短い夏のアリア

音時空に浮かぶ無数の音楽の国々の覇者「交響曲」。そこに住む少女ヒタキは、世界の終わりがひたひたと近づいて来ることを恐れつつ、人々の喜びのためだけに音楽を創る純粋な作曲家になることを夢見ていたが……。

 夏という季節を一つの曲に例えるのなら、七月一日という今日の日は、丁度序曲が終わり、第一楽章のファンファーレが鳴り響いている頃だろうか? 
 窓の外は太陽の光が、地上にあるものすべてを突き刺し、白く、白く燃やし尽くしている。
 校舎、ゴールポスト、フェンス、放射状に描かれた白線……。校庭の砂の一粒一粒は、フライパンの中の煎り胡麻のように熱せられ、焦げ付いて音立てて破裂しそうだ。
 そうだというのにあたしはさっきから寒いのだ。やや強めに利いた冷房のせいだけではない。理由はわかり切っていることだから、とりたてて訴えたりはしない。
 力の入らなくなってきた指先から鉛筆を取り落としたが、拾うそぶりも見せられなかった。隣の席の子が気を利かして拾ってくれたが、軽くお辞儀して笑顔を作るだけで眩暈がする。 
「はい、では皆さん、私たちの『交響曲』が、時間軸の五線譜に浮かぶ無数の音の国々の間で、強力な覇権を握るに至った経緯は理解できましたね。
 繰り返しになりますが、大事なところです。2025年、南砂島の科学者、クイナによって音楽時空を渡る航行方が発見され、『音火力』を電力やガス、ガソリンに代替する技術も発見されました。それまでエネルギー問題にあえぎ、茫漠たる宇宙に既知の資源を見出そうとしていた当時の人々にとっては、これらの発見は大いなる福音でした。
 以来私たちは、属曲とした音の国から『音火力』を得て、今日の繁栄を築いているのです。では、覇権曲家『交響曲』の国民として最も大事なことは何でしょう? 」
「はい、連綿と曲を書き繋ぎ、この曲が永遠に続くように音楽の灯を絶やさないことです」
「その通り。2694問題はご存じですね……」
歴史の授業は楽しくて悔しい。楽しいのは古い時代の人々の生活や想い、文化が知れるからだ。悔しいのはそれがすべて、2025年を境にして、あたしが大嫌いな現代の社会へと切り替わって、大好きな昔がすっかりと年号や歴史的事実の羅列として、即物的に並べられてしまうからだ。
 悔しいながら聞き流すことも出来ずに聞き入っていた先生の声は、やがて内容のたどれないノイズとなって、頭蓋骨の内側に響いてくるようになった。それもオーディオのボリュームを絞ったようにすうっと遠のいていき、頭の仲が完全な灰色になった。
 最後に自分が滑り落ちた椅子ががたんと倒れる音が遠く聞こえて、冷房で冷えた床が頬骨を打つのを感じた。ざわめく気配がわずかに頭の後ろのあたりで鳴っている気がしたが、そのままあたしの意識は遠のいていった。
 気が付いたときには保健室の白いベッドの中にいた。
 「ヒタキさん、目が覚めたのね」
 ベッドを囲むクリーム色のカーテンに手を掛けて外をのぞくと、保健室のタゲリ先生が机越しに、青い書類立てと、黄色い花の咲いたサボテンの鉢の隙間から、こちらに憂いたような目を送った。
 あたしは起こしかけた体をまた力なく横たえて、目を閉じた。光が目に痛かった。木製の椅子をひく音の後、事務用サンダルがリノリウム床を踏む甲高い音が近づいて来て、タゲリ先生がカーテンの隙間から、へたへたと脱力して横たわっているあたしを見下ろした。
 「貧血よ。顔色も土気色」 
 「多分そう……」
 目を閉じたまま答えると先生が尋ねた。
 「心当たりがあるの? 」
 「うん、まあ……」
 「ご飯はちゃんと食べてる? 」
 あたしは閉じた瞼の上に右腕を乗せて口をつぐんだ。先生は尚も思い遣り深い様子で尋ねる。
 「食欲がないの? 悩み事? それかどこか具合でも……」
 「いや、いいや」
 あたしは早口でつぶやくように言った。素早く唇を動かすと、それががさがさに干からびているのが分かった。
 「食欲ならあるよ。悩みは……、まあ、あるっちゃあるけれど、もっと建設的な理由で食べないんだ」
 「建設的? 」
 「ハンガーストライキです。先生」
 タゲリ先生は化粧気のない、漆黒で切れ長の目を見張った。
 「何日間食べていないの? 」
 「おとといの朝から、だから、丸二日」
 先生は刻まれかけた眉間の皺をより深くした。
 「どれだけ自分の体を虐めているのか理解できてる? あなたはまだ成長期なのよ」
 「ちゃんと理解はできてる。だからこそいい取引材料なんじゃない。それもこんなふうに派手に気絶して運ばれるということも」
 「一体あなたは何にそんなにまでも抵抗しているの? 」
 「進路です、先生。あたし、絶対に緋色町第一高校に進学したいんだ」
 あたしはうつろに落ちくぼんでいるであろう両眼を見開き、今残っている限りの力を込めて先生を見つめた。この人は果たして、あたしの情熱を理解して力を貸してくれる人だろうか? 心を打ち明けても平気? 
 タゲリ先生は切れ長の目を、怒っているように見えるくらい強く輝かせた。
 「給食を食べましょう。あなたの進路に対する気持ちは尊重するけど、こんな方法をとっては駄目よ。必ず食べるのよ。お母さんは二時にお迎えに来るわ。一度担任のシギ先生と三人でよく相談してみましょう」
 保健室のドアを叩く音がして、三人の生徒が無意味にはしゃぎながら、あたしとタゲリ先生の分の給食を運んできた。先生が強く促すので、あたしは無言で席に着いた。それでも湧き上がってくる若い食欲にあらがってこう訴えた。
 「お水をください」
 先生は黙って立ち上がり、保健室の片隅にあるウォーターサーバーから、紙コップに水を注いで渡してくれた。あたしはゆっくり一口、二口飲んで、三度息を整えると、そのまま一気に飲み干した。空腹には我慢ができても、喉の乾きには抵抗することができない。
 ひと心地着くと、あたしの目はプレートに並べられた給食の献立にくぎ付けになった。
 今日の主菜は北藻ダラのフライ、副菜にはシンセツダケとパプリカのソテー、青レーズン入りのカボチャのサラダ、シリカ豆のスープがついていた。
 フライが歯に与えるカリッとした食感や塩の加減、カボチャの滑らかな舌触りと優しい甘み、よく油をすったキノコの温かな旨味を想像すると、口の中に勢いよく湧いてい来る唾を、喉を鳴らして呑み込む。
 「食べましょうヒタキさん。夢を追うのも健康な体があってこそよ。進路についてのこととこれは別問題よ」
 そう言って先生は、スプーンをスープに入れて大きくかき混ぜると口へ運んだ。
 あたしはことさら美味しそうに給食を摂って見せる先生の様子を、見ないように、見ないようにと顔をそむけたが、視線はどうしても料理が運ばれてゆく口と、ゆっくりと上下する先生の喉のあたりに吸い寄せられてしまう。
 そうしているうちに右手は、お膳の手前におかれた木製のスプーンの上へと、迷子の蚊のように彷徨いだした。
 そのときだった。あたしの後ろの壁上部に据え付けらえたスピーカーから不意にガガガッとノイズが響いた。
 「こんにちは。昼の放送の時間です。七月一日のランチタイム、皆さんいかがお過ごしですか? 」
 放送委員会下級生女子の、清新でたどたどしいアナウンスが、ノイズをかき消すように響いた。
 「今日はクラッシックをお送りします。最初の曲はシマフクロウ作曲『夏の遊び序曲』、演奏は西森島フィルハーモニー、録音は1988年、音火力革命前の貴重な音源です」
 あたしはスプーンに伸ばしかけた手を引っ込めた。スピーカーから響いてくる音楽に、揺らぎかけていた決意をなお一層強くする。一時の誘惑などに煩わされてはならない、目ではない、鼻でもない、舌でもない、耳だ。聞こえてく曲こそ真実、それだけがあたしの夢で願い。
 その演奏はスープよりも滋味深く、カボチャよりも甘く、フライの衣よりも煽情的だった。ストリングスの儀乗馬のような優雅な足並み、フルートやクラリネットのまだ熱をはらむ夕風を思わせる甘やかな歌い方。コントラバスの重低音はボンボンとまろやかで、金管楽器が太陽に照らされた、金ぴかの馬具のような飾り音符をひらめかせる。瀟洒で洗練された大昔の夏のロマンティカ。今の富権力を得るためだけに利用される音楽には、到底達することのできない深い精神性だ。
 あたしは目を閉じて顔をあげる。音の一粒一粒が木漏れ日のような温かさで、額の中心から体いっぱいに降り注いで来るようだ。
 音楽が飢えた体を潤している。魂の奥底から感動が泉のよう湧き出し、心が風船のようにパンパンと膨らんでゆく。確かに風船は空洞だ。でも、空洞でもなんでも、あたしにとっては、こんなありふれた命なんかよりずっと重い真実なのだ。
 あたしは目を開けた。もう迷いも誘惑も全て飲み下してしまった。力強く先生を見、誇らしく微笑む。
 「やっぱりあたし食べない」
 タゲリ先生は眉間の縦皺を深くした。
 「どうあっても食べないの? 」
 「食べません」
 「緋色第一高校には、あなたが求める何があるの? 」
 「北峰島唯一の作曲家コースがある」
 「政府の作曲家集団を目指すの? 」
 先生の質問は、一瞬であたしを苦い現実に突き落とした。だが、あたしは口元に微笑みを保ったままよどみなく答えた。
 「そんなのあたしは頼まれたって入らない。富も権力も出世も関係がない、ただ美しいものを美しく奏でるため、人々に喜んでもらうためだけに音楽をする、音火力革命前の音楽の在り方に立ち返りたい。だって、それが本来の姿でしょ? 」
 「それでお母さんと対立しているの? 」
 あたしは目を逸らさずうなずいた。先生は黙り込んでしまった。ややあって、あたしは先生を上目遣いでにらみ、口元に微笑を浮かべたまま問いかけた。こういう表情をするとき、あたしは病的に熱っぽく、魅力的に見えるらしい。
 「先生も、お金を得るための今の音楽の在り方に賛成? 喰っていけるかいけないかだけが大事だと思う? 」
 先生は明らかに戸惑っているようだった。頭の中の混乱を、打算とごまかしで収めようとするかのように、先生は微笑んだ。
 「ヒタキさんの理想は分かった。でも、娘にいい暮らしをして欲しいというお母さんの願いも分かる。要はバランスよ。ある程度理想をかなえて、そのうえで生活を固める、それが大事なんじゃないのかな」
 「ある程度の理想なんて反吐が出ます、先生! 」
 嘲笑うように言って、あたしはそれ以上先生に問いかける気持ちを無くした。先生はあたしを懐柔する言葉を心のうちに探りながら、黙ってスープをかき混ぜ、フライを口に運んでいたようだったが、結局黙っているのが得策と悟ったらしい。そのまま気まずく食事を終えた。

 給食が下げられてしまうと、あたしはベッドのへりに腰を掛けて、校舎の二階のある保健室の窓から、頭が痛くなるほど明るい校庭を眺めた。
 青いフェンスの向こう側には、築二百年を超しているような、ネオ城下様式の石造マンション街が広がっていた。白い石組の直方体の上に、反り返った形の黒い瓦屋根がのっかている。
二十年ごとに葺き替えられる瓦も、傷めばメッキし直される金色の破風も、古い時代には最先端だった建材で出来ているらしい。
そんな先進の技術を駆使して建てられた街なのに、家々の錯綜した立ち姿は、中世の街のように混沌としている。千年前の区割りの上に建てられたからだ。首都である灰羽谷市のように、都市全体を改造しようとしなかった理由はあたしには謎だ。いずれにせよ今のところこれがあたしにとって、母乳の記憶のように懐かしい故郷だった。
王侯の時代の本物の邸宅にはかなわないが、古寂びた景観は、今では観光客を呼ぶ呼び水となっている。
 マンション街よりも右端の切り立った丘の上、蛇行する川を要害とするように、城館を失くした城跡が遠くそびえている。緋色藩王国滅亡の時に燃えた城は、その後再建されることはなかった。
王侯たちの愛憎と闘争の歴史は、今では昔ばなしよりも遠い、声を潜めた神話語りのように響く。城が燃えたときと同じように、苔むした石垣の上に真夏へと駆けあがっていく木々が輝いている。鮮やかな緑は今日も観光に来た人々の頭上に涼しい影を落としているはずだ。
 太古の時代の城跡を守護しているのは藤野川だ。正面から流れ込み、幾つかの頑丈な橋をこちらと平行に渡して、右手の城跡を巡るようにして、校舎の裏側まで流れて来る。
美しい川だ。今日のように水面に青空が映る日はなおさら。白い波頭はまるで踊る妖精の輪のよう、土手の柳はその髪の毛のよう。
現代では化石燃料を使うことはない。家庭や工場から流れ出す排水も、音火力革命を機に浄化された。
環境破壊、とりわけ温暖化はとうに過去の問題となり果ててしまった。藤野川の水は飲めるほど透明に輝き、こんな街中でも、空気は高原と同様に澄み切っている。
 藤野川よりも左側には、マンション街よりもやや高い、官公庁や商業用のビル群が広がってる。城跡よりもマンションよりも、代り映えしない何の変哲もない地方都市。
だがその遠景で、締まりなく広がっている町を引き締めようとしているかのような低い山々は素晴らしい。夏の歌うような光に紫の山肌を照り輝かせている。そこから頭三つ分飛び出た秋玉山が南の方角に、嫋やかなお椀型のすそ野を引きずっている。そしてここからは見えないが、あたしの真後ろ、北側に、荒々しい雪嶺峰が同じぐらいの高さで、厳父のようにそそり立っているはずだ。
 あたしたちが住んでいる緋色町市は人口五万人、北峰島の小規模都市だ。特産の木材を利用した楽器産業が盛んな町だ。
あたしたちが通っている北緋色中学校は、生徒数二百五十人ほど、なべてこの国の学校の例にももれず、音楽教育に力をを注いでいる。それでも、他の地域の学校と少しだけ違うところは、楽器製造業にかかわりのある木工に力を入れているところだった。三年生から木工の訓練を行うクラスが一つあるのだ。
あたしはアオバトもそこへ入ると思い込んでいた……。
 太陽が怒っているみたいに照らしつける校庭では、十人くらいの生徒たちが、クッション性のあるプロテクターをつけ、首から通常装備の武器である小型キーボードを下げて、音武道の鍛錬を繰り返していた。白い光の中、彼らの足元にはくっきりと濃い影が、短くせわしなく翻っている。
 「構え! 」
 審判役が号令をかける。背の高い男子と小柄な女子が、体も低く構えをとる。最初に動いたのは小柄な女子だった。彼女は背の高い男子の腹めがけて突進しながらキーボードの鍵盤を払う。キーボードのスピーカー部分から虹色の光を放つ音素が、棒グラフのような波形で展開しながら、背の高い男子の首元に襲い掛かる。
彼はそれを右肩を低くして流れるように受け流す。その右指は、彼のキーボードの黒鍵を激しい調子で叩く。スピーカーから白い光の玉が飛び出すと、まるで彼の意志でそう動いているかのように、曲線的な動きで背の低い女子の手元を狙う。
背の低い女子は避けずに、かえって男子の腹の中に突っ込んでいくような姿勢となった。彼女は一際激しいタッチで鍵盤の一番高音を叩いた。虹色の光が槍となって男子の作り出した光球をも貫き、彼の腹を激しく打った。背の高い男子はプロテクターに守られながら、危うく受け身をとる。
 体力や運動神経に自信がある子に人気の進路が、「交響曲軍」の音戦士になってからもう幾百年の年月が経っている。音戦士、あまたの無防備な曲家を征服するための、忠実にして勇猛果敢な戦士たち。
 あたしの胸に苦い痛みが広がる。六百年前、音火力革命が起きた。
すべての資源エネルギーを、音楽を構成する音素から得る、産業上の革命だった。それは産業だけに関わらず、国の、人々の在り方すべてを変えてしまったのだ。
以来あたしたちの星は、惑星の周りに広がる無限の宇宙に心を開くことをやめた。時間軸の五線譜に浮かぶこの世界よりも、弱い音の国々を侵略する道へ転向し、専念した。
 かつては一番近い惑星、秋星にコロニーを作る計画まであったらしい。今でも放送用や気象観測用の人工衛星を保つくらいの宇宙利用はあるが、フロンティアを求めたかつての宇宙開発熱はすっかりと、好古家のノスタルジックな感傷の対象となってしまった。
あたしはあの時代の文化や思想が好きだ。映画やドラマにマンガ、アニメ、そうしてとりわけ音楽が。おじさんたちの唱える理屈はよく解らないが、それは今の時代のようには閉じておらず、明るく輝く星の海に向かって開かれているように思える。ノスタルジーではくくれない憧憬を感じる。
 だが、古い時代を描いた現代の映画やドラマを見ていると、そこに政府にとって好都合なイデオロギーを感じ取れてしまう。音世界の覇権をとることは、不安定な宇宙に希望を見出すことよりもずっと良かった、あたしたちは正しい道に進んだんだ、だから正しいこの道をずっと迷いなく進んでいきましょう……。 
 「ヒタキー、元気になった? 給食は食べたんだよね」
 保健室の扉を開けて、あたしの後ろの席に座っているミサゴが入ってきた。
 「まーさか! 食べてない、食べるはずないじゃん。あたしそんなに意志薄弱じゃないからね」 
 ミサゴはまん丸い顔の中にまん丸くあいた眼をよりまあるくして、「えー」っと声をあげた。
 「さすがヒタキ。こりゃ下級生のファンの子の間で大盛り上がりに盛り上がるよ。ヒタキ先輩、ハンガーストライキ三日目なんだってね」
 あたしは居心地悪く唇を尖らせ、肩をもぞもぞとさせた。自慢ではないがあたしは人気がある。それも下級生の女子限定で。彼女たちにとってあたしは、並の男子よりも王子様に映るらしい。
 「話を大きく広めないでね。モテるためにやっていることじゃないんだから。あくまであたしの進学のためなんだから」
 「ええー、でも、三日も給食に手を付けないなんて、誰が見たって訳があるって思うよ」
 「だから積極的に広めないで」
 「えー」っとミサゴは、また目をまん丸くさせた。
 「アオバト君、来てくれた? 」
 ミサゴは保健室の木の机に背を向けるようにしておかれている古いソファーに腰を掛け、あたしを隣に促した。あたしは遠慮せずに座る。
 「来てないよ。給食の後も必死に勉強しているんでしょ」
 目の前の壁には大きな一枚板の鏡が掛けられていて、丸顔でくせっ毛のミサゴの右側に座る、この三日ですっかりと血の気の失せてしまった自分の姿を眺めた。
 顔は短く顎は鋭く、目は眦の尖った切れ長で、いわゆるクールな童顔だ。真っ直ぐで厚い黒髪を顎のあたりで切り、量を調整するためにシャギーを入れた髪型だ。いわゆるブスではないが、そこまで美人とは思えない。下級生女子たちは何にそんなに騒ぐのだろう? 
 「えー、だって付き合っているのに? 」
 「何なんだかさっぱりわからないんだよ。アオバトは本当はあたしなんか好きじゃないよ」
 「えー、だって、アオバト君の方から付き合ってくれって言ったんだよね? 」
 「そう……、だけど、あいつにはあたしよりも好きな子がいるよ」
 「誰ー? 」
 「ミサゴの知らない子」
 あの子のことは例えミサゴにでも言えない。
 「えー」
 その時ミサゴの左にある保健室のドアが開いた。
 「あ、アオバト君! 」
 冷静な顔つきで入ってきたのは、やや癖のある赤い髪をした、あたしと同じくらいの身長の痩せた男子だった。顔立ちで印象的なところは、丸く整ってはいるものの、かなり気性の強さを感じさせる、明るい茶色の目をしているところだろうか? あたしやミサゴと同じく、深いグリーンの中学校のジャージを着ている。
 「ヒタキ、平気か? 」
 「うん、まあ……」
 アオバトが気遣う言葉を聞くと、あたしは胸が苦しくなった。あたしなんかちっとも大事ではないことが、かえってその一言からくみ取れるような気がした。
 「ヒタキ、またあとでね。じゃあ、アオバト君、ヒタキをよろしくね」
 ミサゴが天真爛漫な笑顔を作って、両手を振って立ち上がり保健室を出て行った。アオバトは流れるようにミサゴの居た左側に座った。
 「あんまり無茶すんなよ」
 「これにはあたしの人生がかかっているから」
 「次の土曜日、飛ぶから。金曜日、商店街に行こう。お土産を買わないと」
 「うん……」
 そう言いながらもあたしは、半年前、何故アオバトがあたしにありもしない心を告白したのだろうということを、床屋の三色ポールが回り続けるようなきりの無さで、頭の中に延々と問いかけていたのだった。

 二時にお母さんが迎えに来て、あたしは家に帰った。車の中では終始無言だった。
バックミラーに映るお母さんの顔は、七月の日差しの中ぱさぱさに乾いて見えた。法令線と眉間の皺がくっきりと影になり、そこから、あたしを支配しようとする黒い呪縛が、カーエアコンの冷気と一緒になって絡みついてくるようで、ずっとそれをにらみつけていた。
お母さんは鏡に映るあたしを見ず、後続車との距離を測るためだけにミラーを見ていた。
 部屋で休んだ後、水を飲みにキッチンへ行くと、お母さんは思いつく限りあたしの好きな食べ物を食卓の上に並べていた。ヒバリ牛のローストビーフ、チキンとタガ芋のシチュー、セキチクダケのマリネ、シリカ豆の伊吹煮込み、南沙鰻の粉山椒焼き、心森チーズの赤グラタン、期の庵の生蕎麦、この時期貴重なフレッシュ林檎、etc。
あたしは唇をぴったりと閉じた。怒りが食欲を圧倒していた。昼間給食を前にした時よりも、誘惑を感じなかった。あたしは頑固に水道水を一杯飲んで、黙って自分の部屋へとこもった。
 お母さんがヒステリックに呼んでいるのが聞こえた。
 「ヒタキ、ヒタキ、ヒタキちゃん! ねえどうしてお母さんの気持ちわかってくれないの! こんな贅沢をできるのも、お母さんがピアノ教師で、お父さんの遺族年金が多いからなのよ! 」
 あたしは一度も振り返らなかった。
 わざとがたんと大きな音を出して、あたしは自分の部屋のドアを締め切った。その勢いのまま鍵もかける。
部屋は八畳ほど、同じ学校の友達の部屋と比べれば広々としている。こだわって買った重厚なベッドの他に、やはり飴色に磨かれた学習机、お父さんの形見のオーディオ、そして作曲を試みるときに使っているシンセサイザーがある。照明は、竹ひごの骨組みに荒紙を張った、柔らかい光を放つものだ。
ミサゴはあたしの部屋をうらやましがる。モデルルームのように整っていて、それでいて生活を送っている温かみがあると。
 あたしの家であるこのマンションは、この町主流であるネオ城下様式の瀟洒で洗練された建物だった。
築二百年、曲家が一番隆盛を極めていたころの建築物だ。あくまでも石造の建物なので、黒々と磨かれた木製の柱や梁は見せかけだ。壁は白い蝶石灰石を積み重ねた素朴なもので、床もよく磨かれた白ナラの木材が敷き詰められている。
あたしたち一家の前に幾世代にもわたって踏みしめらえていた床には、新しく軽薄なものには出せないしっとりとした光沢がある。あたしの部屋ではその上に、机とシンセサイザーの周りにだけ、笹森織の深緑の絨毯を敷いていた。
 家にはあたしの部屋とリビングと台所の他に、お母さんの寝室、お姉ちゃんの部屋、広々としたゲストルーム、そしてピアノの部屋があった。主に言ってそれは、お母さんのピアノ教室用の部屋だった。
 お母さんはそう、あたしを自分と同じピアノ教師にしたいのだった。
この国では他の国を侵略する以外にも、音楽は富と権力をもたらす。政府機関への就職には音楽の素養は欠かせないし、他国から吸い上げる音火力以外の、この国独自のエネルギー供給としても音楽は使われる。就職に際しても最重要視されがちな要素でもある。要するに出世と密接に結びついた技術であるがゆえに、それを教える音楽教師は実入りのいい職業なのだ。
 あたしの一番得意な楽器はピアノだ。女子にしては骨っぽい長身の胴体から伸びた手は、胴体と同様に大きく骨っぽい、いわゆるパワー技巧型のピアニストの手だ。見た目同様に筋力も強く、厳しい練習にも耐えられる。
 お父さんは作曲家だった。でもあたしが理想とする、音楽を音楽のためだけに創る作曲家ではなく、政府の主宰する作曲家集団のエリート作曲家だった。
 お父さんは「交響曲」の首都、東藻島の灰羽谷市にある、曲立楽曲継承センターに勤めていたため、あたしが生まれる前から単身赴任生活だった。
あたしの長身と顔立ちはお父さんから来たものだ。でもお父さんは、男の人にしては線の細い、ふっくらと小さな手をしていた。帰ってくるたびにその手で頭をなでてくれた。あの頃はあたしも、お父さんのように政府の作曲家集団に入る未来を、子供らしく素直に夢見ていたものだ。
 お父さんが自殺したのは今から五年前、あたしが十歳の時のことだ。
お父さんは2694年以降、「交響曲」の続きを書きつなぐ者が見つからないという、いわゆる2694問題を克服する作曲家として将来を嘱望されていた。しかしその期待に沿えなかったお父さんは、重圧に耐えきれずセンターの屋上から身を投げた。
冬の一番暗く深い、綿雪がちらちらと舞っている日だったそうだ。灰羽谷市の堰晶石の黒い石畳は、お父さんのぶちまけた鮮血とはらわたに赤く染まった。顔はつぶれ、棺の中に横たえらえたお父さんを、あたしもお姉ちゃんも見せてもらえなかった。
 あれ以来、お母さんはあたしの作曲家への夢に対して、しつこく感情的に反対を述べるようになった。あたしが音楽のあるべき姿への理想を口にするようになってからはなおさらだ。
 生活、名誉、心の安定、お母さんの口にするお題目はいつも決まっている。あたしがもっとも忌み嫌うワードを、さもさも人生の大事のように言って聞かせる。
 確かにお母さんの言うように、あたしが進学する高校をえり好みできるのも、お母さんの経済力があってこそだということは理解が出来る。普段食べているご飯のおかずも、ミサゴの家とは段違いだということも。
 でも、あたしはアオバトやミサゴがうらやましい。二人のお父さんは楽器職人で、お母さんはそれぞれパートに出ている。そんな境遇だったら、作曲家になりたいというあたしの夢も、素直に歓迎されていたのではと思うのだ。 
 あたしは溜息をついてベッドに沈みこんだ。
アオバトは、灰羽谷市の高校に進学する気でいる。そこで音楽世界保全科学を学びたいと言い出したのだ。灰羽谷市は東藻島にある。ここ、緋色町市とは海を隔てて飛行機でも何時間もかかるところにあるのだ。
 アオバトが音楽世界保全科学に興味を示しだした時期と、あたしにありもしない心を告白した時期はほぼ一致している。あたしは何が何だか分からなくなる。
 
 お姉ちゃんが部屋をノックしてきたのは夜十時ごろのことだ。鍵を開けるとお姉ちゃんは、左手に中皿を持って、細く開けた隙間から滑り込むように入ってきた。お皿の上にはおにぎりが三つ並んでいた。ドアを開ける右手には器用に、缶ビールが握られている。
 「いらないよ」
 あたしはベッドの上に座ったまま唇を尖らせて、ぶすっと言った。お姉ちゃんは右の口端だけゆがめて笑った。
 「そう頑張りなさんな」
 そう言いながらあたしの右側に腰かけた。二人は少しの間黙っていた。お姉ちゃんはおにぎりの皿を置き、缶ビールのプルタブを開けた。そして喉を鳴らして美味しそうに飲むと、冷やかすような、案じるような口調で言った。
 「随分と命がけなんだね」
 「当然だよ。あたしは音楽に命を懸けるんだから」
 「何か他に欲しいもんとかやりたいことはないの? 」
 「ないね」
 「恋とかもしたくないの? 」
 あたしは面白くない方向に話を誘導される気がして、はなはだ不愉快だったのだが、正直にこう答えた。
 「彼氏ならいる……」
 「彼氏もヒタキが食べないで弱っていくのを見てれば辛いんじゃない? 」
 「全くそうは思わない。あいつはあたしのことなんかどうでもいいよ……」
 あたしの弱点は恋だ。他の何者へも全力で歯向かえるのに、事が恋愛になったら途端に、弱気でグジグジした人間になってしまう。アオバトの心があたしにないことなんて、たとえあたしが幼稚園児でも感じ取れただろう。それを黙って受け入れるしかない女なのだ。
 お姉ちゃんはあたしとよく似た顔立ちに、あたしと全く違う、翳りを落とした艶っぽい表情を浮かべた。
 「ヒタキ、楽しみなよ。どうせあと二十年したら世界が終わるかもしれないんだから」
 「終わる? きっと誰かが曲の続きを書くんじゃないの。今までだってずっとそうだったじゃない。何回も何回も同じようなことがあったって習った」
 お姉ちゃんは顔立ちこそあたしとよく似ているが、体つきは骨っぽくなくてグラマラスだった。それがこの艶っぽさにつながっているとあたしは思っている。
 その体を猫のようにしならせて、お姉ちゃんは下からあたしをのぞき込んだ。照明の加減で、その顔にはサイレント時代の映画女優のように、くっきりと影が落ちていた。
 「今度こそ本当かもしれない。ヒタキは『音楽世界保全科学』って聞いたことある? 」
 あたしは動揺して、思わずぱたぱたと瞬きして首を横に振った。
 「政府が今熱心にその分野を開こうとしているよ。平たく言うと、曲の続きが演奏されなくても、レコーディングした音楽が再生され続ける限り、曲は永遠に続くというものだ」
 「そんなの邪道じゃん」
 あたしは咄嗟に言葉を発したが、その声は上ずっていたし、目は胡乱に動いてもいただろう。
 「そんなさあ、胡散臭い、海のものとも山のものとも知れないへんてこな学問を、政府は真剣に研究しようとしているんだもの。それだけ焦っているってことだ」
 「でもまだ二十年もあるんだよ」
 「そうだね、まだ二十年もある。でもさ、その日が来てしまってから、あれをすればよかった、これもすればよかった、ってのがあたしはとっても悔しいんだよね。せめてそれまでには、やりたいことは一通りやっておきたい。勉強も仕事も恋も享楽も」
 お姉ちゃんは今年二十歳になった。
 地元の音大でヴァイオリンを専攻していて、卒業後は政府関係の音楽集団に就職することを目指している。その思考法はお母さんと同じく現世的で、あたしの理想主義とは肌が合わない。
 でもあたしがお姉ちゃんとは腹を割って話せるのは、お姉ちゃんにはお母さんにはない虚無感があるからだ。現世の享楽を求めながらも、お姉ちゃんはどこか突き放すように醒めている。自分が求め行っていることに対しての冷笑があるように感じられる。それが、あたしがお姉ちゃんとは意思疎通できる最大の理由だ。
 「ねえ、終曲したら、あたしたちはどうなっちゃうのかなあ? 」
 あたしはベッドの上に胡坐をかいて、自分の足の指を眺めた。まだ層が薄く、乾いて白く変色したりなんかしていない、幼く若い足の爪がそこにあった。この体も音の粒子に分解されて、跡形もなく消えてしまうのだろうか? 
 「音火力を吸いつくした後の属曲の住人は、世界の消滅とともに姿が見えなくなるらしいね」
 お姉ちゃんの目は淡々としていて暗かった。解っている。あたしたちの世代はなるべくこのことを考えないように考えないようにしている。ミサゴともこんな話はしない。お姉ちゃんとだから辛うじて話せるのだ。
 「嫌だなあ……。そのときあたしまだ三十五だよ」
 お姉ちゃんとあたしは黙り込んだ。窓の外ではホトトギスが激しい勢いで鳴いていた。アキョキョキョ、アキョキョキョ、いつもは夏への期待の高まりと聞くその声は、今の沈黙の合間に聞くと、底のない闇を提示して、その暗い淵に誘っているかのように聞こえた。
 ギイと音がして、鍵を外していた部屋のドアが開いた。白いパジャマを着たお母さんがそこに立っていた。手にはあたしの青いマグカップに入れた、ホットミルクを持っていた。
 「入っていいって言ってないよ」
 挑発の気持ちを込めて目をぎらつかせながらあたしが言うと、お母さんはこわばった真顔のままこう言った。
 「緋色第一高校に願書を出してもいいわ……。水場大女学院にも願書を送ることが条件だけど」
 あたしは表情を変えないまま言った。
 「水場台なんて絶対行かない。あたしはピアニストにはならない」
 お母さんは眉を寄せ、目を閉じる勢いの泣きそうな顔になって言った。
 「いいの、いいの、直前まで保留にしていて。気が変わったら何時だって水場台を選んでもいいように……。だからお願い、何か食べて! 」
 「お姉ちゃん、今の話聞いたよね? 確かに緋色第一に進学してもいいって言ったよね? 」
 あたしは飢えて力の入らない表情筋に、勝利の笑みを浮かべた。
 「願書はいいって言った。確かに聞いた」
 お姉ちゃんは艶っぽいがために余計に虚無的な微笑みを浮かべて言った。お母さんはまだ迷いのある足取りであたしに近づき、青いマグカップを差し出す。
 あたしは素直に受け取って少しずつ口に含んだ。三日ぶりのカロリーだった。胃はまだ液体しか受け付けないだろう。だが久方ぶりに刺激される味覚に、あたしの若い食欲は沸騰しそうになる。多分ぎらついているであろう目を細め、勝利に酔いしれて、とり憑かれた様に口に含む。
 お母さんは全財産を差し出して、誘拐された子供を取り戻したような泣き顔で、あたしがミルクを飲む様子を眺めていた。

 次の日から二日、あたしは大事をとって学校を休んだ。ミサゴは一日目の放課後に家まで来てくれた。チョコチップクッキーをお土産に、下級生女子の間で広まるあたしの勇名を報告しに来た。
 アオバトが来たのは二日目の夕方だった。まだ簡単には暮れそうにもない、夏の長い西陽のなか、くっきりと影を落とす家具の間から、アオバトは静かに入ってきた。明日の土曜日にあの曲へ「飛ぶ」ことを約束していたからだ。
 アオバトは、青に黄緑のラインが入ったTシャツを被り、カーキのショルダーバッグを肩にかけ、幅広のデニムのポケットに手を入れていた。勝気な茶色い目は夕刻の陽にオレンジに燃えて見えた。
 あたしも黙って部屋着から着替えて家を出た。あたしの格好はいつもと変わらない。量販店で買った深いブルーのパーカーに、体のラインが出ないほどゆったりとした麻のパンツだ。そこに黒いリュックを背負い、やはり黒のごつくてペタンコのサンダルを合わせる。
 ふと思う。あの子のように髪を伸ばし、ふんだんなフリルやレースで飾り付けた格好をしたらどうなんだろう? いや、無駄だ。アオバトはパロディーでアイドルを汚されたようなしかめっ面を見せるだろう。それに、そんな自分の姿を歪めるような真似をしてまで、好かれようだなんて思わない。
 あたしたちは会話もないままに、油町商店街のアーケードへ向かった。
 夕刻の商店街は音に満ちていた。地区設置ののスピーカーから流れるポップス、店の呼び込みの声、タイムセールのベル音、喫茶店のドアの隙間から流れてくるBGM。ママチャリの軋みとブレーキ音、人々のざわめき、子供の鳴らす靴の音。全てがあたしのインスピレーションを刺激して、頭の中の五線譜にはオタマジャクシが跳ねている。
 この時間の商店街は好きだ。音に加えて様々な匂いがある。惣菜屋のコロッケや唐揚げ、クレープ、焙煎機の中のコーヒー、香具店のお香。ここでは人々の暮らし全てがそのまま、音火力革命前の時代へとつながっているような気がする。
 あたしたちは言葉も少なく、どちらが向かうとでもなくチョコレート専門店「リボン」を訪れた。黒っぽい飾り戸棚を並べて、色とりどりのリボンで飾ったファンシーな店には、沢山の透明な瓶が置いてある。そこに様々な色の包み紙に覆われたチョコレートが、うずたかく積み上げられている。
 アオバトは一個一個フレーバーや材料の違いを見てチョコレートを選んだ。それを小さなピンクのレジ籠に無造作に入れていく。チョコレートを選ぶのはアオバトの仕事、お金を払うのはあたしの役目。
 アオバトの黄緑のラインの入った背中が、陳列棚の前を行き来するのを目で追いながら、あたしは自分を虐める喜びのようなものを感じていた。うずく傷を、指でいじくりまわすようなあの感覚。
 アオバトはプレゼント用の金色の包み紙に、真紅のリボンを選んだ。それを大事そうにカーキのバッグの中に入れた。
 ピアノエチュードの流れるチョコレート店を出ると、惣菜屋の店先で何か一説ぶっている声が聞こえた。
 「……そもそも、2694問題そのものが誇大妄想的なたわごとなのです。曲が終わってしまえば世界が終わるというのはまやかしです。国民の関心を逸らして、真の問題である政治の堕落へ目を向けないようにするための、政府の策略です。今の世界の在り方を放棄せねばなりません。今こそ音火力革命前の社会に……」
 「何だろうね? 」
 あたしは、アオバトの青いTシャツの袖口をつかんでボソッと尋ねた。なんだかとても心惹かれる内容だった。アオバトは忌々しげに言った。
 「ああ、今出はじめの『無識主義』ってやつだ。音楽世界保全科学を真っ向から否定してくる輩だ」
 あたしはあたしの体に密やかに流れている理想を、アオバトから無造作に否定されたような気持になって黙った。
 あたしの夢とアオバトの夢は、どんなにそばを歩いていたって交わらない。アオバトがなぜ音楽世界保全科学に取り憑かれるようになったかは、解りすぎるほど解っていた。
 「では我々期待の星、ヒレンジャク君……」
 無識主義者の陣営では、髪を赤く染めた不良風の少年が壇上に上がるところだった。見覚えのある子だ。ああそうだ、アオバトと同じクラスの男子生徒だ。壇上の彼が一体何を言うか俄然興味が湧いたが、顔を紅潮させているアオバトの手前、彼の演説を聴くことはできない。
 虚無感にとらわれながら歩くと、不意に眩暈がした。だいぶ絶食のダメージからは抜け出してはいたものの、まだ本調子ではないらしい。パーカーの背中の汗が冷たくなった。目を閉じて立ち止まるあたしを気にもせず、アオバトはさっさと先へ行く。
 「ちょっと待ってよ! 」
 あたしはたまらずアオバトの肩に向かい叫んだ。アオバトの黄緑のラインの入った背中が、ようやく立ち止まって振り返る。勝気な茶色い目は赤みを増していく西日を受けて、敵意すら感じられるほど燃えている。
 「さっさと歩けよ」
 あたしは息を乱して追いつくと、思わず心をぶちまけた。喉がわくわくと震えていた。
 「ねえ、あたしたち付き合ってんだよね? 」
 アオバトは目を逸らさずに面倒くさそうに答えた。
 「付き合ってるよ」
 「あたしのこと好きなんだよね? 」
 「ああ」
 その言葉に、あたしの心は液体窒素を浴びせられたように冷たくなった。全く心がこもっていなかった。口先だけだ……。
 それも何のためにそう装っているのかも解らない……。鋭いはずのあたしの目が力なく足元に落ちる。アオバトの青いスニーカーの後ろには、存在感のある夏の夕刻の影が長く伸びていた。
 「ごめん、変なこと言った……」
 「いいよ、別に気にしてない」
 心を表わしたことに苦い後悔だけが湧く。アオバトへの気持ちが完全に片思いのままであったら、こんないたたまれない気持ちにまではならなかっただろう。
 あたしはふらつきを押さえ、重たい足を引きずって、向こう側に影を落とすアオバトの後を追った。

