風に色をつけるなら

 秋都とかいて“ときつ”と読ませる。これまで正確に読めた人はいない。由来は何のことはない、秋に古都を旅行した際に授かったのだろうから、ということらしい。
それから漢和辞典をひいて“ときつ”にたどりついた。だったら“しゅうと”でいいではないか。名前は単純に読める方がいい。秋都はそのためか、生来か、生まれたときから反抗期のような、大変「育てにくい」気難しい赤ちゃんだったという。
「読めない字をつけやがって。お前らの教養ここで使い果たしたか?自己満足もたいがいにしろ」
とでも言いたげな仏頂面の赤ちゃんの写真が何枚もアルバムに収められている。
 秋都は成長しても「お名前はなんとお呼びすればいいですか?」という配慮のある質問に心底うんざりすることになる。
 しゅうと、かわいい響きで賢そう。シンプルで明快。もうこれでいい。しゅうとさんと呼ばれてもいちいち訂正しなくなった。“ときつ”なんて苗字か名前が分からないような者は存在しない。
 “ときつ”と名付けた父親は作家である。若い父は文学少年らしく繊細そうで、美少年で文才にも恵まれた「早熟の天才作家」ともてはやされた。何かの文学賞を最年少で受賞した時の雑誌の切り抜きが額にはいって今は亡き祖父母によって飾られたままになっている。
(どこがだよ)
 秋都は父親が大嫌いだった。ただの好色でませた子どもだろう。ぜんぜん美少年でもない。髪型と雰囲気だけで美少年ぶっているだけだ。
 まわりの奴らの目はほんと空洞だ。何も見ていない。個性的で唯一無二の名前をつけようとするのは、子どもへの愛情ではなく、自己愛だと秋都は思う。
 父のエッセイにはよく“ときつ”が登場する。幼い“ときくん”のシニカルかつユニークな日常を父流に描いた風変わりな育児日記である。“ときくん”が、世の中への風刺を語る場面もある。秋都は自分が大人になったらこの本を発禁処分にして焚書してやろうと思っている。
 作家の子と言うと、いかにも箸の使い方より早く描くことを覚え、本が好きというようにみられるものうんざりだった。絵本をプレゼントされることも多かった。
(文才が遺伝するかよ)
 著名な作家はその人だから偉大なのであって、その人だから書けるんだ。子孫たちも優れた作家になることもあるが、それは環境であって文才の遺伝ではない。そして本人の血を吐くような努力のたまものだ。秋都はそう思っている。本当は書くことも本も好きだが、そうでしょう?と決めつけられることは心底嫌だった。あいつの文才を受け継ぐくらいならそんなの使用後のちり紙以下の価値しかない。あいつの一人よがりの文才なんていらない。
 世間のみなさんはどうしてあんなやつの書いたものをもてはやすのか。秋都は父の作品をちゃんと読んだことがないがだいたいの内容は人から聞いて知っている。父は小説については器用で、だいたいの分野を書くことができる。児童文学もいくつか書いている。
 父親が書いたものは嫌いの感情が加わり、とんでもない駄作に思える。自分だけはこの人の価値が分かる、の反対である。みんながおかしいんだ。
 父親がはじめて手がけた児童文学が読書感想文の課題図書となった時はなんの嫌がらせかと思った。
 再三の提出指導に、題名なし、名前のみ、たった一枚の原稿用紙の中央に一行
『駄作中の駄作。即ごみ箱行きと思います』
と書いて提出して、先生たちを大いに怒らせた。しかしそれを聞いた父親は笑いながら一蹴し、先生たちをまた、大いに困惑させた。
「読書感想文なんて宿題、まだあるんですか?それより自らお話を書かせましょうよ。」
 そして、秋都にはこう言った。
「お前も下らないことで怒られていい迷惑だったな。でもいい感想文だったぞ。」
 こんな父親でも何かあれば保護者として引っ張り出されることで自分の立場を突きつけられる。そしてこれが母親でなくてよかったと心から思う。
 秋都の父親はまともに物事に向き合うことをしない。いつもへらへらしていて何もかも軽く味付けしてしまう。それでいて評価されるのは、秋都には心底解せない。
 20歳で父親になりまだ30代の父親は時々少年のようにも見えるというのは言い過ぎだが、感性と外見は同年代より若々しい。若者世代のファンも多い。
 父はその見た目と文才でそこそこ人気作家であるらしいし、母親はさらに高給取りで、経済的には恵まれている。
 恵まれている。何に?自分の部屋、最新のおもちゃ、着ることなくサイズアウトするたくさんの服や靴、常にストックされたおやつ、大きなテレビ・・
 その大きなテレビで内戦にさらされる子どもたちや飢餓干ばつで栄養失調の子ども、路上で眠り大人の抗争に巻き込まれる子ども、戦争の道具にされる子ども、今自分が生きる国でもこの瞬間に命の危険を感じている子どもたちがいることを知る。家にはそういう子どもたちを画面の中でみても感想を共有する相手はいない。
 僕はとんでもなく甘やかされて贅沢。不満なんてあるはずない幸福な子どもなんだ。思っていることをいうことなんてできない。僕は不平不満しか言えない罰当たりな子どもだ。
 執筆のため部屋にこもった父親と残業の多い母親、そんな母親が作り置きした夕食を父の分もあたためて、一人で食べる。僕は彼らと何が同じで何が違うのだろう。
 秋都はとにかくひねくれてとがった子どもだったが、彼にも素直になれる友達がいた。
「ときっつあん」
 彼だけは“ときっつあん”と呼ぶ。時代劇好きな曾祖父の影響を多分に受けている。小学校入学の時からの友だち宇野樹凪(いつな)である。
 隣の席に座った彼を見たときの衝撃を覚えている。小さな王子様。大きな目は全てを見透かすような目力があった。
「俺の名前もちゃんと読める人はいないよ。俺たち似てるな。俺のことは“いっちゃん”って呼んでいいよ」
 樹凪は「秋」の読み方を一つ覚えた、とにっこりした。樹凪は子どもらしいときもあれば、一歩離れたところで子ども同士の戯れを眺めていることがあった。時々伝法な口調だが、おおむね行儀も良く本当に王子様のようだった。それでいて男気もあり、とても足が速かった。足の遅い子をリレーのどのチームに入れるかでクラスの意見が分かれ、その子は泣きそうだった。
「お前のせいで負けた」と言われることを恐れ、仲間に入れてもらえないことにも傷ついいていた。すると樹凪はその子と肩を組んで言ってのけた。
「じゃ、うちのチームに入れる。あとで文句言うなよ」
 そしてその子には肩を組んだまま言った。
「お前が追い抜かれたって、俺がいくらでも巻き返してやる。今日から特訓だ。ライオンに追われていると思って、死ぬ気で走れ。ぜったい逃げんなよ」
 近くで聞いていた秋都は“かっこよさにしびれる”ってこういうことか、と初めて思った。その子は今度はうれしくて泣き出した。おそらくその子は一生、樹凪の信望者になるだろう。
 “好き”というより“惚れる”という方が正しい。結局、樹凪のがんばりむなしく本番では一等にはなれなかったのだが、樹凪に“惚れる”同級生が急増した。
 樹凪には父親のことや自分の名前に対する思いを打ち明けていた。樹凪は静かに聞いてくれた。父親を批判することも秋都を甘えているとも言わなかった。
「みんないろいろあるんだよ。俺もときっつあんも。幸せなんて他人が決めることじゃない。大人がいろいろ言ったって俺らの人生俺らのもんだから」
 完全に素直にはなれない。照れくさくて言えないが、樹凪は本当に王子だった。小学校低学年でこんなにかっこよくて男前でこの先どうなっちゃうんだろうと変な心配をしてしまう。
 そしてもう一人、秋都が素直になりたい人がいた。授業参観に樹凪の家族はその時点で一度も来たことがなかった。休み時間、気怠そうにしていた樹凪の目がその人をとらえたとき大きな目がさらに大きくなって目の中の星が瞬いた。花の精が入ってきたかと思った。
 あの樹凪がその人に抱きついて赤ちゃんのようになって甘えている。樹凪の14才年上の姉、名前は“りんどう”。
 漫画で、心臓に恋の矢が刺さる表現があるが、まさにその瞬間だったと今でも思う。秋都の少ない語彙では到底表現できないとてつもなくきれいな女の人だった。樹凪より14才年上だから、二十代前半だったが、小柄で化粧もほとんどしていないからか大人と子どもの狭間の空間にいるような不思議な存在だった。保護者の中にいると幼く見えたし、樹凪といるときはお母さんのように見えた。
「いっちゃん、今まで来られなくてごめんね」
「やった!りんちゃんが来てくれた!俺、今日がんばるから」
 樹凪は入学式に母親が来た。運動会にも曾祖父母、母、そしてお姉さんがきていたはずだが、その時はそこまで目立っていなかった。
 お姉さんは“りんちゃん”とよばれていた。清潔そうな白いシャツと光沢のあるパンツスタイル、それが定番だった。爪は短くて手はカサカサしていた。手以外の肌はたっぷり水分を含んだ植物のようで水もしたたる、というのはこういう人のことをいうのだろうか。水面に陽光が反射するように体の内側から光っていた。りんちゃんの美しさを表現する文章力がほしいと初めて思った。
