血と土 ~雨の日の祠~
じめじめした話ですが、読んでいただければ幸いです。
※第二章以降、性的表現、出血、火葬などの描写があります。
第一章 ある雨の日に
あの年の梅雨は、血と土の匂いが入り混じっていた。
彼女と出逢った日、その日は朝から小雨が降り続いていた。
古びた木造の役場の中は、じめじめ湿気た木と、カビ臭い紙の臭いに満ちている。
たまに来庁する、村人の着物から漂う樟脳の匂い。
雨の日は、その匂いがいつもより濃くなる気がした。
「早川君、ちょっと来てくれないか」
畳部屋で帳簿の整理をしていた僕に、少し硬い声で壮年の課長が声をかけてきた。
「なにかありましたか? 課長」
課長は、日に焼けた手で軽く頭を抱え、静かに顎をしゃくった。
小花を散らした着物地のバッグを膝に置いた若い女性が、緊張した面持ちで来客用の椅子に腰掛けていた。
「こちらのお嬢さんに、帳簿の整理を手伝ってもらうことになった。仕事については君から教えてやってくれ」
課長は僕に丸投げして、席に戻ってしまう。
この役場で働き始めて二年、『師範学校まで出たくせに、こんな田舎に戻って来たあの家の息子』
そんな噂をされたりするのにも、すっかり慣れた。
軽く溜息を吐いて、所在なさげに座っている女性に声をかけた。
「あの……はじめまして、早川直樹といいます」
顔をあげた女性は、少し驚いたように大きな目を見開く。
僕を認めると、はっとしたように膝丈のスカートの裾を捌いて立ち上がった。
艶のある長い黒髪はひとつに束ねて、日の下で農作業などしたことがなさそうな、抜けるように白い肌。
長い睫毛に縁どられ た大きな目と、小さな赤い唇は、まるで人形のようだった。
彼女が身に着けている生成りのブラウスと海老茶のスカートという洋装も、立ち姿も所作も洗練されていて、
こんな田舎の女性にしては珍しい。
「初めまして。柴田綾乃と申します」
雨音に紛れてしまうような、静かな声だった。
「柴田」という名字には、聞き覚えがあった。きっと、僕の名前を聞いた彼女も同じだったのだろう。
二人の間に、しばらく沈黙が落ちた。
僕が実家を出て、師範学校に通っている間、すっかり忘れていたこの村の因習。
嫌な記憶が吹き込んでくるように、頭の中を駆け巡った。
「今日から、ここで仕事を?」
「……はい。ご迷惑でなければ」
「迷惑なんかじゃありません、助かります。じゃあ、早速ですが、帳簿の整理を手伝ってもらえますか?」
「……よろしくお願いします」
狭い庁舎の中、小柄な彼女が僕の後をついてくる姿は、何とも言えず可愛らしく思えた。
こんな田舎の村役場では、若い女性と触れ合うこともめったにない。
僕の家は代々余所の村から結婚相手を探してきて、母も祖母も違う村から嫁いできた。そして娘は、
遠く離れた町や村に嫁いでいった。
かわいがってくれた年の離れた姉の美樹子も、「こんな村にはいたくない」と、十六の歳に大阪に出て行き、
そこで出会った男性と結婚した。それ以来、僕とは手紙のやり取りをしているけど、村には一度も戻ってこない。
整理しきれていない書類と、湿気で丸まった帳簿が山積みになった畳部屋に、彼女を案内した。
「どうぞ、この部屋です。乱雑ですみません」
綾乃は僕を見上げて、恥ずかしそうに言った。
「……あの……靴を脱がなきゃいけないので、先に入ってください」
彼女は、留め金で着脱するブーツを履いていた。
爪先や踵に小さな擦れた跡があるものの、丁寧に手入れをしているんだろう。
薄暗い庁舎の中で鈍く光を反射していた。
「その靴……街で買ったんですか?」
女性の持ち物に口を出すのは失礼かもしれないけれど、つい気になって訊いてしまう。
「はい。女学校時代に買いました。でも、これしか持ってなくて……」
腰を折って、ブーツの留め金を外しながら彼女が言った。
部屋に入らずに、なんとなく彼女が靴を脱いでいるのを眺めていた。
「綾乃さん……でしたよね。女学校を卒業したんですか?」
彼女――綾乃は何も言わず、ただ頷いた。
ブーツを脱ぐのに手いっぱいだったのか。
あるいはあまり触れられたくなかったことを、訊いてしまったのかもしれない。
