【TL】寝取らセ婚〜想葬リトライ〜

既婚者ヒロイン/寡黙冷淡レス夫/陰気片想い男/脅迫チャラ男/強姦/脅迫/寝取られ/寝取らせ/横恋慕/強制不倫/未成年飲酒

1


 夫の勧めで司冴(つかさ)はアルバイトをはじめた。家計に不安があるわけではなかった。年の離れた妹の小遣いの足しになれば良い。
 人と関わるのは得意ではなかったが、かといってまるきり人が嫌いというわけではなかった。用がなければ家から出ず、かといって家に引きこもっているのも気が鬱(ふさ)ぐ。
 この職場は社員は男性が多かったが、アルバイトは主婦層が多い。作業は単純で、力仕事もあまりない。彼女はすぐに気に入った。
 勤めてからもうすぐで半年経つ。
 今日は祝日だった。社員のいる事務所は普段とあまり変わりがなかったが、作業場にいる人は少なかった。主婦たちは家に夫や子供がいるのだろう。けれども司冴の夫の麗示(れいじ)は出勤している。
 時計が19時を回る。2週間前に入ってきたばかりの大学生を先に帰し、引き継ぎのノートを書いていると、作業場の扉が開いた。おそらく社員だ。作業場は資料置き場も兼ねているため、社員の出入りは珍しくない。
 彼女はノートから頭を上げた。社員の雨都(あまみや)燈衛(ともえ)が立っている。出退勤の挨拶を交わす程度で話したことはほぼない。俯き気味の目線や、高身長がゆえの威圧感、猫背に見える姿勢が陰気で、彼女はこの社員が苦手だった。清潔感はあるが、真っ黒な長めの前髪も鬱屈した空気に拍車をかける。
「お疲れ様です……」
 軽く頭を下げ、ノートに目を戻す。
 テーブルが翳る。ふたたび顔を上げると雨都燈衛が傍に佇んでいる。足音も気配もなかった。幼少期に聞いた怖い話の怪異人間のようだ。
「仕事には慣れたか」
 鼓膜を甘く包むような艶やかな低音は湿度を帯び、耳の中に黴(かび)を生やしそうだった。蛍光灯のためか青白く見える顔は、造形こそ整っているが、不気味な寒気を帯びている。
「え、ええ……おかげさまで。皆さん、好くしてくださいますから」
 薄い二重目蓋の乗った切れ長の目が、一瞬、テーブルの上に注がれた。ノートを見ているのだろうか。思わず、ページを押さえていた手を引き込める。アイラインを描いたような睫毛が伏せる。
「そうか」
 アルバイトを気遣うという考えが、この社員のなかにも存在するらしい。
 司冴は誤解していた。雰囲気で人を決め付けていた。 
 しかし社交辞令の応酬のような話は終わったというのに、雨都燈衛は事務所に戻ろうとも、資料を取りに行こうともしない。
「す、すぐ帰りますから」
 気遣いは実は気遣いではなかったのかもしれない。アルバイトが帰らなければ社員も帰れない。そのために様子を見に来たのではないか。
 雨都燈衛は腕時計を見遣る。鈍器と紛う銀色が輝く。青白い肌がさらに金属を白く見せていた。
「もう遅い。送っていこうか」
「え!」
 司冴は壁掛け時計を見た。まだ19時を少し回っただけだ。小学生も1人で塾から帰ってこられる時間帯だ。
「大丈夫ですよ。すみません、すぐ帰ります」
 曇天を抱えているような雨都燈衛は無言のまま傍に立ち尽くす。
 早く帰りたいのだろう。そのことしか考えていなかったのだ。アルバイトを労うつもりなどなかった。
 司冴はノートに走り書きをして閉じた。
「帰りますね」
 仕事中は外していた指輪を嵌める。これが彼女なりの業務開始と終了の儀だった。


 家族は3人いる。夫の麗示と、その弟の桜叉(さらさ)だ。司冴がアルバイトをはじめてからは、この義弟の桜叉が炊事担当になった。週に一度はコンビニエンスストアに寄って、彼にデザートを買う。
 家族は3人だが、帰っても2人だ。コンビニスイーツは2つ買えばいい。
 シュークリームとモンブランを買って店を出たとき、スマートフォンが震えた。電話だ。
 画面には妹の名前が表示されている。妹は高校生で、司冴の暮らすマンションの近くに父親と住んでいる。司冴にとっての継父だ。
「もしもし、かのちゃん……?」
 返事は暫くなかった。
「かのちゃん、大丈夫……?」
 異父妹の身に何かあったのではないか。司冴の語気が強まる。
『うるさ~』
 スピーカーから聞こえたのは妹の声ではなかった。女の声ですらなかった。
「どなた……ですか……?」
『あ、あーし? あーしは寿華(かずは)』
 軟派で、物怖じしない喋り口は妹の友人として関連付けられないこともない。
「あの……そのスマホって、かのちゃんの……叶逢(かのあ)のスマホじゃありません?」
 妹がスマートフォンを落とし、それを拾ってもらったのかもしれない。
『よく知らないケド、正解(そ)。アンタは誰』
「叶逢の姉です。そのスマホはどうしたんですか」
『ああ、お姉サンなんだ。飲んでたんだよ、今』
 司冴は肝を潰した。
「飲んでたって……」
 "飲んでいた"とは通常、飲酒を指すだろう。妹は未成年だ。"飲んでいた"のは通話相手に違いない。
『酒だよ、酒。アンタの妹、高校生ぢゃん。騙されたんだケド。学校に連絡サれたくねェよなァ?』
 司冴は固唾を呑んだ。
「困り、ます……」
『今、応円寺で飲んでんの。若野に住んでんしょ。近いよね。来れる?』
 司冴はコンビニエンスストアを振り返る。壁掛け時計がガラス越しに見えた。
「分かりました。応円寺駅に着いたら、また連絡します」
 彼女は通話を切った。義弟に一報入れ、若野駅に向かう。応円寺駅は沖楼線で若野駅から1駅西側だ。
 古めかしい商店街が駅の南北と西側にあるのが応円寺だった。飲み屋と古着屋と音楽活動が栄えている。
 駅前の噴水から妹の番号に電話をかけると、案の定、寿華とかいう軽率な男に繋がった。
『あ~、待ってたゼ、司冴お姉サン』
「どこに行ったらいい?」
『寄ヶ谷寄りに高架沿いに来てくんね?』
「分かった……叶逢はどうしているの? 無事なのね?」
『うん、無事、無事』
 言われたとおり、高架下を西側に歩いていくと、狭まった商店街に通じた。南北の商店街とは違い、住宅地の気配があり、街並みは古めかしい。見慣れたチェーン店も随分と縮小された規模で並んでいたが、店の特徴的な色合いが浮いてさえいる。
『リサイクルショップの斜向かい。分かる?』
 左見右見(とみこうみ)しながらリサイクルショップを探した。古着屋、雑貨屋、レコードショップ、パンケーキ屋と串カツ屋……
 リサイクルショップが目に入る。
「見つかりました」
『今、お姉サンの後ろにいる』
 振り返った。夜だというのに、暗さに抗う鮮やかなオレンジ色が目に入った。有名スポーツブランドのロゴマークが大きく入ったプルオーバーのフーディーだ。来ている者を見上げた。背が高い。閉店間際のリサイクルショップの明かりを浴び、逆立てた金髪と、耳に差した金色が露わになる。司冴の周りにはいない性質の派手な男だった。生意気な10代後半のようにも見えたが、泰然としているところは20代前半のようにも思える。
「写真よりキレイじゃん?」
「叶逢はどこにいるんですか」
「寝てるよ」
 寿華と名乗っていた軽佻(けいちょう)な感じのする青年についていく。リサイクルショップの斜向かいのバーは2階建てで、黒い外装が夜に溶けていた。狭い内装は工夫が凝らされ、ガラス張りから2階と洒落た手擦りが見える。
「あの子は、こんなところにいるんですか……」
 とても高校生が入店できるようなところではなかった。
 未成年飲酒など、店側も厄介な事案だ。
 店に入ってすぐにバーカウンターがあった。寿華は出入り口真横の階段を登っていく。黒檀を思わせる暗色の木材でできた階段が重厚な雰囲気を醸し出していた。
 2階は2つの個室があった。ビーズカーテンが垂れ下がり、部屋と通路を区切っている。階段の手擦り同様に黒檀を彷彿とさせる床材はワックスが照りつけ、暖色のライトがムードを作っていた。
 寿華は奥の個室へと入っていった。手前の個室に客はいないようだった。司冴も揺れ動くビーズカーテンを潜る。
 テーブル越しのボックスシートから脚が伸びている。ブーツに見覚えがある。昨年買ったという妹の気に入りのロングブーツだ。
「ああ……かのちゃん……」
 ピンク色のショート丈のダッフルコートを身に纏い、妹は座面に横たわっていた。司冴は自身の上着を脱ぎ、妹に掛けた。
 どう帰るか思案する。
「優しいね」
 チェアに腰掛け、頬杖をつく寿華を振り返る。服装こそ気軽だが、体格といい、精悍(せいかん)な顔つきといい、店内に馴染んでいた。
 まだ礼を言っていなかった。
「ご迷惑をおかけしました……」
「ホントだよ。あーしもこの店もその子もヤバい状況にあるって理解シてる?」
 頬を支える指が踊る。凶器のような指輪が嵌っていた。
「お店のことは言いません。もちろん、あなたのことも……この子にはきちんと言って聞かせます」
「高校にチクらねェの?」
 それを言われると弱かった。妹はそうとう我儘を言って、学費の高い私立の学園に入った。制服が可愛らしく、校舎が綺麗で、在校していることがステータスかのような高校だった。
「ま、姉ちゃんが決めるコトぢゃないわな」
 寿華はグラスを呷る。
「ンま、未成年飲酒なんてなんだかんだどいつもこいつもヤッてる。表沙汰にならねェだけさ。今この瞬間にも、あっちこっちで未成年(ガキ)が酒飲んでるよ」
 果たして彼は慰めているのだろうか。
 彼は頬杖を解いた。そしてテーブルの上で腕組みをする。身を乗り出し、蜂蜜色の目に電球色の明かりが射し込んだ。
「その子に騙されて逆ナンされて、面倒事引っ被ったあーしに"誠意"を見せろって言ってんの」
「お………お金、ですか………?」
「ホテル行こって言われたんだよね。あーし、本気にシちゃったよ。もし気付かなかったら、あーし、ガキに酒飲ませただけぢゃなくて、未成年淫行まで犯してたかも知れないってワケ。躾サれてないガキって困るなァ……」
 剣呑な眼差しを向けられ、司冴は硬直した。
「ま、まさか、かのちゃんが……、そんな………」
「母ちゃんいないんだろ。父ちゃんに"誠意"見せられてもな。でもお姉サンがキレイでよかったよ。そのコは地味だの芋だの言ってたケド、あーしは好みよ、清楚系」
 寿華は立ち上がった。真っ直ぐ縦に突き抜けるような立ち上がり方は威圧のようでもある。思わず後退ってしまう。
「あ、あ、あの………」
 相手が何を求めているのか分からなかった。ある程度察することはできたが断定はできなかった。また確信もしたくなかった。勘違いであることを望んだ。
「別に、あーしは構わないよ。未成年淫行は未遂だし、そのつもりも最初からなかった。たかだか嘘吐き未成年に酒飲ましちまったって罪になるだけ。裁判シてもいい。お店は気の毒だけど、バカなマスコミが偏向報道シたって、常連客は事情くらい分かってくれるだろうよ。でもそっちはどうなの。あーし、めちゃくちゃ口軽いから言い触らしちゃうよ。写真も撮っちゃってるし。そのコ、高校辞める覚悟あんの?」
 躙(にじ)り寄る寿華の表情は影で塗り潰されている。
「あ、あの……あの………」
「お姉サンが悪くないのは分かってるんだケドさァ、あーしももうヤる気満々になってるワケ。ヤれると思ってついてきてんの。そしたら平日は制服着てんだろ。小便臭ェ。萎えたわ。そしたらこんなキレイなお姉サンいるっていうんだからさァ……ヤらしてよ」
 厚みのある手が司冴の頬に添わる。湿気を帯びている。所々固く冷たいのは拳鍔(けんつば)と見紛うシルバーリングか。
「あの、その、……」
「パコパコさせてって言ってんの」
 親指が目の下を撫でていく。酒の匂いと香水の匂いが鼻奥に焼きついていく。
「わたし、あの………結婚シて、て………」 
「ふぅん。じゃあ未婚だったならヨカッタんだ。独身に人権ナシ。ふぅん。子供いんの? 子供いないならいいぢゃん。だって絶対、旦那と一生一緒とは限んないよ?」
 司冴の背中に壁が当たる。しかし距離は詰まっていく。
「ヤらせろって言ってんの。パコパコさせてって言ってんの。――中古のオマンコにオチンチン挿れさせろって言ってんだよ!」
 香水の匂いが風を切る。耳元で爆発が起きた。司冴は目を閉じた。
「イヤならいいよ、了解(おけ)」
 壁を殴った手がスマートフォンを操作する。派手なスマホカバーに覚えがある。
「あのコの学校、清純学院だっけ……えーっと……」
「な、何を……」
「ちゃんと学校に連絡シてアゲないと。そちらの学校は、オトナ騙くらかして酒飲んでパコパコするのが教育理念なんですかって」
「そ、そんな……」
 最善策が分からない。迅速な選択を迫られている。けれども選択しきれなかった。彼女はオレンジ色の裾に縋る。
「待ってください……高校には連絡しないで……どうにか、どうにかします……」
 ところが彼女に策はない。
 寿華はスマートフォンをテーブルに置いた。妹を想う気持ちが伝わったに違いない。
 空いた手は持主の元に戻ってくる前にグラスを掴んだ。石ころ然とした大振りなリングに暖色の明かりが染み込む。
 司冴は油断していた。あとはこの現場をどう片付けるか、そのことだけを考えればいいものと思っていた。
 突然黙ったオレンジ色の人影が司冴に突進する。壁で弾んだ。痛みはなかった。緩衝材が挟まっていた。けれどもその緩衝材が硬かった。
 ただでさえ照明が絞られ暗かった視界が機能しなくなる。
 嗅ぎ慣れない香気に包まれたとき、唇に触れる弾力に気付いた。
「ぁ……」
 壁と背に挟まった緩衝材は、緩衝材ではなかった。固定具だったのだ。司冴の身体を抱き寄せ、接触した唇が密着する。角度を変えても、深度は変わらず、彼女は啄まれる。
 夫としかしない行為だ。一瞬、相手は夫なのだと錯覚した。けれども夫ではない。
「待っ……」
 押し戻そうした。だが腰と肩を押さえられ、距離を作るのことは叶わなかった。
 温かく湿ったものが彼女の唇の狭間に侵入した。その部位で口腔に触れるのは、配偶者だけに赦している。
「嫌ッ!」
 粗い質感のある蛞蝓(なめくじ)を噛んだ。途端にアルコール臭い飛沫が上がる。酒臭さが鼻を捻じるようだった。歯に残る生々しさは身体の内側から寒気を呼び、酒気が目眩を誘う。
「痛いよ」
 寿華は赤味の滲む舌を見せた。
「怪我シたら舐めて治さなきゃ」
 司冴は後頭部を打った。両肩が握り潰されそうだった。
「ああ……!」
 悲鳴も呑まれてしまった。口腔は一瞬で占拠された。肩を掴む力が、圧倒的力量差を知らしめている。反抗すればどうなるか、肌を押し潰す指が語っている。本能的な恐怖を与えるには十分だった。そして用意されているのは肉体的な脅迫だけではない。
「ぁ、………ぁふ………」
 侵入者は萎縮していた司冴の舌を掘り起こし、掬い出し、薙ぎ倒した。表裏の精粗の質感を塗り込まれる。ヘビのように長く感じる。
 合意のない接吻ならば、思い遣りもない。技巧を凝らすだけの鍛錬のような舌遣いだった。夫の寄り添うキスとは違っていた。意思を奪っていく。一方的で、独善的だ。けれども巧い。思考がぼやけた。力が抜け、右へ左へ押し流される。
 酒の匂いが粘膜に沁み入り、身体が火照りはじめた。考えるべきことがあるはずだった。けれども微かに渋みのある人工的な芳香が彼女の自由を奪ってしまった。
「ふ………ぁ、あ、……」
 軈(やが)て膝からも力が抜けた。髪が壁を滑る。彼女は臀から落ちるはずだった。
「ん」
「は………ふ………」
 腰を支えていた腕が司冴の臀に回る。彼女は腹の辺りに瘤(こぶ)のようなものが当たった。
 わずかな隙間から入り込む空気が縺れ合う2つの舌から温度を奪っていく。唇だけ寒くなった。脳髄は熱を持ち、首や背中は蒸れていた。
 彼女は自身の頭が重くなった。後ろに仰け反りかけた。厚い指が顎を拾う。上顎を舐められる。弱い痺れが身体の奥底を駆け上っていく。
「ぁ………んっ……」
「感じちゃった?」
 甘渋い匂いと温気(うんき)が離れた。練飴のようにされていた口水が糸を作って落ちていく。
 司冴は口を閉じるのを忘れていた。歯列から氾濫し、唇を越えて、どちらのものかも分からない練飴が滴り落ちる。
 相手が誰で、何を話し合っていたかも彼女は思い出せず、強烈なオレンジ色を摘んでいた。そうしなければ立てなかった。そして鮮烈なオレンジ色もまた彼女をシートベルトよろしく抱き寄せていた。
「わた………し………」
 蜂蜜色の瞳が粘こく光沢を張り付けている。
「お姉サン、思ってたよりカワイイかもしんないね」
 オレンジ色は彼女の身体を腕の中で転がした。2人で壁を向く。
「あ……、ああ、かのちゃん………」
 テーブルの上で物音がした。水の翻る涼やかな音も聞いた。茫としていると後ろを向かされる。唇が塞がれ、液体が流し込まれた。嚥下してしまった。鼻から異臭が抜けていく。粘膜の焼ける感じと苦みに呼吸を急いて噎せる。
「お姉サン、おっぱい大きいよね。妹とは似てないんだ?」
 左右から伸びてきた手が胸の膨らみを揉んだ。服の上から形を探っている。
「よ……して……」
「愉しもうよ、お姉サン。あーしもお姉サンのコト、愉しませるからさ」
 司冴は首を振った。
「夫を裏切れません……!」
 壁に縋った。結婚指輪が光芒を携える。もし独り身であったなら、妹を庇うため、身体を差し出していたかもしれない。けれども今は既婚の身だ。
 壁に張った手に大きな手が重なった。蒸れた掌に覆われた。シルバーリングだけが冷たい。寸胴ながらも長い指が丸くなり、司冴の指の股に引っ掛かる。指と指を開かされ、裂けそうだった。
「お願い……赦してください。お金なら、どうにか、……工面しますから……」
「野暮なコト言いなさんな」
 耳の裏に吐息がかかる。彼女は背筋を反らした。
「わたしには………夫が………」
 薄手のニットトップスの裾から男の手が入っていく。長袖のインナーの下に潜り、ブラジャーに触れた。レースを撫で摩すっている。
「何色か観てぇんだケド」
「ああ……よして……」
 ニットトップスはインナーとともに捲り上げられる。藍色のブラジャーが露わになる。胸の上に撓(たわ)んだ裾が置かれた。
「さ……寒いから………寒いから、よして……」
 司冴は男のほうを向いた。壁を背にして、押し返した。服を直そうとする手を掴まれる。
「寒い? じゃあすぐあっためてやるよ」
 粘着質な眼光が曝された白い肌に注がれる。とてもまともに話を聞いているような目付きではなかった。情欲に囚われた面構えに理性は窺えない。
 細腕が折れそうなほど強い力で引っ張られ、彼女の背中は壁にぶつかる。鮮やかすぎるオレンジ色と対峙した。煮え滾った双眸には素肌は映らない。すべて舐め回して啜るかのように吸収されている。藍色のレースが胸の膨らみを左右から寄せ留め、丸みと丸みが重なり、濃く太い曲線を描いてレースの影に消えていく。紅い糸のレースが澱んだ蜂蜜色に差す。それは彼女のブラジャーではなかったのかもしれない。
 厚い手がブラジャーごと左右の膨らみを触った。掠れた息切れが軟派な雰囲気と不釣り合いな香水の匂いを縫う。
 華奢な腰回りや長く伸びた脚では支えきれないような豊満な胸は一頻り撫で回された後、華美な皮を剥かれた。大きな二つの茘枝(れいし)に、澱んだ蜂蜜色が渦巻いた。
「見……ないで…………」
 司冴は自身の腕を抱き寄せた。けれども遅かった。引き剥がされ、壁に留められてしまった。彼女は磔刑に処されてしまった。
 オレンジ色が彼女の柔肌にむしゃぶりつく。胸の先端が、ヘビの巣窟に呑まれていた。
「あ……!」
 先程舌に擦り込まれた粗い質感が小さな屹立に巻き付いた。
「勃ってるの、寒いから?」
 肉厚な舌が、同系色の実粒を持ち上げた。乳房が撓む。
「んぁ、………」
 ヘビの巣窟が閉じた。片方の胸も大きな指2つに閉じ込められていた。
 膿んだような瀞(とろ)みを持った腹の奥に弱い電流が駆けていく。
「ぁん、」
 解放されたほうの腕でオレンジ色を押しやってみる。芯の生まれた胸の先に鋭い圧迫が起こる。
「んん……っ、!」
 身体の力が抜けていく。このオレンジ色に媚びる選択が頭を埋めた。強そうな牡だ。庇護を求めるべき個体だ。この牡を選ぶことこそ牝の幸せなのだ。胸の先から臍の下へと広がっていく疼きが彼女に訴える。けれども彼女にはすでに決めた相手がいる。
「だめ………だめ………夫がいる、から……夫が………」
 閉じられない口から涎を垂らし、金髪を見下ろす。オレンジ色を押し返す。
「旦那さんいるのに、乳首硬くシてるんだ?」
 金髪が顔を上げた。濡れた色付きを潰す様を見せつける。
「ぁん……」
「人妻アピール、余計コーフンするだけだよ」
 オレンジ色は司冴を抱き上げた。ワイングラスのステムよろしく細腰を掴み、テーブルへ降ろした。
 司冴は自身の体重がテーブルを壊し、転倒することを恐れた。この場で怪我をすることこそ、餌食になることを意味する。
「お姉サン、おっぱい大きいのに軽いね。旦那さんの趣味?」
 おそらくこのオレンジ色の前では大概の女は軽かろう。
「あの、わたし……」
 オレンジ色は司冴を抱擁する。否、抱擁と見紛うが、彼女を片腕で押さえつけ、その後ろのグラスをテーブルの端に避けていた。
「妹チャン、売る気になった? いよ、"オレ"はどっちでも。不良少女は更生サせてアゲないと」
 司冴は真横で眠る妹を一瞥した。
「どんな夫婦にも秘密のひとつやふたつ、あるはずだろ。所詮は他人なんだからさ」
 オレンジ色は、胸を隠す彼女の左手に唇を落とした。銀色の指輪が曇っていく。

