浮かんだ。
まさか警官に何かするんじゃ——
俺も慌てて後を追った。
運転席と助手席のドアが開いて制服姿の警官が降りてきた。
朔夜は運転席側の警官に近づくと、にこやかに言った。
「こんにちは。ううん……おはようございます、かしら?」
「キミは後で事情を聞くから、運転していた彼と話させてくれるかな?」
警官はそう言って俺に向かって歩いて——来なかった。
「お巡りさん、今日は帰りましょう」
朔夜が穏やかに微笑んでそう言うと、警官は踵を返して運転席に戻って行った。
もう一人の警官が呆気に取られていると、朔夜は再び口を開いた。
「あなたも帰りましょうか」
その声に、警官は無言で助手席へと乗り込んだ。
パトカーの赤色灯がゆっくりと遠ざかっていく。
「良かったわ。見逃してくれたのね」
朔夜は安堵したように微笑んだ。
ウソだ。
表情も、言葉も、みんなウソだ。
なんなんだ、この女は。
怖い。ヤバい。絶対にダメだ。
逃げなきゃ、と思うのに。
身体は錆びついた鉄のように動かない。首さえ回らなかった。
そんな俺の横で、朔夜が「さて、と」と小さく呟いた。
そして俺にメットを放ると「お爺様のガレージで」
そう言い残して走り出し、ガードレールを軽々と飛び越えて歩道に消えていった。
EPISODE:5 畢生の一幕
鍬の一撃が脳天を割った。
「キシャァァァァァーッ」と断末魔の咆哮と紫の体液を撒き散らして化け物が倒れた。
ピクピクと足元で痙攣するそれに、カイは一瞥もくれずに再び鍬を振り回した。
影が随分と長くなった。
気が付くと周囲はオレンジ色に染まり、1日が終わろうとしていた。
耕した土を握るとカイは満足そうに頷いて鍬を肩に担いだ。
天朝様からの発布で、耕した土地を百姓でも持てるようになった。
必死に開墾した土地。
ここで収穫した物は、もう誰にも奪われない。
見回すカイの胸には希望しか無かった。
……今、この瞬間までは。
何匹いるんだ?
1匹は運良く倒せた。
この見た事もない獣たち。
いや、どう見ても異形。
化け物たちだ。
幾つもの大きな眼がイボのように付いていた。
そのどれもが焦点が合っていないように不自然に蠢いている。
赤黒い皮膚に浮き上がって血管が脈打ち、何本もの細い腕が背中から突き出るようにあった。
そして異様に太い脚。
これが厄介だった。
強烈な蹴りと跳躍、そして人の脚では逃げられない脚力。
生き抜くためには戦うしかなかった。
「2匹目!」
払った鍬が化け物の頭部を薙いだ。
刹那、鍬が柄から折れた。
万事休す。
それでも迫る1匹に折れた柄を投げつけ、目のひとつを貫いた。
だがそれでも化け物の突進は終わらなかった。
終わりを覚悟した次の瞬間——
カイは強く、しかし柔らかく突き飛ばされた。
「えっ!?」
転がりながら見た光景は、太刀の一閃に両断される化け物の群れ。
そしてその中心に立っていたのは少女だった。
白い巫女のような装束が太刀を振るう度に揺れる。
蒼白い炎を纏った刀身が揺らいだ。
カイは初めて化け物が下がる様子を見た。
断末魔を上げる様子にも怯まず襲いかかってきた化け物たちが、じりじりと下がって距離を取っていた。
「ひふみよ」
右手の太刀をだらりと下げ、左腕を真横に上げた少女が数を数える。
澄んだよく通る涼やかな声だ。
「いむなや」
天に向けた手のひらに焔火が見えた。
「ここのたり」
少女はすぅっと息を吸った。
「布留部由良由良と布留部」
焔火が幾条もの火線となって化け物たちを襲い貫き、灰に変えた。
赤く照らされた少女の顔は美しく儚げに見えた。
どこか疲れたような、どこか寂しげな。
「怪我は?」
そう言って少女が差し出す手を、カイは掴んで立ち上がった。
瞬間、少女は何故か嬉しそうな顔を見せた。
「ありがとう、命の恩人だ」
カイはそう言って、でも自分と変わらないくらいの年齢の少女に守られたという気恥しい表情で頭をかいた。
「俺はカイだ。この林の向こうに住んでる百姓だ」
「朔夜よ。あなたを守れて良かった」
朔夜——
少女はそう名乗って夕闇に去って行った。
EPISODE:6 万劫の呪い
「磯城様、磯城様!」
命の温もりの失われた磯城の身体が朽ちるように溶け始めた。
泣すがる朔夜の腕の中、肉が溶け、臓物が朽ち、骨が粉のように崩れた。
呆然とする朔夜の頭上で夜刀の声が響いた。
「その男に輪廻の呪詛をかけた」
クククと喉を鳴らす音がした。
「怖い顔をするな。なぁに、ちょっとした余興だ」
夜刀は睨みつける朔夜に、悪びれる風もなく言った。
「俺の使い魔達からその男を護り切れば朔夜、オマエの勝ちだ」
「魂を、円環する魂で余興などと……」
怒りに震える朔夜の声などまるで無視するように夜刀は続けた。
「16の歳から寿命が尽きるまで護り通せ。それが出来れば、次の輪廻まで天上で睦めばいい。出来なければその魂は俺が食らう」
夜刀の纏う黒い霧が嬉しそうに揺れた。
「万劫の間だ。これを繰り返し護り通せば、オマエを諦めてやる。好きな場所で暮らすがいい」
霧の触手が朔夜の頬を撫で、腰に触れた。
肌が粟立つ不快。
「名乗るまでは許そう。ただしこの因縁を話せば、その時も魂を食らう。さあ行け、探せ。もう転生したぞ」
そう告げて夜刀は霧散した。
朔夜と悪意に満ちた笑い声だけをその場に残して。
黄金を敷き詰めたような稲穂が揺れる。
夕陽がそれを更に輝かせ、豊かな実りを祝福した。
集落では子供たちが走り回っていた
その身体に不釣り合いな大声で笑いながら。
棒切れを片手に持った童が尻餅をついた。
前を見ずに駆けて女性の脚にぶつかってしまった。
この辺りでは見ない身なりの女性だった。
痛みよりも驚きと戸惑いが大きくて、つい感情が込み上げてきた。
童が込み上げた感情を暴発させる寸前だった。
(見つけた)
女性は童を優しく抱き上げると「大丈夫?」とあやし始めた。
「ごめんなさい!」
母親らしい女が駆け寄って頭を下げると、童は一瞬名残惜しげに女性を見て「おかぁ」と女の方へ手を伸ばした。
母親に抱かれて遠ざかる童の姿を、しばらく見送り佇む女性の姿があった。
「磯城様……」
女性の呟きを聞く者はいなかった。
うわ言が呻くように老人の唇からこぼれた。
娘が口元に耳を近付けたが、聞き取ることは出来なかった。
老女が手を取り、祈るように頬に当てた。
温もりを失ってゆく指先に、瞳から熱い雫が伝ってゆく。
すすり泣くような嗚咽が病室に沁みていった。
老人の身体から、いくつもの蒼白い光球が立ち上っていた。
誰の目にも触れることの無い光芒は、やがて若い男の姿となった。
男はベッドで眠る抜け殻を一瞥すると、老女と娘の肩を慈しむように抱いた。
そして、窓の外で待つ女に視線を向けた。
男は小さく頷くと、窓を抜けて女の差し出した手を取った。
「朔夜」
朔夜は男の言葉に微笑むと「おかえりなさい、磯城様」と言って、とめどなく溢れる涙を拭うこともしなかった。
磯城は朔夜の肩を強く抱くと、振り返ることなく天へ昇った。
それは朔夜への思い遣りだった。
此岸への想いは此岸に置いてきた。
磯城はいつものようにそうすると、寄り添う朔夜の手を繋いだ。
EPISODE:7 残滓
俺はガレージの前で思案していた。
また居たら……?
シャッターに手を掛けては離すを幾度か繰り返していると「何してるの?」と背中から声を掛けられて「ひっ」と声が漏れた。
もう声で分かる。
朔夜だ。
「いないわよ」
朔夜はそう言ってシャッターを一気にあげた。
ガラガラと、金属が巻き上がる大きな音が響いた。
俺はガレージの中よりも、近所が気になってキョロキョロと見回した。
「何?だからいないわよ」
「そうじゃなくて、ご近所迷惑!」
この時間は朝ドラを楽しみにしているお年寄りも多いのだ。
騒音が原因で学校に通報でもされたら、色々と終わってしまう。
「ああ」
涼やかな朔夜の目が大きく開かれた。
「ごめんなさい」
そう言って、朔夜はふっと笑った。
バイクをしまった俺はシャッターを、ゆっくりと下ろした。
『こうやるんだ』と言わんばかりに振り向くと「まだ時間があるから、今後について話しましょう」と全く無関心に言われた。
少しモヤっとしたが確かに昨日のアレは——
「おい、アレが今後もあるのか!?」
俺は思わず大声を出してしまった。
咲夜はワザとらしく周囲をキョロキョロして見せると、人差し指を立てて「シー」と唇に当てた……俺の。
朔夜の少し冷たくて柔らかい指が唇に触れた。
俺の唇よりも柔らかいんじゃないかと的外れな事を考えて、少しポーっとした。
「ねぇ、近所迷惑だから中に入って話しましょう」
朔夜はそう耳元で囁くと、玄関ドアに鍵を差し込んだ。
俺は昨日のアレくらい目の前の光景が理解出来なかった。
この家は亡くなった祖父の家だ。
今は空き家で、俺の叔父さんが管理してて、俺が草むしりしてて、だからええと……
「なんでお前が鍵を持ってるんだよ!」
結局また大きな声を出してしまった。
久しぶりに入る祖父の家は懐かしい匂いが……全くしなかった。
とても甘い香り。
ああ、女の子の部屋ってこんななんだな。
無意識に深く息を吸っていたことに気付いて、誤魔化すように辺りを見回した。
褪せていた壁紙も貼り替えられ、残っていたはずの家具も無くなっていた。
「朔夜、家族は?」
玄関には他に靴も無く、生活感も感じられない室内湧いた疑問だった。
リビングにはテレビすら無い。
「……居ないわ」
それ以上の追及を許さない口調だった。
俺は質問を変えた。
最初の質問だ。
「なんで鍵を持ってるんだ?」
「借りたの」
『当たり前でしょ』と言わんばかりの表情。
「駅前の不動産屋さんで紹介されたのよ」
そう言えば『貸家』の看板が数日前から消えていた気がする。
「そうか。そうだな」
俺は自分を納得させるように頷いた。
「そこ、座ってて。お茶を淹れるわ」
朔夜はそう言うと、唯一の家具のようなテーブルを示した。
(え、お茶?)
そう思いながら、敷かれた淡い水色のクッションに胡座をかいた。
(ここだけ女の子っぽい)
俺は何気なくポンポンとクッションを叩いていた。
湯呑みが置かれ、急須からお茶が注がれた。
湯気と共に緑茶の馥郁たる香りが立ち上がり、鼻腔を満たした。
「俺、急須って初めて見たよ」
そう言う俺に「どうぞ」と朔夜は差し出した。
朔夜が俺の前に座った。
テーブル越しに見る朔夜の姿は美しく、美しく……
頭が痛い。
酷い頭痛に襲われた。
内から外に向けて何かが割ろうとするように。
まるでそう、羽化する雛が卵を割るような感覚だった。
うずくまる俺の意識の遠くで朔夜の声が聞こえた。
俺の名前を呼んでいる。
……俺の名だろうか。
絶叫するような声だ。
耳の奥に、いや——
記憶の残滓というのだろうか。
緑の香りを運ぶ風が髪をなびかせた。
川面に波が立つ。
(今日はもう十分か)
俺は竿を引き上げると、ずっしりと重たい魚篭の感触に頷いた。
(さぁ帰ろう。朔夜が待っている)
そう思い空を見上げると、陽は天頂から幾分傾いていた。
(母さんの昼飯には間に合わなかったな)
俺は頭を搔くと、それでも大漁の高揚感に大股で歩き出した。
集落の入口に朔夜を見つけた。
「朔夜、今日はこんなに魚が穫れたよ」
俺は手を振り、大きな声で朔夜を呼んだ。
「まぁ、磯城様。病床のお義母さまの滋養にも良いでしょうね」
駆け寄った朔夜は、腰の魚篭を見て嬉しそうに言った。
そんな朔夜は編み籠に沢山のきのこや木の実を入れて抱えていた。
「朔夜も随分頑張ったね」
俺がそう言うと「きのこは木の実と交換で頂いたんですよ」と笑った。
俺は朔夜の笑顔が大好きだった。
涼やかな声も美しい所作も全て愛していたが、この無防備な笑顔が何よりも愛おしかった。
「うぅぅ」
自分の呻き声に目が覚めたが、瞼が重たい。
頭の痛みはもう無かったが、少し気だるい。
そしてなにか夢を見た気がした。
懐かしくて優しい夢だった気がした。
このまま目を開けずにもう一度眠れば、続きが見られるのだろうか。
そなことを考えているうちに、身体が徐々に覚醒してきた。
ようやくぼんやりと視界が開けてきた。
そこには不安で泣き出しそうな顔をした朔夜が、俺の顔を覗きこんでいた。
EPISODE:8 デジャ・ヴュ
「本当に大丈夫?」
「ああ、どのくらい寝てたんだ」
「1時間くらいね」
完全に遅刻だった。
「学校には電話しておいたわよ」
「は?えっ?誰が」
「私に決まってるじゃない」
『当然でしょ』と、いや『そんなことも分からないの?』という表情をされた。
「まぁいいや」
俺はもう朔夜の斜め上の対応は、諦めることにした。
「それで朔夜、昨日のアレは何だったんだ」
ようやく聞けた。
あの気味の悪いバケモノ。
闇の中から湧き出て来たような異形。
あれが『俺たち』に関係があるだなんて、俺はまだ信じられなかった。
「ああ、妖魔ね」
『ああ、犬ね』の言い方だ。
「あのね、朔夜さん」
俺は丁寧にお話した。
「私の知る世界ではそんなにメジャーな生物じゃないのですよ、妖魔って」
「これからメジャーになるわよ」
俺の嫌味な物言いに眉ひとつ動かさずに、朔夜はそう答えた。
「妖魔は様々な姿で現れるわ。昨日のようなモノもあれば、更に醜悪なモノも……」
朔夜は更に続けた。
声が低くなる。
「でも闇から染み出た最も危険な奴は、最も無害な姿をしているわ」
そう言って朔夜はテーブルの上に白い紙束を置いた。
黒と朱の筆書きで紋様と読めない文字が書かれていた。
「梵字?」
俺がそう聞くと「神代文字。太古に失われた文字よ」と言った。
「え?」
見間違いかと思って目をこすった。
文字が光っている。
「言霊って聞いたことはある?」
「ああ、あるよ」
「言霊はこの神代文字——神々の文字にこそ宿るのよ」
そう言って一枚を俺に差し出した。
「護符よ。息を吹きかけて手から放ってみて。投げても、吹き飛ばしても良いわ」
言われるままに息を吹きかけて放ってみる。
俺の手から離れた護符は人の姿に変わった。
人と言っても人型の紙だ。
「上手よ」
朔夜は満足そうに頷いた。
「その時は決して焦らないで」
真剣な眼差しを俺にむけた。
「護符が発動すれば必ず見つける」
「だから——信じて」
「分かった」
気圧されるように俺は答えた。
「でも、朔夜。キミは何者なんだ」
俺の問いに瞳を伏せると、朔夜は悲しげに首を振った。
胸の奥がキュッと締まった気がした。
こんな表情をさせたいんじゃない。
何故だろう——
昨日会ったばかりの朔夜に、既視感のような感情の芽生えを感じた。
EPISODE:9 式神
朔夜が死んだ——
この事実に俺は身動きひとつ取れずにいた。
バイクに跨ったまま呆然と。
眼前には何かの芸術彫刻のような朔夜。
ああ、五月蝿い。
何かがゴチャゴチャ言っている。
朔夜、朔夜——
何だ、この引き裂かれた感覚は。
前は……俺……
頭が痛い。
割れそうだ。
もう喋るな。
ダ・マ・レ
耳をつんざく悲鳴と、頬を染めた生暖かく生臭い体液に我に返った。
目の前にはねじ切れた妖魔の残骸が転がっていた。
「朔夜!!」
バイクから飛び降りて駆け出した先には、槍に貫かれたメットと人型の紙切れがあった。
全身の力が抜けた。
膝から崩れ落ちた。
「朔夜ハ死ンダ……紙切れ1枚破って何を喜んでいたのかしらね」
振り向くとバイクを起こす朔夜が居た。
朔夜は妖魔の死体に侮蔑の視線を送ったあと、俺の方に顔を向けて「ねえ」と同意を促した。
俺は情けないくらいの笑顔で泣きながら「ああ」と言った。
意識の途切れた一瞬のうちに、朔夜が倒したのだろうか。
安堵した視線の先にあった妖魔は、筆舌に尽くし難い破滅的な損傷を受けていた。
表面を内側に捻りこみ、身体の内面を引き摺り出すように捻切られていた。
意識が途切れる前、何かの声を聞いた気がした。
あれは誰の声だったのだろう
いや、いいや。
今は朔夜の無事を喜ぼう。
……?
