土の竜が空を仰ぐ
地面の下のずっと下、土の中。
土竜たちの国がある。土の中を自在に動き回る土竜。土の外の世界は空に包まれている。どこまでいっても果てがないと聞いた。そして空には同じ字をもつ「竜」が自分らと同じように、自在に、自由に空を泳いでいると。行ったことのない土のなかの外の世界を年寄りたちは、話してくれた。土松は、土竜の中では、いちばん立派な手と爪をもち、体もいちばん大きいと自負している。仲間たちとの勝負には負けたことがない。
耳も良く、土のなかでは行ったことのないところはない。それで土松は自信満々、前途は揚々、土のなかで生きる奴らの中で、俺に勝るものはいない。姿を見たら、逃げ出すかそのまま土松に食べられてしまうかだ。
ある日、大好物の蚯蚓をつかまえた。くねくねと必死で逃げようとする。土松は、その時はそこまで空腹ではなかったから、しばらく弄んでやろうと、爪にひっかけるようにして抑え込んだ。
「ああ、死ぬのか、食われるのか、私は。お前みたいなけだものに食われるくらいなら、土の外へ出て、ひからびて死んだ方がましだ。」
「ははは。どうで死ぬのは同じことさ。俺の腹の中でとけて。俺の養分となるんだ。お前らにはそれくらいしか役に立たないだろう。ひからびて死ぬよりよほど役にたつ死に方だぞ」
「勝手に決めるな。好きでこの姿に生まれたんじゃない。生まれるのは選べないが、死に方くらい選ばせてくれ。腹が減っていないなら、見逃してくれ。」
「おまえのようによく話す蚯蚓は初めてだ。たいていの奴らはぴいぴい泣くだけだぞ」
「そうだろう。太陽の光の熱さを知っているのも私だけだ。知っているからこそ、最期はあの日光に焼かれて死にたい」
「だから、見逃してくれ。他にいくらでもいるだろう。太っておいしそうなやつ、生きのいい若いやつ。私のようにひょろひょろで食べ応えのないものを食ったって腹の足しにならんぞ。大して腹も減っていないのに遊び半分で食うのはやめてくれ」
蚯蚓は必死で命乞いをする。土松にとっては、蚯蚓は食べ物で、多少、知性のある話し方をしても、食べてしまえば、同じ味だった。この蚯蚓は、外の世界にある「太陽」、「光」という聞いたことはあるが、まったくどんなものか見当もつかない言葉を知っている。そして「日光」にあたって、体中の水分を失ってカラカラになって死にたいと願っている。
「お前は外に出たらひからびて死ぬというが、俺たちはどうだ?どうなるか知っているか?」
「さあね。だが何世代にもわたって、お前たちがここで生きているのは、太陽と無縁だからだ。大きな影響を受けるから出られない。老人たちにそう聞いているはずだ。彼らはその上の世代から、そういいきかされている。本当にはどうなるかなんてたぶん誰もしらない。だが、出ようと思えば出られるのにそうしないのは、なにかよくないことがあると考えるのが普通だ。」
蚯蚓はさらに言う。命ごいではなく、まるで諭すように。
「おかしなことを考えるなよ。お前はほかのやつらより、豪胆なようだから、自分を試そうとか、禁じられていることをやりたがり、知らない世界に飛び出したいとか、自分が第一号になりたいとか、考えているだろう。やめておけ。きっと後悔する。強くて体も大きいが、お前はしょせん土竜だ。土竜の分際で・・・」
蚯蚓は、土松の手をすり抜けて、土の壁のすきまに潜り込んでいった。
逃げられてしまった。食い損ねたと思うと、急に空腹を感じた。土松は、蚯蚓に己の一生や限界を決めつけられてしまったようで、すきっ腹にいらだちもわいてきた。
「あいつ食べてしまえばよかった」
