映画『ふつうの子ども』レビュー
子どもたちの間にも生まれる「社会」性。それを大人な視点から施しがちな加工を一切行わずにドラマとしてスクリーンにきちんと映し取る。かかる試みに成功した時、生まれるドラマはどんなものだろうか?彼らの純粋な魂で直に触れる世界の美しさを掬い取るヒューマンもの、大人への階段を上りつつある人間的な成長を包み込むように描く感動、もしくはSNS時代を経て今は昔になってしまった「子ども」のステレオタイプなイメージを揶揄する社会派の作品、逆三角形の人口統計を辿る本邦において未だ蔓延る懐古主義的な子ども像を皮肉る尖った作品、あるいは見たことも聞いたこともない宇宙人よりもさらに理解不能な彼らの実際。それとも…。はたまた…。
さきの問いに対して自答するように羅列できるこれらの内容は、しかしながら既にドラマや映画の枠で数多く描かれていて、子どもの物語を再生産可能なものとする型として機能している。そのことに気付いた時、呉美保×高田亮という監督及び脚本の強力タッグが本作で挑んだことの難しさと成し遂げて「しまった」ことの偉大さは果てしなく、その凄さは映画の未来に語り継がれること間違いなし!と明言できる。どのジャンルにも収まりきれないモンスター級の映像作品が今、劇場でかかっていることに一映画ファンとしては滂沱の嵐ですよ。凄すぎますって『ふつうの子ども』。
物語の骨格自体はシンプルなんです。
子どもらしい子供を代表する主人公、唯士が好きな女の子は心愛。その心愛が関心を持つ環境問題を上手く使って彼女と仲良くなろうとする唯士がひょんなことから関わりを持つようになったクラスの暴れん坊、陽斗のことを心愛が見た目重視で気にしてるもんだから三人で集まって環境問題を訴える抗議活動をやっちゃおう!という流れになり、子供らしい無邪気さが次第に暴走して、どんどん問題が大きくなって…という具合に王道のドラマの筋を辿ります。クラスの全員をオーディションに選んだというだけあって、唯士を中心とした実に子どもなやり取りは大人からすれば「ああ、あったあった!」な懐かしさとなり、彼や彼女と同じくらいの子供たちから見れば「何やってんだよ〜!」ないつもの日常とそう変わらない、けれど、けらけら笑えるぐらいのストレンジな振舞いとしてエンタメするし、唯士の両親を中心とした親側の滑稽な描写も劇場のあちこちで笑いを生む。そういう気安い雰囲気が満ちていきます。
他方で、環境問題に対する抗議活動については徹底してリアリズムを採用するのが本作の怖いところです。
温暖化を軸に掘り下げられる問題の根深さは、次第に肉を食べなくなる唯士たちの成長過程への影響を気にする棘となったり、あるいは自分たちの声に少しも耳を傾けてようとしない親ないし大人たちへの不信となって、子供の無邪気な正義心に火をつけ、さらには家庭「環境」に起因する心愛や陽斗自身の問題を引き摺ってより重く、深刻になっていきます。
抗議活動に励んでいた三人の関係も、まるで全共闘時代の生き写しといわんばかりの内実を辿るようになって口の中に苦味だけが広がっていく。彼らなりに必死になって頑張った抗議活動の最中、街を駆け走る時に見せる三人の笑顔が本当に素敵だったから、終盤に待っている法的に正しいハラハラドキドキの山場が真のハイライトで目が離せませんでした。そこで披露される子供をめぐる問題群がとことん煮詰めたように濃厚な味わいで、こちらに襲い掛かってくるものの多さに圧倒されるばかり。子どもたちの間に生まれる「社会」性を切り取ろうとすれば、あなたたちもそれに巻き込まれて当然でしょ、と観客の胸にドン!と押し付けられる書類の束の厚さったらないですよ…。序盤から中盤にかけてはあんなに笑えてたのに。その落差がガチのジェットコースター。高田亮さん、マジで容赦なし。
ラストカットまでどうなるのか、先が読めないままにエンドロールに雪崩れ込むような足元の覚束なさは『ふつうの子ども』というタイトルをある意味でホラーにします。でもですね、やべぇもん観たわ…と恐れ慄くところで最後に来るんですよ、最高の感動が。たまらない愛おしさが。詩的な余韻すら感じさせる見事な昇華の瞬間が。「あれ」を観ちゃうともう手放しに絶賛せざるを得ません。拍手喝采大絶賛。白眉も白眉。文字の上では再現できない巻き舌の限りを尽くして「マーベラス!」と叫ぶ私です。素晴らしい、本当に素晴らしい最後でした。
邦画の良し悪しを語るなら本作を観てからにしなきゃ説得力は得られないと私はここに断言します。ミニシアター系、むちゃくちゃ面白いことになってますよ。興味がある方は勿論、普段映画を観ないという方にも本作は観てもらいたい。私も時間の許す限り、あちらこちらの劇場に足繁く通いたいと思います。あ〜〜〜〜〜〜〜〜面白かったーーーーーーー!!!
映画『ふつうの子ども』レビュー