當世流行異世顛末生 (とうせいはやりのとつよのてんまつき)

當世流行異世顛末生 (とうせいはやりのとつよのてんまつき)

珍しくもない、おばさんのゲーム転生。
チートも、ハーレムもない、知らない世界。

🔳異世界顛末生

 何年かぶりに新刊案内を眺めていて思ったんだけど、やたらと長いタイトルが跋扈していて、正確に覚えられる自信が無いのも然ることながら、タイトルだけで読んだ気になれるのは如何なもの何だろう。

 当世、『今とは違う所で生きる物語』が流行ってるらしい。
 そろそろ飽和状態な感も無いではないけど、現実の逃避を目論んでいるのは、あたし以外にもいるってことか。

 あたしは『佐東仁美』
 "ひとみ"と読む。

 しかし、"美"って字はあれだよね、名前に使われると価値が薄まると云うか…記号だよね。
 どうでもいいけど。

 長いこと現実から逃避している様は、恐らく俗にいうオタクに近い。
 けど、あたし自身はオタクって云うには半端モンで(オタクって或る意味プロフェッショナルと思うの)、二次元コンプレックスの方がしっくりすると思っている。
 そーいや、オタクの語源になったアニメは、あたしを二次元沼に捕まえた作品でもあるのだけれど、未だに何で今の意味を持つようになったかわからん。
 そんなアニメを中学生の時に視聴した年齢。
 オーバー五十ってやつ。
 
  並行宇宙とか多重世界やら、輪廻転生だとか時間旅行なんて、SFやFTは大好物だから時代があたしに追い付いてきたわねって宣えば、世の好事家の方々には、ごっちゃにすんじゃねーよ、だろうし、"よその世界"ブームも一緒くたにすんじゃねー、って責められそうだ。
 [[rb:変わんない > いっしょ]]と思うんだけど。

 何か最近色々とめんどくさい。
 最近でもないか。

 まあ、厨二病って云うんですかね?
 凡そ三十五年前に発症して、患って、拗らして、悪化させて現在に至る。

 積極的に死にたくはないけれども、もう生きてなくてもいいんじゃないかな、と思う程度には現実を逃避したい。  
 働けど働けど、我が暮らしが楽にならないのは、推し事に重きを置いているから。
 仕事はしなくても推し事やめない、これ大事。

 はあぁ。
 あーニートしてぇ。

  二十九歳の時、確かになんとも言えない妙な焦燥感に襲われたのを、今でもはっきり覚えている。
 何かしなきゃ、でも何を?
 何か成さなきゃ、でも何を?
 答えなんかありゃしないのに。

 で。
 あたしは、好きだったV系バンドの追っかけをした。
 三十からは落ち着くつもりで。
 三十までははっちゃけようと。
 あ、あたし的には芸能人は|二次元(違う世界)
 とはいえ、ライブに行きまくったぐらいなんだけどさ。
 遠征もした。
 けど、入待ち出待ちまでしてない。
 一度だけライブのついでに田舎に帰ったときは、飛行機一緒になんないかなーと、時刻表とスケジュールを吟味した。
 結果、飛行機にスタッフらしき人はいたが、メンバーは居なかった。
 くっ。
 ま、居たからって、お姿を拝むだけで、サインやら写真やらなんてもっての他なんだけど。
 ライブ形式の公開録画にも行って、未だにそのときのVTRが流れたりするから、あーあたしだぁ、と眺めている。

  それから四十まではあっという間だった。
 四十代に関しては記憶もないわ。
 20年は2行かよ。
 それにしても、すげーよ、老化。
 多分、加速そーち付いてるよ。
 ジョンソンでルイスでボルトだよ。

 そして。
 五十を前にして、生理の間隔が空いた。
 女でなくなる瀬戸際で、今更ながら世の中の女性が結婚に焦るのが解った気がした、遅いけど。
 毎月、鬱陶しくて、痛くて、辛くて、怠くて、早くあがらんかなと思ったこともあったけど、いっぺんくらい妊娠、出産という正しい使い方をしてみても良かったのかなと思う。

 思うだけだけど。
 結婚を意識した人が居なかったわけではない、けど。
 人と暮らすことの嫌悪感や、親になる事に得体の知れない恐ろしさがあった。
 案ずるより産むが易しなんて、所詮他人事。
 お陰さまで戸籍はキレイだ、職歴がスゴいけど。 

 それでも、思い出したようにやって来る月のモノが、女にしがみついているみたいで滑稽に思わなくもなくはない。

  当たるのは罰、貯まるのはごみだけ。
 って言ったのは誰だっけ?
 忘れた。 
 でも、後悔はない。
 ネタだと思ってるし。

 地球が滅びるときに一人じゃ寂しいかもなぁとは思うけど。 
 オタクで、コミュ障で、人間不信で、厨二病で…続く。

 思考がぐるぐるぐるしてきた。
 いかん。
 ま、いっか。
 あたしは、カップ酒を煽る。
 所詮は酔っ払いの戯言。
  
 がくんと頭の重さを感じる。
 瞼を開けているのが辛くなる。
 あたしは、どんなに呑んでも顔色が変わらない、らしい。
 んで、酔うために深酒になる。
 酔うまで吞まなきゃお酒に失礼じゃん。
 けど、頭は何かはっきりしている。
 嘘、時々記憶ぷっつり消えてる。
 肝臓の許容量を把握出来ずに、気が付くとゲロまみれの朝を迎えた経験を二回もすりゃ女子として十分だろ。

 宿酔で千の天使はバスケしない。
 あれを天使のバスケに例えることができる中也は永遠の憧れだ。 
 思考が活動限界。 

 あー、回ってんなぁー、脳ミソぐちゃぐちゃ。
 ふわふわとしたまま枕へ倒れ込む。

  願わくば、朝まで目が覚めませんように………  


  ………ちっ。  暗い。
  今何時かなあ…目、開けたくないなあ。
 苦しい。 飲み過ぎたか?
 苦しい。
  ……吐けば楽になるのかな?
   仕方無い。

 布団では吐きたくないから起き上がってトイレ行くか。

…?体が起き上がらない。
    苦しい、動かせない体。 
     苦しい、動かない体。
        苦しい。
   苦しい、トイレへ行きたい。
  苦しい、頭、痛いよ。
 苦しい、吐きたいよう。
   苦しい、もう、こんなに飲みませんから。
    苦しい、死にそう。

 あっ。
 ああ、そっか。
 死ぬのかあ。
 そっかあ。

 と、脱力した瞬間。
 体が引き摺られ圧迫感から解放される。
 瞼は貼り付けられたように閉じたまま、瞼越しに光を感じる。

 と、背中に強烈な痛み。
 二回、三回と続き……げぼっと喉が音をたて、反射的に泣……喚いている?
 ……意味を成さない言葉を、気が触れたように喚き散らす。

 痛み?
 怒り?
 声を出しているのはあたし…よ、ね?
 ねえ?
 これって救命処置だよねぇ?
 ねえ?
 嘔吐物でもつまらせた?
 アル中まっしぐら?
 あ、隊員さんお仕事とはいえご苦労様です。
 ご迷惑をおかけします。

 と、温かい水に全身を|(ひた) される。
 まさか|清拭(エンゼルケア)
 でも清拭だと全身をお湯に|() けないよね。
 拭くだけだよね。
 ん…何かがおかしい。

 と、微かに甘い香り。
 何故だか、妙にはっきりと懐かしい。
 香りを鼻で辿ると、口の中に温かい液体が入ってくる。
 ああ、なんて胃に優しい。
 ……あれ? 死んでなくない?
 あれ?
 点滴じゃなくて経口摂取?
 じゃあ、生きてる?
 違和感しかない。
 てか、この味って……

 !それよりも、現実的な問題に気が付いた。
 病院沙汰!うわっ、お金足りるか?
 保険、下りるかな?
 下りないだろうなあ。
 これって急性アルコール中毒だよなあ。
 どうしようかなぁ。
 お金の工面を考えていたら、いつの間にか寝てた。

 ―――意識は覚醒してるのに、瞼が開かない。
 どうしたことだろう?
 これが植物人間ってやつなのかしらん?
 なぁんてね。
 やー、無いっしょ。
 無いよね?
 そんな、ドラマみたいなこと。
 精々、意識不明ってやつだろう、アル中で。
 意識あるけど。

 ―――植物人間か何かと思っていたのだけれど、どうも何か違う。
 
 ゆるゆると瞼を開け、じっと目を凝らすと視界情報が入ってきた。

 うんと画像の荒い、モザイクな世界。
 色彩の洪水。

 耳に入る音は、人の声と言うのが分かる程度で、言葉として入ってこない。

 それもなんだけど。
 薄々感じてはいたけど、さ。
 今更だけど、さ。
 なんか、さ。
 ちっさくね?
 四肢の感じる範囲が狭い。

 ―――赤ん坊???
 えっ!これってまさかリインカネーションってやつですか!
 わくわく。
 産まれた時に前世の記憶が有って、歳を重ねる毎に記憶は無くなっていく説、って本当だっだんだなぁ。  

 じゃあ、いつかは『佐東仁美』じゃなくなるのか。
 死因、アル中って最後まで|(はず)いやつだわ。
 ま、終わったことなら知ったこっちゃないけど。

 けど、ちょっとひらめいた。
 もしや、人のこうじゃなきゃって性質?思い込み?てこれかな、と。
 脳には刻まれた前世の記憶。
 育つに従って存在すら忘れるモノ。
 これが、性格形成というものなら。

 よし!
 ならば、運動しよう。
 出来ないで諦めない。
 別にチートな運動能力とか求めないけど。
 人並みには、ん。
 必ず、為せば成る。

 そして、勉強するんだ。
 出来ないで諦めない。
 もっと勉強したい。
 大学行きたい。
 きっと、為さねば成らぬ。

 それよりもなにより。

 ―――素直になろう。
 見栄も虚勢も張らない。
 若いうちに気が付きゃいいんだけど。
 五十間際で気付いた処で後の祭りだ。
 でも、あたしに後悔はない。
 まあ今の処、自分が男なのか女なのか分かんないけど。

 素直で可愛いは正義。
 間違いない。

 絶対、成さぬは人の為さぬなりけり。

 なんか、夏休みの目標みたい。
 けど、脳に刻み付けてやる。
 つまりは、
 ―――愛されたい。
 それだけを。
 しっかりと。
 多分、情けは人の為ならず。  

 ……良いかな? 良いよね? 

  そんな夏休みの目標のような人生の指標をたて、我ながらピントのずれた自己満足な哲学の日々過ごしていたら、少しずつ視界の焦点が合ってきた。

 画素数が増えた感じ。
 色だけだった世界が、形を持つ。
 で、思ったんだけど。

 この世界、CGじゃね?

🔳これ、CGじゃね?

 綺麗っていうか、美麗?
 どこかしら作り物な、リアル。
 触れば厚みもあるし、なにより温かいけど。
 でも確実に絶対、日本人じゃない。

 早すぎる輪廻。
 そういえば、閻魔様どころか秦広王、てか奪衣婆にさえ会ってない。
 三途の川で日本人形のような女の子を愛でたかった。
 愛でたら地獄行きだけど。
 あら残念。
 あ、でも、うちは浄土真宗だから裁判無いか。

 もしや。
 流行りに乗っかった?!
 やったね!いぇーい! 
 とか、なんとかいっちゃってー。

 あーあ。
 なーんてね。
 まあ、夢だよ、夢。
 訳ありな女神様やら神様やらにも会ってもないし。

 夢だよ、夢。
 アル中が、見ている夢。
 それが現実。 

 知ってる、判ってる。 
 それでも。
 この世界は、矢鱈とあたしに優しくて居心地がよくて。
 覚めなくてもいいかな、と思い始めている。   


 ティンクの軌跡のようなきらきらを纏った銀色が、顕在化して少年となり、あたしに「ミリア」と呼びかける。

 成程、横文字系の世界なのか。
 どうやら少年はあたしの兄で年の頃は十歳くらい?
 セイレンと呼ばれている。

 一体どこの国だろう?
 当たり前に聞いていたけど、日本語だよねえ。
 益々、あたしに便利な世界 だこと。

 さらっさらの銀髪に、|(みどり)の瞳の美少年。
 北欧系?と思ったけど、あたしの中で銀髪イコール北欧、なだけで根拠はない。
 そもそも銀髪って美人度が上がると思う。

 銀色はもう一つあって、きらきらはしてないけど光ってる。
 なんだ、それ。
 クリストファって呼ばれている美青年。
 っうか、|父親(とーちゃん)っすか。
 二十歳いってないくらいに見えるんだけど、若いのに偉いなぁ。
 もう子育てですか。
 すごいなあ。
 えらいなあ。
 なるべく手が掛からないように育ってあげよう。

 や!|面食い道まっしぐら《流石、夢》だね!

 折角だから目覚めるまで暫しこの美形たちを堪能しましょう。


  ―――――――――目覚めない。


 良いんだろうか?
 少なくとも3か月は経ってる気がする。

 まぁ、綺麗な方々と御近づきになれるなら、夢でも構わん。  

 それにしても母親の顔を見ないのは、あれだろうか?
 止事無き方は育児しない、てやつ。
 あたしのお世話をしてくれているのは、髪が焦げ茶のイーラ、薄茶のアルラ、赤茶のサーラ。
 同じような髪型と服装ということ制服かな?
 メイドさん?が居るってことは裕福な家庭っぽいけど、正直お貴族様とかは面倒くさいから勘弁していただきたいのですけど。
 と、早くも後向き発言。

 でも、メイドさんズには、いつもお世話になっております。
 寝ずの番、上げ膳据え膳で下の世話までしていただいてありがとうございます。
 けど、イー、アル、サーて……中国語?
 三人の関係性は不明だけど、モブ感全開やね。 

 そんなこんなで、とうとう首が座ってしまった。
 視界にはまだ天井しかないけど、左右に首を振れる。 

 あ、壁。
 あ、通風孔。
 アンティークな雰囲気があるけど、『中世ヨーロッパ』風な感じがしない。

 どんな仕組みで点いている照明なんだろか?
 や、人々はメイドさんズも含め、異国情緒溢れるお顔立ちなんだけど。
 なんか、『和』なんだよね。
 匂い?空気?っていうのかな。

 なんだろう、明治とか大正の頑張って欧米化するぞーてやってた時っぽい。
 なんとなく。 

 そしてあたしは時折、喃語を口走ってる。
 猿になる日も近い気がする。 

 ある日、アルラに檻のようなベッドから抱き上げられた。
 はや、誘拐?等、一人サスペンスを楽しんでいたら、違う部屋へと連れ込まれた。 

 どぉわあ。
 広いな!なんだこの部屋!
 恐らく二十畳は有りそうな広さ。
 や、洋室なんだけどね。
 部屋の広さはつい畳で測りたくなる。

 窓は大きく、けど暑くはない心地好い暖かさで、眩しくない明るさ。
 おや?お金持ちの象徴、ピアノはグランドではありませんか。 
 しかも、白!
 障屛がある。 
 あれ?この絵、知ってる。
 昭和初期の挿絵画家のものだ。
 大好きで画集で何度も見て、スキャンしてプリントして部屋に貼ってたから間違いない。
 そして、障屛になるほど大きな絵じゃないことも、原画を見に行ったから知ってる。

 
 ほぉぅ…
 …アルラの腕の中できょろきょろしていたら、「ミリア!」て聞こえた。
 あ、あたしか。 慣れないなあ。
 見るとセイレンがいた。
 えっとぉ、兄ちゃんなんだよね。
 挨拶代わりに「にぃ」て、両手を振りながら言うと。
 こういうのを花が綻ぶって云うんだろうな。

 素敵な笑顔を向けて来て、それからあたしに手を近付けてきた。
 握手!あたしは出された手…を握ろうとしたら思いの外自分の手が小さくて、人差し指を両手で握りしめた。
 すると、セイレンは握られた指を見たあと、あたしの顔へと視線を移したので、表情筋を総動員して笑い返した。
 まだ上手く笑えてない気がするけど、許してね。

 と、セイレンの|碧 《みどり》の瞳に、引き攣った顔した小坊主を発見した。
 んー、視線から察するに、それはあたしですよね。
 とーちゃんの遺伝子はもっと仕事しても良かったと思うよ!

 この部屋は子供部屋なのかな。
 セイレンは入口とは別の扉から、何冊かの本を抱えてきて、毛のたっぷりしたラグに置かれた、人をダメにしそうなクッションに寄り掛かった。

 「お行儀悪いですよ」 と、いうアルラに、
 「だって、こうすればミリアと遊べるでしょう?」
 と、セイレンは背凭れにしているクッションを叩く。
 「そんなところに置いたら埋もれてしまいます」
 と、アルラはあたしを一旦ソファーに置いた後、お昼寝座布団をラグに敷き、お布団に寝かせた。

 お布団はふかふかだ。
 でもね、あたしはラグの方が気になるのさ。
 見るだにケモノみたいにふわふわした毛並み。
 ケモラーにはたまりませんっ!

 匍匐前進していいかな?
 首、座ってたら可能?だよね?
 それにはまず… 起き上がろうとしてみたが、腹筋は無いから微塵も動かなかった。
 そりゃそうだ。
 なら、転げて俯せになる、や、なろうとする。

 ふんっ、と体を捻るけど上手くいかない。
 でも、諦めないある!
 ふんっ、ふんっ!と体を捻っていたら、アルラが抱き上げてソファーに寝かせた。

 ?
 「むずむずして…おしめですか?いま取り替えますよ」
 !!や、違うけど。
 起き上がろうとじたばたしたのがむず痒って見えたんだろうけどさ、アルラさん、殿方の前ですぅ!と、妄想を暴発させる準備を整えていたら、セイレンのほうが気を遣って慌てては別室へと向かっていた。
 |愛 《う》いやつめ!
 「あら、濡れてない、じゃあお腹空いたのかしら?」
 セイレンが戻ってきたのを確認すると「少しお願いします」とアルラは部屋を出ていった。

 セイレンはあたしと目を合わせて抱っこすると、ソファーに腰かけた。
 美人は三日で飽きる、とか云うけどそんなこと無いと思う。
 あたしゃ、いつまでだって見てられるぜ。
 ただ、その美しい瞳に映している小坊主が気に食わん、毛はどうした。
 あ?

 折角の美しい顔が触れる距離にあるので、ここぞとばかりにセイレンの白くてすべすべ、つやつや、もちもちなお肌に、ぺたぺた触りまくる。
 柔らかい求肥の大福なみに気持ちいい。
 や、大福と比較するのは失礼か。
 勝者、セイレン!

 べたべたと好き勝手に触っているのに怒りもしないセイレンに、自分が昔の職場の[[rb:上司 > スケベ親父]]にでもなった気がする。
 当時はセクハラなんて言葉はなかったから、触られてなんぼみたく云われてたよなあ…
 ・・・セクハラじゃないもん! 確認だもん。
 なんの?
 いやなに、乳児のやることだ、許してくれ給え。

 と、きらんとセイレンの目が輝いた、気がした。
 あたしはソファーに寝かされるとセイレンがあたしの上に覆い被さった。
 ゆ、床どんてやつっすか?
 きゃっ!

 な、訳はなく、擽られる。
 きゃっきゃっと愉しくプロレスごっこをしていたら、
 「何してるんですか」と、いつの間にか戻ってきたアルラが、呆れた顔して立っていた。
  アルラがおやつを用意してきてくれたので、食す、セイレンがね。
 あたしはまだミルク。

 弟や妹が産まれたときに粉ミルクを舐めては、母親に叱られたのを思い出していた。
 食後のお昼寝をした後、アルラにしっかり辱しめに遇わされたけど、セイレンが恥かしそうな顔が見れたのでよしとする。
 いちいち可愛らしい。

 すっきりしたので、匍匐前進するべく寝返りに再チャレンジする。
 ふんっ、ふんっ、ふんっ。

 今度はセイレンとアルラが興味深くあたしを見てる。
 「なにしてるのかな?」とはセイレン。
 「ミルクもおしめもお昼寝も済みましたからね。何でしょう?」

 ち、注目の的だわ。
 ここはお客様のためにも頑張らねばっ!
 ご期待にお応えして?やってしんぜましょう!
 ふんっっ!

 「「おおっ」」
 あら、素敵なシンクロ率。
 寝返り成功。
 匍匐体制、よぉしっ!前進っ!
 ふぬっ、ふぬっ、と目指すはもふもふラグ。
 「ねえ、這ってない?」
 「ええ、這いずってますね」
 あ、アルラさん混沌じゃないんだから、って混沌は這い寄るのか。

 五十センチほど進んで、お目当てのもふもふに到着。
 思った以上の冒険に、とたん意識が持っていかれる。

 くすくすと気持ちの良い声が耳に入る。
 「すごいね、君は」
 喜んで頂いて何よりですぅ。
 セイレンは、寝落ちしたあたしを抱っこして頬擦りしてくれた。 

 その日から、日中はセイレンとメイドさんとこの部屋で過ごすようになった。
 セイレンは一日中でも本を読んでいて、時折あたしとプロレスをしてくれる。
 子供を擽って笑かすのって本人は楽しんだろうか?と、思ってたけどあたしを必死に笑かそうとする相手を見るのは思いのほか楽しいし嬉しい。
 なんだ、ただの“構ってちゃん”じゃん。 

 セイレンは、一頻あたしをあやした後は、再び本へと意識を戻す。
 あたしが本に近寄ろうとすると、さっと取り上げるからきっと大事なご本なんだと理解してる。
 ガキは本を粗雑に扱うものだ、ん。
 その危機管理は当然です。
 けどね、あたしは教科書にも書き込みが出来ない程度のビブロフォリアだから心配しなくても宜しくてよ。 
 おほほほ。 

 一方のあたしはというと、ふわふわのラグに顔突っ伏してお昼寝しております。

 運動?
 まだ、立てないもん、さすがに。 
 気持ち良いんだよぉ、このふわふわ。
 涎垂らしていたらすいませんです。

 ぽかぽかして気持ちいいで思ったけど、雨、降りました???
 この窓から、雨を見たことないのに気が付いた。 

 お昼寝、するんだよなぁ、と思う。
 夜も寝ている。
 当然、目覚める。

 本来、五十ばばあで目覚めていい筈なのに、小坊主のままだ。
 ずっと寝てるからか日にちの感覚が今一つわからん上に、どうも何月とか何曜日的な話がないんだよな。
 九十日て何なんだろう?

  ごん、と床に頭をぶつけてみる。
 痛い。 
 泣きそうだ。
 泣きそうだけれど泣くと赤ん坊のあれなので耐える。 
 これはこれで、現実なんだと受け入れないとかな。 

 結構スゴい音だったみたいで、セイレンとサーラが慌てているのが目に入る。
 ああ、音がしたのに泣き声もないから心配されているのか。

 セイレンに抱っこされている。
 定位置になりつつあるこの腕。
 サーラが冷やしたタオルをおでこに当ててくれて、あや、サーラのか泣きそうだ。
 なんか、心配されるのって気持ちいいね。
 ん。 
 『ここにいたい』と言う気持ちが、『夢だろ』を追い越したがっている。 

 それからも、淡々と日常は過ぎた。

 もうすぐ冬になるらしい。
 『準備期』に入るとかで、メイドさんズは慌ただしい。

 あたしの匍匐前進も、大分様になってきた。
 セイレンは相変わらず本の虫だ。
 セイレンはあたしとプロレスごっこはしてくれるけど、本からは遠ざける。
 なので、背表紙を眺めることにした。
 こ、これくらいは許してくだされ。
 そろそろ活字に餓えておりまする。 

 セイレンは物語が佳境に入っているようで、本からは目が離れなくなった。
 いまだっ!と、背表紙にピントを絞る。

  ………アルファベットの筆記体?
 英語なん?!と一瞬青くなる。
 自慢にしかならないが、英語しか話さないアメリカ人と、日本語で喧…議論したことがある。
 通訳さんから何で通じているのか分からないとお褒めの言葉を賜った。
 そのくらい外国語に弱い。 

 うーん………… MOMOTAROU
 ……はいっ?

 えーとぉ。 

 これ、ローマ字じゃね?  

 

🔳これ、ローマ字じゃね?

