TL【鳴り鎮スピンオフ】囀り鎮魂歌

1

 京美(みやび)は位牌に両手を合わせた。漆塗りに金色を差した木片に何を祈ろうとも、願いは叶わない。だが義理を果たせた気にはなる。償いを済ませた気にはなる。たった1日、動けるようにはなる。
 不合理だろう。だが染み付いていた。
――行ってきます、朋夜(ともよ)さん。


 最後の手術を終えて半年。薬の数も半分に減った。
 大学は楽しかった。
 生きていく方向へ舵を切った。視覚異常は回復した。だが視覚異常を起こす以前よりも世界が色付いて見える。それは網膜や角膜、視神経の問題ではないように思えた。
 だが、この彩りで見たかった人はもういない。
 淡いブルーの似合う女性だった。
 ちょうど、空はその人に似合う色味をしていた。
 京美は目を伏せた。バス停で待つ。バスに乗る。発車する。数分後、バスが停まる。腹を膨らませた若い女が乗る。席を譲った。息がしづらくなった。病がぶり返したのではなかった。体力は落ちたが取り戻しつつあった。バスが発進する。車窓を見遣る。予定通りの運行だ。

 バスが停まる。駅前の最寄りのバス停だ。以前はよく降りた。今はもう違って見える。迎えに行く相手はいないのだ。制御できないほど燃え上がる体内の渦が、カルチャーセンターまでのほんの10分足らずの道を長く感じさせたものだ。顔を合わせたら、まず労う。荷物を持って、車道側を歩く。今日の仕事はどうだったのか、急くことなく訊くのだ。歩幅に気を付け、誰の肩にもぶつからず、冷たい風に荒むことなく、守らなければならなかった。すべて腹積りだ。すべて理想だ。実際は空回る。年の差、立場の差を見せつけられ、守られる。小さな身体が、器用に立ち回る。
 発車アナウンスで、彼は我に返った。
 クリスマスに飾られた街が窓を横滑りしていく。
 その人が遺していったものはあまりに大きかった。
 スマートフォンが鳴る。テキストメッセーが届いている。
[京美くん。クリスマスの予定はどう?友達と遊ぶならそっちを優先して]
 京美はすぐに返信を打たなかった。


 大学の敷地内にあるバス停で降りる。冬の風は硬い。空を見上げる。陽射しは強いが、肌寒い。
 門を潜る。
「み~やびッ」
 振り返ると、首に腕が回った。 
「復学してたなら言えよ!」
 細長いシルエットは駒井(こまい)だ。京美の数少ない友人だった。人懐こく剽軽な性格が、いつの間にか間合いを埋めている。
「復学した」
「今言うんじゃねー、よっ!」
 この友人には何も話していなかった。話すことはないのだろう。友人だからこそ、言えないこともある。
「廻(めぐる)のお友達?」
 京美は駒井廻の腕から抜け出すと、声の主を探した。女が佇んでいる。赤みを帯びた茶髪で、毛先を巻いている。
 京美は目を合わせたがいいが、異性を前にすると身体が強張った。昔からそうだ。女性と話すのは苦手だった。
「あ、そーだ、そーだ。京美、おれのカノジョ。紹介しろ」
 駒井は後ろの交際相手へ首を仰け反らせる。
「友利恵(ゆりえ)です。京美くんっていうんだ。めっちゃかっこいいね。よろしくー」
 駒井の軽率な雰囲気に合った、軟派な感じのする女だった。スカートの下から曝された膝頭が寒そうだ。腿は青白く見える。
 長いこと見ているものではない。京美は小さく頭を下げた。
「最近、戻ってきたんだよな、ワケあって」
「え、何?」
「入院してた」
「入院! 怪我したの?」
「まぁ……そんなところ」
 病によって自ら命を捨てようとしていたとな彼等が知る由(よし)はない。話す必要もないことだ。 
「ツンケンしてるけど意外といいやつだから、友利恵も仲良くしてやって」
 細長い体躯にあった細長い掌が京美の肩を叩く。



[予定空いてます]

[それは困ったな。でも嬉しいよ。プレゼント用意しておくね。君からのプレゼントは、健康で元気でいること。]