先に湿った畳の部屋に入って、机の上を整理しながら綾乃を待つことにした。
向かい合わせに並べた机の前の、薄い座布団の上に座ってもらう。
綾乃には前任者が適当に書いた、誤字だらけで読めない文字の方が多い帳簿の字を訂正して、
ペンで下書きする仕事を頼んだ。
「潰れていたり、癖が強い字が多いから、分からないところがあればいつでも訊いてください」
「分かりました。お願いします」
布バッグの中から黒い腕抜きを取り出すと、綾乃はブラウスの袖の上に装着した。
インクや墨で服の袖を汚さないように、事務員は腕抜きをつけることが多い。
彼女の準備の良さに感心していた。
「用意がいいですね。いつも持ち歩いてるの?」
「そういうわけじゃないんです。役場で事務仕事をするかも知れないと聞いていたから、持ってきてただけで……」
緊張しているのか、恥ずかしそうに小さな声で言った。
癖のある上に間違っている二重に難解な文字も読み解いて、綾乃は下書きの紙にすらすらとつけペンを走らせる。
それを受け取り、帳簿と照合しながら毛筆で清書していく。
「綾乃さん、綺麗な字を書くんですね」
「祖母に教えてもらったんです。私が女学校を卒業した年に、亡くなってしまいましたけど」
「……そうだったんですか。女性に訊くのはあまりよくないんだろうけど、君はいくつ? 僕は二十一です」
綾乃は驚いたような表情をして小さく笑った。笑うと少し、幼く見えた。
「ごめんなさい笑ったりして。落ち着いてる感じがして、もっと年上なのかと思っていたから……。
私はついこの間、十九になりました」
「そうか。二つしか変わらないし、慣れたら気を遣わずに話してください……早川が呼びにくいなら、直樹と」
目を合わせて綾乃は後ろめたそうな悲しそうな、何とも言えない表情をして頷いた。
彼女の名前を初めて聞いた時、子どもの頃から聞かされて育った祖先の話を思いだした。
綾乃の柴田家と僕の早川家の間には、大昔に諍いがあったらしい。二百年も昔の江戸時代のことで、
代々武家だった柴田家と庄屋の早川家に起こった、水利権に関する争いだった。
年貢米や自分たちの食料の稲を作るのに、たくさんの水は欠かせない。
それぞれの農家の田んぼの一枚ずつに、稲が育つまで一定の期間、つねに水を張っておかないといけない。
空梅雨が続いた水が少ない年は、水を巡った農民同士の争いもよくあることだった。時には水利権での殺し合いも
農村部ではありふれた出来事でもあった。
年貢として納めるため、食料として命を繋ぐための稲が作れないというのは、死を意味していた。
教えられたのは上流の水源を押さえていた柴田家と、下流の水源を管理して農民を束ねていた早川家の間で起こった
諍いで、早川の人間が命を落としたということだけ。
ある意味で当事者の僕たちは、街に出てそんな事は忘れていた。
だけど村人は今でも、「あの水争いで流れた血を、今もあの用水が運んどる」と、まるで見てきたかのように
語り継いでいる。
「水のことは口にしてはならん」というのも、子どもの頃から言い聞かされてきた。
遠回しに、「忌まわしい過去の事件に触れるな」という意味だと理解したのは、物心ついてからだった。
今も祖先が命を落とした水源の場所には、和解と慰霊の祠が祀られている。
僕と綾乃がそれぞれの名前を名乗った時、封印が解かれたように忘れていた記憶が甦った。
「僕に対して綾乃さんが、負い目なんて感じたりする必要はないから。気にしないで好きに呼んでくれたらいいよ」
綾乃は、少し表情を緩めて微笑んだ。
午前中だけで、一人の時よりも倍以上帳簿整理の作業が進んだ。綾乃は有能だった。こんな田舎の町役場で
燻ぶっているのはもったいないくらい。
振り子時計が十二時を指す前に筆を置いた。綾乃はまだ一心不乱にペンを走らせている。
「お疲れさま。あんまり根を詰めてやると疲れるよ。急ぎの仕事でもないし」
「すみません。つい、字を書いてると没頭してしまって……。そういえば肩が凝ったような気がする」
脚を崩して伸びをしながら綾乃が笑ったから、僕は少し安心した。
彼女には余計なことを気にしてほしくなかった。