2

 司冴(つかさ)の腿と腿の間には凄烈なオレンジ色が生えていた。金色の毛尨(けむく)が臍の下で蠢いているが、彼女の叢というわけではなかった。
 彼女の叢は金髪の下にあった。鼻先が茂みをが掻き分け、肌の匂いを嗅いでいる。酒と香水の匂いが充満するこの個室で、一体何を嗅げるというのか。オレンジ色の服を着たゴールデンレトリバーは熱心だった。
「人妻のいやらしい匂いがする」
 わざとらしく鼻息を荒立て、ゴールデンレトリバーは藍色のショーツをさらに下ろしていった。
「これ以上は………」
 蜂蜜色が上目遣いに司冴を捉えた。
「やめてほしい?」
 間髪入れずに彼女は頷いた。
 悪事ばかり働く口元が吊り上がる。司冴の愚鈍と同義の穏やかな性格は他人の悪意というものに疎かった。欲望に塗れた怪物が突然理性に目覚めることはないのだ。
「分かった」
 司冴の視界には電球と暗い天井が映った。彼女はテーブルに寝ていた。解放されるはずだ。帰れるはずだ。夫を裏切らず済むはずだ。
 けれども彼女はテーブルに押し倒され、腿の間に架かっていた布は爪先を抜け、剥ぎ取られてしまう。
「ど……して……」
「コレが最後。ねぇ、お姉サン。ここで犯されるのと妹チャン庇うの、どっちがい?」
 夫の顔と妹の顔が浮かんだ。
「そんな………そんな………そんな、ァ!」
 陰阜(いんぷ)に盛られた糸屑の上に、熱い塊が落ちてきた。太く重く、火炙りにかけた棍棒のようだった。
「ゆっくり選んでイイよ。でもあんまり迷ってると、妹チャン、起きちゃうかもな」
 赤黒く膨れた塊はオレンジ色の下から伸びていた。脈を浮かせ、微細な凹凸を作っている。司冴も既婚者だ。充血の限りを尽くした男性器を見たことがないわけではない。けれども、夫のものとは形状や大きさが同じでも、威圧感が違った。夫のものは凶器ではなかった。まず、夫はこのように己の男根を妻の目に曝そうとはしなかった。
 大火傷を負ったモグラのごとき肉棒は、司冴の下生えで前後に揺れた。
「もし入ったら、お臍の下まで届いちゃうな」
「ゆ、赦して………」
 臓器を潰す。そういう脅迫に違いない。
「お姉サンの毛、気持ちいいよ……」
 司冴の両脇に腕をついて、オレンジ色は前後に動く。テーブルが揺れた。グラスが踊っている。陰阜の上の糸溜まりも蹴散らされ、踊っているかのようだった。
「決まった?」
「………っ、」
「最後の選択(チャンス)だから、よく考えて」
 夫は他人だ。紙1枚で法律が認めただけの関係だ。対して妹はどうだ。片親が違うとはいえ、血を分けた存在だった。同じものを見て、同じ時間を過ごしてきた。
 夫とは脆い関係なのだ。互いの信用だけで成立している。血の甘えは赦されない。子供もいないのだ。印鑑を押した紙と打算と情だけの関係だった。いつでも切れてしまう。忘れ去り、上塗りすることができてしまう。
「わたしが自分から夫にこのことを話したら、あなたはどうするの……?」
「おっと……お姉サン、逆にあーしのコト脅そうとか思ってる?」
「夫のことは裏切れません……けれど妹を見捨てることもできません……」
「お人好しだね。妹の自業自得、自己責任なのに。でもお姉サンの気持ちはよーく分かった」
 湯剥きされた巨大ミミズの頭部が叢から撤退していった。
 思いが通じたのかもしれない。
 鱗をすべて毟り取られた龍は身を伏せた。
「待っ………あ、う!」
 股底に熱を感じた。触れた熱から、内側から込み上げる熱に変わる。直後、痛みがすべてを追い越した。
 眼前で火花が散る。明滅して、色を失う。
「あ! う、う! 痛い……!」
 下肢が裂けているに違いない。紙切れを左右から破るように、彼女の腹も下から縦に両断されるようだった。
「抜いて、抜いて……!」
 相手が大柄な男であることも、人質がいることも忘れた。司冴は視界を覆うオレンジ色を突き撥ねた。壁のようだった。迫りくる天井のようだった。
「ホントに人妻……? キツいんだケド……」
 長い呼吸が酒臭さも人工的な香気も吹き飛ばしていく。
「痛……い、痛い……!」
「旦那サン、もしかしてあんまりチンコでかくない?」
 嘲笑が耳に届いた。けれども内容まで聞いてはいなかった。滲む涙で前が見えず、力いっぱい外敵を押し退けようと努めた。
「抜いて……! こんなの嫌! 抜いてぇ!」
 体内に夫ではない者がいる。夫との子でもない生き物が住み着いてしまった。図々しく居座っている。急激に熱を上げた腰が肉塊の分、重く感じられた。
「これがお姉サンの答えだろ? 旦那サンに言いたきゃ言えよ。ンでも、妹チャンのコトは黙っててヤる」
 オレンジ色の野獣は司冴の頭の上に肘をついた。体幹でも鍛える体勢をとるやいなや、腰を進めた。
「ぁ、ひんッ!」
 テーブルが大きく揺れた。下から脳を貫かれたかのような目眩が司冴を襲う。頭頂部から丸々と肥った巨大ヒルが突き抜けてしまったかもしれない。
 息が止まった。怪物の腰が引いている間も息の吸い方を忘れた。ふたたび強烈な一打が彼女を貫く。吸うことも吐くこともできなくなった彼女は眼に星を散りばめた。
「は、……ひ………ぃっ、」
「お姉サン。息シなきゃダメぢゃないの」
 偉容の寄生虫のすべてを否定しなければならなかった。彼女は首を振る。この現状をとても受け入れられない。
「は………っ、は…………っ、は………」
「息シて。ほら」
 獰猛な面構えが眼交いに迫る。焦点も合わなくなるほど近付いた。呼吸を忘れ、生存という本能にすらも従えなくなった肉人形に、鮮烈な色味の野獣が息を吹き込む。
「ぉ……っふ………ぁ、うう……」
 眦(まなじり)から涙を滴らせ、司冴は四肢を投げ出した。何と何を秤にかけ、誰と誰を選択肢に挙げていたのか、考える余裕はもうなかった。彼女の脳裏も視界も真っ白で、この時間を記憶から塗り潰そうとすらしていた。
「お姉サン、カワイイね」
 熱蝮が隘路の隅々まで犯している。
「赦して………」
 喉が痛んだ。声は掠れていた。赦しを求めているということは、赦しを求める相手がいるはずだ。赦しを乞うていることが伝わらなければ意味がない。けれども司冴の声は誰かに届ける意思もない。
 暖色の影が動く。刹那の潺(せせらぎ)が聞こえた。緩みきった口元に異臭を放つ濁流が注ぎ込まれた。苦みが粘膜を焼く。
「ぁ、ふ……ぅ!」
 司冴は陸上で溺れた。海でも川でも、水辺ですらない人工物の密林で溺れた。
 鼻先が抓まれた。彼女は焦った。喉奥に溜まった液体を飲み込む。鼻腔が開放される。アルコールの匂いが顔面を焼いた。前後左右上下の感覚が薄らいだ。プールの中を揺蕩うようだった。背中をつけているものが形と硬度を失い、転げ落ちていくのかもしれない。
「やだ………やだ………」
 柔らかな布地に縋りつく。木材の断面から薫る渋さと爽やかな甘さの混ざった匂いに逃げた。それでも酒気はまだ鼻先を漂っていた。
「お姉サン、いいかも」
 彼女はとうとう馨香を放つ天井とテーブルに挟まれた。
「放して………帰る………帰らせて……っ……! あ! あア、!」
 激しい衝突が彼女を黙らせた。一度では終わらない。
「あっ……! あ……! やだ、ァッ!」
 徐々に速度が増していく。夫から構われなくなった筒が掘削されていく。
 身も心も夫・麗示に捧げたのだ。彼に支配されることに悦びを覚えているのだ。けれどもオレンジ色の怪物に支配されているようだった。夫の存在を消し、生殺与奪の権すらも根刮ぎ奪っていくようだ。
 侵入者は彼女の内部の至る所を叩いていった。先端か、或いは凶暴に張った返(かえし)か、既婚孔にみっちり満ち満ちと詰まった蛇(くちなわ)が一点を掠めた。司冴の体内に甘い波紋が描かれていった。
「あ、」
「お姉サン、ココが好きなんだ?」
 短いストロークが鐘を撞(つ)く。二度、三度、正確に数を数えるように、重い一打一打が彼女の官能を奮わせる。
「あ……、あ、止め、て……」
 止めろと彼女は口では言ったが、結合部は潤滑液を分泌していた。損傷を防ぐためではないようだった。前後運動を促すためのようだった。夫が開かなくなった珠の門を屈曲な破城槌が攻めていく。
「だめ………突いちゃ………ぁあん」
「ナカ、ぬるぬるシてきたね、お姉サン。声も、カワイイ」
 オレンジ色の魔獣は正解を探っていたのだ。そしてそれが分かった途端、暴れはじめた。
「止まっ、あ、あ、あ、あ、ああ……!」
 経験値か将又(はたまた)、天性の才覚なのか、オレンジ色の欲望は彼女の弱みを滅多挿しにすればするほど、利益があることを知っているらしかった。挿し貫かれるだけ、彼女の蕩けた内壁は邪肉を扱いた。引き留めて、熟れた箇所への衝突を求めていた。
「お姉サン……!」
 頑健な肉体を有した牡が息を切らした。蒸気を吹き、激しく腰を振っている。テーブルが揺れた。グラスが踊る。
「ふあああ……」
 司冴も食い千切らんばかりに圧縮する自身の腹に気付いていた。だがすでに御せなくなっている。
 目的地も現在地も分からないまま駆け上るしかない。 
 ところがオレンジ色の情魔は前後運動をやめた。反動とばかりに彼女の媚び諂った襞がわずかな隙間も赦さないほど密着し、引き絞った。
「は……ぁん……」
 奥へ、奥へ、夫が開けなくなった門へと誘う。
 潤んだ目は蜂蜜色を追っていた。金髪が形の良い額に張り付いて、肌は濡れて緋色を帯びた光沢を散りばめていた。
「そんなにオレのチンコ、美味しかったの」
 彼女は鈍い頭痛を覚えた。酒臭さがさらに頭を痛めつけ、額を押さえる。何も思い出してはいけない。このオレンジ色のフーディーの青年が何者なのかも、何故この場に居るのかも、思い出そうとするのが怖かった。
「テーブル壊しちゃうよ。おいで」
 おいで、と言いながら彼は迎えにきた。見ず知らずの相手のはずだが、司冴の額や目元に唇を落とす。そして彼女の肩を抱きテーブルから降りるよう促す。裏起毛のジーンズも靴も靴下さえも脱がされた彼女は、ワックスのてかつく床に素足を下ろす。
 真っ直ぐ立つことはできなかったし、真っ直ぐ立とうと試みる前にオレンジ色のフーディーの青年が司冴を壁に押しつけた。
「足、寒い?」
 嗄れかけの声が耳鳴りを呼ぶ。訊ねられていることは分かったけれども、聞き取りは曖昧だった。
「分か……んな、い………」
 横から体重を預けられ、壁に寄り添わされると、片脚が持ち上がった。小さく、硬いものを伴った手が腿を伝い、膝裏で止まる。外気に触れさせるようなところではない密やかな場所が晩秋の乾いた空気に触れていた。
「お姉サン、"仕上げ"シてあげる」
 司冴は目を閉じた。熱いものが腹奥から迫り上がる。呼吸が止まる。張り裂けるような圧迫感と閉塞感がやり過ごす。
「は………ぁ、あんっ………」
 ふたたび体内を訪れた局所的な膨満感は真っ先に彼女の弱みへ向かっていった。
「すごい、コーフンする。お姉サン、オレの硬いの分かる?」
 淫らな蝮は熟れ肉へ頭突きして、己の硬さを誇示する。
「ぁ……、ふぅうう……あ、あ……かた、い………すごく、かたい………」
「めっちゃ煽るじゃん……」
 長いストロークは彼女の体内に冷えて戻って来た。冷えたものを熱くして送り出す。深々とした挿入を感じた。男性の魁偉(かいい)なものが出入りしている。微細な粒状襞が太ましく浮いた蔦まで察知する。隅々までもてなしてしまった。
「すごい蜿(うね)ってる。お姉サン、気持ちいい?」
「は………あんっ」
 疑問符を付けても返事を聞くつもりはなかったようだ。膨れた肉串が司冴を苛む。
 彼女は快楽に脳髄を掻き回されていた。時間や空間の概念が奪い取られ、今与えらている打撃のことしか考えられなくなっていた。
「あ、ぁんっ、あっ、あっ、……!」
 声は艶を帯び、牡を唆(そそのか)す。
「好きなときにイって。ずっと突いててあげる」
 体勢や角度が変わろうとも、すぐさま弱点めがけ、強烈な一突きを繰り返すことができるのはまさに優秀な牡と評価せざるを得ない。巧みな腰使いはたちどころにこの番(つが)いがいるはずの牝を骨抜きにした。番いで慣らされているはずの牝を淫戯の虜(とりこ)にしてしまった。
「も、だめ………もう………あ、……っ、突いちゃ………んゃァ!」
 引いていく肉棒を締め付ける。何故、一瞬、一瞬、一瞬ずつ、離れていってしまうのか。牝牡の営みの欠陥だ。
「イって」
 臀が歪んだ。奥の奥まで、許容範囲というものを失うほど奥まで貫通する。心臓が喉を通って頭蓋にまで移動したかのように、どこが疼いたのかももう分からなかった。
 夫に長いこと開けられず、閂(かんぬき)の錆びた玉門は今このとき、瑞々しく猛々しい破門槍に突き破られた。門扉から粘着質な快感が放流されていく。
「あああ……そんな、あ、……あああ!」
 オレンジ色と壁に挟まれた女体が反り返り、床に立てた片脚は慄えていた。牡肉と重なった腹が引き攣る。激しく蠕動が蜜汁を滲ませて未発の砲弾を扱く。
「ぅ………く、………お姉サン……」
 唸り声を聞いた。絶頂の余韻も冷めないうちに腹奥で怒涛を受け止める。熱い奔流が臍の下で渦を巻く。
「ぁん………なか………熱い………ん、ん……」
「すご……気持ちいい………」
 傍若無人で厚かましい毒蝮は女の腹の中で精を排泄するだけでなく、あろうことか収縮も治まっていない蜜襞に種汁を塗り付けはじめた。
「動いちゃ、ゃア、…!」
「ごめん、中出しシちゃった………腰止まんない。ごめん……」
 その口は謝っているが、剛直筆はまだ司冴の媚肉で牡液を拭っていた。
「なか………だ、し………」
 不穏な響きが彼女の頭に氷となって残っていく。
「オレお姉サンのコト気に入っちゃった。責任取るよ……だからまた会って」
 司冴はろくに話も聞いていなかった。現状を理解する必要があることにやっと気付いた。しかし酒気が邪魔をした。
「わたし……」
「また会ってくれる?」
 何と答えたのか、彼女は覚えていなかった。



 気付いたときには自宅マンションにいた。暗い玄関ホールに腰掛けていると、目の前に人影が現れた。
「水をお飲みください」
 義弟の桜叉(さらさ)だ。低い女声と聞き紛う落ち着いた喋り口は、相変わらず何にも興味がないようだった。16、17歳の多感な年頃に兄夫婦と同居しているのだから遠慮もあるのだろう。
「桜叉ちゃん……わたし………」
 無色透明な液体のは入ったグラスを受け取る。一気に呷る。喉を通り抜ける冷たさが心地良かった。粘こい汗が全身に纏わりついている。内側から冷えていけば不快感は消え去るだろうか。
「夕食は冷蔵庫にあります」
 夕食……
 今日あったことを振り返ろうとした。泥沼が記憶に混ざっている。
 時計を見遣る。暗くて見えなかった。しかし身体に力が入らず、明かりのスイッチを押せない。
「桜叉ちゃん……ごめんなさい。明かりを点けてくれるかしら……」
 義弟はすぐに言うとおりにした。緋色を帯びた照明が玄関ホールの凹凸を鮮明になると、彼は司冴の前に戻ってきた。
 薄気味悪いほどの美貌が彼女の目に入る。少女と見紛う線の細い顔付きに、どこか少年の堅さも残している。顔半分を覆うケロイドも、彼の美しさに異様な味わいを与えていた。
 司冴は下駄箱上の時計を見た。デジタル時計は日付が変わる直前の数字を浮かべていた。
「わたし……何時に帰ってきたっけ……」
 恐ろしい光景が少しずつ脳裏に流入してきた。
「今から10分ほど前です」
「どうやって……?」
 そこは記憶が飛んでいた。
「タクシーだと聞いています」
「聞いています? 支払いは……」
「叶逢(かのあ)さんのご友人という方が支払ったようです」
 叶逢! 司冴は妹のことを忘れていた。そして妹が恐ろしい毒牙にかかりかけていたことを思い出した。己の身に降りかかった禍殃(かおう)も然り。
「叶逢は!」
「リビングに寝かせています」
「あ……、ありがとう……」
 だがそれでまだ安心できるわけではない。
「その人って、オレンジ色の服を着ていた……?」
「はい」
「そう……何か言ってた……?」
「いいえ」
「本当に……?」
「2人を同時には運べないので1人ずつ運ぶ、とおっしゃっていました。それなので僕が下まで降りて叶逢さんを運びました。そういう会話はありましたが、お二人に対して伝言らしき伝言はありませんでした」
 ケロイドに呑まれた片目に白星が覗く。
「そう。桜叉ちゃんにも迷惑をかけたのね。ごめんなさい」
「いいえ」
 義弟は立ち上がった。
「お風呂を沸かしてありますが、アルコールが入っているのならやめたほうがいいようですね」
「シャワーだけ浴びます。本当にありがとう」
 司冴の脇でコンビニエンスストアのビニール袋が鳴る。
「あ、デザートの日だったよね。遅れてしまって……」
 中身を出す。シュークリームは潰れ、プリンは容器の蓋で形状を失っている。
「あ……これじゃ、食べられないね……」
 食べられないことはなかった。シュークリームの包装は破れていなかったし、プリンの蓋は外れてはいない。けれども他人に渡すものではない。自身で食べるべき有様だ。
「いただきます」
 義弟は損傷の激しいシュークリームを選ぶと、リビングに入っていった。
 司冴も壁を頼りに立ち上がった。膝が慄える。夫を裏切った。夫のみならず義弟も裏切った。
 風呂場に向かう途中でリビングを覗く。ソファーに妹が寝ていた。
 妹は無事だ。
 棒切れと化した脚と鉛製の腰を引き摺って脱衣所に辿り着く。服が粘着質な汗に覆われた肌に張り付くようだった。
 薄手のニットトップス、スリーマー、ブラジャー、裏起毛のインディゴのジーンズ……ショーツに手を掛けた。陰阜の奥で滴り落ちてくるものがある。腹奥で受け止めた見ず知らずの男の精だ。不貞の証だった。夫への裏切りが可視化されている。物的証拠を突きつけられた。言い逃れできない。
 白い澱みを残した他人の体液が藍色の繊維によく目立つ。
 彼女はショーツを脱ぐと、丸めてごみ箱に投げ捨てた。見下ろした。結局、拾う。切り刻んで捨てたいところだったが、そのためにハサミや手を汚すのが癪だった。かといって手洗いする気も、洗濯機に放り込む気にもならなかった。丸め、ハンドペーパーに包んで再度ごみ箱に叩きつけた。藍色の微妙な色合いと紅い刺繍に惹かれてこのランジェリーを買った。まさかこのような感情とともに捨てなければならなくなるとは思わなかった。
 揉みくちゃになったペーパータオルを見下ろす。寒くなった。浴室へと移る。バスタブには蓋がかかっていた。持ち上げてみると、湯は透明だった。入浴剤が入っていない。義弟は風呂を待っていたのだ。
 済まないことをした。どう詫びても消えない。なかったことにはできない。覆せない。
 夫を裏切った。
 夫を裏切った。
 夫を裏切ってしまった!
 汗を沁み入った粘こい肌を抱く。アルバイト先の帰路からやり直せないだろうか。
 新たに厭な汗が滲みはじめた。
 裏切るつもりはなかったのだ。夫以外に身体を赦すつもりはなかった。けれどもそれを誰に訴えればいいのだろう。腹の奥底に生まれた澎湃(ほうはい)は、オレンジ色の悪魔が口外せずとも、そしてまた彼女自身で否定し続けたとしても、それは表面上の話なのだ。否定に躍起になり、しかしできない戸惑いこそが、あの男の肉体に魅せられてしまった紛うことなき事実だった。
 雨が雪へ変わるように、澎湃は底無しの泥沼に変わり、今こそ凪いではいるけれども、何者かが界面に触れた途端、果てのない淵源へ引き摺り込むのだろう。
 夫を裏切ったつもりはないのだ。けれども彼女は己を説得することすらできなかった。オレンジ色の災難に対する感情の説得はできた。しかし肉体が狂喜したことはどう否定しよう。口だけで否定しきるには、まず疑念が真後ろをついて回る。
 だが、夫を裏切るつもりはなかったのだ。認めずに居続けるしかない。
 司冴はシャワーのコックを捻った。冷水が降り注ぐ。
 彼女は目を見開いた。目頭が熱くなる。
 妹は無事に帰ってきたのだ。目的は果たせた。軽率な遊び方をしていたとしても、高校生の身でありながら酒を飲んでいたとしても、惨事に巻き込まれていいことにはならない。
 徐々に温かくなる雨が彼女を小さくさせた。
 浴室の扉が開き、彼女はさらに小さくなった。
「あ、あ………」
 だが思い出せ。ここは自宅マンションだ。
 鏡に人影が映る。見慣れた体格だった。適度に筋肉ののった胸板には一筆書きのような古疵が刻まれている。
 おそるおそる、彼女は振り返った。
「おかえりなさい、あなた……」
 セットを解いた焦げ茶色の髪は夫の麗示だった。鋭い眼差しが彼女の裸体を射抜いている。
「今、出ます。ごめんなさい、こんな時間に……」
 まだ湯で身体を濡らしただけの状態だったが、夫は身を粉にして、深夜帯まで働いているのだ。のうのうと専業主婦をし、アルバイト代を妹の小遣いや学費に充てられるのは夫の稼ぎがあってこそだった。
 夫の麗示は司冴と目を合わせていながら、彼女がいないかのように直進した。
「……」
 常に顰められた眉の意図は、毎日共に暮らしている司冴にも分からなかった。
 シャワーの下まで来た夫は、彼女の身体に腕を回した。共に濡れる。彼は腰にタオルを巻いていた。
「麗示さん……」
「いろ」
「え?」
「出るな」
 夫の手がブラジャーよろしく彼女の胸を包んだ。
「麗示さん……」
 何故、今日なのだろう。妻としての務めを果たせるかもしれないというのに、彼女の身体の中には夫ではない男の精が残っていた。
「明日」
「は、はい……」
「水族館にでも行くか」
 けれども、今から入浴し、就寝したとして、夫は何時間眠れるのだろう。
「麗示さん、明日お休みなの?」
「夕方に出る」
 夫の手がシャワーラックからボディスポンジをとった。淡いピンクのネットタイプは司冴のものだった。この上に紅いボトルからピンクパールの液体を出し、大きな薄い指が揉み拉(しだ)いた。ローズの香りが漂う。