 姉だと言っているのに、とても若いお母さんとして見られているようで、いろいろな憶測がそのあともクラスで流布された。それは耳をふさぎたくたるような内容で、よくそんなことを家庭内で子どもの前で話題にできるなというものであった。
 樹凪は何を聞かれても何も答えなかった。樹凪の人気をねたんでいる同級生に挑発されても聞こえないふりをしていた。それを見ていることしかできない秋都は、自分が情けなかった。樹凪が「絶対言い返すな、やり返すな」と言ったからだ。
「俺が言われているだけならいい。それがりんちゃんの耳に入るのはいやだ。俺はやり返したら止まらなくなる。ぜったい相手をたたきのめす。そしたら騒ぎになって学校から家に連絡が行く。りんちゃんはもっと悪く言われる。」
 樹凪は黙って耐えた。時々歯ぎしりする音が聞こえていた。一度、樹凪が本気になったことがあった。ぶちりと堪忍袋の緒がきれる音が本当にした。誰に教わったのか女性への最大限の侮蔑用語を口にした相手と鼻が触れ合うほど近くに顔を近づけてにらみ合った。それでも樹凪は手を出さなかった。
「それ、どういう意味か分かって言ってる?」
「し、知らない。パパが言ってただけだもん」
 樹凪がふうと息を吐いた。息を吐き出すことでかろうじて自分をおさえている。
 この子のパパは女の人をそういうふうにしか見ていない男だと言うことは分かった。秋都は心の底からそのパパを軽蔑した。
「だったらパパに意味を聞いてこい。そして俺にもう一回言ってみろ。そしたら俺、何するかわかんねえぞ」
 ごつっとお互いの額から音がした。樹凪は教室から走って出て行った。空き教室で樹凪が泣いているのを初めて見た。悔し泣き、大事な人を侮辱された怒り。机を殴っていた。樹凪の手が折れてしまうのではないかと秋都は樹凪の腕に飛びついた。
「くやしいな。いっちゃん。ごめんな、僕、何もしてやれなくて。」
「あいつ、許さない。あんな言葉をあいつに吹き込んだ奴も許さない。もしその言葉をりんちゃんに言ったら地獄に落としてやる」
「分かるよ。俺も一緒にやってやる。あいつらの秘密を暴いて死んだ方がましだっていうくらい恥をかかせてやる。知っているか、あいつはな・・」
と、その子の秘密をひそひそと耳打ちすると、樹凪は泣きながら爆笑した。
 樹凪の眼力に慄いたその子は二度とその言葉を口にしなかったし、クラスで一時孤立した。子どもたちもおふざけと言ってはならないことへの区別はついていた。樹凪のこれまでの振る舞いをみな忘れてはいなかった。
 りんちゃんは、料理が上手だった。遠足のお弁当の豪華さと色鮮やかさは垂涎ものだった。みんなが取り囲んでみている。樹凪は慣れているのかどんどん平らげていく。
 樹凪は着ているものは清潔だが、同じような服ばかり着ていて、靴も知っている限り二足くらいを履きまわしている。ランドセルもおさがりだと言っていた。最新のゲーム機も持っていないからそういう話題にもついていかない。しかし、こんなおいしそうなお弁当を作ってくれて、思いきり甘えさせてくれる人がいることがうらやましかった。
 母と姉、曾祖父母、という家族構成。高価なものは何も持っていない。髪だって家で切ってもらっているから時々ガタガタになっているときがある。しかし、そのきっちりそろっていない感じが樹凪の王子様ぶりをなんら損なうものではなくむしろ洒落て見える。惜しみない愛情を受けていることは間違いなかった。
 秋都は、過敏なところがあり、ベタベタとされることが苦手で気難しい子だったから、親も心得ていて適度に放っておかれた。眠いときなど抱っこしてもらいたがることもあったようだが、最後にあんなふうに親に抱きついたのはいつだっただろう。
 いまさら親に抱きつきたいとは思わないが、りんちゃんがいる樹凪がうらやましくてならなかった。作家の父と本に関わる会社に勤める母。父はたいてい家にいるか、旅に出ているかで、母は家事育児仕事を一手に担っている。時々母方の祖母が手伝いにくるが、父との仲は良くない。
 乾いた親子関係だが、それもお互いが望んだことなので、さびしいと思ったことはない。思い出したように学校のことや、友達のことを聞いてくる母親がわずらわしくてならない。はっきりと答えず想定していた回答を返す。
 できることなら樹凪になりたい。あの貴公子然とした容姿に憧れもあるし、何よりあのきれいなりんちゃんと常に一緒にいられる。
 ある日、どういった話の流れかついうっかり本音を樹凪にもらしてしまった。
「いっちゃんがうらやましい。あんなきれいなお姉さんや、やさしいおじいちゃんたち」
「ときっつあんだってお父さんもお母さんもいるじゃないか。何でも買ってもらえるし。二人ともそんな怖くなさそうだし怒ったりしなさそうだけど」
「でも、りんちゃんがいる。僕はほんとそれがうらやましい。ずっと一緒にいられるから」
「うーん。きっとずっとじゃない。俺、最近知ったんだけどさ、俺とりんちゃんは結婚できない。きょうだいは結婚できないんだ。りんちゃんを守るのは俺だって思っていたのに」
 樹凪はさびしそうだった。
「結婚!?・・しなくたって守れるだろう?」
「もしもりんちゃんが誰かと結婚することになったらそいつがりんちゃんを守ることになる。そしたら俺はもうそれができない」
「りんちゃんは誰か好きな人がいるのか?」
「そんなの知らないよ。知りたくもない。りんちゃんが俺のことばっかり優先して自分のこと後回しにしてるのもいやだし、誰か知らないやつにかっさらわれるのもいやだ。俺が早く大人になってりんちゃんに何不自由ない生活をさせてあげられる方法がないかなあ」
 樹凪は王子様のようだが、内面は全然違う。王子様は臣下に守ってもらうものだが樹凪は騎士の精神を持っている。りんちゃんという貴婦人を守る、という気概がある。
 りんちゃんは、ふわふわしていて小柄で女の子らしいのだが、それでいてその小さな手で重いフライパンを操り、何品も料理を作ってくれる。そしてとてもしっかりしていて芯が強い。
 授業参観で他のお母さんたちからチラチラ見られてひそひそ言われても、樹凪だけを見ていて表情を変えない。誰と話さなくてもまったく平気なようだった。
 もしかしたらあの頃、樹凪が言われていた噂をりんちゃんも知っていたかもしれない。でも、遊びに行くとりんちゃんはいつも優しく微笑んで迎えてくれた。くもりのないやわらかな笑顔で。
 樹凪は結婚できないと嘆いていたが、自分はまったくの他人だ。その内に機会があるかもしれない。秋都は樹凪には悪いと思ったが、心の中でほくそ笑んだ。僕も早く大人になりたい。それでればすぐに。
 きいきいきゃあきゃあかしましい同級生の女の子たちにはまったく興味がわかなかった。14才も年上だと言うことも気にならない。こんなお姉さんがいたらいいなという憧れがいつしか恋心に変化する。お姉さんじゃなくてお嫁さんになってほしい。
 家に行くと、りんちゃんは、いつもおやつをだしてくれる。その日は手作りポテトチップスと缶コーラだった。一度、お手製のアイスクリームが出てきたときはすごく驚いた。アイスクリームって家で作れるの?というと実験みたいで面白いよ、と樹凪は言った。市販の菓子も大好きだが、大抵のおやつを手作りしてくれるらしい。
 樹凪と宿題をする。樹凪の家は小さなレストランで、りんちゃんはそこで料理をつくっている。きれいで料理もうまくて優しい理想の女の人、最高の恋人だと思う。
「ときっつあんさあ、自分の年齢忘れてないか?」
あれから、幾分冷静になった樹凪が呆れている。りんちゃんを目で追っているのを指摘されて秋都は虫をおいはらうように両手をばたばたさせてごまかした。
「りんちゃんはわたあめみたいだろ?」
 急にりんちゃんを食べ物にたとえられてどきっとする。確かにりんちゃんは綿菓子のようだ。ふわふわ、甘くて、とろけそうな目で笑ってくれると一日中幸せだ。
「でもそのわたあめの中に緑の唐辛子がはいっているんだ。赤いのより辛い。まちがえて食べると舌ごととりかえたいくらい辛いんだ」
「何のたとえだよ。意味わかんない」
「りんちゃんは自分にはものすごく厳しいし、ガンコなんだよ。シソーケンゴっていうらしいけど。そのくせ変におどおどしてたりして雲みたいにつかみどころがない。ただ砂糖だけでできているんじゃないんだよ。そういうのぜーんぶふくめてOKな人じゃないと認めないね。」
 樹凪はりんちゃんをお嫁さんにすることはあきらめたらしいが、貴婦人を守る騎士であり続けるつもりらしい。
「僕じゃ力不足かな」
「りんちゃんが俺と同じ年のときっつあんを男として見たりしないよ。シソーケンゴでものすごくまじめなりんちゃんはガキは相手にしない。悲しいけど」
 樹凪は自分もだけど、と言ってさびしそうに笑った。どうして急に樹凪がそんな話をしたか分からない。牽制しているのでもないし応援しているのでもない。しかし、樹凪が何かを諦めているのは確かだった。