「お昼、弁当かなにか持ってきてる? それとも一旦家に帰る?」
「お弁当を持ってきました。……直樹……さんは?」
「俺も毎日弁当なんだ。悪いけど、机の上を適当に片づけておいてもらえるかな? お茶を淹れてくるから」
立ち上がって、ふとガラス障子の向こうに目をやると、窓口に来た村人がわざわざ背伸びをしてこちらを見ていた。
目が合うとすっと視線を逸らして、こそこそと去って行く。
僕と綾乃が一緒に働いている、それがあっという間に村人の間に広がっていた。
放っておいてくれれば因縁なんて忘れて平穏に生きていけるのに、田舎の人間は遠慮なく何百年も前の出来事を、
昨日のことのように掘り返してくる。
それこそが、祟りであり呪いなのだと僕と綾乃が気づくのに、そう時間はかからなかった。
第二章 許されない交わり
村の人間には真実なんてどうでもいい。嘘でも真実でも大して変わりない。
湿気た場所で菌糸を伸ばしていくカビのように、噂は確実に広がり村人の心に深い根をおろして蔓延っていく。
血の中にまで記憶を残すように、田舎の噂は代々受け継がれる。
村人は、僕や綾乃に直接言ってくることはない。
ただ遠くから、僕たちを監視するように見ているだけ。
田舎の人間独特のじめじめした視線は、僕と綾乃の一挙手一投足にまとわりつくようで堪らなく気分が悪かった。
綾乃がお茶を淹れてくれて、一緒に弁当を食べていると、遠巻きに様子を伺っている役場の同僚の視線を感じる。
からかいにくるでもなく冷やかすわけでもない。そうしてくれた方がいくらかましだった。
二人で帳簿の整理をしていて聞こえてくるこそこそ声に顔を上げると、村の人間が窓越しに無遠慮に畳部屋を覗い
ていることがある。噂を耳にして詮索しにくるんだろう。そのくせ僕や綾乃と目が合うとさっと逸らす。
「あの家の息子と、あの家の娘が一緒に仕事をしておるぞ」
「二人ともええ学校を出たのに、なんで村に戻って来たんかのう」
「妙な気を起こさねばええがのう」
噂をしている本人たちも、あずかり知らない遠い遠い過去の話。
娯楽の少ないこんな田舎では、自分たちに関係のない二百年も昔の話に絡めて、呪いだ祟りだと噂をするのが
楽しみなのかもしれない。
僕や綾乃の場合は、たまたま同じ村に住んでいて祖先の間で二百年前に諍いが起こっただけ。
そんな因縁をいつまで引きずって、他人の人生を弄ぶつもりなのか。
役場でも村の中でも人目がある限り、何にも気づいていないふりをするしかなかった。
いきなり綾乃と距離を置けば、今度はそれを怪しまれて噂の種にされるのは、火を見るより明らかだった。
じめじめとした田舎、村中から監視されているような、息が詰まる毎日。
綾乃と向かい合わせに座り、同じ部屋で仕事に集中している時間だけは、あの嫌な視線を無視していられた。
言葉を交わさなくてもよかった。顔を上げた時、偶然目が合うと微笑んでくれる。
最初はそれだけで良かったはずだった。
それなのに……いつの間にか、僕は彼女に好意を抱いていた。
ペンを走らせる細い指先、読めない字を二人で読み解いている間、傍に感じるインクの匂いに混じった彼女の髪の
香り。笑うとほんのり赤く染まる頬。
綾乃が笑ってくれると、じめじめした部屋に光が射すような気がして、その時だけは村の噂がどうでもよくなった。
時々、視線を感じて顔を上げると、綾乃がじっと僕を見つめていることがあった。
「……綾乃さん? なにか分からないところがある?」
「あ……いえ、なんでもないの」
僕が訊くと、我に返ったようにそう言って、また帳簿の整理を始める。
それが逆になることもあった。
帳簿の清書をしていると、ふと綾乃に目が留まってしまう。
それに気づいた綾乃が顔を上げ、笑ったりせずに僕をじっと見つめ返してきた。
この村にいる限り、いつも誰かがどこかで僕たちを見ている。そんな中で、綾乃と私的な話ができるはずもなかった。
綾乃と人目を気にせずに話をしたかった。彼女に触れてみたい。
でも、この村では柴田と早川の人間は、決して深く関わってはいけないと言う。
一体誰が、そんなことを決めた?
