映画『ミーツ・ザ・ワールド』レビュー
①相当程度のネタバレを含みます。前情報なしに鑑賞したい方はご注意下さい。
②誤字脱字を修正しました(2025年10月29日現在)。
よく哲学で絶対的な隔たりを持つ存在として「他者」がピックアップされるけど、鹿野ライはまさにその「他者」が持つ救いと絶望を体現する点で優れたキャラクターだった。
主人公である三ツ橋由嘉里にとってライは腐女子であることを隠す必要すら感じなかった他人で、その趣味を一切否定しないから、亡くなった父親に代わる理解者として彼女を救う存在になった人。
由嘉里がライからもらった救いはそれだけに止まらなくて、歌舞伎町でライと一緒に暮らし始めた由嘉里は想像もしなかった人生を歩んでいる「他人」たちと出会い、経験のない恋愛を至上命題に掲げて自分を卑下していた「自分」を知り、規格化された人生を押し付ける母親もろとも世間を相対化することができるようになる。そうしてやっと「私は私のままでいい」と思えるようになったのだから、由嘉里にとってライは人生の恩人でもあるのだ。
けれどその救いの全部はライが希死念慮の思想を抱いていて、どうせこの世からいなくなる自分の何もかもを誰かにあげてもいいという空虚さゆえのもの。由嘉里がどれだけ強くライに生きていて欲しい!と願っても、その欠片すら彼女には届かないし、どれだけ必死に伸ばしても救いの手を掴んでもらえない。そこに覚える寂しさは鹿野ライを演じる南琴奈さんの綺麗で、儚くて、今にも消えそうな姿を目にする度に増していく。大好きな人の生きる理由になれない。その事実を知ることほど辛くて苦しいものはない。
そんな由嘉里を襲う絶望の更なるダメ押しになったのはライの元恋人である鵠沼藤治との会話。声だけの出演ではあったが、菅田将暉さんが彼を演じられていた。
自分じゃライの生きる理由になれないから、と由嘉里が頼った最後の望みであったはずの彼は、けれど精神病院の入退院を繰り返す不安定な状態に。そんな大変な時に、それでもかけてきてくれた電話の先でしかし彼は自分との恋愛はライにとって実験でしかなかったと評し、暗に自分「も」彼女の生きる理由にならないと語る。そんな彼のことをライは今も好きだと由嘉里に言っていたのだから、もう訳が分からない。あまりにも「他人」な鹿野ライ。果たして彼女は由嘉里の前から姿を消した。
もう泣けてきて仕方ない。なのに、泣けば泣くだけお腹が空く。ぐーぐー鳴ってうるさい。食べる物が全部美味しい。美味しいと思えば箸が進む。ユキや朝日、オシンといった仲良くなった人たちも食べな、食べなと勧めてくれる。励ましてくれる。
フラッシュバックするライの記憶の中で、彼女に向ける想いを募らせる由嘉里がそれでも私は死ねない。生きたいと口にした時、由嘉里はライとの決定的な別れを迎えたようでいてそうはならないラストへとひた走る。
もう既に死んでいるのかもしれないし、生きているにしても二度と会えないような気がして止まない存在となったライに向けて由嘉里が取る行動は神への祈りに似ている。絶対的な他人との間で行える唯一無二で、かつ究極のコミュニケーションと思えるそれを、しかしながら大好きアニメ『ミート・イズ・マイン』に捧げる愛と等しく扱うあたりが実に彼女らしくて、涙混じりに笑ってしまう。
熱のこもった早口で、自分の世界をいち早く言葉で満たす由嘉里と、底に穴が空いたコップのように手にした何もかもを溢し続ける鹿野ライ。
最後まで分かり合えなかった「他人」同士の二人だからこそ生まれた物語は多様性という言葉にかけられた理想のベールを剥ぎ取り、その生々しさを力強く描いてみせる。『アンメット』の時もそうだったけど、生きる為に食べることを演じさせたら杉咲花さんの右に出る者はいない。撮影中は不安定な精神状態にあったため由嘉里を演じるのにすごく苦労されたとパンフレットで明かされていたけど、劇中で見せるライに縋るような眼差しとか、鼻水だらけで感情を爆発させる瞬間のインパクトなど凄まじいぐらい「三ツ橋由嘉里」になっていて、圧巻だった。
マイナスに振り切ってもなお残る清々しさは観てい本当に気持ちいい。抱きしめたくなるぐらいに愛おしい作品でした。よき。
映画『ミーツ・ザ・ワールド』レビュー