「水仙」

「水仙」

境界線に、佇め。

 

 毎朝、夢を見るの。
 鉱石の輝きを極光のように搖らめかせて
 泉の下から手招きをする懐かしい水辺
 微笑みかけて 微笑んで
 涙を零せば同じ様
 水が心をいためれば
 波紋は一切消えてしまう。
 凪いだ姿は哀しみに
 じッと耐えているさまである
 同じ痛みを分かち合う
 それは、遙かに昔の誰かの手記
 あなたの苦しみは今でも誰かが継いでいるのだとうっかり口を滑らせたらと
 それが怖くて今日もカーテンを閉めるのです
 私が何も示してしまわないうちに
 私は夢から醒めるのです

第一章 一

 墓の隣には、坂がある。何の不思議も無い。よくある話である。ラムネ売りと郵便局を兼ねた店主の(おうな)が言う事に、坂は境界線の役目を持つ、だから坂を歩く時は気を付けろ、此方側と幽世(かくりよ)の狭間に閉じ込められて迷ってしまう、その間に寿命は削られる、だから坂と名が付く場所では転んでしまうのは禁忌なのだと今世迄戒められているのじゃぞと。
 そのような言い伝えは幼少期より聴き教えられてきて承知している。姫烏頭(ひめうず)は店の軒先で叱言(かごと)がましく小児等に話す臭い息を一瞥して苦笑した。
 姫烏頭と言うが、花としての名ではない、この若き一人の人間、男としての名である。花の名を、しかも姫と語の付く名を借りたにしてはおっとりさとはかけ離れた若者で、唇こそ丹花の如き笑みを浮べてはいるものの、眦は鋭く二重に刃を研ぎ、白銀の鋭利な残月を滴らせる両眼、満月欠けゆく痕跡をありありと刻印したる夜空は一点の染みをも小虫をも見逃すまじき威と冷徹が濡々と輝く瞳は何人(なんぴと)たりとも気軽に寄りつくことを拒んでいる。鼻筋清く眉は秀でて輪郭骨格ともに引き()まった丈夫の相を湛えており、到底姫君とは縁遠い。
「おい、其処の子供達。」
 姫烏頭は店前で婆の話を一心に聴く子等に声を掛けた。小児等は不意に話を遮った相手をぽかんと見上げ、婆さんも腰を伸ばして彼を見た。
「此の町は坂が多いからね、遊ぶ時や走る時は充分に注意をしなさい。君等の大切な人達を悲しませない為にもね。さあ、お行き。くれぐれも境内ではしゃいではいけないよ。」
 怖い話を夢中で聴いていた直後だからであろう、子供達は姫烏頭に一礼をしてぱらぱらと走り去って行った。その姿を二人見送ると婆が大きな溜息を吐いた。
「折角これから面白くなろうと言う所でしたのに、お前さまはまた儂の邪魔をなさってからに。」
 吐いた息に険は無く、軽く睨む視線にも気の置けなさが含んである。姫烏頭は折目正しい袴を汚さぬように気を付けて店棚の横にある椅子に腰を降ろす。着物の袂から扇を取り出し開くと己を涼ませ始めた。柄は朝日の山に白雀が雲を目掛けて飛ぶ絵であった。
「話ではなく子供の怯えた顔が愉快なのだろう。全く性悪婆さんだ。」
 軽口を叩いてちらり見上げれば婆は破顔一笑ケタケタと。
「当り前よ。そのような褒美も無いのに土地のタブーを真面目に教えられますかい。どうせ学校では習わぬこと、どうせ親御達も斯様な知識には疎かろう。アイスクリンを()うた次手(ついで)に一つ頭に叩き込んでやるのよ、その方が話甲斐がありますによって。」
「違いない。」
 婆が笑って姫烏頭も笑う。暫く往来にはしゃがれ声と凛々しき声が小さく愉快に混ざり合っていた。蟬の鳴く()も聞えない。

