
陰陽
それは、王国の使命。
序
雨が俺の身体を濡らし始めた。絹を掛けたような冷たい肌触りはやがてまとまった雫と集まり点々と肌に流れてゆく。微睡んでしまう柔らかな誘惑を完全に振り切れず、瞼の力を緩める心地良さに抗い乍ら手元に咲く一面紫陽花の花束に身を埋もれさせた。深く呼吸をしてしまえば、もう此の国の住民となるのだろう、手に触れる花の欠片を握りつぶす。上等だ。
此の国に良からぬ者が混ざって来たか、雨の日はどうも入り込み易い。まあ構わない、悪なら殺せば良いだけの話。国民には念の為避難命令を出し身と安全の確保を。久々のお客さんだが警戒は解かない方が良いかもしれんと伝えておこうか、此方で害意が無いと確信出来たら呼ぶから暫く待機していてくれ、気になるだろうけれどちょっとだけ我慢して待っててね。
新月
瞳に光が宿っていないから新月と名付けられたのだ。眦に勇壮と秀麗の気は満つるも眼光は殺しを躊躇わぬ一線越えた身特有の色気と不敵を隠しもせぬ男は新月と呼ばれていた。
新月は人の子である。人の子である以上両親は必定存在していたが、彼は恵まれた環境を選ぶことが出来なかった。尤も、最初の方は良かったのだ。道端の溝に捨てられていた赤ン坊を拾って命を温もりで繋ぎ留めた育ての父親は、今の新月と同じくらいの齢であったが、甘く陰惨な落し穴は経験したことが無かったのだ。
情に厚く真面目な生き方をしてきた義父は、命も捨てかねない程の恋に狂ったと言う。それも義父の片思いでなく双方想い慕う仲なのだから歯止めは利かなかった。義父は世間から姿を消した、まだ幼い新月の涙を残して。
行政に保護され政府の監視下で育つ新月が選んだ道は人を殺める道だった。違法も合法とさせる権力は嘗て育ての父が嫌った対象なのはよく憶えている、新月は政府御用達の殺し屋に育った。情は含まず確実に仕事をこなす精密さと効率の良さは同業者の中でもトップクラス、重宝されるのは当然であったろう。おまけに牙を剝く愚行もしない。取り残された後から感じていたものは、家族や情愛への憎しみ、と言うよりは気色悪さである。仕事を指示する者も協力する者もそのような気色悪さを有していなかったから新月は殺しに集中出来た。真横で局部を撃ち抜かれた同僚の絶叫を耳にしても顔色一つ冷汗一滴零すこと無く対象者の心臓を撃ち抜いた手元、狂いは微塵も無い。
だが重宝された道具であれ使用者が存在し続ける限り別れは必ず訪れる。情が移れば手離し難くなる、手離し難さは使用者の弱味になり時には致命傷にも成り得る。だから愛着が湧く前に入れ替えなければならない、新月も其は知っていた、何せ初めての仕事は熟練の殺し屋を殺す事だったもの。いつかは自分も使用者に切り捨てられる結末を最初から教えられていたのだ。
こうして話は冒頭に戻る。新月は深手を負わされ俯向けに倒れ込んでいる。しかし其の場所は人気の無い路地裏でも黴くさい廃屋でも無かった、彼は全く、紫陽花の敷き満ちる地面に伏せていたのである。
「死に際に乙女のような夢を見るとは。」
もう声も上がらない咽元で笑う。こんな光景はつい先刻迄在りもしなかった。死ぬのだなと感じた時から見え始めたものを現実とは言わない。それにしても、花とは無縁の生き方で最期に花を思うとは、自分は無意識の中で何を願っていたのだろう、此処以外の土地や国でも望んでいたのか、己が嫌悪し続けた愛やらが満ち満ちる世界を、捨てられなかった結末ではない物語を、誰かの為を想い生きる事の許された国を……?
「下手くそな殺し屋だ。俺ならもう思考の暇も与えていないのに、未だ対象につべこべ思う余裕を残すとは、初仕事かな。」
滲み搖れる狭い視界の微かな感覚に雨を覚える、赤い血を吸う目の前の沈黙者達は白露に濡れて瞳を輝かせる、期待に満ちた顔で見ても自分はもう死ぬのだからと呆れるが、うとうとし始めた脳裏でふと捻くれた考えが跳ねた。此奴達は人の躯を好み糧とする類の生物かもしれない。紫陽花に化けた物の怪だ、腐肉に舌鼓みし、鮮血を啜り骨もむしゃむしゃと残さずいただく、そんな人食植物なのかもしれない、それなら自分はこれから化物の住む国へ墮とされるのだろう、そして延々と食材となり続けなくてはならないのだ、もう上げ続けられない瞼を閉じれば、身の丈に合った国へ叩き落とされるのだろう。
ニヤリと笑って拳で一輪を握り潰した。
旭影
瞳に旭の影が差すと言われた。それでも今の生活を与えてくれた両親と此の国には深く感謝している。こんな不具者を見捨てないで育ててくれたのだから、受け容れてくれたのだから。
旭影と名付けられた娘は深い湖を其の目に湛えていた。だが彼女の暮らす世界では虹の光彩の瞳が当然とされ、輝きを有さない者など不吉だと忌み嫌われた。産みの親である国王夫妻はそれでも愛娘を決して手離さず深い愛情を注ぎ育てた。国民は王を信頼していたから最初こそ懐疑を抱いたものの、懸命に子を育てる王と妃の姿に心ほだされ納得し、瞳の光云々で文句を言う者はやがていなくなり、旭影は国民から親しまれ愛される存在となった。彼女は実に恵まれた環境で育てられたのだ。
親と国を愛すればこそ、乙女が国防の大任を目指すのは自然な流れであったかもしれない。旭影は男装の麗人と国じゅうの娘達からうっとりされる程の横がほに育ち、国を守護する手腕に劣らぬ眦の鋭さは老若男女問わず畏敬の念を思い起こさせる。玲瓏たる乙女、美しき血塗れ将軍、清廉なる苛烈、国の誇らしき愛娘は此の日、空を見上げて品のある眉を顰めていた。
「今日の地上の雨模様は素通り出来そうにないな。」
近頃は混ざり者が落ちて来ないから一安心していたが今日は久々に厄介な奴が来そうな鳥肌が立つ。だが怯えずとも良い、国に害を及ぼす者なら此迄通り殺して埋葬するだけのこと、随分暴れた奴も多かったが私は必ず使命を果たす。巻き込まれる恐れの無いよう国民は定められたシェルターに誘導する。避難は部下に任しておける、私は敵を殺すのだ。其れ迄誰も顔を覗かせたりしませんように。
国
新月は意識を取り戻し瞼を動かす前に今自分の置かれている状況を確認した。手足、頭、胴体、いづれも拘束はされていない、指先をそれぞれ動かさないように意識を向けると、足先指先も自由だった。背中の滑らかな固さから地面ではなく台の上にでも載せられているらしい。話し声は一言も聞えないが、生物の気配は感じ取れる。息を殺して対象を見る時の強い視線と消しきれていない気配。どうやら未熟な所から察するに相手はその筋の者ではないらしいが、問題は未熟者の其の後ろ、殺気を抑えこみもしないで自分を見ている者がいる。此の類の気配を持つ者に姿を晒している状態は正直危険だ。此方が身じろぎ一つでもしたら容赦無く一発で殺しきるタイプだ、熟練の殺し屋、俺と同じ種類の者。
規則的な寝息を立てて策を考え乍ら身体の痛みに集中していくも、倒れた直後から感じていた激痛と灼熱はすっかり失せている。ガーゼや包帯の肌触りも無いのに?だが痛みが全く無いのも事実。さては脳をいじられて感覚を幾つか消されたか?
「意識が戻っているのなら、起きろ。」
ヴィオラに似た波長で静かに呼び掛けたのは旭影だった。師匠の言葉に弟子は彼女の後ろへ隠れ、ちろちろと新月の横たわる寝台を覗き見る。
「綺麗なお声で招いても無駄だ。俺が起き上がったらお前が誰かを知る間も与えてもらえず殺される未来が見えている。」
想像してた声とかなり違うな。まるで乙女のようだ。
「ならばその予知は大外れだな。私はいきなり貴殿を撃ち殺す真似はしない。」
「そう言い切れる理由は?」
「私の弟子の前だからだ。此の子の前で私は殺しをしない。」
新月は目を閉じたまゝ上半身を起こし、声の主の方を向いて顔と瞼を上げていった。
目の前の娘に、理解が追い付かない。
寝たフリをしたまゝ進めた推測内容に間違いは無かった、仕事上で何度も役に立った技術だったが、今は確かな実績があるのに自信が無い。頭の中で描いていた恐ろしい獣と娘が結び付けられない。
此のふっくらと穏やかな眦が?清らかな泉の底の瞳の色が?愚かな光を有しない聡そうな目が?志の強さは整った鼻筋を見て分かるが、鈴蘭のように初々しい紅染まる唇も信じられなかった。言葉を失う新月に、靴音凛々しく歩み寄ると、旭影は新月の右頬をビンタした。
「殺しはしないが、私の愛する国民を驚かせたことには変り無い。此の平手は其の分だ。しかし、我々は貴殿を迎え入れよう。今日からは此処で暮らすと良い。」
弟子はもう既に病室を離れたのか姿は見えなかった。目を瞬かせる新月は、頬のおしとやかな楓模様を擦りながら娘の後をもそもそ歩き付いて行く。情報を遮断する為のカーテンが旭影の手で開かれた。
雪の蔦が空から枝垂れる桜の如き指先の糸の下には紺青の玉が荒削りに広がっている。鋭い先端には桔梗を翼に溶かした蛾が留まり、極光の色彩灯すまろい両目で此方を見ている。その隣にも、臙脂の秋桜溶かす羽の蛾がひとり、隣、隣、その隣、ぐるりと国土を囲う城壁の如き鉱石は地面に被せる巨大な王冠のようでもある。人の姿は旭影と新月しか見えない。
「此処で暮すって言うが、国民は何處に居る?」
「目の前に居る。此処は人の国ではない。」
旭影は紫陽花の空を背に新月を見つめる。
「此の国は虫達の治める世界だ。私の名は旭影、此の国の王女だ。人の姿をしているがな。」
勉強、お茶会、また勉強?
