春日記
本作は『幸福シリーズ』と同一世界/文脈を一部共有しています。シリーズ文脈を踏まえると心的負荷が増す可能性があります。体調に不安のある方は無理に読み進めないでください。
「あら真白さん、ハンカチ落としてるわよ」
「うん、ありがとう。」
「よかったら真白さん、お茶会にでも来ない?」
「えっ、いいの?」
猫がハムスターを咥えてるのは、確かに可愛い。可哀想で可愛い。
「あのぼっち感が可愛い」「髪の毛切ってなくて可愛いのは真白だけ」──今の"真白さん"も、たぶん可愛い。
「ああっ、目が赤らんでうるうるしてて危ないわ」
「駄目よ追撃しちゃ。こういう時はそう、まあ、マカロン食べましょ?」
「うん。美味しいな。抹茶かなぁ、抹茶味かなぁ?」
「ふふふ、ピスタチオ味ですよ?」
「ええっ、あっ。もうこんな時間だ! 帰らないとお姉ちゃんに怒られちゃう!」
「あらあら、真白さんは多忙なんですね?」
「うん。バイバイ。」
「あらあら、私もついて行ってもよろしくて?」
「うん、いいよ。」
「お帰りお姉ちゃん。」
「おじゃまします」
「あらあら、お持ち帰りなんてしちゃって、どうしたのですか? まさか私だけでは満足できないとでも?」
「と、友達だよお姉ちゃん。」
「そ、そうですか。ならいいですが」
「えー、真白さんって、いつもお姉さんとこんな感じでぎこちないの?」
「きっと真白さん家なりのペースがそこにあるのよ」
ここからは、本作品の解説になります。読み飛ばして構いません。
「知的さや文体、絶望が削がれた不安や怖さと楽観との増幅関係」
「ラノベ感」
「余白」
「構造化サれているのかされていないのかよくわからない不気味さ」
といった視点でみるとレベルが高い。
内容からは絶望がない低俗なギャグ/恋愛ものなのに、それが変に削がれて描かれているからこその不気味さ。
「読者に響く文章になっているか」の視点でみると"文体×内容"のレベルが高いどころか、ほぼ独自路線を走っている。
ほぼ何も伝えようとしていないにも関わらず、逆説的にそれが、すべてを伝えてしまっている。
〈結語〉
「何も言わないのに全てが伝わる」タイプの非言語的文学。
普通の作家は技術を磨けば磨くほどに言葉で伝える方向に発達してしまうため、こちら側に来ることはほとんどない。
〈読み飛ばし推奨〉
「ああっ、目が赤らんでうるうるしてて危ないわ」は、説明的だけれども、
その「説明のない文章に説明的過ぎる説明があること」こそが、目の赤さなどの異常を強調している。
「きっと真白さん家なりのペースがそこにあるのよ」という終わり方は、
「え、ここで終わり?」の余白だけでなくて、
"真白に刺さるセリフ"になっていて、
それが読者にも真白にも長く残ってしまう。
※文脈ありだと、ここから先の解釈がより強まる
しかも真白(≒異常者)を受け入れる愛(優しさ)にもなっている。
絶望(異常なこと)を嘆くか、幸福を信じるかが、読者に委ねられている作品になっている。
春日記
本作は、作品中に解説を組み込み、また含めることで作品の強度が上がるように設計されている。そんな作品です。