 姫烏頭にとっては土地のタブーは幼少期より耳に吹き込められたものだとは前述したとおりであるが、何故そのような境遇に在ったのかを説明しなければなるまい。だがこれと言って複雑な事情に因る訳でもなし、姫烏頭の父親が神職だったからである。
 神職を預かる身、即ち神主と言うのがより分り易かろうが、神主だからと言って姫烏頭の実家が神社であったのではない。父親は昔高校を卒業して後神主の養成所に入り、修行を重ねたうえでその専門職を名乗ることを許された。本来、と言うか大多数の卒業生の進路は何處か一つの神社に常駐する形を取るものなのだが、姫烏頭の父親は一ツ所に収まることを良しとせず、自分の力が求められるのであればその都度現場に赴き祈祷をする、そのような姿勢の人間であったので、()
 く極く少数派の彼は神職者が加入する組織との相性が良好ではなかったらしい。尤も組織との不和について息子に語ることは全く無かったので、あくまでも子供の目から見た印象、なのではあるが。
 其処迄熱心な身でありながらも、父親は姫烏頭に後を継げとは決して言わなかった。後世の育成をする気はとんと無く、神主の仕事は自分の代で終わりにすると深く決めていたそうだ。その代り生きて行く上で知識・教養として備えておくと良い伝承や言い伝えについてはよく話してくれたので、姫烏頭少年は毎夜眠る前の寝物語を楽しみに、きらきらした目で聴いていたのだった。
 老いた父親は天寿を全うして此の世を去り、次いで母親も深く愛する子との暫しの別れに涙を一筋零して幽世へと歩いて行った。年を経てから授かった子である一人息子は、成年前に両親を亡くすことにはなったが、その頃にはもう都会の会社への就職が決まっていたので、金銭で苦労はしなかった。祈祷や神事、祝詞(のりと)とは無縁の一般企業であったが姫烏頭は満たされていた。
 生れ育った町へ戻って来たのは、夏期休暇の為とよくある理由からだった。よく御参りへ行った神社へ参詣し、馴染みの婆と少し喋ると、彼は里帰り中泊まっているホテルへと向かった。実家は両親の遺言に従い、売却してもう更地になっていた。取り壊して土地として売れ、と念を押して書かれていたのだ。
 部屋のベッドへ寝転がり、両親の意図を考えてみた。
 恵まれていた、とは思う。両親との仲も良かったし、大学まで出させてもらえた。それに生活も困窮を極めていた訳でも無く、望むものを与え与えられる環境にはあったのだろう、と思う。家族に不自由も不満も抱いたことは無い。無いが、疑問は抱かずには居られない。
「何故実家を取り壊さなくてはいけなかったんだろうな。」
 理由に関する明記は一切無く、只管(ひたすら)に取り壊す事を念押ししたいた。温和乍らも威のある生前の面影を残す両親の言葉に子供は素直に応じ、実際更地になる日もその光景を見つめていた。懐かしい家が、と惜しむ気持ちとこれで良いと納得する意、寂寞と肯定が混ざり合った妙ちきりんな心境だったのを今でも憶えている。
「きっと隠し通したいものがあったのじゃろう。」
 性悪婆はそう揶揄った。死体や出所不明な金が出て来るなぞと姫烏頭にほざいたが、土建屋達の悲鳴も驚嘆も鳴らなかった。お前の邪推は外れたぞ、と更地の前で一人クスクス笑ったっけ。
「此の土地が嫌いだったのかな。」
 そもそも父も母も地域の出自ではない。父方は雪国の家系で、母方は南方の育ちである。何の縁故があって此処で居を構えるに到ったのだろう。理由理由と求むれど、頼りがあの婆一人では諦めざるを得ない、まゝならぬ世かな、なんて溜息をほうと吹いた時。
 ちゅっ、ちぃ、ちい
 部屋の窓越しに一羽のエナガが留まっていた。窓の棧を足場にでもしているのだろう、見掛けた次手(ついで)にちらと空を見やると灰色の雲が兎のお尻のようにむくむくと湧いてきている。
「もうじき雨になるよ、此処ではなくって雨宿り出来る場所にお行き。」
 瞬く間に降り出した。雲は最早可愛い兎の姿(なり)を潜め梟の如き(まなこ)を呈し容赦無く水を叩きつける。
 ちゅっ、ちぃ、ちい
「早くお行き、もう濡れてしまっているではないか、ねえ。ほら早く。」
 ちゅっ、ちぃ、ちい
 声が少しか細くなった。
「あゝ、もう。」
 錠を降ろし硝子を引く。エナガは拒んだが多少強引に掌で追うと部屋にぽとりと着地した。窓を閉めて錠も戻す。雨の間だけならばホテルの者にも悟られまい。
「見た目によらず頑固だね。」
 さぞ濡れそぼって寒かろうと手巾(ハンケチ)で拭い(くる)もうとすると、鳥のか弱い脚でなく、金字紺泥(こんじこんでい)の背皮のぶ厚い表紙が横たわって此方を見ているではないか。本、と青年が声を出す間も置かず背表紙はスックと立って横向きになり、ようやく正面の顔を姫烏頭に示した。
 表題の文字は刻まれず、その代りとある清廉たりし泉の水面下に沈む一個の金時計が銀鎖に繋がれている滲みの手法で描かれた絵画が一つ。
「画集?」
 声を出すと書物は起用に宙返りをして流星一閃の内にエナガの姿に戻っていた。
 ちい、ちゅりり、ちゅりっ
 本と鳥は似ていると、父に教えてもらったな。言葉にも羽が植わっているから、気ままに目的のままに飛んでゆく。言葉は距離を保ってこそ本領を発揮する場合もあるのだと。遠くには聞こえる、近くには以心伝心。それが理想の言葉の伝え方だと昔テレビで言ってた時さ、父さんは時々肯いていたよね。
「その時俺どんな顔してたかな。」
 エナガが机の上でまるまって眠ったのに吊られて、姫烏頭もベッドに倒れ込んだ。

 それは、見たことの無いであろう記憶。なれど心には(しか)と刻まれている記憶。勿忘草(わすれなぐさ)が莟を()いて花弁を外へ垂らす時、記憶は一つ一つ泉に(こぼ)され水面(みなも)の下には搖らぎが戻る。

 夢を見なくなったのは何歳の時からだったろう。幼い頃は怖い夢を見ては泣いて起きて、父と母に何度慰められたか分らない。物心ついた時には毎夜悪夢を見ていた気がする。しかもそれらの内容を目覚めても克明に憶えているのだから生活を送っていても何かにつけて怖い怖いと怯えていたっけか。端から見ればたかだか十数年程度の昔の話だけれど、自分にとっては遙かに遠い微かな名残である。
「なあ、君。」
 朝日のシャワーを満遍無く浴びて輝くエナガはもう先に起きていて、机の上で首を右左(みぎひだり)(かし)げながらまるっこい目で見つめている。
「名前、何て言うんだい。」
 ちゅりり、ちゅっ、ちりり
「本に化けて教えてくれても良いだろう。」
 ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ
「うーん、何が良いだろう。可愛らしい名前の方が良いのかな、それとも洒落た単語を付けた方が喜ぶのか?」
 エナガ、エナガ、可愛いエナガ。やっぱり愛々しい見目に似合う名前の方が相応しいだろうか。
「プリンの上に乗っかったさくらんぼは、ちょこんとしていて可愛いもんな。」
 桜桃と名付けられたエナガは、首を傾げるのを止めて、また一声鳴いた。
「じゃあ桜桃、俺は今から実家の跡地に行って来るから、おまえのご飯もその帰りに買って来るから、今は悪いが水を飲んでな。」
 サニタリーの歯磨き用コップに一杯水を入れて机に置いた。桜桃はグラスの縁にひょいと乗ると嘴を水面に触れて上手に水を飲み始めた。
 ちゅっ、ちゅっ、ぴちゅっ
「じゃあ行って来るよ。」
 ドアの向う、姫烏頭は微笑んだのを桜桃は感づいていたのだろうか。それは、擦れ違いざまギョッとしたホテルマンの内心には到底察し得ないことだったろう。