一、お茶会の時間を一日の内で必ず一度は設けること
二、暴力に訴えた願いは認められない
三、旭影以外の者が武器を所持することが認められない。但し旭影が承認している場合は此の限りではない。
四、常に清潔な環境を保つ努力をすること
呆れるにも呆れてしまう。国の法律が四本しかないことも、内容の第一がお茶会に言及していることも、武力をほぼ持たない環境も。
「人の世界じゃ考えられないが…虫の暮らす桃源郷じゃ人間のルールも常識も関係あるまい。」
新月は与えられた自宅、躑躅ヶ雪の町の片隅に構えられた三角屋根の一軒家の広いリビングで苦笑していた。
「何が可笑しい?」
キッチンで金平糖の刺繍こまやかなエプロンを身に着けスコーンと紅茶の用意をする旭影の銀細工を施された雪雲柔らかき頭髪はくるりと几帳面に纏められ黒のリボンに灰色の金属釦留で真ん中をとめた控えめな華を添えたのは彼女の弟子、ポンムと呼ばれている水晶玉であった。
「本当に其奴が昆虫なのかね。地上で見る生物とは全くの別物だが。」
ソファーに座って待っていろと命じられた新月は旭影の手伝い甲斐甲斐しい鉱石の一種類を大人しく眺めている。
「其奴、ではなくポンム。虫達は本来故郷では鉱石の姿をしている。だが人間の世界へ訪れる際には生れつきの姿ではなく着物を被る。貴殿が見慣れている虫の姿形は虫が着物を纏ったものだ。」
「何故着物を身に付ける必要が?」
「人間が衣服を必要とするのと同じ理由だ。」
旭影の簡潔な説明の後、ポンムが此方を見ている(らしい)。今日会ったばかりで声を持たない鉱石の表情など分らないし理解出来る筈無いが、自分が今ポンムに馬鹿にされていることは何となく感じる。砕いてやろうかこの野郎。
「新月殿。」
焦茶木目の滑らかな丸テーブルに白梅色の絞り戯れるテーブルクロスをシワ無く敷くと、小花や小枝を誂えた銀食器、ソーサー・ティーカップ・ティースプーンを並べる、丸い硝子のティーポットには初心者向けのさくらんぼティーがストレートで淹れてあり、机に置くとマカロンの形したティーコゼーをもふりと被す。弟子の運んだスコーンとサンドウィッチのお皿を一枚たん、一枚たん、と三つ並べて旭影とポンムは着席した。
「どうぞ此方へ。お茶会へこれまで参加されたご経験は?」
彼女に手招きされ、重い腰を立たせお茶会の席にストンと従う。準備されているのを最初から見ていれば、此処迄されて無下に断るのも何となく気が咎めたし。
「嫌…誰かと食卓を囲むのは……」
しまった。黙りこくってしまった…?彼の哀しい過去を思い起こさせてしまったかもしれない、あゝ、父様から注意されていたのに、質問はよく考えて相手を傷付けないものを選びなさいねと…ポンム、告げ口はせず黙っていてくれないかな…と横目で弟子を盗み見たら驚いていた、彼女の視界には新月殿。
手掴みではあるけれど食べ物を食べている、丁寧に、涙を流しながら。
ポンムとそっと目を合わせて頷いた。今は、お喋りは一寸お休み、それが良いよね。
おまえは愛されて生まれて来た。捨て子だったからと言って負い目に感じることは無い、堂々としていなさい。
愛されていたのなら如何して道の側溝に捨てられていたの。
其処にしなくてはならない止むに止まれない事情があったのかもしれないよ。
邪魔だったから?死んでも構わないからあの場所を選んだのかな。
違うよ新月、そんな惨いことを思う親はいないよ。
嘘だ
だって貴方も置いて行っただろうが
食事は嫌いだった。義父とは毎食一緒に食べるのが習慣だった。だから一人になってから食事をすると否が応にもあの人の笑う顔を思い出す、それが嫌でバランス栄養食しか摂らないようにした、きちんとしたありふれた食事はもう十年以上経験していない。
サンドウィッチと、スコーンとか言ってたっけか。見たこと無い焼き菓子に手を伸ばして味わう。バターの甘さとブルーベリーチップの甘酸っぱさがクセになる。気付けば自分に用意されていた分は全て平らげていた。
「お口にあったようで、何よりだ。」
紅茶を啜り微笑む旭影。そのしなやかな肩で弾む水晶玉。地獄にしては穏やかすぎる。それとも此れから食われ続ける羽目になるのか。
「俺をどうする気だい。」
「どうするもこうするも、此の家で暮らしてもらいたいだけだ。暴れてはくれるな。墓をまた増やすのも手間だからな。」
「殺さないのか。」
「貴殿の歪んだ趣味に付き合う心算は無い。痛めつけられて悦ぶ男の理解者は此処にはひとりもおらんぞ。」
「いや、いや、そうじゃあなくて。俺だってそんな性癖無い。勘違いするな。」
「それからもう一つ。此の場所は地獄ではない。」
心を読んだのか?
「読唇術は使っていない。」
読んでるじゃないか。
「地上からやって来る者を私達ははぐれ者と呼んでいる。此の国には以前はぐれ者がちらほらやって来てな、貴殿が初めてではないのさ。其奴等は共通して国を地獄と勘違いしていて、中には大層暴れまわった酷い輩もいた。」
「俺より先にも似た奴がいたのか。まあ確かに人の道を外れて散々した奴が楽に死ねる訳も無いし、平和な場所に連れて行ってもらえる理屈も無い。先達が暴れるのも全く理解出来ないとは思わないがね。で、そんなはぐれ者達を貴女が始末しているッて言かな。」
「察しの良い者は嫌いではない。理解しているのであれば大人しくしていろ。私の大切な国民達に恐怖を与えてくれるな。」
「虫でないから俺は国民とは見なされないのかい。」
「見目の問題ではない。正式な国民には未だ到っていないのは来たばかりのお試し期間だからだ。貴殿が国に相応しい性質を持っていると判断されれば其時は快く迎え入れるとも。」
言い終えたら旭影は新月に一礼を施し椅子から立つ。肩に乗る弟子にかろく微笑み家主に背を向けるとそのまま扉を開けて出て行った。
地上では所詮死んだ身だ。もう死んだのであればいつか死ぬと神経をヒリつかせる必要も無いから旭影の要求に従うのも良いだろう。
「先ずは紅茶を一人で淹れられるようになって、お茶会のアイテムも選べるようにならないと。…あの戸棚の中の名前、一通りは把握しておかないとな…」
テーブルのお茶会セットをシンクに運び隅々迄洗いつつも大きな戸棚に目を遣った。イチョウの樹で誂えた大きな戸棚には、食器の他にも茶葉の缶々やお菓子の材料や道具類がぎっしり。
実は此の戸棚の中には旭影の書いた紅茶・お菓子のレシピが冊子とは異なる形式で隠し混ぜられているのだが、新月青年には見つけられるだろうか。
繭
「国王陛下。」
ガーネットに頭を垂れる。玉座には国王と琥珀の女王陛下もあられた。
「本日地上から降って来たはぐれ者ですが、今のところ害はありません。ですが直ぐに正式に認めるには尚早かと。」
「旭影。其方は彼が悪い存在だと思うか?」
父として尋ねる声は威厳を消して娘に問う。
「命を奪う事自体に抵抗も躊躇も一切無いように感じました。寝台から起き上がる前、意識が戻ったことを隠して現状を探れるような男でしたから。あの年齢であそこまでの慎重さなら、地上では手練れの狙撃手をしていたのではないかと推察しております。」
「旭影。はぐれ者の、新月さん、御本人は何と仰有って?」
母も夫と同じように問うたが、娘の姿勢は変らない。
「過去をひた隠し、にする姿勢はありませんので、此方から出自や職業を質問すれば多少返してくれるものと思います。」
娘ではなく国防将軍の報告を終えると旭影は二人に再度深く一礼する。そして王室を他の言葉無く出て行った。ガーネットと琥珀は向こうから閉められたアンティークの木の扉を見つめて同時に溜息をついた。つかずにはいられない。
「お茶会の準備を後ろにこっそり控えさせていたけれど、今日も空振りでしたね、貴方。」
「あれではどう見ても業務報告だ。親子の会話とは…言い難い。やはり、姿形が我々と全く異なるのを傷だと信じ続けているのだろうか。」
無理もないであろう、二人の胸中は察するに余り有る。旭影は産声を上げた日から両親の前で碌に笑った試が無いのだから。恩義を抱きすぎた弊害かもしれない。痛ましいもどかしさを今日も抱えつつも、琥珀のお妃様はどことなく微笑んでいるように見える。ガーネットの王様は長年連れ添う愛妻の表情にはてなを浮べた。
「しかし、どうしておまえは嬉しそうなのだい?」
優しい男性が女心をまるっと理解出来ている訳ではないと知っている女王は可笑しくって楽しそう。
「貴方、良い王様なのに今一つ乙女心には疎いのね。」
あの子があんなに夢中になっているのに、ヒヤヒヤする素振も無いなんて。本当に気付いていないのかしらと内心呟くもやっぱり夫は分らない、小首を傾げてまあ何と可愛らしい坊やだこと、もうお爺さんに近い齢なのに。
「暫く様子を見てみましょう。きっとあの子は今にすてきに成長しますから。」
「当然だ。私とおまえ、そして国民達に愛されて育ったのだから、立派な娘になるだろう。もう充分に立派な良い娘だとも。」
王の言葉にまた女王はふふふと笑った。
そんな両親のやり取りなぞ露知らず、謁見を終えた旭影は服の袂で大人しく待っていたポンムを肩に乗せる。
「国の法律の説明はしたけれど、それだけで静かに暮らせる確証は無いわよね。それにあの人、紅茶の淹れ方も、茶葉の選び方も、道具の選び方も下手そうだもの。仕事に忠実なのは褒めたいけれど、地上と此処ではそもそもの職種が違いすぎる。穏やかな生き方を望まない人に平穏な生活は難題よ。うん、やっぱり隣に仮住居を建てて監視と補助をした方が正解だと思う。ポンムはどう思う?貴女の意見も聴きたいの。」
