『よわむしがふしぎについてかたる。』
とくべつ。
とくべつを目指す人々はきっととくべつなひとだと思う。
とくべつは本物だけれど最初から本物で存在するわけではないのではないかとわたしは思う。
紆余曲折得てとくべつを目指していく過程、ご本人も気がついたら本物になってゆくのでは。
とくべつを目指す人びとはとくべつが自分の一歩前にあっていつも届かないことが面白かったり奮起したりすることができる人びとなのかなとわたしは思う。
とくべつは追いかける部類、本物は成るものという区別を私は現在はしている。
とくべつを追いかけなくてもひとはちゃんと生きていけること。
これが大前提だ。
だからとくべつを目指す人びとは、わたしはとくべつなひとだと個人的には思っている。
とくべつを目指す人々のおかげでさまざまな素晴らしい芸術やアーティストが生まれる。
テクノロジー分野の革新もそうかもしれない。
とくべつが世界の最先端、世界を少しずつ動かしている。
恩恵が世界に染みわたり広がる。
とても不思議でありがたいとわたしは思う。
ニュース。
世界中の多くの物事が近いようでわたしはとても遠く感じる。
今の時代TVでもスマホでも遠くのニュースがすぐ届く、アクセスできる。
高度情報化社会だけれど本当の事実なんて当事者たちやそれを取り巻く情勢さえ嘘か真実か常に揺らいでいて、その状況でスピーディに届けられる大量の結果たちに、わたしはつい、距離をおいてしまう。
情報を解釈するということは自分の枠組みで、ある意味測るということかなとわたしは思う。
自分の枠組みにゆとりというか遊びがあったり、多種多様であれば、情報を解釈するときに事実の連なり以外の想像の部分が少し残される。
わたしはその想像の部分にそのひとらしさやそのひとの今ある状態が良くも悪くも浮き彫りにされてしまうと思っている。
情報からわかることは実はほんの少し、全体の一部、構成要素でそれを自分で組み立てられる人々が強いと思う。
再構築できるほど強く生きている、というか。
わたしはそういう人びとが好きだ。
世界中、多くの情報を取捨選択して受け取り、そこから自分が何を学び取り何を省み何を生み出すか。
何を現在の生活のなか活かすのか。
情報の利用のしかたを考えてしまう。
わたしはうずまく情報からときどき身を引く。
けれど数多ある情報たちから小さな再構築を始める一歩を踏み出すことは世界にとって悪いことではないのではないかなと、わたしは感じる。
TVの向こう側の悲哀は現実のものだった。
その現実から今日も問いかけられる。
人類の矛盾と学びの尽きなさを。
ありとふしぎ。
蟻一匹でさえ聞かれてもわからないことだらけ、いろんな不思議があるのに、世界くらいになると不思議だらけ、不思議にあふれているのかなと思う。
前提や当たり前を疑うということは本来怖いことだとわたしは思っている。
わたしは前提や当たり前は疑うというより単に実に不思議だなと思ってしまうほう。
だから何か行為について理由を説明されたらされたでふむ、と必ずしも腑に落ちるわけではないけれどとりあえず頷いてみせるし、理由の説明が無いなら無いで、ふうんとなんとなく流せて思うし、でも、その何かは不思議なことだよなあとはどちらにせよ思う。
思うことは現代において自由だから単に不思議だと思うわたしの気持ちはとめられない。
わたしの場合、不思議は呆れとは真逆な気持ち。
呆れるまでいくと私はコミュニケーションの必要はあまり感じなくなる。
呆れてしまった人びととは情報伝達に限ってしまう。
ものでもひとでもことがらでも、不思議は愛だよなと個人的には思う。
わたしから不思議のまなざしを向けられた人びとは、たじろぐほど愛されているのかもしれない。
なんてね。
動くこころ。
世の中には、言葉にならないことや言葉だけではたちうちできないものごとがあふれていると思う。
わたしは、最上級の感動は言葉にはならないと思っている。
言葉は無力になる。
人それぞれだとはわたしは想像するけれども、何でもかんでもレッテル的な言葉をばんばんと貼る、また何でもかんでも詳細に言葉に尽くすことも、どちらも最上級の感動の前には書きあらわせることというのが、とても難しいのではないかとわたしは信じている。
わたしが美しいというものは醜さをふくんでいる。
人間の醜さは人間らしさのひとつだと個人的に思っている。
醜さの中に人間の汚さはわたしはあまり感じない。
人間の汚さは人間らしさから少しずつ離れてゆく行為の中に当てはまると個人的に感じている。
これは発酵の科学に近いかもしれない。
発酵は、腐るとは同じ原理かもしれないが別物の表現であることに、近い。
世の中にはいろんな人々がいる。
いろんなできごとがおこる。
そのなかでどう動くか。
動くことと同じように待つことも必要だ。
個人でも、集団でもいろんな判断がある。
同じ判断でもやり方が違うこともある。
世の中は本当に少数派にとって多様に見えるものであり、多数派にとっては決まったルートが確立されているように見える。
世の中はイコール世界では、ない。
少なくともわたしの中では。
世の中とは、もっと身近に接近している常識のテリトリーだとわたしは思っている。
言葉にできない感動にであえたらとても幸運だ。
そのひとは感動と幸運を心ゆくまで味わい尽くせば良い。
誰かや何かに証明するよう説明する言葉を必死に探すより、豊かに世界に微笑むほうが雄弁に語ることも多いから。
問いを解く。
わたしは支援者という立場の人びとが、わたしたち利用者になにを見ているのかと施設にいるとたびたび不思議を感じることがある。
これは今に始まったことではなくB型就労支援施設へ入所してからずっとだ。
ずっとわたしは不思議を感じている。