 あこがれのお姉さんだったりんちゃんのことをほんとうに好きだと気づいたのは、泣き出しそうな曇り空の下。珍しく樹凪との約束もなくて、一人でいた。
 広い公園の誰も行かないような古いベンチにりんちゃんは座っていた。うれしくてかけよろうとして足が止まってしまった。
 泣いているりんちゃんは、翼を怪我して地上に落ちてしまった天使、羽衣をなくして天界へ帰れなくなった天女、本当の姿を見られて、夫に別れを告げなければならないことになった鶴女房。そういう悲しくも美しい物語の女性そのものだった。
 大人の女性が一人で泣いている姿はなまめかしくて、胸がどきどきして、顔が熱くなる。
必死で言葉を探す。早く言葉をかけてつなぎとめないと、儚くて夜空の月のおぼろな光のように美しくて消えてしまいそうだ。
 りんちゃんは一人で泣いていた。声を出さずに涙だけしとしとと。小さな握り拳を口にあてて時々ぐううっと嗚咽を漏らしている。
 その涙でできた池はきっとどんな生き物も住めない。りんちゃんの悲しみが全部入っているから。一度顔を覆って突っ伏して、顔を上げると涙の跡はあったが、りんちゃんはもう泣いていなかった。泣き尽くしてぼんやりと池を眺めているりんちゃんは、知らない人みたいだった。
 結局、声はかけきれなかった。声をかけなくてもりんちゃんは消えなかったし、一人で
泣きやんだ。りんちゃんは一人でいたいのだ。一人で泣きたいのに、声をかけるほど野暮なことはない。いくら秋都が子どもだってそれくらい分かる。
(どうして泣いているの?誰があなたを泣かしたの?僕がそいつから守ってあげたい。)
 きっと体の痛みではない。心の痛みで泣いている。だからこんなになまめかしくて艶っ
ぽいのか。りんちゃんの涙は胸をざわざわさせる。放っておけないと思わせる。りんちゃんは気持ちを落ち着けるように深呼吸をしている。
 泣いている美しい女性と自分。自分はまだ子どもで、その涙を拭ってやることもできない。何といってあげたらよいのか分からない。こんなに近くにいてもこんなにも遠い。
 その日のことは樹凪には言わなかった。言わない方がいい。自分だけが見たりんちゃんの姿だから言いたくない。秋都は、決然と立ち上がって歩き去るその細い後姿を見送るしかできなかった。

 それでも大人になればどうにかなると思っていた。自分が20才なら、りんちゃんは34才。ぜんぜん問題ない。自分は、りんちゃんを二度とあんな風に泣かせたりしない。
 秋都の両親も母の方が、9才年上だった。青年作家の父に、担当者だった母は惚れこんだ。有名作家の妻、という肩書にこだわっているように見える母はいつも仕事熱心で夫を支えているというその自分が誇りであり、存在証明であるらしい。
 樹凪の言葉を都合よく解釈すれば、りんちゃんは身持ちが固くちょっとやそっとじゃ揺るがないということだ。愛想がいいだけでどっちつかずにしているよりずっといい。
 将来、どんな職業をしたいかはまだ決めていないが。父親と同じ仕事はしない。好きな人を守れるような仕事をしたいと秋都は思っていた。
 秋都は斜に構えた子どもで父親とその職業に関してはかなり偏見をもっていた。
 作家というのは複数の恋人を持ち、お酒とたばこが好きで、有名人と遊んで、時々破天荒なふるまいをするのをかっこいいと思っている。それが視野を広げ深みのある作品を作る、と考えている人種であると、秋都は思っている。
 古今東西の作家たちもそんな人ばかりだと伝記を読みながら思う。ただの遊びたい言い訳だろ?とその有名な作家たちの写真に落書きしてやった。全部父の蔵書だ。
 父も「人間観察」に余念がない。父の作品は何度かドラマや映画になっている。そのドロドロした人間の描き方が人間の本質だと評価されることもある。
 秋都はまったくそう思わない。いろんな人の気持ちをもてあそんでそれを人間観察の結果として作品に投影させる覗き見的な考えが大嫌いだった。
 たくさん遊んでもいい、最後は自分のところに戻ってきてくれたら、という母の姿勢もまったくうんざりする。いつの時代の作家の妻だ。
 堅実で地道な作家の方が大半で、父は若くして注目されたので世間とずれているのだろうが、秋都のせまい人間関係の中では、なかなかその偏見を変えることはできないでいた。
 
 今日も今日とてそんな「永遠の青年」のような天才作家のファンでいつの間にか恋愛関係になった若い女性が家に来ている。若い女性と言ってもりんちゃんと母の間くらいの年頃の女性で、お腹が大きかった。
 父は自由奔放であっても自分の領域、この場合、家のことだが、家族と編集の担当者以外は立ち入らせない。友だちもよんだことがない。お酒を飲むときは原則外ですませる。自分の世界を乱されることを好まない。外でいくらでも遊んでいい。でも家には入れない。それは両親の決めごとだ。だからこそ夫婦関係は継続している。今までも数多くの女性と浮名を流してきたが、妊娠した女性はいなかった。子どもはおそらく秋都だけだ。
 秋都は母の中の何かがガラガラと崩れていくのを感じた。それは忍耐かもしれないし、これまで築きあげた生活かもしれないし、父への愛情かもしれない。そしてそんな場所に居合わせた自分の不運を呪った。母のそんな顔を自分だけが見なくてはならないこの最悪の偶然に。

