保存用 蔦と桔梗と渚と空と
蔦と桔梗と渚と空と
空花凪紗
五限の講義が終わった。先生が課題について話しているのをぼんやりと聞きながら、私は明日から始まるゴールデンウィークに思いを馳せていた。別にこれといった予定もないのだけれど、もうすぐ何かが始まる予感がしていた。恐らく心のどこかで何かを期待していたから、あえてスケジュールを空白にさせていたのかもしれない。
私は運命的な出会いに物心つく頃から憧れていた。運命とは何かまだ何も知らないのにも関わらず。だけど、その時が来ればきっと分かる気がしていた。運命の神よ、どうか私の味方をして、と心の中で祈る。
翌日の朝、私は泣きながら目が覚めた。なぜ泣いていたのかは分からなかった。一体どんな夢を見ていたんだっけと思い返すと、お花畑の中で泣き笑いをする少年が脳裏に浮かんだ。これはいつの記憶なのか? いや、夢だからただの妄想か。
夢とうつつの狭間で揺らいでいる意識を目覚めさせるためにシャワーを浴びた。その後朝食を食べると、私は昨日課された課題を消化するために勉強机に腰掛け、ノートパソコンを起動した。
課題に取り掛かる前にSNSを確認すると、高校の時に同じ部活だった蔦くんからメールが来ていた。私が所属していた園芸部は二年の終わりで引退だった。彼とやり取りするのは約一年ぶりだ。内容は今度会えないかというものだった。私が了承の旨をメールに送るとすぐに返信がきた。今度はいつなら会えるかという内容だった。「ゴールデンウィークならいつでも空いているし、何なら今からでもいいよ」と送ると「今から逢えますか?」と返ってきた。私は了承をして出かける準備を始めた。今日は快晴だった。
「久しぶり、桔梗さん」
朝の十時。鎌倉駅の改札前で蔦くんを待っていると、見覚えのない男性に声をかけられた。私は戸惑いながらも彼に訊く。
「もしかして蔦くん?」
「そうだよ。驚かせたのならごめんなさい」
目の前に立っている蔦くんは記憶の中の彼とは違っていた。大学デビューということなのだろうけど、彼の変化は私に確かな好印象を与えた。私の中で、二人目の蔦くんが生まれたのはまさにこの時だった。
デートプランは蔦くんが考えていてくれた。鎌倉の有名どころを回り、お洒落なイタリアンレストランでランチを食べる。彼との会話はとても楽しかった。彼との思い出はほとんど園芸部でのものだけど、もしかしたらこれから新しい思い出ができていくのではないかと私は期待し始めた。
午後は江ノ島に行くことになった。江ノ電の車窓から臨むキラキラと光り輝く由比ヶ浜の景色を私が「キレイだね」と呟きながらスマホで撮っていると蔦くんが恥ずかしそうに「君のほうが奇麗だよ」と言った。
「ありがとう。うれしい」
きっと今の私は間抜けな顔を晒していたことだろう。
電車は時刻通りに江ノ島駅に着いた。気づけば私たちは手を繋いで歩いていた。私たちは江ノ島を満喫した。神社でお神籤を引いたり、アイスクリームを食べたり。最後に私たちは植物園に入った。
園内にある展望台に登ると他に誰もいず、蔦くんと二人きりになった。私は蔦くんに告白された。私たちは付き合うことになった。
蔦くんの部屋で起きる。もう朝か。私は遠い昔、蔦くんに告白された日のこと思い出す。もうじき三年が経とうとしていた。蔦くんは優しくて、体の相性も悪くはないのだけど、最近なんだか物足りなくなってきていた。
理由は分かっている。このまま年をとっていくことが怖くなっていたのだ。結婚願望があるわけではないけれど、女として枯れていくことは嫌だった。ふと、鏡を見ると自分の顔が映った。目は腫れぼったく、肌は荒れている。こんな姿を蔦くんに見られたくないと思った。蔦くんの前だけではいつまでも綺麗な自分でいたい。