 翌日の土曜日、朝の九時にアオバトが来た。昨日とは違う清潔な、青いTシャツとグレーのデニムを履いていた。昨日あたしと出かけた時よりも明らかにものの良い、お値段のする服装に見えた。
 お母さんは日曜日に控える教室の発表会の準備で公会堂へ出かけていたし、お姉ちゃんは前の晩から彼氏とどこかへ行ったっきりだ。
 つまりこの狭いマンションの一室で、アオバトとあたしは二人っきりであることになる。だが、決して間違いなど起きないと断言できよう。たとえどんなにあたしがそう望んでいたとしてもだ。
 アオバトはあたしが珈琲を出す時間も惜しんで急かした。
 「早く行こう」
 あたしは沸かしかけたケトルのお湯も放っておくしかなかった。リビングの端に置かれた姿見で身だしなみを確かめる。
 あの子に敵うはずもない。だが、一応の恋敵に会おうというのだ。
 あたしはさらさらした夏物の、藍色のスキッパーシャツを羽織っていた。ボトムスはやはり麻の、白いゆったりとしたパンツだ。アオバトにどうこう言う権利はない。あたしもまた昨日よりお値段のする、「きちんとした服」を着ている。前髪を直して急いで部屋へ行くと、アオバトに声をかける。
 「いいよ、準備できてる」
 そうして部屋の鍵を内側からしっかりと掛けた。ここで行われることは、たとえ家族であっても誰にも知られてはならない。用心深く碧いカーテンも閉じ、あたしとアオバトは部屋の中央に立った。左手首には音素共振機が巻かれている。
 音素共振機とは、十二歳以上の国民なら誰しも持っている腕時計のような小型の機械だ。フレームとベルトは光沢のあるブラックチタン製で、硝子蓋の中の金色をした文字盤には、音を捕らえ、振り子のように揺れる音針計と、深海の水のように青いチューニングストーンがはめ込まれている。
 あたしとアオバトは、音素共振機の音針計を回しながら、目当ての曲家に渡るための暗号のような、キーフレーズを口ずさんだ。
 チューニングストーンがぴりぴりと震えながら真っ青な光を放つ。カーテンを閉じた薄暗い部屋は、海の底に差す力強い朝陽のように神秘的な輝きに満ちる。あたしたちの左手首を中心に、風が一巻き二巻き巻き起こったかと思うと、体も意識も水に潜るようにすうっと遠くなった。
 体の感覚も意識も、水の膜のようなものを抜け出た途端、すぐにあっけなく戻って来る。目を開ければそこはもうあたしの部屋ではない。
 見上げればあたしたちの星にはない、焼きつくほどに青く深い空が広がっている。その空の下に、まるで砂金のような金色の塵芥が、強烈な陽光をきらきらとさせながら吹き渡っている。地面は摩耗した金茶色の石畳だ。そこから巻きあがる砂も、空の塵と同様に黄金の色をしている。
 そこはうらぶれた街の高い家壁に囲まれた行きどまりだった。何時建てられたものなのか、強い日差しと風に、砂塵と帰してしまいそうな家壁は、石畳と同じ金茶色の石で積まれている。空気も石も地面も空も、まるで砂漠化の途中にあるかとでも言うように乾ききっている。
 不意に風が吹いた。乾いた熱風だ。その空気の震えの中に、香しい音楽が通低音のように響いている。
 弦をはじく重低音と、ハープと木管楽器のような伴奏、そして三重唱の女声。そこにさらに、輝かしくも可憐な、太陽を透かした真っ赤な花弁を思わせる少女の歌声が重なった。Aー
 それは歌詞の無い、思いのたけをそのまま母音にしたヴォーカリーズだ。はなびらのように水を含んでいるかと思うと、不意にステンドグラスの破片のように鋭く煌めき、燃え盛る日そのもののように激しくビブラートする。Aー
 「ああ、歌っている……」
 アオバトがつぶやいた。あたしは黙ってアオバトの、夢見心地に耳をそばだてる表情を眺めていた。アオバトの青いTシャツの中には、憧れがパンパンに満ちている。
 二人はいつまでも突っ立ってはいなかった。すぐに行き止まりを抜け、うらぶれた家が立ち並ぶ路地も抜け、賑やかな通りへと出た。
 行きかう人々は老いも若きも、あたしたちの世界のどの時代にも見当たらない、フリルやレースを多くあしらった、装飾過剰な衣装を身につけている。ベルトにサファイヤ、髪飾りにダイヤモンド、腰の短剣、尖った革靴の先にもルビーやエメラルドが光る。
 さっき賑やかな街とあたしは評したが、それは「交響曲」の街のにぎやかさとは一線を画していた。
 通低音のような曲を構成する音楽のほかに、人々のざわめきが聞こえないのだ。
 荷馬の蹄、馬車の車輪、宝石をあしらった靴の音は密やかに響いているが、老いた人も若人も、寂し気に無表情を保ったまま一言も口を利かなかった。ここへ通うようになって三年、あたしは数えるほどしか彼らの声を聞いたことがない。
 彼らが何をもって口を利かないのか。それは通低音のような香しい音楽をかき消さないがためだと、あたしは理解している。通りに出てもその歌声ははっきりと聞こえる。歌っている、小鳥のように。Aー
 あたしとアオバトは迷いもなく通りを歩いた。行く手は町の中心にそびえる、巨木に護られた丘だ。
 その樹はいかにも強烈な日差しと乾燥に強そうな、赤茶けた幹と茶色味を帯びた厚い葉をしていた。砂金の塵芥を巻き上げる風が吹き渡るたび、その油っぽい枝葉がさわさわと揺れるのが見えた。
 その陰に、この街を構成しているのと同じ、金茶色の石で出来た館の影がちらりと見えている。あたしたちが目指しているのはそこなのだ。
 あたしたちは緩やかな上り坂となった街の通りを歩いて行った。やがて高い城壁の一角に開く、優雅なアーチを描いた館の大門の前に出る。その摩耗した木戸は閂が開けられていて、あたしたちが進み出ると音もなくあいた。アオバトは憑かれたように中へ吸い込まれてゆく。あたしも藍色のシャツの裾を揺らし、素直に後を追う。
 城壁の中へ入ると、すぐに肝心の館が廃墟であることが分かる。贅を尽くし、かつて華麗であったはずの城館は、半分石壁が崩れ、窓にはまっていたはずの蒼硝子も細かな破片となって散らばっている。
 庭園の木々は野放図に伸び、花壇は雑草に蹂躙され、関係のない所で血のように赤い花が咲いている。
 いつも思う、この破れ落ちた館は、わが身の零落にも気丈に背筋を伸ばして見せる、矜持に満ちた貴婦人の様だと。たとえ廃墟であっても、それくらいこの館はまだ麗しく優雅だった。崩れ方のいちいちに哀愁と気品があった。
 あたしとアオバトは、崩れた正面門から中へ入った。ターコイズとアイボリーの大理石の、チェッカー模様が床を埋めてる。そこから上がる広い階段には、擦り切れてはいたがまだ赤い絨毯が敷き詰められていた。あたしたちはまだ辛うじて役目を果たしている手すりを撫でながら、二階三階の回廊へと続いていく階段を上った。
 回廊をまわると、そこは空中庭園になっていた。あの巨木の枝の上に、広大な庭が支えられているのだ。
 この庭園も荒れ放題だった。雑草がはびこり、アザミや詰め草などの花が雑多に咲いた草地の中に、館から崩れ落ちた石が散らかっている。その残骸も草に覆われ、一体いつこの館が廃墟となったのか、遠い感慨を促してくるようだ。あたしとアオバトは言葉もなく庭園へと出る。
 可憐な歌声は今や間近に聞こえてくるようになった。庭園の中央に、ステンドグラスの熾天使の羽根ような、赤く燃えるヒナゲシの花が丸く寄せ植えられた一角があった。その光輝く花弁の中心に、一人の少女が座っていた。
 彼女はあたしたちよりも少しだけ年下に見えた。細っそりと華奢な体つきに、シルクシフォンの真紅のドレスをまとっていた。白鳥のように長い首、血色の良い薔薇色の頬、そしてくるくると巻いた長い黄金色の髪の毛、誰かの幻想の中にしか住んでいそうにもない、妖精のような美少女だった。
 あたしたちが近寄ると、少女は目をあげてこちらを見、そっと歌をやめた。エメラルドのような大きな双眸が儚く光っていた。
 「御機嫌よう、ヒタキ様、アオバト様」
 「来たよ、カナリヤ」
 アオバトが魅入られた表情で呟くように言う。その唇にはあたしには決して向けない、優しさに満ちた微笑みが浮かび、瞳には天上の星を仰ぎ見るような、静かな陶酔が満ちている。アオバトは青いTシャツの裾を何気なく直した。心にチクリと痛みが走った。
 アオバトは肩にかけていたカーキのバッグから、昨日選んだチョコレートの包みを取り出した。そして恭しい様子で差し出す。だがカナリヤは彼ではなく、あたしに向かって無邪気な笑顔で礼を言った。
 「ヒタキ様、大変ありがとうございます」
 アオバトの茶色い目に、鋭い苛立ちが走った。あたしはアオバトとカナリヤを交互に見た。アオバトのメンツをおもんぱかって焦る一方、押し隠せない優越感が込み上げてきた。カナリヤは嬉し気に言葉を続ける。
 「ヒタキ様が対価をお払いになったものでしょう? 」
 あたしは複雑な感情に、顔がほてるのを感じた。
 「アオバトが一所懸命選んだんだよ! 」
 「ではアオバト様もありがとうございます」
 カナリヤは素直にアオバトにも頭を下げた。アオバトは一応の面目を取り戻して微笑んだものの、その勝気な茶色の目には、火の粉のように燃えて散る、怒りの色があった。彼はそれを、真に愛する少女の前で嚙み殺した。少しだけ狂気を含んだ、思い遣り深い声で、アオバトは囁いた。
 「カナリヤはチョコレートが好きだろう? 早速一粒食べてくれ」
 カナリヤは金色の包み紙のチョコレートを一粒とって紙を外すと、染めたように赤い唇に含んだ。エメラルドの双眸が濡れて輝いている。その眼差しは一月の新雪のように無垢でありながら、見方によっては虚ろでとりとめがなかった。
 カナリアはこの小さな国のメロディーを司っている歌手なのだ。彼女の旋律を支えるためだけに、この密やかで爛熟した世界が存在する。巨大な樹木の天辺に咲いた無垢の花、高山の頂に光る真っ白い万年雪、それこそが天性の歌で世界を潤すカナリヤという歌い手なのだ。
 カナリヤはほとんど意志というものを示さない。何時も空の高い所を見上げて夢のように歌うだけだ。彼女にとって意味のある現身の出来事はない。アオバトの思慕も思いやりも、彼女の眼中にはないのだ。だがあたしに対してはどうだろう? 
 一粒のチョコレートを飲み込んだのを見て、アオバトがなおも勧めた。
 「さあもう一粒、ヘーゼルナッツがいいかい? それともキャラメル……」
 陶酔に満ちたアオバトの言葉を遮って、カナリヤが胸元のフリルを揺らしてあたしに乗り出してきた。
 「ヒタキ様、新しい旋律はお出来になったでしょうか? 」
 アオバトの眉が震えるのをおののきながら見つつ、あたしは微笑んでうなずいた。期待したように見つめてくるカナリヤの眼差しとの間に、親密なシンパシーが生まれる。
 「うん、三十六小節のマドリガルが出来たよ……」
 「早速いただけませんか? 」
 「うん……」
 あたしはリュックから薄い紙束を出して手渡した。それはあたし手書きの五線譜だった。カナリヤはチョコレートの包みを放り出してそれを眺めると、染めたように赤い唇を開いた。
 静かな山間の湖の水面に、柔らかなはなびらがポトリと落ちたように、丸い輪を描いた音の波が広がっていく。
 音というものは耳だけで聴くものではない。真によい音楽とは、肌に、直接音の震えが走るのだ。作曲家としては未熟なあたしの手になる小品でも、カナリヤが歌うと世界中の薔薇が一斉に微笑んだかのように香しい風が吹いた。
 あたしも、アオバトも、ただ黙って聞き入っていた。
 あたしはアオバトの沈黙のうちに、静かな敵意を聞き取った。この世の何物にも興味を示さないカナリヤは、あたしに対してだけ、とりわけあたしの音楽に深い関心を示した。アオバトがどんな貢物をしても、優しく甘い言葉をかけても、彼はあたしのおまけだった。
 翻ってみれば、あたしにもカナリヤを憎むことが出来ない。むしろアオバトにはないやり方で愛していた。あたしとカナリヤには音楽を媒体として、何か共犯めいたシンパシーが流れているのだ。

 カナリヤの国を後にして、あたしの部屋に戻って来てから、アオバトは胸に渦巻く憤懣をあたしの碧いクッションにぶつけた。苛立ちのまま、足で何度も踏みつける。
 彼の眉は逆立ち、目は憎しみの火花を散らしていた。その声色はよく研いだ刃のようにとがり、それを乱暴に振り回して、あたしの心を切り裂き踏みにじるのだ。
 「何故だ! 何故俺を見てくれないんだ! ヒタキ、ヒタキヒタキ、いつもヒタキ様! おれはヒタキのおまけか! 」
 あたしはなるべく落ち着きを保った表情で、アオバトの青い背中を叩くしかない。
 「そんなことないよ、アオバト、カナリヤはあたしにも本当には興味ないよ。ただあたしの書く音楽が珍しいだけだよ」
 「嘘をつけ、嘘を! 」 
 アオバトは怒鳴ってあたしにクッションを投げつけた。そしてその勢いであたしに組みついてきた。目から狂った虎のような光を放ち、口元を歪め、硬く硬く歯を食いしばって、くぐもった声を発しながら、あたしをベッドの上に押し倒した。そのまま首に両手を掛けくる。スキッパーシャツの襟もとにもがくように手をやりながら、あたしはあまりの成り行きに言葉も思いつかなかった。
 アオバトの両の手に力が込められる。万力のように、迷いも緩みもない閉め方だった。あたしの気道は完全に押しつぶされた。気管支が痙攣したようにわななく。口を大きく開き、喉の奥をさらすようにしてもぴったりと閉じられてしまい、そこからは一つも空気が入ってこない。
 アオバトの憎しみの形相が、涙の中に歪んで見えた。恐怖と混乱と悲しみ、あたしの頭の中ではその三つが、変色星の瞬きのようにくるくるとめぐった。
 あたしの体が痙攣するをの感じたのか、憎しみ燃えるアオバトの目にふっと理性と悲しみが戻ってきた。両手に込められていた力が急に緩む。あたしは盛大に咳き込み、ひきつったような息を繰り返しながら、ベッドの上をのたうち回った。
 やっと自分の命がつながったことを理解していると、アオバトの顔が近づいて来て、唇が触れた。あたしは目を閉じた。目じりから涙がぼろぼろと流れ出るのを感じた。
 アオバトはすぐに体を離した。こちらに青いTシャツの背を向けて、荒ぶる息を必死に整えようとしている様子が聞き取れた。
 あたしは横を向き、目を開けた。アオバトの背中は震え、ドアの方に向かって、途方に暮れているようにうなだれていた。
 「もう帰るよ」
 「うん……」
 あたしは横になったまま投げやりに答えた。カナリヤの国で半日過ごしたせいか、西日に色がつき始めていた。碧いカーテン越しにも、オレンジ色の光彩が繊維の隙間一つ一つから漏れだしている。
 「ファーストキスだったな。忘れないよ」
 「うん……」
 そこでアオバトはくるりと振り向いてこちらを見た。
 「ヒタキ、大人になったら結婚しようぜ」
 アオバトは無表情だった。見事なまでに心がないのに、彼は真剣で大真面目だった。まるで自分の心に爪を立てて、意に反した主張をすることが、彼の望む結末を連れてくると信じているかのように見えた。
 「先のことなんかわからないけどね……」
 あたしは涙に歪む天井を眺めながら言った。
 「おれは大真面目だぞ」
 「うん、考えておくよ……」
 アオバトは部屋を出て行った。そのまま見送りもなしに家から帰っていった。あたしはベッドの上にあおむけになったまま、溢れてくる涙をぬぐいもせずに震えていた。
 
 あたしとアオバトが初めてカナリヤの国を訪れたのは、あたしたちがともに十二歳になった夏の日のことだった。
 あたしとアオバトは七月七日に生まれた。
 あたしは夜明けに、アオバトは真昼に生まれた。あたしとアオバトは魂の双子であるかのように仲良しだった。
 思い出の中のアオバトは、笑顔しか思い浮かばない。かつてはアオバトも、多くの友達に軽口を飛ばす、屈託のない目をした少年であったのだ。
 人体をいったん音素に分解し、別世界の音物質に再構築する音素共振機は、全ての国民が満十二歳になったその日に配布される。つまり、あたしとアオバトは同じ日にそれを手にしたのだった。
 あたしたちは浮かれていた。初めて雲の上まで歌を届けることを許されたヒバリ姫は、こんな気分だったろう。あたしたちは早速、音世界を渡ろうと試みた。
 ほんの探検のつもりだった。音素共振機に付録してきたリストには、子供が訪れても安全な属曲のキーフレーズが三十ほど載っている。あたしたちはそれらの中から選ばずに、戯れに作曲したフレーズを使った。その方がより多くの探検気分味わえる。
 多くの場合、子供たちのそんな試みは、大人が難しい顔をしなくても済む例がほとんどだ。だが、あたしたちがたどり着いたのは、今まで誰にも発見されたことのない、カナリヤの国だったのだ。
 カナリヤは一目でアオバトを虜にした。カナリヤの美しさは、アオバトが漠として抱いていた限りない憧れを、少女の姿に具現化させたようなものだったのだろう。それは十二の少年にとって、自らの進むべき道を一変させるのに十分な威力を持っていた。
 カナリヤは歳をとらない。出会ったときはあたしたちよりも年上に見えた。それが今では少し年下に見える。
 カナリヤは、あたしたちが生まれるずっと前から歌い続けてきたのだろう。あの場所であの姿で、白くやわらかな喉を震わせて、こがねの巻き毛をそよがせて、歌い続けてきたのだろう。
 その日から、あたしたちは秘密を抱えることになった。本来であれば全ての国民は、征服可能な音の国を発見したならば、速やかに政府に報告し引き渡さなければならない。あの国を知った時点でもう、あたしたちはカナリヤ売ることを義務付けられていたのだ。
 しかしカナリヤの国は小さい。城壁の外側には、一幅ほどの乾いた畑や果樹園やまきばがあり、その外には小川の流れる森があるものの、そこをしばらく歩き進めば音時空の闇に溶け込んで茫漠としてくる。一年も音火力を吸い上げられれば、跡形もなく消滅する定めであった。
 アオバトはそんなことには耐えられないだろう。そしてそれを見ているあたしにも……。
 あたしはベッドに転がったまま、カーテンをすり抜ける光が、段々と赤みを帯びていくのを眺めていた。手の甲で乱暴に涙をぬぐう。どうしよう、なかなか止まってくれない……。

 夢を見た。いや、「見た」というよりも「聴いた」というべきか? 視界が薄茶色の霧に覆われたまま、音楽だけが鮮やかに鳴り響いている夢だった。
 囁くような低音域と祈るような中音域が、開花直前の柔らかな花弁のように、何かを護るよう重なり合っている。
 その中心で一際鮮やかに歌い上げるメロディーは、甘く、甘く、可憐で、言葉がない。まるでヒナゲシの金色をした蕊のようだ。花粉の底に甘い蜜を隠して、蝶や蜂を誘惑するのだ。
 ああそうだ、これはカナリヤの声だ、彼女が白くやわらかな喉を震わせて歌っているのだ。そういえば調も編成もモチーフも共通のものがある。しかし、この展開とメロディーは未知のものだ。明らかに曲想は進んでいる。それも、あたしの嗜好にぴったりと寄り添う望ましい曲調に。あたしは夢の中で聴き惚れる。
 「ヒタキ、覚悟はあるか……」
 誰かが頭の中に響く声で言った。
 「音楽をなすものとしての業を突き通す覚悟はあるか……愛するものを失っても、自分の命を奪われても……幸せが無残に突き崩されても……業を突きとおす覚悟はあるか……」
 

 目が覚めたとき、心の奥底から音楽を欲していた。こんな日は図書館へ行くに限る。ゆうべは夜遅くに泣き寝入りしてしまったからか、起きればもう太陽は随分と高かった。シャワーを浴びて着替えると、いつもの黑いリュックを背負って、あたしは市の図書館へと向かった。
 緋色市立図書館は、城跡のある丘のふもと、真が池のほとりにある。三階建てで白壁づくり、簡潔な直線と曲線で構成されたフォルムは、五百年ばかり前に流行ったプレシンプリズムの特徴をよく残している。
 南側の棟には可愛らしいドームがあり、潜水艦の窓のような丸硝子が入り口側から三つ見える。閲覧室側の壁には大きな窓が開き、館内に夏の光を呼び込んでいる。
 図書館自体も歴史的建造物だが、周りを取り囲んでいる平屋の町並みもさらに古く、ほとんどが音火力革命前のものだ。
 池のほとりには柳や桜の木の葉が揺れ、水面には図書館の白い壁と、反射する硝子の影が映り込み、まるでそこに水底の都があるかのようだ。
 あたしは入館するとまっしぐらに視聴室へと向かった。
 三階建ての建物の丁度ドームの部分を、六つに小分けにした部屋だ。丸窓の硝子から青い光が注ぎ、何度も塗り替えられた白壁を深海のように染めている。そこではあたしの大好きな、音火力革命前の録音が聴き放題なのだ。
 もちろんその時代の音楽の多くはデジタルリマスターされて、あたしも持っている端末でも聴くことはできる。だが、CDよりも古い録音、アナログレコードや蓄音機時代の音楽を、当時の機械によって聞くことが可能なのは、この近辺ではここだけだった。しかも入館料は無料なので、中学生のあたしのお財布にも優しい。
 あたしは棚から好みのドーナッツ版を五枚ほど選んで、六号室に入ると背負っていたリュックを降ろした。恐らくは現代に複製製造されたであろう、骨董品にしては新しすぎる機械に置いて針を落とす。夢見るようなピアノ音が流れ出す。
 あたしは紺色の布張りソファーにゆったりと身を沈め、うっとりと目を閉じた。ああ、やはりハトのピアニズムはいい。あたしは昼食時になるまでそうして、視聴室の椅子に沈み込んで過ごした。
 十二時十五分に、あたしは一旦一階のカフェスペースに降りて、あんバターサンドとカフェラテを買って席に着いた。
 南向きの全面が大きな板ガラスで出来たその一角には、爽やかな七月の日光が燦燦と降り注いでいた。白い光は肌に突き刺さるも、適温に保たれた冷房のせいでさほど暑さは感じない。
 カフェは壁も入り口も特産の白ナラの木材で出来ていて、木肌のぬくもりと安らかな芳香を発散させているようだ。白壁に青い光差す視聴室の雰囲気とはまた違い、人々の解放感を高めるように設計されいるのだ。
 窓の外には青空を映しとった鏡のような池が、鴨の親子を何列も浮かべて揺蕩っている。そのほとりに揺れる柳の若枝。絵に描いたように穏やかな日曜日のお昼だった。
 あたしがストローを口に含んでパンの袋を開けたとき、前の席に一人の少女が体を滑り込ませてきた。
 あたしは周りを見回した。空席ならまだいくつも残っていた。なぜわざわざあたしの目の前に座ろうというのか? 
 あたしはその子の顔を覗き込んだ。不敵な面構えをした子だった。赤っぽいストレートの髪を碧いシュシュでポニーテールに結っている。まとっているのはオレンジにブルーのロゴがついたスポーツウェアーだ。
 気性の激しそうな丸い大きな目、口元には自信たっぷりの微笑みがあって、それが彼女の不遜とまでも言えるような雰囲気を作り出している。
 「ねえ、どうしてそこに座るの? あたしになんか用? 」
 あたしは怖気づいたりせず、鋭いとよく言われる眦に、挑発するような光を浮かべるように意識して、真正面から尋ねた。少女は悪びれもしない。
 「お友達になろうと思ってさ」
 「は? 」
 あたしは想定外の答えに呆気にとられた。誓って言うけれども、この子とは学校でも地域でも会ったことがない。
 「どうして? 」
 「いずれ深い運命で結ばれる二人だからだよ」
 あたしは眉をしかめた。さっぱり訳が分からない。
 「あんた、何ていう子? 」
 「アトリ。あんたの名前は知ってる。ヒタキさん。あたしたち実は十年前に一回会ってるよ」
 「十年前? そんなの憶えてない。どこで会ったの? 」
 あたしは思わず叫んだ。アトリと名乗った少女は、動揺するあたしの様子を満足げに見た後こう言った。
 「内緒」
 あたしはよっぽど席を移動してやり過ごそうかと考えたが、こんな理不尽な言い草に追い払われるような結果になるのが癪で、そのままパンをむしゃむしゃと咀嚼した。
 アトリと名乗った少女も手にブルーベリーサンドを持っている。それを袋から出し、まるであたしに倣ってでもいるように頬張る。
 あたしは無言でパンをかみしめながら、アトリの茶色い勝気な目を見つめた。そこには今窓の外に注ぐ、夏の日差しのように明るい光が湛えられていた。心の中に何か懐かしく恋しい感情が兆した。
 あたしは唐突に考える。本当にこの子を知らないのだろうか? 本当に? やはりこの子の言うように、どこかで会った気がする……。
 「午前中は何聴いたの? 」
 「ハトのピアノソナタ。それから胡桃島カルテットの『クレマチス』」
 アトリの質問に、あたしは正直に答えた。答えない理由は特には思いつかなかった。教えても教えなくても、不利には働かないことばかりだ。
 「いいよね、ハトのピアノ。サギ作曲の『影追い』、『三つの手遊び』とか好きだなあ」
 アトリの返答にあたしは目を見張った。
 「知ってるの? 」
 「うん」
 「あんたも好きなの? 」
 「うん」
 あたしはアトリの茶色い目を見つめたまま、口の中のパンをカフェラテで流し込んだ。
 「不思議と好みは一緒なのか」
 「不思議でも何でもないかも」
 「どういうこと? 」
 「うううん、内緒」
 あたしはアトリの目から視線を逸らさずに尋ねた。
 「あんたも他の部屋で古い録音を聞いていたの? 」
 「そうだよ」
 「何聴いてたの? 」
 「カワセミ作曲の、ヴァイオリンコンチェルト第五番『ささやき』オペラ『星海の姫』序曲から主なアリア十曲ほど」
 あたしは目を見張った。
 「通だね。あたしとおんなじくらいの歳で、ここまで解ってる子には会ったことがない」
 「お褒めに預かりまして光栄です」
 あたしは少しだけ緊張を解いた。
 窓の外で、お母さんらしき女性に連れられた小さい子供が、赤と青の風船を持って歩いているのが見えた。風が吹いて青い風船がさらわれる。ゆったりと、まるで誘うような滑らかさで、風船は池の方へと流されてゆく。子供が残った赤い風船の紐を握りしめて、青い風船を指さしお母さんに何か訴えている。
 「ところでアトリ、家はどこ? この近辺? 」
 「宇宙」
 「は? 」
 突拍子もない答えに、あたしは眉をしかめた。
 「真面目に答えてよね」
 「真面目に答えてるよ。だってあたし宇宙人だからね」
 「どうやってここまで来たの? 」
 「レコーディングの波に乗って。実はあたし、天才音科学者なんだ」
 あたしはさっぱり真面目に答える気のないアトリにいらついた。
 「ちょっと見どころあるなあと思ったけど、やっぱり勘違いだったみたい。あたしは席を移るからアトリはどうぞご自由に楽しんで」
 眦に拒絶の意を示し、パンとカフェラテのカップをつまんで猫背に立ち上がるあたしを、アトリは目を丸くして止めた。
 「そんな冷たいこと言わないで! ねえ、午後はあたしと一緒に視聴しない? いい録音幾つも見つけてきちゃったんだからさあ」
 アトリの勝気な茶色い目に、まばゆい夏の光が躍っていた。その屈託のなさはまるで仔犬だ。
 長いことこんな微笑みには出会っていなかった気がする。あたし自身、こんなふうに笑えなくなって久しい。足元に縋り付く豆シバのパピーのような笑顔で、アトリはあたしの心の中に入り込んでいた。
 あたしは席に座り直した。すぐには口を開かずアトリの言葉を待つ。
 「ねえ、こんなに好きな音楽が一致しているんだもの、あたしたちって実はソウルメイトかもしれないよ。ガンは好き? コハクチョウのチェロは? それとも……」
 アトリの目は潤み、その頬は死に隔てられた恋人に、百年ぶりに天国で再会したとでも言うような、言い知れぬ興奮に紅潮していた。あたしと会って話したということを、こんなにも嬉しがっている人がいるのだ。
 アトリは疑う余地なく嘘をついている。あるいは意図的に限定された情報しか話していない。だが、あたしをソウルメイトとまで呼んだ気持ちに嘘はないのだと、不思議に納得した。
 改めて虚心に目の前の彼女を見つめる。これは好きな人間だと思った。鋳物から散る火花のように心が熱く、竹を割ったようにすがすがしい気性を感じる。すぐばれる嘘をついているのは、本来嘘がつけないからなのだろう。
 あたしの心の中に流れ続けているいつもの音楽が、新しいメロディーを奏で始めていた。フレーズが変わり、調も変わる。今朝起きたときまであんなに閉塞感しか感じていなかったのに。
 それは懐かしいのに未知の曲だった。覗き込めばアトリの茶色い目の中に火花が燃えている。それは鉄琴のように、ピアノの弦のように、金属製の澄んだ音を響かせていた。
 あたしはその午後、アトリと一緒に古い録音を聞いて過ごした。二人して音楽についてとめどもなく話した。アオバトが残した傷を一時的に思い出せなくなるくら、幸せな時間だった。
 午後の五時に、あたしたちは図書館を出た。入口の前に、三十代半ばぐらいの男性が案じているような顔をして立っていた。こちらを見て、一言「アトリ」と呼ぶ。背が高く、白っぽく染めた髪の毛を短く刈り込んで、面長の顔に銀縁の眼鏡をかけている人だった。黒いポロシャツにブラックデニムという無難な装いだ。彼が呼ぶとアトリも手をかかげて呼んだ。
 「おじさん」
 「お家の人? 」
 あたしの質問に、アトリは笑って頷いた。
 「じゃあまたね」
 「また会うつもり? 」
 「ヒタキはもうあたしとしゃべりたくないの? 」
 そう問い返したアトリの目は、大真面目に強ばっている。あたしは短い言葉を安心させるように放った。
 「そういう訳じゃないけど」
 正直にそう答えると、アトリの顔がぱっと明るくなった。
 「じゃあまたね」
 あたしもまじめに返した。
 「じゃあまたね」
 あたしたちは手を振って別れた。池のほとりはまだまだ熱気冷めやらなかった。
 風に乗って運ばれてくる温められた水の匂いと、草木の発する緑の匂いが、どんどん高まってゆく夏を強く感じさせた。
 自転車の高校生、犬の散歩に来た人、そぞろ歩きの老人が、あたしたちの横を思い思いの速度で通り過ぎてゆく。日差しには色がつき始め、車道を走る車もちらほらライトを灯し始める。
 アトリのおじさんは、何度かこちらを振り返って見た。胸が痛んで仕方がないというような表情をしていたのが、とても奇異に感じられた。

