*星空文庫

TOKYO EARLY 3 YEARS −1981年−

ALTVENRY 作

  1. TOKYO
  2. 夢幻荘
  3. ギターとペン

 田舎から出てきた青少年が、都会に染まっていく”よくある物語”、って実話じゃないですか、ほぼ!そうです。東京に出てきての最初の3年間があまりにもきらめいていて、本当に僕の宝なんです。経験した事、出会った人々、仲間、青春してますね。元々はTOKYO EARLY 10 YEARSだったので、1984年から1990年も、少し時が経ってから掲載してもいいかな、なんて思ってます。

TOKYO

 十九歳の春、僕は都会の生活を夢見て東京へやってきた。本当なら大学生になって新生活を迎える予定であったが、そうはならなかった。大学生ではなく、専門学校の生徒であった。結局のところ、そうしてでも東京に出たかったということだし、両親どころか自分さえも納得させる大義名分が欲しかっただけなのだろうと後になって思った。

 数人の友人と金沢発の夜行列車に富山駅から乗り込んだ。上京するのは、先々月と約1年前を含め3回目だったが、前2回は昼間の移動だったので、夜行列車は初の試みだったと思う。乗車率は100%を越え、自由席の通路にも新聞を敷いて座っている者がいた。まだ若かったこともあり、6、7時間立ちっぱなしでも疲れることはなかった。

 朝早く上野について、コーヒーを飲んだりして時間を調整しながら、まず入学予定の専門学校の受付で学費を納めたりして、手続きを済ませた。教科書などは後日だったと思うが、その時購入したような気もするし、記憶がかなり曖昧になっている。当面は4月の入学式までの生活を考える必要があった。

 その学校、当時は東京写真専門学校という名称だったと記憶する。お茶の水と水道橋の間にある、カメラマンを養成するための学校であったが、なぜか他にも放送芸術とか音響芸術というコースがあり、音楽で生計を立てたいと願う僕は音響芸術科を選択した。それに仕事をしながら通うつもりで、昼間ではなく夜学を選んだ。

 専門学校での手続きを終えた僕は、友人と合流して次の目的地に向かった。恐らく水道橋から新宿に出て、小田急線に乗り換えたのだと思う。仲間の一人で、既に大学に合格し、なおかつ暮らすべき自分の住処も早々と決めている奴がいて、みんなでそこを目指していた。

 自分の部屋を探さなければならなかった僕も、当面はそこに泊めてもらうことにしていた。彼の部屋は、新宿からおよそ40分、多摩川を過ぎ、神奈川県に入った百合ヶ丘にあった。過去に二度東京に来ている僕は、JR線(この頃はまだ国鉄と言ったかもしれない)以外利用したことがなく、初めて乗ったこの白い電車は、その独特の雰囲気や、通過する世田谷や多摩地区の風景も含めて、新鮮な感覚であった。

 百合ヶ丘駅の改札を出て左に曲がり、カーブしている車道に添って坂を下ってゆくと世田ヶ谷街道(神奈川県内では津久井道と言うらしい。都内に入って世田谷街道になり三軒茶屋で国道246号に合流)に出る。新宿方向に戻ること十分、場所的には、小田急線で一つ手前の読売ランド駅との中間くらいに彼のアパートはあった。

 近所には、ヤマト運輸の看板を出している雑貨屋くらいしかなく、東京に出てきたとはいえ正確には神奈川だし、なおかつ僻地と言えないくらい閑散とした場所だった。もちろんまだコンビニなどは普及していない。夜になれば結構暗いし、物騒といえば物騒だった。きっと大家さんの邸宅がある敷地内に建てられていろところが、彼の両親を安心させたに違いない。

 僕から見ると過保護と思われるくらいの家庭に彼はいた。そして裕福であった。僕に言わせれば何一つ不自由のない環境だった。そんな僻地に越したのは、彼の行く大学がそのさらに町田方面よりにあったからである。通学の利便さもまた考慮されたのだろう。

