文芸人のエコーチェンバー
旧知の友へ、窮地の友から
羽田空港へ向かう飛行機。明日から連休が始まるのもあって、予約するときも高かったし、ちゃんと満席だ。
窓側の席で、下のほうには連なる山々とか大きな湖とか、ジオラマで見るような町並みが見えていた。それがどこなのか確証はないけれど、今は千歳から半分くらいだから、福島県とかその辺りか。
目線を上げると眩しい。今日は雲が少なくて、地平線の向こうに綺麗な夕焼けが見える。
……本当に、来て良かったのかな?
今頃、大学では三回目の新歓説明会が始まるところだ。今日も合評体験をする。この日のために佳乃ちゃんが作品を書いてくれた。去年までは、たくさんの部員が発表できる本紹介企画を二回、合評体験を一回にしていたけれど、今年はやっぱり文芸部の大切な仕組みである合評のことを知ってもらいたくて、合評体験を二回にした。
同じ合評を二回繰り返すのもつまらないので、作品もちゃんと二つ用意しようという話になった。佳乃ちゃんと、もう一人頑張ってくれたのは久瑠美ちゃん。それもこれも、この部を存続させるため。みんなそのために協力してくれている。
今の二年目は四人しかいない。この部の一つの代としては本当にギリギリの人数だ。この新歓で失敗してしまったら、もう後がなくなってしまう。
だから、みんなでがむしゃらに新歓を頑張ってきた。もう入部届は九枚集まっている。二桁に届いてくれたら、とりあえずの目標は達成だ。
でも、それで終わりではない。
去年だって、前期の新歓では九人が入った。夏休みまでに一人辞めてしまったけれど、後期の新歓で三人増えて、十一人。
忘れたくても忘れられない、あの事件があるまでは。
あの事件をきっかけに七人が辞めて、この代は四人になった。
また同じことが起きるのではないか。あれからずっと、あたしは不安の冷気にまとわりつかれている。たぶん、みんなもそうだ。何か必死になっていないと心が凍り付いてしまう。
だけど、あたしはこんな苦しみそのものが、一日だって長く続いてほしくはなかった。この冷気を振り払う、希望の日差しを求めていた。
それを一緒に見つけてくれるのは、大切な幼馴染しかいない。
『直ちゃん、助けて……!』
一か月前、新歓の準備が終わる頃に縋る思いで送ったメッセージ。
そうしたら、まだ事情も説明しないうちに。
『どうしたの? 本当につらかったら、いつでも帰るよ』
どちらかと言えばあたしは、自分から会いに行くことを考えていた。とにかく遠く、暖かいところへ行きたかった。
『会いに行きたいな。できたら二人で旅行したい。暖かい南の島とか……』
『わかった。南の島、一緒に行こう』
預けていたキャリーケースとリュックを回収して、戻れないゲートをくぐった。すぐにモノレールに乗って待ち合わせの浜松町を目指す。ちょうど空港快速に乗れて、途中の駅を全部飛ばしていくのが小気味よかった。
改札口を出ると、壁際で文庫本を読んでいる直ちゃんを見つけた。高校生のときに買ったお揃いのキャリーケースを持って、あたしのより一回り小さなリュックを背負っている。
「直ちゃん! 会いたかった!」
駆け寄ってキャリーケースを置いてから、思い切り抱きつく。
「一花、久しぶり。ちゃんと迷わず来れたね」
直ちゃんはしっかりとあたしを受け止めて、頭や背中を撫でてくれた。あたしたちは頭一つ半くらい身長の差があるから、周りからはたぶん同い年の幼馴染には全然見えなくて、姉妹に見えることのほうが多いと思う。
早速、予約しておいた近くの居酒屋に移動した。あたしだけ年齢確認を求められたけど、ちゃんと二十歳。現役の大学三年生だ。
あたしはカシスオレンジ、直ちゃんは白のサングリアを注文した。飲み物と一緒に、お通しのマッシュポテトが来る。
「直ちゃん、乾杯しよう!」
「うん、乾杯」
お酒を入れたのは、ここまで来た理由を話すため。そうしないとつらいから。
「じゃあ、話すね」
「無理しないで」
もちろん笑顔でなんて話せることではないけれど、それにしても泣きそうな顔をしてしまったのは自分でもわかっていた。
事の始まりは、去年の冬部誌でのこと。
十一人いた一年目メンバーの一人が、作者として小説を出した。A美としよう。彼女の編集は作品を出したときから決まっていた。A美と特に仲が良いB子だ。
A美は大学から文芸を始めていて、一年誌では作品を出していなかったし、編集もしていなかった。B子も文芸は大学からだけど、一年誌では小説を出していた。しかし仲が良いと言っても、お互いに経験は浅いし、あたしたちには二人を組ませることに不安があった。
何よりの不安材料は、その作品の出来があたしから見ても壊滅的なことだった。異世界転生もののファンタジーで、主人公の少女は念じるだけで目の前の人を物理的に消し去ってしまう能力を持っている。そんな彼女は少しでも気に入らない人がいれば躊躇なく消し去ってしまうのに、なぜか優しい人が周りにどんどん現れて、理解のある恋人もできてめでたしめでたし……という冷や汗をかいてしまうような物語だった。表現の幅も狭いし、言葉の誤用も多い。まあ、あんまり言いすぎるとあたしも高校生で文芸を始めた頃はひどかったから、これ以上は言わないでおく。
そういうわけで、編集を決める部会のとき、編集班長の石垣蒼空ちゃんが二人を説得してみることにした。
「上年目にも編集の希望者はいるし、A美さん、上年目とやってみない? 頑張って書いてくれた作品なのは認めるけど、部誌に載せるためには、結構頑張って直してもらうことになると思う。私や、高村さんや小池さん。慣れた私たちが編集になれば、近くでちゃんとサポートしてあげられる。どうかな」
そのときまで、あたしのA美の印象は、口数が少なくておっとりした子だった。普段話すときも声はあまり大きくなかったから、最初、蒼空ちゃんに声を荒らげて反論したのがA美だとは思わなかった。
「私が下手だって言うんですか? 先輩だからってひどいです! みんなのように好きな小説を楽しく書いたのに、私だけダメなんですか? B子ちゃんはそんなこと言わない!」
「A美ちゃん」
そこで佳乃ちゃんが手を挙げて、A美の説得を手伝ってくれようとした。すっかり豹変して佳乃ちゃんを睨むA美の目は、高校のとき、佳乃ちゃんの文芸を辞めさせようとしたお兄さんの目にも似ていた。あたしも何かあったらすぐに割って入るつもりだった。
「小説って、部誌って、A美ちゃんを知らない人も、読んで楽しもうとするものだから。一年誌でもそうだったけど、ある程度みんなが面白いと思うような作品じゃないと、みんなの部誌には載せられないよ。でもね、編集も合評も、A美ちゃんを助けるためにあるの。作品を直すのは大変だけど……」
「波田さんは何様なの?」
そこで佳乃ちゃんを遮ったのはB子だった。
「前から経験あるのか知らないけど、偉そうなこと言っちゃって。それって結局A美の作品を否定してるんだよね?」
「そうだ!」
「波田には関係ないでしょ!」
すると、他の一年目からもA美やB子を擁護するような声が上がった。彼女たちも、その二人を中心とした仲良しグループだった。
実際、一年誌のときから少し兆候はあって、一年目では早くに仲の良いグループができたら、そこからは甘い合評をするようになってきていた。「他人が頑張って書いた作品を否定しない」というのが、彼女たちに共通する考えだ。
そんなこと、高校の頃からお互いに愛を持って厳しい合評をしてきたあたしたちにはとても認められない。佳乃ちゃんも前から心配していたけれど、そのグループからは距離を置かれてしまっていた。
こうなったら、あたしも黙っていられない。
「やめなさい! 佳乃ちゃん、大丈夫?」
割って入ったけれど、少し遅かった。佳乃ちゃんはもう、力なく俯いて立っているだけ。そこで場が静まったら、荷物もそのままにして教室から駆け出してしまった。
「ふふ、逃げた」
「小っちゃな先輩に庇われちゃって、情けない」
「うるさい! もう許さないから!」
あたしは騒ぐ後輩たちを怒鳴りつけてから、佳乃ちゃんを追って教室を出た。そうしなかったら、後輩だろうとあいつらに殴りかかっていたと思う。思い出しても腹が立つよ。こんなに怒ったことはなかった。
その後、あたしは外で泣いている佳乃ちゃんを見つけることができた。でも、あたしにも言葉を探す余裕がなくて、ただ抱きしめて慰めてあげるくらいしかできなかった。
「……ひどい話。そんな幼稚なこと、本当に大学生なの?」
話しているうちにサラダやピザが来ていたけれど、お互いに手を付けていなかった。
「気分悪くさせてごめんね。だから……直ちゃんには話そうかどうか、ずっと迷ってたの」
「それはいいよ。むしろ、話してくれて良かった。一花や佳乃さんがそんなにつらい目に遭ったのを知らずに生きていくこと、私は幸せだと思わない」
「ありがとう。直ちゃんに話せただけでも、ちょっと楽になったよ。食べようか」
「うん、良かった。いただきます」
料理も美味しい。札幌にも美味しい店はあるけど、東京に来て直ちゃんと食べるのだから特別だ。
「本当は、佳乃ちゃんも一緒に来たかったんだけど……今日は、新歓説明会なんだよね」
「そうなの?」
「会おうって日付を決めたちょっと後にそう決まっちゃって。みんな許してくれたんだけど、お土産も買っていかなきゃって思うし……何より、あたしがもっとみんなを元気づけられるくらい、リフレッシュして帰らなきゃって思うんだ」
「リフレッシュ……それで、南の島?」
「うん。最初は沖縄とかのつもりで言ったんだけど……伊豆諸島は盲点だったよ。東京都だし、もうこんなところから船で行けちゃうし、すごいんだね」
「沖縄ほど暖かくはないけど、暑すぎはしないし、私も興味あったから」
そんな直ちゃんの提案で行くことにしたのは、新島。伊豆諸島の北から数えて三つ目の有人島だという。あたしは名前も知らなかったし、そもそも伊豆諸島に人の住む島がそこまでいくつもあるとは思っていなかった。
直ちゃんがどうしてそんな島を知っていたかというと、渋谷駅にその島から贈られた石像があって、そこで興味を持ったかららしい。
「送ってくれた写真の石像が、その島の石でできてるんだよね?」
表は鼻が高くて張りのある「若者の顔」で、裏は彫りが深く髭をたくわえた「老人の顔」という、二つの顔を持つ石像だ。「モヤイ像」なんていう名前で呼ばれている。
「そう。島にはこんな石像がもっとたくさんあるんだって」
「名前からして、なんだか古代文明みたいだよね! 他には何かあるの?」
「ガイドマップ持ってきてるよ。食べ終わったら作戦会議しよう」
「いいね!」
間もなく食べ終わって、直ちゃんがリュックからマップを出してくれた。島は南北に細長く、中部がくびれていてちょうど手で握りやすそうな形をしている。その中部の西側がメインの港らしい。今回、船や宿などの予約は直ちゃんが全部調べてくれた。
「大型客船はこの港に着くんだけど、最初は宿から迎えの車が来てくれるよ」
「それってVIP待遇ってこと?」
「ううん。大抵の宿は送迎付きなんだって。じゃないと、バスだってほとんどないし大変だよ」
「なるほど……」
確かに、港から宿のある本村までは少し距離がありそうだ。今回の荷物を持って歩くのは確かに大変だと思う。
「本村の周りだけでも見るところは結構ありそう。こっちの海岸とか……」
島では二泊することになっている。一泊だとゆっくりできないし、もし天気が悪かったら何もできずに帰ることになる。でも、幸いなことに明日からの天気は悪くなさそうだった。島での丸二日間を思い切り満喫できそうだ。
二人でスケジュールを考えているときは、重苦しい悩み事もさっぱりと忘れられた。
作戦会議も終わって店を出た。そこから十分くらい歩くと、竹芝の客船ターミナルに着く。
「見て直ちゃん、こんなところにもモヤイ像が」
最後の信号を渡ったところで、左右の植え込みの中に一体ずつ。どちらも顔面だけだけど、大らかで逞しい男性と、細く嫋やかな女性の対に見える。高さは二メートルくらいあって、女性の像でも迫力を感じた。
「きっと、島にはもっとたくさんあるよ」
「そうだね!」
正面には広場があって、金色のマストが一本そびえ立っていた。高さは周囲のビルに到底及ばないけれど、縦横の棒に沿って均等に並んだ電飾がその姿を夜景の中に浮かび上がらせ、存在感を放っている。あたしたちはその下をくぐって、受付のある待合所に入った。
中には思った以上にたくさんの人がいて、三つ開いた窓口にはそれぞれ十数人の行列ができていた。ベンチもほとんど埋まっている。