3

 泡を纏った夫の手が司冴(つかさ)の肌を這った。首を洗い、胸の下を洗い、鳩尾を洗う。普段とは洗い方も洗う手順も洗うところも違っていたが、止めさせようとは思わなかった。
 何故、今日だったのか。
 夫を裏切った天罰だ。
「麗示さん……」
 口数こそ少ないが、優しい夫だ。常に眉間に皺を寄せ、睨むような眼差しをくれているが、寛大な夫だ。何故、裏切ることができるのか。
 背中が泡まみれになると、またもや固い抱擁があった。彼女にはない厚い筋肉を感じる。
「……」
「麗示さんのお背中も流します……」
「いい」
 夫は彼女の膝まで洗うと、シャワーを掛けた。そして胸を隠す妻の裸体を眺めた。観賞していた。薄い唇が片方吊り上がる。
 彼は掌でシャワーの湯を掬うと、妻の三角州に手を差し入れた。
 司冴は目を瞠(みは)った。不貞と不潔の証が今、暴かれようとしている。
「麗示さん……そこは、自分で……」
 けれども夫はやめなかった。深爪に近い指が彼女の内腿の間に挟まった。
「麗示さん、汚いですから……」
 睨むような上目遣いが向く。
「汚いから洗うんだろうが」
 腿の柔らかさで遊んでいた手が陰阜に潜った。
「麗示さ、ん………」
 親指だけ別行動だった。秘裂を捲り、控えていた雛を撫でた。
「あ、ん……」
 痛みに近いが痛みではない感覚が身体の中心に響く。
 司冴は口元を押さえた。薄い手が口元の細腕を下方へ引っ張った。
 肉芽の表面で、夫の腠(ししわき)を感じた。徐々に力が入っていき、指紋がついてしまいそうだ。
「麗示さん……」
 親指は弾力を潰した。勃ち上がることは赦されない。肉珠は拉(ひし)げたまま転がされる。
「ぁあ……」
 確かな痺れが甘く広がる。その奥で、2本固まった指が司冴の股底を調べていた。
「ふ、ぁ、……」
 夫の指が彼女への入口を見つけた。内部へ入っている。野良狗の垢が滑りを良くしていた。夫の指の硬い肌理(きめ)も、関節の張りも感じられない。単純で容易な夫の来臨が今は物侘しい。 
「麗示さん……」
 司冴は夫を覗き込む。普段どおり冷ややかであるべき双眸は熱を孕んで見えた。シャワーは42℃で設定されている。湯船に注ぐには熱かったが、シャワーは外気に冷やされ、肌に降る頃にはちょうどよい湯加減になっているはずだ。けれども彼の目は妻の瞳を待ち受けていた。
「麗示さん……あ、あ……」
 外側の敏感な核とその真裏を擦り上げれ、彼女は夫の肘を掴んでしまった。この手はどういう手だったか。どういう手で以って、生涯愛すると誓った人に触れたのか。関節の目立つ腕から指を解く。
 夫の唇がシャワーと共に降りてくる。他の男に貪られたことも知らずに、軽く弾んで離れていく。
 過ちなのだ。
 反省している。
 今後一切、夫を裏切らない。この人に忠義を尽くし、生きていく。
 司冴は夫の肘を掴んだ。引き寄せる。頭ひとつ分よりも身長差があるというのに簡単に動いた。
「もっと……キスして、ください………」
 雨樋のごとく水を滴らせる夫の眸子(ぼうし)はシャワーの設定温度よりも熱く揺らめいていた。
 止め処なく落ちてくるシャワーの湯も、抱き竦める肉体も熱いというのに背中は冷たかった。
 タイルと夫の筋肉に閉じ込められて、身動きは取れなかった。分厚い腕に指を絡め、唇を捧げる。何度も合わさりはしたが、夫は入ってこなかった。離れていくことに怯えた。司冴は自ら夫の唇を吸う。
 夫は離れた。
 沸き返った眼光と行動の違いに、彼女は狼狽える。
「ごめんなさ………あっ」
 婚孔に入った指が動いた。臍へ向け、上下に動く。
「あ、あ、あ、……」
 内部を知り尽くした手淫だった。夫ではない男で果た身体は、また新たな餌付け人を見つけ、悦んで媚びた。独り善がりに締め付けるのではなく、餌くれ人も悦ばせようと躍起になって蜿(うね)る。
 野良狗の垢と、夫のために滲み出る貞操の露が混ざっていく。
「あなた……」
 司冴は目を閉じ、唇を噛む。蔑むべき女を疑う由(よし)もなく愛撫する夫が哀れでならなかった。
「司冴」
 額には唇が、秘実には親指が添わる。同時だった。連動していた。上と下が互いの肉感で弾む。
「ぁあんッ」
 腰はタイルを離れ、夫へ向けて突き出てしまう。掌は薄くともしっかりした指が内部で鈎を作る。的確な指圧が姻穴を狭くしる。
「麗示さん……、麗示さん……、ああん……麗示さん……っ」
 すでにこの身体は屈服した相手がいるのだ。法律や世間の承認だけではない。身も心も平伏した。この男の庇護下に入ることに幸福がある。そしてまたこの男を幸福にしてこそ生きていく甲斐がある。
 蜜を溢れさせた情肉は出ていこうとする夫を引き留める。しかし引き留めては、悦楽の源泉を突いてはもらえない。感情と欲望が乖離する。
「ああ……、麗示さん…………、麗示さん…………あんっ……」
 夫は我儘で不合理な妻の欲筒を深く理解していた。蠕動(ぜんどう)に合わせ抽送を変えた。突き方も変えた。無限の湧水のように蜜が滲み出る。おそらく野良狗の垢も濯ぎ流してしまった。
「麗示さん……、あ、あ、あ、……麗示さん、好き………ッ、好き……」
 彼女の告白は、タイルが湯に殴打される音に混ざった。
「麗示さん…………あんっ……」
 最も好い箇所を二本の指先が押した。親指がその外側から肉殻を左右に轢いた。
「イけ」
「あ、ぁんんんっ、!」
 司冴の腰が激しく跳ねた。尾骶骨(びていこつ)がタイルを叩く。尻肉が引き締まり、膝頭が浮沈する。半開きになった彼女の口元からはシャワーの軌道から外れているというのに、一筋の流れができていた。
 強烈な収縮は、肉体の持主の司冴でさえも制御できなかった。夫の指が失くなってしまうかもしれない。
 妻を絶頂をさせたというのに彼は指を抜きはしなかった。むしろ絶頂の最中にいる妻にさらなる快楽を与えようとしていた。
 余韻に合わせた指遣いがオーガズムを長引かせる。
「ああん……麗示さん……」
 上体はタイルに凭れさせ、下肢は夫に委ねていた。
 強い粘性を帯びた白濁が夫の掌に溜まっている。シャワーの湯が飛び込んできても、混ざり合うことなく分離している。
「麗示さん……」
 肩で息をしながら、司冴は夫の腰のものを見遣った。猛りがタオルを押し上げている。呼吸を整え、タイルに膝を下ろしかけたところで、夫の腕に制される。
「麗示さん」
 夫の目が熱心に司冴を見下ろしていた。


 司冴は妹にベッドを渡し、ソファーで寝ていた。背凭れを倒せば地合いの硬いベッドとそう変わらない。
 肌寒さで意識が浮上する。寒さのせいではなかったのかもしれない。身体に柔らかな重みが加わった。肌寒さが薄らいだ。
「麗示さん……?」
 目蓋は開かなかった。まだ半分寝ていた。1人の名前しか出てこなかった。
 返事はない。聞こえていたとしても、夫は返事をしなかっただろう。
 ベッドと化したソファーが沈んだ。人の気配がある。まだアルコールの抜けきれていない身体は眠気を拭い去れなかった。浮かべば沈む。意識も然り。

 目が覚めると、リビングではなかった。司冴はソファーとはまた別のベッドの上にいた。餅巾着のような分厚い掛布団に包まれている。
 ベッドの他には本棚と勉強机、絵画用三脚があるだけの殺風景な部屋は義弟の私室だった。飾り気もない。精々、窓辺にサボテンの鉢が置いてあるくらいだ。
 機能美に長けた時計を見れば昼前。司冴は飛び起きた。そして足音に構わずリビングへ向かった。
 ソファーはソファーの形に戻っていた。夫が腰を下ろし、新聞を広げている。
「ごめんなさい、麗示さん。わたし、寝過ごして……」
 新聞紙が下がり、セットされていない焦げ茶色の髪の奥から鋭い眼差しが向けられる。司冴は口を噤んだ。
「あ、お姉ちゃん、起きたの?」
 妹の声がする。昨晩着せたパジャマのまま、ダイニングテーブルでパンケーキを食べていた。
「かのちゃん。調子はどう?」
「調子はどう、って? お姉ちゃんにデート邪魔されて、とってもムカついてる」
 パンケーキにメープルシロップを追加しながら妹は鼻を鳴らす。
「ご、ごめんなさい……」
 司冴は夫を気にした。
「義姉さんは召し上がりますか、パンケーキ」
 カウンターの奥に義弟がいた。
「あ……桜叉(さらさ)ちゃん」
「桜叉の部屋で寝たんだな」
 新聞が閉じた。そして夫が立ち上がる。
「ごめんなさい、わたし……酔ってたみたいで……」
 司冴も訳が分からなかった。ワープでもしたというのか。義弟の部屋に入った覚えはない。けれども酒気を帯びていた人間の言い分を誰が信じよう。失態の言及はすべて言い訳だ。正当化できない。義弟の部屋に侵入し、部屋の主を追い出して、睡眠を貪ったのだ。
「召し上がりますか、パンケーキ」
 義弟はケロイドに覆われた美貌を少しも歪めることなく、再度同じ問いを投げる。
「い、いいえ、結構です。ありがとう」
 夫が肩を抱いた。そしてダイニングテーブルへと促される。
「麗示さんは、朝食は……」
 淡白な目が司冴を見るだけだった。平生(へいぜい)の夫だ。寡黙な人なのだ。
 訊きはしたが、答えは分かっている。夫は休みの日の朝はコーヒーだけだ。
「かのちゃん。食べたらちゃんと、おうちに帰るのよ」
 妹は膨れ面でパンケーキを食む。
「お父さんも心配しているでしょうし」
「うるさいな」
 司冴は怯んだ。そして夫の顔色を窺った。うるさいのは嫌いなはずだ。妹との話の終わらせ方はよくよく心得ている。
「お姉ちゃんの所為なんだからね。タクシー代、出して」
 妹がこのマンションに遊びに来るときはバスや電車だった。駅からもそう遠くない。タクシーでなくても帰れるが、タクシーならば途中で遊び回ることなく、自宅直通で帰るのだろうか。
「うん……」
 司冴はカバンを取りに行こうとした。
「俺が出す」
 夫が立った。そして財布から紙幣を1枚取り出した。
「あ、麗示さん……でも、悪いわ」
「ありがとう、麗示さん! 話分かるぅ!」
 夫は紙幣を叶逢(かのあ)に差し出すと、また何事もなかったかのようにダイニングテーブルチェアに腰を下ろした。冷ややかな目が司冴に向く。
「ごめんなさい、麗示さん……」
 妹にも優しい夫を裏切った。
 司冴は夫の眼から逃げた。幸い、妹は何も覚えていないようだった。もし夫と義弟がこの場にいなかったら、年長者の家族として、恐ろしい名前を口にして注意しなければならなかったのかもしれない。
 妹がいるために、隣に座った夫の手が司冴の膝の上の手に重なった。
 セックスレスだった。ただ、挿入がないだけだ。昨晩、日付としては今日、風呂場であったように、夫は接触を試みようとしている。寡黙な人だ。根は人嫌いのようなのだ。それでも家庭の構成員として務めを果たそうとしている。
「あなた……」
 大きく薄い手に握られる。
 夫を裏切るつもりはなかったのだ。
「義姉さん」
 義弟の呼びかけとともに重なった体温が引いていった。
「断られましたが作りました。残したら僕がいただきますので、お召し上がりください」
 喫茶店の給仕よろしく、司冴の前にパンケーキの乗った皿が出された。白地に金色の入った皿が採光豊かなリビングで輝いて見えた。
「あ、ありがとう……ごめんなさい、寝坊しちゃって。それにベッドまで……」
「いいえ」
 はたから見れば、忽如(こつじょ)として機嫌を悪くしたような冷淡な響きがあった。
「お姉ちゃん、専業主婦なんだから、しっかりしなきゃダメじゃん。あんまりだらだらしてると捨てられちゃうよ? 専業主婦って世間じゃ寄生虫だなんて言われてるんだから」
「そ、そうね……ごめんなさい。しっかりします」
「そうやってすぐ謝っておけば、赦されると思っているでしょ」
 妹の握るデザートナイフが司冴を指す。
「あ、ごめ……そ、そうね。気を付けるわ」
「麗示さんってすごくカッコイイし、スマートだし、こんな人がお姉ちゃんを選んでくれたのってすごいコトなんだよ。だって引く手 数多(あまた)でしょ。お姉ちゃん、気が弱いくらいしか取柄ないんだからさ、あんまり調子乗らないほうがいいって」
 改めて指摘されるまでもないことだった。司冴が日々、心掛けていることだった。毎朝、或いは毎晩、夫と顔を見合わせるたびに思うことだった。
「義姉さんのお料理は美味しいですし、何より優しいです」
 カウンターに戻った義弟が容喙(ようかい)する。夫と並んでそう喋りの好きではない義弟が口を挟むとは、司冴も思っていなかった。
「そ、そう、お姉ちゃんって優しいの。だから心配なの」
 最初は同年代の姻戚の美貌に興味のあったふうな叶逢も、彼が無口で希薄な外面をしていると知ると、不穏な傷痕と相俟って気味が悪くなったようだ。平生の物怖じしない人懐こさが、彼には発揮されない。引き攣った表情にも、苦手意識が滲み出ている。
「ありがとう、かのちゃん、桜叉ちゃん。気に掛けてもらって、嬉しい」
 しかしその義弟の思い遣りも裏切っている。



 妹を帰らせた後、約束どおり、司冴は夫に連れられ水族館を訪れた。館内は空いていた。しっとりした足音が静寂に沁み入っていく。
 来館者の想定年齢層が高く設定されているようで、ディスプレイは海洋生物を観察するためだけでなく、芸術的な意匠も凝らしてある。
 ここは水族館だ。魚やくらげを観るところだ。しかし司冴は、ネオンのような青色を浴びる夫の横顔を観ていた。焦げ茶色の髪が光に溶けていくようだ。
 夫を裏切ってしまった。
 夫がくらげの揺蕩う水槽から司冴を向いた。年下の美形の男だった。司冴とはとても釣り合わない相手だった。学歴、就職先、収入という客観的な判断基準もある。
 あまりにも格上の夫を、何故、裏切ってしまったのか。何か不満があったのだろうか。本当は自ら、夫を裏切ったのではなかろうか。
「疲れたか」
「い、いいえ。久々のデートだったので、嬉しくて」
 疲れているのは、朝早くから夜遅くまで働き、短い睡眠を経て、ここまで運転してきた夫のほうに違いない。
 魚ではなく夫を観ていた。彼の懐には深海魚が住んでいるのだろう。
 大水槽の広間に当たった。青いスクリーンに影絵が動いている。竜巻きよろしく銀色に輝くのはイワシの大群か。
 司冴は隅に設けられたベンチに座った。背の高い夫が銀影を見上げている。その後ろ姿を眺めていた。
 年下だというのに年長者の風格の漂う夫が、今は幼く感じられた。
 夫が振り返る。色の存在できない暗鬱な青のなかに透けていってしまいそうだった。
「具合が悪いか」
 司冴は首を振る。
「この静けさが好きです」
 日頃から剣呑な目に水槽のブルーが泳いでいる。
 夫が隣に腰を降ろす。同じ家で過ごし、同じ洗濯用洗剤を使っているというのに、夫の匂いは彼女を火照らせる。ボディソープとシャンプーの違いなのだろうか。柔らかさと甘さだけではない香りがする。だが香水のような鼻に訴えかける匂いでもない。
 抱き寄せられ、司冴の身体が傾いた。しっかりとした肩を枕にする。
 カーペットを踏む跫音(あしおと)が、水中を模した場所だというのに森閑に滲んでいく。
「水族館は、あなたみたい」
 抱擁が強まる。
 魚が泳いでいく。水槽前の影絵が蠢いている。時の流れは確かにある。けれども時間を忘れた。同時にこの瞬間に焦り、今を生きていないような気もした。
 終わりばかり見ている。
「麗示さん……」
 出会った当初、夫はまだ大学生だった。初めて目を合わせた時の当時の夫の表情を見たのは、後にも先にもあの時の一度きりなのだろう。この夫を知っていくたびに、いかほどの衝撃が彼を襲ったのか分かる。彼はあまりにも泰然自若としていた。威風を纏い、常に堂々と構えている。その彼がまだ若かったとはいえ、目を見張り、髪を逆立て、肩を怒らせた姿は、後から司冴を戸惑わせた。一目惚れだと聞いたからだ。
 司冴は高校卒業後、就職している。大学進学への意欲はあったけれども、学費の工面ができなかった。高偏差値としても、富裕層ばかりが通う大学としても有名な慶鷹(けいよう)志塾大学の学生と釣り合うはずがない。
 出会いはファミリーレストランで、夫は客だった。司冴は副業として夜間にアルバイトをしていた。
 一目惚れだという夫の猛烈なアプローチで交際に至ったが、今や逆転している。夫の口数は減った。接触も減った。所詮は一目惚れ。一目で得た魅力など、すぐに冷めていくものなのだ。
 新たに夫の好みの人が現れたなら、そのときは破局が訪れるのだろう。そして今、その途中に立っているのだろう。
 夫を裏切った罪がある。
 元々、釣り合わない立場だった。何かの間違いで交差したのだ。間違いは間違いと気付いたが最後、修正されていくものなのだ。
 夫の情熱が完全に冷めきり、燃殻となったときは、潔く別れなければならない。それが年長者としての意地だ。劣後した立場の矜持だ。
「もう、大丈夫よ」
 夫の腕を剥がす。哀れな人の匂いがした。まだ包まれていたいが、その資格はもうなかった。けれど持っているふりをしなければならなかった。
「妹に言われたことを気にしているのか」
 剥がしたはずの腕がふたたび彼女の肩に戻ってくる。
「え?」
「お前はいてくれるだけでいい」
 しかし、その中に、不本意だったとはいえ不貞行為を働いていたとは想定していないのだろう。
「外野の言うことは気にするな」
 夫の声をあと何度聞けるのだろう。いずれは別の人に、低くも艶を帯びた声音を聞かせるのだろう。
「妹の言うことも一理あります。いつも勘違いしちゃうから……気を引き締めないと」
 夫を見たことのある知り合いに羨ましがられることが多々あった。それは社交辞令であり、それは夫への讃美であり、司冴の功績ではない。



 出勤白打刻直後に新人の業務の手落ちが見つかった。
 明日の朝、配達業者に渡すものの中身が違っていたのだという。
 修復作業が済むまでに4時間かかった。この日の仕事はそれで終わった。すでに他のアルバイトは帰っていた。予定のシフトよりも大幅に残業した主婦もいれば、勤務時間が6時間を越えるため途中で帰る主婦もいた。
 最後まで残ったのは司冴だった。引き継ぎノートを書いていると、結婚指輪が目に入った。外すのを忘れていた。銀色の輝きを眺める。
 作業部屋のドアが開く。壁の陰から濡れたような黒髪が現れたとき、司冴の気は重くなった。
 清潔感がないわけではなかった。むしろ体格に合ったスーツは広告から抜け出てきたようだし、スーツの販売会社は彼を広告モデルにするべきだった。否、否、否、一見外観こそモデルに相応しいが、彼の纏う黴臭く湿気を放った雰囲気は紙面を通り抜け、販売促進どころかむしろ逆の結果を期待できるだろう。
 悪臭を放っているわけでもなかった。彼の佇まいが目に入ると黴臭さを嗅ぎ取ってしまうこともあるが、鼻はしっかりと彼の放つあっさりした石鹸の匂いを拾うのだった。
 鼻息を荒げるでもなく、言葉遣いが荒いわけでもなかった。
 けれども司冴はこの社員と顔を会わせるたび、息苦しくなるのだった。鉢合わせを厭うあまり、気配を感じるやいなや廊下を引き返したり、途中にあるトイレへ身を隠したこともある。
 最も彼女が嫌だったのは、ハエ取りテープの粘着面のような眼差しだった。
 雨都(あまみや)燈衛(ともえ)の姿が完全に現れた。司冴のいるほうを向いた刹那、猫背が伸びた。
 カーペットが落ち着いた足取りを吸っていく。司冴がノートを書いているテーブルの前で止まった。
「遅くまで、ご苦労……」
 猫背は伸びたが、俯いているためか、怖気付いているような感じがあった。
「お疲れ様です」
 司冴は一度だけ顔を上げ、目を合わせた。それが礼儀だと彼女は思っていた。会社である。一個人の感情を見せるところではない。
 しかしこの陰気な社員は顔を逸らした。失礼な男なのだ。社員や他のアルバイトとは顔を突き合わせ、目を見て、はっきりとした物言いをしているというのに、今は震え、怯えている。
 嫌われているのだろうか。しかし嫌われるほど関わりがない。
 態度や為人(ひととなり)ではないのだろう。もはや、容貌や雰囲気、若しくは声音で生まれた厭悪なのだろう。司冴もそうだった。
 司冴はノートに目を落とした。引き継ぐ内容があったはずだ。しかし思考はボールペンの試し書きをしたように渦を描く。布団を真上から被せられ、体重を乗せられているような心地がした。
「字が綺麗だ」
「え……あ、ありがとうございます……」
 顔を上げられない。シャープペンシルも動かない。
「いつも真面目に働いてくれて、助かっている……」
「み、皆さん、好い人たちですもんね……」
「特に日下(くさか)さんは、よくやってくれていると思う」
 何か難しい仕事でも頼みたいのだろうか。それならば世辞は不要だ。
 司冴はおそるおそる顔を上げた。首が痛みそうだった。けれども目を合わせれば逸らされるのだ。
「皆さんが好くしてくださるので、わたしも働きやすいです」
 新人の大学生の話と、ベテランの主婦の話を振った。彼女たちのほうが業務に直向(ひたむ)きだ。頻りにメモを取り、新人ながらに早く職場に慣れようと気を回そうとしている。ベテランの主婦も、リーダー気質が時折空回ってはいるけれども面倒見が良すぎるあまり、他のアルバイトのカバーに奔走している。
 まだ梅雨を背負っているような社員は頷いて聞いていたが、彼は休憩中なのだろうか。
「ごめんなさい、話し込んでしまって……お仕事の邪魔をしてしまいましたね」
「いいや、今は休憩中だから」
 司冴は壁掛け時計を見遣る。
「今ですか」
 夕飯時だ。
「残業になった」
「そう、なんですね……」
 つまり暇潰しに使われていたのだ。夜の休憩時間というのは余程、やることがないらしい。
「日下さんみたいに、俺も新人の教育を頑張らないといけない……」
 事務所のほうでも、新人がミスをしたようだった。作業部屋とはまた別の緊迫感が漂っていたのを、廊下を通るたびに目にした。
「アルバイトと社員では、勝手が違いますから」
 話を終えたことにして、熱心な視線を浴びながらシャープペンシルを走らせる。
「そろそろ帰ります」
 ファイルを閉じた。解散の合図のつもりだったが、雨都燈衛は頑なに動こうとしない。
「今日は指輪、嵌めたままなんだな」
 青白い顔に濃い影が落ちる。
 司冴は指輪が燃えたのかと思った。咄嗟に左手の薬指を抱いていた。
「な、なんですか……」
 アイラインを引いたような睫毛が重く伏せる。
「また明日」
 司冴は寒気を耐えて、社員の後姿がドアに消えるのを待った。

