
ロンサムダイバーズ
1.ケンイチの記憶
クロホシイシモチの群れが穏やかに向きを変え、ソフトコーラルに覆われた岩の壁を撫でるように泳いでいた。静かに息を吐くと大小の気泡がゆっくりと立ちのぼり、青く輝く水面でぱちぱちと堅くはじけて消えた。そこは水深10メートル余り、ダイバーが一人通れるほどの小さな岩の切れ目が、濃紺色の深い口をこちらに向けている。
白いウェットスーツに細身を包んだマリナが、横穴の前で赤いフィンをしなやかに翻して振り向き、我々のエア残量を確認してから『さあ行こう』とハンドシグナルで合図した。ガイドをするマリナのあとを私が、そしてアカネとカズオが続いた。ゆっくりとフィンを動かして横へ延びる洞窟に入ると、水中ライトに照らし出されたネンブツダイの魚群に混じって、大きなクエがぬっと出てきた。洞内はそんなに狭くなかったが、1メートル近くあろうクエと目の前ですれ違いながら、身に付けているタンクや器材がソフトコーラルに傷をつけないよう注意を払って、フィンを水平に動かしながら泳いだ。そのとき後ろでフラッシュが焚かれた。アカネが持ってきたカメラでクエやネンブツダイを撮ったのだろう。あるいは小さなウミウシを岩肌に見つけたのかもしれない。
私は魚やウミウシなどよりも海中の地形が好きだ。ダイナミックに曲がる洞窟、無骨な岩肌、亀裂から垣間見る外海の眩しい青、人の手が加わらない自然の造形が変わらずそこにはあった。
ほどなくして広い空間に出た。そこからは上に抜ける広めの竪穴に繋がっている。竪穴の下に全員が揃うと、マリナが胸の前で両掌を我々の方に押すように出して『待て』と合図した。先客の一団が上から降りてきたからだった。潜降を終えた5人のダイバー達が目の前に集合をし、もう一つの別の横穴へと一人一人進み始めた。それを見たマリナが我々を振り返り、親指を上に向け『浮上』のハンドシグナルを出す。そしてマリナと私、カズオとアカネがバディとなって、竪穴をゆっくりと上がっていった。
頭上に近づいてくる水面に青い光が揺れていた。その上は天然のエアドームだ。岩に囲まれて空は直接見えないが、外と繋がっていて呼吸もできる。ゆっくりと水面まで上がって顔だけ空中に出すと、パワーインフレーターでBCD(浮力調整装置)に空気を少し入れて浮力を安定させた。水中で呼吸するためのギュレーターは口から外したが、急な波に飲まれて息ができなくならないよう、念のためシュノーケルのマウスピースだけは咥えていた。すぐ横にマリナの顔があった。マスクフレームの中の、切れ長な二重の目が私は好きだ。
「わあすごい」
近くの水面で首から上を揺らしながら、アカネが声を上げた。外から漏れ差す幾筋もの光が岩を照らし出し、幻想的な光景を見せていた。私はマリナのガイドで前に一度来ているが、これは何回見ても圧巻だ。
「写真でこれは残せないかもよ」
カズオが周囲に見とれながら言ったが、アカネは構わずシャッターを押し続けていた。
「マスク取ってこっちを見てぇ」
こちらを向いたカメラの向こうで、アカネの大きな目が微笑んでいた。カズオが濡れた茶髪を手櫛で整えながら、フィンを動かして隣にきた。目と鼻を覆っているマスクを取って、私たちは3つの笑顔を水面に並べた。
眩しいフラッシュが窟内を一瞬照らして、また暗くなった。
それより少し前、コンクリートの岸壁に寄せる波の音を聞きながら、日が降り注ぐダイビングハウスのバルコニーで、私たちは用意された昼の弁当の蓋を開けていた。アカネは蓋が風で飛ばないよう弁当の下に敷きながら、ショートの髪を少し揺らして振り返り、私に笑顔を向けた。
「え? ケンイチさんて高所恐怖症なんですか?」
黄色い袖のウェットスーツを腰まで下ろし、その上半身を真っ白なラッシュガードでぴったりと包み、胸の丸みを惜しみなく披露していた。30を過ぎた私にもなお、それは眩しかった。その横で弁当のアジフライを頬張り始めたカズオも、私を振り向いて口を開いた。
「高所恐怖症なのに、よくダイビングができますね」
カズオも黒と赤のウェットスーツを下ろしていた。日に焼けたマッチョな身体に、グレーのラッシュガードが羨ましいほどよく似合っている。
「高所恐怖症とダイビングは関係ないでしょう」
私が思わず言うと、アカネが反論した。
「関係あるわよ、深いところとか、海底から高いところは怖くないんですか?」
「それは怖くない」
「どうして?」
と聞くカズオの問い返しに、私は箸で持ち上げたアジフライをもう一度白いご飯に着けた。どうしてなのだろうか。白い丸テーブルに置いたみんなの弁当に目を落としながら考えた。
「水の中だったら、落ちないって分かっているからかな」
「落ちないって分かっているのなら、陸上だって安全な場所なら怖くないはずでしょう」
カズオの言うのも尤もだと思う。でも怖いものは怖いし、怖くないものは怖くないのだ。
「分からない。そもそも高所恐怖症は理屈じゃないから、なぜ怖いのか、なぜ怖くないのかなんて、説明なんかできやしないよ」
それが一番正しい答え方なのかもしれないと思った。他に何をどう言ったとしても、それは屁理屈にしかならないだろう。
「ひどい説明ねそれ」
店の雑務を終えてきたマリナが、自分の弁当を持って私とカズオの間に座った。
「ケンイチは根性が無いだけなんじゃないの?」
マリナは後ろで結んだ髪を揺らして、悪戯っぽい目で私を見た。
「根性とかそういう問題じゃないよ」
人に話すと、ときどき根性論に行き着くことがあるのだが、そういう時どうも不愉快に感じた。しかし、今回は意外な助け船が出た。
「私、それ分かるわ」
弁当にまだ箸を付けず、テーブルに目を落としていたアカネがつぶやいたのだ。
「いまの話、私も同じ気がして」
「高所恐怖症なの?」とマリナ。
「あ、いえそうではないんですけど」
「なるほど、同じといえば、ある意味同じなのかなあ。理解してもらいたくても、それは理屈じゃ説明できないしね」カズオは顎を動かし美味しそうに食べたまま、私とマリナに顔を向けた。「オレたち、同性愛者なんですよお」
「え、どういうこと」
と思わず口をついて出た。今日初めて会い、午前中一緒に1本潜っただけなのでよく知らなかったが、2人とも同性愛者ということは、互いに付き合っているわけではないのか。
「あっとごめん、引きました?」とカズオは白いご飯をまた口いっぱいに入れたままだ。
「いや、そんなことはないけど、てっきりカップルだと思っていたものだから」
それとも、もしかしたら・・・2人の身体に、無意識だが私の目が行ったらしい。
「あ、オレたち性転換とかしてないですよ、オレは男だし、アカネは女のままです」箸で白いご飯を口に運びながら、「オレたちはただの友達なんです。世を忍ぶ擬装カップルってとこですかね」
そう言って弁当を食っているカズオに、アカネは少し怒った顔を作って向けた。ふくれた横顔に形のよい唇が可愛い。もしかすると、アカネはカズオに好意を持っているのだろうか。
それからアカネはマリナと私に向きなおり、
「カズオがゲイで、私はバイセクシャルなんです」
と穏やかに言って、割り箸をきれいに割り、何事もないように弁当を食べ始めた。
「ゲイとバイと高所恐怖症かあ。私は何かなあ」
と言いながらマリナも食べた。
「たとえば閉所恐怖症とか?」
私がふざけて言うと、
「それはやばいでしょう、洞窟ダイブとか絶対できないじゃない」
マリナが言い、4人とも無邪気に笑った。
弁当を食べ終わってから、そのまま午後のブリーフィングをした。ダイビングポイントは私の好きな地形スポットのエアドームだ。マリナがその魅力や注意点、そしてボートエントリーからエキジットまでの要点を、慣れた口調で説明してくれた。
居心地のよいバルコニーでしばらくの間休んでから、自分たちのダイビング器材が積んであるダイビングボートに乗り込んだ。小型の漁船よりも一回りほど大きい。
「器材のチェックをバディ同士でやってね」
マリナの指示でみな動いた。私は一人なので、マリナとバディチェックをした。カズオとアカネは仲良さそうに互いをチェックしながらはしゃいでいた。間もなく、エンジンがボートを震わせながら排気ガスの匂いを散らす。
「出発をするぞ」
マリナの親父さんが運転するダイビングボートは、私たちを乗せて濃青色の静かな海へと出発した。
エアドームを満喫した私たちは、再びレギュレーターを口に咥えて、ネンブツダイに囲まれながらゆっくりと潜降し、さきほどの広間に着底した。マリナが合図をすると、出口の穴にまずマリナが入り、次に私が入った。さっき5人の先客が入った同じ穴だ。2人並んで行けなくもないが、1列の方が余裕をもって周りを見ながら窟内を進むことができる。続いてアカネとカズオが順番に入って来た。私は上体を捩じって後ろの2人を見た。アカネはしなやかにフィンを動かし、カズオは悠然と泳いで入って来た。その様子を確認し、それから前に向き直ったそのとき、ふいに何かが、私の顔面を強く叩いた。
――痛い。
