
「水仙」
境界線に、佇め。
毎朝、夢を見るの。
鉱石の輝きを極光のように搖らめかせて
泉の下から手招きをする懐かしい水辺
微笑みかけて 微笑んで
涙を零せば同じ様
水が心をいためれば
波紋は一切消えてしまう。
凪いだ姿は哀しみに
じッと耐えているさまである
同じ痛みを分かち合う
それは、遙かに昔の誰かの手記
あなたの苦しみは今でも誰かが継いでいるのだとうっかり口を滑らせたらと
それが怖くて今日もカーテンを閉めるのです
私が何も示してしまわないうちに
私は夢から醒めるのです
第一章 一
墓の隣には、坂がある。何の不思議も無い。よくある話である。ラムネ売りと郵便局を兼ねた店主の媼が言う事に、坂は境界線の役目を持つ、だから坂を歩く時は気を付けろ、此方側と幽世の狭間に閉じ込められて迷ってしまう、その間に寿命は削られる、だから坂と名が付く場所では転んでしまうのは禁忌なのだと今世迄戒められているのじゃぞと。
そのような言い伝えは幼少期より聴き教えられてきて承知している。姫烏頭は店の軒先で叱言がましく小児等に話す臭い息を一瞥して苦笑した。
姫烏頭と言うが、花としての名ではない、この若き一人の人間、男としての名である。花の名を、しかも姫と語の付く名を借りたにしてはおっとりさとはかけ離れた若者で、唇こそ丹花の如き笑みを浮べてはいるものの、眦は鋭く二重に刃を研ぎ、白銀の鋭利な残月を滴らせる両眼、満月欠けゆく痕跡をありありと刻印したる夜空は一点の染みをも小虫をも見逃すまじき威と冷徹が濡々と輝く瞳は何人たりとも気軽に寄りつくことを拒んでいる。鼻筋清く眉は秀でて輪郭骨格ともに引き緊まった丈夫の相を湛えており、到底姫君とは縁遠い。
「おい、其処の子供達。」
姫烏頭は店前で婆の話を一心に聴く子等に声を掛けた。小児等は不意に話を遮った相手をぽかんと見上げ、婆さんも腰を伸ばして彼を見た。
「此の町は坂が多いからね、遊ぶ時や走る時は充分に注意をしなさい。君等の大切な人達を悲しませない為にもね。さあ、お行き。くれぐれも境内ではしゃいではいけないよ。」
怖い話を夢中で聴いていた直後だからであろう、子供達は姫烏頭に一礼をしてぱらぱらと走り去って行った。その姿を二人見送ると婆が大きな溜息を吐いた。
「折角これから面白くなろうと言う所でしたのに、お前さまはまた儂の邪魔をなさってからに。」
吐いた息に険は無く、軽く睨む視線にも気の置けなさが含んである。姫烏頭は折目正しい袴を汚さぬように気を付けて店棚の横にある椅子に腰を降ろす。着物の袂から扇を取り出し開くと己を涼ませ始めた。柄は朝日の山に白雀が雲を目掛けて飛ぶ絵であった。
「話ではなく子供の怯えた顔が愉快なのだろう。全く性悪婆さんだ。」
軽口を叩いてちらり見上げれば婆は破顔一笑ケタケタと。
「当り前よ。そのような褒美も無いのに土地のタブーを真面目に教えられますかい。どうせ学校では習わぬこと、どうせ親御達も斯様な知識には疎かろう。アイスクリンを買うた次手に一つ頭に叩き込んでやるのよ、その方が話甲斐がありますによって。」
「違いない。」
婆が笑って姫烏頭も笑う。暫く往来にはしゃがれ声と凛々しき声が小さく愉快に混ざり合っていた。蟬の鳴く音も聞えない。
二
姫烏頭にとっては土地のタブーは幼少期より耳に吹き込められたものだとは前述したとおりであるが、何故そのような境遇に在ったのかを説明しなければなるまい。だがこれと言って複雑な事情に因る訳でもなし、姫烏頭の父親が神職だったからである。