城の外へ近付く程に足が速くなり早口になり鼓動が乱れている。ポンムは師匠が彼女の身体的な変化が全くの無意識であるのをよく理解していた。だから自らが何を提案すれば良いのかも当然分っている。
「監視役とは御苦労なことだ。ところで、気になっていたんだがな、おまえの弟子、ポンムは何の虫なんだ?」
テーブルには苺のドライチップを交ぜたスコーンと山盛りのクロテッドクリーム、お皿は菜の花が散る白いお皿。青いリボンがちょこんと飾る銀食器達には砂糖を含めないカモミールのハーブティーが湯気柔らかにひらひら手を振り微笑ましい。花畑でのピクニックには草木涼やかな色味のテーブルクロスが丁度いい…再び新月の自宅を訪ねた師弟はリビングの光景に一寸固まる。
「レシピなのか分からないが、戸棚の隙間に白いレースの刺繍が隠れていた。此の国ではレースが紙や本になるのか?文字が要所要所に刻まれていたのを頭の中で繋ぎ合わせたら菓子や紅茶の作り方のような文が浮びあがったから、一先ず其の通りにしてみたんだが。」
材料は戸棚に揃ってたしなと気楽に付け加える新月は旭影用の椅子を引いた後、自分の席に座った。
「で、ポンムは何の虫なんだ?」
チェロの弓をこするような音色の声に二人はハッと正気付き、旭影は軽く咳払いしてから着座する。
「ポンムは蛾だ。まだ成虫になれる段階ではないから繭の状態、だから此処では水晶の形をしている。」
「成虫になったら大きな柱にでもなるのか。」
「否、蛾は成虫になったら貴殿の知っている姿になる。鉱石にはならない。寝台から出てカーテンを開いた時、城壁に留まる蛾達を見たのを憶えていないか。」
そう言えば、羽の模様や色こそ珍しくはあったが、一般的な蛾の姿を最初に見たな。
「私達の文化では蛾は守護者なんだ。生命を守る者として大切に尊ばれている。だから新月殿、蛾をないがしろにするのは御法度だ。外に出掛ける時は気を付けなさい。」
「法律に明文化されていなかったのは、それほど当然・自然な信仰だからなのか?俺達人間が息をするように。」
「虫達は生れた時から既に仰ぐものを知っているらしい。」
「旭影は?」
「何。」
湯気が蓋に重なり支えきれず雫となる。香りも味も通さない硝子のティーポットの中では音もしない。
「おまえは、蛾を大切にする遺伝を予め持って生れたのかって訊いている。虫の姿をしていない奴でも信仰心は抱けるのか?」
「私が生れ乍らに物語を知っていたのかは分らない。貴殿も共感出来るかもしれないが、人は赤子として息を吸った記憶は霧雨よりも不確かだ。だから生れた私が何を知っていて何を知らなかったのかは分らない。
それでも、両親から蛾への信仰心を教えてもらった時、心の中に違和は無かったむしろ、懐かしいと感じ安心した。すんなり受け容れられたんだ。何も土台を持っていなかったのであれば、懐かさを感じることは無いと思う。」
「懐かしい、か。」
「新月殿には何か懐かしいと想えるものはないのか?」
一瞬明滅したのは育ての
「無い。強いて言うなら…此処に来る前に愛用していた銃が恋しいよ。」
「銃は…渡せられない。私は貴殿に武器の装備を許可していないからだ。」
「でも一人で血を浴びるのは苦しいだろう?貴女以外は無邪気に輝いているのに、一人だけ水底のような瞳をしているじゃあないか。俺なら旭影の背負う荷を一緒に背負ってあげられる。…もう感づいているとは思うが、俺の地上での仕事振りはかなり上等な評価を貰えていたよ。おまえの実績に引けを取らん程度にはな。」
「新参者に国防の役をいきなり預けると思うのか。」
「だから傍で学ばせてくれたら嬉しい。貴女は俺の見張りも出来るし、俺は信頼を築いていけることが出来る。損な話では無い筈だが、一寸考えてみてもらえないかい?」
紅茶はもう冷めていた。
「良いだろう。国の案内もいずれはせねばならないし、国民達への挨拶や礼儀も教えたい。」
「じゃあ、上官殿とお呼びすれば宜しいか?」
「虫達の世界は基本的に横社会だ。敬称も敬語も必要無い。貴殿がどうしてもしたいのなら咎めはしないがな。」
スコーンをそのまま食べる。
「そうかい。じゃあ旭影のままで呼ばせてもらおう。貴女も気軽に接してくれると助かる。堅苦しいのは苦手でね。」
今度は半分に割った片方にホイップクリームをたっぷり付けて。
「そうか。では改めて宜しく、新月殿。」
ハーブティーを啜る。
月下園
長い髪の毛は憧れだった。蛾は誰しも豊かで美しい髪を持っていると、幼い御伽話で聴いたから。姿の違う私の為に国は人が主人公のお話を澤山編み出してくれた。其等の中で蛾は、常に神々しく描かれていた。恐ろしくも美しい、寂しく哀しい女神像、憂いは長い睫毛と髪型によく映える。羽を持てない代りに私は髪を伸ばした。
「私は貴女が羨ましい。」
ポンム。私の可愛い弟子であり、優しい騎士。頬を撫でて霖雨を拭ってくれる、本当は私などには勿体無い女の子。貴女はきっと、すてきな成虫になるのでしょう。だからお願いどうか、
「私のようにならないで。」
墓の前で膝をつき項垂れる。墓の後ろにも墓、墓、墓。傷だらけの身体、血が取れない掌。痛くて痛くて堪らない。
紫陽花の空は黙っている。優しい命を産む時も、おぞましい悪人達を墮とす時も。喜びの笑顔が響く時も、恐怖の悲鳴が泣く時も。自分の愛してやまぬものは他者の気にも留めないものになる。
一番最初はカナブンのパーセ。怖くて身動きが取れないから暴れる相手の都合に適った。パーセだけが固まってしまったのではない、生れて初めて目の当たりにする暴力と道理を弁えられぬ者、あの日硬直しない国民などいなかった、血の凍えた生命などいなかった。恐怖で身じろぎ出来ないものは無抵抗の餌と見なされる。次は、ヒメユリトンボの暁。そして侵入者は息絶えた。私は自分の腰に差していたナイフが果物以外も刺せることを、人間の血が赤いことを震える手で初めて知った。
誰も咎めなかった。むしろ深く心配してもらった。パーセと暁を白躑躅の棺で包み瞑色の菫が沈む月下の泉へ送った後、父と母は臣下を連れて月下園へと人間の埋葬をしに行った、私は連れて行ってもらえず、城壁の蛾達に預けられた。
皆、みんな傷を負っていた。破片は国土のあちらこちらに散らばっていたし、蛾の翼も欠けていて満足に飛翔することもまゝならない。誰も殺す術を知らないのだ、此の王国の虫達は果物に接吻し草の抱く白露を飲んで生きるのに。果物を切るのは私だけ、草を引き抜くのも私だけ、そして襲撃犯を殺せるのも私だけ。
与えられた役目は、人間を、悪人を殺すこと。
愛する国よ、美しい国民達よ、慕ってやまない両親よ、涙に仰ぐ月の使者よ、ポンムを託した想いも、察するに難くはありません。
「旭影。」
武器を身に付けたまゝ誰かの前で転寝するなど、地上ではまあ考えられない。呼んでも起きそうにない、そんなにハンギングチェアが気に入ったのか。葡萄の蔓で簡単に作れるとレース編みの本の端に示されていたから一つ試してみようと思ったのが存外上手に出来た自覚はあったが、此処迄人を無防備にさせる代物とまでは予測がつかなかった。もう姉弟子は自宅に帰ったぞ。
「おい…」
再度声を掛けたが変らない。肩を搖すぶる程度なら構わないかと言い訳をし身体に触れても目覚めない、両肩を大きく搖らしてもあの瞳は固く閉ざされて睫毛にそよ風ほどにもなっていない。
血が凍る。名前を呼んだ心算の声は掠れすぎて音を為さなかった、もう一度喉を震わせても息が続かない、寒い。溜らず温もりに縋るように抱きしめる。大きな自分の鼓動が動脈の氷を割らんと暴れている、幼い叫びがこめかみに伝い頭を痛めつけて明滅する疼痛は心臓をわし掴む。
また、捨てられた
「起きている。」
自分より柔い両肩を握ったまゝ顔を見る。彼女は俯向いた顔を上げようとはしない。酸素の感覚を思い出し始めた頭はまだ通常の会話をするに到らない。
「こっちをみてよ。」
旭影はふるふると首を振る。
「なんで?」
「今、夢を見ていた、昔の夢。だから今、みっとも無い顔をしている。だから貴殿には見せたくない。」
「それでもいいから、ねえ、俺を見て。」
手の位置をずらし彼女の両頬に移動させて持ち上げる。光を知らぬ瞳と光を捨てた瞳が水晶の内側で重なりあえば月の生れぬ創世以前、寂しい潔白の大地の光景。娘の両手が青年の両手に触れると、もう彼には心が通じて互いの手と手を握りしめる。瞳は決して逸らさない。
「怖い夢を、見ていたのか?」
「えゝ、とても、怖い夢。貴方も、見ていたのでは?」
「うん。君と内容は違うだろうけれど、同じくらいに怖かった。」
新月さん、と気掛かりな表情と共に呟いた言葉にもう大丈夫だよと少し頬を緩めて静かに答える。
「此の国は、地上なんかよりも遙かに美しい。俺には勿体無いよ。」
「私にだって、勿体無い。王女としてしっかりしなくちゃいけないのに、気後ればかりしてしまう。」
「それでも、守り続けるんだろう?」
「これからも止める心算はありません。」
優しい場所を優しい場所で在り続けさせる為に、容赦はしてはならないのだ。
「止めなくて良いんだよ。俺も一緒に歩くからって言ったろう?」
貴方にそんな事させたくない。
「一人で背負う重さじゃない。人間は鉱石の身体を持てないくらい脆弱なんだから。」
貴女に甘えてほしいんだ。
新月の指が旭影の鋼の檻をほどいていく、硝子の仕切りをほどいていく、そして玻璃の心に接吻をする。