鼻と目を覆うマスクと、口に咥えていたレギュレーターが同時に外れて飛んだ。いったい何が起きたのか分からず驚いたが、海中のぼやけた視界の中で、私は意外と冷静に考えた。たぶんマリナが何かの理由で急にスピードを緩め、後ろを見ていた私がそれに間に合わず、マリナのフィンキックに突っ込んでしまったのだろう。呼吸ができず視界もはっきりしない状態だが、数十秒や一分程度なら大丈夫だ。慌てずリカバリーに取り掛かることにしよう。水中ライトの光で、青いフレームのマスクらしきものが下の岩に落ちているのが見えたが、それは後回しだ。まずはレギュレーターを回収し、呼吸を回復しなくてはならない。私は既定の方法に沿って右腕を下から後ろに回し、レギュレーターに繋がる中圧ホースを探った。しかし、その腕には何も引っかかってこない。なぜだ。普通ならその位置で簡単に回収できるはずなのだが。よし、もう一度やろう。しかし、やはり何も掛からない。いったいどうなっているのだ。確認しようとして、後ろを覗くようにしたが、何も見当たらない。というか、自分が振り向けばホースも一緒に回るので、見えるわけもない。なにがなんだか分からない。これはまずい。時間が経っていく。まだ呼吸ができない。私は大きく後ろに右腕を回し、一緒に身体も右に一回転したどうしてもレギュレーターのホースは見つからない。回転ができるということは、周りの岩に引っ掛かっているわけではなさそうだ。身に付けている器材か何かに、レギュレーターが引っ掛かっているのかもしれないが、自分ではどうしようもない。がむしゃらに動いて、引っ掛かりを振りほどこうとしたが無理だ。そろそろ苦しくなってくる。視界がぼんやりした中で、私は右に左にもがき狂った。もがき回って、やがて上も下も分からなくなってしまった。頭を岩にぶつけて気が遠くなりかけたときに、何かが私を抱きしめた。無我夢中でそれにしがみつくと、その手が私の顔に、黒い塊を押し付けてきた。その塊を唇に押し付けられて、ようやくそれがレギュレーターだと気づき、噛みつくようにしてそのマウスピースを咥えた。いつものように肺に残った息を吐きだしてから吸おうと思ったが、マウスピースの側から泡が吹き出した。私を抱きしめた手がレギュレーターのパージボタンを押して、空気を排出したのだ。私はむせながらそれを吸った。そしてまた咳き込みながら大きく吐いて、もう二三度吸ってから、やっと生き返った気がした。私の心拍や呼吸はまだ早かった。ぼんやりと目を開けると、抱きしめているのは白いウェットスーツだった。それとは別の黄色い腕が、私の顔にマスクを押し付けた。マスクストラップが頭の上から後ろに回されて、それが固定されるのを感じると、私は吸った息をゆっくりと鼻から吐き出し、マスクの中にある海水を押し出した。喉の奥が塩辛くて、鼻がツンとしたが、やっと視界と呼吸を回復できた。
私のマスクからアカネの手が離れ、抱きしめてくれていたマリナがその腕を緩めると、自分がパニック状態だったということを初めて自覚した。そして、私が咥えているレギュレーターは自分のものではなく、マリナの背中にあるタンクのファーストステージから繋がっているオクトパス(予備のレギュレーター)だと分かった。私のレギュレーターは・・・どうやらマリナの隣でアカネが手に持ってくれているようだ。2人は中性浮力をとりながら、狭い窟内で私と向き合っていた。しばらく私の息が落ち着くのを待ってから、アカネがマリナの白い腕にレギュレーターを渡した。マリナがそれを私の目の前にかざすと、私は一度息を吸いんでから止め、マリナのオクトパスを口から離し、自分のレギュレーターを咥え直した。そして溜めていた息を強く吐き出すことによって、レギュレーター内に溜まった海水をすべて排除してから、こんどはゆっくりと自分のタンクから供給される空気を吸い込んだ。
これで全てのリカバリーは完了した。マリナが目の前で親指と人差指の先をくっつけて輪をつくり『大丈夫?』ときいてきた。私は頷きながら同じサインを送り『もう大丈夫だ』と返事をした。
私たちはすぐに動き始めた。マリナが先を急いでいるのだろうか、さっきよりも速い。もしかすると、みんなのエア残量が少ないのかもしれない。とにかく洞窟を出てから確認をしよう。ソフトコーラルに覆われた窟内を大きく左に曲がると、10メートルほど先で青く輝く外海に、多くの魚影が右に左に動いているのが見えた。岩の中からから見るそれは、世界で最も平和な風景に感じられた。
外海に出てほっとすると、後ろからカンカン、カンカンと誰かが金属を鳴らし続ける音が聞こえた。振り向くと2人の姿がない。真っ暗な穴の奥にマリナが水中ライトを向けると、もう一度カンカンと緊張感のある音を鳴らしながら、アカネが穴から現れた。マリナを見て、背中のタンクを金属製のスティックで叩くのをやめると、身体をよじって穴を振り返り、今度はその棒で穴の中を指した。マリナが水中スレートに『カズオは?』と素早く書くと、アカネは大きく首を横に振って、また穴の中を示した。カズオがいない。いつからだろうか。そういえば私のリカバリーをしているとき、あのときはまだいたのだろうか。すっかり自分にしか気持ちが向いていなかったから、全然覚えていない。
マリナが全員のエア残量を確認してから、ここを動くなと指示をして、穴の中へするすると消えて行った。残された私はアカネと2人で、空虚な穴や岩の壁を見つめていた。とぼけた魚が目の前を泳いでは去ったが、それには何の感情も湧かなかった。じっとしていると、海の冷たさが身体に沁みて、アカネがそっと身を寄せてきた。
日が沈んだ直後、わずかに明るさが残る海に波が白く音をたてていた。海沿いから国道までの坂道に10数件の民宿が立ち並ぶみゆき沢は、静かな入り江を持つ小さな漁港だ。人の行き来は少ないが、同じように浴衣を着た宿泊客が二三人、風呂を浴びてほてった身体を浴衣に包んで海風に晒し、コンクリートの防潮堤に沿って歩いているのが見えた。
私は缶ビールを開けると、それには口をつけずに胸の高さの防潮堤に置き、紫色に滲む水平線の暗さにただ見入っていた。入り江の沖には親亀小亀の2つの巨岩が並んでいるが、今は月の光に暗い影だけを海に落としている。
漁港の左の端にはダイビングハウス・キムラがあり、今日乗ったダイビングボートもその前に繋がれていた。建物からは明かりが漏れている。木村親娘と三人の従業員はまだいるのだろうか。あんなことがあった後だから、いろいろ事後処理があるのだろうかと想像してみたが、よく分からない。いや、いつもの忙しさの中で今日あったことなど忘れ去られているかもしれない。
カズオはエアドームに再浮上して、岩にしがみ付いていたところを木村マリナに発見された。途中で息が苦しくなり呼吸ができなくて、エアドームまで戻ったということだった。マリナの話ではエアの残量は充分にあったのに、タンクバルブが少ししか開いていなかったという。その場合、最初はエア圧が高いから空気は出るが、エア圧が下がってくると供給が渋くなることがあると、マリナの親父さんが言った。ただ正直なところ私は驚いた。自分ならあり得ないだろう。バルブの開閉という基本的で大事なことを、なぜ事前にチェックできなかったのだろうか。
とにかくエアドームでマリナがバルブを開け直し、カズオがマリナに連れられて穴から出てきた。その後ボートでダイブハウスに戻ると、念のため親父さんの車で病院へ向かった。二度目のエアドームでやや急な浮上をしたかもしれず、身体への負担のリスクがあったからだ。アカネもカズオに付き添って、病院へ行った。
「さっきはあんな状況で急いでいたし、ちゃんと言えなかったけれど、戻ったら2人に事前のバディチェックを怠らないようキツく言っておくわ」
マリナは興奮気味に言った。
しかしその後親父さんから連絡があり、カズオはみゆき沢には戻らないとのことだった。身体に異常はとくになかったが、心身が弱っているため一日だけ入院をして、明日そのまま東京に帰るとのことだ。
夜風が涼しい。私は防潮堤に置いた缶ビールを手に取って、一口だけ飲んだ。さわやかな渋みを喉に感じながら、自分はまだ生きているのだと思った。街灯がところどころで道を照らしていた。小さな男の子を連れた家族が散歩して、後ろを通り過ぎていった。私はもう一口ぐっと飲んでから、真っ暗な防潮堤の向こうに水平線を探した。月が雲に隠れてしまい、暗い海には波の音だけが聞こえていた。
「私も飲んでいいですか」
声の方を振り向くと、隣にアカネが寄ってきていた。いつ来たのだろうか。驚く私の手からそっと缶を奪うと、そのまま少し上を向いてビールを喉に流し込んだ。もう風呂を浴びてきたのか、私とは違う民宿の浴衣を着ている。ほとんどすっぴんなのに肌が綺麗だ。昼間は自分より少し年下ぐらいかと思っていたが、今見ると20代半ばか、いや20歳そこそこかもしれない。
アカネは呆気にとられる私の顔を見上げて、少し減った缶を「はい」と返しながら微笑んだ。シャンプーのいい香りがする。
「病院から戻っていたの?」
「うん。カズオは東京に帰るけど、私はまだ明日も潜るつもりだから、民宿に帰って来ちゃいました」
「大したことなくて、良かったね」
「ほんとに、一時は心配したけれど、人騒がせなヤツです」
「マリナには会った?」
「たっぷりシボられました。マリナってあんなに怖いと思わなかったわ」
「命にかかわることだからね」
「でも真剣なマリナも素敵でしたよ。こんど誘っちゃおうかな」
アカネは人差指を下唇に当てていた。
「え、それ、どういうこと?」
「うそですよ、うそ」少し悪戯な目で見上げて、「ケンイチさんて、マリナのこと好きなんですよね」
「・・・」
「見てたら分かります。だれにでも優しくて愛想のいい女の人って、男を勘違いさせるから、気をつけてくださいね」
「いったい何でそんな話になるんだ。勘違いなんかして無いって」
「ちょっと聞いてみただけです」
アカネは口をすぼめて見せてから、
「それに、カズオのことは気づいてないですよね?」
「何を?」
「カズオって、実はケンイチさんに興味があったんですよ」
「興味って、そういう興味? え、そうなの?」
「やっぱり嬉しくは無さそうですね」
「嬉しくないよ。そういうの興味がないし、むしろ迷惑だなあ」
「よかった」
「いやでもごめん、迷惑なんて言い方は良くなかったね」
「どうしてですか」
「だってLGBTQを否定するような発言でしょう」
「ケンイチさんはゲイでもバイでもないんですから、迷惑なら迷惑でいいんじゃないですか? 過度にセクシャルマイノリティをかばう風潮って、どうなのかと思います」