 故郷(ふるさと)。と言いたくなるほど此の土地に懐かしみも執着も抱えてはいないので、町並みが幼少期と比べて変ろうとも特に何の感慨も無い。両親の墓も此処には建てず、今自分が住んでいる部屋に遺骨と写真を置き、毎日の花と相似を欠かしていない。実家の在った地域、もはや姫烏頭にとっては直接的な繋がりはそのくらいなもので、いくら夏季休暇だからと言って戻る必要も無い、むしろ今の家に居た方が盆らしいのだが。最初は毎年そうしているように、戻る予定など無かったのである。しかし、一通の手紙が青年を再び此の場所に呼び寄せた。それは、差出人の無い女性からの葉書であった。
 ――貴方の伯母にあたる者です。決して邪な念を抱いて貴方へ手紙を出したのではございません。信じてくださるのであれば、〇月□日、ご実家の近くにあります神社の境内でお待ちしています。――
 内容はそれだけであった。

 会いたいと指定された日は丁度休暇の真ン中にあたっていた為、そんなら一層のこと数日泊まってしまおうと思い立ち、今に到る訳である。そして明日が約束の日なのだ。待ち合せ場所の神社の宮司に見慣れぬ女性は来なかったかと訊いたが、来るのは地域の人間だけで知己の者しか来なかったと言われた。差別をする訳ではないのだが、あの筆跡は此の土地の者とは少し、否だいぶと離れた美しく寂しい手であった。今でも相手を確かめる為に革鞄(かばん)には入れてはきたが。
「姉妹がいたとは聞いていないな。」
 母には姉弟が多くいたが、父から身内の話は出なかったので、てっきり一人っ子だと考えていたが、どうやら違っているらしい。
「会わせたくない理由でもあったのかな。」
 誰にだって明かしたくない事実はあるもの。また神社に来て、境内にある木の椅子に腰掛ける。
「おや坊ッちゃん。」
 朝の掃除をしている宮司に呼び止められた。両手で握る竹箒は幾度もあちこち修理されてきたのだろう、色が所々変わっていて、何も知らない者が見れば小洒落たパッチワークデザインの其かと見ゆるかもしれない。
「宮司さん。」
「また、例の女性をお探しに来たので?」
「貴方の方がずっと年上なのに、僕みたいな若輩に敬語を使わなくッても良いですよ。」
「いゝえ何を申します。神主が人への礼儀を欠いて神々に仕えられる道理はありません。この権六(ごんろく)、例えお相手がお子様でもお偉方でも取る態度は同じ、まして貴方のお父上には随分お世話になり申しましたから、敬語を使うのを止められはしませぬよ。」
 権六爺さんは氏子からも慕われている人格者だ。だからこそ姫烏頭は自分のような者に敬語を(しん)から使われることがむず痒いのだが、温和なようで存外頑固、特に道理に関しては正しきを曲げようとはしないお人、此の爺さんは旧友にもこのような姿勢で話すのだ。
「貴方が此の地域に居てくれているから僕は心強くもあるのですよ、何て言っても思い入れの深い土地とは言い難いので、誰か縁故の頼りが無いと今回も戻る決心は付かなかったと思います。」
「そのようなお言葉を頂けまして、私は幸せ者ですな。有難い言葉でございます、このような枝切れの如き身でも誰かを支え得る杖になれますとは。」
「相変らず謙遜な方でおいでなさる。時に、宮司さん。私の父の話なのですがね、姉か妹が居たと言うのは御存知でありましたでしょうか。」
「お父上は貴方と奥様の話はようされましたが、ご自分の出自については多くを語りませんでした。ただ…一度だけ、尤も些細な内容ではありますが、ごきょうだいについて言及されたことがありました。」
 姫烏頭が身を乗り出したのは言うまでも無い。
「何、何を言ったのですか、父は。」
「修業時代のことでありました。一日(いちにち)(ぎょう)を続けている若者にとって週に一度、学校周りの散策は待ちに待った娯楽でしてな。私はあまり乗り気ではなかった引込思案でしたが、お父上に手を引かれて近くの植物園に参りましたよ。その時擦れ違ったお客の中に双子の姉妹がいらっしゃいましてな、微笑ましう手を取り合って若草、花々の中を歩いておられる姿は異国の妖精のようでございました。お父上もてっきりそう思われてお二人を見送ったのかと思いましたが、違いました。一言、呟きになられたのです。
(きょうだいの手は、離したくないものな。)
 聞いた時は双子のことを仰有っているのかと思いましたが、今思えばご自身のお身内に関する言葉であったのかもしれませぬ。それ以来きょうだいに関する話は一言もなさりませんでしたが。」
「やはり、本当に伯母上がおられるのかもしれない。明日が待ち合せの日なのです、事前に姿を現わすことももしやあろうかと思い数日参詣の後にこうしてぼんやりしている訳なのです。」
「明日の何時頃ですか。」
「時間の指定は何も…ですから一日(ひねもす)待つ心算(つもり)です。」