ある日の午後、いつものように帳簿の山に囲まれて、仕事をしていた。
不意に、綾乃が書類に視線を落としたまま、ペンを走らせながら小声で言った。
「直樹さん、ここじゃないところで、あなたと話しがしたい」
思わず、筆を持っていた手が止まってしまう。
抑えきれず速くなった鼓動の音が、周りに聞こえてしまうんじゃないかと思うほど。
自分を落ち着かせるために、静かに深い呼吸をして言った。
「ひとつだけ心当たりがあるから。そこでよければ今日行こうか」
彼女が微笑んで、小さく頷く気配が伝わって来た。
子どもの頃に遊んでいた村はずれの神社。
僕の祖先と、綾乃の祖先との諍いをきっかけに建てられた。
木々に覆われ周囲から隔絶され、苔むして忘れられかけた神社。
皮肉なことに神社の存在は村人の記憶から消えているのに、古い記憶は口伝えに語り続けられて呪いのように
僕たちを縛っている。
「綾乃さん。この後、一緒に来てほしいところがあるんだ」
「仕事で、ですか?」
「そう、例の仕事で」
戸籍の清書をしている紙から顔を上げずに、向かいの綾乃に声をひそめて言った。
彼女はちらっと、振り子時計に目をやる。
「例の仕事なら四時だけど、今から?」
「ああ。今日は課長もいないし、みんな何も言わない。ついてきてくれたらいい」
「……あまり遅くなると、お母さまに叱られるから」
綾乃がそう言ったが、僕は敢えて何も答えなかった。
たまに道端で会うと、忌々しいものを見るように睨んでくる、彼女の母のことは正直、聞きたくなかった。
「僕は先に出て、桜の木の下で待ってる。君はゆっくり靴を履いてくればいいから」
綾乃は小さく頷いた。
二人とも書類に目を落としたまま、秘密の約束を交わした。
手近にあった帳簿を、適当に二、三冊抱えて鞄を掴んだ。
綾乃も、ペン先を書き損じた紙で軽く拭い、インクの蓋を閉めた。
「行こうか。忘れ物はないか?」
「大丈夫……です」
緊張しながら下駄を履いて、先に庁舎を出た。
綾乃を待っていると、カツカツと急ぎ足で踵を鳴らしながら彼女がやって来た。
「何か、言われなかったか?」
「いいえ。誰も何も」
「……じゃあ、ついてきてくれ」
どこへ行くのか、綾乃は訊かなかった。
ただ頷いて、少し離れて後をついてきた。
彼女の歩く速さに合わせるように、村はずれまでの道をゆっくりと歩く。
民家も途切れ、すれ違う村人もいなくなってから、思い切って彼女に話しかける。
「……ごめん。君を誘うには、仕事を装うしかなかった」
「それはいいけど、抜け出してきても大丈夫だったの?」
「ああ、今までも時々あったし。そのための、これだから」
片手に持っていた帳簿を綾乃に見せると、呆れたように笑った。
「ひとつだけ、心当たりがあるって言っただろ? 村はずれの小さな神社」
綾乃がはっとしたように僕の腕を掴んで、ためらいながら離した。
「その場所知ってる。私も連れて行かれたことがあるから。二百年前の事件の……」
「……誰も来ない、忘れられた神社だから」
けもの道を通り荒れた藪を抜けると、鬱蒼とした木に覆われた神社があった。
木々はますます枝葉を広げて、陽光を遮っている。
誰も参拝しない石畳と玉砂利は苔むして、鳥居の上は落ち葉が積もっていた。
石段を昇るのに、僕は綾乃に手を差し伸べる。
彼女は少し躊躇ってから、僕の手を取った。
社に続く石段をゆっくり昇り、社の扉の前に二人で立つ。
この中に祀られているのは一体誰なのか、何なのか。
正確なことは僕も綾乃も知らない。きっと村の誰も知らない。
社の取っ手を掴み扉を開くと、ひんやりと湿ったホコリの臭いとカビ臭さが鼻をつく。
この村の匂いは、どこでも同じだ。
脱いだ下駄を中へ持って入る僕を、綾乃は不思議そうに見ていた。
誰にも見られないうちに綾乃の手を少し強く引いて、床に転がっていた扉の閂を閉めた。
「直樹さん。私、靴を履いたままなんだけど」
僕の名前をよどみなく、綾乃に呼ばれたのは初めてだった。
人目があるところでは、いつでも彼女は僕の名前を遠慮がちに呼んだ。
「足が汚れるかもしれないけど、そこに座って」