 タゲリ先生の計らいで、その週の水曜日に、あたしとお母さん、そして担任のシギ先生との三者面談が行われた。
 あたしの意志ははっきりとしている。緋色第一高校の作曲家コース以外の進路はありえない。
 それに対してお母さんは、どうしてもこの子をピアニストにしたいとくどくどと繰り返した。その為の指の習練や体作りには、水場台女学院が最も適切なのだと言い張った。そして先生から、あたしを作曲家にはしたくない理由と聞かれると、お父さんが死んだ悲しみや無念さを長々と述べ立てた。
 「この子にはあの人が経験したであろう苦しみや重圧を感じて欲しくないんです。そりゃあ政府の機関でのお仕事ですから、お給金はたいしたものでした。でもその結果……」
 「お母さん、何度も言うけどあたしは政府の作曲家なんかにはならないよ。人々の喜びのためだけに音楽をする、本来の純粋な音楽家になるんだから」
 「それでどうやって暮らしていけるの! 」
 「お金や生活なんて切り詰めれば何とでもなる」
 シギ先生はあたしたちのあいだに、黒いジャージの肩をすぼめろようにして割って入った。無骨に濃い目鼻立ちに、戸惑った表情を浮かべている。
 「まあまあ、お母さん、落ち着きましょう。ヒタキさんもそんな目つきをしない。確かにお母さんの言い分は一部は正しい。でもね、ひとにはその年齢年齢に応じた『至上命題』というべきものが存在するんです。ヒタキさんぐらいの子供に課せられた使命は、『ひたすら理想を追求せよ』というものだと言われています。この時期の子供たちはみな全力で己が理想を追い求めなくてはならない。それが心の成長を促し、大人へ向かった次のワンステップへとつながるのです」
 「でも、先生、十代のころの指の習練は取り返しがつかないですよ」
 「あたしはピアニストにはならない」
 「お母さん、ヒタキさんを信じましょう。私が今まで受け持ってきた子供たちの中でもヒタキさんは強い。ずば抜けてます。お母さんがレールを提示してあげなくても、十分にやって行けますよ。それに緋色第一は進学校です。もしも大学進学の際に気が変わっても、どこへでも簡単に進路変更できますよ。高校三年間で子供たちは驚くほど大人になります。今はお母さんのおっしゃることが分からなくとも、高校で進路を判断する時には考え方も変わってくるかもしれません」
 話し合いには一時間以上が費やされた。そして、あたしの意地とシギ先生の決定先送り策により、晴れてあたしは緋色第一高校の作曲家コースへ、願書を出すことが許された。
 三者面談が終わってもお母さんは、聞いてほしいことがあると言って先生と教室へ残った。どうやら泣き言を繰り返しているらしい。
 あたしはお母さんが帰るまで、教室のある五階の階段に座って、高い窓から降り注ぐ夕方の光を眺めていた。
 幾つもの二十センチ四方の窓枠に区切られた空は、熱っぽいターコイズにオレンジのニュアンスを滲ませ始めていた。暮れ方なはずなのに暑い。まだまだ地表に熱が停滞していることを知らせる光だ。
 ぼんやり考える。あたしは来年この夏の光をどこから見ているだろうか? 緋色第一高校の校舎の中から見上げているのだろうか? アオバトは遠くへ行っているはずだ。
 それでもきっと、アオバトがカナリヤの国を訪れない週はないだろう。あたしもまたあたしの理由から、頻繁にカナリヤに会いに行くだろう。結果否応なく顔を合わせることになるのだろう。それが本当にあたしにとっていいかどうかはわからないけれど。
 隣のクラスでも同じように、進路に問題を抱えた生徒の面談があるようだった。それはどうやら、あの日無識主義者の演説に加わっていた不良風の、ヒレンジャクという生徒であるらしかった。
 教室のドアの窓から、彼の赤く染めた髪の頭が、泰然と構えているのがのぞいている。彼を説得しようとしているのは、父親と担任の教師であるらしかった。あちらの方は、あたしとお母さんの小競り合いには比べ物にならないほど、声を荒らげ机を叩いて、対立を繰り広げているようだ。
 「お前はこの曲家、世界の在り方全てを敵に勝すというのか! 」
 「間違っているものを間違っていると言って何が悪い……」
 不意に人の気配が背後に来て、振り向くとアオバトのクラスのハジロが、自販機で買ったコーヒー牛乳を二つ持って立っていた。
 「よう、守備はどうだ? 」
 「任せてよ」
 あたしはにんまりと笑った。ハジロは黒ぶち眼鏡の奥の切れ長の目を緩めて、あたしの横に座った。ジャージではなくきちんと、制服の白いポロシャツを着ていた。背が高くて体格のいいハジロが着ると、まるで高校のゴルフ選手のようにも見える。
 ハジロはあたしにコーヒー牛乳のパックを一つ手渡した。あたしたちは並んで階段に座り、紙パックの細かな水滴に指先を濡らしながら、ストローを刺してちゅうちゅうと吸った。
 「お前も緋色第一行けそうか? 」
 「うん」
 「良かったな。あとは落ちないように勉強するだけだ。あそこ結構学力高いぞ」
 「準備ならもうとうに始めているよ。ハジロこそ勉強どうなの。二年生まで一度もあたしに勝てなかったじゃん」
 「言わなかったっけ? 今年から家庭教師がついている」
 「そりゃあそりゃあ」
 ハジロもあたしと同じ緋色第一を目指している。彼もまた作曲家コース志望だった。
 「アオバトは必死だよ。今年から人が変わったみたいに勉強してる。お前ら晴れて付き合うようになったのに、ろくにデートも出来ていないんじゃないか? 」
 「まあね。何でそんな時期にあたしに告白なんかしたんだろう? 最近のアオバトの行動はよく解らない……」
 「そんな時期だからじゃないか? お前を押さえたうえで、安心して勉強に励もうっていう。俺は言われてるよ、『緋色第一では、ヒタキにちょっかいかける男がいないように見張ってろ』ってな」
 ハジロはそう言って知的な顔立ちに、大人っぽい余裕を感じさせる苦笑を浮かべた。
 あたしは訳が分からなくなる。アオバトが向ける憎しみと初めての口づけが、遮断機の降りた踏切の信号のように点滅する。あたしは眉根を寄せて溜息をついた。ハジロが言った。
 「何暗い顔してんだよ。そんなに遠距離が心配か? その時は俺が見張ってるって思わずに、心置きなく別の男を追えばいい」
 「そういう問題じゃないんだよ……」
 その続きをあたしはハジロに言えなかった。 
 アオバトに殺されるかもしれない……。
 あたしとアオバトとハジロは、幼稚園時代からの幼馴染だった。
 勝気でどこまでも突っ走っていくあたしと、仔犬のように元気なアオバトと、大人っぽく保護者然としたハジロは、絶妙なバランスの取り合わせだったのだ。そのトリオも、あたしとアオバトが秘密を抱えた時期からすっかりと瓦解していた。
 あたしは、ハジロの眼鏡の奥で賢く光る切れ長の目を盗み見た。
 そこには全て解っているように寂しげな光があった。短く立った髪の毛に、正方形の窓から注ぐ陽が当たっていた。
 理知的に整った容貌のハジロは、同級生下級生を問わず人気がある。間を取り持ってくれないかと頼まれたことは、一度や二度ではない。断れずそうするたびに、ハジロが寂しげな顔をすることにも気が付いている。
 もしもだ、もしも好きになったのがアオバトではなくハジロだったら、どんなにか幸せだったか。でもあたしは、ハジロの隣にいてもときめかないのだった。
 バン、と隣のクラスの扉が荒っぽく開けられて、赤く染めた頭を傾けて、いかにも不良っぽく猫背を保ったヒレンジャクが出てきた。
 「出ていけ! もうお前を息子だとは思わない」
 彼の父親らしき男性が怒鳴りつけるのが聞こえた。ヒレンジャクは何も聞こえていない風に、ジャージのズボンのポケットに手を突っ込んで、悠々とあたしたちの前を通って階段を降りて行った。
 その野生の狐のように鋭い眼が一瞬、あたしの目とぶつかった。
 彼は何故か微笑を浮かべた。目じりと口の脇に分かるか分からないか程度浮かべられた淡い微笑み。だが、あたしの脇で怪訝そうに見つめるハジロを目に留めると、彼はすぐに平素の冷淡な表情に戻って、とっとっと階段を下りて行った。
 「同じクラスだったと思うけど話したことある? 」
 あたしはハジロに尋ねた。
 「いや、あんまり。アオバトと折り合い悪くってな。俺も目の敵にされている。あいつ、政治に興味があって、厄介な団体に首を突っ込んでいるらしい。何て言うか、過激派だよ。人間には、音楽も文学も絵画も演劇も、全て芸術は毒だっていうんだ」
 「そりゃああたしともそりが合わなさそうだ。だって、芸術の代わりになるものって何? 」
 「哲学、理性、正義、これに勝る美徳はないって」
 ハジロはそういって人差し指で眼鏡の鼻あてを直した。彼はあまり関わりのないクラスメイトの身の処し方についても、真剣に憂いているように見えた。そういうところがハジロの徳なのだろう。あたしは改めて、ハジロにときめかない自分自身を恨んだ。
 その時ようやくお母さんが教室から出てきた。十歳歳をとったように体を丸めてあたしを手で呼んだ。
 「じゃあまたね」
 「うん、また」
 あたしはハジロに手を振って立ち上がった。ハジロもまた小さく振り返した。

 あたしはお母さんが運転する車で家に帰った。
 お母さんは地下駐車場で何度か車体を切り返した。駐車角度が気に入らなかったらしい。
 その間にあたしは一足早く降りて、エレベーターではなく階段で一階まで上がった。
 その日は特別に気が向いて、(今から思うと運命が囁いたのかもしれないが)、郵便ポストコーナーの指紋認証に指を当てて、金属製の蓋を持ちあげた。町の広報と、成人式のドレスのはがきと、音火力費の明細に混じって、どこか古びた大きな茶封筒が入っていた。
 差出人を見てあたしの心臓は止まりそうになった。
 お父さんだ! 宛先はあたしの名前になっていた。あたしは咄嗟に封筒だけを隠し持って階段で家のある五階まで登った。お母さんはエレベーターを使うのに違いないからだ。
 息を切らして家に帰るとすぐさま部屋にこもった。鍵をかけ、どきどきしながら封筒を開ける。
 そこには五ミリほどの厚さの楽譜が入っていた。手書きだった。おたまじゃくしの感じからして、お父さんが書いたものに間違いが無い。あたしは声を潜めてその曲のメロディーを歌い、複雑なスコアを頭の中で組み立てた。
 「ああこれは……」
 あたしは思わずつぶやいていた。体中に新鮮な驚きが満ちてゆく。
 「これはカナリヤの曲だ……」
 何という導きなのだろう? 細密画のように密やかな伴奏、花びらのそよぎのようなカナリヤの歌、甘美でメランコリックなあの曲は、白桃の産毛のように優しかった、お父さんの感性が生み出したものだったのだ。表題には「短い夏のアリア」とあった。
 あたしの頬には一筋二筋、力強い熱の通った涙が伝った。あたしはしばらくお父さんの曲をハミングし、頭の中で演奏を鳴らした。
 不意に楽譜から手書きの音符が消えた。ぶっつりと何の前触れもない終わり方だった。その後は、何も書いていない五線譜が二十枚ほど残されている。
あたしは曲が不完全に中断されていることを悟った。何かとても理不尽な思いがした。
 「きっとお父さんは最後まで書き抜きたかったのに違いない」
 丁度空白の楽譜に切り替わるところに、お父さんの字で覚書があった。
 「全ての小鳥は解き放たれなくてはならない」
 あたしは部屋に座り込んだまま、苦しくなるまで脈を打つ心臓の上に手を当てていた。
 カナリヤの国とは何なのだろうか? 今まで無数にある小さな音楽の国の一つと考えて疑わなかったけれど、それがお父さんの作曲したものだとしたなら、あたしにとってどんな意味を持っているのだろう? あたしだけでなくアオバトもそこへ渡った理由はなんだ?
 もしかしたなら全てお父さんが仕組んだ運命だったの? そしてお父さんが死んでから五年も経った今になって、どうしてあたしにこんな封筒が届いたんだろうか? お母さんでもなくお姉ちゃんでもなく、まぎれもなくあたし宛に来た理由は? 心臓が早く落ち着きなく打っている。
 最後から二番目の疑問は簡単に片付いた。検索してみた結果、郵便局には「タイムカプセル郵便」というサービスがあることが分かったのだ。
 小学生が成人後の自分や、もう残り時間少ない人が遺されるであろう大切な人に、十年後以内のいずれかの時期にメッセージを送るというものだ。お父さんの楽譜も、おそらくそうしたタイムカプセル郵便で送られてきたものに違いなかった。
 死ぬことを決めてから、あたしにこれを託したのだろうか?
 何故あたしに? どうして手紙ではなく楽譜を? それも途中で途切れたものを? この未記入のままのものも一緒に送ってきた理由は? 
 考えれば考えるほど謎が増えていった。
 あたしは薄闇に包まれつつある部屋の中で電灯もともさず、ベッドに横になったまま窓の外の残照を見ていた。
 もう城跡のカラスもねぐらへ帰る頃だ。石造マンションの隙間からのぞく雪嶺峰の鋭い山頂が、まだうっすらと宵闇の中に浮き上がって見えた。お母さんが神経質な声で食事に呼んでいる。無視していると、お姉ちゃんがドアを三回ノックして開けようとした。
 「ヒタキ、今日はあんたのバースデーだよ。主役がいないんじゃパーティーが始まらない。て、何で、鍵なんかかけてんの? 」
 「え、そうだったっけか? 」
 あたしは動揺を押し隠すようにそう答えた。お姉ちゃんは、「早くおいで」と言って、ドアの前を立ち去った。あたしはまだふわふわとした感がぬぐえず、薄まりゆく光の中で手元の楽譜を眺めた。
 「短い夏のアリア」
 つぶやいてみる。
 あたしは最初にカナリヤの国へ行った時のことを思い出していた。そういえばそうだ、あたしは最初からあの国がひどく懐かしかったのだ。
 アオバトと二人、黄金の砂が流れる青空を見て歓声を上げたことを思い出す。謎を抱えたように口を利かない群衆に目を丸くしたことも。それから、大樹に抱えられた美しい廃墟に甘い痛みを覚えたことも思い出した。
 そして何よりもカナリヤの歌! 繊細ににひっそりと奏でられる伴奏の一番天辺で、舞い遊ぶ蝶のように、本能に従って恋を歌う小鳥のように、自在に喉を震わせる天性の歌手。
 その時の気持ちをなんと表現すればいいだろう? まるで自分の内臓に紛れ込んでしまったかのような、そんな心地だったのだ。
 血に流れる音楽の精髄が、お父さんから受け継いだ美への理想が、あたしをあの国へとひどく惹かれさせたのだろうか?

 ローストビーフもバースデーケーキも、うわの空で味わった。晩御飯の後は、しばらく放心していた。いろんなことが、頭の中で巡ってそして去って行った。
 九時過ぎ、一人でカナリヤの国へ渡った。
 アオバトには何も教えなかった。カナリヤを守るために、あたしたちは用心ぶかく行動していた。電話でもメールでもSNSでも、絶対にカナリヤの国を特定できるような言動や書き込みはしない、それがあたしたちの鉄の掟だった。
カナリヤの国も夜のとばりにとっぷりと覆われていた。あたしはこの国の夜を久しぶりに見たことに気が付いた。リングのように細い、下弦の月があたたかみのある夜空に浮かんでいた。
星はあたしの国よりも多い。赤い星、青い星、強く光る星、ビーズ袋をぶちまけたように散らかる星、もうほとんど、空気の澱と一体になって、星とみなければ星とわからない星。
 星灯りの下、緑の瞳を猫のように光らせて、赤い唇を官能的に開いたりすぼめたりして、カナリヤは夜も儚げな旋律を歌っていた。その喉は言葉のためではなく、小鳥のように歌うためだけに存在するのか? 金色の、人の姿をしたナイチンゲール。
 カナリヤは歌う、繰り返し、繰り返し、そうだ、繰り返さなければ続けられない。お父さんの曲は未完なのだ。ふと持ってきていた楽譜を眺めた。
 この先を書けないだろうか? 
 お父さんの遺志を継げないだろうか? 
 そう思い立ったあたしは勢いのまま、お父さんの送ってきた楽譜の、未記入の数枚のメロディーを埋めた。青い空に滲む金色の砂を、崩れ落ちた館の気高さを、忘れられた庭園に咲くヒナゲシの赤を思いながら、さらさらと鉛筆を走らせた。
 その晩あたしは曲の旋律部分だけを五枚ほど埋めた。

 次の日、学校から帰ってくると、通路の右側に空いた家のドアから、中年の男の人が五人ほど出て来るところだった。
 あたしは一瞬足を止め、彼らの表情や仕草を眺めた。人を見下すような顎の角度、いちいちを値踏みするような疑り深い眼差し、尊大にふんぞり返った胸、どうにもいけ好かない連中に見えてならない。
 それなのにお母さんはコメツキバッタのように、何度も丁重にお辞儀を繰り返している。
 あたしがスニーカーの音をわざと踏み鳴らして近づくと、男の人たちは軽く一礼してエレベーターの方へと歩きだした。その背中を見送りながら、あたしは尋ねた。
 「何があったの? 」
 「政府の、お父さんの職場にいらした方々よ。お父さんのことで、遺言、もしくは遺作のような作品が残されていないかと」
 お母さんの答えに、あたしの心臓はイヌワシに怯える野ネズミのように飛び上がった。「ふうん」と適当な返事をして、あたしはすぐに自分の部屋の、机の一番下の引き出しにしまっていた楽譜を確かめに行った。それは茶封筒に収まったまま、そっくりそのまま残されていた。あたしはほうっと溜息をついてへたり込んだ。
 あたしがこれを手に入れたことは、あの人たちは知らないはずだった。それなのにどう考えても、この楽譜があたしの元に来たことが原因と考えられてならない。
 これは、この楽譜は何なのだろうか? 
 「ちょっといい? 」 
 お姉ちゃんがドアの枠に手を掛けて、部屋を覗き込んでいた。焦ったあまりに部屋を閉めたり鍵を掛けたりするのを忘れていた。お姉ちゃんの目にはしっかりと楽譜が映ったらしかった。
 「ヒタキ最近隠し事してるでしょ。て言うか、その楽譜何? 」
 あたしは溜息をついた。そうして言葉に身振りも加えて、お姉ちゃんに部屋を閉めて鍵もかけるように言った。お姉ちゃんには隠し事なんかできない。それにお姉ちゃんだってお父さんの娘じゃないか。
 あたしは昨日からの不思議な出来事を、カナリヤの国のことを抜かして話した。お姉ちゃんは鋭い眼に、窓から差し込むマンダリンオレンジの光を宿して聞いていた。
 「じゃあ何、あんたがこれを昨日受け取って、そしたら次の日あの人たちが調べに来たってこと? 」 
 「よく分からない。あの人たちには、あたしが昨日これを受け取ったことはわかるはずないのに……」
 お姉ちゃんは尖った顎先を右指でなでた。
 「ねえ、これ、ここから先お父さんが書いたんじゃないね。あんたが書き足したんでしょう? 」
 お姉ちゃんの言葉に、あたしはおずおずとうなずいた。
 「それがあいつらが来た原因なんじゃないの? よく分からないけど、この曲はきっと政府にとって都合が悪いんだよ。あんたが書き足して、それが政府の曲情報統制センターかなんかに引っかかって、それできっと……」
 「え? あたしのせい? 」 
 急に足元が崩れてきたかのような気持になった。
 「ヒタキ、悪いことは言わない、この曲は捨ててしまいなさい。誰の目にも触れないように。あいつらに引き渡せとは言わない。あたしだってお父さんの曲が無碍にされるところなんか見たくない。でも、これではあんたやあたしたちが……」
 あたしはあたしにしては頼りない声を出した。
 「分かった……、でも捨てはしない。誰にも分からないところに隠しておく」
 それなのにその言葉が口の先から放たれる瞬間にも、あたしはあの曲の伴奏部分を頭の中で展開させていたのだ。
 そんなあたしの様子を深く理解したように眺めながら、お姉ちゃんはポツリ言った。
 「ねえ、お父さんが死んだのは、本当に自殺だったのかなあ? 」
 あたしはびくりと震えた。お姉ちゃんも言ってしまってから体をゾワリとさせて、自分で自分の肩を抱くようなポーズになった。
 部屋の中央に座る二人の影が、不格好な樹氷のように床に長く伸びている。どこかで救急車のサイレンの音がして余計に不吉な気分を増幅させる。
 不意に出現した深い奈落に、あたしとお姉ちゃんは言葉を失った。

 色々考えた結果、あたしは楽譜をカナリヤの国の、崩れた館の二階にある象牙のドレッサーの引き出しに隠した。ここなら政府の手も及ぶまい。
 しかし安全と思われる隠し場所にそれをしまった一呼吸後に、あたしはそれを再び取り出した。自分の衝動に勝てなかった。昨日書いたメロディーの部分に、伴奏のスコアを書き足していく。
 それが自分に不利に働くことはわかっていた。お母さんやお姉ちゃんにも危険が及ぶことも。それなのに、あたしの血の中に流れる音楽への愛は、いいや、それは愛というよりは欲望と呼ぶべきものなのかもしれないが、それは体中に巡るこの曲の続きを書き表わすことを求めてやまないのだった。

 土曜日の九時半にアオバトが来た。清潔な青いTシャツで気障にならない程度にめかし込み、手にはハートと猫をあしらったデザインの、ブーランジュリーシャトンのケーキ箱を下げていた。
 「ヒタキと俺のバースデー、カナリヤと一緒に祝おうと思ってさ」
 アオバトはぎこちなく笑いながらそう言った。おおよそ見当はつく。カナリヤにケーキを食べさせてあげたいのだ。
 あたしはありがとうと言った。そこを突っ込んで非難するほど、あたしはアオバトの愛を信じてはいない。むしろ珍しく自分のお財布を痛めたことを、あたしへの中途半端な好意として受け止めた。
 あたしたちはケーキを崩さないように、いつもよりゆっくりとカナリヤの居る庭園へと登って行った。
 この国の空は今日も青い。まるで見上げるあたしたちの体の中さえ、群青に染まるのではないかと思われるほど。
 乾いた熱風が肌を撫でていく。あたしの碧いシャツの襟首に、音火力変換所の煙にも似た、皮膚が歌で撫でられているような肌触りを憶える。雲の代わりに砂金のような塵が、さらさらと空と大地の間に舞っていた。
 肩を並べて歩くアオバトは今日も無言だった。これがあの仔犬のようにじゃれついてきたアオバトの三年後だとは! 
 半歩遅れたあたしは斜め後ろから彼の横顔を盗み見た。アオバトは夢見る目をしていた。神聖な像の前で跪く修道士のように一途な眼差しだった。
 ケーキを見たカナリヤは目を丸くして喜んだ。
 真っ白い生クリームと、苺とメロンそしてブルーベリーが載った、四号のホールケーキだった。断面を見るときめ細やかなスポンジが、トッピングにも使われているフルーツと、生クリームをサンドしている。
 アオバトがカナリヤに割り振ったチョコレートの板の上には、「ハッピーバースデーヒタキ&アオバト」と書かれていた。
 あたしはポットに入れて持ってきた紅茶を、一階の戸棚から出したカップに注いだ。それは普段カナリヤの食事を世話しに、下の街から訪れるご婦人が使っているものだった。
 カナリヤは必ずしも食べ物を必要としていないみたいだった。しかし、彼女の歌を愛する者たちは、何くれとなく気を遣う。丁度あたしたちもそうであるように。
 蝋燭は本来十五本あるべきなのだろうが、三本に省略した。アオバトはねじれた細く長い蝋燭に火をつけた。あたしとアオバトは順番に吹き消した。
 アオバトは瞳を輝かせてケーキを食べるカナリヤを、ブラックデニムの膝の上に手を組んで、満足そうに見ていた。
 「そんなに美味しいかい? カナリヤ」
 「はい、とっても」
 「毎日、そう毎日、カナリヤにケーキを食べさせてあげられたならな」
 「毎日ご馳走はいけません。たまにだからいいのです」
 そう言ってほほ笑むカナリヤの瞳は、乾いた陽光を受けて、エメラルドよりも結晶めいて見えた。白い肌は薔薇色に上気し、赤い唇はクリームの油分でつやつやとしている。それらの外見的な美の下に、本物の清らかさと優しさが脈打っていた。
 カナリヤは人間ではないのかもしれない。別の世界の未知の生き物なのかもしれない。あたしたちの理想と憧れの詰まった、純化された結晶物なのかもしれない。その理想に敵おうだなんて、どうしてとるに足らない生身の女であるあたしには思えよう? 
 ケーキの効果なのか、心なしかアオバトとカナリヤの会話は弾んだ。いつもよりも、カナリヤはアオバトに関心を持っていた。アオバトも上機嫌だった。
 和やかな会話の流れの中で、カナリヤが嬉しげに言った。
 「ああそうだ、昨日はとても嬉しいことがございましたの。私の曲が十六小節も進みましたの。良きことです。長いこと続きが歌えずじまいでしたので。早速歌って差し上げましょう」
 カナリヤは立ち上がり、胸の前に手を組んで、カナリヤの曲を最初から歌い始めた。あたしはぎくりとした。
 そうだ、カナリヤの曲が進んだことを、カナリヤが分からないはずなかったのだ。あたしは横目でアオバトをうかがった。何かまずい事態となるような気がしたのだ。
 アオバトの表情は凍り付いているように見えた。真珠のように美しい歌声を聞きながら、その表情は怒りに蒼ざめていた。
 カナリヤの歌が終わり、あたしが買ってきたチョコレートをつまんでいる時も、アオバトは怒りを胸にためているように見えた。カナリヤに言葉を向けられた時だけ微笑み、あとはむっつりと黙り込んでいた。とりわけあたしが何か口にすると、憎しみをこらえているような眼差しであたしを突き刺した。あたしはどうしていいか分からなくなった。
 日差しに色がつき始めるころ、あたしとアオバトは家路についた。
 空には青さの中にほのかな赤みと深みが生まれていた。
 両脇の街並みは、真昼よりも影と色合いを強くし、異界の風俗をした雑踏に紛れて歩いていると、古い絵画の中に迷い込んだような気分になる。
 影濃くなる軒先に、人々が一つ二つ、灯りをともし始める。小さな男の子と女の子が無言のまま、それを指さして微笑みあっているのが見える。アオバトは荒ぶる心を、無理矢理に抑え込んでいるような声音でぼそり言った。
 「お前、俺に何か隠し事をしているだろう」
 あたしは素直に「はい」とは言わなかった。
 「何のこと? 」
 「カナリヤのことで隠し事は駄目だと言っただろう」
 「何も知らない。隠し事なんかしてない」
 いくらアオバトのためでも、あたしは、あたしの音楽を売れなかった。お父さんの遺志を裏切れなかった。それをしたなら、あたしがあたしでないものになってしまいそうだった。アオバトは牙をむいた狼のような表情で言った。
 「お前のせいでカナリヤに何かあったら、俺はお前を憎む。一生お前を憎む」
 「だったら何? 」
 あたしは衝動的に本音を口にしていた。
 「あたしはあたし以外のものにはなれない。アオバトの理想の女の子にもなれない。極限まで美しく清らかなカナリヤにはなれないんだ! でもだから、愛してくれなくてもアオバトを恨まない。でも、そんなあたしだからきっと……、いずれ……、いずれアオバトはあたしを殺すんでしょう? 」
 あたしは自分の鋭い眦に、挑発の色が浮かんだのを感じた。三年ぶりに、あたしは彼以外の誰にでも向ける牙を、アオバトに対しても向けた。
 アオバトは唇をかみしめて肩を震わせていた。
 あたしの吊り上がった眦の端っこに、小さな涙がくっついているのを感じる。アオバトはあたしの碧いリネンシャツの肩に手を回してちょっとだけ抱き寄せた。何度か呼吸を整えるようにした後で、小さなかすれ声でこう言った。
 「そうはならない……、そんなはずない……。そうはならないように努力している。だから、隠し事はやめてくれ……」
 アオバトの胸が震えているのが分かった。おののきに揺れる胸から吐き出される息もまた揺れていた。アオバトの吐息はケーキに入っていたバニラと生クリームの匂いがした。あたしは目を閉じて彼の全てを味わった。
 やがてご褒美をもらえなかった犬のようにしょんぼりと、アオバトは体を離した。あたしたちは言葉もなく並んで歩いた。
 解らない、アオバトが解らない。あたしに憎しみを向けたかと思えば、中途半端な好意を示す。殺したいほど憎いのか、それとも抱き寄せるほど愛しいのか……。あたしとアオバトは、金色の砂が渡る夕空の下を、肩を落として歩いた。

 あたしはアオバトの想いを十分わかっていたはずだった。その場ではすとんと納得したつもりでいた。
 それだというのにあたしは、その晩もこっそりカナリヤの国に出かけて、楽譜の続きを書き足した。合わせて十枚を書いたところで、急にふっつりと先が続けられなくなった。本能的に理解した。これは、今はこれ以上書き続けてはいけないものなのだ。
 あたしは楽譜を象牙のドレッサーの引き出しの奥にしまって、しっかりと閉めた。鍵がついていないことは不安だが、自分の部屋に隠すよりはまだいいはずだ。

 日曜日がやって来た。あたしは待っていたかのように図書館へと向かった。はっきりとは確信できないが、またあのアトリという風変わりな女の子に会えるのではないかという気がした。
 果せるかな、あたしが受付を済ませて、十時の光が差し込むロビーの前を通りかかると、紺色のソファーの背もたれに両腕をのっけ、その上に顎を載せて、アトリがにんまりとした笑みを向けてきた。
 「おはようヒタキ、元気だった? 」
 「おはようアトリ、そっちこそ元気? 」
 あたしとアトリはどちらかが言いだすともなく、一緒に視聴室で古い録音を聴いた。あたしたちの好みは所々食い違ってはいたものの、大きな思想の方向性としては一致していた。古い音源をめぐるアトリの知識に、あたしは少なからず驚嘆した。
 「ねえアトリ、あんたの学校ではそんなことまで教えるの? それとも専門の音楽教室で習っているの? 」
 「あたしは学校に行ってないんだ。一回も通ったことないよ」
 「不登校なの? 」
 「そんなんじゃないよ。あのね、おじさんのお友達が、日替わりで付きっ切りで勉強を教えてくれるんだ。言わなかった? このアトリ様は天才音科学者だって。将来を嘱望されてるってやつ」
 「ほんとに? すごいね」
 聞いたことがある。ごくまれに、本物の天才を示す子供に、そういった英才教育を施すケースもあるらしい。アトリもそれに該当していたのか。だが分からないこともある。
 「アトリがすごいのは分かった。でも、その個人レッスンの中に、音火力革命前の音楽カリキュラムもあったの? 音科学とは肌が合わない分野に感じられるけれど」
 「もちろん違うよ。この趣味はお母さんの影響なんだ。お母さんが遺したたくさんの音源で、あたしは音楽への愛を学んだんだ」
 「のこした? 」
 あたしの質問に、アトリの勝気な目にさっと影が差した。彼女は早口で言った。
 「お母さんはあたしが五歳の時に亡くなったの」
 あたしの口からは一瞬答えが遅れた。
 「そうだったんだ……。なんか悪いこと聞いちゃった」
 「いいや、いいんだよ。ヒタキに悪気が無いことはわかるから」
 アトリはそう言って少し寂しげに笑った後こう付け足した。
 「この悲劇は必ず打ち消してみせる。何せこのアトリ様は、自分の不遇に黙って打ち沈んでいる人間じゃないんだから。あたしの悲しみにはピリオドを打つ。そして、世の中全体もよりよいものに変えてみせる。それが音科学者としてのあたしの使命だから」
 その表情は焼けただれてしまった山肌の中から、真っ直ぐに天を指して伸びて行く白ナラの若木のように、未来への意思に満ちていた。
 あたしはアトリの言う「悲劇」という言葉に軽い引っ掛かりを憶えた。その言葉は時代錯誤なドラマツルギーを語る評論家の言葉のように、あまりにも大仰に響いた。だが、あまりしつこく問いただすのがはばかられるように感じられたため、結局何も言わなかった。
 その日も夕刻までアトリと音楽を聴き、図書館の前で別れた。今日もあの眼鏡の「おじさん」がアトリを迎えに来ていた。彼は知的な目を伏せてあたしにお辞儀をした。
 お辞儀から顔をあげるときの彼の表情は、まるで言葉を言い出しかけて、呑み込んでいるみたいに見えた。アトリだけではなく、アトリのおじさんにも、どこかで会った気がするのは何故なのだろう? 
 彼が振り返ってアトリと連れ立ち歩き始めたとき、ふと視線を感じて振り返った。
 図書館の椿の植え込みの陰に、赤い髪の毛が揺れるのを見たような気がした。それは背の高い男の人の高さにあった。
 あたしはしばらくそのままの姿勢で、髪の毛が消えた辺りを凝視していた。少し迷ったが、その椿の陰がよく見える辺りまで歩いて戻ってみた。
 そこには赤い風船を握って蟻の行列を眺めている、五歳くらいの男の子がいるだけだった。

 次の日から期末テストが始まった。
 中学三年生の一学期も終わる頃となると、ほとんどの子が間近に迫りつつある高校受験を意識するようになる。ここへきて急に焦りつつある同級生たちの中、あたしは比較的泰然としていた。
 あたしは何も日長一日作曲したり、ただ音楽を聴いて過ごしていたわけではない。毎日一二時間程度は家庭学習もしている。あたしはその程度の学習時間を確保して、授業を集中して受けるだけで、上々の成績をとることが出来るのだ。
 テストには手ごたえもあった。去年から緋色第一を意識して音楽一と数学の勉強には力を入れている。
 問題は音楽二だった。
 音楽二、それはいわゆる音武道のことだ。あたしがもっとも忌み嫌っている科目だ。実技の評価が低すぎたので、あたしは筆記六科目の後に追試として、音武道の型の試験を受けるはめになった。
 午後一時半、校庭には、明日の追試の前に行われる補習を受けるため、あたしを含めて十人の生徒が、緑色のジャージに黄色いプロテクターをつけて座っていた。小学生の時から運動音痴で通っているミサゴも、あたしの隣でまん丸いおでこに汗を浮かべながら座っている。
 あたしが全科目の中で唯一、音武道を苦手としているのには理由がある。中学に入った直後から、音武道の授業をボイコットしてきたのだ。
 この科目は本当にあたしの主義に合わない。侵略戦争のための音楽など糞喰らえだと、頑として授業を受けなかったのが仇となった。今年度から急に、緋色第一高校の入試でも、最低レベルの実技を見るように改変されたのだ。これは痛手だ。
 こうしてあたしは渋々と音楽二の補習を受けて、追試で最低B評価を受けられるように努力しなければならなくなったのだ。
 あたしたちの隣の列に、ヒレンジャクが座っていた。どうやら彼は、幾ら促されても音武道を実技して見せないということらしかった。キーボードだけを首から下げ、プロテクターもつけずに先生に背を向けて座り込んでいる。あたしはその反抗の気合の入れように、羨望の想いを込めて話しかけた。
 「絶対に音武道はやって見せないんだ」
 独特にかすれた声でヒレンジャクは答えた。
 「音武道は、音兵器が相手か、相手も同じように音武道を使う、という前提が無いと通用しない技だ。音火力革命後で改悪された世界の象徴みたいなもんだよ。昔みたく小銃を使った方がよっぽど融通が利くし気も利いている」
 「芸術はすべて人間には毒なんだって? 」
 あたしはよく鋭いと言われる眦に、最大級の挑発を含んだ光を浮かべて尋ねた。ヒレンジャクはちょっと動揺したようだった。それでも彼は以外にも誠実な態度で答えた。
 「あんたには到底納得できないような主張だろうね。でも実際に芸術は害悪だ。芸術は根源的に正義を持ち合わせていないくせに、大衆に容易く正義もどきを捏造して与える。そしてそれは理性や哲学による正しい正義と違って、感情に作用して諍いを産む。そんなものが無ければ戦争も起きないし、社会悪だってかなり軽減されるはずなんだ。特に今の曲家が、音楽と一体化して展開されていることは、俺にとっては嘆かわしいことだよ。あんなのいずれ破綻する」
 「音楽と政治が結びついていることを嘆くのはあたしも同じだけど、あんたは音楽が悪いから政治も悪くなるっていうんだね。あたしは、政治が音楽を取り込んだことが、音楽の純粋さを貶めていると考えている。指向性が全く違う。どう、補習が終わったらあたしとディスカッションでもしてみる? 」
 ヒレンジャクは、たじたじといった苦笑を浮かべてで固辞した。
 「やめとく。何であんたが俺のクラスの愚か者と付き合ってんだか分かんねえな。一年の妹が泣いてたぜ、憧れのヒタキセンパイ。これ以上話したらこっちが焼き尽くされてしまいそうだ」
 そう言うと、もうこれ以上何も話すまいというように口をつぐんで座る方向をずらした。あたしもまた矛先をおさめた。
 校庭の周囲を取り囲むようにしなだれている柳の緑は、どんよりとした空模様のせいでくすんだ油彩画の様な暗緑色に見えた。風もなく木の葉の白い葉裏は見られない。それでも太陽は雲の上からしきりに照り付けている。天気予報によると今日は気温三十度、湿度は六十五パーセントにもなるらしい。
 音楽二のイスカ先生の隣に、模範演技の相手としてハジロが立っていた。あたしを含め補習を受ける生徒たち全員、イスカ先生までもジャージに汗染みを作って、鬱陶しげな表情を作っている中、彼だけが涼しい顔をして汗もかいていな。
 「はい皆さん、注目。キーボードは低く構える。前後、左右どこへでも態勢を持っていけるように。そして槍撃、音素を槍状にして相手の胴体を狙う、手首、足を狙うのは皆さんの実力では難しでしょう。まずは一番大きな当てやすい所を狙う、これが基本の攻撃の型です……」
 先生はそう言うとハジロに、ゆっくりと槍撃の型をとらせた。
 ハジロがキーボードのキーを押すと、その音程の音が具現化され、スピーカー部分から蒼白い槍状の光となって伸びる。それは先生の腹を突き刺さないように、三輪車が走っているような遅さだった。
 先生は腹部を被うプロテクターにハジロの槍が触れた瞬間、やや大げさに受け身を取って転がって見せる。
 二人の実演の後あたしたちは、一人二組になって補習を開始した。あたしはミサゴと組になった。二人して不格好な槍撃と受け身を繰り課す。
 音武道で一番基本的なのが「槍撃」だ。音を細く鋭く集中させて、直線的な動きで相手に突き出す。更にその発展形として、音を波状に放つ「ウェーブ」、放射状に放つ「ラジアル」、球体、もしくは鋭角に独立した音を意思に沿って操る「曲撃」、ここまでくると高等で、なかなかに専門性を要する。
 あたしとミサゴは代わる代わる槍撃と受け身を繰り返した。音を槍のような形状に保つことは、二年半授業をボイコットしたあたしには骨が折れる。
 ミサゴはミサゴで、どうしても音を具現化することが難しらしい。受け身のとり方も不器用で、あたしの繰り出したぶきっちょな攻撃にも、格好悪くべしゃッと尻餅をつき、いかにも痛そうに肩から崩れ落ちたりする。わずか五十分の補習でミサゴはあざだらけになった。あたしも慣れない音の集中で息が上がりかけている。
 練習の合間に脇を見やれば、ヒレンジャクは頑固に、地べたに座って補習をボイコットしている。イスカ先生が必死に説得しているが、彼はウンコ座りを崩す気もないらしい。
 あたしは羨望に半分呆れを紛れ込ませた溜息をついた。彼の説く自説には到底納得はできないが、その反抗の方には否定する気はなれなかった。
 ミサゴについては補習の成果はあまり見られなかったものの、あたしは少しだけ硬い槍を保つことが出来るようになった。先生の号令で補習を終え、じっとりとかいた汗を腕で拭っているとき、聞き覚えのある声がフェンスの外側からあたしを呼んだ。
 「ヒタキー、守備はどう? 」
 顔をあげて見るとブルーデニムにオレンジのパーカーを羽織ったアトリが、雑草がぼうぼうと生えるフェンスの外側に、カエルみたいにへばりついて立っていた。あたしに機嫌のよさそうな笑顔を向ける。
 あたしは肘のプロテクターを外しながらアトリに近づいた。アトリが叫ぶ。
 「何でもできるって豪語していたけど、音武道は苦手なんだ」
 「主義主張に合わないからね。でも、受験で必須になっちゃった。明日は追試だ」
 するとアトリは仔犬のように屈託のない笑顔を作ってこう言った。
 「ねえ、あたしと特訓しない? あたし音武道は大の得意。軍の初科生並の実力はあると自負してるよ。終わったら校門のところで待ってて。キーボード取って来る」
 あたしは咄嗟に返事が出来なかった。だが、そう言うが早いかアトリは、あたしの返答など待たずに、くるりと後ろを向いて駆け出したのだった。どうしよう? これって約束をしたことになるのだろうか? 