「桜桃。」
 小鳥は本の姿になっていた。折角鳥用の()を買って来たのだが、と少しだけねぢける。
「表紙に何の文字も刻まれていないのは何でだろうな。」
 背中には金色の文字がしたためられてはいるが見たことのなさそうな文字だった。もしかしたら文字ではなく模様なのかもしれぬ。
「おまえの正体も分らないし、伯母上がいつ来られるのかも分らない。いるような気はするが実在しているかも定かではない。ないないづくしで呆れちまう。」
 苦笑して昼ご飯を袋から取り出し弁当を食べ始めた。まずは清涼剤(きつけ)として腹を膨らまさなくては。考えられることも考えられず、とッちたことばかりしてかすだろうから。姫烏頭が食事をしている間、本は居眠りするかのように日向にぽかぽかと当たっていた。
 昼食から一時間半は過ぎたろう、自分の家から持って来ていた文庫本を読み進めていたが、うつらうつらと瞼が垂れてきてしまう。夏の暑気にやられたか、と外を歩いて疲れた身体をベッドに横たえ、瞳を閉じた花の(かんばせ)は眠りに就く。
「どうしたの。」
 再び開いた冷泉の瞳は花畑の真ン中に居て数度驚きにしばたいた。桔梗、萩、女郎花、曼珠沙華に芒の穂、正しく秋を代表する花々方(はなばながた)を囲うように縁取るのは青々と繁茂し天へと(おとがい)を迷わず伸ばす樟の大樹達であった。夏と秋が迷子になったような場所で、姫烏頭は再び目を覚ました。夢であろうか、いいやそれより今は。
「どうしたの。」
 二度声がした。同じ台詞、同じ声。辺りをぐるりと眺むれど人影らしき姿も見えず。それでも声は彼を気遣う。
「驚いているの。」
「君は誰なんです?」
「貴方は姫烏頭。知っている。」
「いや、俺のことじゃあなくて。」
「知っている、知っている。貴方のことを知っているのよ。」
「…如何して俺のこと知っているの?」
「だって雨の日、部屋に入れてくれたから。」
 ちゅっ、ちゅり、ちゅりりと口真似る声、よく似ているのも当然だ、人の声真似と言うレベルではない、実際に小鳥が囀る声。
「では君は桜桃なのかい?」
「そう。桜桃、貴方が()れた呼び名。」
 質問をすると小鳥は歌から忽ち変じてまた元通り人語を操る。
「桜桃。姿を見せてくれないのは何故?」
「貴方は夢の中に入ったことが無いの。」
「いや、そんな特殊能力は持っていない…」
「特殊じゃない。ただ傍で眠るそれだけ。そうすれば生物は相手の夢へ訪ねることが出来る。」
「俺達人間には真似出来ない自然の摂理だな。」
「人間は、出来ない。夢に踏み込めない。」
「桜桃に目で逢えないのも、人間の知らない君等の常識?」
「ふふ、ふふふ、おもしろいのね姫烏頭。先刻(さっき)から質問ばかり、知らないことだらけ、可愛(かわゆ)いね。」
 他人が自分の顔を見ると目を避けられてばかりなのだ。到底(とうてい)可愛(かわゆ)いと評される顔立ちではなかろうに、無邪気な声は御機嫌だ。
「可愛い子だから教えてあげる。それに知らないまゝは不安でしょう。あのね、夢の中に入って来た時、入った方はお客様、夢の中に招いたのは家主。本来なら家主は来客をもてなすものなのだけれど、夢の中江は活動時の習慣(ならわし)は意味が無くなってしまう。家主の夢に居る間、お客様は家主の声しか聴こえないの。目視することが一切叶わない。」
「成程。起きている時みたいに振舞おうとしても、夢の内ではそれは出来ないってことか。こうして君と話せるようになったのは正直助かったが、相手の顔を見て話をしてみたかったな。」
 お互いに言葉が途絶えた。互いに喋りっ放しで些少は疲れが見えたのか、三分間ほど姫烏頭も桜桃も黙りこくっていた。
「夢なの。」
 息を整えた桜桃から話し始めた。
「貴方に夢をね、旅してほしいの。」
 それはどうしてと問う間も無く桜桃の声は続ける。
「私の夢は、過去の記憶。けれど私自身は自らの夢を旅することが出来ないの。本は自分で頁を捲られない。だから貴方に。」
「君の過去に潜って、俺は何をすれば良い?」
「早くしないと明日の旭が出てしまう。月夜には戻って来られるように、気を付けて。」
「一寸、」
 制止の言葉も発しきれぬまゝ、姫烏頭はポンと空へ仰向けにされ、背中を地面に預けた状態でバラバラと雨粒をもろに浴びる。先程迄晴れていた(へき)の空模様はすっかり漆の雨粒へと刺繍()われていた。身体を起こすと手元足元に咲いていた秋草達は影も見えず、代りに焦げた土に黒い影のような塊が点々(ぽつぽつ)と染みており、樟ではなく鉄塔が四方八方に頭の向きも定まらず転がっている。人の声も、物音も、何もしない。しかし掌を数度地面に擦り付けると砂利の動く轢音がした、その震動も感じ取られる。
「誰かを待て、と言う指令でもなさそうだ。」
 何せ旅をしろと求められた。じッとしていることを望まれてはいないのだろう。夢の中だと言うのなら何が起きようと不思議ではない、姫烏頭はこのような経緯に至った理由を深く考えるのは一旦置いておいた。
「若しかしたら父さんに関する何かを見つけられるかもしれない。」
 現実ではまだ正午を少し過ぎたくらいであろう。晩ご飯までには戻らなくてはならないそうだ。
 何方が北かも分らないが、北だと思う方角へ足を動かす。姫烏頭青年は長い午睡の旅を開始した。