どうして俺はこんな感情を抱いているのだろう?
これは誰の気持ちだ?
胸がざわつく。
「痛っ」
朔夜が押すスティードのタイヤが肘に当たった。
「どうしたの?」
考え込んでいた俺に朔夜が声を掛けた。
「轢くなよ」そう言って少し笑ってから「行こうか、朔夜」と言った。
これは俺の気持ちで、俺の心だ。
朔夜の手を取って立ち上がると、俺はスティードのエンジンに火を入れた。
「ヘルメット、壊れちまったな」
「大丈夫。お巡りさんなら、またお願いするから」
「次はヘルメットの身代わりも飛ばしてくれ」
「手書きなのよ、護符って」
あからさまに嫌そうな顔を見せた。
「そこは面倒くさがる場面じゃないだろ」
振り向いて小突こうとした指先は虚空を突いた。
少しだけ気まずい空気が流れた。
打ち解けたと思ったのは、俺だけだったようだ。
肩を落として向き直った俺の腰に、朔夜の手が回された。
こういうので距離感がバグるんだよ......
俺はスタンドを蹴るとアクセルを開けた。
夜風はまだ少し肌寒かった。
EPISODE:10 月詠
こうして天上の暮らしを迎えるのは何度目か。
私は何度も、何度も、何千年も朔夜に護られ生きてきた。
ここでの暮らしも次の転生まで。
再び全てを忘れて生きるのか……
朔夜だけを世界に残して。
「糸が鳴っておりますぞ」
不意に言われて我に返った。
竿を立てると水面の魚を糸越しに感じた。
水中で縦横無尽に暴れる魚をいなして、その体力を奪う。
やがて竿を引く力が弱ると、岸に寄せて魚篭に入れた。
「ふふ、見事なものですね」
「考えごとしていて、教えて頂かなければ逃すところでした」
拍手をして賞賛をくれた方に私は「ありがとうございます」と頭を下げた。
「大漁ですわね。朔夜殿も喜ばれるでしょう」
礼を述べて頭を上げた私は、慌てて額を地面に擦り付けるように平伏した。
月詠様だった。
世界の半分、夜を支配する月詠様に無礼はなかっただろうか?
「畏れ多くもかしこみかしこみ申し上げます」
「良い良い、磯城よ。其方に会いに来たのだ」
私はその言葉に驚いてつい顔を上げてしまった。
月詠様は顔を上げた私の顎に手を添えた。
そして目の奥を覗き込むと「これは、幾重にも重ねられた呪詛よ」と言った。
「其方は夜刀の言葉の通り、幾星霜の魂の旅を繰り返すこととなるだろう」
私はその事実に改めて落胆した。
「なに、案ずるな。其方は月詠と会ったのだ」
私が月詠様の御言葉の意味が分からずに戸惑っていると「楔は打った。あとは其方の気概次第」と耳元で囁いた。
そして月詠様は、美しさの奥に微かな愉悦を滲ませて笑んだ。
そして「刻の満ち欠けは我が意のまま」と謎掛けのような御信託を残して去って行った。
EPISODE:11 友人
「おや、あなた......ううん、ごめんなさい。私の勘違いね」
朔夜に声を掛けた老婦人は頭を振ると、そう謝罪し去っていった。
「どうしたんだ?」
怪訝そうに尋ねる夫に「女学生の頃の友人に似ていたの」と答え「もうとっくに私と同じおばあさんよね」と笑った。
「ルリ子さん......」
幾星霜の戦いの中、初めて出来た友人の名。
朔夜の呟きは雑踏の中に紛れていった。
「朔夜さん、今月の少女の友は読みましたか?」
ルリ子が興奮気味に声を掛けてきた。
「ルリ子さん、ごきげんよう」
朔夜の挨拶にルリ子も慌てて「ごきげんよう」と返した。
そうしてまた「読みましたか?」と尋ねた。
「いえ、私は......」
興味無いと続けるはずの機先を制すしたルリ子が、鞄から雑誌を取り出した。
「昨晩全て読みましたから、朔夜さんどうぞ」
ルリ子はそう言って、朔夜に押し付けるように渡した。
『少女の友 新連載 嵐の小夜曲』
雑誌の表紙には大きくそう書かれていた。
「横山先生、尊いですわ」
ルリ子は著者の名を口にすると、うっとりと遠い目をした。
きっと昨晩読んだ内容を反芻しているのだろう。
「牛になるわよ」
朔夜の言葉に「モー、ひどいわ」と、冗談とも抗議ともつかない返事をした。
大正から昭和に移り四年が過ぎた。
大正浪漫の香りを未だ残したまま、人々は昭和という活気に満ちた時代を迎えていた。
「と・こ・ろ・で」
ルリ子は朔夜の前に回り込むと、後ろ歩きでニヤニヤと笑った。
「あの殿方に想いを掛けていらっしゃるの?」
思いもよらなかった言葉に朔夜の瞳孔が開いた。
「瞳の色が変わりましたわ」
ルリ子はからかうように言うと「朔夜さんならどんな殿方でも思いのままでしょう」と続けた。
(人と関わり過ぎたのかしら?)
(それともこの娘の勘が......瞳の色?)
そこで朔夜はルリ子の観察眼鋭さに気付いた。
「Curiosity killed the catですわ」
鋭い視線でルリ子を見た。
「好奇心が、は、猫を殺した?」
驚いた顔で朔夜を見た。
「but satisfaction brought him back」
「でも......うーん、わかんないですわ。でもbutから始まってるからきっと悪い意味ではないわね」
(この娘はやはり鋭いな)
朔夜は頬を緩ませて口の端を上げた。
EPISODE:12 好奇心と猫と
ある日の夕暮れ。
浅草の下宿を出た青年の後を追う。
白いシャツに袴姿。
カンカン帽が似合っていた。
下駄のカランコロンという音が耳に心地いい。
少し歩いて神谷バーの前で足を止めた。
所在無さげにしばらく立っていると、息を切らせた女性が駆け寄ってきた。
またある日の昼下がり、万世橋駅を降りて人混みに紛れてしまう。
それでもこの程度の位置であれば、朔夜には彼の場所は分かった。
改札を出て銅像を横目に路面電車のレールを横断する。
朔夜は距離をとって気取られないように歩いた。
(人混みで襲う事はもう無いと思うけど......)
万が一の時には届く間合いを保つ。
(人間の文明がここまで進めばさすがに)
「私を苦しめたいだけだ」
朔夜の独り言は、人の群れに沈んでいった。
生ぬるい風が吹いていた。
瓦斯灯に明かりが灯った。
上野の恩賜公園を、少しだけご機嫌に歩く青年。
ほろ酔いのようだ。
もうすぐ終わるだろう桜の下、朔夜はその様子を見詰めていた。
「もう告白しなさいよ」
突然声を掛けられた。
驚いて振り向くとルリ子が居た。
悪意に対しては結界も式神も巡らせていた。
想定外だ。
無邪気な彼女は索敵の対象に無かった。
「ルリ子さん、どうして?」
「今日はお花見で来ていたの。帰り支度をしていたら朔夜さんの健気な背中が見えたのよ」
「好奇心は猫を殺すって忠告したじゃない」
声を潜めた朔夜が叱るように言った。
「でも満足が蘇らせた——でしょ」
ルリ子は過日の朔夜の言葉を、得意気に翻訳して言ってみせた。
そして次の瞬間には、予想もしない行動に出た。
「ほら」
朔夜の背中を押した。
不意をつかれた朔夜がよろけて二、三歩。
青年の前に出てしまった。
「おや、どうしましたか?」
青年が驚きつつも心配気に声をかけた。
「あ、いえ......」
ルリ子の方に視線を向けると、桜の木の下で『頑張れ!』と言わんかのように拳を握っていた。
(どうしようか......)
数千年の妖魔との戦いで、こんな間の抜けた事は初めてだった。
思案する朔夜の頬を撫でる風が、湿度を帯びてきた。
——雨?
違う、湿度では無い。
これは粘膜のぬめりだ
「ごめんなさい」
そう言うが早いか、身をかがめた朔夜の肩が青年の腹部に入った。
そのまま身体を起こして担ぎ上げると、そのままルリ子の方へ走った。
間一髪。
さっきまで青年の居た場所には、複数の槍が突き刺さっていた。
「ルリ子さん、その人と一緒に逃げて!」
「走って!!」
戸惑うルリ子に朔夜が叫んだ。
その声に青年の手を引いてルリ子が走り出した。
「二人を護って」
朔夜は袂から護符を三枚取り出すと息を吹きかけた。
護符は人型に姿を変えて二人を追った。
さらにその後ろを蛇のような触手が四本。
這うように猛追した。
「お前たちの相手は私よ」
朔夜はそう言うと右手を胸元に掲げた。
「ひふみよいむなやここのたり布留部由良由良と布留部」
手のひらに点のような光球が現れて、祝詞と共に肥大してゆく。
朔夜は触手に向かって右手を払った。
光球は幾筋もの光にかわり、ことごとく全てを貫いた 。
絶叫が背中に聞こえた。
「本体のお出ましね」
振り向いた朔夜の眼前には、粘液に艷めく巨大で歪な球体があった。
無数の目が疱瘡のように覆っている醜悪な球体。
それらが一斉に朔夜に向いた。
朔夜の両手に太刀が顕現する。
それぞれの刀身に蒼白い焔が揺らいだ。
左腕を前に、右腕を斜め上段に構えた。
短い睨み合い。
最初に動いたのは——
「朔夜さぁーん!!」
ルリ子だった。
「嘘でしょ」
朔夜の口から短くこぼれた。
二本の触手が襲いかかった。
地面から跳ね上がった触手が、その鋭い先端をルリ子に突き立てる。
全く気づく様子もなく、ルリ子は球体に何かを投げた。
さらに別の触手がそれを弾いた。
弾かれたそれは破裂し何かを噴霧した。
苦悶するように球体が波打ち目が閉じられた。
朔夜の足が地面をするように動いた。
一瞬で間合いが縮んだ。
左腕の太刀を突き立て、その柄を右足で蹴り飛び上がった、
両手で太刀を持つと振りかぶり両断した。
球体は悪臭を放つ液体を撒き散らしながら、水袋が破裂するように絶命した。
その間際——触手が朔夜を襲ったが、返す刀で弾かれて崩れた。
(触手は生きてる!)
振り返りルリ子を見ると、二体の式神がルリ子を覆い触手の攻撃を弾くところだった。
弾かれた触手の一本が再度跳ねた。
「ひふみよいむなやここのたり布留部由良由良と布留部」
朔夜の祝詞より一瞬早く、触手が式神の防壁をかい潜った。
「ルリ子さん!!」
右手から放たれた幾つもの光の刃と朔夜の叫びが、春の夜を裂いた。
全てが触手を貫いたが、触手も既に突き刺さっていた。
「ルリ子さん!」
再び叫んで駆け寄ると、撒き散らされた汚水に足を取られて転んだルリ子が尻もちをついていた。
触手はその投げ出された両足の間に突き立てられ、更に汚水となってルリ子に降り掛かって消えた。
「くっさーい!!!!」
ルリ子の悲鳴と朔夜の笑い声が夜風に流れていった。
——翌朝、学校に朔夜の姿は無かった。
学友も教師も誰ひとり、朔夜の事を覚えている者もなかった。
「朔夜さーん!!」
突然大声で叫ぶ老婆の姿に、周囲が驚き振り返った。
「猫は二匹、元気ですよ」
ルリ子はあの夜から人生を共にした伴侶の隣で、そう呼び掛けた。
雑踏の中、二人の上を回る一体の式神。
ルリ子の声にそれを眺めて朔夜は笑った。
「Curiosity killed the cat. But satisfaction brought him back.」
小さくそう呟いて......
