本の虫と小さな常連さん
図書館が職場の公務員司書、路仁。図書館には一日何人の利用者がいるか知っていますか?
ある日曜日、月に一回の「子ども読書祭り」が行われている。路仁は今日も出勤している。
児童書コーナーの一角から、子どもたちのにぎやかで楽しそうな声が聞こえる。
さっきまで静かだったが「子ども読書祭り」が終わったようだ。
今日は好きな本のお気に入りの場面を描いて、大きめのしおりを作るという企画だった。描いた絵をラミネートして上部に穴を開けて、好きな色のリボンを通してしおりを作る。どんな稚拙な絵でもしおりになるとこの世で一つのアート作品になる。こどもたちはまだそこに陣取り、しおりを見せ合っている。
「としょかんのせんせい、おねえさん、みてみて!」
路仁は子どもたちからも先生と呼ばれている。詠夏と二人、子どもたちにつかまってしまった。
四方八方から声をかけられ、しおりを突き出される。路仁は膝をついて、目線をあわせる。一人一人のしおりをみせてもらう。
「上手だね」「どんな本かよくわかる絵だね」「この本、僕も好きだな」と一人ずつに感想を言う。
子どもたちは得意げにしおりをひらひらさせて、迎えに来た保護者達と帰っていく。お迎えがまだの子どもたちも路仁にじゃれつき、背中によじのぼろうとしたり大騒ぎだ。
比較的女性職員の多い図書館で若い男性は珍しい。そして普段は市役所の事務仕事をするために事務室にいるので平日はあまり出てこないので、子どもたちはなおさら喜んでかまってもらいたがる。
「お迎えが来るまで本を読んで静かに待っていてくださいね」
子どもたちを連れて児童書コーナーに戻る。視線を感じて振り返ると、よく見かける姉弟だ。手にはしおりを持っていない。
「こんにちは。今日は参加しなかったの?」
路仁が尋ねると姉の方がもじもじと答える。
「申し込み忘れたの。ママに言っていたんだけど」
学校を通して、案内を配ってもらい申込用紙を集めてもらうことになっていた。ランドセルに入れたまま忘れたとか、親が申し込み出し忘れたというのはよくあることだ。
「そうか、残念だったね。でも今日も来てくれてありがとう。ゆっくり読んでいってね」
姉の目元がじわっとゆるんで、顔が赤くなる。小学校中学年くらいだろうか。大人びた感じもあるが、まだまだ幼い。
弟はさらに幼く路仁に何か言いたそうにエプロンの端をつかんでいる。姉にひそひそ耳打ちする。
「弟がね、あの高いところにある本を読みたいと言うの」
「よく見えたね。取ってあげようか?」
「自分で取りたいんだって。抱き上げてって」
路仁は一瞬迷う。勝手に子どもの体に触れていいものか。男の子のようだがもし落としたりしたら大変なことになる。
しかし、弟はもう抱き上げてもらうものと思い込んで、手をいっぱいに伸ばして待ち構えている。
路仁が近くにいる同僚の三津(みつ)さんに目くばせすると、「いいんじゃないですか?」と彼女も見守れる位置に立ってくれる。
路仁は意を決して、弟をひょいと抱き上げる。子どもをだっこするのは初めてに近い。一年生かもしかしたら未就学児かもしれないその体はとても軽くて細かった。
「どう?とれたかな?」
「うん、うわあ、高いなあ」
弟は大喜びしている。気づくと姉も両手を広げている。もし落としたら受け止めようという姉心だろうか。
結局その本は借りられなかったが、姉弟が帰った後、みつさんが、小声で言う
「お姉ちゃん、弟を支えるふりをして、本当は自分も抱っこしてほしかったんでしょうね。」
「さすがにあの子を抱っこはできませんよ。できなくはないけど小学校中学年くらいの女子を抱っこするのは問題になるかもしれません」
「ですよね。お姉ちゃん賢そうだからそれも分かっていたけど、気持ちが抑えられかったんじゃないでしょうか」
「そうですか。子どもっていくつになっても抱っこしてほしいものですか?」