 さて、その日より数カ月前、彼と二人で大学受験の旅をしていた。先に書いたように僕は大学生になることは出来なかったが、彼は見事に合格となり、アパートも早々と決め、僕のことを心配してくれるほど、余裕があったというわけだ。

 彼についてはもう少し触れておこう。通称アキボー(東京に来てから自分で名乗ったニックネームだ)、彼は小中学校が同じであり、家も近くお互いよく行き来しあった。特に中学3年で同じクラスの時は、レコードを買いに行ったり、彼の家でテレビを見たり、ほとんど行動を共にしていた。高校になり離ればなれになってからは、なぜか余り逢うことがなかった。お互いがお互いの環境の中で精一杯生きていたからなのだと思う。

 高校卒業後、予備校に通うことになった僕は、彼が同じ予備校に来ていることを知った。最初はお互い「やあ」と挨拶を交わす程度で、何となく敬遠していた節もあったが、もともと音楽という共通の趣味があり、僕らに影響を与えたあのジョン・レノンが射殺された事件が縁で、再度親交を深めることになる。

 それは実に不思議な巡り合わせで、あの忌わしき事件のあった翌日、偶然市立図書館で彼を見かける。彼もすぐに僕に気がつき、お互いの第一声が「ジョンが死んだね。」だった。僕らは、ジョンの死を悲しんだ。いや、悲しみもあるだろうが、何よりもショッキングであった。

 それから毎日僕らは、受験勉強の傍らで、ジョンを含めた音楽の話をしていた。僕は、ジョンの曲の中では「アクロス・ジ・ユニバース」が好きだった。歌詞の中の「何も私の世界を変えるものはない。」というフレーズが、大好きだった。

 彼はと言うと、ビートルズよりもローリング・ストーンズのファンであったが、ジョン・レノンは別格なのだと思う。そう、ロックミュージック信奉者ならば、ビートルズは、ポール・マッカートニーではなくジョン・レノンにちがいなかった。

 そんな不穏な事件も含め、僕らは時代が変りゆくことを感じ取っていた。そして次に来る時代が僕らのものとならんことを信じ、東京受験旅行が始まったのである。この受験旅行は二週間くらいのものであったが、かなり充実した内容となっている。やがて始まるであろう東京での新生活のプロローグとして、新鮮な輝きを放っているのである。

 受験旅行は、まず秋葉原から始まる。この時は昼間の電車で上京したので、夕方上野着で乗り換えて秋葉原で下車した。アキボーと秋葉原でコーヒーを飲んで、彼は国分寺のホテルに向かい、僕は千葉の叔父さん宅に向かった。僕はホテル代をうかすため、最初は千葉の叔父さんの家にお世話になった。あまり縁のなかった親戚なので少し気を使った。

 そこでの思い出は、僕の父方の祖母に会えたことだった。祖母は、夜コーヒーが飲めるようにポットとインスタントのコーヒー粉などをそっと差し入れてくれたりした。僕はこの叔父の家の近くの小さな借家で生まれた。その後妹が出来た。僕が5歳の時に家族4人で富山に引っ越しをしてしまったので、僕にしてみれば、それ以来の祖母との再会だった。

 千葉の叔父さん宅に一週間滞在した後、アキボーが泊まっている国分寺のホテルに一泊、そして彼と一緒に東武東上線高坂にある彼の友達のアパートで残りの日々を過ごした。この友人は一浪することなく僕らより1年早く大学生活を満喫していた。3人で泊まっていたのに主が先に帰郷、その後アキボーが帰郷、なんと一晩そのアパートに一人で過ごすことになった。少し寂しかった。

 そのアパートにいる間にアキボーのもう一人の友人宅にも泊まりに行った。彼は通称カッペイと言って、僕も面識のある男だった。彼は大学という選択をせずに1年先に上京して手に職を付けていた。彼が住んでいるのは寮だったが、先輩の影響もあって夜のネオン街にはかなり精通していた。

 彼のおかげで初めて体験することばかりだった。特にこんな時にもかかわらず、西川口の特殊浴場へ行ったりした。カッペイの寮が当時川口にあったので、西川口までは、仕事用の軽トラをとばしてすぐだった。まあ、あまり語るほどの話題でもなく、さらりとスルーしておこう。