4


 倉庫整理を頼まれた。図書館の本棚よろしくラックが並んでいる。この上に乗った箱の中身を整理し、名簿にまとめる作業だった。男性社員の藤宮と組んでいたが、電話で呼び出され、暫く経つ。
 倉庫の窓は暗幕がかかり、床はコンクリートが剥き出しで、冷暖房は設置されてはいるものの、埃をぶら下げているところからすると長年使われていないようだった。
 司冴(つかさ)は手を擦り合わせた。薄らと白い層のできた段ボールの中身を空ける。サインマーカーで段ボールに番号を振り、メモに振った番号と物品名、個数を記す。後からデジタル化するらしい。
 3段ラックの1段目ならば司冴ひとりで出し入れできた。2段目も軽いものならば片付けられる。けれども3段目は難しい。ひとりでできるものから作業を済ませていく。
 倉庫のドアが開いた。藤宮が帰ってきたに違いない。戻ってきて早々、肉体労働を頼むのは気が引けたけれども、仕事ならば仕方がない。
 彼女は口を開いた。
「日下さん」
 けれども彼女の声は出なかった。喉を震わせる前に静止した。来たのは藤宮ではない。
 本人の雰囲気には相応しくない甘く艶を帯びた声質は、司冴にとっては嫌いな甘酒を思わせる。
 ラックの陰に隠れてしまったが、いつまでもそうしてはいられないのだろう。
「あ、雨都(あまみや)さん。藤宮さんを見ませんでしたか」
 藤宮が何か厄介げな電話を取っていたことについて、彼女は知らないふりをした。
 足音が近付く。ラックの陰から、この倉庫のような陰鬱な空気を纏う雨都 燈衛(ともえ)が姿を現す。
「藤宮の代わりに来た」
 ジャケットを脱ぎ、ウェストコートが平生(へいぜい)よりも彼を爽やかに見せる。けれども青白い顔と漆黒の髪、暗がりを強調する蛍光灯のために寒そうに見える。
「藤宮さん、戻れなさそうなんですか」
「俺だと不満か」 
 彼も仕事を抜けてきている。とても正直に告げる気にはならなかった。
「いいえ。よろしくお願いします」
「何をすればいい?」
「段ボールが出してあるので、それをラックに戻してください。下から順番に番号を振ってありますから、場所は分かるはずです」
 顔のすべて、眉毛の本数、角度、睫毛の剃り具合、鼻の毛穴、唇の皺までをすべてすべて観察する目から司冴は背を向けた。
「力仕事ですけれど、よろしくお願いします」
 顔を見て話さないのは失礼だろう。けれども人の顔を真っ直ぐ凝視しているのも威圧だ。
「分かった」
 だが、雨都燈衛はすぐには動かなかった。数秒、佇んでいる。
「あの……」
 説明に不足があったとでもいうのか。雨都燈衛は司冴に身体を向けたまま静止している。
「寒くないか」
「わたしは、大丈夫です。暖房を点けますか。埃っぽいですけれど……」
「いいや、点けなくていい」
 ベテラン主婦も新人の大学生女子も、この社員に憧れや関心を示していたが、所詮は容貌だけだ。口を開けば変わり者だ。対峙すれば異様な空気を醸し出している。
 先程までは集中を促す静寂だった。けれども今は落ち着かない。藤宮と作業していたときのほうが音は多く、大きかった。けれども司冴は後方の些細な物音に、肌を鑢(やすり)で擽られるような苛立ちを覚える。
 一度で済んだ計数も信用できなくなった。精度が落ちたのだ。2度、3度数え直さなければならなくなった。
 雨都燈衛の肉体労働が彼女の作業に追いついた。同じ列にやって来る。
 司冴は焦った。藤宮の不在の間、2段目の段ボールは半分ほどラックから抜き、身体に凭れさせて中身を数えていた。軽いと思っていたが、傾いた途端、重みが一斉に押し寄せる。彼女はすぐに体勢を整えることができなかった。
「あ」
 脚を開いて重みに耐えるべきだった。脚が間に合わない。それどころか軸脚を開こうとさえしていた。段ボールは彼女の事情など汲み取らない。容赦なく彼女の胴体に迫った。
 足の裏がコンクリートの地面を滑る。身体が傾いた。視界が回る。
 目の前が暗くなった。尻に衝撃がある。頭にも衝撃があったけれども、コンクリートの平坦な堅さではなかった。この倉庫にはそぐわない爽やかな匂いがする。石鹸からよく薫る、薄らとした花の香りだった。
 その後に、鈍い音があった。
「ぅ、っ!」
 呻き声が聞こえる。
 段ボールが転がる。司冴は光を取り戻した。真上に雨都燈衛の青白い顔がある。黒い髪が簾(すだれ)と化して翳っているにもかかわらず、黒い双眸は爛々と燃えている。
「あ……雨都さん……」
 雨都燈衛は眼差しで司冴の瞳孔を穿(ほじく)らんばかりだった。彼の白い首が軋んだ。喉に沈む飴玉が浮沈するのが見えた。
「あ……のッ、!」
 唇が震えた。雨都燈衛の姿は大きすぎて見えなくなる。視界いっぱいに広がっている靄の正体が雨都燈衛だった。
 艶を帯びた溜息が司冴の頬を撫でていく。
 何が起きているのか、司冴はすぐには理解できなかった。理解したくもなかった。むしろ否定を求めてもいた。けれども導き出される認識はひとつ。キスしている。否、本当にそうであろうか。それはつまり夫を裏切っているということになりはしないか。また、夫を裏切っている。一度ならず二度も。
「嫌!」
 司冴は眼前の影を押し退けて。布の奥に筋肉の硬さと質量を感じる。退いたのは彼女の力ではなかった。
 雨都燈衛は立ち上がる。司冴の後頭部とコンクリートに挟まったものに引かれ、彼女も上体を起こした。
「あ、あの………」
「痛むところは」
「……ないです」
 身体に痛みはなかった。コンクリートの上に転がる段ボールを一瞥した。
「雨都さんは……?」
 彼はシャツの袖を叩いている。
「大丈夫だ」
 振り返ったウェストコートの腰の辺りが白く汚れている。
「後ろが汚れています。はたきますね」
 気は進まなかったが、誰の所為で彼は汚れたのか。彼女は分からないわけではなかった。
「……た、頼む」
 雨都燈衛の背中が縮む。声が澱む。戦慄いているように見えた。
 司冴はウェストコートの後面を払う。広い肩幅から、下肢に向かって狭くなっていく。しかし引き締まった腰は近くで見るとまったく華奢ではなかった。大きな上半身を小さな尻と長い脚で支えている。体格が夫に似ている。
 汚れは落ちた。司冴は手を降ろす。後姿を眺めてしまった。左肘が震えている。
「左腕、大丈夫ですか」
「特に問題はない」
 彼の横顔が俯いた。
「無理はしないでくれ。心臓に悪いから……」
「す、すみません……」



 その夜、司冴は寝付けなかった。ベッドに入ったはいいが、唇に残る感触に対する疑問が渦を巻いていた。
 重さに耐えられず、たまたま落ちた先に唇があったのだ。
 雨都燈衛のその後の反応をみるに、そうに違いない。何の言及もなかった。けれど故意にしろ事故にしろ、言及しないのは当然だ。言及しようものならばセクシャルハラスメントだ。
 あれは事故なのだ。人工呼吸と同じなのだ。仕方がなかった。他者を救うために起きた接触に、それ以外の意味を見出そうというのは野暮だ。禁忌だ。
 彼の善意を踏み躙(にじ)っている。しかしたまたま身体を支えきれなかったところに唇と唇が合わさることがあるだろうか。
 では故意だとしたら、何故、そうする必要があったのだろう。司冴は雨都燈衛の年齢を知らないが、若いのではなかろうか。青白いが肌艶はよく、発声と語気のために目立たないが声質はマシュマロを溶かしたココアのようだった。雰囲気のために不特定多数から好意を向けられる感じはなかったが見た目は悪くない。小さな枠組み納まれば艶福家でいられるだろう。実際、老若問わず女性社員や女性アルバイトからは憧れられているようだった。何故、わざわざ、既婚者の唇を狙ったのか。
 特に意味はないのだろう。
 司冴はベッドから降りた。水を飲みたかった。布団の外は寒かった。カーディガンを羽織る。
 リビングからは薄明かりが漏れていた。明かりの消し忘れかと思っていたが、ダイニングテーブルセットに義弟が座っていた。
 テーブルの上のキャンドルを凝らしている。寝間着ではあるもののそれだけだ。防寒が足りない。
 司冴の存在にはまったく気が付かない様子だ。
「桜叉(さらさ)ちゃん、まだ起きていたの?」
 蝋で作られたような肌に刻まれたケロイドが炎の揺らめきで蠢いて見えた。ガラス玉と見紛う無機質な眼球もまた緋色が揺蕩う。
「……」
 義弟は灯火に集中していた。
 夫の話では、大きな事故に巻き込まれたのだという。以前は表情の豊かな子供だったが、頭部の怪我が彼から表情と感受性を奪ったそうだ。
 司冴は義弟から目を離さず、グラスに水を注いだ。
 桜叉は微動だにしない。炎だけが動いている。目を開けたまま寝ているのではあるまいか。
 雨都燈衛に炙られた喉を潤すと、彼女は義弟の傍に回る。
「桜叉ちゃん。危ないわ。それに寒いし。もう寝ましょう?」
 骨張った肩を揺する。義弟は10代半ばの男性にしては、肌も顔付きも中性的な丸みを持っていた。けれども肉感や骨感を見るに女性的な雰囲気はない。
「義姉さん」
 義弟はキャンドルを凝視したままだった。
「うん?」
「義兄さんを愛していますか」
「もちろん。どうして……?」
「義兄さんも、義姉さんを愛していると思います」
 潤したばかりの喉がまた乾いていく。しかし水が飲みたいのではなかった。むしろ腹に溜まった水が変容していくようだった。
「どうしてそんなことを訊くの……?」
「僕は義姉さんが好きです」
 司冴は心臓を跳ねさせた。だが直後に、その語気には何の甘さも苦しみもないことを知る。
「恩があるとすら思っています。僕に穏やかな生活をくださいました」
「それは麗示(れいじ)さんのおかげよ。わたしのおかげじゃないわ」
 義弟の口が見えないと、まるで腹話術師に操られた人形と見紛う。
「義姉さん」
「なぁに」
「僕は火が嫌いです」
 その顔を見れば納得するほかない。彼の顔半分は拘縮し、変色し、無数の皺を寄せている。この傷跡が彼のピエタ像のマリアのような面立ちに危うい美を与えるのだった。
「うん……」
「義姉さん」
「うん……?」
 義弟は寝言を言っているのではあるまいか。
「焼けるような思いがします」
 司冴は咄嗟に義弟の顔を覗いた。緋色に揺らめくのは炎と陰のためではなかった。火傷の跡に血が滲んでいる。
「桜叉ちゃん! ちょっと……怪我をしているじゃない!」
 司冴は仰天のあまり、キャンドルの火を吹き消した。そして明かりのスイッチに走った。リビングが広くなる。
 桜叉は慌ただしい義姉の姿を目で追う。
「義姉さん、どうなさったんですか」
 司冴は救急箱を掴んでダイニングテーブルセットに置いた。
「血が出てるわ、桜叉ちゃん。どうしたの。何があったの……」
 箱の中からガーゼを毟り取り、血を吸わせた。出血ではなかった。肌の下から滲み出ているようだった。
「義兄さんには、他に好きな人がいます」
 司冴の手が止まった。
「え………」
「義姉さんと出会う前からです」
 義弟の顔に悪意は読み取れない。何の意図があって、それを今告げたのだろう。何故、胸の内に隠しておかないのか。
『桜叉(あいつ)に人の心はない』
 ガーゼが落ちた。
「あとは、自分でできる……? 早く寝ないとだめよ。風邪をひいてしまうから……」
 司冴はテーブルにガーゼを置いた。そして部屋へ戻った。
 夫とは釣り合わない。日々思っていたことだ。だが彼女のなかで得心がいった。想い人本人かその家族か、事情があって結ばれなかったのだろう。自暴自棄になったのだ。それか当て付けのつもりだったのだ。
 家柄も見られる名門私立大学に通っていた夫だ。何故、ファミリーレストランでアルバイトをしていただけのしがない女に言い寄ったのか。家柄のよくない、家族の反対もなさそうな、圧倒的格下の女だからだ。夫からは両親を紹介されたことがない。
 司冴はベッドの前で直立していた。
 また、こうも考えた。義弟は兄嫁の裏切りを知っているのではなかろうか。穢らわしい嫁をいかに兄から切り離すか。仲を引き裂くか。
 夫を裏切るつもりはなかった。
 夫を愛している。
 夫を……
 玄関扉の開く音がした。夫が帰ってきた。足音が近付いてきている。
 ドアは必要なとき以外、開け広げたままだった。寡黙な夫が遠慮も気後れもなく、いつでも外から話しかけられるように……
 明かりが部屋の前を通った。室内を向く。司冴は目を眇めた。
「おかえりなさい、あなた……」
 光から外れた夫が中へと踏み入った。嗅ぎ慣れた匂いが彼女を包む。
「麗示さん……」
「何故、泣いている」 
 指摘され、初めて彼女は泣いていることに気付いた。
「ちょっと、怖い夢をみただけ……」
 知らないうちにできた傷は、目にした途端、痛みはじめる。同様に、彼女は自身が涙を溢していると知った途端、嗚咽を漏らした。
「子供じゃないのに、ばかみたいね」
 夫は身体に触れるが、結婚後、濃厚な交わりはなかった。だが理由が分かってしまった。疑問には思っていたが、いざ具体性を持つと、知らなかった頃に戻りたくなった。
「一緒に寝るか」
「ううん。平気です。お疲れのところなのにごめんなさい」
 額に弾力を感じる。抱擁がいっそう強まった。
 涙が熱く滲む。
 司冴の身体が浮いた。背中と膝裏に夫の腕があった。
 夫は彼女をベッドに置くと、掛布団を引き摺り出し、その身体に掛ける。彼は手を伸ばした。司冴の手を掴み、ベッド脇に腰を下ろす。
「あなた、悪いわ。身体を冷やします。わたし……」
 夫は強く、彼女の手を握った。
 甘える女は嫌いだろう。彼に嫌われてしまう。しかし、いずれ捨てられるのなら、この触れ合いを大切にする選択もある。今を大切にしなければ、そのうち訪れる後悔の日々にまたひとつ後悔を増やすだけなのだ。
「麗示さん……」
 夫の指が涙を拭っていく。
「麗示さんのことが好き……」
 面倒臭い女は嫌いに違いない。何故、嫌われることばかりしてしまうのだろう。まだ勘違いしているのだ。夫の口にしていた一目惚れという胡乱なものの効力を信じている。容貌や能力、家柄や学歴、職業や年収、すべてに劣っていながら、この一点に於いて優越感を覚えている。司冴にそのつもりはなかった。だが実際はどうだ。
「ごめんなさい、麗示さん。もう大丈夫よ。ありがとう……遅くまで働いてくださっているのに、わたしはこんな有様で……」
 夫の表情は夜に呑まれている。
 掛布団の下で繋いだ手が外へ引き摺りだされた。寒くはなかった。夫から与えら体温は高くはなかった。けれど火照っている。彼女の手は挟まれた。今度は爛れそうだった。
「麗示さん……」
 言葉の少ない夫なりに、気持ちを伝えようとしている。しかし何故、彼を信じられないのだろう。
「寝ろ」
「うん……」
 冷えた爪先は汗を出さなくなった。手と同様に疼いている。
「俺もお前が可愛い」
 それは夢だったのかもしれない。




『そろそろ身を固めてくれるとありがたいんだけどさぁ~』
 社員の話し声が聞こえた。
『浅沼さんが行くって息巻いてるけど……なんだかねぇ……』
 中年男女の社員の会話は刺々しかった。
 司冴は事務所を覗き込む。
「おはようございます」
 時間帯に関わらず、挨拶はこれだった。 
 事務所にいた社員の面々が顔を上げ、挨拶を返す。
「あ~、日下さん、ちょっと」
 会話をしていた男性社員が呼び止める。
「はあ」
 事務所へ入ると、コピー機が紙を吐き出し、電話が頻りに鳴っている。入ってすぐに目につく壁にはカレンダーが掛かり、赤や青で業者名が書き込まれていた。
「日下さん。雨都のことなんだけどさぁ」
 司冴は息を呑んだ。
「は、はあ……」
 男性社員は唸った。脇にいる女性社員も苦りきっている。
「今日早退でね。病院行ってるはずなんだけど、連絡つかなくってさ。お金渡すからさ、ちょっとちょいちょいっとなんか買って、アパートのドアノブにでも引っ掛けてきてやってくんない?」
 司冴は面食らう。
「わたしが……ですか……」
「この辺に土地勘あるんでしょ? それにこういうのは主婦に任せておくのがいいんだよ」
 男性社員はチャック付きの小袋に入った紙幣を渡す。
「雨都さん、何かあったんですか」
「運転任せたら、腕が痛いって言うもんだからよ。折れちゃいないと思うが、まぁ、腕を痛めちまったってこったな。確かにちょっと腫れてたような気もする。まぁ、残業させまくってたから、たまにゃ身体ごと休んでもらうかってわけだ」
「わ、わたし、雨都さんのお宅知らないんですけれど……社宅、ですよね?」
「この前引っ越したって言ってなかった?」
 女性社員が口を挟んだ。
「そうそう。でもこの辺だったはずだぜ……ちょっと雨都に訊いてみるわ」
 男性社員はスマートフォンを操作する。
「とりあえず、お買い物に行ってきます……何がいいですか。嫌いなものとか、好きなものとか……わたし、全然、雨都さんのこと知らないので……」
 男性社員は一瞬頬を引き攣らせと笑いはじめた。女性社員も苦笑を浮かべている。
「みかんゼリーとかでいいんじゃないの」
 男性社員はスマートフォンの画面をスクロールしていた。電話帳を見ているらしい。
「わ……分かりました。行ってまいります……」
 気が重くなった。理由をつけて、すでに出勤しているはずの大学生にも手伝いを頼めないものか、司冴は作業部屋を覗きに行った。明日、急遽納品しなければならなくなった品物の封入と梱包に追われている。社員も幾人か投入されていた。
 彼女は玄関へ戻った。履き替えたばかりの支給品のサンダルを下履きに戻す。
 スーパーマーケットが近くにある。まるで履き心地の悪いハイヒールでも履いているかのような歩みで店に入ると、みかんゼリーを3つ、カゴに放り込んだ。スポーツドリンクは2本。電子レンジで食べられる白米4個入りを1パック、レトルトカレーはメーカー違いの中辛を2つ入れていく。まだ金額に余裕がある。カップスープと菓子を足した。片手が痛むのならば片手で食べられるものも必要だろう。賞味期限の長そうな菓子パンも放り込む。
 袋詰めしている間に雨都燈衛の住所が送られてきた。果たして本人の許可は得ているのか否か。しかしドアノブに掛けてくるだけだ。インターホンを押すつもりはなかったし、顔を合わせるつもりもなかった。後から社員経由で報告してもらえば、差し入れには気付くだろう。
 重いのは気分だけではなかった。水分を多く含むものばかり買ってしまった。
 悪感情は炭酸飲料のようだった。しかしひとつ、ふたつと弾けさせながら、赤信号に変わった交差点で立ち止まると、また別のことが浮かんで弾けた。雨都燈衛が腕を痛めたのは、昨日ではないか。昨日、何があったか。倉庫作業だ。彼に庇われた。呻き声を聞いた。
 乾いた風が頬に沁みる。
 地図アプリを頼りに辿り着いた目的地は職場を南に行った住宅地のなかにあった。新しくできた3階建てのアパートで、雨都燈衛の住んでいる部屋は303号室だという。日下家と同じなのが癪に障った。
 ドアノブに引っ掛けるつもりで、顔は合わせないつもりでいた。けれども彼女は失念していた。このアパートはオートロック式なのだ。
 両手の買い物袋が重くなる。爪先が方向転換をしようとしている。
 司冴は深く息を吐いて、エントランスに向かった。
 自動ドアが開き、エントランスの天井は高かった。住宅地のなかの奥まった立地だったのを忘れる。
 辺りを見回していると、緋色の明かりを反射する黒い大理石の壁の一部が動いた。よくよく見ると、それは暗色のダウンジャケットを着た人間だった。ファーとフード、白いマスクで顔ははっきりと見えない。黒い大理石の壁をすり抜けてきた人物はこちらに向かってくる。
 司冴はオートロックへ踏み出す。
「日下さん」
 熱いココアを飲み下したときの灼熱感に似た声が彼女の足を引き留めた。思わず黒い大理石から出てきた人物を捉えてしまった。
 普段にも増して油気のない黒髪には、傷んだ筆で押し付けたような白い輪がかかっている。不織布のマスクは通常の大人用であるはずだが、端が余って浮いている。
「え、あ……」
 彼女のシミュレーションはこうではなかった。エントランスに本人がいるとは、まったく想定していなかった。
「出掛けるところでしたか」
 長い睫毛が弧を描いた。涙袋が浮かぶ。顔下半分が見えないだけで、印象が大きく変わる。否、これはマスクの有無ではないらしい。会社で見せる黴臭さはなかった。
「日下さんが来てくれると聞いたから……」
「お手間をとらせてしまいましたね」
「いいや……それは俺のほうだ。それより、荷物、重いだろう。持つよ」
 差し出されたダウンジャケットから伸びる手は、スーツの袖から見えるよりも血色が好く見えた。
「あ、いえ、でも……怪我されてるんですよね。大丈夫です」
「ただの捻挫だ。それに、右手は何ともない」
 司冴は防寒具に包まれた左腕を睨んだ。
「お部屋までお持ちします。結構重いですから」
「重いなら尚更……片方持つ」
 雨都燈衛は司冴から買い物袋を奪い取る。
「あ、あの……雨都さん」
 オートロックに向かっていく背中に問うた。
「そのお怪我って、昨日……」
「階段で転んだ」
「昨日、わたしが……」
「職場の前に階段があるだろう。帰りにあそこで転んだ。まぬけだな……」
 筋張った指が番号を打ち込み、ドアが開いた。入ってすぐ脇のエレベーターに乗り、3階に上がると、また通路を抜けていく。最奥の部屋の前に着くと、ダウンジャケットが振り向いた。
「来てくれてありがとう……嬉しかった」
 薄い二重目蓋がぎこちなく折り重なる。何か詰まり物を巻き込んだシャッターを思わせる。目蓋全体に気触(かぶ)れとも浮腫みとも判じられない違和感があった。けれども今日は血色が好い。
 雨都燈衛は玄関ドアに鍵を挿した。膝が彼を裏切る。バランスを崩した。
 司冴は目を剥いた。けれども彼は玄関ドアに背中を寄せ、ゆっくり膝を折る。
「だ、大丈夫ですか……」
 凛とした光を射しているというのに、どこか眠そうな目が司冴を窺う。息切れがマスクの奥から聞こえた。
「雨都さん、もしかして熱ありますか……?」
 重げに瞬く目に返答を求めた。雨都燈衛は躊躇っていたが、結局首を縦に振った。