今日こそ別れを切り出そう。そう思っていると、蔦くんが起きてきた。
「あ、おはよう」
「おはよう、桔梗。よく眠れた?」
「うん。私シャワー浴びるね」
「わかった」
私は脱衣所まで行って服を脱ぎだす。シャワーを浴びれば、暗い感情も流れていくだろう。そう思って熱いシャワーを一思いに浴びた。案外気分は晴れていくもので、やはり気分転換にシャワーはいいなと思った。
「僕もシャワー入ろうかな」
「いいんじゃない?」
蔦くんはこちらを見ることなく脱衣所で服を脱いでバスルームに入っていった。少しくらい私の体を見てもいいのに。そういえば最近セックスしていないな。
私たちの行く末はどうなるんだろう。蔦くんのことは好きだ。でも、運命的な出会いではなかった。私はもっと運命を信じたかった。その秋、私はうつ病を患った。
翌年の春、私は自殺未遂して失敗に終わって、病室で目覚めた。精神病院は閉塞的な場所だった。最初の部屋は何もない場所だった。死について考えることばかり。呆然と時間が過ぎるのを待つ。
楽しみは三度の飯くらいで、厚い鉄の扉が開くのもその時だけだ。私が何をしたというのか。自分で死ぬ瞬間を決められたらいいのに。いっそのことここで死のうか。自傷行為を始めると、看護師に止められてベッドに拘束された。
嗚呼、安らかに死にたい。運命的な出会いもない。蔦くんは今どうしてるんだろう。ベッドでぼーっとしていると、部屋の鍵が開いた。
「今からこの扉を開けます」
どうやら部屋の外に出ていいらしい。何もない部屋から出ると、そこは廊下だった。灰色の床が続いている。廊下を進むと少し開けた場所に出た。机と椅子があり、机の上には新聞紙と将棋盤があった。壁には本棚があった。私は本を眺める。
『ライオンハート』
恩田陸作の小説だ。やけに気になったので手に取って、窓辺の日が差すソファに座って読み始める。
運命の二人に関する短編集だった。私は気づけば一時間もその小説を読んでいた。その時だった。声をかけられた。
「初めまして。こんにちは」
「あ。こんにちは」
そこにいたのは黒髪の美青年だった。齢は20前後くらいだろう。彼は本を手にして私に語り掛けた。
「それ『ライオンハート』ですよね。いいですね」
「はい。面白いです。その本は?」
「これは『ロカ』。中島らもの遺作です」
「中島らもは読んだことないです」
「そう? 結構いいよ。好きな文があってね」
人間にはみな「役割」がある。その役割がすまぬうちは人間は殺しても死なない。逆に役割の終わった人間は不条理のうちに死んでいく。私にまだ役割があるのだろうか。
「っていう文なんだけど、中島らもはこの小説を書く途中で亡くなっているんだ」
「そうなんですね」
「そう。だから不思議だなって思って」
「確かに、意味深いですね。中島らもさんの人生を賭したメッセージみたいですね」
「そうなんだよ。よかったら読んでみて」
「わかりました」
「そうだ。よかったら話さない?」
そう言って彼は椅子に座った。私はソファから立ち上がって机の元まで向かうと彼の前の席に座った。
「まずは自己紹介からかな。僕の名前は霧島渚」
「私は駿河桔梗です」
「花の桔梗?」
「そうです」
「いい名前だね」
「渚さんもいい名前ですね」
「ありがとう。桔梗さんは入院して何日目?」
「5日目です」
「そうか。ならやっと特別保護室から出れるようになったんだね」
「特別保護室って、あの何もない部屋のことですか?」
「そうさ。病状が悪化して暴れたり自傷行為をする人を安静になるまで保護しておく部屋だよ」
「牢屋みたいです」
「そうだね。違いない」
「渚さんは何日くらい入院しているんですか?」