 アトリはやはり約束した気でいたらしい。あたしがやや急いで制服に着替え、荷物を持って校門を出てみると、アトリが動きやすそうなオレンジのジャージ姿で、キーボードの赤い袋を下げて待っていた。並んで歩いていたミサゴがまん丸い目をぱちぱちさせた。
 「この子誰? 」
 「アトリっていうの。最近知り合ったんだ」
 「えー」
 あたしはアトリにもミサゴを紹介した。
 「アトリ、この子はミサゴ、あたしの仲良し」
 「え、あなたがミサゴ? ねえ、ミサゴも追試を受けるんならさ、あたしたちと一緒に特訓しない? 」
 アトリが、良く知っている仲良しのお友達に久しぶりに会ったというような、満面の笑顔をミサゴに向けた。
 だが、ミサゴはやや舌をもつれさせながら言った。
 「えー、あたし疲れすぎてなんか具合悪いの……」
 はっとしてのぞき込むとミサゴの目の下には、音素の使い過ぎによる疲労からべっとりと黒いクマが出来ていた。顔色も何だか蒼白い。
 アトリが、すかさずズボンのポケットから、MPタブレットを一粒出してミサゴに手渡した。青と黄色のプラ包装を見て、あたしとミサゴは軽く歓声を上げた。
 「すごい、リッチ」
 「おじさんのお友達からもらったんだ。いっぱい持ってるから遠慮しないで舐めて。それと今日はもう稽古はしない方がいいよ。家でゆっくり寝てるといい」
 「うん、ありがとう」 
 ミサゴはクマの浮いたまん丸い目を、三日月のような形に細めて笑い、タブレットを口に入れた。「酸っぱーい」と言いながら、体育館に向かうあたしたちと別れて、石造マンションの谷間の細い道へと歩き出す。疲労の隠せないもたついた仕草で、それでも愛想よくあたしたちに右手を振る。
 アトリがあたしにもMPタブレットを渡してくれたので、ありがたく口の中に放り込む。あたしとアトリはそのまま左の方角へ、やはり石造マンションの間の道を歩いて行く。
 あたしは何度か振り返った。今日もどこからか視線を感じるような気がする。この間家まで来た政府機関の人の顔が、頭をよぎった。
 「ねえアトリ、この前から視線を感じるんだ。誰かに見張られているのかな。アトリは感じない? 」
 あたしの前を歩いていたアトリがくるりと振り返った。
 「感じない。でも、誰が誰をつけているの? あたし? あんた? 」
 あたしははっとして目を見張った。そうだ、必ずしもあたしをつけているのではないのかもしれない。もしかしたなら狙われているのはアトリ? 
 「でもあたし、この街には知り合いなんていないはずなんだけどな」
 アトリが首を傾げた。だがそのすぐ後、アトリはあたしの右手を強くつかんだ。
 「走ろう」
 全く怯える素振りも見せずに、アトリは、オレンジのジャージの背中を大きくしならせて走り出した。蒸し暑い空気の中で、顔中汗まみれにして、アトリは大きな笑顔を浮かべていた。天を仰ぎ、無邪気な笑い声をあげる。あたしはアトリのはしゃぐ声を聞いているうちに、びくびくと怯えることが馬鹿らしくなっていった。
 あたしたちは足並みをそろえるようにして走り、空に向かって賑やかな笑い声を突き立てた。一人の足がもつれると笑い、危うくこけそうになるともっと笑った。足を振るたび制服のプリーツスカートが、汗で太ももにまとわりついた。
 マンション街の谷間の薄暗い通りを、あたしたちは息を切らしながら走り抜けた。
 やがてマンション街の最後の並びを抜けると、左側に緋色農科大学の植物園が見えてくる。高いフェンスの向こう側には、ユリノキやフウノキなど、背の高い木々が密に生えている。右手には日当たりのいい草地の向こうに、商業区の賑やかなビル群が眺望できる。
 灰色の石を敷き詰めた道はむっとするような緑の香りに包まれている。そこですっかり息が切れてしまい、あたしとアトリは走るのをやめた。
 前方、大学の黄色煉瓦の建物の向こう側に、体育館のドーム型の構造物が見えてくる。ぽつぽつと人通りが多くなって来ると、恐怖を感じていたことはすっかりと忘れてしまっていた。
 体育館は大学の付属品のように、その敷地にくっつくようにして建っていた。外壁はクリーム色、その上に乗った屋根は白の混じった緑色をしている。
 築十年しかたっていない公共施設は、この街ではここぐらいのものだ。石造マンションや図書館にはない、新しい建物特有の清潔感にあふれている。
 駐車場わきの植え込みにはグラジオラスが咲き乱れ、乗用車の上にはネムのぼわっと桃色に滲む花が落ちかかっている。ツバメのヒナが親を呼ぶ声が響いていた。見上げれば体育館の軒には巣があるようだった。
 月曜午後の体育館はほどほどの人入りだった。近隣の老人クラブのサークルが二三組、小学生のグループが二三組、そしてあたしと同じようにテストの終わった中学生が数人。特産の白ナラを敷き詰めた床の上で、室内用運動靴のかかとをキュッキュッと鳴らしながら、めいめい卓球をしたりバドミントンをしたり、スリーオンスリーをして楽しんでいる。あたしたちと同じように音武道の鍛錬をしている人たちもいた。
 二階部分に設けられた窓の上から、蒸し暑い熱気を閉じ込めている曇り空が見えた。それでも強力に効いた空調のおかげで、館内は動き続けていなければ少し肌寒い。
 あたしは体育館の更衣室で中学校の緑のジャージに着替え直し、プロテクターをつけた。アトリの黒いジャージは、大手スポーツメーカーの見慣れないモデルのものだった。
 あたしとアトリは二時間ほど、ほとんどぶっ通しで、音武道の型の練習を繰り返した。その頃になるとやっと、あたしの槍撃は何とか、試験で評価をもらえそうなレベルに進歩していた。

 特訓の後、あたしとアトリは二階にある休憩ロビーで休んだ。
 体育館を見下ろすテラス部分に、シンプルな曲線を描いた木製のテーブルと椅子が並んでいる。ゴムの木や金造りの木の鉢植えが置かれ、奥の方には電飾も派手派手しい自販機が五台並んでいた。
 小ぎれいな売店もあって、サンドウィッチやポップコーンを売っている。即席麵のカップも並び、頼めばそれに熱湯を注いでくれる。
 あたしとアトリは自販機で買ったアイスバーを食べた。中にとろけるチョコソースを仕込んだ、友達の間でも人気のアイスを食べながら、アトリがこう言った。
 「このフレーバーのは食べたことがないな。とっても美味しい」
 「そう? どこでも売ってるよ」
 「あたしめったにお店に行けないから」
 「どうして? 」
 「言ったでしょ、あたし宇宙人だから、宇宙に住んでてなかなか買い物にも行けない」
 あたしは顔をしかめた。
 「宇宙? 宇宙ってどの辺? 秋星? 冬星? それとも月の裏っ側? 」
 アトリは遠くを探すような目をして言った。
 「そのどれでもない。あたしが住んでるのは秋星と月の間ら辺にある人工衛星なんだ。そこでおじさんと猫のサバカンと家事ロボットのエナガと暮らしてる。でも寂しくはないよ。毎週数人のおじさんのお友達が、あたしと音科学の研究をしに来てくれるからね。それにその人たちが来ないときでも、あたしは研究で忙しいんだ。何しろ『交響曲』の命運は、あたしの双肩にかかっているんだから」
 「それなら今は、大切な研究をうっちゃって随分と油を売り、遠くまで遊びに来ているわけだ」
 あたしは鼻の付け根に皺を寄せるようにして、最大限の皮肉を言った。宇宙人だとか天才音科学者だとか、そんな冗談はもっと信じやすい馬鹿な子にして欲しい。
 いくらあたしが宇宙開発時代に憧れを持っているといったって、現代ではそれを実現するメリットが、無いと考えられていることぐらい解っている。
 それなのにアトリはそれを皮肉と受け取らなかった。
 「そうなんだ。こんな遠くに出かけたのは初めてだったよ。こんなに長く家を空けたことも。サバカンは元気かな? エナガが面倒を見ていてくれると思うけど」
 「それで、そんなに大切な猫ちゃんを置いてはるばるこの星まで出かけてきた訳は? 」
 アトリの表情は急に引き締まり、目は冬の一番星を宿したように、冴え冴えと輝いた。
 「あたしの運命をゆがめた悲劇を打ち消すためにだよ」
 「悲劇? 前にも言ってたけど、アトリの悲劇って何? 」
 「家庭の崩壊。ありふれてるかな? 」
 アトリは大真面目な顔で言った。嘘やからかいの影は感じなかった。あたしは、ただアトリのことを思い、心に氷粒が吹き付けたみたいな痛みを感じた。でも、それを露わにすることはかえってアトリを傷つけるような気がして、わざとなんでもない風を装って言う。
 「まあ、ありふれてはいるんじゃない。あたしの家だってお父さんが自殺しているし。五組に一組の夫婦が離婚するご時世だし」
 アトリは茶色い勝気な目に、穏やかならざる光りを宿して返事をしなかった。それは、自身の不遇に対して何の諦めも達観もする気もない、孤独な反逆者の瞳だった。二人の間に落ちた短い沈黙の後、アトリは思いのたけを隠した、低く淡々とした口調で言った。
 「あたしはそんな現実を黙って受け入れるしかない、平凡で無力な子供の一人だとは、絶対に認めたくないんだ」
 アトリは決意を込めてこう続けた。
 「どうしても運命を変えたいんだ……」
 あたしはあたしの音楽を思った。あたしが音楽や芸術に向けるのと同じ量の情熱を、アトリはその願いに向けている。ひとには絶対に譲れないものがある。何と引き換えにしても得たい望みがある。
 「よく分かんないけど、アトリの気持ちは解るような気がする。あたしにもあるよ。どうしても得たい望みとか、覆したい運命とか」
 「じゃあさ、あたしに協力してくれる気はある? ちょっとでいいんだ」
 まるでその言葉を待っていたかのように、明るく力づけられた声でアトリが言った。
 「それってあたしに頼むこと? あたし、アトリの家庭の事情には何のかかわりもないんだよ」
 「うううん、これはヒタキにしかできないことだ」
 アトリの顔はこわばるほど真剣だった。まるで大真面目に腕を伸ばして、実際には巨大なはずの月を掴もうと挑む人のような眼差しだった。あたしは気圧され咄嗟にうなずいてしまった。
 「何? 」
 「あのさ……」
 アトリはためらいながら、少し蒼ざめて震える唇で言った。
 「『カナリヤ』の国の曲を完結させて欲しいんだ」
 あたしの背筋がぞわっと冷たくなった。
 突如氷の手で心臓をつかまれたみたいだ。
 アトリの瞳は、真剣に光りながらも、にじみ出る心細さに潤んでもいるようだった。言葉を発した唇は、最後の音の形通りにとどまったまま、あたしの口から返答が出るのを待っていた。そもそも、アトリがあたしに近づいた理由は……。
 「あんたカナリヤのこと誰に聞いたの! 」
 「ある人から。ねえ、書き遂げてくれない? これはあたしの、いや、あたしたちの運命を覆すためにはとっても大事なことなんだ」
 「知らない! 知らない! 何にも知らない! 」
 あたしは荷物のリュックサックと手提げを抱えて立ち上がった。食べかけのアイスをゴミ箱に投げる。そして脇目も振らずに逃げ帰った。
 「ヒタキー、お願いだから! 後生だから! 」
 アトリが後ろから、幼い子が体全部を使って大人に抵抗するみたいに、声を割って乱しながら叫び続けた。あたしは振り返らなかった。胸の中に荷物を抱えるようにして、あたしは足の速い怪物に追われているかのように、体育館を飛び出した。
 「ヒタキー! 不幸になりたいの! 」
 アトリの脅すにしてはあまりにも悲痛な、あまりにも切羽詰まった叫び声が後ろから追いかけて来て、あたしの背中に突き刺さった。
 そのとげは体育館を出ても、マンション街の濃い夕影の中を走っていても、なかなか抜けなかった。

 その日はどういう道順で家まで帰りついたのかよく覚えていない。
 まだ背中を震わせながら、マンションの五階にある家の前まで速足でたどり着くと、ドアの前が何だか物々しい。
 私服の警官らしい男の人たちが幾人も出入りし、紺色の制服を着た警官たちも、家の中からたくさんの楽譜を束にして運び出している。お母さんとお姉ちゃんが戸惑った様子でドアの前に立って、彼らが理不尽に立ち振る舞う様子を見守っている。
 「何があったの? 」
 あたしは二人に近づいて尋ねた。しかし尋ねる前からあたしは、カナリヤの国に隠してきた楽譜のことを考えていた。それ以外理由は無いように思われた。
 「お父さんの遺した楽譜で、何か問題が生じたらしくて……」
 言いながらお母さんは首をかしげている。お姉ちゃんはもっと強ばった顔をしていた。お姉ちゃんはあの楽譜の存在を知っている。
 一人の私服警官があたしの前に近づいてきて頭を下げた。
 「この家のお嬢さんですか? 作曲家を目指しているという」
 あたしは氷のようになってきた喉で答えた。
 「はい……」
 「失礼ながら、あなたは最近作曲はされましたか? その、お父さんの遺したものの続きを」
 あたしは首を横に振った。
 「そうですか」
 疑り深そうな眼差しで刑事は、あたしにうなずいてみせた。そしてお母さんの方へ向き直ると、
 「奥さん、今のところ怪しい楽譜は出てきていません。こちらの思い違いかもしれませんね。問題の曲はどこか別の所で、別の誰かが書きたしたのかも」
 と言った。お母さんは憔悴したような顔で、おろおろと頭を下げた。お姉ちゃんがあたしに目配せする。刑事とお母さんが離れていった隙に、素早く密やかにあたしに耳打ちした。
 「あいつらが帰ってからカフェにでも行こう。もしかしたら盗聴器でも仕掛けてあるかもしれない」 
 あたしはもう自分の部屋でさえ安全ではなくなってしまったらしきことを悟り、指先がかじかむ思いだった。

 商店街の東隅にあるカフェ、スパイシードッグで、あたしと、お姉ちゃんは、アイスカフェモカを前にしばらく黙り込んでいた。
 店内にはオレンジがかったペンダント式の白熱灯が揺れていた。小人の三角帽のような傘が、遠い昔の映画から抜け出してきたかのような、ノスタルジックな雰囲気を醸し出している。
さりげなくバラードが流れていた。音火力革命後でも純粋に音楽を追求していた、貴重なアーティストの音源だった。普段のあたしなら、会話そっちのけで聴き入っただろう。
だが今は、恐らくは自分が招き入れた危機のために、音楽を楽しむ心の余裕はなかった。数組の客が低い声で会話しながら、ドリンクやスイーツを楽しんでいたが、あたしとお姉ちゃんの周りだけは殺伐とした空気が流れている。
 お姉ちゃんにはあたしが忠告に従わず、曲の続きを書き足したことが分かっただろうか? 果たして最初にお姉ちゃんが発した言葉はこうだった。
 「ヒタキ、曲の続きを書いたんだね」
 あたしは返事も出来なかった。
 「どうして自分を窮地に落とし込むような行動をとるの? あんただけではなくあたしもお母さんも政府ににらまれたよ」
 「申し訳ないとは思っている……」
 あたしはカフェモカで唇を湿らせて、からからに乾きかすれた声でようやく言った。お姉ちゃんは深くため息をついた。あたしはなおも続ける。
 「でも、どうしても、あの曲がスコアになって、演奏される様子が聴きたくて仕方がないんだ。自分の命も家族の安全もどうでもよくなってしまう。お姉ちゃんにはそんな情熱ってないの? 」
 「無いね」
 お姉ちゃんは冷静に言い切った。
 「て言うかそれ、『情熱』っていうの? ポジティブな言葉で正当化しているように聞こえるよ。それは情熱というよりも、『執着』とか『盲執』とか、そうだな、『業』とでも呼ぶべきもののような気がする」
 「業」あたしは口の中で言葉を転がした。その言葉を最近聞いたような気がしたが、どこで聞いたのかは思い出すことができなかった。
 「とにかく、どこに隠したかはわかんないけど、あんたはその楽譜が絶対に見つからないようにしなさい。もう書き足すのもいけない。永遠に手を触れずそのまましまっておくんだよ。そうすれば政府も少しずつあたしたちのことは忘れてくれるよ」
 あたしは蚊が鳴くような声で言った。
 「もう続きは書けなくなったよ。今書いてしまえる分だけ書き足したら、続きが続かなくなったんだ。しばらくは書かないって思う。でも、もしも、続きの着想が湧いて湧いて仕方がなくなったら、その時には自分の行動に責任が取れなくなるかもしれない……。ごめん、お姉ちゃん」
 お姉ちゃんは奥目になってあたしをにらんでいたが、不意に、空気にほつれを見出したかのような、寂し気な眼差しでふっと宙を見た。
 「お父さんもそうだったのかな? 書いたらまずい音楽を、書きたくて書きたくてたまらなくなって、そして……。自分の命よりも家族の幸せよりも、芸術の方が大事だったんだろうか? あたしには解らない。音楽も演奏も、自分が幸せで満たされていればこそって思う。でもあんたは違うんだね。冷たい風や身の危険にさらされてでも、自分の芸術を追求したいんだね。お父さんもきっとそうだった、だから……」
 あたしは前にもたどりついた可能性にまたぞくりとした。
 「お父さんは本当に自殺だったのかな? 政府にとって不利な曲に固執したから、命を奪われたのかな? その前に、あんたにあの楽譜を託したのかも……」
 オレンジ色がかった照明にほの暗く照らされるお姉ちゃんの顔を、あたしは心細く眺めた。お姉ちゃんは突き放すような目をしていた。
 「どうしてお父さんがそんなあたしに不利に働くようなことを? 」
 「その答えはあんたがもう言っているよ。『どうしてもあの曲がスコアになって、演奏されているのを聴きたくて仕方がない、自分の命や家族の安全もどうでもよくなってしまう』。お父さんもあんたの同類だった。だから、あたしではなくあんたにあれを託したんだよ」
 お姉ちゃんは腹を立てているように見えた。あたしはどんどん心細くなっていった。
 あの楽譜が送られてきたときの選ばれた感じや、お父さんと魂の深い所でつながっているような親密な気分は、ただエゴで思い遣りなく押し付けられたかのような、やり切れない想いに変わった。
 「あたしは、馬鹿だね……」
 「馬鹿だよ」
 お姉ちゃんは本気で怒っているようだった。
 「あんたも馬鹿だけどお父さんも相当馬鹿だ! 大馬鹿親子だ! 」
 お姉ちゃんは肩を怒らせ、両手を拳に握って、テーブルの両端をゴッとたたいた。立てた音は小さかったが、思いが込められた重い一撃だった。
 あたしはテーブルのこちら側で、小さくなって黙り込んでいた。カフェモカの氷がグラスの中でからんと崩れた。

 店を出たあたしたちは、商店街を行きかう群衆の中の一人になった。
 見上げれば濃密なオレンジ色の夕日が、安っぽい半透明のアーケードをすり抜けて、一体いつから続いているのかもわからない、人々の日々の営みを赤々と染め上げていた。
 買い物かごを下げた主婦は値札を前に暗算し、彼女らの連れるおさなごは、小言にも構わずに走り回る。学校帰りの学生たちは賑やかな笑い声をあげ、老人たちは牛のようにゆっくりと歩いている。誰もかれも、何の心配もなく、日々の暮らしを楽しんでいるように見えた。
 あたしはお姉ちゃんの猫を思わせる背中を追って歩いた。小さいころから人の好意を拒絶するようなところがあったあたしでも、お姉ちゃんだけは不思議と心の支えにしていた。今だってお姉ちゃんがいなかったら、あたしはもっと孤独で心細かったに違いない。
 寄りかかるついでに、カナリヤの国やアオバトや、アトリとのことも打ち明けて頼りたくなってしまう。あたしが自分から複雑にした世界を、いつものクールな口調で鮮やかに解説して欲しい。
 だがあたしは言わなかった。あたしはそれを自分だけの試練だと考えていた。もし打ち明けるとしたらそれは、最後の最後であるべきだ。あたしは水飴のように長く伸びるお姉ちゃんの影に、隠れるようにして家路についた。
 商店街の中ほどまで来た時、お姉ちゃんは何度か振り返って眉をひそめ、早口にあたしに言った。
 「ねえ、変な人がいる」
 あたしも振り返って見た。杢グレーの糊のきいたシャツとと黒のスラックスを履いた男の人が、あたしたちの十メートルほど後ろを歩いていた。中背で痩せ型、気障な白い日除け帽を目深にかぶっている。
 それだけだったら特には気にも留めなかっただろう。だがその人は群青色の羽毛をちりばめて大粒の真珠をあしらった、目の周りだけを被う、まるでパレードにでも出るようなマスカレードをつけていたのだ。
 その歩みは堂々としていて、何の迷いもなく、右足と左足をただ無造作に運んでいるだけのように見えた。それでいて、彼はあたしとお姉ちゃんの歩調に、完全に同調するかのような速度でついて来るのだ。
 おかしな人と思う以上に、なんとなく薄気味が悪かった。アトリと振り切ったはずの追跡者の足音が、急にまざまざと思い出された。
 あたしとお姉ちゃんはどちらからともなく、足取りを速めた。商店街を抜け、石造マンション群の谷間の道へと出ても、仮面の人はあたしたちと一定の距離を保ってついて来た。
 あたしとお姉ちゃんはなお一層足を速めた。仮面の人は時折マンションの角や植え込みの陰に見えなくなりながら、それでもつかず離れずひたひたと付いて来る。
 あたしとお姉ちゃんは最後はほとんど走るようにして道を急いだ。自宅のあるマンションの灯りが見えてくると全速力で駆け、オートロック付きのエントランスに飛び込んで、摺り硝子の影にへたりこんだ。
 「何だったの、あの人? 」
 「さっき来た刑事たちの仲間かな? 」
 あたしとお姉ちゃんは五分ぐらいエントランスの内側で身構えていたが、仮面の人が入ってくることはなかった。彼がここまでは入り込めないことを悟って、あたしたちはようやく安心し部屋へ帰りついた。

 次の日、肩を震わせながら家を出た。何度も振り返りながら、アオバトのマンションへと向かう。仮面の人は現れなかった。
 アオバトの部屋は、あたしの家が入っている建物よりも、やや間口の狭い建物の中にある。青みがかった丸硝子があしらわれたエントランスの前で、五分くらい待った。
 やがて制服の白いポロシャツを着たアオバトが、目の下にげっそりと青クマを作って降りてきた。どうやら本気でテスト勉強に励んでいたらしい。
 アオバトはあたしの顔を見るとあからさまに鬱陶しげな表情になった。
 「付き合っているって言ってもな、あんまりべたべたするのは嫌だって言っただろう」
 あたしは鋭いとよく言われる眦に、より一層険しい光を宿すようにして言った。
 「緊急事態だよ。あたしの部屋に刑事たちが来た。どうやらお父さんが残したかもしれない楽譜を狙っているらしい。お姉ちゃんが言うには、あたしの部屋には盗聴器でもしかけられたかもしれない。だから、これからはあたしの部屋からカナリヤの国へ行くのは危険になった」
 アオバトは言葉を呑んだ。
 「それからアトリっていう子知らない? どういう訳かカナリヤのことを知っていたんだ。あたしは話していないよ。だから、それを教えたとなるとアオバトしかいない」
 「アトリ? 」
 アオバトの気性の激しそうな茶色い目に、どうやら歓迎していない方向の、驚きの色が浮かんだ。
 「アトリと言ったのか? 」
 「うんそうだよ。やっぱりアオバトが教えたんだ」
 アオバトの顔に怒りと戸惑いがせめぎ合って、どうにかこうにか抑え込んでいるとでもいうような血色が浮かんだ。
 「俺は、教えていない……」
 「ねえ、アトリって誰なの?あたしと間を張るぐらい音楽にも造詣が深くって、宇宙人だとか、天才音科学者だとか、頭のおかしいことをたくさん並べる子なんだ。アオバト、今の口ぶりだと知ってるんでしょう? 」
 アオバトの表情の中から、怒りが薄れて戸惑いが強まり、そして心細げな色が広がっていった。
 「知らない、俺は知らない……」
 アオバトはそれっきり、あたしに言葉を返すことをやめた。あたしは眦に、気の弱い子だったらとっくに泣き出してしまうほどの、強い光を込めながらアオバトをにらんだ。だがアオバトは頑として口を割らなかった。足早に学校への道筋を無言で歩く。
 ふと後ろを振り返った時、あたしはぞくりと体を震わせた。あの仮面の人が身を隠すそぶりも見せず、堂々とした態度でついて来ていたのだ。
 彼は今日は白いTシャツを着て、グレーのデニムを履いていた。その足取りは今日も無造作で、本当はあたしのもっと先の方に、真の目的地があるとでもいうみたいだった。
 「ねえアオバト、変な人がいるよ。昨日もあたしとお姉ちゃんをつけて来たんだ。政府の放った密偵かもしれない。どうしよう……」
 あたしが囁くように言うとアオバトは、一瞬だけ振り返って鼻でふんと受け流した。
 「そんなわけないだろ。密偵なら何であんな仮面なんかつけてるんだ? 目立つだろ普通に。もっと別な理由があるのさ」
 その言葉を聴いたとき、あたしは唐突に思い至った。アオバトはあの仮面の人を知っている、アトリのことも知っているように……。
 
 その日の試験はひいひい言いながら切り抜けた。昨日からあまりに激動の展開が続いていたので、試験対策は完全に出来ずじまいだった。
 そのうえあたしの集中力はともすると途切れがちになる。古文の要約を百五十文字で埋めなければならないときに、アトリと楽譜とアオバトと、仮面の人の作り出した迷路に、ちょっと気を抜けばはまりこんでしまいそうになる。弱い心を奮い立たせて、なんとか制限時間内に解答欄を埋めた。
 目標の点数に近づけたかどうか分からないが、とにかく欄は埋めたという安堵で、あたしは席に着いたまま深々と溜息をついた。本当だったらこの後すぐに帰れるはずが、音武道の追試まで受けなくてはならない。
 「ヒタキ、一緒にお弁当食べよ」
 同じく追試組のミサゴが声をかけてきた。あたしは唐揚げと、卵のトマト黒山椒炒めの入ったお弁当を開いた。ミサゴのお弁当は、大きなおにぎりが二つだけだった。
 あたしはミサゴがアトリの話題を持ち出すのではないかと怯えた。アトリという存在が象徴している、あたしを取り巻いている危機の全てから逃げていたかった。たとえ束の間であってもだ。
 ミサゴはあたしの気持ちも知らずにのんきに言った。
 「MPタブレットって効くね。一晩寝たらもう体は元の調子だよ」
 「うん……」
 「あのアトリって子、お金持ちなんだね」
 「うん……」
 あたしの生返事にもミサゴは全く意に介さず、一人楽しげにしゃべった。こういうミサゴのおおらかさは、時にあたしの救いにもなるが、時には残酷な現実の鏡のようにもなる。ミサゴがアトリのことを話すことで、アトリがまぎれもなく存在していることがつきつけられる。
 アトリが存在するということはつまり、カナリヤの国の秘密も漏れているし、アオバトが何か隠していることも事実なのだ。
 音楽二の追試では何とかB評価をもらうことが出来た。この一点に関しては、あたしはアトリに感謝しなくてはならないはずだった。
 ヒレンジャクは試験に姿を現さなかった。ミサゴは追試の追試が決まった。今日も補習を受けなくてはならなくなったミサゴを残して、あたしは一人家路についた。
 学校にいれば気心の知れた友人たちに囲まれて賑やかで、あたしを取り巻く現実の脅威は、束の間でも感じられなくて済む。
 だが一人になり、通行人もまばらな通学路を歩いていると急激に心細くなってくる。今まで暖かく降り注いでいた陽光が、黒雲に隠されてしまったみたいだ。柳の葉裏に翻る白緑の色や、信号機のせわしない点滅にも、あたしを脅かそうとする悪意が潜んでいるように思われてならない。
 あたしは幾度も後ろを振り返った。仮面の人はいなかった。あたしはこの暑気の中、背中を震わせるようにして早足に歩いた。
 空は薄曇りだった。昨日ほどはどんよりとしてはおらず、薄雲をすり抜ける七月の白い日差しが、中途半端なまばゆさで射している。
 マンションの影はわずかに涼しく、風はベランダの洗濯物を静かに揺らして吹いている。
 緑地公園の花壇では、マリーゴールドが無邪気に咲きそろっていた。薄桃色の大きな芙蓉がぽつぽつと落ちて、走り回る子供たちの小さな靴裏に踏みつけにされている。
 公園では数人の大人が犬を散歩させていた。現代人にとっても犬は大切な家族だ。政府も法律を作って手厚く保護している。
 赤っぽい短毛種の中型犬と、白っぽい長毛種の大型犬が、鼻をすり合わせて挨拶しているのが見えた。二匹の機嫌よく揺らす尾っぽの毛先が、淡く吹く風にそよそよとそよいでいる。恐らくは顔見知りらしき飼い主たちがにこやかに、相手方の犬の名前を呼んではあやしていた。
 突如、公園の向こうの方から、ウォウウォウという獰猛な吠え声が響いた。犬同士の喧嘩だろうか? あたしは身を乗り出し、左手に広がる公園の植え込みの向こう側を覗き込んだ。小学校高学年の子一人分はありそうな、真っ黒い塊が三つ、目にも留まらぬ俊敏さであたしの方へと駆けて来た。
 それは三頭の、リードも首輪もついていない立ち耳の犬だった。黒い被毛の中に、炎のように赤い口と舌が閃いている。それはぬらぬらと汚らしい唾液に濡れていた。彼らは迷うことなくあたしの目の前に立ちふさがり、取り囲んだ。体を低くしながら、威嚇するようにあたしに向かってゴウゴウと吠えたてる。
 あたしの頭は真っ白になった。もしかしてこれが「野犬」というものだろうか? もう現代では滅びてしまったと言われている犬たちだ。犬たちは唸りながら、体制を低くしてあたしを取り囲む包囲網を狭めた。突っ切ることも後ずさることもできないあたしは、ただ立ちすくむばかりだった。
 右前方の犬が背中をしならせてあたしにとびかかってきた。あたしは思わずスクールバッグで顔と首を隠した。だがそのすきに無防備になった後ろ首めがけて、後ろに迫っていた犬が跳躍したのが、唸り声から分かった。殺された、と思った。
 だがバッグで頭を隠しながらしゃがみこんだあたしの耳に飛び込んできたのは、ギャインギャインギャインという犬たちの断末魔の悲鳴だった。恐る恐る鞄を持ち上げてのぞいてみると、三匹の犬は首や腹から血をどばどばと滴らせてもだえ苦しんでいた。はっとして目をあげる。後ろを振り返った時、あの青い羽毛の仮面をつけた人が、手に戦闘用に開発されたホイッスルを持って、高度な技術を必要とする、鋭角の曲撃をスピーカーの中に仕舞いこんでいるところだった。
 あたしは呆然と彼を見上げた。仮面のせいで目の表情は解らない。わずかにのぞく口許と頬は、理由も知れぬ苛立ちに歪んでいた。たっぷり五六秒も経ってから、あたしはようやく叫んだ。
 「あ、あなたが助けてくれたの! 」
 彼は不快そうに唇を歪めて言った。
 「今死なれては困る」
 公園で犬を散歩させていた人たちが、慌てて駆けつけてきた。
 「お嬢さん、大丈夫かい? 」
 「怪我してない? 」
 そして血を流しながらぴくぴくと痙攣している大きな犬たちを見てぎょっとし、言葉を失った。
 仮面の人は人々の目を気にしながら、気配を消すように後ずさった。そして、より一層不快そうに唇を歪めて静かに立ち去った。
 やがて通行人の呼んだパトカーのサイレンが、けたたましい音を立てて近づいて来た。

 あたしはパトカーから降りてきた、制服の警官に署まで連れていかれた。保護されたという体裁だったが、実際はどうか。たっぷり五時間も、あたしは話しを訊かれた。
 警察の説明によると、あたしを襲った犬たちは、公園の向こうの通りに一時停止した黒塗りの車から放たれたらしい。だが車のナンバーも、笛を吹いて指示したらしき人の顔も、見た者はいなかったという。
 警官たちの優しさはほんの表向きだった。がくがくと震えるあたしの動揺を利用しようと、彼らは根掘り葉掘り都合の悪いことを訊きだそうとする。
 「心当たりはないの? ここまで周到に準備して襲われる心当たりがさ」
 「分かりません……全然わかりません」
 「正直に事情を話せば、うちの方でも保護を検討できるよ」
 「……要りません……、大丈夫……」
 「大丈夫って、顔色真っ青だよ」
 「ええ、大丈夫。心当たりなんて全く無いです……」
 警官たちは優しい保護者然とした態度で、執拗に食い下がった。時に優しく甘やかすように、時に遠回しな恫喝も混じった。
 あたしは、耳元で派手に鳴り響く脈拍の音にも、噛み合わなくなった奥歯の音にもめげず、余計なことはまったくしゃべらなかった。特に仮面の人が昨日からつけてきたことについては、警察が動いてほしいと弱い少女を装って懇願した。
 「事情が分かればうちの方でも対処するよ。だから素直に……」
 「事情って何ですか? 自分を巻き込んでいる混乱の正体がわからなかったら、守ってもらえないっていうんですか! 」
 夕方になって狼狽したお母さんが迎えに来た。お母さんはいったん別室で、事件についての説明を受けたようだった。
 家に帰っても、昨日刑事たちが出入りした部屋では、これまで通りくつろぐ気にもなれなかった。
 あたしにはもう安全な場所はどこにもない。何時あの犬たちみたいな暗殺者が襲い掛かってくるか知れない。オーディオから流れる、大音量の交響曲の音色の中から、ゴウゴウと吠えたてる犬の声や、仮面の人の憎しみに満ちた声が聞こえてくるようだ。
 緊張を解けぬままベッドの上に寝転がっていると、ハジロからメールが届いた。
 『ヒタキ、試験が終わってから、アオバトと話したか? 』
 『うううん、だってあたし本当に大変だったんだから』
 あたしはハジロに、文字通信では十分に恐怖が伝わらないことをもどかしみながら、帰宅途中犬に襲われた経緯を書き込んで知らせた。ハジロはひどく驚いて、随分と心配もしてくれた。そのうえで、今日彼が遭遇した事件のことも教えてくれた。
 『ショッキングなことが起きたところすまない。アオバトとヒレンジャクが殴り合いになった。アオバトが、ヒレンジャクが音武道を実技しないのは、自分の能無しがばれるからだとあざけり、ヒレンジャクはアオバトを政府の飼い犬になりたい馬鹿だと非難した。
 アオバトは技術こそ、科学こそが人々を幸せにすると言い、ヒレンジャクは理性に基づいた政治こそが人々を幸せにすると言い張った。お互い堂々巡りに自分の主張を繰り返した挙句、最後は拳でやり合う羽目になってな。
 俺と数人の男子が間に入って、何とか先生にばれる前に二人を家に帰したんだが、アオバトは相当苛立っているようだったから、もしかしたらおまえにも何か言ってくるかと思ったんだが……』
 『それはハジロ、アオバトにとってあたしが重要じゃないからだよ』
 あたしは、悲しみをを込めてほほ笑みながら書き送った。
 『決してそうじゃないと思うぞ。あいつも相当苛立っているみたいだったから、ヒタキの方から慰めて欲しいと思ったんだが、そんな事件が起こっていたとは……。これは、アオバトの方がお前を安心させるべきだよな』
 『いいよ。あたしはもう大丈夫だから。アオバトにメールしてみる』
 あたしはため息ととも、ハジロとの画面を閉じてすぐにアオバトにメールを送った。
 アオバトの送ってきた文字からは、彼の仏頂面が浮かんでくるようだった。
 アオバトは、音学世界保全科学がいかに優れた学問で、無識主義がどれほど的外れで愚かな主張であるかを長文で送ってきた。あたしはたっぷり一時間ほど、アオバトの愚痴に付き合った。
 本当の所を言うと、ハジロが言っていたように、命の危機にさらされたあたしの方をこそ、アオバトの方から心配してほしかったのに。
 でも、もうお腹いっぱい付き合った。あたしは繰り出される愚痴の間隙を縫って、さっき犬に襲われたことをアオバトに報告した。あたしは犬の口が炎のように真っ赤だったこと、最初からあたしを狙っていたのではないかということを書き送った。
 『びっくりした。ものすごく怖かった。きっと三頭とも、あたしの匂いを覚えさせられていたんだよ。公園にいる誰のことも、いろんな犬たちのことも素通りして、あたしのところまでまっすぐ走って来たんだから』
 『気をつけろよ。誰が差し向けたか分からないけど』
 こんな大事を報告してもなお、アオバトの反応は淡白だった。カナリヤがくしゃみしただけで自分の上着を差し出すアオバトは、あたしが命の危機にさらされたと知ってなお、鼻を木でくくったような返事しか返さない。
 『けど誰だろう? あの仮面の人は。あの人が助けてくれなかったら、あたしきっと死んでた。お礼も言えないうちにさっといなくなってしまったけど。気味の悪い人じゃなくて、いい人だったのかなあ? 』
 アオバトの文字は一呼吸遅れた。そして短く鋭く書き送ってきた。
 『信用するな』
 『アオバト? 』
 『もう寝る』
 アオバトからの返信はそれっきり途絶えた。