「さすがに、ゴールデンウイークだからかな」
「うん。でも、生活利用者も相当いると思う」
少し並んだけれど、直ちゃんが予約をしてくれたから、チケットはすぐに発券することができた。あとはそれに、名前と住所と連絡先を書くだけだ。
待合所の中は混んでいるので、外で待つことにした。風はほとんどなくて寒くはないけれど、外のベンチは空いている。屋根の下でほんのり明るくて落ち着く空間だ。そして実は、その屋根の上が展望デッキになっているらしかった。
「直ちゃん、上に行ってみようよ!」
「そうだね」
そのとき、案内の放送が聞こえた。乗船開始までは一時間半もあるらしい。それでも今日乗る船はもう泊まっていて、デッキに上がるとその姿がしっかり見えるはずだった。真っ白い船と、真っ黄色の船。そのどちらかだ。
「どっちの船に乗るんだっけ?」
「白いほう。向こうの黄色い船は、三宅島とか、八丈島まで行くよ」
「あっ、三宅島ってあの火山で有名なところでしょ。噴火で島の人が帰れなくなってたっていう……」
「そう。伊豆諸島って、ほとんど全部が火山の島だよ。これから行く新島もそう。それで、あの石像は島で採れる火山岩を使ってるんだって」
「そうなんだね。でさ、火山と言えば温泉もあるんだよね。水着持ってきたよ」
「うん。行ってみよう」
明日から島で待っている楽しみを考えると、今から興奮が収まらない。こんな客船に乗るのも初めてだ。今夜はもう眠れないかもしれないと思う。
でも、ふとした瞬間に自分がこんなに浮かれていていいのかと、冷ややかな緊張感が背筋を伝う。
「直ちゃん。さっきの続き、話してもいい?」
「いいよ」
屋根の下のベンチに戻って、二人で並んで座った。
「編集決めのところまでは話したよね」
「うん。その後輩たちは……その後どうなったの?」
「最終的には、自分から退部したんだけど……」
その部会では、A美とB子を含む五人の後輩が退場を命じられた。その中にはA美以外にも部誌に作品を出そうとしていた人がいたけれど、編集は決まっていないことになった。その場でできた最大限の制裁だと思う。
翌日、部長の高村慧子ちゃん、副部長のあたし、編集班の蒼空ちゃんと佳乃ちゃんで対応を話し合うことになった。
「慧子ちゃん。部員って、追放できないのかな」
あたしはまだ怒りが煮えたぎっていて、真顔で闇落ちしたときみたいなことを言った。でも、それに真っ先に反対したのは、一番しないだろうと思っていた佳乃ちゃんだった。
「一花先輩。それではダメです。彼女たちは未熟なだけで、それでも文芸を志してこの部に集まった仲間なんです。私たちから、対話の道を閉ざしてはいけないと思います」
「でも……佳乃ちゃんだって、あんなにひどいこと言われたのに」
「確かに、昨日のことは私もショックでしたけど……彼女たちを追放しても、それは問題の先送りでしかないと思うんです」
あたしは納得がいかなかったけれど、慧子ちゃんが頷いた。
「波田さんの言うこと、わかる気がする」
「どういうこと?」
少なくとも、佳乃ちゃんはあたしの何倍も冷静なのだと思った。だからとりあえず話を聞くことにした。
「あの場で、A美さんだけがああいう考えを持っているわけではありませんでした。退場になったのが五人なら、一年目のほぼ半数です。彼女たちを追放したところで、残った部員が同じ考えを持たずにいられるか。これからの部員はどうか。そういう将来のことは、何も保証されないと思います。私たちの原則を維持するためには、みんなで考えて、対話を続けなければなりません」
その勇気に溢れる言葉を聞いて、高校の文芸部で佳乃ちゃんと過ごした日々を振り返る。他でもない、あたしたちが育てた後輩だ。その気高い意識は、あたしたちが継いできた文芸人の精神そのものだ。先輩として、それは絶対に無下にできない。
「佳乃ちゃん。目が覚めたよ。じゃあ……もう一度、A美たちを説得するんだね」
「でも、また聞く耳を持たなかったら?」
蒼空ちゃんはまだ心配そうだった。それでも、あたしたちはやるしかない。
「大丈夫。あたしも佳乃ちゃんも、もう折れないよ。編集も合評も、お互いに愛を持って率直な意見を言い合うから、良い作品が出来上がっていく。それがこの文芸部でずっと繰り返されてきたことだよね。表面的な仲の良さのために気を遣うなんて意味ないよ。その先に見えるのが、本当の文芸の景色だから。そうだよね、佳乃ちゃん!」
「はい!」
「じゃあ、A美を呼んで話し合いをするのでいい? 石垣さんも」
「了解」
A美は来ないかと思ったけれど、意外と素直に話し合いを受け入れた。翌週の月曜日に、図書館の個室を借りて集まることになった。
「この文芸部には、ずっと昔から受け継いできた伝統があります。それは、編集や合評を通して、お互いの作品を磨き合うことです。時には、ある形の作品を否定しなければならないこともあります。それでも、私たちはその先により良い作品があることを信じています」
蒼空ちゃんが説明する間、A美は大人しく聞いているように見えた。
「もし、A美が私たちの考えに賛同して、またやり直したいと思うなら、前回での部会のことはこれ以上咎めません。明日改めて編集を決めて、合評を受けることも認めます」
だけど、途中から様子がおかしいと思った。A美は何を言っても黙ったまま。表情も変えず、ただじっと、蒼空ちゃんの顔を見つめている。
「A美さん、どうですか」
蒼空ちゃんが話し終わっても、少しの間A美は動かなかった。まるで、魂の抜けた体だけをそこに置いているかのようだった。その場は異様な空気になって、あたしたちは互いに顔を見合わせるけれど、A美に誰も言葉を掛けられない。
そうしていたら、不意にA美がリュックから一枚のコピー用紙を取り出して、机に叩きつけた。
「そんな安っぽい説教を垂れるために、わざわざ呼び出したんですね。退部します。面倒くさいので」
「A美さん!」
そのまま、A美はあたしたちに目もくれず、部屋を出ていってしまった。一応、退部届はちゃんと書いてあったから、その場で受理せざるを得なかった。
「何だったんだろう……」
「波田さん、A美さんを説得できなくてごめんなさい」
「いいえ、こうなってしまったら、仕方がないですよ。石垣先輩は悪くありません」
これで終わりだったら、不慮の事故のようなものとして、またすぐに普段の気持ちに戻れたと思う。だけど、次の日の部会でまた事件が起こった。
「部長! A美をいじめて退部させたって本当なんですか? 副部長や編集班長も一緒だったって、この部はどうなってるんですか?」
部会が始まるなり、突然B子が声を上げた。
「そんな。私たちは……」
結局、これはA美の罠のようなものだったのだと思う。確かに、悪意を持てばそういう言いがかりをすることもできるような状況を作ってしまった。だけど、本当にこんな悪意の刃を向けられることなんて想像したくもない。
今度はあたしがいち早く前に出た。
「違うよ。A美には、もう一度チャンスをあげると言った。だけどA美自身が退部するって言ったんだよ」
「だから、どうせこのままじゃ作品は載せられないとか言って、脅したんでしょう? そして、見せしめにするように退部に追い込んだ。それに、これって全部波田さんの頼みなんですよね?」
B子は臆面もなく佳乃ちゃんを侮辱する。これには本当に腹が立った。
「違う! これ以上佳乃ちゃんを悪く言ったら、本当に……」
「一花先輩、暴力はダメです!」
今度もある意味、佳乃ちゃんを助けるどころか佳乃ちゃんに助けられた。そのときのあたしは、B子に向けて猛犬のように歯を剥き出しにして、今にも飛び掛かりそうなところだった。少し落ち着きを取り戻したところで、あたしは何歩か下がって佳乃ちゃんを見守ることにした。
「B子ちゃん。それにみんな。A美ちゃんを退部させてしまって、本当にごめんなさい」
前に出てきた佳乃ちゃんは、まずB子たちに向かって頭を下げた。それでも、B子は冷徹な目で佳乃ちゃんを睨んでいる。
「どの口が言うんだか。気に入らない人を消せて良かったじゃない。いい子ぶって何がしたいの?」
「そうじゃない。私はみんなに、本当の文芸の楽しさをわかってもらいたかったの。互いの作品を手放しに誉め合うだけが仲良しじゃない。むしろ、仲が良いからこそ、互いの作品をより深く読んで、より良くするための意見が言い合える。そうしてみんなで成長していく。先輩方も、この部でずっとそうしてきたんだよ」
「子供みたいに成長成長って。そしてまた先輩に媚びる。私たちは、そんなもの今の時代に合わないと思う。他人が書いたものをつまらないと思うのは勝手かもしれないけど、それを捨てさせたり、書き直させたりする権利は誰にあるの? そうしないと部誌にも載せないなんて、何の根拠があって認められてるの? 私たちは部費だって払ってるのに、不当だと思わないの?」
そしてまた、取り巻きも援護するように野次を飛ばし始めた。
「違う、聞いて!」
佳乃ちゃんは諦めず、声を張り上げて説得を続けようとしていた。それにしてもこのままでは堂々巡りになるだけだ。
「そこまで!」
そこに割り込んでくれたのは、前の部長の高崎先輩と、その前の部長の中津先輩だった。
「皆さん、一旦席に戻りましょう。小池さんや高村さんも」
他の全員を席に着かせて、二人が前に立った。
「文芸部や部誌の在り方について、議論があることは良いと思います。しかし、あなた方がしていることは破壊活動でしかありません。現に部会の進行を妨げ、迷惑を掛けるだけでなく部誌制作の妨害にもなっています。そうまでして意見を主張する権利を文芸部では認めていません。不服があればすぐに退場してください」
中津先輩が警告すると、B子は少しの間反抗的に先輩たちを睨んでいたけれど、さすがに反論はできず、最終的にはその場で荷物をまとめて教室から出ていった。取り巻きの五人も続いて出ていった。
それを見届けた先輩たちは、昨日の会議の状況を蒼空ちゃんに確認して、問題がないことを認めてから席に戻った。一連の騒動に時間を取られてしまったけれど、その日の部会は予定通りの内容を終えることができた。
それでも翌日、B子の取り巻きの一人が六人分の退部届を提出して、文芸部はその年の新入部員の七人を失うことが決まってしまった。
「……そんな人たち、退部して良かったって言いたいけど、少なくとも佳乃さんはそう考えていなかったのね」
「うん。それを知ったとき、佳乃ちゃんはまた泣いてた。あたしも、そのとき思ったんだよね。自分たちが信じて打ち込んできた文芸って、本当に正しいことだったのかなって」
「正しさ……それはやっぱり、その後輩たちを説得できなかったから?」
「それもあるけど、もっと根本的に何かが揺らいだの。そのとき中津先輩は『もとより正解のない問題です。気にせず、自分たちの信じるやり方で文芸を続けていきましょう』って励ましてくれたんだけど、それが全然腑に落ちなかった」
「わかるかもしれない。もっと、切実な問題なんだよね」
「そう……」
幸いにも、残った一年目はみんな佳乃ちゃんに協力的だった。そこからは普段通りに部誌も傑作選も作って、新歓も頑張って、文芸部の体制はどうにか立て直せそうな見込みが出てきている。
だけど、根本的に答えが出ていない問題が残っていた。
「一花。そろそろ乗船時間じゃない?」
ふと、腕時計に目線を落とした直ちゃんが教えてくれる。
「そうだね」
ベンチの後ろのほうの通路に、行列ができ始めていたことに気づいた。乗船口の場所を報せる放送も聞こえる。
「乗り場はあの行列の先なのかな」
「たぶん。もう並ぶ?」
「時間になってからでいいよ」
根本的な問題から逃げ続けて、直ちゃんに縋って、ついにここまで来てしまった。
何か、あたしなりの答えを見つけなければ帰れない。直ちゃんに経緯を話してみて、不安の根っこがありそうなところは少し見えてきた。
「そう言えば……直ちゃんって、そっちの文芸部の部長なんだよね?」
「うん」
「部の方針とか、方向性とかで対立したりする?」
「対立……もちろん、細かいところでいくつか意見が出て議論することはあるよ。だけど、部の方針を揺るがすような対立は、聞いた限りだと部の設立から一度もない」
直ちゃんの文芸部は設立からまだ六年くらいで、その当時のメンバーもつい最近まで残っていた。一方、あたしたちの文芸部はもう十五年くらいになる。対立が生じるのを単純な確率の話だとすれば、まだ六年でそれが起きていないのも考えられる話なのかもしれない。
