あれやこれや 241〜246

あれやこれや 241〜246

241 アリス

 初めて連城先生を見たのは、娘の小学校の運動会だった。転任してきたばかりの若い男性教師は母親たちの目を引きつけた。なるほど、目の保養になる美青年。若いママたちは、はしゃいでいた。

 5年生になった娘はブラスバンド部に入った。運動会の演奏は聴けたものではなかったが、その下手なバンドの顧問に連城先生がなったのだ。音楽の先生だった。若くて素敵な音楽の先生。女子部員が増えたという。娘が入部したのも先生に惹かれたからだろう。
 
 連城先生が来てからブラスバンド部は活躍し、コンクールにも出るようになった。彼はアマチュアバンドに入っていて、そのバンドの指揮者とメンバーも時々教えに来ていた。
 指導者の力はすごい。練習は厳しかった。夏休みも連日で、娘は旅行も行かないと言い出した。盆に田舎に帰ることも非難される雰囲気だという。たかだか区立の小学校の部活なのに。

 夏休み返上の成果はあった。初めて出場した都のコンクール。若いママたちの車に便乗して連れて行ってもらった。
 子供の成長はすごい。これが運動会で演奏していた子供たちなのか? すごい拍手だった。後ろを向いていた連城先生が前を向いた。黒の服を着た指揮者は手を胸に当てお辞儀をした。指揮者が主役になった。
 
『コンダクター、素敵でしたね』
 帰りの車の中で若いママたちは話していた。
 コンダクター? 指揮者をそう呼ぶのか? 私は娘の吹いた楽器の名前さえよく知らない。何度か聞いたが。ユーなんとか?

 娘は連城先生に懐いていた。女子は皆、レン先生と呼んで懐いていた。娘は冬休みに、飼い始めたばかりの子猫をレン先生に見せに行くという。
「連れて行っていいって言われたの?」
「うん。今日は練習ないし」
 猫はピアノの下に隠れて出てこなかった、とか。

 バレンタインデーには、レン先生のためにチョコを作った。私も手伝った。いや、ほとんど私が作った。

 連城先生は年度末の演奏会が終わると、他の小学校から借りた楽器を返しに行く。区立の小学校では楽器を工面するのも大変なのだ。
 娘は放課後数人で、先生の赤い車に乗って手伝った。帰りにケーキをご馳走になった。ハンバーガーをご馳走になった。おみやげにキーホルダーをもらった……娘は嬉しそうに話した。先生も大変だ、と思ったのだ。散財も。

 夫は……忙しかった。自分の娘を構ってやらなかった。その代わりに、欲しがるままに携帯電話も買い与えた。
 それからは、メールの着信音が夜遅くまで鳴っていた。怒ると娘はベッドにもぐり、返信していた。

 娘が6年生になると、私も役員をやらないわけにはいかなくなたった。広報委員になった私は、連城先生にブラスバンド部の記事を書いてもらう担当になっていた。
 放課後、もうひとりの担当と職員室へ行った。17歳年下の人気のあるさわやかな音楽教師と、紙面の打ち合わせをした。間近で見ても絵になる。若い女教師がチラチラこちらを見た。
 もうひとりの担当は頬が紅潮し饒舌になった。かなり意識している。私はパソコンの話だけした。原稿は家のパソコンに送ってもらうことに。

 送信されてきた原稿は文字数が多すぎてまとめるのが大変だった。字数を無視しやがって。載せたいことがたくさんあるのはわかるが……半分以下になったものを送信して了解をもらった。

 夜、学校に集まって印刷する。娘は付いてきた。玄関で連城先生の下駄箱を開け、
「帰っちゃったんだー」
と、がっかりした。私は幼い恋心を微笑ましく思った。
 翌日も集まって作業。娘はまた付いてきた。小さな会議室で印刷したものを分ける。数人、子供たちも来ていた。そこへガラッとドアが開き連城先生が現れた。娘の顔がパッと輝いた。連城先生は子供たちを音楽室に連れていき遊ばせてくれた。

 2年目の運動会。ブラスバンド部の演奏は昨年とは雲泥の差だった。親たちの目当ては曲ではない……素敵な連城先生。そういうママが大勢いた。

 演奏が終わると……
 ふたりは一瞬見つめあった。
 誰と誰?
 