 翌日の水曜日は市教研で休日だった。
 あたしは藍色のパーカーの胸元を、前に持ったリュックで隠すようにして歩いていた。足取りは重たいというよりも、小幅で緊張に満ちたものだ。
 何時昨日みたいな犬たちが襲い掛かってくるか知れない……。落ち着かなく瞬きを繰り返し、前後左右に聞き耳を立てる。魔界にでも迷い込んだ子羊のように、歩き慣れたマンション街を歩く。
 リュックには、あたしの外出を止めるのに失敗したお母さんがくれた、水色の防犯ブザーが揺れていた。お母さんはレッスンがあって、送り迎えが出来なかった。
 恐怖に打ち震えながらも一人外出した理由は、アオバトが「どうしても来い」と言い張ったからだ。どうやらアオバトは今日、是が非でもあたしとカナリヤの国へ行きたいらしい。何故あたしと一緒でないといけないのかは、政府に見張られているかもしれないSNS上では聞き出すことが出来なかった。
 石造マンション群の谷間の影は、まだ冷たい朝霧の匂いがした。石畳には水分がしみ、ほのかに夜明けの気配が残っている。
 部屋部屋のベランダには、洗いたてのカラフルな洗濯ものや、真っ白いシーツが広げられてゆく。それを干す手つきは何気ないようでいてきびきびとしていた。何物にも脅かされることのない、彼ら彼女らの日常を象徴しているかのようだった。
 見上げればサイダーの喉越しを思わせる空が広がっていた。今日の暑さを占う天気に、あたしの皮膚はかえって泡立っていった。どこかで犬の吠えたてる声がしやしないか? しかし、聞こえてくる犬の気配はといえば、どこかの部屋で甘やかされている、小型犬のキャンキャンと騒ぐ声だけだった。
 アオバトの家に家族はいなかった。どうやら両親とも出かけるように誘導したらしい。早速渡るのかと思いきや、アオバトは珍しく自分から飲み物とお菓子を用意してローテーブルに並べると、あたしの前にさしで座った。
 アオバトの部屋は、あたしの部屋の半分ほどの広さだった。だがしつらえは同じだ。ネオ城下様式の基準に従い、壁は蝶石灰石を積み重ねたもので、床には白ナラが敷き詰められている。
 両隅にきちんとタッセルでとめられた紺色のカーテンは、六年前、フットボールに夢中だったころに買った、当時の贔屓チームのエンブレムが刺繍されたものだ。
 半年前まで続きもののマンガ本で埋め尽くされていた書棚には、今は参考書と予想問題集、そして音学世界保全科学関連の小難しい書籍が並んでいる。
 あたしたちはまず、あたしを襲った犬の話をした。アオバトは卓の向こう側で、突き放すような表情で聞いていた。それから喧嘩について話した。アオバトはまだだいぶ顔を赤くして、ヒレンジャクを非難した。あたしは試験の話をして話題を逸らした。二人はどちらの点数が上か予想し合った。
 それでも会話は重くぎこちないものだ。二人ともそれが本題に入る前の「慣らし」であることをよく理解していた。やがてふっつりと黙り込んだアオバトは静かに切り出した。
 「お前、楽譜を手に入れたんだな」
 アオバトは気性の激しそうな茶色い目に、赤々と燃える鋳鉄のように、熾烈に輝く光を込めて問い質した。有無も言わさぬ圧力だった。
 「知らない」
 あたしは突っぱねた。肩はがくがくと震えていた。お父さんの書いた音符とお姉ちゃんの背中、仮面の人と黒い犬たち、そしてアトリの顔が頭に巡った。その全てを音楽への愛情で乗り越えようとした。
 「ねえ、楽譜って何? アオバトは一体何を知っているの? あたしにそう問い質すんだから、あたしに関係があることだよね? 話してよ。隠し事は駄目だって言っておいて、自分だけあたしに隠し事をしている。そんなの理不尽だよ。あたしたちは対等のパートナーじゃないの? 」
 アオバトの顔は、まるで毒でもかみしめているんじゃないかと思われるほど、苦々しくくるしげだった。
 「最近というよりももっと前から、そうだな、半年くらい前から、アオバトはなんかあたしに隠してる。あの頃から態度がおかしいもん。あたしに付き合おうと言い出したり、音学世界保全科学とかいう学問にかぶれたりとか。
 そもそも、あんた付き合おうと言いながら、あたしに全然心がないでしょう。そんなの分からないとでも思っているの? あんたはあたしなんかちっとも大事じゃないよ、ただカナリヤ一人が大事なんでしょう! 」
 「そんなことない! 」
 アオバトはあたしの言葉が放たれるや否や、丸い目を大きく見開いて叫んだ。
 「だから、言えない。言ったら未来が駄目になる……。俺は俺なりに色々模索してるんだ。俺とお前とカナリヤと、十年後も二十年後も、穏やかに時を過ごせるように。だから、今は言えない……」
 話すうちに最初の勢いは弱まり、アオバトはどんどん悩みの中に打ち沈んでゆくように見えた。
 「ねえアオバト、どうしてそんなに楽譜にこだわるの? その楽譜っていったい何なの? あたしの知らないことを、アオバトは知っているんでしょ」
 「あれが完成されれば世界は破滅する。それしか教えられない」
 「世界? 」
 思ってもいなかったほど大がかりな答えに、あたしは血の気が引く思いだった。深い奈落に、知らず足を踏み出しかけていたのか? ……だが、アオバトは何を知っている?     
 「そんな危険なもの、どうしてあたしが持っているって思うの? 」
 「お前の家にガサ入れが入った」
 あたしはつじつまが合っていることに狼狽した。お父さんの遺した楽譜は、それほどの問題作だったというのか。世界に破滅をもたらす楽譜だと? 国を富ませるコンポーザーだったお父さんが、滅びの音楽を紡いでいた。そして死してなおあたしにあれを……。
 「でも楽譜は見つからなかった。お前の家にはない。だとすると考えうるのは、カナリヤの所だな。どこだ、どこに隠した? 」
 あたしがアオバトの思考を熟知しているように、アオバトもまたあたしの考え方には明るい。あたしの考えつきそうなことなど、はなからお見通しであったのだ。
 「知らない」
 あたしはそれでも頑固に言い張った。
 「教えてくれ、これは本当に大事なことなんだ。あれをお前が完成させようとする日が来れば、俺はお前を……。なあヒタキ、俺をちょっとでも好きだと思っていてくれるなら、俺をそんな酷い男にはさせないでくれ。頼む……」
 アオバトは顔を歪めてそう言うと、あたしの前に両手をついて深々と頭を下げた。アオバトの両腕の震えが伝わり、ローテーブルの上の麦茶がちゃぷちゃぷとさざ波を立てた。
 アオバトのやや左側に巻いたつむじの中心を見つめながら、あたしはアオバトに対する憐みが、水輪を描く泉のように、ひたひたと心に満ちてくるのを感じた。
 二人がまだ幼く、アオバトの体がまだあたしより小さかった時も、彼はあたしにこんなふうに頭を下げたりなんかはしなかった。あたしが気に入らないとき、体格の差にもめげずに真正面から歯向かってきた。ハジロがとりなすまで、絶対に矛を収めるなんてことはしなかった。
 今、アオバトは、土下座する勢いであたしに頭を下げている。カナリヤのためだけではないのだ。あたしとカナリヤと、どちらも穏やかに過ごせるように模索していると今言ったではないか。多分あたしと同じくらい孤独に、アオバトはアオバトで闘っている。
 「カナリヤの国の廃墟にあるドレッサーの引き出しだよ……」
 気付いたときには口からするっと言葉が出ていた。アオバトはすぐに顔をあげた。気性の激しそうな茶色い目は一瞬だけ明るく輝いた後、すぐに冷たく突き放すような光を戻した。
 「じゃあすぐに行こう」
 「ちょっと待って、あの楽譜をどうする気? 」
 「燃やす」
 「駄目だよ! あれはお父さんとあたしの貴重な作品なんだから。たった一つの共作なんだから。誰にも見つからなければいいじゃん、あたしは決して続きを書かないと約束する、それじゃ駄目? 」
 急にあの楽譜への愛情、いや、執着が戻ってきた。全面的にアオバトに譲歩するのが惜しくなった。
 アオバトの勝気な茶色い目に、鍛冶場で飛び散る火花みたいな光が、ぱっと燃え上がって散った。
 ダン! アオバトが麦茶のコップや菓子受けの上のクッキーをなぎ倒しながら、組み付いて来た。硝子の砕ける音にあたしの悲鳴が混じる。慌てて両腕を振り回したが、アオバトは、あたしの音素共振機をもぎ取ると、水浸しの床の上で立膝になったまま、自分の機械の音針計を回して、カナリヤの国のキーフレーズを口ずさんだ。たちまち青い光がアオバトを包み、その体は徐々に薄れ、光を落とした影絵のようにかき消えた。あたしは一人取り残された。
 「あっ、アオバト! アオバト! 戻って来てよ、返してよ! 」
 あたしは思わず叫んだが、その声がアオバトに届いているはずはないということは分かっていた。アオバトは、音時空を渡る力をあたしから奪い、カナリヤの国から締め出してしまったのだ……。

 どうやってアオバトの部屋から出てきたのか覚えていない。
 気が付いたときあたしは、真昼へと昇り詰めていく夏空の下を、一人ふらふらと彷徨っていた。騙された……、そんな思いで光を浴びると、そこから皮膚が摺り剥けたように、ひりひりとしみるような気がした。
 予想どおり、日の高まりとともに気温はどんどん上昇して行った。さっき湿っていた石畳はもう乾き、冷気も霧の気配もどこにもなかった。
 鼻の頭に日焼けした小学生たちが、Tシャツを汗だくにしながら走ってゆく。私服の同級生とも幾度か行き合った。みんなみんな機嫌よさそうに、あたしの名を呼び手を振った。あたしも目にたまった涙をこぼさないように必死に手を振った。
 さっきアオバトに組み敷かれたときに擦りむいた右ひじがひりひりと痛んだ。
 来た時に感じていた、脅かされているという恐怖も麻痺していた。見上げれば涙のプリズムの中で、真っ青な空が凸レンズから覗いたみたいに歪んで見えた。
 あの楽譜への未練というだけではなく、アオバトに裏切られた憤りが、あたしの心を苛んでいた。心が火傷したみたいだ。やはりアオバトはあたしを何かの部品のようにしか見ていなかったのだ。
 「あんな風に言っておきながら、結局大事なのはカナリヤだけじゃないか! カナリヤ、カナリヤ、カナリヤ、いっつもカナリヤ! 」
 あたしは顎まで滴り落ちてきた涙を乱暴に腕で拭った。背後で誰かが鼻で笑った。顔をあげて振り向けば、あの青い仮面の人が、唇を半分めくるようにして嘲笑っていた。口元しかわからないその表情は、膠のように濃密な憎悪に満ちていた。
 何故いい人かもしれないと思ったのだろう? この人は誰よりもあたしを憎んでいる。今あたしを殺さないのは、「今」死なれては困るからに過ぎない。「今」が過ぎたのならば、何ためらうことなくあたしを殺すだろう。
 あたしはフラフラと歩みを進めた。もはや誰に見張られていようと、どうでもいいことのように思えた。足元の石畳だけを見ながら、自動人形になったみたいに歩く。
 時折後ろを振り返ると、やはり仮面の人は一定の距離を保ってついて来た。それはあたしを害するためではなく、昨日の犬たちのような存在から守るためなのだろう。仮面の人の「今」は来ていない。まだ彼にとってあたしには利用価値があるのだ。
 あたしの足は、対処できない悲しみに苛まれたとき何時もそうであるように、自然と図書館へ向かった。
 マンション群を抜け、緑地公園に出れば、水をたっぷりと含んだ柳に縁どられた、きらきらと輝く池が出迎えてくれる。それは夏空を映し込んだ、涼しげでいて熱い色をしていた。あたしは深く息をして、水辺独特の匂いをいっぱいに吸い込んだ。
 数人の親子連れが歩いていた。幸せな家族たちは、何故みな同じような笑顔に見えるのだろう? あたしはあたしの不幸を思った。家庭の崩壊を打ち消したいと言った、アトリのことを思った。
 するとあたしの脳内と現実がシンクロしたように、目の前の白く塗装された鉄の柵にもたれかかるようににしているアトリが目に入った。
 アトリはオレンジ色のスポーツウェアーを着ていた。手には赤い風船を一つ握っている。あたしの足はもつれるようにその歩みを止めた。彼女は熱心に、カモの親子の泳いだ跡を眺めているのだった。
 「あ、ヒタキじゃん、どうしたの? ひどい顔してるよ」
 こちらに気づいたアトリが、あの別れ方をしたにしては随分と屈託のない声を出した。その明るさに、不思議なほど、心に張り詰めた緊張と悲しみがほどけていった。「アトリ……」涙交じりの声が漏れた。
 だが、ぴったりあたしの十メートル後ろを歩く仮面の人は、アトリを見とめるや否や、驚愕の叫びを漏らした。
 「アトリ、アトリだと? 何故お前が今ここにいる! 」
 そのとき初めて記憶に引っかかるようなものを感じた。犬に襲われた時は動転して気付かなかったが、同質の声をどこかで耳にしたような気がしたのだ。
 仮面の人は素早く戦闘用ホイッスルをくわえる。あたしははっとした。アトリを攻撃する気だ。アトリは一瞬ぽかんと口を開け、幽霊でも見るような目で彼を見て叫んだ。
 「お父さん! 」
 そしてすぐにとても慌てふためいた様子で逃げ出した。アトリが手放した赤い風船が、池の真ん中の方へ誘うように流されてゆく。
 仮面の人があたしを追い越してアトリに襲いかかろうとする。あたしは咄嗟に仮面の人のひざ下に、横っ飛びにタックルを掛けた。仮面の人は左肘から崩れ落ちた。そのすきにあたしは仮面の人のホイッスルを奪い取ると、高く投げ捨てた。それは目に染みるほど青い池のきらめきの中に落ちた。あたしは彼が痛みからまだ動き出せないでいるうちに、アトリを追って駆け出した。
 緑地公園をぬけ、マンション街との境がある石積みの壁の陰で、あたしはアトリに追いついた。アトリが待っていてくれたのだ。アトリはあたしの左手をつかむとこう言った。
 「しっかりとつかまっていてね。これから音時空を利用して逃げるから」
 あたしがアトリの両腕をしっかりとつかむと、アトリが手首に付けていた音素強震機を回した。瞬く間に青い光が二人の体を包みこむ。仮面の人が追ってくるよりも先に、あたしたちの体は一旦音素に分解されて、別の世界で再構築された。
 目を開けばそこには、どこまでも碧い海と環礁が広がる、夢のように美しい光景が広がっていた。ここは中学校のガイドにも載っていて、何度か授業でも訪れたことがあるような、「永遠の楽園」という属曲の一つだ。
 「とりあえずここでやり過ごすよ」
 真っ白い環礁の上に打ち寄せる波に、半ば脚を浸しながら立ったあたしとアトリは、仮面の人が追っては来ないことを確かめると、すぐに音素強震機を回して、元の世界へと渡り直した。
 あたしたちは当然戻る地点をずらした。そこは、属曲からの出稼ぎ労働者が暮らすような、アパートの一室だった。八畳ほどのリビングに、簡易的なキッチンが付いた造りだ。昼間なのにリビングの茶色いカーテンは閉じられたままになっていた。
 薄暗い部屋の中に、二人分の洗濯物が吊るされている。だが雑然とした印象はない。タオル類の皺はきちんと伸ばされ、Tシャツも下着も靴下も、整然と分類されている。
 二組あるに違いない布団も、きちんと片付けられているようだった。
 旧式のテレビの向かいに、口が開かれたままのオレンジ色のスーツケースが投げ出されていた。アトリのものらしい衣類やら科学雑誌やらがはみ出している。
 アトリのスーツケースの隣にもう一つ、銀色のスーツケースが置かれていた。こちらの方は口が閉じられ、お行儀よく壁に立てかけられている。
 卓の上には布巾が一枚あるだけだし、キッチンに目をやれば、ゴミも洗い物もまったく溜まっていない。アトリのおじさんは、とてもきちんとした人なのだろう。
 アトリが窓の上の小さめのエアコンのスイッチを入れる。ややくたびれた音ととも涼風が吐き出されて、あたしの汗だくの首筋を冷やした。
 「ここがアトリの家? 」
 「違うよ。ここはあたしたちの宿だよ。仮の拠点って訳。言ったでしょ、あたしの家は宇宙にあるって」
 そう言うとアトリはキッチンへ行って、一人用の小さな冷蔵庫の中から、ペットボトルのスポーツドリンクを二本出した。それを卓の上に置いて胡坐をかくと、あたしに勧めた。急にのどがカラカラだったことに気づき、あたしは一気に飲み干した。
 アトリは最初に会った時のように不敵で、そしてどこか力づけられたような、前向きな表情であたしの前に座っていた。
 あたしの体の中では、アオバトの裏切りでため込んだ悲しみや怒りが、編み糸を引っ張ったように解けていった。あたしの心には、アトリの事情を案ずるだけの余裕が戻った。
 「さっきお父さんって言ったよね。あの仮面の人が、アトリのお父さん? 」
 「そうだよ。あたしが五歳の時にお母さんを殺して逃げたお父さん」
 あたしは言葉を吞んだ。それがアトリが言っていた「家庭の崩壊」……。
 漠然と離婚のようなことを想像していたが、今アトリが口にした事実を前にすれば、それすら甘っちょろく感じられる。
 お父さんがお母さんを殺す……。それはいったいどんな気持ちがするものなのだろう? あたしは何と言ってよいのか分からなくなった。
 「ごめんね、自分でも重たい過去だとわかっているよ。でも、ヒタキが来てくれたから、きっと過去は書き変えられる。ねえ、もう一度頼むから是非にでもカナリヤの曲を終わらせて欲しいんだ。お願い! 」
 そう言ってアトリは頭を下げた。赤く毛量の多いポニーテールの毛先が首筋にかかった。さっきのアオバトと同じ姿勢で、全く逆のことを、アトリもまたあたしに懇願した。
 「今は書けないよ。あの曲の楽譜は、カナリヤの国に置いてきてしまったから。それにアオバトがあれを燃やしに行ったんだ。もしかしたら今頃……」
 「大丈夫。すぐに取りに行こう」
 アトリは即答した。まるであたしが拒否する理由なんて、思い浮かばないみたいだった。
 あたしは、底の方に溶けた鉄ををいっぱいため込んでいるように光る、アトリの茶色い目を見つめた。
 「あたしはカナリヤって女に会ってみたい」
 いろんなことが頭の中を巡って行った。カナリヤの国、お父さんの遺した楽譜、アトリのお父さん、警官たちの冷たいまなざし、アオバトが言った「この曲が完成されれば世界は破滅する」という言葉……。
 全てをつなぎ合わせれば一体、どんな地図が出来るというのだろうか? 
 心細くてたまらない一方、その露わになった世界を眺めてみたいという気持ちがむくむくと頭をもたげてきた。あの曲は素晴らしいものになる。お父さんとあたしが書いて、カナリヤが歌うんだから。
 聴いてみたい、この耳で。スコアが演奏になるところを聞き届けたい。あたしの音楽への愛は、アオバトへの想いを凌駕した。アオバトも、あたしを裏切って楽譜を燃やしに行ったんだ、こっちも裏切ったって何が悪い。
 それに加えて、アトリの勝気な茶色い目を見つめていると、心がホットミルクの泉になったみたいな気持になる。焼き立てのパンを口いっぱいにかみしめているみたいな心地になる。
 アトリを見捨てることなど出来ない。第一、音素共振機を奪われたあたしは、誰かと一緒でないとあそこへは渡れないのだ。
 「いいよ、一緒に行こう、カナリヤの国へ……」
 「そう来なくちゃ! 」
 アトリが手を打った。
 アトリは音素共振機に重ねるように巻いていた超小型端末で、彼女のおじさんに連絡をした。アトリはあたしとカナリヤの国に渡ることを伝え、父親に見つかってしまったことも伝えた。そしてあたしに、おじさんにもカナリヤの曲のキーフレーズを教えるように頼んだ。あたしに拒む気持ちはなかった。
 アトリはどんどんと装備をそろえていった。より丈夫そうなオレンジのウェアーに着替えると、上にキーボードを掛け、本物の軍のモデルのプロテクターをつけた。口元には戦闘用のハーモニカもセットする。
 更にザックに、箱買いしておいたらしい飲み物と、携帯用食品を詰めた。ライターとナイフ、発電機、懐中電灯、音素方位磁石も用意する。
 あたしもアトリの藍色のスポーツウェアーを借りて、アトリが持ったものよりも軽量のキーボードを下げ、プロテクターをつけた。さっき家から持ってきたリュクにも、水や食料、ナイフなどを入れて背負う。
 装備は意外なほど整っていた。アトリはこういう展開になることを予測して、宇宙の「家」からこれらのものを持ち込んだのではないだろうか? 彼女はどうしても、カナリヤの元にたどり着かなければならなかったのだ。
 装備を全て整えると、あたしはアトリの両腕をつかんだ。アトリが針を回し、あたしがキーフレーズを口ずさむ。青い燐光があたしたちの体を包みこむ。 
 何度経験し、いくら慣れても尚、音世界を渡る感覚には空恐ろしさを覚える。水の中に解けてゆく食塩のように、体を構成する音素がバラバラにされ、意識が薄まったように消えてゆくとき、自分は今死んでゆくのではないかという気持ちになる。そうしたことをぼんやり考ええていると、やがて本当にすべてがぶっつりと真っ暗になる。
 闇の中に静かに音楽が流れ始める。
 あの曲だ。雑踏の中に何時も甘美に響いていたカナリヤの歌。
 それは最初オーディオのボリュームを引き絞ったみたいに細く、だが徐々に鮮やかさを増していった。視界も薄ぼんやりと明るさを増してゆく。やがて金色の砂塵が渡る深い空がひらけ始めた。
 その瞬間、感電したかのようなバチンという衝撃が走った。まるで分厚いゴム膜にぶち当たったみたいに体が弾かれる。
 数十秒か、もしかしたら数秒に満たなかったのか、感覚の断絶がもたらされた。

十一

 最初に戻ってきたのは聴覚だった。
 ボーン、ボーン、リズミカルに鳴り響く重低音が、ようやく自分を取り戻しつつある意識に語り掛けるように響いていた。
 うめきながら瞼を開く。頬に冷たい感触があった。それはすべすべに磨かれた緑色の石床だった。半円と半円のモザイク模様をなしている。肩や背中にはぐにゃりと熱い重みを感じた。アトリがあたしに折り重なるよにして倒れていた。
 「どうなってるんだろう……」
 あたしたちはほとんど同時に、同じことをつぶやきながら起き上がった。アトリの体があたしの背中から離れて、あたしも膝を立てながら思いがけない世界に目をあげる。
 ボーン、ボーン、音が降って来る。それは頭の芯に響くほどのヴォリュームだったが、人に恐れを抱かせるようなものではない。耳に優しく皮膚に心地よい。重厚でありながらきらきらと澄んでいる。
 この優美な音の出どころはどこだろう? あたしたちは見上げた。そこに見出したのは巨大なハンマーが、金属製の弦を叩きつけている光景だった。
 弦はビルの鉄骨に使われているものより太かった。それが、巨大な階段の、丁度踏板に当たる部分であるかのように、中央の鉄柱を中心に、螺旋を描いて連なっていた。
 円柱を成す空間の面積は中学校の多目的ホールぐらいはあるだろう。高さについては計り知れないほど。見上げても見上げても果てが見通せない。光だけが弦と弦との間をかいくぐって、見晴るかす遥か上方から降って来る。
 ボーン、ボーン、弦を叩くハンマーは、円柱状の空間の内側面をなす機械仕掛けの壁から、やはり渦を描いて幾つも生えていた。
 それは、あたしやアトリの体と比べても巨大なハンマーだった。真鍮のような鈍い金色に輝き、表面には細やかな浮彫が施されている。舞い遊ぶ小鳥たちの図案だ。機械的に繰り返される打撃は、まるで約束されたリズムであるかのように、秩序だっていて心地よい。
 壁面を被う機械部分はハンマーの基台をのぞいて、大小さまざまな取り合わせの歯車たちで覆われていた。まるで巨大なアナログ機械の内部に閉じ込められているようだ。
 三時と十時の角度で、巨大な金色の歯車が二つ、まるで俺がこの機械の心臓部だとでも言わんばかりに回っている。それに噛み合う大小さまざまな歯車たちが、自分が受けた力を伝えようとして回転している。自分よりも小さな歯車に、あるいは、自分よりも大きな歯車に、精巧に形作られた歯を誠実に噛ませている。
 どの歯車も正確かつ勤勉に回り続け、その様子はどことなく、きびきびと働く工場労働者たちの活気を思わせた。
 彼らの正確な仕事ぶりに応えるように、巨大なハンマーが弦を打ち鳴らす。その音が鳴り響くたび、歯車たちはより一層嬉しげに、より一層几帳面に回転をかける。
 どこから動力がもたらされているのか? もしくはそれ自体永久機関ででもあるのだろうか? 歯車たちは互いに噛み合い強め合い回り続けている。
 ボーン、ボーン、カチカチという歯車たちのつぶやきの中に弦が鳴り響く。その音は何故か懐かしく感じられた。始めて来る場所のはずなのに、とうに忘れてしまった日記の断片を目にした時のようだ。
 「ここがカナリヤの国? カナリヤはどこ? 」
 アトリが最初に口を開いた。
 「いや、違う、いつも出るとこじゃない。ここはどこだろう? 始めてみる世界だ」
 アトリは唇を尖らせ、頭上に振り下ろされるハンマーたちを眺めていたが、やがてトンブリでも噛んでいるような顔で言った。
 「いや、ここは多分カナリヤの国だろうな。ただ、ここにはカナリヤはいないと思う。最下層の、曲の低音域の所に出されたんだ」
 「それってどういうこと? アトリのお父さんがあたしたちの先回りをして弾いたってこと? 」
 「そういうことになる……」
 あたしとアトリは黙り込んだ。そうやって冷たい石床にうずくまっていると、言うべき言葉が見つからない空隙に、今まで意識できなかった疑念が、連想ゲームのように湧き上がってきた。
 仮面の人がアトリのお父さんだった。彼はどうして、あたしとアオバトしか知らないはずのカナリヤの国へ先回りをして、曲のおもて部分からあたしたちをはじくというようなことが出来るのだろう? 
どうして、カナリヤの曲を完成させることが、アトリの家庭の悲劇を、つまりはアトリのお父さんの妻殺しを、なかったことに出来るというのだろう? 
 あたしの顔はきっと、湧き上がってきた疑念を映していたのだ。アトリの顔には大きな悲しみを感じさせる微笑みが浮かんだ。そして全て解ったと言うようにうなずいた。
 「訊きたいことは道々教える。でも今は、曲の最上層へ行くことが先決だ。さあ、乗って」
 アトリはそう言うと、キーボードのボタンを三つ押さえて、自動伴奏機能を呼び出した。するとスピーカーから、赤と青とシルバーの線で描かれた、バイクの形をしたものが飛び出した。それを構成するカラフルな線は、絶えずちりちりと振動している。どうやら音素で出来ているらしい。
 アトリはそれにまたがると、後部座席にあたしを招いた。あたしもそのバイクに乗り込んだ。アトリから渡されたベルトで、二人の体をしっかりと結び付ける。音素のバイクの座り心地は、音火力変換所の煙に近づいたみたいに、パチパチと心躍る感触だった。お尻の下で音楽が拍動している。
 「あたしはハンドルを握らないといけないから、攻撃と防御はこのハーモニカしか使えない。あとの危険はヒタキ、あんたが払うんだよ。お父さんがここへあたしたちを追いやったとしたなら、ただ階段状の低音域を上ってくるだけで済むようにしているはずがない。必ず大きな障壁をもたらしてくるはずだ。大丈夫、あたしと特訓したよね。ヒタキならやれるよ」
 アトリはそう言うと、音のバイクのハンドルを握った。それは、まるで本物のエンジンを備えているとでも言うように、ブーンブーンとうなりを上げた。
 あたしがしっかりとつかまっていることを感じ取ると、音のバイクは石床から、一番低い弦へと向かって跳躍した。三色のタイヤが弦に触れるとき、ハンマーで叩かれた時よりも淡い、まるで優しい女の人の囁くような音が鳴った。
 アトリは弦から弦へ、飛び移るようにして登ってゆく。あたしは両腿でしっかりとバイクを締めるようにして、左手をアトリのお腹に回し、右手をキーボードの鍵盤の上に構えて、これから待ち受ける危険に目を見張り、耳をそばだてていた。