EPISODE:13 風を感じて
金曜の夕暮れ、ガレージからスティードを出した。
朔夜にバレないよう、エンジンは掛けていない。
細心の注意を払ってシャッターの開け閉めをした。
——ここまで押せばいいか。
100mは押したと思う。
スティードに跨るとチョークを引き、キーを回した。
キュルキュルと勢いよくセルが回り、エンジンに火が灯った。
まだ回転数が落ち着くまで時間がある。
俺はバラつく振動を腰に感じながら、なんとなくバイクにまつわる怪談なんて思い出したりしていた。
……あれはねぇ……
夏の終わり頃だったそうですよ。
昼間は蒸し暑かったんだけど、夜になると風がスーッと冷たくてね、
バイクで走ると、腕の産毛が逆立つような……そんな夜だったらしいんです。
その夜、肝試しにライダーがふたり、あの交差点へ行ったんですよ。
街灯がね……
オレンジ色に滲んでて、風に吹かれてカサカサ……電線が揺れるんです。
その風がねぇ、妙に冷たい。
まるで“何か”の指先で撫でられてるみたいで……ゾッとするんですよ。
でね、この交差点には噂があって、赤信号で空ぶかしなんかすると、後ろに“女”が乗ってくる……って。
ふたりは「そんな馬鹿な話あるかよ!」って、ヘラヘラしてるんですよ。
でもね、奥底では風の冷たさが気になっていた……そんな感じがしたらしいんです。
それで信号が赤になった。
「よし、行くぞ!」って、ふたりでアクセルを……ブンッ! と――
いや、本当は“両方”するはずだったんですよ。
でもねぇ……片方の彼だけ、夜風がスーッと首筋を撫でた瞬間に、
ゾワァッと背中に冷たいものを感じて……手が止まっちゃったんですって。
怖いなぁ、怖いなぁ……って、ふかせなかった。
照れくさくてね、「俺ビビってないよ」なんて顔しながら、
隣を見ると……
友だちは勢いよくふかしてるんだけど、その背中にね……
長い髪が夜風になびいてるんですよ……。
あれ? って思ってよく見るとね、
それ、友だちの髪じゃないんです。
背中に――
血の気のない白い手でしがみついてる、女の腕。
髪が風にスーッ、スーッと揺れて……顔が覗いたんですよ。
赤黒い顔でね、
ニタァァァ……って。
風に揺れながら、笑ってるんです。
青に変わった瞬間、友だちは気づかないまま走り出す。
風を切ってビューン! とね。
でも後ろの女も……
同じ風を受けて、ひらぁ……っと髪を揺らしながら、離れない。
そのまま……走り去ってしまったんですよ。
……いやぁ……ねぇ……
風ってのはねぇ……ときどき、“人じゃないもの”の匂いを運んでくるんですよ……。
そんなベタな怪談を思い出しているうちにアイドリングが落ち着いてきた。
ゆっくりとチョークを戻してメットを被った瞬間——
シートが沈んで、手が腰に回された。
俺は女のニタァという笑顔を思い浮かべて「ぎゃぁぁ」と叫んでスティードから飛び降りてしまった。
地面にへたり込んで見上げると、タンデムシートから朔夜が呆れた顔で見下ろしていた。
「どうしたの?」
「いや、別に」
「出掛けるんでしょ」
「うん、まぁ」
俺の歯切れの悪い返事にも、朔夜は全く降りる気配が無い。
「行くわよ」
「ソロキャンのつもりなんですけど」
「ギアは?見あたらないけど」
(うわぁ、ギアって言うタイプの人だ)
「キャンプグッズって言った方が良かった?」
「心まで読めるの!?」
俺は思わず両手で胸を押さえた。
「押さえるなら顔の方がいいわよ。表情に出てるから」
「朔夜さん、俺のライフはもうゼロです」
「そう。降参したなら行きましょうか」
朔夜はそう言ってスティードのシートをポンポンと叩いた。
「シーズンじゃないから民宿くらい取れるでしょ」
「!?」
「部屋はふたつよ」
俺は顔を押さえたが、その時ようやくメットを被っていることに気が付いた。
(やっぱり心、読めるんだろ)
「読めないわよ」
驚いて振り向いた俺に「年頃の男子の考えくらいわかるわよ」としれっと言った。
分かっているならヤメてくれと心底思った瞬間だった。
今から二時間後くらいの場所を目安に、民宿を予約した。
夕食は用意が間に合わないと言うので朝食だけお願いした。
「晩飯は現地で美味いものでも食べようか」
「それは楽しみね」
予定は変わったが俺の初ツーリングのスタートだった。
それにしても何かを忘れている気がしたが......
まあ良いかとスティードを走らせた。
夕陽を追い駆けてのツーリングは不思議な気分だった。
沈んだはずの夕陽が山を越える度に姿を現す。
やがて俺たちは夕陽を水平線まで追い詰めると、真っ赤に染まる世界を駆けた。
潮風が運ぶ波の音が、エンジン音の向こうに聴こえた。
そこで不意に、何の脈絡も無いが思い出した。
『俺はまた二人乗りをしている』と。
「大丈夫。上手くやるから」
インカムから声が聞こえた。
朔夜は絶対に心が読める。
俺はそう確信した。
EPISODE:14 キラーパスと決定力
「あらぁ、えらい別嬪さんだねぇ」
民宿のお婆さんが朔夜を見て褒めちぎっていた。
「最近の若い子はアレだって言うのに、お客さんは指先の所作まで.......」
アレが何だかよく分からないが、俺はとにかく部屋の鍵が欲しかった。
朔夜は俺の隣で上品に微笑んでいた。
お婆さんはひとしきり褒めて満足すると、ようやく鍵をふたつ渡してくれた。
「襖を開けちゃえばひとつの部屋だから」
お婆様は俺の耳元でそう囁いて、カウンターの奥へ消えた。
最後にサムアップをして。
「やっぱり魚かなぁ」
本当はソロキャンで肉を焼こうと思っていた。
それが今は朔夜とふたりで海辺の街を歩いている。
すれ違う人のほとんどが振り返った。
何だかよく分からない自信が湧いてきた。
(俺がリードしなくちゃ)
「朔夜は苦手はあるかい?」
「そうね。倒した後に汚水を撒き散らす妖魔がキライね」
「きっと言うと思ったよ」
「なんかムカつく」
俺たちはそんな風に話して笑って、美味しそうなお店を探して歩いた。
「美味しい!!」
朔夜が頬を押さえた。
どのお刺身を取ったのだろう?
俺は思い切って舟盛りを頼んだ。
括弧書きで十種盛りとあったので思いきってみた。
蕩けそうな朔夜の表情に、俺の財布の全渋沢がガッツポーズを取った。
俺も近かったイカをつまんだ。
ワサビを溶いた醤油に端の方を付けた。
透明な身が紫に染まる。
このワサビも溶いた瞬間に醤油の香りを孕み、鮮烈な刺激と爽やかさを鼻腔に運んだ。
滴る醤油を一旦白米で受け、イカを口に運ぶ。
イカの甘みと醤油の複雑な塩味、そしてワサビの辛味が鼻から抜けた。
「美味い」
思わず声が出てしまった。
ねっとりしながらもプツンと切れる歯触り......
「ねぇ」
「——ねぇ」
「——ねぇ、ちょっと」
朔夜の少し大きな声にビクッとなった。
「何?」
「何じゃなくて『思わず声が出てしまった』じゃないわよ。ぜ・ん・ぶ、声に出てるわよ」
「え、嘘」
顔が熱くなった。
「テレビの見すぎよ、恥ずかしい」
朔夜の呆れ果てた表情に俺は肩をすくませて俯いた。
食事と散策を終えて民宿に戻った。
フロントのお婆さんから再び鍵を受け取った。
お婆さんは鍵と共に、口の端を上げてアイコンタクトをくれた。
その意味は部屋に戻ってすぐに分かった。
襖は開かれて、布団がピッタリと並べられて敷かれていた。
「いやぁ、まいったねぇ」
ほぼ棒読みで朔夜を見た時には、既に布団は隣の部屋に運ばれていた。
勢いよく閉まる襖の音と俺だけが、部屋に取り残された。
「うん、知ってた」
俺は力なく独りごちた。
EPISODE:15 亡き悪童の為のパヴァーヌ
「そこを左に入って」
国道をそれて川を渡り——
朔夜のナビでたどり着いた場所は......
「何処?」
俺は民家が数軒あるだけの森に戸惑っていた。
朔夜は辺りをゆっくり見回すと懐かしそうな表情をした。
それは俺と初めて会った時のような。
バイクを降りた朔夜は、そんな民家の間を抜けて更に森の奥へと歩いて行った。
木漏れ日すらない小径。
真昼だというのに薄暗く、空気がひんやりしていた。
森特有の薫りが心地よかった。
やがて小さな石塚が見えた。
苔むした石塚がふたつ、佇むようにあった。
朔夜はふたつの石塚を慈しむように......いや、まるで旧友との再会に想い出を語るように撫でていた。
「足利...茶々丸?」
義満とか尊氏とかなら知ってるけど誰だろう。
「ねぇ、さ」
言いかけて言葉を飲み込んだ。
風の温度が変わった。
まるでこの森が追想するように。
大地が回想するように——
「茶々丸様」
「朔夜か、まだ居たのか」
「ここは一旦退いて逃げ延びるのです」
朔夜は茶々丸の前に立ち、そう言った。
「殿の御前で無礼だぞ、女」
「吉信、良い。朔夜は良いのだ」
刀の柄に手をかけた関戸吉信は、その言葉に膝を突き頭を垂れた。
「それよりも、朔夜。尋ね人には会えたのか」
「いいえ、茶々丸様」
「そうか。余も会いたかったのだが......残念だ」
茶々丸は本当に残念そうに言うと「朔夜、頼まれてはくれぬか?」と思い付いたように言葉を続けた。
さほど大きいとは言えない深根城は、その容量に見合わない程の人員を中に抱えていた。
加えて過日の大地震で損壊した箇所の普請もままならぬ状況。
そこに老若男女、千とも言える程の人間が士気も旺盛に「宗瑞許すまじ」と詰めていた。
茶々丸はこれを逃がせと頼んだ。
「余が命惜しさに肉の壁を使ったなど......茶々丸は簒奪者の汚名は甘んじても臆病者の謗りは受けぬ」
茶々丸は笑っていたが、その眼の奥には、『この城ではもう誰も救えない』という諦念があった。
同時に『誰も死なせたくない』という少年のような青い祈りが揺れていた。
(分からない)
正直に朔夜はそう思っていた。
数十年しか生きることの無い人間が、何故にどうして死に急ぐのか。
城門がゆっくりと開く。
群衆と言ってもいい一団の先頭に朔夜が居た。
朔夜は足利氏の旗印『二つ引両』を掲げて、馬上で鬨の声をあげた。
唸るような叫び声が空気を、大地を揺らした。
「宗瑞の手勢の篝火か」
遠く海岸線を、鬼火のように揺らぐ炎がまばらに見えた。
「出ますか、茶々丸殿」
関戸の言葉に茶々丸は首を振った。
「籠城で時間を稼ぐ。その間に朔夜が遠くまで連れて行くだろう」
「いやぁ天下の悪童、最後の大芝居ですな」
関戸はこれは愉快と大笑いをした。
「吉信、貴様には貧乏くじを引かせたな」
「何を言いますか。このような余興を良い席で見せて貰う対価、この命の他には無いでしょう」
関戸はそう言って、今度は笑わなかった。
ただ静かに筆を取った。
千の手勢を謀り率いる朔夜は、馬上で茶々丸との出会いを回想していた。
そうだ、こんな新月の夜だった......
足利家の長男として生まれた茶々丸は、早々に廃嫡され長い幽閉にあった。
家督は異母兄弟のものとなっていた。
新月のか細い光が、格子の隙間から地下牢を照らす。
(何故ここへ辿り着いた?)