 長年暮らしているというのに、リビングの広さには慣れない。宝の持ち腐れだ。引き払うのがいいのだろう。だが何かが惜しい。今はまだ身体が癒えきれていない。理由を付けて先延ばししている。
 合理化に努めて、先延ばし、取り返しのつかなくなったことはたくさんあるというのに。
 3つ余るダイニングテーブルに座っていると、ふと、すでに時代に取り残されたDVDプレイヤーが目に入った。テレビ台に置き放されたCDのケースには中古品店のシールが貼られたままだった。自動販売機のペットボトルよりも安いが価格を目にした途端、京美は胸が張るような痛みを覚えた。診断も薬も治療も要らない。だが今後一生、治りもしないのだろう。
 元来が慎ましやかな人に倹約を命じた。八つ当たりだった。意地の悪いことを言ってばかりいた。
 CDケースを抱き締める。胸元の布で埃が拭けた。目頭が熱い。小煩い時計の短針を逆巻けば、時は戻るのだろうか。戻りはしない。だが期待は膨れ、理解が望みを打ち砕く。
 与えられてばかりで何も報いることができなかった。
 彼女に幸せはあっただろうか。
 蹲って吐き気を堪えた。術後経過は順調で、今現在飲んでいる薬にそのような副作用はない。
 CDケースを開ける。戦慄く手は悴(かじか)むようで、上手く動かない。爪を割り入れ、抉じ開ける。CDは入っていなかった。
 数ヶ月ぶりにテレビを点け、DVDプレイヤーと連動したチャンネルに切り替える。プレイヤーの電源を押した。ライトが赤から緑に変わる。テレビ画面に有名メーカーのロゴマークが現れる。
 映像は入っていなかった。番号を割り振られたトラック名が3つほど並んでいる。
 無造作に選んだひとつを押した。アメイジンググレイスが流れる。歌は入っていなかった。




 バスを降りる。川沿いの遊歩道は水の都を思わせた。
 藤見橋を渡り、暫く行くと赤い欄干が見えた。その傍に豆腐を彷彿とさせる建物がある。ピアノの音が微かに聞こえる。
 ドアを開けると鈴が鳴った。
 いらっしゃいませ。
 白いシャツと色褪せたライトブルーのジーンズはメーカーや販売店が違ってもこの店の制服らしい。
 京美は出入り口すぐにぶつかるカウンターの白い花に気付く。この店を頼りにして夭折(ようせつ)した子供の写真が飾られている。皆々に笑顔を向けている。だが実際は生意気な子供だった。
 何のために生まれたのだろう。あの者は短い生涯で幸せを知れただろうか。
 彼は反射する紙から目を逸らした。
 席は自由だった。店内は空いている。平日の昼間だった。窓際の2人用のボックスシートに腰を掛ける。淡い色味のレンガ敷の遊歩道が見える。
 あの人も、この風景を見ていたのだろうか。
 彼はメニューを選ぶのも忘れて物思いに耽った。
 クリスマスプレゼントは何にするのがいいか。経済的に不自由のないどころか、あらゆる一流品を知っているだろう。市販のハンカチやマグを贈ってもプレゼントとは言えまい。
――ご注文お決まりですか。
 店員が伝票を手にやって来る。
「糸魚川(いといがわ)さんって人は、何曜日にいるんですか」
 京美はまったく関係のない応答をした。店員は戸惑った様子でカウンターを振り返る。ニット帽に大きなプラスチックフレームの眼鏡、髭面の店員と目が合う。店員が入れ替わる。ニット帽の店員は店長らしい。
――糸魚川くんの、知り合い? あ、思い出した。糸魚川くんのファンの人の親戚のコだ? あの人は元気?
 京美はまったくこの店長に覚えはなかったが、個人経営の飲食店をやっているだけ、人を覚えるのも生業なのだろう。
 京美は窓から入る陽の光に、目蓋を下ろす。
「ええ、まぁ……」
――糸魚川くんなら随分前に辞めたよ。
 京美は目を伏せた。歌手デビューが決まったのだろうか。就職をしたのかもしれない。
 店長は目元を眇めた。眼鏡の奥は、すぐ隣の川の潺(せせらぎ)のようだった。
――糸魚川くんはね、出家したよ。お坊さんになったんだ。家が大変だったらしくてね……
 京美は店長を見上げてしまった。冗談ではないようだった。冗談を言われる仲でもない。
 細長い体躯が脳裏を過った。情けない笑みが張り付いている。
「おすすめをひとつください」