 筆記体で、いかにも英語っぽく書いてあるけど、ローマ字。
 だってあたしが読めるもん。

 「ご本に興味が有るのかな?」
 セイレンのどこか呆れたような声に我に返る。
 や、見つかっちまった。
 かなり凝視していたらしい。
 いっかと、セイレンの目を合わせ頷いてみる。

 おや?と、柔らかく微笑んで
 「君は本が好きみたいだよね」
 と、あたしを抱えると膝にのせた。
 バックハグっすか!と、妄想を暴走させようと思いもしたが、脳ミソは兎も角、赤子相手に我に返った、この間は一秒もありますまい。

 じたばたとする珍妙なものを目にしたセイレンはきょとんと愛らしい。
 見なかった事にしてくれるようで、読んでいたものとは別の、手近な本を取った。
 まったくもって出来た兄だ。
 それはそうと、読み聞かせですね。
 ありがとうございます。

 さて。
 膝の上にに絵本を広げる。
 古いけれど落書きも欠損も無く、丁寧に扱われていたのが分かる。
 絵本を捲る。

 おおっ、久々の紙の匂い。
 やっぱ、好きだなぁ、本。
 読書家ってほどじゃないけど、本は好きだ。
 老眼で読むペースは大分は落ちたけど。
 ああっ、字が読めますぅ、眼鏡なしで。 

 ふと、視線を感じセイレンを見上げる。
 珍獣を見るような目をして驚いておられます?
 あ、あたしまだ首が座ったばっかだった。
 …ま、いっか。

 湧き出る知識欲の欲求の方に流され、本の方へと目を落とす。 
 耳元でくすぐる声に、既知感を覚える。
 あれ?この声… ん、聞き覚えがある。
 誰だっけ?何で聞いたっけ?
 んーーーあ、集中、集中。  

 色は匂へど、散りぬるを
 我が世、誰ぞ常ならむ
 有為の奥山、今日越えて
 浅き夢見し、酔ひもせすん 
 
 ん、紛う方無くいろは歌ですね。
 頭の中でかな交じりに変換する。

 しかし、仏様がどうとかって歌だったと思ったけど、この世界には仏様がいらっしゃるのだろうか?と明後日なことを考えていたら、
「この文章に意味は無いのだけれどね。文字の基本だから」 
と、宣われた。

 漢字があれば深読みし放題の歌なのに、なんてこった!と、悲愴な表情を作ってセイレンを見詰めていたら、?て顔された。
 困った顔も美人です。
 しかし 書き文字がローマ字筆記体で、文字列がいろはって覚えにくそうね。

 ここはもしかして、あたしとそう代わらない年代の人の創作物だろうか?と推察してみる。
 まあ、代わらないっても前後十歳位の幅を見てるけど。

  筆記体は最近は学校で習わないと聞いた。
 そもそも欧米の方は、あまり使わないのは知ってた。

 ルーマニア人に、なんで筆記体使わないの?て聞いたら、筆記体で書くとママの字でも読めないからね、と言われた。

 で、前出のアメリカ人には中学の英語の授業で習った筆記体を、得意気に披露して差し上げた。
 英語解らないくせに何で筆記体書けるんだ!しかもキレイ!と男性→男性へと送るサプライズなカードの代筆をさせられていたことを、ずるずると思い出した。
 
 それと、声。
 明らかに声優さんのものだ。

 今どきの声優さんは分からないと断言できる。
 人数が増えすぎです。
 まあ、脳味噌の容量の問題もあるとは思うけど、覚えらんない。
 だから、あたしに聞き覚えがあるということはベテランさんの域だと思う。
 と言うか思い出せなくて気持ち悪い。
 スマホ欲しい。

 ここはアニメとかゲームの世界なんだろうか。
 
 でもさ。

 |巷 《ネット》を賑わしてる転生モノって、大概その世界を理解してる子って相場が決まってないかい? 
 迷い込んだ先のゲームをやりこんでいたり、本を熟読して「・・・これは・・・・!?」て、無双する。 

 じゃ、無かったら神様とかが何か言ってきたり。
  あたしゃ、この世界の見当がとんと付かないのだけど。

 や、ゲームは好きだったよ。
 一時期は某元祖乙女ゲームに多大な金額を貢いだし。
 某RPGのカジノのアイテム手に入れたくて徹夜でやって次の日仕事サボった事もあった。
 だって、セーブは出来ないカジノから出たらポイントがリセットされるんだもん。
 悪魔と戦うために五時間ほどダンジョンをうろついたこともあったし、どうしてもベストエンディングが分からずに百八人仲間にしたした後、たった二行のために攻略本買ったこともある。  

 三十代半ばから老眼が始まり、同じころポータブルゲーム機が主流になって、画面の字が読めなくなって、ゲームから遠ざかったけど。

 と、なるとだよ?
 この先どう動くのが正解なんだろうか?
 正解?…て、有るんだろうか?
 
 「どうしたの?お眠かな?」
 柔らかいセイレンの声。

 ねぇ?あたしここにいてもいいのかな?
 ん?と小首を傾げて覗き込むセイレン。

 やっぱ難しいことは考えずに初志貫徹しよう、とお気楽極楽を座右の銘にすることにした。


 母親のことが分かったのは、セイレンととーちゃんが「もう二季節になるねぇ。ミリアの母が亡くなってから」なんて、しみじみとあたしを見ながら宣って判明した。

 ちゃんとした日数は分からないけど100日くらいで一季節と呼んでるみたいだ。
 二季節だから半年~八か月くらいかな?と、自分の成長と合わせて鑑みる。

 で、あたしが産まれると略同時に身罷られたとのことだ。
 うー、呑気に金持ちっぽいし、止事無き方なのかと勝手に思ってたさ。

 すまん、セイレン。
 幼子から母親を取り上げるようなことになって。
 そう思いながら、じぃーとセイレンの目を見つめていたら立ち上がっていた。

 さっきまでのしみじみとした湿っぽい空気はあっという間に無くなって、あんよは上手大会というか…
 とーちゃんとセイレンの間を行ったり来たりしていた。
 

   そんなとき、ちょっとした事件が起こった。 

 その日、子供部屋へ行くと、にーちゃんは居なかった。
 しばらく待っても来ない。
 キョロキョロと不安気にしていたらサーラさんが、「セイレン様は今日は学校見学ですよ」と、教えてくれた。
 そうか、学校は存在するのだね。
 寂しいけど仕方あるまい。
 学業は大切だからね。

 構ってくれるにーちゃん不在で、暇を持て余すのだけど、だからといって書庫で読書は憚れるだろうし、ここは幼児らしく惰眠を貪ることにしよう。
 今日もぽかぽか良いお昼寝日和だし。

 ラグに突っ伏して、とろとろしていたら思いの外、時間が経ったらしい。
 珍しくサーラさんが、居眠りしている。

 ぼーっと覚醒するのを待っていたら、ちょっとした悪戯心が湧いてきた。
 お家を探検してみるか?

 部屋の扉のノブは、下ろすタイプのもので辛うじて手が届いて、鍵も無さそうだ。
 回すタイプなら無理だったけど。

 そっーと扉を閉め、廊下へと出る。
 寝室とは反対方向に行ってみよう。
 折角の探検だからね。

 暫く歩くと、エントランスに出た。
 ほーっ。
 広いなあ。
 一体、うちのとーちゃんは何やってる人なんだろう、なんて思いを巡らせていたら玄関の扉が開いた。

「ミリア?」
 にーちゃん!
 あたしは1日ぶりのにーちゃんに、抱きつくべく走り出した。
 否、とことこと歩きだした。

 「ダメ!」
 と、同時に足に抱き付いた。

 あれ?

 にーちゃんの履いていたブーツには大きめの宝石で飾られていた。
 それは決して、下品な大きさでは無いのだけれど、幼児の額に傷を付けるには充分な代物だった。
 ましては、ボウズ。
 頭部を護る髪の毛が殆ど無い。

 わたしの視界は、赤い幕に覆われた。

 これ、血じゃね?

🔳これ、血じゃね?

 頭部から、とくとくと血が流れ出している。
「ミリア!」
 にーちゃんに抱えられる。
 ごめんよー。
 にーちゃんはちゃんと注意してくれてたのに。
 にーちゃんの後ろからとーちゃんが帰ってきた。
「セイレ…って、ミリア!どうした!」
 大丈夫だよ、って言いたいけれど話せる訳もない。
 思った以上に、怪我のダメージは大きいとみた。
 辺りはどんどん無音になり、視界が悪くなる。
 とーちゃんやサーラさんが慌ただしくしているだけが解る。

 ごめんよー、粗忽者で。
 にーちゃんの心臓がばくばくしている。
 ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 ごめんなさい。

 けれども。
 なんだか、その心音が妙に心地好くて。
 あたしは眠ってしまった。

 薄闇の中、目が覚めたら、頭がぐわんぐわんする。
 発熱したかあ。
 あーあ、大事しちゃったなあー。
 おや?
 人の気配がする。
 メイドさんが寝ずに看病してくれて居るのかな。
 あたしはサーラさんが心配だった。
 目を離した隙に怪我なんてされたら、責任、感じるよね。

 けれど、そこにいるのはにーちゃんだった。
 すっかり生気を無くした、虚ろな顔。
 胸には、べったりと血が付いている。
 わー、あれ、あたしの血だよね?
 あんなに出したのか。
 枕元の椅子に座り、あたしの方に顔は向いているけれど焦点が定まっていない。
 んー、このままではヤバい気がするよ?
 どうすっか?
 喋れないのがもどかしい。
 んー。

「…にー」
 あ、声になった。
「にー…」
 にーちゃんと言うのはまだ無理か。

 にーちゃんの焦点が、あたしに定まる。
 その瞬間、|(みどり)の瞳から堰を切ったように滂沱の涙が溢れ落ちる。
 喋れないのが、ほんっとに腹立たしい。
 ごめんなさい、って言いたいのに…!
 にーちゃんは、決壊したダムのような涙をただ流し続けている。
 どうすればいい?

 …!
 あたしは、にーちゃんの方へ思い切り手を伸ばして、そして笑ってみた。
 解らないときは|微笑(わら)え!
 笑えばいいと思うよ、ってやつだ。
 にーちゃんは悪くない。
 心配かけて、ごめんなさい。
 と、念を送る。
 通じろ!

 にーちゃん、にーちゃん。
 大好きだよ。
 通じろ!
 通じて!
 お願いだから!

 途端、壊れたようににーちゃんの頭ががくんと落ちた。
 いつの間にか、にーちゃんに握られていたあたしの手。
 にーちゃんの涙がぽたぽたと落ちる。

 こんな時なのに、なんでかな。
 あたしは今まで、こんなにも他人に泣かれたことがあっただろうか?なんて思っていて、ごめんね、ちょっと憘んでしまった。

 けれど、お願いだから。
 もう泣かないで。
 にーちゃんが、渇れてしまう。
 にーちゃんが、萎れてしまう。
 そんな風に茶化したいけれど。
 ごめんなさい。
 あたしの体力は限界を告げた。


 どれくらい経ったのだろう。
 インフルエンザみたいだ。
 違うけど。
 そっかあ。
 まだ、続いているのね。
 枕元にはメイドさん。
 朦朧とした頭は、誰だか解らない。
 寝ずの番なんだろうな。
 ごめんなさい。
 本当に、ごめんなさい。
 自分を過信してました。
 額に冷たい手が当たる。
 ひんやりとした心地好さに、たちまち眠りに落ちる。

 そんなことを何回か繰り返した。



 復活!
 漸く頭のぐわんぐわんが無くなった。
 三日寝込んでいたらしい。
 目を醒ましたときに枕元に居たのは、サーラさん。
 抱き締めてられて、泣かしてしまった。
 ごめんなさい。
 本当に、ごめんなさい。

 ベッドの上でお座りして、すりおろした林檎を食べさせて頂いていると、ノックの音。
 にーちゃん!では、なくてとーちゃんだった。
 食事中だったので、挨拶代わりに「だー」と両手を拡げてみた。
 腰が抜けたみたいに倒れ込んだとーちゃんは、あたしを抱き締めて「良かった、良かった。」と泣いた。

 沢山の人を泣かせてしまった。
 申し訳ない。
 そうだ。
「にー…?」
 にーちゃんは?と尋ねたいが伝わるだろうか?
「セイレンか?」
 とーちゃんの緑の瞳を覗き込む。
 でこにでっかいガーゼが当ててある姿が映る。
 くん、と頷く。
「…協力してくれるかい?」
 何の事か分からんが、くん、と頷くしかあるまいよ。

 とーちゃんに抱っこされて、部屋を出る。
 何処に行くのかな?
 いつもの子供部屋ではない部屋の前。
 にーちゃんの部屋?
 とーちゃんが扉をノックして、中に声をかける。
「ミリアが目を醒ましたよ。」

 どたどたどたと、中から音がしたのに扉は開かなくて。
 向こう側に、気配は感じるけれど、一向にノブが回らない。
「セイレン?開けておくれ?」
 とーちゃんの問い掛けに、扉の向こう側から、か細い掠れた音がしているけど聞き取れない。

 これ、マズくないか?
 緊急事態!
 あたしは、とーちゃんに抱っこされてる腕から飛び出す如く、扉に体当たりする。
「これ!ミリア!」
「にー!にー!にー!」
 出せる限りの声で、叫ぶ。
 拳でノックしたいけれど、ぺちとも音はしない。
「にー!にー!にー!」
 盛りのついた猫のようだ。

 そうしていると、ようやく扉が開いた。
 にーちゃん!
 あたしは脊髄反射で、にーちゃんへと飛び付いた。
 ナイスキャッチ!ではあったけれど、にーちゃんには勢いで尻餅をつかせてしまった。

 にーちゃんは、すっかり窶れていた。
 そんなにーちゃんの胸に、コアラかナマケモノの如く張り付く。
 よかった。
 取り敢えずお着替えはしてくれていたのだね。
 とーちゃんが寂しそうにしてるけど、今はにーちゃんの方が心配だ。
 にーちゃんの服にしがみつき、碧の瞳を覗き込む。
 いつもよりは弱い力だけどちゃんと見詰め返してくれた。
 弱い、弱い微笑み。

 にーちゃんの瞳に、ガーゼをつけたボウズの姿を確認する。
 表情筋に総動員命令をかけ、笑う。

 にーちゃんは、あたしを抱き締めてると、声もなく泣き出した。
 鼻を啜る音は、やがて規則的な呼吸音に変わった。
 どうやら眠られてしまったようですね。

「おい、おい。」
 呆れたとーちゃんは、あたし毎にーちゃんを抱き抱えると、ベッドへと運んだ。
 一応あたしを引き剥がそうと試みたけれど、にーちゃんに確りと抱き締めていた。
「このまま、一緒にいてくれるか?」
 と、溜め息混じりに言われたので、くん、と頷いた。


 そんな経験をしながら、あたしは三歳に成っていた。
 そして、前世の記憶は、いまだにしっかりある。

 思えば、母親を亡くしたばかりの少年に、血塗れの幼児を見せ付けるって、どーよ?て、思う。
 トラウマになってなきゃいいけどなあ…。
 怪我の方はすっかり見えなくなりました。
 毛も生えてきたしね。
 ほんと良かった、毛が生えて。

 にーちゃんは、一年遅らせて学校へと入学しました。
 そもそもはこの世界、六歳から十六歳の間で六年間在席すれば良いらしいので、休学とか留年とかではないらしいです。

 あ、にーちゃんとは七つ違いでした。
 あの美しさで小二かよ、恐ろしい子。

 学校は寮生活になるので、最近の子供部屋はあたしとメイドさんの二人になります。
 三人とも処罰もなく、お仕事続行で良かったです。
 とーちゃん、いい人。

 勿論、子供部屋でのメイドさんたちからの監視は強固なものとなりました。
 書庫の本を読んだり、惰眠を貪ったり。
 でもね、このままではいけない!と一念発起。
 手始めにラジオ体操を思い出しながら、やる。
 第二は流石に曖昧だなー。
 すると、それは奇っ怪な行動に見えたみたい。
 不安に思ったメイドさんずが慌て出した。
 見かねたとーちゃんが遊び相手を連れてきてくれました。
 この流れでまさかスーラ?と思いきや、ラウノ君でした。
 ウノって「スペイン語?」と、思わず声に出してしまったらラウノ君に聞こえてしまったようです。
 テーブルに置いてあった紙に『志山風花』て書きました。

 これ、漢字じゃね?

 

🔳これ、漢字じゃね?

あたしはラウノ君の顔を見た。
「しやまふうか?」
 ラウノ君はあたしの両手を、はしっと握る。

 ラウノ君の肩の向こうに、イーラさんがあたしたちを微笑ましく見ていたので、内緒の話をするべく、その手を引いて書庫へと案内した。

 扉を閉めて、一息着く。
「あなたは、にほんじんなのですね?」
 ラウノ君は一瞬ぽかんとしたが、ああと頷く。
 あ、三才児ですので呂律が廻ってないのは許してください。
「ミリア様にも日本人なのね?」
 と聞いてきた。
「らうのくんのなかのひとは、じょせいのかたなのですか?」

「取り敢えず自己紹介するね。この世界ではラウノ。十歳。ゲームでは名前も出てこないモブの筈なんだけど…この後……というか妹が……や、中身は志山風花。看護師やってる二十四歳。」
「このせかいはげーむなのですか!」
「知らないの?」
「しりません!」

 ラウノ君は考え込んでいる。
 つうか、不穏なワードがありませんでしたか?
「聞きたい?」
 こくこくと頷く。

「あなたは|何時(いつ)からこの世界にいるのかしら?」
「かーちゃんのおなかのなかからです!」
「え?」
「うまれるときからです。」


 ラウノ君―――志山さんの話では、この世界は、乙女ゲームというか、恋愛シュミレーションと言うか、育成シュミレーションらしい。
 女の子を育てて、様々な結末を迎えるモノで、定番といえば定番だけど、乙女ゲームと言うには育成にも重きがあり、選択肢次第では攻略対象者と出逢うことさえ出来ないとのことだ。
 まあ、ありがちだよね。

「…ぷりめ…」
 昔やったゲームを思い出し呟いた。
「何、それ?」
 知らないか。そうだよな、二十四て言ってたっけ。
 昔のゲームって言うと
「中の人、結構年いってる?」
 あぐっ。
「………おーばーごじゅうですぅ………」
「あら、お姉さんだ」
 良い子だ!倍以上のおばさんをお姉さんと呼んでくれる!
 今度はわたしからラウノ君の手を握ってみた。
 クスッ、とラウノ君に笑われた。

 けれど、その笑顔がすっと消えて困った顔になった。
「どうしました?」
「や、言いにくいなあと思って」
「わたしがいきてることですか?」
「あれ?なんで?」
「しやまさんがさっきいいましたよ」
「言ったっけ?」
「ゆいました!」
 てへと舌を出す。
 モブでも可愛いな、おい。

 にーちゃんは攻略対象者の一人らしい。
 まあ、そうでしょうね。
 解ります。
 あの美人っぷりは。
 キラキラエフェクトは伊達じゃなかった訳ですね。
 で、その中でもにーちゃんは、なかなかの難攻不落なキャラらしい。
「なんで?めっちゃやさしいよ?」
 それなんだけどねと、話しを続けた。

 セイレンは妹を産んで、亡くなった母をこよなく慕っていた。
 母の命を奪って産まれた妹を、次第に憎むようになり、手にかける。
 その後、罪悪感と開き直りから、銀髪を赤く染め、家出して、貧民街で荒んだ生活を始める。

 そんなセイレンを射止めるには、
一、先ず世界の経済を破綻させ、
ニ、貧民街を出現させ、
三、彼と出逢い、
四、交流し、
五、貧民街から連れ出し、
六、教育を施し、
七、紳士として洗練、
させなければいけないらしい。
 ここまでで、早くても五周はしなきゃらしい。
 開放条件が蓄積型なのねん。

 てか、
「…いまのおとめげーて、そんなめんどくさいの?」
「や、セイレン様が|難しい《めんどくさい》の」

 他のキャラに関しては、何かに打ち込むことで出会い、良い感じになるらしい。
 にーちゃんに対極するメインの王子様は、流石にバランス良く育成しなければならないらしいけど。
 王子様ということは王国なんですね、ここ。
 と聞くと、そういう事ではないらしい。
 どういう事だ?

 統治者がいない、この世界で王国を作りあげることで、初代王となるらしい。
 すげーな、おい。
 地道に一周一人ずつ攻略しなくてはならなくて、王子様でも三周は必要だと。

「にーちゃん、かくしきゃらてやつ?」
「や、隠しは別にいる。セイレン様のお父様」
 まじでか!
「セイレン様でベストエンディングを迎えないと出てこないから」
 はう。そうか。
 何てやり込みゲーだ。

「!て、わたしはしんでいるのですか!」
 ラウノ君はこくこくと頷いた。

「おおけがは、したことがあるのです」
 と、前髪を上げて傷を見せる。
「あら、中々大きな傷ね」
 そっか、看護師さん。
「でもキレイに処置してある。そのうち消えてなくなるわ」

 あ、良かった。
 にーちゃんにもメイドさんにも悪いから早々に消えて欲しいんだよね。
て、言うと、
「イイコだなー。だからかな?物語が変わってるのは」
 イイコって、何だか照れ臭くなった。
「としだけはとってるから!」
 と、自分をフォローしてみる。

 ラウノ君は目を点にした後、ケタケタと笑ってくれた。
「よろこんでいただいてこうえいですぅ」
 火に油を注いだようだ。
 ラウノ君笑いすぎ。

「で?にーちゃんはあかいかみなのですか?」
「そうよお。血のように紅い髪。荒んだ目。それがゲームのセイレン様」
「にーちゃんはぎんのかみにみどりのめです」
「お父様と同じなのね。でもそんなセイレン様はゲームには出てこない」
 全くもってゲームとは違っているらしい。

 ついでなので、主人公(ヒロイン)についても聞いてみた。
「黒髪の子ね」
 て、それだけ?
「それだけ。乙女ゲーだからね」

 それなりには可愛いらしいけど、あまり性格付けがされてないらしい。
 乙女ゲーあるあるですね。
「そのうち、そうぐうしますかね?」
「どうだろ?変わってるからねー。主人公はセイレン様と出逢っても気が付かないかも」

 ほう。
 って、あれ?
 何で安心するの?

「セイレン様が好きなのね」
「だいすき!めっちゃきれい!めっちゃこのみ!おし!」
 ラウノ君に呆れた顔された。
 何で?

 ゲームの世界だけど、元のゲームとは別世界みたいだから、好きなように行動すれば良いと思うよ。
 と、言われた。
「しやまさん、おとな」
「あなたの方がお姉さんじゃない」
 そうでした。

 ついでのついでなので
「しやまさんのしいんはなんですか?」
 と聞いてみた。
 ラウノ君はじっとわたしを見詰めた。
「それなんだけどね。きっと死んでないと思うんだ」
 何ですと!

 なんでも、志山さんがラウノ君になったのは二日前らしい。
「ふつかまえ?」
 不規則な勤務時間の看護師さん、どうしてもの時は睡眠導入薬を使用することもあるらしい。
 けど、用法用量を間違える訳がないと。

 それに。
「イチオシのセイレン様、まだ、落としてないからね」
 だと。
 自信の持ち方スゴいな、て言うと
 あなたは?て聞かれた。
 アルコールで鎮痛剤を服用しました。と、正直に告げたら
「馬鹿」
 と、一刀両断でした。
 はい。反省してます。

 そんな風にラウノ君と書庫で半日を過ごしていたら、にーちゃんが帰ってきてた。
 三ヶ月ぶりのにーちゃん。
 あの日から、急に抱きつくのは我慢してるさ。

「おにいさま。おともだちのらうのくんです」
 と紹介したら、ラウノ君固まってる。
 そうだろう、固まる美しさだよな。
 推しだしな。

 ?
 にーちゃんから寒々とした気配がする。
 ?
「そう」
 と、にーちゃんからは無愛想にそれだけ言い放った。
 志山さんは、にーちゃん推しなんだから、もうちょい愛想良くしなよ。
 けど、志山さんは紅い髪のセイレン推しなのだから、違うのかな。

「じゃあ、今日はボク帰るね」
「ん、またね、らうのくん」
 と言うと、別れ際にラウノ君にそっと耳打ちされた。
 気を付けてね、て。
 何を?