外は久しぶりの雨の夜。女神達は祝福を鱗粉に込めて星くずを降らし月下に舞う。
開花
ポンムは甚だ不愉快である。ポンムは姉弟子だ、そう、ポンムは新参者の先輩なのだ。それなのにあの無礼者ときたら、ポンム以上にお師匠にくっ付いているではないか。距離が近い事も当然不躾であるが、弟弟子としても罪状は他にもあるのをポンムは知っている。
「ポンム、今日は北の方角に行きましょうか。」
お師匠の言う通り。ふりふりと丸い身体を弾ませて特等席に着座した。旭影の方に乗って良いのはポンムだけなのだ。もっと言えば、お師匠のお身体に触れるのはポンムだけが許されていたのだ。
「旭影、バスケットなら俺が持つ。」
なのになのにそれなのに!あの弟弟子とはお師匠と手を繋いだり、腰に手をまわしたり、頭を撫でたり、頬にキッスをしたり挙句の果てには抱きしめたり!けしからん、姉弟子であり一番弟子であるポンムを差し置いて大好きなお師匠に馴々しくするなど言語道断。伴侶でもないくせに何様のつもりであろう、お師匠の優しさと寂しさにつけ込んで不埒な奴め、今日こそポンムが礼儀を教えてあげるのだ。一番弟子の威厳に驚き慄くが良い。
ポンムの企みなど知る由も無い新月は、もう此処での暮らしにかなり馴染んで来ていた。お茶会の準備の実力をめきめきと伸ばし、旭影からもお墨付きを貰うくらいに上達していたのだ。
「何が向いてるのかは分らないもんだな。」
「きっかけが無ければ糸同士は交差しません、貴方の隠れた得意が此の国で見つけられて良かった。」
国の一番北方には氷雨の洞穴を呼ばれる一角があるらしい。そこまでの道中、すれちがう国民達への挨拶も慣れたものだ、軽く手を挙げたり会釈をしたり黙礼したり、それぞれの礼儀も弁えている。
「氷雨の洞穴はどんな場所なんだ?俺達の居る躑躅ヶ雪町のような住宅地なのか?」
「氷雨の洞穴には誰も住みません。住居としての役目は持っていないのです。氷雨は博物館や美術館のような場所として認識されています。」
「地上でもよく訪れたよ。尤も展示物ではなく展示室の方に用が有ってなんだが。連絡の際によく使っていたよ。」
月に一度は定期報告をしなければならなかった、例え意味の無い行為でもする事が肝要で、し続けていれば意味は追って来る。雇い主の存在を認識させ勝手を許してはいないと暗に示す為の其は人の出入りが盛んで静かな空間が好まれた。
そんな場所連れて行ってもらった事は無くて
「絵画や遺跡はお嫌いですか?」
「嫌うほどの素養も無いさ。仕事が忙しくて趣味の時間に手が回らない訳でも無かったんだが、どうにも興味が持てなくてね。旭影はよく洞穴に行くのかい。」
「氷雨は墓地へ続く唯一の道です。」
細い髪の毛が頬に掛かる。こまやかな影が瞳を照らした。
「墓地…人間のか。」
「陛下達は私に其処へ訪れてほしくはないみたいですけれど、時々どうしても行かなければならない気がして、それで通うのを止められないのです。お二人は黙認してくださってはいますが、本心は晴やかとは程遠いでしょう。」
いっその事命令してくれた方が行かないと、あちらもお分かりではあろうけれど。禁止した方が、抑え込んだ方が人間は案外従うと御存知であろうけれど、命令も抑圧も一度も受けた事が無い。だからますます勿体無いと感じてしまいそうになる。
陛下の望むように生きられているだろうか。両親の望みはきっと私の望みではない、と口に出しても割り切れない、今日迄大切に大切に包んでくれているからこそ切り離せないしたくない。私と親は違うのだから私の思うように生きていいよろよく聞く決着は所詮頭の中でだけ、表面上の一時しのぎ。
「俺は親の望みを知っていたよ。でも望まれた姿とは正反対に向かう片道を選んだ。親不孝だと雇い主からは笑われたよ、でもどの道を選んだところで、選ぶ根元の理由は親からの願いだ。其に順じようが反発しようが親を想っているのは共通している。だから俺は親孝行な義理の息子ですよと言い返した。」
「義理の息子…?」
「殺し屋としての情報しか与えなかったな。旭影、俺は出産直後どしゃ降りの側溝に捨てられていたんだ。其処から拾われて、義理の父親のもとで育った。」
「育てのお父様が殺しを生業をしていたのですか。」
「そうじゃない。政府に反抗はしていたが暴力や血とは無縁の人間でね。虐待を受けた経験も無い。でもな、あまりに真直ぐ過ぎたんだろうな、身を滅ぼす情熱の恋を知ったら相手の女と二人で出奔しちまった。後は政府に引き取られて、奴等の忠実な手先になった。」
「汚れ仕事を引き受ける決断は、政府への恩を感じての結果?」
「まさか。俺は健気の対価で銃を相棒にしない。相性が良かっただけ、狙撃手としての資質を持ち合わせていたってだけで、何かを守ろうだとか誰かの為に決めた道じゃあないのさ。」
旭影は新月の横がほを見つめた。自分よりも上背の高い男性で、童顔でもない筈だのに幼く感じた第一印象を思ひ出す。そうか、だからあんなに必死になって自分を見てと言ったのだ。
何て声を掛けたら良いのだろう。此の国で捨て子など起きた事例は無いし、私には親に置いて行かれた者の心情が分らない。自分も同じだと頷く事など出来ないし、見知らぬ者達を頭ごなしに否定するのも後ろ暗い。かと言って彼を哀れんでも新月は喜ぶのだろうか。同情は時に相手の心を傷付ける、柔らかな葉先でズブズブと身体の奥深く刺し沈めていく行為になるかもしれない。けれど苦しい、向き合いたくない息が詰るような苦しい過去を教えてくれたのだ、一切触れずに今此処に居る彼を無条件に肯定したところで真実優しい対応になるのだろうか。
ぐる、ぐる、汁を吸って膨らみ続ける車麩にじゅわりじゅわり首を絞められてしまいそう。人間と話す時はこうも息がしづらくなっていくのだろうか。もっと貴方と話がしたいのに、言葉も声も絞り出せないなんて。
「でもまあ…ガキの頃の自分にようやく顔向け出来るかな。」
優しい声、穏やかな声、一人ですてきなお茶会の仕度を見事になさっていた日のチェロの弦すゝりなくそのお声。
きっと、貴方の根は殺しに向いていなかったと思います。
新月は立ち止まった。足音が重ならなくなった音に旭影も立ち止まり、後ろを振り向く。新月は瞳孔を細くして白昼の猫のように固まっていた。口元はキュッと引き緊められ眉間は微かに歪んでいる。黒曜石から艶を消した眼球の色は淵より濃い。
「本当にそう思うか?」
何をです、と訊く直前思い当たったのは一寸前の自分の心。
「俺が、無理をして殺し屋をしていたと思っているのか?」
甘くまとわりつく低い声、洞穴の入り口に生える糸杉の地面の影が陽も傾かぬのに背丈を伸ばす、沼の水が五指を広げてじわじわと手を伸ばしているように。底無しの孤独が手を招く。
「新月さん。」
いつもは安心する筈の抱擁が背筋を強張らせる。耳元で囁かれる雪の火が氷柱になって鼓膜を嬲る。端から見れば恋人同士の微笑ましい秘密の光景であるものを、生唾を飲み込む音が一つ一つ増えている。涙を流さない代りに喉元が泣いているのだろうか。もう一度名前を呼んで彼の腕から脱け出たいけれど唇が虚ろに動くだけ。
「おまえなら分かってくれると信じていたよ。」
とろけた林檎の如く染まる新月の両頬。嘗て仕事上相手をした商売女達には一度も見せなかった恍惚の芳しい表情。ブランデーよりも濃い酩酊の薫りに充てられた乙女の白い喉は未だ声を取り戻せない。
何を、私が、分かる、と?
ふっと微笑む新月の唇。
「俺が殺し屋に向いていない人間だってことを。」
日焼けもしない血管淡い首筋に深く顔を埋められて見えた故郷の景色は然程歩いて来ていない筈なのに指を伸ばしても届きそうになかった。
ポンムは激怒した。氷雨の洞穴はポンムのお気に入りの場所である。国を襲った者達の墓場に繋がる唯一の道は雨風を凌げるからとお師匠の服をくいくい引ッ張って墓から此処迄歩かせた記憶は古いけれど色褪せない、やはりあの日からお師匠の心は進めていない、ずっとずっと優しい真綿の心のままなのだ。だから此の男に隙を与えてしまった。
貴様が人殺しに向いていない筈があるまい、恐らく一晩中隣人の悲鳴や絶叫を聞いていても確実に機を覗い続けて獲物を仕留められる類の奴だ、根ッからのスナイパー、お師匠とは似もつかないタイプ。相手の優しさに自ら飛び込み沈み込んで道連れにしようとする一途で陰惨な愛情を大切なお師匠に浴びせられるか、一番弟子は大人しくしない。
銀の横笛の響きが空気を回した。冴えて澄む音に新月と旭影は同時に瞬きをし、振動の出処に目を向ける。
一羽の蛾が牡丹の花弁の翼を細かに擦り合わせている。恰も鈴蟲がするような独奏に二人は固まり蛾を見つめた。その舌には水晶が真珠貝の形に開いている。
「ポンム?」
「ポンムなのか?」
旭影の問い掛けに音を止めるのは新月の声に応じる結果にもなってしまったけれど、お師匠の華やぐ嬉しそうな顔が見られたのであれば気にしない。
「このタイミングで孵化するとはな。」
ポンムはもう繭を作っていたんだ、卵じゃなかったんだぞ。全くこれだからお師匠以外の人間はお馬鹿だな、脳味噌がきっと無いんだろう。
「新月さん、あの……」
言い淀む。まさか心の声が零れただけでなく貴方にも見えてしまっていたなんて、両親や国民の前では有り得ないことなのに。
「いや、君は何も…おまえは何も悪くない。すまない、俺の気がどうかしていたんだ。」
墓に通じる道だと言っていた。暫く離れていた死の匂いに充てられたか?
