映画『遠い山なみの光』レビュー

 原作はカズオイシグロさんの小説。
 理路整然として、淡々と語られる悦子の過去においてたった一点、レンズの焦点が歪にぼやける描写が終盤に現れた途端、小説世界に立ち込める不穏さ。それを振り切ろうとして、語りを成すピースを集め直して形にしても朧げにしか像を結ばない真実には、けれど戦争の傷跡が生々しい「あの頃」を必死に生きていた彼や彼女の個人史が立ち現れ、それが誰なのかも分からないままにその選択を強く、強く抱き締めたくなる。そういう匿名性が読者の心を打つ、とても優しい一冊です。
 かかる傑作を実写化した映画の特徴は先ず、誰の話なのか?という点に明確な答えを与えていること。ヒューマンミステリーという副題が答えるポイントです。
 その為に石川慶監督が本作に加えたアレンジは二つ。一つは悦子の娘であるニキのキャラクターと役割。原作では親を煙たがるドライな印象を受けるニキでしたが、スクリーンではとても豊かな内面を見せていて、ストーリーを牽引する積極性が映画『遠い山なみの光』の質感を大きく変えています。カミラ・アイコさんの好演が光る見所のひとつです。
 二つ目は原作に登場するある人物について、ニキのキャラクターを膨らませるのとはまた別の、大きな梃入れを図っていること。その効果は非常にエモーショナルで、佐知子やその娘、万里子に向け続けた観客の眼差しを揺さぶります。人が何かを問われたとき、物語らなければ語れないものの在処を指し示すのにうってつけのこの演出は、同時に過去への郷愁や抱え切れない後悔を未来へと繋げる橋渡しの意味を持つ優れたものだと感じました。真実は、ただ白日の元に晒されるだけでは救われない。記録と照らし合わせて整合性が取れる事実以上の想いを、痛みを、覚えて理解しないと進めない重荷を多くの人が抱えている。
 元教師である悦子が勤めていた学校の校長先生で、悦子の夫の父でもある緒方の話も、ここに重ねて読み解くと忘れられないエピソードになるんですよね。
 軍国主義から民主主義へと進む世の中にあって、新しい時代の潮流を傍からぼうっと眺めざるを得ないような緒方がたった一度、劇中で見せる激昂は社会的動物としての人間が吐き出す本音。それを突っぱねる者が大勢いる中でただ一人、手に手を重ねて言葉をかける悦子の姿は、30年の時を経て、1980年代に身を置く悦子とニキの関係にも晴れ間をもたらし、去っていきます。長崎を後にする時に手にしていた緒方のトランクはひとつの象徴で、ニキがロンドンに帰る際には中身がパンパンになって悦子と二人、全体重をかけて閉めないと鍵すらかけられない状態になっていました。
 そんな大荷物をひとり抱えて歩くニキ。自然豊かな田舎道で、木漏れ日の中で生きる姿を真正面から捉えるラストシーンの画角は、現実の上で過去になった彼女を出迎える私たちの「今」の現れであり、そこから振り返った背後に広がる未来の提示なのだと私は受け止めました。悦子と佐知子、二人が出会って交差することで浮かび上がる本邦の歴史と個人の人生は、一方が他方を飲み込むようなものでは決してない。複雑に編まれてはいても、かぎ針を真摯に動かせばその顔に出会える。語りかけられる。そのために「リアリティが命」という映画の命題は本作においては凶暴なぐらいにその牙を製作陣に向けたはずで、少しのほつれも許されないキングストン弁として本作の出来を左右したことは映像の端々からも伝わってきました。
 悦子と二郎が暮らす部屋の作り込み方、復興途上の街並み、佐知子と万里子が暮らす荒屋の心許なさ、人々の間で繰り返されるやり取り、言葉づかい。その全てで作り上げる肌実感を覚える1950年代の長崎。その日々を彩る天候だけが幻想的で、ガラスの表面に付けられた傷のように存在感を増していく塩梅は巧みの一言に尽きる表現。広瀬すずさんと二階堂ふみさんの間で水と油のよう弾けたり、溶け合ったりする珠玉の演技を映させるイメージ群として見惚れるばかりでした。個人的には万里子を演じられた鈴木碧桜さんにも称賛を送りたい。あの純粋さがあってこその本作。抑制の効いた吉田羊さんの悦子が伝える鈍い痛みと対照的な演技で、忘れ難い経験となりました。
 滋味深い一作です。原作は読まなくても大丈夫だと思いますが、原作を読んだ後だと『遠い山なみの光』というタイトルに覚える思いを新たにすること間違いなし。ページ数も多くなく、平易な文体でスルスルと読めるので、一読することをお勧めします。興味がある方は是非、劇中へ足を運んで頂ければ幸いです。

映画『遠い山なみの光』レビュー

映画『遠い山なみの光』レビュー

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-09-11

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