5

 司冴(つかさ)はドアに背をつけ、座りかけている雨都(あまみや)燈衛(ともえ)のマスクを顎まで下げた。顔全体が露わになる。
「熱はどれくらいあったんです」
「38℃……」
 漏れそうになる溜息を呑み込んだ。差し入れを渡すという目的こそ達成されたが、このまま放置して帰るわけにもいかない。
 代わりに鍵を開けた。ダウンジャケットでもふついた大柄な男を支えながら玄関へ放り入れる。
「帰ってくれ……風邪ではないと思うが、日下さんにうつしたくない」
 彼は上がり框(かまち)に腰掛け、項垂れていた。他人がいては休めないだろう。
「そうですね。あまりお邪魔はできませんから」
 そのまま玄関ドアを開け、外に出るだけのことだった。しかし司冴は玄関ホールを顧みてしまった。雨都燈衛の長い睫毛が反り返っている。息は荒い。片手は捻挫し、身体は熱を持っている。
「ジャケット、脱げますか」
「ん……」
 筋張った指がダウンジャケットのファスナーを探る。もたついている。司冴は彼のファスナーを下ろした。温まった空気と他人の匂いだけでなく、湿布の匂いも浴びる。もこついた上着を取り払い、下黒と灰色のラグランシャツに剥いた。汗ばんでいる。
「お邪魔します」
 司冴は靴を脱いで、玄関ホールへ上がった。大柄な男性を運ぶのは容易ではなかった。けれども意識がまったくない状態ではない。肩を貸し、部屋まで引き摺る。殺風景な居間を通り抜け、これまた殺風景な寝室へ連れていく。
 寝室に入ると、渋みを帯びた木のような匂いが籠もっていた。
 掃き出し窓の傍の直置きされたマットレスで雨都燈衛を放す。
 横にはティッシュ箱があった。さらにその近くにはごみ箱がある。寝室に置かれたものといえばこれだけだぅた。
 風邪ではないと言っていたが鼻炎はあるのか、ごみ箱には使用済みのティッシュペーパーが丸められて捨てられていた。堆(うずたか)く積もっている。部屋からは几帳面で神経質な性格が読み取れるというのに、ごみは毎日片付けないようだ。宛(さなが)ら汚らしいポップコーンが出来上がっている。
「お昼ごはんは食べられたんですか」
「……ああ」
 雨都燈衛は置かれたまま、布団にも入らず、目蓋を屡瞬(しばたた)く。気触(かぶ)れたような二重目蓋が歪みながら折り畳み、伸びていく。すぐにでも寝たいのだろう。
「それじゃあ帰ります」
 背を向けた途端、衣擦れが聞こえて振り返る。寝に入るはずの雨都燈衛が立っている。
「水ですか。取ってきますよ」
「洗濯、しないと……」
 声が上擦り掠れている。目蓋が平生(へいぜい)の倍かけて開閉する。
 一人暮らしは大変だ。司冴も高校卒業後、単身用の社宅で暮らしていた。体調不良のときは頼るあてがない。
 彼は腕も痛めている。その原因は……
「洗濯ならやっておきます」
「え……」 
「寝ていてください」
「さすがにそれは悪い……」
「男性の衣類なんて、夫のもので見慣れていますから」
 主婦に任せておくのがいい、と彼の上司は言っていた。その意味が分かった。こうなることを男性社員は見越していたのだ。
「早く治すことですね」
 司冴は脱衣所に向かった。単身用アパートにしては広い。最新式の洗濯機に脱いだ痕のある衣類を放り込んでいく。他人の家の洗濯剤が薫る。
 洗濯機を回している間、台所を漁った。冷蔵庫はほぼ空の状態だったが、米が入っているところをみるに、自炊はするらしい。卵はなかった。牛乳はある。
 寝室を覗くと、雨都燈衛はまだ起きていた。壁に背を預け、マットレスの上に座っている。掃き出し窓の外を眺めていた。空は曇っている。
「雨都さん」
 彼は振り向いた。おそらく20代後半の顔があどけなく見えた。
「ミルク粥、食べますか」
 コーヒーゼリーのような黒い目が見開かれた。そして頷いた。
「日下さん」
「なんですか」
「俺の方から会社には連絡しておいた。しばらく居てもらうと……」
「ありがとうございます。できたら起こしますから、寝ていて大丈夫ですよ」
 大柄な身体が横たわるのを見届けると、司冴は台所に戻る。
 鍋に熱を加えたとき、やっと彼女は自分が既婚者であることを思い出した。
 疚(やま)しいことは何もない。
 司冴はスマートフォンを取り出した。会社のグループHIMO(ハイモ)を開く。昨日のアルバイトの欠勤メッセージが最後になっている。しばらく戻れそうにないことと、終わり次第一度会社に戻る旨を先程頼みごとを受けた男性社員のアカウントのタグを付けて送信する。
 ただ、昨日、怪我を負わせたことを償うだけのことなのだ。
 夫にも説明できる。
 乾いた空気が唇をひりつかせた。薄皮が刺さる。
「日下さん……」
 振り返る。寝ているべき雨都燈衛が佇んでいる。マスクをして、壁を掴んでいる。発熱によってむしろ血色は好く見えるが、目には病質的な水気が含まれていた。
「どうかなさいましたか」
「いいや……なんだか、もったいなくて……」
「もったいない? 差し入れですか。お米、使わないほうがよかったですか……?」
 看病のためとはいえ、冷蔵庫を無断で開けたのは行儀がいいとはいえないだろう。米も勝手に使ってしまった。部屋からして神経質げだ。数量の管理をしていたのかもしれない。
「そうではなくて……」
 しかしそのときテキストメッセージが届いた。司冴はスマートフォンを取り出した。タグ付けした社員からだったが、グループのチャットルームではなかった。個人のチャットルームの承認を要求されている。承認する。
[コッチは上手く回ってるから、ウチのエースをばっちり頼む]
 司冴は雨都燈衛を見上げた。陰気で人嫌いなこの社員にエースが務まるのだろうか。
 適当な返信をする。
「お米、1合ほど使っちゃいましたけど、パックご飯買ってあるので……」
 彼は俯いた。
「牛乳も使おうと思っていたんですけれど、困るならやめます」
「……日下さんに任せる」
 一体彼は何をしに来たのか、司冴の後ろに立ち尽くしていた。夫から家族を紹介されていない司冴には姑というものがいないが、ドラマや本で得た姑像は、今の雨都燈衛に似ていた。監視しているのだ。嫁の失敗を今か今かと待ち望んでいる。
 しかし、職場が偶々同じだけの、それも同僚ですらないパートアルバイトに家の中を闊歩されているのだ。警戒心が湧くのも無理はない。
「ここにいると、身体が冷えます。上着を着ないと……まだかかりそうですし」
「いや……戻る。何から何まですまない」
「城戸(きど)さんから雨都さんのこと、頼まれていますので」
「……」
 彼は眉をしょぼつかせた。肩が落ちる。立っている場合ではないのだ。寝るべき状態なのだ。けれども突っ立っている。
「日下さん……」
「はい」
 まだ湯も沸き立っていない。
「………」
「なんですか」
 後ろを見る。
「……呼んだだけだ」
 雨都燈衛は上擦った声を低くして背を向けた。寝室に戻るらしい。
 まだ、粥ができるのには時間がかかる。司冴も寝室に戻った。
 病人かつ怪我人はまだ寝ていなかった。マットレスに座っている。しかしあかの他人の成人男性に口煩く言うだけの面倒見の良さは彼女にはない。
 丸めたティッシュペーパーの積もるごみ箱に手をかける。他人の家であっても、溜まりに溜まったごみ箱を見ると気になるのは主婦の性(さが)なのであろうか。
 寝室が居間とは違う匂いがするのは、このティッシュペーパーが原因のようだった。一体何を拭いたのだろう。鼻炎によるごみではないようだった。渋みを帯びた木のような匂いは悪臭というほど悪臭ではなかったが、司冴の情緒を乱す。
「それは、いい……自分でやる……!」
 雨都燈衛はマットレスを跳び上がる。
「大丈夫ですよ。お粥が出来上がるまで時間ありますし、まだ洗濯機も終わっていませんから。片手が痛むと何かと不便でしょう」
「それは悪い……それは自分で……」
 ごみ箱に掛けられたビニール袋の端を伸ばし、ごみを包む。
 その後の彼は潔かった。マットレスに戻り、掛布団の中に隠れてしまった。

 ミルク粥が出来上がり、病人に食わせている間、司冴は洗濯物を干していた。寝室の掃き出し窓からベランダに出る。閉めた戸が開いた。
「日下さん……」 
「なんですか」
 雨都燈衛の匙は進んでいない。口に合わなかったのだろう。
「残してもいいですよ。塩を振ってもらっても……お米は雨都さんのなので、こういう言い方が正しいのかは分かりませんけれど……」
「……」
 開け放したままでは冷えた空気が入り込むだろう。
「塩ですか、ポン酢? 取ってきます」
「違う……」
「開けておくと冷えますから」
 戸を閉めようとした。
「日下さんの、旦那は………どういう人なんだ」
 会社のエースらしいが、とてもそうとは思えない陰々滅々とした内向的なこの社員は雑談が苦手なようだ。人との距離の詰め方を知らないらしい。気遣いは分かる。けれども下手だ。彼は無理をしている。
「気を遣わなくて大丈夫です。調味料取ってきますから、召し上がってください」
「……」
 雨都燈衛は眉と肩を萎ませた。口が下方へ曲がる。



 夫の帰りが早かった。エントランスの前で出会(でくわ)した。。寡黙な彼は早くに帰る日も遅く帰る日も連絡はしない。
「おかえりなさい、麗示さん」
 夫は無言のまま司冴の手を握った。
 自宅まで着き、玄関ドアを開けた途端、夫の態度が一変した。人格ごと変わったようだった。力任せに司冴を玄関の壁に押しやった。頭上で両腕が叩きつけられる。降ろすことは許されない。
 日頃の夫を知っている司冴には受け入れる能がなかった。戸惑いが彼女を鈍くする。はたから見ればそれはおそらく暴力だった。けれども彼女には暴力だと思う余裕もない。
「れ、………麗示さん…………?」
「どこ行ってた」
「ど、どこ………って……職――」
 パートアルバイトとして職場に行っていた。疚しいことはひとつとしてない。会社に頼まれ、社員の家に行っただけだ。それは夫に正直に話せることのはずだった。しかし彼女は口にすることができなかった。切り出すための言葉が浮かんでこない。
「誰の匂いだ」
 夫が唇に齧りつく。衝突同然の接触だった。
「ん………」
 ここのところ触れるだけで終わっていたキスが、今日は性急だった。触れるだけでも、時間をかけ、機嫌を窺い、尽くすような触れ方だったというのに、今日は力任せだった。ろくに具合もみず、無理矢理に舌先を捩じ込む。妻の歯に舌が削られることも厭わず、彼女の口腔に猛進する。
「ふ…………ぅん…………」
 夫に疚しいことは、今日はない。夫を裏切りはしたが、今日は何ひとつ、疚しいことはしていない。頼まれたことをこなしただけだ。自身の尻を拭っただけだ。けれども正直に話せない。
 荒々しい舌が巻き付いて、妻の二枚舌を引き抜こうとしていた。
「は………ぁ、」
 擦れ合うたびに口水が滲み、滑っていく。寡黙な夫の接吻は饒舌だった。表面の質感を妻に塗りたくる。
 淫らな指導が司冴の膝頭を擽った。
「ぁん………ふァ……」
 左右の腕を縫い留められたままの彼女は、肘をそこに残したまま、壁伝いに腰を落としていく。
 職場に行っていたのは嘘ではないが、隠し事がある。若い男性社員の家に行っていたと言うべきだ。打ち明けるべきはそれだけではない。
 口内だけでなく、思考もまた夫の舌遣いに掻き回されている。
「ん………んん………ん………」
 舌先が編み棒よろしく繰り合う。明日には口内炎ができそうだ。司冴はそのつもりで夫の舌にぶつかっていた。けれども夫は彼女の舌を吸った。
 夫は甘かった。味覚ではなく、頭の奥のほうでそう感じた。疑いを向けられていることも忘れ、司冴は夢中で番(つが)いの蜜を吸う。
 だが、夫は彼女との口接を振り払う。
「誰の匂いだ」
 透明な糸で結ばれたまま、夫は低い声を出した。けれども艶を含んでいた。 
「仕事で……」
「仕事でこんな匂いをつけてくるのか」
 夫の鼻先が耳元に埋まる。吐息が耳珠を掠める。
「あ……」
 肩が跳ねた。夫の鋭い目を覗き込む。
「あなた……ぁん……」
 視線を合わせると、夫はふたたび彼女の唇を貪った。身体が熱くなる。壁でもいい、肌を撫で回されたい衝動に駆られる。夫は彼女の欲求を見抜いているのだろう。彼女の腕を放すと、今度は腰に手を回した。
「あなた………あな、……た……」
 舌を甘く噛まれると、淫らな痺れが腹の奥に響いた。
「は………ぁん………」
 夫の薄い掌が胸の膨らみを覆う。服が邪魔だった。
「おかえりなさいませ」
 煮え滾った司冴の頭が一気に冷えていく。ここは自宅マンションだ。義弟と同居している。
 玄関ホールには無表情の桜叉(さらさ)が立っていた。兄と兄嫁が壁際で絡み合っていることなど、まるで気にするふうもない。ガラス玉は虫の交尾を目の当たりにするよりも無反応だった。センサーが反応し、スピーカーに指令を送ったようなものだった。
「失せろ」
「はい」
 義弟は踵を返す。
「あなた……そんな言い方……」
 乾ききった兄弟だった。男兄弟というものはこうなのだろうか。司冴には分からなかった。小柄な後姿を見ていた。無表情で無感動といえども、昨晩の様子からして不安定なようだ。
 夫の鋭い眼差しが向く。司冴は怯んだ。彼を批難できる立場にないことを思い出した。荒れるほど濡れた薄い唇が開くのを恐れた。
 しかしその唇が彼女を咎めることはなかった。抱き寄せた妻の額を跳ねる。
 まるで夢から覚める合図のようだった。
「あなた」
 司冴は夫に縋りつく。他の男の家に上がり、世話を焼くとは何事か。それが善意と罪滅ぼしからの行動であろうとも、周囲はどう思うだろう。夫は何を思うのだろう。信頼の真下に流れた不安は肝心なときに浸水するものだ。この人と添い遂げると決めたならば、不安にさせない努力義務があるはずだ。それが法に承認されるということなのだ。それが社会と約束するということなのだ。それが小さな組織を営むということなのだ。
 肉感の少ない掌が彼女の頭を降りていく。



 夫の寝室に呼ばれた夜はベビードールを身に纏う。姿見の前で色を選んだ。スモークピンクか、シャーベットグリーンか、将又(はたまた)、ナイトブルーか。
 夫は黒が好きだった。3色のどれもやめた。シースルー生地の多いミスティブラックを選ぶ。レース生地のみの裏地のないショーツも透ける。
 ベルベットのガウンを羽織り、夫のベッドへ向かった。彼は暗い部屋でノートPCを眺めていた。司冴はダウンライトを点ける。玲瓏(れいろう)な面構えが液晶画面から持ち上がる。
「お待たせしました……」
 彼は折り畳み式の板を閉じ、ベッドサイドのチェストへ置いた。そして自身の隣を叩く。
 司冴は夫の前へ立った。伸びてきた手がガウンを捲くる。脱がしはしなかった。左右に開き、包まれた曲線を観賞する。上から下まで、熱心に眼を這わせていた。
 寒くはなかった。夫は人工的な温気(うんき)を好まなかったはずだが暖房が点いている。だがいずれ邪魔になるのだろう。夏とは違う。
 肌に薄らと汗が滲む頃、ガウンを摘む指が緩んだ。人差し指を長く長く出し、黒レースに包まれた突起を掠める。
「あ、……あなた………」
 指先が泳ぐ。芯を持った小さな隆起は抵抗しながらも倒れ、元の位置に戻る。
「ぁ……」
 数度往復して指が離れた。甘い痺れの残影が尖端を擽り続けているようだった。
「来い」
 夫が自身の膝を叩く。けれど司冴は動けなかった。腹の奥が熱く疼き、立っているのも精一杯だった。
「あなた………あなた……、」
 待たせている良人を見詰め、身体の底から湯溜まりが迸るのを感じる。
「ああ、……」
 逞しい腕が伸び、彼女を膝へ引き摺り入れる。
「麗示さん……」
 夫の膝に座る。艶やかな匂いに撹乱する。分かっていながら彼女は鼻を鳴らして情香を嗅いだ。宛(さなが)ら薬物に中(あ)てられた無辜の獣だった。
 夫は口角を吊り上げた。そして馥郁とした恍惚に浸る妻のショーツに指を添えた。レースに透ける下生えを撫で摩する。彼にはそこにジャンガリアンハムスターでも見えているのかもしれなかった。
「ぁ……ぁァ………っ」
 夫の指の気配を遠く感じる。レースが隔てているだけだというのに、何故か、遠い。
 彼の指は一頻りレース越しの妻の毛並みを愉しむと、面相筆と化して上方へ向かった。胸に至ると両手で触れた。レースを押し上げる隆起を押す。
「……ぁっ!」
 司冴は身を捩った。指先は即座に離れ、彼女の腰を押さえる。片胸だけ独りになってしまった。
 夫の吐息がレースの膨らみに近付いた。冷たい温度で小さな昂りを虐められるに違いない。彼女は想像した。
「ぁあん……」
 まだ触れてもいないというのに司冴は背筋を逸らした。
「どうした」
 夫は触れなかった。寸前で止まり、小粒に息を吹きかける。
「ふ、ぁあ……」
 熱い身体には、彼の息吹も刺激になる。しかし足りない。むしろ乾いた手の腠(ししわき)の摩擦と圧迫を恋しくさせる。 
「触って……、触ってください……」
 物寂しいのは上半身だというのに、彼女は下肢をくねらせる。
 寡黙な口が舌舐めずりをする。淡白げな夫の口腔が赤く見えた。
「こうか」
 胸に留まった指がレースの実を摘んだ。
「あ! ひんっ……」
 司冴は腰を突き上げてしまう。
 夫は鼻を鳴らした。直後にもう片方の胸に齧りつく。痛みには至らない強さで歯が食い込む。
「あ、ああ………あん……」
 腰にあった手が胸を掴み、さらに夫の口に尖端が入っていく。歯から開放された。しかし舌がレースを絡める。
「んぁあ……」
 指の確かな刺激と舌のまろやかな刺激が彼女の思考を燻す。
 腰が揺れた。夫にもこの滑稽なダンスが見えているのだろう。すべて曝け出してしまいたかった。痴態を夫の目に映したい。
 夫の唾液がレースの上に蜘蛛の巣を張った。
「あなた………」
 反対の胸も吸う夫の頭を抱いた。髪を梳く。手櫛を入れれば入れるだけ、夫の口は司冴に尽くすようだった。
「あなた………ぁあ……」
 夫の舌の粗い感触が鮮明に刻まれる。とても小さな部位とは思えないほど克明に夫の熱が広がっていく。
「麗示さん……」
 ぬいぐるみのようにしていた夫の頭が離れた。爛々とした瞳が見えた。いかに妻を甚振るか、欲望が漲(みなぎ)っている。
 司冴の肉体が悦びに打ち震える。圧倒的強者性を持った絶対的庇護者を見つけた悦びだ。そしてそういう男に蹂躙される幸福を身体が求めている。
 夫に対する新たな愛しさが込み上がる。凛とした頬に手を添えた。しかし彼は司冴の掌を外す。
 鋭い双眸に獰猛な閃きを携え、彼は豊満な胸を両手で支える。淫虐を待ち望む勃起が逞しい指に捕まる。
「あああ……」
 内腿が戦慄き、膝に力が入らなかった。ベッドの浮き沈みも彼女の平衡感覚を狂わせる。
「麗示さん……、麗示さん……おっぱい、変にな、ちゃ……」
 夫は嗤うだけだった。指の動きは止まらない。微細な力加減で肉粒を揉み拉(しだ)き、上下左右に弾いていく。
「あ、あ、あ、あ……!」
 嬲られているのは胸だというのに、甘い電流は腹の奥で渦巻く。司冴はこの電流を昇龍にする術(すべ)を心得ていた。
 いつの間にか自身も知らず知らずのうちに握っていた夫の手首をさらに強く握り、吸光質の膜を張った目を見詰める。
 官能が駆け上がる。
「だめ、麗示さん………ああ……!
ああっ、! ああんっ!」
 司冴の身体を快感が昇り抜けていった。腰が前後に跳ねた。閉じられなかった顎から口水が落ち、夫の寵愛を受ける膨らみと膨らみの狭間を縫っていく。
「ああっ、ああッ! 麗示さん、もぅ……っ、もう、だめ、」
 乳頭のオーガズムの隅から隅まで味わわせるつもりのようだ。夫は乳核を放さなかった。
「放して……っ、あんっ……! 放して、麗示さ、ぁあ、んんっ……!だめぇ……! だぇぇ……!」
 夫は微笑を滲ませていた。そう頻繁に見られるわけではない彼の表情を堪能している余裕はなかった。苦しみに近い快感から逃れることで頭がいっぱいになっていた。
「そんなにいいか」
 絶頂したというのに衰えることのない小勃起を擂られ、司冴は身悶えた。
「おっぱい放して………っ」
 夫に向け、腰を突き出してしまう。浅ましい姿だ。情けない踊りだ。夫に嫌われてしまうかもしれない。けれども彼女の意思では止まらなかった。ベビードールのシースルーのカーテンが黒鳳蝶よろしく羽撃(はばた)いた。
 膝はすでに折り込まれ、彼女は後ろに倒れかけている。引き延ばされるオーガズムに耐えられない。
「おっぱいおかしくなっちゃう……」
 指遣いは徐々に緩んでいった。司冴は油断していた。終わると思っていた。しかし離れ際に、彼の指に締められる。
「ぅんんっ、!」
 彼女はまた身体を震わせた。
 妻の乳頭を満足させた指は、彼女の腿が作る庇へ忍び込んでいった。
「ぁっ、」
 レースの摩擦が起こるはずだった。けれどもそこには潤滑液が塗られていた。司冴がこのレースショーツに足を通したとき、そのような付着物はなかった。
 夫は何も言及しなかった。粘性を帯びた液体を撫で回している。
「あなた……っ」
 レースの凹凸を往復する夫の指は電車のように振動を残していく。胸の尖端の刺激で遠隔的に達した箇所に響く。
「ぅ……うんん……」
 司冴は夫に縋りついた。唇も頬も掌も薄いが、胸板ばかりは厚みを感じる。分厚すぎず、貧相でもなく、程良く筋肉が乗っている。
「寝るか?」
 彼女は首を振った。夫の匂いで肺を満たすと顔を上げた。視線を合わせる前に、唇を塞がれる。力強い抱擁に溺れかける。息苦しさに歓びを覚えた。
「麗示さん……好き……」
 決して言い返されることはない。けれども締め殺すような腕力が彼なりの応答だった。
 絡みつく腕が落ち、司冴は夫の顔を覗いた。彼は妻の腿を開かせ、ショーツを脱がした。妻の肌を離れた下着には興味がないようだった。投げる先も定めずに放り、彼は妻を眺める。シースルーに包まれた曲線を観てから、幕を開いて生肌を賞翫(しょうがん)する。そして一通り目で味わうと、脇腹から腰にかけての曲線を掌でなぞった。肋骨を通り過ぎ、括れで内側に入る込むのが楽しいようだった。丘陵を行きつ戻りつしてから、労るような手付きで腰骨を摩する。そのあとは指の背で妻のなめらかな肌を掠めた。栄養の行き届いた猫の毛並みを愛でているつもりのようだった。