朔夜が周囲を見回すと鋭い声が飛んだ。
「継母上の手の者か?」
少年は刀の柄に手をやるとそう言った。
「何故そう思うのですか?」
朔夜が静かにそう尋ねた。
「継母上は人ではない。其方も人外であろう」
少年は腰を落として一閃の隙をうかがっていた。
(ほう。疑心暗鬼からとはいえ鋭い)
「継母を人外と知って、何故囚われている?私のことは斬ろうというのに」
朔夜は冷笑を湛えた瞳で少年を見た。
少年は顔を赤くして朔夜を見返した。
羞恥ではない、その目には怒りがあった
そして刀を抜いて朔夜の足元に投げて見せた。
それは月明かりを映すことのない竹光だった。
朔夜はそれを拾い上げると「其方も奪われた者か」と呟いた。
「私は朔夜」
朔夜はそう言って竹光の柄刀身を両手で持つと、少年に渡した。
「俺の名は茶々丸。足利政知が長男、足利茶々丸だ」
「茶々丸、いつか奪われた誇りを取り戻す日が来ることを」
朔夜はそう言って地下牢を後にした。
EPISODE:16 亡き悪童の為のパヴァーヌⅡ
「また来たのか、朔夜」
言葉とは違って何処か嬉しそうに茶々丸は言った。
「今日が元服と聞いて祝詞をと思いました」
格子から差し込む満月がふたりを照らしていた。
「元服はしたが余には名乗る名が無い。茶々丸のままだ」
茶々丸はかび臭い地下牢の土間に胡座をかいた。
「では今日より朔夜は、茶々丸様と呼びましょう」
朔夜は恭しく頭を下げ改めて「茶々丸様」と言った。
「ふははははは!そう言えば呼び捨てだったなぁ」
茶々丸は大きな声で笑った。
「はい。男子が元服すれば、それは立派な殿方。呼び捨てとはいきませぬ」
「ならば幼名のまま元服して、余は天下の悪童となろうぞ」
「では茶々丸様。悪童の手始めは、いかがなさいますか?」
「決まっておろう」
茶々丸は格子から見える月に手を伸ばした。
そして握りつぶすように拳を作った。
「朔夜は人殺しは致しませぬよ」
「ああ、人外の継母と魂を喰われた弟を......いや、弟は俺が」
「では」
そう言うと朔夜は内側から閂を外した。
「その妖術は陰陽道なのか」
「茶々丸様が知るべきものではありませんわ」
「分かった。詮索はやめよう」
「ただひとつ——」
茶々丸は朔夜に向けて指をひとつ立てた。
「尋ね人には会えたか?」
朔夜は静かに首を振った。
その表情は月明かりの向こうにあった。
その悲哀の深さを読み取ることは出来なかった。
扉の軋む音が、地下の暗闇に染み渡るように消えていく。
「まずは武器の調達だ」
声を潜める茶々丸に、朔夜は小さく頷いた。
暗闇の廊下の先が仄明るく見えてきた。
この先には番兵が立っているはずだ。
「さて......」
思案に足を止めた茶々丸の横を朔夜が過ぎていく。
「待て、ここは慎重に」
慌てる茶々丸の声が朔夜に届いた時には、既に全てが遅かった。
「ご苦労さま。武器をくださる?」
朔夜が誰かと話をしている。
「何を馬鹿な」
聞こえる声に茶々丸は動揺を隠せなかった。
明かりの元に飛び出し、番兵に素手で襲いかかろうとした。
そこで見たものは、朔夜が槍と刀を受け取るところだった。
「ありがとう。では貴方は一番鶏一番鶏が鳴くまでそこでお休みなさい」
番兵は糸が切れた操り人形のように、その場に崩れ寝息を立て始めた。
「敵には回したくないものだな、朔夜」
あまりの光景に茶々丸は心からそう言った。
茶々丸は受け取った槍を頭上でくるくると回した。そこから連続の突きから薙ぎ払いと、短い演武を見せた。
「見事ですわ、茶々丸様」
そう言われ満更でもない表情で茶々丸は「行くぞ」と、十数年ぶりに月明かりの下に立った。
「頭上に仰ぎ見たのはいつ以来か......蒼月よ、貴様も息災だったか」と茶々丸は笑った。
「さて、朔夜よ。本丸へと向かうか」
茶々丸は槍の柄を地面に突き立てると、蒼月が照らす御所を睨みつけた。
堀越御所——
ここはかつて父が城館として建てたものだった。
今は奪われたものの象徴。
異変に気付いた兵達が、その城館から蜂の群れのように躍り出て来た。
「うははは、一気に囲まれたぞ」
窮地にもかかわらず茶々丸は楽しげだった。
朔夜と背中合わせで包囲の中心に居た。
「茶々丸様。皆、正気を失ってございます。継母上様の傀儡かと」
「それは『殺すな』という意味か」
茶々丸は眉をひそめた。
「悪童と悪鬼は異なるものですわ」
そう言って笑う朔夜に「天下の悪童の名、ここに広めようぞ」とニヤリと返して槍の鎬を引き抜き、捨てた。
——ドスっ。
その音を合図に茶々丸は駆けた。
館に、入口に向かっての最短。
刀身の無い槍先での連撃は、立ちはだかる兵の人中を確実に捉え数人を昏倒させた。
だがそれで十分。
兵達が次々と昏倒した兵につまづき将棋倒しを起こした。
そこを越えてなお襲いかかる傀儡に強烈な薙ぎが払われた。
「ふふ、悪童でも悪鬼でもない。鬼神ですわ」
朔夜は茶々丸の獅子奮迅の戦いぶりに笑みを浮かべた。
そして自らも刀を顕現させ、蒼白い炎を纏った刃を振るった。
刃が触れた兵たちは次々と崩れ昏倒していった。
兵の繰り出す槍の鎬を薄布一枚の見切りで躱した。
袈裟斬りにしようと振り下ろされた刀の峰に右足を乗せるとそのまま駆け上がり——跳んだ。
蒼月を背に背面での宙返り。
「翻筋斗とは!」
茶々丸の口から感嘆が上がった。
「まるで女神じゃ」
月の後光を背負って降臨する姿に、茶々丸は朔夜の真を見たような気がした。
「ひふみよいむなやここのたり布留部由良由良と布留部」
涼やかに澄んだ声が夜に沁みた。
次の瞬間、宙を舞う朔夜が両腕を広げた。
流星のような光が礫となって四方へ注いだ。
射抜かれた兵たちの崩れ倒れる音が幾重にも重なり、空気を震わす轟音となった。
「茶々丸様!」
降り立った朔夜の声に、一瞬見惚れていた茶々丸が我に返った。
そうして頷くと城館へと駆けて行った。
EPISODE:17 亡き悪童の為のパヴァーヌⅢ
城館の中は不気味な程に静まり返っていた。
自らの心臓の音すら響くような静寂。
茶々丸は槍を捨て脇差しを抜いた。
目指すは継母 円満院と弟 潤童子の居室。
長い廊下を草鞋のまま駆けた。
不意に障子を破り槍が突かれた。
気配は無かった。
穂先が左の脇腹を貫く寸前、茶々丸は左手で刀を引いた。
刀身が露わになり金属音が響く。
穂先をいなした刀身は、鎬を削り火花を散らした。
重心を崩された茶々丸は、攻撃を防いだものの大きく飛ばされ転がった。
素早く立て直したところに槍の連撃が繰り出された。
疾い。
そして確実に急所のみを狙ってきた。
強烈な突きが心臓目掛けて放たれた。
茶々丸は半歩だけ体を躱すと、槍を脇の下に挟み込んだ。
そのままの勢いで捻りこむと一気に叩き伏せた。
「腕を上げたな潤童子。だが殺気が強すぎた」
「一生地下牢に居れば良かったものを」
潤童子は顔を歪ませて唸るように言った。
「良かったな、貴様は"一生この城館だ"」
茶々丸の右手の脇差が、潤童子の脇腹から心臓を捉えた。
潤童子は大きく目を見開き、すぐにその瞳から光が消えていった。
最期——何かを言おうと口を開いたが、喉の奥からゴボゴボと血が溢れるだけだった。
茶々丸は潤童子の瞼をそっと閉じると、汚れた口許を自らの袂で拭った。
「何かが違えば......いや、詮無きことか」
茶々丸はそう独りごちると立ち上がった。
そして囲まれたことを悟った。
「人外か」
脇差しを構えた。
じりじりと迫る気配だけは感じる。
そしてその囲みは確実に狭まっていた。
「どこから湧いてくるのかしら」
次から次へと現れる骸の群れに、朔夜の呟きが漏れた。
茶々丸を追おうとしたところを完全に分断されてしまった。
朔夜を拒むと言うよりは、茶々丸だけを城館が招いているようだった。
数は膨大だったが個々は脆く、式神達の攻撃だけで大体が崩れていった。
屋敷の方から獣の咆哮が聞こえた。
「......犬神人」
朔夜は顎に手を当てそう独りごちた。
獣の臭い。
微かな風に乗り上手から漂って来た。
——天啓。
上手は囮だ。
茶々丸は下手に向かって脇差しを水平に薙いだ。
ギャンという短い悲鳴と血しぶき、そして落下音。
床に血溜まりが生まれ、その中心に獣が徐々に姿を表した。
「ヤマイヌか」
周囲に無数の小さな光の点が姿を見せた。
それは爛々とした目の輝き。
茶々丸が床を蹴った。
そのまま一気に間合いを詰めると数匹を斬り伏せた。
「キリが無い」
脇差しを持つ腕が重たい。
肩で息をしているのが自分でも分かった。
獲物が弱る気配を敏感に察したヤマイヌ達の唸りが次第に大きくなった。
茶々丸は脇差しを上段に構えた。
少しでも大きく見せようと思った。
ヤマイヌ達の動きが鈍くなった。
——仕掛けるか。
茶々丸の膝が沈んだ瞬間だった。
ヤマイヌの群れがざわめき、潮が引くように下がった。
澱んだ空気が更に澱みを増した。
「おやおや、騒がしいと思えば」
よく通る、だが冷やmた。
十二単を纏った女が、その奥からゆっくりと姿を現した。
「妾が五衣唐衣裳か」
「妾は元来公家の出。おかしなことなどなかろう」
茶々丸の挑発に動じる様子もなく、冷徹な視線を向けた。
「潤童子は死んだぞ」
茶々丸は円満院に向けて、一気に間合いを詰めた。
渾身の一撃を叩き込む。
円満院は怯む様子も狼狽する様子も無く、冷笑を湛えたまま避ける素振りも無かった。
「あの世で潤童子に詫びろ!」
振り抜いたはずの脇差しが、激しい衝撃とともに弾き飛ばされた。
茶々丸もそのまま床に転げた。
「潤童子や。其方、死んだらしいぞえ」
円満院は喉を鳴らして笑った。
「母上様、お戯れを」
そこには確かに死んだはずの潤童子が、槍を手に茶々丸を見下ろしていた。
EPISODE18 亡き悪童の為のパヴァーヌⅣ
「これは朔夜姫。随分久しゅうございます」
「不義理をしています。櫛名田比売」
朔夜は恭しく礼をした。
「素戔嗚尊は今居ないの。......だから、堅苦しいのは無しよ」
櫛名田比売はそう言うと柔らかく微笑んだ。
彼女は神に娶られた人間だった。
生贄として魔物に差し出された彼女を素戔嗚尊が助け、娶った。
「磯城様は見つけられた?」
だからこそのこの問いだった。
朔夜は首を振り「まだ」と少し不安気な表情を見せた。
「そう。それは心配でしょう」
櫛名田比売は朔夜を慮るように、憂いを帯びた声と表情で慰めた。
「でも貴女のことですから、今日はそのようなお話でみえた訳では無いのですよね」
朔夜は今、堀越御所で起きていることについて話をした。
「......犬神人」
全てを聞いた櫛名田比売は、失望にも似たため息混じりにその言葉を口にした。
「ええ、私も犬神人が関わっている。または黒幕だと思っています」
朔夜の言葉に櫛名田比売が反応した。
「黒幕だなんて......」
その先、声をひそめたのは肯定からだろう。
「貴女、本気で言ってるの?」
櫛名田比売は一旦席を外し、袱紗を手に戻った。
「犬神人の不始末は素戔嗚尊と私の不徳。貴女にそれを願うのは虫のいい話でしょうが——」
櫛名田比売は袱紗を開いて見せた。
そこには青く澄んだ石が幾つかあった。
「これは、青龍石」
朔夜が驚いて櫛名田比売を見ると、彼女は力強く頷いた。
青龍石は彼らの社でしか採れない破魔の石だった。
「犬神人は不浄を集め清めるのが責務の神官。それが不浄を使ってこのような所業を......」
櫛名田比売はやはり落胆の様子を隠せなかった。
「私に任せてください。全てを救うことは叶わないと思いますが、収めて参ります」
朔夜はそう言って青龍石を受け取った。
両手のひらの上で青く輝く半透明の石に、朔夜は命の波動のような響きを感じた。
一礼して背を向けた朔夜を櫛名田比売が呼び止めた。
「朔夜姫。茶々丸に執着しているようですが、磯城様と関係があるのですか?」
その問い掛けに朔夜は首を振った。
「磯城様の気配も魂の色も見えません。ただ——國々を巡ると、何故か幾度も彼の地へ導かれるのです」
「そうでしたか。神も人も、綯われた縄のように運命の螺旋にあるのかもしれませんね」
そう言うと、今度は櫛名田比売が深々と一礼をして朔夜を見送った。
数を頼りに襲いかかる亡者達の群れに、式神達も疲弊していた。
亡者達の群れは朽ちかけた身体をぎこちなく動かして迫ってくる。
骨だけの者、まだ皮膚や頭皮が残っている者、腐りかけた肉が汁を垂らしながらぶら下がっている者......
「犬神人はここに地獄を作るつもりか」
包囲の中心に現れた朔夜はそう吐き捨てるように言うと、青龍石のひとつを天に投げた。
石はそのまま自ら天に昇るように空高く上がると、次第に輝きが青白く棚引いた。
棚引く輝きは龍に姿を変え、夜空にその威容を見せた。
「まさに青龍の顕現ね」
真下で朔夜が眩しそうに見上げた。
青龍が咆哮を轟かすと、その音の衝撃で亡者達の多くが崩れ土に消えていった。
残った者も青龍から放たれた光が流星の様に降り注ぐと、浄化されるように光の中に溶けていった。
「ああ、憐れな魂が彷徨うことなく天に帰れますよう」
全ては犬神人が元凶。
亡者に罪は無かった。
「亡者とは命を失くした者ではない。魂を売り渡した者のことだ」
朔夜の呟きは怒気を孕んでいた。
EPISODE:19 亡き悪童の為のパヴァーヌⅤ
「いかがしましたか——兄上」
潤童子の槍の穂先がゆっくりと肩に差し込まれていく。
痛みに悶絶するどころか喉すらも自由にならず、声もあげられなかった。
その様子を楽しむように「流石は兄上。悲鳴すら上げぬとは豪気ですな」と潤童子は笑った。
「茶々丸は弟君の良い手本ですね。兄弟が睦まじいのは母としても喜ばしいですわ」
円満院の笑みは、まるで傷口に指を這わせるかのようにゆっくりと深まった。
——槍は鎬まで肉の中に埋まっていった。
声すら上げることの出来ない地獄。
叫ぶことが出来たなら幾分かの痛みは散らせただろうか。
死んだはずの潤童子の目を見てから、茶々丸は動けなくなっていた。
ブチブチと筋肉がゆっくりと裂かれている音と感覚、そして激痛。
やがて穂先が骨を砕いた。
ゴキンという音を、自分の身体から初めて聞いた。
叫んでも叫んでも声が出なかった。
脂汗なのか冷や汗なのか、分からない汗が滲み流れる。
肩は熱く痛むが、それ以外の場所は熱を失ったように寒く凍えそうだった。
それを見て円満院は、嘲笑とも思える笑みを浮かべて佇んでいた。
このまま潰えるか——。
茶々丸の中でそんな心が芽生え始めた刹那だった。
ギャンというヤマイヌの悲鳴を聞いた。
一匹、二匹......いや、悲鳴は連鎖し無数のうねりとなった 。
円満院の後ろ、ヤマイヌ達のいる辺が青く輝いていた。
この禍々しい空間の城内だったが、その場だけ清浄さを感じた 。
そして円満院が異変に気付き振り返った瞬間だった。
波動のような衝撃に、潤童子諸共激しく吹き飛ばされた。
「少し遅れましたか」
朔夜の声は、空間に一筋の水音を落としたように澄んでいた。
「これを見て少しと言うなら、少し遅れたな」
茶々丸はいつものように涼やかに現れた朔夜に、最大限の喜びを込めた皮肉を言った。
朔夜は茶々丸の肩を貫く槍を見詰めると「危ないところでしたわ、茶々丸様」と言い直した。
「そうだな、死んでいないから平気だ」
そう言うと茶々丸は、槍の柄を出来るだけ短く切り落とした。
そして何度か大きく呼吸をして整えると、一気に引き抜いた。