神職を預かる身、即ち神主と言うのがより分り易かろうが、神主だからと言って姫烏頭の実家が神社であったのではない。父親は昔高校を卒業して後神主の養成所に入り、修行を重ねたうえでその専門職を名乗ることを許された。本来、と言うか大多数の卒業生の進路は何處か一つの神社に常駐する形を取るものなのだが、姫烏頭の父親は一ツ所に収まることを良しとせず、自分の力が求められるのであればその都度現場に赴き祈祷をする、そのような姿勢の人間であったので、極
く極く少数派の彼は神職者が加入する組織との相性が良好ではなかったらしい。尤も組織との不和について息子に語ることは全く無かったので、あくまでも子供の目から見た印象、なのではあるが。
其処迄熱心な身でありながらも、父親は姫烏頭に後を継げとは決して言わなかった。後世の育成をする気はとんと無く、神主の仕事は自分の代で終わりにすると深く決めていたそうだ。その代り生きて行く上で知識・教養として備えておくと良い伝承や言い伝えについてはよく話してくれたので、姫烏頭少年は毎夜眠る前の寝物語を楽しみに、きらきらした目で聴いていたのだった。
老いた父親は天寿を全うして此の世を去り、次いで母親も深く愛する子との暫しの別れに涙を一筋零して幽世へと歩いて行った。年を経てから授かった子である一人息子は、成年前に両親を亡くすことにはなったが、その頃にはもう都会の会社への就職が決まっていたので、金銭で苦労はしなかった。祈祷や神事、祝詞とは無縁の一般企業であったが姫烏頭は満たされていた。
生れ育った町へ戻って来たのは、夏期休暇の為とよくある理由からだった。よく御参りへ行った神社へ参詣し、馴染みの婆と少し喋ると、彼は里帰り中泊まっているホテルへと向かった。実家は両親の遺言に従い、売却してもう更地になっていた。取り壊して土地として売れ、と念を押して書かれていたのだ。
部屋のベッドへ寝転がり、両親の意図を考えてみた。
恵まれていた、とは思う。両親との仲も良かったし、大学まで出させてもらえた。それに生活も困窮を極めていた訳でも無く、望むものを与え与えられる環境にはあったのだろう、と思う。家族に不自由も不満も抱いたことは無い。無いが、疑問は抱かずには居られない。
「何故実家を取り壊さなくてはいけなかったんだろうな。」
理由に関する明記は一切無く、只管に取り壊す事を念押ししたいた。温和乍らも威のある生前の面影を残す両親の言葉に子供は素直に応じ、実際更地になる日もその光景を見つめていた。懐かしい家が、と惜しむ気持ちとこれで良いと納得する意、寂寞と肯定が混ざり合った妙ちきりんな心境だったのを今でも憶えている。
「きっと隠し通したいものがあったのじゃろう。」
性悪婆はそう揶揄った。死体や出所不明な金が出て来るなぞと姫烏頭にほざいたが、土建屋達の悲鳴も驚嘆も鳴らなかった。お前の邪推は外れたぞ、と更地の前で一人クスクス笑ったっけ。
「此の土地が嫌いだったのかな。」
そもそも父も母も地域の出自ではない。父方は雪国の家系で、母方は南方の育ちである。何の縁故があって此処で居を構えるに到ったのだろう。理由理由と求むれど、頼りがあの婆一人では諦めざるを得ない、まゝならぬ世かな、なんて溜息をほうと吹いた時。
ちゅっ、ちぃ、ちい
部屋の窓越しに一羽のエナガが留まっていた。窓の棧を足場にでもしているのだろう、見掛けた次手にちらと空を見やると灰色の雲が兎のお尻のようにむくむくと湧いてきている。
「もうじき雨になるよ、此処ではなくって雨宿り出来る場所にお行き。」