6

 司冴(つかさ)は息を呑んだ。剥き出しの肌に夫の息吹を感じる。
「恥ずかしい……」
 中心へ向かっていく手は、指と指が組み合う。どちらの熱で火照りはじめたのか分からなかった。
 夫の濡れた感触が無防備な花肉へ降りる。
「あ……」
 身を捩る。夫の指が司冴の手の甲に食い込む。
「あなた……」
 滑らかな裏側が、敏感な核(さね)への圧(の)しかかる。
「ん……ぁ」
 ベッドから夫の染みついた匂いが漂う。同じベッドを使っているというのに、夫の使ったものは馥郁(ふくいく)として艶香を醸し出し、司冴の肌を包む。
 夫は舌の裏側を滑らせ、弾力を確かめた。
「あんっ」
 甘い電流が走り、彼女は腿を閉じた。夫の髪が柔肌を掠め、また嬌声を漏らし、仰け反るはめになる。
 しかし彼女の膝はもう一度焦げ茶色の毛並みを味わおうと夫を挟む。
 肌に触れるものすべてが彼女の官能を敏くする。
「構ってほしいのか」
 夫は搗(つ)きたての餅然とした肌壁を吸う。
「ぁっ」
 夫は吸った箇所に唇を当てると、ふたたび花裂に潜まる稜角に戻った。 
「麗示さ……、ぁんっ」
 熱く固まっていく一点に息が吹きかけられる。司冴は自身のものだというのに、その息吹の流れで己の状態を知る。これから夫の口で甚振られ、嬲られ、淫らな献身を受ける牝蕾の状態を知るのだった。
 夫の手を握った。逆らえなくなってしまう。しかしこの強い牡のもとに組み伏せることが誇りでもあった。
 粗い質感が尖りを小突く。
「ふ、ぁあっ」
 下肢が自立では制御できなくなった。身体の内側から外側、肉体を乖離したところまですべて、夫に支配されている。
「麗示さん……、好き……麗示さん……」
 呟いていた。
 夫は司冴の肉蕊を唇に挟んだ。サルビアの蜜を吸うのと大差はなかった。皮に包まれた珠が転がる。
「あ、ああんっ!」
 彼女の踵がシーツを蹴る。逃げたいのか、ねだりたいのか、彼女自身にも分からなかった。繋がれた手を離そうとしてしまっていた。夫はそれが気に入らなかったのかもしれない。軽く歯が立つ。包珠の芯が拉(ひし)げる。
「あ、ぅうんっ、だめ、!」
 腰が浮く。尻が波打つ、足の指が丸まり、踵がシーツに沈む。
 強烈な快感はすぐに治まった。夫の舌先は鐘の形をなぞり、今度は稜皮を剥こうとしていた。
「んっ、ぁ、麗示さん……強い………それ、強いの……!」
 手を繋いだまま、彼女の腕が揺れた。
 敏感な淫核を暴くのを、夫はやめたようだった。しかしまた、果皮の上から唇で挟んだ。徐々に力が増していく。 
 比例して快感も強まっていく。
「あ、あ、あ……あんっ、」
 司冴の背筋が弧を描いた。夫は唇で捉えた彼女の弱点を吸った。
「ああっ、ああんっ、ああ!」
 電撃が走った。腰が引き攣り、内腿が焦げ茶色の髪を打つ。
 片方の手の交接が解かれた。強く握り締め過ぎたのかもしれない。
「麗示さん……」
 血潮の鼓動する手指が一気に冷えていく。
 しかし夫の手は、逃げ帰ったわけではないようだった。別の目的があるようだった。彼の指は、彼の口と交代した。そして彼の口は司冴の秘窪を探った。
「ぁひ、っ」
 彼女の躯体が跳ねた。直後に強張る。夫が入ってきていた。舌先のわずかでも、夫が中にいる。
「麗示さん……、麗示さん……ああ……」
「力を抜け」
「で、も………ぁあっ」
 花嫁孔は久々の夫の濡れた感触に外方を向いていた。拗ねていた。けれども夫はその扱いをよく心得ていた。鐘を鳴らし、ノックをする。花嫁の許可は要らない。すべては赦している。
「あ……んんっ」
 夫が花束を携え、花嫁部屋に入っていった。
 司冴は膝で、彼の頭を閉じ込めてしまった。
 籠った水音が腹の下で聞こえた。夫は今度こそ花蜜を吸った。
「あなた、あなた……っ、麗示さん……!」
 彼女は喘いだ。夫は返事の代わりに鐘肉へ蜜を塗る。滑らかな重みが乗り上げる。
「気持ちいい……」
 片手が掴んでいるものが、人の手であることも忘れ、命綱よろしく引っ張ると、夫の顔面に股ぐらを押し付ける。
「ん………っ、ふ……」
 夫の吐息に混じる無防備な声がさらに彼女を昂らせた。
「あっ、ごめんなさい……あんっ、ごめんなさ……っ」
 司冴は揺らめく腰を止めようと努めた。けれども情欲に炙られた反射を止めることはできなかった。
 夫は配偶者の口で自慰に耽っているも同然の妻を受け容れていた。押し付けられる木通(あけび)をそのたびに啜っている。彼はおそらく、妻の貪欲な肉体を理解しているのだ。
「あ、あ、あ……、麗示さん……!」
「自分でイくか」
「麗示さんがいい……麗示さん………っ、」
 甘やかな悲鳴を上げ、淫芽を潰されるだけ彼女は腹を反らす。夫の舌先を締め上げ、質感を悟るたび、また締め上げ、彼女は自身でも計れない収斂のリズムに翻弄された。
「あ、イく……、んっんっ、」
 夫に捕まった芽肉が横薙ぎに倒された瞬間、彼女は雷撃に打たれた。
「ああッ、イくっ! 麗示さんっ! イく、んっ!」
 夫の髪を掴んでいた。腿は頭を挟み、秘阜は口を逃さない。
 心地良い濤(おおなみ)に日常の垢と埃を浚われていく。剥き出しの性感に浸る。
 肉体に溜まった灰雲をただ払拭するだけの快感ではなかった。温かな日溜まりの下に四肢を投げ出し、そよ風に吹かれながら悠久と刹那を行き来するような悦びだった。
 夫は妻の余韻に寄り添っていた。時機を見計らい、繋いでいた手を放す。
 司冴は温い気怠さを背負いながら起き上がる。
 与えられるだけではいけない。
「あなた……」
 夫の胸板に撓垂(しなだ)れかかる。一生持つことのできない筋肉に囲われると、目頭が熱くなった。
「あなたも……」
 胸を触る。同種族だというのに質量はまったく違う。
 緩やかな丘陵を降りていく。峻厳な地味(ちみ)の腹を通り、脂肪の薄い下腹に至ったとき、その手を取られてしまった。
「気を遣うな」
 屈強な男体が離れた。彼女の背中には片腕が添う。横から抱き寄せられ、夫を見上げた。
 彼の空いた腕は、妻の片脚を立たせた。彼女も倣ってもう片方の膝を立たせる。
 鋭い目に覗き込まれると、官能の引潮が忽(たちま)ち戻ってきた。
「あな………た、………ぁっ!」
 腹の中に夫を感じる。腠理(そうり)の微細すぎるほど微細な隙間も赦さず、司冴の媚肉は吸着を試みる。
 夫は徐ろに指を動かし、淫熱に蒸された女の髪を嗅いでいた。
 この男に隠せるものはないのだ。何故ならばすべてがこの男の所有物だからだ。司冴はそのつもりでいた。すべてこの男に渡すのだ。
 夫の指遣いに酔い痴れてしまう腑抜けた表情も、彼の所有物としてすべて曝け出さなければならない。
「麗示さん……あ、あ、あ、……っ!」
 口を閉じられず、涎を垂らす情けないところも、鋭い眼差しのもとで、隠すことはできない。そしてまた、目を逸らすこともできない。眸子(ぼうし)を見詰め続ける。言葉の少ない夫の真意はそこに眠っているのだろう。だとしたら、夫は潤(ふや)けた嫁の姿に陶酔している。美酒佳肴を堪能したときと同じ眼をしていた。理性の光をわずかに残しながらも、泥濘んだ曖(くら)さを帯びている。
「あ、あ、あ………っ、」
 夫の劣情と手淫に挟まれ、頭が沸騰しそうになっていた。指を締め上げ、液体と空気の掻き回す音を聞いていた。どれだけ夫の前で気取ろうとも、醜い部分を隠し通せはしないのだ。
 的確な指圧と摩擦が彼女を追い立てた。数度目の絶頂が襲う。下肢の激しい開放感を覚えた。夫に奥を突かれるたび、潮が噴き出てしまう。
「ごめ、……汚しちゃ………っぅ、ん、!」
 夫の腕の背凭れに上体を預け、胸板に爪を立てた。
「ああ………あぁ!」
 腰が機敏な速さを以って屈曲と伸展を繰り返す。
 キスの雨を浴び、余韻をやり過ごす。
「ベッド………ごめんなさい………」
 夫は最後に、額に強く唇紋を押す。怒ってはいないようだった。おそるおそる脚の間を見ると、タオルが敷かれていた。
「麗示さん……」
 夫に腕しがみついた。乳房が彼の平たい胸に潰れると、彼女も異様な安堵を覚えた。肩凝りを齎(もたら)す大きな膨らみを男体に凭せ掛ける。
「麗示さんも……」
 夫は喋るためにはほとんど使わない口の端を吊り上げる。
「麗示さん……」
 夫の熱(いき)り勃っているものの存在には気付いていた。男体とは不思議なものだった。どのような機構を以ってして、肉体の一部位を硬くするのか。その変化がありながら、まったく具合を悪くする様子もない。この生き物は勝てない。夫には勝てない。勝とうとも思わなかった。
「麗示さんに触りたい……」
 夫の身体に寄り掛かる。鼓動を聞きながら目を閉じる。歌詞も旋律もない子守唄を傍らに眠れたなら幸せだろう。眠らずに夫と戯れるのも幸せだろう。或いは二度と目覚めなくても幸せだろう。
 夫の手が肩に乗った。そして司冴の背中はシーツの上にあった。ベッドのスプリングが軋む。
 微かに紫煙の混じる薔薇の匂いが眼交いに残っている。
 今日は抱かれるのかもしれない。
 司冴は生唾を呑んだ。久々に夫とひとつになるのだ。大きな存在を思い起こし、落ち着きを取り戻したばかりの腹奥を疼かせた。
 惚れた男を久々に受け容れる。その有様をしかと目に納めておきたい。頭を持ち上げた途端、夫の腰が迫った。けれども予想とは違っていた。艶草を魁偉な赤土竜が踏み分けている。
 今日も夫は抱かないのだ。それでも献身的な性行為から通じるものに偽りはない。

――義兄さんには、他に好きな人がいます。
――義姉さんと会う前からです。


 夫の情愛に嘘はない。それは分かっている。故に彼女は戸惑う。他に好きな人がいると言われても、とてもそうは思えない。思いたくないのだろう。けれども疑いも湧かない。否、疑っている。だが信じられない。信じたくないのだろう。それならば何故、焦らないのか。
 2度目のシャワーを浴び終え、身体にタオルを巻いていると、脱衣所に夫が現れた。
「ごめんなさい……お待たせしてしまって……」
 彼は無言だった。鼻を寄せ、湯上がりの妻の匂いを嗅いでいる。
「おやすみなさい」
 絶頂に導かれ、身体は満ち足りているのだ。たくさん撫でられたではないか。夥(おびただ)しい接吻も受けた。不満は不忠だ。夫に対する背信だ。
「クリスマスは、人を呼ぶ」
 司冴は胸を小突かれた気分になった。
「分かりました。お部屋を掃除しておきます」
 口下手で多忙な夫にも、クリスマスに呼ぶような人がいるのだ。仕事の繋がりだろうか。後輩を労うつもりなのかもしれない。家にはいないほうがいいのだろうか。挨拶くらいはすべきなのだろうか。
「クリスマスイブに一緒に過ごす」
 単純な女だった。否、夫に関しては容易に一喜一憂するのだ。
「はい……!」
 もう何も怖いものはないとさえ思った。湯冷めも忘れる。




 クリスマスイブは夫と過ごせるのだ。冬の街並みが色褪せて見えるのはイルミネーションが煌めくためだったのだ。毎年気付くことだ。季節が移ろうたびに感じることだ。けれども学べはしないのだ。
 アルバイト前に駅前の繁華街を観て回った。世間のクリスマスの一部に、溶け込めた気がした。
 時間になって職場に向かう。事務所を通りかかると、黒い物体と鉢合わせる。危機回避の本能ともいうべきか、司冴はぶつかる前に踏み留まった。同時に嫌な予感が爪先から脳天を駆け昇る。
「日下(くさか)さん……」
 腐りきることのできない砂糖のような音吐(おんと)はまさに答え合わせだった。嫌な予感は当たるのだ。黴臭い雰囲気が肌に訴えかけているのかもしれない。
「お、お疲れ様です……」
「この前はありがとう。ドーナツを買ってきたから食べほしい」
 睫毛を伏せる雨都(あまみや)燈衛(ともえ)の姿は卑屈を通り越し、厚かましさすら漂っている。
「ありがとうございます。いただきます」
 社交辞令だった。クリスマスイブは夫と過ごすのだ。油と砂糖の塊を喜んで食べている場合ではない。冬は何かと誘惑が多いのだ。
「日下さんは、す、好きなものはあるのか」 
「特にないです」
「ないのか、何も?」
「はい」
 作業室からは黄色い声が聞こえた。女性社員やアルバイトの主婦たちがいた。ミセス・クリームドーナツの箱を囲んで談笑している。司冴の出勤に気付くと、ドーナツを勧められた。美味しいものは肥りやすくできている。肥りやすいからこそ美味しいのだ。けれどもクリスマスイブは夫と過ごすのだ。肥っては夫に嫌われてしまうだろう。夫はその日まで浮かれることなく、朝から晩まで毎日忙しく働いているというのに、妻がひとり、浮足立って舞い上がり、肥えてしまうわけにはいかない。
 仕事を終え、引き継ぎノートを書く。定時の退勤時間は疾(と)うに過ぎていた。ドーナツが業務の邪魔をして、仕事が後ろ倒しになっていたため、司冴は残業することにしたのだった。義弟にはすでに連絡してある。夫の帰りも深夜帯だ。
 充電のため戻された打刻用PCのため事務所へ向かう。
 まだ何人か社員が残っていると思っていたが、ホワイトボードからして今いるのは2人だった。そのうち1人とは先程廊下ですれ違っている。
 司冴は事務所を見渡した。社員が一人確かにPCに向かって作業している。打刻用PCは腰丈のスチール書庫の上に置かれていた。
「失礼します……」
「何か用があるのか」
 デスクトップPCを操作していた雨都燈衛が顔を上げた。
「打刻用PCが欲しくて……」
 部屋に入って目の前にあるというのに、彼は立ち上がると、打刻用PCを手に取った。そして電源を点け、名簿のファイルデータを開くだけでなく、司冴の出勤簿のデータまで開いて渡した。後はパスワードを打つだけだった。
「あ、ありがとうございます……」
「ドーナツは、食べられたのか」
「ええ、はい。ごちそうさまでした」
 パスワードを打ち込み、出勤時に入れた退勤時間を変更する。保存をして、タブを閉じる。
「どれを選んだ……?」
「チョコレートのかかっているやつです」
 開いた箱から見えていたものだ。
「………」
 雨都燈衛の目が尖る。
「あ! 志波さんとても喜んでいましたよ。林さんもミセド大好きですから。箱もノケモンでかわいかったですし。でも意外ですね。雨都さんが5箱もミセドでドーナツ選ぶ姿なんて全然想像できません」
「……そうか」
 尖鋭な眼差しはみるみるうちに角を溶かし、垂れ落ちていく。
「もう遅いから、早く帰ったほうがいい。家族が心配する」
 この男は何かとすぐに帰したがる。非正規雇用がいる間は社員も帰れないのでは早々帰したいのも仕方がない。
「そうですね。すみません、長居してしまって。すぐ帰ります」
「遅くまでありがとう」
 雨都燈衛は作業室までついてきた。油を売るな、早急に帰れということなのだろう。
 指輪を嵌める時間すらも許さなそうだ。
 帰宅後に嵌めようと荷物を掴むと、冷蔵庫の隅に何十年と放置されていたような寂れたチョコレートの眼差しとぶつかる。
「指輪は嵌めないのか」
 冷蔵庫焼けしたチョコレートは転がる。猫背が深まり、前髪は鼻にかかるほど長く見えた。
「家で嵌めます」
「………」
 逃げ惑っていた上目遣いが司冴を捉える。
 早々に帰れと暗黙の催促をしておきながら、呑気なことだ。
「日下さんは、何か嫌いなものはあるのか……」
「ないです。帰ります。お先に失礼します」
 荷物は手掴みで作業室を出る。雨都燈衛は出入り口までついてきた。
「日下さん……」
「また明日、よろしくお願いします」
 エレベーターに乗り、エントランスを出る。
「あ、お姉サン」
 外構の階段を降りたとき、行く手を阻まれた。外灯に薄らと暗い輪郭が浮かんでいる。
 顔を上げると、金髪の逆立った男が佇んでいた。獰猛げな顔立ちに覚えがあるが、記憶に砂嵐がかかった。かろうじて甦った姿と違うのは、今はスーツで、ピアスをつけていない。
「なんで……」
「妹チャン、元気?」
 会話をするなと足が告げた。金髪の男の脇をすり抜けようとしたが、彼女の動きは見透かされていた。
「お姉サンのコト、忘れられなくてさ。会いに来ちゃった」
「ど、どうしてここを知っているの……」
「妹チャンから聞いた。素直でいいコだよね……未成年飲酒はいただけないケド……」
 息が上がる。急かされて職場から出てきたとはいえ、全力疾走をした覚えはない。
 この男は、夫への裏切りだ。
「あ、あ………」
 夫を裏切らない。
 夫を裏切らない。
 夫を裏切らない。
 すでに鳴りを潜めた蜂どもは、この季節、司冴の頭の中を飛び回っていた。
 夫を裏切ることを身体が拒否している。
「あれから色々、他のオンナノコとアソんでみたんだケドさ、やっぱお姉サンがイイなって」
 夫を裏切らない。しかし目の前にいる男の存在こそが、夫への裏切りを証明している。
「日下さん……?」
 階上で雨都燈衛の声がした。
「雨都さん……」
「雨都ァ?」
 夫への忠誠心が彼女の尻を叩いた。降りてきた階段を駆け上がる。
 外灯の明かりは彼女の味方をしなかった。勤務先のあるビルのエントランスの明かりへ、蛾虫よろしく向かっていたけれども人影に妨害されるのだった。
「日下さん、まだ帰っていなかったのか」
 爽やかな匂いが温度を持って鼻腔に入り込む。しかし彼女は後ろに迫っているはずの裏切りの証を振り返った。前方にくれてやる意識などなかった。
 枯葉の敷かれた階下にはアスファルトが広がっている。砂利の鬆(す)が目のように司冴を見上げている。
 しかし手を引かれ視界を遮られる。
 寒風が吹く。頬が乾いていく。
 視界を妨げる黒い影が振り返った。
「どうかしたのか。誰かに何かされた? 大丈夫なのか」
 夫を裏切らせる恐ろしい怪物は去った。今、傍にいるのは雨都燈衛だ。
 司冴はたじろいだ。段差の際で後退りかけ、引き寄せられる。
 ほんの一瞬で一気に痩せたかもしれない。大きな手に肘を掴まれたときに思った。
「危ない」
 暗がりだというのに、粘着テープのような眸子(ぼうし)に顔面を殴られているのが分かる。
「あ、あ……」
「会社に戻ろう。タクシーを手配する」
「だ、大丈夫です……そんな大袈裟なことじゃないですから……」
 肘に絡まる手から抜けようとした。けれども、よりいっそう強い力で引き寄せられるのだった。
「来なさい。貴方に何かあると困る」
 すでに退勤時間は過ぎている。退社後のアルバイトの安否に、社員の責任が問われることがあるだろうか。
「でも……あの、……」
「ここだと冷える」
 雨都燈衛は怒っているらしい。帰路に就く矢先に、非正規雇用員に問題を起こされ、定時退社どころか残業後だというのに退社が遠退いた。怒るのも無理はない。
 会社までは戻らなかった。エントランスのロビーで放される。
「警察を頼ったほうがいいんじゃないか」
 司冴は座らされていたが、雨都燈衛は立っていた。冬と夜風と低気温に研がれた眼差しが氷刃よろしく彼女の首筋をなぞる。
「会社に迷惑はかけません……」
 刃物を持ち込んで暴れたり、ガソリンを撒いて火を点けたりはしないだろう。おそらく、しないだろう。そういう恐ろしさではなかった。俗世に対する執着と自信は窺えた。
「会社のことはいい。今は日下さんのことだ」
「……迷惑をかけてしまって本当にすみません。でも、大丈夫です。あ、えっと……夫を呼びますから。夫に迎えに来てもらいます。だから大丈夫です」
 司冴は警備員を一瞥した。雨都燈衛も警備員のほうを顧みる。
「大丈夫です。夫が来るまでここで待ちますから……外は寒いですし。だから雨都さん……お疲れ様でした」
 誘蛾灯に焼き殺された蛾どものような目が司冴を見下ろしている。
「日下さん」
「は、は………い………」
 叱責が来るのだろう。新入社員たちもこうして、潮の引いていく様を前に身を竦ませたに違いない。反論の余地のない正論と、すべてを言い訳と詭弁に変えてしてしまう隙のない返答を浴びせられるのだ。この社員の前に立ち、落ち込んだ若手社員や、啜り泣く新入社員を何度か見たことがある。
 司冴は身構えた。
「俺を避けるな」
「え?」
「俺を、避けるな……」
 雨都燈衛の眉尻が彼女とは反対に下がっている。
「避けては、いません……」
「俺は貴方の味方でいたい」
 一体何の話をしていたのか、司冴は忘れてしまった。敵味方の話をしていただろうか。新入社員たちを叱りつけるのが敵だと、口にしていただろうか。
「あ、あの……ありがとうございます……でも、大丈夫です。個人的なことですから……雨都さんには、迷惑かけちゃいましたけど……」
「ストーカーだろう? タクシーを呼ぶ。」
「そんな大袈裟なものじゃなくて……それに、支払えませんし……」
「俺が払う。頼ってくれ。看病してもらった借りがある」
 雨都燈衛はスマートフォンを耳に当て、タクシーを呼び出してしまった。
 司冴は肩を縮めた。コートを着て、マフラーを巻き、手袋を嵌めているというのに、震えていた。
「すぐ着くそうだ。寒いが、外で待とう」
 外の気温よりも寒い気配を湛えた眼差しから彼女は逃げた。
 木枯らしこそが彼女の味方だった。タクシーが来るまでの間の重苦しい沈黙をごまかしてくれる。
 タクシーが着き、車内でも彼は無言で、窓の外ばかり眺めていた。運転席の前方から吹き付ける生温かい静寂が、司冴の肌を蒸す。
 最寄りのコンビニエンスストアでは赦されず、タクシーは彼女の自宅前で停まった。
「明日、タクシー代は払わせてもらいます」
 司冴は車から降り、雨都燈衛を覗いた。
「いいや、要らない。持ってこられても、俺は受け取らない」
 彼もタクシーから降りた。
「何かあったら、すぐに言ってくれ。いつでも相談に乗る」
 丈の長いコートが迫る。他人の体温に覆われていた。司冴の目が、冬の夜の乾燥に曝される。雨都燈衛の肩越しに人影が立っている。微動だにしない。真っ黒に塗り潰されているというのに、こちらを見ていることだけは分かった。
 夫だ。彼女には、その佇まいが己の伴侶に見えた。夫だと認めたとき、身体を包む体温と爽やかな匂いとの間に冬の空気が割り入った。そして影絵の色を吹き飛ばしていくのだった。
「また明日」
 騒然とした北風は雨都燈衛すらも吹き飛ばし、彼はタクシーへ吸い込まれていく。漆黒の人影もまた、司冴に吸い寄せられているようだった。
「あな、た……」