 さらに、ディスコという所も初めてだった。確か新宿の歌舞伎町だったろうか。高校時代にあの「サタデーナイトフィーバー」が大流行するもそんなものは田舎の高校生にはお伽の世界のようなもの、実際富山には、かなり後になってもディスコは出来なかった。だからほんとに遊び好きなものは隣県である石川県の金沢まで足を運んでいたようだ。

 この東京受験旅行を思い出すと必ず頭に流れる曲がある。この頃ヒットしていたシーナ・イーストンの「モダンガール」だ。アキボーの泊まっていた国分寺のビジネスホテルに合流して、テレビのスイッチを捻ったとき、この曲のプロモーションビデオが流れていた。そういえばMTVもこの前後にスタートしたと記憶する。

 ロック喫茶「ローリングストーン」を発見したのもこの旅行中であった。アキボーは高校時代に熱烈なストーンズファンに変貌しており(中学の時はそれほどではなかったと思う)、その影響で僕もローリング・ストーンズは嫌いではなかった。そのグループの名前を店名につけていたのだから行かないわけがない。まず最初にカッペイの運転するトラックに僕とアキボーが乗り込んで新宿に向かったのだと思う。

 そんな数々の思い出が輝く東京受験旅行も佳境を迎えようとしている。試験の合格発表を確認した後、いったん富山へ帰る予定になっていた僕だが、試験結果は大惨敗だった。3校目の不合格発表を確認した足で、上野から帰路に着く。もう一度この東京に戻るための方法をいろいろ模索していた。結局その答えが専門学校だったというわけだ。

 さて、僕と違って受験に成功したアキボーは、いち早く東京に戻り、住むべきアパートを探し、いち早くローリングストーンにも通い詰め、僕が東京に出た頃には、彼はすでに常連になっていた。

夢幻荘

 百合ヶ丘のアキボーのアパートで数日過ごしながら自分自身のアパート探しに明け暮れていた。大学合格の妬みも多少働き、アキボーにはライバル意識もあって、最初は違う沿線なども見ていた。しかし彼が利用したという不動産屋で気になる物件があったというアキボーの言葉を思い出して、同じ百合ヶ丘だったが、そこを訪ねてみた。それが「夢幻荘」だった。

 当時の僕らの感性からするとこのネーミングは物凄くイカしていた。それにロケーションがまた良かった。小田急線は、多摩丘陵部の谷間を走っていて、その両脇が小高い丘になっているのだが、その丘を登りきったところに夢幻荘はあった。それもかなり崖っぷちで、物件の209号室は、2階で最も谷間に向かってせり出ていた。

 当然ながら眺めも良い。谷間を走る小田急線が一望できるのだ。もちろん地震や崖崩れが起こったら最も危険な部屋であることも間違いではないが、そんなリスクも含めてイカしていると思った。僕と同じ感性であるはずのアキボーだが、親の前ではどうも大人しくなってしまう性格だった。

 僕に即決を促せたのは、心のどこかにある彼に対するライバル意識と、彼が近所にいるという安心感という一見相反する二つの理由だった。契約を済ませた最初の晩に、近くのスーパーで買ってきた毛布にくるまって寝た。春とはいえまだ三月で時々寒くて目をさました。その晩アキボーは新宿のローリングストーンに行った。僕は一人で部屋の片付けに追われていたからでもあるが、やはり常に行動を共にするのは抵抗があったのだろうか。

 履歴書にも住所が書けることになり、今度はアルバイトを探し始めた。夜学にしたため、乗り換え駅の新宿近辺で夕方五時には終れるところに絞った。そして東口正面のビルの2、3階にある比較的大きな喫茶店に決まった。

 そのビル全体が喫茶店を経営する企業のもので、1階のレストランや7階のパブも同じ会社の社員で、制服が違うだけだった。そのビルの窓から右斜め方向にまだ出来てまもないアルタがあった。今では当たり前の壁面いっぱいの大画面映像も当時は珍しかった。