 連城先生の背は175センチくらいか? 娘は145センチ。 

242 シングルで

 レモンアワー、これ、缶チューハイのネーミングですね。飲んだことないけど。(販売中止)
 娘たちに聞いてみよう。どれがおいしいとか話しているから。
 
 この娘達、私の手作りの果実酒は甘すぎると飲まない。
 おいしいのになあ。
 夫はたまに飲む。飲んだ後の口直しに。グラスにたっぷり注ぐ。それ、果物の汁で薄まってるけど、35度の焼酎なんですけど。

 案の定、私が夜の仕事 (配膳)から帰ったら、バスタオル一枚でソファで寝ていた。起こしたら頓珍漢なことを。認知症になったかと思った。
 本当に、飲み過ぎだよ。もう、帰ったら死んでた…‥なんてこともあるかもね。そうしたら、慌てなくていいと。

 いつか来る、そんな日の前に、コロナにかかり、治っても食欲がない。酒も抜いた。飲んでもおいしくない。 
 カレーを食べても辛くない?!

 これを機に考えてね。私は移らなかったよ。免疫力あるんだね。適度な運動にバランスの良い食事。腸内環境への気遣い……だって。毎日ヨーグルト食べてるから。
 便秘だけど。

 さて、検索してみつけたのは、手作りのレモンサワーの元。

 レモンはノンワックスのものを選ぶ。
 砂糖は溶けやすく、味が馴染みやすいグラニュー糖がおすすめ。
 蒸留酒は、長く漬けてもレモン本来の風味が損なわれないジンを使用。
[材料](2L分)
 レモン 6個
 グラニュー糖 300g
 蒸留酒 900ml
[作り方] 
 レモンを準備する
 果肉に中ワタを残して、黄色い外皮のみをらせん状にごく薄く剥いていく。皮は3cm幅にカットする。実は1.5cmの厚さの輪切り。種は除かない。
 瓶ををよく洗い、ジンを塗って消毒しておく。
 レモンを入れる
 1/4量のレモンの皮と、輪切りにしたレモンの果実を瓶の底に敷く。
 砂糖を入れる。
 1/4量の砂糖をまんべんなく重ねる。
 重ねる。
 3と4の作業を3回繰り返す。
 ジンを入れる。
 1日に一度、マドラーで混ぜ、1カ月で飲みごろに。
(呑兵衛が毎年仕込む「レモンサワーの素」)より。

 以前、オレンジ酒を焼酎で作ったとき、皮ごとだったから、苦味が気になった。これは、大丈夫? たくさん作っておいしくないのはご勘弁。

 ジンは娘の旦那が好きで前に買っておいたら全部飲んでいった。素敵な瓶だから梅酒を入れている。
 毎日強い酒を飲むから娘も孫も心配して、散々言って白ワインに変えたとか。
 まだまだ働かなきゃ、なのよ。体大事にしてね。



【お題】 フレッシュレモンアワー


 早速作ってみた。ジンはペットボトルの1、8リットル入りだから、レモンも砂糖も倍の量に。
 1カ月で飲み頃に。
 さて、味見を。ロックで。

 心配していた苦味はほんの少し。
 これは……焼酎とは違う。これが、ジンの香り?

 私が酒を飲むのはたまの付き合いと、家の果実酒だけ。それもたぶん大さじ2杯 (30ミリリットル)くらい。度数は強いけど。ほとんど健康のために飲んでいる梅酒や季節の果実酒。

 このレモン酒は、飲んだ翌日シーツ交換をしていたらふと飲みたくなった。味が蘇る。
 昼食のときに飲もうかと思った。
 でも……夜も仕事だからやめておいた。
 
 夜の仕事が終わり、食べるのはヨーグルトだけ。手作りのプラムのジャムをたっぷり入れて。
 また、レモン酒を飲みたくなったが、やめた。
 ここで飲んだら毎日飲むようになってしまいそう。

 若い頃は結構飲んだけど、お酒をおいしいなんて思わなかった。ビールはいまだにそう……
 夫はこの一杯のために生きているけど。
 季節の果実酒。手作りしたくて作ってはみたけれど……
 仕事に行く前も飲むようになったりして?

