ツキ
西側の山の端が、ほのかに明るい。もうすぐ月がのぼってくるのだろう。
日が沈んでしばらく経ったころ。家々や街灯に明かりがともり、わたしのため息から生まれたような、ひっそりとした時間だ。
この辺りを観光地にしている要素である、長い木造の橋が、広く浅い川を、三つの弧をつらねて渡っている。その影は、おとなしい獣がならび水をのむ姿を思わせる。
川辺に設けられた木のベンチのひとつに、彼女がすわり、暗く深い青さの夕空から来る、おだやかな風を受けている。
彼女はスマートフォンに文字を打ちこみ、さかんに誰かとやりとりをする様子。わたしのことなど一瞥すらしない。
わたしは彼女のとなりに腰をおろし、その長い黒髪をそっと撫で続けているのに。
彼女がいまメッセージを送り合っているのは、新しい恋の相手にちがいない。その相手が、男性なのか、女性なのかはわからない。でもかなりお熱の模様。
前の恋人であるわたしが急に世を去って、まだふた月ほどなのに、もう別の相手にのぼせている。
こういうところが、とてもこの子らしい。ちいさな裏切りをくりかえし、わたしの心を揺さぶり続けた。わたしはそれも彼女のかわいらしさだと思って耐えていた。
風が彼女の髪を浮かせる。わたしはそれを手で受ける。しかし水がこぼれ落ちるように、髪はわたしの手をすり抜け、彼女の背にもどってしまう。
砂利を踏む足音が近づく。
彼女はそちらを見、ぱっと顔を明るくする。
わたしは彼女の髪に口づけて立つ。彼女も立って、足音の主のほうに向かう。
わたしは逆方向へと歩きだす。橋の影が獣となって待つほうへ。
山の上に、まるい月があらわれていた。その静かな、澄んだ光。
ちいさな星の光が人の姿をつかの間つくりだしただけの存在であるわたしは、徐々に消えはじめる。
わたしは橋を渡りはじめる。向こう岸に着くことはないだろう。
虫が鳴いている。
もう秋だ。
ツキ