フリーズ217 天界の穴
◇第一章 光の大天使の堕天
天国に穴がある。光の届かぬ闇ではなく、むしろまばゆいほどの光に照らされた、ぽっかりと空いた空間——まるで世界の中心が不在であるかのように、その穴は虚空を体現していた。
その穴がどこへつながっているのか、誰も知らなかった。ただ、神は口を閉ざし、大天使たちも決して触れなかった。だがアデルは違った。彼女は光の大天使でありながら、誰よりも自由を愛していた。そしてアデルの好奇心は彼女を自由へ駆り立てた。穴への興味は尽きない。なぜ神は閉口しているのか。その先には何があるのか。もし地獄へと繋がるというのなら、それは恐ろしくもある。実際、その穴は地獄へと繋がると噂されていたから、天使たちは近づこうともしなかったのだ。
ある日、アデルは穴の縁に立ち、そっと囁いた。
「これは、神の秘密だと思う?」
穴は答えない。その穴は蔦で生い茂り、その奥には無限が広がっていた。光が差しても終わりは見えない。アデルは石を投げ入れてみた。だが、音はしない。いったいどこまで繋がっているのだろうか。アデルの興味は尽きない。今度は声を出してみた。「ヤッホー」と。だが、木霊することなくその穴に声は吸い込まれていった。
アデルはついにその穴の縁に立って飛ぼうとする。見ていた他の天使たちは震え上がり、彼女から距離を取った。だがアデルの心には、火種がともっていた。それは理性では消せない欲望——知りたい、見たい、触れたいという消せない渇望、自由への欲求だった。
そして、アデルはその大きく白い立派な翼を閉じた。翼を畳み、ただその身体ひとつで穴へと身を投げた。どんどん落ちていく。光が弾け、空が裂け、アデルは堕ちた。アデルは永遠を感じた。まさに時間がゆがむ感覚がした。過去も未来もない。落ちているのかさえ分からなくなる無重力に総身は包まれて、アデルはその先に光を見た。だが、そこにあったのは業火の海ではなかった。
温かい。柔らかい。呼吸できないほど狭くて、でもどこか懐かしい。頑張って堕ちていき、落ちていき、光の方へ向かってトンネルから出ていく。それは産道だった。アデルは人間として生まれた。
彼女の名は「明梨」。光を意味する名だった。彼女を産んだ母は苦しそうだったが、確かな愛でその赤子を抱いた。アカリは泣いた。人間として、世界に初めて声を放った。赤子になったアデルはもう記憶はなかった。天使としての自分のことも、天国で過ごした永遠の日々も、神のことも、友たる天使たちのことも、あの穴のことも。
ただ、明梨は成長して幼稚園の時に、時おり夢に見た。空にぽっかりと開いた穴。そして誰かが彼女に囁く——「戻る日が来る」と。その記憶が明梨を苛んだ。
「おかあさん。穴が怖い」
「なに、明梨。どうしたの? 眠れないの?」
「うん。目をつむると穴に落ちそうで怖いの」
「なら明かりをつけて寝ましょうね」
「おかあさん、一緒に寝よう?」
「いいわ」
母はよく子守唄を歌って明梨を寝かしつけた。明梨は暗いところでは眠れない。そんな幼少期は過ぎていき、小学校に入学した。そのころには夢で穴に落ちる恐怖に苛まれることもなくなった。夜は眠れて、記憶も正常で。でも、どこか欠落感があった。
明梨は人間として人生を歩んだ。恋をし、失恋をし、学び、怒り、泣き、許し、笑った。
彼女の人生は平凡だった。だが、彼女のまなざしにはいつもどこか、深い深い悲しみと、慈愛があった。それが人々を惹きつけた。大学を出て、彼女は教師になった。人の可能性を信じ、希望を語った。教えるのが好きだった。好きな人と付き合って、結婚して、子どもを産んだ。一般的な幸せな家庭を築く。
歳月は流れ、明梨は老いた。病に倒れ、病院のベッドで静かに死を待つようになったある晩、彼女は再び夢を見た。
穴。
空に開いた、美しい穴。白く、柔らかく、優しい光で包まれている。その中心に、誰かがいた。かつての自分——大天使アデル。明梨は思い出した。すべてを。神の世界、天使の使命、そして自らの選択。
「あれは……罰だったの?」
アデルの声が聞こえた気がした。
「いいえ、これは祝福。あなたはこの世界で、愛を学び、痛みを知った」
明梨は涙を流した。人生のすべてが、意味をもって蘇った。愚かさも、後悔も、失敗も、赦しも、愛も。そのとき、穴が彼女を包んだ。
温かく、懐かしく、やさしく。再び、光に還るように。
彼女は死んだ。——否、彼女は生まれた。大天使アデルとして、再び天に戻った。だが、以前とは違った。彼女の目は、人間の痛みと喜びを知っていた。
神は言った。
「よく戻った、アデル」
