『ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山城知佳子×志賀理江子 漂着』展
一
アーティゾン美術館で毎年開催されるジャム・セッションは①石橋財団がコレクションする作品と②現代作家の作品表現とのコラボレーションを通じて美術の新たな地平を探る企画である。今年は山城知佳子(敬称略)と志賀理江子(敬称略)を迎え、各階に分けて大規模に展開されるインスタレーションとコレクション作品をクロッシング。人の記憶や歴史を巡る「語り」を圧倒的なイメージで体感させる。
二
山城のインスタレーションは複数のスクリーンで断片的な物語が同期する映像作品だ。中心となるのは山城の父、達雄が戦時中に渡ったパラオのアンガウル島の地を再び踏むストーリーで、そこに山城の出身である沖縄の民謡やベトナム戦争の頃に流行った別れ歌であるジャズの《ダニーボーイ》といった音楽が仕切りのない展示空間で遠慮なく鳴り響き、多層的な情報を来場者に体感させる。また仮設テントやパラシュートをイメージさせるために会場全体が布で覆われており、特に幼少期の頃に遭遇した東京大空襲の体験を語る女性の展示スペースにおいて身を寄せ合う感覚が鑑賞者の間に生まれているように感じた。
今回の展示会におけるコラボレーション作品として山城が選んだコレクション作品はインスタレーションの霊感源にもなったという土地創造神話を描いたアボリジナル・アート、ジンジャー・ライリィ・マンドゥワラワラの《四人の射手》。ナラティブ特有の温もりを感じさせるプリミティブなその一枚は、戦争の歴史や記憶を映像として断片化する山城のインスタレーションが拾いきれない巨大な物語の存在を会場の背後に示唆するようで興味深く、その部分、部分に亀裂を入れる語り部の有難さを痛感させられる。
言葉で語れることの足りなさを知れば知るほどに求められる語り部であるが故に、その存在が潰えることは恐怖でしかない。その危機を解決する手段として、例えば大規模言語モデルを頭に思い浮かべても、今度は外からの情報を摂取する純粋な機械にはなれない私たちであるが故に何がしかの陥穽に陥るだろう。その効率の悪さを嘆くのか、言祝ぐのか。人間存在という題目を大袈裟に掲げてでも深刻に考えるべきポイントがここにある。
三
志賀のインスタレーションは大画面を構成する写真表現に手書きの物語が添えられた絵巻物である。それをじっくり読んでいくと次第にどこに向かって進めばいいのか分からなくなって、迷子になってしまうぐらいに巨大なのが特徴だ。物語の内容も迫力に満ちたもので、震災後、志賀が移住した先の宮城県で行われる復興の有り様が次第に高度成長期さながらの熱を帯びるのに覚えた違和感を、進歩史観に基づいて発展する人類史に向けた鋭い疑問に変えて真摯に綴っている。
個人的に圧倒されたのはその語り口で、かつて荒れ狂う波に攫われた何人もの漁師の魂が自然の呻き声を代替するような想像を促す構成が取られており、生命のグロテスクさにフォーカスする写真表現の迫力と相まって語られる人間の功罪が怪談じみて聞こえる。会場に足を踏み入れた時から鑑賞者にずっと付き纏う蛙の鳴き声もボディブローのように効いてきて、核実験という人類の業に突き当たり、会場を彷徨い出す頃にはすっかり打ちのめされてグロッキー状態に。邪魔に感じるぐらい通路のあちこちに置かれた土嚢の中身は果たして何なのか、いつもならアトラクションを楽しむようにあれやこれやと考えたり、想像したりするのにその時に出来たのは忌避するの一択。
「ところで、きみたちはだれかね」
そう尋ねられることに覚える恐怖にも反射的に目を瞑る。けれど、簡単には外に出られない。だから、後ろめたさを引きずって歩くしかない。だって、今までと同じことを繰り返すのは楽だ。それと同じくらい、今までと同じ結果を何度も味わうなんて御免だ。でも、と二の句を告げなくなる正直な気持ちをどう言語化すればいいのだろうか。タイトルにある《なぬもかぬも》は多義的で、地元の人の間でも使われ方がまるで違う。生きている言葉。その運用実態は志賀が選んだアルベルト・ジャコメッティの《歩く人》のように奇妙でいて実に正しい。ままならないなのは、私たちだけなのだ。
四
漂着してその地に流れ着いたものは、その地にあってないようなもの。外から来たものが有する異邦人性に揺れ動く現実は溺れるほどの可能性が満ちる。未だ世界は決定的になっていないのならそこに覚える希望も絶望も言葉にして、形にして、私たちは向き合わなければならない。思考も感情も激しく駆動する『ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山城知佳子×志賀理江子 漂着』。その会場はアーティゾン美術館、会期は来年の1月12日まで。とても素晴らしい展示会だった。興味がある方は是非。是非。
『ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山城知佳子×志賀理江子 漂着』展