 灰色は、好きな色であった。昔に可愛がっていた近所のお婆さんの飼っていた兎の色。お婆さんは昔社長令嬢で、いつも動物達と暮らす生活をしていたのだとラムネ店の性悪婆から聞いたことがある。ああいう類の人間は貧乏人を人と思わぬ節があると性悪の方は言っていたが、兎のお婆さんは誰にでもおっとりと優しかったので、或日父親に訊いてみると、姫烏頭の父は笑い乍ら教えてくれた。ランドセルを背負(しょ)ってきょとんとした顔の坊主頭を撫でて言うことには、心の貧しい者を貧乏人と呼ぶのだと。
(だから性悪婆さんは兎のお婆さんから優しくしてもらえないんだ。)
 兎のお婆さんが愛兎と一緒に息を引き取った後、お葬式に入られないのはラムネの性悪婆さんだけだった。
 灰色が好きだからと言って、黒なんかはどうなのさ、と追及されても全く困るもので、自身の好きなものと密接に結わえられていなければ関心興味は湧かないのである。だからこそ姫烏頭は黒い景色が続く眺めにはそろそろ気が滅入りそうになってきていた。
「昔話で例えたら、そろそろ一ツ家の明りくらい見えて来ても良さげな頃だろう。それとも全く知らない土地なんだろうか。」
 夢なれば、の常識は今適用されず、夢だが触感の生きている世界の内をただ歩き続けていれば、お腹は空き脚もくたびれる。いくら体力のある身とは言え二時間ばかり只管に当て無く歩き続けていれば彼とて疲れてしまう。
「実際どれくらい歩いたろう。感覚では二時間は過ぎたような手触りだが、此処と現実世界では時の流れ方は同じなのかな。」
 喉の渇きを覚え、近くに小川か湖はあるまいかと周囲を見渡す。すると、足先にひたりと沁みる気配があった。水かと期待し指で掬い口元に近づけると、苔蒸した深川鉄の匂いがした。
 途端に灯が点いた。姫烏頭の遙か頭上、星の一つから煌々と光を(とど)めた一本の縫糸が垂らされると、彼の近辺は急に光の反射を思い出し、不要な類の色を捨て去って眼前に鮮やかに現れた。地面に点々と染みの如く認められたのは、(いず)れも残らず人であった。人間が、確かに其処に居て、その直後焼かれた痕。痕跡の上に雨水が溜まり水を欲して歯朶類が根を張ったので、青臭さと生臭さの入り混じった匂いと化したのだろう、この恐るべき人型の苔は地面のあちらこちらに倒れている。
「これは…」
 姫烏頭が絶句していると声がした。
「それは、戦争の記憶。私を育ててくれていたお家が、街が土台から焼かれた時の記憶。」
 桜桃の声の調子は、言うまでも無いであろうか。
「街は頭から爪先まで焼き尽された。この出来事を大いなる破壊と讃える者達が澤山居ることも、知っている。産みの苦しみと捉える者達が多いことも、私、知っているの。」
 神話では多い展開であるのは否めない。前時代の神の骸を苗床に現代に繋がる人間の祖が育っていく姿は。確かに生命は生きている、けれど、これは。
「大量虐殺の痕に何が生まれるって言うのだ。」
 こんなの…と言いかけてその場にしゃがみこみ、痛む頭を片手で押さえ、もう一方の手は我身を抱きしめるような形で震えている。彼の状態を見兼ねたか、声は前向きな言葉を紡いだ。
「私は大きな傷を負った。けれど今では時折、痛むだけ。その程度にまで回復したの。多くの人が殺された街を諦めなかった。……皮肉ね。戦争の後に団結して平和を望み築き上げていくなんて。」
 ポソリと呟いた最後の方の言葉は低すぎて、人の耳には風の唸り声にしか認識出来なかった。
「姫烏頭、次、次を見てほしい。一番最初に歩いてほしかった所ではあるけれど、次はきっと、馴染みのある光景だから。」
 声で物理的に背中は押せない。動かすかどうかは結局本人が決めるのである。声援を受けて己を奮い起こすのか、耳を塞いでジッとしているかを選ぶのは。姫烏頭は耳は覆わなかったけれど、奮い立つことはしなかった。桜桃の声を聞き乍らも膝を付き、大いなる破壊の引き摺っていった尾の跡をぼんやり眺めている。
「姫烏頭!」
 手が伸ばせられたのなら懸命に伸ばしていたことだろう。だが苔の地面に膝から下半身から胴体から沈み始めた青年を引き止めようとする手は此処には存在しない。
 とぷり
 最後頭の先が沈んで見えなくなると、星の糸はするすると元いた場所まで格納され、最後の一巻きを終えた直後、また大地は暗くなった。

 これが何處の、何時(いつ)の戦争か判然(ハッキリ)とは分らない。だが復興が、新たな文明が彼處(あそこ)から誕生し育まれたとしても、土台は死である。バランスの悪いおもちゃをどんどん積んでいくのと同じだ。いつまでも死臭は背後霊となって纏わり付く、発展など、とんだ偽善・独善ではないか。
 とぷり
 これまでの生活が虚ろに思えて来た時、彼は空中に放り投げられていた。
「え?」
 沈んだ先が、空?
 天地と書いてあめつちと読むとおり、天と地は別々に分けて考えられるものでは本来無い。空からもたらされた雨が大地に沁みて循環を繰り返してまた空に戻る。大地を潤す川・泉なども水滴達も天に昇り雨と化しまた大地に戻って来る。即ち天地は水糸を通せば表裏一体背中合せの別側面と言えるのである。なればこそ、何處かの空は何處かの大地と繋がっており、土に溺れる者は空から降る、斯様な珍妙且つ当然の摂理が働く訳で。
 空から落ちる、と言うのは初めての経験であった。しかし今のんびりとその感覚を味わっている場合ではない。夢の中、虚空に居る者が取る動きは当然、両腕を羽のように動かすこと。姫烏頭は逆しまに落下しながらも腕を地面と平行に伸ばし、颼々(しゅうしゅう)と両液に流るゝ冷たい風の剝き身の刀身を感じつつも、その目に先刻のような迷いの銀色は一片とて無かった。
 死んでたまるか
 その懸命だけを央に据え両腕を力一杯振り上げる。すると下向きになっていた身体は腕を動かした一煽りの勢いで体制を整え頭を上に、さながら空に立っているように直立の懐かしい姿勢となる。一度起き上がった身を前方に傾け今度は全身が大地と平行になる形を保ち、両腕を二回三回、羽ばたかせた。すると身体は落下を止め、飛翔の姿勢を姫烏頭に与えた。成功だ。姫烏頭は夢の中で鳥達のように羽ばたき飛んでいるのである。
「飛べている。」
「姫烏頭!」
 彼が驚きと歓喜を凝縮した声で呟いたのと、桜桃の声が彼を呼んだのはほゞ同時であった。
「姫烏頭良かった、動けている。」
「桜桃、かい?」
「あのまゝ動かないで落ちてしまうかと思った。でも飛べているから安心した。」
「済まないね、心配させてしまって。」
 飛び方のコツを覚えたか腕を左右真直ぐに伸ばして上昇気流を掴み推進力とする。その瞳は初めて会った時と変らなかった。それまで曇っていた眼下の視界が霧払いされたかのように輪郭を描き直し、色彩を以てして姫烏頭に呼び掛けた。
「あれは、町?俺の住んでいた地域よりも大きいものだな。」
彼處(あすこ)は、楽しい町。毎日お祭りが日替わりで開催されている祈りの町。」
「祈りの町とは?」
「降りてみたら分る。」
 徐々に徐々に高度を下げ、地面に緩やかに着地する。土は明るい焦茶色、南瓜やカブのようなお面を被っていない人間は姫烏頭のみ、皆ドレスにタキシードを白く纏ってくるりくるりと手を取り合い踊っている。町の建物のレンガ造りに静かな笑い声と息づかいが吸い込まれて、サイレント映画を眺めているような、そんな光景であった。
「年中祭りをしているから賑やかなのかと思ったけれど、正反対の様子じゃないか。今日のこの祭りだけがこんななのかい?」
 自然と声量も抑えがちとなる。しかし思い返せば此処は夢。他人に話し掛けたところで気付かれなさそうではあるけれど。ましてや桜桃の記憶である、辻褄が合わなくなる空間でもなさそうで。案の定、夢の主は笑っていた。
「周りに合わせようとしなくて良いわ。貴方が居るのは私の過去の記憶。感じ取ることが出来るけれど干渉することは叶わない。」
「その割に結構干渉している気がするが。」
「沈んだのも飛べたのも場面の転換に必要なだけ。でも、そうね、意思ある舞台装置とでも言うべきかしら?」
「機械に例えられたのは初めてだよ。」
 苦笑していると、祭りの参加者達の装いがパッと藍色に一変した。
「今度は祈りを捧げる色が藍色へと変わったんだ。」
 先に桜桃に答えられた質問を放り乍ら踊る人々の仮面を見る。ちらりと除く口元は寸分違わぬ微笑を歪ませること無く、静かに静かに祈り続ける。何となく、心地が良い。尤も、先刻迄居た空間に比ぶれば、かもしれないが、それを勘定しても、此処は今姫烏頭にとって安心出来る場所であった。
「もう少し、此処で見ていたい。」
 地面に三角座りをして休む。翻る町民達の服の裾が、手巾(ハンケチ)を振っているように見えた。