 父は出かけていてこの状況をまだ知らない。とことん悪運の強いずるい男だ。神様は母と子だけでこの状況に向き合えとおっしゃる。
 そしてなぜ相手の若い女性の方が立場が上のような余裕のある顔をしているのだ。母は夢見がちな父とは違い、結構理詰めで話をする人で感情的になることも少ない。だから口げんかなら彼女に負けるはずないのだが、終始言葉を探し、女性が父との出会いからここにいたるまでの話をただ聞いているだけだった。壊れて首がかくかくしている人形のようだ。
 それから我に帰った母親に、部屋に追い払われた秋都は誕生日に買ってもらったスマホを持って行ったり来たりする。父にかけても留守番電話のメッセージが流れる。
(お前はいつ本気を出して物事に向き合うんだ。今向き合うのは原稿用紙じゃない。現実だ。)
 樹凪はスマホを持っていなく連絡手段は家の固定電話のみ。遊びに行きたければ家にとりあえず行ってみる。それで今までは不便を感じていなかったが、今はそれがもどかしい。母を置いて家からは出られないが、一人ではこの場を耐えられない。
 これから両親がどうなるか、あの女性のお腹の中の赤ちゃんがどうなるのか、秋都にはどうしようもできない。クラスの友達が話していた。他人事として聞いていた。
「パパにカノジョができて、ママが泣いてた。リコンするんだって」
 今、自分も同じことを目の当たりにしている。
「お母さんのカレシをこの前紹介された。どうするって聞かれたけど、そんなこと聞かないでよって。マジでウザイ。キモイ」
 子どもだっていろいろ知っている。結婚していてもカレシやカノジョができたらそこにも子どもができることがある。大人たちも都合よく子どもを話の分かる大人扱いしたかと思えば、まだ子どもだからと我慢させる。子どもを置いて、勝手に突っ走るのはケダモノ以下で問題外だが、多くは、自分の結婚や恋愛になるととりあえず子どもの理解を求めようとする。意見を求めたり気持ちを確認しようとする。
 友人の言葉を借りれば今の状況はまさに「ウザイ」だ。大人は後ろめたいだけだ。本当は一刻も早く恋に身を投じたいくせに、親としてのかろうじての理性から子どもの気持ちを確認して背中を押してもらおうとする。もしくは「相手がいいと言えば子どもも一緒に連れて行こうと思う」とか、すべてはあなた任せだ。自分では何一つ決めたくない。大人のくせに。恋をすれば犬も詩人だ。恋は人を愚かにする。そして人を残酷にする。他の人のことを気にしていたら成就できないとばかりに。
 女性は帰ったようだ。カラカラと玄関が開いてすぐ閉まる音がする。秋都はすぐ部屋を出て玄関に行く。いまはこの家にいたくない。
 靴を履いていると、母親が後ろにふらりと立っていた。疲れ切っている。それはそうだ。秋都は母がかわいそうになった。母は生まれたときから母だった。
 しかし、彼女にも子ども時代が、少女の時代が、女性だった頃が、父に恋をした時代があった。母はがんばっていると思う。家事も仕事も手を抜かない。だが、それらを支えているつっかえ棒が外されそうになっている。母への同情の気持ちが、次の母の一言ですっと冷えた。
「出かけるの?」
「友達のところ」
「こんな時によく友達と遊べるわね?お母さんのそばにいようと思わないの?」
「部屋にいろって言っただろ?俺は何も見てなかったし、聞いてなかったし、知らないのに、そばにいてほしいならそう言ってよ。察しろと言う方がむりだ」
 母に寄り添うべきだし、優しい言葉をかけなくてはならない。お母さんの味方だよって言ってあげないといけない。しかし、そのとがった声にどうしても従う気にはなれない。
もっと今みたいに堂々と同じように言ってやればよかったのに。その言葉の矢で無礼な女を串刺しにしてやればよかったのに。その時言えなかった思いをここで発散されても困る。
「そういうところはお父さんにそっくり。我関せずで。友だち?どこのどなた?」
 父にそっくり。もっとも言われたくない。母の気持ち、父のしたこと、重すぎて秋都には背負えない。
「どこのだれか知らない?僕の友達のことなんて誰のことも知らないだろう?知ろうともしないお母さんには教えない。僕はお父さんとは違うし、似てないし、お父さんのようにはならない。お母さんみたいな人とは結婚しない」
「なんてこというの?お母さん悲しい。今日は行ってはいけません」
 だんだん高くなっていく母の声と言い方に、秋都の怒りが爆発した。普段はどこに出かけようと聞いてこない。楽しかった?とも聞かない。自分が不安定だから出かけるなとか身勝手なことを言う。もはや返事をする気も起きず秋都は玄関から飛び出す。母の声が追いかけてきたが、実際に追いかけては来ないのを確認してほっとする。怒りはまだ体中を出口を探して暴れまわっていて、母をさらに傷つけてしまいそうだった。
 早く大人になりたいなんてどうして思ったのか。大人になったら子どものようなことはせず、大人らしく振る舞うはずなのに、両親はまるで大人じゃない。あの女もだ。子どものように感情をむき出しにして相手を求める。そしてその求め方は、変なところで大人なのだ。つまり“欲”である。欲望を満たしてくれる相手を求めて、それを恋だという。この人がほしい、たぶん、それが恋の形の一つなのだろうけど秋都には分からない。他の人をまきこんで傷つけて、それも恋なのだろうか。
 大人なんてなりたくない。でも子どもは無力だ。大人の都合であっちやこっちへ行かされる。
 樹凪とりんちゃんに会いたい。固いきずなにむすばれた二人に会って、いっときでもあたたかい気持ちになりたい。秋都は勢いのままに走っていたが、やがて疲れて歩き出した。
大人の都合に振り回されていたのは、秋都だけではない。
 また、あの広い公園に来ていた。ひとけのない場所。池のほとりの見捨てられたような古いベンチがある。するとめずらしく複数人が話している。話しているというよりただならぬ様子だと思う。今一番会いたかった人たち、樹凪とりんちゃんだった。初老の男女と秋都の母親くらいの年頃の男性が二人と向き合っている。向き合っているというか囲まれている。
「二度と会わないって約束したはずです」
りんちゃんの固い声がする。
「状況が変わった。樹凪は返してもらいたい。父親としての責任を果たしたい」
「俺は行かない」
 樹凪が即座に答える。
「樹凪が生まれた家だよ。きっと気に入る。安心できる。何でもしたいことをさせてあげるし、何でも買ってあげるから、一度家に来てくれないか。こんなお古みたいな服着せられて・・」
「俺の一張羅だぞ。お気に入りだ。お古じゃない」
「とにかく一度話をしよう。」
「しつこいぞ、おじさん」
「おじさんじゃない。お父さんだよ」
「知るか。さわるんじゃねえよ」
「なんて言葉遣いが悪いのかしら。こんなに可愛い顔をしているのに」
 初老の女性が、大きくなったわねと樹凪の手を握ろうとする。樹凪は心の底からいやそうに振りほどこうとする。りんちゃんが手をさしのべるが、それを若い方の男性に阻まれている。
 秋都は目の前で繰り広げられていることを頭の中ですごい速さで整理しようとしていた。二人が困っているのは間違いない。若い方の男性は樹凪の父親、ということはりんちゃんの父親でもあるということになるが、それにしては年齢が近い。
 それにどさくさまぎれにりんちゃんの肩に手を置いているが、父親としての触りかたでないような気がする。りんちゃんを見る目もおかしい。こんな時だからかこんな時だからこそか、大人は欲深さを露呈する。
「心配なら君もいっしょでいい。みんなで一緒にいれば丸くおさまる」
 どうやらこの三人は、特に樹凪の父親だという男性は、りんちゃんをも取りこもうとしている。
「幼い樹凪を連れて行ったことは誘拐になるかもしれないぞ」
「そんなわけないだろ。りんちゃんにさわるな。俺はここにいる。俺行かない。絶対いやだ」
 りんちゃんの美しい顔が苦しげにゆがむ。いつも優しそうでぽわんとした目を伏せて唇をかんでいる。誘拐と言われたことにひどく傷ついている顔だ。
 女性と子どもだから完全に軽く見ている。脅したりなだめすかしたりして、2人を苦しめる輩、さっきの母とのやりとりへのいらいらが、秋都を突き動かす。ここで何もしないでいられるか。
 こんな時でもあの父は何も知らずに、たぶん自分の生き方を楽しんでいるのだ。秋都は走り寄って、3人の前に立ちはだかった。
「人を呼ぶぞ。動画も撮ったからな」
 スマホに入っていた防犯ブザーのアプリをタップすると、大音量が響き渡る。こんな大きな音がするなんて初めて使った秋都も驚いた。次の瞬間、秋都は突き飛ばされていた。突き飛ばした方も自分がしたことに驚いている。あまりの大音量に軽くパニックを起こして、突き飛ばしてしまったようだ。防犯ブザーが鳴り響き続け初老の女性が早くとめてちょうだい、と叫んでいる。
 りんちゃんが秋都と樹凪を二人まとめて自分のうしろにかばう。一人で少年2人をかばうなんて到底できそうにない小柄なりんちゃん。細い肩が上下している。そんなりんちゃんに守られている自分たち。相手は女性と子どもだからと力と大きな声で威圧してくる。秋都は先ほどとは逆のことを考えていた。