でも、そんなラッキーで片づけられるのだったら、あたしだって悩む必要なんてない。むしろ、あたしたちの文芸部はこの数年の間にも、大きな方向転換を何度もしてきていると先輩から聞いている。部の方針の安定性に関わる何かがあるはずだ。
「それって、何か秘訣があるのかな?」
「秘訣って言われると……ちょっと考えてみるね」
「ありがとう」
話しているうちに乗船が始まって、そろそろ見えている行列も短くなってきていた。直ちゃんがあくびをする。
「行ってみよっか。どんな部屋なんだっけ?」
「二等和室って、私もこういう船に乗ったことないけど、なんか、部屋に枕だけが並んでる写真は見たよ」
「おお、それって要は雑魚寝だよね。あたしも初めて!」
たぶん、あまり居心地が良いものではないのだと思うけれど、なかなかできない体験ではあると思った。
実際に船に乗ってみると、思ったより狭い空間だと思った。二等和室は一番下の階なので、スーツケースを持って階段を下りていく。エレベーターもないので大変だ。
ゴールデンウイークだけあって、和室は半分以上埋まっていた。テープで一人分のスペースが区切られていて、それぞれに黒い枕が一つずつ置かれている。本当にそこで寝るだけできればいい空間だった。船内は暖房が効いていて、かなり暖かい。
「すごいね、ここで寝るんだ」
「私たちの場所はどこかな」
枕元にそれぞれ貼られている番号と、チケットの番号を見比べながら歩く。あたしたちの場所は少し奥まった壁際だった。ここなら比較的落ち着いて眠れるかもしれない。
「直ちゃん。とりあえず外見に行こうよ。出港するところ!」
「そうだね」
スーツケースを棚に置いて、貴重品の入ったリュックだけを背負っていく。また階段を上っているときに、何発かの銅鑼の音が聞こえた。
「今の銅鑼、何だろう?」
「たぶん、そろそろ出港っていう合図じゃない?」
直ちゃんが言った通り、出港まではあと五分という時間だった。放送でも間もなく出港だと言っている。行き先の島が順番に読み上げられていた。
甲板の外に出て、船の後ろのほうに行ってみる。そこにはたくさんの座席が並んだ空間があって、お酒を飲んだりしている人もいた。風が程よく涼しくて気持ちがいい。
「やっぱり船旅ってテンション上がるんだね!」
「そうだね」
とりあえず一番後ろの手すりまで行って外を眺めた。直ちゃんはやっぱり眠そうだ。バスや電車ではすぐに眠ってしまう直ちゃんだけど、船に乗ってもそうなのか。
少し待つと、汽笛とともに船が動き出す。スクリューが大きな音とともに海水を掻き出し、みるみるうちに陸が離れていく。少しは揺れるけれど、まだ酔うほどではないと思う。
「始まったね……もう少し見ていこうよ」
「うん」
そのまま遠ざかっていく夜景を眺めていると、レインボーブリッジをくぐった。本当に海の上だということを実感する。楽しいけれど、ほんの少し怖くもあった。
明け方の航海、当てのない更改
翌朝、周りが騒がしくなったので起きてみたら、五時を回った頃だった。放送を聞くと、もうすぐ最初の島に着くらしい。直ちゃんはまだ寝ている。
立ち上がろうとすると、船が大きく傾いてバランスを崩した。東京湾の外に出たから、波も大きくなっているのかもしれない。
百円で借りた毛布一枚で寒くはなかったけれど、床はそのままだから寝やすくはなかった。最終的には毛布にくるまって寝たけれど、寝返りが打てなくて窮屈だったし、起きてみると腰がちょっと痛い。その場でストレッチをして体をほぐした。
周りは人の動きが結構あるのに、直ちゃんはぐっすり眠っているようだ。起こすのも起こさないのも悪いと思ったけれど、一旦は起こさないで、あたし一人で外に出てみることにした。
前方の左側に、台のように平たい島が見える。もうかなり近い。台の上には木々が盛られていて、その向こうは何も見えない。台の下はほとんどすぐに海。要塞のような島だと思った。
港はその山の切れ目から漏れ出したような形をしている。奥のほうに、山の中へ入っていく細い道路が見えた。
「一花。おはよう」
いよいよ港に入っていくというときになって、直ちゃんが出てきた。
「おはよう。よくわかったね」
「もうすぐ入港だって言うし、見に行ってるかなって」
左の側面に移動して、乗降口にタラップが接続されるところを見た。それから間もなく、大勢の人が船から出てくる。長い筒状のバッグや大小さまざまなクーラーボックスを持っている人が多かった。
「あれってみんな釣り人だよね」
「そうだね。やっぱり、島だと釣り場も多いし、魚も豊富なんじゃないかな」
下船する人の流れは十分くらい途切れなかった。最初は釣り人の男性が多かったけど、後から家族連れの人や観光らしい女性やお年寄りも出てきた。その中には、島民も相当いるのだろう。
「これが伊豆大島か……この島は何で有名なの?」
「椿油とか」
「髪の毛つやつやになるやつ?」
「そう。冬に来たら、満開の椿が見れるんだって」
椿の花。北海道ではあまり見たことがないけれど、花が形を保ったまま落ちるのは知っている。それが満開の頃は、木にも道にも花が咲いているのだろうか。それは妖艶な美しさだと思う。
「ちょっと見てみたいかも……」
「まあ、冬は海が荒れやすいから、上陸できない日もあるらしいけど。大島なら比較的大丈夫なのかな」
「よく知ってるね」
「最初、別のガイドブックも買ったんだけど、大島と八丈島のことばっかり載ってたんだ」
「そっか、確かにこれだけ人が来るところだから……」
人の出入りが終わっても、船はまだ動かない。それはたぶん、貨物を積み下ろししていたのだと思う。
「冬は上陸できない日もあるって言ってたけど、それってどうなるの?」
「最初から無理そうだったら欠航。辛うじて港に入れそうだったら条件付きでダメだったら戻るって感じで、乗るときに案内されるんだって。大きめの島だと港が二つ以上あるから、そのどれかに入れればいい。この島ももう一つ大型船の入る港があるから、上陸しやすいんだよ」
「でもそれってさ、行きだったらいいけど、帰れなくなるかもしれないってこと?」
「そうだね。だから、天気予報と船の状況は毎日確認しなきゃいけない」
「そうなんだ……」
早速、スマホで今日の天気を確認してみる。位置情報から表示されたここ、東京都大島町は晴れ時々曇り。風は弱めで、雨は降らなそうだ。今の気温は十六度で、最高気温は二十度。
「新島ってどこの天気見ればいいの?」
「まあ、こことあんまり違わないと思うよ。合わせるなら東京都新島村」
「新島村……あった」
確かに、新島村のほうが少しだけ気温が高いけど、ほとんど同じ天気だった。
「数字で見て思ったけど、こんな朝方なのに寒くないよね。東京ってこんな感じなんだ」
「東京というか、島だからかもしれない。海が近いほど気温の変動は小さくなるものだし、この辺りには黒潮も流れてる」
「黒潮。じゃあ、それで魚もよく釣れて……全部繋がってるんだね」
全部まとめて、島という環境なのだと思った。
結局、船は三十分くらい大島に泊まっていた。また動き出してからも、あたしたちは座席に移動して外にとどまることにした。中の暖かさよりも、外の涼しさのほうが心地よかったから。
「ねえ、一花。文芸部の方針が安定する秘訣のこと、考えてみたんだけど……」
「ほんと、じゃあ予想していい?」
なんとなく、そのまま聞いてしまったら情けないと思った。
「いいよ」
「例えば……体育会系みたいに、先輩が後輩をめちゃくちゃ厳しく指導してるとか?」
少しおどけて言ったら、直ちゃんは呆れたように首を傾げた。
「一花。うちの部がそういう雰囲気に見えた?」
「えへ。これは冗談」
実際あたしも、去年直ちゃんの文芸部の夏合宿にお邪魔したことがあるから知っている。先輩も後輩もフランクに物が言い合えるし、体育会系のような上下関係とは無縁に近い雰囲気だった。
そんな見た目だけはうちの文芸部とほとんど同じで、見るべき本質がわからない。
「じゃあ、部員を面接してる。たまに聞くじゃん、そういうサークルの話」
「してないよ。そういうサークルって、もっと不純な動機のほうがよく聞く話だし……」
それはつまり、特別優秀だったり、元からいる人と同じような考えの人を選別して集めているわけではないということ。まあ、直ちゃんの大学はうちの大学より二階級くらい頭が良いところだから、その違いによる部分は否定しきれないけど、とりあえず部員の優秀さではないのだろう。
「そろそろ真面目に答えるから、もう少し待って」
「頑張って」
そのほかの違い。それはやっぱり、部誌の公開方法か。
「もしかして、部誌をイベントで売るしかしてなくて、無料で配ったりしてないってこと?」
これだと思って答えたら、直ちゃんは微笑んでくれた。
「当たり。あくまで私の考えだけどね。もう少し厳密に言うと、部誌を売ること自体を、部のアイデンティティとして固めちゃってるから。私たちがするべきことは、その部誌を買ってくれるお客さんを楽しませることだけ。そのために合評もするし、企画や合宿もする」
「つまり……文芸部は部誌を売るためにある。部員はお客さんを楽しませるために努力する」
「そういうこと」
確かにわかりやすいし、納得もできる。でも、裏を返せば硬直的で、多様な部員を抱えるような場所ではないと思った。
「それって、ちゃんと文芸に取り組もうとする人には良い環境だと思うけど、部員のモチベーションって色々だよね。そこでやっぱり、摩擦が生じたりすると思うんだけど……」
「うん。そういう意味だと、逆に部の動かない部分のほうが強くて、ついてこれない人とか合わない人も当然出てくる。うちでは、それは仕方ないって割り切ってる。実を言うと非公認の小さい文芸サークルも周りにいくつかあって、そういう人たちの受け皿になってるんだよね」
「へえ……」
文芸部という場がストイックに作られているから、そこに合う人だけが残って、方針も揺らぐことがない。それが直ちゃんの答えだった。
「でも、うちの部では今からそこまで振り切るのは難しい……」
「それは、真似すればいいってものじゃないよ。環境も事情もそれぞれ違うから」
「そうだよね……」
環境や事情。変えられるもの、変えられないもの、変えたくないもの。まとまらない考えが、ぐるぐると頭の中を巡る。
「直ちゃん……お腹空かない?」
船の音でたぶん直ちゃんには聞こえていないけど、少し前からあたしはお腹が鳴っていた。
「何か食べる? レストランは七時半まで開かないけど、自販機ならあるみたいだよ」
今は六時半過ぎ。そこまで待っていられない。
「じゃあ、自販機で!」
普通の飲み物の自販機と一緒に、食べ物の自販機も置いてある。パン、カップ麺、フライドポテト、焼きそばなどなど。意外と種類があった。二人でそれぞれカップ麺を買って、また外へ戻る。自販機がお湯を入れてくれたから、少し待ったら食べ頃だ。
「キャンプの朝とかさ。ちょっと冷えるけど、こんな風に手が温まって……カップ麺って、いいよね」
「うん」
船は大島の傍を通り抜けて、少しずつ遠ざかっていた。
カップ麺を食べ終わった頃、次の島が見えてきた。大島よりは小さい、中華まんのような形の島だ。
「なんか、すごい綺麗な形の島だね」
「利島。この辺りでは小さめの島で、人口は三百人くらい。伊豆大島と同じで椿の栽培が盛ん。港はあの正面に見える一つだけで、このルートの中では欠航になる確率が一番高い。近くの海ではイルカが見られることもあるんだって」
「イルカ?」
直ちゃんがスマホを見ながら解説してくれた。あたしはもしかしたらと思って海を見回してみたけれど、イルカの姿はない。
「あとは……この辺りでは最も水の乏しい島として、神話にもなっている」
「すごいね、大変な島だ。島ってそもそも水が不足しがちって言うけど、そうじゃない島はあるの?」
「実は、その神話で全部語られてる。『水配り神話』っていうんだけどね。ここらの島々の神様が、この船の行き着く神津島に出向いて、先着順に水を分け与えてもらった。利島の神様はそのときに遅刻したばかりか、狼藉を働いて残ってた水もこぼしてしまったので、水を与えられていないという……」
「なんかあれだね、干支に猫年がない理由の話みたい。そういう神様がやらかした話って、意外とみんな受け容れちゃうよね」
「まあ、地学的に見ればこういう地形で川がないとか、地下水も貯まらないとか理由を解明できるんだろうけど、結局、それ自体はほとんど変えようのない環境だからね。今は、貯水池を造って雨水を利用したり、海水を淡水にする装置を使ったりしてるんだって」