 次の日、ラウノ君は来なかった。
 その次も来なかった。

 学校が休暇中のにーちゃんがあそんでくれるけど。
 久々のヲタトークが繰り広げられないのは、それはそれで寂しい。

 これ、フラグじゃね?

🔳これ、フラグじゃね?

 とは言ったものの。
 フラグって、良く分かってないのねん。
 聞いたことがあるので、カッコつけてみした。
 てへ。

 意味ありげに立ち去ったラウノ君。
 居なくなってしまった。
 もう、一週間逢ってない。
 とーちゃんに聞いてみたら、どうしたんだろうねえ?と暗い顔をされた。

 …何か知ってるんですか?
 日本(元の世界)に無事に帰ったのなら良いけのだけれど。
 
 にーちゃんの物語は、あたしを殺すことで、動き出す。

 にーちゃんの物語は、ちゃんと終結するのだろうか?


 にーちゃんは一ヶ月の長期のお休みで、子供部屋で宿題をしながら、わたしの子守りです。
 常春のこの世界の学校は、三ヶ月毎に一ヶ月のお休みとなるらしいです。
 その代わりに三ヶ月はお休み無しで、一日四時間程度の授業が毎日あるそうです。
 ゆとりなんだか、詰め込みなんだか分からない授業内容です。

 書庫にある本を、日本語に書き起こすってのを日課にしていたのだけど、にーちゃんの前では流石に出来ないので、本は読むだけにしています。
 相も変わらず惰眠を貪り、ラジオ体操に勤しんでいます。

「なに?それ」
 吹き出すのを堪えるようにして、にーちゃんに尋ねられる。
「うんどうです。くっちゃねはでぶのもとですから!」
 にーちゃん、きょとんとしてますね。
 やー、これ以上は聞かないようにしてくれ給え。
 あたしも説明のしようがない。
 どうしようもない子を見る労るような、優しい微笑みにどきっとする。

 どきどきする。
 ………どきどきする。
 ………………どきどき……………する。


 残念ながら、この世界に魔法は無かった。
 折角のゲーム世界なのに、と思うが無いものは仕方ない。
 文明は不便でない程度に発達している。
 テレビやパソコンこそ無いけれど、電気や電話がある。
 自動車もあった。
 クラシックカーて言うのかな?
 動かし方は|MT《ミッション》みたいだ。
 エンジンが外掛けじゃない。
 |AT《オートマ》免許しか持っていなかった、あたしが言うのもなんだけれど。

 街並みは、キレイな大正時代っぽい。
 映画に出てくるより、キレイな感じ。
 石や煉瓦造りの建物が並んでいて、路面電車が走っている。
 絶妙に有り得ないこと、が混ざり合っている。
 本当に創作物の世界なんだろうな、と実感する。

 その上。
 戦争、という概念が無かった。
 そのせいか宗教がない。
 逆かもしれないかど。
 人が死んだら、焼いて灰にする。
 お墓はなく、灰を自然に埋める。
 輪廻も供養の概念も当然無いので、死んだらお仕舞い、それだけ。
 かーちゃんの灰も、庭に埋められたらしいが、特別参る事もない。

 結婚”式“も無いようだ。
 結婚は役所に書類を提出するだけ。
 ま、楽でいっか。
 花嫁衣装は着てみたかった気もするけど。
 ち、また着られないのか。


 平和なのは喜ばしい。
 けれども、人類の歴史に争いがないというのは、在り得ないことなんだろう、とは思う。
 戦争によって発展するものもあるのが、悲しいけど世の常だ。
 だから、実は平和って想像の中でしかありえないのかな、と悲しく思った。
 思っただけだけど。

 あたしゃ今、この世界では三才児だ。
 偉そうに哲学ぶっても、机上の空論なんだ、

 不思議と享年プラス(ミリア)の年齢という意識はなかった。
 前の年齢は享年で止まったまま、(ミリア)の人生を上書きしている。
 物語を読んでる感覚なのかも知れない。
 入り込んでいるけど、何処か他人。
 尤も違う意味で忘れていることも沢山有りはするけれども。

 いつかは、帰らなきゃいけないんだろうか?

 帰る?
 ――――ナンノタメニ?
 帰る?
 ――――――ドコニ?



 あたしは十三歳になった。

 生前(ばばあ)の記憶は、はっきりしっかりとある。
 にーちゃんは二十歳だ。
 今もキラキラエフェクトは仕事しいて、その美しさに拍車を掛けている。

 にーちゃんは五年で学校を卒業していた。
 あたし自身は危うく三年で卒業になりそうにだったのを、学生生活でしか学べない事かあるとかごねて五年掛けてみた。

 一年かけてローマ字習得するて、どんなよ。
 漢字も無いし、算数は四則演算だけだし。
 戦争がないお蔭か外国語が存在しないし。
 歴史や地理はそれなりには学ぶことがあったけれど、やっぱり戦争がないせいか繁雑さは無かった。
 この先は研究院の扱いになるらしい。

 五つ上の黒髪の少女が、金髪の少年に寄り添っていた。
 同じクラスで短い間学ぶことがあったけれど、一言二言、挨拶を交わす程度でわたしは別のクラスへ移動した。
 

 思えば、あれがヒロインだったのかしら?
 悪い印象はないけど、不思議な魅力のある子だなと思った。
 にーちゃんは狙われてないのかな?
 金髪の男の子が、冷たい目をしてあたしを見てたのが印象的だった。

 にーちゃんは、さらっさらの銀髪のままだ。
 あたしは黒っぽい銀髪に黒っぽい緑の目。
 ん。取り敢えずは美人の部類、のはず。
 もうちょっとウエストは細い方があたしの好みだけど。
 多くは望むまい。
 良かった、良かった。
 のか?
 如何せんゲーム自体の知識が全くない、あたしには知りようもないことだ。

 卒業後はにーちゃんととーちゃんの手伝いをしてる。
 とーちゃんはいわゆる商社の社長だった。
 社長て概念も無いんだけど。
 この街の、衣食住を円滑に回している。
 社長というよりは、市長とかに近いんじゃ?と思うけど、肩書きや階級はない。
 貴族制度も存在していない。

 どうやらこの世界の制作者は、徹底的に格差を無くしたいのかな?
 あたしはただの、ちょっとだけ裕福なお嬢さんということだ。
 とーちゃんの手伝いは楽しい。
 目まぐるしい毎日に、生前にはなかった遣り甲斐を見出だしていた。

 時折、にーちゃんの頭を抱き抱えながら髪に指を|(くぐ)らす。
 さらさらで柔らかい髪。

 わたしはにーちゃんと呼び乍らも、セイレンを兄とは認識していなかった。


 それが恋愛対象としてか?と問われると甚だ疑問はある。
 もしかすると、物語の登場人物(キャラクター)や、アイドルのような認識かもしれない。
 生身の人間との恋愛は、禄な思い出がない。
 何だったら、恐怖さえ感じる。
 こうもあたしの意識がはっきりしていると、ミリアとセイレンの恋愛は、物語を読んでいる感覚に近くて、第三者として単純に応援したい気持ちもある。

 けれども、あたし自身は今までこんなに|他人(ひと)から好意で構って貰ったことが乏しく、手放し難いのも事実だ。

 構われたいのに、上手く甘えられない。
 大抵の事は一人でしたし、一人で出来ない事はしなかった。
 傷付くのも、傷付けられるのも嫌で、一人でいた。
 だから。
 こんなにも誰かに甘え、構われることができる幸せを、あたしは知らなかった。


 とーちゃんの仕事を手伝う際に、名前の横にこそっと『美』と印す様にした。
 偽造防止も兼ねて。
 ミリアで『美』
 造形的に格好良いのと、生前のあたしの名前にも使われていた、記号。

 したら、にーちゃんには見付かった。
「これ、なに?」
 サインだよ。マークかな?
「どんな意味があるの?」
 わたしが書きましたて証拠だよ。
「そうじゃなくて、マーク自体の意味だよ」
 ああ。美しい…と言おうとして、はっとした。
 漢字の無い世界でそれ言うとナルシストっぽくないか?

 ちょっとだけ考えて
 羊が大きいと嬉しいのですと、答えた。
 にーちゃんは目を点にしていたけど、
「ああ、ミリア文字だね」
 って|微笑(わら)った。

 実は、書庫の本の漢字化計画は早々にばれていた。
 書庫に籠ってがりがりと夢中になってノートを書いていたら、覗かれているのに気が付かなかった。
 隠すのも何なので、ローマ字の羅列は分かりにくいからって、象形所以の漢字を中心に、さも自分で思い付いたかのように教えた。
 "木"とか、"川"とか、木が囲まれると"困"るでしょとか。

 ほら、似てるでしょ?て自慢気に。
 そしたら、それをにーちゃんはミリア文字って面白がってくれた訳だ。
 ごめんなさい。大昔から使われているモノで、わたしのオリジナルじゃないんですけど。
「でも、羊が大きくて嬉しいのが、何でミリアのマークなの?」

 そうですよねぇ、分かります。
 でもお願い、突っ込まないで。
 内緒。でも、二人だけの秘密だよってだけ返したら、髪の毛ぐしゃぐしゃされた。

 あー楽しい。

 

🔳起因

 とーちゃんの職場には、当然にーちゃん狙いのお嬢さんが、雨後の筍の如く発生する。

 これがお貴族様だったら、親や爵位絡みで云々と色々とメンドくさいことになるのだろうけど、この世界には貴族制度はない。
 お嬢さん方の気質だけがお貴族様めいていて、「お仕事は男性のやることとですわよ」「私は腰掛けですの」「ほほほ」と、にーちゃんとのお目通りを企む露骨な態度が見え隠れ…隠れて無いか。
 一応、従業員扱いで、お駄賃程度の賃金が支払われいる。
 お嬢さん方は、それぞれのお宅でお小遣いがあるため、賃金に不満はでてない。
 そもそも、毎日一時間程度の出勤で仕事してますって面されても堪らない、と生前職にあぶれていたあたしは思うのだよ。

 マクシミリア・メルクリオス様と、フルネームを呼ばれたから嫌な予感はした。
 誤字があるとか、数字が間違っているとか言い掛りで、あたしの揚足を取ろうとするお嬢さんは、なぜかフルネームから始まる。
 にーちゃんに、「ミリア様を助けて差し上げましたのよ。まあ、まだ十三歳のお子様ですから仕方在りませんわね」と、アピールして取次いで貰う算段らしい。

 さて、本日のお嬢さん。
 お客様への印刷されたお手紙に、タイプライターでお名前を差し込むだけ、という簡単なお仕事をしていただいていた。
 欲が出ちゃったかあ、と少しだけ同情する。
 こちらとしては、全てを印刷したお手紙を使っても良いのだけれど、お嬢さんに任せられる作業を探し出すのも、そこそこ骨が折れるのだよ。

 はあ。
 いいですよ、取次ますよ。
 でも本当にいいんですね、間違いないですね?
 と、一応念を押す。
 ええ、勿論、と頬を赤らめ明らかに高揚している。
 あーあ。
 事務所奥の、にーちゃんととーちゃんの仕事している部屋へ案内した。

 斯くして十分後、お嬢さんは泣きながら去っていった。

 お嬢さんの去った部屋に立ち入ると、机に頬杖ついて憔悴したとーちゃんと、何事も無かったような涼しい顔をしたにーちゃんが居た。
 二人はあたしの顔を見るなり大きな溜め息を付いた。

 初めのうちはね、自分で対処しようとしていたさ。
 あたしの間違いと云うし。
 そうすると、だんだん仕事以外の家の事やら何やら痛くもない腹をぐじぐじぐじぐじ探られる。
 五日目にメンドくさくなってとーちゃん、にーちゃんに振ったら十分で終了した。
 ので、以来この手の案件は全て任せることにした。
 お嬢さん方は、にーちゃんに会いたい訳だけど、長くても二時間程度しか職場に居ないので、別室に籠るにーちゃんとは擦れ違うことさえ難しい故の苦肉の策だ。
 その努力は是非違うところに活かして下さい。

 そんな日の夜。
 今では殆ど使うことの無くなっていた子供部屋の扉が、薄く開いていた。
 部屋の中へ入ると、地窓を全開して、にーちゃんが庭を見ながら、晩酌してた。

 あたしが声をかけるより先に、にーちゃんが気付き手招きをする。
 隣に腰を降ろし、星見酒ですか?と聞くと
「たまには、ね」
 と、無理矢理微笑んでる。

 空には、絵に描いたような満天の星が瞬いている。

 暫く無言で眺めていたら、わたしの肩にこてんとにーちゃんの頭が乗った。
「疲れた」
 昼間の事なんだろうな、と思うと居た堪れなくなる。

 尻を拭かせて、申し訳ない。
 にーちゃんの髪を指で鋤く。
 相変わらず、さらっさらで気持ち良い。
 何か良い匂いもするようになりましたね。
 お年頃ですか?……云おうとして、ちりっとした胸の痛みに気付き、止める。
 代わりに、ここで眠ると風邪を召しますよ。と告げる。

「そうだな」
 そういうものの、腰を上げる様子はない。
 ……あたしも呑みたい……と思ったけど成人前なので、ただ黙って星を見ていた。

 にーちゃんは昼間にあんなことがあると家に帰って、お酒を呑むようになっていた。
 お嬢さん方への対応は、お休みの前までは堪えてあげようと心に誓った。

 (お嬢さん)の数は次第に少しずつ減ると、とーちゃんの事業は何故か増えた。
 とーちゃん、少し好奇心を抑えてくれないだろうか?
 楽しいけど。

そんなある日、黒髪の少女が現れた。

 わたしは十六歳になっていた。

 黒髪の少女は、マーリア・デイムメイカー嬢という。
 二十一歳との事で、少女というには失礼なお年頃だった。
 筍か?と警戒したが、彼女には結婚を前提とした恋人がいるとの事だ。
 仕事も五時間は勤務してくれるらしい。
 恋人がいるのか……羨ま……しくなんか無いもんねー!ふーんだ!

 マーリア嬢は仕事が出来た。
 なんでも以前は、美術館で館長をしていたとのことだ。
 手が空くと事務所を掃除したり、備品をチェックしてくれたりと気も回る。

 これがヒロイン補正ってやつなのか?と思った。

 学校で見た黒髪の少女は、お姫様を夢見てる儚げなイメージがあった。
 同一人物なはずだけど、受ける印象はまるで別人だ。
 目の前にいるマーリア嬢は、意思の強い眼差しが印象的で、ラウノ君から聞いていた少なすぎる情報では、決め手には欠ける。

 ただ、思うのは。

 |にーちゃん《攻略対象者》との巡合は、髪の色が違う位では切れないのだろうか?と、云う事。

 心臓が痛い。

 人材が増えた事で、とーちゃんが仕事を張り切るかと思いきや、そうでも無かった。
 家族で仕事するのは楽しいけど、他人がいると落ち着かないらしい。
 なんだそれ。
 家族だいすきだな。
 てか、今までは落ち着いていたのか?
 謎だ。

 にーちゃんとの家呑みは、マーリア嬢が来た頃から回数が増えた。
 何処からともなく、とーちゃんが良い酒を持って参戦する。
 この世界は十六で成人なので、可愛らしくなんちゃってサングリアを作って付き合っている。
 ホントは梅酒を作りたかった。が、梅が無かった。
 日本酒が恋しひ。


「ねぇ、ミリア。君のミリア文字で、僕の名前は書けるのかな?」

 唐突に尋ねられ考えてみる。
 "清廉"が一番に浮かんだけど名前にすると堅過ぎだろうか?

 聖…晴…星…性
 …連…蓮…漣…憐

 う~ん…どれもピンとこないな。
 てか、性憐てなんだよ。
 結局、最初に思い付いた"清廉"と書いた。
 通常使う訳では無いので良かろう。

「…難しくないかい?」
 むうっと、その字を眺め指でなぞっているにーちゃんに、心が清らかで私欲が無いと云う意味ですよ、と伝える。

「ミリアには、僕がそう見えているの?」
 と、|(みどり)の瞳で見据えられる。
 瞳の中にわたしがいる。

 一拍置いて。
 「人には無理でしょう?」と云うと、にーちゃんは表情を崩さずわたしを見ている。
 「生きる上で無欲だと道標がありません。
 第一、それでは生きていて詰まらないでしょう?」

 そういうと、にーちゃんは目を細めて頭をぽんぽんしてくれた。
「処で、すんなり出てこなかったのは何故?|若気(にやけ)てたでしょ?」
 "憐れむ性"とか連想してました、と言ったら爆笑された。
「いいね、それ。」
 止めて下さい。

 にーちゃんは近頃不安定だな、と思った。
 でも実は、とーちゃんの方が可怪しい。
 仕事に支障が無いのが立派だけれど、心此処に在らずって感じがする。
 (お嬢さん)が来なくなって気が抜けたのかな?

 マーリア嬢との仕事は、気持ちが良い。
 連携が取れてる感じがする。
 場もすれば、マーリア嬢のいる五時間殆んど喋ることなく就業してしまう。
 それは、仲が悪いわけではない。
 敢えて指示説明しなくとも、的確にこちらの意思を汲み取ってくれている。
 中々居ないよな、と思う。
 仕事が出来る事も大事だけど、相性の問題だ。
 彼女がどう思っているかは分からないけれど。

「ミリアさんは結婚しないの?」
 何十年か振りに聞いたその台詞の主はマーリア嬢だ。

 何と答えていたっけ?
「お相手と切欠と勢いがあれば」
「勢いですか?」
「勢いですね」
 持論だけども。

「お身内が素敵ですと、理想が高くなるのでは在りませんか?」
「お身内…素敵ですか?」
 質問返しだ。

「確かに家族想いですけど、仕事以外はぼっーとしてますよ?」
 マーリア嬢はくすっと顔を綻ばすと
「それは、お父様の事ではなくて?」

 あ、そっか、にーちゃんも身内か。
 ……身内なんだ。

「今度、お茶でもしませんか?
 お友達を紹介したいの」
 と、ころころ頬笑みながら仰有る。

 ……て、合コン的な何か何だろうか。
 自慢じゃないが、今だ人見知りは激しい。
 にーちゃんととーちゃんとメイドさんずで事足りている。
 そういえば学校でも友達いなかったな。
 そもそも知らない人とコミュニケーション取れる位なら、今頃孫に囲まれてる。
 ゲーム世界に迷い込む事は無かった筈だ。

 返答に困っていると、奥の部屋からとーちゃんが現れた。
「ミリアは嫁には出しませんっ!」
 て、それはそれで駄目なんじゃ?

 それからとーちゃんによる、ミリア擁護演説が小一時間繰り広げられた。
 マーリア嬢は呆れている。

 わたしはと云えば。
 とーちゃんに無償の愛情を与えられた様な気分になって、直ぐにでも泣きそうだ。

 わたしは可怪しい。
 それは知ってる。
 でも何処までもわたしに優しいこの世界。
 どうしてくれよう。

「いい加減、仕事して頂けませんかね?」
 冷ややかなにーちゃんの声に演説が遮られる。
 まだ続けたそうなとーちゃんだが(お嬢さん)を蹴散らかす時のようなにーちゃんに反論はしない。
 にーちゃんに引き摺られながら奥の部屋へと連行されるとーちゃん。
「何か、申し訳ありません」
 と、取り敢えずの謝罪の言葉を口にする。

 マーリア嬢は、冷たい目で微笑んでいた。

🔳承転

ーーー
 真っ赤な髪をしたセイレン。
 赤い髪、似合ってないよ?

 何が起こるんだ?と一応警戒する。

「ねえ。なんで生きてるの?」
 知らん。
 死ななかったからだろう、と言いたい。

「君は生きていてはいけないんだよ」
 赤い髪のセイレンの手には、大きいナイフが握られている。

 ああ。
 これは修正ってやつなのか。
 と、妙に冷静になる。

 あたしは赤い髪のセイレンに殺されなきゃ、話が続かないんだな。

 取って付けたような赤い髪をしたセイレンの登場。

 熱したバターナイフがバターに飲み込まれるように、ナイフがわたしの胸に入って行く。

 じっーとナイフを凝視するあたしを、赤い髪のセイレンは、泣きそうな困惑した顔で見てる。

 そんな夢を見た。
 夢だ。
 気持ち悪い。
 赤い髪のセイレンに刺された胸が痛い。


 その日わたしはこの世界で働きだして初めて仕事をサボった。

「今日は寝る」
 社長も上司も同居なので食卓で宣言した。
 とーちゃんが無理はしなくて良い、とだけ言ってくれた。

 私室のベッドに潜り込み午前中をぐだぐだと過ごす。

 アルラがわたしの様子を伺い乍ら、邪魔にならないように部屋を整えてくれている。
 多分とーちゃんかにーちゃんから見守るよう頼まれているのだと思う。
 邪魔だよね、ごめんね。と横になったまま言うと、たまにはサボる事も必要ですよ。と返ってきた。

 横になったままだと余りに失礼かなと思ったので、上体を起こしベットに座りアルラと目を合わせる。
 アルラは、こほんと咳を真似、自分の体を叩く動作をすると、失礼いたしますと告げると抱き付いてきた。

「どうか、どうか私の目の届かない処で傷つかないで下さい」
 アルラは子供部屋で自分が目を離した事で、わたしが怪我したことに責任を感じてるらしい。

「目の届くところならいいの?」
「そしたら、私が守りますから!」
 二人して吹き出した。


 午後からはアルラとお菓子を焼いて過ごした。

 と、いっても小麦粉と卵と牛乳をさくっと混ぜてスプーンでぺたぺちと天板に並べて焼くだけだ。
 砂糖は少な目にする。
 明日は休みの日ではないけどにーちゃんを宅飲みに誘うべき酒肴のつもりだ。

 ホントはスルメとか枝豆とかカワハギとか唐揚げとか厚焼き玉子とか子持ししゃもとか肴にしたいが、ワインには合わない。
 てか、なんでワインしか酒がないんじゃ!この世界。
 と、云うことで林檎やらオレンジやらをワインにぶっこんでサングリアも準備する。



 エントランスでにーちゃんの帰りを今か今かと待っていた。

 表で自動車の音がする。
 帰って来た!わたしは待ってましたと玄関の扉を開ける。
 お帰りなさい!
 にーちゃんは少し驚いた後、柔らかく微笑む。
「ただい…」
 にーちゃんか言い終わる前に黒い影が目の前を遮る。

 マーリア嬢。
「アナタ、ダメ…アナタジャナイ…」
 彼女の白い指がぬうっと視界に入る。

 わたしの首を目指していただろうモノは触れる寸前に止まる。

 にーちゃんが、マーリア嬢の後ろから彼女の両手首を掴んでいる。

 車を停めたとーちゃんが駆けてきてマーリア嬢の頬を叩く。

 わたしはアルラとサーラに抱えられ後ろへと引き離される。

 マーリア嬢の手首を掴んだままのにーちゃんは冷たい顔をしている。

 あ、ラウノ君に紹介したときのにーちゃんだ、と思った。

 がくんと、マーリア嬢の膝が堕ちる。
 何故…?ようやく口から言葉が出る。
 顔を上げたマーリア嬢は夢の中の少年のように瞳に光がない。

「チガウ……チガウ……」
 何が?いや、知ってる、確かにわたしは違う。

 何も言えない。
 何も出来ない。
 マーリア嬢から目を離せない。
 何を言おう。
 何をしよう。

 まるで、映画を見てるように他人事で。
 固唾を呑んで次のシーンを待ち望んで。
 冷ややかに固まっている身体。
 沸騰するような頭の奥。
 
 じんじんと痺れる指先。
 ぎゅるぎゅると吸い込まれる内臓。
 どくどくと早鐘る心臓。

 床に突き刺さった足。
 離れない視覚。
  

 アルラが何処からかロープを持ってきて、マーリア嬢を縛っている。

 その時、手負いの獣のように唸っていた彼女の体は張り詰めた糸が切れたように倒れた。
 “瞳”が消えた。

 漸く、わたしの体が自由を得る。
 封じられた訳でもないだろうに。
 コマ送りの思考。

 けれど、
 押さえ込んだ吐瀉物の決壊。

 あ、あ、あーっ!