 不安になった。父の血を引いているから。

 この歳になって、依存症になったりして……
 夫が先に逝ったら酒浸り……
 
 いやだ、いやだ。
 父を思い出す。この世でいちばん嫌いな酔っ払い。

 飲みません。毎日は。
 飲むのは休みの日。週に4日もあるけど。
 大さじ2杯。シングルで。


 
 バーでウイスキーをオーダーする場合、大抵はシングル (30ミリリットル)かダブル (60ミリリットル)かを聞かれます。とくに指定しなければ、シングルで出されるのが一般的。
 その理由は、ウイスキーはアルコール度数が高いお酒なので、「大量に飲むのを防ぐため」とも、「少量ずついろいろな味をたのしめるように配慮しているため」ともいわれています。
(楽しいお酒 公式アプリより) 

243 人類史上最も多くの人を殺した人物

【お題】 わたし、こんな世界記もってます
で調べたのは、

 世界でいちばん人を殺した人、
 1位 毛沢東(中国) 6000万人

…………

 毛沢東。
 6000万人殺害って……?

 無知なので、調べてみました。
 殺害した人数は諸説いろいろ。1億人超えというものも。

⭐︎
 
 1922年結党の共産党に参加、農村を拠点に勢力を伸ばし、1927年、井崗山(せいこうざん)に根拠地を築き、1931年に瑞金(ずいきん)で中華ソヴィエト政府を樹立。
 その後、国民党との内戦を戦い、長征途上の1935年、遵義会議で党の主導権を握った。延安を拠点に日本との戦争、国共内戦を勝利に導き、1949年、中華人民共和国初代の政府主席となる。 
 建国直後の朝鮮戦争に義勇軍を派遣、アメリカ軍と戦った。1958年に社会主義完成を目指し、大躍進運動を行ったが失敗。
 さらに中ソ対立で孤立化を深め、1966年からブルジョワ修正主義に反対し階級闘争を継続するとして文化大革命を起こした。
 劉少奇らを実権派として倒したが、紅衛兵などの造反派の過激な行動で始まった社会の混乱は1976年の死去まで続いた。
 その後の1978年から始まる鄧小平による改革開放の時期には文化大革命は失敗であり毛沢東の誤りであったと総括されたが、現代中国の建国最大の貢献者であることは否定されず、貢献第一、誤りが第二、と評価されている。
(世界史の窓より)

⭐︎

 1949年、中華人民共和国の初代最高指導者となった毛沢東は、格差がなく、誰もが平等に暮らせる共産主義の世界を掲げて人々を期待させたが、実際に行われたのは大量虐殺と独裁政治だった。

 今では、毛沢東は人類史上最も多くの人を殺した人物として、ギネスにも認定されている。

 毛沢東が主導した大躍進計画は、中国の急速な工業化と農業の集団化を目指した政策だった。
 しかし、非現実的な目標設定や無理な政策により、質の悪い鉄鋼生産、農業生産の激減を招き、大規模な飢饉と大量の餓死者を出した。

 毛沢東は農業や生物学の専門家ではなかったが、国力をつけるためには農業を盛んにし食料を増産すべきだと考えた。
 農作物を食い荒らすネズミ・ハエ・蚊・スズメを撲滅すべきだと考えた。四害駆除運動という。
 毛沢東は農業の敵として特にスズメをやり玉に挙げ、国民に見つけ次第すべて殺せと命令した。 
 国民はその命令を忠実に守った。
 結果どうなったか?

 実はスズメは害虫を食べてくれる益鳥でもあるのだが、本当に中国国内からスズメがいなくなったために生態系が崩壊し、大飢饉が起こった。

 その結果、少なくとも数千万人の中国人は餓死したのだが、その数字は公表されていないので明確ではない。

 これに、500万人(?)の他の殺戮が加わる。

 大躍進計画が大失敗し毛沢東に国民の恨みが集中し、政敵にも権力奪取のチャンスが生まれた。
 それを叩き潰し自分の権力を絶対化するために、物事の判断力がまだ形成されていない青少年を使って、毛沢東は文化大革命を強行したのだ。 

 1966年夏から10年間にわたって繰り広げられた熱狂的な大衆政治運動は、毛沢東自ら発動し、「無産階級(プロレタリア)文化大革命」といわれた。
「造反有理」 (謀反には道理がある)を口々に叫んだ紅衛兵(こうえいへい)運動に始まり、指導者の相次ぐ失脚、毛沢東絶対化という一連の大変動によって、中国社会は激しく引き裂かれ、現代中国の政治・社会に大きな禍根を残して挫折した。