 あたしたちはすぐに第一の障壁に気づいた。それは機械的に振り下ろされるハンマーだった。
 タイミングを間違えると即、人の体よりもずっと大きなハンマーに叩かれて、ぺちゃちゃんこに潰されてしまいそうになる。十段を上りきる間、あたしたちは苦戦した。ぐずぐずとバイクをふかし、すぐ上のハンマーが降ってこないのを確認しながら進むしかない。
 だが徐々に、川での泳ぎ方を覚えて行くみたいにコツをつかんで来る。あたしの頭の中に、慣れ親しんだカナリヤの曲が流れ始める。
 パートは違えどこの曲は、カナリヤが歌う曲と同じ世界を共有している。たとえ低音域だけだとしても、この曲はお父さんとあたしが創り出した曲に違いない。そのリズムに覚えがないはずはなかった。
 あたしがタイミングを教え、アトリがバイクを操った。それ以降しばらく、二人は比較的順調に登って行った。
 バイクのエンジン音は明るく、ハンマーが弦を叩く音とも、歯車たちの漏らすつぶやきとも、まるでそれ自身一つの曲であるかのように調和して聞こえた。タイヤが弦に触れて車体ごと飛び跳ねるたび、笑うように優し気な音が響いた。
 「何から聞きたいの? 」
 しばらく前進への意思疎通だけをやり取りした後、すっかりと軌道に乗った登攀の途中で、アトリが自分からきっかけを出してくれた。
 「アトリの家庭の事情から。きっとそれがすべての謎の発端なんだよね」
 アトリの鼻から、寂しい笑みを含んだ空気が漏れる音が聞こえた。腹に回したあたしの左腕にも、そのやるせない振動が伝わる。ひとしきり哀しく微笑んだ後、高い岩棚から降りるとき、次の足掛かりを見定めているみたいに緊張に満ちた声で、アトリがこう切り出した。
 「ねえ、ヒタキは子供が生まれたら、どんな子守唄を歌うつもり? 」
 「どうだろう? 『ヤマセミの子守歌』、いいや、もしかしたら自分で創って歌うかもしれない。そのときは、教科書に載っていたコルリの詩を使うかな」
 アトリはまた哀しく笑ったようだった。そして何故かふるふると肩を震わせると、神話に出てくる太陽に抗う少女のように、心細くそれでいて決然とした調子で歌い始めた。
 「山に日暮れ、海に日暮れ、夜のとばりの、屋根を包むころ、星は優しきシャワーのように……」
 あたしはどこでこの歌を聴いたのだろう? それほど良く聞き知っているはずの音楽に聞こえた。それなのに、どう記憶の底をさらっても、一向に曲名は出てこない。こんな簡単なメロディーの曲だ。一度でも聞いたなら例外なく憶えているはずなのに。歌詞はまさしく、あたしが今言った女流詩人コルリの我が子に贈った詩だった。
 歌いながらアトリは、涙で喉を詰まらせて洟をすすった。とうとう最後までは続けられず、十二小節を歌ったところで嗚咽した。「お母さん、お母さん」アトリはそう繰り返した。
 あたしがぴったりと身を寄せているアトリの背中は、嗚咽を必死に抑え込もうとする意志で細かく震えた。「お母さん……」
 ふと、あたしは恐ろしい可能性に打たれたようになった。
 この歌はあたしが作曲するときの癖を多く備えている。調、メロディーライン、コード進行、曲の構成、全てあたしが好んで選択しがちなものだ。
 喉から叫びが飛び出しかけたが抑え込んだ。いいや、ヒタキ、それはいくらなんでも飛躍しすぎだ。それじゃあお前とほぼ同年齢のアトリが、中学生のお前と同じ時空にいる矛盾はどうなる。やはり時間を共にしている、仮面の人がアトリのお父さんなのだから、お母さんだってきっと同年代のはずだ。
 いや待て、アトリはお父さんがお母さんを殺したと言った。だからアトリのお母さんはもうこの世にはいないはずだ。
 そのとき恐ろしい感触がよみがえった。アオバトがあたしの首に手を掛けてギリギリと締め上げている。体いっぱいに詰まった憎しみを込めて、鼻の穴を広げて。あれは、これから起こる悲劇の先ぶれだったのではないのか? いや、でも、時間の矛盾はどうする? 
 だが、アオバトは仮面の人を知っていた。二人の関係性は何だ? アオバトは仮面の人が仮面をつけている理由について知っているようだった。「他に理由があるのさ」
 理由。確かに何故、彼はあんな酔狂な仮面をつけているのか。顔を、目周りをそれほどまでさらしたくないのか? 何のために? 誰に知られたくない? あたしの前に姿を現したから、彼はあんなものをつけていたんじゃないだろうか? あたしに正体を知られたくないから。
 あたしの脳裏にアオバトの気性の激しそうな茶色い目が浮かんだ。それがアトリの気性の激しそうな茶色い目と二重写しになった。
 それじゃあ、やはり、アトリは、アオバトとあたしの……。
 「お母さん」
 アトリははっきりとあたしに呼びかけた。お母さん、お母さん、お母さん、アトリは三度繰り返した。
 あたしの背中は氷を浴びたように震えた。
 「解るよね、お母さん、アトリはヒタキとアオバトの娘なんだ。あたしは宇宙人だけども未来人でもある。二十年後の世界からロールテープに乗り、音時空を超えてここまで会いに来たんだ」
 あたしはしばらく黙り込んでいた。アトリも言葉もなく洟をすすった。機械仕掛けの世界が正確無比に動く音が聞こえた。バイクがうなりを上げる。その音は急に、音楽エッセンスを純化したこの世界の中で、人間的にいびつな、あたしたちの悲しみの表現であるかのように聞こえ出した。
 「やっぱりアオバトはあたしを殺すんだね。うすうすそうじゃないかと思っていた……」
 ようやくあたしはつぶやいた。感づいていたという割には頭が真っ白だった。
 「ねえ、アオバトは何であたしを殺すの? 」
 アトリの体が申し訳なさそうに震えた。
 「お母さんがカナリヤの国の曲を完成させて、終わらせようとしたから。お父さんはそれを憎んで……」
 「知ってたよ。アオバトはあたしなんか大事じゃない。カナリヤただ一人が大切なんだ。カナリヤのためだったらあたしの命なんて平気で奪うだろうね」
 言いながらあたしは、見る見るうちに目に涙が盛り上がっていくのを感じていた。あたしはあたしの恋心が、可愛そうで可哀そうでならなかった。
 「うううん、そうはさせない、あたしが許さない。だってあたしはそのためにここまで来たんだもの! この時間軸のうちに、カナリヤの曲を完成させてしまえばきっと」
 アトリが火がついたように叫んだ。ああ、一番可愛そうなのはアトリだった。だってアトリの命はあたしとアオバトの責任じゃないか。そのあたしは自分の判断で早々に殺され、アオバトは罪を犯しそそして姿をくらました。アトリの悲しみの前で、あたしの自己憐憫はその甘美さを失った。
 「おじさんもチャンスは一度しかないけれど、あたしだったらきっとものにできると言っている」
 あたしは図書館の前で見たアトリの「おじさん」の姿を思い浮かべた。そうだ、何故今まで気づかなかったんだろう?
 「おじさん、アトリのおじさんってもしかして……」
 「うん、おじさんの名前はハジロ。お父さんとお母さんに代って、五歳からあたしを育ててくれたんだ」
 あたしはお腹の底から息を吐きだした。やはりあれはハジロだったんだ。大人になったハジロ。随分と落ち着いた目をするようになって、その割にファンキーに髪を白く染めてなんかいたけれど、知的な眼差しも、細く通った鼻筋も面長な顔型も、みんなハジロのものだ。
 そうか、ハジロがアトリを育てていてくれたのか。あたしはハジロの友情に、冷え込んでいた心がじんわりと温かくなるのを感じた。
 アトリの「おじさん」とはどこかで会ったことがあるような気がしていた。それは、大人になった彼の姿に、十五歳のハジロの面影を感じ取れたからに他ならない。
 そうだ、アトリの顔立ちの中にも濃厚にアオバトがいる。混乱から抜けかけた頭に、両足で着地したみたいな確信を持った。赤い厚い髪の毛も、丸くて気性の激しそうな茶色い目も、アオバトの要素を抽出して、女の子の顔に配置し直したみたいだ。あたしは深くため息をついた。
 「やっぱりアオバトは、あたしを殺すんだね……」
 あたしは再び同じことをつぶやいた。今度あたしの言葉は、暗い胸に淡雪のように落ちていった。
 「大丈夫、諦めないで。お父さんが『交響曲』の最後の十年を録音する前に未来への道筋を変えてしまえばいいんだ。もうだいぶん、あたしたちは過去を書き換えてしまったんだもの。きっとまだ大丈夫なはずだ」
 「最後の十年? 書き換える? 」
 「この『交響曲』という曲家を書きつなぐ作曲家は、結局現れなかったんだ。このままではこの時間軸から二十年で世界は終わる。でもこの国は曲の続きを書きつなぐことの代替え案を手に入れたんだ。ヒタキは『音世界保全科学』って知ってる? この時代ではまだメジャーではないか」
 「アオバトが最近熱心に信奉している」
 「うん。お父さんはこの分野先駆けの音科学者だった。曲を録音再生できる「ロールテープ」について研究していた。そしてお父さんの逃亡後、あたしが研究を引きついた分野なんだ。一年前、あたしはとうとう『曲家』を録音保全できるテープの開発に成功した」
 「ちょっと待って、アトリが研究を開発したの? あんた一体幾つ? 」
 「十五歳。言ったでしょ、あたしは天才音科学者だって。おじさんに言わせると、研究分野以外は幼稚園児並らしいけど。でね、それを使って、お父さんはこの曲を永遠に録音しようとしている。どういう事情か知らないけれども、政府は殺人者であるはずのお父さんにそれを一任したんだ。お父さんは交響曲の一番初めから、順繰りに曲を録音してきた。一つのテープに録音できる年数は、約十年。あたしとおじさんはお父さんの動向をつかんで、この時間軸から十年ほど前の時代から、過去の書き換えを狙っていたんだ」
 とんでもない話の成り行きに、あたしはゾクゾクと体を震わせた。
 ここでこうしてアトリと二人、数時間前までは想像できなかった世界の真っただ中を走っていなかったら、到底信じられないような展開だ。
 だが、アトリの告白を裏付けするような状況証拠は、二週間も前からあたしの周りに積み重なっている。
 「過去を書き換える。でも、アトリたちがせっかく過去を書き換えても、未来のアオバトはそれを覆そうとするんじゃないの? 」
 「そうはならない。テープに録音してしまえばその過去は確定される。二度同じところは録音できない。つまり、あたしたちが今この先の展開を覆して変えてしまえば、お父さんにそれを元に戻すことはできない」
 「つまりアトリは、アオバトがあたしを殺さない過去を求めて、はるばる二十年もの時をさかのぼってここまで来たってこと? 」
 「その通りだよ。お父さんがお母さんに殺意を抱く前に、その元凶であるカナリヤの曲を終わらせるために、あたしはここに来た。曲っていうのは終わりまで歌えば終わるじゃない」
 「じゃあ、あたしが創り出すことが出来るのは、カナリヤの終曲の部分だけ……」
 「うん。大半はおじいちゃんが書いたらしいからね」
 アトリの声には運命に抗う力があった。己が信じれば、落ちてくる彗星だって砕けると信じている人間の声だった。アトリは、あたしと同じようにわが身の無力を拒絶している。
 「カナリヤのことは誰に聞いたの? あたしもアオバトも、カナリヤの国を守るために絶対の秘密にしていた。あたしかアオバトが秘密を漏らしたの? 」
 「伯母さんが知っていたんだ。お母さんが殺される少し前に、とても思い悩んだ様子で、お父さんとカナリヤとカナリヤの国と、自分が曲を終わらせなければならないことについて、不完全ながらも告白されたって。当時は伯母さんも、お母さんがあんな形で早く亡くなるとは思っていなくて、詳しいことは後日問い直そうと思っていたんだって。それが一週間と開かずにあんな事件が起こってしまって……」
 「お姉ちゃん! 」あたしは今目の前にいないお姉ちゃんに呼びかけた。未来のあたしは結局お姉ちゃんを頼ったのだ。どうにもできない苦しみ、思いのたけをお姉ちゃんに打ち明けたのだ。
 「でも、お姉ちゃんは一体なぜ、今のタイミングになってアトリに打ち明けたの? 」
 「お母さんが殺されてから、政府機関から沈黙するように圧力があったらしい。それでも、去年伯母さんは余命宣告を受けたんだ。膵臓の病気で。それで、せめてその前に、あたしとおじさんに事の真相を突き止めて欲しいと、危険を冒して打ち明けてくれたんだ」
 「お姉ちゃん! お姉ちゃん病気なの? 」
 「伯母さんはあたしが出発する一週間前に亡くなった」
 「お姉ちゃん! 」
 あたしは前方に伸びる道の両側から、大きな石垣がガラガラと崩れてくるような気持になった。お姉ちゃん、お姉ちゃんが死んだ! アトリが冷静に諭す。
 「ねえ、ヒタキの『お姉ちゃん』はまだ死んでないよ。それは二十年も先のことだ。過去の書き換えが上手くいけば、ヒタキのお姉ちゃんの病気も早く発見できるはずだ」
 あたしはアトリの腹に手を回したまま、がくがくと震えた。そうだ、落ち着けヒタキ、まだ未来は確定じゃない、まだお前には手の打ちようはある。
 あたしは自分を奮い立たせるので必死だった。こんな怒涛の未来、それも望んでもいないことを宣告されて、冷静でいられる方が異常だろう。あたしは必死に思考を巡らせて、アトリへの次の質問をぶつけた。
 「あたしが死んだあと、アトリがハジロに育てられたのは分かった。アトリの部屋にあったシルバーのスーツケース、あれはハジロのだよね。部屋だってあいつらしくきちんと片付けていた。でも、だったら宇宙人ていうのは何? ハジロと猫と家事ロボットと、人工衛星で暮らしていたっていうのは……」
 「未来では音学科学保全科学派と、無識主義者の戦いが激化しているんだ。あたしが有効な研究を行い得ると知れた時点で、あたしたちはテロのターゲットになってしまった。それを避けるために、政府の用意した人工衛星で暮らしているんだ。未来のおもだった研究者たちもほとんど、あたしみたいに宇宙で暮らしている」
 「宇宙にいて危ないことはないの? 」
 あたしは溜息とともに尋ねた。
 「恐ろしいと思ったことは今のところないよ」
 「油断しないで……」
 「油断するも何も」アトリはちょっとだけ可笑しそうだった。
 「この状況で言う言葉? 」
 アトリが皮肉っぽい中に緊張をにじませた声で言った。それにかぶさるように、軋むような耳障りの悪い音が、あたしたちの前方に迫ってきた。
 あたしたちの身長よりも長い、腹の膨らんだ芋虫のようなものが二匹、頭上の弦の上にのっこりと乗っていた。それは合成着色料入りのお菓子みたいな色をしていた。どぎつい緑と紫色の線でひっかき描きされたかのような塊だ。アトリのバイクと同様、音で出来ているらしい。
 音の芋虫の頭には、ぱっかりと口のようなものが開いていた。それをこちらにガッと向けて、黒板を爪でひっかいたみたいに不快な叫び声をあげた。と思う間もなく、それはあたしたちの方へと飛びついて来る。
 赤髪のポニーテールが勢い良く揺れる。アトリが首を払いながら、口元にセットしたハーモニカに鋭く息を入れたのだ。ザン、という音がして、ハーモニカから電気のように輝く赤い槍が飛び出した。音の芋虫は貫かれ、体を構成していた線も解けるように消えてゆく。
 「ほらヒタキ」 
 あたしたちのすぐ後ろにハンマーが落ちてくる。ボーンとなるハンマーの音にかき消されぬよう、アトリが緊張に満ちた声を張った。
 「あたしに任せっきりにしないで。戦うのはあんたの役目だよ」
 「あれは何? 音の芋虫? 」
 「あれはノイズだよ。新しい属曲を征服する時に、よく使われれる音兵器だ。あいつらは体の構造が緩い音素で出来ているから、ちょっとした槍劇で簡単に倒せるよ。さあ、ヒタキ、次が来るよ」
 気付けば弦の上方はノイズだらけだった。
 彼らは知性がないのか、次々と落ちてくるハンマーを避ける素振りも見せない。ある者は不運にもハンマーにつぶされ、幸運な者は災難を免れる。生き残った者はより狂暴にギシギシと耳障りな叫びをあげると、次々とあたしたちに飛び掛かってくる。ぶよぶよと揺れる腹で弦を蹴り、目測を誤って奈落へと落ちてゆく者もある。
 一匹のノイズがアトリの首筋をめがけて飛びついて来た。あたしは腹の底にウッと力を込めて、首から下げているキーボードの鍵盤を、自由な右手で鋭く抑えた。スピーカー部分から目視でやっと確認できるくらいの速さで、赤い光の槍が伸びた。それはこちらめがけて飛びついてくるノイズの、叫び声をあげる口の中に飛び込んで、その体を縦に串刺しにした。ノイズを形作っていた音がほどけるように消える。
 「やった! 」
 あたしより先にアトリが歓声を上げた。
 「うん……」
 あたしはまだ震えていた。実戦で音武道を使うのは初めてだ。相手が貫けば血を吹き出す、生身の人間や生物ではなくて、ああいう人造の音兵器だったことが幸いのように感じられた。カチカチという歯車の音が、あたしを励ますように響いている。
 「やれば出来るじゃん。あたしのお母さんなんだから、音武道の筋もいいはずだよ」
 「うん……」
 お母さんなんて言われるとこそばゆかった。アトリは本当にアオバトとあたしの娘なのだ。アオバトに似ているところがあるのと同じように、あたしに似ているところもあるのだろうか? 
 あたしは今は後頭部しか見えないアトリの顔の造りを、じっくりと観察したいと思ったが、状況が許さなかった。
 油断しているとハンマーがすぐ頭の横をかすめて落ちるし、ノイズたちの襲撃はひっきりなしだった。きっとこれが本当の芋虫だったら、さぞかし気持ちが悪いであろう数のノイズたちが、弦にへばりつき、ぶら下がり、蠢く腹で蹴って飛んで、まっすぐにあたしとアトリを狙った。
 これはプログラミングでもされているのだろうか? もしそうだとしたなら、それを行ったのは未来のアオバトのはずだ。あたしの腹に真っ黒い激流のような怒りが渦を巻いた。
 本当にあたしを殺すんだ。何の感慨もなく、雑草を引き抜くように排除するのか。そこにはひとかけらの愛も無いのか。あたしは愛している人に愛されず殺されるのだ。神様はあたしとアオバトに、何という運命を設定してくれたのだろう? 
 それにして、実の娘であるアトリをも狙うというのは一体どういう了見か? アトリまで死なせてもいいというのか? カナリヤさえ守られていればそれでいいというのか? 
 ノイズたちの襲撃は全く統制だっていなかった。まるでフェロモンに導かれて各々に進む本物の虫のように、好き勝手にあたしとアトリに襲い掛かるのだった。
 大多数は前上方から、弦から半ば落ちてくるように飛び掛かってくるが、中には、螺旋状の弦の真上の方からボロリと落ちてきて、ギチギチと鳴きながらあたしたちの柔らかい後ろ首に牙をむくノイズもいた。そんなときはアトリがハーモニカから出した、おそらくは「ウェーブ」を元にしているらしい、虹色の音の障壁で防いだ。音の壁に遮られ、仰向けにのけぞっているノイズののど元を、あたしが覚えたての槍撃で貫いて行く。
 戦闘用に音素を抽出した兵器であるノイズは、血も肉塊も残さない。弦の澄んだ低音も、周りで勤勉に回る歯車のつぶやきも一切汚すことなく、凝ったリボンの結び目が一瞬で解けるみたいに、するするとほどけて消えた。生々しさは一切なかった。
 それが、あたしたちの興奮をよりスムーズに煽った。アオバトに対する共通のわだかまりを熱狂に置き換えて、まるで楽しいハンティングであるかのように、あたしとアトリは気勢を上げた。バイクの上でバランスをとり、哀れなノイズたちを一つ一つ葬り去っていった。

十二

 幾らこの低音域を上り続けただろうか? 
 ふと気付くと、今まであたしたちを取り囲んでいたのと違う種類の音が、下の方から近づいて来るのが聞こえた。ノイズの喚き声、ハンマーが弦を叩く響き、歯車たちのつぶやきとも全く異質な、形にはめられない風のような水流のような音。
 「なんか聞こえる? 」
 あたしのささやきにアトリも耳を澄ませて答えた。
 「なんか変な気配が近づいて来る」
 「パチパチゴウゴウシュウシュウいう音だ」
 あたしたちは飛び掛かってくるノイズに警戒しつつ、一度弦の上に横向けに停車して、下の方を覗き込んだ。
 オーロラの翻りのように淡く青いものが、下の方から徐々に、機械仕掛けの内壁をこちらへと這い舐めて来るのが見えた。漆の工芸品の技法によくある、砂金を散らしたキラキラみたいなものも舞っている。
 それは嗅ぎ覚えのあるにおいを伴っていた。キャンプファイヤーの匂い、お焚き上げの匂い、薪ストーブの煙のようにきなくさい臭い。これは……、
 「火だ! 」
 アトリが叫んだ。あたしははっと目をむいた。
 「アオバトだ! 」
 あたしは憤りと無念さにわなわなと震えながら声を絞り出した。
 「あたしとお父さんの楽譜を見つけて火をつけたんだ! 」
 アトリは音で出来た車輪で慎重に飛び跳ね、車体を斜めにするようにしてちょっと口をつぐんだ。そして再び跳ねる。登攀をやめるわけにはいかない。
 炎はあたしたちの足元の方から徐々に距離を詰めてきている。立ち昇って来る熱にあたしたちの髪がそよぎ始める。このままではあたしたちまで燃やされてしまう。
 だがそれ以上にあたしは悔しくてならないのだった。あたしとお父さんの楽譜が灰に帰してしまう。
 飽きもせずにノイズたちが襲い掛かってくるので、あたしは涙をのみ込み、奥歯を食いしばりながら対応しなくてはならなかった。しばらく黙っていたアトリは、落ちてくるハンマーのタイミングを見計らっておもむろにバイクを止めた。そして大した事ないというように落ち着いた口調で言った。
 「これは曲全体が燃えているわけではないな。楽譜は燃えても、すでに演奏が実体化しているから曲は残る。それにね、さっきは黙ってたけど、この曲の楽譜にはスペアがあるよ」
 「スペア? 」
 あたしはオウム返しに尋ねた。
 「あたしが持ってる。予備的にこのリュックの中に入れといたんだ」
 「そんなものどこで手に入れたの? 」
 「おじいちゃんからもらった。この時間軸から十年前の世界に行ったときに」
 「おじいちゃん! もしかして、お父さんに会ったの? 」
 「そうだよ」
 アトリはこともなげに言った。
 「そのときに、五歳のヒタキにも会った。憶えてないか」
 あたしはアトリの熱い腹に手を回しながら、背中の汗が冷えていく思いだった。
 「何のために? 」
 「おじいちゃんに心配しなくていいって言ったんだ。おじいちゃんが曲を継続できなくても、あたしが録音技術を使って曲を保全させるって。おじいちゃんはありがとうって言った。でも何でだろうな、どうしておじいちゃんは予定より三年も早く自殺してしまったんだろう? 」
 アトリは心底不思議そうな口調で言うのだった。
 「予定より三年も早くって、それじゃお父さんはアトリの時間軸であたしが十三歳の時に亡くなったの? 」
 「そうだよ」
 あたしは言葉を失った。
 「それからさっき言ったカナリヤの曲の楽譜を渡して、『ヒタキによろしく』って言ったんだ。この楽譜はカナリヤの国の楽譜だって」
 赤道直下の直射日光に何時間もさらされたような眩暈が襲った。それでいて指先は氷のようだ。お父さんは予防線を張ったのだ。
 確実にカナリヤの国の楽譜があたしの手に入るように。タイムカプセル郵便であたしに送り付け、いずれあたしに会いに行くとわかっているアトリにも託した。
 お父さんはあたしに何をさせたかったのだろう?一つの仮説が頭の中で翻っていた。
 アオバトはあの楽譜が破滅をもたらすと言った……。
 炎は幻のようにあたしたちの周りを通り過ぎていった。アトリの赤い髪の毛にゆらゆらと炎の光の網が落ち、日に焼けた首筋にも、図書館の丸窓から差す陽に照らされたように、碧い光が映った。
 パチパチと火が爆ぜる音と、紙が燃えるきな臭い匂いは漂っていた。だが、あたしもアトリもまるで熱による痛みを感じなかった。炎が這い舐めたはずの弦やハンマーや歯車たちも、一切損傷した風もなく、却って前よりも清められ純化されたかのように、新鮮な輝きをまとって嬉し気に動いている。
 「ほらね。全然大丈夫だったでしょ」
 あたしは涙を瞳の奥底に押し込んだ。歯を食いしばり、非情な推察をかみ殺した。
 絶対にそうであっては欲しくなかった。あたしの芸術が人々に喜びをもたらすためではなく、悲しめ、恐怖させ、絶望させるための音楽であると、どうしたら認められよう? 
 「ねえ、さっきはどうして楽譜にスペアがあることを黙っていたの? アトリの部屋であたしが曲を書きつなげば解決することだったのに」
 「カナリヤに会ってみたかったんだ。自分を不幸のどん底に陥れた女の顔を見てみたい。カナリヤが終曲を歌って、今まで驕り勝ち誇っていたものが、絶望して消えていく様を見てみたい」
 アトリは抑えた口調で言った。その憤りの深さは、幾ら抑えても震えだす発声の抑揚から知れよう。
 「カナリヤは驕り勝ち誇ってなんかいない。人間離れして清らかで優しい心を持つ女の子なんだ。それにね、カナリヤだったらあたしが書いた終曲の部分を喜んで歌うと思う」
 「じゃあ、もちろん書いてくれるんだね」
 「書かない」
 あたしはギロチン台の刃が一瞬で滑り落ちるように、簡潔に突っぱねた。アトリは首から振り向いた。丸い目は驚愕に彩られて激しく火花を散らし、口は狂暴にぱっくりと開けられていた。
 「どうして! さっきは楽譜が無いから書けないだけだって……」
 「どうしたってそれはいけないと解ったんだ。あたしは世界を滅ぼしたくない……。それに、もしもカナリヤが消えたら、アオバトにはあたしと一緒にいる理由がなくなる。アトリには解らないかもしれないけど、カナリヤがあたしとアオバトを結び付けているんだ。未来においてアオバトがあたしと結婚したっていうなら、それはカナリヤのためでしかないはずなんだ」
 しゃべっているうちに後ろから手を回したアトリの腹が、わなわなと震えてくるのを感じた。アトリの歯が、まるで氷点下の風に凍える人みたいに震えてカタカタと鳴った。
 「じゃあヒタキは十年後、幼い娘を残して夫から殺されてもいいの? 娘が夢の中で何度も、あの瞬間のことを繰り返し見て、自分の命の軽さをかみしめて育つことも、それはそれで仕方がないことだっていうの? 
 あたしは道具じゃない! ついでに生まれた命じゃない! あたしは絶対納得なんかしない。洪水に洗われる葭原みたいにただ耐えてるだけなんて嫌だ。あたしはあたしの望む人生を手に入れるんだ。その為にはヒタキには絶対に曲を遂げてもらうからね」
 わなわなと震える声でそう言うと、アトリは再びバイクをふかし登攀を再開した。そしてふっつりと沈黙した。
 あたしもまた沈黙した。自分の言ったことを否定する気にはなれなかった。あたしは間違った事実を言った覚えはない。ただ、信じたくないことを言葉には出せなかっただけだ。
 カナリヤの曲が終われば、世界もまた終わる。その推察だけが、あたしの胸の中で回り続けた。あたしの芸術は滅びへの導火線なのだ。
 登攀を再開するとすぐさま、ノイズたちが次々と襲い掛かって来た。アトリが無言でバイクを操り、あたしも無言でノイズを退ける。先ほどまでの熱狂は、重苦しい怒りと繰り返しの倦怠に変わった。
 ボーンボーン、機械仕掛けのハンマーが弦を叩く。天体が回る無邪気さで、カチカチと勤勉に歯車が回る。さっきまで親し気に感じたその音は、我関せずと言った冷淡な調子に聞こえた。
 どれくらいの時間が経ったろう? ようやくノイズたちの襲撃は止んだ。弦が打ち鳴らされる音と歯車のつぶやきの他に、音のバイクのエンジン音だけが切り裂くように響いている。
 そこは、音に満ちているのに深い静けさに満ちた世界だった。言葉を必要としない沈黙の世界だった。
 その沈黙の中で、アトリは言葉を切り出した。アトリの声は押さえつけるような抑揚を伴っていた。涙と溜息と叫びを溶かして、消化できないまま吐き出されたような言葉だった。
 「ねえ、答えなくていいから黙って聞いてて。これはあたしの想い出、あたしの物語。
 物心ついたときからあたしは、お父さんがお母さんにどこか憎しみを抱いていることを知っていた。カナリヤの存在なんか知らなかったけど、あれは妻の他に愛する女がいる男の態度だったんだろうね。
 お母さんはすっかりとあきらめているようだった。あたしには優しかったけれど、お母さんのほぼすべてを占めていたことは音楽だった。お父さんに無視されても、汚らわしいとののしられても、あたしが泣いてもぐずっても、寝ても覚めても、それでも音楽。一年中音楽。
 あたしは不幸な子供だったんだね。あの頃は分からなかったけれど。記憶は断片しか残ってないけど、常に寂しかったことだけは憶えている。
 お父さんはあたしの音科学の勉強についてだけは熱心だった。あたしには特別な才能があると見抜いていた。文字が読めるようになった傍から専門書を音読させた。俺にできなかったこともできるかもしれないとほめてくれた。あたしは勉強でしかお父さんに認めてもらえなかった。優しくしてほしくて、愛して欲しくて、あたしは一生懸命に勉強をしたよ。でも全ては悲劇で終わってしまったんだ。
 その日のことだけは鮮明に覚えている。よく晴れた夏の爽やかな朝で、あたしは一人マンションの玄関先で遊んでいた。おじさんが来ることになっていたから待っていたんだ。
 やがておじさんが来た。赤と青の風船三つお土産に持っていた。あたしはそれを受け取って部屋に入った。お母さんに青い風船を、お父さんに赤い風船をあげようとしたんだ。
 あたしがお父さんとお母さんの寝室のドアを開けたら、そこで……、お父さんはお母さんの首を強い力で締め上げていた。歯を食いしばって、鼻の穴を広げて、目を鬼のように爛々と見張って、ギリギリギリギリと……。
 二人の体の下には何も書いていない五線譜が散らばっていた。あたしは思わず風船の糸を離した。天上にそれはくっついてバウンドしてフラフラと止まった。
 あたしはぽかんと口を開けた。お父さんの体の下でお母さんは、醜い仮面のような表情で目を虚ろに見開いて止まっていた。それ以上自分からは二度と動かなかった。『お母さん』、あたしは呼んだ。お父さんが振り向いた。娘のあたしに対して憎しみしかない表情だった。
 お父さんは飛び起きてあたしの横を駆けだした。部屋に入ろうとしていたおじさんの体を突き飛ばして、お父さんは飛びだして行った。それ以来、さっき池のほとりであたしを追って来た時まで、あたしはお父さんを見ていない。
 おじさんが警察を呼んで、わらわらと湧いて出てきた警察官にあたしの家は占拠された。あの家には二度と帰れなかったんだ。その日からあたしはおじさんと暮らし始めた。
 赤と青の風船は、お母さんが死んだ部屋に置いてきたままになった。おじさんは優しかったし、お父さんよりもずっと愛してくれた。
 おじさんの伝手で、有名な音科学者があたしの個人レッスンについてくれた。たくさん勉強して、世界のどこかにいるお父さんにメッセージを発信したかった。お母さんの死に顔が目にちらつくたびに、あたしは研究に逃げた。結果十四歳で、今まで誰も成し遂げなかった研究の完成を見ることが出来たんだ。
 だけど、名声が高まっても、どれほど世間に褒められようと、あたしにはどうしても納得することが出来ない。どうして他の家の子供のように、じゃれ合ったり叱り叱られたり、憎まれ口をたたいたり笑いあったりできない家庭だったんだろう? 
 あたしには大きな愛で包まれて、独りよがりな反抗期の後でようやくその思いやりに気づいて、感謝の心を伝えたりするような幸せはないんだ。
 どうしてどうしてどうしてどうして? 研究をするときも、スニーカーの紐を結んでいる時も、おじさんが並べた晩御飯のおかずを眺めている時も、不意にその疑問が湧き出して、大きな渦を描いて、あたしの体を飲み込んでしまうんだ。
 どうして、どうして、あたしは何者? 何のために生まれ生きているの? 
 あたしに音科学を教えたのはお父さんだった。お父さんのために賢くなりたいと思った。そうすればお母さんも喜んでくれると思っていた。でも、二人がいなくなっても、あたしは研究をしている。どうして? 
 世界を継続する方法を発見した。でもお父さんもお母さんも褒めてくれない。どうして? あたしは一生懸命にやった。期待に応えた。でも、どうして報われないの? 
 そんな時に伯母さんの話を聞いて、あたしは自分の不幸の源泉を知ったんだ。カナリヤ、この女がいるせいであたしの家庭は滅茶苦茶になった。許せない、どうしても許せない! 
 この女がいるせいであたしが不幸になったのなら、あたしが生まれる前の世界でいっそ消してしまいたい。お父さんがお母さんを愛して、お母さんも空しさから音楽に逃げないような世界に作り替えるんだ! 
 あたしはおじさんに計画を持ち掛けた。おじさんも迷いつつ協力してくれた。あたしが開発したロールテープに乗っていけば、過去の世界へ渡れるはずだ。おじさんが同僚たちから探り出した情報によれば、お父さんはまだ喫緊二十年の録音を完了していない。チャンスがあるとしたら今しかない。あたしたちは計画を実行した。
 まず最初おじいちゃんに接触した。あたしが曲家の継続方法を編み出したから、安心してもいいと言って自殺を止めようとしたのに、何故かうまくいかなかった。次に十五歳のお母さんに接触して、……」
 アトリの声は要所要所涙をはらんで膨らんだ。ほとんど歯を食いしばるようにして嗚咽を押さえる。そしてかろうじて理性の統制を保って長く続いた。
 あたしはまだ行われていない自分の罪について、周りの酸素が薄くなってくるかのような息苦しい思いだった。
 アトリの苦しみの何割かは、あたしの責任になる。アオバトの愛が無くたって、アトリに無関心でいいとは言えないだろう。
 でもどうしても……。
 「ねえアトリ、何度も言うけどあたしとアオバトを結び付けているのはカナリヤなんだよ。彼女がアオバトを惹きつけていなかったら、アトリは生まれないんだ。カナリヤの曲を終わらせてはいけない。あたし一生懸命にアトリの世話をするから、終曲のことなんかおくびにも出さず、アオバトに殺されないように気を付けるから。だから、せめてあなたを産むチャンスだけは残しておいて欲しい」
 「それじゃあ完ぺきではないんだ」
 アトリが涙声で言った。
 「お父さんがお母さんもあたしを愛して、あたしもお父さんとお母さんを愛している、そんな関係じゃないとあたしを満たせないんだ。あたしはお父さんがお母さんを殺したから不幸なんじゃない。お父さんに、お母さんやあたしを殺してもいいほど、大切なものがあったから不幸なんだ! 」
 「それは無理なんだよ……」
 あたし深い息とともに吐き出した。
 「もしカナリヤが消えたら、アオバトはあたしの元を去って行くだろう。抜け殻のようになって、情熱の熾火にあたしへの憎しみだけをくべて、それから先の寿命を誰ともかかわらずに永らえていくんだろう。もしかしたらそれすら嫌になるかもしれない。そうなればアトリは生まれないよ。それがあたしにはよく分かる。見てきたことみたいに想像できる。アトリ、何もかも手に入れるってことはできない。あたしもアオバトもそしてあんたも」
 アトリの腹に回した手にわなわなとした振動を感じた。黒いプロテクターの下に覗く、アトリの小麦色の首も震えていた。アトリは泣いているのかもしれない。アトリがどれだけの想いを抱いて過去へとやって来たのか? あたしは何と言って詫びたらいいんだろう。
 でも、それでも、実際起こるかもしれないことを、都合のいいように盛って話すことはできなかった。どうしても、アトリの望む結果にはならないだろう。そしてアトリが望むように曲を書き遂げれば、即世界は終わってしまう。
 上方向から差し込んでいた金色の光が、夜明けから昼の光量に上り詰めるみたいに強くなっていった。と思うと、勤勉な歯車たちが創り出している筒状の空間の終わりが見えた。螺旋に巻く弦はそのやや下でお終いになった。あたしたちは最後のハンマーによって、Fの音を響かせるその弦の上から、暴虐とあふれ出してくる光の方へと飛び跳ねた。

十三

 車輪が確かな感じのする大地に着地したとき、夥しい光があたしの両目を突き刺した。
 それはまだ人々が出歩かない朝の陽光を思わせる、暖かく輝かしく爽やかな光だった。だがそれは、歯車と弦とハンマーの空間の薄暗さに慣れてしまったあたしには少しまばゆ過ぎた。ぎゅっと目を閉じる。瞼の裏にも白金の光の残像が焼き付いて消えない。
 体を傾けて着いた右足に、水を含んだ草の感触を覚えた。皮膚と前髪には風を感じる。夏草の薫るそよ風だった。あたしは目を細く開けて視力が戻るのを待ちつつ、鼻でかぐわしい空気を吸い込んだ。そこに満ちている妙なる音に耳を澄ませた。
 ひらり、ふわり、ふわり、と音楽が舞い上がっていた。まるで立ち昇る上昇気流のように、水蒸気のはるかなる旅路のように、自ら風を巻き起こしている。それは螺旋に渦を描くようにして、上を上を目指していた。
 この音楽にとって上方向を目指すということは、至上命題であるのだろうか? まるで祈りとでも呼べるほど清らかな情熱をもって、音楽はひたすらと上を目指していた。
 曲を構成する音色の内訳はハープ、木管楽器、そして女声、丁度ハーモニーの要となる部分だ。
 それは晴朗に澄み渡っていた低音域の音に比べて、明らかにメランコリックな曲調を示していた。澄んだハーモニーが続くかと思えば思いもかけないところで陰り、切なく哀しく歌うかと思えば諦めを込めてほほ笑む。そして再び、全てを呑み込んだ果ての澄んだハーモニーを響かせる。
 光に目が慣れてきて見まわせば、そこは狭いのか、もっと広大に広がっているのか判断できない、輪郭のぼけた草原だった。
 あいまいな表現しかできない理由は、そこが、あたしの住んでいるマンション街の広さほどのところで、ぼんやりと白い靄に包まれているからだ。白い靄は神秘的に緑を覆い、この草原のこの世ならざる空気感を一層強めている。
 足元に目を落とせば一面丈の短い草に覆われていた。丸い葉、尖がった葉、鈴なりに付いた葉、白い符のはいった葉、様々な形の草の葉が、ぱりっと水を含んで若々しく反り返っている。辺りを被う夏草の薫りは、そこからゆらゆらと立ち昇っているものだ。
 と、こう話せばそこは何も遮るものなく広がって行く空間のように聞こえるだろう。だがそこにも、まるで音楽全体の意思であるかのように、ひたむきに上方を目指すベクトルのものが、列柱のように天を衝いていた。
 それはとれたてのレタスのように瑞々しい色をした植物の蔓だった。それが何十本と絡み合い、撚り合わさって、お社のご神木ほどの太さとなり、雲をはるかに超えるほどの高さまでまっすぐ伸びている。
 一本や二本ではない。面積に比すればまばらではあるものの、おびただしい数の植物の蔓たちが地上から垂直に、まるで自分たちが天を支えているのだと言わんばかりの自信に満ちて、生えそろっているのだ。
 蔓の高さを確認するために見上げて見れば、深い青の空が広がっていた。カナリヤの国の空だった。
 空と草原の間に金色の砂塵を見出すことはできなかった。でもその代わり上空やや低い所に、降り注ぐ光の強烈さを和ませるような薄い雲が浮いていた。
 太陽は天頂にある。柔らかな形の雲と、幾本も伸びて行く蔓たちの影が、舞い上がる音楽たちの賑やかさと対照的に、静かにじっと動かないでいる。
 バイクのエンジンを切って、アトリが鼻をすすった。あたしは無言でアトリから体を離し、バイクを降りた。
 アトリはしばらく腰かけたままじっとしていたが、やがて思い切ったようにバイクを降り、それをキーボードの中にしまった。バイクを構成していたペン書きのような線が、シュウッとスピーカーの中に吸い込まれていく。アトリはそっぽを向いていた。多分泣き顔を見られたくなかったのだろう。
 あたしは気まずい沈黙から逃れるように耳を澄ました。確かにこれはカナリヤの曲だ。もしあらかじめ知らなくても、すぐわかるほど特徴を示している。
 この中音域を上りきってしまえば、カナリヤの居る曲の表層へとたどり着くのだろうか。そこではアオバトと、大人になったアオバトも待っているのか。
 「そうだ」とあたしは一つの結論に思い至った。アオバトとアオバトは結託している。カナリヤを護るという共通の目的を中心として。
 もしかして、アオバトが急に音学世界保全科学に傾倒し始めたのも、あたしに「付き合おう」と心にもない告白をしてきたのも、未来の自分に何か吹き込まれたからなのではないか? 
 だとすれば全てつじつまが合う。アオバトは仮面の人の正体について知っていたようだし、あたしがカナリヤの曲を遂げれば世界が終わるということも知っていた。全て未来の自分から得た知識なのではないか? 
 あたしはアオバトが「将来結婚しよう」と、心が凍えるようなプロポーズをしたことを思い出していた。その理由を想像して……、胸苦しく、人目構わず唾を吐きたい気分になった。
 アオバトはあたしにアトリを産んで欲しいのだ。いずれアトリが音学世界保全科学をおさめ、カナリヤの音楽を永遠に保存する技術を完成させるからだ。
 未来のアオバトがあたしを付け回して、命を守った理由も、あたしが死んだらアトリもまた生まれないからだ。アオバトたちにとって、あたしもアトリも、カナリヤを護るための道具のような存在でしかない。
 いや、とあたしは思い直す。さっきあたしから音素共振機を奪っていった、今現在のアオバトはこう言った。「十年後も二十年後も、俺とヒタキとカナリヤと穏やかに過ごせるように模索している」と。
その言葉には一定の誠意を感じた。だからあたしも楽譜のありかを教える気になったのだ。突破口を開こうとしたら、現在のアオバトと交渉するしかない。
 あたしは必死に思考を巡らした。どんな条件を持ち出すのが有利に働くか。ただ無為に、流れるがままに流されていくには、あたしの気性は少しばかり角が立ちすぎている。
 あたしの中にはすでに、目覚めかけの胸苦しい何かからくる欲望が育っていた。
 アトリをこの体で産みたい。あたしとアオバトの混交物である娘を産んで、自らの力で育て上げたい。アオバトに殺されることが無ければ、それは可能なはずだ。
 その為にはアオバトと交渉するしかない。子種だけを提供してもらって、その上でカナリヤの曲を書き遂げようなんて考えを捨てれば、案外何とかなるかもしれない。そうして生れたアトリを、何よりも慈しんで育てるのだ。たとえアオバトがいなくったって。
 さっきアオバトへの想いを凌駕した音楽への愛は、娘であるアトリの涙の前では輝きを失った。
 第一、カナリヤの曲ただ一つだけがあたしの音楽ではない。あたしの人生は始まったばかりで、書きたい音楽は星の数ほどある。その全てを書き遂げられると仮定すれば、カナリヤの曲一つに固執することは愚かだ。  
 不意に背後の方からバリトンの艶のある声が響いた。
 「アトリ」
 こちらに背中を向けて立っていたアトリが、弾かれたように振り返った。やはり頬は濡れていた。
 「おじさん! 」
 アトリは駆けだした。そして黒いスポーツウェアにプロテクターをつけた、大人になったハジロが、広い胸に下げたキーボードを少し避けるようにして、アトリを抱きとめた。
 「アトリ、何で泣いている」
 「だって、ヒタキが、お母さんが、カナリヤの曲は絶対に書かないって……。カナリヤが消えれば、お父さんはお母さんと一緒にいる理由がなくなるって言うんだ。あたしも生まれないって……何もかにももくろみを外れて思うようにいかないって……」
 大人になったハジロは、眼鏡の奥の知的な目を細めて、アトリの肩を二度叩いた。
 「そういうこともあるかもしれないなあ……」
 「おじさんまでそんなこと言うの! 」
 そう叫ぶとアトリは、「あたしは嫌だよう」と言って泣き崩れた。地べたにしゃがみこんで泣きじゃくるアトリの肩を、ハジロは悲しみに満ちた顔で叩いた。思慮深いまなざしに隠した粘り強い気性も、細い鼻梁も、整った四角い額も、全てハジロのものだった。
 「ハジロ、ハジロだったんだね。だからどっかで会ったような気がしたんだね」
 あたしはようやくそれだけ言うことが出来た。正直、何と言葉を続ければいいのか分からなかった。
 アトリは、「おじさんと猫のサバカンと家事ロボットのエナガと暮らしている」と言った。
 ということはつまり、ハジロは結婚していない。アトリを引き取ることで自分の家庭を持つチャンスを逃したのだろう。あたしとアオバトのしでかした不始末を、ハジロが尻拭いしている格好だ。何と詫びたら足りるのか分からないほどだ。
 ハジロもまたあたしにかける言葉が見つからないようだった。本来あたしの罪であるはずなのに、まるで自らの罪の結果をうかがい見るような目で、あたしの目を覗き込んだかと思うとすぐに視線を伏せた。
 あたしとハジロはしばらく沈黙し、和声のひらひらと舞うそよぎを聴いていた。アトリの泣きじゃくる声が、その完全なる調和に突き刺さった雷鳴みたいに響いていた。やがてハジロは思い切ったように目をあげて、真っ直ぐにこちらを見た。
 「ヒタキ、生きているヒタキ……。曲を書かないというのであればお前はどうしたいんだ? 」
 ハジロの声は抑え気味で、その分深い葛藤を伝えていた。あたしは力強くハジロの目を見た。
 「アオバトと交渉したい。あたしが曲を書き遂げない代わりに、アトリを産んで一人で育てることを了承させたい。多分あたしの時間軸のアオバトは、あたしやアトリの運命を破局にもたらさない道を、細々と模索しているように感じられる。そこには交渉の余地があるって思う」
 「なるほど」
 ハジロはそう言って右手の指で自分の顎先を撫でた。
 「アトリの望みが全部叶えられなくても、痛みを軽減させる道を選ぶということか。それにはヒタキ、お前の犠牲が大きいぞ」
 「覚悟はできてる。あたしは誰が何と言ってもアトリを産みたい心になってきた」
 あたしは鋭く宣言した。泣き伏していたアトリがびくりと肩を震わせてはっと振り返った。アトリの顔は今までに見たどんなアトリよりも心細げで、まるで見知らぬ街で迷子になった小さな子供のようだった。
 あたしは辺りに流れるすべての音楽の力を借りて、想いを込めてアトリを見つめた。二人の目と目の間に密やかな信号がやり取りされる。アトリの濡れた目に、細々とした希望の灯がともる。
 アトリの眼差しは、神様に「よく頑張ったね」とねぎらわれた幼子のようだった。あたしは何の犠牲を払ってもアトリを産みたいと思った。力強く微笑んで頷いた。
 アトリはオレンジ色のスポーツウェアの袖でごしごしと顔を拭いた。目を何度かしばたかせ、しゃくりあげるのを飲み込み、鼻をスンスンと言わせながら立ち上がって、きまり悪そうにうつむいた。
 「さあ、出発しないといけない」
 ハジロが冷静に告げた。
 「どうやって昇っていくの? 」
 あたしの問いにアトリが答えた。
 「ここに舞っている音楽の波に、パラグライダーみたいに乗って行こう」
 アトリは首から下げたキーボードの録音機能から、紙飛行機のような形の音を開いた。それは青と緑とピンクのサインペンで描かれたような線の塊で出来ていた。五角形で、平たく広い羽根と、左右どちらにも舵のとれる尾翼がつき、上側の中心部分には、人が幾人か乗れるような窪みがついていた。それは音楽が空気に寄せる振動を表しているかのように、小刻みに揺らいでいる。
 アトリの出した音素の「機体」は、ひらひらと舞い浮かぶ音楽を、その青と緑の音素の両翼に受けて、ふわり、と舞い上がった。まずハジロが飛び乗った。次にアトリが乗り込み、低いところにとどまり続けるように巧みに操りながら、あたしに呼びかけた。
 「ヒタキもおいで」
 そういいながらあたしに右手を差し出す。あたしもアトリの手をしっかりと握る。アトリの右腕はあたしを力強く引き上げた。あたしが音素の飛行機の窪みに体を滑り込ませた途端、それは両翼に舞い上がるハーモニーを受けてゆらゆらと離陸した。
 紙飛行機というものは旋回しながら下降してゆく。反対にこの音の飛行機は、旋回しながら上昇してゆく。音が螺旋に回っているからか、それを捉える飛行機もまた螺旋の軌跡を描いている。
 あたしの前髪を乱して風が吹き渡る。アトリの赤い髪も、ハジロの白く染めた短髪も、刈り入れを待つ麦穂のように揺らいでいる。露わになった額に、音の飛行機の放つ音素がパチパチと爆ぜる。あたしの好きな感触。だが、そんな小さな感慨に浸っている場合ではない。
 多分あたしたちは急がなくてはいけない。二人のアオバトに時間を与えてはいけない。あたしが恐れていたのは、交渉の余地もないほど、未来のアオバトが今現在のアオバトを抱き込んでしまっている可能性だった。そうであれば、あたしの覚悟も機知も、今までアオバトと築いてきた信頼も、通用しないかもしれない。
 アトリが操る音の飛行機は、ひらりひらりと円を描くように上昇してゆく。ずんずん高度を稼ぎ、緑に覆われた草原は、茫漠とした霞の向こうへ、白緑に遠ざかっていった。
 横を見れば垂直に、幾本もの蔓の大樹だけがすっくりと天を突いている。蔓の先端を隠すかのように羊のような形の雲が流れ、その隙間から金色の光が差している。昔の人が神様のために描いた絵のようだった。
 上だけを望んでいた時は、深い憧れを感じたが、ちらと下を見下ろしてしまったときに、本能的な恐怖が襲い掛かってきた。
 もはや草原の緑は見えない。幾重にもかすんだ靄が地上の全てを覆い隠している。ここからあの草原まで幾百メートル、そこまで遮るものは何もない。ここから墜落したら助からないだろう。もしアトリが一瞬でも音を捉え損ねたら……、あたしがこの羽根の上から滑り落ちたりしたら……。
 だがそんな「恐れ」を一瞬で押しのけて、「畏れ」の心が湧き起こり、あたしの心を圧倒した。
 これはカナリヤの曲そのものが持っている崇高さだ。美と調和と、理で割り切れない神秘だ。お父さんとあたしの生み出したこの曲は、こんなにまでの美しい世界観を備えている。
 歯車と弦とハンマーの織り成していた低音層の晴朗闊達な勤勉さ、そしてどこまでも雄大優美な中音層の景色、すべてすべてあたしの理想だった。
 あたしとお父さんの命のエッセンスを凝縮して、限りなく美しい、あるべき音楽の理想を見せてくれているのだ。
 そしてこの上に乗っかったカナリヤの歌の見事なこと。あたしは幾度も聞いたその歌声を頭の中で再生する。赤い花びらよ、碧くひらめく蝶の羽根よ。
 決まっていたはずの心に迷いが湧く。あたしは果たして、この曲を完成させたい衝動に抗うことが出来るだろうか? 

