映画『私たちが光と想うすべて』レビュー
かなりのネタバレを含む内容となっています。事前情報なしに映画を楽しみたい方はご注意下さい。
金融の拠点として急速な発展を遂げるインドの都市、ムンバイが主な舞台の作品。そこで根こそぎ掘り起こされる旧態依然の生活はけれど人々の、特に女性としての自由を奪い、その人生を決定的に縛り続ける。
このギャップは酷く政治的で、深刻なぐらいに宗教的で、手も足も出ない無気力感の土壌になって見える。何をどうすれば変わるのか、決して楽ではないムンバイの暮らしからこぼれ落ちた場合、その受け皿になるのがまたかつての村社会で、そこでの助け合いであるという事実が否定の声を躊躇わせる。考えて、考えて、考えても出ない答え。辛く苦しい時間。なら考えるのをやめて、感じることをやめて、流されればいい。そのままでいればいい。それが現実。インドの現在。
主人公の一人で自由奔放なアヌが果たした婚前交渉は、異教徒の彼との間で成したという点で禁忌(タブー)を深く踏み越える。それを承知で愛を確かめた二人と、そんな二人を受け入れたもう一人の主人公であるプラバ。
お見合いで籍を入れた夫がドイツに発ち、数年も帰って来ない。連絡もつかない状態にただじっと耐えていた彼女はとても詩的で、純粋なロマンにも応えられずに涙を飲んだ。法的な証拠を持っていないために、住んでたムンバイの土地を追われることになった同僚に付き添いアヌと三人で滞在することになった海沿いの村でも、羽目を外すことなくプラバはただじっと時間を過ごす。そんな中で出会した事故。溺れ死にしそうな男性。
看護師である彼女が救ったその命は記憶を失くして前後不覚な状態。唯一、覚えていたのは溺れそうになった経緯だけ。その口から語られるのは、けれどプラバに対する予言のようだった。
「ずっと長い時間暗い工場で働いて、やっと出られた外で浴びる日の光が余りにも強くて、耐えきれなくて、眩暈がして、海に落ちて死にかけた」
暗い工場は旧態依然としたインドの伝統の比喩で、それに耐え切った後で浴びる日の光に、誰よりも先に殺されそうになるのは自分自身。つまりプラバ。未来の彼女。
劇中のプラバが本当にそう解釈したかは分からない。しかしながら、誤解の末にドイツに発ったプラバの夫だと自らを信じ込んだ患者が心を入れ替える。君の側にいると立てた誓いの言葉に対して、彼女は明確に「NO」を叩きつけた。その声音がとても静かで、綺麗だった。
ムンバイにいた時には出来なかったことが出来た、ルームメイトの二人。
すっかり日が落ちて辺りが真っ暗になっても「好きなだけいればいいよ!」と言ってくれた若すぎるBARのオーナー。
波の音だけを聴かせ、その先が全く見えない夜の海は、眺めるよりお喋りをするのに適した環境。アヌとその恋人を招き、彼の名前を尋ねて聞いたプラバはそれ以上の追求をしない。その名前が教える宗教や、色々なことが推測可能であったにも関わらず彼女たちは彼を交えて少しずつ会話を始める。その内容は知れない。だって、私たち観客は真っ暗な海の上にいるから。遠く離れた沖にいるから。
まるでいつかの未来から振り返る過去のように、映し取られ守られる現在。大きな声で主張することもなく、ただただインドで生きる彼女たちを撮った。ただそれだけで伝わるものが余りにも多くあった。冒頭に差し込まれたナレーションのみのインタビューも、振り返って噛み締めるべき情報群。そこにもきっと純然たる物語がある。
正直、私はインドのほとんどを知らない。
それでも馳せる想いに溢れてしまった。映画という枠組みで語っても非常に優れたカットのオンパレード。前年度のカンヌ国際映画祭のグランプリに値する出来。かの国から届いた手紙のようなパンフレットも買った。とても大切に読もうと思う。直近で観た『MAIDEN』が今年公開の洋画No. 1と書いたけど躊躇いなく前言撤回。恥ずかしげもなく手のひら返し。
今年のNo. 1は本作。『私たちが光と想うすべて』です。皆さん、絶対に観に行ってください。珠玉の名作です。
映画『私たちが光と想うすべて』レビュー