 祭りは朝日の出、正午、月の入りの計三度、色調が翻る時が来る。色の変化自体に決まりは無さそうだが、色を変える時には全員が漏れ無く色を同時に変えるのは決まり事らしく、町民達は秩序を乱すこと無く踊り続けていた。今度は半色(はしたいろ)
「此処は色に祈りを捧げているように見えるが、色彩を讃える為の祭りなのかな。」
「よく休まったみたいね。そう、色への感謝、此の町の人達は、色そのものを神々として捉えていた。」
「なら、最も位の高い色はやはりあるものなのかね。」
「そういうのは、無い。あらゆる色があらゆる神様。何かを司る神様が全色にそれぞれ含まれているのだと考えるから、唯一神・絶対神の概念は無い。」
「よく知っているね桜桃は。」
 少しずつ饒舌になってくる桜桃が嬉しい。褒められて彼女の声も嬉しそうに感じる。此処は一番見てほしい所だと言ってくれていた気がするし、桜桃の記憶の中でも最も楽しく痛みの無いものなのかもしれない。
「此処の人達は、君に良くしてくれたのかい。」
「居心地はとても良かった。私が空腹を囀れば上等な豆を呉れたし、喉が渇けば綺麗でおいしい水を呉れた。歌を奏でれば褒めてくれたし、争いが起こった(ためし)も無い。」
 まさに楽土、と称するに相応しい町であったろう。けれど理想郷と彼女は言わなかった。言う直前で口を噤んだ。この感想は、姫烏頭には分らないと思ったからである。でも、自分の過去を旅してもらっている以上、隠し事は露見し白日に晒されるであろう、善悪の問題ならず、意味の有無の問題なので。
「…黙っていても(いず)ればれてしまうから教えるけれど、私は此処を楽園と呼べなかった。」
「君にとって良い町で、平和がずっと続いている、綺麗で優しい町なのだろう?理想郷と言えない気掛かりなんて一見無いように見受けられるが。」
 姫烏頭は丁度此時一人の女性の踊る姿を正面から見ており、桜桃に話した内容は正直な気持ちだった。本当に、理想郷と呼んで良いであろう。空もこんなに澄んで、と月昇る夜空を仰いで見た時。
 黒の染み、生きたまゝ焼かれた人間の痕、
「あッ!」
 魂消る青年の心には、一番最初の土地の記憶が呻いている。
 楽園では無い、此処は後悔の町なんだ。絶えず移り変るものに祈りを捧げ、自分達の身体に刻み込む為に踊り続けている。他者を慈しみ愛しく思うことは、過去の償いの為。あゝ此の町は、絶えず移ろう世であることを忘れたがゆえに戦争と言う手段を講じてしまった歴史を忘れない為に踊り祈り後悔し続けている。移ろいの世に在り乍ら絶対的なものを求めた行為を悔んで悔んで、二度と誰もが忘れること無きようにと修行をし続けているのだ。
「桜桃、此の町は楽園では無かったね。楽園とは現実に赴くことの出来ない場所のことを指すのだろうから。」
「……気づいたの?」
「戦争後にさも復興したように目では見えても、心は同じじゃない、当然さ、器官が別々らしいんだから。心は永遠に息をつけない、戦争をしたことへの後悔がずっと拭えないから、戦争をした事実は消すことが出来ないから。…此処の人達は、戦争が起り得ない状態を全身に刻むのに必死なんだ、それで、そんな我身を恥じて仮面を被る。そうしないと怖くなってしまいそうなんだろう、罪業が総身に彫られた己の姿を見せるのなんて。…怯えている、怯えているんだ人々は。戦争を許した自分達に、ずっと。」
「だから一生踊り続けていた。踊りは祈りの手段の一つだもの。」
「理想郷とは程遠い、まるで現実だ。」
 祈りも空虚にしてしまう。最早色の移り変りにだけ目を向けて、その色にはどの神が宿っていたのかなど町民達は憶えていないだろう。何色でも良いから変遷を想起させるような動きをしていれば、と。
「俺は、始めの土地から動いていないようだ。これは、夢をあちこち旅するものと聴いていたが、桜桃、君は俺に何を望みたいんだ?」
「私は故郷を救いたいの。」
「えっ、故郷ッて…?」
 まさか、否変身出来るエナガなぞ自分達の文化圏には見られない生物だ。迷い無く答えられて動搖したのは姫烏頭の方。
「私の故郷は夢の中。戦争を起こした場所も、怯えて暮らしている場所も私の故郷。桜桃と言う愛らしい名前を付けてくれて、有難う。そう言う所は兄さんにそっくりね。」
「兄さんとは…え?まさか。」
 町の踊りはピタリと止まり、絵画となった。まだ身動きの出来る姫烏頭の目前に、一人の少女が現れた。
 極光の輝きを背中に搖らめかせ黒のレエスワンピイス品良く着こなす身を包むように胸の前で光を羽のように交差させた恰好は、蛾の女神であろうかとくらくらさせる。落ち着いた顔立ちに少しふっくらした丸い顔、その輪郭には既視感がある。それに、黒に菫が咲く穏やかな瞳にも。
「父さんも、同じ()をしていた。」
「兄妹だから、似たのでしょうね。」
 にこりと唇辺(しんぺん)に笑みを湛える。とても少女のものとは思えない優しい威があった。
「では、貴女が、伯母上…」
「えゝそうよ姫烏頭。大きくなったのね。」