「自分がそうなのに?」
「自分がそうだから思うんです。マイノリティなんて、肯定されようが同情されようが、やっぱりどこまでもマイノリティに変わりはないんだって思います」
「なるほどねえ」
「まあ、そういう人たちの中にも、いろんな考えはありますけれども」
「そうだね」
「そんなことより、さっきの話の続き、しましょう」
「さっきの話?」
「さっきのです」
「ええと何だっけ」
「だから・・・」
「どの話かな」
「・・・もういいです」
アカネはぷいと海の方へ顔を向けた。ふくれた横顔がやっぱり可愛いけれど、しかし黙っているのは気まずい。やけに静かな間があって、道端の自販機のジーという雑音が耳に纏わりついた。
「昼間と感じが違うね」
「なにか違いますか」
「なんだか、ちょっと変だよ」
「どうせ変です」
「いやそうじゃなくて・・・」
こういうのは苦手だ。女の子は何を考えているのか分からない。
「でも私、」アカネは急に口を閉じてから、視線を防潮堤のコンクリート壁まで落とし、それから静かな声で行った。「私、本当はすごく、淋しいんです」
「淋しい」
「誰にも受け入れられない自分が、たまらなく淋しいんです、だから・・・」
カズオにも受け入れられず、誰にも相手にされないことが辛いということなのか。アカネはモテそうだと勝手に思っていたが、もしかすると、自分の好意と相手のミスマッチを繰り返しているのかもしれない。
それとは少し違うが、私も女性に対する多大な性的欲求がある反面、受け入れてくれないのではという怖さから女を敬遠してしまい、その狭間で無限ループに嵌まっている。それがとてもつらく苦しくて、この歳になるまで淋しい思いをしてきた。目の前で、おそらく私への好意をチラつかせているアカネさえ、私にはまだ抱きしめる勇気がない。これも一種の恐怖症なのかもしれないと、薄々解ってはいるが、これまでずっと、自分ではどうしようもなかった。もしハッキリ判るように好意を伝えてもらえたなら、私は先に進めるのかもしれない・・・でもそんな都合のいいシチュエーションなんか、今までの経験で一度もなかった。
しかし今回は少し違った。そんな私を知っていて、まるで試すかのように、アカネは私の首筋まで顔を近づけてきた。アカネの持つ胸の柔らかさと腹部の暖かさを間近に感じた。
「だめ、なんですか」
アカネの吐息のような声が震えているのを、夢のように聞いた。そうだ、もういける。大丈夫だ。そう自分の身体に言い聞かせたものの、アカネの背中に回した手は震え、腕全体をアカネの浴衣からは少し離したまま、ぎこちない姿勢でその両肩に触った。次の瞬間、アカネがふわっとその身を預け、私の全身に柔らかく収まった。抗うことのできない甘美な感触に心地よさが溢れ、私は両腕に入っていた力を抜いて優しく抱きしめた。浴衣の生地が擦れ合い、アカネが私を見上げて唇を寄せてきた。今日一日、それをずっと欲していたように思う。理性の働く限り意識から遠ざけていたのだが、それは確かだった。その唇に近づくと、私は思いがけずそれが僅かに震えているのを見た。自分だけではなかった。愛おしい思いで抱きしめ直すと、私はその唇を強く重ねた。
静かな息をそばに感じたまま、しばらく横たわっていた。目が慣れると、アカネの身体がわずかに息で動いているのが分かった。窓から漏れる街灯の照り返しで充分だ。安心して目を閉じるアカネの首筋や、その胸もお腹も、脚も腕も、みな美しいと思った。肩や首に触れ、もう一度口づけをすると、アカネは目を閉じたままその舌で深く受けとめてくれた。私はまた興奮してしまいそうだった。それに気づいたのか、アカネは目を少し開けて「もう一度する?」と聞いてきた。
「それより、一緒にお風呂入ろうか」
一線を越えてしまうと、大胆になれる自分がいた。堰を切った水があふれ広がるように、私は欲を抑えることができなくなっている。超えるべき壁が高いだけだったのかもしれない。アカネは小さく頷くと、一緒に立ち上がって下着を付けずに浴衣だけを羽織った。タオルを持って廊下に出ると、電球の下でアカネが私の浴衣を着ているのを見て、そこで自分もアカネのを着ている事に、初めて気付いた。アカネが目を大きく開けて笑いそうになり、声が出ないようクスクスしながら、2人で木造の階段を軋ませて風呂場に向かった。
アカネの民宿は3軒隣なのだが、今夜はこっそり私の部屋へ来ていた。この民宿を経営している家族は筋向かいの自宅に帰っているので、ここには私の他に2・3組の客が寝静まっているだけだ。廊下で誰かに合うこともまずない。
私は家族風呂の戸を開け、アカネと2人で小さな脱衣所に入り、中から鍵を閉めた。脱衣所の奥には、子供連れの家族が入れるくらいの、石造りのお風呂場がある。同じような家族風呂がこの民宿には3つあって、宿泊客がいつでも自由に入れた。お湯は天然温泉のかけ流しで、常時全ての民宿に引かれているものだ。
狭い脱衣所で、羽織ったばかりの浴衣を一緒に脱いだ。息がかかるほど目の前で、裸になったアカネが浴衣を籠に入れていた。明るいところで見ると、輝くほど張りのある身体が、やはり美しい。
「きれい、だね」
心に思っていることを口にした。
「あれ、ケンイチさん、また興奮してるのね」
「アカネのせいだよ」
「私のせい? これって、私が原因ていうこと?」
「そう」
「じゃあ、仕方ないですね。私が責任もって対応しますね」
アカネはちょっと楽しそうだ。
「でも、それは明日にしましょうか」
ひどいことをアカネは言う。
「それは無理だ。もう我慢できないって」
「だって、さっきもうしたじゃない。明日は、マリナを誘って3人でしましょうよ」
「え、3人で?」
「そう、3人で」
「・・・」
「マリナのこと、好きでしょう? 私もマリナならOKよ」
「そんなの向こうがOKしないでしょう」
「聞いてみないと分からないじゃない。私が誘うから、心配しないで」
こんどは思いもよらないことをアカネは言う。
「本当に誘う気?」
「本当よ」アカネはそう言ってから「それじゃあ、わかったわ、これの責任は、わたしが今とるから、明日は3人で、・・・ね、いいでしょ」
そう言ってアカネは下にさがって膝をつき、私の下腹部に顔を寄せてサービスを始めた。狭い脱衣所で、そのきれいな唇を私のために大きくあけて歪ませながら、力強く動かした。
昨日に続き、空はよく晴れ海は凪いでいた。
「和見浜で今朝、アオリイカが産卵しているって、向こうのダイビングショップから情報が入ったの。間に合えば見られるかもしれないわ。行きたい人いますか?」
ダイビングハウス・キムラで、マリナが和見浜へ行く客を募った。
「どうやって行くんですか?」
今日来たばかりの新しい女性客2人組がマリナに聞いた。その2人は会社の同僚で、サイパン旅行のときにダイビングのCカードをとったばかりだという。
「うちのバンに乗って、ここから10分くらいのところにある浜に行きます。器材はセッティングをしてから、軽トラに積んで運ぶわ。そこからはビーチエントリーになります」
アオリイカの産卵は、3年前にも見たことがあった。遠巻きに観察するダイバーたちの目を気に留めることもなく、水底から離れて悠然と水中に横たわるアオリイカのペアが、なにか神聖な儀式をしているようにさえ思えたことを、強い印象を持って覚えている。
「なんか、エロいね」
アカネがそばで囁いた。
「そんなことはないよ。ぜひ見に行こう」
「うん、見たい」
マリナが和見浜に行くメンバーを集めてブリーフィングを始めた。さっきの女2人と、アカネと私だ。
「ケンイチとアカネさんはバディを組んでね。こちらのお2人もバディとして、互いにしっかり協力をしてください」
「はーい」
なんか引率の先生と子供みたいだ。2人ともポツリとした目をして、ガリガリな方がサエ、ぽっちゃりなのがキヨだという。歳は聞いてないが私と同じ30過ぎだろうか。
「サエに誘われてダイビング始めたけど、本当はいまも怖いのよお。器材とか壊れたら死んじゃうわよね」
「またキヨの悲観癖が始まったわね。そんなことめったにないわよ。ダイビング事故って、交通事故よりも確率低いんだって、ネットにそう書いてあったわ。知ってた?」
「そんなこと信用できないわ。それって本当ですか、先生」
先生じゃないって突っ込もうかと思ったけど、そのあとマリナが普通に返事をしたので黙っておいた。
「そうですね、みゆき沢でも死亡事故とかは1度もないですよ。でも細心の注意はしてくださいね」
「ほら見なさい」
死亡事故でなくて、普通の事故ならあるということか。その場合、昨日のカズオの件は事故に数えるのだろうか。でも私がパニクったのは入らないかも。いや、どこまでが事故というのかよく分からないな。
全員が自己紹介を終えてから、マリナがビーチエントリーからエキジットまでの流れ、産卵観察の注意点などを説明した。そして私たちはタンクの装着など重器材の準備に取り掛かった。器材のチェックをしてから、一度タンクのバルブを閉めて、それをスタッフが軽トラの荷台に積み込んでくれた。向こうに着いたら、再度バルブを開けてから器材を身に付け、それからバディ同士のチェックをした上で、ビーチエントリーをしていくという流れだ。
「今のうちにトイレに行ってくださいね。向こうにもありますが、数が少ないので」
マリナが言うと、みんなお手洗いに向かった。
トイレを終えて建物を出ると、軽トラの右にアカネが立っていた。なにか器材に触れていたように見えたが、それは気のせいだろうか。
「トイレには行ったの?」
「みんな並んでたから、あとにしたの。今から行くわ」
アカネはそう言ってこちらに歩いてくると、すぐそばで立ち止まって私を見た。
「気を付けてね」