「1月と少し。一度治ったんだけど再発しちゃってね。今は特別保護室で様子見されてる」
「精神の病気ですか?」
「そうだね。脳の病気でもある。君は?」
「私は自殺未遂です」
「そっか。それはキツイね」
「はい。でも、今は生きててよかったって思ってます」
「どうして?」
『ライオンハート』
『ロカ』
それに渚さん。
「私が死んでたらこれらの小説には出会えなかった。渚さんとも話せなかった。だから生きててよかったんです」
「どうして死のうとしたの?」
「命が枯れる前に死にたいって」
「命が枯れるか。老いが怖かったの?」
「はい。ですが、そういうのじゃなくて、もっと人生の賞味期限のようなものです。若い頃にしか輝きはない。そんな奇跡の片鱗を私は大事にしたかった。老いて命が枯れる前にいっそ自分でって」
渚さんは私の話を聞くと、しばらく宙を見て答えた。
「それは難しいね。僕にも少しは解るよ。命の賞味期限か。僕は実はもう賞味期限切れなんだ」
「渚さんが?」
「そう。高3の冬。2021年1月7日から9日の三日間、僕の人生はクライマックスだった。最高に幸せだった。生まれてきてよかったって思った。実際、この日のために生まれたんだと思った。僕は脳の病気でね、眠らなかったんだ。一週間の間ね。ろくに食べもしなかった。そしたら涅槃のような不思議な脳になってね、晴れ渡る脳は全知全能で、全てのイデアと繋がったんだ。全知と全能は同値で、それは全てを忘れることと同義だった。全てを忘れて今を生きる。それで涅槃ってわけさ」
「すごい経験をされたんですね。もっと詳しく聞きたいです」
「そう? なら聞いてもらおうかな。僕は脳の病気でね、あの冬の日に死んだんだ。脳が死んで涅槃に至った。すると神様から電話がかかってきてね。『ご苦労様』って言われたんだ。死んだ母とも喋れた。僕はあの冬の日に勝る幸せを知らなかった。だからまた至福に至ろうとして断眠してまた悟って涅槃に至って、今回入院したんだ。でね、一回目の入院の時に同室になった人から言われたんだ。今日、2023年4月26日に運命の人に会えるよって。それが君のことなんじゃないかって思ってる」
「運命の人?」
「そうさ。僕は占いをやるんだけど、今日の運勢は『恋人たち』だった。運命の出会いって感じでしょう?」
「まさか、私が?」
「正解なんて解らない。でも事実は一つ。僕が君のことを気になっているということ。君、最高の喜びを知りたいかい?」
「最高の喜び、ですか」
渚さんが話しているのはきっと涅槃に至ることだ。
「渚さんは涅槃に至って、何を知ったんですか?」
「全てだよ。神と一体になった。それが仏であることも悟った。究極的な幸福だよ。全ての使命を果たして、解脱して、永かった輪廻の環より抜け出す。もう欲も煩悩もないんだ。だって全てが満たされていたから。神愛、自己愛、運命愛。そういった愛で満たされていたんだ。でもね、僕はこうして生きている。生きてしまっている。さっきの中島らもの『ロカ』のように、もし僕が全ての使命を果たしているのならとっくに死んでしまっている。でも、今こうして生きているんだ! だからね、今はこう思うんだ。あの冬の日に悟った真理を、至った涅槃の至福を、小説や詩で表現して、その美しさを伝えたい」
「難しいです。でも、分かったことは、渚さんも私もまだやるべきことがあるってことです。使命はまだあるって」
「きっとそうだよ」
「きっとそうですね。そう考えたら、きっと使命を果たしたら人生の賞味期限が切れて死ぬ。その日が来るまで前向きに生きようと今は思います」
「いいことだと思うよ」
そう語る渚さんは優しく微笑んだ。