「技術で克服してきたんだね」
その前提には、苦しくてもこの島に住み続けようとした人々の姿がある。お金も労力も掛かったのだろう。他のところには、厳しい環境を克服できず無人になってしまった島もあるのかもしれない。
そんな利島では三十人くらいが降りた。釣り人とそれ以外が半々だ。停泊時間も短くて、船はすぐに動き出した。
そこらで一回、身支度のために船内へ戻った。レストランは開いたばかりの時間で、少し外まで行列ができている。それでも和室に戻ると明らかに人が減っていた。
荷物もまとめて、いつでも降りられる状態でまた外に出ると、左側にまた違う島が二つ見えていた。後方にはさっきの利島も見える。
「二つ島がある。どっちかが新島かな?」
「前のほうだね。後ろのは無人島だと思う」
「じゃあ、いよいよ来たね!」
新島は起伏のあるシルエットで、海岸線もこれまでの島よりなだらかなところが多いように見えた。少し奥まったところに、建物の集まった土地が見える。
「あれって、北のほうにある港?」
「そうかも」
空は薄い雲にほとんど覆われていたけれど、その合間から日光が差し込んで海面をきらめかせた。あたしたちを歓迎してくれているのか。
この島で、何かを見つけられるのだろうか。
間もなく、島の中部のくびれたところが見え始めた。海岸線から奥まで集落が広がっている。船はその前を一旦横切って、南側の港へ向かう。あたしはその様子を夢中で眺めていた。
船を降りると、目の前の駐車場で宿の名前が書かれたタオルを掲げた人が何人かいた。その中にはあたしたちが泊まる宿の名前もある。迎えの人だ。宿までは車で十分くらい。道中、港と集落の間の海岸通りにモヤイ像をはじめとする石像がたくさん並んでいた。
宿の人の話では、四十年くらい前に離島ブームがあって、モヤイ像もその時代に地域おこしの一環として造られ始めたらしい。だけど今は、その担い手も減ってきているのだとか。
宿は集落北部の住宅街の中にあって、建物が密集したところだから全体像は見えなかった。離島ブームの時代からある建物を、増改築で新しくしながら使い続けてきたという。あたしたちはそんな宿の一階の和室に案内された。板張りの廊下は軋んで、足音がよく響く。
六畳の部屋の真ん中にテーブルが一つ。奥の隅には二人分の布団。床の間にはテレビやゴミ箱などが置いてある。
「高校のときに二人で行ったとこ、憶えてる?」
思い出したのは、三年前の夏休みのこと。そのときは、大会に出す小説のプロットを考えるために、田舎のこんな宿に二人で泊まった。
「鍾乳洞見に行ったときの?」
「うん。あそこよりは新しい感じするね」
「まあ、同じくらいだと思うけど……こっちのほうがフロントとか広々としてたし、部屋の照明も明るい。それで受ける印象は違うよね」
荷物の整理は船の中で済ませてきたから、キャリーケースはそのまま空いたスペースに横倒しにするだけでいい。あとはリュックの中身も出せるだけ出してしまった。持っていくのは貴重品とガイドブックと、飲み物とちょっとしたお菓子だけ。帰りにはお土産を詰めてくるかもしれない。
それから、ちゃんと日焼け止めを塗って、帽子をかぶって行く。日焼けに暑さは関係ない。
「じゃあ、行こうか。直ちゃん、部屋の鍵お願いしていい?」
「うん」
今日はまず、東側の海岸を目指すことにした。そこはずっと長い砂浜になっていて、サーフィンの名所でもあるらしい。その海と砂浜を見たかった。
少し距離はあるけれど、歩いていく。人も車もほとんど通らなくて、静かな空にウグイスの鳴き声だけがずっと飛び交っていた。
「なんか、日本だっていうのはわかるけど、知らない世界にいるような感じ……わかるかな?」
「わかるよ。建物が密集した感じとか、見慣れない植物とか、興奮するよね」
確かに、声や口調で楽しそうな感じが伝わる。
「直ちゃんも興奮してる?」
「もちろん」
初めての島、初めての景色。今、それを直ちゃんと二人きりで体験している。三年前と違って知らないものばかりの、純粋な冒険だ。
観音様があるという場所の階段の前を過ぎると、しばらく林間の細い道路が続いた。集落から上り坂のほうが多かったと思うけれど、反対側の海はまだ見えない。背の高い木々が視界を遮っている。
しばらく行くとようやく太い道路と交わった。その角には広場があって、いくつかの石像や記念碑がある。道路側の奥のほうに、腿くらいの高さの人面ライオンのようなモヤイ像も見つけた。
「この石って、なんだかざらざらしてそうだよね」
手前にある波の石像に、手のひらでちょっと触れてみた。やっぱり、引っかかるような感触がある。
「ガラス質が多い火山岩だから、気を付けたほうがいいよ」
「そうなんだ、あんまり触らないほうがいいね。それだと、この石でこんな像を作るのって大変なんだろうね」
「それについては加工しやすい石だって言うから、石像は作りやすいんじゃないかな」
「そっか。そうでないと、こんなにたくさん並べられないよね」
そのとき、空を飛行機が横切っていった。ちょうど、この太い道路の先には空港があるらしい。飛行機は低いところを飛んでいて、まさにさっき飛び立ったところのようだ。
そして、広場の向かい側の角には海岸入口の石碑もあった。それでも海はまだ見えない。思ったよりこの辺りは平坦なのかもしれない。
「海はもう少し先なのかな?」
「もう、結構来てると思うよ。頑張ろう」
そこから先は歩道があった。集落の中からずっと歩道はないものだと思っていたけれど、あるとやっぱり安心感がある。
やがて、ギリシャのような白壁の門のような建物が見えてきた。その向こうには、いちめん真っ青の海がある。
「直ちゃん、あれが?」
「そう。メインゲートっていって、この奥の羽伏浦海岸の入口の一つだね」
門の両脇には階段があって、少し高いところから海を眺められるらしい。一度上がってみることにした。
海から風が吹いてくる。肌には涼しく感じるけれど、帽子が飛ばされるほど強くはない。海岸は左右どちらもずっと奥まで灰白色の砂浜が続いている。海は透き通っていて、遠くは穏やかに見えるけれど、砂浜には白い波が絶えず押し寄せている。
「これは確かに、サーフィンもできそうだね」
「うん。あの波が巻いて崩れるところとか、上手く横切れたら楽しそう」
その海岸を背景に二人で写真を撮った。この写真は、しばらくは誰にも見せずに二人だけでしまっておくと思う。
いよいよ砂浜に下りて、右側に向けて歩いてみる。砂浜を歩くかもしれないと聞いていたのでビーチサンダルを持ってきていた。二人で裸足になって履いていく。靴はビニール袋に入れてリュックにしまった。
白っぽい砂と黒っぽい砂があるようで、黒っぽい砂の多いところが水墨の線を引いたように帯になっていた。砂にしては粒が大きいのか、足にはざらざらした感触がある。陸のほうは高さ五メートルはある崖で、一面の白い岩に地層が描かれていた。
漂着するゴミもなくて綺麗な砂浜なのに、人は他には誰もいない。
「プライベートビーチって、こんな感じなのかな」
「うん……誰もいないね。それどころか、虫も、鳥も、魚もいる気配がない」
「本当だ。普通だったらフナムシとか貝とか、いてもおかしくないのに」
終わりの見えない砂浜で、海だってどこまでも続いているのに、目に見える範囲には生命がない。
そう考えると、不意に孤独な感じがして。
無意識に、後ろを歩く直ちゃんのほうへ左手を伸ばしていた。
そうしたら、直ちゃんは手をつないでくれた。
「違う世界というか……夢の中にいるみたいだよね。一花、怖くなった?」
平気な顔で言うけれど、その言葉が本当だったらやっぱり怖いなと思った。例えばこの島に漂着して、目覚めたときにこの砂浜にいたら、もうその瞬間に自分が生きているとは思えないかもしれない。
「ちょっとだけ。直ちゃんは平気なの?」
「なんかね、わからない。ずっとふわふわしてる。上陸してから……いや、船に乗ってからかな。これが本当の非日常なんだな、って」
確かに、普段は楽しくてもあまり感情を表に出さない直ちゃんが、今回ばかりはちゃんと興奮しているのもわかったし、すごく楽しそうだった。十年以上も一緒に過ごしても、こんなことは初めてだと思う。
「もうこんな風に二人だけで旅行に来ることなんて、できないかもしれないと思ってた。文芸部の行事でなら会えるけど、それ以外は……できないまま三年生にもなっちゃって。だからね、一花が困ってるときに不謹慎かもしれないけど……やっぱり嬉しいし、楽しいんだ」
あたしはそれを、もちろん不謹慎だとは思わなかった。むしろ、こんな情けないあたしに付き合わせて、こんなに遠くまで来させてしまった負い目がある。楽しいと言ってくれたことは救いだった。
「それでも……付き合わせちゃって、ごめんね」
「ううん。私たち、ずっと助け合って来たんだから。お互い大人になって進路も分かれたけど、私は一花が求める限り、これからも助けになりたい。遠慮することなんてないよ」
あたしたちは互いに互いがいないとダメで、でも、二人でいれば何でもできる。昔はそう思っていた。それは幼いあたしたちを守るために、神様が掛けてくれた魔法だったのかもしれない。
そんな魔法に頼らなくても生きていけることがわかってきた。直ちゃんが近くにいなくても、ダメではなくなってきた。だけど、それは魔法が解けたのではない。
左手の先に繋がっている、大切な人。家族のように苦楽を共にして、一緒に生きてきた人。
「直ちゃん……ありがとう」
たとえ、この世界にあたしたち二人しかいなくなっても、そのまま最後まで二人で過ごせるのなら、それでいいと思う。
その存在を何よりも近くに感じたくて、思い切り抱きしめた。
涙が出てくる。
「大好き。ずっと一緒にいたいよ」
「急に、甘えん坊になっちゃって」
「直ちゃん……」
声を上げて泣いた。その間、直ちゃんはずっと優しく首の後ろをさすってくれた。
ひとしきり泣いたら、怖いものはなくなったような気がしたけれど、もう少し直ちゃんに甘えたい気持ちも起きてしまった。一応持ってきていたレジャーシートを敷いて、二人でその場に座る。
「なんかね、思ったんだ」
「うん」
あたしは漠然と海を眺めながら、とりとめのない考えを話した。
「砂浜に、砂のお城が作ってあったら……作った人はもういないけど、残しておこうって思う人もいるし、別に壊してもいいって思う人もいる。そうでなくても、自然に崩れちゃうこともある。それと同じで、文芸部の在り方が変わっていくのも、仕方のないことなのかなって……」
「文芸部が、砂浜みたいな場所だってこと?」
「そう。文芸部だけじゃなくて、どんなサークルでも人は長くとどまらない。五年も経てばメンバーは全部入れ替わる。そうしたら、そのときのメンバーにとって良い形に変わって、違うサークルのようになるのも自然なことだと思う」
自分でも、嫌になるほど卑屈なことを言っているのはわかっていた。でも、もし直ちゃんがこれを認めてくれるなら、あたしはもう一切悩まなくていい。
「一花。こっち向いて」
振り向くと、直ちゃんは笑っていなかった。正座をして、真剣な目であたしを見つめている。
「……うん」
あたしも伸ばしていた足を引き寄せて、直ちゃんと向き合うように正座した。
「私の知ってる一花は、そんな風にネガティブになって、全部を投げ出すようなことを言う人じゃなかった。他でもない一花自身が、そんな考えは嫌いだったはずだよ」
それは何も間違ったことではない。あたしもわかっている。
「そう、だよね。でも……」
「つらいんだよね。文芸部が、砂のお城のように簡単に崩れ去ってしまうものだと思っちゃったから。でも、私はそうは思わないよ。サークルであっても確かなものを残して、引き継いでいくことができる。先輩方もその後輩たちにははっきり、破壊活動だと言ったんだよね。どうでもいいものだったら、そんな風には言わないと思う。だから、みんな一花が思っているほど絶望はしていないよ」
直ちゃんは力強く、諭すように言った。あたしだけが絶望に囚われている。それが本当なのかもわからないくらい、あたしは一人で抱え込んで、自分の中でばかり考えを巡らせていたのかもしれない。
「だから……一緒に見つけよう、文芸部を守る方法」
差し伸べられた手は、あたしをここから引っ張り出してくれる。
その先で、もう一度探したい。
解法求め、伝えたい快報
もう少し先まで歩くと、空港の敷地の端に出る出口があった。そこから集落へ向かって歩きながら、直ちゃんが問題を整理してくれた。