お前の最後はこんなものだ、と思い知らせてやればよかった。土松は猛然と闇雲に掘り進んだ。
今までは、この世界でじゅうぶん満ち足りていた。ここでは自分は万能だ。仲間のなかで誰よりも強く、掘る強さも誰にも負けない。知恵だってある。獲物をとってきて非力な仲間たちに分けてやることもできる。強さは魅力だ。女にももてる。土松の子孫たちはそこかしこに生まれている。
外の世界が、太陽が、どれほどのものか、自分の今をひっくり返すほどに強烈なものなのか、日光はどれほど熱いのか、俺のこの毛と厚い皮膚と強い爪を焼き切れるか。
土松の頭の中に、蚯蚓の嘲笑が響く。食い物になるための醜い毛のない生き物のくせに俺に忠告などした。
前だけでなく、後ろも目指そうと土松は決意した。今よりもっと賞賛を受け、憧れられるに違いない。あの蚯蚓、「後悔するぞ」と言ったな。後悔などしない。おれはきっとやってのける。日光とやらがこの身を焼く前に、ひらりとかわしてやる。太陽、外の世界、日光を一目見て、どんな音がしたか、どんなにおいだったかを仲間たちに話してやるんだ。
そう思い出したら、土松は、外へ出ていくことへの衝動を止められなくなった。仲間たちに話せばきっと止められる。外の世界にいった証拠を持ち帰り、驚かせてやろう。何がいいかな。土の世界に張り巡らされた根っこ。この根っこをたどると美しい「花」というものが咲いているという。花を持って帰ろう。土松たちは「色」を知らない。花には色と香りがあるという。土松たちは耳ほどではないが、鼻も利く。
上へ向かうほど、土は湿り気を帯びていて重たくなる。土松は夢中で掘り進んだ。あっけなく道は開けた。
「それ以上行ってはいけない」
幼いころ大人たちが、小さな土松たちに言い聞かせた。見たことのないものを恐れ、戒めをかたくなに守り続けた。それが命をつないでいく知恵だとして。
俺は、太陽をみた最初で唯一の土竜になる。外の世界の空にいるという「竜」にあってみたい。掘り進んでいた土の感触が軽くなった。爪先にふわりと風が触れた。
「外だ、外に出るぞ」
地面は、炎の矢が降り注いだあとのように熱かった。土松は色をしらない。色を知る前に、土の中より真っ暗な闇に包まれた。真っ暗な闇の中で、土松は体中を刺される痛みを感じた。噛まれるような鋭い痛みだった。
バリバリ、カッ、ザクリ。
熱さはいろんな音がした。後悔どころか、なにかを感じる間もなく、土松は日光に殺されてしまった。
「ああ、かわいそうに。まちがって外へでてしまったんだね。小さいね。熱かったろう」
土松が見たことがない「人間」だった。土松の世界のすべてはこのひとりの農夫が耕す小さな畑の下にあった。
空を悠々と泳ぐ竜の一匹が、下界に目をとめた。この竜の目は千里先をみることができる。黒い点を、人間が、見下ろしている。穴を掘りその黒い点を土に埋めていた。それだけだった。竜には一つの感想もない。人間にも竜は白い雲のようにしか見えない。
雲は風によって、千々に分かれるが、風が吹いてもばらばらにならず、形を変えないものがあれば、それは白い竜である。
「どうしたの?下に何かあった?」
仲間の竜が尋ねる。竜は多くが孤独だが、この白い竜にも仲間がいる。
「いいや。でも思い出した。下界の土の中には、“もぐら”というものがいてね、私たちと同じ字を持っているんだ。土の竜と書くんだ。私たちと同じように土の中で自由に自在に泳ぐそうだよ」
「知らなかったな。姿かたちも似ているのかな」
「見たことないから分からないな」
たわむれに雨を降らし、たいくつしのぎに風を起こす。土松たちの寿命は長くて三年、空にいる竜はあと百年は生きることだろう。
土の竜が空を仰ぐ