 ああ、どうして自分は今、子どもなんだろうか。大好きな人と親友、ここにいる大人たちの中で誰よりも小柄で細いりんちゃんに大人だからという理由で守ってもらっている。
 早く大人になりたいと思った。そしてりんちゃんを守りたかった。でも一足飛びには年はとれなくて、現に今まだ自分は子どもで。こんなりんちゃん見たくない。大切な人を失いそうな焦りと、大人3人に詰め寄られる恐怖にさらされて、それでも自分たちを守ろうと必死に息をしている。その苦しそうな顔さえも壮絶にきれいだと秋都は不埒にも見とれてしまう。
 また、大きな影がぬっと割って入った。背が高くて険しい目つきの青年だった。仕事中なのか作業着の下はワイシャツとネクタイ姿。彼はぎろっと状況を確認すると、樹凪の親族たちを睥睨した。秋都もぞっとするほどの酷薄な声で「自分が話聞きますよ?」と言った。
 広い背中しか見えないので、顔は見えないがたぶん、とても迫力のある怖い顔をしていることが、相手方の表情で分かる。大きな声ではないがすすけた色の髪が、下敷きでこすったときのように逆立って見えるからすさまじい怒りを抑え込んで、つとめて冷静に話しているのが分かる。
「こんな人のいないところで立ち話するような内容じゃないと思うので、一度ちゃんと席を設けて話しましょうよ。自分と法律に詳しい知人も同席します。今日のところはお引き取りを」
 青年の迫力に、3人は何かもごもごと言っていたが、彼が「何か?」と言いながら一歩踏み出すと、樹凪の方を見ながら、その場を立ち去って行った。
 振り返った青年は、同じ人物かと見まごうほど、優しげな目をしていた。樹凪と遊んでいるときに何度か声をかけてきたことがあった。
 りんちゃんは「充音君、ありがとう」と言うのがやっとでへなへなと座り込んでしまった。彼は先ほどの気迫ある姿とは別人のように、りんちゃんを助け起こしてよいものかと手をこまねいている。強く握ったら割れてしまう砂糖菓子かそれとも何か神聖なものにふれるような、でも早く助け起こしてやりたいという二つの気持ちの間でやじろべえになっている。
 樹凪がりんちゃんを立ち上がらせてぎゅっと抱きついた。
「コンちゃん、ありがとう。ほんと助かったよ。ときっつあんもありがとう。だいじょうぶか?ごめんな。あいつらでかい音にびっくりしてたな。かっこわりい」
 樹凪は、さっきまで泣き出しそうにおびえていたのを打ち消すように元気が空回りしている。
「それにしても、コンちゃんにそんな知り合いがいるなんて初耳だ」
「実は、そんな知り合いはいない。ああいうのは力づくより、人数や弁のたつ人間、法律に詳しい人間と知り合いっていう方が効くんだ。でも本当に話し合いってなったら、俺だってそういう知り合いを連れて行くよ」
「へへえ。コンちゃんにいるのか、そんな友達」
「いっちゃん!」
 りんちゃんの鋭い声が飛ぶ。樹凪は肩をすくめて青年と微笑みあう。樹凪に、コンちゃんと呼ばれている、みつねという青年は樹凪の軽口にも気にしていないようだし、そのやわらかそうな髪を手荒くかきまわしてやっている。
「だいじょうぶ?ちょっとさわるね」
 ふわりと甘い香りに包まれた。りんちゃんの顔がすぐ近くにある。秋都の背中や腕を触って確かめている。突き飛ばされて痛かったのはお尻なのだが、りんちゃんはお尻に触ったりはしなかった。
「ときつくん、ごめんね。どこも痛くない?ごめんね、怖かったね」
 まだ、りんちゃんの方が少しだけ背が高い。きっともうすぐに追い抜いてりんちゃんを見下ろすようになる。いつものりんちゃんに戻っていた。疲れが顔に出ているところにりんちゃんの本当の年齢を実感する。
 それでもなんでもいつでもきれいな人だ。きっと永遠に美しい。その目をまともに見れなくてその白い額を見つめる。
「ときつくん、ありがとう。とても助かったよ。」
 うそだ。助けてなんかいない。結局はりんちゃんにかばってもらって、そしてあの青年が場をおさめてくれた。「人を呼ぶぞ!」と騒いで相手を逆上させただけだ。彼は、あんな風に冷静に、視線と声音で相手を圧倒して引き下がらせる。強烈な敵意をむき出しにするけど、それが済めばとても優しい。さっそうと現れ、まさに弱きを助け悪をくじくヒーローだ。ヒーローらしく労働に勤しむたくましい体をしている。
「弁当食い損ねたな。俺、そろそろ行くね。これもらっていくよ」
 青年はベンチに置いていた保冷バッグの一つを取り上げる。おそらくりんちゃんと樹凪は青年にお弁当を届けに来た。お弁当を一緒に食べるような秋都の知らない三人の関係がそこにあった。
 もめごとなど何度も経験していて何事もなかったように平然としている。青年は束の間、りんちゃんと視線を交わし、樹凪の髪をもう一度くしゃくしゃと撫でた。文句を言っている樹凪を横目に、秋都の肩を叩いてねぎらいの言葉をくれた。どこまでもさりげなくてかっこいい大人の男。父親より若いが、浮ついたあの人よりずっと、地に足をついている。 
 秋都は勝手に敗北感を覚えた。傷ついた心に敗北感がさらに追い打ちをかけた。
 父の若い彼女が妊娠して、母が動揺していることより、自分がこの先どうなるのかということよりも、親友とあこがれの人が何かに巻き込まれていることの方が、はるかに大きく心を占めていた。自分も薄情なものだ。
 しかし、両親の問題は、自分にはどうすることもできない。もう新しい命が育っている。妻子がいても、きれいな女性には歯止めがきかない父親にとって、秋都の存在などきっと軽いものだ。
 これまでの尽力の報いもなく“有名作家の妻”の座をあっさりと他の女性にとられそうな母、生活に汲々としている母親に父の心が戻ることはないように思えた。
 「子はかすがい」なんて言葉があるが、秋都はそのかすがいにはなれないようだ。両親の考えていることは分からない。両親にも秋都の気持ちは分からない。
 さっきの青年はただの通りすがりではない。あの長い腕でりんちゃんをすっぽり包んで抱きしめて、愛の言葉をささやく。そしてりんちゃんも恥じらいながらもそれに応える。秋都が知らないりんちゃんのことを知っていて、秋都が過ごしたことのない時間をいっしょに過ごすこともあるのだろう。
 女神のようなりんちゃんが、ひどく凡庸で顔のないただの年上の女に見えてきた。母親や父の恋人の女と同じだ。
 いや、そうじゃない。自分勝手なのは、親たちであり、さっきの3人だ。りんちゃんは理不尽な大人たちから、樹凪と秋都を必死で守ろうとしていた。りんちゃんはおしゃれも化粧もほとんどしない。おいしい料理をたくさん作ってくれるのに自分はあまり食べない。やせていて小さい。
 それなのに、本当かどうか分からないのに勝手に話を想像して、自分の中で作り上げたりんちゃんが甘いわたあめじゃなくて内臓のある生身の女だと思ったら急に生臭く感じている方がもっとも自分勝手だ。
「帰ろうか。ときつくんも一緒に行こう。お弁当食べよう。おやつは何がいいかな」
 りんちゃんが樹凪と秋都の手を握る。りんちゃんと手をつなぐ、夢にまで見たことなのに、秋都はその手をふりはらった。
「いらない!」
そう言って反対方向に走り出した。歩いていたらいろいろな醜いものがまとわりついてくるようで、すべて振り切るように走ってやろうと体に力を入れた。
 りんちゃんと樹凪が何か叫んでいたが、秋都はイノシシになったつもりで猛然と走り続けた。人にぶつかったり驚いてよけるほどの勢いでぐんぐん走った。
(どいつもこいつも、僕もおまえたちも、下らない。最低にきたない)
 喉奥で血の味がして、息が切れて、やがて足が止まる。どこをどう走ったか見覚えのない風景、でも日本中どこでも見かけるようなありふれた町並み。
 スマホの道案内をたよりにまた歩き出す。どこへ向かおうというのか。自分の家?樹凪たちの家?悲劇のヒロインの母親がいる家しかない。父親はもう帰っているだろうか。
 若い恋人の話、妊娠した話、どうするつもりなんだろうか。口の中はまださびた味がして体はまだかっかとしているが次第に汗がひいてぞくりとする。一円の小銭も持っていない。
 個性のない町並み、無表情な車の行列。雨雲に覆われた空の下、立ち止まっては歩く。 
 帰りたくない。さりとて街中でひとりぼっちになるのは怖い。野宿なんてしたことない。 
 仮に一晩野宿したとして次の日は?明日になったら物事が好転しているなんてありえない。現実はどこまでも追いかけて来てかみついて離れない。
 ようやく帰宅した秋都は高熱を出して学校を休んだ。ひたすら眠り、目が覚めるとどこかで両親が話す声が聞こえる。
 静かと思えば、母の金切声が聞こえて、それが涙声になる。母の揺れ動く心がそのまま声になる。それを聞きたくなくて秋都はまた目を閉じて眠りにおちる。
 とうに電池がきれてスマホは冷たい金属の塊になって、机の上に置かれていた。体の節々が痛く、情報を、音を、光を、人の声を、人のぬくもりをすべて遮断したかった。