 だいぶ舞い上がることに慣れてきた。
 カナリヤの居る曲の最上部は、途方もなく高い所にあるらしかった。音素の飛行機は無限に続くかと思われる空を昇っていった。
 あたしはただ上の方だけを見るようにしていた。恐れと畏れを押さえつけて、平常心を保つのに、それが一番いいやり方だった。
 やがてハジロが、これから先の二十年に起こった出来事について話し始めた。
 あたしとアオバトは二十歳の時に結婚した。アオバトは学生で、あたしは大学を中退した。
 当然お母さんは猛反対した。結局それ以降あたしが死ぬまで、お母さんとの関係は断絶されていたという。お母さんの怒りの深さは、アトリを引き取らなかったことからもうかがい知れよう。
 お姉ちゃんとあたしの関係は親密に続いた。アオバトとの愛のない結婚生活の悲しみを、あたしはお姉ちゃんだけには打ち明けていたらしい。
 ハジロは、アオバトのあたしに対する気持ちに、特には不審さを感じてはいなかったという。ハジロにとってはずっとそうなると思っていた結果だったというのだ。
 だがもちろん、アオバトはあたしを愛していたわけではない。アオバトには、自分とカナリヤの秘密を共有してくれるパートナーが都合よかっただけだった。
 すぐにアトリが生まれる。あたしは音火力変換所でアルバイトをしながら子育てし、アオバトの学生生活を支えた。アオバトは卒業後、政府の研究機関に入り、本格的に学者としての活動を始めた。
 アトリの才能を最初に見抜いたのはアオバトだった。アトリの告白通り、アオバトはアトリに英才教育を施した。彼の職場を通じて、評判は政府機関にも及んだ。
 すぐにアトリの個人レッスンが始まる。アトリは彼女が言うように、通常の学校教育は受けなかった。と同時に、忌まわしいことに幼いアトリは、その頃から勢いを増していた無識主義者のターゲットにされた。
 あたし殺害の朝、ハジロがあたしたちの家を訪れたが、それは衛星に避難するあたしたち一家に、別れを告げるためであったという。
 事件の後、ミサゴが亡くなった。あたしの葬式に出た帰り道、車にはねられた。夜だったので喪服を着たミサゴは闇に紛れてしまった。
 当時ミサゴと付き合っていたハジロは、彼女の思考性格をコピーした家事ロボットエナガを連れて、アトリと衛星に逃れた。二人と家事ロボット一台と、猫一匹の生活が始まった。
 アトリの教育のため、同じように衛星に逃れている音科学者が頻繁にそこを訪れた。アトリの学識は否がおうにも高まり、彼女を教える音科学者たちを抜き去っていった。ハジロは政府から生活の糧全てを受給していた。アトリを育てあげることが彼の仕事だった。
 日々は平穏に流れているように見えた。無識主義者たちの襲撃はなく、アトリの研究は無事に完成を見た。これで世界は続くと世界中皆安堵した。アトリの名声は隠しようもないものだった。
 あたしを殺害した後のアオバトの足取りについては何もわからなかったという。警察は彼を逮捕できなかったと誰もが思っていた。
 そうではないらしいと知れたのは、アトリも語ったように、余命宣告を受けたお姉ちゃんの告白からだった。それによりアトリもハジロも、アオバトがあたしを殺した本当の動機について初めて知った。
 ハジロは伝手をたどり、政府内部に探りを入れた。どうやらアオバトは事件直後に政府に確保されていたらしい。ところが裁きに掛けられることもなく、彼は政府の裏の仕事に暗躍していた。主に無識主義者のテロリストとの戦いに従事していたらしい。
 アトリが開発した世界保全のための録音テープも、アオバトに託されたという。
 二人は決断した。アオバトが曲の全てを録音し終わる前に、アトリの運命を歪めたカナリヤの国を終わらせてしまおう……。
 ハジロの語りは、先ほどアトリに聞いた部分と重なり合うようにして終わった。ハジロの話は、舞い上がる音楽の間にひっそりと寄り添うように語られた。
 あたしは、特にミサゴの運命についてやるせなさを覚えた。何故ミサゴまで……。あたしが殺されなかったら、あたしの葬式に出なかったら、ミサゴもまた命を落とすこともないのだ。
 「大丈夫だヒタキ、まだ未来は確定されていない。お前の交渉次第でお前もミサゴもお前の姉も、命がつながるかもしれないだろ」
 ハジロが半ば自分自身に言い聞かせてでもいるように言った。
 あたしはここへきて揺らいでいた。どんな犠牲を払ってでも、アトリを産み育ててみたいと思う。だがその反面、全世界を犠牲にささげたってカナリヤの曲を書き継ぎ、全き芸術の輪を完成させたい。
 どちらも赤裸々な本心だった。理性も感情もアトリを産む方に加勢しているのに、得体のしれない、命から湧き出して、生きるのとは正反対の方にあふれ出す何かが、あたしの中で渦を巻いて、曲を完成させよと命令しているのだ。

十四

 「なんか変な音が聞こえる」
 最初に気づいたのはアトリだった。耳を澄ましてみれば、汽船の霧笛のような音が切れ切れに、上空遥かなところから届いて来た。
 あたしたちは誰ともなく顔をあげる。アトリは警戒するように上昇速度を下げた、と思う刹那、何かが尋常ではない速さで高度を下げ、ほとんど垂直に襲い掛かってきた。
 「ファズだ! 」
 ハジロが叫んだ。アトリが咄嗟に機体を右旋回させて辛くも逃れる。あたしの体は大きく振れて、危うく落下しそうになる。
 「それ」は動体視力のさして無いあたしの目には、赤っぽいぐじゃぐじゃとした塊にしか映らなかった。「それ」は二体あった。一体は右斜め上から目にも止まらぬ速さで左下に降下し、もう一体は真上から右斜め下に降下した。「それ」が二度目の襲撃を仕掛ける為に巨大な翼を広げて動きを止めたとき、やっとあたしの目にもその姿がはっきりと捉えられるようになった。
 それは朱赤と黒と黄色の音素で構成された、虎のような姿の音兵器だった。体に走る黑い縦縞も、描き殴ったような密な線でくっきりと表現されている。だがそれには実際の虎には無い物がある。それは竜かと見まごうばかりの巨大な翼だ。黄色い線で厚みを持たせぬように描かれていて、黒い線で引っ搔いたような鉤爪までついている。それで巧みに空気を叩きながら、今度は下方向からあたしたちに襲い掛かった。アトリが巧みに音楽を捉え、機体を大きく傾けて攻撃を逃れる。
 「ヒタキ、頭を下げろ! 」
 そう叫んでハジロがあたしを庇うように機体の窪みにしがみつく。耳の横を強い風と、少しも調和を乱さないハーモニーが通り過ぎる。ボーッ、ファズが吠えた。口から深紅の光線を吐き出す。紅い二筋の軌跡は機体が一瞬前まで飛んでいた空間で交錯した。
 「おじさん! 」
 「アトリ、俺が応対する。お前は機体の操縦に専念しろ! 」
 ハジロが体中を固くさせて、激しく揺れ動く機体の中でキーボードを操った。スピーカー部分から赤い槍が飛び出す。それは巧みにファズの喉元を狙ったが、鳥のように自由自在に飛び回るファズの前では児戯に等しい。
 ハジロは今度は蒼白い鋭角の曲撃を出して、面積の広い翼を狙った。曲撃は相手の目をくらませるようにランダムな動き方をして、一体のファズの翼を捕らえ、重い衝撃を与えた。
 ギイン、鉄琴に鉄球を落としたような金属製の音が響いた。ハジロの曲撃はファズの翼の強靭さに粉砕された。蒼白い音素のかけらがキラキラと光って散っていった。
 「やっぱりノイズのようにはいかないか。アオバトめ、こんなものまで政府から受託されていたのか」
 あたしはハジロに覆いかぶされるようにしながら、必死に舌を噛まないように体を固くして身を潜めていた。耳の横を音と音が戦っている音と、それに少しも乱されない音楽が通り過ぎてゆく。
 右に、左に、上に、下に、アトリが機体を旋回させる。ハジロが決死の攻撃を仕掛ける。その音の武器は、音兵器であるファズの強靭さに、硝子のようにもろく砕ける。
 あたしの耳には目まぐるしく戦う音楽をよそに、この国本来の美しい音楽だけが大きく響くようになっていった。
 何という調和、何という世界観! 愚かな人間の作り出した音兵器の喚き声にも乱されない、泰然とした心! 
 二頭のファズの口から赤い光線が放たれる。アトリの赤いポニーテールが半分吹き飛ぶ。一体のファズがそのまま直進し、音素の飛行機の左翼に爪を引っかけて飛び乗る。ミシリ、飛行機は傾いて左寄りに落下し始める。ハジロが必死に曲撃を放つ。ギイン、ギイン、非情な音を立てて攻撃は砕け散る。
 左翼に乗ったファズがゆっくりと操縦席に近づいて来る。飛行機の落下速度が速まってきた。さかさまに近い姿勢で回転が始まり、乱れた風が頬を走り抜けてゆく。あたしは目の前で繰り広げられる命の危機を、どこか別の世界の出来事のように眺めていた。
 ボーッ! 上空に浮いていたファズが吠えて赤い光を吐き出した。アトリが紙一重、機転を働かせ機体を傾けて避ける。飛行機を逃した光線は、すっくと天を衝いて立っていた、レタスのように瑞々しい色合いの植物の蔓にぶつかった。
 ドーン! 植物の蔓が砕け散った。硬く滑らかな表皮や、水を含んだ茎のかけらが、飛行機事故で砕け散った肉片のように飛び散った。あたしの右頬にも五センチほどの大きなかけらがビトリとぶつかって落ちていった。
 見えない地上へと落下していくそれに目をやった時、底知れぬ怒りが沸いた。
 許せない、許せない、許せない、許せない! 
 あたしとお父さんの創り出した曲の中に勝手に入り込み、汚い足でべたべたと足跡をつけて、あまつさえその完全なる調和を傷つけて得意顔でいる。許せない、どう考えても許せない。
 あたしの呼吸は乱れ、鼓動は早くなり、手の中にじっとりと汗をかいた。目から火花が散るのではないかと思われるほど目を見張る。喉の奥には放たれる寸前の咆哮がある。汗で冷たくなった額の下の目でファズをにらみつける。
 と同時に、怒りとともに沸き上がってきたこの曲への愛情が、背中にゾワリと鳥肌を立てた。
 まるであたしが太陽になったみたいに感じた。周りの景色全てが太陽系の天体で、あたしがその中心でゆるぎない玉座に座っているような、世界の全てがあたしに付き従ってでもいるような、理由を超越した全能感だった。
 不意にあたしの心臓の音と周りの全てがリンクし始める。この体を動かす動力と、世界を構成する物質は同源だ。
 周りの景色は急激に光を帯びだす。植物の蔓は一層そのあどけない緑を濃くし、空は溺れそうなほど深さを増し、白い靄は光の粉をまとったようにちらちらと光る。
 あたしの中で血液が循環する。世界のエネルギーも循環する。あたしとこの世界は一つだった。命の根源の所で分かち難く一つだった。
 あたしは一体のファズに目当てをつけた。曲を汚された怒りのままににらみつける。あたしの体を循環する音楽の濃度が一層濃くなる。
 「邪魔な音は消えてなくなれ! 」
 世界を構成する音楽の濃度も、あたしの体の中を巡るものに応じて濃くなり、輝きの中、所詮人造の雑音に過ぎないファズの体を構成する音素の線を、千切れた紙吹雪みたいに解いていった。さらさらと、ファズだった音素が風に吹き飛ぶ。
 感情を持たない音兵器であるもう一体のファズが、仲間の消滅に何の感慨も抱かずに突進してくる。あたしはそれを目で突き刺すだけでいい。すぐさま周りを巡る音楽がそれを消滅させてゆく。さらさら、朱赤と黒と黄色の音素がほどけてゆく。
 辺りを舞い上がる音楽の渦は一層輝かしくなり、今ファズが傷つけたはずの植物の蔓もあっという間に再生される。金色の陽光がさらさらと降り注いでいる。アトリとハジロは驚いてあたしの顔を見つめた。
 「もしかして、ヒタキがやったの? 」
 あたしはそれに答えなかった。答えられなかった。万能感、勝利感の他に、二人には絶対に教えられないものが湧きあがっていた。
 それは、この世界の最後の旋律とハーモニーだった。あたしの中に鮮やかに、カナリヤの国の終わりが響きだしていた。
 下から舞い上がる音楽の渦が力強さを増し、アトリの操る音素の飛行機ももまた、ぐんぐんと速度を上げて上昇していった。
 やがて上方から降り注ぐ金色の光がまばゆくあたしたちを包みこむ。頬に、耳に、ゆるぎない熱を感じる。
 黄金の光の洪水に目を閉じる。光は瞼の裏側へも溢れだしてくる。

 再び目を開いたとき、あたしたちが乗った音の飛行機は、着飾った群衆の渦の中に着地したところだった。突如現れた飛行機に、人々は帽子を押さえ、ふんだんにひだの寄った裾を乱して飛び退ったりしている。表情からは驚きを読み取ることは出来るが、彼らは声を隠し、叫び声一つ上げない。
 乾いた熱風が肌を撫でる。空は宇宙的に澄み渡り、金色の砂塵が吹き渡っている。金褐色の石造建築に落ちる日差しはとろりと甘く、摩耗した石畳に眠りを誘うほど濃い影を投げかけている。
 あたしの右側から水音が聞こえた。円形の噴水が流れていた。それを飾る大理石でできた彫刻の鼻筋は、幾星霜の湿り気に、すっかり黒ずんでしまっている。
 ここは何度も訪れたことのある、街の中心にある噴水付きの広場だった。
 見上げれば街を見守る丘の上から、大樹に抱かれた廃墟が見下ろしている。熱風が吹いて、大樹の白い葉裏が翻る。
 街の上にも黄金色の砂塵が吹き付け、髪を砂混じりにしてゆく。
 白い鳥の群れが、今館の方から飛び立って、水を求めてでもいるように郊外の小川を目指した。
 Aー、歌声が響く。
 赤くそよぐ花弁の様な歌声が、乾いた空気を伝ってくる。群衆はあたしたちから目をあげ、称賛の眼差しで丘を仰ぐ。そしてその、蝶の羽ばたきのようなメロディーは、あたしの心に兆した迷いの火に油を注ぐ。
 これはあたしが書いたところ……。
 「ここが、カナリヤの国……。これが、カナリヤの歌……」
 アトリがつぶやいた。そして、思いもかけないところで美しい花を目にしたかのような眼差しで、改めて不安になったのかじっと丘を眺めた。
 ハジロは何か痛みを感じてでもいるみたいに、眉を寄せ、やはり館を見上げた。もしかしたなら彼だけは、この先に起こる出来事について、ある程度予感していたのかもしれない。
 「急ごう」
 アトリはきっと表情を引き締めた。音素の飛行機から身軽に飛び降りると、あたしたちが降りるのも待たないでそれをしまった。そして自ら先頭に立って、丘の方へと駆けだして行った。あたしとハジロも後を追う。
 そうだ、急がなくてはならない、どうしようもない方向に未来が固まってしまう前に、あたしの時間軸のアオバトと交渉しなくてはならない。
 あたしは全力で駆けた。いや、懸命に駆けようとした。ああ、何故あたしの脚はぐずぐずと進まない。心が真っ二つになってしまっている。
 アトリを産みたい、世界を存続させたい、誰も不幸にしない未来を選び直したい、その一方で何を犠牲にしたってこの曲を完成させて、完璧に輪を閉じたい。
 美しい小説の末尾にFinの字が印字されるように、最終小節の後にFineの文字を刻みたい。カナリヤによってそれが完璧に歌われて、あたしの理想の音楽が空気を振動させるのを確かに聞き遂げたい。
 あたしの足運びには迷いがある。反対にアトリは、憑かれたように一心に駆けてゆく。ハジロは、あたしが後ろに置いて行かれないようにしんがりでペースを保たせている。
 あたしの中でこの曲の終わりが鮮やかに鳴っている。Fフラットの和音、波のようなトリル、麦原の中、帽子をかっさらっていく風のようなグリッサンド。カナリヤならどう歌うだろうか? 踊るように歌うだろうか? 花蕊が風に翻弄されるように歌うだろうか?
 アトリは道に迷うことも思いつかない様子で駆けてゆく。
 実際迷う心配は要らないのだ。全ての道は真っ直ぐと、カナリヤの居る廃墟へと続いている。あたしがいるからだ。あたしがカナリヤの所を目指しているから、この世界はカナリヤへと道を開けている。
 はなびらの歌声に導かれるように、あたしたちは最短距離で館の正面門の前へとたどり着いた。扉はいつもと変わらずに重い音を立てて自ら開いた。
 Aー、カナリヤの歌が呼ぶように響く。
 その声は日ごろよりどこか、切迫した色を漂わせていた。アトリは光に寄せられる蛾のようにそれを追っていく。あたしもそれに続く。ハジロが憂わしげに息を乱すのが、後ろの方から聞こえてくる。
 回廊への階段のところで、アトリがあっと言って一瞬止まった。破れかけたタペストリーと、砕けた青いガラスの花瓶に目を送っている。この廃墟の崩れ方の気高さについて、やはり何か感じるところがあったのか。
 あたしは思う、アトリも音科学者ではなくて、芸術家であればよかったのに。美と戯れ、心に浮かぶ機微を掬い取って、詩へと高めながら生きていく方が楽しいのに。古代から連綿と続く、詩人と歌手の末席に名前を連ねたほうがずっと幸せにくらせたのに。
 ああしかし、この迷いも苦悩も、あたしの音楽への愛故なのだ。こんな感情はアトリには到底味合わせたくない。
 アトリは一呼吸しかそこにとどまっていなかった。崩れかけの手すりに手を置くこともなく、一息にそこを駆けあがっていく。あたしはそのまだ細くしなやかで、爆発前の力をためているような背中を見るにつけて、暗い洪水のような悲しみが胸に満ちてくるのを感じていた。
 ああ、アトリ、お前はあたしの迷いを理解しない。アオバトもハジロも理解しない……。
 階段を抜け、回廊を行き、大樹のみ胸に抱かれた庭園へと出る。緑が目に眩しい。赤い花々が血のようだ。空は蝶の羽のように発光し、膨大な光の鱗粉を地上に放っている。
 庭園の中ほどで不意にアトリが足を止めた。
 庭園の中央の赤いひなげしの上に、真鍮の台座を置いて大きな鳥籠が吊り下げられていた。中にはカナリヤが閉じ込められている。
 黄金の巻き毛は涙と汗に張り付き乱れ、真紅の衣装の下からは白いふくらはぎがのぞいている。彼女は内側から籠にしがみつき、その碧玉の瞳からぼろぼろと涙を零し、天の神様お聴きくださいとでも言うように、あたしが書き足した楽譜分のメロディーを、歌い続けているのだ。
 彼女の右側には未来のアオバトが立っていた。まだあの酔狂な青い羽毛の仮面をつけたままなので、彼が今一体何を考え、こちらに対してどういう感情を持っているのかつかみ取ることが出来なかった。
 左側にはあたしの時間軸の少年アオバトが、悲壮感の漂う表情で立っている。二人ともやけに大仰な黒いキーボードを首から下げていた。
 「ヒタキ様! 」カナリヤはあたしの姿を見とめると叫んだ。
 「アオバト様たちを説得なさってください。お二人は、わたしに歌うなと仰るのです。この曲の最後は決して歌わぬようにと。でも私は歌うためにいるのです。この曲を遂げることはわたしの使命なのです。背骨なのです。掟なのです。歌を歌えぬわたしはただのお人形。そんな人形のまま永遠を生きろと言われるのです。そのようなことは耐えられませんわ! 」
 そう言ってカナリヤはなおも激しく声を張り上げた。曲の続きを催促しているのだ。
 カナリヤには解っていた。あたしとカナリヤは、同じ罪を半分ずつ担っている。創る小鳥と歌う小鳥。あたしが揺れていることを解ってなお、あたしを責めないのはカナリヤだけだ。
 「カナリヤ、辛抱してくれ。全てお前を守るためなんだ……」
 鳥籠の左に立つ、少年アオバトが言った。眉を寄せ、途方に暮れているかのような姿勢で両手を握りしめる。カナリヤに切々とした眼差しを送った後、彼はこちらにきっと振り返った。
 その目に浮かぶ表情の意味は、憎しみなのか、悲しみなのか、それとも運命に対する憤りなのか。溢れだす寸前の水の張力をこめた眼差しで、アオバトはあたしの目を射るように見た。
 「ヒタキ、この曲を遂げてはいけない。あの楽譜は俺が燃やした。もしお前が曲を書き遂げようとするならば、俺は……お前を……殺すことになってしまう……。それはやめてくれ、お願いだからそんな罪を犯させないでくれ。俺たちは仲良くやっていけるはずだ。この曲のことさえ解決してしまえば」
 少年アオバトの呼びかけは厳然ともしていたが、同時に切々ともしていた。
 あたしは彼の目を遠い灯台のともし火のように見つめた。
 それは願ってもいない言葉のはずだった。
 アオバトもまた闘っていた、誰も傷つけない未来を求めて。未来の自分と、望まぬ方向へ突き進んでゆくあたしとの間で綱渡りするように、孤独な戦いを続けていた。
 ああ、アオバトとアトリと三人で幸せになれたら、あたしの音楽のことも忘れてしまえるんだろうか? この体のうちで牙をむく衝動のことも忘れてしまえるんだろうか? でも、あたしの音楽は命と同源なのだ。
 生きているとともに溢れ出てくる得体のしれない喜び。背面に潜む破壊のきらめき。その美しく明るい所だけを享受して、あとは無視してしまえるとでもいうのか? 
 子への愛が、音楽への愛を凌駕するというのだろうか? 
 あたしという人間は、アトリとは別々の命と根源とを持っているのだ。そこからあふれ出してくる音楽は、あたしだけのものだった。我が子も恋人も友達も姉妹も、何人たりとも寄せ付けないあたしだけの領分だった。
 お父さんの笑顔が頭に浮かんだ。
 あたしと一番理解しあえるのはお父さんだろう。あたしに楽譜を送り付け、ビルの屋上から落ちたお父さん。あれは果たして自殺だったのか? 
 あたしたちの家は不幸な家庭ではなかった。あたしとお姉ちゃんのことも愛してくれていたはずだ。それでもお父さんは音楽を選んだ。あたしもまた苦悩することを知っていて、あの楽譜を託した。
 アオバトが悲壮な眼差しであたしに答えを求めている。アトリが期待を込めてあたしの返答を待っている。唇は開いたが言葉が出てこない。
 音楽よ、音楽よ、全ての愛しい人々を束にしてなお凌駕しうる音楽よ、お前は何故あたしにこんなにまで苦しい選択を強いる?   
 あたしの開いた唇に注目が集まる中、未来のアオバトのキーボードから、赤い槍撃が真っ直ぐとアトリの喉元に伸びた。

十五

 「お父さん……」
 アトリはびくりと震えた。口元には媚びるような笑顔が浮かぶ。何故? と目が語っていた。アトリは心に萌した不安を覆そうとするかのように、か細い声でうねる心を伝える。十年ぶりに再会した父親に向かって語り掛ける。それは古き良きアリアのように、音楽的な抑揚を伴っていた。
 「お父さん、あたし頑張ったよ。研究を完成させた。世界を保全する技術を開発したよ。お父さんが音科学の手ほどきをしてくれたから、いっぱい勉強する環境を作ってくれたから、だからあたし成し遂げられたよ。頑張った、頑張ったんだ。ずっとお父さんい会いたかった、お父さんに褒めて欲しかった」
 未来のアオバトは、その言葉の悲歌めいためいた響きにも、少しも心を動かされなかったらしい。口元には苛々としたゆがみがのぞいている。
 「それで、お前は一体何しにここまで来たのか」
 「そ、それは、最初はお母さんに曲を完成させてもらって、この国を終わらせて欲しいと頼みに来たんだ。でも、無理だって言うから……。だから、お母さんがあたしを産んで一人で育てる未来を許してほしいって、そうお願いすることに……」
 「つまりはカナリヤを害す計画を立てたのか? 」
 「そうだったけど……、今は別に……」
 アトリに突き付けられた槍撃がしゃっと閃き、頬を薄く傷つけた。痛みにアトリが弾かれた様に飛び退り、尻餅をつく。深紅の血が飛び散って、アトリの服を汚した。
 「何をする気だ! 傷つけるのはやめろと言っただろう」
 少年アオバトが声を荒らげた。
 「誰であれ、カナリヤを害そうとしたものは許さない。ロールテープを開発し終えた暁には、もうこんな娘なんかに用はない」
 アトリは信じられないというように父親の顔を見つめた。その顔は、雪を兆した真冬の日差しのように蒼白になっていった。
 「ねえ、お父さんにとってあたしは、技術を開発する手段でしかなかったの? 」
 「当然だ。いちいち俺の前をちょろまかされるのは面倒だ。邪魔な草は刈る」
 「殺すの? あたしを殺すの? 実の娘のあたしを殺すの? 」
 「何を驚き喚いている。当然の帰結だ」
 「ねえ、どうして昔みたいに褒めてくれないの? あたし、こんなに頑張ったのに……」
 「褒めるだと? カナリヤを害そうとしたお前を? 」
 「ねえ、あたしの頭を撫でてくれたじゃない、口の中にキャラメルを放り込んでくれたじゃない、よく出来たね、さすが俺の娘だって! 」
 「そんなことは憶えていないね」
 アトリと未来のアオバトの会話は、永遠に交わらない世界線の中を不毛にすれ違った。あたしはアトリに駆け寄り、その肩を抱いた。アトリを黙らせないといけなかった。これ以上続けたらアトリは必ず……。
 だがアトリは、額にびっしりと冷や汗をかきながら、心に刻み込まれた愛のイコンの痛みのままに叫び続けた。
 「お父さんが憶えていなくったってあたしが憶えている。お父さん、お父さん、お父さん、どうかあたしを褒めて認めて! 」
 「俺のDNAを継いでいるからと言ったって思い上がるなよ。お前にはあの愚かなヒタキの血も入っているんだったな。やはりお前も愚かだ。俺に似た顔で愚かなやつを眺めていることは、はらわたが煮えくり返るような思いだ」
 未来のアオバトは一瞬槍撃を収めた後、新しい赤く輝く槍を出してアトリの左胸を正確に狙った。あたしは咄嗟にアトリの肩を抱いて、その骨ばって華奢な体をあたしの肩の陰に覆い隠そうとした。
 ギイインという音が響いた。はっとして目をあげる。あたしの後ろに立っていたハジロが、まっすぐ伸ばした槍撃で、未来のアオバトの槍撃を砕いたところだった。
 「アトリを傷つけることは俺が許さない」
 大人になったアオバトが嘲笑うように唇を歪め、その目元を覆う仮面を外した。丸い、気性の激しそうな茶色い目が現れる。鼻や眉のあたりは精悍さを増し、ややくたびれてさえいたが、確かにアオバトだった。アオバトの顔だった。
 「許さない? ふうん。こいつはもう俺の娘ではなく、お前の娘なんだな」
 「そうとも。俺の娘だとも。俺が十年手塩にかけた娘だ。親のお前が傷つけた魂を、綺麗な模様にするべく磨きに磨いた手中の玉だ」
 「だったらおいたしないように首に鎖でもつけていればよかったのに。俺の目障りになった時点で、もうこいつはゴミだ」
 「さっきから聞いていれば随分と偉くなったもんだ。お前に許されなければ、生きる権利もないというんだな」
 大人になったアオバトは、一層醜く唇を歪め、大仰な身振りで両手を広げた。
 「俺が偉いんじゃない、カナリヤが尊いんだ」
 「ヒタキの命よりも、アトリの命よりも、その娘の方が尊いというのか? お前の妻であり娘だろう! 」
 「俺は全世界を犠牲にささげたって、カナリヤを選ぶ。世界が滅んでも、俺とカナリヤ二人だけ残ればいい」
 「馬鹿な! 」
 「ふん、お前の方こそどうなんだ? 君子面して俺に説教垂れるお前の方は。仕方なくミサゴと付き合ってはいても、本当はヒタキとどうにかなりたかったんだろう? その娘であるアトリを手に入れたかったんだろう? 違うか! 」
 ギイイイイン、金属音が鳴り響いた。激高したハジロがアオバトの喉元を狙い、アオバトが寸でのところでそれを受けたのだ。アトリがしゃがみこんで泣きじゃくった。「嫌だよー嫌だよー」と繰り返している。絶句するあたしをよそに、大人になったアオバトとハジロは、真剣に命を奪い合い始めた。
 アオバトが殺傷力の高い鋭角の曲撃を操り、ちらちらと誘うようにぶれながらハジロの右首を狙う。ハジロは全く惑わされることもなく、繰り出した槍撃でそれをはじきながら、アオバトの胸を狙う。アオバトは後ろに身を逸らし、倒れながら身をかわした、と思うや否や、彼の背後からまた新しい曲撃が放たれ、死角を狙うかのようにハジロの背後に回って後頭部を狙う。ハジロは紙一重で頭をひっこめ、そのままの低い姿勢で鋭い槍撃をアオバトの正面に突き刺そうとする。
 あたしは泣きじゃくるアトリを抱きしめ、からからになった喉で叫び続けた。
 「ねえ、やめて、やめてよ! アトリが泣いているんだよ! 」
 アトリのぬくもりは涙と汗と血とで湿っていた。その匂いに、音楽の重みで傾いていたあたしの心は再び揺らぎ始める。アトリ、全世界を敵に回しても怖くはないあたしの娘。でもどうしよう? お前があたしの音楽に勝つには一体どうしたらいいのだろう? 
 「ヒタキ」
 何時の間にか、少年アオバトがあたしの横に移動してきていた。
 「お前は動ける状態か? 」
 アオバトは茶色い目で真っ直ぐとあたしを見た。それは水晶のように硬く透明な眼差しだった。
 「俺は未来の俺を止めたい。生きているだけで不幸をまき散らすような存在になるのはご免だ。仮に今俺があいつを消しても、俺が正しく生きれば、あいつの在り方を変えられる。手伝ってくれ、ヒタキ、そうして俺たち結婚してアトリを産んで、カナリヤを守りながらずっと楽しく暮らして行こう」
 あたしはなす術なくアオバトの言葉にうなずいた。反対側に口を開いている奈落を見て見ないふりをした。
 「どうすればいいの? 」
 「お前に音武道の腕前は期待しない。さっきファズを葬り去っただろう? あの時のように、カナリヤの曲全体の新陳代謝を高めてくれ。俺はハジロに加勢する」
 「分かった」
 あたしはうなずいて、激しく争う未来のアオバトとハジロをにらみつけた。さっきファズを消した時に勝手は心得ていた。先ほど同様メロディーとハーモニー、重低音の伴奏を頭の中で巡らせる。
 Aー、カナリヤが一層声を張り上げて歌う。再び、あたしの生命と、この曲を流れる音楽がシンクロし始める。先ほどと同様の全能感があたしの体を満たす。
 Aー、カナリヤの歌は繰り返しあたしの書いた終曲へのアプローチを歌う。全能感と同時に、あたしの胸にはこの曲への執着が一層湧き上がって来る。
 この先はどうしても歌えないだろうか? こんな尻切れトンボの終わり方でカナリヤが泣いているではないか? 
 そもそも、あたしの共犯者はアオバトでもアトリでもなく、カナリヤであるはずではないか? カナリヤ、あたしの歌手だけがあたしの真の姿を理解できるのだ。
 Aー、あたしを全く理解することなく、少年アオバトは自分のキーボードからまだ拙い曲撃を出して未来の自分を狙った。それは未来のアオバトの頭をかすって、気障な白い日除け帽を吹き飛ばした。ぼさぼさと伸ばした、赤く癖のある髪の毛があらわになる。
 未来のアオバトは丸い茶色の目を見張り、信じられないと言った眼差しで過去の自分を見た。Aー、カナリヤが自分を愛しすぎた男の運命を、気にする素振りも見せずに歌う。
 Aー、親密なシンパシー、カナリヤが鮮やかに声を張り上げる。あたしの中で新しいメロディーが堰を切って流れ出しそうになる。少年アオバトは溢れ来る土砂のような哀願を込めて叫んだ。
 「もうやめてくれ、沢山だ、もう未来の自分の醜い姿を見せつけるのはやめにしてくれ! 」
 未来のアオバトは歯ぎしりし、怒りのままに槍撃と曲撃を繰り出した。しかしその勢いは目に見えて薄まっていた。
 あたしはこの曲を流れる音楽の力から、未来のアオバトを排除するように念じた。
 やがてハジロと少年アオバトに追い詰められた彼は、額に脂汗をかいて片膝をついた。
 ハジロの繰り出す曲撃が彼の肩を襲う。少年アオバトの放った槍撃が、右手首を貫通した。鍵盤を抑える手が封じられて、未来のアオバトの攻撃は完全に止まった。さらにハジロが彼の左足首を砕き、未来のアオバトはその場にうずくまったまま動けなくなった。
 あたしはそのぎらぎらした男の顔を、冷たく無感動に眺めていた。所詮彼は部外者だったのだ。あたしとカナリヤの絆の前には全く無力な存在だった。音科学者には創る小鳥と歌う小鳥との、密やかな共犯関係は理解できまい。
 Aー、闘いが終わってもカナリヤは歌い続ける。その先を、その先を! 言葉のないフレーズで訴えかける。
 少年アオバトが未来のアオバトにとどめを刺そうと、赤く輝く槍をキーボードから出しかけた。しかしハジロが止めた。
 「いや、待て。そこまでしなくていい。こいつの暴走を止めて、その身柄を確保するだけで。第一ここでこいつを殺したら、アトリは二親とも目の前で殺害されることになる。それはあまりにも酷い」
 少年アオバトは渋々と鍵盤から手を離した。ハジロがキーボードから銀色に輝く音のロープを出した。それは蛇のように自らくねり、未来のアオバトの体を縛めた。彼の運命には無関心に、カナリヤは歌い続けている。
 Aー
 「こいつの身柄はとりあえず俺があずかる。お前が正しく生き直したことになれば、こいつの姿だって正しく変わるさ」
 「それで済むと思っているのか? こんなので俺が止められるとでも」
 未来のアオバトがギシギシと歯を食いしばり、うずくまった姿勢のままハジロをぎらぎらとにらみつけた。その眼球の飛び出した形相はまるで、人間の一番醜い感情を体現したかのように、怒りと恨みと焦りとに歪んでいた。
 ああ、大団円が近づいている。あたしが選択を下さなくてはならないときが。皆美しく心温まる結末を望んでいる。あたしは皆が望むことを選べないかもしれない。
 「お前は思い違いをしている。アトリはただ単純にカナリヤを消したかった訳じゃない。母親が父親に殺される運命を変えたかっただけだ。お前がヒタキを殺さない道筋が決まれば、アトリの願いだって叶えられるさ」
 ハジロが彼らしく落ち着きを取り戻した口調で言った。あたしは目を閉じて呼吸を整えた。再び開いたとき、少年アオバトは、その言葉を受けてあたしに真っ直ぐな視線を向けていた。無表情で、その分硬い決意を感じさせる眼差しだった。
 「それにはヒタキの選択のいかんにかかっている。お前はもう気付いているだろう? この曲は、カナリヤの曲は、『交響曲』の終曲部分を独立した小品に仕立て直したものなんだ。お前の父親は本当に継国の作曲家だった。だから、終曲に至る部分を構想せざるを得なかったんだ。そしてそのバトンは今、お前の手の中にある……」
 「人間的な選択をするんなら、あたしは曲を書き遂げるわけにはいかない……」
 あたしは強いアオバトの眼差しを、真っ向から受けることが出来ずに、弱弱しく目を伏せて言った。下そうとしている決意に抵抗するように、喉が震えていた。
 あたしの中途半端な言葉を好意的に受け取って、アオバトの口の端に微笑みが浮かんだ。それだというのにあたしの口の中には、一つの否定語が顔を出しかけていた。「でも……」
 どんな了見から言っても、あたしは人間的な選択をするしかない。曲を遂げたいというのは究極の我儘なのだ。それは惑星一つ分の重さと比較にならないほど軽いはずなのだ。
 商店街を行き交う人々の喧騒を思う。学校に集う子供たちの笑顔を思う。図書館で思い思いに過ごす市民たちの静寂を思う。あたしの選択如何で全ては失われてしまう。古から連綿と受け継がれてきた遺伝子もまた、音宇宙の波のはざまに消えてゆくだろう。そんなに重い選択を、ただの我儘から決めていいものか! 
 だが……、あたしの中で鳴っているこの音楽は、どこへ解き放ったらいいのだろう? 音楽は小鳥だ。宙に放たれて真の姿となる。
 アオバトには理解できない。あたしの闇を、欲望を、業を。アトリにもハジロにも理解できない。あたしは魔物なのか? 
 「騙されてはいけない! 」
 縛められた未来のアオバトが叫んだ。
 「こいつの約束を信じてはいけない。こいつはきっと約束を破る。自分の欲に負けて必ずや曲を書き遂げようとするだろう。俺は何度裏切られてきたのか。だから真相を教えるのはよせと言ったんだ! 何もわかっていないうちに、子供だけ産ませて消してしまえと言ったんだ」
 「そんなことはできない! 俺も人間だ」
 アオバトが叫んだ。
 人間、にんげん、情が有るのが人間ならば、欲望に突き動かされるのも人間だろうか? あたしの気持ちはアオバトと違って醜い。何の得にもならなくとも、世界の全てを滅ぼしても、叶えたい望みがあるだなんて……。
 「ヒタキは友達だ、ずっと同じ時を過ごしてきた。そんな友達を、技術を得るだけの子供を産む道具になんてしたくない! 」
 アオバトが悲痛な声を出した。
 友達、ともだち、あくまでも友達。でも、アオバトはあたしを憎んではいない……。だが愛してもいないのだ。
 心の芯が折れてしまったような心地がした。はっきりと言葉として聞いたのはこれが初めてだった。アオバトはやはりあたしを愛してはいない。
 彼はすがるような懇願するような目であたしに手を差し出した。目には涙が湧き喉は震えたが、諦めから生まれる笑顔が唇に浮かんだ。あたしはゆっくりと手を出してアオバトの手に重ねた。
 Aー、全てに抗うようにカナリヤが声を張り上げた。無言であたしに促している……。
 ズギューン、唐突に甲高い金属音が響いた。それはあたしとアオバトのつながれた手をかすめるように、赤い花の植え込みの中に落ちて花弁を散らした。