 汰吟(ていぎん)坊主に会ったとき、京美は眦(まなじり)の焼ける思いがした。
 剃髪したことにより、頭の小ささだけでなく、首の長さと細さ、が強調され、以前にも増して華奢な印象を与えた。それでいて背も高いために、小突けば今にも折れそうだった。法衣は重げで、着られている。
 汰吟坊主は目を瞑っていた。腕には数珠が巻き付き、京美のほうへ身体を向けてはいるが、以前のような誰でも彼でも受け入れるような空気はない。
「"吟(うたう)"を"汰(よな)げる"か。一体何を洗い流す気でいる?」
 京美はまだ疑っていた。顔貌(かおかたち)は間違いなく知り合いだ。けれどもそう認識できない。堅い頬は以前のように容易く持ち上がらない。
 世間が変われば人も変わる。周りが変われば――
「拙僧の過ちをすべて」
 京美は坊主の白鼻緒の草履から青禿頭までを幾度も見直した。多少落ち着きというものを知っている弟のほうではないかと思ったが、顔立ちにしろ濁り混じりの声質にしろ兄のほうで間違いなかった。だが発声も語尾の置き方も慣れない。
「俺も出家すべきかもしれない」
 汰吟坊主は目を瞑ったまま、空を見上げた。反り返った睫毛が照っている。
「悔いようとも悔いなかろうとも、詮(せん)無いこと」
「あんたに会ってほしい人がいた。でも、坊さんになっていたなんてな」
「世を捨てた身ですから」
 陽射しは強いが風は乾き、木々は枯葉をぶら下げている。けれども拳のなかは汗が煮えていた。
「世を捨てたってことは、意味のあることをもうしたくないんだな」
「ここにも意味は……あります。ここの暮らしは退屈です。煩わしく、疲れます。生き甲斐は捨てて参りました。けれどこれが、拙僧の矮小な身にできる唯一の償いの道なのです」
「俺はそうは思わない」
 汰吟坊主は引き結ぶままだった。愛想笑いも浮かべなくなった。
 見ていたものが消えたようだ。この小坊主に想いを寄せた人ごと、京美は幻を見ていたのかもしれない。
「どうか京美さんは、無益と戦ってください。無意味というものに抗ってください。作り出すしかないのです。世は常に、幻を作り出し、縋る以外に道はないのですから。人は皆、同じ結果に向かいます。けれども導き出る結論は違うはずなのです」
 長い指が合わさる。数珠が宙を泳ぐ。
「悟ったふりして、全部諦めたふりするのはいいのか。あんたを慕ってた人のことだけは木魚の音に消さないでくれ」
 合掌した石像は数珠を揺らすばかりだった。
「あんたが持ってたほうがいい」
 まだ持っていたかった。大恩ある人の数少ない形見だった。だが、書いた主に還るのがいいのだろう。介在できない。介在してはいけない。命が尽きるときまで持ち歩いていたのが答えなのだ。彼女の母の写真と共に財布に入っていたのではもはや疑いようもない。
「高尚なお経よりも、あんたのヘラヘラした顔とあんたの歌で救われる人はいた」
 三毛猫模様の封筒を足元に置く。OPP袋の下で小振りな封筒は赤茶色に染まり、三毛猫模様は四色に変わっている。
 汰吟坊主の目が開いた。しかしその瞳が虚勢を汰げた輝きに満ちたとき、京美は踵を返していた。
 世を捨てたつもりになろうとも、朝は来てしまい、夕暮れに焦り、夜になれば朝を待っている。広いリビングが変わらずにあることを幾度も発見する。腹が減っているときには気付けないというのに。組み込まれ、抜け出せやしない。


 その足で墓園に向かった。
 葉を失った裸の木々を仰ぎながら敷石を辿る。
 いつ来ても管理が行き届いているのは、特別にこの墓の待遇を良くしているのか。死者の扱いも金次第だ。生者はそうでなければ生きていけない。慰霊の心で腹は膨らまない。追悼の念で雨風は凌げない。
 墓石に水をかける。酒は夜だ。洋酒を炭酸飲料で割る。けれどここには夜景がない。
――あの世は熱いですか
 寒風が胸元に沁み入り、マフラーを手繰り寄せる。薄いブルーのウールには毛玉ができていた。だがまだ捨てる気にはならなかった。洗う気にもならなかったが、洗ってしまった。新しい洗剤の匂いが繊維の隙間を埋めている。これは誰の防寒具だったか。
 両手を合わせる。先程会った坊主に倣(なら)ったわけではなかった。だが同じだ。
――貴女はこんな気持ちでいたんだね。俺は貴女の痛みを少しも分かってやろうとしなかった。
 コーヒー豆の袋とともにクッキーを置く。白い紙に包まれた手作り感溢れる歪さを帯びた焼き菓子の中心には出来損ないのステンドグラスよろしく赤い飴が組み込まれている。
――赦されたいわけじゃないんです。貴女はもういないのに、まだ貴女の幸せを願っている自分がバカらしくて……
 あの人を刺した男と、あの人を罵り、手籠めにした自身にどれほどの違いがあるのか。
――穏やかな明日がまた来るんです。貴女はきっと、それを俺に望むよね。
 何故、故人に望みがあるなどと思ってしまったのだろう。何故、傷付けた相手に想われているなどと驕った考えを持ってしまっているのだろう。けれど拭い去れなかった。まるで疑問が生まれない。
――クリスマス、ちょっと早いけど……
 掌に収まる大きさのスノードームをクッキーの横に置く。オレンジ色のウサギの周りに白いラメが舞う。
 無駄なことだ。水を吸うのは花崗岩で、クッキーを食むのはカラスかネズミか蟻の連中だ。スノードームは自然を模しておきながら自然に馴染むこともできない。持ち寄って、持って帰るのだ。
 あの人に与えられるもは、今更何ひとつとしてない。
「虚しいね」
 冬鳥がどこかで返事をする。