 雇用条件として、伸していた髪を切ることになった。高校時代から髪を伸ばしていたのは、敬愛するロックアーティストの影響だが、少し前の世代の長髪ブームは当に去り、僕たちは生きた化石だったのかもしれない。同級生の大半がリーゼントで決めているのは、その当時「成り上がり」で人気の合った矢沢永吉の影響であるのは間違いがない。僕自身は特に拘りはなかったし、それよりも週払い制だったり、社員食堂でランチを取れることの方が魅力的であり、百合ヶ丘の美容院でカットをお願いすることになった。

 アルバイトをこなしながら、入学式(中野サンプラザ)を済ませ、授業も通うようになった。夜学のせいか、十三人で一クラスだった。不安もあったが楽しい授業もあり、それなりに意義を見い出していた。ただ真面目に通い続けるには、余りにも東京には刺激が多く、休む日も多かった。授業としては、中学時代の科学を思わせるオームの法則などの高校時代までの復習的なものは身が入らず、テープ編集の仕方(まだまだアナログの時代だった)やスタジオでの音響効果の実験等、実践的なことになると目を輝かせていた。

 都会の生活に少しなれ始めた五月のある日、家族が僕のアパートにやってきた。ワンボックスカーをレンタルしたようで、富山で愛用していた僕のステレオ、レコード、布団、炬燵、自転車といった物を詰め込んで、遙々運んできてくれたのだ。

 僕は僕の家族が好きだ。どこにでもある家族の様で決してどこにもない家族だった。車の運転と小さな子供が好きな父、化粧品のセールスに燃えている母、自由奔放に生きる高校生の妹、そして僕の四人。その四人はいつも一緒にいるものだと思っていたが、そこから最初に飛び出したいったのが僕というわけだ。それにしても強靱な家族の絆というものを感じた。

 その時一泊していったのだろうか。記憶が曖昧だが、高校生の妹を連れて赤坂まで東京見物に出かけた様な気がする。その間に父と母は、アパートの近くのスーパーなどで、炊飯器やガスコンロを買ってきてくれていた。そんなこんなでやっと普通の暮らしにありつくことが出来た。

 この時なかったものは、テレビと冷蔵庫だったが、それは後から自分の給料で揃えている。時期はずれているが、どちらも新宿駅のマイシティで購入したと記憶する。いや冷蔵庫は近所のスーパーだ。家電も少し置いていたのだ。そうだテレビはマイシティで正解だが、翌年のことだ。

 仕事は順調に行ってるかのように見えた。週に2万円強のお金が懐に入る。もうそれだけで安心してしまっていた。ただし社会人としての自覚など無く、学生気分のアルバイト生活だったので、遅刻なども多かった。高校時代なら、ちょっと教師に嫌みを言われ、すいませんと一言、何食わぬ顔をして席に座っていれば、なんとかなったのだが……。

 遅刻ならまだ許されたかも知れないのだが、雇用契約違反を一つ犯していた。朝十一時に入って夕方五時に上がる僕の場合、社員食堂で食べて良いのは昼食だけなのだ。ところが、五時に上がってから夜学に向かう前に、ちゃっかりともう一食頂戴してしまうのだ。まして同僚に見つかるもピースサインなどをかましていた。今思えばとにかく若くて愚かだった。結局誕生日間近の六月上旬、仕事を解雇された。理由は人数調整と言うだけだった。まあいい経験をしたと思う。

 仕事の内容的に辛いとかきついとか思ったことはなかった。喫茶店のウェイターというわけではなく、簡単に言えば皿洗いだが、当時はカウンターと言われた。皿洗いから始まったが、コーヒーを沸かしたり、レモンスカッシュ等のドリンク、サンドイッチなどの軽食を作って出したりしていた。まあ誰でも出来る程度のことだが、皿洗いよりはクリエイティブだと思った。

 従業員同士は和気藹々としていたて、ウエイトレスのお姐さん達は、きっと20代そこそこなんだろうが、当時の僕に取ってはものすごく大人に見えた。ちなみに同い年の娘を見ても大人っぽく見えた。休憩時、非常口の扉を開けたところの非常階段でタバコを吸ったものだが、階段に座ってコンパクトを覗き込んで化粧直しをする様を横目で見ながら、憧れの念をいだいた。何もなかったのが、不思議なくらいだ。