 文革には共産党内部の権力闘争と、その大衆運動化という二重の性格があり、悲劇は拡大した。 
 文革中の奪権闘争や武闘で約2000万人もの死者が出たともいう。
 毛沢東が極めて悪辣なのは、この大虐殺を『紅衛兵(こうえいへい)』と名付けた青少年にやらせたことである。 
 アドルフ・ヒトラーも使った手だが、純真な青少年を一方的な『教育』で洗脳し自らの政治目的の手先に使うことは、人間として政治家として絶対にやってはいけないことだ。


 しかし今でも中国の天安門広場には革命の英雄として毛沢東の肖像が飾られ、各地には銅像が建てられ、紙幣の肖像も毛沢東である。これが中国という国の姿であるという。

 ウィキペディアによると、1958年から3年間行われた大躍進政策の犠牲者は、1500万人~5500万人となっている。そこまで国民に大きな犠牲を強いた政治家を今でも崇拝しているということは、また同じような犠牲を出すことも厭わないというのが、中国の現在の姿勢なのではないだろうか。

(絶対に民主化しない中国の歴史より)

244 もう少し時がゆるやかであったなら

 旅行中、このお題を考えた。
【心が震えた瞬間】

 長い人生、悲しみに心震えたことは何度かあったのだろうが今は穏やかだ。
 去年生まれた孫の心臓手術も終わり元気だ。
 この1年は心がどんよりしていて旅行する気分にもならなかったけど、ようやく……

 車の中で次々歌がかかる。古い歌ばかり。

 心凍らせて〜

 青春に心をふるわせた部屋〜

⭐︎

 以前、車の中で夫の好きなテレサ・テンの曲が延々と流れていて…‥違うのに変えてほしい、なんて思っていた時にかかった曲は?
 これは、これは……? 
 なんだっけ?
『愛しき日々』
 
 表題曲は、日本テレビ系の年末時代劇『白虎隊』(1986年)の主題歌として使用された堀内の代表曲の一つ。
 オリコンでも最高で4位を獲得し、累計売上は40万枚を記録した。

 白虎隊は、幕末維新における戊辰戦争の一環である会津戦争に際して、会津藩が組織した、武家男子を集めた部隊である。
 中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいたほか、幼少組として13歳の少年も加わっていた。
 名称は、中国の伝説の神獣「白虎」に由来する。他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊、幼少隊などがある。
 会津藩の敗色が濃くなる中での飯盛山での自刃で知られるが、戦死や自刃をしなかった隊士約290人は明治維新後を生きた。

⭐︎

 この歌を聴いて会津に行きたくなった。

 白虎隊の足跡をたどる旅。福島県・会津のおすすめ観光スポット。
 白虎隊は、戊辰戦争の際、会津藩が編成した16~17歳の少年たちで構成された部隊。
 もともとは警護の予備隊だったが、会津戦争の戦況悪化により出陣命令を受けた。
 その際、飯盛山で炎上する会津城を見て落城したと勘違いし、捕虜になる屈辱を避けるために集団で自刃した。

「城を枕に討ち死にするつもりでここまできたが、もうお城へ入ることはできない。すべてはおわったのだ」
「このままぐずぐずしていれば、敵の手にかかって後の世までも恥じをさらすようなことになるぞ」
「そうだ、最後まで会津の武士らしく、いさぎよく、みんなここで切腹しよう。」
 こうして、少年たちは、遥かにお城をのぞむと、いずまいをただし一礼した。

 少年たちの静かに閉じたまぶたの内には、懐かしい父や母の姿が、また、可愛らしい妹や弟の顔が、そして楽しかった数々の思い出が、美しくうかんでいた……
(会津若松観光ナビより)

⭐︎

 自刃の地へ行ってきた。
 霊が眠る場所なので食べ歩きや大声は禁止の看板が。
 遠足の子どもたちがたくさん。
「ここで自殺したんだよ」
と喋っていた。

 自刃したのは白虎隊の10代の子ども達。あなたたちとたいして変わらない。



【お題】 心が震えた瞬間

245 逃亡者

 逃走劇で思いついたのはアリスの『逃亡者』

 数あるアリスの曲の中で、いちばんのお気に入り。
『夢去りし街角』のB面に収録された隠れた名曲。


 同僚がさだまさしと谷村新司を好きだった。よくラジオ番組の話をしていた。ちんぺいさんとかベーヤンとか。
 谷村新司のラジオ番組はかなりエロトークだった……YouTubeに音声だけアップしてありますが、かなりすごいです。