「…きっと両親は、だから氷雨の洞穴に行かせたくなかったのでしょうね。」
「それは、やはり俺を危険視していたと言うことか?」
「違います。貴方ではなく、此の場所の潜在的な問題なのです。」
「美術館や博物館の立ち位置に相当する場所なんだろう?それが問題になるものなのか?」
「貴方は美術館をどのような施設だとお考えですか。ただ単に古物を保管し修復や展示を行なっている場所だと?」
「そうじゃないのか。」
「私達の考えでは、彼処は、鎮魂の空間です。魂を休ませる慰霊の塔、と申しても良いでしょう。人が産み出したものには必ず霊が宿ります。特に絵画は荒ぶる気質のものが多い。其等を野放しにしないよう収集を始めたのが美術館の誕生なのです。」
死そのものとは言い切れないが限り無く死に近く執念を負う存在。
「へえ、人の世界では聞いたこと無い考え方だな。俺の居た国では或種のステータスとされていたよ。美術館や博物館に行くのは教養がある賢い人間アピールになるから、喧しい奴等も鼻息荒くして必死に訪れていたよ。」
「まあ、興味も無いのに?」
「そう、興味も無いのに。でもそういう輩はすぐにべらべら喋りたがるから一目でバレているんだがな。気付かないのは本人だけ。嫌な体臭と同じだ。」
旭影の碧い鏡の瞳が新月を映す。湖面は波風も立たず穏やかで。それをにこりと微笑んで隠すと、片腕を少し上げてポンムを招いた。
「博物館も美術館と似たような目的なのですよ。此の国では。」
「教えてくれるかい。」
「其は、墓地で話した方が良さそうです。」
黒いビオラの花の門が洞穴の出口、光の中に佇んでいた。
墓
絵画は人が作り出した物。他にも藝術と呼称される部類の物達は人の手によって産まれた謂わば加工品である。人の思いを受けて発光した以上、影を伴うのは必然とも考えられる、故に慰霊を空間と言うのは全くの見当違いな見方ではないようにも思えるから旭影の発言に肯くことも出来るだろう。だが、自然界に最初から存在している者達は如何であろうか。
読者諸君逸り立つな。旭影は其の質問をこそ待っていたのであるから。
「人間は自然の摂理から些か逸れた生物なので、全員が全員当て嵌まる理ではないのですが、自然界に存在する生命は総て意思を持って生まれて来ています。」
「木や石が、心を持っていると。」
「ですから自然に在る物質達を集めて管理する行為は、死体を丁寧に保管し続ける行為と同義なのです。」
「つまりは、墓か。」
紫陽花の空は変らぬが枝垂れつのは此処に於て雪の蔦とは色味水温共に異なる。衣服を貫き肌を濡らす苔蒸した雨はヒヤヒヤと骨身を薄氷の切ッ先で苛む。俄雨には程遠そうな長雨がズキズキと降る中を表情一つ変えずに旭影は門を開けて歩いていく。ポンムは新月の持つバスケットに身体ごとすっぽり隠れ、上から布を自ら引き被った。
何度も似たような道を堂々巡りしているのではないかと不審に思うも、確認し続けている墓碑の名前は重なってはいない。広い国土の片隅に墓だけの空間を設けた理由は弔いの意味でもあるのだろうか。旭影達の国が罪悪感や死者への慰霊を目的として建てたのであれば否定はしないが、その結果国の一部を逸れ者どもに占拠されているような気がしないで無いから不愉快だ。
律儀な鬱屈を肚に据えつつ迷路を歩き続けていると、旭影が立ち止まった。
「此処が墓地の始まりです。私が初めて殺した逸れ者。」
”カナブンのパーセとヒメユリトンボの暁を殺めた者”
水滴がゆっくりと垂れる指先で示された墓石にはこう刻まれていた。
「相手の名前は?」
「身分証のような物は所持してはいましたけれど、必要ありません。当人の名前よりも其奴が誰を殺したかの方が重要ですから。」
一つ一つまじまじと見た訳ではないので確証は持てなかったが、今こうして墓を一つ眺める時間を与えられてようやく頷くことが出来た。やはり地上の墓とは異なり、本人の固有名詞どころか属する一族の苗字すら記録することを許していない、かと言って無縁仏のような扱いもしていない、逸れ者を振り返る時此の国の住民達は「誰々をころしたあの人間」として認識する、つまり、犯罪者は名前を永遠に奪われるのだ。弔いの為、としてではなく死してなお罰を与える為に此の場所を造ったのだろう。
「思っていたより容赦をしない文化なんだな。」
一足間違えていれば自分も此奴等の仲間入りだったのか、と想像するだけで胸がムカムカしてくるようだ。
「でも、全てに容赦が無い訳じゃないと思います。……陛下達も、国民達も、私の墓は造らないと言っていますから。」
「あゝそうか、国民達は儀式に則って泉に送られるから、こういう墓は建てないのだっけ。」
「その代り、亡くなった者の住居を皆で掃除し続けて、亡くなった者の想ひ出話を語り合うお茶会を定期的に開いたりもしています、それが標になるから墓を建てる必要は無いのです。……全うな者達の分は。」
全うでないのは自分だけだ。他の国民達と自分が同じ扱いを受けて良いのだろうか?逸れ者と同じ殺しをした身の私はもう、とっくに此の国の国民の資格に相応しくないのでは?
「部隊の部下達は威嚇までしか出来ないから、侵入者が来たら先ず国民を避難させ威嚇用の数名で相手を逃がさないよう包囲する。それから私が仕留める。包囲する迄に殺される部下もいます。でも此の方法を取ってから非戦闘員の者達が被害に遭うことは無くなったのです。」
「暴れ回る破壊者相手に立ち向かうとは、君等の軍隊は全員優秀だな。」
「勿論。死んでいった者達も全員余さず自慢の部下でしたとも。今でも欠かさず彼等の家でお茶会をしにまわりますよ。」
てっきり旭影だけが侵入者を追い詰め殺しているのかと思ったが、軍も自国を守る為に命を張っていたとは。
「君は随分愛され慕われているんだな、此の国から。
見た目が異なる者への憐れみで優しくしているのだと思っていたが、此の国は地上と違いそうではないと、今断言出来るよ。一人の死者を全員で弔い想い続けるのが此処の国民性だと言うのであれば、旭影にばかり負担を背負わせないよう遺伝子の鎖に縛られたままでも出来得る事をしようと、軍部は動くことを決めたのだ、旭影一人の為に、あの深い湖の瞳の為に。国からそんな対応されて愛されていないなんて言える訳無い。だから、君の墓を造らんのは当然だろう。国民に墓は建てる必要無いのだから。」
お師匠。お師匠は知らないだけで、此処の国民達は全員貴女を同じ民として想っていますよ、私の姉さま方がよくそうお話しているのを私よく聴いていましたもの。城壁の井戸端会議、一寸女神っぽさは減りますが、本当に楽しそうにお師匠のことお話ししていたのですよ、ポンムは知っています、お師匠が国民として愛されて大切に想われていることをポンムは知っているのです、なのに弟弟子が全部言った!姉弟子にもっと敬意を払え。
墓を造る手伝いを頼む予定だった。名前の無い墓石を一つ、墓地の隅の方に置く心算で、来たと言うのに。
「そう、思いますか。」
このままでは搖らいでしまいそうになるではないか。だって私を私足らしめているのは
「人の姿でなくとも旭影は旭影だろう。」
何てこと無い事実だ。地上で仕事をこなし続けて分かった事、殺す相手が例え人間でなくなったとしても俺は殺す。標的の心臓は変りはしない。
「表皮なんて変っても旭影の心臓は変らない。自分が人間だから、殺生をしなければいけない姿だからってご両親やポンム達から一歩引き続けることはしなくて良いと思うがね。」
いいの、かな。
「これでも得心が行かないのなら、俺が正式な国民になるまで待っていてくれ。逸れ者でも認められれば、君も自分を許してあげられるだろう。」
あゝ、此れが、惚れた弱味と言うものなのか。
種
墓地を呆気無く出て氷雨の洞穴を通り抜け、見慣れた草原に戻る。ポンムがバスケットから飛び出し早速お茶会の仕度をいそいそと始めだす。
「今日の紅茶はアールグレイのストレートか。だがシトロンクリームをたっぷり練り込んだフィナンシェによく似合っている。偶にはシンプルなお茶を味わいに戻るのも悪くない。」
人間の世界ではストレートティーはごくありふれた紅茶の種類だったが虫達の世界ではあまり嗜まれる機会の滅多に無いものだった。此方では果物と合わせて抽出するのが一般的なので初めてストレートを淹れた時旭影達に不思議なものを見つめる視線を送られた記憶は比較的新しい。
「貴方の故郷の味ですか?」
「故郷と呼べる程愛着も執心もしていない。だが、些か懐かしいのは否めないな。」
「懐かしい、其は良い感情ですね。私達の文化でも懐旧の情は大切に扱われています、ほら、此処から小川が見えるでしょう。あの清流は紺青の玉の城壁に添って国中を流れているのです。行き着く先は二箇所、一つは亡くなった同胞を送る儀式をする月下の泉です。」
「確か瞑色の菫が沈んでいるってポンムに連れて行ってもらって実際見たな。」
「えゝ、よく姉弟子の教えを憶えていましたね、弟弟子としては大変ハナマルですよ。」
「時々師匠モードが出るとポンムがやけに嬉しそうなんだよなあ。そんな時に恋人として接するのは何とはなしに畏れ多くて…だから喜んでんだな姉弟子は。」
お師匠、もう一つ小川の行き着く先をまだまだ無知な弟弟子に教えてあげてくださいな。
ふふッと相変らず微笑んだまゝ、此方へと言ってお茶会のセットもそのままにゆったり歩き出す。
「氷雨の洞穴の近くにあるので、すぐ行って戻って来られる距離です。」
ハミングでもしそうな穏やかに上気した頬で花咲く草原をくるりと時々回転しながらかろやかな足の動き。長い髪はふわりと風になびき空気を吸ってあまく膨らむ。辿り着いたのは水浴み場だった。
蛾や鉱石が羽を小流れに浸した後の水面に、砂金のようなチラチラと光る小さな石が混ざり、再び国中を流れてゆく。
「旭影、この砂金のような物は何だ?彼等の翼から出ているようだけれど。」
「それは、彼等それぞれが集めた物語の種です。」
「物語の種…?」
初めて聞く未知の単語だが、その言葉自体に嫌悪感も危機迫る感覚も起こらなかった。どういうものか訊ねてみる。
「物語の種は此の国の蛾や本来の姿の虫達が生活する事で彼等の翼に少しずつ重ねられていく月の欠片が原材料です。月の欠片が層を編むことで物語の種は生まれます。そして水浴び場で種を小川の流れに送ることで物語を生む国土と成すのですよ。」
此の国の物語を読ませてもらったこともある。どれも優しく穏やかな作品で地上とはえらい違いだと驚いたのもつい最近、ミステリーとか無いんだなと呟きそうになったのを堪えたのも同じく。
雨と、言葉と、植物の国。虫は本来の美しい姿で穏やかに暮し花開いた物語にキスを贈り糧とする。そして温もり薫る焼菓子や果実を絞ったブレンドティー、本当に地獄とは程遠い王国。清流に指先を浸し涼やかな感覚に溺れていた新月。
ザクリと刃物が何かを切る音がする。釣られて見れば、旭影が新月に背を向けて川辺に座り、長い毛先を水に浸けて一気に短く散髪している姿があった。絹のような髪束は小さく砕けて削られて小さくなって、銀色のアラザンのように溶けていった。
ポンムと新月は彼女の背中を見つめている。もう水辺には三人しかいない。後ろからの視線に耐え切れなくなったのか、先に旭影がまだ振り向かないまま話し始めた。
「憧れていたのです、長い髪に。けれど、もう良いのです。」
振り向く。自棄を起したにしてはあまりにおっとりと無防備な、ヤケくそでナイフを手にしたのでは斯様な微笑みは紡がれまい。
ポンムが擽るように髪の毛に遊ぶ、凡そ一番弟子の態度とは思われないがこの師匠が咎める筈も無い。新月は浅い水面に反射する師弟の姿を眺めていた。こんなに穏やかな心持で過ごすのは懐かしいと称するには遠過ぎた。
調理
主人公は、若い娘と青年。二人は互いの一族から望まれていない関係になる。大勢から逃げる二人。その娘の腕には赤ン坊が抱かれている。夫は捕まり、妻ももう追手から逃げられないことを悟った。忌み子と呼ばれたこの坊やは捕まればどんな仕打ちを受けるか分からない。母親は泣きながら子を側溝に隠した。大雨の中親と子の指は濁流に距てられていく。子供を流す水流に無事であれと形見の涙を零して、娘は捕らえられた。だが、子の行方は今でも見つかってはいない。
子を訪ねて母親が旅をする。きっと生きている、必ず生きている。あの日逃がした我が子は何處に流れ着いて生きているのだろう、それを探す旅が今始まる。
「あゝ駄目だ、却下。」
硝子ペンで引いた二本の線が文章を埋めていく。アイデアは既にどん詰まりなのは誰?