供物を置く白木で作られた八足台に座るよう、綾乃に言う。
白木と言っても、すっかり古びて埃をかぶっていた。
「いいの? こんなところで、罰があたりそう……」
「罰なら嫌ってほどあてられてるだろ。何も悪いことをしてないのに」
ポケットに入れていたハンカチを、綾乃のために八足台の上に敷いてやった。
「埃が積もってる。いつから放っておかれてるんだろう」
綾乃は後ろめたそうに、背後に祀ってあるはずの何かを振り返り、八足台の上に座る。
自分でブーツを脱ごうとした彼女の手を、僕は制した。
彼女の足首を支えながら金具をひとつずつ外して、小さな足からそっと靴を脱がせる。
それだけなのに、ひどく指先が震えた。
座ったまま息を潜め、動かないようにしている綾乃を見上げる。薄暗い社の中で頬が赤くなっていた。
「直樹さん、あの……私……」
「ここは埃が多いから、少し奥に行こう」
俯いたままバッグを抱きしめていた綾乃の手を引いて、社の奥まった場所へ連れて行く。
光が漏れない木戸に囲まれた場所に、燃え溶けた蜜蝋が垂れている燭台を持ってきた。
最後にいつ灯されたのかも分からない、古びた蝋燭の太い芯にマッチで火を点ける。
「まだ使えるみたいだ」
蝋燭の炎がふっと揺れて、狭い社の中を淡い橙色の灯りが照らす。
「……最初は怖かったけど、なんだか落ち着く」
綾乃は、瞳に蝋燭の炎を映しながら呟くように言った。
「私、ずっと村の人の目を気にしないで、直樹さんと話がしたかったの」
役場では正座をしている彼女が、板張りの床の上に膝を抱えて座っている。
「もっと明るい場所なら良かったけど、他にどこも思いつかなくて……」
「ううん、仕方ないもの。連れてきてくれてありがとう」
綾乃の隣で足を投げ出して、蝋燭の薄明かりが照らす天井を見上げた。
あちこちに張り巡らされた蜘蛛の巣が、煤けた梁や壁を白く覆い隠していた。
「……直樹さん、私なんかが言う権利がないのは分かってる。でもたくさん考えて、どうしても伝えたいことがあるの」
「僕も、綾乃さんに言いたいことがある」
人前で名前を呼ぶのも憚られる、僕たちの関係をどうにかしたかった。
過去に憎み合った祖先が祀られる社の中でだけは、気兼ねせずにいられる。
その皮肉さに思わず笑いが漏れた。
「二人で気兼ねせずに話がしたかった。祖先の因縁があろうと村人が何を言おうと、君が好きなんだ」
綾乃は驚いたように目を丸くして僕を見た。
「……私も、言おうと思ってた。直樹さんが好きだって……」
その言葉に、安堵のため息が漏れた。
「本当に、なんでこんな思いをしないといけないんだろうな。村の人は二百年も前の事件は忘れないで、僕たちの噂をして。それなのに、この神社の存在は忘れてる。毎日毎日、息が詰まりそうだ」
ぱらぱらと屋根を打つ雨の音が聞こえてきた。
社を囲む木々の葉を雨粒が打ちつける音が、覆い尽くすように広がって、蝋燭の炎もゆらゆらと揺れている。
「私、この村が嫌で女学校に行った。本当は戻ってきたくなかったの。でも、お母さまは村に戻って私に婿を取れって……。呪われた血だっていうなら、絶やしてしまえばいいのに……」
綾乃の肩にそっと腕を回す。少しだけ肩を震わせても、彼女は拒まなかった。
「戻って来てから村を出ようって、考えたことはあった?」
「出られるなら、出ていきたい。今でも時々そう思うの。でも……」
抱えた膝の中に彼女は顔を埋めた。一人で全て抱えようとするような、その姿を見るのが耐えられなくて、
思わず綾乃を引き寄せた。
「僕も一緒だから……。君が好きだと言ってくれて、本当に嬉しかった」
顔を上げた綾乃の頬に触れて、そっと唇を塞ぐと僕に抱き着いてきた。
「……嫌がられるかもしれないと思ってた。一緒に仕事をして、直樹さんを好きになってしまって……。でも家のことがあって言えなかった」
「君が初めて役場に来た日、名前を聞いてすぐ分かった。僕に負い目を感じていないか心配だった。気にしなくていいって、僕の口からちゃんと伝えたかったんだ」
抱き着いている綾乃から柔らかで甘い匂いがして、僕はもう一度綾乃に口づけた。