「え」
「さっきトイレで並んだとき、あの2人がこそこそ話していたの。サエって人、ケンイチにかなり興味あるわ」
「そうなの?」
「浮気、しないでよね」
「しないよ。だいたいあの2人全然タイプじゃないから」
「よかった」
アカネが建物に入って行くと、トイレをすませたサエとキヨが出てきた。私を見つけると2人が近づいてきて、サエから私に話しかけてきた。
「アカネさんて、かなり若そうですよねえ」
「そうだね」
「ケンイチさんて、あの子と付き合っているんですか?」
とキヨ。するとサエは食い入るように私を見た。
「んー、どうなのかな」
ちょっと答えに困った。浮気するなとは言われたけど、そもそも私はアカネと付き合っているのだろうか。そこまでハッキリと話してはいない。約束したと言えば、今夜のことぐらいだった。
「お仕事は何ですか?」
「お住まいは?」
「ここには、いつまでいらっしゃいます?」
2人の質問攻めにあったが、アカネが建物の奥に見えてくると、とたんにやめた。アカネは入口から出て真っすぐ私の方に歩いてくると、私の左腕を強引に組んで2人から引き離し、そのまま少し歩いた。
「痛い」
組んでいる方の二の腕をアカネにつねられたのだ。私のモテ期、なのだろうか。
「そろそろ出発します」
建物から出てきたマリナの声を合図に、4人はバンに乗り込んだ。マリナが運転席に収まり、ダイビングハウスの前を出発すると、その後ろからスタッフの運転する軽トラが、器材を載せて追走した。防潮堤に沿って100メートルぐらい進んだところで、海を背に細い道へ折れると、そこから国道までの約300メートルは民宿の並ぶ坂道だ。昨夜アカネとの淫行に及んだ民宿を過ぎると、隣にいたアカネが小声で囁いた。
「マリナはあとで誘うから」
「オレは2人でもいいよ」
「そんなこと言わないの」
アカネが怖い顔をして見せた。けどその唇を見て、急に昨夜のことを思い出した。
「いま私のお口を見て、エロいこと想像したでしょ」
「・・・」
「いいよ、ケンイチなら許す。たっぷり想像しちゃってね、ケ・ン・イ・チ・クン」
アカネにはかなわない。私の少し興奮した部分を、アカネの指がウェットスーツの上から軽くなぞった。
車は登り坂に、揺られていた。
2.アカネの記憶
みゆき沢は素敵な入江だ。ダイビングハウス・キムラもきれいで過ごしやすく、とても気に入った。この日一緒にダイビングしたのはガイドのマリナ、昨日から来ているというケンイチさん、そしてカズオと私の4人。午前中に一本潜ったあとダイビングハウスに戻り、日の当たる明るいバルコニーで同じテーブルに座り、ダイブ記録を各自のログブックに書き込むログ付けを一緒にした。
背の高いケンイチさんは、青いウェットスーツの下に黒いラッシュガードを着て、少し色白の肌を赤く日焼けさせていた。みゆき沢には何度か来たことがあるらしく、マリナとも顔馴染みのようだ。一人客なのでマリナが気を使っているのが癪に障る。ケンイチさんもまんざらではなさそうだ。いや、もしかしてマリナのファンなのかしら。ここはスナックじゃねーよって言いたくなる。
いけないわ私、あの2人に深く嫉妬している。でも我慢ならないわ。だって両方好みなんだもの。なんとかして、あの2人に割って入れないものかしら。まだ満たされたことの無い私の願望を叶えるためなら、なんだってする。周りからよく、清純そうに見えるって言われるのだけれど、本当の私は悪女にだってなれる。
思えば、カズオのときだってそうだ。自分のものにしたかったけど、どんなことをしてもカズオの関心を自分に向けることはできなかった。もうこの旅行が終わったら、きっぱりとお別れをするつもりだ。
それよりもケンイチさんだ。やっぱり間違いない。朝の満員電車の小田急線、新百合ヶ丘から快速急行に乗ると、登戸で同じ車両に乗って来る彼を、週に何度か見かけることがあった。あのネクタイを締めた色白の男性に、いつか触ってみたいという妄想にかられていた。ハンサムとは言えないけれど、ちょっと頼りなげな感じが、私のイジメ心を駆り立てるの。近くに立って、私がもしチカンをしたら、彼はどんな反応をするのだろうか。やってみたい。私の手で、彼を興奮させてしまいたい。見るたびにそう考えて勝手に自分が興奮していた。
それがいま、なんと目の前にいる。最初は人違いかと思ったが、あの目や口元も、耳の下にある小さな2つのホクロも全く同じだ。いまはラッシュガードとウェットスーツに身を包んでいるけど、ネクタイ姿を合わせたら、あの登戸の男性にもう間違いない。
どうやらケンイチさんは私に気づいていないようだ。それに私の妄想なんてさらに知りもしない。いまはマリナに視線を奪われているけど、あの視線をこちらに向けたい。そりゃマリナもいい女よ。私より年上だけれど、唾をのむほど魅力的な女性だわ。2人とも私のものにして、ケンイチさんの目の前でマリナを姦淫してみたい。それで興奮しちゃったケンイチさんを、こんどはマリナの目の前で私が犯すの。だけどこの2人の間は絶対に絡ませない。互いに相手を私に寝取られて、悔しい思いをさせるわ。そうやって激しい嫉妬を私に向けさせるの。異常な欲望だってことぐらい分かっている。でもやばい、また興奮しちゃった。――自分の妄想で陰部の水着がべっとり濡れているのが、はっきり分かるわ。5ミリ厚のウェットスーツを着ているから、外から全然分からないけどね。それにどうせ海に入ったら洗われちゃうから、気にしないわ。ああ、なんとか本当に機会をつくって、この2人を私のものにできないものかしら。
ログ付けが終わって、マリナが席を立った。
「少し用事があるから、お昼の弁当、3人で先に食べていてね」
そう言ってマリナが仕事に向かうと、ケンイチさんとカズオと私で弁当をとりに店のカウンターへ向かった。
「ちょっとトイレに行ってくる」
ケンイチさんがいったん離れたので、カズオと私は3人分の弁当を持って、海が間近に見えるフェンス際の丸テーブルに陣取った。
「ケンイチさんて、いいよねえ」
弁当を3つ重ねて置きながら、なんとカズオがそう言った。
「えっ」
「すごいタイプなんだよなあ」
なに言い出すのよ、私のケンイチさんに。
「けど女性にしか興味なさそうじゃない?」
「たしかにね。でも、そういう紳士を仕込むのも、いいもんだよなあ」
こ、こいつ。
私の邪魔しないで。そりゃ私も自分の趣味に取り込もうと妄想はしているけど、カズオの趣味には絶対引き込ませたくない。あーもうマジあんた消えてほしい。私のものにならないんだったら、私からケンイチさんを取らないでよね。絶対許さない。
ケンイチさんがバルコニーへ帰って来た。けど、テーブルに近づいてこない。どうしたのだろう。もしかすると、話が聞こえていたのか。
「悪いけど、こっちのテーブルにしない?」
ケンイチさんが申し訳なさそうに言う。
「どうしてですか?」
カズオが聞いて、私もケンイチさんを覗き込んだ。
「高いところが苦手で・・・」
「え?」
「そこ、下が見えるでしょう?」
「あ」
2階のバルコニーからはフェンス越しに海際のコンクリートが下に見えていた。この席だとそれが怖いと言うのだ。カズオと私は弁当を持って立ち上がり、ケンイチさんの言うテーブルに移った。
「ケンイチさん、高所恐怖症なんですか」
私が聞くと、ケンイチさんは照れくさそうに
「ええ、まあ」
と言った。意外な一面を見つけて嬉しかった。ていうか、いま、ちょっとの間、私の胸を見た? え、もっと見てほしい。そう、私を見て。
私は暑そうなふりをして、途中まで下ろしてあったウェットスーツをさらに腰まで下ろし、白いラッシュガードのラインがよく見えるように座りなおした。
「けど、ダイビングは怖くないんですか」
「それは怖くない」
「なんでですか」
「分からない。理屈じゃないからね」
カズオと会話をしている間も、ケンイチさんは私の胸をちらちらと見た。嬉しい。マリナに向けていた視線を、今は私が奪っている。カズオでも、マリナでもなく私を、ケンイチさんが私を気にしている。それがとりあえず胸であっても、いい。
「ケンイチは根性なしよね」
からかい気味に言って、弁当を持ったマリナがテーブルについた。
「そうじゃないよ」
とケンイチさん。私が点数を稼ぐチャンスだ。
「私、ちょっと分かるかも」
「高所恐怖症なの?」
マリナの質問にはカズオが返した。
「オレら、同性愛者なんですよお。確かに、理屈じゃ分かってもらえないところなんか、似てるかもですねえ。――あ、性転換とかはしてないんですよ。オレらはただの擬装カップルなんで」
ちょっと待ってカズオ。さらりと言ったのは百点満点だけど、それじゃ私が男に興味ないみたいじゃないの。ケンイチさんだって聞いている。――あれ、ケンイチさんの強い視線を感じたわ。カズオに向けた顔、そうかこんな感じが好きなのかしら。ちょっと覚えとくね、ケンイチさん。
それより今は、きちんと伝えておかないといけない。
「カズオがゲイで、私はバイセクシャルなの」
そう、ちゃんと伝わったかしら。私はマリナにも、ケンイチさんにも興味津々なバイなのよ。
そのあと、ダイビングボートの上でバディチェックをしたわ。ケンイチさんとマリナがバディという事実は、今のところ変えがたい。2人がチェックし合うのを見て、激しい嫉妬に見舞われた。何とかして状況を変えられないかしら。そうだ、数の問題だわ。本来マリナは、フリーでみんなを見る立場なのに、ゲストが奇数だから、あぶれたケンイチさんのバディをマリナが兼任することになってしまうの。
「すまんアカネ、タンクのバルブを開け忘れたんだ」
カズオが急に何言ってるのよ。すでにBCDを背負って、背中にあるタンクを指さしているわ。もう一度下ろすの大変だから、私にバルブを開けてくれっていうのね?