 数日して、熱は下がったが、秋都は学校を休み続けている。友だちが欠席者への届け物を持ってきてくれるが、秋都は会わずに、ポストに入れてもらっている。樹凪でも同様だった。
 しかし、ある日、両親のいない昼下がり、樹凪が突然、部屋に入ってきた。秋都はわあっと叫び「不法侵入だ!」とわめきたてたが樹凪は知らん顔でどっかりと座り込む。また背が伸びたようだ。
「だって会ってくれないじゃん。フホーシンニュウでもしないと、元気がどうか分からない。いもむしになっているかもしれないしな」
 最近、あらすじだけ知った「目が覚めたら巨大な虫になっていた」男の話を引用して、見舞いだと、お菓子を次々とテーブルに並べていく。
「りんちゃん特製プリンと、新発売のグミと、辛いのは喉に悪いからアメと・・。あとこれすごいぜ。口の中でパチパチ音がするんだ」
 極小のこんぺいとうは宇宙食のような銀色の袋に入っている。プリンは六個あった。
「家でいっぱい食べたから、俺はいらないよ。お父さんとお母さんとときっつあんの三人で食べれるように六個」
 りんちゃんも樹凪も秋都の家の事情は知らない。三人で食べられるようにプリンを六個持たせるりんちゃんの思いに鼻がつーんとする。
 樹凪は自分用のお菓子の袋を開けて口の中でパチパチ音がする極小のこんぺいとうとコーラを一緒に口に含んで、ふぐぐ・・と妙な声をもらしている。
「いつから学校に来られる?」
「来週からかな」
 学校には行かないといけないとは思っている。もうすぐ卒業で、あのクラスの仲間に会えるのはあと少ししかないのだ。そうしたら、秋都は母と一緒にこの町を出る。
「僕たち中学校別々だな」
「ええ?どうして?」
 樹凪が目を見開いた。まだ、口の中でてんぷらを揚げるような音がパチパチしている。
「僕の両親、離婚する。作家さん、新しい奥さんと赤ちゃんがいるから。結婚しなおすんだって。僕はお母さんについていく。どっちもいやだけど作家さんよりはましかなってくらい」
「作家さん?お父さんのことそう呼んでるの?」
「お父さんなんてよばない。もう僕のお父さんじゃない。誰かの旦那さんで誰かのお父さん。いっちゃん、今までありがとう。いつも遊んでくれて」
「そんな悲しいこというなよ。もう友達じゃなくなるのかよ。」
 樹凪の大きな目から涙が流れる。一番の友達なのにこんな伝え方しかできない。僕ってなんてダメなやつなんだ。
「ごめん。僕たちずっと友達だって約束したな。いっちゃん、ごめん」
「気にするな。分かってくれたらいい。ときっつあんは今、混乱しているんだよ。悪口言いたくないけど、ときっつあんのお父さんとお母さん、ひどいよな。自分のことばっかりで」
「僕、もうあの人たちには期待しないことにしている。僕もけっこうやっかいな子どもみたいなんだけど、本当の親なら全部受け止めてくれるってどこかで思ってた。どんなに作家さんが遊んでも、最後には僕とお母さんのところに帰ってきてくれるって思ってた。今になって、あの人たち、僕の取り合いをしている。お母さんの方はただの意地って感じに思えるけどね。作家さんは泣くんだ。僕のことで。今さらだろ」
 父親が泣いたのを見たのは生まれて初めてだった。秋都の枕元に座り、寝たふりをしている秋都の頭をなでている。そんなことをされたのは数えるほどしかない。一緒にごはんを食べたこともほとんど記憶にない。本屋で平積みされた父の著作、著者紹介の父の顔写真。洒落こむとなかなかに味のあるいい男であると認めざるを得ない。放っておけないような色気がある。
 そんな頼りない風情なのにさまざまなものをペン一本で表現するために世の中を射抜くような強いまなざし、この目で女性はイチコロだ。
 家ではいつ寝ているか、いつ食事をしているか、いつお風呂に入っているのか分からないくらいだらしない恰好で、でも来客があるときは、それなりに身ぎれいにして、ゆるやかな着こなしながら、どこか品があった。
 きっと母もそんな父に魅かれて、秋の古都を一緒に旅行して、それで身ごもったのだろう。そんな父がほろほろと泣いて、鼻水をすすりながら、秋都の頭を撫で続けている。
「秋都、行ってくれるな。僕の息子でいてくれよ。秋都という名前は僕が考えた。君はとても可愛い赤ちゃんで、絶対僕が名前をつけるって譲らなかった。僕はたくさんの登場人物に名前を付けた。でも“秋都”ほどの名前はないと思っている。僕の最高の作品は“秋都”という君の名前なんだ。」
 この期に及んで身勝手な押し付けだ。ふがいない父親ですまない、とか妻でない人を妊娠させ、それで一つの家族がばらばらになることへの贖罪や後悔の言葉はない。あきれるくらい自分勝手な父親だ。秋都は寝たふりを続けた。父親は言うだけ言って出て行った。父親に育てる能力がないのは明らかで、おそらくは母が秋都を引き取ることになる。
 涙が流れて、伝って、耳の中に入り込んで冷たかった。なぜ泣くのだろう。泣く要素なんてどこにもないはずなのに。涙はしばらく流れて秋都の髪はしっとりと濡れた。