 わたしの喉の奥から、自分でも思ってもみない音がつんざく。
 制御が効かない。

 いつの間にかにーちゃんに抱き締めている。

 ああーっ!

 ただ、にーちゃんにきつく抱き締めてられていることだけが判った。


 どれくらいそうしていたのだろう。
 わたしは、にーちゃんに抱き締められ座り込んでエントランスにいた。

 いや、とーちゃんもアルラもサーラもいる。
 にーちゃんの服はびしょびしょに濡れている。
 濡れてるよ。と声にしたいが掠れていた。

 顔を上げてにーちゃんを見る。
 にーちゃんが、ほーっと深い溜め息を着いて、それからゆっくり微笑む。
 わたしの頭をしっかりと抱き直すと
「それはミリアの涎と鼻水だ」
 と言って離してくれなかった。

 ぽんと、とーちゃんが頭をたたき玄関の扉の方へ向かって外へ出た。

 アルラとサーラは、いつの間にか寝室へ行って戻ってきたらしく、お風呂の準備が出来てますよ、と教えてくれた。

 にーちゃんは抱っこしたままわたしを持ち上げ歩き出した。

 ふわふわと酔っ払ったような脳みそ。
 びりびりと実感のない四肢。
 浮いてるみたいだ。

 部屋の前にはアルラがいて、ドアを開けてくれている。
 アルラ、ご免なさいね、今日は超過労働でしょう?と声を掛けると、何を言ってるんですか!と怒られた。
 頭の上でにーちゃんが笑いを堪えている。


 アルラとサーラに手伝ってもらって入浴を終えると、やっと体に力が戻ってきた。
 そのままベッドに入れられるが如何せん午前中だらだらしてたこともあって眠れそうにない。

 独りで居たくもないし…
 子供部屋ににーちゃんは来てないかしら?と、部屋を抜け出す。

「やっぱり来たね」
 居ました。流石です。
「今日はお酒は無しね」
 ……ち。

 にーちゃんが紅茶を淹れて下さいました。
 お茶請けはわたしが昼間焼いたお菓子。
 お庭に面した扉を開けて、大きめのクッションと、あの小さなテーブルが置かれている。
「アルラとサーラが用意してくれたんだよ」
 流石です。

 二人してクッションに身体を預け、紅茶とお菓子の乗ったトレーをテーブルに下ろす。
 いただきます。と紅茶のカップをソーサーを持たず両手て包み込む。

 こてん、と隣のにーちゃんの胸に頭を乗せる。
 にーちゃんはなにも言わずいつもわたしがやっているようにわたしの髪を梳く。
 にーちゃんの胸からは速めの心音が聞こえてくる。
 にーちゃんがわたしの頭に唇を落とす。
 わたしは庭の樹をただ見ていた。


 朝起きるとベッドにいた。
 またしても、にーちゃんに運ばれたらしい。
 サーラが呆れたように笑いながら教えてくれた。

 今日はどうなさいますか?と聞かれたので仕事に行くことにした。
 サーラには渋い顔をされたが、独りで家にいるよりにーちゃんたちの側に居たいと思ったからだ。
 流石にマーリア嬢も、今日は来ないだろうし。

 身仕度を整えて食卓に行けば、とーちゃんとにーちゃん当たり前に迎えてくれた。
 とーちゃんから、マーリア嬢は今日から仕事には来ないからと云う旨が伝えられた。

 余程酷い顔をしていたらしく、今日も寝てなさいと、とーちゃん命令が出た。

 いいから、休んでなさい。
 とーちゃんに抱えられて強制連行された。
 力、有るんですね、とーちゃん。
 連行先は子供部屋だった。

「今日は僕がお姫様のお守りしますよ」
 部屋には、おもっきしのスマイルを携えたにーちゃんが先回りしていた。

 わたしは、とーちゃんの腕からにーちゃんに手渡された。

 え?え?

「独りが怖いんだろうが、セイレンと一緒なら大丈夫だろう?二人とも今日はゆっくりしろ」
 私は独りで寂しく仕事してくるよ、と粋な計らいをしたとは思えないくらい、恨みがましい目をしてとーちゃんは出勤した。


 部屋にはテーブルに紅茶とお菓子がセットされていた。
 
 わたしは、ソファーへ優しく落とされる。
 隣に座ったにーちゃんは、わたしの身体を引き寄せる。

 ラグの毛足を足で弄びながら、にーちゃんに体重を預ける。

 とくん、とくん。にーちゃんの心音。
 安心する。

 何も話さずにただ、髪を梳くにーちゃんの指に時を任せた。

「ねえ、ミリア。君は僕の事を清廉だと思っているのかな?」
 ん?セイレンですよね?
 優しく梳られていた髪をくしゃとされる。

 ?
 顔を上げてにーちゃんを見る。
 向こうを向いて、睫毛を伏せていて瞳が見えない。
 にーちゃんの頬を両手で挟む。

 にーちゃんの碧にわたしが映る。

「貴方を失いたくありません」
 そう告げて、セイレンの唇に自分の唇を重ねた。

 触れていただけの口吻を、やがて深いものへと変える。
 魚のようなキス。

 自然と舌を絡ませながら、
 あれ?
 こんな手馴れたキスしていいのかな?
 気付けばセイレンの手がわたしの胸へ触れている。

 良いのか。
 唇が離れてセイレンの顔を見ると欲情した目でわたしを見ている。
 胸に置かれたままの手は震えていて、触っているというか添えられているだけだ。

 その手が何だか愛おしくて。

 その手の上に自分の掌を重ねて、強く押さえ込みセイレンの胸に頭を預ける。

 早鐘を打つ、セイレンの鼓動が心地好い。

 やがて音が離れ、わたしのうなじに唇が這う。
 少しずつ胸に置かれた手に力が籠る。

 ベストの前身の紐に指が掛かるのだけど、戸惑っている。

 クスッと声がでて、目があった。
 バツの悪そうな真っ赤な顔で睨まれた。

 可愛いーな、おい。

 キスをしながらセイレンに見えないように紐を自分で解く。
 ベストが開いていることに気が付いたセイレンが、
「いいの?」
と、驚いている。

 ここまでしといて?と言う代わりに、セイレンの肩に頭をのせて、身を任せる。

 ゆっくりとほどかれるブラウスから、さらけ出された胸。

 大切なものを掬うようにそっと触れる掌。

 深く、深くかわす口付け。

 甘い吐息がこぼれそうになった、その瞬間。

 視界が真っ黒になった。 

◼️余談──志山 風花

 志山風花。
 二十四歳、看護師。
 それが私。

 結婚を約束した恋人がいて、
 仕事にも遣り甲斐があって。
 恋人いるけれど、まあゲーム位は勘弁して。
 昔から大好きな声優さんがCVだし。
 ヴィジュアルもイケてるし。
 浮気とは違うからー!

 貧民街の荒んだ目の不良少年。
 なんて、現実でお会いしないでしょう?
 非現実を楽しみたいのよ。
 現実の不良なんて、近寄りたくもないわよ。
 

 マルチシュミレーションゲーム【デイムメイカー】
 その登場人物の一人、セイレン・メルクリオスに私は夢中になっていた。

 そんなある日、夜勤明けのフラフラした頭で難攻不落のセイレン様のお近づきになるべくゲームをしながら寝落ちした。

 夢の中だ。
 情報サイトで見ただけのクリストファー・メルクリオスが目の前に居た。

 隠しキャラで、セイレン様とのベストエンディングを迎えないと存在さえ出てこないキャラ。
 調べた時よりえらく若い気もするけど、イケメンだから良しとする。

 と、云うか私は男の子?
 ラウノ?ダレソレ?

 聞けば、三歳になる一人娘の遊び相手になって貰えないかとのこと。
 メルクリオス家の娘?
 メルクリオス家にいた女の子は、生まれてすぐに死んだ筈では?
 セイレン様の手に掛かって。

 合点はいかないけど、夢の中だし、イケメンのいうことだし、二つ返事でOKした。

 に、しても。
 赤毛ソバカスの容姿って、いかにもモブ臭漂うわね。
 あれ?セイレン様って、この子殺さなかったっけ?
 名前は無かった筈だけど、見覚えのある姿にちょっとだけぞっとした。

 セイレン妹は普通に可愛かった。
 産毛のような銀髪に、深緑の瞳。

 ……転生者ですと?
 そんな、ラノベみたいな。
 あ、私もか。
 
 幼い時の不注意の怪我を気にして、明らかにセイレン様に兄以上の感情を抱いている。
 セイレン様も妹以上の感情を抱いているのだろう。

 そして。

 筋書き通りに、セイレン様に殺されて目が覚めた。

 夢見の悪さはセイレン様に会ったことで帳消しにすることにした。
 

した、筈だった。


 私の担当する患者さんに、意識不明で運ばれて二週間になる佐東仁美さんがいる。
 アルコールの過剰摂取と、いうことだけれど、アルコール中毒かというと、少し違う症状。

 その日、佐東氏の病室を訪れると、ベッドの横の辺りがキラキラとしているのに気付く。
 陽の光というよりは、ライブでメタルテープが飛んでるみたいな人工的なキラキラ。

 はい?

 CGのような青年がホログラムの様に揺らめく。
 ここ、病室だよね?
 ……ってあれ?
「セイレン様?」

 この顔はセイレン様だ。
 私がよく知るセイレン様とは髪の色が違うけど。

 暗く俯いていた青年の瞳だけが此方を向く。
『誰だ?』
 頭に声が直接響く、けれど。
「銀髪のセイレン様が成長してる?なんで?」
 自分の疑問ばかりが口を着く。
 セイレン様は苛立たし気に眉間に皺を寄せる。

 おおっ。その目はまるで紅い髪のセイレン様のようですぜ。

『何故、僕の名を知っている』
 うーん…昨日のあれは、夢ではなかったと云うことなんだろうか?
 てか、今が夢か?
 分からん。

 けどセイレン様イケメ…じゃなくて。
「わたし、ラウノです」
 通じるのかな?
 私が関与出来てるなら同じ世界線だろう。
 多分。
 きっと。

 くーっと目が細められる。
 えーっとお、……怖いよお。
『……ラウノ…?』
 思い出さないのか?…。

「十歳の時に貴方に殺されたラウノです!」
『馬鹿な、僕が殺したぞ!』
 間髪入れずに返される。
 ええ、ええ。殺されましたとも。
 ……ええーっとお、なんでそんな可哀想な子を見る目で見られているのかな?

「取り敢えず、私は仕事してくる。待ってて」
『どれくらい待つんだ?』
「何事もなければ八時間位かな?」
 ……うわーん、また睨まれた、怖いよお。

 しかし存外、彼は佐東氏の病室で大人しくしていたらしい。
 ただただ、佐東氏の顔を眺めて。

『この者は、ミリアだな』
 顔も歳も違う筈なのに、断言している。
「私には分かりません」
『心馳が同じだ』
 愛し気に彼女を見詰める瞳に、きゅんとする。

 八時間放置されている間に、この世界が自分の産まれた世界とは異なることや、自分の姿は私以外からは認識されていないことを覚ったらしい。

 聡いね、話が早いや。
 じゃ、就業後の看護師がいつまでも病室に居るのも何なんで出てもらっても……出られるのかな?
 出られました。

『今思えば羨慕していたんだ』
 私のアパートでホログラムなセイレン様は切り出した。
「単純なヤキモチではなくて?」
 すると、憎々しげな笑みを浮かべて
『それもある』
 ま、正直ですこと。

『ミリアがお前と話していて僕に気が付かなかった。それだけなのに……そうだな、茫然とした?絶望…と言っても過言では無い。今思えば…今更だが、ミリアとお前に同じ匂いがしたんだな』

 スマホで【デイムメイカー】のホームページを探して見せ、ゲームのことを掻い摘んで説明した。
 ゲームの概念は七面倒臭そうなので、セイレン様の世界が、この世界の人間の|創造(物語)の世界ではないか伝える。

『……全く知らない筈なのに妙に馴染むのはその所為か?居心地は良くないが』

『この女、随分様相が違うな』
 ヒロイン指差す。
「ヒロインに逢ったの?」
『マーリアとか云ったか。ミリアを手に掛けようとしたので屠ろうとしたが仕留め損ねた』
 さらっと言うなあ、おい。

「あの世界は、多分この子で成り立ってるからムリじゃないかなー。あなたたちがただ平穏に暮したいならこの子に関係せず、この子が別の幸せを見付けることだと思うんですわ。」
『?』
「物語とは言ったけど、結末自体はひとつじゃないの。それぞれは離隔しているから、関与はしない筈。
 本来、セイレン様とヒロイン…マーリアは複雑な手順を踏まないと出逢うことさえないんだけど。だから偶々出会ったんじゃ無いかな。」

『……かの娘はその物語を知っていると云うことか?』
「知っていたら、|(銀髪)のセイレン様には気付かないよ」
 ほら、と紅い髪の青年の立ち絵を見せる。
「ヒロインが出会うは、このセイレン様だから」
『これが…僕?』

 幼い妹の命を絶つことで発生する物語は、銀の髪のセイレン様には関係が無い。
『……』
 きっと、偶然、ヒロインが別の(ルート)に迷い込んだ。
 それだけだ。

「貴方はあなたの物語を紡げばいいんじゃないかな」
『……あの時は済まなかった。でも何故、そんなに僕に優しく出来る?』

 セイレン様は項垂れでいる。
「んー…|好き《推し》だからかな?」
『…でも…僕は……お前を……』
「んー…でも、それで戻れたんだし。そう思えば感謝します。怖かったけど」
 にーっと、態とらしく笑って見せる。

 押し問答が続くのは嫌だったので無理矢理話題を摩り替えてみる。
「さあて!これは誰でしょう!」
『なんだ、この年の割に軽薄そうな男……若しやクリストファーか!』
「正解!流石!」

 軽そうで悪そうだとかぶつぶつ呟くセイレン様を微笑ましく思う。

『ありがとう』
 と、不意に言われたので
「どういたしまして」
 と、答えた。


 セイレン様は佐東氏の病室にずっといた。

 回診のおり、視線が合うことがあるが何も話さない。
 視線さえ合わないときもある。
 ただひたすら、セイレン様は佐東氏を優しく見詰めている。

 そうして翌日、セイレン様は消えた。

 

🔳結論

 真っ暗だ。
 なのに。
 不思議なくらい怖く無い。
 寧ろ、この世に産まれ出た時の方が怖かった。

 イったってやつか?
 や、分からん。
 それなりに経験はあるが、気持ちいいとかイったとか分からない。
 簡単に快感に陥るなんて絵空事だ、そう思っている。

 相手の|行為(やってること)が目に入るとその滑稽さに頭がどんどん醒めていく。
 ただ。
 セイレンとの|行為(それ)はキス止まりだ。
 キスをするのは好きだ。
 相手を求め、相手に求められている感じがする。
 !酸欠か。

 そう結論付けたら、夏休みの朝のように爽やかに目が醒めた。

 上体を起こしベッドに座わり、傍にいたイーラにおはようと声を掛ける。
 わたしと目が合うなり、イーラは口に両手を宛て泣きそうに顔を歪め、部屋を飛び出していった。

 な、なんだ?
 行き成りの行動に面喰らう。
 廊下が騒がしくなったかと思うと
「ミリア!」
 とーちゃんが抱き付く。
 何か、最近目が覚める度に抱き付かれてないか?
 また、やらかしたのだろうか?

 はい?……十日間寝てただと?!
 道理で体が痛いのだな。
 ?
 左手が握られていることに気付く。
 セイレン……
 しっかりと左手を握ったセイレンがわたしを悪戯が見付かった子供のような顔で見てる。
「やっと気が付いた」

 セイレンはとーちゃんに引き摺られて仕事へ行った。
 十日間、開店休業状態で、たんまり色んな事が滞っているらしい。

 死んだ魚の様でしたよ、とはメイドさんズ。
 二人とも生ける屍状態だったらしい。
 セイレンに至っては毎夜ベッドの傍から離れなかったので、メイドさんズは寝ずの番に成らざるを得なかったとか。
 何なんだ、一体。

 そんなわけで、メイドさんズはわたしが赤ん坊の時のように寝ずの番があるシフトになったらしい、申し訳無い。
 にも拘らず、アルラとサーラはさっきからわたしの世話に余念がない。
 寝ずの番だったイーラはスキップしながら帰った。
 わたしが目覚めて最初に言葉を交わしたのが嬉しかったらしい。
 セイレンに勝ち誇った顔でほくそ笑んでいた。

 みんな、そんなにわたしの事、大好きだったっけか?
 目が覚めてからと云うもの、憑き物が落ちたようなさっぱりした感覚がある。

 ………若しやあの時、乳繰り合ってただけじゃないんだろうか?と、下世話な想像をする。
 処女喪失で世界が変わる?
 ないないない。
 そもそも、最後までした?
 や、いいんだけど。
 |あの《気を失った》状態で?
 だとしたら、勿体ない事をした、ちがう。
 スゴいな、セイレン、これもちがう。
 うーん……

 てか、この世界の、貞操観念はどうなってんだっけ?と今更なことが気になり出した。
 や、確かにあたしに取っちゃ精神的に他人だけと、セイレンはわたしが妹じゃないのか?
 や、あたしからやったけどもお!

 はふ。
 何て一人で考えたって結論なんか出るわけ無いか。
 セイレンに聞けば一件落着ぢゃん。
 ん。
 聞かなきゃ、ダメじゃん……

 ……聞くの?
 どんな顔して!
 ぐるぐると思考の迷宮へと入り込んだ。
 よし、酒だ!
 シラフで聞けるか、こんなこと。
 わたしは酒屋へと出掛けることにした。

 勿論、一人で出してもらえる訳もなくアルラが車を出してくれる事になった。
 運転するんですね、流石です。
 これで重たい荷物も問題無いです!

 とはいえ、店内の八割が洋酒なんだよなー。
 コニャックやらブランデーやらウイスキーは呑める気がしないし。
 焼酎あるのに何で日本酒がないんだ!
 て、お米がないからです。
 はい。判ってます。
 ……おや?清酒発見!合成か?そうなんだな、だが構わん。
 これ、呷って勝負だ!て、そんな話だったっけ?


 夕食後、お風呂に入ったら酒瓶を抱えて子供部屋へ。
 ちっさめのグラスに少しだけ注いで舐める。
 や、呷るとかムリですから。
 判ってますから。
 この体の酒限界、知りませんから。
 なので、ちびちび舐めていたら、
「……ミリア……」
 と、呆れたようにセイレンの声がした。

 隣に座れと、ソファーを叩く。
 その後ろからとーちゃんも登場した。
 とーちゃんはそっちね、と一人がけ用のソファーを指差す。
 ミリアが冷たいと泣き真似をするとーちゃんを余所目に隣に座ったセイレンの肩に頭を預ける。

 とーちゃんが二人分のワインを準備しながら笑みが漏れる。
 あれ?ねえ?父様?セイレンとわたしは兄妹デスヨネ?と、率直に聞いてみる。

 違うよと、とーちゃん。

 へ?
「なんだ、セイレン。未だ話してなかったのかい?」

 へ?
「知ってるものと思ってました。父さんが話したのかと」

 へ?
 ……中々勿体振って聞きたいことを教えて貰えないのでグラスをちびちび舐め続けた。

「じゃあ兄相手にあんなことやったのか!」
「あんなことってなんだ!!」
 ぶっ!何云ってんだ!

 セイレンはしくじったとばかりにばつの悪い顔をして。
 とーちゃんは涙目でセイレンを睨み付けて。
 わたしはといえば、どこからどー突っ込んでいいかも分からず、唯々、呆気にとられていた。

 なんでも、セイレンとわたしに血縁はなく、とーちゃんとも他人らしい。
 なかなか複雑な業ですこと。

「……で」
 あ、とーちゃん諦めてない。
 わたしは寝ると部屋を出る。
「ミリア!」
 て、云われたけど、後は宜しく頼むわ、セイレン。


 ベッドでうつらうつらしていたら、窓からの月の光が影を差した。

 ………………

 怒ってらっしゃいますわね、セイレン様。
「怒ってはいない、疲れたけど」
 ベッドに腰掛けられたので上体を起こそうとする。
「そのままでいいよ」
 と、わたしの隣に横たわる。
「こっちがいい」
 寝転がって、視線を合わせる。

 とくんとくん。
 
「君は時折、高齢の御婦人のようだね」
 ぎよっとして、セイレンの瞳を見る。
 月明かりだけではセイレンが何を見ているか分からない。
「冗談だよ」
 くすっと笑うとわたしに口付ける。

「幸せにするよ」
 そう言いながらわたしの頭を撫でている。
 その手を両手で取りセイレンの指に口付ける。

「なぜ?一緒に幸せになりましょう」


 セイレンは少しだけ驚いた後、こぼれるような満面の笑顔を見せた。

「そうだな。一緒に幸せになろう」

 ええ。
 ええ、一緒に。

 笑いあって、
 髪にそっと指を滑らせて、
 額を重ねる。  
 見詰めあって、ゆっくりと唇を重ねた。

 深く、柔らかく、
 互いを確かめ合うような口付け。  
 舌先がそっと触れ合い、
 ためらいがちな吐息が混ざる。

 唇が離れ、セイレンの腕にそっと包まれる。
 戸惑いを湛えた視線は、それでもわたしだけに向けられていて。
 わたしを碧色の瞳の中に閉じ込める。

 行き場を探す手が震えながら、わたしの頬を撫でる。──拙い優しさが、愛おしさを煽る。
 

 セイレンの胸に頭を預けると、どくん、どくんと響く鼓動が、セイレンとわたしの境界を溶かす。 

 首筋に落ちる唇の動きが、くすぐったくて、でも安心する。

  ──うん、可愛いなあ。ほんとうに。

 ああ、この手も、視線も、唇も──

 全部、わたしだけに向けられている。

 それだけで、胸がいっぱいになる。


 わたしは、セイレンの頭を抱き締めて、その存在のすべてを愛しく想った。
 


 次の日の朝。

 
 起こしに来たサーラに見付かった。
 ええ、セイレンはまだ隣にいますとも。

 呆れ顔で部屋を出たサーラ……走ってないか?

 セイレンと顔を見合わせ溜め息をついた。

 とーちゃんにしこたま叱られた。
 けれど、ミリアもセイレンもずっとここに居るのか!と。

「これからもお世話に成ります」
 セイレンと声を合わせて答えた。


 正直、これで良かったのかな?と思わなくは無い。
 でも、ま、幸せだしいっか、とも思う。
 今、死んだら最高だろうなと思う。

 好かれているって、こんなにも幸せなんだな、て思った。

 好きな人がいて、甘えて甘えられて。
 そんな何でもない毎日が、あたしが欲して止まなかったものなんた、と痛感した。


 半年後、セイレンと婚姻届を提出しに来た役所で、偶然マーリア嬢達と待合室で居合わせた。
 彼女達も婚姻届の提出らしい。
 学生の頃から恋人で隣にいる男性と一緒になるとのことだ。

 わたしたちのことは微塵も記憶に無く、待合室で偶然居合わせた新婚さんと言うことで会話を楽しんだ。
 是非これからもお会いしませんか?と言われて
 どうするべきか?と思索していたら、
「お幸せに」
 と、セイレンに断ち切られた。
 そうだな。と思った。


 取り敢えず。
 当初の目標を全てクリアしたんじゃなかろうか?