襟口を力の限り噛み締めたが、それでも苦悶の呻きは上がってしまった。
朔夜が茶々丸の肩に青龍石をかざし祈ると、石は暖かく輝き痛みを取り去った。
傷口や折れた骨まではそのままだったので、動かす度にそれは激痛となった。
「さて、茶々丸様。そのままご安静に」
朔夜はそう言うと茶々丸の一歩前に出た。
じっと夜の闇の向こうを見詰める。
ヒュン。
無数の風切りの音が一斉に鳴った。
赤黒い妖の矢が朔夜に襲いかかった。
朔夜は微動だに——眉のひとつも動かさずに居た。
矢は、朔夜の肌に触れる寸前で、まるで存在を否定されたかのように形を失った。
「ほう、犬神人の矢が当たらぬか」
十二単を纏った女——円満院だった。
「そう、やはり犬神人だったのね」
朔夜はそう言うと「違って欲しかったわ」と小さく呟いた。
「潤童子、参れ」
円満院の言葉と同時だった。
強烈な槍の一突きに加えて、潤童子の後ろ回し蹴りが放たれた。
どこから現れたのかすらも分からない連撃だった。
朔夜は初手の槍を左手の甲で外にいなすと、二撃目の蹴りは顕現させた太刀で切り落とした。
膝から下が転がり、膝から上は激しく血飛沫を撒き散らした。
膝下を失った潤童子はそのまま回転し、背中から床に落ちた。
「人の血は赤だと言うけれど——」
朔夜は頬に飛んだ血飛沫を右手拭うと一瞥した。
紫。
黒く沈着した紫だった。
「貴女の血もこんな色?」
朔夜は両の手に太刀を顕現させて円満院ににじり寄った。
刀身の炎が蒼く揺らめいた。
円満院の顔から初めて笑みが消えた。
「い、犬神人どもよ!妾を守れ」
後ずさりながら叫ぶが、何も誰も現れなかった。
「下級神官の捨て駒だなんて、憐れね」
朔夜の言葉に逆上した円満院が襲いかかった。
だがそれは、なんの鍛錬も積んでいない動き。
微塵の躊躇もなく朔夜の太刀がひとすじ、蒼い光を引いた。
次の瞬間、円満院の身体がようやくそれを理解したかのように崩れた。
理解できない状況に驚愕したような表情のまま、沈むように落ちた。
朔夜は最後の青龍石を放った。
部屋の天井付近から清浄な青い光が注いだ。
周囲が浄化されていくのが分かった。
円満院の身体が光に溶けていった。
「継母でも、母でさえあれば付け入られることも無かっただろうに.......」
朔夜はそんな手向けにもならない事を呟いた。
その時、朔夜の背後から影が落ちた。
振り向くと、刀を杖に立ち上がった潤童子が襲いかかる瞬間だった。
だがその最期の襲撃は届くことなく終わった。
「最後まで気を抜くんじゃねえ」
茶々丸の突きが潤童子の腹を貫いていた。
「あら、平気よ」
倒れた潤童子の胸に、朔夜の小太刀が深々と刺さっていた。
「おいおい、見せ場のひとつくらい寄越せよ」
茶々丸はそう言って笑うと、堀越公方の家督相続を宣言した。
「さぁ、貴方の見せ場よ。茶々丸」
朔夜は馬上から深根城を振り返って見た。
白煙をたなびかせ霞む深根城が遠くにあった。
EPISODE:20 亡き悪童の為のパヴァーヌⅥ
「朔夜様」
朔夜が率いた民草の中からひとり。
女が近づいてきた。
松明の炎に顔の陰影が揺れた。
知った顔だった。
茶々丸の妻、若菜だ。
若菜は思慮深い女性で、茶々丸と朔夜の芝居にも気付いているのだろうと朔夜は思った。
「彼らをどうまとめましょうか」
ああ、やはり分かっている。
もう自分たちがあの城に、城下に戻れない事を。
そしてこれは迎撃ではなく逃亡だということも。
朔夜は馬を降りると若菜の前に立った。
「まず、全員の髪を集めなさい。そしてそれを私に......」
言いかけて朔夜は大きく目を見開いた。
ダメだ、今泣いてはダメだ。
そうか、だから私は何度もここへ戻ってきたのか。
全てを——運命を理解した瞬間だった。
朔夜の様子を不安気に見る若菜の耳元に、朔夜は顔を寄せた。
「吾子?」
そう言って若菜の腹部にそっと手を置いた。
「はい」
小さく頷いた若菜を、朔夜は思わず抱きしめていた。
——磯城様、ようやくお会い出来ました。
心の中、魂が触れるようにそう呟いた。
半刻ほどして全員の髪が朔夜の元に集められた。
朔夜は馬上から、未だ士気旺盛な群衆に語りかけた。
「茶々丸様からの軍令を伝える。深根城から遠く離れ、そこで再起をはかる為の集落を作れ。老いた者は知恵を、若き者は力を、子供たちは笑顔を持ち寄り未来永劫、彼の地に栄よ」
意味を悟り泣き崩れる者。
理解出来ずに呆然とする者。
それぞれがそれぞれの受け止め方だったが、もう茶々丸は還らないことだけは皆が悟った。
「ここからは若菜が率いる。皆で羽を並べ励め!」
朔夜はそう言って若菜を馬上に引き上げた。
朔夜は馬を降り若菜を見上げた。
お互いが暫し見詰め合うと、若菜は覚悟を決めたように頷いた。
「私に続けー!」
若菜の号令に群衆の呼応が地鳴りのように響き、鳥たちが夜空に一斉に飛び立った。
それを合図に朔夜も深根城へと飛んだ。
「茶々丸様」
朔夜の姿に城詰めの者達が驚きの声をあげた。
「無事に逃げ果せたか」
茶々丸は嬉しそうに朔夜を見た。
「はい。それとひとつ」
朔夜はあえてこう続けた。
「茶々丸様は"父上様"になられましたわ」
目を丸くした茶々丸が朔夜の着物の両袖を、縋るように掴んで「真か!!」と叫んだ。
それを見た関戸が慌てて「めでたい話ですが、ご世継ぎの件が敵に漏れるといけません」と声を潜めて忠告した。
「諌言耳に痛いな」
茶々丸はそう言うと関戸に「最後まで気苦労をかけたな」と労った。
「さて。朔夜殿が戻られたとはいえ、百人力という話では無いのですな」
関戸はそう言うと朔夜に向き直って尋ねた。
「朔夜は人は斬らんからな」
茶々丸が横からそう言うと「はい」と朔夜が頷いた。
そうして懐から集めた髪を取り出すと、本丸の窓へと歩いた。
そこで両手のひらに乗せ、息を吹きかけ飛ばした。それらは伸び、膨らみながら次々と城下の人々に姿を変えていった。
「なんとこれは」
関戸が信じられない物と者を交互に見た。
そんな関戸に「大芝居には小道具が必要でしょ」と朔夜は笑いかけた。
宗瑞の攻勢は苛烈を極めた。
夜陰に乗じて寡兵で城を攻めた。
城の外の要所には包囲の部隊と遊撃隊。
「やはり戦上手」
関戸は「敵ながら」と舌を巻いた。
そして攻城前から周囲を煙で燻され、森への退路を絶たれていた事を知った。
「天晴、宗瑞だな」
茶々丸の言葉に「ですが殿も先手をを打たれてる」と関戸が楽しげに言った。
もう森も街道も使う者は居ない。
そこに兵を割くかぎりは搦手の力も強くはない。
『時間を稼ぐ』
これが茶々丸達の目的である以上、作戦上は勝利だった。
搦手の第一波、第二波を各個に退けた。
茶々丸の軍勢も僅か三百ながら巧妙に戦っていた。
明け方までに宗瑞の手勢は五百は失っていた。
それでも一ノ門すら破れていないことに宗瑞は業を煮やした。
何度目かの伝令の報告に宗瑞は、全軍の突撃を命じた。
本陣以外の全軍三千が、地鳴りを起こして突撃する。
それは近頃群発していた地震を想起させるものだった。
その地震で損傷していた壁の数ヶ所はこの地鳴りで崩れることとなった。
「戦上手は撤回だな。美しくない」
関戸は大軍に潰される自軍の兵の姿を見てそう言った。
「是非も無し」
茶々丸のその言葉は、戦いの終わりを告げるものだった。
茶々丸の自刃に降伏した軍勢は捕らえられ、全員が首をはねられた。
のみならず場内にいた民草の赤ん坊から老人、男女の別なく宗瑞は首をはねた。
処刑には数日を要した。
朔夜が作った髪の民草も役目を果たして、この戦は終わりを迎えた。
「茶々丸様、この大芝居は貴方の勝ちね」
誰が聞くともない朔夜の呟きに夏草がそっと揺れていた。
大きくざわめいた木々の揺れが静まった。
森は再び沈黙し、墓標を撫でるその指が別れを告げるように離れた。
「朔夜、そいつ継母と弟を殺して城主になった悪党ってネットに出てるね」
俺はスマホを片手に軽く言った。
「その後、北条早雲に......うわ、さっきの城跡ってヤバくない?千人の首が晒されたって」
想像して身震いする俺に「歴史なんてね、伝える人間次第でどうとでも解釈されるのよ」と朔夜が言った。
その表情はとても悲しげに見えた。
「でもね、宗瑞がそう思い込むことに意義があったのよ」
朔夜はそう言うと元来た道を駆けて行った。
後を追おうとした俺の視界の端に映った墓標。
そこに屈託の無い笑顔で、朔夜を見送る男の姿を見た気がした。
EPISODE:21 意識
城址跡から戻った朔夜は無口だった。
だけど機嫌は良さそうに見えた。
海辺のレストランでパエリアを食べた時も、グラスの中に夕陽が沈むの見た時も——
朔夜が急に大人になったように感じた。
元々大人びてはいたけれど、妙な破天荒さが消えた様な雰囲気だった。
そして時々俺を見る目。
朔夜は俺に誰かを重ねる......
いや、違う。
それは俺の中に誰かを見るような視線だった。
俺も自身に変化が起きている気がしていた。
初めて意識を失った日、誰かの記憶を見た様な感覚があった。
そして朔夜が死んだと思った日、誰かの意識を感じた。
朔夜は誰を見ているのだろう。
それが俺の傍に居る理由なのだろうか。
聞けば終わる気がして口には出せない。
朔夜に惹かれる気持ちは誰のものだろう。
これは俺の、俺だけのものと信じたい。
顔を上げた一瞬、目が合った。
朔夜の瞳の奥で、何かが揺らいだように見えた。
「次も護れるといいな、朔夜」
その言葉に振り向いた朔夜の顔には、明らかな敵意と憎悪があった。
夜刀はそんな激しい感情を一笑に付した。
「なぁ、もう十分ではないか?お前が何度護ろうと救おうとも、此岸の磯城はお前のことなど分かりはしない」
「構わないわ」
「お前以外の女を愛し......転生する度にどれだけ抱いたのだろうな」
下卑た笑いが響いた。
「この下衆が」
「なぁに。お前の為に言っているのだよ、朔夜」
夜刀の黒い霧が、這うようにまとわりついた。
生ぬるく不快な霧。
「鳥には鳥の、魚には魚の生きる場所があるだろう。神と人なら尚更だ」
「ならば......」
朔夜の声が冷気を帯びた。
「蛇蝎磨羯の類が妾に口をきくことも触れることも弁えよ!」
朔夜の射るような視線に夜刀は牙を剥いた。
裂けたように上下の顎を開く。
鋭い牙からは、ぬらぬらと雫が垂れ落ちていた。
夜刀は蛇の本能そのままに醜く威嚇すると、闇に溶けるように消えた。
「貴方が誰を愛し添い遂げようとも、幾星霜の輪廻を繰り返そうとも......魂の色は永遠の真珠」
朔夜は胸に手を当てそう呟くと「磯城様」と呼び掛けた。
誰に届くでもないその声は、とても柔らかで暖かだった。
「何、人の顔をじっと見て」
我に返ったように朔夜が言った。
「あ、いや......」
俺は少し深く息を吸った。
「俺はそう、朔夜を見てる。朔夜はいったい誰を見てるんだ?」
朔夜は少し驚いた顔で、そして俺から目を逸らした。
そして逸らした方向に指を差した。
振り向くと星が海に降りて来たような、無数の漁火が灯っていた。
EPISODE:22 隠れ里
背中に朔夜の体温を感じながらがら走る帰り道。
インカム越しに、朔夜が茶々丸の後日談を話し始めた。
「後日談も何も、領民と一緒に死んだんだろ」
俺がそう言うと、脇腹に拳がじんわりめり込んで来た。
「あ、なんかすっごく興味出てきたなぁ。聞きたいなぁ」
朔夜から聞いた話だ。
宗瑞の手を逃れた領民達は森の中に集落を築いた。
領民達は、集落の中で新たに役割を担い暮らした。
そんな中、若菜が産んだ茶々丸の御落胤が梵丸だった。
若菜は正室だったが、茶々丸の血筋を名乗れないことから御落胤と呼ばれる事がよくあった。
もっともそれは茶々丸を偲んでのことだった。
若菜と乳母は梵丸を平民として育てたかったが、領民は強く反対した。
領民は若菜と梵丸を心の拠り所にすべく、特別な存在としていた。
物心がつく頃には木刀を与えられた。
剣術の指南を受け、見られるくらいには振れるようになった。
元服して尊義を名乗る頃には、髷を結っていないこと以外は立派な武士だった。
深根城落城以来16年余——
人目を避けた隠れ里だったこの集落が、遂に見つかる日が来た。
応仁の乱から始まった長い戦乱の世。
国土の大半が戦場となり、逃げのびた三人の落ち武者が集落を襲った。
戦える者など居ない集落で、尊義が剣を手にした。
剣とは言ってもそれは木刀だった。
落ち武者のひとりが刀を振り下ろした。
尊義の木刀がそれを正面から受けた。
刃が木刀に食い込み止まった。
刃こぼれをしていた上に、数人を斬ったあとだったのだろう。
尊義は意図せず領民に救われていた。
尊義はそのまま木刀を引き寄せ、落ち武者のみぞおちに前蹴りを入れた。
苦しさに前屈みになった所で脇差を奪い抜き、首筋に刃を滑らせた。
血飛沫が心臓の動きに合わせて飛び散った。
落ち武者が首筋を押さえたのは本能だったのだろう。
だがそれは無駄なことだった。
そのまま数歩歩くと、どうと倒れて土埃が上がった。
集落の中心で叫び声や悲鳴が上がった。
他の落ち武者を探していた尊義は、声の方へと駆けた。
中心地では若菜が刀を突きつけられていた。
女たちはその様子に悲鳴をあげ、男たちは落ち武者に罵声を浴びせた。
そんな中、若菜だけは毅然としていた。
「皆の者、落ち着きなさい」
若菜の通る声が響いた。
「あなた、私を殺せば村人全員から嬲り殺されるわよ」
若菜がそう落ち武者を諭すと「どうせ俺は死ぬ!殺される!ならその前に酒とメシと女を持ってこい」と半ば支離滅裂に叫んだ。
逆にそれゆえに危険だと、村人達が自主的に酒と食べ物を持ち寄って来た。
そして女——
尊義の乳母が落ち武者の元へ向かった。
乳母の見た目は尊義が物心ついた頃から変わらず、落ち武者も若い娘が来たと気を緩ませた。
そして刃を若菜の首筋に当てたまま、左手で盃を出して酌を促した。
ガシャリ。
重たい金属音が響いた。
刀が転がっていた。
柄をしっかり握った右手がついたまま。
落ち武者の悲鳴と鮮血を背に乳母がそこを離れると、村人が一斉に襲いかかった。
「師匠!」
尊義は乳母の元に駆け寄った。
「疾すぎて手元が見えません」
「いいから若菜様の所へ行きなさい」
尊義は叱られて渋々走って行った。
その後、落ち武者狩りの功績で尊義は取り立てられて武家の養子となった。
「じゃぁ茶々丸の足利の姓は絶えたけど、血筋は残ったってこと?」
「まぁね。でも、諸説ありってやつね」
「ふーん。でもさなんかその乳母って朔夜っぽくね?」
そう言った瞬間、脇腹に拳が一気にねじ込まれた。
EPISODE:23 帰り道
街並みが見慣れた景色に変わった。
日曜の夕暮れ。
団欒の和やかさと、明日から始まる一週間への諦念が混ざり合う不思議な時間。
一言で言えば名残惜しさ——
俺の名残惜しさは、やはり背中に感じるこの温もりなんだろうな。
意図せず始まった二人旅が、もうすぐ終わる。
せめて同じ寂しさを、彼女も感じてくれていたら嬉しいと思う。
不意に朔夜が話し始めた。
インカム越し、電気信号が再構築した声。
これは朔夜の声であって声ではない。
それでも俺はこれを朔夜として認識する。
電話は完全に合成した音声だ。
本人に限りなく寄せた声を、コンピューターが作って聞かせる。
俺たちはそれを本人の声として認識する。
俺は俺なのだろうか——?
