無神経と神経質
人が人と同じ空間で生活を共にするということは、人間誰でも必ず一度は経験することなのではないだろうか。生まれた時、傍らに誰もいないということはないし、何らかの事情で別々に暮らすことになったとしても、全く一人でいるという時はないのではないかと思う。ある程度の年齢になった時、一人になるということは、今の時代において誰もが避けて通れないのかもしれない。それはそれで楽しいかもしれないしそうではないかもしれない。その時になってみなければわからないのたが、今私はこの人と同じ空間で生活を共にするということに疲れ果て、飽き飽きしている。
母が二年連続で入院した。昨年は一週間と非常に短い入院だったからそんなことを考える時間もなかったが、今年は大怪我で全治三ヶ月から半年という医師の見立てだから、当たり前だか一週間で退院ということにはならず、間もなく一ヶ月である。
元々じっとしていられない質の母だから、一ヶ月の入院はさぞ骨身に堪えているだろうとその心中を察していたが、入院生活も一ヶ月にもなろうとするとさすがに観念したのか、素晴らしい人間力と適応力でその与えられた病室というセットの中で、入院患者というものを生き生きと演じているように私には見えた。それはそれで逞しいと安堵する反面、家庭というストレスから解放された母の代わりに、私にそのストレスが降りかかってきた。
自分の親を悪く言うものではないと人様からお叱りを受けそうだが、母にとっても私にとっても父というのが相当のストレスなのである。 令和の時代にあって男でも家事ができなければ、女房に何かあった時、死活問題なのである。女房に任せきりであった買い物や三度三度の食事の支度、洗い物や洗濯、掃除、近所との付き合い、その他雨戸を閉めたり風呂掃除をしたり、湯を張ったりゴミを捨てたりと、人の暮らしはしなければならないことだらけである。
この中で何か一つと言ったら、食べていかなければならないから買い物と食事の支度、そして洗い物は必須であろう。この三つをやるだけでもやったことがない人間がやるとなると手際が悪いから、一日がかりである。殊に料理とは回数を重ねれば上手くなるというものでもない。センスの問題である。センスのない人間が料理を何度も作ったところで決して上手くなるわけではない。それは今どうでもいいことだが、私の父は料理はおろか家のことが何もできない人間なのである。 若い頃は、母もそれなりに教育しようと努力していたようだったが、結局のところじっとしていられない質だった母は結果、自分でやった方がはるかに早いという結論に落ち着いて、父に料理や洗濯をさせるということは殆んどなかった。させたところで、後始末が容易でなかった。
敬宮愛子内親王殿下の成年記者会見ではないが、すべてを挙げたら日が暮れてしまうから端折るが、例えばわかめのおみおつけを作るにしても、塩漬けのわかめは塩を洗い落としてから料理するものだと、考えなくても分かりそうなものだが、昨年私と母に黙って作ったわかめのおみおつけがまさにそれで、塩がついたままわかめを投入し味噌を溶いたものだから、とても飲めたものではなかった。気の毒に被害者となった母は、一口含んで一言、「殺す気か」 と言ったという。
コーヒーを床にこぼせばこぼしっぱなし。なんだか靴下がベタつくと足を上げて裏を見ると、真っ白だった靴下は茶色いソバカスができている。これはコーヒーに限ったことではない。
外が暗くなってくればパチン止めに干した洗濯物を取り込むこともせず、そのまま出しっぱなしである。人が取り込めば、自分の着る下着類だけをパチン止めから取り、洗濯物をたたむということは間違ってもすることはない。
昨年に限って、洗濯物を干すということを定期的にやっていた父だったが、それもやはりセンスというものなのだろうか。どうしたらあんな風になるのか。父が干すと洗濯物はしわしわで、明後日の方を向いて死後硬直した死体か、もしくはスルメの乾物のように突っ張っている有り様。どうしたらこうなるのだろうかと私は頭を抱えずにはいられなかった。
自分の失態を認めず、人がしでかしたような顔をして後始末は決してしない。もう年だから仕方がないと諦めるようにしていたが、先日私は久しぶりに風邪をひいた。母が入院してから一月が経ち、気の緩みもあったのだろうか。それとも先の見えない今の生活に心が折れたのか、私の体は限界を迎えた。それでも何もせず寝ていられる状態ではない。何もできない人間が、何かしても後片付けができない人間が家にいるということは、休んでいる暇がないということである。
今日はゆっくり寝ていろ、何か適当に買ってきて食べるから。そうは言うが、適当に買ってきて食べた後が問題である。人が具合が悪いと言っているのに、自分の使ったコップや箸、惣菜が乗っていたトレイを流しにそのまま放り込んで、雨戸も閉めず鍵も閉めず無用心に寝ている始末。 洗い物を次の日まで流しに残しておくということは性分ではないから、いつもは文句を言いながらでも洗っていたが、今日は心を鬼にして洗わず、鍵だけは閉めたが雨戸は閉めなかった。
家事が得意な私には本当に分が悪い。もう少し人を思いやったり心を砕いたり、想像力が豊かであればまた違うのであろうが、神経質な人間が無神経な人間と共に生活をするということは本当に忍耐がいる。体調が悪い時ぐらい何とかしてくれと思うが、何もできないのだから仕方がない。ここは苦しみに耐え、なんとか時が経ち体調が回復するのを待つしかないのである。
無神経は風邪もひかない。羨ましい限りである。
無神経と神経質
2025年10月22日 書き下ろし 「note」掲載