「世話が焼けるわ」
「ごめんごめん」
カズオの後ろでバルブを5回開けて回したところで、ふと思い返した。私はバルブを全開にするふりをして、そこから4回閉め戻してやった。カズオは気づかない。
「これでいいわ」
「ありがとう」
――ごめんカズオ、私の前から消えてね・・・
間もなくエンジンが船を震わせて出港した。
防波堤を過ぎると船が少し揺れた。岩壁で砕ける白い波から一定の距離を保って進んで、松の木が茂る小さな岬を過ぎると、ポイントはすぐ近くだった。器材を背負ったまま到着し、アンカーブイにボートが繋がれるのを待ってから、ジャイアントストライドで一人ずつ海にエントリーした。海面で待っていると、ボートの上からマリナの親父さんが私のカメラを手渡してくれた。
アンカーロープに沿ってゆっくりと潜降を開始。最初は耳が詰まったような違和感があり、海面で泡がプチプチはじける音がやたらと聞こえる。水圧を感じて少しずつ耳抜きをしながら降りていくと、ある深度を境に海水が急にひんやりしてくるわ。透視度は30メートル以上、いいコンディションね。4人が着底し集合をしてから、マリナの合図でフィンを動かし進み始めた。マリナとケンイチさんが前を泳いでいる。岩場に沿って動くクロホシイシモチの群れをバックに、いい画角だわ。後ろから見た2人を何枚かカメラに収めた。それにしても、カズオはなぜ平気なの。バルブをもう少し閉めておけばよかったかしら。初めてやったから加減が分からないわ。
ほどなくして、海中の岩壁に開いた穴の前へ着いた。マリナ、ケンイチさん、そして私とカズオが順に入って行く。洞窟ダイブってそんなに楽しいのかな。やっぱりただの穴でしょう? なんでみんな、わくわくするのかしら。ちっちゃなウミウシの方が可愛いのにな。やっぱり海はマクロ系よね。
だけどもいまの興味はあの2人。洞窟内を行くマリナとケンイチさんにカメラを向け、フラッシュを焚く。あら、おっきいクエがすれ違って来たわ。とっても邪魔ね。ケンイチさんはうまくかわしていく。私の下を通り過ぎたクエを、後ろのカズオが突っついたわ。驚いたクエが急に尾ひれをバタつかせて去って行った。カズオのやつ、元気ね。
竪穴をゆっくりと浮上する間も、あの2人は一緒。そのスピードに合わせて私とカズオがあとから浮上する。この上がエアドームなのね。ダイビングの途中で水面に上がるのは初めてのことだけど、洞窟の中で顔を出すのって面白いわ。ちょっとだけど、洞窟ダイブの魅力も分かる気がしてきた。
よし、水面に出た・・・うわ、ここの景色はスゴイきれい。午後の光が岩に射して、とってもロマンチックだわ。思わず声に出してしまった。隣でカズオがはしゃいでいるけど、うるさいわね。そうだ、とにかく浮力を確保して、写真を撮ろう。海からしか入ることができない素敵な風景、今日初めてあの2人以外にも興味が向いた。こんなのがあるなら、地形ダイブも悪くないってものね。
この波立つ水面も、人が来なければ鏡のように静かなのかしら。そうだ、この素敵な景色をバックに2人を撮ろう。ほら、笑ってこっちを見てちょうだい。いい感じね。・・・げ、カズオが入って来た。お前は呼んでないってば。ケンイチさんには近づくな。おい邪魔だよどいて。しょうがないわねえ。あとで加工して消してやるわ絶対。そうだ、カズオにも撮らせよう。私を入れて3人の写真を撮りなさい。マリナとケンイチさんと私のスリーショットよ。
ひとしきり楽しんでから再び潜降。やっぱり帰りの穴も退屈だわ。ネンブツダイは多いし、もういいよって感じ。さっきのエアドームが今回のメインね。相変わらずカズオはついてくるし。消しゴムマジックみたいに本当に消せたらいいのにな。
横穴に入って行くと、ケンイチさんが振り向いたわ。マスクの中でウィンクしてあげたけど、反応なし。ていうか洞窟が暗いし、これってきっと、よく見えてないわよね。
あっ・・・
前を向いたケンイチさんに、マリナのフィンが当たったように見えた。ケンイチさんの顔から大きな泡がひとつ出て、それが上の岩に向かって揺れながら上がっていくと思ったら、急にケンイチさんの動きが止まって浮遊した。けど、マリナは気付かずに向こうの岩陰に消えて行く。
え、大丈夫なの?
それでもケンイチさんはすぐ我に返って、自分の口から外れたレギュレーターを回収しようと動き始めた。よく見るとケンイチさんはレギュレーターもマスクもしていない。マスクはどこかしら。見つけたわ。私は肺の息を深めに吐いて呼吸をしながら、1・5メートルほど下までゆっくり潜降し、青いフレームのそれを拾い上げた。ケンイチさんを見上げると、あれ、もがき回っている? どうやらレギュレーターのマウスピースがBCDのポケットに引っ掛かっているようだ。まずい、助けなきゃ。そう思ったところへ、気づいて戻ったマリナが素早くケンイチさんに抱き着いてきた。なにをするの? そうか、パニック状態を制止して、マリナのオクトパスを口に咥えさせようとしているのね。しまった、その役やりたい。もがく全身を抑えるため、マリナが脚まで絡めている。羨ましい。ケンイチさんを見ると、目を見開いて完全にイってしまっている。正気を失った状態で、目の前のオクトパスの存在がすぐに分からないのかしら。少ししてからやっと口に咥え、呼吸を回復したわ。
まだ咳き込んでいるけど、マリナのタンクで2人一緒に呼吸しているのが、たまらなくエロく思える。こんなの見たら、またも嫉妬を感じるじゃない。
そうだ、わたしマスクを持ったままだった。ゆっくり浮上すると、まだ息の荒いケンイチさんの顔にマスクを当てて、そこに髪の毛が挟まらないよう丁寧に掻き上げてあげた。マスクスカートに1本でも毛が挟まると、そこから水が漏れて入るからね。自分ではいつもやっているけど、他人のマスクを着けるのは始めてだから緊張するわ。でもこれはマリナに譲らない。ケンイチさんに公然と触る初めての機会だもの。ゆっくりと髪の毛をよけて、マスクストラップを頭の後ろに回してあげる。そこまでやったら、ケンイチさん自身が鼻から息を出して、マスク内にある海水を排除できるわ。よし、あとはレギュレーターね。引っ掛かっているのを取って、ケンイチさんの右側からホースを回し、マリナに渡す。あとはマリナのオクトパスとケンイチさんのレギュレーターを交換してもらえば終わり。でもマリナが交換のタイミングを待っているわ。まだケンイチさんの息が落ち着いてないからね。
そういえば、カズオはどうしたのかしら。あれ、後ろで苦しそうにもがいている。息ができないの? え、そう? 今やっとなの? マリナはケンイチさんに集中していて、気が付いていない。よし、ちょうどいいわ。私も気付かない振りをしておこう。こっちではケンイチさんがレギュレーターを咥え直しているわ。今カズオは・・・急いで来た道を引き返して行った。まるでクエが慌てて泳ぎ去ったときみたい。たぶんさっきのエアドームに向かうんだろうけど、間に合うかしらね。
ケンイチさんのリカバリーが終わって、マリナが先へ進みだしたわ。マリナったら、全然気づいていないのね。そのあとに続いてケンイチさんが進む。とりあえず私もあとに続こう。まだ善良なバディとしての芝居を平然とこなさないといけないわ。そうだ、わざと少し遅れて洞窟を出よう。
私は動転した振りをして穴を出た。そう、カズオがいないの。気付いたマリナがやっと慌てているわ。2つの掌を前に出し、『ここで待て』と私たちに合図をすると、さらに右手と左手の人差指を伸ばして並行に近づける。これは『2人離れないように』というハンドシグナルだ。私とケンイチさんを残して、マリナは急いで洞窟へ戻って行った。とっても可笑しいわね。こういうの、やめられないかも。だって私の演技に気付いてないもの。
ケンイチさんが茫然と洞窟の口を見つめている。どうしたの? 私たち、やっと2人になれたの。邪魔者は私がちゃんと処分するから、一緒にいてね。こうしてそばに寄って、私の熱を感じてちょうだい。ほら魚たちだって、祝福してくれているみたいでしょう?