「その子にもよりますけど・・少なくともあの子はまだまだ抱っこしてほしいってほんとうは思っているように見えました」
みつさんはさらに声を潜める。彼女自身母親でもある。
「実はあの子たち知っています。うちの子と同じ学校で同級生で」
「そうなんですか。」
「お姉ちゃんはるりちゃん、弟はれいくん。二人ともとてもかわいいでしょ。今日の案内も、お母さん忙しくて案内を見ていなかったのかも。推測ですけど。さびしそうだけど大人なら誰でもなつくかっていったらそんなことはないようです。ろじん先生は特別みたいですね」
「そんな、僕は図書館で会うだけの・・」
「子どもの同級生だし気をつけて見てあげたいと思っているので、ろじん先生もよろしくお願いしますね」
「はい。特別なことはできませんが、あの子たちは本が好きなので、ここにいる時は楽しく過ごしてほしいです」
路仁のまわりには子どもはいない。子どもへ接し方はおおむね書物からの知識である。
接し方が自然にできているかは自信がないが、子どもという存在は嫌いではない。図書館の利用者の半分は子どもだ。にぎやかな声をうるさいとも思わない。
人間は大人になって完成されたというが、それは逆で、生まれたばかりの赤ちゃんこそ完璧な存在だと思う。
それが成長とともに擦れて未熟な大人という人間になっていくのではないかと思う。
子どもは存在しているだけで尊い。意図した過ちなどひとつもない。路仁は常に己の未熟さを痛感する毎日だ。
親との時間がもう持てない路仁は、自分が親になることが想像できない。同級生の結婚の知らせの波が一旦落ちつき、しばらくすると子どもの誕生を知らせるはがきが届く。幸せをまとう雰囲気はみな似ている。
るりちゃんとれいくん、この二人が生まれたときも親たちはきっと同じ雰囲気だったはずだ。親が忙しく子どもの学校行事を忘れてしまうのはよくあることだ。いつも二人でいるのも図書館に遅くまでいるのもよくあることだ。何も他と変わっていることはない。
「もう帰る時間だよ」と促して帰るときの、心細い後姿、「明日は休館日」と伝えたときの残念な顔。
まとわりついて仕事にならないことはなくいつも遠慮がちに、でも気づいてほしそうに目で路仁を追っている。
併設する公民館の施設管理も業務であるので、本当に忙しいときは、気づかないふりをする。
そうするとあとで必ず心が痛む。あの子たちに声をかける時間くらいつくれないのかと。そして何もないところでつまづく。小さな神様に罰を与えられる。
みつさんの話を聞いてからは、路仁はるりちゃんとれいくんが来ているときは、気にかけるようになった。
他の子どもたちと同じようにしないと心がけながら。るりちゃんは自分のことは自分でするようにしているのか、髪の毛も自分で結っているようだ。その日によってうまくできていなかったりする。
れいくんは、もみ洗いをせずに洗濯機に放り込んだであろう染みのついたTシャツを時々着ている。
他の子どもたちと話している時もあるが、結局二人に戻って、くっついて本を読んだり、視聴覚コーナーでアニメのDVDを観ている。気にしだすと小さなところが目についてしまう。
ある日の帰宅途中、行きつけのスーパーの前で二人を見かけた。買いたいものがあるのに入れずにいるのか、なぜ二人だけでいるのか。良くない想像、子どもに関する悲しいニュースが頭をよぎる。
誰も彼らには目もくれない。あの二人がお腹を空かせているかと思うと、たまらない気持ちになる。
すると二人が動いて、一人の女性に駆け寄る。良かった、母親もいた。れいくんがしがみついている。
ただ母親を待っていただけだった。安堵した。あの子たちがたった二人だけで、家に帰ることもできず、明かりのあるところで時間がたつのを待っているとしたら声をかけるべきだった。
しかし、母親がいたのだから、むやみに声をかける必要はない。声をかけたとして、それからどうすればいい?