 誰でも出来ることながら、サイフォンコーヒーの入れ方なんて普通分からないし、食材に付いて学んだことも多かった。一人暮らしを始めることで結構ためになった。野菜嫌いの僕でも食べられるような食材や、紫キャベツ等の初めてみる食材。ドレッシングにはいろんな種類があるということさえ、以前は興味がなかった。。

 過去にも冷たいカレーを温めるとか、卵を割って目玉焼きにするくらいは出来たし、ただ温めるだけでなく、スパイスを加えるとか、卵料理は、スクランブルエッグを含め、結構得意としていた。小学校高学年では、妹の為にランチを作ってあげることもあった。まあそんな時代は長くなく、当然ながら妹の方が腕を上げている。

 このアルバイト時代の思い出の一つだが、5月のゴールデン・ウイークがかなり忙しかったと記憶している。ゴールデンウイークは当然学校は休みで、アルバイトに専念した。そこでやっと社員の人と打ち解けたのかもしれない。ゴールデンウイーク最後の日に飲みに誘われたのだ。先輩の男性社員もまた大人というか、頼りになる兄貴という感じだった。当時寺尾聰が「ルビーの指輪」の大ヒットを生み、職場の先輩の多くは、そんな寺尾のファンだった。

 そういえば、70年代活躍したピンクレディが解散したのが、その年の4月だった。解散コンサートがガラガラだったと誰もが話していたが、もうその頃にはたいした影響力もなく、惜しまれて解散していったキャンディーズと比較されては、かわいそうなくらいマスコミにたたかれていた。

 仲間という意識が芽生えてきたときの解雇だけに、少しながらショックだった。でもいったん決まってからの正社員の方々の見る目は冷たかったし、僕の少し後輩のウェイトレスも「バカじゃないの」と言って急によそよそしくなった。

 解雇されたのは6月前半で、後半にある誕生日の前後数日を故郷富山で過ごした。何をしていたわけでもなく、レンタルレコードを借りてきたり、繁華街を彷徨ったりしていた。仕事を解雇された話を友人たちにもしたのだと思うが、下北沢のロック居酒屋トラブルピーチの……名前は忘れたが、その人から「頑張れよ」というメッセージと一緒にコンサートの招待券をもらった。

 そのコンサートは確か品川プリンスホテルの体育館のようなスペースで、宇崎竜童が企画した日本をこれからしょって立つような勢いのあるロックバンドが勢ぞろいしていた。(インターネットは素晴らしく、それが1981年7月25日であり”KYODO POWER '81 SPECIAL?叫び続けろ!”というタイトルであったことが分かりました)つたない記憶ながら、モッズ、ARB、クールス以外思い出せない。子供バンドもいたのかもしれない。その中でARBを知り、日本のバンドの中では筆頭に上げるくらいに傾倒していくようになる。ARBは、機会があれば後述させていただこう。さて次のバイトが八月に始まっているので、一ケ月以上は責任のない無職の生活を満喫していたことになる。

 無職の期間に、アキボーの知り合いと友達になり、ローリングストーンはもちろん、下北沢にあるロック喫茶(居酒屋)トラブルピーチやイートアピーチなどに顔を出したり、そんな連中とドライブを楽しんだり、けっこう気ままに暮らしていた。されど彼らほどに羽目を外すことも出来ず、一人になることも多かった。

 アキボーがローリングストーンに入り浸るようになり、テレビはしばらく必要無いからと借りてきて、夢幻荘に運び入れた。それまでテレビのない生活をしていたが、特に困ることはなかった。それでもあればあったで結構情報ツールにはなった。小高い丘の上にある夢幻荘だけにアンテナを立てずとも非常に映りは良かった。せっかく東京に出てきて、テレビを見ない手はなかった。特にTVK(テレビ神奈川)などは音楽番組の宝庫であった。