[あの子のお墓参りに行ったの?]
[気を遣わなくていい。もう行かなくていいよ。君が引きずることではないのだから]

[俺が行きたかったんです]
[俺が会いたかったんです]

[君は早く好きな人を見つけて、幸せになってほしい。あの子もそれを望んでいるはずだから。]




 インターホンが鳴った。モニターで確認もせず、玄関ドアを開ける。恩人たちに所縁の深い人物が立っていた。天条(てんじょう)奏音(かのん)だ。前に見た時よりも痩せた感じがあった。
「2人にお線香あげに来たの」
 連絡はあったが忘れていた。しかし散らかしようもない広い家は、片付けずともいつでも人が出入りできる。
「お邪魔するわね」
 天条奏音は京美を一瞥もせずにリビングへ通り抜けていった。
 変わらない香水の匂いが懐かしい。
 遅れてリビングへ向かうと、二つ並んだ位牌に合掌する姿があった。襟巻きを外している。髪を短く切ったらしい。
 長いこと、手を合わせていた。皆、坊主の真似事をする。時間も金も有限だ。地球温暖化は夏に目に見えて進行している。だというのに存在しない者のために費やし、二酸化炭素を排出し、有益なことなどひとつもない。無意味どころか損失を生んでいる。だというのに進んでやる。
 丸めた背中を見詰めた。彼女は熱心に手を合わせ、俯いていた。
 何か直接言われたことはない。だが怒りが滲み出ていた。彼女に嫌われている。一時期は食卓を囲った関係だったが、二つ目の墓標を通り過ぎたのを機に変わってしまった。
 天条奏音が頭を上げる。
「海外に行くことになったの。だからちょっと急だけど、お邪魔させてもらったわ」
 ハンドバッグから菓子の箱を取り出す。
「どうする。食べられる?」
 彼女が決まって叔父の位牌に供える市販の菓子だった。もうひとつは脆げな巻き菓子だこちらも市販だった。よく菓子置きに入っていた。
「いただきます」
 手渡しで受け取り、京美はそれをテーブルに置いた。
「よく食べて、身体を冷やさないことね」
「奏音さん」
 眉根に皺を寄せた天条奏音に睨みつけられる。
 言葉が出なかった。彼女のマスカラを纏った睫毛や、上に引かれたアイラインが怖いのではなかった。
「……なんでも………ないです」
「暇があればまた来るわ。辛気臭い顔しないことよ。個人的にはしていてほしいけど」
 彼女は玄関へ戻っていく。目の前に残った香水で気付く。
「奏音さん……」
「アナタが羨ましいけど、同時に哀れだわ」
 天条奏音は背を向けたままハイヒールに足を突き入れ、手持ちの靴箆(くつべら)を踵に挿していた。
「変なことを、訊きます……」
「内容によってはノーコメントだけど」
「俺は幸せなんです、今。朋夜さん、いないのに……」
 ハイヒールが三和土(たたき)を打ち鳴らす。
「生きるってそういうことでいいんですか」
「知らないわ、そんなこと。あなたの大学のお偉い教授だってその答えを持ち合わせているかどうか」
 天条奏音は襟巻きを巻く。毛玉ひとつ見当たらない。黄土色と赤、黒と白のチェック模様は有名ブランドを象徴している。
「じゃあね。風邪ひいちゃダメよ」
 ハイヒールを打ち鳴らし、彼女は玄関ドアの奥へ消えた。


――貴女のいない世界に絶望しきれない。


[もう少しまだ、朋夜さんのことを考えさせてください。そのあとは、ちゃんと前を見ます]
[約束だよ、京美くん]