 姫烏頭の父、竹一(たけいち)には三歳下の妹が一人居た。霧舟(きりふね)と名付けられたその少女には、生れた時から使命があったと言う。それは、夢の番人となること。夢の番人と名だけ聞けば随分とファンシーなように感じるが、その実過酷な運命を負うものである。
 そもそも夢とは何ものであろう。眠る時に見るもの、それは夢である。過去の記憶、これも夢である。心に思い浮ぶるものは凡そ夢と称されるのに、馴染みにくさは薄い筈。しかし竹一・霧舟両人の生家では、分り易い意味ともう一つ、聞き覚えの無い意味も含めて夢を定義していたのだった。それは、夢とは色を指すと言う内容だ。今度は竹一家での色の意味を説明しなくてはならぬ。
 竹一の生れ育った家は代々神職を務めとしてきた系図である。竹一の世代になってこそ世間は神主を認知していたが、彼等が幼いころには神職は一般に知られておらず、その為受容の土台も無かった。戦前、神社はまがいものを重要視する狂気の場所だと、信仰心の捨てられていた時代の(つゆ)正面(まとも)に浴びた場所であった。人の力が過剰に信じられ託されていた時代であったので、祈りは人を信じない輩の愚行だと考えられていた。世間から袋叩きに遭わされても、竹一の一族は神主で在り続ける姿勢を崩しはしなかった。竹一少年と霧舟少女にとっては、両親の信仰心ゆえと信じていたのだが、実際彼等の両親は其処まで強い人物ではなかった。両親は神々ではなく自分達の復讐心を強く信じていたのである。
 いつか我々を虚仮にした者共への罰が下されるように、いつか我々一族が日の目を見、侮辱し貶してきた奴等を見下せるようにと、両親の呪詛の言葉を聞き乍ら二人は育ったのであった。堅固で歪んだ信仰心は、子供二人をそれぞれの任から外すことなど認め得なかった。一人は現実世界で、もう一人は幽世(かくりよ)の世界での使命を与えたのだ。
 竹一の家で、夢とは幽世の世界、彼岸側(あちらがわ)での力のことを指し、現実世界、此岸側(こちらがわ)に光を与える力だと考えられてきた。そして、彼岸側の住民になることは誰しも平等に与えられた権利ではあるが、其処を守る者は女でなければならないとも考えられてきた。男は神々に談判することは出来るが、神々の助力をすることは出来ないとされているからだ。特に、死を司る神は女神であり、大の男嫌いだと記された神話に忠実な所為もあり、夢の番人は女性でなければならないと両親は折れなかった。だから一人娘をトリカブトで毒殺することに躊躇いは無かった。竹一が小学校から帰って来た夏の日のことであった。

「その日から少し前、風邪をひいてしまって。だから外の人からしたら私は風邪をこじらせて死んだの。でも、本当は違う、殺されたんだと知っていたのは兄さんだけだと思う。」
 表情に一切のぶれも示さず穏やかに話す少女の言葉に姫烏頭は愕然とした。親が子を殺す、そんなことが。
「物心つく前から教えられてきたことだから、善悪も恐怖も感じなかった、考えることは無かった。兄さんも私も「あゝそうなんだ」って思っていた。でも、お別れを言えなかったのは正直心残り。此処から見えてはいたけれど、手を取り合えない寒さはこたえるもの。」
「ずっと見ていたから、俺のことも知っているの?一度も面識は無いのに。」
「兄さんが私のことを一度たりとも忘れたことが無いから、私は貴方達を彼岸側(こちらがわ)から見守り続けることが出来たの。」
 霧舟の長い髪の毛は星纏う黒雲のようにふわりと微風(そよかぜ)にたなびく。
「風が出て来た。もう此の町とはお別れしなくては。さようなら、祈りの町。姫烏頭、行きましょう、次の場所へ。落ち着いた場所で、或程度の質問には答えてあげられるから。」
 成人した甥ッ子の手を取る少女の伯母に引かれて、姫烏頭は足を動かした。
「次は、どの夢に?」
「今度は境界線に向かう。旅は一旦ストップだ。」
地面のマンホールの蓋をからりと取り払うと、手を繋いだまゝ霧舟は一直線に落下した。姫烏頭の叫び声は大きくやがて少しずつ細くなり、後には何も聞えなくなった。重い蓋は辻褄を合わすかのようにひとりでに閉められた。

 現実世界よりも、夢の世界での方が長く生きている。だから此処を故郷だと言った。けれど、やはり気掛かりなのは兄のあの時の表情。冷えきった私の亡骸を見て、一筋零した涙の顔。取り乱しも叫びもしないでじっと黙って私を見つめていた顔は傍目には無表情に映ったろうけれども、私には寂しさをいっぱい湛えた顔に見えた。