 そこそこ美人て、スタイル維持して。
 大学は無かったけど、とーちゃんの仕事は楽しいし。
 何より幸せを感じている。
 五十年掛けて出来なかったことが二十年足らずで出来た。
 つくづく、あたしの五十年は何だったんだろう?と思う。
 でも。


 ま、いっか。



◼️跋文──エピローグ──

 佐東氏を看取ったのは医師と私の二人だった。
 臨終をご家族に伝えると、孫の世話で忙しくてすぐに行けない、と返された。

 緩やかな波紋が落ち着くように息を引き取った佐東氏の胸の辺りから柔らかな光が溢れ、セイレン様はその光を愛しそうに抱き締めて消えた。
 あの世界に魔法なんてなかったはずなのに。
 まるでお迎えに来た死神か天使のようだ。

 
 ねえ?
 貴女は彼方の方が幸せなのですか?
 そう思ったら涙が出た。

 せめてこの世界で私が泣いてあげようと思った。
 私だけは佐東氏の為に泣いてあげようと思った。

 

◆ 小詰散文始(こずめのさんぶんし――もしくは、重要人物な筈なのに此の後出てこない少女の呟き)

 ラドスを一言で言うと、熊だ。

 いつも側にいる私が小柄な所為もあるんだろうけど、肩に乗りそうだとか、手のり姉ちゃんとか……口さがない妹達に誂われるくらいに、でかい。
 実際は頭二つ分くらいしか変わらないと思うんだけど……まあね、初対面の相手を六…七……八割方でびびらせることはできるとは思う。

 だけれども、私にとっては気のおけない幼友達だし、二つ違いのこの熊とは、いずれは家族になるんだろうなぁと、何となく思っている。
 まあ、私達の間に特別甘いものはないんだけど。

 そりゃあ、女の子ですもの。
 物語みたいに魂を焦がすような恋っていうのにも憧れはするけど、ねぇ?
 それはそれで、何かシンドそうだしね。
 平穏がなによりと思うわけですよ。

 ラドスは寡黙と言えば聞こえは良いけど、要するに口下手で無愛想だ。
 いつも怒ってるみたいに見えなくもないけど、私には優しいし可愛がってくれてる、と思う。
 おそらく、ラドスの実の妹たちより私の方が可愛がられてる、はず。
 多分。

 ラドスには、六つ違いでアルラとイーラいう双子の妹がいて、私にはサーラという妹がいる。
 この三人は同じ年の所為もあっていつも一緒にいる。

 ラドスと三人の妹達は、この街の|貴人(あてびと) と呼ばれるメルクリオスさんのお宅で働いている。
 メルクリオスさんは街に必要な水道や動力を整えてくれたり、私たちが安全安心便利に暮らせるように色んな事をしてくれている…らしい。
 なんかよくわからんけど。

 ラドスと妹達の仕事は家の事───食事を作ったりとか、掃除とか、自動車で送り迎えとか、お庭を整えたりして対価を得ているんだとか。
 そんな自分でするようなことを態々他人にやって貰って、あまつさえ対価が発生するって……

 ん?………じゃあラドスは自動車を動かせるの!と聞いたら、なんと妹達も出来るらしい。
 へえ、すごいねえ、ラドス。
 すごいねえ、妹達。
 て口にしたら顔を真っ赤にしてる。

 これはこれで可愛らしいのぉ、とは思うものの、話題を逸らさなきゃ俯いたままでお話にならないので、私にも自動車とか動かせるかな、出来るかな?とその場しのぎで言ったら、やってみれば?と、顔を上げてくれた。

 ラドスは思いの外、素早く段取りしてくれた。
 自動車や練習場所をメルクリオスさんにお借りしたり、教えてくれる三人の妹達の仕事の時間を調整してくれた。

 …うーん、引っ込みがつかなくなったぞ。

 そうこうしてるうちにメルクリオスさんのお家にお邪魔する日がやってきた。

 うわぁ……や。
 こりゃ一人ではお家のことは出来ないわ……ラドスがちっさく見えるくらいでかい。
 目の当たりにして初めて、この家を掃除する妹達に感心する。

 すごいよ、あんたたち。三人がかりでも掃除だけで一日終わりそうだわ。

 そして何より、 綺麗なお庭にうっとりして、このお庭をラドスが整えてるのかと思うと自分のことのように誇らしく思った。

 そんなお庭を我が物顔で闊歩していたら、濃い銀色の大きく波打つ髪をした、緑色のきれいな瞳の少年が居て… その少年はメルクリオスさんで…クリストファー…様…にお会いした。

 このお家の持ち主であるクリストファー様は私より五つ下で、最近亡くなったお父様の代わりに|貴人(あてびと) のお仕事をされているとのことだ。

 家に帰ってからクリストファー様ってキレイねぇ、と口にしたらラドスの顔が強張った。
 馬鹿だなぁ、あんなにも人間離れした美しい方とどうこうなるわけないじゃない。
 熊みたいな顔して可愛いなあと、思って、頭をわしわししてそのまま胸に抱きしめた。
 そのまま動かないラドスの顔を覗き込んだら、今にも泣きそうな顔してて、
 目があったらそれでも無理矢理笑おうとしてて、
 でも、ちっとも笑えてなくて……愛おしくてラドスの唇に口付けていた。

 ラドスは壊れ物に触れるみたいに私を丁寧に扱った。
 その大きな体のいったい何処にそんな繊細な要素が有るんだろうとも思う。
 私たちは家族になった。


 ラドスが死んだ。
 あんな屈強な体だったのに、意ともあっけなく病に負けた。
 なまじっか体に自信があったから無理が祟った。

 私には子供が出来ていた。

 妹達が口を利いてくれて、メルクリオスさんのお宅で暮らせることとなり、そのまま子供を産み育てることになった。
 アルラが自分が取りあげるんだと張り切っている。

 そんなある日、テルルの街に竜巻が起こりクリストファー様が、両親をなくした小さな男の子を引き取られた。
 小さな男の子───セイレン様は銀髪碧眼で、どこかクリストファー様に似ていた。

 セイレン様はとても愛らしく、私と妹達はそんなセイレン様をとても可愛がった。
 だから、セイレン様が私のお産に付き添いたいと言われたときには、多少戸惑ったけれども了承した。


 子供が産まれる。
 ひどく苦しかった。
 私の態度に怯えたセイレン様が、それでも手を握ってくれている。

 ずるっと体から異物が出る。
 産まれた?筈なのに……一向に産声が聞こえてこない。
 セイレン様はいつの間にか私から手を離し妹達の方にいる。
 酷い睡魔にも似た眩暈が襲い、頭が朦朧とする。
 どこからか子猫のような声が聞こえる。

 セイレン様から腕に抱いた小さな包みを渡されると、真っ赤な顔をくしゃくしゃにした赤ん坊が何かを探しているようだ。
 なんて小さな手なんだろう。
 セイレン様は赤い目をして赤ん坊を愛しげに見つめている。
 
 と、頭がぐるんと回転し目の前が真っ暗になった。



 目を開けたらそこは見知らぬ天井だった。
 オレンジ色の灯りが大きなガラス窓から漏れていて、看護師さんの姿が見える。
 ああ、手術は終わったのか。
 点滴を処置されると再び眠りについた。

 あたしは杉田 |弥依(みい)
 高校一年生…なんだけど、入学式当日に玄関先で転んで踵骨を折って1日も登校せず、入院。
 昨日手術して、あと二ヶ月は入院するらしい。

 しかし、しんどい夢だったなあ、
 ―――うわっ!あたし、子供とか生んじゃったよ!
 彼氏さえ居たことないってのに!
 はいはい。
 だから、エッチシーンはスキップですね。
 なんか夢とはいえ恥ずかしくなってきたわ。
 ふぅ。
 気を紛らす為にスマホを弄る。

 あ、【 デイムメイカー 】だ。
 おぉ、クリス様だわ。
 やっぱ素敵、渋いわ。
 こーゆーゲームで子持ちのおじさまが攻略対象ってどうなん?と思うけど良いものは良い、
 推せる。
 ……あら?
 そういえばクリス様の息子ってセイレン様よね。
 セイレン様?
 あれ?


 【 デイムメイカー 】は育成シュミレーションというやつだと思う。
 あたしはゲーオタってわけじゃないから詳しくは知らない。
 そもそもキャラ絵師さんがすごい好きで、ゲームをやり始めた。
 日々美麗なキャラクターに翻弄されていた。

 が、ある時気がついた。
 あら、クリス様のお声もしや、勢雄さん?
 |勢雄 祥匡(せお よしまさ) さんではなくて?

 や、ね。
 主要キャラの声優さんは、まぁまぁ旬の方々なんですよ、恐らく。
 でもね、勢雄さんはですね。

 あたしが初めて声を意識した声優さん。

 お母さんがアニオタで、あたしは幼いころからアニメの英才教育を受けていて。
 その中でも特に『だいこうかいものがたり』てのが大好きで。
 脇役だけど渋いキャプテンに夢中だった。
 初恋と云っても過言ではない。
 で、キャプテンの声を当てていたのが勢雄さんだった。

 勢雄さんはその作品の後、現場から退いて、裏方や後進の育成に携わるようになっていて。
 けれど!実に十三年振りに現場復帰したのがクリス様。
 そりゃ推しますよ!
 他のエンディングには目もくれません、て、訳にもいかないのが腹立だしいのだけどね。
 このゲームは!


【 デイムメイカー 】
 『知性』『教養』『品性』『芸術』『人徳』『忍耐』『勝負運』のパラメータを上げ、あなただけのエンディングを迎えましょう
 ―――何をするのもあなた次第。
 [[rb:最長 > タイムリミット]]二十歳までに、どんなわたしになれるかしら。

と、パッケージに書いてある。
 舞台は、一見大正ロマン風だけど日本でも、まして地球でもない。
 神様がいない、だから宗教がない。
 支配者や、為政者がいない。
 軍隊がなく、戦争もない。
 貴族制がなく、貧富の差もほぼ無い。

 一年は五百日で、百二十五日毎に季節が変わる。
 学校はあるけど五歳から十八歳の間に好きなときに好きなだけ行ける。

 行かずに働くのもありだ。
 あ、あと魔法もない。
 そんな世界で、王になったり、教祖になったり、職人になったり。
 そうして必要な要素や経験、フラグを回収してお目当ての攻略対象に出会う。
 まあ、一周目で迎えるのは平凡な結婚か職業婦人なんだけどさ。
 二周目からやっと引き継がれた条件が発動する。
 
 ………………あれ?

 おじさま枠のクリス様はまだ少年で、息子のセイレン様に至ってはまだ子供だった。

 あんな年齢の二人、あたしは知らない。
 スマホを辿っても、二次創作しか出てこない。
 二人の血が繋がってなかったら…。
 …………?あれ?……ん??
 ?
 
 ま、夢か。
 夢。

 で、ラドスて誰だ?

● Rememoro 伯氏令閨見聞寵(はくしれいけいけんぶんちょう──もしくは、にーちゃんの話)

⚫️位相

 僕が二人に会ったのは、両親と産まれたばかりの仔猫を葬り弔う日だった。
 クリストファーと名乗る銀髪の男と、サーラと名乗る茶髪の女。

 七日前の嵐はまるで狙ったかのように僕の家と両親と仔猫の命を奪った。
 町のあちこちは荒れたけれど被災者はいないと聞いた。
 僕はまだ、七つにもなっていなかったせいか、その時のことは正直覚えていない。
 僕は決められていたことのように、クリストファーに引き取られた。

 僕の生活は一変した。
 見たこともない食事の仕方や、食べたことの無い果物、やったこともない挨拶。

 特別好きでも、嫌でもない。
 態々働かなくても、美味しいモノを食べられる位の意識だった。

 正直、勉強は少し面倒ではあったけど、文字列の規則が理解できたので本は楽しかった。
 特に、IROHAは好きだった。
 この世で使われている文字が全て鏤めただけと云うけれど、きれいだなと感じた。

 メイドの一人、スーラにもうじき子供が産まれるらしい。
 僕は、僕の食べる分が減るのかなとだけ思った。

 好奇心から子供が産まれるのを見たいと、言った。
 クリストファーは渋い顔をしたけど、スーラは構わないと言ってくれた。

 生まれる日。
 スーラは酷く苦しそうだった。
 絶え絶えの呼吸。
 ついさっきまで、優しく笑って僕におやつをくれたのに。
 同じ人と思えない、言葉にならない音を吼えている。

 こんなにも人を苦しめてヒトは産まれるのか?と今でこそ思うが、当時はただ、苦しさを押さえきれないスーラが怖く見えて、何かが感染る気がした。

 産まれてすぐ、赤ん坊は息をしていなかった。
 青黒い顔の、おおよそ可愛いとは思えないもの。

 アルラが赤ん坊の両足首を掴んで、逆さまにして背中を叩く。
 ごぼっと音を立て、何かが子供の口から溢れ出る。
 なー、なーと、発する声は、仔猫が鳴いているようだ、思った。

 赤ん坊が洗われて、お乳を飲んで、満足気に眠っているのを見たとき、頭の中がざわっとした。
 それが何なのか、今だ分からないけれどずっと覚えている。

 クリストファーは赤ん坊にミリアと名付けた。
 ミリア。
 その名前を口にした時、頭の中のざわざわはもっとひどくなった。


 暫くして、スーラが死んだ。
 驚くほど冷静だった。
 見送るのは二度目だったからかも知れない。
 すぅーと、頭の中のざわめきが無くなった気がした。

 ミリアは僕のモノだと思った。

 ミリアは泣かない子だった。
 仔猫のほうがみぃーみぃーと煩さい。
 病気かも知れない。
 耳が聞こえてないの?と心配するほど泣かなかった。

 生まれた時の、仔猫みたいな鳴き声をまた聞きたいと思った。
 けど、どんな悪戯を仕掛けても、どんな意地悪をしても泣かなかった。

 それどころか喜んでいる気もする。
 ……ちょっと、子供の勉強をしてみようとおもった。


 クリストファーと話をしていた時だった。
 多分、ミリアの話をしてて、その流れでスーラに触れたときだ。
 まるで母さんのように、頬を挟まれじっと見詰められた。

 まっすぐに僕を見るミリア。
 限りなく黒に近い緑の瞳に、僕がいる。

 僕の中を暴かれているようでどきどきした。
 別に悪いことをしたり、
 考えていたわけでもないけれど。
 
 僕はミリアが立ちあがった事を喜んでる振りをした。

 ミリアは直ぐに歩けるようになった。
 本に書いてあるより早い気もするけど個人差なんだろうと、思った。


 学校に行くということでクリストファーと下見を兼ねて試験を受けに行った日だった。

 帰ってきた僕を待ちかねていたミリアが怪我をした。

 いきなり足元に纏わり付かれて蹴ってしまった。

 声を掛ける間もなかった。

 ミリアの額から、どくどくと血が流れる。
 僕はミリアを抱き抱えたけれど、どうしていいかなんて分からない。

 流れ出す赤い血と、比例して青くなる顔。

 クリストファーが戻ってきて、アルラに促されるまで、僕はただミリアを抱いていることしか出来なかった。


 ミリアが起きるのを待ってなきゃいけないと思った。
 ベッドの傍らでミリアが起きるのを只管待った。

 にーと仔猫の鳴き声のような声が聞こえた。
 ミリアが僕に手を差し伸べている。
 頭にには包帯がぐるぐるに巻かれているのに、
 隙間から覗く顔は、笑っている。

 痛くないの?
 苦しくないの?

 何で泣かないの?
 と思うと同時に、僕の目から涙が溢れた。

 こんな、こんな小さな子が僕を慰めている?
 自分は血塗れで朦朧としているのに!

 でも、聞こえたんだ。
 ごめんなさい。大好きだよ、って。

 そんなわけない。
 なんて自分に都合良く解釈しているんだろう。
 もっと自分が嫌になった。

 自分が嫌いだ、そう感じた僕は、自室に鍵をかけた。
 くすっ。
 自室って、僕のものじゃないのに。
 クリストファーが用意してくれたんじゃないか。
 どこまでも、自分勝手。

 どろどろと、
 もやもやと、
 いらいらと、
 ざわざわと。

 目を閉じても、
 布団を被っても、
 耳を塞いでも。

 夜が明けても、
 日が昇っても。
 

 ミリアが目を醒ましたとクリストファーが言った。

 僕は会いたい気持ちが押さえられずドアまで走ったけれど、どの面下げて?と急に頭の中から制止がかかった。

 確かにそうだ。

 会えない、そう呟いたときミリアを呼ぶクリストファーの声が響いた。

 何が起こっているんだ?
 気になってドアを開けると同時に、何かが飛び込んできた。

 何とかそれを捕まえたけれど僕は盛大に尻を打った。

 ミリアだ。
 ミリアはいつかと同じように僕の目を覗き込んでいる。
 君の目には一体何が映っているのだろう。
 にぃにぃと仔猫の鳴き声がする。


⚫️所思

 僕は学校へは一年遅れて入ることになった。

 学校に入って三ヶ月毎に一ヶ月しかミリアに会えなくなった。

 クリストファーに、これは試練だよ、ミリアに相応しい男におなり、と、訳知り顔で言われた。

 勉強させたいだけじゃないのか?とも思ったが、確かにミリアは聡かった。

 怪我をするより前に本を読んでいた。
 眺めていたのかも知れないが。
 頁を捲る手は丁寧で、隅々まで目で追っていた。

 読めっこないだろうと、僕が膝にのせて読んであげると、嬉しそうにはするけど。
 書き文字の基本の、IROHAを読んであげたら、ひどく難しい顔をしていた。
 あれは、なんだったんだろう?


 それにしても、ミリアに相応しい男とは、どういう事だ?と聞いたら、クリストファーは小馬鹿にして、分からないなら俺が取っちゃうよ。と、けらけら笑いながら言った。

 実際、クリストファーは奇妙だと思う。
 仕事はむやみやたらと手広く、そこそこの金持ちだ。
 ああ見えて、人望もある。

 聞けばまだ、二十代だと言う。
 と、言うことは僕を引き取った時十代だったのか?

 そんな若さで?血も繋がらない、
 縁もゆかりもない僕を、養育する?
 意味が分からない。

 ミリアの事だってそうだ。
 クリストファーが引き取る理由なんてない。
 全くもって、この男には謎が多い。


 初めての休みを迎えた日、家に帰るとミリアの姿が見えなかった。

 今日から遊び相手の子が来ていて、本を置いている納戸にいるらしい。
 遊び相手と聞いて女の子かと思ったけれど、僕と同じ歳の──男の子だった。

 いらっとして納戸の扉を開ける。

 扉を背にしていたミリアは気付かないが、向かいの子供と目が合う。
 僕の顔を見て、大きく目を見開く。
 ──なんだ?

 なんとも言いがたい、得も言われぬ疎外感に苛まれる。

 この子らの一体感は、何なんだ!

 僕に気付いたミリアが、にこにこと嬉しそうに少年を紹介する。
 見据えたようなやつの、顔が気に入らない。


 気が付けば、僕は少年を刺していた。

 どうしてナイフが手にあったか知らない。

 手の中にあった。
 何処から出たのかも、いつ掴んだのかも分からない。

 冷たい金属の重さが、現実を物語る。
 
 そして、刺した手応えは確かにあった。

 だけど、出るべき血が見えない。

 クリストファーも一緒に見ていた。

 少年の在るべき体は、霧のように消えた。


 クリストファーは驚いていたけど、ゆっくりと僕を見た。
 懸命に言葉を探し、選び、そして、
──無言で僕を抱き締めた。


 ミリアは賢く美しく成長していた。

 時々奇っ怪なことをしているが、それはそれで面白いし、何より可愛いかった。

 僕の事を、清く無欲と言いながら、それでは詰まらないともいう。

 僕が、君の友達を消したと知ったらどうするだろう?

 なじるかな?
 怒るかな?
 泣く…かな?

 僕は穢い欲の塊だ。

 僕は、僕の中の穢れと欲を隠してでも、それでもミリアの傍に居たいと思った。
 例えそれが、“兄妹”と名付けられていても。


 その頃からクリストファーを父さんと呼び憂さを晴らした。
 お前は俺が十歳の時の子か!と吠えられた。
 ミリアが僕を兄と言うなら、父で良いじゃない。
 クリストファーは納得出来るような出来ないようなと、ぶつぶつと不服を並べている。

 腹癒せなのか、釈迦力に働かされた。


 マーリアと云う女が現れた。

 ミリアは楽しそうに、上手いことやっているようだが、この女を見ていると落ち着かない。

 別段、僕やクリストファーに迫ろうとも、ミリアを苛めてる感じでも無いのに。

 脅されているような、弱みを握られているかのごとく、嫌な気分になる。

 もしかして、僕が刺した少年と関係のある者なのか?と、聞いてみたら何の事か知らないと返ってきた。

 それを合図に、この女はミリアを殺しにきた。

 僕の帰宅に合わせ、隙間からミリアの首に手を伸ばす。

 彼女の動きはまるで遅く、捕らえるのは容易だったが、ミリアは空を見て硬直していた。

 怖かったのか、悲しかったのか。
 見たことのない空虚な表情に、ぷつりと大きな音をたて、僕の思考は切れた。

 違うと繰り返す女。
 ──ナニがチガウ?

 当たり前に、沸々と怒り殺意が涌き出る。
 ──ボクのミリアに。

 まただ。
 いつの間にか、手にナイフがある。
 ──コレガ、アレバ?

 あの時の少年には、躊躇無く突きつけたナイフ。
 ──キエて、ナクナる?

 大きく腕を振り上げる。
 その腕を下ろせばいい。
 ──オロセなイ?
 
 ミリアの吐き出した音に共鳴するように、ナイフが消える。
 ──?!

 さっきまでの殺意がすっと無くなって、
 ミリアの声を目指して、ふらふらと足が向かう。
 
 何も映していないミリアの目。

 今までためていた涙が流れている。
 ──ボクがイルヨ?

 僕は、抱き締めることしか出来なかった。


 父さんが、女を迎えに来た男に引き渡していた。
 父さんがぽんと肩を叩いた。

 ミリアの目は、まだ虚ろで、力の無い身体を抱え、部屋へ運ぶ。
 さっきまで、あんなにも僕にすがっていたのに。
 ──ずっと…いや、駄目だ。
 ミリアの部屋で、仁王立ちになっているイーラに、ミリアを取り上げられる。

 空っぽになった腕が、物足りない。


 遊戯室に、アルラが何か運び込んでいる。
 お嬢様が絶対来ますと、断言され僕は遊戯室の中に押し込まれた。

 お嬢様を宥めるだけですよと、念を推され酒類は没収された。

 そんな簡単にどうにかできるようなら、とっくにどうにかしてる。
 “兄妹”は、どうしても縋っておきたい最後の砦だ。

 暫くして、ミリアは来た。
 酒を飲めないことを残念そうだけど、若干顔色が戻っている。
 いつもに比べれば、青いけれど。

 けれど、無防備に預けられた体にどうしても慾が疼く。

 何時まで押さえられるだろうか?

 額の傷痕はすっかり無くなっていた。


⚫️月相

 あの子は絶対無理をするから、今日はお前も一緒に居なさい。
 けど、分かってるね。

 お前が無理させたら目にものを見せるから。と、朝一番にクリストファーに釘を刺された。

 昨日の今日で仕事なんかしないだろうと、高をくくっていたら、ミリアは青い顔で支度を整えていた。

 クリストファーは無言で僕に遊戯室を指差したので、サーラと部屋を準備した。

 この人たちは何でこうも僕に拷問を強いるのだろう。

 僕がうっかりミリアを汚すとは考えないのだろうか?

 信用されているのか?
 ミリアは僕の慾を汚ないと思うだろうか?

 ミリアが、僕に口付けた。
 何度か軽く口付けたあと、舌を絡めてくる。

 何処で覚えてきたのだろうと、思わなくはなかったがそんなことは些細なことだった。

 ミリアが僕に答えてくれてる事に夢中になっていた。

 夢中になっていた。
 夢中になっていて気付かなかった。

 ミリアが息をしていない。
 無体なことをやってしまったのだと後悔した。

 医者が云うには、深く眠っているだけ、との事だ。
 時期目を覚ますでしょう、と。
 それが何時かは分からないけれど。
 栄養が採れないので砂糖水を飲ませるようにと言われた。
 

 ミリアは本当に眠っているだけだ。
 規則正しい寝息が聞こえる。

 一度は、あの時より冷たくなった体が、幾何かの熱を取り戻していた。

 このまま此処に居ても、お前の体が弱るだけだ、とクリストファーには仕事をさせられていた。
 けれど、そんなクリストファーも結局は上の空だ。

 仕事で引っ張り出される以外は、時を止められたかのように眠り続けるミリアの傍にいた。

 そんな僕が寝ている間に何か仕出かすのではないか、とイーラ達とクリストファーの間で問題になったらしく張り付かれた。

 何か、て何だよ。

 僕は眠る事が出来ず、朝が来るまでミリアの手を握り続けた。

 けれども九日目の夜、唐突に起きた異様な眠気に耐えきれず僕は眠りに落ちた。


 ──夢を見た。
 夢だと思う。

 見たこともない世界。
 不思議な触感の世界。

 目の前にミリアと同じ様に、
 けれど見た目が全く違う女性が寝ている。
 目が離せない。
 この女は何者なのだろう?