物語は王国の住民ならば芳しい息を吹くように生み出せる。しかし新月は未だ逸れ者であり正式な国民として認められていないので、彼は物語を編むのに自らの分析をしなければならない。自分の分析とは当然のようで当然でなく、容易なようで容易でない作業である。己の中に住まう星の数ほどの自分自身の声を聞き取り理解しなければならないのだから。
「親になった経験も無いのに親の心情を描けるのか?」
「親になったらどうするかを考えて描けば良い。作家は男性でも女性が主人公の話だって幾らもあった。」
「自分の願望を登場人物に押し付ければ良い。そして自分の嫌悪する存在は醜く描いてやれ。」
「お前は何を願うんだ?」
「お前が憎むものは分かっているだろう。」
「正直に書き綴るのが物語だと言えるのか?そんなものはSNSの投稿と何の違いがある、下らない。」
「お前が許せないものは何だ?許したいのか、許したくないのか?」
「お前の好きな単語で描かなくてはつまらないぞ。ただ辻褄を合わせる文章なんかAIでも作れる。」
「お前は何が好きなんだ。愛して止まないものは何?教えておくれよ。」
「お前が譲れないものは何?死守したいものは?」
新月は地上世界では無口な男だった。自分の中の新月の声も一人二人ほどだったのに、此処に落下して眠っていたのかやる気の無かったのか分からないが自分が自分の中でどんどん起き始めて、物語の作成に取り掛かる時はとても、とても、うるさい。
「小説描くのがこんなに喧しい作業だったとはな。黙々と執筆する裏では常に瞬時に自分の声に答えていた訳か。静かな場所を望む標的が多かったのは、音の少ない環境の方が声を聞き取りやすくなるからか。」
手を止めてソファに寝転がる、リビングの電灯は点けたまゝに。旭影とポンムが来る迄後二時間は余裕がある。疲れた。このままひと眠りしよう。
よく眠れるようになったのは仕事を始めてからだったかもしれない、幼少期は頑固な不眠症だったからいつも同級生から不気味がられていたもの。目の下に隈があって身の丈には少し大きい着物。教科書で出て来た”だんまり入道”の見た目にそっくりだと言われてから学校へ行く事を何だか申し訳無いと感じ始めた。
何が申し訳無いんだ?
だって皆を怖がらせてる。
毎晩眠れなくて苦しんでいるだろうおまえだって。他の子達はよく眠れているからおまえの苦しみが理解出来ないのさ。
理解出来ないから怖く感じてしまうの?
そうだよ、人は分らないことや未知のものに恐怖を抱く、生存の為の防衛本能が働くからだ、恐怖を感じることそのものは悪いことではないんだ。
でも、情け無いね、一寸だけ。
人は格好良くない生き物なんだ、だからヘマもするし余計な事だってする。人は情け無い生き物なんだ、だからお前を捨てたんだ
「新月さん。」
ぼやけた逆光の光の視界でも誰だか分る。もう一度瞬きをすると想ったとおりの相手の顔が線こまやかに鮮やかに呼んでいる。
「執筆中に、居眠りをしていたのですね。」
顔色が健康的でないのは王国に落下して来た日から知ってはいた。でも今のは普段より一層深く窶れている。転寝は人間に碌でも無い過去を見せる場合もあると、人体について書かれた医学書に載っていた。
「お水をどうぞ。」
硝子のコップに注がれた飲み水を一息に呷る。動脈と気管を強制的に冷やす寒気の後に舌がミントの一葉のエッセンスを感じ取る。息を吸う、息を吐く、頭痛と吐き気は流れ散り全身の痛みは引く波のように徐々に去っていった。
「君達が来る迄二時間あったから、一眠りしてからサンドウィッチを作る筈だったんだ。時計を…今何時だい?」
ソファーの肘に置いた片手を支えとして立ち上がり、壁掛けの振子時計を見ると。思ったより爆睡していない。
「なあ旭影、君達との約束の時間にはまだ一時間と三十分あるじゃあないか。どうしたんだ早く来るなんて珍しい。」
「折角ですから、私もお菓子を作ろうと思いまして。いつものように自分達の住居で静かに待っていても良かったんですけれど、あの、今日は何だかお手伝いに行きたい気持ちが抑えられなくて、お手伝いに来てしまいました。貴方の大切な準備の時間に割り込んでしまってごめんなさい。」
謝らなくてもいい、嫌うものか、むしろ此方が救われたものを、遠慮することなど無いのだから。
「謝らなくて良い。」
「でも。」
「早く来て手伝ってくれることは謝る行動じゃない。お茶会の準備をするのは確かにとても楽しくて嬉しくて堪らないのは事実だがね、だからこそ二人で準備すれば喜びも二倍に膨らむだろう。」
二人で肩を並べてこねこね。ポンムには残念乍ら地団駄踏んでも真似出来ない、旭影と新月だから出来る調理。
執筆
全てを思い出せるとは信じていない。けれど、何かの拍子にフト思い出すことがあるかもしれない。そしてその忘れていた記憶の中に、とても大切な事が含まれているかもしれない。そうしてペンを手に取り始めたが、簡単に行くものか、何度も何度も途中で止めにしてしまっている。物語の中に自分の生立ちへの祝福を求めたが、描けない。理想を並べ記しても、嘘くさくて続けていられなくなる。
「向いていないのかもしれないな。」
「物語を紡ぐことが、ですか?」
旭影の瞳を見返してフッと苦笑う。向いてないものは仕方あるまい、労力を掛けても疲れが募るだけで生き乍ら埋められてしまいそう。
「なあ旭影、此処は何處なんだ?」
「私の故郷、蛾を女神と信仰する王国ですよ。そして此の家のある地域名は躑躅ヶ雪町。」
「そうじゃない。此の場所、王国自体が何ものなんだって訊いているんだ。地下に在る天国か?地獄にしては優しく穏やかすぎる、それとも実際の地獄は喜びを与えるだけ与えてそれから取り上げるものなのか?
俺が地上で死を感じた時、人気の無い路地に在る黴の生えた空き家を出た直後だった、隠れ家の一つだ、其処の周囲に紫陽花なんて咲いていない筈だったんだよ。なのに俺は撃たれたら紫陽花の花束に埋れ始めていた、あれは此の国の空だったんだろう、此の空間は一体、何處なんだ。」
お茶会の後片付けを済ました部屋の寝台でポンムはくうくう眠っていた。羅針盤が透かし彫りされた硝子のテーブル、北極星と南十字星は眼光鋭利に互いを見つめる。
「亡くなった国民は送られるのだとお教えしましたが、まだ続きがあるのです。送りの儀式を終えた後、此の国で命を落とした虫達は地上の世界で服を着た姿で目を覚まします。そして地上での寿命が尽きたら再び国で目を覚まします、本来の鉱石の姿でね。私達にとって地上の世界とは、再び故郷で生を受ける為の通過地点、修行の場なのです。そう考えてみるのなら、此の国は地上で亡くなったものが再び地上で生きる為の通過の場、修行の為に来た土地だと捉えられますが。」
「つまり、此の国で一度死んだら地上で目を覚ますと言うことか。姿形はどうであれ。」
「王国の正式な国民になれば、地上に行くことは戻ることではなくなり、一時的に訪れるものになります。王国が帰る場所になるのですよ。」
「正式な国民になりたくて日々努力をしている。此処が故郷になるのなら本望だ。前にも何度か言ったかもしれないが、地上に未練は無い。待つ人もいない、代りは幾らでも育てられる。…地上界を帰る場所だと思いたくはないんだ。」
これまで落下して来た逸れ者はまともな者が一人もいなかった。だから死後名を奪い墓地に埋めたが、彼等は修行を成し遂げた身とは到底評価出来ない、地上で目を覚ます未来は自分達で断ち切ったのだ。無論此処で目を覚ますことも許されない。しかし正反対に、修行を見事成し遂げた者だと蛾達が判断したら地上でパチリと目を開くことが出来るのだろう、そして住み慣れた地上で生き直していけるが、其はあくまでも逸れ者としての話。
このまゝ新月が此処で生き続けたいと望むなら?旭影には当然喜びもある、初恋の恋人と居続けられたらどれだけ嬉しいか!でも、本当に良いのかな、本当に地上では誰も、新月のことを待っていない?