「まず、去年の秋にその事件があって、一花は佳乃さんを守れなかったと思っている。後輩を半分以上退部させてしまって、文芸部の存続の危機を招いた責任も感じている。先輩方は気にせず自分たちの方法を信じていけばいいって言ったけど、一花は納得していない。ここまで合ってる?」
「うん。合ってるよ」
「それで、とりあえず今年の新歓は頑張って、十分な新入部員を確保できた。だけど、一花は同じような事件を繰り返さないための根本的な対策をしたい。そう言えば、そのことって高村さんとか、周りの人には話してるの?」
「えっと……実はあんまり」
「じゃあ、佳乃さんには?」
首を横に振った。だって、佳乃ちゃんに頼ってしまったら意味がない。
「まあ、佳乃さんを守りたくて悩んでることだから、佳乃さんに言えないのは仕方ないけど……相談できる人にはしたほうがいいよ。それで、一花は自分だけが納得してなくて、不安を抱えてると思ってたんだね」
「うん……」
やっぱり、そういう思い込みを持った時点で、危ない深みにはまっているのだと思う。そこからは一人では抜け出せない。だからあたしは、直ちゃんを巻き込んでこんなところまで来てしまった。
でも、さっきまでは本当に帰ってもみんなに顔向けできないところだったから、とりあえずそこから抜け出せたのは良かったと思う。
「案外、ちゃんと考えてる人もいるだろうし。もし今は考えてなくても、一花が話せば一緒に考えてくれるよ。そうやって、どんなことも遠慮せず相談できるチームを作ること。私は交換留学合宿とかで一部の人にしか会ってないけど、その事件の前はそういうチームじゃなかったの?」
「えっと……」
それは少し、慎重に考えなければならない質問だと思った。そもそもあたしは同期の中で数少ない文芸の経験者として、入部した当初から色々な面で頼られてきた。部長は慧子ちゃんが引き受けてくれたけど、そのときに言われたことがある。
『小池さんには、副部長としてみんなの精神的支柱になってほしい』
あたし自身も、チームに精神的支柱となる人がいることの大切さはわかっていた。昔からあまり考えるのが得意でなかったあたしは、せめてそういう役割でみんなの助けになることを選んできた。
だけど、その役割を守ろうとするあまり、周りの誰にも弱みを見せられなくなっていったところはあるのかもしれない。
「それもたぶん、あたしが経験者としてみんなの支えになることにこだわりすぎて、相談できなくなってただけなんだ」
「そっか……でも、頑張ってきたんだね。それだったら猶更、自信を持って文芸部を守りたいってみんなに話してみればいいと思う」
「あたし……頑張ってきたのかな」
「私は信じてる。一花は、どんなときだって頑張ってたよ」
直ちゃんにそう言われると、また泣いてしまいそうだった。でも、今度はぐっとこらえる。体がどんどん熱くなって、不思議な力が湧いてくる気がした。
「あっ、今……何かわかったような」
「本当?」
その不思議な力がどこから来たのか。それで何ができるのか。あたしは一瞬それを掴みかけた。でも、それはちょっとした幻だったのかもしれない。
期待のまなざしで見ている直ちゃんにも、残念なお知らせだ。
「……気のせいだったみたい。ごめんね」
「でも、答えには近づいてるんだと思う。この調子だよ」
この調子。あたしは口の中で、直ちゃんの言葉を何度か繰り返した。そのときの温かい感覚も、さっき掴みかけたものに少し似ているかもしないと思った。
集落に戻った頃、ちょうどお昼になった。近くのカフェレストランに入って、二人でオムチーズカレーを食べた。とろけるチーズと濃厚なカレーの絡んだオムライスはじっくり口に含んで味わいたくなる逸品だったけれど、食べ終わってみると本当にあっという間だった。
満足したお腹で、そのままなんとなく地図を見ながら、適当に歩いてみることにした。すると、少し細い通りに舗装されていない砂の道が現れた。地図では「砂んごいの道」と書かれている。その真ん中辺りには、石造りの倉庫のような建物と石碑があった。
「砂んごいの道。まあこんな感じで、自然のままの砂の道のこと。そこの建物は豚舎だったのかな。半世紀前は島の道はほとんど舗装されていなかったんだって」
「半世紀前って、離島ブームのちょっと前だっけ?」
「たぶんそのくらい。戦後から、高度成長期のイメージかもね」
その道の周りの塀は、件の石像と同じ石が使われている。もともとはこうして生活にも密接に関わっていたのだろう。
そこから海に向かってもう少し歩くと、道端に黒っぽい大きな二つの石碑が立っていた。
「あっ、直ちゃん。新選組だって」
「相馬主計……土方歳三の跡を継いだ新選組最後の隊長で、戊辰戦争の後、流刑になってこの島に来た。それで、寺子屋を開いて教育に貢献したんだって」
「そうなんだ」
「元々、この辺りの島って流刑地、つまり島流しの行き先だったんだよね。でも、その中には政治犯みたいな、ある程度の知識や思想を持った人も多かった。島にとっては、それで外から学問が流入して、文化が育っていった面があるんだよね」
「悪い人が来るっていうけど、単純に悪い側面ばかりじゃなかったんだね」
「もちろん本当に悪い人もいたと思うよ。でも、考えがその時代に合わなかったとかはよくあるでしょ」
こういう島には、ちょっと閉鎖的なイメージがあった。でも、実際には外から入ってくるものを適度に受け入れつつ、元からあるものとのバランスを取って発展してきたのだと思った。
そこからは道なりに、海へ向かって歩いてみた。最初、港から宿へ向かうときに通った広い道路に出る。その左のほうにピラミッドのようなものが見えたので、近くまで行ってみることにした。
防波堤に囲まれた、穏やかな海が目の前に広がる。まだ夕日の時間には早いけど、そのピラミッドの傍らには「YUHINOOKA」というアルファベットの彫られたオブジェがあった。
「夕日の丘。夕日も見えるのかな」
「ここからだったら、最高だよ。水平線までずっと何もない」
「確かに……」
少し左側には、平たい顔で山のほうを仰ぎ見るモヤイ像があった。その隣の岩に、モヤイ像の由来を説明するプレートが埋め込まれている。
「モヤイは島の方言で、助け合うときの言葉だって。ただのパロディじゃなかったんだね」
「そうだね」
外から来る人とも、「モヤイ」を通じて繋がること。それがこの島の精神なのだと思った。それは、文芸部の運営でも参考になる部分があると思った。
そこから折り返して、宿に向けて歩いた。せっかくなので、宿に戻る前におやつになりそうなものを近くで買った。牛乳せんべいと、それから……。
「さて、直ちゃん。すぐ食べられるって聞いて買っちゃったこれだけど……」
伝統的な保存食であり伊豆諸島の名物、くさや。テレビで見たことはあったけれど、実物を見たのは初めてだ。そしてこれは、焼いたものを切り分けて真空パックにした「くさやスティック」だ。紙コップにお茶を注いで、まさに食べようとするところ。
「とりあえず、窓開けるね」
外から風が入り込む。これで何かあっても換気はできそうだ。
それでもなんとなく開ける勇気が出なくて、パックに書いてある文字を読んだりしていた。高たんぱくで、保存食としては重宝したのだろう。
「一花、行くよ」
「うん……」
直ちゃんの呼びかけで、さすがに覚悟を決める。パックを開けた途端、焼いた魚のような、熟しすぎたチーズのような、何種類かの臭いが同時に鼻に到達した。
「おお、これは……」
「発酵臭なのかな。あとは、アンモニアとか硫黄みたいな……」
あたしが怯んでいる間に、直ちゃんは冷静に臭いを分析しながら、もう一口食べている。
「あっ、美味しい。旨味がすごく濃縮されてて、噛むほど味が出る……これは好きな人もいるわけだね」
食べれば美味しいと聞いたら、もう臭いに怯んでいるだけでは損だ。あたしも思い切って一口齧ってみた。
臭いは最初から強烈だから、口に含んでもあまり変わらない。それよりも旨味が勝っている。基本的には魚の干物の味だけど、その何倍も濃厚で強烈だ。
それにしてもこの臭いは、食べ終わっても窓を開けているくらいではなかなか消えない。そこで、窓を開けたままお風呂に行くことにした。予約制ではないけれど、今はあたしたち以外の宿泊客はいないから、間違いなく空いている。
古い部分と新しい部分が入り混じった宿だけど、浴室は古いほうだった。二人でちょうどな広さのタイル張りの湯船と、おなじみの黄色い桶が目を引く。
潮風を浴びた髪と少し汗ばんだ体をしっかり洗ってからお湯に浸かる。なんだかんだで交換留学合宿もあるから、直ちゃんとお風呂に入る機会は何度かあった。でも、思い出すのは三年前のことだ。
「高校生の頃ってさ。あたしたち、すっごく必死だったよね」
「今は違うの?」
直ちゃんは首を傾げる。
「やっぱり違うよ。まあ、勉強は大変だし、就活のこともそろそろ考えないといけないし、そういう意味ではこれから必死になっていくのかもしれないけど……でも、違うんだよ」
「まあ、なんとなくわかるけどね。でも、文芸部員ならそれを言葉にしてこそじゃない?」
「そうだね……」
気楽に挑戦状を叩きつけられた。こうなったら、あたしも三年間の成長を見せなければならない。
「あの頃は、全部が最初で最後みたいな感じがした。高校生って、自由にできることはだいぶ増えるけど、まだまだできないこともある。そういう不自由な自由の中で過ごした時間って、全部が特別だったんだよね。だから、一つも余さず楽しみたいっていう気持ちが、あたしたちを無意識のうちに必死にさせたんだと思う」
これでどう?と目配せをすると、直ちゃんはくすりと笑った。
「まあまあかな。表現にあんまり目新しさはないけど、気持ちは伝わった。例えばさ、大学にも高校の文芸部みたいに、大会があればいいなって思わない?」
「思う。直ちゃんのところってさ、イベントがその大会の役割をしてるんじゃない? そういう、かっちりと動かせないものがあったほうが、部員の気持ちもまとまりやすいんだよ」
「それはまあ、今朝話した通りだね。みんながそれに馴染めるわけじゃないし、良いことばかりじゃないよ」
確かに、ここまでなら同じ話を繰り返しているだけで面白くもない。もう少し先へ進めるところを探す。
「でもさ、うちも傑作選だったら『文学のアジール』で出してるし、そもそもイベントに出すこと自体は本質じゃないような気がする……」
「傑作選って、どういうもの?」
「毎年、部誌とかで一年間に発表された作品の中から、みんなの投票で上位の作品を選抜して本にしてるんだ。あたしも去年載ったけど、枠は小説だと五作品くらいしかないから、載らない人のほうが多いね」
「それでも、部内で評価されたことの証ではあって、傑作選を目指すのはモチベーションになるのかな」
「どうだろう。そこまで気にしてない人のほうが多い気がする」
先輩方でも、本気で傑作選を目指している人がいるとはあまり聞かない。昔は傑作選に載りたくて自分の作品に投票してしまう人もいたらしいけど、ほんのわずかだ。
「じゃあ、作品を書く人は、ただ部誌に載せることだけを目指しているの?」
「だけって言われると……もちろん、上手く書けるようになることも目指してるよ。あとは、みんなに面白いって言ってもらえることとか」
「みんなにって言うのは、文芸部の中で?」
「そうだね」
「そうしたら、一花が言ってる大会やイベントって、部誌の先、部の外にあるものだよね。傑作選もそうじゃないのかな。でも、一花のところではみんなの関心が部誌で止まっていて、部の外に向いていない」
「確かに……」
それがどうしてなのか。それこそ、自分で言葉にしなければならないことだと思った。
でも、考えているうちにのぼせてしまいそうだったので、続きは上がってから考えることにした。
部屋に戻ると、くさやの臭いはもう残っていなかった。外は日が傾いてきて、少し強い風が吹いている。
「涼しいね。一年中こんな気温だったら過ごしやすいのに」
「日本ではどこへ行っても、暑さか寒さのどちらかには当たる。常春の世界は確かに過ごしやすそうだけどね」
「外国だったら、そういう場所もあるのかな」
「どうだったかな。南米の高山地帯とかだと、年間で気温の変化がほとんどないって言うけど、ここまで暖かくはなかったはず」
「そうなんだ」
「それに、いくら過ごしやすくても、季節の変化がなくなるのはいいの?」
「ああ……やっぱり、季節の変化は必要だね」
またお茶を飲んで、今度は牛乳せんべいを食べた。少し硬めだけど、優しい牛乳の風味に落ち着く。
「美味しいね」
