映画『ザ・ザ・コルダのフェニキア計画』レビュー

 あらすじは以下の通りです。
 タイトルにあるザ・ザ・コルダの計画は、砂漠の紛争地帯フェニキアの全域にダムや鉄道といった巨大インフラ群を建設すること。グレーに稼ぎまくった莫大な資金を建設費に投入して綺麗に洗い流し、かつ巨額の利益還元を約束させることで財産的な基盤を確かなものにするのが彼の目的。かかる計画を実現するために世界中の富豪たちと絶賛折衝中の彼は、けれど至る所で命を狙われる危ない身。すでに何回も死にかけているため、自らの死をもって計画が頓挫する可能性が大である。
 ならば、と手を打ったのが6年ぶりに会う一人娘、リーズルを相続人に指定し、自らのフェニキア計画を引き継いでもらうこと。しかしながら彼女は修道女として神に使える日々を送る身。後継者に適しているとは到底思えない。そんな彼女をなぜ後継者に?
 リーズルの方からも投げかけられるこの疑問に、彼は他の兄弟(合計九人。全員養子)は全く信用できないからと答えた。 ザ・ザ・コルダの疑い深さは、自ら指定しておきながらリーズルの事も相続人(試用期間中)と扱う所からも十分に窺える。それでも釈然としない何か。他に、心残りなものがあるのではないか?映画の冒頭からさっそく死にかけて、命からがら生存を果たすも頭に後遺症が残り、歩行に難儀しながらあちこちが包帯ぐるぐる巻きにされた痛ましい姿で自らの計画の要点をすらすら話す様子からは、決してそう思えないけど。
 リーズルはもともとザ・ザ・コルダを自分の母親を殺した犯人だと認識していて、呼び出されてすぐに聞かされた計画の概要に現れる彼の野心にも嫌悪感を抱いています。
 もっとも計画の内容自体はそれが万事成功すればフェニキア国内に住んでいる人々の生活に潤いをもたす可能性に満ちたもの。なら、父親のうす汚い理由はともかく、計画自体は善行に大いに利用できるのではないか…?
 そう考えたリーズルは彼の提案を受け入れ、ザ・ザ・コルダの世界行脚に同行することになりますが案の定、行く先々でとんでもないトラブルに遭遇。計画の同志となるべき富豪間で繰り広げられる権謀術数、毎度のことのように降りかかる暗殺未遂、その他諸々の命の危険に晒される度に天国への階段を上っては下り、上っては下りを繰り返す父親に負けずとリーズルも次第に世俗慣れして酒は飲むわ、煙草は吸うわ、父親から贈られる装飾品を身に付けるわで親子共々これまでとは異なる自分に変わっていく。その影響は、ビジネスとして成功させるべきフェニキア計画にも及んでいって…。
 主人公であるザ・ザ・コルダを演じたベニチオ・デル・トロの渋面に、オーディションを経て大抜擢されたミア・スレアプレトンの真顔が向かい合っては背き合い、離れ合っては隣り合うというシーソーゲーム。それに否応なく付き添うこととなった家庭教師兼秘書のビョルンの軽妙さが加わって描き出されるスリーピースなバランスは、映画の王道というべき恋や愛を俎上に載せ、トム・ハンクスにスカーレット・ヨハンソンといったとんでもなく豪華な面々が脇に回って繰り広げる荒唐無稽な冒険譚(?)の「幸せ」な居場所を探り当てて見せます。
 正直にいえばウェス・アンダーソン風、という言い方が流布するほどに特徴的な絵作りも流石にそろそろ飽きたかなぁ〜なんて舐めた心持ちで劇場に足を運びましたが、いやはやとんでもない。本作で見事な進化を遂げていましたよ、ウェス・アンダーソン監督。テンポのいいコマ割りがさらに美的に適うようになり、コミカルな映像の中にも人情味を染み込ませて、テーマに相応しい情報量を高い質感でお届けすることに大成功していました。
 演劇的に面白おかしく観れるところも相変わらずなのに各カットには絵本のような優しさ、愛おしさに満ちていて、帝王学とキリスト教という本質的な部分で相容れないはずのものが交差するポイントにただ一人、立ってみせたザ・ザ・コルダの、ヒューマニズムに語っても又はリアリスティックに語っても嘘になるばかりの難しいキャラクター性をスクリーンの中で実に生き生きと描いていました。
 それを目の当たりにして、観客席に身を沈めながら、フィクションの向こう側にある別次元のリアルな扉を幻視できてむちゃくちゃ面白かったです。今、ここから先に続くであろうウェス・アンダーソン監督の歴史の幕開けといっていい傑作だと私は評価します。興味がある方は是非。『ザ・ザ・コルダのフェニキア計画』、とんでもなく面白いですよ。

映画『ザ・ザ・コルダのフェニキア計画』レビュー

映画『ザ・ザ・コルダのフェニキア計画』レビュー

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-09-23

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