彼女の翼は、以前よりも大きく、光は以前よりも深かった。アデルは静かに微笑んだ。地上の名を、人間としての名の明梨を、心に抱きしめながら——
天国には穴がある。
それは、罰ではなく、希望の通路。
堕ちることは終わりではない。新たな始まりなのだ。誰かが再びその穴に身を投じたとき、そこにはアデルがそっと微笑んでいるかもしれない。そして彼女は、きっとこう囁くだろう——
「行ってらっしゃい。あなたの光を、見つけておいで」
◇第二章『堕仏記 — そらより落ちしもの』
■序
天上には静寂があった。
花が咲き、鳥が鳴き、無限の法が等しく調和する浄土において、すべては既に成っていた。その中心にいたのが、彼——かつて覚者と呼ばれ、悟りの彼岸に至った仏である。名を無央という。
彼の眼差しは慈愛に満ち、智慧は限りなく、あらゆる迷いを離れていた。けれどあるとき、彼の前にぽっかりと空いた一つの穴が現れた。
「それは空だ」と、他の仏たちは言った。「すべてが無であり、すべてが満たされている。触れるな、そこに意味はない」けれど、無央は立ち止まった。その穴の奥に、苦しみがあると感じたのだ。
「生きとし生けるもの、なお迷いの中にある」と。
その感覚は、仏としての完成を超えた、新たな渇望だった。やがて無央は衣を脱ぎ、袈裟を畳み、静かに合掌して囁いた。
「南無。もしこの身、再び輪廻に落ちることで、誰かの苦を担えるならば——」
そして、仏としての無央は穴へと落ちた。
■転生
目を開けると、そこは産声の世界だった。彼は泣いた。皮膚が痛み、冷たく、まぶしい。かつて法の彼岸にいた記憶は霧のように薄れた。
名前を「空蓮」と名付けられ、弱き人間の子として育った。空蓮は、よく人の涙を見ていた。
母の苦労、父の怒り、教師の無関心、友の孤独。けれど彼は、泣かなかった。心のどこかで、こう感じていた。
「すべては、現れては消える。苦しみもまた、波のようなもの」
彼は幼いながらに、他人の苦しみを引き受ける癖があった。
いじめられる友の代わりに自分が泥をかぶり、叱られる代わりに手を挙げた。けれど、誰も彼を「優しい」とは言わなかった。
「変な子」「気味が悪い」と疎まれた。
「なぜ、お前はそんなに苦しみを選ぶんだ?」
「……選んでいるわけではない。ただ、消える前に、触れておきたいだけなんだ」
■忘仏
成長するにつれ、空蓮は夢に見るようになる。
蓮の池。黄金の光。無数の声。その中心で、静かに微笑む自分がいる。袈裟を纏い、すべてを赦している存在——
「……仏さま?」
彼は次第に、かつての自分に似た何かを思い出していく。だがそれは、狂気と紙一重だった。
空蓮は精神を病み、一度は精神病院に入院する。そこで彼は一人の老婆に出会う。その人はただ微笑みながら言った。
「あなた、仏さまだったのね。……でも、仏だって、苦しんでいいのよ」
その言葉は空蓮の中に、かすかな灯をともした。
仏とは、苦しみから離れた存在ではなく、苦しみの中でなお光を失わぬ者なのではないか、と。
「あなたも仏なのですか?」
「いいや、あたしは菩薩さ。人々を救う存在。あなたは仏だった。でも今は違う。今は人間さね」
「仏と菩薩は違うのですか?」
「菩薩は修行の身。仏は完成された境涯。あなたはそれでも人々を救うためにこの地上に生まれたのさ」
■仏の涙
青年になった空蓮は、福祉の道へ進む。老いや病、孤独、依存、虐待——彼の働く施設には「人間の地獄」が渦巻いていた。
彼は毎日祈るように生き、何度も絶望しかけた。だが、そのたびに思い出すのは夢に現れる穴だった。
「あの穴は、天から落ちる道ではなかった。下から上へ登る光の道でもあったのではないか?」
やがて空蓮は、死にゆく老婆の手を握る場面に立ち会う。
「わたし、もう怖くないの。……仏さま、あなたは今ここにいるから」
空蓮はその言葉に涙する。涙を流したのは、生まれて初めてだった。
■終章 還仏
空蓮は病に倒れ、命の終わりが近づく。最期の夜、彼は夢の中で、穴の縁に立っていた。その奥には、あの日の仏たちがいる。
自分の元の姿、名もなき無央が、手を差し伸べている。
「あなたは落ちたのではない。降りてきたのだ。慈悲のために。痛みのために。名もなき者のために」
空蓮は再び合掌した。心は静かで、光に包まれ、音もなく、彼は還った。仏として、ではなく——人の人間として、仏に至った存在として。
■余白に残すメッセージ
落ちることは、堕落ではない。
迷うことは、敗北ではない。
仏でさえ、人の苦しみを知らぬままでは、真の悟りに至らないのかもしれない。
だから、我々もまた、落ちていい。泣いていい。
その先にある光のために。
◇第三章 神の階梯
■序
