黒
本作は『幸福シリーズ』の一作『終演』の冒頭部分です。
シリーズの文脈ありだと『黒』は、"自殺に足る絶望"を越えて弱っている状態で、最後の避難所が内部から汚染・侵食される、まさにそれ。
そのような作品であることが、より際立つかと思います。
くれぐれも無理はなさらずに。
最初の影は、台所の巾木の黒を少しだけ濃くしてから、外れた。
虫が嫌いで先月、念のために買っておいたスプレーがここにある。缶を握る手が汗で滑り、指が勝手に震える。噴射。白い霧が床にぬめる輪をつくる。甘い薬剤の匂いが喉の奥に刺さり、胸の形が少し変わる。
ひっくり返った腹。脚が、空を掻くように回る。僕は近づけない。ティッシュを重ねても、厚みが足りない気がして、さらに重ねる。ビニール手袋が爪に引っかかり、薄い音で破ける。噴射。もう一度。もう一度。空気がざらつく。
天井の白が揺れる頃、壁の小さな箱が目を覚ます。
――ピーピーピー、ガスが漏れていませんか?
家が僕に尋ねてくる。窓を開ける。冷たい風が入って、薬剤の匂いは外に出ず、部屋の中で輪を描くだけだ。
時計の秒針が、いつもよりたくさんある。十本、二十本。時間が増殖していく。ティッシュを折り、袋の口を開け、深呼吸のふりをして、拾い上げるふりをして、やっと包む。結び目を固くひねる。
缶を置くと、指先はまだ噴射の姿勢のまま固まっている。床に細い白い円が残っている。
眠れなくて、外に出た。薬剤の匂いを少し連れて、玄関のドアが夜の温度に重く閉まる。堤防まで歩く。下は闇で、十メートルはある。手すりの冷たさで高さを測る。川の黒は音だけを運び、風が胸の形を入れ替える。足音が二つに割れて、ひとつは水に落ち、もうひとつは僕の中で反響する。考えない練習をする。息を整えるふりをして、ただ、そこに立つ。
帰りにコンビニ。缶の底の金属味が舌に残る。心拍だけが先へ走る。
戻ると、台所の床に白い腹があった。仰向けのまま、脚が止まっている。静かだ。静かさがうるさい。スプレーの甘い残り香が壁に貼りついていて、窓を少し開けても剥がれない。ビニール袋の口を開け、折り畳んだティッシュをもう一枚足し、持ち上げるふりをして、やっと包む。結び目をひねる音が、夜の真ん中に小さく刺さる。
カフェインが効いて眠れないので『EoE』。それでもまだ、眠れないので『地下椿』。最後に『人間失格編』を見る。白と黒の画が胸の裏で混ざり、時計の秒針がまた増える。小説『無題』を考案、完成させた。48時間。心臓に痛み。眠ることにした。
それからも、いくつか出た。見つけるたび、動作は決まっていくのに、手は毎回初めての手をしている。風呂場へ運ぶ。シャワーを当てる。ぬるい水が体を軽くしたり重くしたりしながら、排水口の渦へと押していく。網目に脚が引っかかる。指で触れられず、水量を少しずつ上げる。金属の栓がカタリと鳴って、黒いものは見えないところへ消える。消えたのに、しばらく耳の奥で水の音だけが続く。
大きいのが出た。台所の境目ではなく、はっきりと“こちら”にいた。黒が動くたび、部屋の輪郭が少し遅れて揺れる。缶を握り、押す。白い霧が走り、床の模様が曇る。音は出さないでくれ、と祈るみたいに、長く、何度も。通気口へ向けて、息を塞ぐ角度で噴きこむ。格子の奥の暗さが、少しだけ白く濁る。脚が止まる。袋を開ける。掴めない。ティッシュを重ねる。やっと包む。結び目を固く捻る。
静かになる。静かさが、またうるさくなる。どこかで紙を撫でるような音。クローゼットだろうか。戸の隙間から、冷たいにおい。もう一度、缶を握る。暗い空気へ、ためらいの長さぶんだけ霧を送りこむ。息を吐き、何も起きていないふりをする。
気持ちを沈めるために、無駄をつくる。流しの前で、鍋に水を張る。火。ふちに小さな泡が並び、やがて中央が白く騒ぐ。蕎麦。黒い線が湯を泳ぎ、湯気が顔に触れる。湯気だけは味方だ。ざるにあげ、水をかける。しばらく見ている。食べる。噛む音を、夜の真ん中に置いていく。何も考えない、の練習をもう一度する。動く気配があるだけで、頭の内側が黒くなる。
朝。トイレで用を足し、手を拭いて出ようとした瞬間、黒いものが足に当たった。跳ねる。心臓が先にこぼれる。缶を掴む。噴射。霧の輪が床に重なる。大きい。元気だ。後退する。奥へ。通気口の格子の下で、ポトリ、と別の影が落ちる。二つの袋。二つの結び目。床を拭く。拭いたところだけが、やけに明るい。
それから、視線を戻す。さっきまで元気だった個体のはずの——
死骸が、ない。
黒
この一、二ヶ月、家は「輪」と「音」でできていた。通気口の格子、排水口の渦、霧の白い円、袋の結び目。
逃げるために書いた十篇は、あとから見ると、どれも輪の内側に置いた印だった。最後の一匹を片づけて外に出た朝、湯気だけは味方だ、と思った。