そう、まずケンイチさんを手に入れる。あなたは私のバディになるのよ。マリナはそのあとね。一人ずつ攻略していくわ。なにもかもが、楽しみになってきた。
窓の外には古い住宅の赤い屋根が見え、その前にある時季外れの桜の幹が、裸になった枝をあちこちに伸ばしていた。点滴を受けるベッドの上で、カズオは日に焼けた顔を天井に向け、力なく目を開けている。節々の痛みと息苦しさに耐えながら、時々うめき声を発しているわ。エアドームでの急浮上が減圧症を引き起こし、カズオの身体のあちこちに溜まってしまった窒素が悲鳴を上げているのよ。もう一度高圧酸素の中に入って、そこからゆっくりと減圧をすることによって体内窒素を排出しなければならないから、カズオが入るための再圧チャンバーを病院が準備しているところだわ。
でも少しやっかいね。あのまま死んでくれたら良かったのに、カズオはまだ生きて喋ることができるの。
「あのとき、」
とカズオが風邪を引いたみたいな、弱くしゃがれた声を発した。
「あのとき、バルブを、開けてくれなかったのか?」
「だったらどうなの?」
逆ギレするしかないわね。強気に出てやる。カズオは見た目に反して弱々だから、口喧嘩でいつも押し返すことができない。
「あなた結局、私に何をしてくれたの? その上、私の邪魔をしないでちょうだい。邪魔をしないで、黙って消えてくれればいいのよ。わかる?」
弱った顔にわずかながら愕然とした表情を見せて、カズオはまた力なく言葉を発した。
「邪魔・・・だったのか」
「ケンイチさんを取らないで」
「そうか・・・そうか、オレは、邪魔だったんだね」
カズオは少し考えるように目を閉じた。もう充分だわ。カズオはカズオなりの、私への愛情があることをよく知っている。何も言わずに次の言葉を待とう。痛みに耐えるような痙攣をしてから、カズオは少しだけ目を開けた。
「わかったよ。アカネとは、解り合える友達に、なれると思ったけど、それはもう無理なんだね」
痛みに顔をゆがめ、ところどころで言葉を止めながら喋った。
「そうね」
「でも、最後は・・・最後だけは、アカネの、望む通りにするよ」
「だったら、黙っていなくなって」
「黙って消えれば、いいんだね・・・それじゃあ、この治療が終わったらオレはもう、このまま帰るよ」
「そして、もう、お別れよ」
カズオがまた目を閉じて、息をゆっくり吐きながら、静かに頷いた。よし、それでいい。素直だわ。それでいい、それでいいのよ。
そこへ、ダイブハウスと電話をしていたマリナの親父さんが、外から戻って来た。たぶんマリナと話したのね。開け放してあるドアから顔を出して一度立ち止まり、
「2人に話がある」
といつもの険しい顔で言ってから部屋に入ってきた。でも次に話し始めたとき、少し神妙な表情に変わっていたわ。それで私、ちょっと警戒しながら慎重に聞いたの。
「今回の病院費、東京からの交通費、宿泊費、それにダイビングフィー等を、お2人分全部ダイビングハウス・キムラが持ちます」
え、どういうことかしら。かなり気前が良すぎるのでは。
「もちろん、今朝2人にサインしもらった誓約書にある通り、このような事故は個人の責任であって、我々に落ち度はない。しかしながら、ここで起きたことで不愉快な思いを君たちに残してもらうことは本意ではない。だからこれは、我々のささやかな気持ちと思ってもらえたらいいです」
「あ、ありがとう、ございます」
カズオが弱々しい声ですぐに言った。でも、それでいいの? それ貰って大丈夫なのかしら。
「本当に、それだけですか」
私が問い返すと、親父さんは目を閉じ、ふうと鼻から息を吐いてから続けた。
「あえて言えば、このことを誰にも言わず、SNSや文字にも上げないで欲しいのです。ダイビングハウスにいる他のお客さんには、カズオ君の身体に異常はなかったと伝えてあります」
そういうことか。やっと納得できた。それが木村家のやり方ね。むかし漁師だったこの親父さんが、何かのきっかけでダイビングハウスを始めたらしいけれど、経営上手とは言えない親娘がそうやって難事を切り抜けてきたのかも知れない。でも、これは私にとってのチャンスだわ。悪女の女神がもしいるとしたら、いま私に微笑みかけてくれているんだと思う。これを利用しない手はないわね。
「ご配慮ありがとうございます。カズオにはぜひ、いまおっしゃった通り支払ってあげてください。でも私はもう少し考えさせてもらえないでしょうか。カズオは退院後帰りますが、私は予定通り残りのダイビングを楽しんでいきたいので」
親父さんが細く険しかった目を大きく見開いて、私を見た。よほど驚いたらしい。こんな顔もするんだ。
「お2人に、それぞれ見舞い金を追加しましょう。明日以降のあなたのダイブフィーも付けます」
私が値上げ交渉をすると思ったらしい。でもいい傾向だ。
「そうではないんです。少し考えさせてくださいと言っているんです」
「あなたに悪いようには決してしない」
このカードは、まだ残しておきたい。掴んだ弱みはキープしよう。もっと慎重に考えてから、ゆっくり斬り込むことにする。うきうきするわ。そう、あなたの娘さんを私に差し出してもらうためにね。
「みゆき沢の民宿に送ってもらえますか。カズオの荷物を纏めますから」
「わかりました」
カズオはいつの間にか、静かに寝息を立てている。痛みのためか、寝たまま頻繁に痙攣を繰り返していた。
女湯は5人くらい入れるけれど、他の泊り客と入れ違いで私一人になったから、脚を伸ばしてのんびりと岩風呂に浸かった。カズオの荷物を親父さんの車に引き渡して、あとは任せたから、今夜はゆっくりできるわね。立ち昇る湯気を見ながら、今日一日の出来事を振り返るの。カズオの一件は思い通りに行かなかったけれど、結果オーライね。きれいに別れることができたし、おまけにマリナと交渉をするための切り札を手に入れた。
でも淋しい夜だわ。私はまだひとりぼっち。ケンイチさんのいる民宿はどこなのか、聞いておけばよかったな。それが今日唯一の失敗だわ。どこかで見つけるチャンスがあればいいけれど、狭い町とはいえ、それは難しいよね。そうだ、ケンイチさんよりも、マリナを先にしようかしら。親父さんはカズオの荷物を届けに病院へ行ったし、そのまま市街に用事があるって言ってたから、マリナは一人でダイブハウスにいるはず。よし、そうとなればまず腹ごしらえね。ガッツリ精をつけないと闘えないわ。そろそろ風呂を出よう。
いつの間にか、温泉宿特有のいい匂いが廊下まで漂っている。よかった、部屋に食事の準備をしてくれているみたい。引き戸を開けると、座敷テーブルの横に配膳用のトレイが置かれて、その中には夕食の皿がぎっしり。一つひとつ出してテーブルに並べるわ。海で獲れた新鮮な刺身に、フライと焼き物、煮魚も。それにお決まりの固形燃料付き一人鍋、小さなお櫃にはちょっと多めのご飯があるわ。民宿って安いのにこんな豪勢で、大丈夫なのかしら。あと、この椀はいったい何の味噌汁? 見たことのない貝だけど、やだフジツボみたいのが入っている。でもいい匂い、とっても精がつきそうだわ。いただきまーす。
こうなると、やっぱり一人なのが淋しいわね。明日は誰かと食べられないかしら。そうだ、カズオもいないし、ここを引き払って、ケンイチさんのいる民宿に移ろう。それっていい考えね、絶対そうしたいわ。まずどこの民宿か調べないと。マリナを落とすのに成功したら、ケンイチさんの民宿を聞き出して、今夜一緒に乗り込んじゃうっていうのもいいわね。
マーリナっ、マーリナっ、わーたしーのマーリナっ・・・
やっぱり、とにかくマリナだわ、ケンイチさんはともかく、今夜はダイブハウスでそのまま彼女とやっちゃおう。
マーリナっ、マーリナっ・・・
ああ美味しかった。漁港の味を満喫したわ。横になりたいところなんだけど、腹ごなしに海沿いを歩いてダイブハウスへ向かおう。短パン、Tシャツに薄化粧でもいいかしら。いや、少し涼んできたから上に浴衣を羽織って行くわ。マリナはまだいるのかな。仕事でいつも遅くなるって話してたから、きっと大丈夫ね。待っていなさいよ。
民宿の前の坂をビーサンでペタペタ下って行く。舗装はところどころ傷んで波打っているわ。道沿いに街灯はあるけど、海は真っ暗でよく見えない。湿気のあるやわらかな風が、潮の香りと静かな波の音を絡ませて心地よく漂ってきた。防潮堤沿いの道に出ると、左の一番端にはダイブハウスの明かりが見えているわ。マリナはまだあそこにいるはずね。
その明かりに向かって、人通りが少ない道をゆっくり歩いていくと、どこかの泊り客のカップルが、前からイチャイチャと歩いて通り過ぎて行ったわ。目障りね。でも今はマリナとの対決と、そのあとの淫行に集中しよう。やっぱりマリナはいい女だわ。想像しただけでゾクゾクする。マーリナっ、マーリナっ、わーたしーのマーリナっ・・・ああ楽しみだわ・・・最初はどんな風に切り出そうかしら。あら、向こうの方で、自販機の明かりに照らされた男の人が、海の方を見て佇んでいる。無視をして通り過ぎよう。マーリナっ、マーリナっ・・・近づいてみるとあの男、見覚えのある後ろ姿、浴衣だけど、あれ、もしかして、ケンイチさんじゃないのかしら。
ちょっと立ち止まってよおく見よう。ここから15メートルくらい先で、いったいなにを物思いに耽っているのかしら、ケンイチさんは私に全く気づかない。やっぱ間違いない。そう、登戸駅でも同じだわ。気づかない。振り向かない。そんなケンイチさんに近づいて、チカンしたい衝動にかられるの。触られて振り向く彼は、そのあとどんな反応をするのかしら。