 谷村新司さん。
 2023年3月急性腸炎のため入院。6月よりアリスの全国ツアーを控えていたが、ドクターストップにより休止した。
 同年10月8日死去。74歳没。
 シンガーソングライター、タレント、作詞作曲家、大学教授。アリスのリーダー。大阪府出身で、愛称はチンペイ。

 少年時代は肥満体型で、「ブタ」と渾名されコンプレックスを感じていた。谷村は、歌を褒められることが多く、特に音楽に関心は無かったが、女にモテるためにはバンドを組んでリーダーをやらなければと思い、高校1年生の時にギターを購入して練習を始めたという。
 
 谷村新司のニックネームは友人が命名。学生時代、サングラスをかけた姿が評論家・野末陳平(ちんぺい)さんに似ていた。シンジからチンジ、チンペイへと変化した―の2つの説がある。
 堀内孝雄の「ベーヤン」は、堀の字つながりの赤穂浪士・堀部安兵衛から。
 矢沢透の「キンちゃん」は、顔が落語家の柳家金語楼に似ていたからという。

 アリスの名前の由来はエロ本アリス出版から取っている?
 谷村新司がアメリカに行った時、カリフォルニアにあるUCLA (大学)内にある
「アリスのレストラン」の「アリス」のロゴがカッコ良かったため、との説がある。

 1971年12月25日、谷村、堀内の2名で「アリス」結成。桑名正博の実家の蔵で練習を重ねる。
 1972年3月5日、シングル「走っておいで恋人よ」でデビュー。
 同年5月5日、矢沢が正式に合流し現在のアリスとなった。2ギター&ボーカル、1パーカッションという特異な編成とブルース色の強い演奏については、リッチー・ヘブンスの影響を少なからず受けているとのことである。
 デビュー当初はヒット曲もなく、鳴かず飛ばずであった。地道なライブ活動 (1974年には年間303ステージという記録が残っている)と1975年の「今はもうだれも」のヒットを契機に、「冬の稲妻」「涙の誓」「ジョニーの子守唄」「チャンピオン」「狂った果実」等のヒット曲を連発する。
 アリスの活動と並行して、ソロ活動も開始。ソロ名義でのアルバムやシングル制作、他の歌手への楽曲提供 (山口百恵の「いい日旅立ち」など)を精力的に行う。
アリスとは異なる音楽世界は、1979年の「陽はまた昇る」を経て、1980年の「昴」で一定の完成をみる。 
(Wikipediaより)

逃亡者 アリス
作詞 谷村新司
作曲 矢沢透
https://youtu.be/h4ZRELNRNAA

【お題】 逃走劇

246 少年

【お題】 小説とごはん

 埋もれた小説から抜粋。


 英輔が私と再婚したのは息子のためだ。八方塞がりだった。どんなに有能な男でも父親としては失格だった。
 結婚式は内輪だけで行った。本当はやりたくなかった。ドレスも着物も着たくなかった。
 似合わない。
 私は成人式さえパンツスーツだった。
 英輔は最高のスタイリストだった。見栄えの悪い女を激変させた。選んだドレスはシンプルでくすんだブルー。それが私を引き立てた。彼の手が私を変えていった。化粧のマジック。さすが、化粧品会社の社長だ。
「素顔の君のがいいけどね」
 嘘? まさか、本当に? 美しい女を、美しく化粧した女を見慣れているから?
 
 新婚旅行は2泊3日の近場だった。私はバレないようにした。長年のコンプレックス。夫は気づかないふりをした。
 男は女の最初の男になりたがり、女は男の最後の女になりたがる。オスカー ワイルド。

 この家に嫁いできて、いきなり9歳の子の母親になった。大きな邸の崩壊……幸せな家庭が突然壊れ、母親が出て行った。父親は酒に逃げ、母親そっくりの息子に暴力を。
 私が継母になったことは、救いになったのだろうか? 
 