ギターとペン

 マクドナルドの夜間清掃係を始めたのは八月に入ってからだった。生活パターンが変わって、学校が終わってから仕事に駆け付け、早朝六時まで働くのだ。仕事が終わってからは、普通に出勤する人の流れに逆らって新宿駅方向に歩き出し、ガラガラに空いた下り電車に乗って百合ヶ丘への帰路についた。

 この仕事は少し辛かった。夜十時入店してから閉店間際の十二時くらいまでは、ハンバーガーを作ったり、ポテトを揚げたりしている。そして閉店の少し前から、徐々に片付け準備に入る。油で汚れた洗い物がかなりあって、急いで作業しないと休憩もとれない状況だった。またフィレオフィッシュやポテトを揚げる機械のオイル交換は、オイルの入った缶がかなりの重さがあり、力も必要だが、地下室から運び上げる際に階段で転んだりする危険性を伴った。

 まあ悪いことばかりでなく、良いこともあった。ある日アキボー古いジーンズを貰った時のこと、彼とは体型が違うので(もちろん彼の方がスリム)諦めていたが、すんなり履けてしまった。なんと七〇キロ後半はあった体重が、六〇キロを割ろうとしていたのだ。中学に入る前から、多少肥満を気にしていた僕は、コンプレックスから解放されることになる。このことはその後の僕の方向性にも影響を与えたと思われる。

 マクドナルドは2ヶ月程度働いて辞めてしまったが、その後もお客としてマクドナルドに入ると、仕事をしていた時のことを思い出す。ハンバーガーのパテとバンズを同時に必要個数焼く。品質管理にこだわるマックだけに、マネージャーの采配が仕事の効率を左右した。最多で12個を同時に焼いた記憶があるが、最強はビッグマックだろう、バンズの数が違うし、トッピングする具の数も違う。ちなみにビッグマックは今食べてもおいしいと思うし、味が変わらないところがすごい。それとハンバーガーに入ってるピクルスの臭いは、それを嗅いだだけで、深夜に働いていたあの頃のあの姿が、脳裏に映し出されるくらい象徴的である。

 仕事が終わる朝6時、勤め始めた8月ならとっくに太陽は昇り朝の雰囲気を醸し出していたが、秋になり、日の出が遅くなるにつれて、まだ夜中ではないかという暗い内に「お疲れさま」となる。電車に乗って経堂駅を過ぎたあたりから次第に街が明るく息づいてゆくが、妙な寂しさを感じていた。それが原因ではないだろうが、十月にはまた無職に戻っていた。

 なぜ辞めたのか、果たして職場環境なのか、どうなのか今では全く思い出せなくなっている。前職の様に人事の都合で解雇されたわけではない。間違いなく今回は自分から行くのを止めてしまったのだ。当時電話も設置せず、連絡の取りようのない僕の部屋に電報をくれた。とにかく電話をしろというコメントだった。恐る恐る電話をすると、バイト代が少しあるので取りに来いというものだった。

 当時日本マクドナルドの本社は、新宿西口住友ビルの上の階の方にあった。この時が、高層ビル初体験だったに違いない。まだ都庁などは出来ていなかったが、同じ新宿でありながら東口とは雰囲気が違うと感じた。まあ誰だってそう思うだろうが……。

 バイト代は五千円くらいだった。もらったその足でレコードを買った。ザ・フーの「四重人格」というアルバムだった。2枚組の大作で四千五百円、残ったのは五百円だったが、それを買う目的でバイト代を取りに行っただけで、まだ蓄えはあった。だからこそ、翌年の2月頃まで無職でいられたのだ。

 ちなみにザ・フーというバンド、この頃にかなりのめり込んだのが縁で、それから20年以上経つ現在でも彼らのファンである。彼らのことはまた折を見て詳しく書いてみたいと思っている。友人達がストーンズに傾倒していく中、ストーンズのワルという格好良さに少し辟易して、個人的にはそれほどでもなかった。もちろん好きな部分も当然あるわけで、サウンドやバンドとしての格好良さは絶品である。