その間、ずっと彼女は僕の肩に手をかけていた。唇を離すと綾乃は少しだけうつむいて言った。
「……お母さまは、私に武家の娘なら貞操を守れって言うの。今の時代に武家だったからなんて意味がある?」
「それも、呪いなのかも知れないな……。でも綾乃さんはもう大人だ。母親の言いなりじゃなくて、君がどうしたいか自分で決めていいんだ」
遠くで雷が鳴り雨の音は激しくなる一方で、蝋燭の灯りはすきま風に頼りなく揺れながら、雨で暗くなった社の中を仄かに照らしていた。
「あの人が守れなんて言う貞操なんかいらない」
綾乃が母親をあの人と呼んだ。母親からの呪いと、どこにぶつければいいのか分からない怒りと憎しみが滲んでいた。
「自棄になってるなら考え直した方がいい。母親が憎いだけなら……」
「いや! 帰りたくない。自棄になってるんじゃない。直樹さんじゃなきゃ嫌。こんな人目を気にしてばかりの、窮屈な思いをするのは嫌」
「本当に後悔しないのか?」
綾乃は問いかけには答えずに、抱き着いて唇を塞いできた。涙を流しながら僕にしがみつき彼女は言った。
「あなたが好きなの。二百年も前の呪いに縛られて……。家なんてどうでも良いのに一番縛られて。ばかみたい……」
「泣かないでいい。君が吐き出したかった気持ちは僕も同じだから……」
戻るなら今だと思っていながら、自分が一番戻りたくなかった。
でも綾乃の弱みに付け込んで抱くようなことはしたくなかった。
「顔を上げて……」
涙をぽろぽろと零す綾乃の頬を撫でて口づける。
綾乃は何度も、「ごめんなさい、ごめんなさい」と言い縋りついてきた。
全て気にしないでいられるこの場所で、綾乃と僕はお互いの身体に手あたり次第触れながら、何度も口づけを交わした。時々、綾乃の口からため息のような喘ぎが漏れる。
もう、なにも考えたくなかった。夢中になってお互いを求めあった。
湿った床板の上に二人で倒れ込む。
「……いいか?」
綾乃は微笑んで頷く。どちらの呼吸も乱れて震えていた。
ブラウスのボタンを外そうとした手を、彼女が掴んだ。
「……本当に誰も来ない?」
「こんなところ誰も来ない。それに誰も……見てない」
綾乃は首を横に振った。
「あなたが見てる……」
口づけしながらブラウスのボタンを外して、彼女の細い首筋から胸元まで唇を滑らせる。
胸を覆っている下着の紐に手をかけようとすると、綾乃は消え入りそうな声で言った。
「それは……」
激しく降り続いている雨の音に負けないくらい、彼女の鼓動も激しく打っていた。
蝋燭の灯りだけでは、彼女の表情もはっきり見えない。
「……これ、取るぞ」
「あなたならいい。全部見て」
綾乃は自分で胸の紐を解いた。白い布が床の上にぱらりと落ちる。
胸を隠す腕をそっと除け、柔らかな肌に触れると小さく声を上げた。
僕のシャツのボタンは、綾乃に外されていた。
なにも言わないままでいい。こうしていれば嫌なことも忘れられる。抱き合っていれば夢中になっていられる。
初めてはこんなカビ臭い陰気な場所じゃなくて、清潔な布団の上が良かった。何より綾乃のために。
けれどこの村で僕たちに、そんな場所はどこにもなかった。
スカートのボタンを外し、下に穿いているズロースの紐を解いた。
まだまだ屋根を打ちつける雨の音は、収まる気配がない。
長めのスカートとズロースを一気に脱がせようとすると、綾乃が押さえた。
「ここも……脱ぐの……?」
「暗いから分からないよ」
彼女は諦めたように、スカートを押さえていた手を離すと腰を少し浮かせた。
足袋だけ履いた白くて細い脚をむき出しにした彼女の姿は、ひどく扇情的だった
ベルトを抜き、スラックスのボタンを外していると、綾乃は恥ずかしそうに顔を背けた。
スカートを手繰り寄せ下半身を隠して、こちらの気配を伺っていた。
「神様の前で、こんなことするなんて思わなかった」
「……神様って言っても、どちらかの祖先だろ? 本当にそんなものが、ここにいるなら……」
綾乃にもう一度口づけして、白い脚の間に身体を滑り込ませる。
本当にこんな場所でするのか?