そうだ、今ここで、やっちゃおうかしら。
だって男の人って触られて悪い気がしないでしょうきっと。その証拠に、今まで一度も訴えられたことがないんだもの。満員電車で気に入った男に近接しながら刺激をすると、最初は驚くけど、すぐに黙ったまま目を閉じて無視するのよ。なのにぃ、ズボン越しの私の手の中で、物理的にしっかり感じちゃってるの、全部すっかり分かるわ。ときどき目を開けて私の顔をちら見するけど、その男はまた知らない振りをしようとする。でも耐え切れなくなって、困ったような嬉しいような複雑な表情になるのよ。それで私も堪らなく興奮する。あれって癖になるし、きっとまたやめられないわね。次のターゲットが、あのケンイチさんだったんだもの。
ちょっと待って、何を考えているの私、マリナを落としに行こうとしていたのに、どうしよう。このままダイブハウスに行くか、それとも、もう一度目標を変更してケンイチさんを先にするのか。大問題ね。気持ちを切り替えられるかしら。どうして2つのチャンスが同時に並んでいるの・・・私の神様は意地悪なのね。いったい、どうしたら・・・
てか、ばかね私、なにをうろたえているの。そんなの決まっているじゃない。目の前のチャンスを確実に拾うわ。こっちを先にしろって、悪女の女神が囁いているのね。
よし、肉食系は獲物を逃がさない。真っすぐに捕えに行こう。
すたすた歩いてケンイチさんに近づき、持っている缶ビールを奪って飲んだわ。驚くケンイチさんの顔を見たら、思わず笑顔になっちゃった。
「何を考えていたんですか?」
「驚いたな、病院から戻っていたのか」
「私、まだ明日も海に潜るので」
「病院、大したことなかったみたいで良かった」
「カズオって人騒がせなヤツです。それより、こんなところで真っ暗な海を見て、どんなこと考えていたんですか?」
「今日あったことをいろいろ思い出していたんだ」
「ふうん。マリナのこととか」
「え? カズオの一件のこととかだよ」
「でも、マリナのことは好きですよね、ケンイチさん」
「そんなことは、ないよ」
「本当ですか、じゃあマリナを私が奪ってもいいですか?」
「え?」
「私、いまからマリナを落としに行くところなんです。あ、それとも一緒にいきます?」
「な、なにを言ってるんだよ」
「ケンイチさん、本当はマリナのこと、好きなんですよね、私もそうなんですよ」
「いや、お、オレはまさか、そういう感じじゃないよぉ、まあ、素敵な人だけどね」
「そうなんですか」
「本当に今から行くつもりなの?」
「だったら、どうなんです?」
「どうなのって・・・」
「嘘ですよ、本気にしたんですか、行くわけないでしょう」
「嘘か、なんだ」
「分っかりやすく、安心してますよね、やっぱり好きなんだ」
「そ、そうではないけど」
「本当に?」
「本当に」
「それじゃあ、・・・私はどうですか?」
「え?」
「私は、その・・・女の子として、どういう風に思います?」
「それは・・・」
何を困っているのかしら。お世辞でも可愛いって言ってくれればいいじゃないのよ。ゆっくりと前に出て、ケンイチさんの目の前に私の髪を近づけるわ。
「遠回しに言ってごめんなさい、本当を言うと、マリナのことが聞きたかったわけじゃないんです」
「そうなのか」
「私、本当はすごく淋しくて・・・」
「・・・」
「だから、・・・よかったら」
「え」
「私でよかったら、ケンイチさんに慰めてもらえないかなって、・・・」
ちょっとストレートだけど、悪い気はしないでしょう?
「だめ、ですか」
あれ、ケンイチさん、震えているの? 慣れない感じで私の背中に手を回している。話をかき回されて動揺してるのかと思ったけれども、もしかして、ウブなだけなのかしら。
よし、それでもいいわ、ここは一気にいこう。チカン常習者の真価が問われるときね。お腹をケンイチさんの大切なところに密着して、胸もしっかり当てるわ。腕をケンイチさんの後ろに回して、優しくホールドしてあげるの。やっぱり反応しているねケンイチさん。それも盛大に。本当は手で直接撫で上げたいけれど、今はやめておこう。上を向いて口づけを求める振りをしながら、敏感なところをお腹で擦り上げるの。張り詰めた膨らみを私の身体で抑えつけられて自由にできず、とても可哀想なことになっているわ。これで完全に落ちたみたい。さあ、ついに唇を重ねてくるわね。
――あ、でも痛い。強すぎるわ。へたくそね、・・・もしかしてやっぱり・・・
「もしかして、女の子、慣れてないの?」
「いや、そんなこと・・・」
「隠さないでね、私には」
ちょっと間があって、ケンイチが静かに頷いた。だから私は、耳元でとどめを刺してあげるの。
「やさしく教えてあげるね、ケ・ン・イ・チ・クン」
男って反応が明確だから面白い。急に君付けにしたら、さらに興奮しちゃったよね。いいマゾっぷりだわ。そう絶対、私好みに育ててあげるんだから。
ちょっぴり夜風が冷えてきたわ。暗くて見えないけれど、そこの浜に漁具小屋があったはずね。風が来ないところに行って、一緒に遊びましょうか。
「あなたたちの関係に何かあったことぐらいは、今朝からの様子を見ていれば私にだって分かるわ」
次の朝、ダイブハウスの奥にある狭い事務スペースで、マリナはすました顔で言った。私は腰まで履いたウェットスーツ姿のまま、納品書とか請求書のファイルが無造作に置かれた事務机に寄りかかって、隣の机に座っているマリナを見下ろしていた。マリナったら私を冷淡に見上げながら、職員室の先生みたいに話すのね。
「だからって、あなたたちの遊びに付き合うつもりはないの」
「内心は嫉妬しているんでしょう」
「見損なわないでちょうだい。ケンイチに対してそういう感情はないわ。ケンイチが私に好意的なのは分かっているけれど、お客さんとして気持ちよく楽しく接してあげているだけ。そんな客は他にもたくさんいるのよ」
勝ち誇ったように背もたれに肩をあずけ、私を見上げている。
「それじゃあ言い方を変えるわ。例のお金はいらないから、今夜一晩、あなた自身を私に差し出してちょうだい。これは断らない方がいいわよ」
マリナが何かを言い返そうとして一瞬だけ口ごもった。強気な目に陰りがあるわね。
「あなた何を言っているか、分かっているの?」
「分かっているわよ。マリナには、明日の朝まで私のものになってもらうの」
マリナはピンと張っていた肩をやや低く落とした。
「そんなこと、私にはできないわ」
「これはお願いじゃないのよ。マリナは、私とケンイチのいる民宿に来ればいいの」
私のいた民宿は今朝キャンセルして、ケンイチの民宿に移ったわ。それで、マリナをそこに呼び出すの。ケンイチはすっかり私に夢中だし、あとはマリナを陥落すればミッション成功ね。
「でも・・・」
とマリナがまた口ごもったわ。
「楽しみに待っているわ。今夜8時にいらっしゃい」
そう言って去ろうとすると、マリナが私を引き止めた。年下の小娘に逆らえなくて、さすがのマリナも惨めね。
「ちょっと待って。わたしケンイチの前では無理。あなたと2人だけじゃ、駄目なの?」
「却下。マリナの条件なんてのめないわ。あくまで3人よ」
「でも・・・仕事があるから、8時はだめなの。たぶん11時過ぎになるわ」
「10時までなら待ってあげる。それを過ぎたらどうするか、分かってるわよね」
「・・・」
「分かってるわよね」
「・・・」
「なんとか切り上げて来なさい。返事は」
「・・・」
「返事は」
「分かったわ」
「よろしい」
気分いいわ。夜は長いし、楽しみね。
それまで今日は、ゆっくりダイビングを堪能しよう。まずはアオリイカのエロい産卵ね。ケンイチはエロくないって言うけど、絶対エロいに決まっているじゃない。
すっかり気落ちしたマリナを事務スペースに残して廊下をいく。外へ行く前にお化粧室に寄ろうかしら。すると、トイレの手洗い場からサエとキヨの声が聞こえてきた。べつに気に留めないつもりだったのだけど、ケンイチの名前が出たもんだから、思わず立ち止まって、廊下の見えないところから立ち聞きしたわ。
え、何ですって? サエがケンイチに母性をくすぐられる? キヨがそれを応援するですって? なに勝手なこと言ってるのよ。はあ? 小娘のアカネじゃケンイチと釣り合わない? 腹立つわあ。貧弱な顔してなに言っちゃってんのよ。マジむかつく。トイレに行こうと思ったけど、その気も失せたわ。ていうか、どうせ海の中でおしっこ出してもいいし。とりあえずこのまま外へ出ることにしよう。ああやだ、ちくしょう、なんだか天気だけはいいし、海がやたらと青いわね。せっかく気分よかったのに、すっかり嫌気がさしてしまった。あの女たち、どうしてくれよう。
外は誰もいない。私たちの重器材を積み込んだ軽トラが、強い日差しを浴びて淋しく停まっているわ。よく見ると潮風に晒されて、荷台の塗料の剥げたところが少し赤く錆びているのね。スタッフはそこを離れて誰もいない。そうだ、急にひらめいたわ。邪魔ものは消す、それが私の流儀だもん。今ならできる。やってしまおう。こういう悪さは楽しいのよね。