7


 夫の纏う暗闇が薄らいだ。鋭い眼差しと視線が搗(か)ち合う。
 先程の抱擁を見られていた。
 司冴(つかさ)は息を呑む。凍てついた夫の表情から目を逸らせない。
 先程の抱擁を見られていたかもしれない。
 夫と肩が並ぶ。口元で漂う白靄が消え入っていく。
 先程の抱擁を見られていたのではないか。
 夫の革靴の音が止まる。鼓動が防寒具を通り越して夜空に響いてしまう。
 先程の抱擁を見られていたはずだ。
 星の輝きそうな昏い瞳が司冴へ転がる。空気は凍え、彼女の体内に逃げ入る。温まりもせず、身体を真っ二つに裂くようだ。
 冬に荒らされた薄情げな唇が動く。審判が下る。
『何をしていた?』
 視界が曇る。白靄が夫を消す。他の男と抱擁を交わすような不潔の女に、配偶者は必要なかろう。
「麗示さん……」
 夫の腕に縋ろうとして、彼女は触れられなかった。静電気が生じた。彼女は自身傲っていた。日下麗示に触れる資格というものに気付いたのだ。疑いさえしなかった。信じるには当然の日常だった。
「あ、あ………」
 宙に座る手袋を、ポケットから抜け出た夫の手が掴んだ。
「何をしている?」
「あなた……、あなた、……麗示さん……」
「風邪をひくぞ」
 手袋ごと、彼はポケットに手を戻す。
「麗示さん……」
 先程の抱擁は見られていなかったのか。気付かれはしなかったのか。知らないふりをしているだけなのかもしれない。これから、家に帰ったら……
「麗示さん……、わたし……」
 帰りたくなかった。帰れない。夫を裏切るつもりはない。雨都燈衛に対しては確かに特別な感情がある。理由のはっきりしない厭悪感という、他の者には抱くことのない特別な感情がある。夫を裏切るようなものではないはずなのだ。夫と離れる気はない。進んで、積極的に、自ら夫を害そうとする意思など微塵もなかったのだ。しかし夫は自身を裏切る女と共にいて利益などない。夫は選べる立場なのだ。夫には選択権があり、そのどれにも、妻の存在は絶対ではない。人嫌いといえども見目麗しい夫が再度の配偶者に困ることはなかろう。経済的に困ることもない。経済的に困るどころか、家事さえ財力で決着することができよう。離婚の選択は容易いのだ。
「……帰りたくありません………」
 ならば、寒空の下で切り捨てられるだけのことだ。
「……桜叉(さらさ)と喧嘩でもしたか」
 彼女は首を振った。夫は感情を見せない。動かない頬の裏側には、配偶者の不貞に赫怒(かくど)が潜んでいるに違いない。
 繋いだ手が震えている。
「クリスマスイブは何がしたい?」
 冷気に灼かれた体内が滲みていく。
「麗示さんと、一緒にいたいです」
 媚びたつもりはなかった。本音を述べた。けれども彼女は言ってしまってから、この漠然とした返答では夫が困ることに気付いた。
 毎年、高価な品物を贈られる。しかし返せるものは何もない。
「わたしは、麗示さんといられたら、それで十分なんです。毎日が不服なわけではなくて……クリスマスイブに、麗示さんと過ごせたら……それで……」
 本音を述べれば述べるほど白々しく聞こえた。だが本心なのだ。世間の販売促進の戦略であっても、特別な日に、多忙な夫と穏やかなひとときを過ごしたいのだ。
 夫は鼻を鳴らす。
「ホテルでも行くか」
「え……」
「帰りたくないのなら……」
 司冴は首を振る。
「我儘を言ってごめんなさい。お疲れのところなのに……」
 夫が歩く。繋がれた手に引かれ、司冴も歩く。
 マンションのエントランスには白と青を基調としたクリスマスツリーが飾られていた。イルミネーションが虹色に照っている。
 毎年見ている。変わり映えのないクリスマスツリーだ。しかし司冴は惹かれた。冬は寒く、乾いて、暗い。
「イルミネーションでも観に行くか」
 彼女は首を振る。夫は多忙だ。休みもろくにとれない。



「お姉ちゃん!」
 居間に批難の色を帯びた叫びが響き渡る。
 司冴は買い物袋を置く。妹の来訪は玄関の靴で知っていた。事前連絡がないのはいつものことだった。
「かのちゃん……来ていたの……」
 キッチンカウンターの暗がりから義弟が顔を出す。
「桜叉ちゃん。ただいま。ごめんなさい……」
 寡黙な兄弟がこの姻戚の相手をするのは苦しいだろう。
「おかえりなさいませ、義姉さん。僕は部屋にいます」
 義弟とすれ違う。似ない兄弟だった。纏う匂いも、日下宅に染まらない。
「あたし、あの人苦手なんだよねー」
 ダイニングテーブルセットに座す妹は脚を揺らした。
「優しい子よ」
「ふぅん。まぁ、いいや。あのさァ、お姉ちゃん。カズくん先生との面談、断ったでしょ! なんで? せっかく時間割いてくれたのに、ヒドいよ」
 妹はテーブルを叩いた。
「え……? ごめんなさい。面談って……? 先生がいらしてたの……? いつ……」
 まったく覚えていない。カレンダーを一瞥したが、そのような書き込みはない。抑(そもそも)、面談は姉がやるものなのか。しかし義弟の面談には司冴が出ている。
「知らないよ。カズくん先生がお姉ちゃんの仕事先行ったはず! パートなんだから仕事抜け出すくらいできるんじゃないの?」
「ごめんね、かのちゃん……」
 けれども司冴にはまったく覚えがなかった。面談の予定を聞いた覚えもなければ、職場に妹の教員が来たとも聞いていない。
「でも、仕事先にまた来ていただくのは悪いから、わたしから学校に行くわ」
 妹は首を傾げた。
「はぁ? 学校?」
「面談でしょう?」
「違うよ。塾! あたし、塾通うことにしたの」
 ダイニングテーブルセットが軋む。
「まぁ、そうなの……それなら面談はわたしより、お父さんのほうがいいんじゃない?」
「お父さん、このこと知らないもん」
 司冴の眉根に皺が寄る。
「それじゃ、お月謝は……」
「何、オゲッシャって」
「受講費はどうしているの?」
 妹はアルバイトを始めるというのか。
「麗示さんが払ってくれるって」
 司冴は肝を潰した。けれども平静を装う。妹の前だ。高校生の前だ。
「じゃあ、また面談の予定立てておくから。今度こそ絶対、ちゃんとしてよ。あたしが赤山学院落ちたら、お姉ちゃんの所為だからね!」
「分かったわ。ごめんなさい、かのちゃん」
「あと、そうだ、お姉ちゃん。お姉ちゃん、今、なんかマフラーみたいなの編んでるでしょ。それ、ちょうだいよ」
 司冴はたじろいだ。自室のベッドの上に、昨晩完成した手編みのマフラーを置いたままにしていた。
「あ……でも、……」
 カレンダーをもう一度見遣る。クリスマスイブまであと何日あるのか。
「ねぇ、お願い。あたし、毎日寒いんだもんー」
 臙脂色は妹の好きな色味ではないだろう。けれども妹が寒い思いをしているのだ。
「お姉ちゃんは、あたしが風邪ひいてもいいの?」
「わ、分かったわ。うん、あげる……」
 マフラーはまた編めばいいのだ。寝る時間を削れば、クリスマスイブには間に合うだろう。
「持ってくるね」
 司冴は自室に向かった。ベッドの上のマフラーを拾う。失敗も少なく、上手く編めた。手芸用品店を回って見つけたこの毛糸の色は、もう手に入らないだろう。肌触りも柔らかい。
 マフラーの端と端を合わせ、畳む。房飾りが踊る。
 居間へ持っていこうと部屋を出た。
「そのマフラー、どうなさるんですか」
 義弟が廊下に立っていた。
「かのちゃんに渡そうと思って……」
「義兄さんに渡すはずではなかったんですか」
 義弟はよく見ている。司冴から話してはいない。
 息が詰まる。しかし妹が寒がっているのだ。
「麗示さんにはまた編むわ。色もちょっと気に入らなかったし、やっぱり不出来だし。心配してくれてありがとう……」
 義弟は蝶が飛びたつように踵を返した。
 アルバイトの有給休暇を使って、睡眠時間を削り、毎日編み進めていけばクリスマスイブに間に合うかもしれない。
「義姉さん」
「うん?」
「家にいる間、家事は僕がやります。ですから編みものに専念してください」
 マフラーを握り締める。
「ありがとう、桜叉ちゃん。ごめんね……」


 夫が帰ってくるのを司冴は待っていた。玄関扉の開閉を聞き、玄関ホールの明かりが落ちる音を聞く。夫の足取りが居間に近付く。
「おかえりなさい、あなた」
 夫は居間へ踏み入った。ダイニングテーブルセットの上の間接照明が届くところまでやって来る。
「お疲れのところごめんなさい。けれどどうしてもすぐ確認しておきたいことがあって……」
 夫は小首を捻る。
「叶逢(かのあ)のことです。わたしの妹のこと……あの子の塾の費用を、麗示さんが負担しているって、本当なんですか……?」
「……ああ」
 司冴は固唾を呑む。
「そんな……そんなのは悪いです。わたしが払います。ごめんなさい、あなた。わたし、今日知ったばかりで……もうお支払いしているんですか……」
「……いい」
 夫の四指の背が、司冴の頬に当たる。柔らかさを確かめている。
「お前の妹なら惜しむところはない」
「でも……」
「桜叉に小遣いをくれるのは何故だ」
「けれど、あなた……」
 夫の手が司冴の後頭部に回る。引き寄せられたのか、夫が寄ったのかは分からなかった。額に唇が落ちる。
「気にするな」
「気にします……こんな大事なこと……」
 夫は鼻を鳴らす。
「お前のすべてが俺のものだ」



 目の前の男が口の端を吊り上げる。
 まともな明るさのもとで会うのは初めてだった。
 コートは適切な時機で脱いだというのに、その男は臙脂色のマフラーを巻いたまま座布団に尻を落とす。
 司冴は蜂蜜色の瞳から目を離せなかった。妹の通う塾の講師はいつ来るのか。何故、面談直前に、この男が現れたのか。
「失礼しました。外すのを忘れていました」
 蜂蜜色の瞳の男はマフラーを外す。房飾りが揺れている。
 妹と継父の暮らす家が面談の場所だった。二重の緊張が彼女を襲う。
「それじゃ、終わったら呼んでよね」
 隣に妹がいることも忘れていた。
「かのちゃん……」
 2人きりにされるのは耐えられない。司冴は妹を振り返ったが、襖は閉まってしまった。
「あ……」
「幾日ぶりだっけ、お姉サン」
 金髪にブラウンともキャメルとも判じられないスーツを着た男は、寿華(かずは)だ。姓は井上というらしい。礼儀作法などひとつもない所作で名刺を差し出される。
 司冴はこの場からどう逃げるか、そればかり考えていた。この場にいてはいけない。座っていてはいけない。逃げるべきだ。呼吸が浅くなる。
「これは、何かの、手違いで……」
「手違い? でも叶逢ちゃん、赤山学院行きたいんでしょ? でもこの成績じゃ厳しいって」
 井上寿華はカバンからファイルを取り出した。成績表のコピーが並べられる。
「これがあーしがまとめた成績の推移。数学全然ダメ。これで赤山学院は厳しいよ。成渓大学でもどうかな……」
「わたしは大学には行っていないものですから、大学の話はよく分かりませんけれど……あの子に赤山学院へ進学したい意思があるのなら、別の塾を選びます……」
 妹も納得するはずだ。大学事情には疎いけれども、赤山学院が高偏差値で有名なことは司冴も知っていた。成績が好いとはいえない妹が成績を伸ばすには、他に適切な塾があるはずなのだ。
「ま、あーしは別にそれでも構いやしませんよ。看板生徒にはなれなそうだし、キャンセル料払ってくれれば。もう教材注文して、カリキュラム組んじゃったからね。でも、お姉サンとの縁が切れちゃうのは残念だな」
 井上寿華は脇に置いたマフラーを持ち上げる。
「これ編んだの、お姉サンでしょ。妹チャンは自分で編んだって言ってるケド」
 司冴は揺れる房飾りを凝らす。夫が使うものだと思って編んだのだ。
「よくできてるじゃん。今時、手編みのマフラーか」
 すでに使用されたマフラーだ。司冴が完成を待ちわびたマフラーと同じものだというのに、もはや知らない毛糸の塊だ。
「要らないのなら捨てるといいですよ」
 情念を込めた。夫が寒くないように。夫の雰囲気に合うように。けれども届く先が違うのならば、消炭にしなければならない幻だ。
「まさか。お姉サンの手編みのマフラーでしょ。捨てられるワケないじゃん。あーし、親離婚してて母親いなかったんだよね。家庭的な女って超タイプ」
 司冴は顔を背けた。
「面談はもう終わりですよね。キャンセル料は払います。ですからあの子とはもう関わらないでください」
「別に、あーしは妹チャンと関わりたくて関わってるワケじゃないって。妹チャンが塾に入ろうが入らなかろうがこっちはどっちでもいいよ、受講料さえ払ってくれたら。ま、この成績から赤山学院に入れるようにするなら、まぁまぁ搾り取れるなって下心はあるケドね」
 井上寿華は腕を組む。塾講師兼塾長だというが、司冴には彼から知性の輝きを感じ取ることができなかった。
「お帰りください。キャンセル料はお支払いします」
「お姉サンともう少し話してたいんだケド」
 井上寿華は茶を啜った。
「叶逢はそちらには入れません。キャンセル料はお支払いします。話は纏まりました。お帰りください」
「ふぅん。お姉サンさ、これ見ても同じコト言えんの?」
 司冴の目の前にスマートフォンの画面が据えられる。裸の女と思しき姿が映っている。臍と陰阜(いんぷ)を覆う繁茂は男性の肉付きでも形状でもなかった。
 スマートフォンの後ろから伸びた指が画面中央の三角形をタップする。途端に裸体が上下に揺れた。映っていたものは女体で間違いなかった。粘こく照り輝く赤黒い棒を股に突き刺し、抜き差ししている。

「思い出した? お姉サンはあーしに逆らえないの。妹チャン切り捨てても、自分のコトは切り捨てられないよね。それにあーし、旦那サンのHIMO(ハイモ)のアカウント、控えてるからね?」
「こんな、の………」
 光の加減や、画面の端々に映る色合いに覚えがある。応円寺の居酒屋だ。
「忘れたとは言わせねぇよ? 音出してやろうか」
「やめて! やめてちょうだい……」
 見せられた部分に顔は映っていなかった。だが音を聞いたら、逃げられなくなってしまう。悍(おぞ)ましい現実を認めなければならなくなってしまう。
「何が………目的なの……」
 見たくない、思い出したくもない出来事だというのに、司冴は画面から目を逸らせなかった。
「舐めてお姉サン」
 井上寿華は座布団ごと尻を後ろに引いた。
「え……?」
「チンコ舐めろって言ってんの。旦那サンにもシてるでしょ?」
「な……にを………何を言っているの? こんなところで……」
「こんなトコロだからいいんでしょ。お姉サン、あーしの善意が分かってない? あーしは危ない橋渡って未成年飲酒を黙っててあげてんの。しかも赤山行きたいって言うから、リスク承知でそんな子を自分の塾に入れてあげようとしてて、いざ面談しようとしたらドタキャンされたんだよ。あーしも忙しいのに。挙句の果てにはキャンセルって……あーしのコト、ナメるのはいいケド、それならチンコも舐めてよ」
 井上寿華は肩を竦めた。
「い、嫌よ……どうして、わたしが、そんな……」
 蜂蜜色の瞳が真正面を向く。
「お姉サンがそんなカンジの知能だと、妹チャンの知能もそんなカンジ? 赤山はムリだね」
「わたしのことは好きに言って結構よ。でも妹のことは悪く言わないで!」
 蜂蜜色が細まる。
「ああ……やっぱ、いいな、お姉サン」
「話は終わり……動画も消して……」
「動画、消してほしい?」
「当たり前でしょう。早く消して!」
 一度引き込められたスマートフォンがまた差し出される。画面中央には円形の画像が映っている。見慣れたHIMOの初期アイコンだ。その下には「日下麗示」と書かれている。スマートフォンの縁(ふち)を支える指が少し動くだけで、この表示された人物に電話をかけることもできるのだった。
「あ、あ………」
「送っちゃおっかな。おたくの奥さん、名器ですねって」
「やめ、て……!」
 スマートフォンに手を伸ばす。だが躱された。
「やめ……て………」
「やめてほしかったら、どうしたらいいのか、あーしさっき、言ったよね?」
 司冴は首を振った。
 夫を二度裏切ることなく、一度目の裏切りを知られてしまうか、二度裏切りを重ねて一度目の裏切りも隠し続けるか。司冴には選べない。
 隠し続けなければならない。墓場まで持ち込み、遺骨の隅にも遺してはいけない。骨壺のなかで共に風化し、地に還ってもまだ、隠し通すべきことなのだ。
「我儘はダメだよ。何か欲しいものがあったら、お金を払う。そう、対価が要るよね。お金とは限らないケド……」
「ど、どうして、わたしなの……? 
「言わせたいんだ?」
 厚みのある手がテーブルの上に出る。指を折りかけたところで司冴は口を挟んだ。
「こんなことしなくても、井上先生は女性には困らないですよね……? 見た目もかっこいいし、塾講師なら頭も良いんでしょうし……もっと若くて、独り身の綺麗な人が他にいるはずです……何も、わたしじゃなくたって……」
 井上寿華は首を傾げた。野球部の捕手やラグビー選手のような首から軽快な音が鳴る。
「褒めてくれてんの?」
「そういうわけではなくて……」
「八ツ橋大落ちで正智大のあーしに頭良さそうってバカにしてんの?」
 蜂蜜色に火柱が上がった。
「ご、ごめんなさい……大学のことはよく分からないものですから……でも……」
 大学進学をしたのだから当然、頭は良いはずだ。大学に進学できるというのはそういうことのはずだ。大学で頭脳を使い続けているのだから、衰えるはずがない。大学とは勉学に勤しむ場所なのだ。
 成績が優秀ではないあまり、然るべき機関の貸与のみでは学費を工面できず、高校卒業後は就職し、今や家庭に入って献立を考えているだけの脳に比べれば、当然、大学生は秀でていなければならない。それが知的組織に通う連中の義務なのだ。
「ジョーダンだよ。でもあーしはアンタがいいと思った。どうせ卑屈な顔して、今だって挑戦的なこと考えてるんだろ?」
「まさか……そんな………」
「舐めて。守るものあるアンタはもう負けてんだよ」
 司冴は首を振る。
「じゃあ、コレ、どうしたらいい?」
 またもやスマートフォンを見せびらかす。司冴は画面を見た途端、目を剥いた。
「コレってセクハラじゃない?」
 HIMOのチャットルームに画像が投下されている。妹の裸体が映っている。
「あーしを児ポのロリコンにする気なの? こちとらセクハラされた気分なんだけど。義理のお兄さんのほうに相談しようと思ってさ。男同士で解決したほうがいいでしょ。気持ち分かってくれそうだし。でもこんなん送ってくるコのお姉ちゃんならハメ撮りさせてくれても不思議じゃないよね。これもちゃんも判断材料として送るつもりなんだ。でもお姉サン、さっきの感じだと全然それで問題なさそうだったよね。気が変わらないうちに送るか~」
 スマートフォンがテーブルの上で仰向けになる。「日下麗示」のプロフィールページを開き、チャットルームに入るためのトークボタンを押す。テキストメッセージひとつない背景画面が露わになる。厚みのある手に相応しい剛健な指がテキストボックスの脇の「アルバム」を開く。撮影時間を携えたサムネイルを選び、あとは紙飛行機を模したボタンを押せば、不貞行為は日下麗示のもとに届く。
「あとは、送るだけ」
 短く来られた爪が紙飛行機のボタンに落ちていく。
 夫に裏切りが知られるのみならず、妹の痴態まで知られてしまう。妻の妹だからと好くしてくれていたのだ。その義妹もまた恩を仇で返すのだ。姉妹揃って……
「待って!」
 画面に触れる寸前で、司冴は厚い手を捕まえた。
「分かったわ……要求を呑みます………呑みますから、やめてください……」
 丸い蜂蜜色が楕円を作る。
「いいコ……」
 テーブルを回り、寿華の前に膝をつく。
 この選択は間違っている。分かっていたが、まだ夫と共にいる未来が見える。長続きはしないのだろう。長く続かないのなら、引き延ばし、継ぎ足していくしかない。まだ可能性がある。終わらせずに済むかもしれない。
「旦那サンが好き?」
「当たり前でしょう……」
「当たり前じゃないよ。ウチの親は離婚したしね」
 司冴はテラコッタ色のスラックスのファスナーを開いた。ホックに手をかける。胴回りも筋肉の豊かな身体は、両端を摘み、力を入れなければ緩まなかった。
「ぅっぷ」
「おしゃべりが好きなの?」
 蜂蜜色を睨む。
 夫とは異なる肉置(ししお)きが慄えている。女を辱めるのは初めてではないはずだ。怖気付(おじけづ)いているのではあるまい。
「やっぱりお姉サンって、かわいいわ……」
 下着の合わせからわずかに芯を持ったものを取り出す。
 夫は最初から舐めさせるようなことはしなかった。すでに変貌を遂げたものを終わりへ導かせることしかしなかった。夫のものであれば、喜んで、最初から最後まで育て上げた。けれどもそれは他人の身体から生えた汚らしいモグラだ。
 顔を近付ける。口に入れるのに躊躇いがあった。夫にもあるものだ。大きさも形状も大して違いはない。多少、肌に染みついた家の匂いというもの違いがあるだけだ。しかし抱く印象は大いに異なる。真反対に位置している。
「日が暮れちゃうよ、お姉サン。あーしのチンコ、干乾びさせたいの?」
 司冴は大きく膨らんだ先端を口に入れる。歯が当たる。
「痛いよ。下手くそ」
 口淫は得意ではなかった。夫のために尽くしただけなのだ。日下麗示という男が相手だったために口淫が成立していたのだ。相手が彼でないのならば、集中力は続かない。
 口に入れるのはやめた。怒らせては、力では敵わない。
 肉竿に舌を這わせる。図々しげな肉棒は数度往復しただけで天井を衝くようだった。
 根元から舐め上げ、女に生まれたならば陰核になるはずだった窪みを舌先で抉る。
 ここが性感帯であるかどうか、司冴には分からなかった。ただ舌先が収まるために、舐め上げ、舐め上下ろすたびに休憩所にしていた。
 降りかかる吐息が耳障りだった。
「お姉サン……そろそろ、口、入れてよ……」
 司冴は寿華を見上げた。
 口水の輝く太い棒が鼻先で跳ねた。

8


 喉が痛むのは過度な咳払いが原因だろう。
 夫ではない男の体液がまだ喉奥に絡みついているような気がして、司冴(つかさ)は咳払いを繰り返す。
「義姉さん」
 共に居間にいたというのに、まるで存在を消していた義弟がキッチンカウンターの影から現れ、司冴の座るダイニングテーブルセットのテーブルの上にマグを置く。
 司冴は編み棒を交差させていた手を止める。
「蜂蜜を溶かした牛乳です。喉の調子が悪いようでしたので」 
「ありがとう、桜叉(さらさ)ちゃん」
 マグを握る。指先が体温を取り戻していく。
「24日は出掛けます。25日も出掛けます」
 義弟はテーブルの奥に佇立(ちょりつ)している。クリスマス2日間、過ごす相手がいるのだろうか。彼は兄夫婦を慮(おもんばか)ったのではなかろうか。まだ子供だというのに、気を遣っているのだ。
「23日の夜……麗示さんはお仕事だけれど、2人でちょっと、小さなパーティしようよ。忘年会も兼ねて……そんな大袈裟なものではないけれど……どうかな」
「分かりました」
「あ、他に予定があるのなら全然……」
「空いています」
「そう。よかった」
 蜂蜜入りの牛乳を飲む。擦り切れた喉に甘さと温かさが染み入っていく。
 咳が出た。蜂蜜入りの牛乳は喉を滑らかに通り抜けたというのに、肺が跳ねた。しかし自ら出そうとしたわけではなかった。
「風邪ですか」
「うふふ。ごめんなさい。今日は早く寝るわ」