煉獄の役目を背負う王国に生まれた一人娘は搖れていた。答えは出なくて、微笑んだ彼に微笑みを返すことしか動けなかった。
曙の時刻、隣で寝ていた新月を起こさないように身支度を整え、新月の家の隣に立つ仮住居にポンムを肩に載せて戻った。手紙を書かなくてはならない。大切な手紙だ、一番弟子の手伝いが要る。
「お父様…お母様。」
そう呼びたいと思っていた。此の国で暴れた者を殺した日から、そう呼ぶことに恐怖が生まれてずっと避け続けて来たけれど、この手紙は軍の者としての伝令ではなく、極めて個人的な、一人娘として想いの丈を記すのであるから、向き合わないと、勇気を絞って、言わないと。書き終えた手紙を丸めてリボンで結び、それをまたポンムの大きなぽってりフォルムの胴体に括り付ける。
「お二人のところへ、お願いね。」
昇り始めた日の色を紫陽花の糸垂らす雨の輝きがそれぞれ重なり合い、手を取り合って踊りながら落ちてゆく。陽の雫に身体を濡らすことの無い翼は王宮へ一直線に伸びて行く。
「おや!ポンム、どうかしたのかい?」
突如窓越しに現れた愛娘の愛弟子を起抜けの顔で見て、国王は頭も覚めたらしい。
「旭影からの手紙でしょうか。足に紺青と白のリボンが結わえられていますし、あの子が私達に便りを寄越したのだと思いますが…」
女王は伝書係のポンムを室内へ招き入れ、彼女の疲れを労わるように膝の上で身体と羽を撫でさすっている。
「貴方、手紙の内容は?」
陛下は少し上ずった声で、ゆっくり、一語ずつ丁寧に読み上げ始めた。
”お父様、お母様。本日はご相談したい事がありこのようにしてお手紙をお送りいたしました。相談したいのは、新月さんのことです。
彼は今此の国の住民に帰化しようと日々頑張っています。ですが私は彼には逸れ者のまゝで在ってほしいと思うのです。例え彼が彼の望み通り国民として認められゝば私の愛する対象となります。
ですが私はもう彼を愛しているのです。逸れ者である、地上が本来の故郷である者の想いに指を繋いだのです。仮に王国の民となっても此の慕う気持ちは変りませんが、同時に彼への後ろめたさも感じ続けなくてはならないでしょう。彼から人間の帰る場所を奪ったのだから。
新月さんは地上には誰も待つ者はいないと言いますが、私は其が事実かを確かめたいのです。確かめて、誰一人彼の帰りを待たないと知ったら、私は彼に国民となる際に必要となる儀式の準備を伝えて、用意いたします。
お願い、お父様、お母様。どうか私が地上の世界へ行く事をお許しください。勝手な娘で、ごめんなさい。”
読み終えた陛下と聴き終えた女王の頬に涙が伝う。だが其の口元はにこにこと喜び、目元は宮殿の外、窓硝子の向こう、躑躅ヶ雪町の方角に向けられ、眦は美しい孤を描く稲穂の実り。夫婦手を取り合い何度何度も大きく頷いて、旭影が生まれて初めて娘の姿と対面したあの日と同じ輝きを放っていた。
地上
頻繁に、夢を見る。見るだけならまだしも、日中行動している際にも意識に割り込んで来るから、起きている間も夢のことを考えずにはいられない、侵蝕である。頭の内を蝕むもの達の性分は無慈悲な奴もいれば手心を加え乍ら進んで来る奴もいた。つまり酷い内容の夢もあれば優しい内容の夢もあったと言うことなので、新月はほとほと参っていたのだ。尤もポンムにとってはあまり心を痛めるものではなかったけれども。だが新月が具合が悪いとお師匠が哀しいのを一番弟子は知っていたから、お茶会に参加くらいはしてあげた。だって留守の間彼を頼むと直々に言われたのだから、放っておくなど論外なのだ。
いつも魘されているように見える。
声を持たぬポンムは目で喋る。
浅い睡眠を繰り返す新月は寝台で寝ようとしない。そもそもソファで横になったまま眠るからいけないのではないか?姉弟子の言葉が判別出来ぬ未熟で無礼な弟子ではあるが師匠の大切な想い人、一度起こしてベッドで寝かせようとポンムは弟弟子の羽織の袂を脚で引ッ張る。起きない。
誰に魘されている。
天井に向かって寝る彼は、いつうも同じ指を動かし、掌をやゝ上へ向けている、五指の付け根は伸ばされているけれどその先まで力は届いていない、震える爪先、中々肚の決まらない物事を考えていると言う占星術のタロットカードと当てはまる。えゝと確か、其の内容のモチーフは風車のイラスト。風車は幼い記憶を象徴するシンボルとして国の物語にもよく編み込まれたり織り込まれている。
結果、幼少期の出来事に悩まされていると浮き彫りに出来た。此の見事な手腕!またお師匠に抱きしめられて褒められて、また新月との格の違いが生じちゃうわ。
新月を連れずにお一人で地上に行かれた訳がよく分かった。此奴にとって地上界は殺しの仕事とトラウマが埋め尽された空五倍色、決断する迄地上に戻すのは避けた方が良いと判断された。新月本人から聴いた由縁の地を一つずつ訪ねた後、お師匠の意思は固まるだろうが、念の為補助的情報を用意しておこう。
何を求めたかったのだろう
新月の手はパタリと下に垂れ、身体を仰向けから横向きに寝返りした。地上の者はかくも切ない生き方を強いられるものなのか、ポンムは旭影を想った。
雪が降っている土地だった。けれど、故郷の雪と違って冷たくひんやりした体温の氷である。けれど、空の艶やかさは王国ではお目に掛かられない。ポンムと一緒に編んだマフラーに鼻まで埋めてフロックコートの釦留を両手で握り歩き出す。自らを打ち抜いた鉛弾で拵えられたであろう釦留は外気温に染まらず旭影の体温が染みていた。
生まれ育った場所とは異なるものが多いのに、珍しいとは感じない。建物の硝子に映る自分の顔と姿を見ても驚かないのと同じこと。
人間の見目と機能で生れて来て良かったのかもしれないと考える。若しポンム達のような虫の姿で迎えられていたら無事な遠出は実際厳しいであろう。人に空気に鳥に動物…数えあげたらキリが無い危険の手。人間ならば、都会の街の方が都合が良い。余所者ばかり送り込まれる胃腸の中では異物が紛れてしまっても歩く人々は気に留めない。
「先ずは、側溝。」
地上へ修行に赴いた経験のある国民達の力を借りて作成した地図は現実と寸分違わぬ正確さで点、々、々、と三箇所それぞれ離れた場所に印がある。側溝と前の家・職場とマークの横に細い筆で書かれた二つの文字、新月はどれだけ力を振り絞っただろう。
確認すればきっと此れからどうするべきかが分かる筈。短い髪を冬風に好きにさせておいて、旭影は側溝へ向かった。
都会から離れるだけでもう王国と似た景色になり始めた。徒歩で進める距離を振り返れば、摩天楼は恐れ多くも雲を眼下に収め上機嫌で酔っている、ふらふらと踊る足取りも覚束無い。不敬への白い目と不安のへの字口で旭影は数秒固まっていたが、背を向けてまた歩き始めた。側溝へはもう少し。
人通りが見られない場所に街灯は望まれないのであろうかして、新月が捨てられていたと言う溝のある道は月光だけが頼りであった。母親の胎内でさえもう少し明かりはあろう、置き去りにするにはうってつけの道に旭影は口を噤んでしまう。道が斯様な有り様ならば自然人家は寄り付かぬ、向こうを見ても反対を見ても人の住む場所とは距離があるが、全く遠いと言う程ではなさそうで。ならばせめて街中に…と思わずにはいられないが、そもそも何故このような人目の無い場所に捨てられたのか、そしてどのような経緯で育ての父親と出逢っていくようになったのか。
「人からの情報は望めそうに無いから……場所の記憶を読むしかないか。」
髪飾りとして留めていたミント色のリボンを取り両手に載せて、両目を閉じてキスをする。ポンムと新月と三人で生地を選びテーブルクロスとレースの本を縫い合わせて作り変えた物は雨夜の螢が泳ぐように微かな光を放ち、アスファルトの地面に一粒種子を落とした。
「答えておくれ、あなた方の記憶への問い掛けに。」
種は芽吹いて蠟燭の炎となった。たずねびとの目線と同じ高さにまで浮かんだ一本の蠟燭にはどれほどの命の情景が固まっているのだろう。炎は旭影の声が望むものを選び与えた。
今は雪の降る空だが、新月が生まれた日は雨穏やかな冬の日だった。赤ン坊以外の笑い声が風に伝って来る。間違い無い、新月は生みの親達に祝福されて誕生したのだ。
「良かった。生まれた瞬間に顔も見たくないと殺される赤子も多いと地上に行っていた者達から聴いていたから不安ではあったけれど…此のおだやかな笑い声、赤子と、女性と、男性の三つの声が混ざっている。新月を抱いて、此処の道を歩いていたんだ。夜の散歩に来ていたのかな。」
笑い声の途中で男性の声が発言した。
(もうこの辺りで良いだろう。捨てろ。)
血の気が引いても答え続ける場所の記憶。今度は女性の声がした。
(あんたはもう良いよ飽きたから。)
ゴソゴソとダンボールを用意するような音の後は少しの間何も聞こえなかったが、赤子の泣き叫ぶ声がだんまりを破った。赤子の呼び声に応じた男女の此の後の言葉は凡そ誰にも聞かせたくはない酷な文章に仕上がっていた。子を負う責も無いのによくもそんな…餓鬼畜生、畜生道の住人どもめが。その土性骨を叩ッ砕いて口に突っ込んでやろうか奴等…旭影は射殺す眦で空を睨み、憤怒の涙は月明かりに強く煌めく。自分の望む結末を支えに考えた予想は見事裏切られたが、彼女は次に登場するであろう義父に期待した。後に置いて行かれる結末は変えられないけれど、今語られて存在している赤子の新月の悲痛な涙をどうにか拭ってくれる指が欲しかったのだ、声の聞き手は手を出せないから…