最近、妙に気になる。
祖父の......朔夜の家で意識を失ってから。
朔夜が死んだと思った時も。
あの時見た夢は誰の夢だった?
俺の雑多な記憶を再構築しただけだろうか?
電気信号の声のように俺の記憶として認識しただけだろうか?
飛べない人間が空を飛ぶ夢を見る。
夢の中で自分が飛べない事に気付いた時、人は墜ちる。
あの夢を見た時、自分の記憶ではないと気付いたらどうなったのだろう?
意識を失くした時、もしも保っていられたら何を見たのだろう?
大きく息を吐いた。
どうにも最近考えすぎる。
考えて分かるならいいけど、これは科学も常識も超越している。
無駄だ。
俺は何者なのか?
そんな哲学はきっと必要無い。
「ねえ」
「おーい」
「聞いてるぅ」
「もしもーし」
最後のもしもーしで背骨を押された。
「痛たたたっ、痛い」
もう何度目だ、これ?
「他に方法ないの?」
俺がそう聞くと「声を掛けても応答が無いのに、他に方法はあるの?」と逆に聞かれた。
残念だがもっともだ。
潔く「無い」と答えると「よろしい」と褒められた。
もちろん嬉しくはなかった。
「それで、話は?」
俺が改めて聞くと「もう遅いかも」そう言って朔夜は俺の肩に手を掛けた。
そしてタンデムステップに立つと、そのままバク宙で飛び降りた。
背中にあった温もりが、スっと消えていった。
ミラー越しに綺麗な回転が見えた。
インカムに雑音混じりで「止まらないで逃げて」と声が入った。
妖魔——
それ以外は考えられない。
戻ったところで俺は無力どころか足を引っ張るだけだろう。
「ひふみ」ザッ
「...いむ」ザーザザッ
そこで祝詞はノイズの向こうに消えた。
スティードを右に傾けて大きく転回した。
小回りが効かないスティードだと、映画のようにカッコよくはいかなかった。
スロットルを開けて一気に加速する。
エンジンとマフラーの咆哮が日曜の夕暮れにこだました。
ハイビームの向こうに薄らと影が見える。
随分離れてしまった。
「弱くても俺は男で、強くても朔夜は女の子だよな」
俺はそう小さく呟いて身体を前傾させて加速を促して突っ込んだ。
朔夜の息遣いがインカムに入りだした。
朔夜が強く息を吐く度に、マイクが剣戟の音を拾った。
ヘッドライトが巨大な四つ足の妖魔を捉えた。
その先で朔夜が振るう太刀の、蒼い閃光が見えた。
——囲まれている。
俺はタンクに付けていたバッグを片手に持つと、スティードの勢いを借りて一匹に叩き付けた。
グシャリと潰れる感触と同時に、バッグが持ち手から千切れ飛んだ。
一撃で得物を失った俺は、そのまま朔夜に向かってスティードを走らせた。
片膝を着いて下から斬りあげる朔夜の太刀筋が見えた。
割れるようにふたつに別れた妖魔の間を俺は抜けた。
朔夜の顔が上がった。
メットのシールド越しに目が合った。
俺は大きく左手を伸ばして右に逸れる。
朔夜も大きく左手を伸ばして俺の手を掴むと、地面を蹴った。
一気に身体ごと腕を引いて朔夜をスティードに寄せた。
俺の全体重は右斜め前に全力で寄せた。
腕が肩から抜けそうな衝撃があった。
首から肩にかけてブチブチと嫌な音が聞こえた。
不意に全てが軽くなった。
代わりにスティードが僅かに沈んだ。
朔夜がステップの上に立った。
「逃げてって言ったじゃない!」
インカムから朔夜の怒声が響いた。
「逃げたさ、二百メートルも。情けない」
俺は言い返すと「どいつから行く?」と聞いた。
「あとで説教。一番右から反時計回りで」
「りょーかい」
俺は、俺が空けた包囲の穴の右端にスティードを寄せた。
朔夜の太刀の光がミラー越しに長くなったのがわかった。
太刀を真横に持ち替えて刃を進行方向に向けた。
両断された妖魔達が地面に崩れて泡のように消えていった。
そして最後の一匹。
ひときわデカイのが威嚇するように後ろ足で立った。
正直、怖さよりキモさが勝っていた。
「突っ込んで」
朔夜から無慈悲な指示に鳥肌を立てながらアクセルを全開にした。
速度が乗った所で「フルブレーキ!!」と叫ぶ。
俺はそのまま前後同時にブレーキを掛けると、朔夜が跳んだ。
太刀を振りかぶって、落下の勢いに任せて振り下ろす。
そのまま脳天から真っ直ぐ下まで切り裂いて落ちて行った。
俺は再びスティードを走らせると、朔夜の落下地点へ向かった。
妖魔の股の付け根付近を通った時、スティードが大きく沈んだ。
「おかえり」
「ただいま」
俺たちはそのまま駆け抜けた。
振り返ることはしなかった。
EPISODE:24 数学・世界史・生物・体育・古文
......される。
......魔に襲わ——
俺の意識はそこで潰えた。
遠くで俺を呼んだのは誰だったのだろう。
でも、もう——
めちゃくちゃ怒られた。
四時間目に体育でマラソン。
昼メシ食べて、五時間目に古文。
これは睡魔に襲われる黄金パターンだ。
「罠だ!陰謀だ!イルミナティだ!」と言ったが、古文の先生の鬼の形相は変わることは無かった。
一時間のペナルティ。
俺の席は教卓の正面になった。
「では、朔夜さん。この源氏物語の作者は誰でしたか?」
指名を受けた朔夜は「タカちゃん」と言ったかと思うと「浮舟の頃のタカちゃんの筆はとってもノってたの」と言い出した。
「朔夜さん、源氏物語の作者ですよ」
先生の顔が引きつっていた。
朔夜はキョトンとした顔で「藤原香子」と言い直した。
隣の席の川村が小声で「紫式部、紫式部」と教えるが丸聞こえだ。
それでも朔夜は全くお構い無しに話を続けた。
「為時様のお嬢様で、タカちゃんは娘にも読みが同じ貴子って名付けたのよね」
なんだか懐かしそうに言う朔夜が怖い。
「旦那さんが随分年上だったんですよ。先立たれた後に未亡人って言われるのがストレスで、それを発散させる為に書いたのが源氏物語だったの。で、それじゃぁ世間体が良くないということで寂しさを紛らわすって事にしたのよね」
今度は先生がキョトンとしていた。
「あ、先生知ってます?ファンレターとかで批評的なことを書かれたら『己が手にて書かばよからまし』って破り捨ててたのよ」
可笑しそうに朔夜は言った。
「あのね、朔夜さん。源氏物語の作者は紫式部なんですよ」
先生が困ったように言った。
「あら、先生。タカちゃんは本名で出したかったの。でも当時の慣習がそれを許さなかったのよね」
朔夜はまるで紫式部の——藤原香子の慣習の不条理への不満を代弁するような口ぶりで言った。
——放課後、俺と朔夜は職員室に呼ばれた。
俺は当然しこたま叱られた。
朔夜は不思議な受け答えについて少し注意を受けていたが、話の大半は『見てきたかのような』考察力や知識の深さをベタ褒めされていた。
ようやく解放された時、俺の手には浮舟の原文があった。
来週の授業までに現代語訳を書けという宿題だった。
瀕死の形相の俺を見た朔夜はやたら嬉しそうだった。
「タカちゃんの最高の筆致を楽しんでね」
そう言って無情にも職員室を出ていった。
(ってか、タカちゃんタカちゃんって友達かよ!)と思ってから「まさか、ね」と俺は独りごちた。
引きつった笑いが口許から零れた。
EPISODE:25 シンクロ
波の音と潮の香りが心地よい。
そう思うのはやはり海が生命の故郷でゆりかごだったからなのだろうか。
折りたたみの小さな椅子に腰をかけて竿を出す。
通る船が小さな漁船から貨物船、タンカーに変わっていく。
海鳥の群れが遠くの海面に群がり降りていた。
きっと魚群が居るのだろうな。
こっちに来てくれればいいのに。
そんな詮無いことをぼんやり考えていた。
海の良いところはそういう所だ。
この広大で果てしない景色を前に小難しいことは必要ない。
俺たちの社会は無駄を省いてきたんじゃなくて、余裕を無くしてきただけなんだろうな。
ヘミングウェイは老人と海をどんな思いで書いたのだろう。
俺の獲物はサメの興味を引くかな。
ふふ。
なんだか可笑しくて笑いが零れた。
もしも誰かに見られたら、ひとりで笑ってるアブナイ奴だ。
幸いにも俺一人。
そう、クーラーボックスには一匹の魚もいない。
正真正銘のぼっちだ。
故に恥ずかしいことなど何も無かった。
俺の釣りのこだわりはエサ釣りということ。
ルアーやフライはやらない。
だって、ソイツにとっての最後の食いものが疑似餌じゃ切ないじゃないか。
俺の来世が魚だったら、せめてエサに釣られたいと思う。
竿先が小さく揺れた。
まだだ、まだつついているだけ。
引いた!
竿先がしなった。
今だ!!
竿を合わせてリールを巻いた。
ん?
軽いぞ——
......まただ。エサだけ取られた。
やっぱりルアーにしてやろうか、この食い逃げ野郎!
今日は随分と魚に遊ばれている。
喰いつきへの合わせがどうにも芳しくない。
だがこのまま飼育係じゃ終われない。
俺は決意も新たに糸を投げ入れた。
その日の昼頃——
俺は朔夜の家のチャイムを鳴らした。
「あら、今開けるわ」
カメラで俺の姿を確認した朔夜の声が、スピーカーから聞こえた。
ドアが開いた。
緩やかな部屋着の朔夜が出てきた。
サテン地のアンバー系のパンツにエクリュのUネックシャツ。
その上に薄手のカーディガンを羽織っていた。
スゥエットじゃないところが、俺の中でポイント高い。
いや——
スゥエットはスゥエットで、シチュエーションによっては悪くない。
ああ、着ぐるみ系も可愛いかも......コホン。
まぁいずれにせよ中学のジャージを部屋着にしている俺とは大違いだ。
俺は全ての妄想と邪念を振り払って玄関に入った。
肩にかけていたクーラーボックスを床に置いて「今日はこんなに魚が獲れたよ」と言った。
おすそ分けがよほど嬉しかったようだ。
朔夜は俺と魚を交互に見て泣いてしまった。
泣くほど魚が好きなら、また今度も持ってこようと思った。
EPISODE:26 蒼茫
カーテンの隙間から射し込む月明かり。
細く照らされた肌は透き通る程に蒼白く美しい。
月詠はその切れ長の目を朔夜に向けた。
「朔夜、このままだと万劫ではなく永遠よ」
「月詠様、御心を騒がせてしまって申し訳ございません」
「いいのよ。ただ、そろそろ反撃の一手は必要ね」
月詠は朔夜の肩に手を掛けると、耳元に口を寄せた。
「夜刀を倒さなければ終わらないのよ、貴女の悪夢は」
その囁きは朔夜の心に重たく沈んだ。
「夜刀は姿を見せないのです」
「そうね。だから夜刀は引きずり出せばいいわ」
月詠はさらりと言って「あの楔が今の巡りで効けばいいけど」と続けた。
「磯城様が現世に解放されれば、夜刀も現れる」
「ええ。磯城の魂を消すために」
「何故そこまで執着するの」
誰に問うでもなく、朔夜の言葉は疲れを孕んで消えた。
「歪んだ愛情ね」
「こんなものが愛と呼べるのでしょうか」
朔夜は朔夜が磯城に向ける愛情と、磯城から寄せられる愛情——
それらと夜刀の感情が同列に語られるのは、どうしても理解し難かった。
「妬みも憎しみも、愛の形のひとつなのよ。どんなに歪んでいても歪でも、歪曲された感情も相手を強く想う気持ちなの」
月詠はそう言うと、包むように後ろから抱いた。
「私は磯城様を失っても、夜刀を愛することなんてありませんわ」
「でも、憎むでしょ」
「......」
朔夜は沈黙のまま、回された月詠の手を強く握った。
「磯城を殺すだけに飽き足らずこれだけの呪詛。貴女に——朔夜に知って欲しかったのね。夜刀という存在を。たとえそれが憎悪でも自分に気持ちを向けて欲しかった」
「ひどい」
朔夜の声は短く震えていた。
「そうね。夜刀は報いを受けるべき。彼を理解できてもできなくても、決して許されるべきではないわ」
月詠はそう言って朔夜から離れると「難しいかもしれないけれど......」とテーブルに指を這わせた。
そのまま対面に座って「もう夜刀のことは微塵も考えない。貴女の心の全てを磯城に向けるのよ」と言った。
「無関心——ということでしょうか」
「それが一番ね。そして菑の虫を排する時に心は動かないでしょう」
「月詠様......」
朔夜は月詠へ視線を向けた。
そこにはカーテンの隙間から広がった蒼茫だけが静寂に満ちていた。
明星がひときわ冴え冴えと輝いていた。
夜はもうすぐ明ける。
EPISODE:27 砂の城
一瞬の逡巡。
ああ、夜刀はきっとこれも見越していたのね。
磯城が宿った子供が溺れていた。
穏やかな海。
それでも周期が重なれば高波を呼ぶ。
それは、鎌首をもたげた蛇が襲いかかる様に似ていた。
一気に頭から呑まれた子供は、必死にもがいて陸へと駆ける。
だがそれも徒労。
波は足元の砂ごと、水底の深淵へと獲物を引きずり込む。
このまま命を落とせば天命。
またすぐに磯城様と暮らせる。
夜刀達に殺されたわけではない。
事故死は寿命だ。
ほら——
あの子はもう、自分の向きさえ分からない。
目を閉じて波のうねりに翻弄されるだけ。
もうすぐ堪えた口を開くよ。
息を全て吐き出して、空っぽの肺に水を入れるんだ。
それで終わる。
それだけでこの子は磯城様になる。
今までも居たじゃないか。
コロリで死んだあの子も、いくさ犠牲になったあの赤ん坊も、みんな天寿だったじゃないか。
すぐに磯城様に会えて嬉しかったじゃないか。
そうだ、磯城様だって再会を喜んでくれた。
天上で睦み暮らした日々はあれほど幸せだった。
悲鳴を上げた女が浜辺を海へと駆けた。
母親か——しかしもう遅い。
男たちが飛び込む。
見失っていて見当違いだ。
ああ、磯城様。
——でも、そう。
この子は私が救える子だ。
過去の子供たちとは違う。
ふふ......