 天と地の間は、水面であった。樹木も草花も見当らない、かと言って砂漠みたいに荒涼の空間ではない、似ている例を挙げるなら、硝子瓶の内側の光景だろうか。風も吹かず細波(さゞなみ)も起こらない澄んだ水面に、二人は半身を浸していた。
「此処は…?」
 隣に居る霧舟に声を掛けた心算が、音は予想以上に反響して、自分でも何を話したか単語を聞き取れない。
(此処での話し方は、声を出さないこと。心に言葉を思い浮べるだけで相手に伝わる。)
 霧舟の声が耳の奥で谺した。清涼剤(きつけ)の清流に濁流していた意識は洗い流され、戸惑いは軽くなり深く息が出来るまで落ち着いた。
(先ず、貴女が何者なのか、改めて確認しておきたい。貴女は父の妹、なのですよね。)
 彼女は頷く。
(では、桜桃は?自分が可愛がっていたエナガも、貴女が姿を変えていたものですか。)
 もう一度。
(お名前は。)
(好きに呼んで構わないよ。桜桃のまゝでも良いし、伯母さんと呼んでくれたって、本名の霧舟でも。貴方が呼び易い名で呼びなさいな。)
(その見た目で伯母さんと呼ぶのは少し抵抗があるや。)
(子供扱いしないの。私の方が貴女より年上なのよ。)
(成長は亡くなった時の姿で止まっているんじゃあないの?)
(幽世ではその人の一番幸せだった時間の見た目が固定されるの。まあ、子供時代の記憶しかないから死んだときのまゝに見られても文句は言えないけれど。)
(自分で姿を選べる訳ではないの?)
(見た目はどうしようもないみたい。私が彼岸側(こちらがわ)で目を覚ますと、もうこの恰好だったから。)
(ふうん…)
(他には?何が知りたい?)
(いっぱいあって何から訊こうか迷うんだ。)
(それなら一つ、物語を聞かせましょうか。)
(貴女の、物語?)
(いゝえ、夢の世界についての御話。断片的には教えたけれど、その表情(かお)の様子だと或程度の全体を把握しきれていなさそうだから。)
 言い返せなかった。無理もなかろう、昼寝をしたら旅をしろと言われて夢の世界を救いたいだの伯母であるだのけれど見目は()められているだのと告げられて、直ぐにはいそうですかと飲み込める人間は稀であろう。これまで平静を装って来た姫烏頭の顔には疲労の色が濃く見える。脳内で情報が整理しきれていないせいだ。
(此処は休憩場所のようなものだと捉えてくれたら良い。少し旅のくたびれを癒しましょう。)
 そう微笑んで、霧舟は歌い始めた。

 昔々渦があった 渦は飛沫(しぶき)を立てて動いていた
 海がそうであるように、大陸がそうであるように、
 渦もまた一ツ所には留まること能わずして
 白き朝露は彼方此方(かなたこなた)に散らばって沈み込み
 深き閨で種の訪れを待つ

 やがて種は風で運ばれ
 絡繰の絹糸で生命は編み出され
 世界は背中合せの二つの顔を持った
 一つは生命の歩く表側
 一つは生命の安らぐ裏側

 歩く世界は生と呼ばれ
 安らぐ場所は死と呼ばれた
 生は生き物から歓待されたが
 死は生き物から忌避された
 死は哀しみの涙を零し泉を成して身を沈めた

 泉の水面には小舟が一叟
 月下に佇む花が楫を取る笹の舟
 風になってしまわぬようにと
 繰る日も繰る日も泉を漕ぐ
 烏瓜の花のはつ恋は
 一夜だけの寿命を永らえて
 泉に接吻(キス)する死にかけの螢よ
 ついに目を閉じ愛しき君へ
 寂しい手を求めて沈みゆく
 放たれた最期の涙は灯となって空へ昇り
 生の世界を花火で彩った

 夢のはじまり、色のはじまり
 水底で他を想ふ哀れさなる臍の緒
 背中合せの身体と身体、顔を合わすことは許されざりしが
 手と手をとって固く指先を繋いでいる
 そして今も繋いでいる

(どう?)
(どうって…でも、面白い歌ですよ。)
(此の歌は番人は必ず憶えなくちゃならないの。苦手だった暗記を彼岸側(こちらがわ)でもしなきゃならないなんて思わなかったわ。)
 如何にもプン、とむくれた表情が子供ッぽく見えて姫烏頭は思わずアハハと笑う。笑い声は静かに響いただけだった。笑える余裕が出て来たのなら、一先ず落ち着いた証拠だろう、安心して霧舟も笑った。
(聴いたところ、生者の世界と冥界の誕生が最初に歌われていましたね、それから、冥界での夢が生者の世界に色彩を与えている、とも。色彩を光と捉えるならば、やはり冥界は光を与える場所、と考えられますかね。)
(そうそう、その通り。夢とは現実世界に光を与える力のことさ。)
(つまり、彼岸側が存在しないと、此岸側も存在出来ない関係…だから背中合せなのか。)
(理解が早いわ姫烏頭。兄さんに教えてもらったの?)
(いや、あまり宗教的に詳しい話はしてもらえなかった。あ、でも、境界線の話とかは教えてもらったかな。)
(境界線?)
(坂道の話。家の建っていた近所には神社もあったけれど、寺もあったからさ、墓も身近だった。其の隣の道は坂道になっていて。)
(…坂道は、彼岸と此岸の境目。だから転んではいけない。転べば寿命が縮まるから。)
(伯母さんも御存知でしたか。)
(私の家には古くから言われてきた言葉だから。私も兄さんも、よく知っている。死が身近だった所為もあるかもね。)
(ごめんなさい。嫌な事を。)
 苦い記憶を思い出させてしまったと詫びる姫烏頭に霧舟は(こうべ)を振る。
(私は此処へ送られたこと、後悔も、恨みもしていないの。それより、此処を助けたいって言ったこと憶えている?)
(えゝ。困り事なんて無さそうな世界なのに気掛かりな点でもあるのですか。)
 彼女は頷き、躊躇わずに発した。
(彼岸の世界が失われようとしている。)

「水仙」

「水仙」

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-10-06

Copyrighted
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