 小学校の卒業式の日、りんちゃんと樹凪の母の二人が出席した。秋都の両親も来てくれたが、お互い離れたところに座っていた。りんちゃんはラベンダー色のワンピースにツイードジャケット、髪をきっちりと結い上げている。珍しく薄くメイクもして、清楚で眩しかった。お母さんたちはみんなフォーマルな装いで、とても華やかだが、りんちゃんがあまたいるきれいで華やかなお母さんたちの中でも一番だと秋都は思う。
 卒業証書や卒業の記念品を持ったまま秋都はりんちゃんに会いに行った。あと少ししたら、この町を出る。樹凪とも違う中学校に行く。
 
 父が母に土下座をしていた。また泣いていた。秋都の前で見せた涙はそのときいっときの感傷ではなかったようだ。この土下座だって自分に酔っているだけかもしれない。二人の女性に愛されている罪な男としての自分。 
 しかし失いそうになり彼は一人息子がいかに自分のとって大切なものだったかと気づいた。
 母は再び傷ついたことだろう。「やっぱり君がいい」と思い直してくれることをなおも心のどこかで期待していた。しかし欲しかった言葉を彼が言っていくれることはなかった。
 彼が何よりも欲しているのは自分ではなく、息子だった。一人しかいないその子を産んだのはほかならぬ自分だと言うのに、自分を求めてはくれない。愛憎、複雑でゆがんだ気持ち、母は絶対に秋都を渡さないと言い渡した。顔を上げた彼の顔、かつて、そして今も愛している男の涙に濡れた絶望した顔を見ると、ぞくぞくするようなほの暗い、勝利した歓喜の波が母の胸の中に押し寄せてきた。
 許せることと許せないことがある。母はそう思っている。それが今なのだ。そして最大の仕返しの時。
「秋都の意思は聞いたのか?」
 父はそう食い下がった。確認するまでもない。母親といる方があの子のためだ。
「聞くまでもないこと。秋都に何も与えることのできないあなたより私」
 秋都は存在だけが認識されている子どもだ。彼の気持ち、彼の幸福はすべて親次第といったところだ。当の秋都も自分の気持ちをうまく表現できなければ整理もできていない。名前のついていない気持ちがたくさんあって、幸せとか不幸せとか、誰かと比べることもできなかった。
 親たちは秋都のことをあまり知らない。秋都の友達の名前、好きな教科、すきなテレビ番組、スマホで何を検索しているか、きっとほとんど知らない。
 秋都は家の中でいつも一人だった。秋都だけではない。父も母も各々が一人だった。
 父親は秋都を諦めざるを得なかった。それは当然ともいえる。母親の方は仕事をして、これまでも家計を支えてきた。生活力は父より上で蓄えもじゅうぶんにある。対する父親が有名作家だが、そもそもの離婚原因は家庭を顧みずに、他の女性との間に子どもをつくったことだった。
 しかし、この不毛な争いはどっちが勝ったともいえない。父は秋都を失った。母は最愛の夫を失った。父の恋人は好きな男とその子どもと有名作家の妻の座を手に入れたが、自分の親兄弟、親族の信頼を失った。父は魅力と才能のある男なので、次はその人を失うかもしれないという不安に追いかけられる日々となるだろう。
 秋都にとっては、もうそんなことどうでもいい。大人たちは勝手にやっていればいい。これからの新生活、新しい学校、出会う人たち、何一つ秋都の望んだものではない。しかし、今、思うこと、伝えたいことは全部自分は望んだこと、自分がしたいことだ。誰にも文句は言わせない。
 あの青年にかなわないことは分かっている。おそらく彼はりんちゃんのことが好きだ。りんちゃんも彼を選ぶだろう。どうやったって今の僕はりんちゃんにふさわしい男にはほど遠い。
 だけどやっぱり、りんちゃんが好きだ。大好きだ。初めて意識した人、ずっとあこがれの人。りんちゃんは14才も年上だけど誰よりもきれいだ。
 今のりんちゃんも年をとっていくりんちゃんも変わらず好きでいると思う。もっと好きになると思う。
 僕はずっとりんちゃんを追いかけていつか追いつく。胸に刺さった天使の矢はずっとそこにある。これが刺さったら相手がどんな人だろうと恋せずにはいられない。
 生まれて初めてこの気持ちを伝えるのはりんちゃん以外にいない。大切な人に今しかない言葉で大切なことを伝えたい。
 秋都は言いたいことを口の中で反芻しながら、りんちゃんの家を目指した。今日は家にいるはずだ。
「りんちゃんならいないよ。今日の夕飯の買い物に行った」
 樹凪があっさりと言う。きっとどこの家でも今日は卒業のお祝いだ。秋都の家でも。そういえば母が「レストランを予約している」と言っていた。
「ときっつあん。あがっていくか?夕飯食べていくか?」
 樹凪はいつものように言う。心からの言葉、他意はない。しかし、勢い込んでいた秋都にはそれがひどく無神経な言い方に聞こえた。だが、次の樹凪の一言で一瞬でもそう思ったことを恥じた。
「りんちゃんに何か伝えたいことがあるんだろ?」

 樹凪は最初から、友人の思い詰めた顔をみて、ここは大事な場面だぞと分かった。いつもの皮肉屋で無関心そうな彼ではない。秋都の家の中のことも秋都から打ち明けられて知っている。この友人は無関心を装うことでいろんなことから自分を守っている。
 本当は友達思いで優しい子で、傷つきやすくて繊細な心を持っているので一度傷つけば立ち直るのに時間がかかることを自分で分かっていて、何でもないと言う風に振る舞うのだ。これはりんちゃんが気づいたことだ。りんちゃんも人の心の機微に敏いのに、自分の心の中はのぞかせない。
 りんちゃんは樹凪と同じように秋都のことを気にかけている。それを知ったとき、樹凪は秋都ともっと友達になろうと決めた。遊ぶにしてはそんなに愉快な奴ではないが、秋都の抱えている葛藤やさびしさを思うと誰かが近くにいないと壊れてしまうようで不安だった。そう思わせてくれたのは、りんちゃんのおかげなのだ。りんちゃんがそう思っているなら自分もそうしよう。
 ある日、突然一人ぼっちになった。たった3才だったが、その時のことだけは鮮烈に覚えている。黒い服を着た大人たち、すみっこにいた樹凪の前に光をまとったりんちゃんが降り立った。
「お迎えに来たよ。一緒に帰ろうね」
 それからずっと一緒だった。おいしいご飯をつくってくれて、病院に連れて行ってくれた。どんなにきつくても仕事に行く。おばあちゃんたちが驚いていた。りんちゃんはとてもとても辛い目に遭ってそれ以来心を閉ざしていた。
「りんちゃんががんばれるのはいっちゃんのおかげ」
 おばあちゃんたちはそう口をそろえる。そんなりんちゃんのことを秋都が好きなのは当然と思う。樹凪もりんちゃんが世界一大好きだ。秋都にだって誰にだってりんちゃんのような人が必要なのだ。全身全霊で自分を思ってくれる人が。
 しかし、りんちゃんは、秋都に告白されても困るだけだと思う。年齢のせいではない。樹凪の友人だからでもない。りんちゃんには好きな人がすでにいるから。その人とはお互い思いあっていて一途で、他の人が入り込む隙間はない。りんちゃんが樹凪が独り立ちするまでプロポーズを受けなくても、その人はずっと待ち続けている。秋都がどんなにお金持ちでも同じくらいの年で、立派な仕事をしていても、その人でなければりんちゃんは決して振り向いてはくれない。
 そう思うと、好きな人に自分の気持ちを伝えて、困った顔をされて、あげく優しく断られるのはけっこう心が痛いと想像する。樹凪にはまだそこまでの経験はないがたぶん痛いと思う。苦しいと思う。
 そう思うと、卒業式の日に、さっきの秋都と同じ顔をして呼び止めてきた同級生に自分はとんでもなく悪いことをしたとちくりと心が痛んだ。その子のことは何とも思っていない。名前しか知らない子だった。早く帰りたかった。それだけの理由で、話も聞かなかった。
 秋都がりんちゃんに思いを伝えても、秋都が望むような答えが得られないだろう。でも思いを伝えたいという友達をとめることはしない。どんな結果になったって秋都は大事な親友で、俺は心から応援している。秋都を思い切り褒めてやるんだ。よくやったって。さすがときっつあんだって。