頭では理性が囁いていた。けれど僕たちには時間も場所も選ぶ権利はない。
彼女の肌の上に指先を滑らせていく。雷の合間に震えるような、か細い声を上げた綾乃の中は熱くて狭くて、ゆっくりと潜り込む。
握り締めていた綾乃の手に力がこもり、苦し気に表情を歪めていた。
「……痛いか?……ごめん」
綾乃は、唇を噛んで何度も頷く。腰が浮くほど全身を強張らせている彼女を、力いっぱい抱いて言った。
「……今ならまだ止められる……間に合う」
「……いいの。お願い、止めないで……後悔しない。最後まで抱いて」
「分かった……力を抜いて……」
綾乃の髪を撫で、口づけながら彼女の更に奥へと潜っていく。
激しく降る雨と雷鳴が、誰も近づけないようにしてくれている気がした。
しがみ着く彼女を抱きしめて、僕たちは繋がった。
村に縛られたまま、二人が自由になれるこの場所で。
もう戻れなくていい。誰にも咎められず愛し合いたかった。
――触れてはいけない人、交わってはいけない血、呼べない名前。
好きで選んだわけじゃない。勝手に周りが決めていた。
二人で抱き合っている間は、お互いのことしか考えられなかった。
繋がっている間、心臓が痛いほど高鳴って喉がひりつくように苦しかった。
「直樹……もう、大丈夫だから……」
雨の音に紛れ綾乃の掠れた声が聞こえて、ふと触れた彼女の頬が濡れていた。
蝋燭の頼りない灯りの社の中で、お互いの輪郭だけを探るように触れた。
散らばった下着や、乱れた服を綾乃が整えている間、僕は背中を向けていた。
蝋燭の光を微かに跳ね返す床の一部に、指先で触れる。
赤い血だった。破瓜の小さな血だまり。
彼女に気づかれないよう、ハンカチで拭った。
ここに残していってはいけない気がしたから。
「……痛むか?」
「いいえ……痛くはないけど……」
恥ずかしそうに顔を逸らしながら、その先の言葉を濁した。
「……脱がせるの、随分手慣れてた」
「……姉がいたから、なんとなく仕組みは知ってた」
雨はまだ降っている。雷の音は遠ざかっていた。
社の外が明るいのか暗いのか、何時なのか全然分からない。
ポケットの懐中時計を取り出し、蝋燭の灯りで確かめた。
「何時……?」
綾乃が僕の肩に手をかけ、覗き込んできた。
彼女の汗と髪の甘い匂いがする。
「……五時か。どうする綾乃? 急いだ方がいいか?」
「外に出たくない。帰りたくない……」
肩にもたれてきた綾乃を抱きしめた。息苦しい現実に戻りたくなかった。
「また、ここで会おう」
無言のまま綾乃は、はっきり頷いた。
蝋燭を吹き消すと、社の中は暗闇に包まれる。
綾乃の手を引いて、入り口までゆっくりと歩いた。
「直樹……あなたがまだ、中にいるみたい……」
訊かなくても、綾乃の言葉の意味は分かった。
「……後悔してないか?」
「全然してない。ここを出たら、何もなかったふりをしなきゃいけないのが悲しいの」
思わず彼女を引き寄せて、暗闇の中で口づけた。
せめてここから出るまでは、触れていたくて綾乃を抱きしめた。
「直樹……また、すぐに会える?」
「ああ、夜中に抜け出してきてでも、君に会いたい」
「……あなたと離れたくない。あの人がいる家に帰りたくない。一緒にいたい」
綾乃の母親への嫌悪や恐れのような言動。それが後の悲劇に繋がるなど、この時は想像もしていなかった。
社の外に出ると木の葉に残った雨粒が落ちて、木々の間から見える空は暗くなりかけていた。
「滑らないように、足元に気を付けて」
石段を降りる間だけ、綾乃の手を取って支える。
その温かく柔らかな手を離すのには、崖に掴まっている指から力を抜くくらい勇気のいることだった。
翌日、役場では二人とも、いつも通りに振舞った。
古びた木の机に向かい合わせに座り、黙々と帳簿の訂正をしていく。
綾乃はたまに他の職員から来客用のお茶汲みを頼まれて、帳簿部屋を出ていった。