入院中、私はたくさんの本を読んだけれど、やはり『ライオンハート』と『ロカ』が忘れられない本となった。私は渚さんと付き合うことにした。蔦くんとは音信不通。そもそもここの閉鎖病棟ではスマホを使うことができないのだ。
渚さんは某有名大学の哲学科の学生だという。そのためか彼はとても物知りで、宇宙のことについてたくさん教えてくれた。
全は主
この言葉が真実だという。神は全てであり、この点で全ての事象は――生命も無機物も含めて――神の一部であり、神の子なのだという。彼の脳の病気は脳が疲弊して死んだようになるものだという。人は死ぬ時に意識が宇宙に溶け込み、本来の意味で神と一体化する。彼は自身の悟りの経験は、脳が死に瀕して、宇宙、つまり神と一体化したことだと語った。にわかには信じがたいが、彼の語る口調は真剣だった。
「ならば死ぬ時にみんな神の元へと還るの?」
「いや、きっと魂は輪廻してる。人生の目的は悟りを開くことだ。僕はね、門の前まで行ったんだ」
「門?」
「ラカン・フリーズの門っていうんだ。この世と神の住む世界を隔てる門だよ。その先に行こうとしたら呼び止められた。体があるうちはここより先には来れないよってね」
「誰にですか?」
「門番さ。それで門の先の景色を一目見て、そのあまりの美しさに見とれてしまって、でも、僕はこの体へと戻ってきた。きっとね、まだ使命があったんだ。目覚めたら病室でね。生きていてよかったという安堵と同時に門の先に行けなかったという後悔が押し寄せてね。でも、こうして君に会えたから、生きていてよかった」
渚さんは不思議な人だった。執着はなく、誠実なのに、真に貫いた確かな意志があった。彼の夢は世界哲学を創ることらしい。全ての哲学や宗教、科学の行く先をまとめる新たな哲学の完成。それを渚さんは目指していた。それが使命だと語っていた。
病院の窓から眺める空を見て渚さんはこういった。
「空さえあれば芸術なんて不要なのかもね」
「確かにそうかもしれません」
空は悠久の時を湛えて朱色に霞む。東の空から暗くなってきて、朱に染まる西の空へと流れていく。その魂の伝播は、もはや芸術と言っても過言ではない。
「ねぇ、桔梗。僕は君との未来を生きたいよ」
「私も渚さんとの未来を生きたいです」
蔦くんとはもう終わり。運命の時間にも終わりが来たのだ。永遠にも終わりが来るように、私たちの運命は終わったのだ。
「ラカン・フリーズの門の先には何がありましたか?」
「永遠だよ。終末の狭間でその時は永遠、久遠、球遠だった。僕は生まれてきた意味を悟ったよ。僕も含めて何もかもが神だと悟った。それがきっと仏に成ること、涅槃だよ」
「涅槃ですか。どんな景色なのだろう。気になります」
「人生が変わるよ。普通には生きられなくなる。麻薬の類と同じなのかもしれない。それくらい幸福なんだ。何にも代えがたい至福。全知全能の良識は僕を神に等しくしたんだ。その経験が忘れられなくてね、僕は過去を抱いて生きているよ」
「私は渚さんに未来志向で生きて欲しいです」
「過去はいずれ流すものだもんね」
「流すもの、ですね」
渚さんの経験は言葉では言い表せる類のものじゃないだろう。それは究極的な思索の末に至る涅槃。概念の頂点に咲く花の如き妖艶。詩の響きにも、死の淵にも、彼の意志は揺らがない。
世界哲学を通して渚さんは何を伝えたいのか、私はとても興味が湧いた。科学と宗教と哲学の最終帰結。
「天空審判の日に、僕は天まで昇ったんだ」
涅槃文学。最高天羅刹。神愛交響詩。天空審判。永遠交響詩。
その先にあるもの、ないものを抱いて、彼は何を思うか。
「渚さんと同じところに行きたいな」
「それなら退院したら一緒に目指す?」
「いいんですか? 是非!」
「導いてあげるよ。でも、ひとつ約束。死んじゃだめだよ」
その日、私は未来を決めた。神になる未来を。