十六

 「いいお話だねえ。少年と少女は美しく手をとり合って、共に生きることを誓いました、とね」
 あたしたちの背後、庭園へと降りる崩れかけたテラスの影から、背の高く痩せた男が姿を現した。臙脂のTシャツに黒いレザーパンツを着て、髪を人工的に赤く染めている。その歩みは飄々としていて気どりがないくせに、大昔のチンピラ映画のように気障で癖があった。右手にはまるで収音マイクでも握っているかのようなラフさで、銀色の短銃を構えていた。
 「お前は、ヒレンジャク! 」
 未来のアオバトが叫んだ。あたしははっとしてこちらへと歩いて来る男を見つめた。ヒレンジャク、確かにヒレンジャクだ。あの独特にかすれた声と狐のように鋭い眼付は。
 「随分と苦労させられたよ。特にあんたは用心深かったから。家を空けた日に忍び込めたのは僥倖だった。あのおバカな家事ロボットに感謝だな」
 そう言うとまるでピーナッツでも放り投げるかのように無造作な仕草で、ヒレンジャクはハジロを撃った。皆何が起きているのか理解が追い付かないでいるうちに、ハジロが腹を押さえてうずくまる。その周りに、見る見るうちに血だまりが広がっていく。Aー、カナリヤはまだ歌い続けている……。
 「おじさん! 」
 アトリが悲鳴を上げて飛びついた。ハジロが苦し気に顔を歪めて言った。
 「おバカな家事ロボットだと? お前、エナガをどうした? 」
 「ちょっと猫ちゃんを盾にロールテープを一個分けてもらいました。可笑しかったですよ。どうせ自分が分解された後に猫ちゃんもばらすのも知らないで、どうかサバカンだけは許してやって欲しいって懇願したんです。あんたたちの使っている端末へも、そいつのメモリからから侵入できた。小娘に巻かれた時はどうなるかと思ったが、それから後が不用心すぎて幸いだった。全く警戒もされなかったからな」
 そう言って、ヒレンジャクは鈴の付いた首輪と、ロボットの目の周りの部品と思しきものをアトリの目の前に投げつけた。アトリの両眼からは再び涙があふれだす。
 「エナガ! サバカン! 」
 倒れ伏したハジロの顔はどんどんと土気色になってゆく。
 あたしは図書館の前や、体育館へ向かう時に感じた視線を、鮮やかに思い返していた。自分のうかつさにつくづく地団太を踏みたくなる。あれは、あたしを付け回していた未来のアオバトのものではなかった。アトリを見張っていた、ヒレンジャクの気配だったのだ。そうだ、アトリに「お父さん」と言われた時、未来のアオバトは明らかに驚いていた。あの時まで、彼はアトリがこの時間軸にいることを知らなかった。
 「ねえアオバト」
 ヒレンジャクがうっとりとしたように呼びかけた。
 「あんたには随分と苦労させられてきた。志を同じくした仲間もずいぶんと消された。中学生だったころから、俺はあんたが大嫌いだった。嫌いだなんて、主観的な言葉を使うのは主義に反しているが、嫌いなものは仕方ない。なあ、あんたとは、中学の頃言い合いになってから、一度も意見を戦わせたこともなかった。今でも技術こそが人を幸せにすると、ゴミみたいな学問を信じてているか? 」
 ヒレンジャクの言葉は、銀色の音のロープで縛められている、未来のアオバトに向けて話されたものだ。未来のアオバトは、怒りと焦りと苛立ちによって紫色になった顔を歪めて、こう返した。
 「信じている。人は弱い。意志で世界を変えようなんて言うのは幻想だ。だが技術は、人々が労せず世界を変える手助けをする。俺はずっと求めてきた。穢れ仕事しか回ってこない時も待っていた。愚かな作曲家が曲を終わらせたいなんて言い出すなら、音科学がその愚挙を止めるべきだ。お前の方こそ、人間の理性による政治だけが、人々を幸せに導くと信じているか? 」
 ヒレンジャクは唇を歪めて言った。
 「もちろんだとも。哲学、理性、正義こそが至上。それによって正しく運用される政治だけが、人間を幸せにする。音楽が終われば世界が終わるなんてただの幻想だ。政治と音楽がいびつに結びついたことによる妄想だ。ヒタキさん、あんたには昔言ったよね? 芸術はそれ自体正義なんて持ち合わせていないくせに、容易く正義もどきを捏造して与えるって。そんなものが中心になった国家なんて、消えてなくなればいい」
 未来のアオバトは、紅潮を通り越して紫になった顔で必死に言葉を発する。
 「いいや、お前は間違っている。カナリヤの曲が終われば世界は終曲するし、今までの曲家全体を、俺が録音しなくても世界は終わる。俺もお前もお前の家族もすべて、この世から消えてなくなる。何故信じない! 何故信じたい者の言い分しか聞かない! お前は今、罪もない大多数の人々を滅ぼす瀬戸際にいるんだ! 」
 「ふうん、そうですか。そんな大局面で無様に縛められている、アオバトはほんとに滑稽だな。そうだな、そこで動けないでいるうちに、あんたの大切なものを一つ一つ奪い去っていくっていう趣向はどうだろうな。俺の仲間たちの復讐にさ。まずはあんたの娘から……」
 Aー、カナリヤの歌を切り裂くように、再び銃声が鳴り開き、アトリが左肩を押さえて崩れ落ちた。その顔は涙に腫れ、唇は蒼黒くなっている。まるで命乞いするようにヒレンジャクを見上げる。
 「ああ、急所を外してしまったか。まあいい、ついでだから、今から起きることを目撃してもらってから、退場してもらおう。お次はと……」
 ヒレンジャクが振り向くのと同時に、少年アオバトがカナリヤの居る鳥籠に飛びついた。
 「カナリヤ、逃げろ! 」
 そう言ってアオバトは、カナリヤの籠の扉をこじ開けた。ヒレンジャクは明るい笑い声を立てた。
 「そっちを優先するかい。でも違うよ、俺の次の標的はこっちだ。なあアオバト、十五歳のヒタキさんが死んでしまえば、そこにいる技術を完成させたっていうあんたの娘も生まれないだろうねえ」
 縛められている未来のアオバトの顔が一層紫になり、ほとんどどす黒くなっていった。
 「やめろ、やめろ、やめてくれ! 」
 ヒレンジャクはあたしの方を斜に眺めながら、無造作に短銃を構えた。
 「本当にねえ、音武道ってやつは同じ音武道を使うものが相手じゃないと通用しないね。俺みたいに銃を使った方が、本当に融通が利く。昔俺に無能が分かるから音武道を使わないって言ったのは誰だっけ? 」
 そう言いながら、ヒレンジャクは微笑んで引き金を引いた。頭の芯まで響くような銃声が響き渡った。
 思わず目を閉じて死を覚悟したあたしの体に、ふわりと柔らかいものが落ちてきた。はっとして目を開けば、黄金の巻き毛が目の前に流れていた。カナリヤが、身を投げ出してあたしを銃弾から守っていた。
 「カナリヤー! 」
 二人のアオバトが絶叫した。
 あたしは尻餅をつくようにして倒れ込み、体の上に覆いかぶさってきたカナリヤの体を受け止めた。脇腹に回したあたしの手には、生暖かくぬるぬるとしたものが触れた。夥しい血液だった。
 「カナリヤ、カナリヤ、カナリヤ……」
 あたしの乾いた唇は、その名を三度繰り返した。カナリヤは汗と涙に濡れた唇を震わせながら、弱弱しい声音でこう懇願した。
 「ヒタキ様、私の曲を創ってください……。命が尽きる前に、この喉が完全に冷えてしまうまでに……」
 「カナリヤ! 」
 少年アオバトがカナリヤの弛緩した体に抱き着いた。
 「カナリヤ、何故、何故だ! 」
 「だってヒタキ様が死んでしまわれれば、私永遠に続きを歌えませんもの……」
 死の匂いの兆した緑色の瞳に、どこまでも澄んだ光を浮かべ、カナリヤは優し気に微笑んだ。指でアオバトの顎に触れた。
 「カナリヤ、カナリヤ、カナリヤー! 」 
 未来のアオバトが縛められたまま絶叫した。ヒレンジャクが楽しげに大笑いした。
 「そうかー、あんたが一番大切にしていたのは、娘でも妻でもなく、この人だか鳥だか分からない娘だったか。そうか、納得。安心しなよ、この娘の命が尽きるまであんたたちは殺さないよ、アオバト。子供のあんたを殺せばあんたも消えちまうんだろ。そんなのつまらないからねえ。さて、お次はあんたの娘にとどめを刺そうか? いや待て、今度こそヒタキさんを殺してしまおう……」
 ヒレンジャクの哄笑にかぶさるようにして、白い鳥がけたたましい鳴き声を立てて飛び立った。ドオオオオオオオン、突如山が吠え、大地が鳴った。ズウウウウウウン、こだまするように、雷を何百本も束にして、叩きつけたみたいに地面が揺れた。ヒレンジャクがぽかんとして辺りを見回す。
 抱き合うようにしてうずくまっている、あたしとアオバトとカナリヤも、一層身を寄せ合うようにして視線を動かした。ハジロの亡骸に抱き着いていたアトリも、濡れた頬をあげて庭園の下に広がる街の様子を見下ろす。
 南側の果樹園の向こうで土煙が上がっている。空に赤いジグザグとした光が幾筋も走っている。その周りに、赤や黄色の点々が夥しく舞っている。どこかで見た。そうだ、あれはファズの色だ。
 「政府の侵略軍だ! 」
 最初に叫んだのはアトリだった。
 途方もなく大きな地鳴りの後に、遠く脅かすような吠え声が響いて来た。凄まじい数のノイズたちの軋り声、汽笛のようなファズたちの叫びが乱れ飛び、それに音戦士たちの乗った音甲車から流れ出る軍歌が加わる。それはあたしとお父さんの作り上げた美しい音楽を、土足で踏みにじってゆく。見る見るうちに侵攻は進展して行った。
 いまや夥しい数のノイズたちが、城壁の上を乗り越えようとひしめいている。遠目にそれは、どぎつい緑と紫の、ウゴウゴと蠢くアメーバの塊のように見えた。ギシギシ、ギシギシ、彼らの軋むような叫びが、この曲本来の調和美を蝕むように響いている。
 数多のファズたちが、もう街上空まで飛来し、赤く輝く光の矢を幾百本と降らせながら街並みを破壊している。空中庭園の上にあっても、火柱と土埃が立ち昇るのが見えた。
 住人達はようやく悲鳴を上げていた。姿は見えないが潮騒のように密やかな悲鳴がそこかしこから響いて来る。決して大っぴらではない叫びにあたしは胸が詰まった。こんな事態になってなお、彼らはこの国を流れる音楽に敬意を払っているのだ。
 迷彩柄に塗られた大型の音甲車が何十台も、街を蹂躙しながら押し寄せてくる。それを操る音戦士たちは、明らかに照準をこの丘の上の廃墟へと合わせていた。砲台が火を噴き、崩れかけた屋根の一部が吹き飛ぶ。菖蒲の植え込みがやられ、庭園の奥の方に火柱が立つ。アオバトが土埃から、せめてもとカナリヤを守るように覆いかぶさった。
 美しい音構成は破壊される。美を解さない無粋な音兵器は何もかも無感動に蹂躙してい行く。音戦士たちは何も感じなうのだろうか? 武力としての音楽しか信じない彼らにとって、本物の美は理解の外なんだろうか? 
 キャタピラの後ろには金褐色の家並みをつぶした瓦礫が残される。強い風が舞って、いつもよりも濃い砂塵がここまで届いて来た。
 あたしは呆然としてその様子を眺めていた。アオバトは瀕死のカナリヤに覆いかぶさったまま、横隔膜震わせていた。鮮血の流れ出る肩を抱いてうずくまるアトリの顔にも、絶望の色が色濃く浮かんでいる。
 ヒレンジャクでさえこれは想定外だったらしい。眉と額に緊張の色を浮かべ、野生の狐のように鋭い眼で押し寄せる侵略軍と、立ち昇る砂塵をにらんでいる。
 でもどうして、政府にここのことがばれたのか? 
 あっと叫んで、あたしは今も背中に背負っていたリュックサックを脱いで、そこに吊り下がった防犯ブザーを手に取った。
 「ヒタキ、それだ、それが発信機だ」
 アオバトが叫んだ。
 「そうか、お母さんがこれを持たせてくれたんだった……」
 恐らく、これは昨日の警官たちが、お母さんを言い含めて預けたものだったのだ。多分お母さんはこれを普通の防犯ブザーだと信じて持たせてくれた……。
 あたしは乱暴にブザーを外すと、力任せに投げ捨てた。それは舞い上がる砂塵の中、恐らくは地獄絵図が繰り広げられている街の上へと落ちていった。
 胸が空虚だった。心が痛いというよりも、痛いと思う活力もわいてこない。あたしとアオバトが今まで慈しみ大切に隠していたカナリヤの国は、今汚い軍隊の汚い足に踏みつけにされ、凌辱されようとしているのだ……。 
 「ひょっ、これはさっさと終わらせて退散しないと厄介だな」
 ヒレンジャクが尻をまくろうと言った調子で、あたしに銃口を向け直そうと振り向いた。あたしは反射的に身構える。だがその瞬間、あたしのすぐ左脇に砲弾が落ちて轟音ととも火柱が立った。一瞬動きを止めたヒレンジャクの隙を突くように、ハジロの絶命で縛めを解かれた未来のアオバトから、紅蓮の槍撃が伸びた。首元に隠していた戦闘用ホイッスルを鋭く吹き鳴らしたのだ。
 音素の槍はヒレンジャクの右手首を貫き、釣り針のようなかぎ爪で彼を自らの足元へと引きずり込んだ。胸ポケットから出したナイフを左手に持ってヒレンジャクの上に覆いかぶさる。ヒレンジャクもまた腰からナイフを出して、左手一本で応戦する。
 「お前だけは、お前だけは許さない! 」
 「お前こそ、永遠に消えてなくなれ! 」
 土埃の中二人の男は、二匹の狼が嚙みつき合うように、転げまわってお互いの体を突き刺し合った。砲弾があちこちに火柱を立て続ける中、二人の怒号とうめき声が響き渡り、短く生えそろった緑の若草は、どす黒い血で汚れた。
 そして、二人ほとんど同時に動かなくなった。
 アトリがスンスンとしゃくりあげながら這い寄ってきた。肩の傷は急所は外してはいるものの、出血が夥しい。
 あたしは呆然とカナリヤの体を抱きしめていた。その上からアオバトが覆いかぶさり、この世の終わりと泣き叫んでいた。彼には未来の自分とヒレンジャクの決着についても、もう何の感慨をもたらさなかった。ひたすら命を懸けた美しい少女の最後を拒んでいる。
 「カナリヤ、カナリヤ、何故だ! 」
 「ヒタキ様、時間がございません……。曲を、曲を遂げてください……」
 血の気の失せてきた唇を震わせて、カナリヤが懇願した。あたしたちのすぐ後ろで、砲弾が爆発した。
 「このままでは私のこの国は、最後までたどり着けないまま破壊し尽くされてしまいます……」
 「カナリヤ、駄目だ、歌うな、歌わないで、ずっと俺のそばにいて! 」
 あたしは決意を込めて一層強くアオバトの背中に手を回した。アトリの体もぐいと引き寄せる。
 「いいよ、カナリヤ、創るよ、歌って」
 アオバトが信じられないとでもいうような眼差しであたしを見た。あたしは瞳の底に強く力を込めて見つめ返した。
 「この曲は、あたしとアオバトとカナリヤの共犯関係の歌だった。三人の美しい楽園だった。最後までその美しい関係のままで終わらせたい。こんな汚い侵略軍に蹂躙されて終わるんなら、いっそあたしの手で、すべての幕をひきたい。ねえアオバト、世界が終わったら、ここよりほかに世界はあるかな? 急に思いついたんだ。もしかしてあたしたちは、全く別の人間になって再び出会えるんじゃないかって」
 「私もそんな気がいたします。ヒタキ様、その時も私はあなたの可愛い小鳥よ……」
 カナリヤの目から涙がこぼれ出る。
 「お母さん、世界を終わらせるの? 」
 砲弾が館の屋根を吹き飛ばし、石壁のかけらがばらばらと落ちてくる。アトリが頑是ない子供のような目であたしをお母さんと呼んだ。
 「アトリ、次はきっとあなたを産むよ。アトリが幸福でいられるように全てを整えて」
 「そんな保証はあるの? あたしせっかく世界を保全する技術を開発したのに」
 「きっとこれは運命だ。あたしに課せられた宿命なんだ。きっとこれから紡がれるもっと美しい音楽のために、この曲は遂げられなければならない」
 「ヒタキ……」
 「全ての小鳥は解き放たれなくてはならない。それは今、あたしの唇から……」
 あたしは震える胸を押さえるようにして、さっきから頭の中で鳴りやまない旋律を口ずさんだ。「短い夏のアリア」よ、あたしの罪の音楽よ。降り襲いくる砲弾の勢いはいや増し、もう館の表の方からキャタピラの大行進さえ聞こえてくるようだった。そんな中あたしの歌は、不思議なほどの静寂をまとって放たれた。
 口が開きかけたアトリのザックの中から、ほの青く光る楽譜の束が宙に浮かび上がる。それはまるで太陽を巡る惑星のように、あたしを中心として一枚一枚と巡った。
 あたしの歌が三回繰り返された後、カナリヤが唇を開いた。澄み切った声、甘く翻る赤い花びらの様な歌声が、空気を震わせるように広がっていった。やがて世界を流れる音楽も、カナリヤの歌に付き従うように流れだす。
 F♭の和音、さざ波のようなトリル、麦原の中帽子をさらっていくようなグリッサンド。妙なる歌声はその十六小節を見事に歌い切った。最後の高音を儚く歌い切った後、カナリヤは力尽きてがっくりと首を垂れた。まさしく絶唱だった。
 「カナリヤー! 」
 アオバトがカナリヤの体に縋り付いて泣き叫んだ。
 「何故だ、何故なぜ! どうしてこういうほかに俺たちの運命はなかったんだ! 」
 ウオー、と、アオバトは吠えた。その勢いのまま、彼はあの日のようにあたしに組み付いて首に手を掛けた。強い力が籠められる、とその時、音甲車から放たれた砲弾が、美しい廃墟のちょうどテラスのあたりに着弾して轟音が鳴り響いた。土煙が上がり、アトリが悲鳴を上げた。そして泣きじゃくりながらアオバトを止めようと、腕に縋り付いた。映画のスローモーションのようにゆっくりと、映像が目の中に巡った。
 「やめてー! お母さんを殺さないで! 」
 アトリが金切り声で叫んだ。
 その声がぶわりとぶれる。
 声だけではない、体の感覚が融解されていくようだった。見上げれば深く鮮やかな空も、砕いた硝子をレンズにして覗いたみたいに、分解されて幾重にも重なり反映しあって見えた。
 あたしの首に力を掛けながら、アオバトが戸惑ったように見まわす。首の痛みも、息苦しい感覚も、珈琲に落としたシロップが解けていくように薄れていく。
 アオバトの表情からも毒気が消え、まるで祈る人を描いた絵画のように恍惚としていった。アトリはまだすすり泣いていた。そのか細い声も、もうずっと遠い所から響いてくるようだ。
 自分の腕も脚ももうとっくに自分のものではないようだった。ただアオバトが触れている首だけが、あたしが人間だという最後の証明のように温かかった。明るさを失っていく視界の中で、空も館も大樹も街も、輪郭が曖昧になっていった。全てが薄まるように離れていくように、どんどん遠ざかっていく。
 Aー、耳の中にカナリヤの歌声が残っている。その頭の中心も溶解液に解けていくようにぼやけていく。首に感じているアオバトの人間的な手のぬくもりも、全て乳白色の薄闇に溶け込んで消えていった。
 ああ、小鳥は解き放たれたのだな……。

十七

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 目が覚めたらそこは新居だった。まだ見慣れない配置の、元の家から持ち込んだアイボリーの洋服ダンスや机が、真新しい壁紙の前に並んでいた。
 ハンガーには新しい学校の制服がかかっている。カレンダーは五月のページで、新緑の中遊びまわる小鳥たちのイラストを見せていた。
 ここはマトラシティーの西住宅街にある一戸建て住宅。お父さんの仕事の都合で、今日からあたしはこの街の学校に通うのだ。
 青いカーテンの隙間から朝陽が差し込んでいる。あたしは今見た夢の手触りを、全精力をかけてなぞる。
 けれどもそれはいつもと同様、透明な蜻蛉の翅のようにするりと逃げて行ってしまうのだ。ああでも、今すぐにでも思い出さなくてはいけない、そこに流れていた美しい歌を書き残さなくてはならない。
 でもどうして? 
 「おはよう」
 ダークネイビーの制服に着替えて降りていくと、床の木目も美しいダイニングキッチンで、白い割烹着を着たお母さんが、赤ミルク豆のポタージュを器によそっていた。もうテーブルの上にはサラサ菜とチッケのサラダとスクランブルエッグ、トーストが四人分、きちんと並んでいた。
 「おはよう」
 あたしもそう言って、新聞を読んでいるお父さんの隣に腰かける。グレーのスーツを着たお父さんも、新聞から四角い眼鏡の奥の目をあげて、あたしにおはようと言う。
 レースのカーテンの向こう側には、前の住人が残していった藤棚が遅い春を誇っていた。水彩絵の具のような艶やかな色彩が、朝の光を呼び込む白い布地にぼんやりとしみている。昨夜の雨のせいで、空気はまだ湿っていた。
 「ヨシキリ、いい加減もう起きなさい」
 お母さんが弟を呼んだ。ヨシキリは寝室からもにゃもにゃという声で答えて、まだパジャマのままで食卓に着いた。
 あたしたち一家は、教育関係の書籍を出版する会社に勤めているお父さんと、専業主婦のお母さん、中学二年生のあたしと小学六年生の弟の四人家族だ。
 前の学校の友達はあたしの家族構成について、「今どき専業主婦のお母さん! 」と非難半分、やっかみ半分だった。
 女は家事と子育てを使命とするので、家庭を守るべき主婦には、兼業する必要はないというのがお父さんの持論だった。お父さんには、自分の稼ぎだけで家族を養っていける自信があるのだ。あたしの家庭はこんなふうに、反動的とまで言えるように保守的だった。
 小さいころには何の違和感もなく聞いてきたその主張に、最近のあたしは抵抗を覚える。今、守り育ててもらっていることには感謝するしかないが、いずれは自分の足だけで立ってみたいと思う。養われているだけで自然と失われていく誇りについて、お父さんや社会と格闘してでも手に入れてみたいと願う。
 「今日から新しい学校ね」
 お母さんが案ずるように、あたしとヨシキリに言った。ヨシキリが寝ぼけ眼でポタージュをすすりながら、あくびだか返事だか分からない声を出した。
 「大丈夫だよ。心配しないで」
 あたしは長女らしくしっかりとした口調で答える。
 中途半端な季節での転校にももう慣れた。いつもそうだ、お父さんは仕事上の都合を優先する。でも今回だけは少しだけあたしに配慮してくれたらしい。今を逃すと、受験生になる来年度での転校しかなかったみたいなのだ。あたしは春学期の途中で、マトラ西中学校へと編入する。
 あたしは落ち着いてポタージュをかき回しトーストにかじりついたが、お母さんの切れ長で小さめの目には、案ずるような色が浮かんでいる。その優しく控えめな目の形に、ふと小さいころの空想が頭をよぎった。
 あたしはお父さんともお母さんともあまり顔が似ていない。ヨシキリの目は小さくて細くてお母さんによく似ているのと対照的に、あたしの目は鋭く眦がとがっている。お父さんは顎が角ばった角い顔をしているが、あたしの顔は短く顎がつんとしていて、個性的だねとよく言われる。そんな自分の顔は気に入っていないわけではないが、小さい頃は自分だけ仲間外れみたいな気がして寂しかった。
 もしかしたならどこかに、あたしの本当の両親と家族がいるのではないかという、他愛もない空想に耽ったのはその頃だ。そんなことは小さい子供にはありがちだということも、今のあたしには解っているけれども。

 五月のマトラシティーは新緑の季節だった。女性的な曲線を描いた高い電波塔や、浮き輪のような輪っかを幾つも胴体に巻き付けたビル群の足元に、まだ新芽もライムグリーンのイチョウの木が、整列したように植えられている。するするとほどけていく緑を見ていると、もうすぐ夏が来ることを実感する。
 夏、一番好きな季節。
 何故だか夏が来るたび、いつかどこかで硬く約束したことを思い出しそうになる。そんな約束はしたことがないのかもしれない。でも、約束したということだけを憶えているような気もする。もうすぐ思い出せそうなのにいつも思い出せない。遠い歌声の断片だけが切れ切れに浮かぶ。
 この国第四の都市であるマトラシティーは、前に住んでいたキリオシティーと比べてとても大きい。するすると音もなく滑る円形の飛行車と、バイオエンジンを備えた自転車が、自動制御信号の号令によってスムーズに行き期している。
 石畳の隙間には、昨夜降った雨がしみこみ、それを踏みながら歩く通勤通学の人群れもどこかしら、垢ぬけてお洒落に見える。
 あたしが今来ている制服も、襟やポケットの曲線、絶妙にフィットする肩口や、袖や裾にステッチされたラインなど、気の利いた映画のヒロインが着ていそうなほど洒脱だ。
 マトラ西中学校は、アシトル大神殿の鎮守杜の東側に建っていた。昼なお暗い杜と地続きになったような、広い校庭と校舎を誇る立派な学校だった。五百年ほど前に建てられた、歴史的建造物だという。当時流行していた重厚な石造りの、窓の小さな灰色の建物だ。
 一歩足を踏み入れれば静謐として、濃密な闇の中に祈るような光が降って来る。リノリウムではない石床が、真新しい上履きの足裏をハタハタと鳴らす。あたしは見上げ、落ちてくる光を見るともなく眺めた。
 あたしはまず職員室に通された。独特のぬくもりのある先生たちの部屋の中では、誰かが電気コンロを持ち込んで珈琲を沸かしていた。シュンシュンという音ととも、ケトルからお湯が沸いている。
 あたしの新しい担任は、優しそうな眼鏡の中年女性だった。
 「アイサ・トラトさん、緊張しなくてもいいわ。あなたならきっとすぐになじめそう」
 あたしは少し上の空だった。職員室と同じ棟にあるらしい音楽室から、合唱の声が届いていた。その響きが、忘れていたはずのものすべてとつながっているような気がした。
 あたしはきっと何かを忘れている。とても大事で愛おしくて、決して忘れていてはいけないはずの何かを。それを思い出さない限り、あたしの時間は冷凍されたみたいに止まり続ける。
 音楽を聴くたび、その感覚は決まって呼び覚まされる。ああ、早く、早く思い出さなければ……。

 自己紹介の行われたホームルーム、授業も無事終わり、この学校で初めての放課後が来た。
 あたしは一人校庭を歩いていた。サークルの見学に誘ってくれる子たちも多かったが、なんだかとても疲れてしまい、一人になりたい気分だった。やはり転校は何度経験してもとても緊張する。
 ここ数日で急激に熱量を増してゆく風の中を歩いていると、急に自分が異邦人のように思われてきてぼうっとなる。学校でも家庭でも、ふと自分が、何物にも属せない異分子のように感じられる時があるのだ。
 これはあたし? アイサとして十四年間生きてきたあたしは、本当に本当のあたしだろうか? 喉の奥に答えが出かかってるというのに、それはさっぱり意識の表の方へは浮かんでこない。もどかしい、じれったい、なんだかとても情けない……。
 Aー、何だろう? Aー、誰が歌っているの? 
 校庭と裏庭を分ける車用の通路の所で、あたしは儚げな歌声を耳にした。可憐な少女の声だった。あたしははっと目をあげる。
 Aー、声は断続的に聞こえた。極限まで清らかなのに、まるで異界から響いて来るかのように妖しい魅力を放っている。
 これだ! 
 あたしは確信する。
 この歌だ! あたしが探していたのはこの音楽だ! それは裏庭の方から風に乗って響いて来た。
 裏寂びた菜園の、ひっそりとしたビニールハウスや、キュウリやトマトのつっかえ棒の中に、そこだけぽっかりと陽の当たる、新緑の目に染みるようなイチョウの木が生えていた。
 その柔らかい下草の上に、制服を着た少年と少女が座っていた。二人の上にはまだら模様の木漏れ日が落ちかかり、風のそよぎにしたがってその模様もまた揺れていた。
 この歌は、その少女の方が歌っているのだった。
 少女は、こぼれるような金の髪を垂らし、エメラルドのように神秘的な緑の瞳を輝かせていた。赤い癖っ毛の少年がその隣に座って、賛嘆の眼差しで彼女の歌声に聞き惚れていた。その少年の丸くて茶色い、それでいて勝気そうな目にも、何か胸をかき乱すものがあった。
 Aー
 金色の巻き毛の少女が紅の唇からメロディーを紡ぎ出すたび、心がかき回されるような気持が強くなっていった。何だろう? この既視感は。ずっと昔、同じ場面、同じ人、同じ歌声に親しんだような気がする。
 あたしはゆっくりと近づいていった。心臓が早く乱れて打っている。どうしよう、どんな顔をして話しかけたらいいんだろう? あたしは内心の動揺を押しとどめるので必死だった。それでも辛うじて、あたしの唇の端には笑顔が浮かべられた。
 「ねえ、その歌はどこで習ったの? 」
 少女はあたしの目をとらえると、目に染みる新緑の気配そのもののような笑顔を浮かべて答えた。
 「夢の中で聴いたの。とてもきれいで残酷で、とっても懐かしい夢の中で。あたしはその夢の中で歌手だったのよ」
 「サヨは歌手になるのが夢なんだ」
 隣に座っていた赤毛の少年が口をはさんだ。
 「サヨ? あなたサヨっていうの? 」
 「ええ、サヨナキドリよ。この赤毛の子はツグミ。あたしたち、家が隣同士なの」
 「ねえ、その歌、あたしも聴いた。繰り返し見る夢の中で。あたしはそこで作曲家だったんだよ。細かい所はよく覚えていないけれども、とてもきれいで残酷な夢だった。今朝だって、何だかリアルな手触りだけ残してするりと消えてしまったけれども、確かにあたしも夢でこの歌を聴いた」
 そう大きな笑顔を作って言うあたしの目からは、大粒の涙がぼろぼろとこぼれた。見るまで頬や顎や首筋まで濡れる。サヨもツグミも、驚いた顔をしてあたしを見つめていた。
 何だろう? 胸が痛い。甘く苦しくもどかしい。全てが明確になりそうな期待だけを残して、やはりすべては霧の向こうだ。
 ああ、あたしは音楽を旨として生きていきたいんだった。唐突に思い出した。ただそれだけが分かった。スーツを着て働くオフィスも、割烹着を着て家事をするキッチンも、あたしの居場所ではないのだ。
 涙はなかなか止まってくれなかった。様々な想いが去来する心とは裏腹に、唇は何の言葉も発することが出来なかった。あたしはただ茫然と立ちすくんだまま涙をこぼし続けた。
 「ねえ、大丈夫? 」
 ツグミがそう言いながら水色のハンカチを差し出した。その丸い茶色の目に浮かぶ表情は、あたしが今まで誰の目にも見いだせなかった表情だった。
 そのときあたしの時計の針も、確かに一秒コチリと動いた。

                 了
 

 

短い夏のアリア

お読みいただいてありがとうございます。つたない物語でしたが、もっと上を目指し、より精進を重ねていきたいと思います。

短い夏のアリア

音時空に浮かぶ無数の音楽の国々の覇者「交響曲」の少女ヒタキは、世界の終わりがひたひたと近づいて来ることを恐れつつ、人々の喜びのためだけに音楽を創る、本来の純粋な作曲家になることを夢見ていたが……。芸術家の業を描く、耽美な味わいのファンタジー作品。

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更新日
登録日
2025-09-23

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