 ザ・フー関連の映画を見ようと思って、上映している映画館を探した。今ならレンタル店で借りて済む話ではあるが、その頃はそうするしかなかった。それでもさすが東京、小さな名画座のような映画館がいたるところにあって、すぐにそれは発見された。

 まず最初は五反田だった。1975年に公開された「トミー」は、1969年発表の同名アルバムの映画化されたものである。当時はロックオペラと言われ、映画化の前に舞台化もされ、当時人気のミュージシャンが顔を揃えていた。映画化にあたっても、エルトン・ジョン、エリック・クラプトン、ティナ・ターナーといった有名ミュージシャンが参加していた。その「トミー」を「ヘアー」、「ジーザス・クライスト・スーパースター」とまとめて3本立てでやっている所があった。

 「トミー」を見てから数週間後、高田馬場に次の映画を見るためにやって来た。邦題「さらば青春の光」という、「トミー」に比べれば映画らしい映画だったりする。話の筋も分かりやすく、主人公も等身大の青年だったりする。原題は「Quadorophenia」で、1973年発表の同名アルバムの映画化だった。アルバムの方は直訳され邦題は「四重人格」だった。映画も本来ならそうなるはずなのに……?

 この頃ステレオのアンプが壊れて修理に出したことがあった。何週間か、FMチューナーとカセットデッキを直で繋ぎ、カセットデッキのモニタージャックにヘッドフォンを差し込んで聞くという日々が続いた。ちょうどその頃ヒットしていた洋楽は名曲が多く、よく聞いていた。ポインター・シスターズの「スローハンド」、マーティ・ヴァリンの「ハート悲しく」、ムーディー・ブルースの「出帆の時は来た」、そしてメアリー・マクレガーの「SAYONARA」など。

 メアリー・マクレガーの「SAYONARA」は、映画にもなったアニメ「銀河鉄道999」の映画2作目のエンディングテーマになっていた。 高校時代ブームになった「宇宙戦艦ヤマト」等の松本レイジアニメは、その登場人物に魅せられて、「銀河鉄道999」や「キャプテン・ハーロック」といった作品にのめり込むと同時に映画館にも足を運んだ。

 休職中、蓄えの温存を図るべく、友達とのつき合いを控え、部屋に籠ることが多くなった。前職以来昼夜の逆転現象が起こり、夜更かしをしながら、夕方目を覚ますという日々だった。なおかつ気が向かないと学校にも行かず、夕方からボーッとテレビを眺めていた。それ以外は、先に揚げた音楽を聞いたり、ギターを弾いたりしていた。

 さらにまた蓄え温存計画で、夕方のスーパーの値下がり食パンを買い求めた。六枚切りで一食二枚をかじるという生活。マーガリンくらいは付けていたように思う。たまに総菜ポテトサラダやメンチカツが登場したが、週に一度くらいではなかったろうか。そこまで切り詰めながら、コーヒーだけは絶やさなかった、インスタントではあったが……。

 学校の方はたまに顔を出していたが、特に身が入らず中途半端な感じだった。スタジオワークの実習で、放送番組を制作することになった。やはり実習となると興味がわいた。一三人のクラスを二つに分けて互いに競いながら、ラジオ番組のように音楽を流しナレーターが詩などを朗読するようなものを作っていった。いわゆるフェイドイン・フェイドアウトの練習といったところだ。

 さて、まずイメージを描こうと班員の誰もが思ったのは、「ジェットストリーム」。当時のFM放送で人気の番組だった。ナレーター城達也の心地よい癒しの声と、気の利いた小話、当時フュージョンと呼ばれた曲達とのコラボレーションワールド。我々の班は七名で、クラスでただ一人の女性が同じ班にいた。必然的にナレーターが決定した。本人も満更でもなさそうだった。

 決して美人というわけではないが、やはりそこは女性が一人だけだったし、ある意味誰もが気を使いながら接していたのかもしれない。僕にしても多少は気になったが、なんとなく距離を置くことにしていた。それは、一度だけ駅までの道を二人で歩きながら帰ったことがあって、何を話したかまるで覚えてないが、とにかくそれ以降まるで彼女との接点がなく、意識的に避けられているように思ったからだった。