「うん」
文芸部にお土産で持って帰るにはちょうどいい。でも、お土産として印象に残るのはやっぱり、くさやだと思った。
「直ちゃん、帰りの日にまたくさや買いに行っていい?」
「いいよ。一花も気に入った?」
「なんか、ふとしたときにあの臭い、また嗅ぎたくなるんだろうなって……直ちゃんも?」
「美味しかったからね」
あたしもあの臭いが好きだとは言いにくいけれど、味は好きだった。周りの人にも教えてあげたいと思う。まあ、下手な場所で開けると異臭騒ぎになることもわかった。
「それにしても……お風呂入っちゃうと、外行くのもなんだかなあ、ってなるよね」
「うん……ルームウェアに着替えちゃったし」
夕食までは二時間くらいある。テレビもつけてみたけれど、あまり面白そうな番組は流れていない。
「ねえ、一花。佳乃さんに電話してみない?」
「なるほど……」
直ちゃんがこのタイミングで佳乃ちゃんへの電話を提案してきたのは、単に話したいからというだけではなく、あたしのことも考えてくれているからなのだろう。
「じゃあ、ちょっとメッセージ送ってみるね」
佳乃ちゃんはあたしが今、直ちゃんに会うため東京にいるということくらいしか知らないはずだ。とりあえず、『今、直ちゃんと一緒にいるんだけど、電話していい?』とだけ送ってみた。
すると、すぐに既読がついて返信が来た。
『大丈夫です!』
その後、せっかくなのでビデオ通話にしてみようと直ちゃんが言った。佳乃ちゃんもそれがいいと言ってくれたので、お互いに顔を映しながら話すことにした。直ちゃんが持ってきていたスマホスタンドを借りて、あたしのスマホで佳乃ちゃんとの通話をつなぐ。
「もしもし。佳乃ちゃん?」
「はい! 聞こえます。直美先輩、お久しぶりです」
「久しぶり」
画面に映る佳乃ちゃんは目を細めて、直ちゃんとの久しぶりの対面を喜んでいる。あたしも懐かしい感じがした。高校二年のとき、先輩方が引退した後はしばらく三人だけの文芸部で、仲良く遅くまで合評などをしていたこともあった。
「どこかのホテルですか? お二人とも、お風呂上りみたいですね」
佳乃ちゃんのほうは家にいるみたいだけど、ちゃんとした服を着ている。
「さすがは佳乃ちゃん、洞察力があるね。あたしたちは今、どこにいるでしょう?」
「えっと……箱根とか、熱海とかですか?」
東京から温泉に行くとなったら、やっぱりその辺りか。これは驚かせ甲斐がある。
「実はね、島にいるんだよ。伊豆諸島の、新島ってところ!」
「伊豆諸島! それは、どちらの提案で?」
「あたしが南の島とか行きたいって言ったら、直ちゃんがここにしようって」
「そうなんですね」
「昨日の夜から船に乗って、さっきまで砂浜とか見に行ってたんだ」
「羨ましいです……」
これは本格的に、誘わなかったのがちょっと悪かったような気もしてくる。今度の機会には、三人でも旅行がしたいと思った。
「さて、あたしばっかり喋っちゃったね。直ちゃんも」
たぶん、ここからが本題だ。あたしも直ちゃんの話に耳を傾ける。
「佳乃さん。そっちの文芸部で大変なことがあったって聞いたんだけど、佳乃さんは今、悩んでることとかない?」
「ああ。一花先輩、もしかしてそのことを直美先輩に相談するために……」
「うん。私にもできることがあるかもしれないから、遠慮なく話してほしい」
あたしだけではどうにも聞けなかった佳乃ちゃんの気持ち。あたしは全部の想像を忘れて聞くことに集中した。
「はい。一花先輩から聞いているかもしれませんが、私の同期で入った人たちが、馴れ合いのような文芸をするようになってしまって……でも、最初はちゃんと合評の目的や、文芸部として集まることの意味を説明して、私たちもそれを実践していけば、彼女たちもいつかは理解してくれると思っていました」
そこまでは、あたしも見てきたとおりだ。実際に佳乃ちゃんは、最後まで対話を諦めなかった。
「でも、彼女たちは思い通りにならないとわかったら、文芸部を辞めてしまいました。私も、あのときどうすれば良かったのか……それから、次に同じようなことがあったときに、何を備えていられるのか、ずっと考えていました」
同じだ。
「でも、まだ答えは出ていなくて……」
全く同じ。
「もうすぐ私たちの代が文芸部を継ぐのに、部を立て直していけるのか、自信がありません。先輩方と力を合わせても、文芸部の脆いところはそのままです。それを、どうにかしたいと思うんです」
この辺りはたぶん、感じている問題をあたしよりもちゃんと言葉にできている。
「自信……」
話を聞いた直ちゃんは、その一つの単語を繰り返した。
「佳乃さんが持ちたい自信って、どういうもの?」
「えっと、答えになるかはわからないですけど、根拠のある自信です。ごまかしでも、自己満足でもない、しっかりと揺るがない自信で、文芸部を支えていきたいと思います」
あたしなんかの後輩にしておくにはもったいないくらいの立派な答えだ。でも、直ちゃんはまだ表情を変えなかった。
「じゃあ、どんなものならその自信の根拠になると思う?」
一瞬、佳乃ちゃんが目を見開いた。あたしはもう、難しくてあんまりついて行けてない。
「それは……」
「例えば、佳乃さんの文芸部の中にそれはある?」
「……」
でも、直ちゃんは真剣に、佳乃ちゃんから何かを引き出そうとしている。だから、あたしもわからないなりに考えてみることにした。
佳乃ちゃんは根拠のある自信が欲しい。でも、何が根拠になるのかはわかっていない。それを探そうとしているけれど、文芸部の中にはないかもしれない。
そこであたしが思い出したのは二年前、あたしが一年目のときのことだった。
文芸部では夏休みに、創作まつりという部内のイベントをやっている。みんなで作品を投稿して、お互いにコメントをつけて交流するものだ。
創作まつりには、個人賞という制度がある。そのときは三年目だった浦川先輩が「一、二年目メンバーによる作品で、作者の今後の発展を期待させるもの」という基準で、賞を設けていた。その結果は、なんと慧子ちゃんと久瑠美ちゃんのダブル受賞だった。
二人とも大学生になってから小説を書き始めて、探り探りで書いていたところだったけれど、それを境に文章にも自信が感じられるようになった。それは間違いなく、二人に「根拠のある自信」を与えた出来事だったと思う。
でも、例えばあたしには、あのときの中津先輩の言葉は響かなかった。自信を与えてくれなかった。今のあたしに必要なのは、よく見知った人からの承認ではない。
だから、あたしが求めるような根拠は、今の文芸部の中にはないのだと思う。
「あの、一花先輩の前でこんなことを言うのは、申し訳ないのですが……」
佳乃ちゃんも答えが出たらしい。
「大丈夫だよ。遠慮しないで」
「ありがとうございます。やっぱり、文芸部の中だけを向いていては、自信を持って活動することは難しいと思います」
あたしもちゃんと自分で考えてみて良かったと思った。何も考えていなかったら、これを聞いて悲しくなるところだった。
「一花はどう思う? ついて来れてる?」
「ふふん、見くびってるね。全部繋がったよ。あたしたちは、文芸部の外に自信の根拠を求めていかなきゃならない。高校のときはそれが大会だったし、直ちゃんのところではそれが外部のイベントなんだね。でも、あたしたちの部では今、みんな内向きになってて、なんとなくで活動してる。だから筋が通らなくて、どうとでも崩されちゃいそうな感じがするんだね」
「おっ、よく理解してる……」
「一花先輩、さすがです!」
なんとなく、光明が見えた気がした。あとはあたしが帰ってから、慧子ちゃんたちも集めて部誌の作り方や、イベントの参加の仕方なんかを見直してみようという話になった。
最後のほうは雑談も入って、合計一時間以上も話していた。佳乃ちゃんが夕飯の時間になるので、切ることにした。
「じゃあ、お土産買って帰るからね!」
「佳乃さん、頑張って」
「ありがとうございました。旅行も楽しんでくださいね。失礼します!」
三種の刺身、とんかつ、海苔のパスタ、冷奴、かぼちゃのサラダにマイタケの味噌汁。夕食には島らしくもないくらいバラエティ豊かな料理が並んだ。飲み物は持ち込み可能と聞いていたので、あたしたちはおやつと一緒に買った缶チューハイをそれぞれ開けた。
「直ちゃん、明日も天気は良いみたいだけど、予定通り南のほうに行くのでいい?」
「うん。神社を見てから、山のほうに行ってみよう。午後は温泉だね」
「じゃあ、それで決まり!」
なんとなく、問題は解決したような気になっていた。あとのことは帰ってからみんなで考えてもいい。だけど、せっかく直ちゃんに会いに来ているのだから、もう少し勉強してから帰りたいと思う。
「話は変わるけどさ。直ちゃんは、自己満足って何だと思う?」
さっきの佳乃ちゃんの話にも出てきた言葉。みんな何気なく使うけれど、その意味を深く考えたことはなかった。
「簡単に言えば、自分だけが満足して、自分以外を満足させられていない状態じゃないかな」
「そう……だとしたらさ。さっき、佳乃ちゃんは自信に根拠がなかったら、自己満足みたいになっちゃうって言ってたよね。そういうときでも、佳乃ちゃんだったら周りのあたしたちを満足させるくらい、一生懸命やってると思うんだ。そのとき、満足させられていないのって誰だろう?」
「そのときは、例えば部員だけが満足して、部誌を読んでくれる人とか、外部の人を満足させられていないってことになると思う」
「それってつまり、文芸部自体が自己満足になってるってこと?」
集団が丸ごと自己満足になってしまうというのは、新しい視点だと思った。
「そうだね。スケールが違うだけで、外向きな気持ちを失ってしまったら、集団だろうと自己満足に陥ることはあると思うよ。その辞めていった後輩たちだって、集団で自己満足を極めようとしていたでしょ」
「なるほど、ああいうのが集団的自己満足なんだね」
そうだと思うと、あたしたちの文芸部も何か道を誤ってあのような集団になってしまうという可能性が、急にリアルに感じられてきた。
「それってさ、結構怖くない? だって、閉じた集団だったら猶のこと、全員がおかしくても誰も気づかないよ」
「うん。一花は、エコーチェンバーって聞いたことある?」
「なにそれ?」
エコーはたぶん、音が反響することだと思う。チェンバーは小部屋とかの意味だったはずだ。だから、イメージとしては小部屋の中で音が反響するような感じなのだと思う。
「最近、SNSで集団同士の対立とか集団的な誹謗中傷とかが問題になってるでしょ。いくつかのSNSでは、フォローしている人とかよく見る投稿の内容とかで、その人が興味を持つような投稿を見せるおすすめ機能がある。そうすると、偏った意見を持った人でも似たような考えを持つ人と比較的簡単に引き合わされちゃって、繋がっていくんだよね。そのうち、見える範囲にはもう自分と同じ考えの人しかいなくなる。ここまで来たら、自分の意見が偏ってるとか、間違ってるとか、考えたり気づいたりする機会なんてない。それどころか、閉じた集団の中で偏った意見は増幅されて先鋭化していく。多くの場合、それは最終的に強い攻撃性となって外に出てくるんだ」
「なるほど……それはSNSの話だけど、対面でもやっぱり、そういうことって起こり得るんだよね?」
「もちろん。ただ、SNSがエコーチェンバー……長い残響が生じるように設計された部屋のような環境を提供してるという話で、現実よりずっとそういうことが起こりやすいっていうだけ」
だけど、その話はあたしたちに重要なヒントを示している。たぶん、そのエコーチェンバーの中は居心地が良いのだ。外に居場所がなくても、その中は仲間のいる居場所だ。もし、外への攻撃性を抜きにしてそういう場所ができるのなら、それはそれで人が集まる理由になると思う。
文芸部はある意味で、エコーチェンバーになりかけていたのかもしれない。そして、あの後輩たちももしかしたら、そういう文芸部を望んで入ってきたのかもしれない。
「もし、あたしたちの文芸部がそうなりかけていたんだとしたら……先輩方は、気づいてなかったのかな?」
「中からの目線しかなかったら、誰でも気づくのは難しいと思うよ」
「そうなんだ……」
「まあ、その後輩みたいに極端な形じゃなくてもさ。仲の良さを前面に押し出すようになったりとか……部員同士で競争しなくなったり、互いに褒めるところばっかり探し始めたりしたら、注意が必要だと思うよ」
あたしはそれで、すっと背筋が冷えた。多かれ少なかれ、全部当てはまっている?