 大学正門までの通路はまるで嫌がらせのように銀杏の木が植わっている。黄色実線よろしく道の真ん中に等間隔に3本ある。
 秋が深まると悪臭を放ちはじめる。
 マフラーを首に押し付け、門へ向かっているときだった。
「京美くん」
 振り返ると、学友の交際相手が立っていた。さすがに寒さが堪えるのかパンツスタイルなのが地面に埋まる外灯で分かる。
「駒井のカノジョ……」
「いやだなァ、京美くん。友利恵って呼んでくれていいのに」
 しかし京美は小首を捻る。異性は苦手だ。
「駒井は」
「ちょっと居残りするんだって」
 友人の交際相手は京美の隣にやって来た。背筋に針金を通されてしまった。マフラーが蒸れる。身体の外と中で温度に差が生まれたようだ。
 歩くのもぎこちなくなる。
「あたし今日、電車だから」
 正門前で友利恵は立ち止まる。外灯は上から放光していた。彼女の顔が見えた。そういう化粧なのか、頬に青みが見えた。片側にはない。汚れだろうか。ホワイトボード用の水性インクを擦ったようにも見えた。
「顔、インク、ついてないか?」
 京美は自身の頬を指で叩く。友利恵も幼児よろしく彼を真似て自身の頬に触れた。途端に、不自然な色味と丸い輪郭を持った目が見開く。
「あ、いや、なんか、ぶつけちゃってさァ。壁に! 転んで……」
 友利恵は早口になった。声は上擦り、視線が泳ぐ。京美は彼女から顔を背けた。その所作が、そう遠くはない記憶を手繰り寄せる。
「駒井によろしく。気を付けて……」
 一瞥もせず、乱雑に手を振り、京美は彼女を置いてバス停のほうへ向かっていった。
 胸が張る。薬のせいでも季節のせいでもない。手酷い目に遭わせた女性が目蓋の裏にこびりついている。腹を殴られている気分になった。息ができない。バスが来た。だが見送った。バス停の端で蹲る。


――もし俺が今不幸だというのなら、貴女を想い浮かべる間もないんだろうな。


「おい、京美、大丈夫かよっ!」
 顔を上げると、友人が慌てている。背中を這い回る手は撫でているつもりらしいが、肌を削ぐように乱暴だった。
「カノジョが今……」
「カノジョ? 何言ってんだよ。水飲むか? 買ってきてやるからさ……」
 駒井廻は返事も待たずに走り出そうとしていた。ライダースジャケットの袖を掴む。
「大丈夫だ。ぶり返したわけじゃなくて……ちょっと、腹が減っただけだよ」
「はぁ~? おいぃ、ふざけんなよ。チョコしかねぇけど、食う?」
 京美は乾いた笑みを浮かべた。
「腹に石ができる」
「お前が言うと冗談に聞こえねーぞ、まったく」
 結局、彼はチョコレートをもらって食らった。腹は減っていなかった。
 暫くするとバスがやって来る。席が2つ空いていた。京美は窓際に座る。
「でもよかったよ。京美、前より明るくなったし。ちょっとデブったってわけじゃないけど、肉もついてきたし。寂しかったんだぜー」
 もし駒井廻のような人物が義理の甥だったなら。
 マフラーに顔を埋める。
「好きな人がいた」
 友人は突然切り出された話に口を曲げた。
「何、急に。入院中? 看護婦さん?」
「どうだろうな」
「はぇ~。でも京美の心を射止めるんだから、美人なんだろうな。胸は……小さそう。頭が良さそうで、背は高くて、オトナ系? で、Sっぽそう。それもう女医だな」
 実際は柔和な曲線の小柄な人だった。派手さのある美人ではなかったが可憐だった。忍耐と苦悩の人だった。
「でも、失恋した」
 京美は目蓋を力いっぱい持ち上げた。車内は乾燥している。水分は飛んでいく。
「ま、お前ならすぐいい人見つかるさ」
 それが友人としての思いやりなのだ。
 京美は湿気を奪われた笑みを見せる。
「でも、お前にもそういうのがあって良かったよ……なんて、なんか過保護? ガハハ、キモ」
 バスから人が減っていく。駒井と別れ、ひとりに、バス停から自宅まで歩く。
 押入れで野垂れ死んでいれば、あの女性には今、どのような暮らしがあったのだろう。
 クリスマスを前に華やぐ街並みが滲む。

『俺がいなくなったら、朋夜、俺のこと、忘れちゃう!』
『忘れないよ。だって帰るところ、ここにしかないもの』

 深く息を吸った。寒気が粘膜を甚振る。

TL【鳴り鎮スピンオフ】囀り鎮魂歌

TL【鳴り鎮スピンオフ】囀り鎮魂歌

18禁ヘテ恋【耳鳴り鎮魂歌-レクイエム-】京美スピンオフ。性描写なしのため青年向け。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2025-10-31

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