 足音で目が覚めた。
 深く眠っていたつもりだったが、喉の痛みは治っていなかった。鼻詰まりで頬の奥が疼いている。寝たというのに、回復するどころか悪化している。
「あなた……?」
 枕元のリモコンに手を伸ばす。「調光」を押したつもりが「常夜灯」を押していたらしい。橙色の明かりが点く。
 人影はベッドに腰を下ろした。
「おかえりなさい」
 息苦しさのために外していたマスクをつける
「ごめんなさい。風邪をひいてしまったみたいで……」
 人影が手を伸ばす。髪に指を通していく。
「お夕飯、温め直します」 
 立ち上がろうとした司冴の肩をベッドへ押し戻す。
「寝ていろ」
 夫の顔が見えた。濃い影から二点、緋色を照り返している。
 今日も夫を裏切った。
「あなた……ごめんなさい……」
「明日は休め」
 薄い掌が後頭部に添わり、彼女を抱き寄せる。
「ごめんなさい……」
 額と頬に唇が落ちる。
「気にするな」
 夫は共に倒れ、司冴を寝かすと布団を掛け直す。明かりを消し、部屋を出ていく。ベッドが形を取り戻す。
 司冴は布団の中で蹲った。身体に静電気が走っていくようだった。寒い。
 夫は何も知らず、今日も優しい。忙しく仕事を終えて、帰ってきたら嫁が体調を崩して寝ていても、夫は優しかった。
 身の丈に合わない夫だ。己の器には過ぎた夫だった。いつ捨てられてもおかしくない。気が向けば、今すぐに出来損ないの嫁を捨てられるのだ。



 アラームが鳴る。朝だ。身体が重かった。居間に向かう。朝の光が遮光カーテンを透かしている。まずはカーテンを開けるのが習慣だ。
 義弟の弁当と夫の朝食を作らなければならない。
 手を洗うと、普段よりも水が冷たかった。
「おはようございます」
 居間に義弟が顔を出す。
「おはよう、桜叉ちゃん。昨日はごめんね。何から何まで任せきりで……」
「いいえ。義姉さんは寝ていてください。あとは僕がやります」
 朝日が淡い色味のガラス玉を透かす。
「でも、悪いわ」
「今は風邪を治してください」
 ガラス玉はふと転がる。水に浮かんでしまう油のように、日下宅の匂いではない義弟の匂いを残し、彼はカウンターに入っていった。共に長く住んでいなければ、冷淡に突き放しているように聞こえるだろう。
「ごめんね……ありがとう、桜叉ちゃん……」
「食欲はあるんですか」
「あんまり、ないかも……」
 汚らしい液体が胃液に溶け、分解され、或いは栄養として吸収されていったのだ。血肉と化すのだ。夫のくれたチョコレートと同価なのだ。義弟の淹れたホットドリンクと等価なのだ。
「うどんなら食べられそうですか」
「大丈夫よ。桜叉ちゃんも忙しいんだから、わたしのことは気にしないで。ありがとうね」
 部屋に戻り、体温計を腋に挿す。先端の金属部が奥まった柔らかなところを脅(おびや)かす。
 平生(へいぜい)よりも長く眠ったのだ。風邪薬も飲んだ、熱は下がっているはずなのだ。治りかけの痛みがあるだけなのだ。
 音が鳴る。小さな画面には38.5℃が表示されている。
 テキストメッセージで欠勤の連絡を入れる。送信ボタンを押した途端、後悔が押し寄せた。本当は行けたのではないか。これから熱が下がるのではないか。身体は動くのだ。ただ喉が痛み、鼻炎と鼻詰まりがあるだけだ。昨晩に比べれば咳は減った。
 働けたはずだ。だが休んでしまった。
 熱を下げなければ、また休むことになるのだろう。
 編み途中の毛糸を一瞥したが、続きを編む気にはなれなかった。布団に入る。身体は確かに休息を求めているようだった。
 頭が枕元に吸着する。ベッドが躯体に合わさり、掛布団が隙間を埋めていく。
 息を吐くように意識が抜けていく。


 他者の気配で意識が浮かぶ。目は開いたつもりだが、目蓋が重い。
 まだ夜ではないはずだが、夫が仕事から帰ってきたのかもしれない。
「あなた……」
 鼻が詰まっていた。上顎の奥が張り付き、上手く喋れない。
 頭が重かった。身体も重い。起きることは叶わず、肩を浮かしては枕に沈む。腕でシーツを押し、肘が撓(たわ)むが、再度力を入れ、上体を起こす。掛布団から蒸れた空気が逆巻く。洗剤と汗の匂いを嗅がれている。
「ごめんなさい……」
 頬に温度差のあるものが当たる。火照りを奪われていくのが心地良い。
「仕事、ごめんなさい……」
 肌理(きめ)と肌理の凹凸が、微かな狂いもなく合致するようだった。しかし萎んだ吸熱シートを捨てるように、熱を吸い取った夫の手も離れていくものなのだ。司冴は頬にある手を掴んだ。
『日下(くさか)さん』
 夫が傍にいるというのに彼女は微睡(まどろ)んだ。
「好き……」
 好意を伝えた相手は離れていってしまうのだ。母親がそうだった。
 夫も離れていってしまうのだろう。掴み続けなければならないのだ。
 眠気の泥沼の奥に沈めた悪行を、今は拾い上げる気力もない。ただ、夫に悪いことをしたのだ。鼻が詰まれば息も詰まる。胸が苦しくなるのは咳のためか。
 握った手が夫のものであることも忘れ、心地良い感触を首筋や鎖骨に当てた。
 まだ足らない。
 腕を辿る。夫の身体が近付く。触れ合いたい。
 夫とキスがしたい。夫の唇が吸いたい。
「あなた……」
 目蓋が閉じてしまう。鼻詰まりが頭を重くする。身体中に静電気が走っている。
 夫は妻の望みを察したようだった。しかし彼女は自身が風邪をひいていることを思い出す。
 我儘を言ってはいけない。言えば夫は叶えてくれるのだ。
「うつっちゃう、から……」
 彼女の手は望みに反し、夫を押し返す。
 キスはできなかった。だが夫の腕に身体を包まれる。
『着替えたほうがいい』
 彼女は頷いた。
 夫の前だが、今ここで着替えなければ、彼の提案を無下(むげ)にしてしまう。寝間着のボタンに手を掛けた。指先の感覚が鈍い。肘が重い。
『今……着替えるのか………?』
 上体を起こしているのが厄介だった。頭を支えきれず、枕とは反対側に傾いた。
『日下さん!』
 視界が暗くなる。恐ろしいものを見た気がした。夫の顔がなかった。顔はある。だが夫ではなかった。けれども焦点が合わなかった。だが夫でないことは分かった。
『病院に行くべきだ。救急車を呼ぼうか』
 掛布団に委ねていた身体が浮く。一瞬、鼻が通った。嗅いだことのある爽やかな匂いが入ってきた。分かるのは、この家の匂いではないということだけだった。
 真上を見上げる。
 雨都(あまみや)燈衛(ともえ)がいる。
 彼女は悲鳴を上げた。


「義姉さん」
 目蓋が弾かれた。遮光カーテンの下りた薄暗い自室にいる。義弟に上半身を支えられ、床に脚を投げ出している。ベッドから落ちたのか。それらしき衝撃や痛みはなかった。
「あ……桜叉ちゃん。ごめんなさい……」
 義弟をベッドと勘違いした。細腕に凭れ掛かり、数秒、茫としていた。それから義弟がベッドでないことを思い出す。
「桜叉ちゃん、学校は……?」
「休みました」
 至近距離からガラス玉を見詰めてしまった。
「桜叉ちゃんもどこか具合が悪いの?」
「いいえ」
 小柄で痩身とは思えない膂力(りょりょく)で以って、義弟は司冴をベッドに乗せた。
「もしかして、わたしのために……?」
「いいえ」
 義弟は外方を向いた。
「義姉さん」
「うん……?」
「義兄さんは、酷い人です」 
 どの方向、どの角度から見ても完成された顔立ちを凝らす。
「麗示さんと喧嘩したの……?」
 ガラス玉が不思議な色を湛える。
「義姉さん……」
 司冴を呼んでいるに違いなかった。彼の義姉は自身だというのに、司冴は呼ばれた心地がしなかった。
「桜叉ちゃん。困ってるなら相談して。わたしは麗示さんの妻だけれど、桜叉ちゃんの義姉(あね)でもあるんだからね……?」
 咳が胸を突く。口を覆う。
「うどんを煮ました。薬と一緒に持ってきます」
 義弟がベッドを向く。嫋(たお)やかな手が伸びた。
「え……」
 肌荒れで白ずむ指が司冴の寝間着のボタンを嵌めた。




 厭な夢がこびりついている。
 雨都燈衛が家に来るはずがない。それは絶対にないのだ。家には義弟がいた。義弟が兄嫁の部屋に通したというのか。健全ではない。
 だが、リビングに置かれた小さな花束は誰が持ち込んだのか。バウムクーヘンは職場近くのデパートに入った店のものだった。
 職場に着く。事務所の横を抜けると、悪夢の登場人物と鉢合わせた。咄嗟に顔を背けてしまった。
「体調はもう大丈夫なのか」
「はい。ご心配をおかけしました」
 熱は下がったというのに、汗が滲む。
「そうか……よかった。苦しそうだったから……」
「………え?」
 雨都燈衛は司冴を見下ろし、静止している。目を開けたまま寝ているのだろうか。だが濃く太い睫毛に覆われた目は、敏く廊下の明かりを瑞々しく拾っている。寝ている人間の目ではなかった。
「あまり無理をするな」
「はい……」
 眉が引き攣る。夫か雇い主のような口振りが腹を焼く。胃酸が逆流しているようだ。
「ストーカーのほうは大丈夫なのか」
「ええ……」
 頬も引き攣る。唇が強張った。ストーカーはこの男なのではないか。否、悪夢に出てきただけのことだ。家に来たわけではない。既婚者の家に来るはずがない。義弟が兄嫁の部屋に通すわけがない。この男は他人との距離感が掴めないあまり、悪夢にまで踏み入ってしまった憐れな孤独人なのだ。
「いつでも相談に乗る……」
「はあ……ありがとうございます……」
 話は終わりだ。社員は休む間も惜しんで会社に尽くし、滅私奉公するべきだ。この雑談の時間さえ多大な損失を生み、使いようによっては莫大な利益を出せるはずなのだ。けれども雨都燈衛は司冴の前から動かない。
 廊下の蛍光灯が明滅する。買い替えの時期のようだ。司冴は大柄な人影から逃げ、天井を見上げた。
 この男が放つ湿気と黴臭さが電気系統に働きかけたかのようだった。
「俺はいつでも、日下さんの味方だから……」
 蛍光灯が明滅する。ダークカラーのスーツが徐々に膨張しているように見えた。恐ろしい怪物が育っているように見えたのだ。
「あの、ちょっといいですか。通してもらっても」
 脇から進路妨害の非難が飛ぶ。蘇方(すおう)とかいう赤毛の若造がファイルを抱えて佇んでいる。
「ああ、ごめんね」
 司冴は作業部屋へ足を進めた。雨都燈衛も事務所に戻るようだった。後ろから足音が近付き、横に蘇方が並ぶ。
「迷惑ならちゃんと言ったほうがいいと思いますよ」
 作業部屋に至る前の印刷部屋で曲がっていた。彼は大学生アルバイトで、主に印刷部屋のPCでデータ管理の仕事をしている。一度フロア案内をしたことがある。接点はそれくらいなものだ。
 作業部屋に着くと、病欠に対する労りの言葉と引き継ぎの連絡があった。来週は大掃除があるという。社員とアルバイト・パートが組み、清掃業者を入れる前に1週間に渡って1時間ずつ掃除をするらしい。
 掃除表が貼り出されていた。不安の9,8割は起こらないという。司冴は自身の名前を探した。ペアは――
「日下さん」
 振り向くと、シフト上ではすれ違う、司冴と同年代の若い主婦がいた。
「この掃除の日、あたし都合が悪くって。代わってくれない?」
 渡りに船。闇夜に提灯。旱(ひでり)に雨。
「もちろん、いいですよ」
「ありがとう! じゃあ事務所の掃除表、書き換えてくるね!」
 司冴からも礼を言うべきだった。
 安堵の溜息が漏れた。「日下」と「雨都」が並んでいる。早速、赤ペンで二重訂正線を引き、矢印を引っ張る。
 後ろで声を潜めた会話が聞こえた。ベテランアルバイトの主婦2人だ。ふとそちらを見遣ると目が合った。捕手と投手が話し合っているかのような所作が解かれ、司冴に手招きする。
「田沼さん、別に用なんかないワよ。雨都さんが目当てだワよ」
 だが、先程の主婦・田沼さんの用事の有無など、司冴にはどうでもいいことだった。
「そうだったんですね。でも、雨都さん、少し苦手だったので、正直ちょうどよかったです」
「喋らないもんね、あの子!」
 あの社員の放つ湿気と黴臭さは蛍光灯にまで影響が出るのだ。何故あの社員と加湿器の掃除をしなければならないのか。彼自身が加湿器だというのに。


 視界の端で黒い影が右往左往している。加湿器の掃除を終え、シュレッダー掃除のために長身を縮めている。その傍に田沼さんが立っていた。
 司冴はシュレッダーを斜め後ろに、打刻を終える。出勤時刻と退勤時時刻を打ち込むだけのことだった。保存ボタンを押して席を立つ。
「痛っ」
 咄嗟に顔を向けてしまった。長身が指を抱えている。怪我をしたようだ。シュレッダーは止まっていたし、コンセントも抜かれていた。彼は詰まりを直していたようで、足元には紙屑が落葉よろしく散らばっている。
「大丈夫ですか?」
 やめておけ、相手は雨都だ。けれども口が先に動いていた。
「平気だ……」
「えー! 雨都さん、大変!」
 田沼さんが指を覗き込んでいる。
「絆創膏ありますが……要ります?」
 カバンに絆創膏がある。妹と出掛けると靴擦れを訴えるため持ち歩いていた。
「消毒するなら作業部屋にありましたよ、確か」
 カバンから絆創膏を取り出し、雨都燈衛に渡す。人差し指から血が流れていた。一滴床に落ちる。司冴はポケットティッシュも渡した。
「あたし、消毒液持ってきますね」
 田沼さんが司冴の後ろをすり抜けていく。
「ありがとう。何から何まですまない……」
 加湿器の水蒸気を直に浴びたような心地になった。
「別に」
「明日の大掃除、一緒になったから……よろしく、頼む……」
 司冴は目を剥いた。
「えっ、わたし、確か、田沼さんと代わったので蘇方くんと原西さんとなんじゃ……」
「原西に商談が入った。代わりに俺が入る」
 何故、原西はその日に予定を入れたのか。年末だ。大掃除から逃れたかったのではあるまいか。
「そ、そうですか……」
 燃え滾る眼差しを受け、彼女は狼狽える。
「2回も大掃除に駆り出されるなんて大変ですね。わたしと蘇方くんで頑張りますよ」
 この会社のエースだという社員を大掃除なぞに2回も使い潰しては、年末の仕事に差し障りがあるのではないか。
「それは悪い」
 まったく悪くないのだ。是非、事務所に籠って仕事をしていてほしい。大掃除を押し付けられた赫怒を向けられるのならば、小生意気な若造と2人で掃除をするほうが楽だ。
 肺から空気が抜けていくようだった。笑みを作ろう。隙間風が口から漏れるだけだった。
 しかし、神はいる!
 司冴はまたもや大掃除の交代を乞われたのだ。


 掃除場所に行くと、蘇方(すおう)星月(せな)がいた。すでに雑巾とバケツを手にしている。男子大学生特有の気怠げな雰囲気を纏っている。
「あれ? 蘇方くん?」
「深町さんと代わったんです。」
「わたしも室井さんと代わったんです」
「雨都さん目当てですよね」
 語尾には批難の色が滲んでいる。
「ん~、どうなんだろうね」
 建前としては"予定が合わない"だ。
「そういうあんまり煮え切らない態度が、雨都さんを勘違いさせるんだと思いますよ」
 この男子大学生はいつでも語尾に批難が潜んでいる。立孝(りっこう)大学という高偏差値で有名大学のなかでも最も偏差値の高い学部にいるという噂だった。彼は学歴を鼻にかけているらしい。
「勘違い?」
 粋がる大学生は童顔だった。エゾモモンガを思わせる目と視線が搗ち合う。目を合わせているには長い時間が経つ。沈黙。
「え……何も分からない感じですか……」
「うん……ごめんね。なんだろ?」
 何でもかんでも批難し苦言を呈すこの男子大学生の眼差しからは、やはり批難と苦言しか読み取れない。
「雨都さんは日下さんのこと、気に入ってるんですよ」
 学歴が高いがゆえの男子大学生のやっかみに違いない。子供もおらず、夫の帰宅が遅く、兼業していない司冴はシフトに自由が利く。他のアルバイト・パートよりも安定していた。祝日や休日、人の少ない日に求められれば出ることができた。その点では確かに、雨都燈衛ひとりといわず、会社に気に入られているかもしれない。しかしあくまでもこの男子大学生の言葉をもとに、他者と比較した場合の話だ。実際、社長や社員にそう言われたことはない。あったかもしれないが、社交辞令だろう。印象には残っていない。
「そうかな」
「本当に気付いてないんですね」
「それこそ蘇方くんの勘違いだよ」
 蘇方星月は首を傾げる。
「少し前にあの人、休んだじゃないですか」
「そうだっけ。そうなんだ」
 毎週、毎日、あの社員の動向を窺っているわけではない。彼がいつ出勤しいつ休み、いつ病欠したかなど覚えていないし知ろうとは思わなかった。否、彼の休日は先んじて出勤表を見て把握していた。その日はのびのびと帰ることができる。
「……確か日下さんがお見舞いに行ったと思うんですけど?」
 思い出した。買い出しに行き、重い荷物を持って雨都宅を訪れた挙句、帰るよう言われた散々な日だ。
「ああ、あった、あった」
「本当はぼくと浅沼さんで行くはずだったんですよ。でも絶対に住所教えるなって。なのに日下さんは教えてもらったんでしょう。まぁ、別に行きたかったわけじゃないんでそれはいいんですけど」
 負けん気の強いこの若造はやはり出し抜かれた心地がして管を巻いているだけなのだ。
「ほら、浅沼さんみたいな若い女の子を、蘇方くんがいたとしても男の人の家に行かせるのは拙(まず)かったんじゃないかな。その点、わたしは結婚してるし」
「……」
 男子大学生は唇を尖らせ、怪訝な顔付きで司冴を凝らす。 
「何……?」
「日下さんって結婚してるんですか」
「してるよ……?」
 エゾモモンガの眼が左手を探る。彼女は左手を広げて見せた。
「仕事中はしてないの。失したり邪魔になると困るから」
「日下さん、結婚、してたんですね……」
 まだ丸みを帯びた手が口元を押さえ、俯いた。
「見えなかった? 子供っぽいかな……」
「いえ、結構若く見えたので……」
「え? 本当? 嬉しい。若く見えるんだ。でもあんまり調子乗っちゃダメね」
 男子大学生は眉を顰めていた。
「本題はそこではなくて……雨都さんは日下さんが結婚してること、知ってるんですか」
 今度は司冴の眉根に深い皺が寄る。夫や指輪について言及されたことがある。詳(つまび)らかに思い出すと胸焼けを起こす。
「知ってると思う」
「それじゃあ尚更問題ですよ」
 彼の語尾の批難の色が薄まった。しかし今度は呆れとも侮蔑とも判じられない乾いた響きが混ざっていた。
「問題か……」
 フラッシュバックする。
 頭が重い。胃酸が胸を焼き尽くし、息が詰まる。夫への裏切りは井上 寿華(かずは)とのことだけではないのだ。
「問題だね……」 
「今、アルバイトを何人か異動させようとしているみたいですよ。上の階になっちゃいますけど、立候補してみてはどうですか。っていうか、ぼくが推薦します」
「本当?」
「いつも雨都さんに絡まれて困ったカオしてますもんね。いいですよ」
「よく見てくれてるんだ。ありがとう」
「ち、違いますよ。ぼくが入ったばかりの頃、日下さんにはよく気にかけてもらいましたからね!」


 引き継ぎノートを書き、指輪を嵌め、帰り支度を済ます。蘇方星月の話が順調にいけば、この会社の地縛霊のごとき男の顔を見ずに、のびやかに仕事ができるのだ。そのとき、過ちを握り潰し、記憶の彼方に捨て去ることができるのかもしれなかった。
 足取りは軽い。
 エントランスを出て寒空に吹かれる。マフラーとコート、手袋に覆われていると、今日はこの寒さも快く感じられた。ファーの耳当てもこの冬の夜を愉しませる。
 帰ったら、マフラーを編まなければならない。財力のある夫への贈物は、買えるものでは意味がない。
「日下さん」
 木枯らしには怪物が棲んでいる。時折、人の呼ぶ声と紛うのだ。
「日下さん」
 木枯らしだと思いたかった。だが、耳当てを隔てても、鼓膜は人の声だと認識してしまった。その瞬間、立ち止まる。
「日下さん」
 大きな人影が近付き、外灯の下で影を脱ぐ。
 司冴は言葉を失った。声も出なかった。顔は分かるが名前を忘れかけた。
「この前の絆創膏……貰ってしまって悪かった」
 人影の掌に収まる紙箱が差し出される。絆創膏の商品名が書かれていた。司冴の愛用している、伸縮性に優れた不織布の絆創膏だった。
「そんな……」
 箱は空いていないようだった。1枚渡しただけだというのに箱ごと10枚渡す気なのだろうか。
「それからポケットティッシュも……悪かったな」
 通勤途中、何かのキャンペーンでもらったポケットティッシュを1袋渡した。司冴には何の損もなかった。だが人影は買ってきたらしい4袋セットのポケットティッシュを差し出す。
「そんな、わざわざ……」
「ありがとう。嬉しかった」
 寒風が防寒具を無効化する。外灯の曖昧な光を浴び、目眩がした。
 人影は小首を捻る。手首に掛けていた袋に絆創膏の箱とポケットティッシュを入れ、改めて司冴へと差し出す。
「だ、大丈夫です。い、要らないです……」
「気に入らなかった、か……?」
「そうじゃなくて……わ、悪いし……雨都さんが持っていたらいいんじゃないですか……? また手を切ってしまったときに……」
 人影は睫毛を伏せる。
 蘇方は「煮え切らない態度が相手を勘違いさせる」と言っていた。
「気を遣わせたみたいで申し訳ないです。でもそれは受け取れません」
 頭を下げ、人影に背を向ける。蘇方もこれならば納得するのではあるまいか。
「日下さん」
 木枯らしには魔物が棲んでいるのだ。人の呼ぶ声に聞こえるものなのだ。

【TL】寝取らセ婚〜想葬リトライ〜

【TL】寝取らセ婚〜想葬リトライ〜

既婚者女がバ先の社員に言い寄られたり、妹が逆ナンした男に脅されたり、旦那に冷たくされる話。

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い性的表現
  • 強い反社会的表現
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2025-11-08

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著作権法内での利用のみを許可します。

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