図書館以外の場所で会う路仁は、彼らにとっては、ちょっと知っている程度のおじさんに過ぎない。
保護者でも学校の先生でもない自分と子どもたちが、周囲にどう思われるかを気にしてしまった。
自分は、子どもに関する悲惨なニュースがあったとき、「何も変わったことはなかった」「助けてあげたかった」と悔やむ大人たちと同じだ。面倒なことは避けたい。何もなかった時の周囲の反応が怖い。
路仁は忸怩たる思いと自己嫌悪で、結局そのままスーパーには入らなかった。
あれからも、るりちゃんとれいくんは、週末のほとんど図書館に現れる。平日は学校と学童があるようであまり来ない。土曜日日曜日は、昼食時は二人でどこかに出て行き、昼過ぎてからまだ戻ってくる。
「せんせいは昔話の中でだれがすき?」
るりちゃんが絵本コーナーのところにいた。児童書の担当は他にもいるが、るりちゃんのご指名があった。
「学童で、れいくんの保育園で読み聞かせをしてあげるの。私はもう絵本は卒業なんだけど」
るりちゃんは大人っぽく言う。
「れいくんはお姫様が好きなの。みんなはおかしいって言うけどそんなことないって私は言ってやるの」
れいくんはふわふわした髪の毛、ぽわぽわした眉毛をしている。それが男の子らしさを和らげているが、優しい表情がとてもかわいらしい。
「そうだね。おかしくないよ。お姫様も王子様もいずれは国を代表する人になるんだから、みんなの憧れなんだよ。そうだな、お姫様じゃないけどぼくは『ヘンゼルとグレーテル』が好きだよ」
「お菓子のおうちの?」
「そう。知っているよね。ヘンゼルも賢いお兄さんだけど、グレーテルも勇気がある女の子。お兄さんのために頭を使う。二人とも大人たちの思惑に負けないんだよ」
「おもわくって?」
「考えていることだよ。二人のまわりの大人はちょっと残念な人達だけどそういう大人たちよりも賢くてお互いのことを思いやっているんだ」
「でもお菓子のおうちがでるでしょ。れいくんたちが食べたいって言い出したら困る」
「ああ、そうか。じゃあ何冊か一緒に選ぼうね」
「れいくんにはないしょにしてね」
るりちゃんが真面目な顔して唇に人差し指をあてる。お姉さんがきて、絵本を読んでくれる。
れいくん、うれしいだろうな。路仁はるりちゃんと同じしぐさをしてみせた。
それから二人で、未就学児向けの絵本コーナーで候補を5冊にしぼった。
「自分で読んでみて、読みやすいのがいいよ」
「読んだことあるっていわれたらどうしよう」
「いい本は何回だって読みたいものだよ。自分で読むのも人に読んでもらうのも。この本は僕が生まれる前からある本だ。いい本だからずっとここにあって、大事にされて、誰かが今でも借りていくんだ」
やわらかい重みが背中に触れる。れいくんがふくれっ面で路仁の背中にしがみついている。
「ねーね、ずるい。れいもせんせいとおはなししたいのに」
ちょうど選び終えたところでよかった。るりちゃんは急いで絵本を借りに、カウンターへ向かった。
「ねえねえ、なんのおはなししてたの?」
れいくんが路仁の背中にしがみついたまま聞く。
「僕がれいくんたちくらいのころ好きだった本の話だよ」
この図書館も変わらない。広い窓から光の帯が差し込み、館内は電燈がなくても明るい。
父、母それぞれと来たし、三人で来ることもあった。あれもこれもと本を取り出す路仁を両親はいつまでも待っていてくれた。
ここには子どもの路仁が何度も借りた本が、今でも現役だ。何回も修繕され、本棚の中で息をして、次に借りてくれる人を待っている。
動物園、遊園地、お祭り、キャンプ、他にもいろいろなところに連れて行ってもらったが、思い出の多くは本にまつわるものだ。
母は新刊を一番に借りるのをひそかな楽しみとし、父は歴史や実用書を読むのが好きだった。しかし記憶のあるところでぱたんと本が閉じられるように思い出はふっつりと途切れる。
「れいくん、帰るよ」
るりちゃんが本の入ったバッグをを重そうに抱えて戻ってきた。
「せんせい、今日もありがとう」