競争しなくなったのは間違いなく本当だ。創作まつりは、マスカレードというイベントの代わりにできたイベントだと前の部長から聞いたことがある。マスカレードでは匿名で投稿された作品にみんなで点数をつけて、その平均点が高かった作品の作者には賞品まであげていたらしい。それはまさに、掛け値なしの実力で勝負するためのイベントだった。
マスカレードがなくなった理由については、点数をつける全員が全部の作品を読むわけではなくて公平性の問題があったこととか、コメントも匿名だったので心無い感想をつける人がいて、気持ちよく競い合えないことなどがあると聞いたけれど、そこできっぱりと競争の部分を捨ててしまったのはなかなか大胆だと思う。
「……でも、もしそれがあたしたちの文芸部に当てはまっていたとしても、それ自体は、誰が悪いってことじゃないんだよね?」
「あくまで注意が必要ってことで、それ自体が悪いわけではないよ。たまには競い合ってみるとか、是々非々で意見を言い合うとか、仲良く交流する中でもお互いに向上心を持つことを忘れなければ大丈夫」
そうだとしたら、まだ文芸部は手遅れではない。確かに部の中では明確に優劣をつけなくなってきているけれど、やっぱりみんなに上手いと思われている人はいるし、それぞれが自分なりに上手くなろうとする心を持っていると思う。今、そういうものは内側ばかり向いているから、どうにか外へ向けることができればいいはずだ。
「わかった。頑張るよ!」
難しいことを考えていたら食べても食べてもお腹いっぱいにならなくて、あたしはご飯をおかわりした。こんな風に一日中考えて話していたのは本当に久しぶりだと思う。その相手は、今も昔も変わらず直ちゃんだ。
まだ見ぬ眺めと、長めの抱擁
次の日は、焼き魚や目玉焼きなど品数の揃った朝食を食べて、八時半くらいに宿を出た。ちょうど船の汽笛が聞こえていて、宿の人も今日のお客さんを迎えに車で出ていった。
そこから十分くらい北に歩くと小学校があって、さらにその奥に神社がある。石の鳥居の向こうには広々とした「砂んごい」の参道が続いていて、その脇にはいくつかのお社が並んでいた。
「エキゾチックって言うのかな。あんまり見たことない雰囲気の神社だね」
ヤシのような大きい葉っぱの低木も目を引くし、さまざまな種類の大木が並んでいるところは島の歴史の長さを感じさせる。
「十三社神社……主に、この島の土地の神様なのかな。境内の広さは、伊豆諸島で最大級だって」
「すごい! 奥まで行ってみよう」
今日も朝から、ウグイスがあちらこちらで鳴いている。それでも境内には人の気配がなく、時間は止まっているかと思うくらいゆっくり流れているように感じた。その静かさに浸っているうちに、あたしたちもなんとなく無言になっていった。
木の鳥居をくぐって、大きな門をくぐって、いよいよ正殿の前まで来た。二人でそれぞれお賽銭を納めて、お参りをする。
帰るまでの旅の安全と、帰ってからの良い縁を願って。
そこではお互い、どんなお願いをしたのかは聞かなかった。あたしは聞く必要もなくて、直ちゃんのどんなお願いも天に届くかどうかだけが気がかりだった。
神社を出たら、今度は南へ向かう。昨日も歩いた町並みは、一年も住めばどこに何があるか全部把握できそうな、ちょうど良いスケール感だ。
「さっき、小学校があったけど……この島には、中学校も高校もあるんだよね」
「そうだね。高校は伊豆諸島にも結構あるらしいよ」
「でも、全部の島じゃないんだ」
「中学校までしかない島もあるね」
「それだと、中学校を卒業したら島の外に出なきゃいけないんだ」
島で育つ子供たちの姿を想像してみる。高校のある島でも、全員がその高校で満足するわけではないだろうし、やっぱり外に出る子も多いと思う。
「あたしたち、恵まれた環境だったんだね。家から通えるところに、行きたい高校があって……」
「大学だって、一花は家から通えるんだもんね」
直ちゃんの言葉には、ちょっと揶揄うような含みがあった。そうでなかった直ちゃんとの間にどれだけのギャップがあるのかを、あたしは本当にはわかっていない。
「……直ちゃんは、東京に来て良かったと思う?」
あたしの言葉には、その距離を探るようなニュアンスを込めた。
「もちろん」
たぶん、思ったより遠い。
「じゃあ、あたしも東京に来れば良かったのにって思ってる?」
俯きかけた気持ちが伝わったのか、直ちゃんは少し笑った。
「それはきっと、一花の思ってるようなことじゃないよ」
「どういうこと?」
「前提は、お互いの夢が一番だから。そうじゃないと、お互い黙って進路を考えてた意味がなくなっちゃう。でも、知らない環境を経験するのも楽しいよ。知ってる人が近くに全然いなくても……やっぱり、東京に来て経験できたことを振り返れば来て良かったと思うし、一花もいつかそういう経験をしてみてもいいと思う」
確かに、言われると思っていたこととは全然違った。
東京でも、一緒だったら……なんて。
そんな気持ちは、あたしだって卒業したはずなのに。弛んでる。気合を入れなおさないと、やっぱり帰ってもみんなに顔向けできなさそうだ。
さらに歩いていくと松尾芭蕉の銅像があって、中学校と高校があって、上り坂がずっと山のほうへ続いていった。やがて三叉路に至ると、その傍らの広場で三体の恐竜の石像に出会った。
「ティラノサウルスと、トリケラトプスと……これ、なんだっけ?」
わからないのは鼻から後頭部へ一続きの太い角が生えた、四本足のやや細い体型の恐竜だ。
「たぶん、パラサウロロフス。二本足の画像も出てくるけど、このトサカが特徴的」
直ちゃんがスマホで画像を見せてくれた。想像図では緑だったり黄色っぽかったりして、黒っぽい石像の姿とはイメージがかなり違って見える。
「なんかこの顔とか、石像のほうが愛嬌あるよね。それでいて、この石のざらざらした表面が恐竜らしい」
「爬虫類の皮膚だね」
今日は海の見えるところだと風があるけれど、この辺りはほとんど無風だ。石の椅子とテーブルがあったので、少し座って休むことにした。昨日買って宿の冷蔵庫で冷やしてきたペットボトルのお茶はまだ冷たい。
三叉路には車が時々通る。大抵は軽自動車で、高齢者マークを付けた車のほうが多い。ナンバープレートは島独自のものがあると思っていたけれど、意外にも品川ナンバーだ。
「例えば、この島に住もうと思ったら、どうすればいいのかな?」
「まずは仕事を見つけるところからじゃないかな。公務員、先生とかなら外から来てる人も多いかもね。仕事が決まれば、住むところの話も進めやすいと思う」
「なるほど……」
小説だと、こういう島に引っ越した人の話を時には軽率に書こうとするものだけど、現実にはそれなりに高いハードルがあるのだと思う。
そこからもう少し坂道を上ると野球場があって、それを過ぎたところに大きめの公園がある。公園と野球場の間の道から山へ入っていくことができるけれど、まずは公園に寄っていくことにした。トイレもあるしレストハウスもあるので、拠点には最適だ。
公園に入ってまず目についたのは石の滑り台だ。さすがに滑るところは別の材質でできているらしい。階段は石の塔の内側にあって、その形はどことなく札幌の大通公園にある彫刻の滑り台を思い出させる。
もう少し行くと広場があった。滝と池があって水遊びができそうな場所だ。その滝の上には石のアーチ状の建造物があって、古代文明のようだった。
そんな石ばかりの公園に、いくつか緑色の透き通ったオブジェが立っている。
「直ちゃん、あの緑のって何だろう? 水晶みたいな……」
「ガラスじゃないかな。この島の岩石から作ったガラスは、あんな感じのオリーブ色になるんだって」
「自然にあんな色になるんだ」
もう少し気になるものはあったけれど、後でまた戻ってくる。今はトイレだけ済ませて、疲れないうちに山へ入っていくことにした。
緩やかな上り坂をまた三十分くらい歩くと、道路脇にちょっとした駐車場と案内板を見つけた。そこがトレッキングコースの始まりだ。案内板の脇に竹の杖がまとめて置いてあったので、二人で一本ずつ借りて行く。
最初の上り坂はあたしたちの背丈よりも高い木に囲まれていたけれど、それを抜けると低い木ばかりになって、視界も一気に開けた。特に、来た道を振り返る眺めが爽快だ。海岸沿いにはいくつか気になるものが見える。さまざまな形の建物に、道路脇の広場に並ぶ石像に、砂浜から繋がるちょっとした島。
「直ちゃん、温泉ってあの砂浜に島が繋がってる辺りだっけ?」
「そうだね。奥のほうに石の柱が立ってる丘があるの、見える?」
「見えた!」
「あそこが温泉のはずだよ」
「へえ……」
かなり距離があって、本当に温泉があるのかはまだわからない。石の柱も短い蝋燭くらいに小さく見える。でも、この後戻ってきてあそこまで歩いていくのだから、そこには温泉があってほしい。
進むにつれて、海風が強く感じられるようになってきた。足元は砂利道だったり、たまに細かい砂の道になったりする。行く先はしばらく山しか見えていなかったけれど、途中でひときわ高い丘があって、上ると辺りの全部が見渡せた。これまで見えていなかった行く先には、手前の平べったい島と、奥の盛り上がった形の島が見える。
「あそこの島は、人住んでる?」
「手前が式根島、奥が神津島で、どっちも有人島だよ」
「他の島も行きたくなっちゃうね」
「うん。いつかまた行こう」
そう言った直ちゃんの目は、ずっと遠くを見ていた。本当に二人で次の島に行ける日が来ても、それは少なくとも何年、もしかすると何十年先のことなのかもしれない。
「あっちの島には、何があるのかな」
「地形も環境も少しずつ違うし、それぞれの島に、不思議なものがたくさんあると思う。全部見に行けないのが惜しいくらい……」
あたしたちはもう、基本的に離れている。根っこはずっと繋がっているけれど、手を伸ばす方向は別々だ。
「一人で行っちゃダメだからね」
「それを言うなら、一花だって」
せめてもの束縛が、いつかあたしたちをあの場所へ導くと信じて。
実のところ、そこがコースの中で一番高いところのようで、ゴールに当たる展望台はちょっと下に見えていた。その間の谷へ下る道の入口は短いけれど鎖場になっていて、あたしたちも少し疲れているところで危ないので引き返すことにした。
そうすると今度は下り道がずっと続くので、なかなか脚に響く。公園に着く頃には、直ちゃんも膝が少し痛いと言っていた。
レストハウスでは、あたしがタコライス、直ちゃんが明日葉のパスタを食べて、二人で水色のソーダフロートも飲んだ。ゆっくり休んでから、海のほうへ向かって出発する。
「直ちゃん。思ったんだけどさ」
「どうしたの?」
「この島って、川とか池とかってないよね」
本村の周りはかなり歩いたけれど、川に架かる橋を渡った記憶がない。そうだとしたら、降った雨なんかはどこへ行くのだろう。
「確かに。よく気づいたね」
「昨日、『水配り神話』って教えてくれたでしょ。あれだと、この島も水が少ないの?」
「水が少ない島だったら、あの公園みたいな滝や池は作れないよ。実際、神話では新島の神様は二番目に到着したんだって」
「へえ。じゃあ、その水はどこに?」
「地下水だよ」
「なるほど。たくさん貰って地下に蓄えてるんだ」
レストハウスで出された水も、ここの水道水だと思うけど、臭みが少なくてなんだか美味しい気がした。そして、地下水と言えば温泉にもなる。全部が水の恵みだ。
やがて海に近づくにつれて、車とすれ違うことも多くなっていったし、ランニングをする人に出会うようにもなった。そこに現れたのは黒い屋根のかまぼこ型の建物だ。その駐車場の手前に、あの緑色のガラスのオブジェがいくつか置いてある。
「ここ、ガラス工房なのかな」
「そうみたい。覗いてみる?」
「うん」
中を見てもやっぱり、緑色の器ばかりだった。細くしなやかな花瓶、かわいらしい小皿、大胆に波打つ形のフルーツ皿、大きく深い器などなど。色合いはどれも似ているけれど、形や表面の模様は個性的だった。
二人でお揃いの、新島の形をした箸置きを買って外に出た。
「この島の形って、箸置きにちょうど良かったんだね」
「ユニークな発想だと思う。確かに中央の集落の辺りが窪んでていい感じ」
「これもやっぱり、火山の働きなんだよね?」
「うん。北は二つ、南は一つの火山活動で形作られた山なんだって。さっき歩いた山は南側の火山だったところだけど、噴火したのは千百年くらい前で、それで今の形になったらしいよ」
「そうなんだ」
話しながら、下り坂を歩いていく。あたしも少し疲れてきて、トレッキングコースにあった竹杖が恋しくなってきた。道路脇の空き地には上から見たように、石像が点在している。花壇なのかはわからないけれど、ストーンサークルもある。その奥の海からは、白く大きな波が次々と押し寄せていた。風もさっきより強くなってきたように感じた。だけど、アクロポリスから持ってきたような石の柱が並ぶ丘が見えてくると、もう少しという気持ちになる。
この島の話を事前に聞いていた中で、密かに一番楽しみにしていたのがここの温泉だった。水着も新しく買ってきている。無料の露天温泉で、混浴だから水着が必要だ。
「直ちゃんは、水着買ってきたの?」
「うん、持ってなかったから」
高校では水泳もなかったし、プールにも行かなかった。あの頃なら中学のときに買った水着も着れたと思うけど、今はあたしも大きくなったので着れない。そういうわけで、久しぶりに見る直ちゃんの水着姿が楽しみだった。
更衣室は意外と綺麗で、シャワーもあった。ロッカーだけは少し古かったけれど、荷物はちゃんと入った。
それにしても直ちゃんが冒険したような水着を自分で選ぶはずもなく、無難な黒のワンピースだった。
「なんか、直ちゃんの水着って普通」
「温泉なんだし、こういうのでいいでしょ。一花こそ、どんな水着持ってきたの」
「あたしのは、これだよ。頑張って探したの」
水色で、レースのフリルがついたビスチェタイプのビキニだ。結構気に入っていて今回しか着ないのはもったいないので、今年の夏は佳乃ちゃんや蒼空ちゃんあたりを誘ってプールにでも行こうかと思う。