軽トラまで行ってその荷台を覗くと、私とケンイチのマイ器材が並んでいる。その横に、サエとキヨのちょっと古びたレンタル器材が積まれているわ。BCDのデザインが青いのがサエ、黒いのがキヨだったわね。まずタンクのバルブに目がいったけど、同じ手口だと怪しまれるし。うーん、少し甘い手だけど、これしかないわ。私は青いBCDに手を伸ばして、そのレギュレーターに付いている流量調整のノブを思い切り絞ってやった。呼吸抵抗が大きくなるだけで、息はできるんだから死ぬことは普通ない。ただ、最初は元気に呼吸できるけど、疲れてくればだんだん息苦しい錯覚に陥るので、海の底でパニックになるかもね。ケンイチの前で恥をかかせれば、きっと大人しくなるわ。最悪のケースは苦しさで正気を失い、海面を求めて危険な急浮上、カズオと同じ再圧チャンバー行きよ。可能性は低いけど、それも無くはないわね。どうなるか楽しみだわ。
あ、サエとキヨが仲良く表に出てきたわ。何事もないように振る舞わないとね。 は? ケンイチも一緒なの? え、なにやってるのよ。楽しそうに話なんかしちゃってさ。ぶつかる勢いでケンイチに突進してやるわ。サエとキヨが「こわいー」「やだあ」とかホザいて急に離れた。私はケンイチをそこから引き離してから、軽いボディブローをくらわせてやったわ。
「あ痛っ」
私が怒った顔を見せたのに、ケンイチはちょっと嬉しそう。
「少し話をしてただけじゃないか、何もしてないよ」
まあいい。あのサエには、私のお仕置きが待っているわ。
そこへ白のウェットスーツを腰まで履いたマリナが、普段の何気ない表情に戻って出てきた。
「そろそろ出発するわ。みんなバンに乗って」
私と一瞬目が合ったけど、マリナがすぐに逸らした。今夜のことを考えるとまたゾクゾクしちゃう。
後ろの座席にケンイチと隣同士で陣取った。前にサエとキヨ、運転席にはマリナが乗ってエンジンを始動。
「行くわね」
マニュアル車特有の加速でゆっくり車が出ると、私たちの器材を載せた軽トラが後ろを追走した。2台列んで海沿いを走り、右に曲がって民宿の並ぶ坂を揺られながら登る。今夜マリナを呼ぶ民宿も過ぎたわ。そこから国道に出ると、シフトアップしてアクセルを踏み、マリナがさらに加速をした。風とエンジン、路面の音がさらに大きくなる。
「今夜の件、マリナと話をつけたから大丈夫よ。その時間までは一緒に温泉入って、夕飯食べてから、アソんで待っていようね」
前の座席には聞こえないよう、ケンイチに顔を近づけ小声で話した。
「本当に来るの?」
「嬉しいでしょ」
「オレは2人でもいいんだけどな」
「嬉しいくせに」
鼻を伸ばしているケンイチの大事なところを、ウェットスーツの上からグーで押してやった。
眩しい日差しを遮る木々、その間をくねって国道を走り、坂をいくつか超えるとその先に和見浜が見えてきた。今日1本目のダイビング・ポイントね。国道から脇道に降りて木々の間をくねくね行くと、急にひらけたところに広い無料駐車場があった。アスファルトには、あちこちヒビが入っている。一般車が数台と、奥の方にパトカーが2台停まってるわ。警官が3人立って話をしているのが見え、もう1人が運転席で無線機を持っている。何かがあったのかしら。パトカーの向こう側にダイビングサービスや民宿らしき建物が並び、その間から砂浜と青い海が見えている。
パトカーから少し離れたところにバンと軽トラの2台を停めると、軽トラを運転していた若い男性スタッフが降りて、警官の方に歩いて行った。何があったのか聞きに行くのね。
マリナが運転席を出て、バンの後ろの手動スライドドアを、外から重そうに開けたわ。
「サエさんキヨさん、それにケンイチは先に降りてね。アカネさんには、ちょっと話があるから残ってもらえますか?」
今夜のことでまだ話があるのかしら。ケンイチに目配せすると、頷いて先に降りた。私だけになった車内にマリナが乗り、スライドドアをガンと思い切り閉めた。エンジンを止めた車内はやけに静かね。マリナは私の前の座席で片膝をついた姿勢になり、後ろの座席にいる私の方を見て、
「落ち着いて、聞いてほしいの」
とゆっくり話し始めた。
「カズオに対する傷害の罪で、あなたをここで警察に引き渡すわ」
え、どういうこと?「なぜ、いったいなぜ・・・」
「病院の先生や看護師さんたちが不審に思って、昨夜カズオにいろいろ問いただしたの。それでカズオが、あなたの犯行を明らかにしたのだそうよ」
パトカーの方を見ると、軽トラのスタッフがこちらを指さしながら、警官2人を連れて歩きだした。・・・え、そういうことだったの? それにマリナ、ドアを閉めてそこにいるのは、私が逃げないようにするため?
「おかしいわ。民宿やダイビングハウスではなく、なぜここなの?」
「みゆき沢で騒ぎを起こしたくないの。とくにダイビングハウス内ではね。今朝警察からの電話を受けたとき、もう和見浜行きの4人が決まっていたから、ここで引き渡したいと警察にお願いしたの」
どこまでも・・・マリナ、どこまでもズル賢く自分たちの店を守るのね。
「それじゃ、今夜の話は・・・」
「あの話のときはもう、警察と電話したあとだったの。あなたに気づかれないよう細心の注意を払ったわ」
待てよ、待て待て、ちょっと待て、それじゃあ、あれは演技だったの? やられたわ。マリナにしてやられたのね私。全て保身のため、この場所で私を警察に渡すため、マリナが仕組んだのね。やるわ、私よりずっと、うわてね。それに、とんだ悪女だわマリナ。にこりともせず、冷静に淡々としている。本物ね。
マリナがスライドドアを開け、警官が2人、上半身だけ中に入れて私を見た。一人は若いすっきりした顔の男性で、もう一人は顔の大きな色黒の中年男だ。若い方の警官が、私に話しかけてきた。
「あなたが志ノ崎あかね、ですか」
「はい」
「あなたに、傷害及び殺人未遂の疑いがかかっています。署までご同行くださいますか」
「はい」
マリナが先に出て、私が2人の警官に挟まれるようにしてバンから出た。路面のヒビがめくれて歩きにくい。そのままパトカーの方に向かうと、ケンイチが駆け寄って来た。
「どういうこと? なにがあったの?」
マリナを落とせなかったの。もうケンイチに見せる顔なんてないわ。
「ごめんなさい、マリナに聞いてね」
「えっ」
顔を見てないけど、驚きを隠せないケンイチの表情が目に浮かぶわ。パトカーの後部座席に入ると、左に恰幅のいい女性警官、右にさっきの若い警官が座った。女性警官がパトカーの中にいたのは気づかなかった。
――て、ちょっと待って、わたしウェットスーツのままなんですけど。
「着替えてから行っても、いいですか?」
私がお願いすると、女性警官の方がにっこりと返してきた。
「荷物はあとで届けてもらいます。署で着替えられるから、安心してくださいね」
そうじゃなくて、パトカー降りてから警察署の中をこのまま歩かせる気かっつうの。恥ずかしいじゃない。・・・言ってもこれ以上聞いてくれそうにないけどね。
パトカーはなかなか出発しない。右の窓から外を見ると、ウェットスーツ姿のケンイチとマリナが警官の前で事情を聞かれているみたい。少し離れたところでは、サエとキヨもキョトンと並んで警官に話しかけられている。サエは上体をやや後ろに逃がしながら両掌を胸の前に広げて小さく振る仕草をし、キヨもしきりに首を横に振っている。その2人のザコは関係ないわよ、何も知らないって。
ここから見ていると、ケンイチとマリナは結構お似合いなんだね。マリナはケンイチに興味ないって言ったけど、もしかすると、あれも嘘だったりするかしら。ケンイチ、頑張ってね。邪魔ものには私が仕掛けをしておいたから、あとは自分で何とかしな。もう二度と会わないかもしれないね、ケンイチにも、マリナにも。ああ、いいところまで行ったんだけどなあ。やっぱり私の最終願望は叶わなかった。そういう運命なのかしら。
やっと警官たちがパトカーに戻って来た。私の前の運転席と、もう一台のパトカーに乗り込むと、よし行こう、とエンジンを始動し、ゆっくりと転がしながら駐車場を出た。
そのとき、私の中にひとつの考えが浮かんだ。そうだ、まだ会えるかも。そう、あの満員電車、あの時間に登戸で、ケンイチに会える。私は後ろを振り向いて、建物の隙間に垣間見る白い砂と青い海を背景に、木々の間で小さくなりつつあるその姿を、そうマリナの隣に立って何か話しているケンイチを、もう一度見た。私がいつ解放されるか分からないけれど、待っててね。あそこで私がチカンしてあげる。そして悪戯っぽい笑顔であなたを見上げるの。きっと心臓が飛び出るほどびっくりするだろうね。そして思いっきり感じちゃうわね。私、マリナなんかより、ずっといい女を探すんだから。そしたら絶対今度こそ、3人でしましょう。絶対に、絶対によ・・・
だから、だからちゃんと待っていてよね。それまでは、しばらくの我慢だよ。
(了)
ロンサムダイバーズ
【参考文献】
① 後藤ゆかり著(2014年)『潜水事故に学ぶ安全マニュアル100』水中造形センター
② A・J・バックラック、G・H・エグストロム著、関邦博、眞野善洋訳(1988年)『ダイバーとパニック』井上書院
③ BSAC JAPAN編(1987年)『ノービスⅠ ダイバーマニュアル』アメニティタンク
④ BSAC JAPAN編(1987年)『スポーツダイバーマニュアル』アメニティタンク
引用箇所はありませんが、どのようにしてダイビング事故が発生するのか、実際にどんなことがあり得るのかを知るため、①の過去事例を参考にしました。またパニックの起き方については②を一部参考にしています。
私自身ダイビング経験はあるのですが、10数年以上も前のことなので、専門用語やハンドシグナルなどを思い出すために③④(ダイビング認定取得時の教材)を参照しました。
(2025年)