姉弟は手をふって去っていく。れいくんが、ぼくにももたせて!と姉のバッグをひっぱる。読み聞かせ候補以外の本も入っているので、かなり重たいはずだが、るりちゃんは、帰ってから!と弟をいさめている。
(るりちゃん、がんばって)
るりちゃんがこれぞと選んだ本を自信満々に、小さな子たちに読み聞かせて、こどもたちはわくわくした目で読み手を見つめているところを想像した。ぼくのねーねだよ、とれいくんが得意げにしている。
「すっかり先生ですね。」
みつさんがいつの間にか隣にいる。
「るりちゃんにとっては先生と言うより本の王子様ですよね。」
「僕が?みつさん、やめてくださいよ」
みつさんは笑うと糸目になる優しい目をしている。
「他の仕事を片付けなくては・・」
路仁は一人の子に時間を割きすぎてしまったことを詫びるようにたまった事務にとりかかった。
るりちゃんのことで、電話がかかってきたのは奇しくも路仁が休みの日だった。休日に電話がかかってくるなど図書館にそんな緊急事態があるのかと路仁が電話にでるとみつさんのつんざくような声が耳に飛び込んできた。
「ろじん先生、今、学童から電話があって、るりちゃんが・・」
「るりちゃんが、どうしました?」
「るりちゃんがたてこもったんです!」
バリケードの影からにらみあう両者。小さな反逆者るりちゃん。
るりちゃんがいるという場所に急ぐ。れいくんの通う保育園の隣に学童がある。
保育園を卒園するとそのままとなりの学童に放課後の居場所がうつるのが通例の流れとなっているとのことだ。
るりちゃんは学童の代表として、園児たちに読み聞かせすることになっていた。
休日スタイルのままかけつけると、保育士と学童の指導員が飛びつくようにして出迎える。
るりちゃんが学童の方の倉庫に立てこもったらしい。れいくんはわあわあ泣いて他の子も口々に、何があったかを説明しようとして大騒ぎになっている。
るりちゃんは厳選した絵本を意気揚々と園児の前で読み聞かせした。れいくんは、ぼくのねーねだよ、と周りの子に自慢している。
読み聞かせ自体はとてもよくできた、上手でしたと先生たちは思っていた。
しかし、一人の子が結末を大声で言ってしまった。「つまらない」、「読んだことある」、「他のがいい」と言い出す子もいて、他の子も同調し始めた。
るりちゃんは、続きを読めなくなってしまった。れいくんが立ち上がり、一番声の大きかった子にとびかかった。
「ねーねのじゃまをするな」
おとなしくて可憐なれいくんが、威嚇する猫のように、大きい子ととっくみあう様子に、その場にいた子たちも興奮してハチの巣をつついたようになった。れいくんは押し倒されても引き離されても立ち向かい、ついに相手が泣き出してしまった。
その中でいたたまれなくなったるりちゃんは逃げ出して、学童の倉庫にたてこもってしまった。
子どもはもっとも厳しい批評家と言われる。正直で純粋で忖度がない。
ゆえに子どもが心から面白いと思う作品は大人にとっても面白い作品といえる。
誰も悪くない。みんながみんな面白いと思う本など存在しない。
でも、読み聞かせてくれる人を思って、最期まで耳を傾ける。大人はそれができるが、子どもはそれができないときもある。
路仁は倉庫の前にひざまずく。
「図書館の先生と一緒に選んだって、はじめにるりちゃんが話してくれたんです。だから連絡してしまいました。すみません」
学童の指導員がおそるおそる言った。
「るりちゃん」
返事はない。天の岩戸のお話が浮かんだ。お話をしたらるりちゃんは興味をもって出て来てくれるのではないか。
「みんな、お部屋に戻って。大勢がいるとるりちゃん出てこれないから。るりちゃん、今からお話をするよ。聞きたくなければ一回そっちからノックして」
ノックはない。路仁はきっぱりと人払いをした。るりちゃんだけにお話を始める。
《この世界をつくった神様には、太陽の神、海の神、月の神という子どもたちがいました。海の神は大人になってもいなくなったお母さんに会いたいと泣いてばかりで海が荒れてしまいました。お父さんの神様は、するべき仕事をしない息子に腹を立てて、お姉さんの太陽の女神様のところにいくように命じます》