戻ってきた彼女と視線を交わす。声を出さずに綾乃の唇が「直樹」と、僕の名前の形を作った。
社の中で抱き合った時間が脳裏に蘇り、鼓動が速くなって平静を装うので精一杯だった。
綾乃が向かいに座ったのを確かめてから、帳簿に目を落として小声で言った。
「分かった。でも大丈夫か?」
昨日の今日で、彼女の身体が心配だった。
「あのことなら、平気」
「三時に出ようか?」
綾乃は一瞬だけ顔を上げて、頷いた。
少しでも早く長く、あの社で綾乃と一緒に過ごしたかった。
本当の自分と二人に戻れるあの社で。
初めて綾乃と交わった昨日から、どこにいても仮の自分を演じているような違和感が拭えなくなっていた。
人目がありそうな場所では帳簿を抱え、綾乃と距離を開けて歩いた。
誰もいないことを確かめて、神社の領域に入ると社まで綾乃の手を引いて走る。
綾乃はブーツを履いていなかった。僕と同じように洋装に下駄を履いていた。
社の閂を下ろすのももどかしく、振り返ってすぐに綾乃に口づけた。
古い木の壁に身体を押し付けると、綾乃は僕の首と頭に手を回す。
言葉は交わさないまま、二人の乱れた荒い呼吸だけが社の中に響いていた。
口づけながら、互いのシャツのボタンを外していく。
露わになった綾乃の細い首筋に口づけると、小さく声を上げて喉を逸らした。
「……朝から……ううん、本当は昨日からずっと直樹とこうしたかった」
耳元で喘ぎながら、綾乃が言う。
閉じられた世界で、彼女の全てを求めた。
「……僕も君を……抱きたくて仕方なかった」
スカートを捲り上げてズロースの紐を解き、彼女は僕のベルトを外してスラックスを引き落とす。
本能のまま、限られた時間を無駄にしたくなくて性急に抱き合った。
僕たちが咎められる謂れはなにもない。それでも二人の関係は許されない。
祖先や神や法律が許さないんじゃない。
たまたま僕が生まれた家が早川で、綾乃の家が柴田というだけで村の人間が許さない。
誰にも知られてはいけない関係だと思い知らされてきた。
誰にも分かってもらえない二人の悲しみを、交わることで分け合った。
繋がる瞬間だけ、綾乃は眉根を寄せた。
壁にもたれたまま交わった。お互いの指先も呼吸も熱い。
声が抑えきれなくなった綾乃は、僕の肩に唇を押し当てて堪えている。
「……お願い、直樹……もっと……もっと奥まで」
泣きながら喘ぐ綾乃の両脚を下から抱えあげ、求められるまま抱いた。
柔らかな肌に触れて、もう綾乃と離れられないと思い知らされた。
身体の快楽だけじゃない。彼女も僕も抱き合っている間は心も自由だった。
誰にも見られない、この見捨てられた場所。
本当の二人に戻って溺れながら、許される限りの時間を過ごした。
雨の日は決まって、仕事や家を抜け出し社に籠もって綾乃と交わった。
晴れた日でもきっかけと時間があれば二人で社に行った。
偽りの自分は薄っぺらな座布団に座り、綾乃と向かい合って帳簿の訂正や書類の処理を淡々とこなすのにも
少しずつ慣れていった。
帳簿を受け取ろうとして、ふと指が触れた。その途端にぎゅっと胸が締まる。
溢れ出してしまいそうな言葉を、唇を噛んで堪えた。
指先で机をなぞりながら振り子時計に目をやり、僕の目を見据えて言った。
「……四時、駄目?」
僕は古い帳簿を適当に引っ張り出して、綾乃に声をかけた。
二人とも些細なきっかけが理性を簡単に破ってしまう。
窮屈な毎日から抜け出せる時間は、あの社で交わっているときだけ。お互いに歯止めがきかなくなっていた。
彼女は日に日に大胆さを増して何度も僕を求めた。満たされない何かを、交わることで埋めようとするように。
僕にも綾乃にも社の中だけが、唯一自分を偽らず安心して過ごせる空間だった。
知られてはいけない、交わることを許されない関係。
その背徳感は、僕と綾乃が深い底なしの沼へ溺れていくのを後押しした。
血と土 ~雨の日の祠~
最後まで読んでくださってありがとうございました。