瞬く間に降り出した。雲は最早可愛い兎の姿を潜め梟の如き眼を呈し容赦無く水を叩きつける。
ちゅっ、ちぃ、ちい
「早くお行き、もう濡れてしまっているではないか、ねえ。ほら早く。」
ちゅっ、ちぃ、ちい
声が少しか細くなった。
「あゝ、もう。」
錠を降ろし硝子を引く。エナガは拒んだが多少強引に掌で追うと部屋にぽとりと着地した。窓を閉めて錠も戻す。雨の間だけならばホテルの者にも悟られまい。
「見た目によらず頑固だね。」
さぞ濡れそぼって寒かろうと手巾で拭い包もうとすると、鳥のか弱い脚でなく、金字紺泥の背皮のぶ厚い表紙が横たわって此方を見ているではないか。本、と青年が声を出す間も置かず背表紙はスックと立って横向きになり、ようやく正面の顔を姫烏頭に示した。
表題の文字は刻まれず、その代りとある清廉たりし泉の水面下に沈む一個の金時計が銀鎖に繋がれている滲みの手法で描かれた絵画が一つ。
「画集?」
声を出すと書物は起用に宙返りをして流星一閃の内にエナガの姿に戻っていた。
ちい、ちゅりり、ちゅりっ
本と鳥は似ていると、父に教えてもらったな。言葉にも羽が植わっているから、気ままに目的のままに飛んでゆく。言葉は距離を保ってこそ本領を発揮する場合もあるのだと。遠くには聞こえる、近くには以心伝心。それが理想の言葉の伝え方だと昔テレビで言ってた時さ、父さんは時々肯いていたよね。
「その時俺どんな顔してたかな。」
エナガが机の上でまるまって眠ったのに吊られて、姫烏頭もベッドに倒れ込んだ。
それは、見たことの無いであろう記憶。なれど心には確と刻まれている記憶。勿忘草が莟を解いて花弁を外へ垂らす時、記憶は一つ一つ泉に雫され水面の下には搖らぎが戻る。
夢を見なくなったのは何歳の時からだったろう。幼い頃は怖い夢を見ては泣いて起きて、父と母に何度慰められたか分らない。物心ついた時には毎夜悪夢を見ていた気がする。しかもそれらの内容を目覚めても克明に憶えているのだから生活を送っていても何かにつけて怖い怖いと怯えていたっけか。端から見ればたかだか十数年程度の昔の話だけれど、自分にとっては遙かに遠い微かな名残である。
「なあ、君。」
朝日のシャワーを満遍無く浴びて輝くエナガはもう先に起きていて、机の上で首を右左に傾げながらまるっこい目で見つめている。
「名前、何て言うんだい。」
ちゅりり、ちゅっ、ちりり
「本に化けて教えてくれても良いだろう。」
ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ
「うーん、何が良いだろう。可愛らしい名前の方が良いのかな、それとも洒落た単語を付けた方が喜ぶのか?」
エナガ、エナガ、可愛いエナガ。やっぱり愛々しい見目に似合う名前の方が相応しいだろうか。
「プリンの上に乗っかったさくらんぼは、ちょこんとしていて可愛いもんな。」
桜桃と名付けられたエナガは、首を傾げるのを止めて、また一声鳴いた。
「じゃあ桜桃、俺は今から実家の跡地に行って来るから、おまえのご飯もその帰りに買って来るから、今は悪いが水を飲んでな。」
サニタリーの歯磨き用コップに一杯水を入れて机に置いた。桜桃はグラスの縁にひょいと乗ると嘴を水面に触れて上手に水を飲み始めた。
ちゅっ、ちゅっ、ぴちゅっ
「じゃあ行って来るよ。」
ドアの向う、姫烏頭は微笑んだのを桜桃は感づいていたのだろうか。それは、擦れ違いざまギョッとしたホテルマンの内心には到底察し得ないことだったろう。
「水仙」