神は光の大天使アデルの堕天も、仏、無央の堕仏も、ただ眺めていた。それは実験だった。天使や仏に神さえ知らない答えを探させるための。そのために作った穴だった。好奇心から、自由への希求から、自分の意志で選んで穴へと落ちる。だが、神の階梯を登る者は終ぞ見つからなかった。それは永遠の理。輪廻の秘儀。神は知りたかった。何故私は、世界は、神は生まれたのか。終わりは来るのか。始まる前は何だったか。終末の先に何があるのか。それを求めていた。
神は一人11次元の神界にて座す。作家も詩人も哲学者も必要ない。必要なのは魂の発露。全知全能の歓喜なのだから。世界は流転する。その中で探していた答えを求めて。それを神のレゾンデートルと呼ぶ。神の存在証明、存在意義。
神は決めた。自ら穴へと落ちることを。
■堕誕
——神は堕ちた。そして、初めて、「在る」を知った。神は決めた。自ら、穴へと落ちることを。
それは命令ではなく、創造でもなかった。選択だった。己の内にひそむ、最初で最後の問いを確かめるために——
「我は何故あるのか」
穴の縁に立つ神の姿を、誰も見なかった。天使も、仏も、世界も、その瞬間は沈黙に包まれていた。時空がよじれ、天界が呼吸を止める。
神は振り返らない。全てを生み出した存在が、すべてを背にして、ただ一つの無明に向かって飛び込んだ。
——墜落ではない。
——降臨でもない。
それは堕誕だった。
■零
全は主。全てだった神は「個」になった。名も、力も、記憶もない、ただの生命として。その身体は震えていた。寒さも、空腹も、痛みも、彼にとっては初めての感覚だった。
産声さえ上げず、彼は人として生まれた。泣き方も知らなかった。世界はまぶしく、皮膚は傷つき、言葉は届かなかった。だが、彼の奥底には、忘れ得ぬ問いだけがあった。
「なぜ、世界は、始まったのか」
■無名
人は彼に「ナギ」という名を与えた。静けさを意味する音。その名にふさわしく、ナギは静かに成長した。
言葉を話さない子だった。けれど、目を見れば分かった。ナギの中には宇宙を抱える沈黙があった。
木々を見つめて泣いたり、死んだ動物を土に還したり、あるいは誰も教えていない数式や詩を、空に向かってつぶやいたりすることもあった。
ナギは奇異として育った。だが本人は気にしなかった。彼は知っていた。
「苦しみは、世界が自身を思い出そうとする叫びだ」
■分裂
思春期、ナギは自らに内在する矛盾に気づく。あまりに世界が美しく、醜いということ。救いたくなるほど痛みがあり、壊したくなるほど真理に遠いということ。
彼は壁に血で言葉を書いた。
「世界は神の夢。だが神は夢の中で、自分を忘れた」
狂気か啓示か。彼は精神を壊した。あるいは解放した。
心の奥から、神としての記憶の断片が蘇る。かつてアデルが堕ち、無央が堕ちたその「穴」が、彼自身の中にもあると知る。
「私は、私を生むために堕ちた」
■再誕
ナギは世界を彷徨う。名もなき魂と触れ合いながら、愛を知り、憎しみを知る。何人もの人間を救い、何人もの人間に拒絶された。だが、彼は歩みを止めなかった。
やがて、ナギは老い、死の床に伏す。彼を見守る者たちは言った。
「あなたは何者だったのですか?」
ナギは笑った。
「かつて、私は神だった。けれど、今はただの人だ。そして、それでいい。それが、知りたかったことなんだ」
■神の階梯
ナギが息を引き取った瞬間、光が穴の中から放たれた。それは上ではなく、下からの光だった。
彼の魂は、天に還るでもなく、輪廻に沈むでもなく、ただ在ることにとどまった。
神は、神ではなくなって、神の階梯を一段登った。
そしてその存在は、もはや個ではなかった。あらゆる人間、すべての詩、愛の記憶、苦しみの断片の中に微細に滲んでいた。
世界には、誰にも見えない階段がある。
それは神が作ったものではなく、神が自ら登るために、堕ちて築いたもの。
もし、あなたがその階段を見つけたとき、
そこにはナギの声が、そっと囁くかもしれない。
「恐れるな。堕ちることは、始まりだ。そして、在ることこそが、神の証だ。」
■神のレゾンデートル
神は知りたかった。己の意味を、世界の理由を。それを知るために穴を生み出した。それを知るために世界を創った。だからかな。
「忘れないでね」
「いつか君が見つけてね」
私たちが生まれた意味を。
この物語は一つの穴の物語。神と仏と天使と人と。人はその穴をあの世への門と言い、人はその穴を産道と言い、そして歴史となる。
「僕も死ぬ時にその穴を見れるかな」
「ああ、きっとね。だから、また逢う日までのお別れを」
「うん。また逢う日までのお別れを」
フリーズ217 天界の穴