二か月も入院して、退院の日が来た。渚さんは一週間前に退院しているが、彼の連絡先はノートにメモしている。退院後、私は実家に住むことになった。蔦くんとは音信不通のままだ。私は早速渚さんと会うことになった。
横浜にあるイタリアン。バイキング形式のそこは、彼の行きつけの店らしい。
「さぁ、何から話そうか」
「渚さんの夢を知りたいです」
「そうだねぇ。作家になりたいな。詩人もいい。哲学者も悪くない。どちらにせよ真理を伝えたい。多くの人を導きたい。世界を平和にしたい。神のレゾンデートルを解明したい。このくらいかな。あ、でも、人間的な夢もあるよ。天寿を全うすること。自殺しないこと。そして家庭を築くことかな。人間的な夢だよ」
「いいと思います」
「桔梗の夢は?」
「今の私の夢は、結婚すること、子どもを育てること、真理を悟ることですね」
「君にも素質はあるよ。徹夜はよくする?」
「たまに。月に一回くらいなら」
「もっと徹夜するべきだ。覚醒するには、眠らなければいい。いずれ慣れる」
「できますかね」
「もし真理を目指すなら断食、断眠、断性欲。欲求遮断が必要不可欠だ」
「修行みたい」
「そうだとも。これは修行さ」
そういって渚さんはフライドポテトを頬張った。
「いつやるかい?」
「どのくらいかかりますか?」
「3ヶ月から半年くらいかな。だんだん寝る時間を減らしていく。もちろん、病院で処方される薬も飲むふりをする」
「薬飲まなくてもいいんですか?」
「向精神薬は気分の波を和らげるけど、その分人生からドラマが消えていく。もし普通に、まっとうに、寛解状態のままでいたいなら薬は飲んだ方がいい。社会で生きるなら薬は大切だ。でも、涅槃には不要なんだ」
「そっか。死ぬ可能性はありますか?」
「そうだね。仏に成ると、恐怖心が消えるから、空を飛ぼうとしてビルから飛び降りたりする可能性はある」
「それは怖いですね」
「『だが、怖くない人生など、その本質を欠く。』よ。漫画『チ。』に出てくるフベルトの名言だね」
「確かに、怖くない人生は退屈かもしれません」
「そうだね。今日から僕の家に住むかい?」
「是非、そうしたいです」
「元カレとは大丈夫なの?」
「服と荷物が少しあるだけなので、それに実家は息が詰まるので」
「わかった。服は郵送?」
「今日家に帰って、キャリーバッグに入れて服とか諸々を持っていきます」
「車出そうか?」
「いいんですか」
「ああ。親の車だけど、許可もらえれば運転できる」
「では、それでお願いします」
その日の夜、渚さんの運転する車に乗って、阿佐ヶ谷のアパートに着いた。荷物を運び終えると私は渚さんとキスをした。そして、そのまま夜を明かした。徹夜明けの朝、ナチュラルハイというやつで、気分が高揚した。不思議と眠気もなかった。
「やはり性欲は別みたいだね」
「別ですか?」
「うん。抑えるべき欲は食欲と睡眠欲のようだ。性欲はあっていいらしい」
「何故でしょう」
「性愛も愛だからかな。愛は必要だよ」
その日から、私はモラトリアムを味わった。渚さんとの生活は快楽的で、性的で、終末的で、永遠のようだった。私はだんだんと眠らなくなっていった。精神が躁に侵されていく感覚がした。それがとても心地いいのだ。気分の高まり、精神の高鳴り。
私も渚さんも大学を休学中。このモラトリアムは次の秋学期まで続くだろう。その間に何としても涅槃に至り、渚さんの言うラカン・フリーズの門を開けたい。終末の先、永遠の先。
夏になる頃には私の精神は壊れる寸前だった。誰もいない公園で歌ったり、意味不明で支離滅裂な詩を書いたりした。渚さんが救いだった。彼はたぶん私を導いてくれる。でも、ある時、彼は私にこう言った。