空が白む音が徐々に谺してやがて明朗に聞えるくらいになると、新月の泣き声は朝日の響きに反して小さく途切れがちになり始めた。最後の一息になってしまいはせぬかと旭影が口元を押さえて泣き叫びそうになるのを堪えて黙って涙をぼろぼろ落している時、ようやく声がした。
(こいつは大変だ。)
次いでバタバタと急ぐ音、走る音が続いて、話は閉じられた。新月が一命を取りとめているとは理解していても心への負担は相応に大きく、話が終わるやいなや旭影がその場にへなへなと座り込んだのは仕方の無いことだろう。
「新月は生みの親から愛されてはいなかった。」
彼は側溝に捨てられていたのだと自身の出生を正直に語ったけれど、心の何處かでは期待していたのではないか、きっと今でも。だが事実は子の淡い願いに首を振ったのである。
次は、義父と生活した家。旭影は街へ向かって歩き始めた。もう側溝を振り返ることはしない。
素地
新月が幼少期を暮らした家は、まだ残っていた。マンション、とか言うのだっけ。ビル、にも劣らずマンション、も中々に図々しい性根を持っているようだ、私達の国でこれほど高い物を建ててしまえば紫陽花の空の枝垂れに絡まって生活云々の問題ではなくなるだろうよ。
でもまあ、この建物であれば問題は無いかもしれない。本を読む時たまに掛けるんだよと仰有っていたお父様に提案されて作った眼鏡を装着してみる。度入りの真ん丸薄型レンズが故郷のお茶会の読書の薫りを思い出させると同時に眼前の建物の情報を硝子越しに聞いていく。
「今は住人がほぼほぼ居ないのか。人の住まない建物なら高さが異様でも問題は無い。枝垂れに近距離で降られてもどうってこと無いが、お化け屋敷を国に置くみたいで嫌だな、王国にまるごと転送してみようかと考えたが、良い案では無さそうだ。
「それに、此の建物に新月の優しい記憶が含まれていると確証がある訳ではない。義父にも捨てられた……そう仰有っていたから側溝よりマシなだけ、そんな場所かもしれない。」
希望は抱きづらいが、当時住んでいた五〇五号室へと非常階段を昇って向かって行く。
「おや、誰か住んでいる?」
表札カバーの中身は空ではなく、名前を書いたプレート代りに緑色のカードが挿れられていた。旭影はインターホンを一回押す。扉が開いて向こうから現れたのは、新月よりは年齢を幾分か上回っていそうな男性であった。スーツをきっちり身に纏ったが、額から左目を通り唇に達する白い大きな傷痕はどうしたのであろう。
「誰です?」
訊ねる単語を用いているが帰れと言っているのも同然な声の低さ、いかめしい喉仏に睨まれているかのようだ。
「以前此方に住んでいた男の行方を追っている。新月と言う名前に聞き覚えは?」
「新月。其奴を探しているのかい。」
「否、新月の育ての父親なる人物を探している。」
「……ハハッ。」
男は旭影が用件を伝えると乾いた笑い声を発した。自らの顔の上半分を無骨な片手でガバと覆ったから目の表情は読み取れない。旭影が言葉を選んでいると、男は彼女の白い手首をむずと掴んだ。
「入れ。教えてやる。」
強引な力に抗いきれず、旭影はずるずると男の部屋へ連れ込まれてしまった。扉が閉まり、錠をを下ろす音がする。
初めて王国を出て外の世界を歩いた王女様だからと言って、無礼に怯えて手も足も出なくなる箱入娘ではない、侵入者の討伐を一人で果たせるのである、暴漢に歯向かう胆勇と力量は持っている。旭影は痛む手首の元凶である男の首根ッこを鷲掴み、爪を肉に食い込ませて太い動脈の一ミリ手前で止めた。男も旭影の殺気を激痛を通した氷点下の怒りで感じ取ったか、掴んでいた手首を解放し、両手を挙げて降参の格好を取ったので、背中を蹴りつけ床に俯伏せにした上から背中を殴った。強烈な打撃を二回も受け、男はがくりと気を失った。スーツの襟元をむんずと握り、旭影は男を室内へずるずる運んで行った。
冷水を叩きつけられた衝撃で男は息を吹き返した。霞んだ視界を必死に振り払うように首を左右へ動かせば、霞は晴れて物のピントが合ってきた、自分の前には玄関先にいた女が座っている。
「もう俺を殺しに来たのか。」
やるなら一息でやってくれとボヤくと、女は一回瞬きをした。
「私は貴様を殺す為に訪ねたのではない。此の部屋に昔住んでいた者の行方を知りたいから来ただけだ。貴様が不埒な真似をしなければ痛い目に遭わすこともしなかった。」
「政府に雇われた奴じゃないのか?」
「私は誰かに雇われて此処に来たのではない。恐らく貴様の予想は大概外れていると思うぞ。」
政府。新月も其の言葉を使っていた。となれば、此の者も彼の同業者であろうか。私を追手と勘違いしている状況を鑑みる限り、殺され得る条件を持つ者となる。
(殺し屋であればいつか標的になる日が訪れる。)
そうして彼と私は逢ったのだ。
男に対峙する姿勢と態度は緩めず、しかし追想の愛撫は故郷を離れ一人異邦の土地で奮闘する娘の寂しさによく沁みた。水滴は人を黙らせる。
政府の手の者では無いと言い切った後言葉を止めている旭影の瞳の底が僅かに柔らいだを見逃さなかった男は外せそうに無い拘束を解くよりも話をした方が状況が好転しそうだと判断し、彼女に声を掛けた。
「お嬢さん、此方が悪かった。確かに野郎が若い女性を自分の部屋の中に連れ込むなんて、しかも乱暴に手首を捕らえた状態でなんて、紳士の、否人としてあるまじき行為をした。其は心から詫びさせていただくよ。本当に、申し訳無かった。
でも、俺はお嬢さんを殺し屋だと思ったんだ、政府の奴等が俺の口を閉じさせたいから組織が送った使いだと思って、部屋で殺し合おうと中に無理矢理引き込んだ。外でドンパチしてたら他の階にいる奴等までヤジ馬になって駆け下りてきちゃうかもしれないだろう?ターゲット以外を巻き込んで殺すなんて、殺し屋としては最低のマナー違反だ。
理由を述べたところで俺の非礼がチャラになる訳ではない。だから貴女の知りたい情報、話せるだけ話すよ、俺の知っている限りで。」
眼鏡越にひそひそと囁く物達のお話を聴く限り、此の男にはもう私を襲う腹積りは皆無だと言う。だから外してあげてと懇願するキッチンのまな板は汚れ一つ無いのに長く使い込まれた翳りが見える。他にも似たようなケースが多いと言うことは、道具を大切にしている人だと言えよう。
「分かりました。貴方がそのように対応してくださるのであれば、私も貴方に応えましょう。」
麻縄で雁字搦めに縛っていた男の拘束を一本ずつ丁寧に解き、ようやく二人はリビングにある椅子に座り、向き合う形で話が出来る体制になったが、冷たい水を何に入れたか知らないがぶッ掛けられて男は濡れねずみである。服を着替えて来てもと言う前に衣服の水分はあッと言う間に綺麗に乾いた。
「き、君が?」
「はい。その水は私が術で掛けたものですから、もう乾いて良いよと命じました。もう元の場所に戻っています。」
「えゝ……も、もとのばしょって?」
「其は貴方が私の質問に、私が満足する情報を以て応えてもらえればお伝えいたします。」
男の名前は鈴蘭と言い、やはり新月の同業者であった。二人はチームを組んで仕事をすることも多く、仲が良いとまではならなかったが相手の情報を幾つか話し合うことはあったと言う。
「育ての親父さんの話題になった時があったんだ。」
(なあ鈴蘭、お前はどういう経緯で政府に引き取られた?)
(俺は両親を流行病で幼い時に亡くしてな。駈落ちした二人だったから親類とは縁を切っていたんだ。それで身寄りが無いから政府にお世話になった訳だ。)
(ははッ、面白いな。)
(いや、面白くは無いだろう。お前の喜ぶポイントは未だによく分からん。)
(あゝ違う違う。お前のご両親が亡くなったことが、じゃあない。)
(じゃあ何がだよ。それに、俺はもう教えたんだからお前も教えろよ、焦れッたい。)
(俺は育ての親父が女と駈落ちして行方知れずになったから政府に引き取られた。……ハハッ。)
「何が楽しかったのかその日は随分笑っていたよ。上機嫌のまゝ二千メートル離れた標的の心臓を一発で撃ち抜いた。あいつはスナイパーをして生きる為に生れた奴だったよ。」
(おまえなら分かってくれると信じていたよ。)
「射撃の腕が名人級だからと言って、そう定義付けるのは間違っているのでは?本当は殺し屋になりたくなかった本心があったとは思わないのですか。」
「いや、銃の腕前だけで判断しているんじゃないんだお嬢さん。狙撃手は腕の良さと標的を撃つのに絶好のチャンスを待ち続ける忍耐力と執念、どんな相手でも一発で心臓を貫かせると言う考えを常に持つ冷酷さ、非情さ…これらが必要条件なんだ。だが新月は其等を一つも欠かすことなく持っていた。」
「それは、政府の教育の過程で培われていったのでは?」
「素質の無い者は途中で脱落していく。殺しに向いていない子は普通の孤児院へと送られて日常の生活に溶けていく。脱落したから酷い目に遭わされることは決して無い、殺しの世界から離れた子は実際多いさ。この間も一緒に教育を受け始めて途中で諦めた男の子がマイホームパパになって法律事務所へ出社している事例を見た。
……俺も新月も素質があったから全教育をこなしていけたんだ。」
「素質が、あるから…」
「それになお嬢さん、彼奴は殺しを楽しんでいたように思う。仕事中は真顔でも、仕留めた後は決まって笑みを浮べていた。……義理の父親を一発だけで殺した時も。」
「……………………」
「二千メートル離れていたんだ。風もキツかったのにさ。見事な手腕だったよ、他の仕事と変らずに。」
(俺が殺し屋に向いていない人間だってことを。)
陰陽