「いつか褒めてくださいまし、磯城様」
朔夜はそう独りごちると跳んだ。
水中で藻屑のように翻弄される子供のもとへ。
口の端から大量の泡が上がるのが見えた。
朔夜は子供を背後から抱き抱えると、一気に海面に飛び出た。
息を吐き切った。
直後、しゃくるように空気を吸い込む。
僅かに波の飛沫が気管支に入りむせこんだ。
浜辺から喝采が上がった。
母親らしき女は、腰が抜けたように座り込んで動かなかった。
足が届く所で背中を押した。
子供は一度だけ振り向くと、母親元へ駆け出した。
浜辺では子供を取り囲むように輪が出来ていた。
「またいつか——磯城様」
朔夜は気付かれないよう、そっと立ち去った。
「ガキの頃に死にかけたんだ」
昼休み、中庭で寝転んでいてふと思い出した。
木漏れ日に揺れて射し込む陽光が、水底から見た空に似ていたから。
今際の際の記憶がフラッシュバックのよに見えた。
七歳だった。
初めての夏休み、俺は家族で海水浴に来ていた。
俺は弟と、波打ち際ギリギリを攻める遊びを始めた。
たまに大きな波が脛の辺りまで濡らした。
引き波が足裏の砂を持って行く感覚が、なんとも言えない心地良さで楽しかった。
そのうち波の攻撃を砂の城で防ぐ遊びに変わった。
何度やっても城の一角が崩されてしまう。
波ごときに負けていては兄の沽券に関わると、思案を巡らした。
弟の期待を背負った俺は、一計を案じた。
「兄ちゃんがお堀りを作るから、悟は中で壁を作れ」
そう言って俺は城を出た。
海を背に深くお堀を掘り巡らせた。
一心不乱に砂を掘っていると、周囲が暗くなった。
次の瞬間。
頭から首、全身に叩き付ける衝撃があった。
焦って走り出すけど、足元の砂が消えていく。
エスカレーターを逆走するみたいに前に進まない。
そのうちに全身が浮いた。
気が付けば身体がグルグルと回っていた。
恐怖で止まっていた呼吸も、肺の限界で口の端から息が漏れだした。
そこで身体が沈んでゆくのが分かった。
海面が遠ざかり、波の揺れに合わせて光も揺らいでいた。
不意に沈降が止まった。
背中から抱きしめられて一気に顔が海面に出た。
そのタイミングで大きく息を吸い込んだ。
その拍子に気管に飛沫が入り込んで激しくむせた。
足の着くところまで来て背中を押された。
振り向くと、そこには若い女の人が居た。
海水と涙と鼻水まみれでハッキリとは見えなかった。
「あれは人魚だね」
そう言った俺の頭を朔夜が軽く叩いた。
EPISODE:28 星夜くん
もう死にたい......
何なのあの女。
どうして星夜くんと一緒に居るの?
どうしてバイクの後ろに乗ってるの?
星夜くんに初めて出会ったのは、四月の改札口だった。
第一志望の女子校に合格した私は、桜の香りの中を意気揚々と歩いていた。
通学カバンに舞い落ちた花弁。
春の使者の思わぬ訪れにますます心が踊った。
私は立ち止まって、その薄桃色の花びらを生徒手帳に挟んだ。
今日はきっといい日。
そう思っていた私は次の瞬間には青ざめていた。
——定期券が無い。
親にはモバイルを勧められていたけど、どうしても定期券を持ちたかった。
子供の頃、駅員さんに定期見せて改札を通るお姉さん達に憧れがあった。
えんじ色の定期入れは、定期券を購入してすぐに買いに行った。
家を出る時にはたしかに持っていた。
私は改札口でウロウロして戸惑うことしか出来なかった。
朝の駅は誰もが急いでいる。
他人の人生に関わる時間なんて、誰も持ち合わせてはいない。
そう、星夜くん以外は——
「どうしたの?」
不意に声を掛けられた私は、思わずビクッと身体を強ばらせた。
「あ、いえ。大丈夫、なんでもないです」
助けて欲しい本音と、嬉しかった本心とは真逆の言葉が口を突いてしまった。
「探し物だよね、手伝うよ」
星夜くんはそう言いながら、行き交う人達の足元に屈んでくれた。
「何を無くしたの?」
「て、定期券です。えんじ色の革の定期入れに入ってます」
私は声を上ずらせながら答えた。
「大変だ、早く見つけないとね」
そう言って星夜くんは自販機の下まで覗き込んで探してくれていた。
「いつもはどこにしまっているの?」
星夜くんのその質問に私はハッとなった。
そうだ、生徒手帳!
私は星夜くんに「来る途中で桜の花びらを生徒手帳に挟んだんです」と言った。
星夜くんは「待ってて」と言うと走って行ってしまった。
私は一緒に行くべきか言葉通り待つべきか分からなくて、再びウロウロして戸惑ってしまった。
五分くらいして星夜くんは戻ってきた。
右手にえんじ色の定期入れを大きく振りながら「あったよー」と走って来てくれた。
無関心の人の群れの中、ただ一人だけ私を見て私の為だけに息を弾ませてくれる人。
あの瞬間——
全ての時間が止まって、私の恋が始まった音を聴いたの。
トクントクン。
星夜くんを迎える鐘の音。
熱く火照る頬はきっと桜色。
どうしよう、どうしよう。
きっとこのままじゃ......
恥ずかしくて下を向いたまま受け取った定期券。
「ありがとう」だけはちゃんと言えたけど、目を見ることが出来なかった。
やっと顔を上げた時、星夜くんの背中がラッシュの人混みに消えて行ってしまった。
「星夜くん......」
名前を聞けなかった私は、彼に星夜くんと名前を付けた。
お気に入りのラノベの主人公だ。
とても優しくて素敵な男の子。
星夜くんの名前がぴったりだと思った。
それから駅で見掛ける度にドキドキが止まらなくて目で追い掛けた。
目だけじゃ物足りなくて、家までこっそり追い掛けた。
今日こそ言おう、ちゃんとお礼を。
今日こそ好きって伝えよう。
そうして桜が雪のように季節に溶けていって、やがて紫陽花が咲いて、街路樹は新緑を深緑に変えていった。
言えないまま、ある日——
星夜くんを駅で見掛けることが無くなった。
EPISODE:29 No.1ホストの俺が田舎に転生して純愛ライフを楽しむ
「星夜さん、今月もトップですね」
「ああ、ライバル心剥き出しの女達がこぞってドンペリ入れるからな」
「いやぁ、これでマジ枕やってないんですか?」
俺は馬鹿なことを聞いてくる聖を軽く蹴った。
「ばーか、ウチで枕やったらクビだぞ」
「そっすね」
「聖、お前やってないだろうな」
「俺はやってないっすけどね......」
聖は辺りを回すと声のトーンを落として「王牙さん、枕やってる上に売り掛け払えない客を風呂に斡旋してるって」
「マジか」
王牙は万年No2のホストだった。
最近は派閥作って嫌がらせしてくる男だった。
「星夜さん、王牙さんはなにか企んでる気がしますよ」
そう言うと聖は「アフター行ってきます」と言って店を出て行った
俺も片付けは新人とお茶引き達に任せると、聖に遅れて十分程遅れて外に出た。
エレベーターの回数表示が一階を示した。
扉が開いて外に出ようとしたとき、女が乗ってきた。
軽くぶつかり「すみません」と言ったと思う。
でもよく分からなかった。
俺はそのままエレベーターの中に下半身を残したまま倒れていた。
脇腹から大量に血が流れだしていた。
——刺された!
そう理解した時には既に女は人混みに消えていった。
ただその寸前、女が誰かに嬉しそうに報告しているのが見えた。
なんとなくそれは王牙に見えた。
俺は女神にことの顛末の全てを話した。
女神は微笑むと俺に手をかざした。
「あなたにはシンセリティの加護を与えるわ」
「シンセリティ?」
「そうよ。誠実であれば貴方のステータスはチートになるの。ただ、不実になれば最弱よ。ミジンコにも負けるわ」
女神はそう言って俺を雲の上から突き落とした。
「なんだよこれ!?」
俺は途中で本を放り投げた。
アニメ化決定らしいが、文章能力が壊滅したこの小説がどうして選ばれたか意味が分からなかった。
それにしてもどうして俺の下駄箱にこれが入っていたのか?
意味がさっぱり分からなかった。
朔夜に渡してみたが手にした途端に「くだらない、時間の無駄」と、やはり放り投げた。
「少しは読めよ」
「一行読んだわよ」
なるほど。
そもそもチートとか都合がよすぎる。
弱い敵に圧勝して「俺TUEEEE」ってなんだよ?
強い敵にも圧勝して「俺最強」って子供か。
そもそもリアルにそんな話が.......居た。
俺の視線は当然朔夜に向いた。
「何よ」
「星夜様ぁー」
次の瞬間——俺の全弁慶が泣いた。
俺は足を引きづりながら本を拾うと、とりあえず図書室に向かった。
「No.1ホストの俺が田舎に転生して純愛ライフを楽しむってこの本なんだけど......」
「ああ、ホス愛ですね」
図書委員はそう短く略すと「どうしましたか?」と尋ねてきた。
「多分何かの間違いだと思うんだけど」と経緯を話すとパソコンにタイトルを入れ始めた。
長く打ち込んでいたのでPCの台帳は略していないのだろう。
「あー、ヒットしませんね。タグを剥がした形跡もありませんし、図書室の本ではないです」
そう言われて俺が少しように頭を搔くと「落とし物入れに入れたらどうです?」と素晴らしい解決策を提示してくれた。
その後は落とし物入れの台帳に短く『ホス愛 第一巻』と書いて正面玄関に向かった。
そこでは朔夜が俺を待つようにまだ立っていた。
なんとなく「待たせてごめん」と言うと「貴方、妖魔よりも厄介なのに狙われてるかもね」と意味ありげに笑った。
EPISODE:30 指揮様
夏休み前の最後にして最大のイベントが来る。
みんな大好き学園祭だ。
ホームルームの会議で、前夜祭の行灯行列は不思議の国のアリスがメインテーマになった。
模擬店はメイドカフェ......だと思って安易に賛成したが、冥土カフェだった。
そして今回の会議で腑に落ちないと言うか、意味が分からない事があった。
それは合唱コンクールの指揮者が、俺になったという事だ。
学外の音楽活動はカラオケ以外に無いという俺が、指揮者に推された。
——そう、朔夜の仕業だ。
委員長がコンクールの振り分けを板書していた。
ピアノ、指揮、ソプラノ、テナー、アルト、バス......
それまで全く興味無さげに窓の外を見ていた朔夜が、突然手を挙げたのだ。
そして俺を指して「指揮!!」と嬉々として推挙した。
その後はいつものアレだ。
俺以外の全員が俺に投票した。
俺はカラヤンと書いたが、全くウケなかったので秘密だ。
そしてここからが意味の分からない話だ。
朔夜が俺の指揮者っぷりを見たかったのだとしよう。
百歩、百五十歩譲って納得出来る。
だが俺を「指揮様」と呼び始めたことは理解の範疇を超えていた。
そしてこれ以来朔夜は用もないのに「指揮様」と、俺を呼ぶようになった。
クラスメイトも面白がって、それを真似るようになった。
その日の放課後、クラスの数人で冥土カフェの材料の買い出しにホムセンに出掛けた。
朔夜を筆頭に顔面偏差値が高い女子は、貞子系の白ワンピやサキュバスコスで接客メイン。
俺らモブ系男子は賑やかしのクリーチャーやモンスターだ。
イケメンはヴァンパイアコスで女性客にアピールするらしい。
「なぁ、朔夜」
「はい、指揮様」
ホームルーム以来、当たりが妙に柔らかい。
「クリーチャーって妖魔とかを参考に出来ないかな」
「おすすめはしないわ」
朔夜はそう言うと眉間に皺を寄せた。
「どうして?いいアイディアだと思ったのにな」
「私がアンティークドールの展示の中に紛れていたら分かる?」
「へ?」
声も顔もかなり間が抜けていたと思う。
あまりに唐突すぎて理解が追いつかなかった。
そして追いついた後に「大した自信だな」と笑った次の瞬間、ホムセンの床が目の前にあった。
バチンという音に皆が振り向いて「指揮様、大丈夫?」「どうした指揮」と口々に駆け寄って来た。
立ち上がった俺が「いやぁ——」と口を開きかけたところで「自分の足につまづいたみたい。ドジな指揮様」と朔夜が制した。
あの瞬間——
俺は足払いをかけられた上に、両膝を後ろから一気に押された。
俺への当たりは何ら変わることはなかった。
客観的に整理する。
朔夜は俺を命に変えても守ろうとしているが、俺に対する好意は無いらしい。
だが特別な存在であることは確かなようだ。
——泣いてもいいかな。
EPISODE:31 志木星夜
いつもの出待ち。
今日の星夜くんは六人グループで正門を出て来た。
鞄も持っていないし、帰る訳でも無さそう。
そうか、学園祭だ。
ウチは県内では最後の方だから、準備はまだ始まっていなかった。
グループの中にあの女がいた。
いつもいつも何なんだろう。
きっとああいうのをストーカーって言うんだ。
警察はちゃんと仕事しているのだろうか。
星夜くんも迷惑に違いないと思う。
その点、私はわきまえた女だ。
今日もちゃんとこうして距離を置いて同行し、邪魔にならないよう視界にも入らない。
私はいつも細心の注意で、亭主関白の予行演習をしてる。
ちょ、なんでさりげなく列から遅れて二人で歩いてるのよ。
離れなさいよ。
星夜くんとつきまとい女が、最後尾を歩き始めた。
でもカップルのような並びにも見えなかった。
もちろんカップルじゃないから当然だ。
でもあれはなんだろう?
要人警護?
思った自分を笑った。
いやいや、お父様は電車通勤。
お母様は近所のスーパーの惣菜コーナーで働いているのだからSPが付くような立場なわけがない。
でも、私にとってはV.I.Pだけど。
キャー、顔が熱いわ。
なんて照れているととんでもない光景を目にしてしまった。
——あの暴力女!!
SPがそれじゃぁ、津田三蔵じゃないの。
ものすごい速さだった。
オリンピックの柔道でも見たことがないくらい。
星夜くんに足払いを仕掛けて転ばせたの。
クラスメイト達の前で恥をかかせるなんて、とんでもない女だ。
星夜くんは何か弱味でも握られているんじゃないだろうか。
——救ってあげたい。
私がそう思った時、クラスメイトが口々に「しき」「しき様」と駆け寄る様子が見えた。
まぁ、お名前は『しき』なのね。
でも様付けで呼ばれるなんて、なんて尊い人なんだろう。
ああ字はどう書くのかしら。
これは大きな収穫だわ。
苗字かしら?
ご自宅には表札が無かったから分からないわ。
苗字なら『志木様?』
お名前なら『志希様?』
ふふ、ちょっと女の子っぽいかしら。
私なら......