 初めて風呂に入った。大きな邸に広い庭、羨ましがられるが古い。たいそう古い。庭の木は姑が嫁いで来る前からある。風呂も広いが古かった。窓は風でカタカタ音がした。開ければ木々が騒めく。亡霊でも出そうだ。
 電気も薄暗い。髪を洗おうとして、排水溝に信じられないものを見た。亡霊よりも苦手だ。私はシャワーをかけ、流そうとした。流れていかない。騒いだのだろう。英幸(えいこう)がドアを叩いた。
「亜紀先生、大丈夫?」
「な、ナメクジラ」
「……」
「ナメクジが、流れていかない」
「棚に塩があるでしょ。それをかけると流れていくよ」
 棚の上のきれいなボトル、入っているのはバスソルトではないのか? 
「獣医のくせに、虫が怖いの?」
「ナメクジは虫ではない!」
 

 大きな邸は虫屋敷。広い庭には……子供には宝物のクワガタが。土にはミミズ。それをこの家で育った息子は手でつかむのだ。部屋には蜘蛛が出現する。少年は素早い。蜘蛛の動きを予測し捕獲。手で捕獲。それを窓から放る。
 少年は夕方になれば言われなくても風呂を洗った。ズボンを脱いで。この少年も古い風呂は怖かったのだろう。ドアを開けて洗っていた。冷たい水に催したのだろう。少年は排水溝に向かって放尿しだした。窓の方を向いて。
 長い放尿時間に感心した。
 翌日、洗う前にトイレ行きなさい、と言うと赤くなっていた。

 彩が生まれた時、英幸は6年生だった。風呂はリフォームしたが、複雑だったに違いない。彩が生まれると私は英幸に世話をさせた。ふたりで沐浴させた。手の大きな兄が支えると彩は気持ちよさそうだった。 
 兄は頼りになった。妹の世話をした。おしめを変えた。丁寧だった。便を拭きとった。それでも嫌だったのだろう。シャワーを浴びさせた。雑な私は怒られた。兄は、妹のお尻が汚れると面倒くさがりもせずにシャワーを浴びさせた。地震があれば階段を駆け降りて彩のもとに駆けつけた。目も耳もよかった兄は妹の泣き声に敏感だった。
 彩も英幸に懐いた。初めて発した言葉はママでもマンマでもなく『ニー』だった。おにいちゃんの『ニー』
 夫は息子の名を呼ばなかった。いや、英幸本人が自分の名を嫌った。この家で息子の名前が呼ばれることは稀だった。

 義母が亡くなると家の中は大変だった。ちょうど家政婦も都合で辞めてしまい、私はひとりで家事も育児もやる決心をした。
 幸子さんがやっていたことだ。あの人は、家事に介護に犬の世話、庭の手入れ、すべてひとりでやっていた。私にもできないわけがない。対抗心がわいた。しかし、慣れない家事は大変だ。私はごはんを炊いたこともなかった。
 初めて用意した朝食。ごはんを食べたふたりの反応は微妙だった。 
「朝炊いたの?」
と英幸が聞くのを英輔が、
「ま、こんなもんだ。午後から雨だ」
と話題をそらした。

 夕方、英幸はおなかがすいた、と冷やご飯でおにぎりを作った。手は大きい。残りごはんで大きなおにぎりをひとつ。器用だ。味噌をつけ、そのままの手で食べた。
「おいしそうね、ひとくち」
 初めて食べた。素朴な味。
「パパには内緒だよ」
 ああ、幸子さんが作ったのだな。ママの味。
 英幸は炊飯器を洗うと米を研いだ。私は見ていた。
「おばあちゃんが教えたのね」
「……僕の仕事だった」

 ごはんが炊き上がると英幸は見ていた。私が反応しないと、
「炊けたらすぐほぐさないと駄目だよ」
 しゃもじを持って器用にほぐした。
……幸子さんは息子を見事に躾けていた。その晩食べたごはんは光っていた。

 やがて、私は少年に見惚れるようになった。神は女の私の顔を、手を抜き適当に仕上げた。少年はまだ中性的で私はある映画を連想した。14歳の美少年。恋焦がれた音楽家は髪にさわることもなく死んでいった。私は触れられた。髪にも頬にも。肩にもお尻にも。
 それを見ている男がいた。男には触れられない。話もできない。そして少年は知っていた。楽しんでいた。父親の反応を。少年は空を見上げた。ため息をついた。復讐だ。父親の手の中でグラスが割れた。少年の中に前妻がいた。

『私がまだ非常に若かった時のことだ。ホームズ君。私は生涯に1度しか経験したことのない恋愛をした……
 彼を見ていると愛おしい彼女のあらゆる仕草が私の記憶に蘇ってきた』

あれやこれや 241〜246

あれやこれや 241〜246

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-10-08

Copyrighted
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  1. 241 アリス
  2. 242 シングルで
  3. 243 人類史上最も多くの人を殺した人物
  4. 244 もう少し時がゆるやかであったなら
  5. 245 逃亡者
  6. 246 少年