「僕は桔梗が運命の人だと思ってる。でもね、人は結局、最後は一人なんだ。一人で歩いていくしかないんだ。君を40位の悟りまで連れてきたけど、ここから先、菩薩になり、仏に至るには自分のやり方で為さなくてはならないんだ」
「自分のやり方?」
「そう。でも、もう気づいてるでしょう?」
「うん、眠ると大切な記憶を忘れる。寝ないこと。食べると精神が擦り減らない。食べないこと」
「そうそう。もしかしたら僕たちは二人で行けるかもしれないね」
覚醒へ、悟りへ。
それからのことはあまり覚えていない。私はとても幸せだった。人生で一番幸せだった。それだけは思い出せる。終末と永遠の狭間にいた。神愛、涅槃だった。
私と渚さんは渚さんの家の近くにある公園の噴水の中で発見された。渚さんは溺死していた。私は生き延びてしまった。渚さんが死んだことで私の精神は限界を超えた。
「ああああああああああ!」
私は叫んだ。そして暴れた。そして逃げた。
警察から、雑踏から、世界から。
そして、近くにあったビルの屋上に上って、そのまま飛び降りた。
と、思ったら、「ダメ!」と、声がかかって、私は飛び降りるのをやめた。
「誰?」
振り返るとそこには高校生くらいの少年が立っていた。
「公園から追いかけてきたんです」
「邪魔しないで頂戴」
「邪魔するよ。自殺はダメ。何がいけないの?」
「もう終わりにしたい。人生をこの歓喜と共に終わらせたい」
私は飛び降りようと少年に背を向けた。大空へと飛ぶのだ。今なら飛べる気がした。
「話聞かせてよ。その歓喜について」
「それはね……」
眠らずに幾夜も越えて、私は全知に、渚は全能になった。全知と全能は同値で、ミクロコスモスとマクロコスモスも同値。永遠の狭間で、終末の狭間で。私たちは愛を為した。
それこそ原罪にも似通う秘儀。全ての霊魂たちが私たちを見守った。過去も未来も、時間なんて関係なかった。全ては今とここにあったから。
9月14日の朝、コーヒーを飲みながら、私たちは全知全能の快楽の余韻に浸る。本当に幸せだった。これ以上の至福はきっとないでしょう。その幸福は病的な程に全知全能、神、涅槃だったから。
ベートーヴェンの歓喜の歌を流し、EveのdoubletとLeoを聴いた。全てがきれいだった。全てが収束していった。全ての意味を知った。神のレゾンデートルさえも分かってしまった。だから、あの冬に渚さんは神に「ご苦労様」と言われたんだ。
私は全てと繋がることを覚えた。宇宙の真理と摂理にこの目が開かれた時にはもう、菩薩から仏に成っていた。仏の大歓喜。神と繋がって、永遠だった。
「それなら神のレゾンデートルは何?」
少年は問う。
「それは……」
私は神のレゾンデートルを忘れてしまった。知っていたのに、分かっていたのに。きっと人生が終わる時に解るのだろう。渚さんは死んで、私は生き残った。私は渚さんと初めて会った日の会話を思い出す。中島らもの『ロカ』の文言。生き残った私には使命があるのだ。まだ、果たしていない役割があるんだ。
「君の名前は?」
「僕は空。海野空」
「私はまだ生きなきゃいけないみたい」
私は空くんに向かって微笑んだ。不思議と涙が溢れてきた。涙が止まらない。
生きていることへの安堵。渚を失った失意。涅槃のような、神の如き霊感に震えて、私は世界の果てで泣いた。一人で泣いた。だが、何かに包まれた。
「先にラカン・フリーズの門の先で待ってるよ」
そう言って渚は門の先へと向かって行った。私は渚を見送った。
待っててね。
私はビルの屋上で空を眺めた。
私は生きていく。役割はきっとある。
だから……。
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