
恋した瞬間、世界が終わる 第93話「巻きつき、寄りかかり、蓋をするように」
誘惑がそこらかしこに転がっていた
踊ることを躊躇う理由がもうないように感じた
神秘性を孕んだその女性は、カーテシーというお辞儀の作法の姿勢を取った
ドレスの裾を少し持ち上げて、片足を後ろに引き、もう片方の足の膝を少し曲げて、仮面の目線を下に向けたままで私をダンスに誘っているようだ。
ダンスの誘いに躊躇う私のすぐ隣りで踊る男女は、踊りの中で膨張する煩悩の蜜のような気配に耐えきれなくなって、密着を選んでいた。
そして、その密着に没頭し始めている。
この遊戯に理性を失ってしまうのだろうか?
誘惑がそこらかしこに転がり、誘いが誘いを呼び、踊りに伴う行為への躊躇いは却って、ごく自然なものに変わってゆく。
私は、私の前でお辞儀をしたままの女性が気の毒に感じてきた
私は、女性の仮面の視界に入るよう、手を差し出してみることにしたーー
仮面の目線に、私の手が入り込んだ
ーー女性は添えるように私の手に触れると、官能的な香りを揺らしながら、開花するための条件が揃った茎(くき)のように立ち上がった
私の仮面上の視界には、百花繚乱の花のように咲き誇り、魅せた
大広間には、三拍子がそれぞれの花として艶やかな調子で競っていた。
私の呼吸はそれぞれに乱れ、その息遣いが女性にも蔦(つた)った。
枝分かれして、それぞれに調を飛んだ。
弧を描く蔓のようなダンスで、それぞれの官能を延ばして。
真っ直ぐに伸びるものはなかった。
巻きつくようにか、寄りかかるようにか、手が手に入り込むように
馴染むものがあった
その馴染みの先には、呼吸がありーー仮面の下の女性の息遣いが蔦ってくるーー巻きつくような動き、寄りかかるような仕草ーー髪の揺れとともに、香りの気性が立ち昇るーー私の仮面は、まだ仕切りとして機能しているのか……?
蔓が伸びっぱなしのまま、幹に巻きつき、寄りかかり、螺旋状に覆いながら、蓋をするように包んだ
曲が終わると、私を誘った女はどこか官能的なカーテシーでもって、大広間の中に消えていったーー
私は、この一度の誘惑に疲労した
それはタンゴだったのかもしれない
あれは、リリアナだったのか?
私は、踊りの中を掻き分けて進むことができず
官能は大広間の喧騒の中に消えた
彼女が去った後、大広間に流れた調べは、
テネシーワルツだった。
その歌詞の感情に締め付けられるーー
見覚えがあるような気がします
「あなたを何処かで見たことがあります」
トップノートのスパイシーな香りと、ほのかな甘さで荒野から手を差し出したその男に、わたしは手を取られたまま、舞踏に身を委ねながらも訊ねました
「私もきっとあなたを見たことがあるのでしょう」
男はわたしの耳元で囁き、軽い言葉で問いかけを流しました
「お嬢さん、この会場の男たちがあなたの美しさに惹かれている事に気づいていますか?」
このナンパ男は、渋い声で口説き始めたようです
「それで、あなたもその一人だってこと?」
「お嬢さんの頼りない心に火を点けて見ただけですよ」
ナンパ男のペースで踊らされていることに気づくも、わたしはその手を離すことの方が自分を窮地に追いやるように思い、この遊戯に付き合う事にしたのです
「お嬢さん、もうすぐ黄昏が始まります」
「黄昏?」
男は、ワルツのリズムの運動の部分から、揺りかごのように揺れる形式の部分を取り出し、わたしを揺らしたーー
有星(ゆうづつ)よ、御身は、四方へと
かがやく曙光が散らしたものを、
みな、下へ連れ還す。
羊を返し、山羊を返し、
母の胸には子を返す。
※水掛良彦氏の訳に漢字を当てています
ーーナンパ男は詩を朗読しました
「これは、誰の詩か分かりますか?」
「知らないわ」
「サッフォーという詩人の夕星という詩の断片です」
わたしはその名を耳にした瞬間、黒いドレスの中がサワサワと蠢(うごめ)くような気配に自分の理性が揺り動かされるのを感じました。まるで、見覚えのない電話番号からの着信に、出るべきではないはずなのに受話器に手を掛けている自分に気づいたかのように。
「そのサッフォーって、何者なの…?」
あらゆる星の中でも
もっとも美しい(のは夕星)
※水掛氏の訳に漢字を当てています
「これも、サッフォーの夕星の詩の断片です」
「わたし、そのサッフォーって人を知っている……
【ようやく、ワタシを思い出したのね】
わたしは、その瞬間に理性を失い。
何かが…白昼夢の中で瓦解していきました。
「お嬢さん、サッフォーという存在は、歴史からは抹消されているんですよ」
黒いドレスの中で、巻きつき、寄りかかり、締め付けるように
容れ物として【ワタシ】が奪う
恋した瞬間、世界が終わる 第93話「巻きつき、寄りかかり、蓋をするように」
次回は、10月中にアップロード予定です。