「まあ……一花はスタイルも良いし、そういうのは似合うと思うけど」
「スタイル良いって、本当に思ってる?」
「思ってるよ。お腹周りは引き締まってるし、脚のラインも綺麗……」
昔だったら、こうして褒められてもやっぱり身長が低いことが気になって、素直に受け取れなかったと思う。でも、最近は自分の「小さいなりのバランスの良さ」を肯定的に考えられるようになってきた。
「まあ、たまに言われるんだよね。『お尻が小さくて羨ましい』とか……あんまり悪い気はしないよね。直ちゃんだって、ちゃんと選べばかわいくなるよ?」
「別に……」
それでも直ちゃんは、昔からかわいさなんて全然求めていなかった。そういう部分にはなんとなく自信がなかったのだと思う。それなのに持ち前の可憐で清楚な雰囲気のおかげで、意外と多くの男子に密かに好かれていた。本人はそれらの男子からのアプローチは綺麗にかわしていたけれど、自分自身が一目惚れするような男子には大抵見向きもされなくて、悲しいミスマッチを起こしていた。そこについてあたしは、直ちゃんが望むなら協力もするし相談にも乗るけれど、それ以外は干渉しないと早くから決めていた。
「というか……風もあるし、一花の水着だとちょっと寒そう」
「それは温泉に入れば大丈夫だよ」
実際、これはあたしのほうが少し油断していた。日もだんだん傾いてきているし、風も海の冷たさを直接乗せてきているようで、水着だと結構涼しい。それでもまずは頑張って、正面の丘の上にあるという湯船を目指して階段を上った。階段の途中には、久しぶりのモヤイ像もいる。
四本の石柱に支えられた石の屋根の下、誰も入っていない湯船からふわりと湯気が立ち上り、たちまち風に乱されていた。そこからは正面の小島も、南の式根島や神津島も、北の利島も全部見える。
「いい眺め! お湯も温かい!」
「もう少し時間が経ったら、夕日が綺麗かもね」
「絶対そうだよ」
涼しい夕風と温かいお湯を交互に浴びたら、いつまでもここにいられそうな気がした。でも、明日はもう帰りの日だ。
そのうち日が沈んできて、屋根の下に真っ赤な西日が差し込んできた。今は二人とも縁に座って、脚だけお湯に浸かっている。影が濃くなってお互いの表情が見えにくくなる。
「直ちゃん」
「なに?」
「帰りたくないって言ったら、ダメかなあ」
「それが一花の気持ちだったら、隠さなくてもいいよ」
影の中でちょっと顔を出した甘え心が、直ちゃんに抱えられてしまった。
本当はちゃんと帰って、また文芸部を盛り上げていかなきゃならないのに。
でも、優しさの引力に抵抗しようとは思わなかった。
「直ちゃんって、ほんと、優しすぎるよ。ずっと同じで……変わってなくて良かった」
「私もね、一花が素直なままでいてくれて良かった」
「どういうこと?」
「私たち、あんまり会えなくなって、お互いどんなことをして、どんなことを考えて、楽しんで、悩んで……そんなことが、前は全部共有できたけど、今はそうもいかない。今回のことも一花が相談してくれなかったら、私は知らないままだった。だから私も今、もう少し一花と一緒にいれたらなって思ってる」
この三年間で、お互い変わったところがないわけではないと思う。確かにその全部を知るのは難しくなった。一年生の頃は週に一回くらい電話してたけれど、最近はメッセージのやり取りだけ。
でも、それはあたしたちの心が離れたのではないと思う。
「大丈夫、って言うのは変かもしれないけど。やっぱり、直ちゃんにしか相談できないことってあるよ。今回みたいに長い話になっちゃうこととか、近くの人には言い出せなかったこととか……直ちゃんには全部話せる。だから、これからも頼りにさせてね」
「もちろん」
「直ちゃんも困ったことがあったら、いつでも連絡してよ」
「うん」
そこであたしは湯船から出て、日の沈んでいく海を眺めた。雲一つない空が、青からオレンジ、そして赤へのグラデーションを描く。
「夕日が綺麗。言ったとおりだね」
「天気も良いし、今日は星がよく見えるかも」
「そっか。じゃあ、ご飯の後に出てみる?」
「そうだね」
次の景色が見たくなったら、ここを離れる寂しさも生まれる。裏表だ。
「……直ちゃん」
「そろそろ上がる?」
まだ、何かがもう少し足りない気がする。このまま帰っても上手くやれる自信がない。言いたかった。隠し事はなし。優しさの引力はブラックホールのように強い。でも、こんな気持ちではそれこそ前向きな答えを見つけられるはずもない。
「うん。暗くなっちゃうからね」
そこから宿までの道のりには、港や昨日の夕日の丘もあって、歩くと一時間くらい掛かった。夕食は昨日と少し違う刺身に、ハンバーグやグラタンが付いて、やっぱり豪華だった。
夜の八時過ぎにまた宿を出て、海に向かって歩いた。そのときから空は晴れていて星も見えたけれど、海に着くまではなるべく空を見ずに。
海岸から海へ飛び出した堤防の先まで行って、ようやく。
「じゃあ、いくよ」
二人で、一緒に空を見上げて。感嘆の声を上げたのも同時だった。
どんな星座があるのかは、正直なところよくわからない。でも、明るい星から暗い星まで見たことがないほどたくさんの光があって、そんな景色を知れたこと自体が嬉しかった。
海、山、星。この島でしか見られなかった景色がたくさんある。それを全部直ちゃんと一緒に見られたのは本当に幸せだ。
それだったら、最初から純粋な島旅行だったことにして帰ってもいいのかもしれない。
でも、それは付き合わせちゃった直ちゃんにも悪い。やっぱり、あたしにはもうひと頑張りする責任がある。
「ねえ、直ちゃん。文芸部同士で今度は、合宿以外にも何かできないかな」
最初、それは本当に何気なく、雑談のように言ったつもりだった。
「例えば……部誌を送り合うとか?」
「うん。でも、送り合って終わりじゃなくて、もっと……ちゃんとって言うのかな」
「ちゃんと?」
それを具体的にするための材料は、もうあたしの手の中に揃っていた。閃きが訪れる。
「あのね、感想を送り合うの。うちは今、外に向けて感想を送ることも、外から感想を送られることもないから、そういう機会があるとみんなの意識も変わると思う。だから、うちは傑作選じゃなくて普段の部誌を出すの」
「良さそう。うちも、SNSとかで感想をくれる人は多少いるけど、自分たちからまとめて感想を送るっていうことはしてなかった。じゃあ、帰ったらうちでも相談してみるね」
「ありがとう。お願いね」
「うちと一花のところだけじゃなくて、もっと広がっても面白そう」
「そうだね……あっ、名前さ、部誌交換協定とかどう?」
「部誌交換協定。いいよ。採用!」
また、空を見上げた。あの星々をつなぐ星座の線のように、部誌交換協定が広がっていくのを想像する。たぶん、そうなるにはもっと時間が掛かるし、あたしも佳乃ちゃんも卒業した後のことになると思う。でも、そうやって周りとのつながりの中で文芸部が続いてくれるなら、もう砂の城のように崩れ去ってしまう心配をしなくてもいい。
ふと、一緒に空を見上げる直ちゃんの横顔を見て。
「……本当に、ありがとう」
こちらを向いてくれたところで抱きついた。
「あたし、頑張るね」
直ちゃんも、両腕で応じてくれる。
「ずっと応援してるから。次に会うときにも、聞かせてほしい。楽しかったことも、悩んでたことも、全部。もちろん私も話すよ」
「今度はもっと、楽しい話がいいね」
「そうだね。そうしたら、離れていて別々の楽しみがあっても……共有すれば、二倍の楽しみになる」
「うん!」
あたしたちの間の世界が、これからどんどん広がっていく。昔はそれが怖かったけれど、今は楽しみに思える。
二人だから。ずっと。
未来への声は反響せず
「それで、中津先輩が卒業したすぐ後に、直ちゃんの文芸部との部誌の交換が始まりました。最初の夏部誌ではお試しで、佳乃ちゃんが部長になってから、正式な協定の形になって」
大学を卒業してから五年後。東京に出てスポーツジムで働いていると、そこに中津先輩が通ってくるようになった。
ある日、あたしの仕事終わりに中津先輩と二人で食事に行ったとき、今回の事件の話になった。中津先輩は最初の騒動の時点で四年生だったから、解決の兆しが見えないうちに卒業して顛末を知らない。
「一年くらいはそのまま、東京との間だけで続きました。ですが、その次の年から感染症対策で、活動自粛が続いて……」
「対面での活動は、できなくなってしまいましたか」
「はい。その年に、部誌を電子書籍にしてインターネットで公開するようにしたんですよね。私はもう卒業していたので後輩に聞いた話なんですけど、それで部員はもう外向きにならざるを得なくなって、別の文芸部やサークルと交流することの精神的なハードルが一気に下がったみたいです」
あたしが知っているのはそこまでだけど、今も部誌のインターネットでの公開は続いているし、部員の日記や評論などの記事も公開されるようになった。最後まで話を聞くと、中津先輩は安心したように微笑んだ。
「最終的には、環境の変化によるところが大きかったのかもしれないですが……それでも、部誌交換協定という地盤があったから、インターネットへの移行もしやすくなっていたのではないかと思いますよ。ともあれ、文芸部の存続に関わる大変な仕事をよく形にしましたね」
「ありがとうございます!」
直ちゃんは東京で弁護士になって、あたしが東京に来てからは前より会えるようになった。でも、あたしのほうが土日にも仕事があったりして、休みはなかなか合わない。
そんなとき、札幌でテレビ局に就職した佳乃ちゃんが、旅行で東京に来ると連絡をくれた。東京はホテルが高いので、あたしが家に泊めてあげることにした。
ちょうどその中で一日、あたしも直ちゃんも休みの日があったので、三人で朝から東京タワーに行った。
「百五十メートルだから……ここでもう、札幌のテレビ塔より高いんですね」
あいにくの曇り空でタワーの突端も雲の中だったけれど、メインデッキからは東京のダイナミックな街並みが模型のように見渡せた。芝公園が見える側の奥には東京湾の水面も見える。
「いろんな建物があって面白いよね。高いビルに低いビル、瓦屋根のお寺や神社、学校の運動場やサッカー場……直ちゃんは、来たことあるんだっけ?」
「ここは初めて。大学の頃、都庁の展望室は見に行ったよ」
「そっちもすごいの?」
「うん。見えるものは全然違う。明治神宮の森がすごく大きく見えるよ。でも、海は遠くて見えないね」
「へえ、行ってみたいな……今度行こうよ」
「いいよ」
「佳乃ちゃんにも写真送るね!」
「ありがとうございます」
その午前中には、もう一か所見に行くところがあった。芝公園を抜けて、大門の脇を通って、さらに二十分くらい歩く。そこは、忘れもしない旅の出発地だ。
「ほら、佳乃ちゃん。これがモヤイ像だよ」
「あっ、意外と大きいですね。島には同じようなものがたくさん?」
「そうだよ。こんな顔面の石像だけじゃなくて、恐竜とか柱とかピラミッドとか、何でもこの石で造っちゃうの」
「その島で、あの協定のことも思いついて……良い旅行だったんですね」
あたしもあの旅を最後に来ていない、竹芝の客船ターミナル。伊豆諸島に行く船は深夜に出て夕方以降に帰ってくるものだと思っていたけれど、人はちらほらいて、奥に船も泊まっているように見える。
「でね、あそこに島のものが売ってるショップがあって……佳乃ちゃんにもぜひ、くさやを味わってもらおうと」
「くさや……魚でしたっけ?」
「そう、干物みたいな感じかな。最初は結構食べるの勇気いるけど、美味しいんだよ」
ショップに入ると、冷蔵ショーケースにくさやが並べられているのがすぐに見つかった。いくつかの島のものがある中に、新島のものもちゃんとある。
「このスティックタイプのものが、そのまま食べられるから手軽だよ」
「そうなんですね。いくつか種類がありますけど、初めてでも食べやすいものがあったら……」
「なるほど。あたしたちはたまたま寄った商店で買ったから……直ちゃん、どれだっけ?」
「たぶん、これ。見覚えがある」
中には四つの商店のくさやを集めた「食べ比べセット」もあったけれど、初めてで口に合わなかったときのことを考えると、やっぱり一本から始めたいものだ。そこで、佳乃ちゃんはあたしたちが島で食べたものと同じ商店のものを買った。そして、あたしが「食べ比べセット」を買った。直ちゃんはというと、最近は料理に凝っているらしく、島の塩やタバスコなどの調味料を買っていた。
買い物を終えてから、外のデッキの二階に上がってみた。前に乗ったものと違う白い大型客船が泊まっていて、人が乗り込み始めている。
「ここから、船に乗っていったんだよね。あのレインボーブリッジをくぐって……」
「一花さんは、また島に行きたいと思いますか?」
「もちろん。今度は違う島にも行こうって、直ちゃんとも話してたんだよね」
「そうだね。きっといつか」
「今度は、佳乃ちゃんとも一緒に行けたら嬉しいけど……なかなかそうもいかないよね」
「その気持ちだけで、私は嬉しいですよ。代わりに素敵なお土産話を、たくさん聞かせてください」
旅はいつも、新しく大切なことを教えてくれる。お土産話を聞いても、感じ取れることがある。そういったことにアンテナを張っていることが、自分自身をエコーチェンバーに閉じ込めないために大切なことなのだろうと思った。
そのとき、泊まっていた客船が出航の汽笛を鳴らした。
「この船、どこに行くんだろう?」
「小笠原諸島の父島だって」
直ちゃんはさすがに、あたしが聞き流していた放送もちゃんと聞いている。
「小笠原諸島って……めちゃくちゃ遠いところじゃない?」
「そうだね。この船で丸一日掛かってようやく着くんだって。そしてこれが唯一の交通手段」
「すごい……それってもう、海外よりも行くの大変だよね」
「大抵の場所よりはね」
そんな場所にも、気持ちがあればいつかは行く機会を得られるのだろうか。
そのとき、隣には誰かいるのか、一人なのか。
港を離れていく客船に乗る自分の姿は、まだ想像できなかった。
文芸人のエコーチェンバー