 不意に名前を呼ばれた。
 知らない。
 誰だ?
 ラウノ?
 誰だ?

 名前を覚えていなかったが僕が刺した子だった。

 あの時消えたように見えたのは、元々が生きている世界が違っていたからなのか?

 仕事があるから待ってろと言われた。
 どうやら僕はこの世界の者に認識されないことを覚った。

 ラウノと同じ格好をしたものが何度か出入りし僕を通り過ぎる。
 彼女たちは、何事もないように作業を続ける。
 作業をする以外の者が現れなかった事が奇妙に思った。

 家族は、無いのだろうか?
 
 そんなとき、眠っていた女性の瞼が薄く開き、僕を捉えた。

 見えているか、いないか分からない、睫毛が動いただけの反応。

 僕の名前に僅かに動く唇。
 ああ、この者はミリアだと思った。

 少しも似ていないのに、とても似ている。
 何と言うわけでもない。
 
 女性の目尻から涙が流れたが、僕は拭うことさえ出来ず、ただただ歯痒さを感じた。


 ラウノの話は、僕が生きてきた世界が、この世界の創作物だと云うことだった。
 些か衝撃はあったが、クリストファーに引き取られた事を考えると納得出来た。

 決められていたのだ。

 ミリアに、この世界の者の魂が入り込んで物語が変化したのだろう、とラウノが言う。

 ふと、ミリアを初めて見たときの竦むような感じを思い出す。

 なんにせよ、僕に関する物語はごっそりと違っているらしい。
 物語の中では、嵐は起こらないし、僕は本来の姿ではないらしい。

 ──なんだ、こいつ。
 しかしラウノはこいつが好きらしい。
 まあ、こいつはこいつで僕ではない。
 そういうことだと思った。

 これ誰だ?と軽薄で年をとったクリストファーの絵を見せられた。
 やはり、あいつの本性はこんななのか?と思った。

 僕はラウノを殺したことを詫びようとした。
 けれどラウノは僕に殺されたことで、このもとの世界に戻れて良かった、と言う。

 それでも人を殺めるのは許されないことだ。
 けれどラウノは、夢の中での事だからと言う。
 だから感謝だけを告げた。

 では、ミリアはどうしたいのだろうか?

 ミリアが僕に接吻(くちづけ)たのは、この女性の夢の中なのだろうか?

 この女性がこちらで目覚めれば、ミリアも消えてなくなるのだろうか?

 一向に"こちら"で目覚める様子のない女性。

 作業をするもの以外訪れることのない、なにもない部屋。

 自分の事で泣くことのないミリア。
 君の欲しいものは、どこに有るのだろう?

 ねえ?ミリア。
 クリストファーが待ってるよ?

 イーラも、アルラも、サーラも。
 君が目覚めるのを、待ち望んでいる。

 勿論、僕もだ。

 そうだ。
 …連れて帰ろう。
 共に在ればいい。
 僕は念じ続けた。


⚫️寵愛

 目が覚めるとミリアがいた。

 僕に手を握られている事にも気付かないようだ。
 イーラが僕が目覚めたのに気付いて、にぃーと笑う。
 ミリアがやっと僕に気が付いた。

 やっと。

 僕はミリアを離さないと心に誓った。
 誓ったのにクリストファーに引き摺られて仕事をさせられた。
 ミリアが起きた事で火が着いた。
 全く困った親父様だと思った。


 その日、家に帰り皆で夕飯を摂り人心地付いた後、遊戯室に行くとミリアが酒盛を始めていた。

 安心したのと呆れたのが混ざりあったが隣に座れと誘われた。
 僕はクリストファーに見張られていて一緒に部屋に入ったら、ミリアに一人用のソファーを勧められて凹んでいた。

 ミリアは聞きたいことがある様でそわそわと落ち着きがない。
 酒の勢いを借りなければ話せない事なんだろうか?と思うと僕の方もびくびくする。
 そんな僕らを見ながらクリストファーがにやにやしている。

 ミリアが僕を実の兄と信じていたらしい事に驚いた。
 確かに隠してはいなかったが、言ってもなかった。
 と云うか、誰も兄扱いしていないにも関わらず、ミリアは僕の事を兄様と言っていた。

 それならば、ミリアは兄である僕に接吻したのかと動揺したら口に出していた。

 クリストファーに責められた。

 血の繋がりが無いことが分かったミリアは、早々に僕を置いて逃げ出した。

 ミリアが部屋に戻るのを確認して、クリストファーが話し始めた。

 ミリアは、実はクリストファーとも血は繋がっていない。
 スーラの恋人は僕がこの家に来る前に亡くなっていた。

 ミリアはスーラとその恋人との子供だ。
 何でクリストファーが育ててるの?と聞くと、何でだろうと答えた。

 ただ、僕もミリアも育てなきゃと思ったらしい。

 君たちは大事な子供だからね、と言った。
 物語…と思ったが、ミリアは違う。

 ……だけど、君がミリアを泣かせたりしたら、分かってるね。と、ラウノに見せられたクリストファーの顔で言われた。


 一緒に幸せになろう、と言うミリアを腕の中に閉じ込める。

 あの者は幸せだったろうか?
 ふと、頭を過る。

 僕に悪戯を仕掛けて煽ってくるミリアに、賢しく高齢のご婦人のようだね、と言ったら言葉に詰まっていた。

 一つ勝てたと思ったがそんなことはなかった。
 僕はずっと君に翻弄されるだろうと思う。
 だって、僕の存在は君あってのものだから。

 いつか、君の世界を垣間見たことを話してあげよう。
 僕が君を知っていると言ったら君はどうするだろう。

 ねえ、ミリア。



◼️跋文──エピローグ──


「【デイムメイカー】…」
「!看護師さん!知ってらっしゃる!」

 何度ともなく見ていたスマホの公式サイトを眺めていたら、初めて見る看護師さんが呟いた。

 あまりメジャーとは言い難いゲームなのに、知ってる人がいるとは嬉しい。
「や、知ってると云うか…知ってる」
 なんだか歯切れが悪い。
 そんなに恥ずかしいゲーム何だろうか?
 仲間を見付けた嬉しさが先立ってしまったけど、大人の人はゲームしてるって言いたくないのかな?

 なんだか困ってしまっていたら、看護師さんがほたほたと泣いていた。
「え?え?」
「ねえ、私の話、聞いてくれるかな?」
「今でも良いですよ?暇だし」
 涙を拭いた看護師さんは
「私は暇じゃない」
 と涙を拭った。
 確かにお仕事中ですね。
「少しだけ、長くなるし」
 そういって悲しげな顔をした。

 看護師のお姉さんは休みの日に来てくれた。
 制服姿とは違う私服のお姉さん。
「ホントは患者さんと個人的に仲良くしちゃダメなんだけどね」
 と、言って、志山風花ですって自己紹介してくれた。
 何時もは外科に居ないけど、あの時は応援で来てたらしい。
 で、あたしと会ったわけだ。
「杉田弥依です」

「何から話そうかな…」
 そういって志山さんは話し始めた。
「夢物語で聞いてもらって構わないんだけどね…」

 まさかの異世界転生物語だった。

 志山さんとあたしの夢の話を擦り合わせる。
「…もしかしてなんだけど、貴女の夢での名前…いー、ある、さー…スーラ?とかだったりする?」
 そう志山さんは不安げに聞いてくる。

「そうです。あれ?あたし、言いましたっけ?」
「言ってない。けど、貴女の彼がラドス。私がラウノ」
「?」
 何の事か分からない。

「イー、アル、サー、スーは中国語で一、二、三、四。ウノ、ドスはスペイン語で一、二」
「適当感がモブっぽい…」
「まあ、スペイン語かな?てのはミリアが言ってたんだけどね」
「ミリア?」
「話からすると貴女の子供ね」
「ほお…賢い」
「中の人は五十って言ってた」
「何と!」
「実は聞いて欲しかったのはその話でね」

 実際、志山さんが会ったのは三才のミリアという子らしい。

 クリス様の娘は産まれて間も無くセイレン様が殺されるから、物語上三才というのはあり得ない。

「…それは、母があたし(スーラ)では恋慕う程で無かったと言うことでしょうか!」
「…」

 …志山さん、目を逸らさないで。

 ちょっとだけ笑い話にして、志山さんの目は再び真剣モードに入った。
「それだけでもなさそうだけどね」
「ミリア…さんに中の人が入り込むために、予め舞台が整えられた感もしますねぇ」
「だったら、佐東氏は幸せなのかなあ…」
「?」

「ミリアの、多分中の人。セイレン様が迎えに来た」
「何ですと!」
「そりゃあ、もう。ホログラムなセイレン様がふわふわしてたわよ、二日前」
「この病院に?」
「この病院に!」

 二日前なら、手術の翌日か、
 会え無かったのは少し残念な気がした。
 でも、覚えてるのかな?
 
 あちらとこちらで時間の流れが違うのだと思った。

 あたしが、お世話した少年はグレること無く、少し拗らせてはいるようだけど、けど優しく成長したと聞いて安心した。
 夢なのか、妄想なのか。
 現実なのか。

 あの後、どうなったのかあたしには知る術 がないし、だからと言って命を掛けてまでは知りたくはない。

「ミリア…さん…ゲーム世界に行ったって事ですよねぇ?……幸せなのかなあ」
「ん~…私もそれは気にはなるのよね。まあ、そもそもゲーム世界が在るのかって事なんだけどさ。だから、誰かに話したかったんだけど、適任者が身近にいて助かったわ。」

「あたしの…子…かあ…って、はっ!まだ処女なのに」
「ま、マリア様とでも思えば」
「処女受胎が別の世界でミリアを救ったと思おう!」
 と、志山さんは又泣いた。

 そうだね、そうだね、て言った。

 あたしが、お乳をあげた子はこの世界を出ていった人って思うと寂しくもある。
 辿々しくわたしのお乳を飲んでいた子供の感触。

 ねぇ?
 あなたは幸せでしたか?
 今は幸せですか?

 なら、いいけど。

🔲 alfiksita 御破算顛末断(とーちゃんのはなし)

◆ Antaŭparolo 椿堂博戯凶(ちんどうはくぎのわざわい)

 祝福の,鐘が鳴る。
 祝福の,花が舞う。
 祝福の,鳥が飛ぶ。
 祝福の…,…祝福の…,…
 祝福?何のために?

 一方的に祝福と幸せを撒き散らしてるその最中、 
 ぴたりと時が止まり、
 やがてゆっくりと世界に紗が架かり暗転する。
 
 どうやら今回はここで終わるらしい。

 顔は見知っていたものの、いつもは息子に付き纏って娘が、どういうわけか今回は俺に纏わり付いてきた。
 あげくの果てに結婚“式”なんてもんまですることになってしまったもんだから、今度こそ違う結果になるかと期待していたんだか。
 白いドレスに花束を抱えた黒髪の少女と目があった時、いつものように辺りは闇へと包まれた。

 …………ちっ、はずれか。

 俺は、クリストファー・メルクリオス。
 二十歳から三十歳前後をもう、十五回は繰り返している。

 母親は俺が産まれた頃に、父親は十二歳の時に死んだ。
 父親は|貴人(あてびと) と呼ばれたりしていたが、その実、面白そうな事に首を突っ込んでは、引っ掻き回すのが好きだっただけなのだと思う。
 俺も物心着いたときから、そんな父親に付いて回っては、一緒に遊…見ていたのでなんとなく倣った。

 俺は幼いときから家職のラドスと、その娘で侍女のシーラの二人に育てられたようなものだった。

 暫くして親代わりにも等しいラドスが死んだ。

 そのあとは成人して、メアリと家族になって、息子セイレンが産まれた。
 十八歳の時に娘が産まれて直ぐにメアリ死んで、
 娘も死んで……セイレンがグレて…

 繰り返すのはセイレンがグレた二十歳からだから、父親とかラドスとか、メアリには一度しか会ってない。
 まあ、父親は兎も角、メアリの死に目には何度も合いたくもないからそれはいいか。
 どうせ、今回も息子の尻拭い人生なんだろうし……
 …………あーメンドくせ。
 何で、あいつはグレてんだ。
 なにが気に食わねーんだ。
 なんなんだよ、あの真っ赤な髪は!
 何で七歳でグレてんだよ!
 俺の育て方か?
 メアリが死ぬのも、娘が死ぬのも俺の所為か!

 そっか、なら仕方ない。
 そういえばアイツがグレてた理由てなんだったっけ?

 ?
 のんびりと今までの反省……思い返せていることに違和感を覚える。
 そんなこと出来てたっけ?
 今までなら、息子が人を殺して騒然としている処から始まるから、以前を謎るのが精一杯だった筈だが。

 ここは―――車の|後部座席(なか) か?
 車外には見たことがない景色が広がっている。

 ん?おや?
 車の窓に映る俺が若い。というか幼い。
 運転しいるのは……家の侍女のサーラか。
 たしか、シーラの娘。ラドスの孫。

 「……で、この車は何処に向かってるんだっけ?サーラ?」
 自信なく尋ねてみる。
 「はい?テルルの街ですよ。五日前の竜巻で被害があったとの連絡を受けて向かっているのですが」

 テルルの街……竜巻?
 「なんで他所の街まで行くんだ?」
 「テルルの街の街長から相談があるから来てもらえないか、と打診を受けたと伺ってますが?」

 ……二回程前の繰り返しでセイレンが初めて結婚したときに、突然出来た街があったことを思い出す。

 「サーラ、俺って今何歳なんだ?」
 「……忙しすぎて呆けたんですか?十二歳ですよ」
 十二歳か。えらく若返ったもんだ。
 「…街まで後どれくらいだ?」
 「後、四半刻程で到着するかと思いますが」
 「そうか」

 十二歳か。成人まで後二年もあるじゃないか。

 テルルの街。訪れるのは初めてだ。

 でも、こんな早くから存在してた事があったかな?
 今回こそ何か違う。と、何回目かの確信を持つ。根拠はない。
 もしかするとそれは変化に過敏に反応する俺の幻想なのかもしれない。
 俺は窓に写る自分の顔に問い掛けてみた。
 まぁ、答えるわけはないんだが。

 何回繰り返していても、自分が戻るより前が変わっていることはなかった。
 なんといっても今が十二歳で成人前ということだ……メアリに会えるのだろうか?
 それならば。
 彼女と穏やかな老後を過ごせないだろうか?

 俺は、自然と顔が綻んできた。
 今度こそ当たりだろ!
 これで、繰り返し人生が終わる!

 て、ちょっとくらいは期待しとこう。
 
 そんな俺の老後計画を乗せて車はテルルの街に着く。

 被害に見舞われた町というのも初めて見たが、飾り屋根は壊れ、折れてた樹木がある。
 街長の家へ向かう。

 何でも、被害そのものは見た目ほど酷くはないし、怪我人も打撲や擦傷で、動けないほどの重傷者はいないらしい。

 只の一件を除いては。

 その家は、人目を避けるように離れた所に建っていたものの、至って気立てのよい夫婦が“二人で”住んでいた。

 竜巻は、その家をまるで狙ったように崩壊までした。
 翌日、街長が被害の状況確認に訪れると、家は何も無かった。
 家だった残骸が僅かに残るその場所で、件の夫婦が何かを守るように息絶えていた、と言うことだ。

 街長に別の部屋を案内されると、壁際に毛布の塊があった。

 夫婦が命を懸けて守ったもの。
 俺は塊の前に立ち、ゆっくり毛布を捲った。
 そこには体を丸め小さく踞った、汚れた子供がいた。

 夫婦は親の代からそこで暮らしていたが、子供がいることは、知る者が無かったらしい。
 街長は夫婦を弔ったものの、困った。
 なんせ子供を何とかここまで連れてきて、食事を与えてもわずかばかりを口にすると部屋の隅で毛布に包ってじっと動かないのだ。
 せめて炭で汚した様な体を何とかしたいのに、風呂にも入ろうとしない。

 俺はその子供を眺めた。男の子か?
 「お前、名前と年は?わかるか?」
 子供は前髪で覆われた顔を上げ、髪の隙間から俺の顔を確認すると
 「……セイレン……五歳」と、呟いた。
 ―――俺は、只只、呆気に取られた。

 食うもん食って|小清潔(こざっぱり) として、汚れを落とした髪はやっぱり銀色。
 両親が人目を避けた理由は恐らくこれだろう。
 突然産まれた銀色の髪の子供。

 念のために街長に尋ねたら、両親は茶色の髪をしていたらしい。
 俺が“繰り返す”時には、既に真っ赤に染めていたこいつの髪が、銀のままなのを見るのは何時ぶりだろう。
 「銀色なんだな」
 セイレンの髪に触れると、びくっと体を強張らせる。

 しかし、なんだな。
 こいつがこんなんだと調子狂うな。
 世の中皆敵、と暴れ舞っている姿の方が記憶に新しい俺には、目の前の餓鬼が本当にセイレンなのか自信が失くなってしまう。
 ――セイレンはただおどおどと俺を見ている。

 …っ!なんだ、その目は!
 脅えた小動物みたいにうるうるする瞳を見ていると、悪戯心が沸く。
 ぷにっと、頬を指で突付いてみる。
 息を飲み、涙目で俺を見る。
 なんだ、その顔可愛いな。

 ぷにっ、ぷにっ。
「なっ、や、」
 突付かれた頬を腕で庇いながらその場からは離れようとしない。
 おもしれ。
「クリストファー様、何時までも子供で遊んでないで下さい。」
 サーラに怒られてしまった。

「あ、言い忘れてたけどお前、今日から家の子ね」
セイレンは俺の目を見ると、困っている。

 あぁ。
「別に親子になろうとは思わんよ、食う所と寝る所を提供するだけだ」
 そこまで言うとセイレンは「ありがとう……ございます」と声を絞り出す。
 こいつの口から発せられた、ありがとうがひどく嬉しくむず痒かったので髪の毛をくしゃくしゃにして頭を撫でてやった。

 家に着くとセイレンはイーラたちに寄って集って大歓迎された。
 俺に助けを求めるような視線を送られるが、俺はそいつらには敵わない。
 放置。頑張れ。

 うぉっ、泣き被ってやがる。
 こんなに可愛い|表情(かお) 出来るんじゃないか。
 罵ったことしか無い息子が、可愛くて仕方無い自分が恐い。


 強要していないのに、勉強しているらしい。
 気楽にやればいいのにと、一応伝えたら笑った。
 まあ、なんだな。
 こいつはこいつで居場所を作ろうとしてるんだろうな。
 字は読めるらしく、暇さえあれば書庫に籠ってやがる。

 んー。やっぱり今までの奴と違っていて気持ち悪いなあ、とも思うが。
……もしや、俺が親だったのが諸悪の根元なのか?
 俺か!
 そっか、良かったな、セイレン…
 何だろう、悲しくなってきた。

 さて。


 ラドスに細君がいたらしい。
 ラドスは俺が産まれた時から家職だった爺さんだったはずだが、今回はアルラとイーラの兄貴で、細君はサーラの姉らしい、が若いラドスの想像がまるでつかん。

 まあ、その細君が出産するに当たって家にいた。
 俺自身に記憶は無いんだが、俺が了承したらしい。
 三人のはずだった侍女が、四人に見えていたのはどうやら幻では無かったようだ。
 俺の親代わりにも等しいラドスだったのだから、細君の面倒を見ないわけにはいかないだろう。

 セイレンがその出産に立ち会いたいと言って来た。
 「許可は貰ったんだろう?なら、邪魔にならないようにすればいい」
 くっ、くっと何度も頷く姿は鶏に見えた。
 しかし、なんだな。
 なんだってそんなもん見たいんだろうね。
 これもまた変化の一端かと思うと無下にも出来ないか。
 「ま、頑張れや」
と、セイレンの髪の毛をくしゃくしゃにして頭を撫でてやった。

 しばらくすると女の子が生まれた。
 細君は難産で、命を落としたらしい。
 躊躇なく生まれた子を引き取る。
 そういえばラドスの娘はイーラだったなーとも思ったが若いのがもういることだし、腹括って俺の子にしようとミリアと名付けた。
 メアリが産んだ俺の娘。
 それにしても……まだメアリに会ってもないのに二人の子持ちになってしまった。

それでもまあ、|当たり《死ねる》 ならいっか。


◼️ 月朔

むせ返るような花の臭い。
空々しいシュクフク。
何となく見覚えのあるスチル。
居心地の悪い、足場。

 ああ、知ってる。
 この間撮った、何とかってゲームだ。
 何だって、俺はこんな夢を見てるんだ?
 入院なんてしたからか。
 普段は仕事の夢なんざ、見やしないのに。
 見や…してたのはいつの事か。
 俺は、いつからこなすだけの仕事をするようになったのか。
 夢?あった気もする。
 何だったけ…

 ああ、そうだ。
 役者になりたかった。
 舞台でも、映画でもいい。
 重厚な、存在感のあるそんな役者。
 食うために始めた声優で、うっかり人気なんか出てしまって、抜け出せなくなって。
 ちやほやされて、舞い上がって。
 でも、芝居は芝居。
 それなりに楽しんだが、熱は覚めた。

 チマチマと貯めた金が、そこそこの額になり、ちょっと休むかと、セーブしながら仕事してたら、あっという間に十年経っていた。
 何とかなるもんだな?と、思ったが、流石に金は尽きるし、お子さま向けの番組を見ていたやつらはいい年になり、俺を引っ張り出したがる。
 で、何で女子供のオモチャの仕事なんだよ。
 溜め息しか出ないが、金払いはいい。
 仕事だ、仕事。

 と、割りきろうとしていたが、気持ちは割りきれてなかったらしい。
 最近は何だな。
 芝居だけじゃなくて、イベントやらにも引っ張り出される。
 芝居をしない空間に、押し出される苦痛。
 そりゃ、倒れもするってもんだ。

 胃潰瘍、だと。
 ぽっかりと穴が胃に開いた。
 酒?タバコ?悪いか。

 イベント会場で気を失って、
 目覚めたら、シラナイ天井ってやつだ。
 年は取りたくないねー。

「[[rb:勢雄 祥匡 > せお よしまさ]]さん?」
 病院で喫煙室を探してうろうろしてたら、談話室があった、が禁煙。
 ったくよ。
 見れば…中学生か?
 あの、何とか言うゲームの影響か?
 ?