弟神の乱暴狼藉に嫌気がさして隠れたことはぼかして、何もかも押し付けられて嫌になってしまった女神が天の岩戸に隠れてしまう。
追い払ったはずの子どもたちがこっそり聞いている息遣いを感じる。れいくんがまた背中にしがみついている。ひっぱられたあとの残る髪、可愛い顔がぐちゃぐちゃだ。
「れいくん、お姉さんのために戦ったんだね。この海の神様も大切な人のために、将来、大きな蛇と戦うんだよ。」
路仁が言うとれいくんは小さくうなずいた。
「るりちゃん、この女神様は太陽の神様でもある。お日様がないと世界はどうなるかな。
みんな必死で出て来てもらおうとする。女神様は力持ちの神様に引っ張り出されてしまうけど、るりちゃんを無理に引っ張り出したりはしないよ。心が静かになったら出ておいで。僕待っているから。いない方が良ければここからいなくなるね」
路仁が立ち上がりかけると倉庫の扉が開いた。
「るりちゃん、がんばったね。頭を撫でてもいいかな?」
るりちゃんの白目は青白い。青白く澄んだ目は湖のようだ。我に帰って自分の振る舞いが恥ずかしくなりるりちゃんはうつむいている。その小さな頭をなでる。
「出て来てくれてありがとう。るりちゃん、何も気にしなくていいよ。一生懸命選んで、よく練習したね」
子どもたちがみんなでるりちゃんに声をかけている。ごめんなさい、また読んでね、と。
れいくんは、路仁にべったりで、まるでお迎えにきた保護者になった気分だ。
事務室でお茶でもという申し出を丁重に辞退し、ぐずるれいくんを保育士に託して、路仁は学童を後にした。
後日話を聞いたるりちゃんとれいくんの母親が子どもたちを連れて図書館に現れた。
姉弟によく似た母親は何度も頭を下げた。母子は想像以上に固いきずなで結ばれているようで、路仁はスーパーで見かけたときに感じた罪悪感が、思い過ごしであったことに安堵した。忙しそうにしているがちゃんと子どもたちを気にかけている。
「また本を借りに来てね」
路仁は、そう言って親子を見送った。
るりちゃんは見た目も中身もとてもしっかりしている。普段は実際の年齢よりもお姉さんだ。忙しい母親にかわって、料理も簡単なものならつくる。
弟のことなら母親より早くその変化に気づく。だから少しの時間なら二人で留守番ができた。
夜間図書館は午後10時まで開いている。18時以降、子どもは保護者の同伴なしでは入館できない規則になっている。路仁は夜間図書館の当番の日は午後3時に出勤する。
出勤前、路仁はるりちゃんの母親をみかけた。反対側の通りにいたが、男性と一緒にいた。るりちゃんとれいくんの父親はみたことがない。今日は仕事が休みで、今からお迎えだろうか。
一緒にいるのは父親か仕事の関係者。路仁はそう思うことにした。無粋な想像をしてはいけない。変わったことなど何もない。家族の日常がそこにある。あの子たちはこのあと親とともに家路につく。そしてみんなで食卓を囲んでお風呂に入り、眠ってまた明日を迎えるはずだ。
それからまた一か月ほどたった。るりちゃんとれいくんはずっと図書館にきていない。今日は、みつさんと一緒の夜間勤務だ。子どもは父親と一緒にいるという。
「お父さんだとなんでも好きなことさせてくれて、うるさくないからかえって喜ぶんです」
みつさんは苦笑した。
「るりちゃんとれいくんは元気に学校に来ていますか?」
何気なく普通に聞いたつもりだった。いつも話好きなみつさんは静かにしおりを作っている。利用者へのサービスで作る。彼女のつくるしおりはきれいな包装紙や折り紙を使っていてそれは風情がある。
「転校しました。お母さんの実家のある県外に」
「そうですか。お別れも言わずにつれないなあ。今時の子は」
路仁は冗談めかして言うと、みつさんは切なそうにそうですねと答えた。
「お別れを言う時間がなかったんですよ」
みつさんは話してくれた。母親に恋人がいたこと、恋に夢中になった二人はるりちゃんとれいくんを放置して、デートするようになった。少しの間ならだいじょうぶだろうと、最初は半日から、夕方までかかることもあった。