 りんちゃんが大きな買い物袋とともに帰ってきた。いつもの格好だ。そこには秋都しかいなかった。友の生まれて初めての告白の時を、無粋なものにしたくない。秋都が言い終わるまで、誰も来ないように外へ出て家の周りを巡回した。たとえ誰だろうと秋都のじゃまはさせない。
「ときつくん、こんにちは。いっちゃんはどこかな?」
 秋都は答えない。りんちゃんは首を傾げている。
「ときつくん、卒業おめでとう。」
「ありがとう」
「今日はどうしたの?」
 りんちゃんは買ったものを整理しながら尋ねる。
 僕は大事なことを言いに来た。ちょっとの間でいいからこっちを見てよ。りんちゃんに見てほしい。樹凪の友達でなくて、りんちゃんのことが好きな男として。ずっとでなくてもいい。今この時だけでいいから。どうせすぐにお別れするんだ。
「りんどうさん。こっちを見てください」
 りんちゃんの手が止まった。こちらを向くと、スローモーションで花びらが開くように長いまつげが震えて、その目が秋都を見る。
「りんどうさんが好きです。僕は見ての通り子どもです。付き合ってほしいなんて今は言わない。でもいつかきっとあなたにふさわしい男になる。ずっと好きって言いたかった。それだけ。さようなら」
 ちゃんと言えているか分からなかった。今の自分の精一杯。りんちゃんの顔が見れない。りんちゃんからきっと「ごめんね」とか「どうしたの?」とか困ったように笑われると思った。もしくは何も言われなければ十数えてから走って去ろうと思った。答えがほしいのではない。ただの気持ちの押し付けだ。無理だって知っている。 
 真面目なりんちゃんを困らせるだけだって分かっている。好きな人に好いてもらえない。欲しいものはそうやすやすとは手に入らない。しかし、自分が唯一素直になった瞬間を覚えていたい。
「秋都さん」
 振り向きたいのに振り向けない。自分の顔を見られたくないし、りんちゃんの顔も見られない。
「僕の両親は離婚する。お母さんと一緒にこの町を出る。たぶんそんな遠いところじゃないけど、今までみたいに会えなくなる。行きたくない。ずっとここでいっちゃんと友達でいたい」
 りんちゃんはうん、うんと返してくれる。
「本気で言ってくれたから私も本気で返事するね。秋都さん、ありがとう。でも、私はあなたの気持ちには応えられません。ごめんなさい。ここからはりんちゃんとして聞いてね。秋都くんのこと忘れないよ。いつだって秋都くんが元気でいてくれることを祈っている。とってもさびしいよ。いつでも遊びに来てね」
 りんちゃんの心からの言葉。りんちゃんは決して子ども扱いはしていない。ごまかすようなことは言わない。大切なことを伝えるときは大人も子どももないということを知っている。初めての告白をした相手がこの人で良かった。この人を好きで良かった。秋都はすがすがしかった。初めて真剣に行動した自分が誇らしかった。

 父の涙ながらの土下座のおかげかどうか、秋都が直前になって翻意して抵抗したためか、秋都は町を出ることなく中学生になった。制服も注文ずみだったが、父が秋都のために制服を仕立て直すお金を出してくれた。
 父はそれぞれの中学校や教育委員会に頭を下げ、改めてもともと入学するはずだった中学校に入学手続きのため一人で奔走した。親権は母のまま、長期の休暇や週末は母のもとへ行くことを条件に、秋都は父、父の妻、異母弟と暮らすことになった。
 父の祖父の代からの古い家は住人が増え、がたぴしいっている。家にいる女の人は、秋都にとってはあくまでも父の妻であり、新しい母ではない。
 しかし弟は大変可愛い。父の妻はあまりうれしくないようだが、最初に口にした記念すべき言葉は“パパ”、“ママ”より“にーちゃ”だったのを見て、半ば諦めている。
 一生懸命はいはいして小さな手をのばしてくる弟を無視するなどできない。愛おしくて、抱っこして、樹凪やりんちゃんに見せびらかしに行った。おむつがえだってお風呂に入れるのだってお手のものだ。
 秋都は家庭内で急速に自立した。洗濯も自分の部屋のそうじも自分でする。食事も、父の妻が用意してくれないわけでもないが、自分で料理することを覚え、おこづかいで買い物にも行くようになった。最初にできるようになったのは弟のおやつのホットケーキ。料理は母親やりんちゃんに教わる。
 父は相変わらず家にいるときはほとんど自分の書斎で執筆、あとは気分転換や情報収集のため出かける。秋都の中学校入学のために奔走した時が父らしい仕事のピークだったようだ。
 しかし、ほんの気まぐれに秋都を自分の書斎に招くことがあった。取り寄せた老舗の高級なお菓子と父自ら入れた紅茶で、父とぽつりぽつりと話をする。父はお金に無頓着で財布は妻が管理しているが、そのお菓子と紅茶の時間は秋都だけとだけで、書斎には秋都しか招かない。
 そして、父は、どんなに懇願されても弟の名づけに関わらなかった。父の妻にしてみればとても残念なことだが、秋都以外の子どもには名前をつけないと明言しなかったにせよ、「子どもの名づけは君の権利だ」とかいって、のらくらと交わし続け、いくつか候補を示されても、選択さえしなかった。
 出生届けの提出期限ギリギリまで、苗字プラスベビーのままの弟がかわいそうだったが、新しい妻を失望させ怒らせながらも、父なりの秋都への誠意を貫いたのだった。

 運動場を、樹凪が走っている。足が長く歩幅が大きい。運動が苦手な秋都から見ても、きれいな走り方だと思う。やや前傾姿勢でくるぶしから羽が生えているようだ。たったったとそのリズムは乱れることがない。樹凪は、中学校では陸上部に入った。弱小で部員の少ない陸上部だが、樹凪はただ走れればいいからと淡々と毎日毎日走っている。
 秋都は嫌っていても父の子であり、やはり表現することが好きだった。身体で表現することは得意ではなく、体育は教科の中でもっとも成績が悪かった。
 中学の文化祭で、クラスで演劇を発表することになり、初めて脚本を書いた。『中学生のための演劇台本集』という本があり、元の話があったが、それを原型がかろうじて分かるくらい大胆に脚色して観覧の保護者や教師たちをいろいろな意味でうならせた。
 学生はこうあるべきのようなストーリーだが、それを嘲笑う結末を、同級生たちはおもしろがり、一致団結した。秋都は担任に見せる台本とは別にもう一冊台本を書き、それを先生に提出した上で、先生を完全に蚊帳の外へ追いやって練習した。
「やっぱりときっつあんはすごいや」
 劇の中で、悪役に立候補して怪演した樹凪は、その王子様な外見に似合わない卑劣な悪役ぶりで、さらに人気を獲得した。
 来年の参考として台本は一冊は残し学校に保管するのが常だが、秋都は一冊だけ家に隠して残りは同級生たちから没収してシュレッダーにかけてしまった。そして一冊も残っていませんとうそをついた。このエキセントリックな行動で、父は学校に呼び出されたが、おもしろくてたまらないというように笑うだけだった。
「才能が開花したね」
「僕は作家さんみたいにはならないよ。こんなことはもうこれっきり」
“お父さん”と呼ばず、憎まれ口しかきかない秋都を父は誇らしげに見つめていた。
「なあ、帰りに樹凪君ちのお店に寄らないか?そろそろきれいなお姉さんを僕にも紹介してほしいな。」
「ぜったいいやだね。一生だめだ」
 樹凪の走りが色なき風に色をつけていく。色に例えるなら走るときの樹凪は緑色の風、そよそよと揺れる葉っぱが香りを放って風が流れていく。
「ときっつあん。今日うち来るか?夕飯食べに来いよ。宿題手伝ってほしいし」
「行くよ。今日は何かな?」
「ときっつあん、食いすぎるなよ。そんなに顔丸かったかな?俺と一緒に走ったほうがいいんじゃない?」
 自分から誘ったくせに、樹凪はそう言ってケケケと悪役の顔をして笑った。

風に色をつけるなら

風に色をつけるなら

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-09-22

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