「あ、あたし、『だいこうかいものがたり』のキャプテンが大好きなんですぅ…」
 と、キラキラした目で言いやがる。
 ん?でも、
「お嬢ちゃん、生まれる前だろ?あれ」
 俺が日銭欲しさに初めて演った吹き替え。
 三十年は前だぞ?もっとかも知らんが。
 聞けば、母親の影響だと。
 いろいろ捲し立てられたが、半分以上聞き流してしまった。

「イベントで倒れられたのですよね。すいません、長話してしまって。クリス様も大好きです!」
 と、言うと彼女は器用に車イスを回して出ていった。
 ああ、何とか云うゲームキャラ、クリスって、言ったっけ?
 チャラチャラした、灰色の頭した男。
 二人も子供がいる男を恋愛対象にするとか、世の中わからんわ。
 
 ……タバコ吸いてえ…
「ダメですよ?」
 声にしてたのか?回診のナース…て、言っちゃいかんのか、めんどくせぇ。
 看護師が言う。
「お仕事的にも、タバコは良くないと思いますけど?」
 しゃらくせぇ。
「そうですけどね、止められなくて」
 営業用の顔で答えると、看護師は吹き出した。
「胃潰瘍で入院してるんですから、ストレス溜めるようなコトしなくていいですよ」
 見透かされていたらしい。
 
「入院とか、退屈極まりないな」
「ゲームでもします?【デイムメイカー】とか」
「なんだそりゃ?」
「……ご自分が出演されてたゲームですよ。そのイベントで倒れたんじゃないですか」
「だっけ?」
 看護師が大きく溜め息をついた。
「いろいろあるとは思いますけどね……ご自愛ください」
 そう言うと、病室から出ていった。

 【デイムメイカー】……ねえ?
 とは言え、俺はちょい役だ。
 個別で録音するゲームじゃ、全体の話なんざ、把握出来るかってんだ。
 俺がゲームの録音に偏見があるのはこの辺だ。
 言葉だけを話す。
 そこにある感情は、芝居は、果たしてホンモノなのか?
 それにしても、腹へった。
 タバコ吸いてえ。
 酒、呑みてえ。


「クリス様の子供は一人ですよ?」
 件の中学生…と思ったら、高校生だった。
 杉田 弥依(みい)と言うらしい。
 談話室でちょいちょい会うようになって、暇潰しに話すようになっていた。
 
 なんでも、入学式の朝に骨折して入院したらしい。
 気の毒なこって。
 その上、還暦近いオッサンの相手までしてくれるとは。

「?チャラチャラした灰色の髪の兄貴と、出来のいい妹じゃなかったか?」
 設定くらいは知ってるぞ?
 記憶の彼方だが。
 呆気にとられてる?と、廊下に向かって嬢ちゃんが声をあげる。
「それ…あ!志山さん!!良いところに!!」
 と、看護師を呼び止める。
「杉田さん、院内ではお静かに…と、勢雄さん?どっちがナンパしたの?」
「あたし。や、それより、勢雄さん、おかしい!」
 なんだと?
「杉田さん、目上の方に失礼ですよ?」
「だって!クリス様に子供が二人って!セイレン様を銀髪って!!」
 看護師と小娘は異なものを見る目で俺を見る。
「なんか、違ったか?直近の仕事はそれしかしてないから、確かだと思うが?」

「ゲームでのセイレン様は、赤い髪です」
 ?ああ、そうか。
 キャラ表はそうだっけ。
 でも、灰色ってか、白い頭の方がしっくりしてる。
「分岐とか、別シナリオとかじゃねえの?
 あったっけ?声なしかも知れんし」

「それ…別シナリオって言うか…」
 小娘が言う。
「別世界…」
 看護師が言う。

 なに言ってるんだ?


◆ 水端

 セイレンは手の掛らない子だし、
 それに輪を掛けてミリアには手が掛からない。

 余りの大人しさに耳が聴こえないのではないかと心配したが、こちらの声には反応があったし医者にも問題無しと言われた。

 俺はミリアの泣き声を聞いたことがない。

 確かに昼間は仕事で家には居ないが、メイドたちも聞いたことがない、と言う。
 セイレンが始終構っていて、どんな悪戯を仕掛けてもきゃっきゃっしている。

 立ち上がって、歩き出すと可愛さは倍増した。

 髪の毛が薄いのが気掛かりではあるが、それ以上に気になったのは銀髪だ。

 セイレンもミリアも俺と血は繋がっていないのに、まるで親子のような見た目。

 かつては、俺の子だった二人。

 ミリアがメアリから産まれてくる筈だった娘としたら、次期に死ぬのか?
 あれは何時だった?

 仕事から帰ると何者かに庭で殺されていたミリア。

 始終目を離さないメイド達に気付かれないように連れ出す事は可能なのか?
 俺はメアリが死んで捨鉢になっていたこともあって、ミリアの死の真相まで気が回らなかった。

 しかし、冷静になって考えれば、セイレン以外考えられない。

 思い出せ!セイレンとミリアの関係性はどうだった?


 目の前に、血塗れのミリアを抱いたセイレンが立っている。

 セイレンを学校に入れようと、下見を兼ねた試験に連れ出した日の事だ。

 離れて暮らせば、殺す隙が無いのではという下手な考えからだったが。
 セイレンを車から先に下ろし、駐車してくる間に何が起こったんだ?

 なす術もなく、ミリアを抱き抱えるだけで、朦朧とするセイレン。

 玄関から中の者へ大声を出す。
「イーラ!アルラ!サーラ!誰かミリアの止血を!医者は俺が連れてくる!」
 そういうと、アルラが真っ先に駆け付けてきた。

 セイレンからミリアを奪い取りアルラに渡す。
「頼んだぞ」
 アルラに告げ俺は車へと玄関を出た。

 茫然と立ち尽くすセイレンを慮ることなど出来なかった。

 引き摺るように連れてきた医者に治療をさせる。
 ミリアは怪我からの発熱で小さい体を震わせている。

 玄関で固まっていたセイレンは、俺が医者を呼んでくる間にイーラが部屋へ連れていこうとしたが、ミリアの部屋の前に蹲って動こうとしない。

 動き回るメイド達の動線の邪魔にならないようにしているのは無意識の配慮なんだろうか。

 慌てて頭に血が昇ってしたとはいえまだ七つの子を疑った上、邪魔者扱いしたことを俺は悔いた。

 しかし、セイレンの目は俺を、いや何も映していないし、誰の声も届かない。

 放心状態のセイレンは、服を血塗れにしたままミリアの傍らから微動だしようとしなかった。

 明け方頃、ミリアの手を握り朦朧としていたセイレンを、何とか離し部屋へ運び着替えをさせた、とイーラから報告があった。

 部屋に運ばれてからと云うものセイレンは閉じ籠って食事さえ出てこない。

 ったく、誰だよ、部屋に鍵取り付けたの!
 俺だよ!
 いずれ来るお年頃の時を思って取り付けといてやったんだよ!
 悪いか!

 何で部屋にバス・トイレ付いてんだよー!
 それも、俺だよー!
 いずれ来る…以下同文。

 くっそ…何やってんだ、俺!
 俺はセイレンに謝らせても貰えなかった。

 三日三晩ミリアは熱に冒されていた。

 四日目の朝、目を醒ましたミリアは額に大きな繃帯が貼られているものの、すりおろし林檎を口にしながら、健気にも俺に向かって笑顔で手を延ばす。

「良かった、良かったな」
 泣きそうになりながらミリアを抱きしめる。
 じっーと俺の顔…目か?見詰めて何かを確認しているようだ。

「にー…」
 と、か細い声を出し辺りを見回す。

「セイレンか?なあ、ミリア、ちょっと協力してくれないかな」
 そう言うと、こくんと頷く。

 頷くって、君まだ十ヶ月じゃなかったですっけ?

「ミリアが目を醒ましたよ」

 ミリアを腕に抱いて、部屋の前でそう言うと、周章てて扉へと駆け寄ってきた音がして止まる。

 ?何故開けない?
 扉の向こう側から微かに何か聞こえたその時、ミリアはその身を乗り出し、扉に向かってにーにーと叫んでいる。

「み、ミリア、危ないから!」

 部屋の中の異常を察しているかのようだ。
 いや、察しているのか?

 漸く開いた扉に向かってミリアは飛び出す。

 上手いことセイレンが受け取ってくれて良かったが、彼はその衝撃で床に尻を着いていた。

 セイレンの胸にミリアは引っ付いて、それを見たセイレンはやっと俺の顔を見る。

「……ご免」
「いや、俺が悪かった」
 セイレンが言い終わる前に言葉を被せる。
「もう、いいから」
 と、頭を撫でると小さなミリアの体に頭を埋めて静かに泣き出した、かと思ったら寝てる。

 俺はミリア毎セイレンを抱き抱えて、ベッドに運んで一緒に寝かせた。

 セイレンとミリアの仲は良好だろう、と結論付ける。

 ミリア三才、セイレンは十才になり学校へ入った。

 ミリアは聡く、奇妙な子になった。

 寝てるか本を読んでいるか奇っ怪な動きをしているらしい。メイド談。

 だからというわけではないが、遊び相手を見繕ってやった。

 町の子だか急に字が読めるようになったと言う話を聞いて、聡い子ならば話し相手に位なればと思った。

 だが、この子は。

「ラウノ君だね。家のミリアは三才何だか最近知識欲が旺盛でね。是非一緒に学んで貰いたいんだか…」
「はいっ!勿論です!」

 この子は、セイレンに殺される子ではないか?

 実際、ラウノが家には来たのは実質半日だった。

 ミリアとは上手くやっていて、書庫に籠って二人で話していたと言う。

 けれど。
 セイレンは手に掛けた。
 俺も見ていた前で、その少年は消えた。
 俺は、俺が繰り返す時もこんな風に消えているのか?という気がした。

 人を自分の手で殺めたことに、茫然と立ち尽くすセイレンを抱き締めてやることしか出来なかった。

 メアリには一向に出会える気配はないのに、マーリアが現れた。

 セイレンを追っかけ回し、時に結婚する娘。
 この前、俺が結婚式を挙げた娘だ。

 まあ、いい。
 “前”と“今”は繋がらない。

 この女、今回はミリアを殺そうとしやがった。
 何かに操られているように焦点が定まらない目で、ぶつぶつ呟いていやがる。

 俺より先に、セイレンが動いた。
 けれど、手を下すことは出来ないらしい。
 何となく分かった。
 こいつは“鍵”だ。
 俺はセイレンを止めた。


 それから間も無くして、セイレンとミリアは結婚することになった。
 収まる所に収まったと言うことだろう。

 俺は三十五才になっていた。

 そう言えば久し振りにこの年になったな。
 今回は十八からだから長かったなーなんて染々しちまった。

 セイレンが吃驚するくらい腑抜けだから、一層の事ミリアを掻っ攫おうかとも思ったがそうは行かなかった。

 俺はこの後どれくらいこいつらと居られるんだろう。

 今回は、セイレンもミリアも変わっていて面白かったな。


──そうして、

 ミリアが産まれた子にメアリと名付けた。
 俺は別に何も言ってない。
 ミリアに聞いたら、何となく頭に浮かんだそうだ。

 まさか、な。

「じぃ!」
 屈託なく幼いメアリが俺を呼ぶ。

 おいおい、俺まだ四十だぞ。
 じじぃ呼ばわりさせんなや。

「ク・リ・ス」
 名前で呼ばせようとする。

「何、言ってるですか、(じじぃ)じゃないですか」

 セイレン、酷くないか。

 けど、俺は味わった事の無い充実感に浸っていた。


◼️ 鏡貝

「スーラって、知ってたりします?」

 嬢ちゃんが切り出した、談話室での会話。
 聞き覚えがあるような、ないような名前に頭を捻る。

 正確には。
 聞き覚えはある。
 が、見覚えがない。
 文字で、見覚えがないのだ。
 けれど、

「……召し使いだ」
 溢した言葉に、またしても嬢ちゃんと看護師が目を合わせる。
「「……あっちだ」」
「あっち?」

 嬢ちゃんはスマホを操作して、ゲームの公式ページを見せてきた。
 資料として渡されていた、見覚えのあるもの。

「え?何このページ?」
 看護師が素頓狂な声を上げる。
「セイレン様を攻略すると、クリス家…じゃなくて、メルクリオス一家の特別ページをみられるパスワードが出るんですよ…志山さん、まだ、攻略できないんですか?」
「…ぐっ、こちとら|遊びに《イベント》行ったら出演者が目の前で血吐いて倒れるから、処置したり、セイレン様の相手したり、外科にヘルプ行ったりして忙しいのよ!ゲームばっかりやってらんないの!」

……イベントで、吐血。
 耳が痛い。
「その節は迷惑かけたな。有難う」
と、せめてものサービスを気取ってキャラ寄りの声で詫びを入れる。

…何故、嬢ちゃんの方が感極まっている?
「勢雄さん…!しゅき…!!」
「「オッサンなのに?」」
「志山さん!ひどい!勢雄さん!自分の事を卑下しない!良いものは良いんです!!」
 
 俺にこんなファンがいるとは知らなんだ。
「本人の前で言うな!小っ恥ずかしい」
「あ、私ここで遊んでられないのよ。午後からオペあるのよ。もういくね」
 看護師の方はさっさと談話室を去っていく。
「またね~」

「で?あっちてなんだ?」
 看護師を見送る嬢ちゃんに問う。

「……それ、聞いちゃいます?信じられない話なんですけど」
「?なんだ?ゲームにでも入ったか?」

「うお!いきなり確信!全然オッサンじゃないないですか」
「流行りだろ?そういう話」

「あたしですね。入学式の朝に骨折して入院したんですよ」
「ん?てことは、10日位前か?俺が運ばれた2日前?」

「ですね。で、ボルトが細くて長いらしくて、特注だったんですよ。それで、すぐ手術はムリって言われて、月曜日まで──3日放置でした」
「あー……日曜挟んでたか。そりゃ仕方ないな」

「で、その3日間を、あたしはクリス様攻略に捧げたわけですよ。打倒・クリス様!って」

「……格闘ゲームだったか?」
「乙女ゲーですけど!?」
「…………」

「で、無事クリス様を射止めたのが日曜日の夕方。長かった、苦しかった…!」
「日曜の?夕方?」
「と、同時に明日の手術に向けての絶食が始まったわけです」
「俺が血、吐いた頃か?なんとも奇妙な偶然だな」

「運命ですかね」
「…お前、オッサンと運命で嬉しいか?」
「瀬尾さんなら」
「止めとけ」
 ったく、この小娘は屈託無くスキスキいいやがる。
 勘違い野郎に食われるぞ?

「ま、それでスーラです」
「あ、はい」
「スーラって多分あたしなんですよ。……ですよね、痛い子ちゃんですよね。分かります」
「あ…いや、じゃあ、君は?」

「あたしの子…の、為に整えた世界じゃないかと思うんですよ……だから!痛い子に見えるのは分かりますって!あたしがそう思うもんっ!」
「根拠は?」
と、見れば嬢ちゃんがみるみる赤くなる。
 さっきまでとは打ってかわって、話しにくそうだ。

 「あたし、子供どころか、男の子とも付き合ったことないのに」
「処女か」
「まーそーですけど!子供生んで死んだんですよ!!で、手術が終わってた!」
「夢?」
「切れかけかもですけどね。えらくリアルで、苦しくて、悲しくて」

「…難産…だったからか…?」
「ですね。生まれてしばらく、産声が聞こえなかったし。でも…お乳をあげた時の、なんかほっとするような…安心感?で、夢の中で意識失っちゃった」

 召し使いの難産。
「見学する子供」
「ええ、セイレン様が見学されました。自分の物の様に愛しげにされてましたね」
「なんだ?俺もその夢を見たって事なのか?」
「それは知りません。あれがなんだったかなんて分かりません。でも、志山さん、セイレン様に会ったらしいです」

「はい?」
 随分と間抜けな声が出た。
 会った?

「ここに…あたしが生んだ子がいたみたいです。セイレン様が迎えに来たって」

 言葉が見つからない。
 迎え?てことは?
「その子は…?」
「亡くなったらしいです。志山さんが担当してて。木曜の朝、だったかな?」

「あ、ああそのくらいに誰か亡くなったって噂してたかな?そっか…」
「信じるんです?」
「嘘なのか?」

「…正直、わかんないです。夢なのか、現実なのか…あたしには…そりゃ良いことばっかりじゃないけど、ここじゃない何処かへ行ってまで叶えたい何かは無いし」

「若いな。良いんじゃないか?どっかで叶えても嬢ちゃんの“夢”じゃないって事だろ?」

「そう!生きてれば、こうして勢雄さんとお話も出来るわけですしね!ただ、夢のような世界とはいえ、お乳をあげた子が幸せなら良いなぁて、思うのですよ」

 うんと、集中してみる。
 あれは、多分痛みの中で見ていた情景だ。
 どこまで見た?

「召し使いが生んだ子。俺が名前つけて、育てて…怪我して、泣かなくて…ああ、何か凄い仲良い兄妹だった気がする、ぞ?」
 いろいろ端折って伝える。
 兄の方が殺しとか言わんでも良いだろ。

「なら、志山さんも殺された甲斐があるってもんです」
「殺されたって…あ、あの少年?!」
「ん。志山さん、あたしが手術した日にあっちで殺されたんですって。ま、それはそれでゲーム通りなんだけど」
「はあ…だから、消えたのか…因果ってやつなのかね?」
「どうなんですかねー。て、勢雄さんもあっち行ってたんですかね?」

「俺のは、見てたって感じかな?クリスの目線で追ってただけだ。だから、資料で見たのか、イベントの一貫なのか、……夢、なのか。自信がなかった」

「ちゃんとお仕事してくださいねーあー!イベント!!行きたかったな!」
「俺が口きけるやつなら、サインくらいもらってやるぞ?」

 ……なぜ、睨む?
「だーかーらー!言ってるじゃないですか!あたしはクリス様推しで、勢雄さん推しなんです!て!!」

……そうだな。最初から言ってたな。
「有難うな。もうちょっと頑張って仕事してみるか」
「胃潰瘍になるくらいなら、ムリに人前に出なくても良いじゃないですか?そりゃ、歌ってくれたら嬉しいけど」

「老体に無茶言うな。ま、徐々にな」
「やた!あたし勢雄さんの歌、好きです!」
「……お前、いくつだよ」
「十五歳ですよ?」

………子供…孫でも、おかしくないぞ?
「あ!リハビリ行かなきゃ!じゃ!またおしゃべりしましょ?」
「ああ、またな」

 奇妙な縁だな、と思うが、
 人生、そんなことがあるのもまた一興。

 一筋縄でいかないなんて
 役者冥利に尽きるってもんだ。


◆ 花客

「クリス」

 甘い少女の声と、指が頬を撫でる感触で、微睡みから覚醒する。
「…ん」

「お・じ・い・ち・ゃ・ん」
 酷い。

 メアリは俺を誘惑する。
 齢十五の小娘に翻弄される。
「とーちゃんに叱られるぞ」
 と、ぷっーと頬を膨らます。
 尽かさず、頬に指を差し空気を抜く。

 ソファーに横になっている俺の上に子供のように横たわるメアリ。
 俺はお前の揺り篭か?

「十五にもなった淑女(レデイ)の格好じゃねえな」
「クリスこそ五十(紳士)の言葉遣いじゃなくってよ」
「悪いな。こちとらずっーとこの言葉遣いでな」

 なんせ百年ものだせ。
 ………自分で云って気持ち悪くなった…
 恐っ、百年生きてんのか、俺。

「あたしも、ずっーとここを探してたのよ」
 え?目を瞠る。

「なーんてね」
 冗談かよ。

「はぁ、爺誂ってんじゃねーよ」
「爺ぶってんじゃ無いわよ…」

 唇に唇を重ねてくる。
 触れるだけの接吻。

「………で、どうすんだ?」
「お嫁さんにして」
「馬鹿か」
「即答しなくても」

 あのな、お前の親父はいくら腑抜けてても、どっからともなくナイフ出す奴なんだぞって言ってやりたい…。

 俺はもう、いい加減死んだって良いけど。
 俺が死んだらお前が泣くだろ?

 ……いつの間にか馬乗りになってやがる。
「爺誘惑してんじゃねーよ…」
「誘惑されないくせに、糞爺」

 俺が居なくなったらお前が泣くだろ?

 今まで俺は、俺が居なくなった後の事なんか考えたことは無かった。

 巻き戻ってしまった自分に手一杯だったし、なにより戻るときは大体セイレンがあの少年―――ラウノを殺した時だった。

 違う時も何度かあったが、(とび)出したセイレンを探し回って、不良になったあいつに手を焼いて、家が大変なことになって……ま、そんな調子だ。


 ぺちっ。
 両頬を挟まれる。
 目の前には今にも泣き出しそうなメアリ。
 こいつ、まだ馬乗りのままか。
 腹の上に乗っかられてるのに重さを感じてなかった。

「何で、真剣な話してるときに上の空なのよぉ…」
「真剣な話?」
「…ひっ」

 必死で涙が零れるのを堪えているようだ。
 服の袖で顔を拭う。

 何か今のセイレンの餓鬼の時みてーだな。
 良く似た親子だ。

 涙を見せまいとして、一頻り袖で顔を拭うと、現れた顔は目と目の回りが真っ赤になってる。

 するとその両手で、今度は俺のシャツの襟ぐりを掴み、唇を落としてくる。

 はあ、どうすっかな。

 俺は口付けたままで、メアリの後頭を片手で押さえ込み、もう片方の手で下顎を押し口を開かせ舌を捩じ込む。

 ばたつくメアリを注視しながら、舌を動かす。

 突然の俺からの反撃に胸を拳で叩き抵抗としているが続けてやる。

 只管、舌で舐ってやると、メアリの息が絶え絶えになり、胸を叩く拳に力が入らなくなった。

 そこで漸く口を離し、頭を押さえ込んだ手を外してやる。
「続けるか?」

 馬乗りの姿勢で俺を見下ろしながら、それでも泣くまいとして口を小手で押さえ込み、息を整えようとしているメアリの荒い息遣いだけが響く。

「どうすんだ?」
 メアリは、まだ息切れたまま力無く俺の襟ぐりを掴もうと指を伸ばそうとしている。

 はあ。やんぞ、とも思うがそうはいくまいよ。

 止めを差すべく片手を胸に伸ばし乱暴に掴んでやる。

 その痛みと驚きに体が退いた瞬間、メアリの腰を抱え上げ俺から下ろす。

「やんねーよ」
「…っ!」

「爺で遊んでんじゃねーよ」
「く、糞爺!」

 メアリはとうとう堪えきれず、ぼろぼろと涙を溢しながら部屋を出ていった。

 これじゃ達の悪い破落戸だ。
 そうは思うが、そのまんまソファーで目を閉じた。


「で、お父様が頑なにメアリを拒む理由はなんなのかしら?」

 午睡(ひるね)を邪魔するのはお前ら親子の趣味なのか?

「年だろうよ。お前は愛娘が四十近くも年上の爺に手篭めにされて平気なのか?」
「アイガアレバトシノサナンテ」

 あ、こりゃ、だから何?の時のミリアだ。

 産まれたときからの付き合いだか、こいつの捌けっぷりは未だ謎だ。

 俺と血の繋がりが無いって解っときも、そう、で?位のもんだった。

「流石に手篭めはどうかですけど、あの子は本気ですよ?」
「本気なら何やってもいいってもんでも無かろうよ。いずれ泣くのは目に見えてる」

「既に泣かせてるではないですか」
 ぐっ、痛いところを突く。

「お父様が先に死ぬからですか?」
 二段突きかよ。

「それも……そういうことにしとけや」
「わたしは四十も下のセイレンと幸せですよ」

 ──はい?言葉にならず、嘸や阿呆面をしていることに自信がある。

 ミリアは俺を見据えてただ微笑んでいる。
 ?どう言うことだ?

「……いや、何でもない」
 突っ込んで聞けば俺の事を話さなきゃいけない。

 話の真偽もだか、メンドくさいが先立つ。
「お父様の秘密を聞かせてください」
 じっーっと俺を見据えてくる。
「……はぁあ」
 こうなったら腹を括るしかねーか。


「“繰り返す”ですか…」
 俺はソファーに寝転んだまんま、他人事のように物語った。
 信じて貰おうなんてこれっぽっちも思ってない。

 突拍子のない嘘を付いてても、メアリを相手にしたくないと取られれば本望だ。
 横目でミリアを見ると何だか考え込んでいる。

「この間はマーリアと結婚式してたな」

 ほら、妄想爺の戯言だ、とばかりに吐露する。

「結婚“式”?」
 マーリアじゃなくて、そっちが引っ掛かるのか、流石ミリアだな。

「マーリアは白いドレス姿でベールをして、花束持ってたりしました?」

 ミリアの質問に俺は身を起こす。
「なんでそれを…」

「繰り返しの時はセイレンは赤い髪だったり、わたしが死んでいたり、マーリアが居なかったりしたのではないですか?」
 ミリアの言葉に度胆を抜かれる。

「お前も繰り返してるのか!」
 すると、ミリアは首を横に降る。
「わたしのはそれとは違います」

 ミリアの話は俺より突拍子無かった。
 言ってることの半分は解らなかったと言っても過言ではあるまい。

「その生まれ変わりとやらは俺の繰り返しとは違うのか?」
「お父様は、お父様のまま、体は若いお父様になるんですよね?」
「ああ、そうだな」

「わたしのは別の世界の人間(五十才)が、この世界に赤ん坊として産まれたんです」
 馬鹿な…と言おうとしたが。

「じゃあ赤ん坊の時泣かなかっのは…」
「喧しいですし、別に主張して手を煩わせることもないかと。メイドたちは働き者で、直ぐに察してくれていましたし」

「怪我の時、にーにー言ってたのは…」
「あの時、セイレン可怪しかったでしょう?周章てたんです」
 合点はいく。
 妙に冷静な餓鬼かと思えば。

「婆か」
 おもきし頬を叩かれた。


 だからと言って、はいそーですか、と喰うわけにはいかんだろ。

 十五の小娘だぞ。

「まだ、駄目ですか」
 最近、メアリは俺の腹の上に馬乗りするのが趣味らしい。

「もうちっと、乳がでかくなってから出直してこい」
「クリスがでかくすると言うのは?」
「俺は板には興味がない」
 ぐぅぅっと、睨み付けられる。

 と。
「いてっ!」
 こいつ、唇を噛みつきやがった。
「いつか、クリスから懇願させてやる!」
「おお、頑張れや」


 こんな緩やかな日々が送れるなんて思っていなかったから、これはこれで幸せなんだけどな。

 日に日にメアリに似てくるメアリが、二十歳になった時、俺が元気なら懇願してみるのもいいかもな?