ある日、れいくんがけがをしてるりちゃんが隣人に助けを求め、弟を病院へ連れて行き、保護者の不在が発覚した。
一度ではなくたびたびあったと。母親は仕事が休みの日に子どもたちが学校や保育園に行っている間、二人で会っていた。相手には実家にいると説明していた。
二人で会うことは問題ないが、次第に休むことが増えたという。けがをしたれいくん、つきそうるりちゃんをみて、母親は一気に目が覚めた。子どもたちと周囲に泣いて謝罪し、どうにか引き離されることを免れ、恋人とも別れ仕事もやめた。
誰の力も借りずに、母一人で頑張ってきたが、ついに実家に頼ることにした。そしてあわただしく県外にある実家に引っ越していった。
「学期の途中でした。バタバタでお別れ会を開く暇もなく、一刻も早く彼と距離をおいて親子の信頼関係を取り戻したかったようです。彼と会えばまた心が揺れるようで・・」
路仁は自分の軽口を悔いた。なんてことを言ってしまったのか。しかし、みつさんは話しつづける
「ろじん先生がいないときに、最後に本を返しに来ました。急いでいました。絵とお手紙を渡してきました。」
絵は「せんせいへ」と書かれ、男の人がたくさんの小さな子どもたちにお話をしているところと、太陽、女神様のような女の人が描かれていた。
「絵はれいくんですね。手紙はるりちゃんが書いたと思います」
折り紙サイズの正方形の紙に子どもらしいが丁寧な字で書かれた手紙、手作りの封筒が開かないように貼られたシールをそろそろとはがして手紙を取り出す。
『としょかんのせんせいへ
今までありがとうございました。いつもやさしくて本のことをよく知っていて、せんせいに会いたくて図書館に行っていました。せんせいがいないとさびしかったです。せんせいの女神様のお話、とてもおもしろかったです。あたらしいおうちにいっても、本をたくさんよみたいです。るりとれいのことわすれないでください。わたしたちもわすれません。るりもれいもせんせいがだいすきです。 るり、れいより』
わずか10歳の女の子が書いた心からの手紙。「だいすき」の文字は何回も消して書き直した跡がある。
「すみません、僕・・」
路仁は立ち上がり事務室へ行こうとした。どこかで誰にも見られずにこのこみあげる涙を洗い流さなければならない。るりちゃんの不安な気持ちを思えば、自分には泣く資格などない。
「読んでもいいですか?その間、どうぞ行ってきてください」
みつさんに手紙を渡し、事務室へ飛び込むと、涙がほろほろと流れた。
あまたいる利用者、あの子たちにとってみたらこれからの長い人生、ほんのすこし関わるだけで覚えてもいないような存在だった。
常連でも来ないなと思ったら引っ越した人、亡くなっていた人は大勢いたと思う。それも残念だが、こんなにもこの二人との別れが切ないなんて。
親との別れという決定的な別離を経験しているからどんな別れでも泣かないと思っていたのに。
顔を洗って戻ると、みつさんも目に涙を浮かべ、丁寧に手紙を折りたたんでいた。
「るりちゃんの人生初の恋文ですね。」
「あの~、これ借ります」
30過ぎの男性が児童書を何冊か持っている。
「小学生の子どもと離れて暮らしているんですけど、子どもってどういうのが好きなのかなってとりあえず選んでみました。自分で読んでみてよかったらお土産に買っていこうと思います。」
「お父さんが一生懸命選んだ本ならなんでも喜びますよ。一冊でも気に入ったものがあれば大成功です」
路仁は貸出処理をして、本を彼に差し出した。気に入ってくれますように、この人の気持ちが離れて暮らす子どもたちに伝わりますように。
全ての大人と子どもたちに、良い本との出会いがあることと、その本を一緒に読む時間が幸福な思い出となることを願ってやまない。
路仁は、すっかり暗くなった外を、るりちゃんが行ったかもしれない方角に目をやった。
誰もいないのに正面の自動ドアが開いたのか、外気のにおいがする。冬の訪れを告げる冷たい空気のにおいだ。るりちゃんとれいくんが手をつないでいつものようにはいってくるような気がした。
本の虫と小さな常連さん