 決して同じ様な境遇の者が集まったわけではないだろうが、彼女以外の十二人の男達は、僕も含めて比較的大人しかった。仕事をしながら、空いている時間に夢を追いかけてみようと考える輩だから、似ているところはあるだろう。僕もその傾向はあったが、そんな人間ばかりが集まると何となく頑張ってしまう性格があり、そのメンバーの中では目立っていたように思う。

 例えば、スタジオワークの実習の初期で、だれか一人スタジオ内に入りギターを弾くという役目を手を挙げて引き受けたことがある。本来はミキサールームに残って、ミキシングの講習を受けたいと考えるところなのに、だれも手を上げなかったとはいえ、そんなに目立ってみたかったのか。いや、無性にギターが弾きたかっただけだなのだと思う。その時に答えが出ていたのかも知れない。結局僕の目指す道はミュージシャンであって、サポートする側でなくされる側なのだ。

 話が逸れたが、僕らの班は、ミーティングでイメージに合う曲を数曲選択し、その合間にナレーションする詩の内容を検討していた。曲はすぐに決まったが朗読する内容は、次回までの宿題となった。そして次の週、お互い考えてきた詩を見せ合うという日、授業が始まる前に彼女が声をかけてくれた。
「恥ずかしいんだけど、ちょっと意見を聞かせて?」
「いいよ」
そんなやりとりで、僕だけに見せてくれた彼女の詩の一行が目に留まった。
「私はギターを弾いている人がすき・・・」
な、なんだこれは!詩だと思うが、僕の自惚れではなく、明らかに愛のメッセージだった。僕は笑ってごまかしたが、過去にそんな経験はなく、どう反応していいのか、戸惑いは隠せなかった。二十才とはいえ、恋愛に関しては未熟だった。なんとか最後に一言、彼女を傷つけないよう、「良い詩じゃない!」と答えられた自分を誉めてやりたい。

 自作の曲を考えはじめるようになったのもこの頃ではなかっただろうか。記念すべき第一曲目のタイトルは、「孤独のヒーロー」。ありきたりのタイトルだが、そのときは名曲だと思った。自己分析するとやはりザ・フーの曲の影響下にあり、特に彼らの名作「フーズ・ネクスト」の数曲を聴けばお里が知れる代物だった。でも好きだが……。

 時々訪れていた下北沢のトラブルピーチ、その階下の1階にはカウンターだけの小さな姉妹店eat a peachがあって、ロックを流さなければ只の居酒屋だ。そこにはギターが置いてあったので、一度酔いにまかせて数人の前で歌ったことがある。反応はイマイチだった。まあその時の僕のスタンスはソングライターであって、ギタリストだった。だからボーカルさえすごい奴がいれば、いつでも行けると思ったものだ。

 そんなふうにして僕が二十歳になった年、一九八一年は過ぎていった。12月に入るとまた富山に戻り、未来の計画を修正せざるを得ないとぼんやり考えた。それでもこの一年東京で体験してきたことは、僕の人生始まって以来の刺激と興奮が入り交じったもので、これから先、あらゆる可能性が秘められていると思っていた。

『TOKYO EARLY 3 YEARS −1981年−』

 3年間のうち、1981年の分です。1982年、1983年も随時アップしていく予定ですが、勝手な個人の半生の1ページに時間を割いてくれてありがとうございます。おかげさまで3年間無事に掲載出来ました。機会がくれば、悲惨な1984年、1985年以降も載せたいかと思います。

『TOKYO EARLY 3 YEARS −1981年−』 ALTVENRY 作

 田舎出身者、って都会にあこがれるんですよ。特にこの頃はねえ……。東京で一旗あげたいとか考えちゃうんですかね。ALTVENRYの20代の思い出ですね。まだ上越新幹線も無く、上京すれば上野着。改札を出ると知らない人がやたら声をかけてきてね……。まだJRって言わない頃だよ……古いなあ、情けなくなってくるね。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2011-05-23
Copyrighted

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