🔲 alfiksita 流行歳差戦碌(アイガアレバトシノサナンテ)

◆ 転義

 今でも覚えている。
 三つの時。
 ――キラキラした銀色の髪と、鮮やかな緑の眼に恋焦がれた。

 私――メアリ・メルクリオスはクリストファー・メルクリオスに、十七年物の一方的な想いを抉らせている。

 それが喩え子犬扱いであろうと、
 私は、私がクリスの視界にあるのならば至福だ。

 ――本当に犬だな。
 埋める術のない年齢差は、三十七。
 血の繋がりは無いけれど、端から見る関係は、祖父と孫。
 隣に並び寄り添いたい、なんて大それた夢だ。
 クリスの関心が、私から無くなる方がよっぽど恐ろしい。

 両親はこの()を、早々に察知していた。

 母は極めて寛容で、『父様(クリス)にも色々思うところがあるのよ。頑張れ』と仰る。

 父は頭ごなしに反対はしないけれど、だからと言って諸手を挙げて賛成でもないらしく、『あいつは碌でもないぞ』と仰る。

 この両親は何かずれている気がする。


 だからと言うわけでもないが、十五まではせっせとクリスにちょっかい出しては煙に巻かれていた。

 幼い時に遊戯室として使っていた陽当たりの良い部屋は、いつの頃からか専らクリスの午睡部屋と化していて、ソファーで横になっているクリスを見付けると上に乗っかって接吻(くちづけ)る。

 別に十五の小娘が色艶で陥落出来るなんて毛頭思ってもない。

 そんな簡単に堕ちる人ならばこんなにも抉らせてはいない。

 ただ、貴方を想っているのだと、刻みつけたかった。

 深く、深く刻み付けることが出来ればいいと浅はかなケツの青い|小娘()は考えた。

「どーすんだ」
 軽く口付けた筈なのに、口内を掻き回すように変わっていた接吻から引き離され、脅すように掴まれた胸は痛みより期待が増していたけれど、至って冷静で冷酷な位の緑の眼が言葉を紡ぐ。

「やんねーよ」
 自分の意思とは関わり無くかってに流れ出る涙は知られたくなくても、ただクリスを想っている事を知ってもらいたかった。
 深く、ただ深く。


 ――クリスとは三十七離れている。
 言葉にするとぐっと来るな。

 綺麗な見てくれと相反する蓮葉な物言い……と言うか一介の責任者とは思えぬ雑な言葉遣い。

『昔は丁寧な人だったのにねえ……何時からああなったかしら?』と言う母。

『割と昔からあんなだよ。ミリアの前でだけ穏和を装っていた』と言う父。


 父も母も、クリスとは全く血が繋がっていないのに、驚くほど外見がよく似ている。

 クリスが十八の時、成り行きで引き取ったんだと言う。

 寧ろ、銀髪、緑眼の両親から生まれた私の方が黒髪で黒目で他人のようだ。

 不思議な気はするけど、父も母も、クリスも私の事を愛してくれているのは知っている。


 その黒髪を、クリスが愛しげな眼を向けて指で梳る事がある。

 ――ねぇ?、クリス?
 私に、誰を重ねているの?
 クリスは、一体誰を見ているの?

 その事に気がついた十六の時、戯れるのを止めた。


 クリスは決して純朴と言うわけではなく、それなりに女性との逢瀬を楽しんでいるのは同じ家にいれば厭でも目に入る。

 まあ、言葉遣いさえ気を付ければ見てくれは良いし、付き合いってものもあるのだろうし…………身中は決して穏やかではないけれど、けれど引き留める為の我儘も言えず、自信のない嫉妬をもて余した。

『仕方ないわよね、貴女はまだ小さいし。たまには発散させなきゃ老けるわよ』……母……。

『拗らせるとセイレンみたいになるし』……セイレンって貴女の夫の事ですよね?拗らせてる?

『拗らせていない!僕はミリアを愛してるだけだ!』
 ……私、夫婦(両親)の惚気に付き合わされてます?


「――ねぇ、クリス。貴方が私の中に見ているのは誰?」
 三年ぶりに午睡中のクリスを襲撃してみる。

「お?久し振りだな。諦めたんじゃなかったのか?」
 まっすぐに私を映す眼に驚きを隠せない。

「ねぇ、貴方は誰を見ているの?」
「俺の目の前にはメアリしか居るまいよ」
 瞬きもせず、食入るように見詰め合う。

「それは、(メアリ)?」
 私の髪を櫛梳る。

「ああ、お前(メアリ)だ」
「……それで、いいわ」
 クリスのシャツの襟を掴み、唇を落とす。
 いつかしてくれた、深い接吻。
 
「……やんのか?」
「…やりたい」
 ふと、眼を反らされる。

「……無理だ」
 黒い、沸々としたものが心臓から涌き出て脳を支配する。
 起き上がろうとするクリスを押さえ込み、唇を噛む。

「……なんで、なんで真面目に答えるのよ!いつもみたいに茶化してよ!なんで……!」

 私はクリスから離れられず、クリスにしがみついて訳の分からない涙を流し続けた。

 涙を拭うクリスは、冷静そのものだ。
 穏やかに、言い訳も慰めもせず、私の涙を指で拭う。


 不意に伸びたクリスの手が、私の頭を胸へと抱きしめる。

「……すまねーな…」
 頭の上から微かに聞こえた。


◆ 流涕

 その日から何もする気が起きず、ぼっーとして過ごした。

 仕事に行けばクリスに会ってしまう。

 母様一人に仕事をさせてしまうことに罪悪感はあったけれど、今の私は行っても邪魔なだけだ。

「大丈夫、セイレンにさせるから。ゆっくりなさい」
 と、言う母に甘えてしまう。

 家族で仕事をしているのは良くも悪くもある、と思った。


「何やってんだ、おめー」
 この口の悪さは……。

「ん、さぼってるの」
 ずかずかと部屋に入ってきたクリスに当然のように答える。

「腹でも壊したか?」
「クリスの顔、見たくないだけ」

 ソファーを背に床に座り込んでいた私は、クッションに顔を埋める。

「そいつは嫌われたもんだな」
「そうよ、……嫌いよ。嫌い……に、なれたら……!どんなに……」

 クッションに顔は埋めたま、言葉に詰まる。
 散々泣いた筈なのに、まだ涙が出る。

「そっかあ……」
 そう言うと、クリスは部屋を出ていった。
 扉が閉まる音がする。


「何しに来たんだ?」
 漸く顔を挙げると、ソファーの上に見慣れない白い布……ドレス?
 でも、真っ白て。
 これはなんだろう?

「これはね、ウエディングドレスて言うのよ」

 あ、母様、いつの間に。
「ウエディングドレス?」
「この世界には結婚式が存在しないから馴染みはないけど、結婚のお祝いで着るドレスよ」

 …この世界?結婚《《式》》?
 知らない言葉に混乱しかしないけれど……。

「私は、結婚するの?」
「さあ、着付けてあげる」
 と、母は私にドレスを広げて見せた。

 母に白いドレスを着せられ、お化粧をされ、頭にベールを掛けられる。

 な、なに?て言うか、まず誰と結婚するの?

 聞かされないまま、遊戯室へと引っ張られる。

「本当は神様の前で愛を誓うのだけど、神様は居ないから、セイレンに誓ってね」

 カミサマって何!
 父様に何を誓うの!

 遊戯室の扉を開けると、メイドたちが居て、不服そうな顔をした父様と、白い服のクリスが居た。

「ねぇ、何なの、これは」
「結婚《《式》》だ」
 そう言うと、クリスは私に手を差し伸べた。

 二人して、父様の前に並ぶ。

「些か、不本意ではあるけれどね」
 未だに何が起こっているのか分からない私への説明は無いのですか?
「幸せになりなさい」

 え?
「クリストファー・メルクリオス。貴方はいかなる時もメアリ・メルクリオスを妻とし共に生き、一生何不自由なく下僕のように付き従え」

「何か、違わねーか?……まあ、いっか。あぁ、いつか別れが来るときまで一緒にいよう」

 へ?
「メアリ・メルクリオス。貴女はいついかなる時もクリス・メルクリオスを夫とし、あ、愛せるのか?」

「え?え?」
 何をしてるのか、何を言ってるのか分からない。

「クリストファー、駄目だってよ」
 さっきまで、粛々とカードを読んでいた父様がクリスを小馬鹿にしている。

「セイレン!いい加減、覚悟なさい」
「取り敢えず、頷いとけや」
「あ、はい」

 だから!これ何!
 見上げると、幼い頃には見ていたクリスの柔らかい微笑み。
 見蕩れる間も無く、肩を引き寄せられ、額に唇が触れる。

 父様や母様、メイドたちが盛んに何か言ってるのは分かるけど、言葉になって耳に届かない。

 ただ、クリスに触れられた、額と肩がやけに熱い。

 肩は抱かれ、手を取られている。
 私の手をクリスは自分の口許へと運び手の甲に唇を落とす。
「待たせたな」


「で、結婚は分かりましたけど、この格好はなんですか?」

 一頻りお祝いの言葉を頂き場が落ち着いたのでクリスに聞く。

「まあ、上書き?確認?試験?研究…検査………詳しくはミリアに聞け」
 やった本人だろうにはっきりしない。

 母様の方を見れば、いつもの微笑み。
「取り敢えず、酒盛りしましょう」

 何で?
「素面で聞いても訳分かんないわよ」


 私とクリスは楽な格好に着替えて、父様たちに合流した。

 遊戯室はさっきの集まりで清掃中だから、食堂で。

 母はいつものお酒を舐めている。
 クリスと父はワイン。
 私は母様お手製のサングリアワイン。

「さて、何から聞きたい?」
 と、母様。

「先程の一連の流れですか。何故こんなことになっているのかお聞かせ願いたいものですが」
 と、クリスを睨む。

「うぅむ…」
 悩んでる…振りだろ。

「どっから話すんだ?メンド……いや、えっーと」
「大体、クリスは私を捨てたんじゃないんですか!」
「何だって!」
 逸早く立ち上がって激昂しているのは父だ。

 母は我関せずでグラスに夢中だ。
 クリスはばつが悪そうにグラスを呷っている。

「……ああっ!もお!」
 クリスが吠えた。



 ……………………えっとぉ………………

 母様とクリスの長い話が終わった。

 クリスだけだったら、そんな法螺話までして誤魔化したいのか、となる内容だったけれど、母様と、そして父様までも真剣に話している。

「別の世界とか、繰り返しとか、生まれ変わりとか……俄には信じがたいのですが…クリスは兎も角、父様まで信じてらっしゃるのですか?」
 クリスは私の隣で不貞腐れた。

「信じるも信じないもお前の自由だ」
「僕は見て来たからね。別の世界とやらを」

「え?」

「全然こことは違う質感の人や建物。奇妙な器具に囲まれたミリア。死んだ筈の少年。夢だったのかも知れないけど。夢と言うにはその時に見せられたクリストファーの姿絵は今とそっくりだった」

「それで、いつ消えるかも知れないからメアリに手出しできなかったのよね?」

 母様が誂うように笑いながら、クリスのグラスにワインを注ぐ。

「そうなの?」
 まじまじとクリスの顔を覗くとやさぐれてる。

「それだけでもねーけどな」

「まあ、流石に年齢差もあったみたいだけどね!」
 と、けらけら笑いだしたよ、母様!


◆ 生意

「じゃ、後は二人で話しなさいね」

 父様は椅子から立ち上がると、母様を抱き抱えた。
 子供のような抱っこ。
 にゃふぅと、母は酔っ払って父にしがみついている。

 いざ、去ろうとした時に母様においでおいでされる。
 近寄ると。
「貴女は貴女」
 と言われた。

 残された私とクリスはなんとなく残ったグラスのお酒を舐めていた。
「俺らも行くか」
 何処にですか?な顔をしてクリスを見る。
 クリスは意地悪な笑みを浮かべると、顔を耳許に寄せ来た。

「分かってんのか?初夜だぞ」
 と、言ってきた。

 初夜?離された顔を眺める。
 大きな溜息をつくと、さっきの父様が母様にしたように、私を抱えあげた。

「ま、それ以外にもまだ話があるだろ」
 そう言って、私の唇の端へ唇を寄せる。

「続きは部屋でな」
 漸く、私の脳は言われたことを理解でき頭が沸騰する。

 クリスの緑の眼は小馬鹿にしている様だけど、だけど逆らう気はしなくて、私は頷くのが精一杯だった。


 連れてこられたのはクリスの部屋。
 当然だけど、初めて入る。

 扉を開けるとクリスの匂いがする。
 抱き抱えられてるのだから、その薫りにはずっと包まれているのだけど、より一層深くなる。

 部屋に入り、鍵を閉めたけれどまだ下ろしてくれない。

「ね、クリス。もういいよ?歩くよ?そもそも、母様みたいに酔っ払ってないし」
「いいから、抱えられとけ」
「……あ、はい」

 クスッて聞こえて、顔を見ると柔らかな微笑みのクリスに……不覚にも見蕩れてしまう。

 抱えられたま、もう一つの扉を開けるとそこは寝室。
 ベッドの上に座るように下ろされる。

「シャワー浴びてくるから待っとけ。あ、お前が先がいいか?」
「クリスが先に浴びなよ。私はその間に夜着を取ってくるから……てか、部屋でシャワーしてくるよ」

「馬鹿か。今日からここがお前の部屋だ」
 呆れたようにそう言うと、ベットの傍らの椅子に掛けてあった布を私に渡す。

「じゃ、暫く良い子で待ってな」
 手に渡された布は、上品な白い夜着。

 再沸騰する頭に展開が着いていかない。

 私、昼まで拗ねてたわよね?

 絶望に沈んでたよね?と、思い出したが遠い昔の事のようだ。

 それくらいクリスたちの話に、子供の嫉妬は何処かへ行った。

 微妙な違いで、繰り返される期間。
 違う人の意識を持ったまま、やり始める人生。

 ――こことは違う世界?

 私は、クリスたちに関わってもいいのか?

 夜着を握りしめながら答えの出ない思考に迷い混んでいた。

「お、お利口さんにしてたな。行ってこい」
 クリスが濡れた髪をタオルで乾かしながら戻って来た。

「俺が寝入る前にちゃんと戻ってこいよ」
 また、柔らかい微笑み。

「……うん」
 夜着を手におずおずとシャワーへ向かった。

 ―――私は貴方たちの重さを受け止められるのだろうか?

 それでも、逃げ出すと云う選択肢は端っから却下で、こうなった事を喜んでいる。

 シャワーを浴びると、少ししか呑んでなかった筈のお酒で、迷走していたらしい意識がはっきりし始める。

『貴女は貴女』

 そうだ、私は私だ。
 シャワーを止め、タオルで水気を取り夜着に袖を通す。

 なんだろう、私の好きな肌触りの夜着に、分かってるよなあと痛感し、自信を得られた。

 寝室に戻るとクリスはベットに座って本を読んでいた。

「眼鏡?」
 珍しい姿に思わず口にした。
 本を閉じ、眼鏡を取りナイトテーブルにそれらを置き、私に手を伸ばす。

「おいで」
 ベッドに近寄り、クリスの手を取ると子供のように足の間に座らせられる。

 上掛けを膝に掛けると後ろから抱きつかれて、クリスの顎が、肩に乗る。

「何から話す?」
 耳許でいつものクリスとは違う自信無さげな声に、私の心は冷静になる。

「何故、結婚《《式》》を?態々、私の知らないことをしなくても良かったのでは?」

 一瞬の沈黙の後、クリスは吐き出すように言った。

「前回の終わりが結婚《《式》》だったんだ」
 表情を変えずに、クリスの顔を見る。

「何も伝えない状態で、お祭り騒ぎの最中に消えちまうならそれでもいいし、《《式》》が終わったなら、それはそれで俺にとっては最良だ」
 他人事を話すように言う。

 上書きとか、確認とか、言っていたのを思い出す。

「前の《《式》》って誰としたの?」
「マーリアって女だ。お前が生まれる前、ミリアを殺そうとした女」

 後ろから胸の下で組まれていた腕に力が入った。

「それで、上書き?」

「ああ、そうだな。思えば変な流れではあったんだ。それまではセイレンばかりを追っかけてた女が、俺に近寄る。まるで酔っ払ったかのように身動きが取れない。結婚《《式》》だって、知らないはずなのに何の疑問も持たず受け入れる。俺は俺でない感じもしたが、終わるならそれでもいいかと思ったんだ」

 一気にそう言うと、一層腕に入る力が強まり、背中に顔が押し付けられる。
 震えている?

「俺でない俺で、終わらなくて良かったよ」
 髪の中に指が絡み、頭を固定され唇に触れるだけの接吻。

「ねぇ?貴方が消えてしまったら、私がどうなるかとかは考えなかったのかしら?」
「考えた。お前はまだ若いしやり直せばそれで良いと思った」

 何だか訳の分からない悔しさが沸き起こる。
 前に組まれたクリスの手に爪を立ててみる。

「けどさ。そんな事にお前の両親が手を貸すと思うか?」
 そうだ。あの母様が結果の知れない勝負をするとは思えない。
 父様が、私の嘆く事をするわけがない。

「ミリアが言うには、全てが変わってしまっているこの世界は、もうすでに別の世界だろうと言うことだ」
 母様が自信満々なのは分かるけど、話の意味は分からない。

「ま、俺にもよく分からん。分かるのはミリアが大丈夫って言うんならそうだろうって事だけだ」
 そうなんですね。
 何だか笑いが込み上げてきた。

「だよなー俺も大概と思ったが、ミリアも中々だからなー」
 私は体ごと振り返って、クリスの首の後ろで手を組む。

「ねぇ、今までにメアリはいた?」
 極上にクリスは微笑む。

「ああ、俺の妻だ」

 そう言うと、私の手を取り掌に口付けた。


◆ 生々

 向かい合って、クリスの足の間に膝立ちの姿勢をとる。
 クリスを見下ろす、私。

 掌に接吻したまま、私の顔を上目で見つめる眼に囚われる。

 目が離れない。

 ゆっくりと瞼を閉じ、長い睫毛が影を差す。
 じっと、私の掌を口に当てたままの姿勢。

 睫毛の作り出した影を、不思議な感覚で眺めていた。
 やがて、開かれた睫毛の間から緑の眼が私を映す。
 私が今まで知ることのなかった真摯な瞳。

 いや違う。

 私を拒絶したときの瞳とひどく似ていて少しばかりの恐怖を引き起こす。
 視線は少しも動かず、クリスの両手が私の頬を包み込む。

「もう逃げられねーぞ」
 いつもより低い声に耳が震える。
 力が抜けた私の体を、自分の方へ引き寄せ頬に口付ける。

「だから、もう泣くな」
 気付かないうちに私は涙を流していた。

「あれ?涙?私、いつから?」
 袖で涙を拭おうとすると、クリスの唇で阻まれる。

「ばぁか、擦れる。そのままでいろ」
 涙を拭くように、クリスの舌が涙を舐める。

「犬…」
「…るっせ…」
 それでも舐め取られていると、自然に唇と重なる。
 啄むように重ね合わせていた唇が、長く、深く重なる。

「胸、おっきくならなかったけど、いいの?」
 少し拗ねた様にそう言ってみる。
 
「本当に可哀相に」
 くすくすと笑いながら、胸に触れる。

「仕方ねーから、俺がおっきくしてやんよ」
「もぉ!」
 

 ふわっとクリスの体が離れ、見下ろされる。
「そーいや、いつもと逆の体勢だな」

 と言うと自分の着ていたローブを脱ぎ、姿態が現れる。
 年齢を感じさせない綺麗な躯。
 クリスが、その紅く潤んだ瞳で、上唇を舌で舐めた。
 
 何年も待ち望んだこの日。

 満ち足りた幸福感に浸り、眠りについた。



「いつまで寝てんだ?」
 目を覚ますと、濡れた髪で小洒張(こざっぱり)としたクリスがいた。

 朝日の中に微笑むクリスがいた。

「若いんだから、いつまでも寝てんじゃねーよ」
「爺!」

 笑いながら、抱き抱えられてる。

「体、大丈夫か?」
 さっきまでの悪戯小僧から一変した心配そうな面持ちで訊いてくる。

「…ん、大丈夫…多分」
「なんだ、そりゃ」
 何気なくベットに視線が落ちたら、シーツには赤い染み。
「…あ、」
 ご免なさいと続ける間も無く
「気にすんな。シャワー浴びてこいや」
 と、額に口付けた。



 手の甲への接吻は尊敬。
 掌への接吻は懇願。
 母がそう教えてくれた。



● Rememoro 
 クリストファー・メルクリオス

 幸せな気だるさで、窓に差す薄い紫の光に目を覚ます。
 腕の中の暖かいものに愛しく撫でる。
 
 喉から手が出るほど欲しくて欲しくて堪らなかったものが、漸く手に入った多幸感と、手折った事への少しばかりの罪悪感。

 考えていても仕方がない。
 俺はシャワーを浴びに部屋を出る。

 シャワーを頭から浴び、目を閉じると、昨夜の事を思い出す。

 メアリと、前のメアリは容姿は同じだが性格はまるで違う。

 育った環境の違いかも知れないが、俺に対して露骨に不貞腐れたり拗ねたり、ましてや馬乗りになるなんて考え付かない行動で、メアリと前のメアリを同一視する事はまずなかった。

 別人だった。
 別人だったのに。
 だからこそ、気持ちに(けり)が付いた筈なのに。

 昨夜、俺は嘘のように馴染む体に唖然とした。
 もう何年も、何十年も触れることがなかったその肌の感触は、まるで同じだった。

 懐かしさと愛しさの渾沌。
 

 バスローブを羽織って部屋に戻ると、メアリは安心仕切った顔でまだ眠っていた。
 いや、起こさないようにはしたけど、いい加減起きろや。
「そんな可愛いと、悪戯するぞ」
 と、声にするが起きる様子はない。

 メアリに会えなくなって数十年、
 空虚を埋めるように誰かと関わったことはあったが、どれも心には届かなかった。

 二度目はなかった。

『これじゃない』がいつも頭に響いた。


 それが、メアリに辿り着くためであるならば、結果よければ全て善しとするか。
 些か自分に都合がよいが。


 何処までも可愛らしい俺のメアリ。
 俺の前に現れてくれて、(あまつさ)え慕ってくれて。
 心から尊敬するよ。

當世流行異世顛末生 (とうせいはやりのとつよのてんまつき)

當世流行異世顛末生 (とうせいはやりのとつよのてんまつき)

“もう死んでもいいかな”と思っていた五十路の推し活おばさんが、気付けば異世界の赤子に…?チートもハーレムもない、記憶はあるけど現実とはズレた世界。これは「もう一度」ではなく、「やり直さない」物語。 愛されたくて、素直になりたくて、生きることを選んだ彼女の、静かな戦い。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2025-08-01

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  1. 🔳異世界顛末生
  2. 🔳これ、CGじゃね?
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  7. 🔳起因
  8. 🔳承転
  9. ◼️余談──志山 風花
  10. 🔳結論
  11. ◆ 小詰散文始(こずめのさんぶんし――もしくは、重要人物な筈なのに此の後出てこない少女の呟き)
  12. ● Rememoro 伯氏令閨見聞寵(はくしれいけいけんぶんちょう──もしくは、にーちゃんの話)
  13. 🔲 alfiksita 御破算顛末断(とーちゃんのはなし)
  14. 🔲 alfiksita 流行歳差戦碌(アイガアレバトシノサナンテ)