「しーきクン」
思わず口にして身悶えしていたら、他のお客さんにぶつかってしまった。
まったく、邪魔しないでほしいわ。
失礼なお客さんを睨みつけた後、視線を元に戻すともうそこに志木星夜くんは居なかった。
今日から私は彼の名前を志木星夜くんに決めた。
木星を志す夜——
なかなかカッコイイと思った。
もうあとはあの暴力女をどうにかして、彼にこの名前を気に入ってもらうだけだ。
でもあの女はいつも志木星夜くんと一緒にいる。
......どうしよう。
EPISODE:32 チェンジ
学祭準備の居残りは、特別に19時まで認められていた。
ただし『事前申請した条件を満たす生徒』となっている。
期末考査で赤点の無い者、半年以内に訓戒以上の処分を受けて居ない者が条件だ。
もちろん俺は居残り可能だ。
テンションがぶち上がる。
やっぱり学祭も楽しいけれど、準備ってのはどうしてこうもワクワクするのだろう。
「指揮くん!」
旧校舎への二階の渡り廊下で声を掛けられた。
振り向くと......マジかよ、知らない生徒だ。
ジャージの色は同学年のライトグレー。
上着を腰に結んで、指定外の黒Tシャツも可愛らしい。
クラスメイトじゃない子にもこの呼び名が浸透しているらしい。
(どうしてくれるんだ、朔夜!)
俺は心で悪態をつきながら平静を装った。
「何?どうしたの」
「ううん、方向が一緒だから声を掛けただけ」
はにかむ様な笑顔が可愛らしい子だ。
「ああ、なんか旧校舎って雰囲気あるもんね」
歩く度に軋む旧校舎の木の廊下や、独特なノイズのある蛍光灯は日常の異物だった。
「やっぱり男子もそう思うんだね」
「この旧校舎の怪談もリアルだしね」
そう言うと「ヤダ、思い出しちゃう」と俺の袖を掴んで来た。
(見たか、朔夜。こういうトコだぞ)
心のガッツポーズ、栄光の瞬間。
「指揮くんは、何をしに旧校舎に?」
「技術室に工具を借りに行くんだ」
「技術?」
小首を傾げる仕草も可愛らしい。
「なんか、かなり大昔ってね——」
「えー、学校で日曜大工みたいなことも教えてたの?ウケる」
そう笑いながら、物珍しそうにキョロキョロと教室を覗いている。
ときおりドアに手を掛けて「やっぱり締まってるね」とイタズラがバレた子供のような顔。
なんですか、この可愛らしい生き物は。
「岡田さんは?」
俺がそう呼び掛けても、はしゃいで聞こえていないみたいだ。
「岡田さん」
何度目かの呼び掛けで、はっとした表情を向けた。
「はしゃいじゃってゴメンね。なぁに、指揮くん。ってか私、名乗ったっけ?」
タッタッタッと駆け戻ってきた。
「ジャージのネームでね。岡田さんは家庭科室に行くの?」
「どうして分かったの!?」
「鍵を借りる時に家庭科室の鍵が無かったから」
「えー、指揮くん探偵さんみたいだね」
岡田さんはそう言って俺に拍手をしてくれた。
「照れるなぁ」
俺はそう言うと言葉を続けた。
「じゃぁ探偵っぽくもうひとつ。どうしてウソの名前で通してるの?」
彼女の周りの空気が冷えた。
「え、何で?呼んだのは指揮くんじゃん。ネーム見たって」
「ウチのジャージ、ネーム入れてないんだよ。岡田は俺が適当に言った名前」
女生徒は、すり足でゆっくり後ずさった。
「じゃぁ偶然。偶然当たったんだよ。凄いなぁ指揮くん」
「......旧校舎に家庭科室は無いんだ。怪談話も存在しない。誰なんだい、キミは?」
「し...きくん、違うよ」
女生徒は更に距離を取るように後ずさる。
「そのジャージ、キミより大きい人のだよね。上着を腰に巻いているのは、腰の折り返しが不自然に盛り上がってるのを隠す為だろ」
「これはママが、成長期だから大きいのって」
腰周りをさすりながら下がり続ける。
俺はため息をつくように、大きく息を吐いてから言った。
「普段そのジャージを履いている子は、キミよりも膝の位置が高いみたいだよ。生地の擦れている場所が違うんだ」
俺は自分の制服の膝に手を当ててから、そこから拳ひとつ分手をずらして見せた。
「志木くん——」
女生徒は何か言いたげに、でもそれを呑み込むと踵を返して駆け出した。
「ダメだ、危な」
無意味な行動でも人は咄嗟に手を伸ばす。
間に合わない距離でも時間でも。
女生徒が振り向き、駆け出した先は階段だった。
全てを言い終わる前に、女生徒は俺の視界から消えた。
(怪我じゃぁ済まないぞ!)
「おい!!」
駆け寄って階段下を覗くと、朔夜に抱きかかえられた女生徒がいた。
放心したような表情で、頬は上気していた。
「なんか、降ってきたわよ」
(色んな意味でそういうとこだよ、朔夜)
「ジャージ泥棒だ」
「なんだ」
そう言うと抱きかかえた手を話した。
ギャンと悲鳴が上がった。
「朔夜、おまっ」
俺が驚いて女生徒を起こそうとすると、手を払われた。
女生徒は自ら立ち上がると「朔夜さんって仰るのね。助けてくれてありがとう」と朔夜の手を握った。
そして脱兎のごとく走り去っていった。
翌日、全校集会が開かれた。
男子生徒のジャージが盗まれたと、教頭が注意喚起を促していた。
(あれ、男子のだったのか)
「どうりで大きいはずだ」
思わずそう呟いて、隣の女子に怪訝な顔をされてしまった。
EPISODE:33 ハートの女王
「朔夜ちゃんは絶対貞子よ」
「ゾンビメイドしか勝たんって」
「ヴァンパイアは?」
教室の一角で女子が朔夜に群がっていた。
冥土カフェのコスで盛り上がっているようだ。
朔夜のことだ。
どうせ仏頂面、良くても無表情で、塗られるままにされているのだろう。
それを横目に俺たち裏方は、せっせと鋸を引いて釘を打つだけだ。
「親方ぁ」
「なんでぃ指揮」
「コッチの墨と水お願い」
「おうよ!」
木島の呼び名はすっかり親方になっていた。
大工の親父さんに仕込まれたせいで、かなりの腕前だった。
水の入った管で均等な高さを測れるなんて、思いつきもしなかった。
タコ糸に分銅をつけたようなもので、垂直を見れる事も驚きだった。
水盛、下げ振りと教えてもらったけど、来週には忘れていると思う。
でもこういう物や、やり方があるってことは絶対忘れないだろうなと感じていた。
そっか、学祭って体験学習なんだ。
俺はなんとなく本質が見えた気がした。
「ほら、男子。サービスタイムよ」
不意に声をかけられて振り向くと、口の端から血を流した蒼白い顔で朔夜が立っていた。
浴衣を前帯で締めて、日本髪っぽく見えるように盛っていた。
(花魁?)と思った瞬間だった。
「ありんす」
朔夜の言葉に教室が揺れた。
男子全員の心臓が射抜かれていた。
ってか朔夜もノリノリだったんだな。
そんな様子に俺は少し嬉しくなった。
「仮縫い出来たよー」
そんな盛り上がりの中、行灯行列組が大声で入って来た。
大抵がトランプの絵でサンドイッチマンをするだけだが、数人は手の込んだ衣装になる。
例えば小柄で可愛い系の桜井さんはアリスの衣装。
我らが朔夜はトランプの女王で豪奢なドレスだ。
三日前、投票で女王に決まった時は正直吹いた。
本人はアリスを知らないらしく、相変わらずの無表情だった。
「悪役だよ」
俺がそう耳打ちすると、ふふんと何故か嬉しそうだった。
その日、帰宅してからずっとアリスの"絵本"の読み合わせに付き合わされた。
「せめてアリス・イン・ワンダーランドにしよう」と俺が懇願すると、エンドレスリピートで見る羽目になった。
嫌がらせかと途中で何度か朔夜を見ると、キラッキラの目でタブレットを観ていた。
「学祭、楽しみか?」
「そうね」
素っ気ない返事だった。
仮縫いの真っ赤なドレスを着た朔夜は、はにかむ様な笑顔を見せた。
風に裾を遊ばせて回る姿に、男子も女子も息を飲んだ。
「ウサギもネコもネズミも帽子屋も、みんな女王に付いちまったな」
俺の言葉は熱狂に飲まれて消えた。
EPISODE:34 行灯行列
時計のウサギは陸上部の斎藤が務めた。
一万メートルを得意とする選手だ。
当初は着ぐるみという設定だったが、運動量を考えると危険だとストップが掛かった。
——という事で、バニーガールの格好をさせられている。
ちなみに斎藤は男子だ。
別な意味で危険だと思ったの俺だけではないと思う。
時計ウサギは行列先頭から後ろ、更には山車の上に乗ったりと大忙しだ。
アリス役の桜井さんは踊りながら先頭を歩いていた。
他のクラスにもファンが居るようで、沢山のスマホ向けられていた。
きっとそういうのに慣れているのだろう。
笑顔で手を振ったりする姿は、アイドルさながらだった。
ときおり帽子屋やチェシャ猫の招きで山車に上がって、より一層の声援を貰っていた。
対して俺たちトランプ兵は、ただダラダラ山車の周りを行進していた。
誰からの注目も声援も無く。
ひときわ大きな歓声が上がった。
山車の上に赤いドレスの裾が見えた。
真打ちの登場だ。
「首を刎ねてしまいなさい!!」
沿道に朔夜の声が響いた。
それを合図に数体のトランプ兵がアリスに近付く。
手筈通り、剣の舞が流れた。
踊りながら逃げ惑うアリスに合わせて、俺たちトランプ兵が剣や手を触れないように動かす。
クルクルと回りながら、トランプ兵の間をすり抜けるアリス。
沿道からの拍手喝采。
チェシャ猫が山車の上から縄ばしごを下ろした。
離れるトランプ兵。
時計ウサギと帽子屋がアリスを引き上げた。
悪くないシーンの筈だが、笑いが起こる。
——時計ウサギ、お前だ。
そうして山車の上でアリスと女王が対峙してクライマックス。
「きゃぁぁぁ」
悲鳴だ。
これは台本に無い。
見上げた俺は「ウソだろ」と、思わず声を漏らした。
アリスの周りに妖魔が居た。
半透明のスライム状。
大きなナメクジのように山車の上を這っていた。
(どうする?)
俺が朔夜を見上げると「首を刎ねておしまい!」朔夜は再び大きな声で言うと、俺に向かって手を出した。
俺が朔夜にアルミホイルを巻いたダンボールの剣を投げ渡すと、朔夜はその陰に太刀を顕現させた。
夕刻から始まった行灯行列。
朔夜のドレスをより一層の赤に染め上げた夕陽が、剣を振るい舞う朔夜を炎のように見せた。
妖魔は朔夜が踊る度に、夕陽色の体液を散らして果てる。
俺たちにとって、ツイていたことがある。
妖魔が俺の居場所を知らずに朔夜を襲っていた。
これは朔夜にとって最高に戦いやすかっただろう。
俺はBGM班に合図をすると、朔夜の戦闘シーンを盛り上げさせた
剣の舞が再び流れた。
歓声が更に大きくなった。
朔夜がアリスの腰に左手を回した。
何かを指示しているのだろうか?
アリスの顔の間近に、朔夜の顔が寄った。
「キャー」
沿道の女子から別の意味の悲鳴が上がった。
朔夜はアリスを片手で抱き寄せ、妖魔との殺陣を演じた
剣の切っ先が妖魔の皮膜を切り裂く。
BGMに合わせて、切り結ぶように剣を振るった。
最後の一匹を薙ぎ、蹴り落とした。
ここで剣の舞の休符。
腰が抜けたアリスを片手で抱きかかえると、朔夜は山車から飛び降りた。
そこがちょうどゴールのグラウンド。
着地の瞬間、演奏が同時に終わった。
観客も先生達も演出だと思い込んでいて、大変な拍手が巻き起こった。
ハートの女王がアリスを降ろした。
もう台本はめちゃくちゃだったが、チェシャ猫と帽子屋、時計ウサギがふたりに駆け寄った。
手を繋ぎ踊る。
——なるほど。
察したトランプ兵達も、五人を囲むように踊ってアドリブの大団円で行列を締めた。
真っ赤な夕陽は沈み、蒼い帳が周囲に満ちた。
LEDの点滅が、俺たちの影を幻燈のように照らしていた。
EPISODE:35 後夜祭
審査の結果が出た。
ウチのクラスがぶっちぎりで優勝だった。
朔夜が戦った相手については、やはり質問責めにあった。
クラスの実行委員長がマイクを向けられてオタオタしていた。
俺は横から委員長のマイクを奪った。
「これはサプライズのアドリブでした。俺がアヒルの透明浮き輪を用意しました」と説明した。
クラスの実行委員が『勝手なことを』と目で訴えていた。
「首を刎ねる相手がアリスというのは、私ちょっと嫌だったの」
朔夜が隣でそう続けると、途端に好意的な視線に変わった。
表彰には朔夜と桜井が代表で上がった。
真っ赤で豪奢なドレスの朔夜と、青と白で清楚なワンピースの桜井。
朔夜コール、桜井コールが上級生の間から巻き起こった。
野太いコールが地鳴りのように響いた。
演説台の階段を上がるふたりの様子に、今度は甲高い悲鳴が上がった。
(また妖魔か!?)
身構えた俺だったが、理由を理解して目眩がした。
桜井が朔夜の手を握って、腕を絡めるように登壇していた。
女子の甲高い絶叫に、男子の野太いコールが重なった。
何かが刺さった連中だ。
(あれ?)
俺は今、何かを思い出しかけていた。
ついこの前だ。
思い出せ、俺。
背中を爪先でなぞられるような悪寒。
最優先事項だ、思い出せ。
「......きさま。しきさまー」
騒がしい声の中、朔夜の声が真っ直ぐ届いた。
顔を上げるとまだ手を繋いでいるふたり。
(!?そうだ、ジャージ泥棒だ)
アイツ、俺の手を払って朔夜の手を握って......
岡田(仮)は妖魔とは別に、警戒すべき存在かもしれない。
俺はそんな危機感を覚えていた。
そして今、近くにいるような予感めいた確信があった。
「朔夜!!」
俺は生徒たちをかき分けて朔夜の所へ急いだ。
先輩達に囲まれていた朔夜が「指揮様!」と俺を呼んで走って来た。
俺は酷いブーイングと恨みの視線を背中に浴びながら、朔夜を人気の無い場所に連れ出した。
校舎裏の非常階段下。
俺はここで先日の岡田(仮)の話をした。
朔夜の反応は素っ気なく「最初は指揮様のストーカーだったのにね」と言った。
「えっ!?」
俺が驚いていると「せっかくモテてたのに気付かないなんてもったいない」と、揶揄うように笑った。
そして「でもね」と続けた。
「岡田(仮)が次に姿を現すのは、私の前なのかしら?」
悪寒が走った。
ライバルの排除——
おそらく岡田(仮)は正常な思考回路ではない。
サイコパス思想の持ち主だろう。
「桜井さん!!」
思わず出した大声が、鉄階段とコンクリートの壁にこだました。
生ぬるい風が、僅かにカビ臭さを運ぶ。
「探そう」
そう言うと朔夜は力強く頷いてくれた。
俺たちは二手に別れて桜井さんを探すことにした。
(クラスメイトの誰かと居てくれ)
俺はそう心に強く願って駆け出した。
比翼の朔夜