現在、スマホアプリで介護福祉士試験の過去問を繰り返し解くものがありそれをスキマ時間でやってみているのだけれど、わたしの解答が合っているか間違っているのかというようなものはあまりわたしは重視していない。(もちろん専門知識が無いため基本的に間違うし、本来の利用方法とは違う)
現在は、介護福祉士という国家資格をもつ人びとや介護福祉士という人びとを生み出した人びとの視点を少しだけのぞかせていただいている感覚に近い。
介護福祉士さんたちがわたしたち利用者になにを見ているのか、介護福祉士という職業のお立場からこの社会はどのように見えているのか、スマホアプリの過去問をひたすら解くことで、わたしは自分のもつ長年の支援者たちへの不思議が解けるように少しずつ想像している。
過去問からわたしが感じ取ることができたことは、わたしをずっと前に支援してくださったある精神保健福祉士さんのわたしへの適切な距離感の正体に近いものだった。
その方は精神保健福祉士で介護福祉士ではないけれどわたしを支援してくださったひとで、よく利用者さんたちの事情を観察してくださっていて、なんだかいつもひょうひょうとしていた。
介護福祉士の過去問をひたすら解いていてその精神保健福祉士さんのことをわたしはふと思い出していた。
精神保健福祉士であった彼はたぶん、ケースだけを見ているわけではなく、ケースの中にいる人びとのひととなりを日々激務の中で観察し、当事者を囲む支援チームでコミュニケーションを取り続け試行錯誤しながら課題解決に少しでも進むよう地道に当事は働いていたのだと、本当に想像しかできないのだけれど、わたしは今さらながらそのようなことをひしひしと感じた。
そして月並みな言葉になってしまうけれど、その精神保健福祉士さんの奮闘の日々に、適切な距離感の温かな空間に、その支援をされたという想い出に、やっぱり今でもわたしは改めて感謝をしてしまう。
わたしは、彼とわかりあえない人びともたくさんいたと感じるが、そういうことに関わらず彼は利用者さんたちを観察し続けてくれていたような気も確かにしていて、これまた月並みな表現だけれど彼は彼なりに当事はわたしたちを見守っていてくれていたのだなと個人的に強く思う。
介護福祉士に限らないとは思うけれど、過去問は知識の集約だとわたしは感じる。
知識は扉だ。
その専門知識が現場で血肉となり実際に人びとを手助けする技術へ発展するためには、1人きりの力や立場ではとても難しいのではないかとわたしは想像する。
人間は、重い。存在がある。
精神保健福祉士であった彼は今は施設にはいない。
支援職であってもそうではなくとも、彼は彼の力を誰かと共に今も発揮しているだろう。
わたしはそう信じている。
彼は、わたしに関してはとても大きな不思議な存在だった。
介護福祉士の過去問を解いて、長年の不思議が少しだけ解け、懐かしさも同時に抱くのである。
悲喜こもごも想い出を経る。
人間の理だ。
今度は、会いに行けるようにするよと心のなかで笑って、わたしはあの頃の記憶を解く。
仕事。
ある人々を見ていて、いろんなことを感じた数年間だった。
実際にわたしがある人々と出会ってお話をしているわけではないので見ているという表現は少し違うのかもしれない。
それでもある人々をわたしはずっと見ていて、ある人々に舞い込んでしまった仕事の数々をなけなしの頭で想像し、わたしなりに感じたことがある。
その仕事は誰にでも任される仕事ではないこと、つまり誰にでもできる仕事ではないこと。
誰からも支持されなくてもその時点で誰かがやらなければならない仕事というものが世界にはあること。
仕事の判断や決断に迷い続ける時間は無い場合があり、どれだけ時間内で考えていても判断や決断を間違う場合があること。
その判断や決断は、自分自身で考えても他の誰かが考えても、設定された状況下で、集まった情報がある程度同じならば誰が考えても似たような道筋をたどり、判断や決断も大した違いは無いこと。
その仕事をやるかやらないかをそもそも決める権利が自分自身に無ければどのように進行させるか、過程にこそオリジナリティがでること。
自分自身ではなく誰がその仕事をしても仕事を進める限り結果が出て、必ず失敗したり成功したりすること。
仕事の失敗や成功はその時点の結果のひとつであり、結末ではなく、評価媒体や評価視点が変われば再評価される可能性があること、だ。
ある人々の仕事は当然ひとつだけではない。
多様だ。
多面的な見方をすれば多面的な評価になる。
ひとつの仕事があっても、ひとつの仕事は豊かになにかと繋がり樹木のような広がりを見せる。
結果は結末ではなく、その時点を写真のように切り取っているのではないだろうかと思う。
仕事は思い出ではないとは感じるけれど、写真のように切り取られたその一枚は、自分自身へ問いかける。
それは、良い仕事だったのかと。
ある人々へ任された仕事をわたしは知らない。
知らないけれども、ある人々をずっと遠くから見ていて、その仕事を感じる。
その仕事はどこから来たのだろう。
任されるということは任す人間がいる。
任すその人びとは、どんな人間なのだろう。
その人間たちは、どのように仕事をするのだろう。
ある人々の仕事を見つめた数年間、わたしは想像だけしていた。
良い仕事でも悪い仕事でも過程にはオリジナリティが出る。
良くも悪くも、自分自身の仕事のやり方が顔を出す。
仕事のやり方は人それぞれだ。
そして仕事は必ず誰かと繋がってしまう。
想像以上に。
ある人々とわたしはひんぱんに出会っているわけではない。
ただ、なんとなく見守っている。
ある人々の仕事をしている姿を遠くで見かけたり、想像したりしながら、世界が仕事でまわっている不思議を噛みしめている。
『よわむしがふしぎについてかたる。』